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胚胎

 ( 書き捨て!小説 )
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むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp

久しぶりにリハビリがてら 閲覧は自己責任
シリアスしか書けないただの創作好きです。お手柔らかにお願いします

関連リンク: 胃袋16:24 
ページ: 1


 
 

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp

H-a-S

甲:木上好(きのうえ こう)
乙:玉追きいと(たまおい きいと)
丙:日野江恵(ひのえ けい)
丁:火喰通子(ひくい とおこ)
戊:土枝五(つちえだ いつ)/土枝夏鈴(つちえだ かりん)
己:戸槌春誠(とづち はるせ)
庚:荒七かのえ(あらなな かのえ)/七斤かのえ(ななき かのえ)
辛:紳斤かのと(しき かのと)/七斤かのと(ななき かのと)
壬:みずのえたまき(みずのえ たまき)
癸:Mitchell Seton(ミッチェル・シートン)/椎戸水治(しいと みちる)

11ヶ月前 No.1

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp

 黄緑色をしたカーペット。そこへ寝転ぶ。暖かくもない、やさしくもないフローリングの冷たさが、カーペット越しに伝わってくる。だらりと下がる腕の先をなんとなく見つめていると、肌色と黄緑色が混ざってよくわからなくなった。私の腕は存在しているのだろうか。腕の重みが感じられるから、きっと、存在しているだろう。本当に? 心がこんなにも曖昧で不透明なのに、体がきれいなまま存在しているだなんて、そんなことありえない。ありえないよ、私。
 寝転がったまま時間が経った。眠気が襲ってくるくらいの時間の経過は、とてもムダなものになった。こんなことに時間を費やすくらいなら運動でもしていた方がマシだったな。だけどもう戻れない。戻れるなら過去も未来も存在しない。
「ただいま。何してるの」
 ガチャン、と音がしていた。していたのに、私は動けないでいた。彼を笑顔で迎えて、これからご飯にするのかお風呂にするのか聞くというテンプレートがあったのに。顔だけ動かし、おかえり、と微笑すると彼は困惑したように笑う。そしてスーツ着替えてくるねとその場を去った。言葉も私も残して、いなくなっていく。残るのは重たい私だけ。ああ、きれいになりたい。きれいになって、心も体もきれいになって、堂々と街を歩きたい。オシャレな服を着て、可愛いインテリアを買って、誰かと旅行をして、生きたい。願わくば彼と結婚をして、子供を授かって、しわしわのおばあちゃんになって、死にたい。
 スーツを脱いだ彼はきれいだ。ラフな格好の隙間から溢れる、隠し切れないうつくしさ。それは私を溶かしていく。今だって、明日だって。
 項垂れた私の元へ戻ってくると、きれいな指で私の頬に触れた。横髪でぐしゃぐしゃになった頬。それから私をじっと見つめると、「おつかれさま」と頭を撫でた。彼はきれいだ。何も言わない美学も、思いやりでできた全身も、私にはもったいない。
 だけど、そんな彼から溢れるきれいでうつくしい水滴が、汚れた私を洗ってくれる。指先からこぼれる見えない水を浴びて、少しだけ私もきれいになる。いや、きれいになんかなれないけど、それでも、不透明が半透明くらいには薄まるのだ。
「私、あなたのその指が、好きよ」
「俺も俺の指は好きだよ。きれいでしょ」
「ほんとうにね」
 細い指を見せ付けてくる彼に、小さく声を出して笑う。きれいな彼を吸い込んで、どんどん私のものにしていけたら。
 頭に置かれた手を引き寄せゆるりと指を絡めて恋人つなぎをして、彼の頭も弱弱しく引っ張り、幼く短いキスをした。はぁっと息がもれる。
「いつか旅行にでもいこっか」彼は急に話を切り替える。お互いに見つめあったままの、鼻先が触れる距離がなぜだか愛おしく思った。「俺の給料じゃむりかな」
「大丈夫いつか行こう。貯金が貯まって、それで、私がきれいになったら」
 そう言うと、彼はおかしそうに「なにそれ」ときれいな笑顔を作る。私がほしいのはその笑顔なんだよ。そしてなりたいのは、あなたに似合うきれいなひと。

11ヶ月前 No.2

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp


アイビー/古川澪、本郷茉巳
夏の朝には花束を/藤山啓介、松岡濱正、芝野秀、宮家埜乃、唯川琳、篠原爽
トカゲ/遠島千景、佐瀬良、一透、夕映遠、篠ノ井しのぶ、花鹿幸
善人良人/深水善、米良由
忘却(ゆめ)/夕波まめ、浅井騎士
「寡黙≠優しさ」/弦木千尋、瀬口龍成、森下幸、甘久都甘
有能処の外れ屋/笹目久めぐる、梔子スズメ、雨宿鐘、徒花ぴいこ、夜中真中、篭日ヤヱ
やさしいあくま/九十九、雪、貴蛇、戌一、天屯、炉鬼
H-a-S/木上好、玉追きいと、日野江恵、火喰通子、土枝五、戸槌春誠、荒七かのえ、紳斤かのと、みずのえたまき、ミッチェル・シートン(椎戸水治)
だるまあそび/茶唐美ヰ子、冷端ゆはた、塩屋撫子、舞踏赤、舞踏白、黍酒羊

アリシア・バチェラー
藺月染南
藺月詩音
藺月灯鵺
エディー・ローレンス
白瀬夜々
マシュー・エマーソン
ルイザ・グレンヴィル
薪平秋平
花束真南
黒神灰羅
大石田睡
冬青るうた

