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哲学談話室

 ( 哲学掲示板 )
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ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

どこのスレに投稿するか、いろいろな理由で迷うことはありませんか?

既存のスレ、新規のスレ、いずれもいまいちに思うような場合に、気楽に投稿できるようにこのスレをつくります。

したがって、テーマは哲学に関するものなら原則自由。
独り言でも議論でも形式は問いません。
他のスレの話題がそこのスレ主旨とずれてきたような場合に、ここで続行するというような下請け的利用も可。

スレ主の私は基本仕切りませんので、各人ご自由にどうぞ。

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宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

たいてい60歳超えたら当たり前の判断力が出来なくなります・・

2日前 No.1299

事務所から ★ZmQL3mAPQU_EJR

ちなみに(1)の場合ですが、仮に自分をA氏としてどちらかを選ばなければならないとしても自分の子供を選ぶとは限りません。
なぜなら例え自分の子供であっても全く愛情がわかない場合、愛情が薄い場合も考えられますので。

2日前 No.1300

事務所から ★ZmQL3mAPQU_EJR

後もう1点ですが、私は過去、小泉と小泉に熱狂する国民を見て、ああこれから日本はどんどん衰退していくなと思い、子供を不幸にしない方法は子供をつくらない事だと確信して子供をつくりませんでしたので、A氏や老婆の立場が来ることは永遠にありません。

2日前 No.1301

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>>1299  宿題さん

おいおいきみっ!!
失礼だよ…うけたけど

>>1300 事務所からさん

一応言っときますが、私が想定していたのは
最愛の子供を犠牲にして、5人を選ぶ父親でした(笑)いいんですけど。

ちょっと質問を変えます。
よかったら答えてください。

良心回路3.0に達した人ならどうするんですか?

2日前 No.1302

事務所から ★ZmQL3mAPQU_EJR

>1302
>良心回路3.0に達した人ならどうするんですか?

私はまだ自分が良心回路3.0に達してるとは思えないので想像でしかないですが、ぎりぎりまで両方を救う方法を考え、両方救えないと判断すれば瞬間的判断で救える方を選ぶ、または判断が間に合わず全てを犠牲にするかも知れませんね。

ただ、その結果による非難などは、甘んじて受け入れるとかだと思いますよ。

2日前 No.1303

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

アニメのNARUTOを見たのです・・

〇か×を選んでどちらかが勝ち残る方式・・

〇も×も選んだ場所が墨の泥に落ちる・・どっちを選んでも負け

それに気付いた火影候補は途中で仲間と協力して落ちないように縄を張る・・

判断してしまって結果を出してはいけない・・墨に落ちるから・・途中で止まること・・

他にも素晴らしいアニメがあります。最近のアニメは目を見張ります。

2日前 No.1304

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

事務所からさんは、頭が若いですね・・

ふくろうさん・・お年をお召しになられてしまわれましたか?

2日前 No.1305

ザビビのふくろう ★Android=cdZmIVbAmb

苦笑……………苦笑…………
…………苦笑…………苦笑しか出んわっ!

あのね、宿題さん、ここはあくまで「哲学」談話室なの。よろし?

茶飲み話したいなら他でやってください!

2日前 No.1306

宿題 ★5z6bVAmgS3_BXv

ふくろうさん

絶対笑わせません・・

絶体絶命の究極の選択・・どちらをとってもダメな結果

判断保留するには・・どうすればいいと思いますか?

2日前 No.1307

雑記 ★Gc8HjmXH4j_EJR

どうにもならねえなら、
頭真っ白だからどうもしなくていいよ。

2日前 No.1308

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>>1295  時さん

>恐らく、ザビビのふくろうさんならば何を言わんとしているのかを察して頂けると思います。


いや、すみません(笑) 申し訳ないんですが、私はよくわからないんですよ。
質問・確認させてください。

まず、あなたの「一元の世界」「二元の世界」の意味がよくわからないんです。

「喜び」と「平穏」の考察の「平穏」は、わたし的には相対的幸福であって、絶対的幸福ではないんですけど、その理解はよろしいでしょうか?

私はイエスが相対的善悪、すなわち人間視点の善悪を否定し(あるいは止揚し)、神視点の絶対的善を命じたのだと解釈しています。
仏教について私はよくわかりませんが、「善法と悪法」というと、何か善悪が相対的なものと捉えられているように感じられるのですが、違うのでしょうか?
そして、これが二元の世界なのでしょうか?
もしいわばこの二元(善悪)対立の世界を弁証法的にいわば揚棄した次元を、一元(絶対善)の世界、「最終的な境地」とおっしゃっているのであれば、次元的には私の言っている絶対的幸福と同じメタ次元だと思うのですが、違うのでしょうか?

>ですので、幸福を求めるのであれば「善」に従った生き方で十分です。


というのは相対的幸福のことですよね?
私の言っている絶対的幸福は、何度も申し上げたとおり求める対象ではありませんので、そう思うのですが…

というわけで、自分で言うのも何ですが、全然わかっとりませんね(笑)
もう一度、できれば理路をわかりやすく説明をお願いします。

2日前 No.1309

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>>1307  倫社百点さん
ハア〜(←深いため息)
あのね、ここでの哲学的思考実験の眼目は、一種の限界状況を設定することにあるんだよ。
保留できるんだったら限界状況にならないし、意味ないでしょ?
だから、そういう質問を
「愚問」
っていうんです。よろし?

あなたナルトに感心するなら、こんなとこ来ないで、ジャンプを読んで人生勉強しときなさいよ。よろし?

2日前 No.1310

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>1297  ザビビのふくろうさんへ

>以上、お三方の考えを簡単に

>「真の善人、利己利他一致でみんなハッピー」の思想

>とまとめます。

>こういった思想を支持する人に質問します。


 誤解しておられます。SumioBabaの考えは「真の善人、利己利他一致でみんなハッピー」には該当しません。ある人の行為は、それが自分にとって利益となる人々にとっては「善」ですが、それが自分にとって不利益となる人々にとっては「悪」です。そしてどんな行為も、ある人に対しては利益を与え、別の人には不利益をもたらすと思われるので、どんな人であろうと、その人を「善人」だと見なす人も「悪人」と見なす人もいるはずです。世間で「善人」と呼ばれる人は、その人を「善人」だと見なしてくれる人間の数が非常に多い、というだけです。

 例えば、家族4人の利益だけを考え、4人以外に平気で不利益をもたらす父親は、4人家族の中では「善人」と見なせても、4人以外の人々から見ると「悪人」に見えるでしょう。この場合、父親を「善人」と見なす人間は4人しかいません。

 一方、人口4万人の村の村長は、村人たちに利益をもたらす政治をすれば、この村長を「善人」と見なしてくれる人間の数は、村人だけでも4万人に達する可能性が有ります。ただし、どんな政策にも一長一短が有り、村人たちの間でも意見が分かれるはずです。この村長を「善人」と見なす人は2万人、見なさない人は1万人、判断不能が1万人、といった具合に。さらに、村人の99%がこの村長を「善人」だと判断したとしても、他の村人の視点に立つと、この村長の政策は非常に迷惑であり、80%以上が反対することも有り得ます。つまり、他の村人の視点に立つと、この村長は「悪人」に見える場合もある訳です。

 「トロッコ問題」なども同様です。いくつかの選択肢が存在しますが、どれも一長一短で、利益を得る人もいれば、不利益を被る人もいます。
 A=「自分の子供1人を助け、他人の子供5人を死なせてしまう」、B=「自分の子供1人を死なせ、他人の子供5人を助ける」の二者択一だとします。Aを選べば、自分の子供1人を助けるという点で「善」ですが、他人の子供5人を死なせてしまう点で「悪」です。Bを選べば、他人の子供5人を助けるという点で「善」ですが、自分の子供1人を死なせてしまう点で「悪」です。どちらが正しくどちらが間違いだとは、一概には言えません。SumioBabaの場合、どちらを選ぶかはその状況に遭遇してみないと判りませんが、70%くらいAを、30%くらいBを選びそうです。もちろん、Aが正しいと主張しているのではありません。単に好みの問題です。(SumioBabaは多世界解釈を採るので、こういう場合、本当は両方が起きているはずです。脳にはカオス状態が存在し、プランク定数オーダーのミクロな差異がすぐに、Aを選ぶかBを選ぶかくらいのマクロな差異に増幅すると思われるので、多世界解釈を採れば必ず両方が起きると思われます。)
 もし6人の子供全員を助ける方法が有れば、もちろんそれが最善なのですが、現実の世界ではそううまくは行かず、必ず一長一短の戦略を選ぶしか有りません。だから、「人間視点」に立つと、「相対的幸福」しか得られない訳です。

 そこで「神視点」に立ちます。「神」は今まさに(カミュの視点で?)、「人間世界」という小説を書いているところです。主人公にAとBのどちらを選択させようかと迷っています。Aを選ばせることにし、小説が完成しました。なかなか良い出来です。しかし、半分では満足できません。主人公がBを選ぶ方も考え、全2巻にすることで作品に広がりができました。でもまだ満足できません。さらに、「奇跡的にトロッコが脱線し、6人全員が助かりました」とか「スーパーマンが現れて6人全員が助かりました」とか「トロッコが到達する以前に火薬庫が爆発し、6人全員が死んでしまいました」…等々、考えられる限りすべての展開を網羅しました。これ以上有り得ない完璧な作品が完成したので、「神」には何一つ不満が有りません。

