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君や知る 南の国

 ( 中高年掲示板(老) )
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Mignon ★lwuD1BWYH0_m9i

「君や知る 南の国」    森 鴎外 訳


 レモンの木は 花さき  くらき林の中に

 黄金色の柑子は     枝もたわわに実り

 青く晴れし 空より   しずやかに風吹き


 ミルテの木は しずかに

 ラウレルの木は 高く

 雲にそびえて立てる国を 知るや かなたへ


 君と共に ゆかまし。

2年前 No.0
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Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

夜中も 朝も 大きな音がする。雨は 激しく振っている。それでも 昨日売れ残った「すだち」を 夫は道駅に届けた。ようやく「柿」が出始めたらしい。平塚に行っている友人からのメールでは「柿」を楽しみに待っている様子。

娘夫婦の土産話になればよいと思っていたのだが 明日はもう博多に帰ってしまう。こうなれば「両方」に送るか?

今日は「デイズニー・ランド」の「ランチ・ショー」を予約しているとのことだが この雨ではどうなのだろう?我が家は「テーマ・パーク」を好まないから デイズニーにはいっていない。なんといっても「大阪万博」を経験しているだけに それ以後は興味がない。

術後の体で 我が家には「かまぼこ」を送り 遊びに行くという。帰宅してから また 倒れるのではないか?と心配だ。

私は二日間「風邪薬」と「鎮痛剤」を飲み続けて 眠り、今朝は気分がよい。畑仕事を楽しみにしていたのだが 雨降りで何もできない。

高校の「同窓会通知」と会員通信を読んで、とうとう「同窓会」に顔を出す機会がなかったことを振り返る。地元を離れてしまっては「浮き草」と同じ。母の望み通り、早くに結婚して家を継いでいたら 同窓会が身近に感じられただろう。

今、私の相棒は 夫と子供だけ。親戚はなく 夫の親戚とも疎遠。やがて 一人になる。

家族がほしくて 無理やり自分をなだめて結婚したけれど 家族といえる形にはならなかった。苦労だけが増えて。

今朝のモーニング・ショーは神戸の中学教師のいじめとその処罰だ。いじめはひどいものだったけれど「処罰」もひどすぎないだろうか?

教員資格剥奪とも言われている。処罰は必要だがいじめ教師の人生が破滅しないだろうか?それもきっと「トカゲのしっぽ切り」二なるに違いない。本当に悪いのは誰だろう?構造を生み出してきた「政治家」ではないだろうか?

そして「政治家」の「処罰」は甘すぎるのではないだろうか?

世界は 悪くなっていく。それが 心配だ。

28日前 No.186

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

今日で3日は 寝込んでしまった。起きる時には 大量の食物を摂取する。これは 良くなっている証拠なのだが、あまりの食欲に呆然とする。そして 食べる割に体重は増えていない。と、いうことは「脳の代謝」が激しくなっているのではないだろうか?

先日までは ストレスがあったけれど今はとりあえず気楽にしているけれど。「認知症」の前触れかな?

ウトウトしている間に「平塚」に行っている友人から「小田原名物」の「さかな」がたくさん届いた。お見舞いを貼りこんだからとは言えこんなに「快気祝い」を返してもらったのでは意味が無い。

「しきたり」通りというのは 理解しがたい。でもまあ 嬉しい贈り物ではあった。孫の祝いか?デイズニー・ランドには行けたのだろうか?下手に聞けば 返事が怖いが、聴いては観た。

明日は博多に帰る予定のはず。やはり 博多に居てくれないと気が落ち着かない。「柿」も送らねばならないし、歯医者にも行かねばならない。

あれもこれも 気になるが。

28日前 No.187

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

久しぶりに 晴れたのに、私の体は不調で家事は出来なかった。夫が 博多の友人に送る「柿」を たくさん収穫してくれて 夕方には郵送してくれた。

大好きな「柿の山」を観ては食べずにはいられない。

完熟の「柿」の甘さ、柔らかさに引きずられて とうとう20個も食べてしまった。これが原因か?胃が痛い。

朝も昼もずっとテレビ・ドラマの「最上の命医」を観て過ごした。「斉藤 工」という俳優が魅力的だった。シナリオもヒューマニズムに満たされて 心が洗われるような気がした。

ドラマはこんなに人間味に満たされているのに 現実はどうしてこんなに矛盾に満ちて抜き差しならないのだろうか?と、まるで 青春時代のように 心が震える。

ある「小児外科医」の物語なのだ。生まれつき心臓に血管を持った主人公が幼い頃に命を助けられた医者の手ほどきを受けて高邁な精神と技術で多くの命を救い上げてゆく。

自らも 末期がんに侵されながらも 手術をする。ハラハラとするストーリーは やがて 米国の最先端治療を受けて 無事延命するという。

読者の心を 鷲頭髪にする展開だった。現実もこのように展開してくれるなら生きることは 幸せに満ちているだろうが、そうはいかぬ。

七転び八起きと言い換えれば 簡単で分かりやすいが ずっと転びっぱなしだから疲れる。どこかで 起き上がって満足して死にたいものだが。

友人は 昨日やはり「デイズニ―」に行ったらしい。一万五千歩も歩いたという事だから きっと倒れるに違いない。

けれど 家族そろっての外出は楽しかったのだろう。張りのある文章だった。今夜の最終便で博多に帰るはずだが、無事に帰ってほしいものだ。

27日前 No.188

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

昨年の今頃「樹木希林」さんを取材する番組「プロフェッショナル」を観た。あれは 亡くなる前だったろうか?ターミナル・ケアに入っているのに「クラウン」を運転して 撮影に通っている様子。お金持ちは ターミナルでも軽快に過ごせるものだと感心した。

今夜は「吉永小百合」さん。彼女は私と往年だ。美しい顔や姿に やはり「老い」の影が見え始めた。

「これが最後かもしれない」と覚悟して 作品作りをするという。努力して 努力してあの魅力が形成され 保たれているのだとつくづく感心する。私のように 努力せずに無防備に自分をさらけ出していては そりゃあ きずつくのは当たり前の事だろう。

さて!私の 生い立ちでも 振り返ってみようか?ねじまがった性格はどうして 作られたのか?弱いものへの 入れ込みは何故?そんなこと どうでもよいと思うけれど、でも 時間もあることだから。

私の記憶の始まりは 黄色い世界と赤い夕陽。季節は秋。我が家は「官舎」で、川のそばに立っていた一軒家だ。父は出張所長をしていたので、一軒家を建ててもらい そこで私と、父母。そして かすかな記憶では兄がいた。

庭には「鶏小屋」があり、小さな「物置小屋」もあった。これらを覚えているのには理由がある。夏のある日 父母と三人で 都会まで「映画」を見に行った。帰宅したのは夜だったので 縁側から家に入ろうとしたところ「イタチだ!」と父が叫んだ。鶏が殺されていた。

その鶏はきっと「おかず」になったと思うが はっきりとは覚えていない。不思議な事に「兄」は映画に連れて行かなかった。私はまだ4歳か?5歳。映画を理解できる年齢では無い。「兄」は15歳。学校が忙しかったのだろうか?それとも 父母が留守番をさせたのか?今なお謎のひとつである。

その「兄」については いろいろな記憶があるけれど、兄と妹として 親しんだ記憶が無い。ただ 毎朝共に 食事をしたという事や「猫」が「兄」の布団にもぐりこんで眠ることくらいを覚えている。

私は 健康な子供で 父の職も良かったことから 田舎では周りから可愛がられて育った。どこの家にも入り込めたし、父の事務所に近所の子供を連れて行って 立派な回転いすに変わりばんこに乗せてあげるという がき大将ぶりだった。

事務所に自由に出はいりできる特権があったわけだから 子供心に優越感を抱いたのだろう。世間が狭いとはこういうことかも知れない。

27日前 No.189

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i


モダンガールだった母と私は 毎月デパートに出かけた。それはまだ米軍占領下で、だれもが貧しい頃だった。デパートに行って「水洗トイレ」に入るのが 怖かった。当時は両足の位置に水洗が仕掛けてあったので 動くと水が流れる。

わずか4歳の子供には おそろしい事だった。「ながれるー!」と叫んだそうな。母が付き添ってくれたのかどうかは 記憶に無い。

デパートの「子供服売り場」が 母のお目当てだった。洋裁を習って ミシンを駆使して私の着るものはすべて 母の手つくりだった。毎月 あたらしい洋服を着せて 私を連れて行く。そして「かわいいお承服ですね?」と評価されることが「家庭人」として生きてきた母の自慢だったのだろう。

「かわいいお嬢ちゃん」とは言われなかった。残念ながら 私は健康ではあったし 醜いとはいえないけれど 愛らしい子ではなかった。

顔も体も「モンゴル系」で、それは生涯変わらなかった。「色じろは七難かくす」とは 母の口癖だったが「色が白い」ことは 難をカバーしてくれた。その頭に大きなリボンを付けるのも 母の癖だった。好みの娘に仕立て上げたかったのだろう。

それから30年後に 私は娘を産んだが 同じく「色の白い、健康な娘」だった。しかも「美人」だった。私は「ファミリア・ブランド」の衣服を着せて 外出するのは楽しみだった。振り向いて「まあ!かわいい!」と 言われることが多く、幸せだった。母の願望は私の娘がかなえてくれた。

私は キャリア・ウーマンだったから 母の衣服も娘と息子の衣服も整えてあげることが出来たし 旅行や外食も楽しめた。小さな二人の子供はどちらかと言えば 機嫌がよく おとなしいし、お行儀も良かった。束の間の幸せが 母と私には与えられた。

母と私は デパートの最上階にある「食堂」で昼食を食べた。けちゃっぷ・ライスの上に小さな「旗」が立ててある。その「お子様ランチ」を食べたいと思うのだが 母は決してそれを注文しなかった。

ねだるという事をしない子だった。私の子供たちもそうだった。たいして希望が無かったのか?食欲が無かったのか?

そして 地下に行って食品を買う。その時に必ず「金平糖」の一袋を買ってもらった。「金平糖」は皇室行事のお土産にされるほど貴重な歴史のあるお菓子だった。

母のしつけは厳しくて その「金平糖」は大切に家まで持ち帰り、粒を数えて毎日味わった。数日で無くなるのだが それがまた来月のデパート行の愉しみにつながっていた。しかし!兄にお土産を買うと言った記憶はない。

母のファッションは オーダー・メイドのスーツで、革製のカバンと靴を履いていた。デパートと言えどまだそういうファッションは珍しかったから 母も私も大きな顔をして闊歩したものだった。

成長するにしたがって 貧しくなっていくような気がしたのは どうしてだろう?そして 兄はどんな人だったのだろう?

