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哲学談話室

 ( 哲学掲示板 )
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ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

どこのスレに投稿するか、いろいろな理由で迷うことはありませんか?

既存のスレ、新規のスレ、いずれもいまいちに思うような場合に、気楽に投稿できるようにこのスレをつくります。

したがって、テーマは哲学に関するものなら原則自由。
独り言でも議論でも形式は問いません。
他のスレの話題がそこのスレ主旨とずれてきたような場合に、ここで続行するというような下請け的利用も可。

スレ主の私は基本仕切りませんので、各人ご自由にどうぞ。

1年前 No.0
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ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

百理さん

他のスレでスレ違いのレスをして迷惑かけないで、ここでしゃべったらいいよ。

1年前 No.1

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

哲学って少なくとも最も古い学問の一つなのに、現在これほどなめられてる学問もないんじゃないかなと思う。日本ではっていう限定がいるかもしれないが。

まあ色んな理由はあるだろうけど、何でかなー?

1年前 No.2

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

大部分の人には、そもそも学問とすら認識されてないのかな。

1年前 No.3

★rf9691qZBf_VuR

>>3  ザビビのふくろうさんへ

> 大部分の人には、そもそも学問とすら認識されてないのかな


哲学と言う学問分野があるのだろうとは思いますが、大学等で専門的にその学問分野を学んでいないので私にはよくわからないというのが本当の所でしょうか。

ザビビのふくろうさんは大学等で、或は、独学でそれ(学問)を学ばれたのでしょうか?ネットで「哲学とは」と検索すると「人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観」と言う説明がトップに出てきますが、これで考えてみると、個人の人生において多岐にわたる問題発生に関わる事柄について、最終的には、その個人の納得できるような答えに行き着く考え方。私はこのような事を哲学だと考えています。人生哲学というのでしょうか。

ザビビのふくろうさんに全く悪気なくお尋ねしたいのですが、例えば、「我想う故に我あり」と言う有名な言葉がありますが、この事が、それを考えるその個人以外の世の中の人々に対して何か影響が在るのでしょうか?

1年前 No.4

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

>>3

ふくろうさん

哲学を好きな人は、人生で理性や真理や理論を重要視する人です。

大概の人は、ファッションやお金が好きだから(笑)

しかし不届きにも・・哲学板に「盗んででも人の肉を食べてでも生き残ってほしいなんて言う、けしからん人がいる」とは・・嘆かわしいことでございます。

1年前 No.5

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

原因は勿論中世以降の混迷。
「神学の婢」のお次は「科学の婢」。
気位と意識が低すぎる。
自分の姿を見失った独自理論に学問を名乗る資格なし。

1年前 No.6

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

>>6

実存主義は、伝統形而上学を継承し、理論を土台にして理論を飛翔しなければならないのです。

1年前 No.7

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

>5  百理さん その通りだと思います。わたしの場合はお金の方についつい向かいますが。(笑


理性や理論・・・の理論が私は頭が悪いのでついていけません。数学の論理学はまったくダメです。

哲学する資格が無いのでしょうか?

1年前 No.8

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

うさぎさん

ディオゲネスさんの名言を調べてもらったら・・ギリシャ哲学の醍醐味が解りますよ・・

山にもいろいろあります。エベレストは命懸け・・普通の山は観光気分・・その辺の山は登山と言いません。

哲学にもいろいろあります。  人生論は哲学ではその辺の山登り感覚です・・

1年前 No.9

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>7
百理様
言葉は無力です・・・実存主義と同じで。

1年前 No.10

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

>>10

知識は力なり。(フランシス ベーコン)を否定されますか?

1年前 No.11

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>11
百理様
我々が生きているのはファンタジーの世界ではありません。
知識などというものは力の軌跡にすぎません。
絵というものは絵の具ではないのです。
実存主義はクレヨンのお絵かきです・・・

1年前 No.12

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

ヒコ太郎さん

ブラックな世界もあれば夢の国もあれば普通の国もあります。表社会は多種多様・・

しかし闇社会に光が当たることはあり得ません・・

1年前 No.13

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>13
光が当たらない場所を描き出すのが正統たる形而上学なのではないのですか?
クレヨンでそれができるとお思いで?
幼稚園でやるようなお遊びを、実存主義としてわざわざ哲学でやる意味ってありますか?
事実は小説よりも奇なり、闇社会はファンタジーではないのです。

1年前 No.14

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

>>14

このゴールデンタイムにわざわざ哲学話をするなんて・・哲学好きでなかったら無理!

本当は、理性の言葉にすがりたいのでは?

1年前 No.15

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>15
百理様
実存主義にすがるくらいなら、死んだ方がましです。

1年前 No.16

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

>>16

力を振りかざすのが好きな人には理性を真理としたい・・(のび太?)軍団にむしずが走りますか?

1年前 No.17

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>17
私の個人的な話はもういいでしょう・・・
あまりいじめないでください(笑)

1年前 No.18

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉2

「情」至上主義だからじゃない。

1年前 No.19

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

>>18

アメリカのニュースで保護された少女は毎日14人くらいの身体の相手をさせられるそうです。

それに比べたら青春を受験に捧げた私は不幸中の幸い・・

勉強あるのみ・・一生学習・・

1年前 No.20

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>4  時さん

私はこういった場では、あくまでここでの言説主体である限りでの「ザビビのふくろう」でありたいと思いますので、自分がリアルで何者かにかかわるようなことを述べるのはなるべく避けたいのでご了承ください。申し訳ありません。
まあ、あえて言えば、相当重い哲学病で、その治療のために哲学を学ぶ者というところです。
ただ、私が哲学をどのようなものと考えているのかについて述べるためにも、ご存じとは思いますが、とりあえず、次の辞書の説明を見てください。

>大辞林 第三版の解説

てつがく【哲学】
@
世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、通常これらと区別される。存在論(形而上学)、認識論(論理学)、実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ。
A
自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。 「社長の経営術には一つの−がある」 〔西周にしあまねの造語。初め英語 philosophy の訳語として「理学」「窮理学」「希哲学」「希賢学」などとした。のちに「哲学」が定着。西周「百学連環」(1870〜71年)にある。philosophy はギリシャ語 philosophia (知恵への愛・希求の意)に由来〕

ごく簡単に言うと、私は@の意味での哲学を哲学と考えており、Aの意味での人生観、あるいは一般に人生論ともいわれますが、そういったものとは完全に区別して捉えています。本来の(語源的)意味での哲学、古代ギリシャ発生の西洋哲学、学問としての哲学と言ってもよいと思います。

この掲示板では学問としての哲学以外であっても構わないというルールですので、人生観でも人生論でも、それを述べられるのは個人の自由なので全然構わないのですが、
私がぼやきたくなるのは、@とAの区別がつかない人が結構いるということなのです。

時さんの考えは次のようなものということですね。
>個人の人生において多岐にわたる問題発生に関わる事柄について、最終的には、その個人の納得できるような答えに行き着く考え方。私はこのような事を哲学だと考えています。

>人生哲学というのでしょうか


これは上の説明で言うとAの人生哲学に当たりますね。
人生哲学・人生論は個人の経験をもとに得られた知恵で、時に深く熟読玩味すべきものもあることは言うまでもありません。
特にその人当人にとっては重要でしょうし、他の多くの人にとっても有意義であることももちろんあるでしょう。
しかし、それはそのままでは@の意味での哲学ではありません。
それが学問としての哲学が要求する一般性を獲得したり、その一部として取り込まれることはありえますが、それ自体では学問としての哲学ではありません。
学問としての哲学である限り、内容の普遍性・方法の一般性・論理的整合性・体系性といった要件が、それぞれによって重点は異なるにせよ課せられるし、単なる個人の考え・意見ではありません。
この点に関しては主体を出発点に置く実存哲学でも同様です。
その意味で、デカルトの「我」も、単にデカルト個人のことを述べているのではなく、主観一般について述べていますので、「影響」は措くとしても、その意味では万人に関係しえます。
いわば自分が「思考する主観」である限り、それが誰であっても必然的に成り立つ真理としてそれは主張されているわけです。
ただ、少しエラそうな言い方で申し訳ないですが、
私の印象では、時さんは仏教についての該博な知識をお持ちのようですし、
すべてを自分基準あるいは自身の人生経験基準で語る人生論者とは全然違うように思いますね。

次に、デカルトの命題についての問いにつながるような、哲学の意味にかかわることについて述べてみます。
「哲学」は歴史的にはもともとほとんど「学問」と同義で用いられていましたし、おそらく学問は本来そのようなものではないかと私は思いますが、
philosophyの語源からもわかるように、「知への愛」つまり、「知ることへの愛」に基づいていると思います。
つまり、「知ること」とはすなわち「本当のことを知ること」=「真理を知ること」ですので、「真理(本当のこと)を知りたい」という動機によって成り立っていると思うのです。
つまり、とりあえず何かに役立てるためとか、手段としての知識をもとめるのではなく、第一目的は、純粋に「本当のことを知りたい」ということですね。
手段としての知識・技術・学問を「実学」としますと、その意味では非実学(虚学)ということになります。
西洋ではもともと何かのための(手段としての)学問や労働を価値的に一段低いものとみなす傾向があって、いわばお金儲けのための労働は不純とみなすような考えもあったようです。
数学でももっとも応用と結びつかない整数論が純粋数学として数学の王というか女王とみなされていたようで、数学者の藤原正彦さんなんかは整数論が暗号に応用されるようになったことをボヤいたりされています。
いわば純粋学問=虚学という考えですね。

で、その捉え方で言うと、哲学はその中でも最も役に立たない学問、=虚学=純粋学問と考えられてきたものではないかと思います。
「我思う、ゆえに我あり」なんていうものも、普通の人が考えても、何の役に立つのか、わかりませんよね。
で、それはもちろん、そのとおりで、普通の意味では役に立たないでしょう。
以下、アバウトな説明になります。
我々が本当に確実だと言えること、本当に知っていると言える真理は何か、という問いは、デカルト以降、哲学において認識論として数多くの哲学者が考察した問題です。
デカルトはそのパイオニア的存在であり、またその方法の枠組み(方法的懐疑)を樹立したうえでもこの問いはきわめて重要です。
かれがその解答というか、その根本原理として提出したのが「我思う、ゆえに我あり」であり、「思考する我の存在」を不可疑な(正しいとしか考えられない)存在としたものでした。

したがって、先に挙げた問いについて、そもそも何の問題にも感じない人にとってはデカルトの命題は価値がないでしょう。
「自分が存在するなんて当たり前じゃないか」でおしまい(笑)。
よく言われるように、この問いに限らず一般に哲学の問いは、ふだん人が疑うことなく正しいと前提していることを、本当にそうであると言えるのか、というふうに懐疑するものであり、むしろ懐疑が重篤になると日常生活にさえ支障がきたしかねないものもあるわけです。
哲学的問題を問題と感じることが「哲学病」と言われる所以です。

その一方で、虚学の代表であった整数論が今や暗号理論として現代社会において不可欠な応用を持っているように、哲学も近年実学の面が強調されているようです。
例えば、デカルトに始まる「自己」についての哲学的思索は、現象学など既に長年に亘る研究により多くの蓄積があって、精神病理学や心理学、ケア学、また自己意識をもつロボットをつくるには、という人工知能研究上の問題に重要な知見を提供しています。
哲学一般としても、臨床哲学とか哲学カウンセリング(この中には人生哲学も取り込まれているようです)といったものを含み、様々な形で応用哲学というものが現在活発に研究されています。
実学じゃない学問を大学から排除しようとする社会的動きに対抗する手段という面もあると思いますが。

なんか、グタグダと書いてしまいましたね。
レスになったか自信ありませんが、答えになりましたでしょうか。

1年前 No.21

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>5  百理さん

まあ、あなたにとっては「食人」など論外でしょうね(笑)

しかしこんなこと言っちゃ悪いかもしれないけど、
あなたの場合、そもそも子供のころから肉が食べられなかったんでしょ。
それは理性的判断じゃなく、むしろ霊性的判断じゃないの?

1年前 No.22

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>19

ん?日本人がってこと?

でも、情至上主義なら哲学に見向きもしないってことになるはずじゃないかな?