Memento-Mori./人数不確定
M/B/人数不確定


11ヶ月前 No.3

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp


「ほらほらあ、みんなラムは死ぬべきだって言ってるよお。まっ、殺すのはシュガアだけど」
 また始まった。まったく、せっかく仲間に入れてやったというのに、いつまで経ってもこいつらは学ばない。喧嘩のどこが楽しいんだか。双方にマイナスしかない喧嘩なんて無意味だって、つい一昨日教えたばっかだっていうのに。俺より若いんだから、少なくとも記憶力は良いはずだろう。
 本当に手が焼ける。
 にっこりと可愛い笑顔を浮かべた美ヰ子に停戦を持ちかけてみるも、あっさり却下された。やる気は満々なようだ。できるなら仕事でそのやる気を発揮してもらいたいものだ。
「はあん、なにいってんの。おれでしょ」
 目の前で堂々と銃を俺に向ける美ヰ子。そうして、俺の後ろから小型ナイフで刺そうとしているゆはた。まあ、言ってしまえば、こいつらが今どこで俺の死を狙っているかなんて分かっている。みんな、まだまだ、だ。
「ほら、いい加減出てこい。なんなら当ててみせるか? 俺の斜め後ろの壁の影に隠れてるのは白、天井から見張ってるのは赤、黒いソファの後ろにいるのは撫子、だろう」
 前後から脅されている状況下でも各々の場所を当ててやる。こうしてやらないと中々現れない上に、この時間自体が終わらない。俺はそろそろ腹が減った。そろそろ夕食時なはずだ。みんなで食事するためにも、この茶番のような喧嘩を終わらせて、それから注意してやらないと。詰めの甘さを。
 俺が所在地を当ててから数秒後、ぞろぞろと仲間が観念した顔で姿を現す。でも諦めてはいないだろう。今だけ、仕方がなく俺殺しを止めたにすぎない。
「あらあら、また失敗でございますの……残念ですわ」
「もー、姉サマのせいでまーたおれっちも説教だよ」
「さすがぼくらのボスです! ぼく、もっともっとボスのことすきになったです」
 まるで遊びのような態度に、思わず笑ってしまう。一応こっちの命がかかっているんだぞ、と言っても聞きはしないだろう。むしろ、俺の命をかけたお遊びなんだろう。
 今日はもう夕飯だ、とリビングを抜けようとしたとき、ふっと背中に気配を感じた。ああ、ゆはただ。伸びてきたその果物ナイフにも劣るナイフを簡単にするりと指から落としてやると、カランとした音と共にゆはたの悔しがる声が聞こえる。まったく。
「これから夕飯だと言っているだろう、ゆはた」
 本当に、手が焼けるやつらだ。


11ヶ月前 No.4

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp



 知らない街へと続く道路をひたすらに歩く。確かに、確かに三時間前までは居心地の良い愛車の中だった。それが今はどうだ。タバコを買いに寄った田舎のタバコ屋を出て数分、ガスッと嫌な音がしたから確認してみれば、見事にタイヤがパンクしている。タバコ屋を見つけるまで数時間かかった田舎道に修理屋があるとは思えない。そうして最終的には徒歩で見知らぬ街に向かうハメになった。愛車は情けない顔をしていたが、引きずっていくわけにもいかず、後々同期に持っていってもらうという約束で道端に置かせてもらった。といっても近くに誰もいなかったので、持参していたノートを破りそう書いて愛車に貼り付けておいた。ああ、あんなヤツに借りを作るなど、一番したくなかったのだがな。
 息を吐くたび白い息がもれる。歩いてみて初めて、冬の野外は寒いのだと知った。都市は排気ガスやら電気やらそもそもの気候やらでそこまで寒くはないし、寒いといっても、口から白い煙など出ない。田舎の特権というやつだろうか。車でなければ店屋にも行けない上、冬はこんなに寒いだなんて、田舎というのはまったく不便なところだ。
 しばらく歩いた。三時間四十三分歩いた。それでも、街と呼べる街は見当たらない。本当にこの道で合っているのか疑いたくなるほど、一本道しか存在しない。
「おい、おまえ、なんでこんなところ歩いてんだ?」
 ふうっと吐かれた白い息と共に、一人の男が現れた。いかにも中古で買ったといわんばかりのオンボロ車も一緒だ。メシアか、はたまた冷やかしか。じっと様子を伺いながら今に至るまでの説明をしてやると、それは災難だったなあ、と大きな目を細めて笑っている。それから、良かったら俺のに乗っていけよ、と。
「すまない」
「いやあ、いいんだいいんだ。街に行くにゃ車でもあと三十分だからなあ」
 オンボロ車は快適とはまではいかなかったものの、寒さと風が凌げる分、ずいぶんと体が楽になった。同時に外の寒さが厳しいものだったのだと思い知らされる。よく三時間以上歩いたものだ。我ながら褒めてやりたい。
 それからというもの、乗車させてもらった人当たりの良い男と他愛ない会話をして時間を過ごした。会話といってもお喋りな男に時折適当な相槌を打つだけだったが、それでも男は楽しそうに話を続けていたからまあよかったと思う。お喋りなヤツは助かる。こちらが何も話さずとも、勝手に喋り通して更には満足してくれる。話の共有を強要してくるヤツは嫌いだが。
 男がわが子の可愛さについて語っていたとき、ようやく目的地に着いた。思ったよりちゃんとした街だ、よかった。気楽男に礼を言い、別れを告げ、早速約束の場所へと向かう。ずいぶん待たせてしまっている。怒ってはいないだろうが、それでも、遅延というのは許されない。私が、許さない。
 暖かいホテルのロビーにはやはり客人が待っていた。急いで謝罪を述べ、飴細工のようなテーブルを挟んでソファに座る。田舎のソファにしてはまあまあだな。
「おお……ロリーネ君、大丈夫だったかね」
「ええ、丈夫さだけが私の取り柄ですので。では、早速お聞きしましょうか」
「ああ、よろしく頼む。有名でない君にしか頼めんのだ」
 ズラリとテーブルに並べられた数枚の顔写真。いつもであれば知らない顔ばかりだが、今回は少し違った。
「では今日はこれにて失礼します」
 ひとまず、今度はオンボロ車を探さなければ。今日は運はいい。仕事も早く終えれそうだ。


11ヶ月前 No.5

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11ヶ月前 No.6

削除済み @lupus ★zmzlCWJ3Nb_pxp

【記事主より削除】 ( 2017/01/09 22:58 )