26日前 No.190

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

「兄」はどうしていたのだろうか?すでに 学生だったので 家にいる時間は少なかったと思うが。

鮮明な記憶が残っている。父母と外出して 夜。帰宅した時にフラッシュのように目に飛び込んだ光景は「兄」が一人で「巻きたばこ」を播いている姿だった。広い座敷に一人。私はその兄の姿を記憶している。

愉しみを共有したかったのではないだろうか?「お兄ちゃん さびしそう!」と感じたような気がする。ただ 黙々と煙草を播く姿は孤独に見えた。

休日に遊んだ記憶もない。近所の男子と映った写真はあるけれど「兄」が映っている写真は無い。そのわけは10年後に知ることになるのだが、当時の私には 何も知らされていなかった。

ただ 兄の机の引き出しを触って、「触ってはいけません」と たしなめられたことがある。誰にでも 見られる位置に置いてある小さな机なのに 母の厳しさは 不思議に思えた。でも 母に「叱られた」とは思えなかった。なんだか 母の顔が曇って見えた。

夏の祭り 餅つき 年始の集い。どこにも「兄」の存在を記憶していない。

少しの不思議さを抱きながらも 私はとても元気に 幸せに満たされて日々を過ごしていた。布人形を母が作ってくれた。5歳年下のまた従兄弟が来てその人形を 水が入っているバケツにバシャっと投げ込んだ時の驚き!大きな声で泣いた。私を不愉快にする人がいるという初めての記憶だと思う。

26日前 No.191

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

父母は 仲が良かった。普段は 父が母に大切にされているのを感じた。でも 年末に「映画」を観ての帰り。私は 電車に取り残された。眠っていたのでまったく気が付かない。終点について 車掌さんに起こされた。父母はいない。でも 泣かなかった。

駅長室に保護された。名前や年齢を聴かれたが その後どうなるのか?眠かったのか?対して不安でもなかった。父母が迎えに来た。

挨拶をして 三人で電車に乗ってから 父は 母にこっぴどく叱られていた。そういう母を観るのは初めてだし、しょぼくれた父を観るのも初めてだった。ローカル電車を降りて4キロの山道を三人で歩いた。

当時はどこに行くのも 歩くことが多かったので4さいか?5歳の私も 苦労なく歩いた。村の明かりが見える峠に着いたときは 子供心に「きれいだなー!」と思った。家が近いことが嬉しかった。

無事に帰宅して また日常に戻った。年末には 官舎に職員の皆さんが集まって「餅つき」が始まった。賑やかで 楽しかった。私は 父が杵を突くときに それにぶら下がった記憶がある。

よいしょ!と振り下ろされて また上にあげられるのがとても楽しかった。私が願った事では無く おそらくは職員の誰かが進めてくださったのだろう。土間は広く、竈のある台所につながっているので 温かかった。

雪が積もる地域なのに 私は冬が寒いと感じたことが無かった。家はいつも温かく心地よい場所だった。

新年がくると 職員を招いての「宴会」だった。座敷は「すきやき」の用意がされて 私と母は入口に座って 来客を迎えた。

やはり「兄」の姿を記憶していない。

誰もが「お年玉」を私に 用意しておられた。中身は「十円」だった。着物を着て迎えて お年玉をいただくことは気恥ずかしい事だった。

高校生になっても 私のお年玉は続いた。高校生になると中身は「千円」か?「五千円」だった。子供でもなく大人でもないあいまいな年齢の私は「お年玉」をもてあまして ゴミと共に焼却してしまった。

父が急死するまで この「年末年始の行事」は継続した。ただし、父は49歳で退職したので 行事を受け継いだのは親族だった。

「親族」こそが 後々にわたって 私たちの「足かせ」になり 運命を変えてしまう事になったのだが、このころの母は「一族郎党を束ねて子孫繁栄」を夢に見ていた。

26日前 No.192

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

雪が積もると 私は「人形遊び」をしたり「絵本」を読んで楽しんだが一番の愉しみは「ラジオ」から流れる「歌」だった。「小鳩クルミ」さんの明るい声が 家じゅうに響き渡って 清々しくうきうきした。

「森の水車小屋」は好きだった。「緑の森の かなたから 聞こえてくるよあのおとが あれは水車の回る音」という歌詞を聴いて 私は森に行きたくなった。そして「コトコトコットン」というリズムを胸いっぱいに蓄えていた。

「森」は私の 友人だった。ふとした「樹の香り」「花のトンネル」「根元の苔」「小さな水の流れ」「小鳥のささやき」すべてが わたしを幸福に誘ってくれた。どこかにあるかもしれない「水車小屋」は憧れにもなった。

「まきばの朝」も好きだった。「朝いちめんに たちこめた 牧場の朝の 霧の中」?これは 広い世界を想像して 自分が大きくなる気がした。

覚えるという事もなかったが 毎日聞いていると 幸福だった。身体がうきうきとして踊りだしていた。

雪は 心も晴れ晴れするけれど 雨の日は少し気持ちが違っていたように思う。それでも 機嫌よく過ごしていたと思う。

窓ガラスに「雪」が降り積もっていると ガラスに「絵」をかいて楽しんだ。何を書いていたのだろうか?

土間が広くて 台所までは長い通路になっていたから 一日中「絵」をかいても飽きなかった。そんな日。母は「洋裁」をしたり「編み物」をしていた。

「兄」は何をしていたのだろうか?

父が 帰ると「入浴」した。一人で入り口で滑ってしまった。この時は 泣いた。泣いた記憶の始まりだ。

26日前 No.193

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

私は「泣く」という事が ほとんどなかったように記憶しているけれど 夏や冬に「従妹」が遊びに来て 楽しんだ後、帰宅するときには必ず泣いていたらしい。これは 母が記憶していたことで 自覚は無い。

冬を超えて 就学前の一年間を キリスト教会の保育所に入所した。一期生である。境界には バスで通った。首に「定期券」をぶら下げて毎朝バス停まで 歩いて 途中に転勤してきた 駐在所の「真理ちゃん」を誘って行った。

当時のバスは 私が乗るまで待っていてくれた。降りるときは車掌さんが「ようこちゃん おりるんやで」と教えてくれた。

帰りの時には 高校生の御姉さんが「ようこちゃん つぎのえきでおりるねんよ」と声をかけてくれた。その人が どういう人なのか?わからないまま 父の転勤で秋には隣の村に引っ越した。

そこからもバスで通った。春までの三か月間は 今迄のような見守りのないバス通園だったので 淋しさがあったように思えるが、元気に通った。「皆勤」だった。

保育所生活は 楽しかった。山頂にある保育所で 毎日礼拝がある。足ふみオルガンの音色が建物に響いて 気持ちが良かった。両手を合わせながら「讃美歌」を毎日歌った。私の「クラシック」はそこが原点だった。

「真理ちゃん」はよく泣いた。すると先生は「ようこちゃん!」と わたしを呼んで 真理ちゃんの相手をさせた。
やがて 真理ちゃんは保育所に来なくなった。まだ 小さかったのかもしれない。

ブランコが楽しみだった。広い保育所の端から端までのかけっこも楽しみだった。でも机に座って「張り絵」をするのは緊張した。

簡単な事なのに どうしてだったろう?母は その「張り絵帳」を死ぬまで保管してくれていた。

それでも 私の一番の愉しみは「山の探検」だった。大きな穴を見つけると ワクワクした。それは 遺伝子かも知れない。

26日前 No.194

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

保育園では「おひるね」をする。でも 私は絶対に嫌がったそうな。そして 同じ山にある「別荘」で一人遊びをした。同じく「運動会」でのかけっこも走らなかったらしい。何故なのか?解らないけれど 結構扱いにくい子供だったようだ。

でも クリスマスの「生誕劇」では主役の「マリア」をさせられたし それは楽しく感じた。「キリスト」にする「人形」を毎日もってバスに乗りもっていっては持ち帰った。

ある日「人形」をバスに置き忘れた。だれも 届けなかった。当時はそういうものが貴重品だったから。

母は 翌日「阪急デパート」まで 買いに出かけた。夕方のバスで返るはずなので うす暗くなった道を歩いてバス停で待っていた。

母が 買ってきた人形は 私の背丈ほどもある大きな人形だった。「これしかなかったのよ」と 母は言った。

私は またその大きな人形を持ち帰りして 無事にクリスマスの「生誕劇」を成功させた。クリスマスの朝。眼が覚めたら枕元に畳んでおいた洋服の上に「森永・ミルクキャラメル」があった。「サンタさんが来たよー!」と 母に伝えた。それにしても「煙突が小さいのに?」と子供共通の疑問を抱いたけれど すぐに忘れた。

「兄」はどうだったろう?プレゼントを見せ合った記憶は無い。話をした記憶もない。

小さかったからなのか?毎日が楽しくて 他の事は気にしていなかったのだろうか?

26日前 No.195

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

記憶がぜんごするけれど 「保育園」に入ることで 友人関係が広がった。すぐに「家」に招いて 夕方まで遊んだ。そして 別れがたく<バス停まで送る」ことにした。でも 離れがたいために その子の家まで行ってしまった。

母には「停留所で別れて帰りなさい」と言われていたけれど、別れられなかった。

一人で 帰宅する。もう少しで バス停というところで日が暮れた。さすがに心ほそくなり、柳の木の下に座り込んで つい涙を流した。

そこに 父の部下が車で通りかかった。「ようこちゃん」と声をかけて家まで送ってもらえた。それからは 生まれて初めてのせっかんを受けることになった。父の前で 母に言い聞かされた。母との約束を破ったこと。迷惑をかけたこと。父には両手をついて、ごめんなさいと謝ったが。

「物置小屋」に閉じ込められることになった。寂しいだろうと「猫」も一緒に入れられた。この時 私の記憶では「兄」が私をかばってくれたような気がする。「ようこちゃんがかわいそうだからゆるしてあげてと。」閉じ込められるときに 私は泣いてはいなかったように思う。ふてくされていたはずなのだ。

でも 時間が経つとなぜか?悲しくなって 泣き叫んだのかもしれない。「兄」は 耐えきれなかったのだろう。

以来 私は完全に母に従順な子供に育っていく。

もともと 母と私は41歳の歳の差がある。保育所に入った時に 初めて他のお母さんが若くて 母だけが「おばあさん」だという事にショックを受けていた。5歳の私の中で モダンでかっこ良い母像が崩れて行ったのだった。

母に対する 憐みの情が芽生え始めたというべきかもしれない。母を心配させたり 怒らせない子供になろうと決めたのだ。

26日前 No.196

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

初めて「兄」の記憶にたどり着いて 私は長く押し殺していたかもしれない感情が溢れて 久しぶりに涙があふれた。

「兄」とは小学一年の時に 別れて暮らすようになった。ほんの3ねんほどだが、何故そうなったのか?理由が理解できないままに大きく環境が変わり また3年後に兄は家に帰って来たけれど 身体を壊していたらしい。

私をかわいがってくれたという話を聞いているけれど ほとんど記憶が残っていないから。

10歳も年が離れているから 話も合わなかったし「兄」は寂しそうだった。私だけが健康なことが 申し訳なく思った。私が10歳になった時母が親戚を招いて 誕生祝をしてくれた。

母自らの「会席膳」が用意された。「兄」も祝いの席にはいてくれた。しかし 私は心の中で「会席膳なんて つまらないなあ。スパゲッテイのほうが嬉しいのに」と思っていた。

今になってみれば ちょうど「兄」は成人。私は10歳。誕生祝と言うより「成人祝い」だったかもしれない。写真が残っていないからもう わからない。「兄」は父なき後、結婚、離婚などいろいろと不運な目に合って 今は音信普通。

始めの奥さんも 二回目の奥さんも 美人で心優しい人に恵まれたのだが、私も無理やりの結婚だったから その後のお付き合いがうまくいかなかった。母が亡くなる直前に夫妻で見舞ってくれたのだが 葬儀には呼ばなかった。遠かったし 大変な状態だったから。

でも 失礼な事をしたと思う。

その後 退職して奥さんの実家に帰ったけれど 御姉さんが息子の家に行ってしまったので どこかに引っ越すという電話を受けたまま音信不通になってしまった。

すでに 亡くなっているだろうと思うのだが、今になって 逢いたいと思う。

26日前 No.197

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

あー!ろくなことは無い。今週は 寝てばかりで、身体が痛い。映画も観てしまったので 掲示板にちょっかい出したら またぎくしゃく。ジェネレーション・ギャップがあるのだから するーすればよいのに 構ってほしいのかなあ?自分乍ら 厄介な人間だ。

