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哲学談話室No.26 だけを表示しています。

ザビビのふくろう ★eroNBYU7t4_yoD

>>24,25  時さん

>このあたりの仰る内容の一応の理解はできるのですが、なかなか腑に落ちないのです。

>うーん、これが哲学での真理として成り立つのですね


誤解なさらないようお願いしたいのは、このデカルトのいわゆるコギト命題が哲学的真理であると私は言っているのではありません。
このデカルトの主張を真理として受け入れるかどうか、納得するかどうかが、その人の思索を哲学かどうか決めるのではない、とも言えます。
実際多くの哲学者はデカルトの考えに異論を唱えています。
私も納得しているわけではありません。
ただ、時さんの次の発言を見ると、
>これが哲学なのでしょうか?と言う疑問なのです。

>今まであると思っていた主観の主体が無いというような、私から見るととても哲学的に見える、思える事柄なのです


常識と異なる結論が出ないと哲学じゃない、常識と同じなら何ら哲学的とは思えない、と感じられているように思います。
結局「私は存在する」という常識と同じ結論に至るのが、哲学なの?とおっしゃってる気がするわけです。
深さを感じないからでしょうか?
まあ当たっているかどうかは措きますが、仮に時さんの疑問がそうだとして、答えは、「その通り」というものです。
もちろん、哲学は時に常識はずれの答えに達することがありますが、それが哲学の本質ではありません。
むしろ一つの典型は、我々が正しいと信じて疑っていない事柄について、本当にそうだと言えるのか、確実だと言えるのか、「あくまで理詰めで答えを出す・説明する」というのが哲学です。
いわば「理屈(ロゴス)のゴリ押し」「理屈をこねまわすこと」が哲学の本質であると言えると思います。

例えば、「アキレスと亀のパラドクス」についての議論というのは、現実にはアキレスは亀を確実に追い越せるはずなのに、それを追い越せないとする哲学的問題=パズルがあって、いわばムチャクチャな屁理屈のはずなんですが、それをまたあくまで理屈で解決しようというものです。
結論は、「よって、アキレスは亀を追い抜ける」という当たりまえの事実です。
これを実際に競争させて結論を出すのは哲学ではありません。
「追い越せない」とするパズルのどこが間違っているかをきちんと理屈を通して解明し、正しい結論に至る論証なり、その事実の成り立つことがなぜ成り立つのかということを理詰めで説明するということが哲学の議論です。

以下、便宜上、私はデカルト信奉者として、デカルト擁護の立場で、私の理解する限りでのデカルトのコギトの議論(以下「コギトのパズル」と呼びます)の代表的解釈を、私なりに換骨奪胎してまとめます(ですから、デカルトの本当の主張かどうかはとりあえず措いてください)。

例えば、幻肢という現象があります。
事故等で手足を切断され失った手足なのに、それがまだあるかのように、手足に痛みがあるように感じたりする現象です。
意識の戻った患者が、足のほうを見ることのできない姿勢のまま、自分の足がもうないことを知らないで、
 私は左足が痛いんだ
と言ったとします。
これは偽です。左足がないのだから、左足が痛いということはありえませんから。
しかし、その人が「足が痛い」と感じている、そのこと自体は疑いえない事実と言えるでしょう。
このように、我々主観が何を本当だと考えようと、それらがすべて幻影・幻覚である可能性を排除できない。
もっと一般化すれば、例えば、映画『マトリックス』のように、自分が現実と思っている世界は、自分の脳がコンピュータにつながれて見させられている夢にすぎないという可能性を論理的に排除することはできません。
これは仏教的捉え方とも通じるものだと思いますので、時さんにはむしろ理解しやすいのではないでしょうか。
デカルトが現代にタイムスリップしてこの映画を見たら、「私はこんなこと既に考えていた」という資格が十分にあります。
つまり、
 私はP(が本当である)と考える
というふうに何事かが本当だと考えても、Pがいかなることであっても本当ではない可能性があり、確実に真なることだとは言えない。
常に疑えるから不確実、よって、本当には「知っている」とは言えない、ということですね。
ところが、と言うわけです。
私が現実と思っているこの世界がすべて現実でなく夢・幻であったとしても、それを
 私がPが現実だと思っている
ということ、そのこと自体は疑いえないのではないか。
左足がないのなら、左足が痛いのは現実ではないが、左足が痛いと私が思っていること、このこと自体は疑いえないように。
要するに、仮に今私が夢を見ていて、にもかかわらず現実の中にいると思っているのならそれは間違っているにせよ、
そのように私が思っていること自体は否定しようのない事実である
ということです。

したがって、自分が何事かを考えているとき、その何事かは本当ではないかもしれないが、自分がそのように考えているという事実を疑うことはできない。
つまり、そのように考えていること、それ自体は不可疑=確実であると言える。
よって、私は自分がそのように考えていることが本当であることを知っている、と言える。

骨組みだけで言い直しますと、要するに、
手がなくても、私が手が痛いと思っていることが本当であるように、
私が何事かを思っているとき、その自分が思っていること自体は本当だと言える、
ということです。

よって、我思うとき、我が思っていること、そのこと自体は真である。
このようにして、私は自分が思考することによって、
(T.1)「我思う」
が真であることを私は樹立できました(としましょう)。

次を考えましょう。
(T.2’)「我無くば、我思わず」
これ真と認められますよね。
ゴジラが存在しないならゴジラが東京を破壊することもありえないように当たりまえでしょう。
要は、私が存在しないのなら、私が思考するなんてことはありえないわけです。
そして、これが真であるなら、その対偶命題が成り立ちます。
(T.2)「我思うならば我あり」
これは言うまでもない、隠れた前提命題と考えられます。
この(T.1) と(T.2)から、論理的に「我あり」という命題が導かれます。
以上が、デカルトの主張から喚起された、一つの解釈としての論証です。

時さんの
>デカルトの表現した「我思う故に我あり」と言う文章は、論点先取ではないのでしょうか?


というのが、どの点を指してそうおっしゃっているのか不明ですが、言えることは、そのような疑問をお持ちなら、
>よくわかりませんが、これ以上、私は突っ込まない方がよいような気がしてきました。


というのではなく、徹底して言葉で丁寧に論破する議論を組み立てる、その作業こそが哲学だと思います。

実は、そういった反デカルト的議論は以前示したことがあり、しかもその際、時さんもレスで助けてくださっています。

http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-330#a
http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-342#a
http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-349#a
http://mb2.jp/_tetsugaku/898.html-354#a

いずれにせよ、デカルトの与えた解答についてはなかなかそのままで現代通用しないかもしれませんが、彼が理屈をこねて作り上げたパズル、デカルト的懐疑は、本質的には現代でもそのまま通用していると思うのです。

以上、急いでざっと書いたので、穴だらけかもしれません。ご容赦ください。

2017/06/07 07:55 No.26

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