1年前 No.23

★XO00NnyPHM_VuR

>>21  ザビビのふくろうさんへ

ご丁寧な返信をありがとうございます。そして、ネット上で個人の情報をお聞きしてしまうというマナー違反をお許しください。申し訳ありません。

> 私がぼやきたくなるのは、@とAの区別がつかない人が結構いるということなのです。


はい。一つは、この掲示板で何かご不満なものを見られているのだろうなと感じました。(もしもあるのであれば、過去に)純粋な学問的哲学と言うものを学ばれて、ザビビのふくろうさんは、それを論じ合いたいのだろうかとも感じました。

> しかし、それはそのままでは@の意味での哲学ではありません。

> それが学問としての哲学が要求する一般性を獲得したり、その一部として取り込まれることはありえますが、それ自体では学問としての哲学ではありません。


その通りです。私(時)は、学問的な哲学を知りませんので、出来ませんね。

> デカルトの「我」も、単にデカルト個人のことを述べているのではなく、主観一般について述べていますので、「影響」は措くとしても、その意味では万人に関係しえます。

> いわば自分が「思考する主観」である限り、それが誰であっても必然的に成り立つ真理としてそれは主張されているわけです。


このあたりの仰る内容の一応の理解はできるのですが、なかなか腑に落ちないのです。

例えばですが、上記、デカルトの「我」は、主観一般について述べているという事で「いわば自分が「思考する主観」である限り、それが誰であっても必然的に成り立つ真理としてそれは主張されているわけ」ですよね。これが哲学なのでしょうか?と言う疑問なのです。(知らないので言えてしまうのかも知れませんが)

これも例えばですが、仏教においてはこの「我」は、極端な表現をすると「無い」と言うものです。今まであると思っていた主観の主体が無いというような、私から見るととても哲学的に見える、思える事柄なのです。

通常ではあまり考えないであろう「我」について、デカルトは「思考する主観である限り、必然的に成立する事柄」として「我思う故に我あり」と言う表現をしたのですね。当然と言えば当然な事ですね。うーん、これが哲学での真理として成り立つのですね。。

> つまり、とりあえず何かに役立てるためとか、手段としての知識をもとめるのではなく、第一目的は、純粋に「本当のことを知りたい」ということですね。


この「本当の事」を「我」に当てはめてみると、デカルトの言う「我あり」なのか、仏陀の言う「無我」なのかでしょ?つまり、本当は「我」があるのか?ないのか?ではないのでしょうか。そして哲学的には「我あり」が真理なのでしょうか。私は、やはり「無我」の方に哲学的なものを見出してしまいます(笑 「我思う故に我あり」は哲学に対して私の浅学故の無理解や無智から来るのだと思いますが、当たり前の事過ぎて、あまり魅力を感じないのです。

> したがって、先に挙げた問いについて、そもそも何の問題にも感じない人にとってはデカルトの命題は価値がないでしょう。

> 「自分が存在するなんて当たり前じゃないか」でおしまい(笑)。


そうなのです。その視点で見れば「自分が存在するなんて当たり前じゃないか」でおしまいなのですね。(笑

そして先に出しました「無我」ですが、仏陀の視点に立てば「無我」なんですね。ここで、哲学的な答えと言いますか、それは「我あり」「我なし」どちらでしょうか?と私は考えてしまうのですね。普遍的なのかどうかは分かりませんが、私は「無我」が「我に対しての真理」だと今は思っているのです。(仏教は哲学することが目的ではありませんので、無我を哲学的に考えるのは邪道ですが)

ザビビのふくろうさんも「我思う故に我あり」で納得されているのでしょうか。対比的に仏陀の「無我」は哲学する価値はありませんかね。

> レスになったか自信ありませんが、答えになりましたでしょうか。


はい。今の私には十分なお答えです。レスをありがとうございました。

1年前 No.24

★snEDkONxyN_VuR

デカルトの表現した「我思う故に我あり」と言う文章は、論点先取ではないのでしょうか?

よくわかりませんが、これ以上、私は突っ込まない方がよいような気がしてきました。

1年前 No.25

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>24,25  時さん

>このあたりの仰る内容の一応の理解はできるのですが、なかなか腑に落ちないのです。

>うーん、これが哲学での真理として成り立つのですね


誤解なさらないようお願いしたいのは、このデカルトのいわゆるコギト命題が哲学的真理であると私は言っているのではありません。
このデカルトの主張を真理として受け入れるかどうか、納得するかどうかが、その人の思索を哲学かどうか決めるのではない、とも言えます。
実際多くの哲学者はデカルトの考えに異論を唱えています。
私も納得しているわけではありません。
ただ、時さんの次の発言を見ると、
>これが哲学なのでしょうか?と言う疑問なのです。

>今まであると思っていた主観の主体が無いというような、私から見るととても哲学的に見える、思える事柄なのです


常識と異なる結論が出ないと哲学じゃない、常識と同じなら何ら哲学的とは思えない、と感じられているように思います。
結局「私は存在する」という常識と同じ結論に至るのが、哲学なの?とおっしゃってる気がするわけです。
深さを感じないからでしょうか?
まあ当たっているかどうかは措きますが、仮に時さんの疑問がそうだとして、答えは、「その通り」というものです。
もちろん、哲学は時に常識はずれの答えに達することがありますが、それが哲学の本質ではありません。
むしろ一つの典型は、我々が正しいと信じて疑っていない事柄について、本当にそうだと言えるのか、確実だと言えるのか、「あくまで理詰めで答えを出す・説明する」というのが哲学です。
いわば「理屈(ロゴス)のゴリ押し」「理屈をこねまわすこと」が哲学の本質であると言えると思います。

例えば、「アキレスと亀のパラドクス」についての議論というのは、現実にはアキレスは亀を確実に追い越せるはずなのに、それを追い越せないとする哲学的問題=パズルがあって、いわばムチャクチャな屁理屈のはずなんですが、それをまたあくまで理屈で解決しようというものです。
結論は、「よって、アキレスは亀を追い抜ける」という当たりまえの事実です。
これを実際に競争させて結論を出すのは哲学ではありません。
「追い越せない」とするパズルのどこが間違っているかをきちんと理屈を通して解明し、正しい結論に至る論証なり、その事実の成り立つことがなぜ成り立つのかということを理詰めで説明するということが哲学の議論です。

以下、便宜上、私はデカルト信奉者として、デカルト擁護の立場で、私の理解する限りでのデカルトのコギトの議論(以下「コギトのパズル」と呼びます)の代表的解釈を、私なりに換骨奪胎してまとめます(ですから、デカルトの本当の主張かどうかはとりあえず措いてください)。

例えば、幻肢という現象があります。
事故等で手足を切断され失った手足なのに、それがまだあるかのように、手足に痛みがあるように感じたりする現象です。
意識の戻った患者が、足のほうを見ることのできない姿勢のまま、自分の足がもうないことを知らないで、
 私は左足が痛いんだ
と言ったとします。
これは偽です。左足がないのだから、左足が痛いということはありえませんから。
しかし、その人が「足が痛い」と感じている、そのこと自体は疑いえない事実と言えるでしょう。
このように、我々主観が何を本当だと考えようと、それらがすべて幻影・幻覚である可能性を排除できない。
もっと一般化すれば、例えば、映画『マトリックス』のように、自分が現実と思っている世界は、自分の脳がコンピュータにつながれて見させられている夢にすぎないという可能性を論理的に排除することはできません。
これは仏教的捉え方とも通じるものだと思いますので、時さんにはむしろ理解しやすいのではないでしょうか。
デカルトが現代にタイムスリップしてこの映画を見たら、「私はこんなこと既に考えていた」という資格が十分にあります。
つまり、
 私はP(が本当である)と考える
というふうに何事かが本当だと考えても、Pがいかなることであっても本当ではない可能性があり、確実に真なることだとは言えない。
常に疑えるから不確実、よって、本当には「知っている」とは言えない、ということですね。
ところが、と言うわけです。
私が現実と思っているこの世界がすべて現実でなく夢・幻であったとしても、それを
 私がPが現実だと思っている
ということ、そのこと自体は疑いえないのではないか。
左足がないのなら、左足が痛いのは現実ではないが、左足が痛いと私が思っていること、このこと自体は疑いえないように。
要するに、仮に今私が夢を見ていて、にもかかわらず現実の中にいると思っているのならそれは間違っているにせよ、
そのように私が思っていること自体は否定しようのない事実である
ということです。

したがって、自分が何事かを考えているとき、その何事かは本当ではないかもしれないが、自分がそのように考えているという事実を疑うことはできない。
つまり、そのように考えていること、それ自体は不可疑=確実であると言える。
よって、私は自分がそのように考えていることが本当であることを知っている、と言える。

骨組みだけで言い直しますと、要するに、
手がなくても、私が手が痛いと思っていることが本当であるように、
私が何事かを思っているとき、その自分が思っていること自体は本当だと言える、
ということです。

よって、我思うとき、我が思っていること、そのこと自体は真である。
このようにして、私は自分が思考することによって、
(T.1)「我思う」
が真であることを私は樹立できました(としましょう)。

次を考えましょう。
(T.2’)「我無くば、我思わず」
これ真と認められますよね。
ゴジラが存在しないならゴジラが東京を破壊することもありえないように当たりまえでしょう。
要は、私が存在しないのなら、私が思考するなんてことはありえないわけです。
そして、これが真であるなら、その対偶命題が成り立ちます。
(T.2)「我思うならば我あり」
これは言うまでもない、隠れた前提命題と考えられます。
この(T.1) と(T.2)から、論理的に「我あり」という命題が導かれます。
以上が、デカルトの主張から喚起された、一つの解釈としての論証です。

時さんの
>デカルトの表現した「我思う故に我あり」と言う文章は、論点先取ではないのでしょうか?


というのが、どの点を指してそうおっしゃっているのか不明ですが、言えることは、そのような疑問をお持ちなら、
>よくわかりませんが、これ以上、私は突っ込まない方がよいような気がしてきました。


というのではなく、徹底して言葉で丁寧に論破する議論を組み立てる、その作業こそが哲学だと思います。

実は、そういった反デカルト的議論は以前示したことがあり、しかもその際、時さんもレスで助けてくださっています。

http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-330#a
http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-342#a
http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-349#a
http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-354#a

いずれにせよ、デカルトの与えた解答についてはなかなかそのままで現代通用しないかもしれませんが、彼が理屈をこねて作り上げたパズル、デカルト的懐疑は、本質的には現代でもそのまま通用していると思うのです。

以上、急いでざっと書いたので、穴だらけかもしれません。ご容赦ください。

1年前 No.26

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

佛教は、南無○○○

○○○に帰依することです。

帰依(きえ、巴: sara□agamana、梵: □ara□agamana)とは、仏教用語において、拠り所にするという意味。



哲学は、私は何を知り得るか・・知ることを愛することです。

1年前 No.27

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>24
幼稚園児に「無我」といって伝わりますか?
クレヨンのお絵かきがせいぜい、今の哲学はそのレベルです。

1年前 No.28

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

すべての芸術的直観は最期の最後には思想を渇望するようになる・・

1年前 No.29

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

時さん

差し出がましいようですが・・

お釈迦様は、「自らを灯とし、よりどころとして、他を灯とすることなかれ。法(ほう)を灯とし、よりどころとして、他を灯とすることなかれ。

人生は無常であるから、怠ることなく勤め励めよ。」と、悲しまれるお弟子たちに話されたということです。



無我と言うのは、一切のものは刻々変化している。「 私」という存在も常に変化する存在である。と言うことから来ているのではと思いませんか?

1年前 No.30

スピア ★7ywtrApJhE_Ew9

>>28
防衛機制による認知の歪みからくる蔑視。

1年前 No.31

うさぎ ★w71GsOkauY_UHY

百理さんはいつも正統派だから、安心です。東洋哲学は相当な知識をお持ちのように思います。
私は、仏教の無我というのは、西洋の観念論に近いのじゃないかと思っています。

1年前 No.32

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>31
お前は、哲学板で心理学を語ってる時点で認知が歪んでるよ。

お前は何と戦いどこでお前の防衛機制が働いたんだ?
単発だから全く分からない、教えてくれよ心理学の婢くんw

1年前 No.33

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ヒコ太郎さん

どうしてそんなに哲学を蔑むのですか?

とっても素晴らしいとしか感じない人間の霊性や人格や知性を・・どうしてののしるのですか?

1年前 No.34

スピア ★QgjnrzsA0w_Ew9

>>34
すっぱいぶどう。

1年前 No.35

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>34
百理様は、何故だと思われますか?

1年前 No.36

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

ヒコ太郎さん

憧れって感情がありますか?

1年前 No.37

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

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1年前 No.38

★niIeJZeIe8_VuR

>>26  ザビビのふくろうさんへ

「我思う故に我あり」は「我々が認識するものは、すべて嘘かもしれない。でも、それを疑い続けているものがいるということだけは真」であると。たとえ、「疑っている」ということを疑ったとしても、やっぱり「何かを疑っている」ことは真なのだ。

たとえ、すべてが夢であっても、その夢を見て、夢じゃないかと疑っている自分が存在することは決して疑えない。

この世のすべてが、信じられないものであろうとも、それを『疑っている何者かが存在すること』は、絶対的な真実なのだ。

これが「我思う、ゆえに我在り」という言葉の本質的な意味である。デカルトは、この言葉を「決して疑えない確かな真実」として、哲学の第一原理にすえたのである。(哲学的な何か、あと科学とか)

上記、疑う(想い)と言う事と自分(我)と言う存在をつなげていますね。ここが分からないのですよ。疑うという事がある。だから自分がいる。と言うつなげ方ではないのでしょうか?疑うという事がある。「だから何ものかがいる」でも同じ事ですね。

何処まで行っても疑い続けている事はある。は、理解できます。しかしそれを突然に「我(自分)」と結び付けているのではないでしょうか?