自分史の素材にできればと思うが 全部書ききって シチュエイションを決めるとしても 大変な作業になりそうで、気まぐれで終わりそう。

娘や息子に聞かせることが出来ないから 遺言代わりに残したいのだけど。余生は長くて つまらない。孫やお嫁ちゃんの家族などがいてくれたら忙しいのだろうけれど。

明日は 寒くなるらしい。風邪を引きなおさぬようにしなければ。

26日前 No.198

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

朝までは もう体が動かないか?と 思いつめていた。でも 今朝起きてみると 少し軽い感じがする。雨が止んで 太陽も照り始めると、外に出る勇気は無いけれど 部屋の掃除をしてみようと思った。

トイレが気になっていた。二回は特に放置している。息子は上下のトイレを使い放題。想像するだけで気が遠くなるようだったが、まず一階を仕上げて 二階に行ってみると「マット」はカビだらけ、床には水が溜まっている。

とりあえず トイレ掃除を済ませて「カビ」マットは廃棄。新しいマットやスリッパをもって上がると 先ほど拭いた床にまた水が溜まっている。

その旨 夫に伝えると「そうそう 忘れていた」と言って「修理」を始めた。なんだ!壊れているのを知っていたのに 修理をさぼっていたのか?と、思う。あのままにしていたら 床が腐食して大変な工事になったであろう。

夫は部品を注文したり 道具を買いに行ったりバタバタするので ちょうどよかった。座敷に掃除をして「炬燵」を用意した。

重い天板を 一人で持ち上げることが出来たのには驚いた。ここ 数年は持ち上げられなくて 炬燵の世話を夫がしていたのだから。

身体と言うのは 不思議なものだ。弱っていると思えば 元気になる。元気なはずと思ってもどうにもならない時もある。

高齢者は こういう具合だから 若者には理解されないのだと思った。キッチンも掃除機をかけて 夏のブラウスを洗って保管。冬支度に変える。

そうこうして 掃除機を洗い、雑巾を干して 私の仕事はひと段落。また「柿」を五個ばかり 食べて休息する。

少し横になって「リハビリ」に行き、帰宅後にまた「柿」を五個。食べながら 友人からの贈り物「金目鯛のひもの」を焼いて 大根おろしを掛ける。ポテトサラダも添えて 夕食。「金目鯛」は美味しかった。サラダも美味しかった。

こんなに食べて デザートに「チョコ・ケーキ」まで食べた。この頃はいくら食べても体重が増えないから 不安が無いけれど、どうしてこんなに おなかが空くのか?不思議でならない。

25日前 No.199

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

また 雨が降っている。リハビリが効いたのか?よく眠った。9時からあさの7時まで。10時間睡眠。

今日は 掃除に続きをするしかないようだ。扇風機をかたずけるとかガラス拭きとか いくらでもすることがあるので。

「インフルエンザ」の注射を 今日受けるか?体調が良い時に受けておくほうが良いと思うが、どうだろう?

バイトに行くとすれば 早めにしておかねば。家で 快適に動けると、バイトに行きたくない気持ちが湧いてくる。無理をしなくても良いのだから。

でも 身体を甘やかしてはすぐに動けなくなるから やはり 来月からはバイトをするほうがよいだろう。

自分記を継続しようと思うのに 身体が良くなると 思い出さない。不思議なものだ。

また 追い詰められて 過去の記憶が溢れた時に 継続することにしよう。

八千草薫さんが88歳で亡くなった。長生きと言えるが きれいで優しい女優さんだから いつまでも生きているような気がする。この 災害のさなか ひっそりといきをひきとり お別れ会もしないということが とても素敵な印象がする。

おそらく 家族を亡くした人や 多くの財産を失った人にとって ひそやかな消え方は慰めになるのではないだろうか?

24日前 No.200

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

ピンポンが鳴って 大型車が脱輪したので手伝いに行くことになり「夫」と「息子」が出かけて行った。「腰が痛い」と言っていた「夫」が元気に飛び出す姿を見ると 人間は人に必要とされることが 大切なのだなあと改めて思う。

久しぶりに「時代劇チャンネル」で日本の昔ドラマを観る。そして 病院の清掃・バイトにまた電話する。もう決まっていると断られたのだが「一日で 良いから入れてほしい」と伝えた。

やはり 少しでも社会参加をしなくては 心が不安定になる。良い返事をいただきたいのだが。

調理は 難しいし、年齢からおそらくお断りされるだろうし「宿直」すら指導不足が原因なのに パワハラを受けてしまって 清掃も年齢的には断られる可能性が高いけれど。

一年前に7か月かよった マンションの清掃はきれいで 住民の方とも気持ちよくお付き合い出来たが そこも 募集しているけれど7時間の勤務が 難しい。半日に分けてくれたら 行けない事もないと思うが そういうことが出来る会社なのかどうか?

その点「宿直」はとても楽だった。施設長が未熟だっただけなんだけれど いまだに募集しているから まだ満足できる人材には出会えていないのかもしれない。

24日前 No.201

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

さて 昔の話を思い出して。

父が二代目所長になって すぐ、今日のような雨の日に窓から下の道を見下ろしていると 母が言う。「今日は 七五三なのだけれど着物が濡れるからあなたは行かないの」と。

不思議な感じがした。それまで 話題にもならなかったし、着物を観たという記憶もない。

あれは 何か問題が起きていたころかも知れない。

でも 翌年の春 私は「就学」した。地元の小学校で「桜の並木」をくぐって 行った。入学式の後 桜の木の下で記念写真を写した。それは 保育所に入る時とは違って 非常に楽しみな日であった。

校長先生の白髪に優しい笑顔が印象的で きっと楽しい学校だと思い 勉強に興味があった。

父も母も「達筆」なので 私は特に「文字」に興味があった。すでに 文字は読み書きできていた。宿題をするときは 母が「下書き」をしてくれた。母の手習いが嬉しかったし 得意だった。

地元の子供は まだ字が読めなかったし 「下書き」などをしてもらうことは無かった。それほど 農業は大変な仕事だった。

ノートを見せる時に 担任の「野木せんせい」は眼鏡越しにわたしを見つめて「書いてもらったやろ?」と言われた。私は 大変驚いた。

母に手ほどきしてもらう事は 悪い事なのだと悟った。そして 先生が嫌いになった。

それでも 何かしら健康で よく遊び「運動会」を楽しみにして過ごした。従兄弟たちが集まって夏休みが終わり 「運動会」の日になると「母と叔母」が応援に来てくれた。

「かけっこ」が二回ある。「一番になる!」と決めていた。

発進のピストルが鳴ると 猛烈に走り出した。「ようこー!がんばれー!」と 母の声が良く聞こえた。

一番で テープを切った時 女性の先生に優しく抱かれて 一番の列に並んで座った。まだ 先生の名前も知らない時なのでそうして優しくされるのは 嬉しかった。

二回目は 残念ながら二着だったので 無念だった。でも 母の声は良く聞こえた。母の応援はこれが最初で、そして最後になった。

運動会が楽しかったのは その一度だけだった。早く走れたのも その運動会だけだった。

運動会が終わってすぐに 我が家は都会に転居した。荷物を載せた「大型トラック」に乗るとき 母が分かれの涙を見せていた。白いハンカチをよく覚えている。

しかし!そのトラックには「兄」が乗ってはいなかった。

24日前 No.202

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

小学生になって 暫くしてから「保育所に ご挨拶に行きなさい」と 母に言われた。「絵本」をもって バスに乗り 一年通った保育所に出かけた。平日に行ったわけなので 学校は休みだったのだろうか?

入学直後の 短時間のころだったのだろうか?

一人で 山を登り 保育所にたどり着いた。先生方に歓迎されて「御姉さんが絵本を読んでくれますよ」などと 紹介され「絵本」を讀んだ記憶がある。

それからの事は覚えていないが、母校?を訪ねたのは それ以来13年の学生生活で最初の最期になった。

小学時代は 友人を作る暇がなかった。春の間は 帰り道にある親戚に立ち寄って 一面の「レンゲ畑」に寝転んで空を観ていた。

当時のレンゲは 私が寝ころぶと完全に姿が隠れる。右も左もレンゲの花に囲まれて 青い空を眺めているとき 私はいつまでもこうしていたいなあと思った。

学校は気が疲れるところだと感じ始めていたのかもしれない。何しろ 担任が嫌いだったから。

帰宅すると 運転手さんの子供と「タニシとり」をしたり「三輪車」で坂くだりなどをした。

「三輪車」は運転手さんの息子のものだったが、その頃は私は「上司の娘」だったので 使い放題だった。

そういえば 今までは 村人皆が私を見守ってくれていたし、私も「尊重」されて過ごしたけれどこの村では そういう具合では無かった。

おまけに 担任からいきなりダメ出しされたわけだから 「なんか 感じ悪い」と 思い始めていたのだろう。

「運動会」で「一番になる」のは そういう周りへの自己顕示だったのかもしれない。

何にしても 幸福だった幼児期からの 脱皮を促されていた。

24日前 No.203

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運動会に至るまでの ある朝。

小さな官舎だが ドアを開放していたから「夏」の事だろう。

父と兄と私は 食卓の前に 座っていた。平和な朝のはずだったが 突然台所の母がご飯のさじを 父に投げつけた。その前に何があったのか?解らなかったから 私は驚いて 母を観た。

その時 すでに母は土間から 畳の上に上がって 父に向って突進してきた。兄がとっさに私を抱いてくれた。

目の前で 体格の良い エプロン姿の母が 父と四つに組んで喧嘩を始めた。私は 立ち上がって父と母の間に入ろうとしたのかもしれないが、たぶんできなかったと思う。次の瞬間 兄が平手打ちに合って倒れ込んだ。

私は 兄が心配。父と母も心配。うろたえたかもしれない。気が付いたときには 喧嘩は治まって食事をしていた。

19年 父と母の夫婦姿を観ていたけれど 夫婦喧嘩はこの一回きりだった。

「喧嘩の原因」を聴きたいと思う事もなく 以後の二人は協力して仲良く過ごしていた。

運動会が終わって 冬が来る前に引っ越しや転校などがあって 「兄」の記憶はとぎれた。村から車で一時間の都市部にある 遠縁の親戚から田んぼ一枚を買い取って 家を建てるという事になった。

父は 退職して「民間人」になった。一度 父に連れられて会社の建物を見せられた。
「事務所」と違って 大きな建物だという事が私の記憶だ。「あれが お父さんの会社だ!」と 父は自慢した。が、それ一回で自慢は消えたようだった。

民間人が性に合わなかったのだろう。父は「家」を建てる 大工さんの手伝いをするようになった。母の「内職」が始まり、我が家の雰囲気は大きく変わった。でも その頃は 経済に不安はなかった。

一年だけ 親せきに間借りしていたので 従兄弟たちがたくさんいて 賑やかだった。私の心は「樹木」への恋しさが波のように押し寄せる程度だった。お寺に行って 大きな樹木を触ったり 見上げては 良い中の風景を恋しく思った。たぶん「兄」への思いもあったのだろう。

転校先の小学校では「いじめ」られた。「おまえ□パンツ はいてないやろ!」と言われる。「はいてる」と答えると「ちょっと来い!」と、数人の男子に 講堂の裏に連れて行かれて スカートをめくられた。

当時の女子は「ブルーマ」をはいていた。それは スカートから見えるので 母が「ショーツ」を縫ってくれていた。「女子が下着を見せてはいけない」という事だった。それが まさかいじめの原因になっているとは 母も知らない。私はこのことを 母には言わなかった。

