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哲学談話室No.1283 だけを表示しています。

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>時さん

http://mb2.jp/_tetsugaku/970.html-1465#a

>有神論の実存主義者の中で、ニーチェ、キルコゲール、ヤスパース等がいて、それぞれの表現が違うという事ですね?


「神は死んだ」のニーチェは有神論でもなく、実存主義哲学者でもありません。
後で言う「生の哲学者」には分類されますが。

それと、あなたの哲学についてですが、
「人生哲学」っていう呼称はね、困ったことに、これまたちとややこしいんですよ。
原義としての「philosophy of life(人生の哲学)」の意味では、それでいいし、一番適切な気もするんですが、
これは訳語としては「生の哲学」と訳されていて、ショーペンハウアーやニーチェを先駆者として広義では実存哲学も含みます。
しかし、日本語の「人生哲学」は「人生論」の意味で解される傾向があって、これははっきり言って哲学ではないんですよ。
この掲示板でも哲学を人生論と思っている人がいて、あんまり関わりたくないんですが、
こういうタイプの人は、そもそも学問としての哲学がまったくわからないわけです。
ですが、さらにやっかいなのは、自分の人生論にすぎないのに、それを学問的意味でも哲学的真理と思ってる人がいて(ここにもいますね(笑))、私は絶対関わりになりたくないんですね(笑)

それと、私、ちょっとミスリーディングな言い方しましたが、もともとあなたが理詰めタイプというのはそうだと思いますよ。
ただね、私とその理詰めの仕方というか、心底納得のいく分かり方のタイプが異なってるんだと思います。
で、私の疑念は(若干嫉妬まじりで)(笑)、時さんは、本当は仏教哲学的にもうすっかりわかっていて、だから「問題ない」なんて言えるんじゃないか、理屈のゴリ押しだって必要ないし、私みたいに切実じゃないんじゃないかと思っちゃうわけですね(笑)
正直言って、あなたの「問題ありません」の真意はわからないので、わたし的にしか理解できないわけです。
そうすると、わたし的には「問題ないなら、こんな苦労してこねこねこねこね考える必要なんてないじゃん!(笑)」と思うわけですよ。
ま、私の言ったことなんぞどうでもいいので、忘れてください。
それをどう呼ぼうが、あなたがphilosophy of lifeをされているというのは、間違いないと私は思いますよ(何の権威もない私が言っても何の保証にもなりませんが)。でなきゃ、私そもそもあなたに、こんなにレスしません(笑)

というわけで、なんともしまらない話なんですが、いずれにしても「哲学とは何か?」自体が哲学的問題と言われますので(笑)、時さん自身にとっての哲学とは何か?ということも、あとは自分で考えていただきたく、よろしくお願いします。私が混乱させただけでなければよいのですが。

>>SumioBabaさん

http://mb2.jp/_tetsugaku/970.html-1463#a
以下の文章は直接的には時さんへのレスですが、SumioBabaさんへの答えにも関連していますので、読んでくださるようお願いします。

>これを機に、お聞きしたい事がありましたので、お尋ねします。それは、前回、書かれた「超越した」という事が、ザビビのふくろうさんのご認識の中で何を意味するものなのか?という事です。


まず、細かいことですが、私は「超越」とか、「超越する主体」とは書きましたが、
「超越した」とは書いていないと思います。
もちろん、「メタ視点からとらえること」は「超越した視点からとらえること」と言えるでしょうし、文脈上このような表現も構わないと思いますが、今の質問のコンテクストでは、私は若干違和感を覚えます。ですから、少しずれた表現になるかもしれません。