 あまりにも素晴らしい自信作なので、「神」は自ら小説の主人公になって、様々な体験をしてみたいと思いました。もちろん、幸福な体験だけでは満足できません。不幸な体験もしてみたいのです。Aを選び、自分の子供は助かったけれど、他人の子供5人を死なせてしまった人って、どんな気持ちだろう? 逆にBを選び、他人の子供5人を助けたけれど、そのために自分の子供を死なせてしまった人って、どんな気持ちだろう? 人間の心とは、それを体験している「神」です。自分が「神」だと悟って、苦しみを超越できる人もいれば、それができず一生苦しんで死ぬ人もいます。それもまた両方有って良いのです。「神」が両方を体験してみたいのですから。

 我々人間の視点に立つと、自分を「神」だなどとは思ってもいない人が大部分だと思われます。人生は一度きりだと思い込んでいるので、幸福は体験したいけれど不幸は体験したくない、と考えます。あまりにも不幸な人生だと、このまま体験を続けるよりも自殺した方がましだ、と感じるでしょう。しかし「神」は、そのように自殺したくなるほど不幸な人生ってどんなものか、体験したくてたまらずに体験しているのです。真の自分が「神」なのだと悟り、「神」の真意を理解できれば、幸福な人生も不幸な人生も、すべては「楽しみ」に変わります。

1日前 No.1311

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_APy

>>1297 ザビビのふくろうさん、

>次のような場合、(中略) A氏と老婆が選ぶ、自分にとって最大利益となる行為とは何?


>(1) (中略)

>トロッコの進行方向を変えるための線路の切り換えをおこなえる人をA氏とし、作業員の代わりに、小学校から見学に来た5人の児童、それと反対線にいるのが5人と一緒に見学に来ていたA氏の子供であるとします。


A氏の価値観によって変わります。
Babaさん風の表現方法をまねるならば、
 5人の児童を救う幸せが5、自分の子供を失う不幸が10だとするなら、進路を切り換えない。
 5人の児童を救う幸せが5、自分の子供を失う不幸が1だとするなら、進路を切り換える。
となります。


>(2) (中略)

>レジスタンスの報復運動のころ、フランスの小さな村で、ある事件がありました。ドイツ軍の将校が、ある老婆に向かって丁重な申し入れをしたのです。

>「お二人のご子息のうち、片方を人質として銃殺しますが、どちらをお選びになりますか?お選びにならない場合は、両方のご子息が銃殺されることになります。」

>(中略)さて、どうするでしょう。


息子Aを失う不幸を2、息子Bを失う不幸を1とするならば、息子Bを選ぶ。
息子Aを失う不幸を1、息子Bを失う不幸を2とするならば、息子Aを選ぶ。
息子Aを失う不幸と息子Bを失う不幸とが同程度である場合は、無作為にいずれかを選ぶ。


>この老婆はふだん村で本当に善い人だと評判の人です。


周囲の評価は関係ありません。


いずれの場合も、自分のために良いと思うことを選択するのが良い と思います。


>この思想では、真の善人は何をなし、それでみんなハッピーなんでしょうか?


自分のできる範囲で最大限の“良いこと”をしていけばよいのではないでしょうか?
(1)も(2)も「全員救う」は「できないこと」ですから。できないことに対する「アンハッピー」は引き受けられません。


例えば、道行くお婆さんが辛そうだったので、荷物を運ぶのを手伝ってあげた。そのために自分は時間と労力を失った。自分の労力と時間を失っても、その方が良い(自分が幸せ)と思ったからそうしたのでしょう?
「見ず知らずの人を助けるのに自分の時間と労力を割くなんて まっぴらごめん」という人は、手伝わないと思います。それでも手伝うのなら、それは偽善者です。

1日前 No.1312

★OIr3Wal69G_A7b

>>1309  ザビビのふくろうさんへ

何分、普段はこのような事は人にはお話ししませんので、説明が下手ですみません。

> いや、すみません(笑) 申し訳ないんですが、私はよくわからないんですよ。

> 質問・確認させてください。


はい。どこまで文字で表現できるのかわかりませんが、やってみます。

> まず、あなたの「一元の世界」「二元の世界」の意味がよくわからないんです。


二元の世界は、単純に狭い個人の井戸の視点の世界の事です。人視点での世界観です。

一元の世界は、天界、神の処、相対的なこの世界(上記の二元の世界)から見たときの矛盾した世界です。ですのでこちらでの視点を、神視点と表現しています。こちらは上記の人視点での井戸を多く集めて、それをツバメの視点で見ているような視点です。この二元の世界を観ているメタの視点の世界観の事です。

大まかにその視点により両者で世界を分けて表現しているのですが、これは心や思考の状態だという事です。

例えばですが、保育園の砂場で園児が遊んでいて、その砂場の取り合いで毎日それしか思い描けない園児の精神状態が成長するにつれて、やがて高校生あたりになると、もう砂場の取り合いをみたとしても「あー、また喧嘩してるねぇ。怪我しないようにねー」と見えますね?同時に、もうこの時点では、砂場で園児と喧嘩にはならないでしょう?この精神レベルが遥かにあがると、二元の世界から飛び出して、一元の世界からこの二元の世界が認識できるというような事なのですよ。

一元の世界と二元の世界はこのような感じですが、伝わりますでしょうか。

> 「喜び」と「平穏」の考察の「平穏」は、わたし的には相対的幸福であって、絶対的幸福ではないんですけど、その理解はよろしいでしょうか?


このお話は、この相対世界(二元)での「喜びと平穏」という事の考察です。そしてこの相対世界(二元)を飛び出した場合も同じことが言えると思います。

http://mb2.jp/_tetsugaku/970.html-1431#RES
> そしてその事柄自体を遍く知ってしまった時、その喜びの状態を通り越します。ここが心の平穏な状態です。なぜならば、知っている状態が「当たり前」だからです。


一元の視点を獲得できた瞬間は「喜び」は沸き起こります。ここで一種の幸福感を感じますが、それが当たり前になる(遍く知る)と「平穏」の状態になるという事です。つまりは、その幸福感は続かないという事です。

> 私はイエスが相対的善悪、すなわち人間視点の善悪を否定し(あるいは止揚し)、神視点の絶対的善を命じたのだと解釈しています。


イエスは「義人を招くためではなく、罪人を招くためである」といっていますので、誰彼構わずにという意味合いではなくて、義人はスルーで、事の善悪が分からないような罪人に向けての言葉でしょう。最終目的は、神の国への到達で、アガペーへの到達です。私はこのように解釈しています。

・弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。(マタイ10章)

でもまぁ、聖書の解釈はそれぞれでよいと思いますので、この辺で。

> 仏教について私はよくわかりませんが、「善法と悪法」というと、何か善悪が相対的なものと捉えられているように感じられるのですが、違うのでしょうか?


はい、その通りです。物事を2つに分けるような表現、相対的な表現が仏典内では多用されています。

> そして、これが二元の世界なのでしょうか?


はい、仏陀が法を説いたのは、この世(世間、相対世界)への人間(主に出家者)に対してです。ですので、有漏の法と表現されます。漏とは、簡単に言うと、煩悩の事ですね。ですので、煩悩のある我々人間に対しての教えが「有漏」の法と言います。(その対比として無漏の法もあります)

そしてここが少しややこしいのですが、仏教(仏陀の教え)では、上で書きました神の処(一元)もこの有漏に含むのです。一元の視点をメタ視点とするのであれば、仏陀は、メタメタの世界を説きました。ここが涅槃や解脱という境地だと理解しています。

そして仏教でこの有漏の法を学ぶのは、段階を経て無漏の世界(涅槃等の境地)に到達するためです。

> もしいわばこの二元(善悪)対立の世界を弁証法的にいわば揚棄した次元を、一元(絶対善)の世界、「最終的な境地」とおっしゃっているのであれば、次元的には私の言っている絶対的幸福と同じメタ次元だと思うのですが、違うのでしょうか?


私の知る聖者達の言う最終的な境地には、言葉で表現すると2種類あります。

一つは、神を頂点とした境地(平穏)です。
一つは、仏教での境地(涅槃、解脱、寂静等)です。

そして今は主に、神を頂点とする最終的な境地についてお話しているつもりです。

そしてザビビのふくろうさんが、そこで止揚できるのであればそれでよいとも思いますが、そこで止揚できているのであれば「幸福」にはなりません。遍く知った後に止揚できているのであれば、そこは平穏の境地のはずです。そしてその平穏を振り返って思い起こした時に「幸福だ」と仰っているのであれば、問題ないのではないでしょうか。(これは私の感覚です)

ですので、書籍を読んでいませんのでこの理解の基本が間違っているのかもしれませんが、限界状況と呼ばれる壁を乗り越えられた存在の最終的な心の状態は平穏だと思います。これも想像ですが、壁の時には絶望しかなく、いつしか乗り越えられたと認識した瞬間に、安堵とともに幸福感に満たされる。そしていつしか平穏な心の状態になるのだろうなと想像しています。それを過去のものとして振り返ったときには、幸福感を思い出し、なぜ乗り越えたのだろうと思考が及んだときには、再度その絶対者に対する畏敬の念が湧き起こるのではないでしょうか。それを私は、漠然と「運命」という暗号で理解しているだけですが、書籍を読んでいませんので、あくまでも想像です。

> >ですので、幸福を求めるのであれば「善」に従った生き方で十分です。

> というのは相対的幸福のことですよね?