単純な疑問なのですが、デカルトは何故「我思う」の「我」自体を疑わずに「我思う」としたのかと言う事なのです。いくら疑って疑問がわいたとしてもその疑問自体はありますね。でも、それを最終的に「我思う」にしてしまうと、その「我」は一体どこから導いたのか?と言う疑問です。その思考中は消えていたとしても最終直前には「思うのは我だ。我に決まっているじゃないか」と言う結論ありきのように見えています。

一方、仏陀の無我は、上記で言うのであれば「思いがある」だけなのです。「私」についてはどのように表現しているかと言うと「妄想です」なのですね。では、通常会話で使っている「私」を仏陀は何故に使うのか?と言う問いに対しては「真に力量ある人ならば、世間における名称を知り、言語表現(慣用語)として、そのような表現をしてもよい」と表現しています。

もしも「我思う」の我があり、私が思うというのであれば、その我(自分)の思いの通りにその「思い」を出来るはずだと言います。「私の感じ方」と言う時の「私」と「感じ」の関係も同じ事です。もしも「私が好きな人」の「私」が存在するのならば、嫌いな人を好きになれば良いですね。好きなフルーツの味を嫌いになれないでしょ?と言う事だと思います。ですので「我思う」は「我」と「思う」が別で、「我」は妄想で、在るのは「思う」があるのですよ。と言う事です。この「思う」というのは「想」と表現しますが、五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)の中の「想蘊」の事なのです。

ですので、仏陀の言う無我は五蘊の事で、通常の「私」と言う感覚が入り込むと「五取蘊」と言う執着した状態になるのですね。そしてその執着ゆえの苦が発生するという事です。

そしてこの「私がいる、ある」と言う思いを仏教では「有身見」と表現するのですが、悟りの階梯の第一段階(預流果)に至る為には滅しておくべき事柄の一つですので、かなりこの我に関しては仏陀自身が重要視していたものと思われます。

>むしろ一つの典型は、我々が正しいと信じて疑っていない事柄について、本当にそうだと言えるのか、確実だと言えるのか、「あくまで理詰めで答えを出す・説明する」というのが哲学です。


上記では、仏陀の理屈(簡略化していますが)は私には理解できますが、では、デカルトの「我思う」の「我」はどこから来たのでしょうか?ご存じならば教えて頂けるでしょうか。

>いわば「理屈(ロゴス)のゴリ押し」「理屈をこねまわすこと」が哲学の本質であると言えると思います。


なるほどです。いわば「理屈(ロゴス)のゴリ押し」「理屈をこねまわすこと」が哲学の本質であるということなのですね。。

>  私はP(が本当である)と考える

> というふうに何事かが本当だと考えても、Pがいかなることであっても本当ではない可能性があり、確実に真なることだとは言えない。

> 常に疑えるから不確実、よって、本当には「知っている」とは言えない、ということですね。


その通りですね。そう思います。

> ところが、と言うわけです。

> 私が現実と思っているこの世界がすべて現実でなく夢・幻であったとしても、それを

>  私がPが現実だと思っている

> ということ、そのこと自体は疑いえないのではないか。

> 左足がないのなら、左足が痛いのは現実ではないが、左足が痛いと私が思っていること、このこと自体は疑いえないように。

> 要するに、仮に今私が夢を見ていて、にもかかわらず現実の中にいると思っているのならそれは間違っているにせよ、

> そのように私が思っていること自体は否定しようのない事実である

> ということです。


冒頭に書きました事ときっと同じ事ですね。ここのご説明でも「私ありき」と言う事ではないのでしょうか?

左足がないのなら、左足が痛いのは現実ではないが、左足が痛いと★私が★思っていること、このこと自体は疑いえないように。

この場合、私(時)ならば「左足がないのなら、左足が痛いのは現実ではないが、左足が痛いと言う思いがある。このこと自体は疑いえないように。」となります。「私」をいきなり登場させません。先ほど教えて頂いたように「本当にそうだと言えるのか、確実だと言えるのか、「あくまで理詰めで答えを出す・説明する」というのが哲学」なのですよね。これが先ほどの仏陀の理屈(簡略化していますが)は私には理解できるのですが、では、デカルトの「我思う」の「我」はどこから来たのでしょうか?ご存じならば教えて頂けるでしょうか。と言う質問なのです。

> よって、我思うとき、我が思っていること、そのこと自体は真である。

> このようにして、私は自分が思考することによって、

> (T.1)「我思う」

> が真であることを私は樹立できました(としましょう)。


我思う時、我が思っていること、そのこと自体は真ですね。はい。「我思う」が真だとしましょう。

> 次を考えましょう。

> (T.2’)「我無くば、我思わず」

> これ真と認められますよね。


我の意志として「思う」と言う行為を行っているのならば、真ですね。

> ゴジラが存在しないならゴジラが東京を破壊することもありえないように当たりまえでしょう。

> 要は、私が存在しないのなら、私が思考するなんてことはありえないわけです。

> そして、これが真であるなら、その対偶命題が成り立ちます。

> (T.2)「我思うならば我あり」

> これは言うまでもない、隠れた前提命題と考えられます。

> この(T.1) と(T.2)から、論理的に「我あり」という命題が導かれます。

> 以上が、デカルトの主張から喚起された、一つの解釈としての論証です。


なるほどです。

> 要は、私が存在しないのなら、私が思考するなんてことはありえないわけです。


その通りですね。「私」が存在しないのならば、「私」は思考できませんね。

私が理解しようとしても理解に至らなかった(笑)のは、きっとここですね。無我では「思考は起こる」のですよ。思考をするのではなく、思考は起こるものだという事です。「私」が在ろうとなかろうとです。そして「私がありながら思考が起こる」と執着と言う事になり、苦が生まれるという事です。ですので仏陀と一般の人々、両者に同じように思考は起こるのですが、そこに執着の元の「私(有身見)」がないと、その執着による苦が無いという事です。

最後は何か独りよがりになってしまいましたが、今回お相手していただいたことで、ザビビのふくろうさんとの圧倒的な知識情報量の差を感じました。

@
世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。もと臆見や迷妄を超えた真理認識の学問一般をさしたが、次第に個別諸科学が独立し、通常これらと区別される。存在論(形而上学)、認識論(論理学)、実践論(倫理学)、感性論(美学)などの部門をもつ。( >>21

は、今の私には敷居が高いように感じます。ですので今まで通りの投稿姿勢で参加したいと思います。

「我思う」の論点先取りにつきましては、また機会があればその時に質問させていただければと思います。レスをありがとうございました。

1年前 No.39

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>39  時さん

>単純な疑問なのですが、デカルトは何故「我思う」の「我」自体を疑わずに「我思う」としたのかと言う事なのです。

>いくら疑って疑問がわいたとしてもその疑問自体はありますね。でも、それを最終的に「我思う」にしてしまうと、その「我」は一体どこから導いたのか?と言う疑問です。

>その思考中は消えていたとしても最終直前には「思うのは我だ。我に決まっているじゃないか」と言う結論ありきのように見えています。

>一方、仏陀の無我は、上記で言うのであれば「思いがある」だけなのです。


この論点については、 >>26 でリンクを張った箇所に述べてあるので、ご覧ください。
特に次のところです。

http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-342#a

1年前 No.40

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

我思うゆえにわれあり・・高校の時に読んだ『方法序説』(ほうほうじょせつ、方法叙説とも、仏: Discours de la m□thode)とは、



1637年に公刊されたフランスの哲学者、ルネ・デカルトの著書である。

刊行当時の正式名称は、『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話(方法序説)。

加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』

真理への方法・・われ思うとは・・

1年前 No.41

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>40  時さん

ちなみに、 >>26 でのリンク先は、この掲示板内の別スレですので、変なところではありません。

たぶん、去年、時さんもレスしてくださっている議論です。

1年前 No.42

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉23

そうじゃないの?

1年前 No.43

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>43
 >そうじゃないの?

ああ、そうか、あなたが考えている意味では確かにそうかもしれないね。

私の言い方が曖昧だったからだけど、「なめられてる」ということで主に考えていたのは、
普通に哲学なんて何の役にも立たないと考えて、見向きもしない人ではなくて、
むしろ、哲学を全く勉強せずに哲学について語る人のことなんだ。
普通、物理学を全く勉強せずして物理学について語るなんてことはありえないよね。
数学でもほかの学問でもそう。
だけど哲学は違う。
哲学・倫理学を全く勉強していないのに、「善とは何か」について自分はわかっていると思いこんでいる人がいるし、哲学をほとんど何にも勉強せずに、ただけなすような人もいる。
私の場合、自分がある問いを持ったときは、それがどういう学問分野に属すことで、どういうふうに捉えられているかまず知ろうと思うから、とりあえず本を読んで勉強する。
あなたも私が思っていた以上によく読んでいるようだけど、ほとんど哲学書を読んでいない人がここの掲示板でも多いってあなたならわかるでしょ。
これが不思議なんだよね。で、まあ、なめられてるのかなと。

1年前 No.44

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>39  時さん

もし >>26 でリンクした先の私の議論を読んでくだされば、あなたが疑問に感じておられるのと同じような立場からの、コギト命題に対する哲学的反論が既に提示されていることがわかってもらえると思います。

ですが、ここではあえて、さらにデカルト擁護の立場にとどまり、次のあなたの疑問に答え、反論したいと思います。

>疑う(想い)と言う事と自分(我)と言う存在をつなげていますね。ここがわからないのですよ。疑うという事がある。だから自分がいる。と言うつなげ方ではないのでしょうか?疑うという事がある。「だから何ものかがいる」でも同じですね。


そうではありません。そのようにつなげることによって私の存在を導いているのではないのです。
シンプルに考えましょう。
「私は今考えている」と、我々は考えることができますね。
時さんも、実際に今、このように考えてください。
「私は今考えている」
考えましたか?
で、「私は今考えている」と考えているとき、この事実が偽であると考えられますか?
次のように言い換えてもいいでしょう。
「私は今考えていない」が真であると考えられますか?
実際に、
「私は今考えていない」
と考えてください。
この自分の思考が正しいと考えられますか。真でありうると考えられますか。
考えられないはずです。
「私は今考えていない」
といくら考えても、これは偽であることが自分にはわかるはずです。
だって、「私は今考えていない」とまさに“考えている”からです。
つまり、どう考えたって、
「私は今考えていない」という命題は、それを考えているとき偽でしかありえない、すなわち、
「私は今考えている」は真でしかありえないのです。

というわけで、
私は今考えている
の真を先に、直接樹立しているのです。
そして、ここから、ゴジラが存在しないならゴジラが東京を破壊しえないように、
私が存在しないなら私が今考えているということもありえないわけですから、
私が今考えているが真ですので、当然私は存在するということが帰結するのです。
ですから、何ら論点先取りではありません。

1年前 No.45

スピア ★3cXeSTWMOr_Ew9

>>44
哲学的問いには正解が無いから。

>>45
無我は世界内存在に似ている。

1年前 No.46

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>44
>これが不思議なんだよね。で、まあ、なめられてるのかなと。

なめられてるのに逃避行動をとり続けるからなめられ続けるんだよね。
ふくろうさんしかり、スピアくんしかり。
現実逃避して「勉強」というファンタジーに逃げ込むからなめられちゃうんだよね。
だって、ださいじゃん、そんなの。

1年前 No.47

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>46

>哲学的問いには正解が無いから。


うん、そうかもしれないけど、逆にだからこそ予備知識が普通以上に必要とも言えるしね。

>無我は世界内存在に似ている。


あなたがどんな風に『無我』と『世界内存在』を理解しているのかわからないが、私は結びつかないなあ。

1年前 No.48

★niIeJZeIe8_VuR

>>26,40,42,45   ザビビのふくろうさんへ

ご提示していただいたリンク先を読み返していました。

「風が吹いている」は、吹いていなければ風ではないですね。
「炎が燃えている」も、燃えていなければ炎ではないですね。

吹いているのが風で、燃えているのが炎。思っているのが私と言う事ですね。

対して「電気が光る」は光っていなくてもその実体として「電気」はありますね。
「木が燃える」も、燃えていない時てもその実体としての「木」はあるという事ですね。

http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-342#a

>「何事かを意識する私」というのも、実体ではなく、それ自体意識現象という一つの現象であると考えるのが、現象主義の考え方。


つまり「私が考える」は「炎が燃える」「風が吹く」と同様、一つの現象であると言う事なのですね。

でしたら「私は思う」も、思っていない時には「私」も存在しないですね。

> デカルトのコギトも要はこういうふうな考え方から導かれた実体なわけ。

> 私は考える という事態も、この図式でとらえられている。

> 主語:述語=実体:属性=私:思考

> 主語が指す私という実体が思考という属性を持つ、というふうに。


ですので、デカルトの「我思う」は「炎が燃える」や「風が吹く」と同様、一つの現象であると言う認識ではなかったのではないのでしょうか。当時のデカルトの認識では「主語が指す私という実体が思考という属性を持つ」というふうな認識だったのですよね。私(時)のこの理解が間違っていますかね。

ですので、その実体としての「我」はどこから持ってきたのでしょうか?と言う疑問だったのですが、デカルト自身が、主語:述語=実体―属性図式に「我」と「思う」を当て嵌めてしまっていたという解釈でよいのでしょうか。

当時、デカルトは「実体としての我」を導いたのですよね?と言う事は、デカルトは文法的錯誤をしたという事でしょうか?