11ヶ月前 No.7

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp



 きれいきれいに、しようね。
 悪魔の声だと思った。生きてきた上で最悪最低なやつだとも思った。きっと私は目の前の男より最低なヤツには出会わないだろう。そう確信して言える。
「ほら、大丈夫だから、ね」
 何が、何が、いったいこの状況下の何が、大丈夫なんだろうか。手足に繋がれた鎖。ジャラリと音を鳴らすだけの首輪。無理やり着せられたきれいなセーラー服。私は動けない。手錠のカギは見当たらなければ、扉さえ視界に入らない。私は、いったい、何が大丈夫なんだろう。
 ゆったり、ゆったり、ネトネトしていそうな指が伸びてくる。気持ちが悪い。触らないで。触らないで。私に触れていいのは、私が愛した彼だけよ。
 指が、徐々に、徐々に、私の、喉元へ。なに、首でも絞めるつもり? それとも突き刺すつもり? その汚い指で、私を、殺すつもり?
「う゛、っ……お、ぅえ……っ」
 違った。違った、ちがった、こいつは、もっともっと、もっと、気持ち悪いやつだ。変態だ。異常だ。異端者だ。伸びてきた指がそれを物語っている。こいつは、私の首を絞めるでもなく、刺すでもなく、殺すでもなく、吐かせた。何度も、執拗に。私の嘔吐きだけが響く中、いいね、もっときれいにしようね、だなんて、イカれてる。はやくにげだしたい。あいたい、彼に。
 きっとこいつは吐かせるために食後の私をさらったんだろう。こんなことになるなら、一人で食事なんて、しなきゃよかった。いまさら。そんな後悔ばかり。
 そうしてもう嘔吐物にも見慣れる頃、私の胃の中もからっぽになっていた。出しても出しても胃液に空気に痙攣だけ。ほら、もう、おわりにしよう。私にはもう、何もないよ。
「まだ……まだだ、まだ、きれいにしないと……」
「ぅあ、はっ……あ……?」
 なにを、いって。
「ア……や、いや、もう……いや」
 やめてくれ。私じゃない、可愛い子にしたらいいじゃないか。よりによって、なんで、私が。もうないんだ、なにも。なのにどうして、こいつは。
 再度伸びてくる指。喉の奥まで突かれると、また空気が漏れた。うえっ、と声だけは立派だ。それを確かめると、男は思い悩んで、それから、何か食べ物を、と小さく呟く。これからまた何か食わせるのか、頭イカれてるんじゃないか。いや、私をさらったときからもうイカれていた。いいや、きっと生まれたときから既に、イカれていたんだろう。
 嘔吐で汚くなったセーラー服。口から伝う汚い唾液。涙目になった汚い私。床も、男も、何もかも、汚い。
「待っててね、すぐに戻ってくるね」
 そう言い残すと、バタバタと本棚の方へ駆けていく。なんだ、あそこの裏が出口、か。テレビドラマのようだな。
 ああ、ちがう。私は出たい。一刻もはやく、男が戻る前に、見つかる前に、繰り返される前に、この悪夢のような現実から、逃げ出したい。だれか、いないのか。
 誰か、誰か、だれか、誰か、だれか、誰かだれでもいい。私を、どうか、救ってくれないか。


11ヶ月前 No.8

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11ヶ月前 No.9

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「アメダマァ、飴玉よこせよ」
「相変わらず野蛮ですね。どうぞ」
 ボロッボロにダサい制服の着こなしで現れた野蛮な先輩に、丁度持っていたパイナップル味の飴を渡す。ちなみに昨日は青りんご味だった。
 俺の知り合いの先輩には二人いて、一人はこの野蛮な先輩。いつもいつも俺のところにやってきては飴を催促する飴寄こせ妖怪だ。そうしてもう一人が、俺に飴をくれるアホな先輩。この二人のお陰で、俺は未だにアホな先輩から貰った飴を食べたことがない。野蛮飴寄こせ妖怪が――あ、いや、先輩がもっていってしまう。まあ、飴なんていつでもどこでも買えるからいいんだけど。
 今日も今日とて飴の取り引きを終えると、珍しく先生に呼び出された。妖怪の次はなんだ、仙人か?
 何もしていないはずなんだけどな、成績だって普通を極めているし、態度だって普通そのものなんだけど。
「失礼します。なんでしょうか、先生」
 さっさと用件を済ませるべく向かった職員室の先。担当の先生は入ってすぐの机にいるからいつも助かる。
「おまえ、お菓子貰ってるんだってな?」
「おかし……ええ、まあ……先生も食べたいんですか」
「アホ! おまえなあ……校則、わかってんのか」
「あっ」
 忘れていた。学校には校則というのがあった。この学校では、飲食物の持ち込みは禁止になっている。スポーツドリンクとお茶と水は別だが、それ以外は処罰の対象だ。これはやばいんじゃないか? 俺もついに停学に……!
「飴」
「はい」
「何回もらった?」
「えーっと、数回くらいです」
「そうか……まあ、おまえに菓子やったヤツは大方目星がついてる。おまえが断れない性格だってのもな」
 先生、菓子とかヤツとか本性バレれますよ。猫被れてませんよ。
「だから、今回だけは見逃してやる。だが次貰ったら、反省文提出だからな」
「はあ、わかりました。ありがとうございます」
 きっと先生は口が悪いタイプだな、と密かに思いつつ、それなりの笑顔で職員室を出る。反省文を書くくらいなら一気に停学や一時休学がいいな。
 さて、午後にはきっとまたアホな飴玉寄こしおじさんがやってくるだろう。それをどううまく隠れて受け取るか、それが今後の一番の課題だ。