> 私の言っている絶対的幸福は、何度も申し上げたとおり求める対象ではありませんので、そう思うのですが…


これは、中途半端に終わってしまった「自由意志」の問題も絡むと思いますが、もう今は気力が続かないかもしれません。(笑)

>>1293
> 人間は神の意志に従うことも従わぬことも可能な自由意志を有した主体であり、これが善悪の担い手、すなわち道徳的責任主体であるということです。


自由意志を有した主体(道徳的責任主体)が、その意志をもって内なる善にとことん従っていくと、やがては絶対的幸福に至るという解釈でよろしいでしょうか。間違っていれば、ご指摘をお願いします。

私は、ザビビのふくろうさんの仰る絶対的幸福の「幸福」という表現が気になっていました。止場できているのであれば、それはメタ視点で間違いないと思いますが、そこの境地は平穏だと思うからです。理由は、例えば不幸な世界から抜け出せた瞬間には、一時の安堵とともに喜びが湧き起こります。この状態が「幸福」だと考察しました。「喜び=幸福」だという事です。そして次に訪れるのが、その幸福感が当たり前になった状態です。この当たり前の状態は、幸福を幸福だと感じられないはずです。ですので、これを強いてこの世界で表現しますと「平穏」だという事になりました。

これは・・「喜び」と「平穏」の考察の中の、水から上がったときの譬えが分かり易いように思ったのですが。

うーん。例えば、事務所からさんの投稿  http://mb2.jp/_tetsugaku/1043.html-171#a の中の

> 5.「人のため回路 3.0」は次元が全く違う

> 「人のため回路 3.0」は、自分軸をちゃんと作った人だけが行き着ける場所です。

> 宗教的・精神的な「えらい人たち」が言っている「利他」というのはそういう段階を経た、その先の場所から言っていることなのです。


これを行っている人は、気持ちの中で、利己だとか利他だとかの区別が恐らくはないでしょう。超えてしまっているからですね。それをあえて言うのであれば「利他」という事ですね。

これと同じく、それは幸福だと思っているうちはまだまだで、その先の境地からのものいいなのですよ。その先とは、幸福の境地ではなくて平穏の境地だという事が言いたかったのです。

こんな感じなのですが。

> というわけで、自分で言うのも何ですが、全然わかっとりませんね(笑)

> もう一度、できれば理路をわかりやすく説明をお願いします。


説明が下手ですみません。これは私の独自の捉え方ですので、哲学的にどうかはわかりませんので・・この辺りで、いかがでしょうか。

1日前 No.1313

★BkuhZJaeRZ_A7b

>>1313  追記です。

> もしいわばこの二元(善悪)対立の世界を弁証法的にいわば揚棄した次元を、一元(絶対善)の世界、「最終的な境地」とおっしゃっているのであれば、次元的には私の言っている絶対的幸福と同じメタ次元だと思うのですが、違うのでしょうか?


仮にもしもザビビのふくろうさんが、絶対的幸福境地と表現されている世界観が、私の表現する一元のメタ視点(最終的な境地)と同じでであれば、トロッコ問題も問題ではないはずですね。

1日前 No.1314

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>>1314  時さん

>仮にもしもザビビのふくろうさんが、絶対的幸福境地と表現されている世界観が、私の表現する一元のメタ視点(最終的な境地)と同じであれば、トロッコ問題も問題ではないはずですね。


あなたのおっしゃる「問題ではない」についての私の理解が間違っていなければ、という仮定の上ですが、
そのとおりであると思います。

すなわち、A氏の名が「アブラハム」、その息子の名が「イサク」である場合においては、です。

よければwikiの「イサクの燔祭」の「キェルケゴール」の項目を参照してください。

とり急ぎこれだけ。
>>1313 のおかげで、ボタンの掛け違い箇所がわかったと思います。ありがとうございます。
また、改めてレスさせてもらいます。ただ、少し時間がかかるかもしれません。

1日前 No.1315

★BkuhZJaeRZ_A7b

>>1315  ザビビのふくろうさんへ

返信をありがとうございます。

> すなわち、A氏の名が「アブラハム」、その息子の名が「イサク」である場合においては、です。


> よければwikiの「イサクの燔祭」の「キェルケゴール」の項目を参照してください。


願わくば失礼な表現だとは受け取っていただきたくないのですが、哲学の井戸という世界観から抜け出せていないように感じます。まぁ、この掲示板ではそれでよいのですが。

特段の問題はありませんので、次のレスは、必要ではありませんよ。同じことの繰り返しに見えています。

1日前 No.1316

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>>1316  時さん
あら、そうですか(笑)

まあ、それは仕方ありませんね。

ただ、あなたに理解してもらうことはあきらめますが、
この問題は宗教哲学的問題として私は非常に面白いと思っているので、
しばらく自分なりに突き詰めてみたいと思います。

ですから、これまでのあなたのレスを利用させてもらって書くかもしれませんが、
あなたのレスは必要としません。

ということで、これ以降、コメントは要りません。

で、ひとつ。
おそらく、と私は思うのだが、
ヘブライズムでは「べき」がどこまで行っても存在する。
そしてそのとおりなのである。

時さんは、この「べき」がある限り、自動的に
「問題ない」のほうが上、
とみなすのではないだろうか(笑)

1日前 No.1317

★BkuhZJaeRZ_A7b

>>1317  ザビビのふくろうさんへ

> 時さんは、この「べき」がある限り、自動的に

> 「問題ない」のほうが上、とみなすのではないだろうか(笑)


べきであろうとなかろうと、上であろうとなかろうと、問題ありません。が答えですよ(笑)

レスは、必然的にレスするこ事が起こったときにレスに至るでしょう。

では、大変楽しく有意義なお付き合いをありがとうございました。

お礼申し上げます。m(__)m

1日前 No.1318

ザビビのふくろう ★ZRGZRP6lC7_8gk

>みなさんへ


レスをありがとうございます。
これから順次レスをしますが、その際一応個別宛てのレスとして名前を挙げて書きますが、それは便宜上で、全員に向けて書きます。後のほうで名前が出てくる場合でも、その前の人の議論を前提にしますので、長くて大変かもしれませんが、すべてに目をとおしていただくようお願いします。

本論に入る前に、私が >>1297 の問いで書いた
>この老婆はふだん村で本当に善い人だと評判の人です。さて、どうするでしょう。


という文がミスリーディングだったみたいなので、少し訂正します。

この2問ともですが、あなたならどうしますか、という問いと共に私が問いたいのは、A氏及び老婆が、本当の善人、あるいは『良心回路3.0』に達している人であった場合は、どういう行為を選択すると思いますか?ということです。

>>1303  「事務所から」さん
あなた自身だったらどうするか、についてはわかりました。
問題は良心回路3.0に達した人の場合です。
あなたは、自分が達していないからと言って回答を避けましたが、原理的な問題として考えることはできるはずです。
つまり、問い(1)と(2)のような状況において、良心回路3.0はそもそも原理的に機能しうるのか?ということを私は問うているのです。
私の結論を先に言っておくと原理的にそんなことは不可能だ、というものです。

仮にこの良心回路3.0に達した人(以下、「良心3.0さん」と省略)が存在するとしましょう。
良心3.0さんとは「利己・利他一致でみんなハッピーな行為を行う」人です。
問(1) ここでは問いのA氏がその良心3.0さんであるとします。
 すると、良心3.0さんはどちらを選ぶでしょうか。
 良心3.0さんが自分の子供の生命を救い、他の子供たち5人を見殺しにしたとします。
 すると、この場合、自己の利益は得られる(あるいは守れます)が、他の子供たちの親は子供を失い(=不利益を被り)不幸に突き落とされます。
つまり、この場合、利己・利他不一致ですので、良心3.0さんがこちらを選ぶことはありえません。
では、良心3.0さんが5人の子供を救い、自分の子どもを犠牲にしたとしましょう。
5人の子供の親は利益を得(守られ)ますが、今度は自分の最愛の子供を失った良心3.0さんは不利益を被ります。
つまり、この場合も利己・利他不一致ですので、どちらも選べません。
したがって、明らかに良心回路3.0は、この状況において行為を決定できず、それゆえ原理的に機能しません。
ですから、仮に良心3.0さんが存在してこの状況に遭遇したとき、この人は何も行為を決定できません。
ですから、こういった状況において、良心回路3.0は役立たずです。
さらに、この場合、良心3.0さんが何もしないとしても、それが一方を選んだことになりますので、必ず一方を選びます。
ということは、良心3.0さんが存在すると仮定すれば、このような状況ではどちらも選びえないにもかかわらず、どちらかを選ぶことになります。
これは矛盾です。
よって、良心3.0さんは存在しません。