まずは、本を読め本をと言われそうですが。

> 「私は今考えていない」という命題は、それを考えているとき偽でしかありえない、すなわち、

> 「私は今考えている」は真でしかありえないのです。


はい。この二つの対比ならばわかるのです。「私は話せない」も「私は話せる」も話しているので「私は話せる」が真ですよね。ですので「私は話せない」は偽だという事ですね。

しかし恥ずかしながらまだ理解しきれていません。問題としているのは、当時のデカルトの「我」の出所です。

1年前 No.49

★niIeJZeIe8_VuR

ザビビのふくろうさんへ

http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-342#a

> だけど、「私が思考する」から「実体としての私が存在する」が帰結しないのは、「風が吹く」から「実体としての風が存在する」が帰結しないのと同様。

> より一般化して、「何事かを意識する私」というのも、実体ではなく、それ自体意識現象という一つの現象であると考えるのが、

> 現象主義の考え方。


教えて頂いたこの現象主義の考え方は理解できます。

無我も理解しています。

ですが

> で、デカルトのコギトも要はこういうふうな考え方から導かれた実体なわけ。

> 私は考えるという事態も、この図式でとらえられている。

> 主語:述語=実体:属性=私:思考

> 主語が指す私という実体が思考という属性を持つ、というふうに。


上記のようにデカルトが考えていたとしたら、「我思う」のこの「実態としての我」は、何も疑わずに突然現したという風に思っています。疑って疑って出した答えの「我思う」の「我」は疑わなかったのだろうか?と言う疑問と、その「実体としての我」をデカルトは何をもって我としたのだろうかと言う疑問なのです。

ですので、後世の哲学者が異論を唱えるのも分かりますし、「実体としての我」の設定を変えて「現象主義」的な「我」の解釈を持ってこられての説明も分かるのですが、大元が「実体としての我」ならば、残念ながら私の疑問の答えにはならないのですね。。

ザビビのふくろうさんのご説明では「デカルトのコギトも要はこういうふうな考え方から導かれた実体なわけ。」と言う事ですので、その向こう側にあり、ザビビのふくろうさんがご存じであろう「デカルトの考えていたであろう実体としての我」とは、デカルトは何の事を言ったのか?と言う疑問なのです。

分かりづらくて申し訳ありません。

1年前 No.50

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

自我の実体・・自己確信は、意識内に現象しながら意識内の存在を超える・・意識と意識内の現象が総てではない・・

1年前 No.51

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>49,50  時さん

>当時、デカルトは「実体としての我」を導いたのですよね?と言う事は、デカルトは文法的錯誤をしたという事でしょうか?


はい、デカルトを批判する立場からは、そうであると言えると思います。
私自身もそう言えるだろうと思っています(そう考える理由も語れば長いのがあります(笑))。
しかし、後で理由を提示しますが、デカルトがそれ以外に何の根拠も必然性もないのに「実体としての我を導く」錯誤を犯したとは、私は必ずしも言えないと思います。

いずれにしましても、デカルトは著作の幾つかの箇所で少し異なるコギトの説明を行っており、
哲学の常ですが、解釈も唯一とはいかないと思います。
ですから、デカルトの本当の主張はどうであったかということについては私も責任を持って言えるわけではありません。
私はその意味で、代表的かもしれませんが、ひとつの解釈を示したにすぎないとご理解ください。

そういうことを理解してもらったうえで、さらにしつこく(笑)デカルト擁護の反論を行ってみます。

現象主義は実体としての我なんてないと言う。
例えばそれは、意識に現れる炎の見え姿を、スクリーン上に映し出される炎の動画にたとえ、
実際にあるのはフィルム上の別々の画像だけであるように、実体としての炎などない、
同一なるものとしての炎=実体としての炎があると思うのは錯覚にすぎない
というふうに言われる。

しかし、ではなぜ炎の映像を、錯覚であろうと何であろうと、別々の多数の画像としてではなく、一つの炎の動画映像として我々は認識するのか/できるのか?
それは、まさに別々の画像を一つの炎の変化する姿=映像として把握する、〈私〉が同一性を保ってそこにいるからこそではないか。
同一なるものとしての私、すなわち実体としての私が存在しないなら、本来バラバラであるそれらを、いったいどのようにして一つのものとしてみなせると言うのか?
私とは、物心ついてから死ぬまで、身体がどのように変化しようと、眠っても失われることなく同一性を保ち続ける、この私のことである。
同一なるものとしての私が存在しなければ、数年で身体すべての細胞が入れ替わるとさえ言われるこの私の肉体を、
どのように「私の身体」と言うことができるのか。
記憶?
記憶などというものは、そこに「私の記憶」という同一性がなければ、フィルム上の画像と同じく、単にバラバラのデータの集積にすぎない。
現象主義がなんと言おうと、人の生においては、そこに同一なるものとしての〈私〉が存在しなければならない。
でなければ「私の人生」というものが存在しえないではないか。
現象主義は、この同一性の根拠を何ら説明することはできないのである。
また「統合失調症」や「離人症」といったある種の精神疾患は、
「自己が壊れる」とでも言うべき事態として現実に存在する。
「統合失調症」は以前「分裂病」と呼ばれていたように、自己が分裂するとも言うべき事態である。
もし、現象主義や無我論者の言うように、同一性を有する自己がそもそも存在しないのであれば、
このような事態が存在すること自体ありえないことになるはずである。
こういった「自己を失う」「自己が分裂する」といった事態を、無我論者や現象主義はいったいどのように説明するというのか?

と、まあ、理屈をこねてみました(笑)

日本語が主語を必ずしも必要としませんので、我々日本人には現象主義的な考え方はなじみやすいと思います。
実体としての私を否定して現象としての私を肯定するか、
そもそも〈私〉なんて存在しない、というか。
結局、私とは何か?という問いに向かう以外にないと思います。
そしてそれを理詰めに問うことは、結果として例えばロボットに意識を持たせるにはどうすればいいか、アンドロイドをつくるにはどうしたらいいか、といった問題に直結していきます。文学・芸術・宗教は自己について深い思想に達しえますが、理詰めでなければ、このようなことはありえないでしょう。
その出発点はデカルトのコギトのパズルにあると言ってもよいのではないでしょうか。
つまり、デカルトが確固たる基礎を築いた認識論という枠組みは、未だ有効なものとしてあり続けていると言えると思うのです(自己意識をもつアンドロイドが生まれた時、心の哲学としての認識論はその役目を終えるかも)。
したがって、時さんの最初の問い、

>例えば、「我想う故に我あり」と言う有名な言葉がありますが、この事が、それを考えるその個人以外の世の中の人々に対して何か影響が在るのでしょうか?


については、ある程度、理解していただけたのではないでしょうか。

もちろん、時さんは私の説明で納得はいかないかもしれませんが、
それもまた哲学の常であり(笑)、あとはご自身で勉強するなり、考えられるのがよいでしょうね。
とは言え、私としては、あくまで理詰めでコネコネ納得いくまで考え続けるのが哲学、そういっていいのではないかという私の考えを、かなり強引ですが身をもって少しわかっていただけたのではないかと(笑)。少しでも楽しんでもらえていればいいのですが。
ただ、この私の考えも、結果としてかなり偏ってしまったように思います(分析哲学系の哲学観に)。
しょせんどこの馬の骨ともわからない者の言うこと、くれぐれも信用なさらないようにお願いします。
ま、こんな心配は杞憂・蛇足にすぎないと思えるぐらい、時さんは自立した思索者であると私は思っていますが。

お付き合いいただきありがとうございました。
ちょっと言っただけで、次から次へあーだこーだとどまることを知らず吹っ掛けられて、
後悔されたかもしれませんね(笑)
私もさしあたり言えることはかなり言いましたし、無理にレスを返していただく必要はありません。参考になれば幸いです。ありがとうございました。


【補足】
あと、細かいのですが、 >>49
>はい。この二つの対比ならばわかるのです。「私は話せない」も「私は話せる」も話しているので「私は話せる」が真ですよね。ですので「私は話せない」は偽だという事ですね。


という部分。
これは、あくまで私の説明の理屈が理解できているということを示すために、あえてこのように述べなおされたのだと思うので、おそらくは蛇足ですが、
「考える」を「話せる」に置き換えると、想定される主体が「思考する主体」から「話す主体」となって、「話す主体」の場合は物理的身体・客観的対象としての「私」という解釈が可能になってきます。
これはちと話をややこしくするので、ミス・リーディングにならないためにも、やはり「考える」「思考する」のほうがいいと思います。

1年前 No.52

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>時さん


念押しですが、今回あなたとのやりとりで私の書いたものは(リンクした別すれの部分も含め)、デカルトの著作を読み返して確認するとか、他の論者の著作を参照するとか、そういったことを一切せずに、ほとんどダーッと一気に書いたものです(私はこういう場所をそういうトレーニングの場と位置付けていますので)。
ですから、知識・情報としての正確さについては本当に信用なさらないでくださいね。

1年前 No.53

★xxU1wFhZkn_VuR

>>52,53  ザビビのふくろうさんへ

> >当時、デカルトは「実体としての我」を導いたのですよね?と言う事は、デカルトは文法的錯誤をしたという事でしょうか?


> はい、デカルトを批判する立場からは、そうであると言えると思います。


了解しました。

> いずれにしましても、デカルトは著作の幾つかの箇所で少し異なるコギトの説明を行っており、

> 哲学の常ですが、解釈も唯一とはいかないと思います。

> ですから、デカルトの本当の主張はどうであったかということについては私も責任を持って言えるわけではありません。

> 私はその意味で、代表的かもしれませんが、ひとつの解釈を示したにすぎないとご理解ください。


デカルト本人の説明が少しずつ異なっていれば、色々な解釈が出てきて当然ですね。

> と、まあ、理屈をこねてみました(笑)


なるほど。このようになるのですね、確かに理屈のゴリ押し、こねまわしですね(笑)日々の哲学掲示板での議論が白熱するのが分かるような気がします。

大変勉強になりました。お付き合いありがとうございました。

1年前 No.54

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

以下述べることは基本独り言。
出発点は次に挙げる時さんのレスの言葉にあるが、時さんに向けて書くのではないのでご了承願います。

>確かに理屈のゴリ押し、こねまわしですね(笑)日々の哲学掲示板での議論が白熱するのが分かるような気がします。( >>54 )


これは、私が >>26 において
>いわば「理屈(ロゴス)のゴリ押し」「理屈をこねまわすこと」が哲学の本質であると言えると思います。


と述べたことを受けて書かれている。私が言いたかったのは、むしろ、その前の
>むしろ一つの典型は、我々が正しいと信じて疑っていない事柄について、本当にそうだと言えるのか、確実だと言えるのか、「あくまで理詰めで答えを出す・説明する」というのが哲学です。


ということなのだが、まあ標語的にわかりやすい気がしたので「理屈(ロゴス)のゴリ押し」「理屈をこねまわすこと」と言った。
しかし、この表現はやはりミスリーディングなのかもしれない。
というのも、日々この哲学掲示板での議論が白熱するのは、ほとんどの場合、理屈のごり押しではなく、「理屈にならないことのごり押し」だからと私は思っているからだ。
理屈のゴリ押しとは、いわば論理を一貫させることであり、自己の主張を論理に従わせることだ。
徹底的に論理的であらんとすること、と言ってもよい。
ところが、例えば、「善の定義」スレのスレ主は、単に自分のドグマをゴリ押ししているにすぎない。自分が絶対正しいと思ってるから絶対正しい。彼の言い分の根拠はこれに尽きる。
論理、道理すら彼の思うのが論理、道理である。
よって、全く彼は理屈のゴリ押しではない。
また、このスレでも板杉君(仮称)という人が哲学や私を侮蔑する発言を繰り返しているが、
そこに何の理屈も見出すことはできない。
私は過去に彼の発言を無意味、ナンセンスだと言ったが、彼は、それを自分への蔑みだと思っている。
しかし、そうではない。
私は彼の発言が、真偽を問題にする以前に内容がない、評価に値する価値がないという意味で無意味だという事実を、ちゃんと理由つきで述べたにすぎない。
彼はけなすことと、批判の違いすらわかっていないのだ。
例えば、彼は実存主義をひとくくりして幼稚だと言うが、実存主義哲学の誰の思想のどの部分が、どのような意味で、どのような理由に基づいて幼稚であると言えるのか、全く述べない。
その限り、自分が幼稚と思うから幼稚だと言ってるに等しい。
「善の定義」スレのスレ主と同レベルである。
したがって、もちろん、論評のしようがない。
彼はそのことにすら気づいていないのであって、幼稚と言うならその無自覚が幼稚だろう。
自分が幼稚だから幼稚な理解しか得られないということに何ら気づいていない。
まともに相手になってあげられるのは、保育士の有資格者である百理さんくらいだろう。
私はそれが見るに忍びないほどイタ過ぎると思うので、「板杉君」と仮称することで優しく指摘してあげているつもりなのだが、彼は「蔑称」と受け取っているらしい。ま、仕方ないか(笑)

ということで、私のいう「理屈のごり押し」「理屈のこねまわし」は、単に「ドグマのごり押し」とは全く異なるものなので、ミスリーディングかもしれないが、そのへんご理解よろしく。

1年前 No.55

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>55

>保育士の有資格者である百理さんくらいだ


これ、私が勝手に言ってるだけで、何の根拠もありません。
プライベートなことに関して誤解をまねくことを言ってしまい、すみません。

百理さん、ご迷惑かけて申し訳ありません。m(__)m

1年前 No.56

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ふくろうさん

何かザビビの時と雰囲気が違いますね・・

私も昔とは違います。哲学の内容も焦点が絞れてきました・・話し言葉ももう保育士の話し言葉を辞めました。

何故か絡まれるのは子供の心を持った方々なのでしょう・・

1年前 No.57

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

ふくろうさん
>>55
「板杉君」という呼称はやめてもらえないかい?
もうきみの事は何も書かないから。

1年前 No.58

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

一級保育士百理様
>>38 の質問に答えてください

1年前 No.59

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

ふくろうさん
あと、哲学の批判ももうしないよ。
適当に書いただけだしね。

1年前 No.60

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ヒコ太郎さん

38はフィルタされて読めません・・それと幼稚園教諭は二級しか持っていません・・もうこりごりです・・餓鬼としか言いようのない子供集団・・

1年前 No.61

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>61
哲学のどこに憧れたのですか?
という百理様への質問です。

1年前 No.62

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ヒコ太郎さん

それは一冊の本になるくらい長い話になります。簡単に2〜3行にしますが・・その前にヒコ太郎さんの心に憧れというものはありますか?