私は 母の手つくりを侮辱されることは嫌だった。それは文字の手習いを否定されたことから始まっている。母を傷つけることは出来ないと思った。「指先のないてぶくろ」もそうだった「指先が使えるように」と わざわざ 先を開けた手袋を「やぶけてる」とからかわれた。

一年の後半に転校して 二年になる頃「家」が建てあがった。それで すぐそばの学校に 再転校した。

ここは 比較的安定した地域だったせいか?「いじめ」はなかった。家も近いし 安心して新しい環境になじむようにした。

先生も やさしくて 学校がまた 楽しみになって来た。でも 空港が近いので「朝鮮」の集落があり 私の最初の友達は「朝鮮人家庭の子」だった。家に誘われて 行ってみたけれど カルチャーショックを受けた。

家は「小屋」で、土間だけがあった。いまでいう「難民」の暮らしだった。その子はどうなったのか わからないけれど すぐに遊びには行かなくなった。母に禁じられたのかもしれない。

周りはほとんど「麦畑」だったが 隣の家は豪邸だった。どんな人が住んでいるのか?知らない間に その家は「日本通運」に買収されて「大阪支店長」専用の社宅になった。

私の田舎への恋心は 消えなかった。お寺もなく はるか遠くまで「麦畑」なので 枯れた「かや」の中に 一人小屋を作って そこにもぐりこみ 山で感じた自然の香りを偲んですごした。

24日前 No.204

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午睡していたら 電話が鳴って、週一日のバイトを紹介してくださった。少し遠いけれど 週一なら何とかなるだろう。何よりも 時間をかけて私の願いをかなえてくださった 高齢のマネージャさんの気持がありがたい。

元気が出て ミニトマトの始末をした。まだ少しだけれど なかなか気力が立ち上がらなかったのに 社会とつながって すぐに元気になったことが嬉しい。

夫と息子が 車の脱輪を救援したというので 90歳の下の住人が たくさんのお菓子とみかんを届けてくださった。90歳にして現役である。「この歳で 運転するのっておかしいやろ?」」と言われるが お顔も体も まだ70代にしか見えない。視力が通過しているだけでも驚きだ。

「柿」も取りなさいよ!と言ってくれたが 「柿」は毎年いただいて15年になる。違う木の柿」もたくさん採っているから今は 十分だ。

この老人が 亡くなると寂しい事だと思う。お菓子の中の「チョコパフェ」をたくさん食べた。ちょうど甘いものが欲しかったからありがたかった。

24日前 No.205

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父母の猛烈な喧嘩の原因は父の早期退職だった。それを知ったのは大人になってからの事だった。父は まだ49歳だった。母の内助の功が」実を結び 父は下級官吏乍ら村人の信頼を得て 私たちの養育に希望を抱いていた。

その子供が これから教育を受けるというタイミングで職を辞すという事は 絶望的な事だった。

政令都市の勤務だったので 傘下の自治体からは もっと上級のポストで受け入れると 誘われたらしい。しかし!父は「公務員は嫌だ」と、断ったそうな。そして「民間」に希望をつなぎ わずかな期間で挫折したという事になる。

いつ?そうなったのかは わからない。ただ 再転校をしてから3年目頃の我が家は 居心地が悪かった。学校では「お小遣いはひと月50円」と決められたので それを母に伝えると「そんなお金は この家には無い」と激怒された。それは 私が母に激高された記憶の始まりのように思う。

以来 母の「激高」は 激しくなっていった。母に叱られないように 帰宅時間を考えた。母を助けなければいけないと思い 父母と同じ時間に起きた。そして 玄関とトイレの掃除。小鳥の世話をして 父の靴を磨ききちんと並べる。

自分の登校用意をして 走って登校する。親に気を遣いながらも 私は「ドッジ・ボール」と「ソフト・ボール」に明け暮れる子供だったから一番早く 登校して「陣取り」をしていた。

勉強は 出来なかった。3年生になる頃は「数か月遅れている」と言われたらしく 母は怒っていた。田舎者と思われたらしい。しかし 勉強するには 環境が変化しすぎていたし、私は学習に興味が持てなかった。教師の言動が怖かった。

家でも学校でも 大人を恐れて過ごしていた。

4年は 男性教師だった。「木琴」を習うようになった。グリサンドだけは習ったけれど 何一つ曲を習っていない。どうして 教師はせっかくの木琴をおしえなかったのだろう?きっと 音楽の知識が無かったのだろう。

母の得意なミシンで 素敵な「木琴ケース」を作ってもらったけれど 楽譜も習えないし 何の曲も弾けなかった。

今になれば もったいない事をしたと思う。少なくとも二音階程度はあるからいろいろな曲が楽しめたはずなのだが。

このころは 戦争時代に焼け出された「御屋敷探検」を楽しんだ。大きな屋敷跡に入って 大木を眺めたりするのは 山の暮らしを再現するようだった。体力もついてきて 遠出をするようになっていた。

ちょうど 父は「肺結核」と 診断されて自宅療養をしていた。それで 少しは私への風当たりが和らいだような気がする。

母は 父の健康管理に夢中だった。そして 同時期に「兄」も「肺浸潤」との診断を受けて 帰宅していた。病人の健康管理に母は夢中だった。

良い 野菜を買うために 遠い市場に出かけた。そして 両手に想い荷物を下げて 歩いて帰宅した。当時は「下駄ばき」だったから どんなにか 足が痛かっただろうか?

私は 自転車で母に同行し、荷物を全部荷台に積んで帰るようにした。いくらかは役に立ちたかったけれど 娘にそういう苦労をさせるのは母の幸せでは無かったと思う。表情がいつも硬かった。私も 話をすることもなく 私自身も硬い表情になって行った。

24日前 No.206

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「兄」は結局 高校には行けなかったらしい。家に帰ったけれど 私は幼い子では」ないし 兄はまだ大人でもない。中途半端な立ち位置で暮らしていた。でも 家にばかりではきずまりだったのか?「工場」を見つけて 泊まり込みで働いていたけれど 母と私が迎えに行って また家で暮らすようになった。

「兄」は時々 口ずさんでいた。それは「満州の歌」だと言っていた。聴いたことが無いので いつも不思議に思いながらも 訳を聴くことは出来なかった。寂しそうにみえたし 懐かしそうにも見えた。不思議なことには触れないように過ごす子供に私は育っていた。

喧嘩は起きないけれど かつてのような幸せな家庭ではなくなっていることを私は感じていた。

母の苦労が 哀れに思える年齢になっていた。

勉強が どんどん解らなくなって生きながら高学年になり 女性教師が担任になった。「最悪教師」だった。この教師のおかげで 私の学習力は最低になってしまった。でも 母には言わなかった。

教師は 母には愛想よかった。しかし わたしを見る目は「冷酷」だった。

24日前 No.207

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女性教師は 非常に残酷な人だった。もともと算数が苦手な私は「鶴亀算」で致命的に理解不能になっていた。多分 多くのクラスメイトはそういう状態だったのではないだろうか?

ある日「鶴亀算10問テスト」が抜き打ちで行われた。私は背筋が寒くなったのを覚えている。でも 何とか全問回答した。

数日後 女性教師は100点から順番に 名前を呼んで答案用紙を返却した。悪くても 60点は取れているはずの私は 呼ばれない。50点もダメ。10点になって呼ばれなかった時 私は地獄に落ちたきがした。「0点?」私は この女性教師を殺したいという気分に襲われたけれど3人のお友達と共に 無残な答案用紙受け取ったを。

「家に帰って 良く問題を考えること」と教師は 意地悪な目でそう言い放った。しかし!私はその答案用紙をすぐに破り捨てた。死んでも 母に見つけられてはいけないと唇をかみしめた。

絶望だった。理解できないことが明白な問題を検証することは出来ない。「兄」にも相談できない。

以来 私は登校するのが怖くなった。教師の姿を見るとソフトボールも打てなくなり 休み時間が苦しくなった。

その頃は 父は再び「公務員」に復活し、高度経済成長の波に乗って「出張」に明け暮れていた。高学年なので それなりに友人も出来て並んで帰るときに 帰宅してすぐにまた「出張」に出かける 父の後姿を観たことがあった。忙しい生活が戻ってきていた。

家について門を入るといきなり母が「ようこ!おなすと豚肉を炊いて食べるとおいしいなあ?」と大きな声でいうようなことがある。

「ライラック」が咲き始めると「フランスに行きたいなあ?シャンゼリゼ通りにはこの花の並木道だって!」と機嫌よく語りかけるようになっていた。

同時に「これからの女性は大学に行って 教養と職業をみにつけなければいけないのよ」とも言いだした。

なぞなぞごっこをするような日々が続いて なぜか?私は授業中に「おもらし」をしてしまった。嫌いな担任に気まずさが増して もう学校を辞めたい気持ちだったけれど 家に帰ると母の謎に巻き込まれてなんとなく 二年間を過ごした。

このころの母は すでに「精神を病んでいた」と思える。が、おそらく私も同じだったのではないだろうか?

24日前 No.208

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家に「洗濯機」が届き、「ジュウサー」「トースター」「ミキサー」「冷蔵庫」などがどんどん増えて 生活様式が大きく変化した。

食卓も 椅子とテーブルに替って 洋食セットがそろった。毎朝「リプトンテーバック」と「バター・トースト」の食事になった。バラの花束がテーブルを飾るときは すっかり「ヨーロピアン」を夢見ていた。

しかし!家の中には大事件が起きていた。二階で寝ていると 父母の話声が聞える。「兄」の話題だった。「兄」が九州に出かけるという。そしてそれは 「兄」のお父さんの「法要」らしい。切れ切れに聞こえる話から「兄」は「戦争孤児」だったらしいことを私は知ってしまった。

新しい「スーツ」を買ってもらって 背の高いハンサムな青年になった「兄」は出かけて行った。「兄」はどんな気持ちだったろうか?「私」が何を考えているか?想像しなかっただろうか?父母も 何も話さない。心の中に大きな秘密を抱えて 卒業し、中学に進学した。

苦しい担任との葛藤を逃れたけれど 今度は家族の秘密を知ってしまった苦しみで ますます勉強には 興味が失われた。

入学後 「世界史」の教諭が「担任」になり「誰にも言わないから 家族の事を書きなさい」と言って 原稿用紙を配った。

暗闇で苦しんでいた私は「誰にも言わない」という言葉に一縷の救いを感じた。そして 涙を流しながら「兄」のことを書いて提出した。

気持が軽くなり、ようやく本気で学習する気持ちになっていた私は、中間試験後の保護者面談から帰宅した母の言葉でまた地獄におちてしまった。

「作文を見せられた」と 母が言い出したとたん。私は目の前が真っ暗になった。「だれにもみせない」というのは「嘘」だった。

わずか13歳の子が 重荷をおろしたと思っていたら それ以上の重荷を負わされることになってしまった。

「死にたい」と 心の中で考えた。学校にも家にも居場所が無かった。

それでも 何でもない顔をして 朝は登校し、帰宅してからは部屋にこもった。勉強すると言えば許された。

中学進学時に 母は 其れまでと違って 立派な「デスク」「本箱」「回転いす」「蛍光灯のスタンド」をセットで買ってくれた。

「これで 貴方は高校と大学に行くのです」と命令された。「勉強する」は 母の期待に副う言い訳だった。

担任を憎みながらも「生物」の教師に救われた。もともと「自然」が好きな私は「生物」には興味が湧いた。

その教師は「フィールド・ワーク」を大切にする学習法なので 山に行けた。「指定された植物」を観察して「写生」して帰る。

その中から 良くできたと言って わたしを名指してくれた。「観察が」をプリントして「冊子」を作成するのも楽しかった。
試験はいつもトップだった。

校内で「おーい 元気か?」と声掛けをするだけでなく 道路を歩いていても「おーい 元気か―?と読んでくださった。

私は その気持ちが嬉しかった。担任を憎みながらも生物教師の愛情に支えられて 二年になった。

私は 今でも その生物教師がなつかしい。けれども 卒業してからも多難な人生だったので 記憶の中に先生が存在するだけになってしまった。

社会人になってから お会いしたかった。

24日前 No.209

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二年の担任は 存在感の薄い男性で どことなく安心できる人だった。気持ちが 柔いで ことしこそ頑張るぞ!という気持ちが湧いてきた。成長期の人間は 苦しみを乗り越えて生きて行こうとするものだと思い。