11ヶ月前 No.10

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp



「……なに、探してるんですか」
 散乱した机上、書類のカーペットができあがった床、乱雑にされたクローゼット、ボサボサの僕の髪。初対面が見たら完全に空き巣だと疑われてしまう今、親しい部下がため息をこぼす。
「ちょっとメガネをね」
「メガネごときでこの有り様ですか」
「そのメガネごときがないと、なあんにも見えないもんでね」
 そう言うと、今度は盛大なため息が聞こえてきた。絵に描いたような、まさしく「はあ」というようなため息だ。
 とはいっても彼女の言い分もごもっとも。一つのメガネを探すだけだというのに、僕の隊長室は本当に空き巣に入られた後のようだ。これを僕の探査能力の低さと見るか、はたまたメガネが隠れ上手と見るかは、それぞれの価値観だがね。……ううん、それにしても、僕のメガネはどこへいったんだ。二ヶ月前に買い換えたばかりだというのに、まったく。
「あの」
「なんだね」
「ご自宅に忘れたということはないんでしょうか」
「……君はいつも賢いね」
「隊長とは違いますので」
 こういうときばかり笑顔を使ってくる部下に僕も適当に笑って返すと、少し驚かれる。いつも笑わないからね、僕は。いや、それとも違う理由か。
 そうして一刻も早く取りに戻ろうと、少し出てくるよ、と部下の横を通り抜けた。
 はずだった。
 本来ならば、今はもう廊下に出て玄関口へ向かっているはずが、しっかりと腕を掴まれている。僕の、親しく利発な部下に。なぜ?
「あの」
「なんだね」
「隊長の目になりたいです」
「僕はまだ失明しちゃいないんだけどねえ」
「でも、これから」
「……僕はね、未来の話は嫌いだよ」
「わかっています」
 わかっています。もう一度、彼女は呟いた。二度目は僕へではなく、彼女自身に言っているように見えたし、おそらくそうなんだろう。そのくらいは分かる、なんたって僕は心理学者だ。嘘だけれど。
 確かに、僕はそのうち視力を失う。メガネが必須なのもその代償だ。しかしこれはどうあがいても、泣いても、願っても、誰かを殺したとて変わることのない、絶対的な事実だ。選択の余地など存在しない。そうしてそれでもいいと思っている。何しろ、僕は物事に対する執着心とやらがないようでね。例えば今ここで親愛なる部下が死んだとしても、敬愛なる身内が殺されたとしても、最愛なる僕が無残な死に方を遂げたとしても、それでも心は揺るがない。可哀想だ、とも思えない。そしてだからこそ、隊長という位になれた。軍にとっては最高の人格だろうね。死を恐れない人間ほど扱いやすい駒はないのだから。
「それでも、私はあなたの目になりたいです」
「なあに、それは、プロポーズかね?」
 戸惑いながらも言葉には芯があった。彼女は頑固だ。意志を曲げるという概念すら持っていない、純粋な頑固者。はあ、まったく、隊長の意思は無視なんだから、いつもいつも。困っちゃうよなぁ。
 そして僕の安っぽい言葉に、「はい」という素直な言葉を眼差しが返ってくる。軍人が色恋ね。興味がないったら。
「僕はね」
「興味がない、でしょう。それもわかっています。ですから、目となると同時に、私は隊長を人間にしたいんです」
「へえ、僕を人間に……ねえ」
 人間らしく、ではなく、人間にか。面白いことを言うもんだ。どうやら僕は、最初から人間には生れ落ちなかったというわけだね。そんなことり……いやはや、求婚と僕の再構築を同時に告げられるとは思いもしなかった。僕みたいな人間もどきの周りには、やはり似たようなものが集まるようだね。類は友を呼ぶ、ということわざは本当だった。
「……あっ、隊長、もうすぐ会議ですよ。メガネはどうされますか」
「しかたない、このまま向かうとするかね」
 資料なんて見えないだろうが、出席しないと流石に怒られてしまう。三回に一度くらいしか欠席は許されない。そして僕は前回欠席している。それも寝坊でね。ああ、今日はとんだ日だなあ、とぼんやり考えながらなるべく急いで会議室に向かおうと隊長室を後にする。髪も適当に整えておく。掃除はあとだ。
「私、スペアであれば持っていますが」
「それを早く言ってくれよ」


11ヶ月前 No.11

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 覚えていますか。あなたと食べたスパゲッティ、あなたと飲んだ評判の良いコーヒー、あなたと見た時代遅れな映画、あなたと、あなたと一緒に泣いたあの日のこと。スパゲッティはしょっぱかったし、コーヒーは全然おいしくなかったし、映画もつまらなかった。それでも、あなたと一緒だったから、またしたいと思えている。全部、あなたが一緒だったから。あなたが、生きていたから。
 今日も情けなく目が覚める。朝だ。カーテンから弱々しくも日が差し込んでいる。眩しい。痛い。太陽なんて見たくはないんだけど、いつまでも寝ぼけたままじゃ仕事に行けないから、しかたなく、カーテンを開けた。その途端眩しさが何百倍にもなってしまって思わず目を細めた。
 スリッパの音を響かせて仕事へ行く準備をする。時間確認のためにつけたテレビからは、もう今日の運勢について流していた。あなたの今日の運勢は2位だって。よかったね。ちなみに私は1位だったよ。
 食パンを牛乳で押し込み、歯を磨き、着替え、ようやく家を出られるというときに携帯が鳴る。ピリッと身体中が震えた。
 もしかして、あなたから?
 でも違った。あなたからではなく、高校時代の友人からだった。今日一日分の気力を使い果たした気がした。
 ふう、と息を吐く。大丈夫だ、今日も生きるんだ、働くんだ、私ならやれる。あなたがいなくなってから毎日唱えている呪い。あぁ、いつまで唱えればいいのだろう。
 家を出てからは全てが一瞬のうちに過ぎていった。いや、体感時間はとても長く感じていたが、いざ正気に戻り振り返ってみると、驚くほど短い一日になっている。仕事も、人間関係も、友人との息抜きも、こんなにどうでもいいことだったのかと、初めて知った。あなたという存在の大きさを、改めて思い知らされる。
 何とかよろよろとした脳内で帰宅する。テレビはつけない、電気もつけない、化粧も落とさないまま、ベッドに倒れこむ。はやくねてしまいたい。はやくあなたにあいたい。あぁ、私はどうして、お金を稼いでいるのだろうか。使うあてすらないのに。