憧れが無い場合は、理解できない個所があるかもしれません・・

1年前 No.63

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>63
私は上に、今の哲学に対する憧れはないということを書きました。
簡単に2〜3行で収まるならそれでも構いませんよ。その程度の思いなら。

1年前 No.64

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ヒコ太郎さん

たった一行に総てを込めるのが真理の醍醐味です。

1年前 No.65

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>65
それならば別に一行でも構いませんよ。

1年前 No.66

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ヒコ太郎さん

暗闇に一灯を掲げて歩けと習いました。その一灯が真理です。多くの先人が求めてやまない真理を私も憧れます。

1年前 No.67

ヒコ太郎 @hikotarou ★agBjffSqMl_giC

>>67
ありがとうございます。

1年前 No.68

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>我々が正しいと信じて疑っていない事柄について、本当にそうだと言えるのか、確実だと言えるのか、「あくまで理詰めで答えを出す・説明する」というのが哲学です。


理詰めで(ratinonal)或る事象が本当にそうだと言えるかどうかを説明する(reason)ということは、その事象がそのようになっていることの根拠(reason)を提示することだ。

理屈のゴリ押し( >>26 )は、ゴリ押しであるからには、強制であり暴力である。ただこの暴力性というのは、例えば、相手が勘違いをしたまま話をしている時に相手の話を止めて、相手の勘違いを正し、本当のところを教えるときの無理矢理さに似たものだ。相手からすれば、「話してるのに制止された」と一瞬だけ怪訝になる。しかし指摘する側からすれば、相手が勘違いに基づいて話すことによってこれ以上時間を無駄にしないようにしているだけなのだ。相手も、自分の勘違いに気づいたら、むしろ話の腰を折られたことについて感謝するだろう。

しかし自分が勘違いしているということに思い当たらないヤツらも存在している。そういうヤツは、自分の話が否定されたという印象どまりで、自分が本当にされていることに想到しない。勘違いしたまま暴走して長文を書いてしまう。

この暴走が、議論する2人の間に相互的に起こっているとき、議論は見かけの上で白熱する。その議論の内容は、自分がなぜこういうことを言っているかの根拠(reason)を相手に見えるようにしようと、互いが互いで努力するというものである。2人は互いに同じ話をしていると思い込んでいるのだが、実際には2人はそれぞれまったく違う話をしているというパターンである。こういうときには、話はその先端だけ(…例えば短い質問に対して返答がなされる等)が接触するも全体的にはまったく噛み合ないものとなる。だから「見かけの上で」と言うのだ。真剣がぶつかり合って火花が飛ぶどころか、互いが互いに背を向けて一所懸命素振りをしている。

最初の話に戻ろう。理屈のゴリ押しというのは、ある事柄がそのように有ることがどのようにして可能になっているのか、その経緯を示すことであり、その経緯とはすなわちその事柄がそのようで有ることの根拠に他ならない。「どのようにして?」という疑問詞を、かっこつけてドイツ語で言うならば「Inwiefern? 」である。これは「in-wie-fern」であり、その意味としては、《どこまでの射程において?》《どういった限界において?》というものとなるだろう。そしてこの答えとして出されるのは、根拠である。ただしこの根拠提示は、この根拠からしてどのようにして当該事象にまつわる様々なことが互いに整合するに至るのかの提示に他ならない。すなわち、理屈のゴリ押しによる説明は、いかにして当該事象にまつわる複数の契機が整合的に噛み合うかの説明であり、整合性の提示でもある。

>自分が絶対正しいと思ってるから絶対正しい。彼の言い分の根拠はこれに尽きる。


私からすれば、これはこれでよろしい。ただしもしそうであるならば、彼の言い分の説得力もこれに尽きるということになる。すなわち、正しさの根拠が彼の信念であるとすれば、その正しさに意味がある範囲(in-wie-fern)というのは、《彼を信じる限りで》といったものに限定される…という意味だ。

理屈のゴリ押しは、話の有限化である。何が有限化されるかというと、その話の効力が及ぶ射程である。どのように有限化されるのかというと、《提示された根拠の上で》という限界によってである。このように有限化に寄与する根拠をひた隠しすることが、話に無限のパワーを与える秘訣であり、そのようにする限り、論破されることはない。

>我々が正しいと信じて疑っていない事柄について、本当にそうだと言えるのか、確実だと言えるのか、「あくまで理詰めで答えを出す・説明する」というのが哲学です。


これはすなわち、自分が《絶対に正しい》と思っていることが、実は《条件付きで正しい》ということであり、そして…《条件付きで正しいということは別に間違っているということではない》ということだ。条件付きで正しいのであるにも関わらず、その条件性(Bedingtheit)を隠して、自分の論の正しさの絶対性(Un-bedingtheit)のみを主張することが、「ドグマのゴリ押し」である。「ドグマ」とは「教条」を意味するが、ひとつ注意したいのは、ドグマが全く無根で無内容だとは限らないということだ。ドグマには有限的な内容はあるに違いないし、そうでなければ、そのようなドグマがそのように定められることもなかっただろう。しかしドグマがドグマたる由縁というのは、自分のパワーの根拠となる自分の出生地を隠して、この隠蔽によって無制限(unbedingt)に支配しようとする意志である。

こういったドグマを打開して、そのドグマにそのドグマ特有の重みを与える(そのドグマを“軽量化”する)ためには、そのドグマの根拠を提示しなければならない。

この説得(Reason)は、ひょっとすると、自分の無制約性(Unbedingtheit)を勘違いしている相手に対して、その勘違いを正すことであるかもしれない。これは他ならぬ、相手に対して自らの有限性を自覚させることに他ならない。





なぜ理由がなければならないか?
なぜ整合的でなければならないか?
なぜ本当にそうだと確信できるようでなければならないか?

不当な支配に抵抗するためだ。
物事をはっきりさせることによって、物事を曖昧なままにしておくことによって権益を得る者は、権益を得られなくなる。
不当な絶対的主張は、根拠をはっきりさせることで、その有限な有力と有限な無力とを暴かれる。
哲学者はそれを使命に思っているかのごとく、不正の正体を暴いてゆく。

1年前 No.69

てじ @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

>>69

(承前)

だから哲学はダメだ。結局、既得権益を得ている者に対する羨望でしかない。

したがって、今あるものの整合(ないし不整合)を説明する哲学に代わって、今ある整合性よりももっと整合的な接合構造を創造しようとする活動が生まれなければならない。

>哲学者たちは世界を解釈しただけだ。問題は、世界を変革することなのだ。


哲学をマスターするというのは大前提であり、これすら踏めない者は自分の絶対性に素朴にないし狂信的に酔いしれるのみである。
哲学をマスターすることで揺らいだ全ての常識を、(厳密に文字通りの意味で)根底から、再構築しなければ、哲学した意味がない。実際デカルトも常識を揺るがせた上で、その揺らぎの根拠である「cogito, ergo sum」から確実な思想を建築しようとした。

哲学によって常識の根拠が疑われること(絶対性が揺らぐこと)それ自体の意味を疑わなければならない。この揺らぎは、変革の可能性の示唆である。哲学は、科学は、芸術は、変革可能性の示唆であり…変革のために存在する。それなのに、哲学して変革しないもの、科学して変革しないもの、芸術して変革しないものというのは、無駄だ。そういったものはすべてニヒリストであり、哲学の小さな杯を満たすだけで満足するようなものだ。哲学の杯を飲み干して、「さて!」と決起することがない。

こういった変革可能性がはっきり見えてしまうとナチスに入党したりしてしまうのだが、それほど哲学は変革を予感させるものだ。無や不安も変革のためにある。変革はより良くなるためにある。明らかに、より良くなることは善いことだ。しかし、より良くなるためには、現状よりも滞る一時期を過ごさなければならない。慣れているやり方から合理的やり方へと移行するためには、慣れていない合理的方法を慣れていないまま一時期採用する必要がある。ブラインドタッチを改めて覚えるためには、自分の手癖を封印して、しばらくは戸惑いながら従来よりも遅くタイピングしなければならない。

だが真の困難は、現状のブラインドタッチのやり方よりももっともっと効率的なタイピングの方法を発明することの困難に似ている。これはもはや、キーボード自体の形態の改革となるにちがいない。ところが、このキーボードの配列自体十分に考えられた上で作られたものである。思考の困難は、十分に考えられて作られたキーボードの形状および配列を一回すべてばらばらにした上で、タイピングという事象に即してそれを再構築することの困難に似ている。もちろん私は「エルゴノミクス・キーボード」を念頭に置いている。

しかしこれはキーボードと身体という既存の関係に即したデザインである。
これは本当に文字入力行為それ自体に即したものであるのか?
しかし明らかに、この時点からデザインするというのは非効率的である。だが一方で、キーボードという既存のデザインに基づくことによって決定的に失われた可能性があるかもしれない。

そして今はキーボードの話ではない。人間の思想においても、或る既存概念に基づくことによって決定的に失われた人間の可能性があるかもしれない。生活においても、既存の生活様式を続けることによって決定的に失われた可能性があるかもしれない。現にいまの生き方が、本来は豊かな可能性の廃棄であるかもしれない。

なぜ既存の概念や方法を疑うのか?

私が思うに「ひょっとして損しているのではないか」という不安があるからだ。哲学への意志は、エコノミーへの関心に基づいている。それなのに、哲学をやりつつ非“経済”的に振る舞うというのは、深いところで、自己矛盾している。哲学は人間の本来あるはずの豊かな可能性を復活させるための道具であり、能力増大活動に移る前段階のステップである。

哲学者は、形而上学は人間の本性に属していると言うが、超えられるべきはこのような人間である。

1年前 No.70

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

哲学は、損得勘定をする人には無理です・・

知への愛は、計算や理屈ではないのです・・

1年前 No.71

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>58

オーケー

1年前 No.72

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

最近、こう言えないかと思っていること。

【ふくろうのテーゼ】
 論理は哲学における倫理である

1年前 No.73

Ria @einth ★Android=UvgIQMjHsV

哲学に興味があるただの素人です。

>>73
論理は哲学における倫理である

不勉強の為哲学に対する認識誤りがあるかもしれないです。その場合は該当箇所をご指摘お願いします。
この投稿内容は全面的に取り下げます。

多分哲学に疎い人で結構思ってる人少なくないと思ってるのですが、
倫理観として「なにがあっても人を殺してはならない」
ところが哲学というのは、
「本当に人を殺してはならないのか?」
といわば疑い、論理的に解を導きだすんですよね?
得る結論は必ずしも「やはり殺してはいけない」とは限らないと思います。
なので自分は哲学は倫理と対極的に映ってしまうし恐ろしい学問に感じてしまいます。

1年前 No.74

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>74 Riaさん

質問は、いわば論理至上主義の哲学は、普通の社会倫理・道徳を破壊することさえいとわない恐ろしい学問なのではないか、ということですね。

確かに哲学は通常社会で人が疑うこともなく正しいと前提されていることに対して懐疑の目をむけるので、生きていくうえで拠り所となっているものさえ確信が持てなくなってしまい、非常に不安定な状態に陥ることはありうると思います。
しかし、倫理というのは、幸いと言うべきか、残念ながらと言うべきかわかりませんが、数学のように論理だけではけして片付かないんですよね。
倫理的問題に対する一般的解法、公式は存在しません。
カントの言う定言命法といった原則はありえますが、形式的な指示を与えうるだけで、具体的場面でどうすべきかを論理や一般法則だけで決定することは無理なんですね。
ですから、哲学だけで倫理を破壊してしまうことはないと言ってよいと思います。
くれぐれもこの掲示板の別スレ「善の定義」などを見て、哲学などと思わないでください。
そこのスレ主のやってるのは哲学でも倫理学でもありませんから。

しばらく前にNHKで放送された『サンデル教授のハーバード白血教室』でしたか、流行ったのをご存じですか?
はっきりは知りませんが、今でもネットで動画が見れるのじゃないかなと思うんですけどね。
これは「正義」について、様々な具体的問題が論じられ、倫理的問題、正義とは何かが活発に議論されます。書籍化もされています。
実際に哲学が倫理的問題にどのようにアプローチしているかを知ることができますので、ご覧になったらいかがしょうか。
そうすればそういった先入観―あえて「先入観」と言いますが―は払拭されるんじゃないかと思います。

1年前 No.75

Ria @einth ★Android=UvgIQMjHsV

ザビビのふくろう様

>>75
ご回答と沢山のヒント頂いて心より感謝します。ありがとうございます。自己反省、自己見解を交えた上で前回の投稿は哲学というものをある側面のみからみた先入観(この表現すごく適切だと思います。)、偏見、そして理解不足ということで間違いなさそうです。
これ以上の駄文はご紹介頂いた書籍を読んでからでないと失礼だと思いますので今回はこの辺でm(__)m

最後に、大変感銘を受けたのは哲学の難しい用語など一切用いず大変理解しやすくご説明頂けたことです。
子供でさえ理解し納得する程に!