担任は「小学時代から数学を引きずっていますね?」と 母に言ったらしい。それなら どうすれば理解できるようになるのか?を教師は助言しなければいけないのだと思うが 当時はそういうことが無かった。かつて「ゼロ点」だった傷に触れられないように 黙っていた。

どうすれば 勉強ができるようになるか?を 考えた。授業の大半はまだ理解できない状態なのだが 母の目標は「国立大学」だ。と、なればどうしても ナンバー2の進学校には入らねばならない。これだけ 理解できていない私が目標を達成する方法は 一つ。

試験で勝ち上がる事だ。それからの私は「予習、復習」に6時間から7時間をかけるようになった。丸暗記するほどの記憶力に鍛えられた。

そして 国語 数学 英語の三教科はすべてトップクラスに入った。

当時は「中教審答申」で教育界は大揺れだった、。母校は成績順にクラスを分けるという 差別教育をした。私は幸い「トップクラス」を維持できたので 常に自分よりもできる人を目標にして 予習復習のみの受験勉強に集中していた。

「塾」に行くという生徒はまれだったけれど 兄弟姉妹があれば手ほどきを受けて 力を伸ばせる。私は 一人で伸びて行くほかはなかった。

「家の恥」を公開してしまった私は 母から愛されなくなっていたように思う。生活はモダンに変化するのに反して「お弁当」は質素になった。

おおきな弁当にぎゅうぎゅう白米で、おかずは「さかな」が一匹とたくあんだけの日が多かった。お弁当に時間になると 自然に隠して食べるようになり お弁当を断って パンを買う事が増えて行った。

パンを買うのも 不安で仕方がなかった。完全に神経を痛めていたと思う。


そんな私に 好意を持っているらしい男子が居た。しかし その子も裕福な家庭ではなかったのか?私が安心できるような かかわり方をしなかったので 喧嘩になっていた。

他に 友人もいなかったのだから 悩みでも話せただろうに 神経が弱っていた私には余裕がなかった。成績はうなぎのぼりに上昇した。

23日前 No.210

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差別教育は多くの めぐまれない家庭の子供を苦しめたに違いない。夜中に 木造校舎は焼き払われた。家が近くなので 夜中に飛び起きて公社が焼け崩れるのを観た。これから 学校はどうなるのか?進学を控えて心配だった。

放火したのは 在校生で同学年だった。母子家庭の娘さんで あそらくは高校進学も出来ない家庭だったと思う。絶望と怒りに苦しめられて 放火に及んだのではないだろうか?

二棟の校舎が焼け落ちて その子とお母さんは自殺されたという事だった。なんと かわいそうな事だろうと同情したけれど 明日は我が身。

がんばらなければ 私が自殺せねばならなくなる。

すべてを忘れて 体育館を仕切った狭い空間で 授業を受けた。校舎は鉄筋で 再建された。何事もなかったかのように また受験戦争に戻っていよいよ 追い込みの時期。

志望校を決める 保護者懇談があり「成績優秀です。真面目でお行儀がよく 立派なお嬢さんですよ」と、母は最高の賛美を受けて帰宅した。

満足げな母を観乍ら「やれやれ 何とか難関突破したけどね」と心の中は冷たく不安だった。しかし!入学したとたんに絶望的な仕打ちを受けて教師を呪ったけれど 今は「どの高校でも選んでください」と言われるようになって 少しは自信もついたように思う。

「滑り止め」という慣習があり「私学」を受ける。「私学」に通うほど裕福ではないはずなので 受験料の安い高校を受けておいた。

合格したら 皆の前で高校名と名前を読み上げられて 起立し 拍手を受ける。本命の合格時の拍手は誇らしかった。しかし!呼び上げられない同級生がいたという事には思いを寄せられなかった。

当時の私学受験料は 一万三千円だった。20歳の私の初任給は一万六千円だったから いかに 高校受験料が高かったか?

23日前 No.211

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名門難関高校を突破したことは多くの「利益」につながった。まず「縁談」が舞い込んだ。地元のお兄さんだった。あたしの進学と彼の大学終了が同じ春になる。

そこで「銀行支店長」を通して 正式なお話が合ったらしい。しかし 母はもう正常では無かった。

そして あろうことか?「小姑がいる家では娘は務まりません」と、失礼な断り方をしたらしい。本来の母の思いは「一人娘なので 家に来てくださる方を探しています」という事だろう。しかし 外見「兄」の存在がある。「婿養子」を迎えるとは 矛盾しているはずだ。

母の頭の中はたぶん 混乱していたことだろう。不思議な事に 私は「あの ジャガイモみたいな人がいいなあ!と思っていたし、おばちゃんは明るくて若くて好きだった。私にとっては 久しぶりの明るい話題で 素直に嬉しかった。大学に行かなくてもいいように思えた。

母は どんどんおかしくなっていく。「買い物に行っても 誰彼なしに話しかけてくる。お嬢さんはよくできはるねえ?と言われるが 誰かが解らない」と毎日のように訴える。「どちら様ですか?」と聴けばよいのに。と、思いながら 何も言わなかった。

何よりも 私自身が 高いハードルを自力で乗り越えたという事が とても嬉しかった。よっしゃ!これからも がんばるぞ!と気合が入った感じだった。春の庭は花盛りで かぐわしい香りに満ちていた。生きていてよかった!と、思っていた。

たくさんのお祝いをいただいて 私は誇り高い 高校生になった。

23日前 No.212

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月額三千五百円の「おこずかい」で 参考書を買い、バス通学をした。電車の場合は 駅から二十分も歩かねばならなかった。重い鞄を下げて歩くのは 負担だった。でも 「本屋」に依るためには 帰り道は歩くことが多かった。

周りは「秀才」ばかりだったし「経営者」「医者」「重役」「教師」「議員」「市長」など 社会的なポストについている家庭の子息、子女にあふれていた。美男美女ばかりとも思えた。

丁度「米国」に国費留学していた先輩が帰国して 同学年になった。別世界だった。後年「津田塾大」の学長を務められた。

それでも 私はまずまずの成績であった。これから こうした相手と競争するのか?と思うと 武者震いしそうな気がしたけれど 世間が狭いから きっと勝ち抜いて見せると思っていた。

慣習で 各委員は担任による「任命」だった。私は「文化委員」に任命されて「文化祭」の実行が仕事だった。これは三年間変化しなかった。

要するに 良くできるほどではないけれど 出来ないということは無いという位置でスタートしたわけだ。

入学後は平穏な日が続いて 私は落ち着いてきた。でも問題があった「近視」になっていたのだ。最善席に座っても 黒板の字は見えなかった。

壮烈なスピードで 猛烈な筆記をする進学校の授業を 視力障害のある生徒が受講している状態だった。中間考査は乗り切ったが このままでは「落ちこぼれる」。母に「メガネを買ってほしい」と伝えたら「メガネをかけると女の値打ちが下がる」と言ってはねられた。

「私は 商品と考えられている」ことに 気が付いて呆然とした。そして それから二年間は「見えない授業」を受けに通った。

23日前 No.213

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入学ののち「家庭調査用紙」が配られた。ちょうど五月の連休の前だった気がする。

叔母と従兄弟が来て泊まっていた。夕食後 母の声で呼ばれた。父母と叔母、従兄が集まっていた。「兄」は不在だった。

「調査用紙」を手にして 母が切り出した。「あなたは 私たちの本当の子供では無い。ここに居る人があなたを産んだ人です」と 実に滑らかに 話をした。黙っている私に 母が続けた。

「生涯 黙っていようかと思っていたけれど お兄ちゃんの時のことがあるでしょう?このままだと親戚の誰かが 貴方に打ち明けるかもしれないと思ってね?」という。

私は 冷静だった。なんとなくそうかもしれないとを感じることがあったし、「もらわれた子やろ?」と近所のこどもに言われたこともあった。

しかし!叔母と呼んでいた人が 母親で 従兄弟と思っていた人が 兄だという事には気が付かなかった。「なんだ!みんなで嘘をついていたんじゃないの?知らなかったのは わたしだけだったのか!」と考えると お腹の底から怒りが湧いた。

「嘘をついてはいけない」と教えられて育った。可能な限り正直に 素直に生きてきた私が だまされていた。大きな嘘つきばかりに囲まれている。そういう不快感が全身を貫いた感じだった。

「この家は4人家族だけれど 赤の他人が集まって家族の真似をしてきたのだなあ?」と しみじみと感慨深かった。なにかわけのわからない涙が流れて、やっと!苦しい受験を乗り越えたのに どうして神様は私を来るしまえるのだろう?と思って泣いた。

血がつながっていない事は別に問題では無かった。しかし 実の母と育ての母が 同時に存在するという環境は 実に複雑な空気を生み出した。

実の親は 鬼の首でも取ったように 得意げであった。私は 母を憐れんだ。でも 情けないのか?悲しいのか?解らない涙が湧いてきて眠れなかった。

朝になると いつものように生活は始まった。が、私の眼は「色彩を失っていた。」

不思議な感覚だった。周りの人間にも風景にもすべて「色」が無い。モノクロの世界を生きることになっていた。

登校途中にも「色」を探すが どこにも「色」はなかった。私一人が 港「別の世界」で生きているのだと思うと無性に悲しかった。

23日前 No.214

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授業には遅れてはいけない。耳で少子の言葉を聴いてはノートに書き、休憩時間には隣の席に座っているクラスメイトのノートを写すという日が続いた。

私は 絶対に「大学」を受けなければならなかった。そうしなければ 家に居られないと考えるようになっていた。でも 見えない状態ではどんどん わからなくなる。帰宅してからは とにかく「復習」に明け暮れた。

授業中に わからなくても「予習と復習」が出来れば 何とかなる。しかし 私の場合は毎日が「復習」で手いっぱいだった。結果期末試験で少し席次は下がった。

上昇するつもりで意気込んでいただけに このままでは 到底「国立」は目指せない。けれど 「本当の親では無い」と言われては メガネを買ってほしいとは二度と言えなかった。バイトをすることは許されない。絶体絶命の断崖に私は立っていた。

二学期には 進学コースを機まなければいけなかった。面談で「薬学志望です」と伝えると「大阪薬大に行けますよ」と教師は言ってくれた。

しかし それではもうダメなのだ。我が家は「貧困」ではない程度に暮らしていたけれど「私学」に行けるほどの余裕はなかった。

だから「国立」なのだ。家出をしたほうがいいかな?と思うようになっていた。国立に行けないなら こんな苦しい勉強をしなくても良いのではないだろうか?と 思う。しかし 私が逃げたら 母がどれほどの屈辱を味わう事になるか?目に見えていた。

まえにも後ろにも行けない。

土地が広かったので 資産運用をすれば「私学」は簡単だった。でも 父は現役公務員なので それをしたくないと言った。

ただ もくもくとそういう状態が二年過ぎて 成績はどん底まで落ちてしまった。幽霊のように登校して帰宅する毎日だった。

留年者が二名も出て、私は さらに追い込まれた。もしも 私が「留年」すれば 大変なことになる。なんとしても 復帰しなければいけない母のためにも。と、決意して 二度目の「メガネがいります」と 母に伝えた。