メタ視点に立つこと、いわば井戸の外に出ることを“超越(すること)”としましょう。
Babaさんの言い方では、これは「神視点に立つ」ということでもありますが、私の理解するキルケゴールやヤスパースの宗教哲学的思想(信仰の哲学)では、これは「神視点」ではありません。
あなた方の超越する方法はわからないのですが、この「メタ視点」は「形而上学視点」ではあっても、「宗教的観点」「信仰者としての視点」ではない、ということには同意してもらえると思います。
というのも、Babaさんも時さんも、自らの立場を宗教ではないと言ってらっしゃるからです。
宗教・信仰に対するあなた方の考えは「宗教について」のあなた方の一連のやり取りで書かれていましたので、次にリンクを貼っておきます。
http://mb2.jp/_grn/2204.html-654#RES
上のSumioBabaさんのレスと、そこにリンクされた時さんのレス。及び
http://mb2.jp/_grn/2204.html-660#a

これらに示されたあなた方に共通する考え、
 信じる=思考停止
という捉え方ですが、
正直言って、このようにしか「信じるということ」をとらえられない人に、
宗教・信仰の何たるかがわかるわけがない!(笑)と思います。
ここで「じゃあ、おまえにわかるのか?」という質問は禁止です(笑)
これは哲学の勉強が足りないなどという問題ではなく、逆にむしろあなた方がよく勉強し、自らの思想を構築されているということにより、いっそう困難な気もします。
ということで、実は「超越」「単独者」「実存」について少し説明を書いたのですが、今回はあえてボツにします(笑)

>哲学で表現される「超越した」というのは、単独者という事で、自身だけでは解決できないような大きな苦しみの限界状況を、結果として乗り越えられて、そこで超越者(神)という存在を確信した人というような意味合いの事でしょうか?


この問いについては微妙で、単純に否定も肯定もできない、という感じです。
説明すればある程度時さんにはわかってもらえるかもしれませんが、今回はあえてしません。
>或いは、社会集団からのはみ出し者?自己の確立した人?完成された人?単に神を信じる人?・・・とまぁ、いろいろと想像しています。(笑)


これらについては、すべて違います。

>超越した人(単独者)というのは、ザビビのふくろうさんの周りには実際には割と多くおられるものでしょうか?


いません。

>ヤスパースの言う実存は、ヤスパース自身が自らの事を言っているのでしょうか?それとも思考内での哲学の世界だけの事なのでしょうか?


あくまで私の理解ですが、キルケゴールもヤスパースも、ウィトゲンシュタインもV.E.フランクルも、自らの生を宗教的観点から捉え生きた、生きようとした人たちであり、その視点から見る生の真実について、それぞれの仕方で表現した人たちだと思います。
と言っても、ウィトゲンシュタインは著作としてはほとんどなにも語っておらず、遺稿や周囲の人たちの証言からその宗教哲学的思想は知られるのみですが。
キルケゴールは、それをあくまでキリスト者、信仰者として語り、ヤスパースは信仰の哲学者として、フランクルはそれを精神医学者・心理学者として応用し実学化しようとしたと言えるかもしれません。

>SumioBabaさん

>>つまり、このこと、すなわち人間が超越可能であることが、人間がSumioBabaさんの言う「人間行動の原理」を超える存在であることを示しているということです。


>「人間がSumioBabaさんの言う「人間行動の原理」を超える存在であることを示しているということです」と書いてありますが、なぜそんなことが言えるのでしょう? 「「狭義の利益」計算だと、《人間の行動原理》は認識できない」なら正しいと思いますが、「広義の利益」計算であれば、誰一人例外なく《人間の行動原理》に縛られているはずです。「狭義の利益」計算をしていると《人間の行動原理》を認識できないことが、《人間の行動原理》を超越したことになるのでしょうか?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまで時さんに説明してきたことを読んでいただいたら分かると思いますが、
>「狭義の利益」計算をしていると《人間の行動原理》を認識できないことが、《人間の行動原理》を超越したことになるのでしょうか?