1年前 No.76

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>76  Riaさん

よかったです^^

調べたら、次のサイトで動画と、テキストも読めますので、本の前に、検索して、先にぜひ一度ご覧になることをお勧めします。

JUSTICE 第1回「殺人に正義はあるか(想像編)」「殺人に正義はあるか(実例編)」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室


それと、マイケル・サンデルの著作は、白熱教室の講義録と、それとは別に
『これからの「正義」の話をしよう』
という本もありますが、後者は一応基本テキストですが、慣れていない人にとっては少し硬く、難しく感じるかもしれません。
講義のを見るなり読んでから、それを整理してきちんと学びたいともし思ったら、そのときに、
『これからの〜』は読まれたほうが無難かと思いますよ。

参考まで。

1年前 No.77

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉44、

なめてませにょ。あなたの勝手な味覚ね。

ふくろうをなめたたら、スウィーツ味?

だったら、ナメてもいいけど?

1年前 No.78

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>78

ん?勘違いしてない?
私、あなたがなめてるなんて言ってないよ。

それになめられてる対象も、私じゃなくて哲学だから。

1年前 No.79

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>70  てじさん

質問ですが、最後のところで「越えられるべきはこのような人間」と言われているのは、

>哲学をやりつつ非“経済”的に振る舞うというのは、深いところで、自己矛盾している。


そのような人間てことですか?

1年前 No.80

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>70  補足です

つまり、 >>71 で百理さんは、てじさんがエコノミーを肯定していると理解して批判してるけど、さしあたりその理解自体は間違ってないんですかね?

1年前 No.81

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

ふくろうさん

てじさんは、マンガの本を読んだ事が無いのかもしれない・・

ちなみに私は小学校の3年生の頃から別冊週間マーガ○ット少女フ○ンドなかよしりぼん読み漁りましたから・・

芥川龍之介さんが本屋で一冊読むのに5分とかからないって書いてありましたが・・あれ解ります・・私も今の漫画本一冊5分で読みます・・

てじさんの本を読む範囲が・・狭いので・・

1年前 No.82

悪魔ちゃん ★30JjgxOVKX_ZFe

〉79、

失礼しました。

1年前 No.83

削除済み @shinwood ★mjl0ItnnrE_VuR

【この投稿は”管理者-kotori-”により削除されました】 削除者: ことり☆リーダー ( 2018/08/11 23:20 )  削除理由: 迷惑行為(文字羅列・無断転載・AA・チェーン・宣伝など)

1年前 No.84

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

無駄に対する怒りがエコノミー。

無駄なことしてる全ての人間が踏みこえられるべきです。

何が無駄かって、禁欲主義的に言えば、金儲けと肉体的快楽の追求だ。

しかし禁欲主義も、禁欲に価値を見出して、禁欲を追い求めるという、本当に無駄なことをしている。

哲学すると、金も快楽も名誉もどうでもよくなるような価値に気づく。哲学なんて無駄だって言う話とは逆です。幸運にも哲学したのに何やっとんの?って話です。宗教もそうです。せっかく神的な存在を確信したのに、何やってんだって話です。

人生は何のためにあるのか?というのが人生論のレベルだとしたら、人間の可能性を可能な限り希望の持てる方向へと拡張させるという目的があるのに、何してんだ、てめーは、というのがエコノミーのレベルです。

哲学は人生に意味など無いって言う。意味なんて無くていいんだと言って、すっきりさせてくれます。非俗な心性を持ってる人にとって拠り所になる。肉体的快楽を求めなくてもいいんだ、やったーって。エコノミクスにうんざりしている人もいるわけだ。

ただ、エコノミーというのは、人間を超えてゆくことです。「エコノミー」って言葉は不適切かもしれん。「無駄に対する怒り」です。

哲学することは無駄じゃないのに、哲学を無駄なものとして肯定する(無駄でもよいのだと肯定する)という精神がダメだ。哲学は最大級に有益なのに、それの有益性をまるで活かさないのは無駄だ!

そして哲学の有益性を最大限に活かそうとしたら、それはもはや哲学の形態を取らない。哲学は完全に人間の活動に吸収されて、言葉を巧みに組み立てるという様式は捨て去られる。

哲学はやはり言葉の世界です。言葉が大事。何といっても言葉です。しかし、子供でも、言葉だけじゃダメだって知っている。しかし、言葉だけの哲学はダメだって話ではない。哲学だけではダメだという話です。すなわち、哲学の中で哲学だけで自足していても何ちゃあならないという話です。

私はほぼ自分自身に向けて言っている。

たしかに哲学は、それだけで満足できる、永遠に遊び続けられる遊び(自己目的的な行為)になりうる。でも哲学は遊びじゃない。人間の業務だ。

1年前 No.85

てじ @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

私は漫画を読みます。ちょぼらうにょぽみとかGヒコロウとか四コマ漫画も読むし、『ベルセルク』も『GANTZ』も『刃牙道』も『ジョジョの奇妙な冒険』も読むし、萩尾望都もさくらももこも読むし、手塚治虫もつげ義春も読むし、成年向け漫画(道満晴明、雨ガッパ少女群、らっこ等々)も読みます。氏賀Y太も玉置勉強も読みますし、CLAMP『XXXHOLIC』とか『20世紀少年』も『スクールランブル』も『寄生獣』も『進撃の巨人』も読む。オノナツメ(basso)もkashmirも黒咲練導も読む。

芥川龍之介も川端康成も太宰治(ほぼ全作品読んでます)も谷崎潤一郎も武田泰淳も正宗白鳥も永井荷風も岩野泡鳴も読む。寺山修司も澁澤龍彦も夢野久作も、ドストエフスキーもバルザックもモースティンもマルキ・ド・サドも読む。金原ひとみも笙野頼子も村上春樹も岩井志麻子も読む。あと、片岡義男も読む。

哲学をやってみて、上の全ての経験がほとんど無(価値)になりました。善いのか悪いのか。しかし無価値化は積極的な出来事です。でも、心の中の出来事でしかない。つまり、何も変わってないに等しい。頭だけ変わってもダメです。能力も生活も良くならねば意味がない。つまり無駄。無駄をなくそうとするのがエコノミーの精神です。

1年前 No.86

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>84  shinwoodさん

どうして私に質問するのかな?
http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-562#a

>shinwood さんに説明して理解を得ようとすることは、

水溜まりで釣糸を垂れ魚を得ようとすることに等しいってことですね

って、私は言ったでしょ。
たまたまてじさんが >>85 で「無駄」について書いているけど、
私はわざわざ自分から無駄なことはしたくないわけよ。

とは言え、あなたのいないこのスレで、あなたを引き合いに出して勝手に批判したりしてる責任上、無駄を承知でとりあえず最低限のことを述べておくことにしようか。

あのね、私も別にサンデルの言うことに感動なんかしないし、もちろん彼が絶対正しいなどと思っているわけではない。
ただ、サンデルがやっているのは学問としての哲学であって、あなたのは単なるあなたの妄想だという根本的違いがあるわけだよ。
学問というのは公的なものであって、したがって正しさの基準も公的に認められるものでなくてはならないし、あたりまえの話「論理」も公的なもの(あなたは対偶の意味さえ理解していないのに自分の説は論理的だと言う(笑))。
ところが、あなたは次のように言っている。

http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-638#a
>以上のことで私は道理的、論理的に“絶対的に正しいことは種族保存である”と証明したつもりである。


これ、学問的基準で言えば全く論理的でも道理的でもないし、何ら証明にもなっていない。
あなたの言っていることが論理的証明になっていないということは論理的・客観的事実であって、あなたがどう思おうと、あなたが確信していようがいまいと関係ないんだよ。
つまり、あなたが証明といっていることは、学問的・公的には証明ではないわけ。
あくまであなたの私的・個人的確信にすぎないわけ。
他の議論参加者のほとんどがそのことをあなたに指摘しているのに、あなたは耳を全く貸さないし、「絶対正しい」というあなたの確信はゆるがない。
これ、すなはち、妄想です(笑)

結局あなたは、自分が絶対正しいと確信しているのだから絶対正しいんだと言っているにすぎないわけよ。
個人的信念・ドグマに過ぎないものを、自分の確信という根拠しかないのに、絶対的真理だと思っているわけ。
この絶対視というのは、本当は
http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-593#a
でセキララさんが指摘し、今回もちょっと待ってよさんが
http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-707#a
で「キケン」と指摘しているように、「アブナイ」心性だ。あなたはわかんないだろうけど。
こういった心性の人間はテロリズムまで直結しなくても常識からすぐ逸脱する思考に陥る。
だってさ、常識に考えてごらんよ。
マイケル・サンデルって「正義論」の専門家で世界的に有名な論客、そして世界有数の一流大学のハーバード大学で最も人気だという講義を行ってる哲学の教授だよ。
「善とは何か」といった倫理的問題について倫理学を勉強したことのない自分と、その道の専門家のサンデルの考えが異なったとしたら、ふつうは、自分が勉強していないから、知識不足、考え不足のためにひょっとして間違っているんだろうか?と考えるよね。
一般に、自分が確信をもってこうだと思うことが、その道の専門家と呼ばれる人の考えと異なっていたら、自分の知識不足で自分が間違っているのかもしれないという可能性を少なくとも考えるでしょう。
もちろん、その段階では勉強もしていないからサンデルが正しいとわからないし、信じる必要もないが、少なくもサンデルが間違っていると断定して、自分のが正しいと確信するなんて、普通常識的に考えてありえないと思うんだよね。
これは「公の視点から私(自分)を見ようとする」ということだよ。
shinwoodさんにはこの視点が欠けているんだよ。
「shinwood視点=公の視点」というあなたの絶対確信しかない。

例えば、次のようなところを見れば、いかにshinwoodさんが自分視点を絶対化しているか、笑えるくらい明らかだよ。
私の次の発言、
http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-325#a
>要は、子供が納得しようがしまいが、正しいのなら正しいのです。

に対して、あなたはこう言ってダメ出ししている。
http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-329#a
>丁寧に説明してもらいましたが、今一つ理解できませんでした。私が理解できないなら、ほとんどの人も理解できないでしょう。

>それでは結局「なぜ人を殺してはいけないのか」は説明、説得は難しいと言う事に落ち着く、つまり振り出しですね。また子供たちはなぜ?と質問を繰り返すしかない。


ところが、あなたに対するMobiusさんの次の発言、
http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-685#a
> shinwoodさんは、なぜ自分の考えが「常識的には誰でもみんな納得するような普遍的なものだ」と思うのですか?誰か納得した人が1人でも居るのでしょうか?

に対しては、次のように答えている。
http://mb2.jp/_tetsugaku/968.html-686#a
>小学生のみんな、いまフェルマーの最終定理を教えている最中だからもう少し我慢してね。


これ、何で私のにはダメ出しで、shinwoodさんの場合はダメ出しじゃないの?
shinwood=ワイルズって妄想ですか?
これを正当化できる理由があるとすれば、私の説はshinwoodさんが理解・納得できないからダメで、
shinwoodさんの説はshinwoodさん本人が正しいと思うから正しいという以外にないじゃん。
だけど、こういうのは、公の視点から言うと、「二枚舌を使う」って言うんだよ。

サンデルに限らず、学問としての倫理学を学ぶことは、自分がいかに確信していようがそれが間違いであることを認識しうる方法、主張の正当性を判断する客観的基準を学び、独断・偏見・妄想といった人が誰しも陥りやすい罠にかからないこと、その罠から自分を引き離すことを可能にする。
もちろん、 >>75 でも述べたが、倫理には価値が関わるので、論理だけでは倫理的問題は解決しない。
つまり、価値の問題である限り、完全に主観を排除することはできないので、完全に客観的方法のみで、あなたが考えているような、いついかなるときも倫理的問題一発解答!というような公式は存在しない。
だから学問としての倫理学を勉強したからと言って、すべての倫理的問題の答えを導く方法があるわけではないので、正義論における専門家であるサンデルがすべて正しい答えを知っているというわけではない。
なのでサンデルの講義で学ぶべきことはサンデルの思想が正しいということではなく、哲学的にこういった倫理的問題にアプローチする方法、価値の問題領域で論理的に議論するやり方を学ぶ、いわば「倫理を論理する」(高橋昌一郎)ことの一つのやり方を学ぶことだ。
その中で、もちろん十分ではないにせよ、こういった問題にアプローチする上で、過去の道徳の哲学者たちの思想がどのようにベースになっているかなど、倫理学において必須の基礎的知識も得られるし、そういったものをさらに学ぶ動機づけも得られる。
もちろんサンデルの講義が唯一いいわけではないけど、ネットで見られるし一般にも人気だったので勉強しやすい、とっかかりやすいと思って私はRiaさんにすすめたわけで、サンデルの思想が正しいと考えているわけではないんだよ。

ということで、shinwoodさんの質問に対する直接的答えにはなっていないけど、私としては一応きちんと答えたつもり。ご了承願います。

1年前 No.87

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>てじさん


レスどうも。
ここのところ、てじさんの考えと私の考えの違いについて考えていて、ちょっと気になったので尋ねました。
まだ、まとまったことは述べられないので、ちょっとつらつらと思いつくまま。