まあ、要するに良心回路3.0が機能する世界というのは、いわば道徳的に矛盾・ジレンマが生じないような理想的な世界であって、そういったいわば道徳的に理想的な世界にのみ存在しうるわけです。
しかし、現実世界では、容易にこういったジレンマ的状況は生じます。
というか、現実世界はこれら問いのように極端な場合でなくても、SumioBabaさんの言うように、普通はあっちを立てればこっちが立たず、といったことが普通なのです。
ですから、 http://mb2.jp/_tetsugaku/1043.html-171#a
>自分も相手も大切にできて自分もハッピー、人もハッピーあたりまえのようだけど意外と遠いでも素敵な場所。

>悩みながら、求めながら何周か回り回って私たちはそんな場所に行き着くのかもしれません。


そんなものは単なる夢物語に過ぎないのです。

>>1311  SumioBabaさん
>誤解しておられます。SumioBabaの考えは「真の善人、利己利他一致でみんなハッピー」には該当しません。ある人の行為は、それが自分にとって利益となる人々にとっては「善」ですが、それが自分にとって不利益となる人々にとっては「悪」です。

>そしてどんな行為も、ある人に対しては利益を与え、別の人には不利益をもたらすと思われるので、どんな人であろうと、その人を「善人」だと見なす人も「悪人」と見なす人もいるはずです。世間で「善人」と呼ばれる人は、その人を「善人」だと見なしてくれる人間の数が非常に多い、というだけです。


ああ、そうなんですか。私はあまりにもあなたが「事務所から」さんのコピペを激賞されているので、共感されているのかと思いましたよ。でも、だったらなぜ、私が上に「事務所から」さんへのレスの最後に書いたような意見にならないのか、不思議ですね。それに、そうであるなら、あなたの言う「本当の善人」って、存在しうるんですか?

>例えば、家族4人の利益だけを考え、4人以外に平気で不利益をもたらす父親は、4人家族の中では「善人」と見なせても、4人以外の人々から見ると「悪人」に見えるでしょう。この場合、父親を「善人」と見なす人間は4人しかいません。


ということは、あなたの善の定義では、今ちょうど『泥棒家族』という映画が話題ですが、仮に『殺人家族』のであったとしても、「本当の善人」ではないにしろ、善人でありうる、ってことですね。
でも、この考え方は『良心回路3.0』とは全然異なります。
『良心回路3.0』では、家族の利益と社会の利益が一致してみんなハッピー、となるとき初めて父も善人ということになるはずで、あなたは『良心回路3.0』に達していないってことですね(笑)
何を激賞されていたんでしょうか?

あなたの倫理学上の功利主義の考えについては、私は十分に理解しているつもりで、これも後で触れるつもりですが、とりあえずこの二つの問いであなたにのぞんでいたのは、むしろ人間行動の原理による説明だったんですよ。
ところが面白いことに、それに近い説明をMobiusさんが代わりにしてくれたので、この論点については、そっちでまとめて私の意見を述べます。
そこで、今ここでSumioBabaさんにはあと一つ、次のことを。

>本当の「善人」とは、自分個人の利益Maを最大にする行為が、そのまま社会全体の利益Mを最大にする行為と一致している人です


とあなたは「本当の善人」を定義しました。
では、本当の善人が存在したと仮定して、この人が(1)のような問いの状況において採る行動は、どういうものになるでしょうか。
ここでは問題を簡単にするため、社会全体の利益Mを最大化する行為を5人の子供を救うほうと仮定します。
すると、このA氏が本当の善人であれば、この社会全体の利益Mを最大化する行為を選択し、それが同時に自分個人の利益Maを最大化する行為であることになります。
つまり、行為が本当の善人の行為であるなら、次が成り立つことになります。

前提(ただし、行為=本当の善人の行為とする)
@ 5人の子供を救う行為=社会全体Mを最大化する行為(仮定)
A 社会全体Mを最大化する行為=自分個人の利益Maを最大化する行為(定義)
B 5人の子供を救う行為=自分の子どもを犠牲にする行為(状況的事実)
ゆえに(結論)
 自分の子どもを犠牲にする行為=自分個人の利益Maを最大化する行為

すなわち、あなたの本当の善人の定義によれば、この問い(1)の場合、本当の善人は自分の子供を犠牲にすることが、自分の利益を最大化することになる人であることになります。
これ、普通に解すれば「自分の子供を犠牲にするのが嬉しいんか?」ってことになりますよね?
本当の善人どころか、善人ですらないんじゃないかと思われませんかね。
これについてはどのように考えますか?

>>1312  Mobiusさん
期待どおり誘いにのっていただき、ありがとうございます(笑)

最初に驚いたことを書きます。
>>この思想では、真の善人は何をなし、それでみんなハッピーなんでしょうか?

>自分のできる範囲で最大限の“良いこと”をしていけばよいのではないでしょうか?

>(1)も(2)も「全員救う」は「できないこと」ですから。できないことに対する「アンハッピー」は引き受けられません。


以前の「ふくろう君問題」のときのあなたなら、どちらを選んでも「罪を負う」って言ってましたよね。考えを変えたんでしょうか?(笑)
私はある意味立場を変えています。あのときは、あくまで社会倫理、道徳の善悪を問題にしており、ここではそれでは解決しえないような問題を扱っているからです。

それと、あなたがSumioBabaさんの立場を利用して回答してくれたことも助かりました。私も利用させてもらいます。
で、まず、先の引用文の「アンハッピー」は引き受けられないとは、「罪を負わない」ということでしょうか。
もしあなたがどちらかの選択をしたとして、どっちでもいいですが、ハッピーになれるんですか?

>いずれの場合も、自分のために良いと思うことを選択するのが良い と思います。


この引用文中の二つの「良い」ですが、これらはそれぞれ「善い」ですか、そうではないのですか?

Mobiusさんの問題、これをBabaさんの問題としても捉えて論じたいのですが、ちょっと今は無理そうなので、いったん切ります。
Mobiusさん、中途半端になって申し訳ありません。
もう少し、じっくり考えたいので、時間をください。

1日前 No.1319

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Vk6

>>1319 ふくろうさん、

>Mobiusさん

>期待どおり誘いにのっていただき、ありがとうございます(笑)


思惑どおり、網に引っかかりました。(笑)


>最初に驚いたことを書きます。


> >>この思想では、真の善人は何をなし、それでみんなハッピーなんでしょうか?

> >自分のできる範囲で最大限の“良いこと”をしていけばよいのではないでしょうか?

> >(1)も(2)も「全員救う」は「できないこと」ですから。できないことに対する「アンハッピー」は引き受けられません。


>以前の「ふくろう君問題」のときのあなたなら、どちらを選んでも「罪を負う」って言ってましたよね。考えを変えたんでしょうか?(笑)


いいえ、考えを変えたわけではありません。(1)も(2)も 実際の場面では「全員救う方法を考え実行する」のような 与えられた選択肢以外を選ぶ余地を残しています。なので、それをしなかった場合、「不作為の罪」が発生します。
しかし、今回の思考実験では「選択肢以外は選べない」という前提で考えたので、「できないことに対する責任は負えない」としました。


>もしあなたがどちらかの選択をしたとして、どっちでもいいですが、ハッピーになれるんですか?


→ なれます。
(1)の場合、5人救う幸せが5、自分の子を失う不幸が1なら、差し引き4幸せになれます。
     5人見捨てる不幸が5、自分の子を救う幸せが10なら、差し引き5幸せになれます。

(2)の場合、いずれかの息子の命を救えたことに対する幸せを得られます。


時さんのいう「一元の境地」に達すれば、自分の子供も他人の子供も、単なる「人間」に過ぎないのではないでしょうか?(メタ視点というのは、そういうことでしょう?)


> >いずれの場合も、自分のために良いと思うことを選択するのが良い と思います。


>この引用文中の二つの「良い」ですが、これらはそれぞれ「善い」ですか、そうではないのですか?


前の「良い」が「善い」で、後ろの「良い」は ちがいます。

自分が善いと思わないことを「一般的に『善い』とされているから」という理由で選択するのは「偽善」です。


>Mobiusさん、中途半端になって申し訳ありません。

>もう少し、じっくり考えたいので、時間をください。


承知しました。いつも楽しい問題を出して下さり、ありがとうございます。

1日前 No.1320

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Vk6

>>1320 追記

> > >いずれの場合も、自分のために良いと思うことを選択するのが良い と思います。


> >この引用文中の二つの「良い」ですが、これらはそれぞれ「善い」ですか、そうではないのですか?


>前の「良い」が「善い」で、後ろの「良い」は ちがいます。


と書きましたが、後ろの「良い」が「善い」でも ほぼ意味が通じますね。

でもその場合、私だったら次のように表現をすると思います。

「いずれの場合も、自分のために『善い』と思うことを選択するのが『善い』である と思います。」


なので、私の意図としては、 >>1320 に書いたとおり、「前の『良い』が『善い』で、後ろの『良い』は『善い』ではない」です。

18時間前 No.1321

SumioBaba ★A5wHmsjWwP_yoD

>>1319  ザビビのふくろうさんへ

>ああ、そうなんですか。私はあまりにもあなたが「事務所から」さんのコピペを激賞されているので、共感されているのかと思いましたよ。でも、だったらなぜ、私が上に「事務所から」さんへのレスの最後に書いたような意見にならないのか、不思議ですね。それに、そうであるなら、あなたの言う「本当の善人」って、存在しうるんですか?