というのは全く違います。
あなたのとらえ方は、何度も物理の比喩で説明されているとおり、科学的視点で世界をとらえていると言ってもいいものですよね。
私がここで言っている「超越」とは、「宗教的観点に立つこと」です。
すなわち、科学的視点で捉えられた井戸世界の外へ出ること。
あるいは井戸世界の外から井戸世界を見ること。
そして、それは単なるメタ視点ではなく、宗教的観点である、ということです。

>時さん

http://mb2.jp/_tetsugaku/970.html-1468#a
「自由意志」の問題ですが、まず言葉での注意ですが、コンテクストで表現を変える程度で、「意志の自由」と基本的に同じものと考えてください。
それと、ポイントをはっきりさせるために言っておきますが、あなたはまだ私の言う「意志の自由」をきちんと理解されていません。
意志が世界の出来事について無力であるという点に関しては理解されています。
しかし、それは意志の自由が幻想であるということを意味しません。
意志の自由はあります。
そうでなければ、倫理的責任主体が存在しないことになり、善も悪も存在しないことになります。
哲学では決定論によって意志の自由を否定する議論がありますが、これに反対して意志の自由を主張する立場も、実は普通、行為を意志が決定するとする決定論の一種であり、これらは両方とも因果律を前提として成り立つ議論なのです。
幻想なのはこの因果律です。
では私の言う自由意志はどういうものか、ここまでの主張をまとめると、
決定論に反対して自由意志があるとするが、
行為を決定するものとしての自由意志を否定して、世界の出来事に対する意志の無力を主張する、というもの。

では、意志の自由は、いったい何が自由なんだ?と思いますね。
それは世界に対する態度決定の自由です。
つまり、世界の中の視点で世界を見ることもできるし、
そこから超越して世界の外から眺めることができる、その自由を有しているということ。
すなわち、あくまで世界(井戸)内存在として現存在として生きるか、それともそこから(井戸の外へ)超越して実存として生きるか、それを選択する自由を有している、ということです。
ですから、これはある意味、結論だけで言えば、あなたの次の見解と同じと言えます。
http://mb2.jp/_tetsugaku/970.html-1420#RES
>この世界において自身の外にあると思い込んでいる悪を退治し、正義をなすといった、ウルトラマンや北斗の拳等のヒーローものの手法では平穏(平和)は永久に訪れません。しかしそうではなくて、自らの内面の悪を退治できれば、それに相対する外面に現れる世界では、平穏(平和)が訪れるという事です。

>これは、自らの視点においての外世界の中の善悪の善を選択するのではなくて、自らの内面においての善悪の善を選択するという事です。

>ですので、それぞれ個々人の意思、選択で、平穏(平和)は訪れるという事です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
ただし、本当に同じかどうかは、
http://mb2.jp/_tetsugaku/970.html-1457#a
で、上の引用に続けて書かれた時さんの次の文章を読むと、失礼ですが、正直どうかな?って気もします(笑)
>と、ほぼ同じ事でしょう。相対的な外にある善に従い、悪を退治するのではなくて、自身の内面の善にとことん従っていく生き方ができれば、嫌でも超越できる・・かもですね。(笑)

>つまりは、心の内面での聖戦で勝利するという事でしょう。

>しかし、果たして超越を望むすべての人々が、ザビビのふくろうさんの仰るその自由意志をもってこれができるのか?です。チャレンジしてみればよいですね。神はその存在に微笑みを投げかけるかも・・です。(笑)

~~~~~~~~~~~~~~~~~
私が念頭に置いているのは、例えば、普通の意味では一切の自由を奪われたアウシュビッツの収容所の中にあって、相対的幸福を求める限り絶望しかありえず、唯一の希望はその苦から解放される自殺のみという状況(限界状況)においても、人はその欲望(誘惑)から離脱(超越)し、実存として生きる自由を、すなわち善く生きる自由を有しているということ。
フランクルはそうやって地獄のような収容所を生き延びたのです。

個別の質問にはお答えしませんが、以上の説明で、あなたなら十分理解されるように思います。
なんだ、その程度のことかと思われるかもしれませんが、まあそんなもんです(笑)

2018/05/21 22:47 No.1283

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