今度は「メガネ」を買ってもらえた。どうしてなのか?っわからない。

見える喜び!に 元気を取り戻して 私は猛烈に勉強した。そして 三年の一学期には三百人抜きを実現して 「国立エリア」に入ることが出来た。その時の 嬉しさを忘れられない。

みじめに耐えた二年間。やればできる!ことを証明できたので ほっとした。しかし!限界に来ていた。

「色彩」を失うだけでなく「聴覚過敏」になっていた。レールのきしむ音すら不安に感じるようになっていた。

私は 散歩しながら自分に語りかけた。

「よく頑張ったよ!これでいいのじゃないの?自殺してはいけない。何とかなるよ」と。

力を抜けば 簡単に成績は落ちてしまった。けれど 私はもう焦ることは無かった。どこかの大学に行って 私自身を癒す必要があると思っていた。

小学生のころから 友人も作らずに勉強してきたけれど 何にもわからない。これからは 友人を作って普通の会話をしなくてはいけないと考えて過ごした。

父と母も 苦しんだに違いない。最後に合格可能な 地方の国立に行くことを相談したけれど 父が高齢なので いつ倒れるかもしれないから家から通えるところに行きなさいと言われた。

母には成績は伝えていない。まだ近くの国立を望んでいるようだった。春までをどう過ごしたのか?記憶に無い。

父は 毎日夜食を買ってきて デスクに置いていた。時には植木鉢の花も。俳句が残されていた。遅くまで私の部屋の電気が消えないと。

つまり 父も眠れなかったのだろう。

徹夜も多かったし 最後まで がんばっては観た。そうして「公立」に合格した。どこでもよかった。働く力は無い私だから 少し休めるならどこでもよかったのだ。

父母も同じ思いだったようだ。我が家は 穏やかな春を迎えた。

23日前 No.215

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「兄」は家にいるような いないような、家族のような 家族では無いような 不安定な立場になって行った。それは 我が家にテレビがきて従兄弟たちが 毎週のようにテレビを観に来るようになったころからだと思う。

テレビは 私が高校に合格してから買い求めた。しかも 高校生になってすぐ 私には「膿の母」と「血がつながっている兄や姉」がいることが公開されたわけなのだ。

親戚の気遣いは無くなった。実の兄は堂々と家に出はいりして 母に借金をしていたし 居候もした。母の気分はどんなふうだったろうか?

「兄」はそんな我が家に居場所はなかった。

実の両親は「満州」に行って 私は生まれたらしい。「兄」は隣に住んでいたらしいが終戦間ちかに「孤児」になった。「僕を連れて行って!」となきつかれて 産みの母親はその子を連れて帰国した。

まだ 大陸に居る間に私が生れたという。「兄」はよく覚えていた。私が泣くと「兄」が抱き上げてくれて すぐに泣き止むのだときかされた。わずか10歳の男子である。何とかして 離れないように私を世話していたのだろう。

実の兄は わたしを抱かなかった。

帰国して 今の父母の下に身を寄せた。そして 二人は兄妹として育てられることになった。

父母には 男子2人が生れたけれど 乳児死亡で亡くしている。其の後は「甥」を何人も育てるが うまくいかなかったらしい。戦争中には台湾人の娘さんも養女にしていたけれど 17年に亡くなった。

戦後生まれの 私は 最後の望みだった。しかし「兄」は手続き上「養子」縁組が出来なかったらしい。戦後の事だから 何とでもできたように思うが それが「兄」の不幸だった。

もしも 兄が養子縁組できていれば 大手を振って私たちは兄妹として成長できたように思う。解らないけれど。いまとなっては。

23日前 No.216

Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i

合格した大学は 同じ都市に合ったけれど遠距離だった。下宿するほどの余裕はないと考えて 家から一時間ほどで通える「同学部」の分校に通った。もともと 望んで入ったわけでは無い。自分が生きる手段を考えるための時間稼ぎにすぎなかった。

でも すぐに 飽きてしまった。猛烈な受験勉強を超えて入った人間には 学ぶ内容がまるで「豆腐」のように手ごたえが無く感じられた。

どうしたものか?迷いながらも 母校の名を知って 三人から「ともだちになろう」と 持ちかけられた。いずれも 有名校出身者だがそれでも母校の名は 評価が高かった。

共に音楽部に入り 行きも帰りも 歌いながら過ごした。この経験は心地よかった。初めての自由な関係だった。優しい友人で、バイトにも誘ってくれた。およそバイトなどできないと思ったけれど その友人となら 何処にでも行けるような感じだった。

やがて 小旅行もするようになり 一学年を終えた。

私の英語はクラスで五名の「優」判定だった。英語の時間の前には 周りを取り囲んで 教えたり開いた。試験の前には「山」をおしえた。

勘だけで鍛えた「死後力」だとは 誰も知らなかった。

長い春休みを デパートのレジ打ちバイトの経験をしたけれど 間違えてばかりするので、すぐにやめた。あの頃は 学生は大事にしてもらえた。間違いを指摘されることもなく 表面は何事もなく装って ごまかした。そして 早々に夜逃げだった。

「チョコレートの箱検品」というバイトがあって それはひと月ほど続いた。単純な仕事なので 間違えることは無い。でも 学生だらけ。男子も女子もあふれかえっている。長時間 座って働くのは 退屈で、こんな仕事も向いてないなあとか 一人で考えていた。

帰宅時間になると 門の前に男子学生が並んでいた。そして 毎日「お茶のもう!」と声をかける学生がいた。

「不良?」と思って 断った。異性との交際は禁じられていた。でも もしも ハンサムな人だったなら ついていったかもしれない。

22日前 No.217

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四月の九日は 薄曇りの朝だった。

明日から 二年の授業が始まる。進路は決められないままだし転校も学部変更もしないで 一年が過ぎ、またあのつまらない授業を受けるのか?と 思いながらバイト最終日を迎えた。

「手渡し」の給料日でもあって 行かなければいけない。でも 気持ちが沈んだ。天気のせいかもしれないと思って 休むかどうか迷っていた。

バイト先は 工場街で私の一番嫌いな環境なので 今日を逃せば二度と行けない気がした。給料を不意にするかもしれない。

気合を入れて 家を出た。その日に限って 父が居た。少し歩いたら「雨が降るかもしれないし、休もうかな?と 思って家に帰った。

ところが 普段は見えないはずの 居間に父が座って「新聞」を呼んでいる姿が目に飛び込んできた。その姿が威厳に満ちていて 思わず「傘」をもって 家を飛び出した。

なぜ?父の姿が見えたのか?不思議でならない。その姿は 生前に私が観た最後になった。

バイト先では いつも今朝の不思議な光景を考えていた。そして 昼食を食べているとき 瞬間が職場にいる姿を想像した。一度も経験したことの無い ことなので「おかしいな?」と思ったが。

最後のバイトを終えて機嫌よく帰宅した。なぜか?家のようすがおかしい。人が来ているようでもある。裏口に回ると 父の従兄弟が走り出てきた。いきなり 平手打ちされて「どこへいってた!お父ちゃんが死んでしまったんやで!」と叫んだ。瞬間!手に持っていた折り畳みに傘を落としたことを覚えている。

しかし 私は冷静だった。驚いたのは「平手打ち」されたこと。私はバイトに行っていたので仕方がない。

部屋には 父がいつもの顔で 布団に寝ていた。悲しいと思う要素は無かった。死んでいるとも思えなかったし。母が か細い声で「ようこに連絡できなかったよ」と言った。当時は そういうことが当たり前だった。

親族は大勢集まり 混乱していた。私は この混乱は何?と、心では想ったけれど 皆は わたしを責めたてる。

仕方なく 私は泣き崩れた。皆も泣いた。これで落ち着いた。私が泣くまで 皆は気持ちが治まらなかったらしい。

だが、本当は私は冷静だった。皆様にご迷惑をおかけしました。私はバイトに行っておりましたので 何もできませんで失礼いたしました。

父は おそらく今日の事を 予感したのでしょう。私の脳裏に語りかけてくれました。19年の間 父への感謝を伝えられず残念ですが魂の世界で 父は私に、そして私は父に語りかけていました。

ですから どうか落ち着いて 父を見送ってください。何よりも 母の事を考えて葬儀を無事にすませた地と思います。母と兄と三人でこれからの事を考えますから 一度皆さんお引き取り下さい。と、、、言いたかったのだ。

疲れ切っている母を 抱きしめたかった。私も抱きしめられたかった。母だけが私のよりどころだった。母にとってもそのはずなのに。人生は思うようには 動かない。

私は傷ついて ぼろぼろの大学生だった。まだ 回復もしていないのに こんなに残酷な現実が起きるなんて あんまりじゃないか?

運命をただ 呪うしか 私にできることが無かった。何と無力な19才だったろうか?

22日前 No.218

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家じゅう人だらけで 二階の床は落ちそうだった。その中で 母が「ようこ!学校を辞めてはだめです」と言い放った。

そんなことはどうでもよい事なんだよ!と唇をかみしめた。私は お母さんと抱き合って泣きたいのに。と、心の中で叫んでいた。

父が死んだことが悲しいのではなかった。親戚中から 母と私は孤立していると感じたことが 悲しかった。兄の存在も記憶していない。

父が死ねば 遺産相続が問題になることは明白だった。誰もが 遺産を狙っていた。とりわけ「実の兄」は危険だった。

葬儀の朝は まだ寒かった。テントも張って葬儀が終わり「出棺の前」母は泣き崩れた。私が母を抱きたくても 何人もの従兄弟たちが母を取り巻いて 共に泣き、慰めていた。私と母の間には距離があって どうしても近づけなかった。

私は19歳であった。まだ未熟な学生である。騒動に巻き込まれるばかりで舵は取れなかった。

出棺の時 夫婦仲良く作った池の周りに咲いていた「ゆすら梅」の花が 風に吹かれて舞い上がり、棺の上に舞い落ちる。それが 父へのはなむけなのだと 言葉にはできないけれど 父からの別れのシーンとして 深く目に焼き付いた。

焼却後の「遺骨」は 私が胸に抱かされた。その重みを感じた時 本当に父の死を現実に受け止めて 涙がこぼれた。大粒の涙が ボロボロとこぼれることが不思議だった。遺骨は重かった。けれど わたしを抱いてくれた 父を抱きしめることは 本当に悲しい事だった。

タクシーが家に着くまで 顔を上げられなかった。祭壇に遺骨が治まって 私は重みから 解き放たれた。

22日前 No.219

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葬儀が終わり 二週間後にバイト先の男子学生が 家を訪ねて来たらしい。

大向の 銀行支店長夫人が対応してくれて 母に伝えたらしい。「その方は 大学名とご自身の名を名乗られて ようこちゃんの事を訊いて行かれた。お父さんが急死されたというと 表情を曇らせて礼儀正しくあいさつされた」との 伝言だった。

私も母も 出かけていた。多分死後手続だったろう。

驚いた。そして このタイミングで不愉快だった。

しかし!実は 父が亡くなる前。三月末に私はその学生の「グリークラブ」演奏会を聴きに行ったのだった。

「お茶」では誘えないとあきらめて ある日「演奏会に来て!」とチケットを手渡された。驚いたけれど「音楽部」の私には魅力があった。

二枚のチケットをどうするか?母をさそうか?友人を誘うか?迷った。

母を誘えば 喜ぶ。しかし 母はもう60歳。学生の中に連れて行く勇気が無かった。友人は 優しい。もしかすると私よりも友人が目立つ。

こんな想像をして 結果一人で出かけた。

前列二列目 中央の席だった。緞帳の奥から 男性のりりしくも優しい声が流れて来た「静かな夜更けに、、、」で始まる名曲「遥かな友に」であった。19歳の悲しみを 包み込むようなさも声に涙ぐんで聞き入っていたら「緞帳」が上がった。