>>例えば、家族4人の利益だけを考え、4人以外に平気で不利益をもたらす父親は、4人家族の中では「善人」と見なせても、4人以外の人々から見ると「悪人」に見えるでしょう。この場合、父親を「善人」と見なす人間は4人しかいません。


>ということは、あなたの善の定義では、今ちょうど『泥棒家族』という映画が話題ですが、仮に『殺人家族』のであったとしても、「本当の善人」ではないにしろ、善人でありうる、ってことですね。


 「本当の善人」とは、純粋に「困っている人を助けたい」と思って人助けをしている人です。逆に、本当は「困っている人を助けたい」などという気持ちは無いのに、「褒められたい!」「ヒーロー願望を満たしたい!」「自分は善人だと自己陶酔したい!」といった別の欲望のために人助けしている人を「偽善者」と呼んでいます。「本当の善人」といっても、誰から見ても「絶対的善人(客観的善人)」という意味ではなく、同じ価値観の人から見れば「本当の善人」だとしても、別の価値観を持つ人から見れば「悪人」にもなります。

>でも、この考え方は『良心回路3.0』とは全然異なります。

>『良心回路3.0』では、家族の利益と社会の利益が一致してみんなハッピー、となるとき初めて父も善人ということになるはずで、あなたは『良心回路3.0』に達していないってことですね(笑)


 「社会」の範囲がいろいろあるのです。「社会」を4人家族に限定すれば、父親は本当に家族4人の利益を願って行動しているのであり、「偽善者」ではなく「本当の善人」です。しかし「社会」を村全体に拡張すれば、父親は村全体の利益のことなど考えていないので、「本当の善人」どころか「善人」でさえありません。

>そこで、今ここでSumioBabaさんにはあと一つ、次のことを。

>>本当の「善人」とは、自分個人の利益Maを最大にする行為が、そのまま社会全体の利益Mを最大にする行為と一致している人です

>とあなたは「本当の善人」を定義しました。

>では、本当の善人が存在したと仮定して、この人が(1)のような問いの状況において採る行動は、どういうものになるでしょうか。

>ここでは問題を簡単にするため、社会全体の利益Mを最大化する行為を5人の子供を救うほうと仮定します。


 この仮定に問題が有ります。何を「社会」と見なすかは恣意的なのです。A氏が5+1=6人全体を「社会」に含まれると見なすのを《設定1》、A氏が自分の家族だけを「社会」だと見なすのを《設定2》とします。

>すると、このA氏が本当の善人であれば、この社会全体の利益Mを最大化する行為を選択し、それが同時に自分個人の利益Maを最大化する行為であることになります。


 はい。そしてそれは、《設定1》であれば「自分の子供1人を死なせ、他人の子供5人を助ける」だし、《設定2》であれば逆に「他人の子供5人を死なせ、自分の子供1人を助ける」になります。

>つまり、行為が本当の善人の行為であるなら、次が成り立つことになります。

>前提(ただし、行為=本当の善人の行為とする)

>@ 5人の子供を救う行為=社会全体Mを最大化する行為(仮定)

>A 社会全体Mを最大化する行為=自分個人の利益Maを最大化する行為(定義)

>B 5人の子供を救う行為=自分の子どもを犠牲にする行為(状況的事実)

>ゆえに(結論)

> 自分の子どもを犠牲にする行為=自分個人の利益Maを最大化する行為

>すなわち、あなたの本当の善人の定義によれば、この問い(1)の場合、本当の善人は自分の子供を犠牲にすることが、自分の利益を最大化することになる人であることになります。

>これ、普通に解すれば「自分の子供を犠牲にするのが嬉しいんか?」ってことになりますよね?

>本当の善人どころか、善人ですらないんじゃないかと思われませんかね。

>これについてはどのように考えますか?


 上の説明は《設定1》の場合です。《設定2》の考察が欠けています。

 A氏が《設定1》の場合だと、確かに「自分の子供1人を死なせ、他人の子供5人を助ける」を選びます。そして、それを支持する人々にとってA氏は「本当の善人」に見えるけれど、支持しない人々にとってA氏は「悪人」(というか「変人」?)に見える、というだけです。
 逆にA氏が《設定2》の場合、「他人の子供5人を死なせ、自分の子供1人を助ける」を選びます。そしてそれを支持する人々にとってA氏は「本当の善人」に見えるけれど、支持しない人々にとってA氏は「悪人」に見える、というだけです。

 つまり、「「本当の善人」だったらどちらを選ぶか?」という質問がおかしいのです。どちらを選ぶ可能性も有ります。A氏が「自分の子供1人を死なせ、他人の子供5人を助ける」を選んだ場合、それを支持する人にとってA氏は「本当の善人」に見えるし、それを支持しない人にとってA氏は「悪人」に見えてしまいます。A氏が「他人の子供5人を死なせ、自分の子供1人を助ける」を選んだ場合、それを支持する人にとってA氏は「本当の善人」に見えるし、それを支持しない人にとってA氏は「悪人」に見えてしまいます。それだけのことです。

    補足
 ザビビのふくろうさんが参加して下さると、議論がレベルアップして楽しいです。またいつかのように、ザビビのふくろうさん、時さん、Mobiusさん、SumioBabaの4人が集まりましたね。たまには意見が一致せず、論敵になる場合も有りますが、こうして同じ問題について議論し合えるだけで、貴重な論友ですね。皆さんたちにはとても感謝しております。もちろん、4人に限定している訳ではないので、議論に参加したい方は誰でも大歓迎ですね。

17時間前 No.1322

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>>1319
訂正があります。

>今ちょうど『泥棒家族』という映画が話題ですが、


と書きましたが、
『万引き家族』
が正しい題名です。
現在論じているテーマからしても興味深い映画であると思い触れましたが、
あろうことか題名を間違ってしまいました。
是枝監督をはじめ、映画関係者各位に対してお詫び申し上げます。
失礼いたしましたm(__)m

>みなさんへ


細かいことかもしれませんが、設定に少し変更を加えます。
まあ、意図を理解してくださっている方には不必要な変更かとも思いますが、
ちょっと面白いかなと思ったので。別に必要ないと思う人は、どちらでもいいです(笑)

最初、A氏が気づいたとき、貨車は5人のほうへと向かっていて、A氏はとっさに切り替えようとします。
しかし、そのちょうど半分いったところで、そのもう一方の路線に自分の息子がいることに気づいたとします。
そして、ちゃんと切り替えないと貨車は脱線することは必定ですが、その貨車はデモンストレーション用の貨車で、それには同じく児童が数多く乗っており、脱線すれば惨事になることは目に見えているとします。

>Mobiusさん

ありがとうございます。
ひとつ確認したいんですが、その善いと思うほうを選んだ場合、例えば子供を救うほう、あるいは老婆の場合はですが、罪を負わないんですか?

>時さん

>> 時さんは、この「べき」がある限り、自動的に

>> 「問題ない」のほうが上、とみなすのではないだろうか(笑)

>べきであろうとなかろうと、上であろうとなかろうと、問題ありません。が答えですよ(笑)


キルケゴールの単独者の次元が「哲学の井戸という世界観から抜け出せていない」というのが、宗教哲学的に見て真であるか否かは重要な問題ですし、その判断が正しいか否かを知りたい私にとっても、その判断基準を知ることは重要な問題です。
「問題ない」のは、あくまで涅槃に入られた(?)あなたにとって、という話で、
要は、あなたにとってはもう問題じゃない、すなわちどうでもいいってことになります。
これは人間視点では「自己中」ということになりますが、聖者視点のあなたには「問題ない」ことなんでしょうから、私としてはいたしかたありません。
それと、これではっきりしましたが、あなたのおっしゃるとおり、あなたがしているのは人生哲学であって、哲学ではありませんね。私の認識不足でした。
まあ、これもあなたにはどちらであろうと問題ないでしょうけど、哲学的には一応問題なので、しつこくてすみませんm(__)m
私も今回、あなたの人間性が垣間見えた気がして(あくまで人間視点では、ですが)、なかなか興味深かったです。ありがとうございます。
前述したように、これまであなたに書いていただいたものを参考に、仏教的世界観とキリスト教的世界観との考察をできる範囲で続けるつもりです。
「あなたにとっての必然性」が生じたときレスいただければありがたいです。

17時間前 No.1323

★3Pa7VaDx3Y_A7b

>>1323  ザビビのふくろうさんへ

> 「問題ない」のは、あくまで涅槃に入られた(?)あなたにとって、という話で、

> 要は、あなたにとってはもう問題じゃない、すなわちどうでもいいってことになります。

> これは人間視点では「自己中」ということになりますが、聖者視点のあなたには「問題ない」ことなんでしょうから、私としてはいたしかたありません。


お書き頂きました、涅槃に入ったとか聖者視点とかが、私にとってのどうでもよい事ですよ。ここでの問題は・・

> これは人間視点では「自己中」ということになりますが、


という一文です。本当にこれが自己中なのでしょうか?

http://mb2.jp/_tetsugaku/970.html-1421#RES
>「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事とを一般には「自己中」と表現されているのでしょう。実際にはこのような事は不可能な事なのですが、それでも多くの人は、これに飽きずにチャレンジしていますね。


最終的に、私(時)にとって「問題はない」という結論に至ったことが、「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に変化させようとしている=自己中だというご認識なのでしょうか?