エコノミーについて尋ねたのは、現在私が少しずつ勉強中のレヴィナスがエコノミーを批判しているみたいで、それが結構てじさんの考えてることに当たっている気がするので、てじさんはそれを知ったうえで、意図的にあえてエコノミー肯定の考えを言ってるのかな、ということはてじさんはハイデゲリアンなのかなとか、まあ、そんなことをよくわからないまま思ったりしているわけです。

ウィトゲンシュタインは、哲学的問題は本来無意味とするが、それを概念・言葉の誤用に起因する知性のもつれだと言った。そしてそれが哲学的病気であるとも。
また、哲学はハエとり壺にはまったハエに出口を教えてあげることとも言った。
これは哲学的治療とも言えるだろう。
私の理解だと、本来無意味な問にとらわれて身動きとれなくなっている病気が、ハエとり壺から出られなくなっている状態であると。
私の場合、このハエとり壺というのは独我論的世界だ。
私はここから〈外へ〉出たい。
私にとって、哲学は結局そういうことだと思っている。
少なくとも、私にとっては、これを「エコノミー」というのは違う気がする。


てじさんは私にとってはびっくりするくらい漫画を読んでいるんだな。
私もいくらかは読むが、たぶん足元にも及ばない。
小説は三島由紀夫がなかったのはなんでかな?と少し気になった。
私は寺山にかなり影響を受けた。
いわば私の独我論を独我論として最初に気づかせてくれたのは寺山だった。
しかし、そこから出るには、私は文学的・芸術的才能がなく、
理屈でごり押しする以外にないと残念ながらわかってしまったのであった(;´Д`)
てじさんが積極的な意味とは言え、文学や漫画のほとんどの経験が無価値化したというのは私にはよくわからない。
私にとっては、文学や芸術は示唆的であり続けている。
それはしばしば私(プロクルステス)のベッドに収まりきらないからだ。
こういう一流の芸術家は、カリスマ思想家、たぶんニーチェやウィトゲンシュタイン、ハイデガー、レヴィナスといった人々と同じで、
いくら切り刻んでベッドに合わそうとしても“不死身”である。
こちらのベッドのサイズを大きくしていく以外にない。
しかし、収まり切れない。それがおもしろいのだ。

なんともまとまらない話。このへんにしとこ。

1年前 No.88

エコノミー @flyonbody ★iPhone=lGsaZGr5tu

>>88

返信不要

エコノミーという言葉は実験中。もう名前もエコノミーでいいや。私の勉強法は、かぶれてみること。かぶれて、全部信じて、喋り方も発想も真似して、エピゴーネンになって、そしてそれが身についたら、その自分を批判する。いまはエコノミーにかぶれる。

三島も読んでる。『禁色』とか『仮面の告白』。寺山でサドを知った。あと「モースティン」って言ってるけど、モーパッサンの間違い。

レヴィナスは読んだことない。『存在とは別な仕方で』だったか、読もうとしたが読めずそのまま。『時間と他者』も読もうとしてそのまま。ハイデガーは3年読んだ。そのハイデガーも、色んな箇所でもつれをほぐすということを言ってる。有名なのだと「現象学的破壊」、あのデコンストラクションの元になったやつ。ふくろうさんなら知ってるか。

ウィトゲンシュタインは分からない。『論理哲学論考』『青色本』「茶色本」講談社学術文庫の講義録2つ読んだが、何を問題にしてるのか分からない(cf. 道の手帖「ウィトゲンシュタイン」)。

私に言わせれば、哲学の問題が無意味で、その無意味なものに囚われてるのから脱出させるのが哲学なんだとしたら、哲学ってのは無意味なことに拘わないようにするものだ。

つまりエコノミーだってなる。無意味なことをしないで、有益なことをするのがエコノミーですから。

全然関係ないけど、ウィトゲンシュタインは自閉症だったという説があるらしい。4歳まで喋らなかったらしい。

文学や芸術は、私も分かんない。そして、芸術や文学が無価値になったと言ってるわけではない。文学や漫画の経験が無価値になった。つまり、読んで読んで年に100冊読んだよとか言ってる自分が無価値になった。文学への向き合い方がダメだった。年に1000冊読もうが、それで自分の何かが(良い方向に)変わらなければ、無だ。

全然わからないけど、ふくろうさんなら分かるだろうけど、ラカンがポーの『裏返された手紙』を読解してるとかあるんでしょう?そういう読み方が無価値だとは決して言えない。

要は、せっかく読むなら、そこから自分の可能性を増幅させるものを得なければ無価値だということ。私はつらつらと文豪の名前を並べたけど、そこから何も得なかったし、得ようとしてなかった。だからダメ。

プロクルステスの話をすると、私は元々ベルクソンから哲学に入ってるから…影に自分のポーズを合わせるというイマージュとか直観とかを思い出す。かぶれて学ぶ(まねぶ)というのにも関わる。

ベッドのサイズを大きくしなきゃということは、自分の可能性が(無理をすることで)大きくなるということで、これはエコノミーの観点からしてプラス。

自分のメジャーにおさまりきらないと思ってたものがしっくり来る時、それはそれまで自分とは外なるものだと思ってたものが実は自分を巻き込むものだったと判明する時だ。他における自己、自己に眠っていた他。弁証法。自己より大きな自己とか…こういうのをレヴィナスは嫌うんでしょう。

他者は未来であるとか。ハイデガーも「来るべきもの」のための「用意」と言ってるし、なにもかもMit-seinにしてしまうわけじゃないと思うけどね。ただハイデガーはやっぱりドイツ観念論的臭いが強いのか…ハイデガー自身も、現代思想はドイツ観念論の水準に達することはもはやないと言ってるし。

1年前 No.89

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

私は漫画を読んだことはテレビドラマくらいの感覚です・・

夏休みに一日中テレビの前でテレビ三昧の極楽の小学生時代の象徴ゲゲゲの鬼○郎♪お化けにゃ学校も試験も何にもない・・♪

そして一番為になったのはコロンボ警部の犯人をリスペクトしながら追い詰めていく理論展開・・あの物腰が大好きです・・

昔の純粋な少女漫画には男性漫画のような残虐さは無いです・・

1年前 No.90

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

ちょっと面白いので、少しつらつら続けてみる。

>私に言わせれば、哲学の問題が無意味で、その無意味なものに囚われてるのから脱出させるのが哲学なんだとしたら、哲学ってのは無意味なことに拘わないようにするものだ。

>つまりエコノミーだってなる。無意味なことをしないで、有益なことをするのがエコノミーですから。


うん、わかってる。だけど、うまく言えないが何か違う気がするんだよね(笑)
「エコノミー」っていうのにはものすごく違和感を覚える。
正確とは全然言えないけど、とりあえず直観的に言ってしまうと、エコノミーが大事っていうと手段としての学問、実学的学問に思えるが、哲学は非実学、虚学であって、自己目的的だって言いたくなる。
その限り、何か百理さんの味方をしたくなるというか・・・(笑)
前レスのときはうまく捉まえられそうになかったので述べなかったけど、上に述べたことと整合しそうにないのだが(笑)、この私の違和感を明らかにすることに、少しトライしようかな。

>文学や芸術は、私も分かんない。そして、芸術や文学が無価値になったと言ってるわけではない。文学や漫画の経験が無価値になった。つまり、読んで読んで年に100冊読んだよとか言ってる自分が無価値になった。文学への向き合い方がダメだった。年に1000冊読もうが、それで自分の何かが(良い方向に)変わらなければ、無だ。


こういうてじさんの発言を読むと、それがてじさんにとって適切かどうかは別として、私の理解としては、「結局、文学や漫画の経験が真の教養として身につかなかった。そういう向き合い方がダメだった」というふうに言ってるように思える。
今現在、哲学の一般教養としての意義については私はけして否定的ではない。
しかし、自分にとって哲学はけして教養ではない。
いわば、気づいたら水底に沈んでいて、水上の光の世界を目指して浮き上がろうともがきながらつかむ藁みたいなものと言ったほうが当たらずと言えども遠からず。
エコノミーで言えば、まず、哲学なんかしないで済むのが一番いいと思うわけ。水底に沈没していないってことだから(笑)だからわざわざ水辺に近づかないほうがいいかと。
哲学を病気に喩えるのが完全にしっくりくるわけじゃないけど、とりあえずその観点から述べると、要は、哲学なんかしないのが一番だけど、自分の場合は気付いたときにはもう哲学的病気なんだから、それを治すため(浮き上がるため)に仕方なくやるわけだね。その限り、もちろん治癒という有意義性を求めてはいる。
哲学の場合、他の科学と違って、完全に確立して一般化された治療法があるわけではなくて、自分に合いそうな治療体系、まあいわば東洋医学か西洋医学か、みたいな選択があって、私の場合、分析哲学、とりわけウィトゲンシュタインの方法が効きそうだと思った。あるいは、このやり方でなければ、本当には自分を治せないだろうなという予感がしたというか。
でも、本当は病気を治せるなら何でもいい。
したがって、基本的には何でも効きそうな気がしたら試してみる。なので私の場合、てじさんの
>要は、せっかく読むなら、そこから自分の可能性を増幅させるものを得なければ無価値だということ。私はつらつらと文豪の名前を並べたけど、そこから何も得なかったし、得ようとしてなかった。だからダメ


というようなことを思うことはない。余裕がないというか。
治療に何ら効果が得られない=無価値なら、そもそもそれがわかったらそれ以上読む気が失せるし、というか読めない。
読めるということは、何か効きそうだと思うから読むので、そして読んだにもかかわらずやっぱり治らなかったというのなら、がっかりはするけど、それを反省的にダメ、みたいには思わない。結果的に効果がなかったのは残念だけど、効くと思ったから読んでみたわけで、それでも治らなかったなら、それは仕方ないというか。
「そこから自分の可能性を増幅させるものを得なければ無価値だ」と言われても、そりゃそうだけど・・・って感じ。わかってもらえるかどうかはわからんが(笑)

だけれども、こういった治療法というのは、ただ薬を飲んで効くってものではなくて、
それなりの自分の生活態度(思考法)を換えるとか、運動するとか、基礎体力を身につけるとか、そういったことが要求されるので、結局その治療法を実践するにはこちらの基礎体力みたいなものが不足している場合が多いので、それがわかったら少しずつでも基礎体力をつけるようにする。
さっき水底から水上を目指すことに喩えたけど、今度は山登りにたとえてみる。
ある山の山頂まで登れば、そこの空気や環境・風景を見ることによってか、あるいはまたその登山という行為を通してか、病気が治癒されるようだけど、そこまで上るにはかなり基礎体力を必要とする、という感じかな。
まあ、これが自分のベッドを広げていくことで、てじさんもこれをしなきゃ意味ないって言っているのだろうが、そこまで本気で取り組む気にさせる思想家ってなかなかいないように思うんだな。
私の場合は、それがウィトゲンシュタインだった。
ハイデガーやサルトル、メルロ・ポンティ―、レヴィナスだったら最低でもフッサールまでさかのぼるとかね。

結局、ここまでの考えてきた方向で言えば、哲学は哲学的病からの治癒、すなわち「健康」を求める試みであることになる。
じゃあ、健康ってなんだ?ってことが問題。
さしあたりそれは、ウィトゲンシュタインが次のように述べた状態だろう。

T.6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け―その上に立ち―それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てなければならない。)
私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。

アプローチの方法は違えど、「世界を正しく見る」、この目的そのものは現象学の「事象そのものへ」とそんなに違うことを言ってるわけじゃないと思う。私はサルトルがアロンから現象学について聞いて蒼ざめたというエピソードが、すごくわかる気がする。
ただ、私の場合はウィトゲンシュタインに「ヤラれた」ということ。

次回はまた、この「健康」とからめて、ちょっと異なる角度からてじさんの言うエコノミーについて考えてみる。

1年前 No.91

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>私が思うに「ひょっとして損しているのではないか」という不安があるからだ。哲学への意志は、エコノミーへの関心に基づいている。それなのに、哲学をやりつつ非“経済”的に振る舞うというのは、深いところで、自己矛盾している。哲学は人間の本来あるはずの豊かな可能性を復活させるための道具であり、能力増大活動に移る前段階のステップである( >>70 )


このてじさんの発言、特に
>哲学は人間の本来あるはずの豊かな可能性を復活させるための道具であり、能力増大活動に移る前段階のステップである


というところ。さらに
「人間の本来あるはずの豊かな可能性を復活させるための道具」というところ。
ここから読み取れるのは、「本来所有しているもの」を「失ってしまっている」状態から、「復活させる」、すなわち「取り戻す」という考えである。
これはイデアを「想起」すると考えるプラトン的考え方だ。
「失ってしまっている」から「損をしている」わけであり、それは「本来自分のもののはず」という前提がある。
つまりは、本来自分のものであるのに、失ってしまっている状態にあるものを、再び取り戻すこと、それが哲学だと、こう言ってるわけだ。