 私は今日も、あなたと過ごした思い出の中だけで生きようしていた。

11ヶ月前 No.12

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10ヶ月前 No.13

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 人は眠るとき、一度死んでいるんだと思う。僕だって例外ではない。睡魔が僕を襲い、まどろみが静かに体を蝕んでいく。そうして、ようやく眠りにつくとき、ふっと意識が知らぬ間に消えたとき、僕は死を迎えたのだ。なにもわからない夢世界はおそらく天国やら地獄やらと呼ばれているところだろう。それから長い夢世界を経て、奇跡的に生還すると、何事もなかったかのように生活をする。死から生き返っただけで十分奇跡なのに、僕はそれを当たり前として受け入れ、カリカリに焼かれた食パンを一口齧るのだ。
「おはよう」
 コーヒーを淹れている彼女の話しかける。僕の分も淹れていたせいか、少し間が空いてから「おはよう」と返ってきた。彼女は集中力に長けている。何かに集中すると周りの音は一切入ってこないという。そしてその集中力は些細なことにでも発揮されるのだ。そう、コーヒーを淹れているときだって、歯を磨いているときにだって。それが便利かどうかと聞かれれば、僕は迷いながらもノーと答えるだろう。だって、周りの声が聞こえないなんて、愛しい人からの声も届かないなんて、さびしいじゃないか。
「今日は淹れるの失敗した」
「それは僕が話しかけたせい?」
「そうかも」
 失敗した、と言っていたが、僕が飲む分にはとてもおいしいコーヒーをすすり、またパンを齧る。今日も甘いコーヒー。目も前に座る彼女が持っているマグカップには真っ黒なコーヒーが注がれている。苦いのは苦手だ。何回チャレンジしても舌が順応しない。きっと前世から苦いものが食べられないような体にされていたんだな。それなら納得できる。
 サクッ、と互いにパンを噛む音が響いた。彼女が食べているのはピザを食べた気持ちになれるピザトースト。ピザトーストとコーヒーは合うのだろうか? ……なんとなく合わない気がする。
「ごちそうさま」
「あ、うん、ごちそうさま」
「今日はどこへ行く?」
「そうだね……水族館はどう? ちょっと遠出になるけど、きれいなところだって聞いたよ」
「遠出ってどのくらい?」
「えっと、たしか、片道五時間くらい?」
「運転大丈夫なの?」
「うん、任せて」
「わかった。水族館、行きましょう」
 ズズ、と彼女がコーヒーを口に含んだ。それから、遠出なら色々準備しなくちゃね、と優しく微笑んでリビングを後にする。僕もその後に続いてコーヒーを飲み干し、まだコーヒーが残っている彼女のマグカップと一緒に流し台に下げてから準備に取りかかった。
 彼女との遠出のために、僕はまたもう一度死ななければならない。それでも、僕は構わないんだ。僕自身が何度死のうと何度地獄へいこうと。ただ、彼女が、彼女が死ぬのが怖いのだ。彼女だって、僕と同じように例外ではない。眠ったまま、ほんとうに死んでしまったら。夢世界へいったまま、目を覚まさなかったら。もうあのコーヒーを飲めなくなったら。それが、ほんとうに恐ろしくて堪らないのだ。

10ヶ月前 No.14

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp



 箱入り娘:友人からのリクエスト、長すぎてエラーが出たのでわけます


 部屋のなかは化学薬品のにおいで溢れている。どんなときだってそうだ。私が目覚めたときも、出されたごはんを食べているときも、大事な注射≠受けているときも、先日まで仲良しだった彼女――035番が死んだときも、部屋には薬品のにおいがあった。私はそのとき、このにおいが酸素のかわりだとしつこく主張しているように思えた。
 みんな、このにおいが好きではない。
 いったい、どんな目的で、なにをしたくてこんなことをしているのか、なぜ、毎日毎日まずいごはんを食べ、気持ちわるい注射をされなければいけないのか、私にはわからなかった。私だけじゃない、みんな、何も知らない。私たちには知識がなかった。知識のみならず、なにも、なんにもなかった。からっぽだった。そんなからっぽの体に乗っている脳みそだけが、唯一の重さだと勘違いできるほどに。
「おそと、って、どんなところかなあ」
「いい、ニーナ、おそとっていうのはね、あおいところ」
「あお?」
「そ、あお。あおがいっぱいひろがってるんだって」
「へえ、いいなあ、おそと、でたいなあ」
 となりで027番と009番が話をしている。私たちには番号がついている。それは産まれてきた順ではなく、名前や出身や年齢べつでもなく、ただ純粋に選ばれてしまった¥につけられる。私は7番目に選ばれてしまったから007番だ。それが、いまでは50番台まである。そうして、私たちはその番号で呼ばれることが好きではなかったから、お互いに番号から付けあった勝手ななまえで、呼ぶ。027番はニーナ、027番と話していた009番はキュウちゃん、私はナナ。035番はミコと呼ばれていた。
 50番台までつけられた番号だったが、いまではもう3人しか残っていない。みんな、番号を告げられた数日後にはどこかへ連れ去られるか、それか、くるしそうにしんでいった。私と一緒にここへやってきた人は、もう1人としていない。00n番台の人は009番を除いては、みんなみんな私を残してしんでしまった。
「ナナ、ナナは、おそとにでたら、なにをする?」
「うーん、そうだなあ……いっぱい、あおをみておきたいかな」
「それだけでいいの?」
「うん、ニーナとキュウちゃんは、なにしたい?」
「わたしはねえ……」
 おそと。私たちが一番いきたいところ。きっと、ぜったい、いつになってもいけないところ。私はちゃんと知っていた。もしかしたら、賢いキュウちゃんも知っているのかもしれない。おそとにでられる、そんな日はこないってこと。だけど、それを知っていながらこうしておそとの話をする時間が一日で唯一のたのしい時間であり、なおかつ救いだった。
 そんなたのしい時間はすぐに終わるのも、ちゃんと知っていた。
 ガチャン、と重い扉が開く。そこから白衣という服を着た男が1人入ってきて、私たちを見下ろすとにっこりとわらう。その瞬間、027番が恐怖そのものの顔で怯える。009番は027番をかばい、ぎゅっと抱きしめている。そんななか、私は、男の笑顔がなにを意味しているのかはわからなかったが、私たちがこうしていることが男にとってとてもうれしいことなんだろうと思って、私も彼を見返していた。そんな私に気づくこともなく、男はまずいごはんを置くとなにもせずに出ていった。まだ注射の時間ではなかったみたいだ、よかった。注射はきらいだ。いままで何度もやってきたが、そのたびに、身体のなかを流れる血液のすべてが苦くてまずい薬に変わってしまったような感覚になる。感覚になるだけでしにはしないのだけれど。白衣を着た男――かがくしゃは、それを「うれしいこと」であり、「名誉あること」であり、「誇らしいこと」なのだとメガネを光らせながら語っていた。
 まずいごはんを3人でゆっくり食べて、まずいね、とわらいあう。027番が私のぶんもまずいごはんを食べようとこちらのお皿に手を伸ばしている。027番はやさしいひとだ。誰よりもやさしく、誰よりもあいされるべきひとだ。こんなところにいるべきじゃあない、むしろ、私が027番のぶんのまずいごはんを食べてあげるべきなのに。だけど、かがくしゃはそれをゆるさない。
 結局、3人で自分のぶんのまずいごはんを食べ終え、注射じゃなくてよかったね、ともう一度わらいあった。