なんと!その学生は私の眼の前だったポケットに大学のワッペンが付いたそろいのブレザー姿の男性は普段見る姿とまるで 別人だった。

「もしかすると、、、」私の胸には かすかな希望が芽生えていた。

数年後には コンサートに「花束」を持参するのが常識だったが 当時はそういうことをするほど豊かでは無かったような気がする。

どうしたらよいのか?迷ったけれど 何も持参せず 洋服も普段通りだったから 演奏後には急いで会場を抜け出した。

翌日か?数日後か?また お茶に誘われたはずだが やはりお茶は飲まなかった。お礼を言ったかどうかも覚えていない。

もちろん 母には言わなかった。何かしらの不満が私の中には存在していた。

「身なり」というのは なかなか厄介なもので 私自身が幼い頃に着せ替え人形だったせいか?身なりには敏感だった。

かといって 私にはもう 洋服らしい洋服はなかった。肥っていたから 既製服は買えなかったし、母も作ってはくれなかった。

白いブラウスと 紺色のカーデイガンが私の常だった。その組み合わせは好きだった。

男子学生はスポーツ選手のような上下服を着ていた。それが嫌だった。

同じ時期に 近所の有名私学性は □ネックのセーターに 爽やかなズボンをはいていた。二三回家の前を通り 散歩したけれどその学生は見かけ倒しのバカ息子だった。

私はそれでも 母に紹介したけれど 母は 何も言わずにそっぽを向いた。私は結婚できないだろうと予感した。

でも!好きになれない男子学生は 連休頃にまた家を訪ねて来た。「ごめんください」という声が聞えて 私は「はーい」と答えた。バスとソプラノの掛け合いで なかなか気持ちが良かったのだが、その人だったので私は 固まった。

丁重な挨拶を受けて おもわず涙ぐんだけれど 葉は不在でもあって そのまま別れた。

それから幾日か過ぎて 男子学生から「封書」が届いた。達筆だった。その文字を観て「ああ これは大変。返事は書けない」と絶望した。

まあお茶を飲まなくても 文通なら出来そうなものだが それはそれは 見事な文字で、父母の達筆に勝るとも劣らない出来栄えだった。

どうしたものか?悩んで 母に見せた。母は 何も言わなかった。

内容は 端正で学生らしかった。問題はなかった。ひと月になったのは「経済学部」の学生なのに「将来は 小説家になりたい」と書いてあることだった。

かすかに 我が家の資産を評価しているような 不安を感じた。小説家なんて 食べて行ける職業では無いのだから。

母は 私には何も言わずに じつの「兄」にそれを見せて「この人が撃ちに来てくれないかなあ?」と 声を絞り出すように言った。

兄はそれに答えず「おばちゃん この家を売ってくれへんか?」と答えて 「その金を貸してほしい」とまでいうのを聴いた。

人が暮らしている家を「売れ」とは 何事か?売ってしまえば 私と母はどこで暮らすのか?怒りが噴き出してきて 思わず母から手紙をもぎ取って 焼いてしまった。

わたしには 何も言わず 兄に見せたことも、それを無視して家を売れと言う大人の醜さに 私はもう家を焼いてしまいたいほど嫌気がさしていた。なぜ?母は 私に言わなかったのだろうか?もしも 家に来てくれないだろうか?と、聴かれたら 私は返事を書けないから代わりに書いてくれたらいいよ。と 答えたかもしれない。

ただ一度の機会を 失ってしまった。

学生は 返事を待っていたに相違ない。ダメでも 返事が欲しかっただろう。同じ年齢か?≫一年上か?だった。

そして 私も母も さらに苦しい人生を歩むことになっていくのだった。

22日前 No.220

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毎週のように「親族会議」が行われた。そのたびに 母が食事を作った。会議とは名ばかりで どうやって遺産を分配するか?が目的だったらしい。

わたしには「結婚」を責めたてていた。まだ学生だし 通夜の夜に「学校は続けるように」と 母に言われている。

不本意でも 通学することが 私の道だった。父の死で 私は少しでも早く社会人になるべく「保育科」に進路を変えて 二年修了を決意した。

奨学金も申請して バイトも増やした。友人が心配して「家庭教師」を紹介してくれたが「精神不安定」では学習に 集中できずすぐに断った。

そんな中での 男子大学生の訪問だけに 私の心は大混乱状態だった。もしも あの時その人に 何もかも打ち明けることfが出来ていればおそらく お互いの家族の支えで 経済の道は資産運用で開けていただろう。

家を継いでいれば 母の面目躍如だし、「兄」の生活設計も安定したかもしれない。なにより 苦労した母を 幸せにできたと思える。

大学を出ている人なら 誰でもよい状況だったから。考えてみれば 当時「私学」に通い「グリー・クラブ」活動ができるのは相当なモダン・ボーイだったはずだ。見かけだけで 判断したかもしれない私は愚かだった。

やがて 家計を維持するために 親せきが「乳児のあずかり」を母に勧めた。これは 致命的に我が家の負担になってしまうとは 想像もしなかった。母が精神を病んでいる事には「保健師」に従兄弟も気が付かなかった。

秋には「乳児」が家に来た。かわいいので 少しは気が晴れると思ったけれど 一日中緊張するので すぐに母の様子がおかしくなった。でも 私は自治体の採用試験を受けるのに夢中だったから 母を気遣う余裕がなかった。私も もちろん精神病状態のままだったから。

無試験で採用される自治体をわざわざ断って 地元を選んだゆえに 私の未来も困難を極めた。でもきっと 私は「試験」が好きだったのだと思う。二人の友人は 無試験の自治体を選んで二年後 責任者になり伴侶を得て退職した。

22日前 No.221

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保育課を選んだ私は「ピアノ」を受講した。「バイエル」は履修しなくては行けなかった。学校では「防音室にこもり」家では「オルガン」で猛烈に練習した。

音楽が好きな母は 私が練習すると機嫌がよかった。ピアノの先生は「あなたは音感が良い」と言ってくださったが それ以上の事は言われなかった。

音楽で生きる道でもあったのだろうか?それを聴きたかった。

それと「自然学」は興味深かった。「ハーブ」という外来種を初めて見せてくださった。「マリー・ゴールド」と紹介された。これは「農中効果が高いから コンパニオン・プランツ」をすると「農薬を使わなくても良いのです」との抗議だった。

「コンパニオン・プランツ」は耳に焼き付いた。私はこの勉強をしてみたい。と思ったものだった。

「農薬」のも驚いた。勉強ばかりで ニュースを観ていなかった。とうじは「食糧増産」yと「朝鮮戦争」の影響で「農薬」は太郎に使われていたのだった。

しかし!結局は 日常に返ってしまった。

簡単に卒業して にわか保育士になった。半年で止めたいと思った。叔母さんたちの会話が 聴き苦しかった。地元のウイい眼オlぴwp出ているだけに上司からの猫かわいがりも 気持ち悪かった。そして 一年半もしないうちに 新規立ち上げに選ばれたことが破滅への引き金になった。

22日前 No.222

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わー!誤字だらけだこと□相当に 疲れていたらしい。疲れると 過去を思い出すし、会話の相手がいないから独り言を楽しむ。でも 今日は山の畝を耕し、防草シートを張って 少し機敏が良くなったし、リハビリにも行けたので 書き込まなくても大丈夫だと思う。

少し 休まねば。

21日前 No.223

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快晴の一日だった。寝起きはなんだかしんどいと感じる。何かの 病気かも知れない。食べて寝るだけの日が多いから 体重はまた増えてしまったし、起立性貧血なども 起きて心もとない。

でも 気合を入れて「防草シート」を貼ることのする。下の畑は 日陰なので比較的楽に思えたが 3メートルほど草引きをしてシートを張ると 気分が悪くなって 思わず「ああ しんどい」と言いながら 「ラ・フランス」の木陰にある椅子に倒れ込んだ。

荒い息が心配で 作業を止めようか?と 思っていたら「夫」が手伝いに来てくれた。不思議なもので それからは元気に作業が出来た。

「夫」の仕事は丁寧で 見た目もきれいだが 私のは 凸凹だった。

昼までの3時間半で 何とか 要所だけは さっぱりしたそで 昼食を食べて 部屋掃除をした。本当に気分次第だと思って 日頃不満ばかりで申し訳ないかなあと 今日は反省して観たり。

父母の様子も重なって、あの幸福な頃が思い出された。今の季節は父母は毎週 庭の手入れで忙しかった。父は垣根の剪定をした。剪定ばさみうを駆使して 一時間はかかっていた。それを 燃やしながら 母が草引きをしていた。

庭に草が生えていることが無いというくらいに 手入れをしていた。花々を 株分けして 知人に分けることが多かった。当時は「苗」を売ることは無かったが 父が出張先から「すずらん」や「クロユリ」などを買ってきて それは貴重な花だから 周りからも うらやましがられた。

将来は「花屋になる」ことが 私の夢だった。池があり、ぶどう棚もあって 夏には大きな武道が実った。

「キッサ店」を開きたかった。ぶどう棚の下では ガーデン・カフェが出来ると思った。

母の思いも同じようで 「ようこ これからはコーヒーの時代になるよ」とか「セカンド・ハウスの時代が来たんだよ」とか 夢を語ることが多かった。そんな時は 私も 楽しく感じた。

「大学」がどんなところかもわからない頃だったから 夢は夢として 楽しめた。

母の気分は 浮き沈みが激しかった。機嫌の悪い時は 大抵 借金をねだられたときだったと思う。気の毒だった。

20日前 No.224

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苦労が報われる人もいれば どんなに努力しても報われない人がいる。

母の人生は 報われないほうだった。母は黒田藩の「藩医」の家柄をついでいる。一番上のおじさんは 私が小学時代に亡くなったけれど 「医者」で、兄弟姉妹の健康管理者だった。私が一歳の時に 亡くなったという祖母を看取ったのはこの叔父だったらしい。

叔母は 夫を亡くして後 看護婦としてはたらき 4人の子育てをした。母にも医療の心得があり 私は病院に行くことは少なかった。

けがをしても 母の治療で治癒したし 発熱しても フルーツ・ジュースと安静で治った。母の治療法は 理に適っていた。

母は 生まれつき「眼」が悪かった。近親結婚が多かったせいだろうと言っていた。40代はそれでも 不自由しない程度にみえていたらしい。

洋裁も 和裁も 編み物もお料理もなんでも 完ぺきだった。だが 50代になってからは 見えないことが多くなった。ストレスが重なったせいかもしれない。

近所の田んぼが埋め立てられて 建売の家がどんどんと増えて行き 母の交際が広がった。大向さんは特に 子供がいないから犬を連れて我が家に来るのが 常だった。

銀行員の奥さんでもあるから 暮らしは豊かで、母のように日焼けはしなかった。その奥様が 母の見えない事を笑う。「また おかしなことを言うてる」と言って 大笑いをする。母は 「ほんまにねえ 見えないから」と言って 同じく笑って過ごした。