「君は未知へ行くのだね!」と羨望の思いをこめて殺人者は問うのだった。
「未知へ?君たちはそういうのか?俺たちの言葉ではそれはこういう意味なのだ。―失われた王国へ。・・・・」
海賊は飛ぶのだ。海賊は翼をもっている。俺たちには限界がない。俺たちには過程がないのだ。俺たちが不可能をもたぬということは可能をもたぬということである。
君たちは発見したという。
俺たちはただ見るという。
 海をこえて海賊はいつでもそこへ帰るのである。俺たちは花咲きそめた島々をめぐるとき、その島が黄金の焔をかくしているのをかぎつける。俺たちは無他だ。俺たちが海をこえて盗賊すると、財宝はいつも既に俺たちの自身のものであった。生れながらに普遍が俺たちに属している。新たに獲られた美しい百人の女奴隷も、俺たちを見るや否やいつも俺たちのものであったと感ずるのである。創造も発見も、「恒に在った」にすぎないのだ。恒にあった。―そうして無偏在にそれはあるであろう。
 未知とは失われたということだ。俺たちは無他だから。

 海であれ、殺人者よ。海は限界なき有限だ。玲瓏たる青海波に宇宙が影を落とすとき、その影は既にあったのだ。(三島由紀夫『中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』より)

ニーチェに影響を受けていた18歳の三島が書いたというこの文章は、殺人者(詩人)と海賊(行動者)との対話の部分だ。これは、てじさんが引用したマルクスの
>哲学者たちは世界を解釈しただけだ。問題は、世界を変革することなのだ。

とも呼応する。
そしてこれは『存在と時間』の時期、ナチスに期待を賭けたハイデガーの夢でもあったのではないか。
そしてエコノミーの思想はまさにこれらに一致するのではないか。

そして、私が思うに、その本質を18歳の三島が正しく見抜いた「無他」、すなわち他を持たないという点を、まさに西洋形而上学の本質としてレヴィナスは批判した。
これは要するに独我論批判だと思うのだ。

 殺人者よ。花のように全けきものに窒息するな。海こそは、そして海だけが、海賊たちを無他にする。君の前にあるつまらぬ閾、その船べりを超えてしまえ。強いことはよいものだ。弱者は帰りえない。強いものは失いうる。弱者は失わすだけである。向うの世界が彼らの目には看過される。(三島、前掲書)

エコノミストにとっての、てじさんにとっての「健康」とは、海賊の言う「強者」をそれたらしめるものだろう。
私にとっての健康は違う。というのも、私は一度も健康であったことがなかったから。
私は気づいたときは常に既に病気だった。生まれつきの病気だった。
私にとって本来健康は取り戻すべきものではなく、それは未知の未だ来たらざる領域なのだ。

殺人者は黙っていた。とめどなく涙がはふり落ちた。
他者との距離。それから彼は遁れえない。距離がまずそこにある。そこから彼は始まるから。(三島、前掲書)

無意味に対する怒りは理解できる。
しかし、それは「損」だからではない。
それは私を世界から隔てるものであり、私にとっては悲しみであり苦だからであり、やっぱり私にとっては諸悪の根源なのか?(笑)

>自分のメジャーにおさまりきらないと思ってたものがしっくり来る時、それはそれまで自分とは外なるものだと思ってたものが実は自分を巻き込むものだったと判明する時だ。他における自己、自己に眠っていた他。弁証法。自己より大きな自己とか…こういうのをレヴィナスは嫌うんでしょう。


これ、私の発言がミスリードしているかもしれないので、てじさんに、ぜひすすめたいのは、
内田樹『愛の現象学』(文春文庫)
です。これはエッセイ形式で書かれたもので、最初にテクスト論があって、プロクルステスの話とも関わることが詳しく書いてあって、てじさんにもきっと面白く読めると思います。間違っていたら・・・ゴメン(笑)

ま、今エコノミーにはまっているそうだし、思い出したら本屋で立ち読みでもしてください。もちろん、スルーしても結構、プレッシャーに感じる必要はありません。

1年前 No.92

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

哲学は心の処方箋には向いていませんが背骨を正すのに向いていると思います・・

哲学科の同級生の子が50歳を超えて結婚しました・・

教師をしていて女子がはしたないので辛いと言っていました・・何故今までしなかったのか疑問です・・

長い目で見ると哲学科の子の方が末広がりの知性です・・

頭を使わないと病院の言いなり・・こんな子がなんで入退院して障害年金もらっているのだろうと思う感じのヤンキーの子もいます・・

1年前 No.93

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

東京は蟻地獄で次々に人が落ちていくと記事がありました。

本当だと思います。

私の同級生の男子の東京六大学に行った商学部や法学関係の人はもう死んでしまいました・・

1年前 No.94

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

>>93  百理さん

>学は心の処方箋には向いていません


いや、そうでもないみたいよ。
「プロザックよりプラトンを」って言って、哲学カウンセリングというのが今はあるのよ。

1年前 No.95

百理 ★5n9Jhh5DYh_VuR

カウンセリングについて無知ですみません・・

私の好きな薬師丸ひろ子さんはカウンセリングを受けているとテレビでおっしゃっていました・・

仕事を辞めたい時に辞めていいよと言ってくれる人がいないと薬師丸さんみたいにカウンセリングに・・

テレビでソプラノ歌手に薬師丸さんと似た感じの人が・・きっとカウンセリング受けていると言う感じ・・ギリギリ限界の感動があります・・

1年前 No.96

エコノミー @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

全然関係ないけど私とザビビのふくろうさんのファーストコンタクトはこれです→ http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-634,635,640,642,643,644,648#a

>エコノミーが大事っていうと手段としての学問、実学的学問に思えるが、哲学は非実学、虚学であって、自己目的的だって言いたくなる。


そこを私は否定している。哲学は自己目的的なものではなく、人間が従来の方法の奴隷になることから脱するための有効な手段である…と。

>「結局、文学や漫画の経験が真の教養として身につかなかった。そういう向き合い方がダメだった」というふうに言ってるように思える。

その通り。私はダメだった…という話。

>今現在、哲学の一般教養としての意義については私はけして否定的ではない。

私は非常に否定的である。

>いわば、気づいたら水底に沈んでいて、水上の光の世界を目指して浮き上がろうともがきながらつかむ藁みたいなものと言ったほうが当たらずと言えども遠からず。

私から言わせれば、それって哲学が「手がかり」であるってことだよね?すなわち哲学って、水底から浮かび上がるための手段だよね?と言いたい。
しかし、哲学はそれ自体で自足できるものだから、本来手段であったものが目的になっても、十分に楽しい。楽しいからね哲学は。最高に楽しい。

>エコノミーで言えば、まず、哲学なんかしないで済むのが一番いいと思うわけ。

哲学は非常に有益で現実的。

哲学病を治す必要ってあるの?
哲学病に一度もかからないような人間のほうがよっぽど慢性的病気である可能性がある。ただし、この可能性を口実に、哲学病にかかることが出来るほどの繊細な感性を持っている自分を誇るようになれば、それはそれでこじれているけれども。ザビビのふくろうさんとかちょっと寄ってみました。さんがそうだと言っているんじゃないよ。2人はそこまで粗雑じゃない。敢えて病気と言って、そういった観点から、自分と哲学を解釈してゆこうという企図がみえる。しかし同時に、人間って自分の病気の話をするの大好きだからね。つまり、結局おしゃべりに堕する危険がつきものだ。

>「そこから自分の可能性を増幅させるものを得なければ無価値だ」と言われても、そりゃそうだけど・・・って感じ。わかってもらえるかどうかはわからんが(笑)

まず同調します。そもそも自分がいま読んでいる本とか読んだ本とかに価値があったかどうか分かるのって、将来だ。あとから、あのときあれを読んでおいたお陰じゃんってことは沢山あるわけですね。

>そしてこれは『存在と時間』の時期、ナチスに期待を賭けたハイデガーの夢でもあったのではないか。

そうだと思いますよ。ハイデガーがナチス加担したという時点で、もう私は、ハイデガーが根本において間違っているのだろうなと思います。

「ハイデガーが根本において間違っている」と思える視点とはどこだろうか?ひとつは、その、他というものが導入された視点でしょう。

私はハイデガーを3年ぽっち読みました。たった3年だけど、この3年を積極的にかつ有意義に(すなわちエコノミー的に)否定できる境地を求めている。

>てじさんに、ぜひすすめたいのは、内田樹『愛の現象学』(文春文庫)です。

私は、私さん(ナルさん)と話して『行為の構造』を買ったし、うどん粉さんと話して『時間と他者』を買ったし、阿さんと話してアガンベンとかデビットソンとかオースティンとかバタイユとかヘーゲルを買ったし、宿題さんと話してヤスパース『形而上学』『実存開明』を買ったし、鬼灯さんと話してギブソン『生態学的視覚論』を買った。たぶんそれも購入するでしょう。ちなみに私がいま欲しいものリストに入れてるレヴィナス関連の書籍は村上靖彦『レヴィナス――壊れものとしての人間』ですね。

>未来とは、他者なのだ。(レヴィナス)


私はここから、他者は未来であり、未来とは未知(自分のもとに吸収できないもの=自己化が適わぬもの)であり、他者を他者として尊重するということは、他者を未知のままに(謎のままに)しつづけるということだと昔昔言った。( http://mb2.jp/_tetsugaku/776.html-693,695#aとかな。)他者を自分の力の下におくことは、暴力であり、他者を自分の理解領域のなかに無理矢理位置づけるために他者を加工することが暴力。ハイデガーは投企は暴力的だと、はっきり言っていましたね。ハイデガーは暴力を肯定している。どう言い訳してもそうです。

あと、未知=未来=他者という語彙に惑わされて、事柄そのものを見失わない方がいいですよ。

>もちろん、スルーしても結構、プレッシャーに感じる必要はありません。

私はプレッシャーを感じません。自分の責任で本を読みますから。本を読むも読まぬも自分の責任ですから。
>間違っていたら・・・ゴメン(笑)

仮にふくろうさんが「間違っていた」のだと仮定しても、結局のところは、私が有意義な仕方でそれを読めるかどうかですから、それも私の責任です。カントの義務論は「すべては許されている」っていう意味です。「全ては許されているにもかかわらず、何かが許されざるものとしてあるということは、それを許されざるものにしているのは自分なんだ。何かをするのも自分の責任、何かをしないのも自分の責任」ってことです。ここから独我論を読み取ってもいい。私がここから読み取るのは「言い訳は無駄だ」ってことです。

はっきり言って、世界を正しく見るなんてしなくていい。

世界を、世界と自分達がもっと善くなるような仕方で、見た方がいいに決まっている。もしも正しい見解が人間の可能性を封じ込めて人間を不幸にしているなら、そういう「正しい見解」は破壊されるべきだ。ハイデガーもよく言ってます「それは正しい。正しすぎるがゆえに、それは事柄に的中しない」って。結局ハイデガーは観念と精神のなかだけで話していた。ハイデガーを通じて経験されるのは、意識改革みたいなものであって、現実が実際に改革されるわけではない。

他にもハイデガー批判として、ハイデガーには身体性が欠けているというのがある。ハイデガーは最高のテクスト読解者だが、あくまでも読解者である。ハイデガーを読んで自分の観念全体は変じるが、身体は何も変わらない。もちろん意識が変わることによって引きこもりを脱するとかは出来るけど。

1年前 No.97

エコノミー @flyonbody ★ZkiDndseok_Ew9

ちなみに「エコノミー」という言葉は、例えば、以下の箇所から取られている:

>どうして私たちが「三鷹の物件は住居ですよ」と少々無理をしても言うかというと、芸術、科学、哲学の総合によって、生命の構築へ向かう作業というのは、ものすごく経済的なものなんだ。なぜなら、人々の共同の労働を目的としているんだから。子供から老人まで、すべての人間の労働の目的が何であり、何に向かっているかを、彼らとともに作り上げたいんだ。個人で働くよりも経済的だからね(笑)。それに、新しい道徳や倫理のためにもスピードがますしね。(荒川修作「インタビュー 死なないために」『水色通信 二〇〇五年十一月号』より)


このインタビューで同時に荒川は日本人の金持ちを「エコノミック・アニマル」だと言い、「無意識のペシミスト」だと言って批判する。

引用文で、共同と言われ、個人でやるよりも経済的と言われている。

hantenkaiのブログ「『共同性』について」で書かれているように、ここでのエコノミーというのは、

自分がやるということに意味があるのではなく、とにかく事態が良くなることが大事だということ。
ブログでは

>しかし荒川さんに会い、『自分一人でオリジナルな作品を創らなければいけない』なんてのはただの脅迫観念ではないかと思うようになったのです。


と書かれたりしている。

俺が考え出したんだとか、私がやったんだとか、そういう「私、私」の重視は、エコノミーの観点からすれば、無駄です。
例えば、文豪を沢山読むことが善いのだとして、仮にその読んだ人が私でなければ、意味がないという場合がある。私が色んな漫画を読んだり色んな文学を読んだということに意味があるのは、それを読んだのが私であって、他人ではないからだ、という場合がある。本を500冊読みましたとか、これは無駄です。

経済というのは、反観念論的、反内在的、反無他的なものです。引きこもって経済なんて不可能ですから。

マジカルモンキーさんが、百理さんに、経済を学んだことないでしょと言ったのも、これに関係あります

1年前 No.98

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

>>98

私は20年以上毎年正月明けの税務署申告が地獄だったのです・・もう引きこもって極楽です・・

1年前 No.99

百理 ★5z6bVAmgS3_VuR

エコノミーさん

私は文豪の一字一句があらゆる場面で様々な文句でよみがえり血と肉になっています・・

1年前 No.100


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