10ヶ月前 No.15

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_pxp



 ある日、私は部屋から脱走した。2人には、出口を見つけたら呼びにくるから部屋で待っていて、と伝えてある。これでたとえ脱走がバレても怒られるのは私だけ。
 それよりも、ああ、知らなかった。部屋の外がこんなに明るく、眩しく、こんなに、澄んでいたなんて。
 バタバタと長い長い道のりを走る。通路の両側にはたくさんの扉があった。だが、どの扉が出口に繋がっているのか、その重要なことがわからなかった。私たちは教養をうけていない。まずいごはんを食べて、注射を受け、おそとの話をし、ねむる。それだけをずっと繰り返すだけの日々だ。言葉が聞きとれても、書かれている文字とイコールで結べない。文字が読めないなんて役立たずめ、と自分を責めたてながらも、それでも諦めずに出口を探し走り回った。とにかくなにか役に立ちそうなものを見つけなければ。
 しばらく動いていると、大きな赤文字が書かれた扉の前にたどりついた。赤文字……大きい……じっと扉を見上げ、重い脳みそを必死にむりやりに使う。そういえば、まえ、009番が言っていた。おそとにいるひとは、はいられたくないところに、あかもじやきいろのもじでしるしをつける、と。もじはおおきいほど、ちゅういしてほしいというきもちがつよい、と。009番は賢い。私たちが知らないことをなんでも知っていて、なんでも教えてくれる。009番はおそとへいくべきひとだ。私がここで009番の代わりに注射をうけるべきなんだ。ほんとうは。
 そして、それなら、入られたくない場所イコール出口だ、という安直な答えでドアノブに手をかける。――それが、まちがいだった。まわりをキョロキョロ見渡して、用心深く扉のなかへ入る。意外とカギは開いていた。キィ、と鈍い音が鳴った。その音に少しびっくりしたが、勇気を持ってどんどん進んでいく。なかは薄暗かった。そして、少し歩いたさきに、二枚目の扉があった。今度は最初のものより頑丈で、分厚く、いかにも入ってこないでください! と言っていた。これはそろそろ出口なんじゃないか、と心躍らせた。
 それがいけなかった。

 二枚目の扉を開けたさきに飛び込んできたのは、あおいおそとではなかった。あかかった。おそとはあかいものだったのだろうか、そう思い違ってしまえるくらい、あかかった。バチバチと目のさきで光が散る。足がすくんだ。だって、ちがう、だって、あの、目のさきにある台に乗っているのは、先週に一度だけ会った小鳥。きれいな黄色い羽だったのを覚えている。のに、なんで、いまは羽のさきのさきまで赤く染まっているのだろう。だって、足首についた063のタグが物語っている。彼女はほんものだと。
 063番が割かれている。
 どうして?
 わからない。なにか、怒られることでもしたのだろうか。
 もしかして、いままで連れていかれたみんなも、こうやって。
 みんな、なにも悪いことをしていないのに?
 ……私も、こうなってしまうのだろうか?
 だって、私、いま、怒られることをしている。
 怒られることしか、していない。
 しぬ、のだろうか。
「おい、こいつ、何ヶ月なんだっけ?」
「えーっと……ちょうど、半年ですね」
「ふん、半年でこれくらいの成果しかでないか。あの試作品ももう一度だな」
「最近ダメダメですね、せっかくの人体実験もボロボロじゃないですか」
「そうだな、最近は死にすぎている」
「我々の理論は間違っていないはずなんですが……あっ、せんせい! 実験具が……!」
 ジロッ。同時によっつの目で見られ、思わず泣きそうになった。
 にげ、なきゃ。
 とっさに本能がそう叫んだ。にげろ、007番、はしれ、007番。それに素直に従い、薄暗い部屋を飛び出す。そのあとを続いて、若い男が追いかけてくる。薬漬けのか細い手足じゃ速さに限界があったが、若い男も室内業務漬けで運動不足なのか、数秒走っただけで息を切らしていた。だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。私も息を切らしつつ走る。捕まらないように逃げながらあの部屋について思い浮かんでいたことがあった。あそこは、実験室。つい最近、いや、ずっとまえあの部屋のことを話していたのを聞いたことがあったのだ。「この前、実験室の設備が暴走しちゃってさ、モルモット三匹もダメにしちゃったよ」――と。それに、いま、現に行われていた。063がころされていた。
 同時に、シサクヒンという聞き慣れた言葉にひっかかった。シサクヒンは私たちが毎日注射されているもののこと。かがくしゃは、注射するたびに「これは身体にいいものだからね」「これに耐えれたらすごいことだぞ」「よしよし、今日もいいこだね」と声色をやさしくして、わらいながら言っていたんだ。わらいながら言うことは、いいことなんじゃないのか? そう思ったとき、ハッとした。私たちに注射していたシサクヒンのせいで、みんながしんだのだと。035番をころしたのは、かがくしゃなのだと。027番や009番すらもころそうとしているのは、かがくしゃだ。
 たすけなきゃ。ふたりを、まもらなきゃ。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
 もう走る力が残っていない。後ろを振り返る余裕もない。それでも走った。実験室を抜け出してからほかのかがくしゃに会うことはなかったのが、不幸中の幸いだった。
 へろへろになって元の部屋へ戻る。ガチャリとドアノブに手をかけた。ゆっくりと振り返ると、そこに若いかがくしゃはいなかった。どこへいったのかはわからない。実験室に戻り、また063番を割いているのかもしれないし、ほかのかがくしゃに助けを求めにいったのかもしれない。そんなことより、はやくここからにげなきゃいけないという意思だけが私を動かしていた。
 ガチャリ、ガチャリ、ガチャ……いくらドアノブをまわしても扉は一向に開かない。どうしてだ。私が脱出できたのは、忘れやすいかがくしゃがカギを閉め忘れたからだった。それなら開いていてもおかしくはない、はず、なのに。時間がないんだ、にげなきゃいけないんだ、ふたりを、たすけなきゃ。
「ナナ! こっち!」
 不意に誰かに腕をつかまれ、部屋のなかへ強制的に戻される。扉のしたにある通気口を通ったようだ。みごとにひと1人ぶん入れるよう、壊されていた。ひっぱられたおかげで腕や肩だけではなく、軽くぶつけた頭もいたい。ようやく立ち上がろうにも疲労と痛みで少しふらふらする。
「ナナ、だいじょうぶ?」
「うん、まあ……あ、そんなことより、ふたりとも、はやくここをでなきゃ」
「でぐちをみつけたの!?」
「ナナのようすをみるに、なにかあぶないことがあった?」
「うん、かがくしゃが、063をころしてた、わたし、それみて、にげてきたんだけど……かがくしゃ、たぶんわたしをころしにくるよ。だから――」
「わかった。ナナ、ニーナ、ここをでよう」
「キュウちゃん」
「うんっ! よーし、どうしたらいいかな?」
「ニーナ」
 私はいいんだ。そう言おうとして、言えないまま、2人のあとを追って再度この化学薬品で満たされた部屋を出た。相変わらず通路はまぶしかった。
 2人に手を繋がれ、また走る。パタパタパタパタと子供のせわしない駆け足の音がそこらじゅうに響きわたっている。私もいっしょなせいで、ずいぶんと移動が遅い。あきらかに足手まといなのに、027番も009番もぜったいに離さないと言いたげな顔をしていた。3人でここを出るんだ、本気でそう願っていた。
 009番の指示のもと、くねくねした通路をひたすらに走って……いや、歩いていると、だんだん冷たい空気が頬をかすめるようになった。これがおそとに近づいている証なのだということをまだ知らなかったが、とても心地よかったからこの道が正解なんだと無意識のうちに信じていた。
 やっぱり、そういう過信がいけなかった。
 冷たい空気が流れる通路の曲がり角。右へ曲がると若いかがくしゃが待っていた。もう逃がさないぞ、覚悟しろ、そんな執念がメラメラ燃えていた。叩かれたのか頭のすみにはいたそうなたんこぶができている。きっと、あのもう1人に怒られたんだろう。
 3人対1人。それでも勝てる余地はなかった。子供と大人。それだけで勝敗は確実なものだった。
「……ナナ、はしれる?」
「えっ」
 諦めていなかった。009番はしっかりとした目で、私をとらえる。私だけだった。この状況下で諦めていたのは、かがくしゃに見つかった時点で私はしぬさだめなんと思っていたのは。なんだか、とても、もうしわけなくなって、はずかしくてなきたくなる。
 いっしょにおそとにいこう。
 そう最初にやくそくしたのは035番とだった。だけど035番はやくそくを果たすまえにしんでしまった。そのとき、私もしねたらいいと確かに思った。それなのに、いまはいきたいと思っている。035番へのうらぎりじゃない、私へのうらぎりなわけでもない。
 ぐ、と唇をかむ。覚悟をきめる。かがくしゃのように。
「い、いくぞー!」
「おー!」
 ダッシュ!
 3人で今世紀最大の走りをみせる。さっきまで繋いでいた手をいまだけ離して、三方向に向かって走って、走って、走って、転びそうになって、また走る。それを受けとめようとするかがくしゃが慌てる。3人同時につかまえるのはむずかしいだろう。
 かがくしゃの後ろの扉はわずかに開いていた。この薬で満ちた部屋や通路をきれいにするためにいつも開いているんだろうな、となんとなく想像できた。そこへ勢いよくぶつかる。通気口のときよりもいたい。ズキズキする。どうしようもないいたみに肩を押さえていると、さっきよりもずっと強く空気がなびいた。ふっと上を見ると、想像していたよりもまぶしかった。目がつぶれるかと思った。我慢できなくなって視線をしたに落とす。それからとなりを見ると、027番と009番がいた。いっしょだ。いっしょ、だ。ちゃんと、ほんとうに、いっしょだ。あぁ。
 私たちはもう一度手を繋ぎあった。あったかい手。二度と忘れることはできない日をむかえた。