問題はありませんというのは、上とは逆で、全てを受け入れているからこその結論です。

つまりは

http://mb2.jp/_tetsugaku/970.html-1421#RES
> ではどのようになれば「平穏、平和」が実現するのでしょうか?

> これを文字でつづることは至極簡単です。「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に変化させようとするのではなくて、「心で思い描いている世界」を「具現化する外の世界」に一致させてやればよいのですね。これを言い換えると、周りで起こること全てを受け入れるという事です。


この考察については、ご賛同頂いていたと思うのですが。

それでも私(時)が「自己中だ」と思われるのであれば、それこそいたし方ありませんね。私は、それを受け入れましょう。

14時間前 No.1324

★3Pa7VaDx3Y_A7b

>>1320  Mobiusさんへ

> 時さんのいう「一元の境地」に達すれば、自分の子供も他人の子供も、単なる「人間」に過ぎないのではないでしょうか?(メタ視点というのは、そういうことでしょう?)


人それぞれの世界観で、様々な表現でよいと思います。

しかし私の表現した一元の視点では、単なる「人間」にすぎない。と言う視点とはなりませんね。

違う表現をすると、一元の世界観は、全ての命の根源の世界です。そこには二元世界での善も悪も存在しませんよ。そしてMobiusさんが「自分の子供も他人の子供も、単なる「人間」に過ぎないのではないでしょうか?」とその世界観を独自の表現をされるように、同じく、私も私の世界観でこの表現をしたという事です。

12時間前 No.1325

★3Pa7VaDx3Y_A7b

>>1322  馬場さんへ

>  つまり、「「本当の善人」だったらどちらを選ぶか?」という質問がおかしいのです。どちらを選ぶ可能性も有ります。A氏が「自分の子供1人を死なせ、他人の子供5人を助ける」を選んだ場合、それを支持する人にとってA氏は「本当の善人」に見えるし、それを支持しない人にとってA氏は「悪人」に見えてしまいます。A氏が「他人の子供5人を死なせ、自分の子供1人を助ける」を選んだ場合、それを支持する人にとってA氏は「本当の善人」に見えるし、それを支持しない人にとってA氏は「悪人」に見えてしまいます。それだけのことです。


そうですね。それだけの事です。(笑)

A氏は、どちらも選ぶ可能性があり、それを見た人の世界観で、その善悪がそれぞれの世界で展開されるだけですね。

何か場違いなような気がしますので(笑)、この辺にしておきます。

11時間前 No.1326

事務所から ★W2QAUhmrB8_EJR

ザビビのふくろうさん

ザビビのふくろうさん命名「良心3.0さん」ですが、良心回路3.0に到達する前に、自分と向き合って自分に出来る事、出来ない事、自分がやりたい事、やりたくない事を把握しており、高い自己分析能力を持っておられるでしょうから、出来ない事はやらないでトロッコ問題だと自分が出来うる範囲の行動で助けたい方を助けるだけだと思います。

行動としては、
1.トロッコの安全対策緊急停止ボタンを探す等してトロッコを被害をださずに止めれれば止める
2.トロッコが止まらないと判断すれば、トロッコがどちら側に行くにせよ、トロッコが向かってる側の方に逃げるように呼びかけて犠牲を回避しようとする。(この時どちらを優先するかわかりませんが、私はそう簡単に人間は自分の情愛を捨てれないと思うので自分の子供が大切なら自分の子供を優先すると思います。思ってる程大切じゃなければどれでも一緒なので単に人数が多い方を優先するでしょう)

3.どうやっても犠牲は避けえないと判断すればただそれを受け入れる。

この問題だとここだけで終わってしまうように考えられがちですが、現実だと確実にその続きがありますので、その後
4.「良心3.0さん」は落ち込んで時間を無駄にするような事はせず、事故再発を防ぐために事故原因の究明と対策に乗り出す。

5.事故の再発要因を取り除き、もう悲劇は起きないと満足し自分もハッピー周りも悲劇を乗り越えみんなハッピー

・ポイントとしてはみんなハッピーな方法を模索、その時点でそれが無理ならそれを受け入れその前段階の自分のやりたい、やれる事をやるだけの状態に立ち返る。
・犠牲が出た場合は悲劇を悲劇のままで終わらせないように出来る範囲の改善努力をする

こんな感じでしょうか。

9時間前 No.1327

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

申し訳ありません・・

何故トロッコごときを止められないのですか?

8時間前 No.1328

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

トロッコ問題・・やるかやられるか・・

なんとなく体育会系の問題ですね・・

8時間前 No.1329

★XYagQ3DNXE_A7b

>>1327  事務所からさんへ

横レス失礼します。

> ・ポイントとしてはみんなハッピーな方法を模索、その時点でそれが無理ならそれを受け入れその前段階の自分のやりたい、やれる事をやるだけの状態に立ち返る。

> ・犠牲が出た場合は悲劇を悲劇のままで終わらせないように出来る範囲の改善努力をする


人間、その瞬間瞬間を精一杯生きて、何か事あるごとにその分岐点で最善だと(その瞬間に)判断した道を選び、それが結果として非難の的になろうとも自身のとった言動に対する一切を受け入れて、そしてまた、次の最善の道を模索するという事でしょう。

ここで一番問題であろうことは「一切を受け入れて」という部分だと思います。

受け入れられない場合には、罪悪感や自己嫌悪という感情が湧き起こり、その不快感を外に出す場合には(自分以外の人に対しては)その行為の理由と称して「自分は悪くない」という意味を込め、その言い訳で自己弁護するのでしょう。最近のワイドショーもこれでにぎわっていますね。

お邪魔様でした。

8時間前 No.1330

★y8EVIyeXH3_A7b

>>1328  宿題さんへ

> 何故トロッコごときを止められないのですか?


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C

>まず前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。


止められない設定だからですよ。

8時間前 No.1331

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

時さん

設定が絶望から始まっていますね・・

結論でどう転んでも絶望しかないように導く悪魔の設定ですね・・

7時間前 No.1332

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

時さん


結論でどう転んでも絶望しかないように導く悪魔の設定ですね・・

最初の設定が・・超越判断や機転の改善を遮断する・・悪魔の設定ですね・・

7時間前 No.1333

★op0t4O8U9S_A7b

>>1333  宿題さんへ

まぁ、そのような設定であなたはどのように考えるのだろうか?と言った思考実験ですので。私には、難しい事はわかりません(笑)

6時間前 No.1334

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

時さん

一流の数学者でさえ必ず発狂するような数学の難問を見たことないでしょう?

6時間前 No.1335

★op0t4O8U9S_A7b

難しい事が分からない私は、難しい数学の問題を見ませんし、見ても解りません(笑)

以上です。

6時間前 No.1336

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

時さん

本当の哲学は数学より難しいのですけど・・

文系や中学生の精神だと生噛りで自分が何でも知っている気になられている人は多いです・・

6時間前 No.1337

宿題 ★hxYn2UbX46_BXv

時さんの好きな仏教の初歩です・・

 顕教と密教 けんぎょう と みっきょう

顕教と密教は、よく対にして扱われます。誰がどの様に説くかで、顕教と密教は分けられます。

顕教は、お釈迦様が聞く人の能力に応じて、分かりやすい言葉で顕あらわに説いた教えです。

それに対し密教は、真理そのものの現れとしての大日如来が、究極の教えを示したものです。

師匠から弟子へ厳格なルールを持って、教えや作法が伝えられます。神秘的な要素が多く、非公開的な部分が多い、秘密の教えです。

6時間前 No.1338

★30JjgxOVKX_ZFe

>1297の(2) につて、

その老婆は、その将校に言いました。
「こんなことをしてはいけません!こんなことは善いことではありません!」
その将校は、言います。
「ええい!うるさい!」
老婆は将校の銃を奪い取ろうとします。でも、それはそれ、力のある将校にはかないません。
結局、老婆と2人の子どもは、将校に撃たれて死んでしまいました。

この4人の登用人物の中で一番善い人は誰でしょう?

わたしは、道徳的には、将校だと思ってるけど。


とことで、(2)でわからないところは、

「人質として銃殺します」っていうところと、「老婆」ということからして、その両方のご子息はある程度成人じゃないかしら?とすると、その二人はどうしようと思ってたのかしら?

トロッコ問題でもそうね。思考実験って、何なヌケてる感じ。

4時間前 No.1339

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Vk6

>>1325 時さん、

返信ありがとうございます。

私は、 >>1313 に書かれた

>二元の世界は、単純に狭い個人の井戸の視点の世界の事です。人視点での世界観です。

>一元の世界は、天界、神の処、相対的なこの世界(上記の二元の世界)から見たときの矛盾した世界です。ですのでこちらでの視点を、神視点と表現しています。こちらは上記の人視点での井戸を多く集めて、それをツバメの視点で見ているような視点です。この二元の世界を観ているメタの視点の世界観の事です。

という文章から想像される意味で「一元の境地」という言葉を使いました。

しかし、私の想像と 時さんのいう「一元の境地」とは異なる ということを理解しました。ご指摘ありがとうございました。

4時間前 No.1340

Mobius @mobius☆iuWFdm42ChI ★etljaCOMxB_Vk6

>>1323 ふくろうさん、

>ひとつ確認したいんですが、その善いと思うほうを選んだ場合、例えば子供を救うほう、あるいは老婆の場合はですが、罪を負わないんですか?