しかし どれほどか、屈辱だったろうか?私は 母を守りたかったけれど きずだらけの少女では 何も言えずに にらみつけるだけだった。

母が 「帝国大での婿養子を迎える」ことは こうし屈辱を乗り越える 唯一の希望だったのだと思う。

父の急死を 私が堂々と舵取りしていれば 母の苦労は乗り越えられたであろうが、無力だった。

18日前 No.225

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向こう三軒両隣を見てそだったけれど 夫婦仲良しという点では 父母はまれにみる仲良し夫婦だった。「喧嘩」は全くなし。「父さん!父さん!」と、母は 父を持ち上げて 円満に暮らした。

母の苦労はここにある。父に養われて生きるという事はなかなかの苦労だと打ち明けた。

「三年子無くば 去れ!」と言われた時代を生きた母の事。父は 貧しい農家に育って 旧制中学を出ていなかったらしい。母は九州大学生の従兄弟たちに刺激されて育った。

夫の 学歴が低い事は 母を苦しめた。父が21歳の時に 嫁入りした母は 「夜間中学」=「戦後高校になる」に通わせた。編み物の内職をしながら まだ若い夫の帰りを待ち、焼き芋を懐に入れて 夜学に通わせたという。

母は まだ18歳だった。その覚悟は さすが!と言う他は無い。無事に 卒業した父は 晴れて「技官」に「任命」された。

母は「努力は報われる」と確信していた。期待に応えるように 父は順調に昇格して行った。とは言え エリートの世界には程遠いのだった。

余裕のない頃 国に帰ろうとして 国鉄のホームに立っていたら 遠くに同郷の人がいたけれど 自分の着物が 粗末だったから「恥ずかしくて隠れた」と 打ち明けることがあった。

確かに 洋服はオーダー・メイドだったけれど 着物はに三枚しかなかったように思う。

「私が大人になれば きれいな着物も刈ってあげる」と 心の中で母を慰めた。でも、どうしてか?言葉では言えない子だった。

もしも 言葉にすることが出来れば 母を励ましていただろうに。

17日前 No.226

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早いもので もう11月も半ば過ぎた。気温が 下がって「ストーブ」も活躍している。まきストーブ願望は まだ実現できない。「槇」はどんどんたまっているけれど。

周一のバイトは 独り立ちして機嫌よく通い始めている。通勤距離が片道20キロなので 足の疲れや 冬の凍結など 心配事は多いけれど 人間関係のわずらわしさは 全くない。一人で働くわけだから。これが 嬉しい。

少しずつ 慣れてきて 時間配分も良くなり 途中で「水分補給」と「腹ごしらえ」もできるようになった。

わずか3時間半だけれど 一回5千円という割の良いバイトなので これを継続しながら 山や畑の手入れや 「防草シート」や「土作り」など 来年に向けて しっかりと準備ができると楽しみにしている。

あと一年も過ぎれば「後期高齢者」になる。今は運転もできるが やがて それも不可能になるだろう。そうなっても 体を動かして 植物を育てることが出来るように まだまだ寿命はあるだろうから いかにして 楽しみを持ち続けるかを考えている。

娘には 「柿」や「ゆず」「白菜」「ねぎ」などと「紅茶」や「和菓子」とおこづかい」を送った。毎月のように送って 絆を保っているけれど 再開する日が来るかどうか?

息子は「冬の鬱」に入り、自分の部屋を投げ出して 座敷で寝泊まりを始めた。うっとおしいこと限りない。外に出かけないから 変化もないし、顔色は悪いし、ぶくぶく肥るばかり。穏やかな性格なのは 助かるが、哀れにも思うし 幼いころの愛らしさを 振り返っては親の無責任を悔いるばかりだ。

ここからの 逆転はあり得ない。人生は終わったのも同然。受け入れてどう生きるかが 問題だが。

3日前 No.227

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夜中に 目覚めてから また眠り、目が覚めた時には 夫は外出。多分 タイヤの交換に出かけたのだろう。私が元気にバイトをして 植物を育てることは 夫の人生を潤している。彼自身は 全くの「おたく」で、文筆業にでも転職したかったほどだから、毎日の買い物と パソコンのメンテが大好き。

私を元気に 保つために様々な「栄養剤」を座敷に山積している。「家事」が出来ないから 困るけれど、あちこちに出かけたりされるのは不便でもある。死んでしまったら 困るかもしれない。

今朝は 体調は悪くない。ただ 目が覚めた時間が遅すぎて 山に行くのはやめた。午後には「リハビリ」に行きたいから 汗をかいたり汚れたりを避ける。

黒いマジックで「絵」を描いていると気がまぎれる。冬の寒さの中で 咲く「すいせん」や落ち葉の山。山小屋の煙突や まきを燃やす煙。

特に「落ち葉」を描きはじめると どんどん積もって 本当の落ち葉に見えてくる。何をしても 完成することが無い私には 小さな楽しみだ。

「相棒」をアマゾンで見るのが一番。テレビはコマーシャルがわずらわしいし、近代の番組は店舗についていけない。でも「相棒」はストーリーが良くできているし、テンポも良い。

「ランボー」も楽しめた。同じ アクションでも「ロッキー」は面白くない。「ランボー」は極限の危機を耐え抜いていく姿に共感する。

これらの作品は 家族でもよく楽しんだものだった。あの頃は楽しかった。それなりに。

先日の日曜は「ゆず」「なんてん」「菊の花」「チャイニーズ・ホーリー」「ローズ・マリー」などを出荷した。「ゆず」も投げ売りじょうたいだけれど「収穫」と「出荷」するものがあれば 体を動かすから もっと「樹木」を植えておくほうが良いかもしれない。

「ゆず」が終われば「きんかん」だが。これは あまり気が進まない。

3日前 No.228

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昨日は「リハビリ」に行けなかった。体調が悪いということもないけれど 生活リウムが乱れたからなのか?私は リズムを決めて動くことになれているから 乱れるとなし崩しになる。

ベットに寝転んでいても 気分が悪くなって「脳梗塞か?」と不安になったけれど「空腹」だった。例の回復時の「獏食べ」らしい。昨日は 実によく食べた。そして 12時間も眠った。

今朝は 思い切って山に行く。「防草シート」を貼る。草引きをしながら 土を上げながらの仕事なので なかなか厳しい。夫が 窓から「もっといる?」と聞いたけれど「これ以上はムリ!」と返事する。

それでも3時間ほど がんばって 頂上に上り 仕上がりを観る。座ると 地面は暖かい。かれてはいるが草もいろいろ。手に取るとどれも「種」をつけて 子孫を残している。自然の世界って本当に不思議。

畑がきれいになったら この山の植物を 記録してみよう。どれだけの植物が生存しているのか?興味深いことでもある。

カメラで写して パソコンに残せたらと思うが いかがなものか?負担になることは出来ないし。

午後「リハビリ」に行く。楽になった。

ピアノ友達から「コーラス演奏会」の案内状が届いた。12月1日だ。あまり 聴きたいとは思わないけれど かつては毎年共に舞台に立った人たちの演奏でもあるから 義理にでも行かねばなるまい。

最近は「音楽」をうるさく感じる。これも「老化現象」なのだろうか?

アマゾンでは「おかしな刑事」「おかしな弁護士」を楽しんだ。人の表情は 美人 ハンサム であってもなくても 不思議なものだと思うようになってきた。

ストーリーよりも 表情に引き付けられる。

2日前 No.229

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「リハビリ」に行くたびに 亡き母を想う。私との年齢差が41年だったからなのか?70代になった母の「老い」を理解できなかった。

外に出ると危険だからと家で過ごさせることが多かった。母を旅行に連れて行ったのは母が77歳の時で それがさ最後になった。

広島のおじが亡くなったときは 娘と共に新幹線で駆け付けたけれど 唯一の「弟」を亡くしての旅は 楽しくはなかっただろう。

寒い冬だった。

おさない娘と 老いた母を連れて 心の冷える旅だった。

母は 遠慮していたのだろう。不満をいうことは無かったけれど 体のあちこちが痛んでいたの違いない。私は ビタミンゼリーをたくさん飲んでいるから 体は暖かく 比較的良く動ける。でも 母には 栄養剤も薬も飲ませなかった。何も言わずに 機嫌よくふるまってくれたのには 本当に申し訳なかった。

家にいると 洋服も買わなかった。いろいろと考えるが 当時は高齢者の服は ほとんど売っていなかった。着やすい服はないか?心では想うけれど 探しに出かけるわずらわしさには 勝てなかった。

冬は どんなに暖房をしても「指をちじめて」いた。体の中から 温める必要があったのだと今になって思える。

音楽が好きなのに コンサートには連れて行かなかった。もしも コンサートに連れて行っていれば 彼女の毎日には 張り合いがあっただろう。

すべてが 過ぎたことだけれど ふとしたことで 毎日のように母を想う。

2日前 No.230

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2時半に眼が覚めた。寒い!キッチンに降りて ストーブをつける。うどんを半分温めて 食べたり、あんこ餅を食べたりして 少し時代劇を観る。

息子のいびきが聞える。二階の座敷と一階の座敷を占領しているから 家じゅうが彼の所有状態。どたどたと足音は響き、散らかり放題だ。

それでも「自室に引きこもるよりは良い」と 夫は言う。この 息子のおかげで 実家は破壊状態。この家が無事だったのは ほんのに三年ばかりだった。こんなに お金のかかる息子をこれからも抱えて生きなくてはいけないのかと思うと できることなら死んでしまいたい。

けれど 親の責任があるから 命があって動ける間は 我慢してがんばるほかはないだろう。

育てにくい子であった。賢い子でもあった。それを うまく育てられなかったのは 私の責任。責任は果たさねばなるまい。

また 眠って、夜明けを待つか?

1日前 No.231

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夜明けを待ったけれど 山に行ったのは10時前だった。不眠の朝は 体調が悪い。寒いことも原因だと思うが 体は暖かい。食欲があるような 無いような 心もとない状態だが 何もしないで、貴重な一日をつぶしたくない一念で 山に行く。

今日は 防草シートのつずきをする。めまいがするような しないような。なんともしんどい状態ではあるが すこしずつ 畝の草が消えて シートも延長していくほどに 気分も回復する。

久しぶりに 焚火をした。草や木の枝が山済みなので 案艶な場所で燃やし始める。もしもの時を考えて ここ二年ばかりは 燃やしたことが無かった。

煙はゆったり空に昇る。10年前は 日曜日ごとにこうして 過ごした。夫はコーヒーを持ってくるので 仕事は中断してしまうけれど 良い気分だった。今日も コーヒーを届がてら 柵を点検していた。彼が死んだら 一人ではもうできないだろうと思ったりしながら ごそごそ働いた。

背中や胸がいたくなる。もともと 鍛えた体ではないし 年齢からすれば当たり前のことなのだが、体がいたくなければよいのになあと思う。

ハーブや野菜を理解し始めて 収入につなげることもできるようになったけれど あまりにも時間がかかりすぎた感じがする。

夫も ここはすぐに荒れ放題になるんだね?と 笑いながら言っている。この人は まるで人ごとのように語るところがあって それが気楽ともいえるが。そうなる前にどうするか?を考えたいのだけれど、無理だろうなあ。

「菊」をカットしてしまう。秋の菊はいくら切り返しても 背が伸びてしまって きれいに育てられない。来年こそ!

栗の木も朴ノ木も 切らねばならない。夫がこの冬に切れるかどうか?実家の庭の木も切らねばならないが とうとうそのままにしてしまっている。なかなか お金を払って切ってもらうことはむずかしい。

家を持つことは 覚悟がいる。

1日前 No.232

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1日前 No.233

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7時間前 No.234

Mignon ★38RTwlHRwQ_m9i

あれ?フィルターをかけられるような内容ではないと思うが。

7時間前 No.235
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