 研究所、と呼ぶらしい場所を出てからは、忙しい日々を送った。ボロボロな身体をきれいにしてくれるおいしゃさん、住むおうちを用意してくれたまさきさん、それから学ぶためのがっこうのところを行ったりきたりしている。おいしゃさんは、私たちに「よくがんばったね」と言ってくれた。まさきさんは「もう大丈夫だよ」と頭をなでてくれた。あったかい手のひらは二度目でまだ慣れていなかったけど、とてもうれしかった。
 そんな中、私と027番と009番には新しい名前がついた。027番はきれいな水色の目をしていたから、みずき。009番はきれいな赤髪を持っていたから、あかり。私は白い肌をしていたことから、ましろ。まさきさんが真剣に悩んで考えてくれた名前を聞かされたときは、みんなでその名前を喜びあって、何度も呼びあった。
 忙しい日々が終わると、ようやく自分のことが知れるようにもなった。私たちは7歳で、それぞれ生まれた国がちがうこと。血液型。身長、体重。そのほかどうでもいいことも知って、初めて私は私だと自信をもって言えると思った。
「ね、ましろ、あかり、公園に行こうっ!」
「わかったわかった、みずきはいつもいきなりなんだから」
「えへへ。ほらほら! 急いで支度してー!」
「はあい…………ましろ?」
「ましろ、どしたの? おなかいたい? おいしゃさんとこ、いく?」
「ううん、いま、すごく幸せだなぁって思ったの。ふたりとも、ほんとうに、ありがとう」
「ましろは泣き虫だなあ」
「みずきもね、いますっごく幸せ! 3人で、もっとたくさん色んなことしようね」
「うん、うん……」
 あの頃とは状況がちがうけど、また3人でわらいあう。このときに035番もいたなら。それは今でもたまに後悔する。だけど、もどれない。もどっちゃいけない。私たちはこれから前を向いて、学んで、わらって、歩かなきゃ。
 035番のぶんも、生きるんだ。