Babaさんが >>1322 でおっしゃったことと被りますが、責任範囲の定義次第で罪を負うか負わないかは変化すると思います。

以上です。

------------------------
ここから下は、自分の価値観表明になります。

・転轍器操作者は、業務上はトロッコ暴走の責任を負わない立場の人だと思います。であるならば、いずれの選択をした場合も罪は負いません。負うのはこの現場の“責任者”以上の人たちです。

・老婆には何の責任もないわけですから、何の罪も負わないと思います。但し、この場合1名を救う能力があるわけですから、それをせずに2名とも死なせてしまったとしたら、個人的ににはもやもやっとします。

4時間前 No.1341

shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_BXv

>>1339  游ちゃん

>この4人の登用人物の中で一番善い人は誰でしょう?わたしは、道徳的には、将校だと思ってるけど。<

いったいあなたはどういうう道徳観なのw 游ちゃんのことだからなにか深い意味があるのかもね。


「お二人のご子息のうち、片方を人質として銃殺しますが、」って文章はおかしいよね?「片方を銃殺します」でいいでしょう。

善の定義でいえば息子二人の内、思いやりの在りそうな、人の為と考えられる息子を残すね。また年が大きくはなれているなら年下の子供を残しますね。息子を殺すのが婆さんへの復讐ならば、できれば婆さんが自殺すれば息子二人は助かるかもしれない。


トロッコ問題は私のブログでも書いたが、5人というのは微妙なところなのよ。だから私の答えはその時の判断次第だと書いている。5人の死は運命でもあるし、一人を殺すのは自分の恣意的なものだから。ねえ、私は功利主義者ではないでしょw しかし10人なら切り替えて一人を殺すとおもいますよ。
多くの人は5人を助けるというけど、じゃ2人対一人ならどうしますか?切り替えますか?難しいのよ、この問題は。

このトロッコ問題は運命についての問題であり、人命の尊さという問題なのに「本当の善人」はどっちって何?善の定義が出来ていない人たちが本当の善人といってもね〜。


しかし「事務所から」さんのいくつかの投稿みていれば、その人のレベルが徐々にわかってきますねw 善を分からないおばさんの書いたものをコピペしてこれが正しい答えだと言いたいのだろうか?


>>1341  Mobius さん

あなたは犯人のナイフを奪うのも罪だという。あなたはまず罪の定義をしてくださいね。

3時間前 No.1342

雑記 ★Gc8HjmXH4j_EJR

糞会社をどうやって淘汰するか

 一番いいのは中の人に弁護士けしかけて訴訟してもらうことです。
アメフト部みたいな会社いっぱいありますから。

 前に書いたおさらいでもしますか。

場当たり的な営業
 経営者が頭悪いし、ワンマンだし、当たって砕けろとそればかりだろうから、
売れる営業にマージン渡せばいい出来ないやつは切り捨て、正直に渡すとそんだから、
一番だけを優遇するわけ。10人居て9人ピンはねして、一人だけに3人分ボーナス渡すと、
6人分懐に入るでしょ。他行ってもらったほうが得ですよ。ノウハウ無いですよ。

そもそも営業とは
 語るつもり無いですけど、売れない保険屋のブログというやつでプルデンシャルの研修について、
書いてありました。事あるごとに、自分の大切な人が事故にあったらどうしようという危機感を、
植え付けて必死に説得させると言うだけの話です。大抵の営業なんてそんなものじゃないですか。
物を買わせるには合理性に訴えるか、弱みに付け込むかどっちか。両方はないんですよ。
矛盾するから。弱みに付け込むというのはギャンブル好きに必勝法を売るようなものです。
合理的ならそんなのは無いとわかりますから両立しないということです。
糞会社ってのは人の弱みにつけこむのは上手いんですよ。だけど系統立ててやってるわけじゃない。

資金管理がずさん
 売れなきゃとっととつぶれますよ。貯め込むなんてできないよ。

どうやってカモるのか
 こういうことを考えなかったのが問題だったんだろうね。
営業として入るんじゃなくてもっと虚栄心をぐすぐるようなセールを仕掛けなかったから、
はびこってはびこってしょうがなかったんだと想います。

55分前 No.1343

雑記 ★Gc8HjmXH4j_EJR

企業の悪口なら

 いっぱいかけますね。

書きましたね。前どこかでみたんですが、先輩のエンジニアが辞めて、
後輩がひきついであっぷあっぷになって、疲れたので辞めることにしたんですよ。
社長がやる気さえあれば、キャパオーバーしてもできるんだ、成長の機会を、
みすみす逃すのかと言って、励ましたけどやめちゃったと。
日本のエンジニアは無能揃いだって。

アメフト部も似たようなもんですよ。

似たような話が、東京オリンピックでボランティアを釣るのにやりがいを持ち出すでしょ。
ところが思ったように集まらないようで、広告費をかけてやりがいをアピールするみたい。

結局やる気なんですよね。

甘えるなという言葉あるじゃないですか。
何度も書くけど、甘えるというのは日本社会の理想なんですよ。
というのが、甘えの論理という話の要旨でした。
甘えるなというのは真逆で、一方で献身を求め続けたのが日本企業なんですよ。
日本企業が優れた技術力を有したのは自分のリソースを企業に向けさせて、
社員にはろくに払わなかったからです。何度もいいますけど、それは、終身雇用が前提です。
そうでないとまともに機能しませんよ。

肝心なことは、立派に見えるような会社でも、アメフト部みたいな実体はハリボテ。
そんなのがいっぱいあるということです。
安く作るなら中国でも高品質なものできるんですよ。だから、品質では競争力はなくなった。
中国で毒ギョウザとか話題になりましたけど、あれはわざとやってるんであって、
中国人がばかというのは間違いで、かなり利口なんですよ。
信用スコアとか使いだしてるし。電子決済もするし、戦争で核でも使われて、機械が、
おしゃかにでもならないかぎり、中国が日本をたたきつぶしますね。

 中国もものを売るのは下手くそなんですよ。それは日本も一緒で、実はアメリカのほうが、
ものを売るのが上手いんですよ。アイホンとかアイパッドとか、フェイスブックとか、
ツイッターとか考えてみたら、結局自撮りがブームだったと言うだけですね。
インスタグラムにしろ、ラインにしろ、どれとっても突き詰めれば自撮り機能にいきつきます。
手を変え品を変えてやってることは自撮りばっか。どれだけ自分を写メできる機能を
アピールした企業がバズってたんですよ!!

37分前 No.1344

雑記 ★Gc8HjmXH4j_EJR

バズる私!!

 これからはこれがヒット!!

これを提供するのにものを売る必要はないんですよ。
ノウハウや手順や方針だったり、セミナーだったりするんですよ。
自撮りして何が嬉しいのということをこれを箱によってつくられた需要で説明すると

 私がでるのは箱にとってゆるしません。

で、前見た動画で、フクロウ?に爆竹をまきつけて火つけて飛んで逃げて空高く上がって、
パンって弾けて落下してお友達と笑い合ってる胸糞わりーものをみまして。

自撮りって本質的にそれと一緒ですよ。

ケーキを写すとか有名人と一緒に記念撮影することも本質的には自撮りです。
関連付けですか。権威付けと言うか、悪いことして目立つのかいい事して目立つのか
そんだけの違いです。

別に、宣伝媒体としてテレビや新聞のチラシ、ネットの動画CMにしろ、注目集めることが、
ビジネスとして成立してるわけですよ。
売買として成立するには、需要を提供するがわと供給する側が互いを知らないといけない。
それをどれだけ低コストに抑えるのかということが、商業ベースでの成功に直結する。
見てもらうこと自体は次にいかにして需要を掴むかということが重要なわけで、
日本企業というのはその需要を掴むということができないというのが、
物を売るのが下手ということです。どうしてそういうのかというと、アメフト部みたいな、
ところで働いてる以上、頭がどんどん悪くなるし、人の気もわからないですし。
ものを作るより、どうやって売るのかということを考えるほうが難しいというのが、
ネットでみますけどね。日本なんて経済大国じゃないですかという意見ですが、
それは、まだ私に言わせるなら、開拓の余地があるということです。
技術による、これからのトレンドはそれ以前の、バズるやりかたなんですよ。
手持ちにある、スマホにいかにして企業が物を宣伝するかということをいまだにやってるわけ。
でもそうじゃなくて、ユーザーをバズらせることが商戦になりますよという話です。

22分前 No.1345

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>>1324  時さん
レスが遅れてすみません。

>「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に一致させようとする事とを一般には「自己中」と表現されているのでしょう。


いえ、私はそんなメタ視点に立っておられるあなたにとっての意味で「自己中」を用いているのではなく、前述しましたように、あくまで人間視点の意味で用いています。

じこ‐ちゅう【自己中】の意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)
[名・形動]《「自己中心的」の略。「ジコチュウ」と書くこともある》何事も自分を中心に考え、他人については考えが及ばないさまをいう。自分勝手。利己的。「自己中な発言」→自己中心性

ですので、
>最終的に、私(時)にとって「問題はない」という結論に至ったことが、「具現化する外の世界」を「心で思い描いている世界」に変化させようとしている=自己中だというご認識なのでしょうか?


いいえ、そうではありません。

>問題はありませんというのは、上とは逆で、全てを受け入れているからこその結論です。


あなたにとっては、そうなのでしょうね。

>この考察については、ご賛同頂いていたと思うのですが。


 もちろんです。
  ですから、あなたにとって、利己であろうが利他であろうが何の問題もないであろうことはそのとおりなのだろうなと思いますよ。

>それでも私(時)が「自己中だ」と思われるのであれば、それこそいたし方ありませんね。


私の人間視点から言えば、「時さんが自己中(利己的)である」ということは正しく、
時さんのメタ視点から言えば、「そんなことはどうだってよい(笑)」ということが正しい、
それだけのことです。問題ありませんね。

このようなどうでもよいことでわざわざ昏い井戸の中までご足労いただき、申し訳ありませんでしたm(__)m

14分前 No.1346

雑記 ★Gc8HjmXH4j_EJR

自撮りやバズることばかり

 だから、新しいテクノロジーが社会に台頭しないんだな。
新しい選挙制度もでないし、電子政府もでないし、臓器の複製も出来ないし、
3Dプリンター住宅も市販されないし、ブロックチェーン物々交換も一般じゃないし、
会社制度も特許も古いまま、オープンソースがとってかわっていいのに、
いまだに特許が幅聞かせるし。

 今思ったんですけど、オタクが自分の趣味を押し付けるのと
自撮りってどんぐりの背比べですね。話変わるけど、大谷がいくらヒット飛ばそうが、
メジャーで活躍してすごいって根本的に間違ってて
日本で活躍できて本当にすごいとあるべきですよ。

 自分を目立たせるのが日本って好きじゃないんですよ。
自分が自分がとワガママいうなと習うんですよ。会社で目立つというのは会社にとって、
目立つということであって、自分が自分の我を通すというわけではないのですよ。
自分が自ら会社にとって会社が儲かるようにイニシアチブを取るというのが、
主体性だと会社の定義なはずです。これが、まともにわからなかったから、
ツイッターもフェイスブックもインスタグラムも作れるわけないんですよ。
そんな事してどうなるんだと成るんですよ。

これは、言い換えると、会社自体に半分嫌気さしてるってことなんですよ。
それは日本だけではなくてアメリカでもそうでしたということです。でもアメリカ人は、
商売にしたんですよ。技術好きだから。

9分前 No.1347

ザビビのふくろう ★UeJTXbNcLw_8gk

>みなさんへ


えー、私ふくろうはこれまで分かっていなかったんですが、複数の方にそれぞれ異なるレスを書こうとすると、とてつもなく大変ですね(笑)
なので、本当はもっと丁寧にいろいろ述べたいことはあるのですが、かなり省略して、絞ったものになるかもしれませんが、ご了承ください。
で、名前を挙げて書きますが、内容的にはみなさんへ向けてのものです。
名前をきちんと挙げていませんが、一応「事務所から」さんの >>1327 に対するコメントもあります。

>SumioBabaさん


おほめいただき、ありがとうございます。
ご存じのように、私のような嫌味で傲慢な人間と議論を楽しんでいただけるのは、あなた方が理性的であって、人格上も忍耐強く寛容な方たちだからであり、感謝しています。
それと、あなたに関しては、学問に対する真摯な姿勢を尊敬しています。
ただ、議論となりますと論敵なので(笑)、歯に衣着せぬ論者として遠慮なく意見させてもらいますのでよろしくお願いします。

「本当の善人」だったらどっちを選ぶかという問い自体がおかしいというご意見ですが、私はそもそも「本当の善人」などという概念がおかしいということを示そうとしたわけです。ただ、その際「良心回路3.0」を支持していらっしゃると思っていましたので、あのような論証をしたのです。まあ、今回のお話しでは、ほとんど「偽善」に対する意味で「本当の善」という語を使ったような感じですし、とりあえず措きます。
もっと問題は、私、あなたの功利主義を十分わかっていると言いましたが、いつものように忘れていまして、あなたが個人主義的相対主義者であって、本来疑似功利主義というべきものであることを失念しておりました。
功利主義は、広義では利益を計算可能とする立場ですから、あなたの立場と共通するわけですが、ふつう「最大多数の最大幸福」という標語で特徴付けられるように、利他性が条件として含まれていますので、仮に個人的に最大利益があろうとも、それが最大多数の最大利益」にならない場合は、なすべきではない、ということになって、ここに「べき」が担保されます。
しかし、SumioBabaさんの場合、「社会」すら恣意的とおっしゃるわけで、個人にとっての善すら認められるわけですから、個人=社会とみなした場合、アプリオリに社会の利益=個人の利益となり、実質何でもあり、ということになります。例えば、前にも言いましたが、快楽殺人者による殺人でさえ、本人(及びその支持者)にとっては善であり、悪とみなす人々にとって悪であるにすぎない、ということになります。
したがって、ここでは「べき」というものが失われますので、倫理説としては破たんしているというのが私の見解です。
つまり、あなたの見解は、既に倫理的問題を無意義化してしまっているということです。
これは前にも述べたことで、根本的問題ではありますが、これは一応ここまでにします。

>Mobiusさん

なんか、今回かなりSumioBabaさんの立場に近いというか、同じじゃないかという気さえするんですが、違いますかね?
まあ、多世界解釈によるメタ視点での説については違う考えでしょうが、今回の問題に関する考え方は近いように思いますが、どうでしょう?
>>1312
>いずれの場合も、自分のために良いと思うことを選択するのが良いと思います。

>>1320
>前の「良い」が「善い」で、後ろの「良い」は ちがいます。

>自分が善いと思わないことを「一般的に『善い』とされているから」という理由で選択するのは「偽善」です。


とりあえず、次のように言い換えます。
「いずれの場合も、自分のために善いと思うことを選択するのが良いと思います。」

ここで、Mobiusさんの立場が今回SumioBabaさんの立場と近いということで、この「善い」を「(自分にとって)望ましい」「自己利益が得られる」と同じ意味とします。
すると、次のようになります。
「いずれの場合も、自分のために望ましいと思うことを選択するのが良いと思います。」

ところが、望ましいと思わないのにすることは偽善ということですので、望ましいと思うことを選択すべきという考えでしょうから、次のように言い換えます。
「いずれの場合も、自分のために望ましいと思うことを選択するべきだと思います。

いつも問題になる規範の「べき」ですが、ここにも出てきましたが、そこでこのMobiusさんの主張が倫理命題であるとしたら、
「気持ちに正直に選ぶべきである」
ということだろうと思いますが、私はこれは倫理命題としては、はっきり言って破綻していると思います。
少なくとも一般的には成り立たない主張です。
なぜならBabaさんの考えと同じく、快楽殺人もしたいならすべきであることになってしまうからです。
倫理命題としては、私は「善い」を「望ましいこと」ではなく、当然「なすべきこと」としなければならないと考えます。すなわち、
「なすべきと思うことをなすべきである」
と考えます。

さて、ここで質問(1)に戻り、A氏が私の言う意味で倫理観の非常に強い人間であり、かつ、自分の子供を非常に大切に思っており、自分の命より大事に思っているほど愛しているとしましょう。
彼は、最愛の息子を気持ちとしてはもちろん救いたいわけです。
しかし、彼は倫理観が強く、親としていくら自分の子供を救いたくても、人として5人の子供を見殺しにするわけにはいかないと思い、苦渋の決断で5人の子供を救うために最愛の自分の子供を犠牲にしたとしましょう。
さて、Mobiusさんはこの人に向かって言います。
「あなたは偽善者だ」と。

私は断じて違〜う!と言いたい(笑)。
彼こそが倫理的人間と呼ぶにふさわしいのだ。
個人の利益が最大なぞということはありえない。
彼は、自分の利益を断念し、利他を、「べき」を、倫理を優先したのだ。
それが、彼の個人的利益を最大化する行為であるはずがないのだ。
そのようにみなすことは、倫理の無意味化です。
MobiusさんとSumioBabaさんの立場は、ともに倫理を無意義化しています。
人の選択行為を個人利益の最大化としてのみ捉える限り、功利主義の規範性さえ失われ、それは倫理ではないのです。

「事務所から」さんもこう言っている。
良心回路3.0さんは
>トロッコ問題だと自分が出来うる範囲の行動で助けたい方を助けるだけだと( >>1327 )


なぜ、助けたいほうを助けるだけの人間が良心の人間なのか?
助けるべきと思うほうを助けるのが良心に従うということだろう
倫理、すなわち「人としてどうなすべきか」というのは、「何をしたいのか」ではないのです。
望ましいことを、自己の利益を最大化する行為を選択するのは、良心に従うことではない。
したがって倫理的行為ではないのです。

ほんとはもっと書きたいことがあるのですが、一応、今回のレスは以上にします。
はっきり言って、時間がなかったので、勢いで書いて推敲もしていないので、かなり穴だらけかもしれません。
みなさん、突っ込むチャンスですよ(笑)

7分前 No.1348
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