10ヶ月前 No.16

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9ヶ月前 No.17

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 泣いた明日を許せるのでしょうか。
 手首から伸びるチューブの先には水溜りがある。私を生かすための水溜りは今日も、私の心臓の代わりにポツポツと脈打っている。そんな中、手紙を読んでいた。真っ白な便箋に書かれた乱雑な文字。あなた顔は綺麗なのに、字は全く綺麗じゃないのね、そう笑いあった日々は戻らない。もし戻ることができるのならば、私はいっそのこと、ずっと、あの時間をめぐりつづけたい。
 手紙はぼやけていた。もう読むことをつづけられなかった。私は備え付けられていた白い引き出しにそれをしまい込む。
 一番幸せだった日、一番頭にきた日、一番楽しかった日、一番笑った日、一番永遠を願った日。もう、それは二度と訪れないのだ。これから来るのは悲しみと後悔と虚しさだけ。それだけで私はどうやって生きたらいいのでしょうか。今すぐにでもあなたの元へゆけばいいのでしょうか。そう思っても、同室の人や看護婦が必死にそれを止めにくる。あなたがいなくとも、私に生きろと。あなたがいなくとも、やっていけると。聞き慣れたフレーズもさっきで記念すべき10回目を迎えた。そのあと、水溜りの交換をされながら、蟻地獄と生き地獄は似ているとぼんやりと思った。
 新しくされた水溜りは相変わらず半透明で、私の願いと相反しながら揺れている。そのまま水溜りからベッドの横に置かれた小さな引き出しに目線を移し、それから病弱になってしまった腕を弱々しく伸ばして、中に閉まっておいた手紙を取り出した。透かすように持ち上げるとチューブの中をわずかに血が逆流した。
 もう一度、封を開けてみる。
 取り出した便箋は真っ白で、だけれど、滲んでいた。あなたが書いた文字すら読みにくくなってしまった。あなたが、せっかく私に、私に、最後に、宛ててくれたもの、だったのに。涙ももう出てこなかった。
 そして、読むのを諦め、チューブの先の先まで赤くなるようにわざと腕を持ち上げていたら、丁度見回りにきていた看護婦に怒られてしまった。
「悲しいのはわかるけど、そういうことはしちゃだめよ」
 悲しいわけではないのだ、と言う気力もなく、滲んだ手紙をかすんだ視界で眺めつつ「はあ」と返しておいた。
 この手紙も、いつかは色褪せてしまうのでしょうか。それとも、色褪せる前にあなたの元へゆけるのでしょうか。


9ヶ月前 No.18

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「どうしたらよかったんだろう」
 屋上。フェンス。セーラー服のクラスメイト。青空。置かれた上履き。僕の彼女。――ヒナノちゃんは、フェンスの向こうから僕を見ている。誰が見ても分かるくらい泣きそうな顔をしていた。落ちそうだ。落ちるのか。僕の目の前で、わざと。僕の記憶に残るように、僕が彼女を殺したのだと遠まわしに言いつけるために。それだけのために落ちるのか。
「だいじょうぶだよ、ヒナノちゃん。僕はここにいるよ」
 それでも僕は彼女のために手を伸ばす。どうか落ちないでくれ。生きてくれ。
「うそ、うそばっかり!」
「……え?」
「タナカくん、知らないと思っているでしょう。私、あなたは過去のことを忘れられないくせに都合いい私に愛してるって言うの、知っているよ。面影に恋してるってことも」
 彼女が怒ったところを今まで見た事がなかった。どんなときでも彼女は笑っていたし、あんな風に声を荒げるほど感情的になったことがなかった。彼女は怒らない人種なのだと思い込んでいた。だってかのじょはそうだったから。
 フェンスを必死に掴み、ボロボロ泣きながら、でももうどうでもよかったんだ、と消えゆく声で空気を揺らす。
 かしゃん、と音が鳴る。ずっと彼女を視界に捉えていたはずなのに、気がつけば彼女の体がぐらりと傾いていた。落ちる。そう瞬時に思った。落ちてはいけない。落ちてはいけない。落ちてはいけない。僕のせいで、落としてはいけない。
「ヒナノちゃん!」
 がしゃん、と音が鳴る。僕は強くフェンスを握り、のぼり、彼女に手を伸ばした。ちゃんと手を伸ばしていた。それなのに届かなかった。彼女の体はスローモーションのように動き、ぐにゃっと体制を崩すと一気に急降下した。その瞬間、彼女はこの上ない柔らかい笑顔を浮かべ、口を小さく動かす。落ちていく。人が。体が。かのじょが。落ちてゆく。コンクリートまであと。
 びしゃっ――ぐしゃ。
 コンクリートは赤くなった。ワインをこぼしたときよりも濃く、緩やかに、着々と、赤くなっていく。彼女は無残な姿に変わり果てた。セーラー服が汚れた。それでも上履きは屋上できれいに揃えられてある。明日から彼女がこの靴を履くことはない。おそらく、焼かれるのだろう。彼女と共に、彼女が今まで歩んだ証として。
 校内が慌しくなる中、僕は彼女の最後の言葉、遺言、ということになるのだろうか、それを考えていた。安らかな笑顔だったのだ。その状況下で、なぜ、あんなことを言ったのか。彼女にとって僕は、いらないオモチャと同等の価値になったというのか。昨日まで彼女を愛していると言い続けた僕が。なぜ。
 ぐわんぐわんと頭痛がしてくる。痛い。眩暈がする。僕もそちら側へいってしまいそうだ。再度音をたててフェンスを降りると、彼女を救えなかったことが余程ショックだったのか、その場に倒れこんだ。意識が消える間際、彼女によく似た少女が頭の中で「あいしている」と笑った。そうだ、僕もあいしている、誰よりも、誰よりも、何よりも、僕のすべてなんだ、心臓よりも重い存在なんだ、かのじょが、かのじょが……。
 かのじょの微笑んだ姿が、ふっと最後の遺言へと映像が変わるとき、僕の視界は黒く落ちていった。

 全部手放せば楽になれるよ、タナカくん。


9ヶ月前 No.19

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_XWi


 溜まっていく。煙草の煙。缶ビールの泡。香水のにおい。片方だけのピアス。人知れず泣いたこと。色んなことが溜まっていく。きれいなものは一つもない。ただただ嫌いな自分が増えていく。恋人が泣いた。どうしてあいしてくれないの。そう言ってメソメソ泣いていた。僕にはわからなかった。もう、きれいなものを吐露できるほどの肺など、持ち合わせていない。
 恋人は気が済むまで泣くと、まるで僕だけが最低だと言いたげにそこらにある物を適当に投げつけ、わかれましょう、と部屋を出て行った。飛んできたのはティッシュ箱とクッション。痛くはない。悲しくもない。強いていえば、ティッシュ箱の角が潰れてしまったことが、少しショックかもしれない。だから、今、僕は泣いている。
 恋人よ、どうか、どうか、幸せになってくれ。ティッシュ箱の角を潰さなくてもいいような人と、しあわせに。どうか。それだけでいいんだ。きれいな肺は持っていなくとも祈りくらいならきれいであれるはずさ。
 ああ、大丈夫。僕なら痛くないよ。これっぽっちも、痛くないよ。

9ヶ月前 No.20

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_XWi

(いいね九つ、ありがとうございます)
(百パーセント自己満足でできた書き捨てですが、閲覧してくださる方々、そしていいねまでしてくださる方々がいてくれて不思議と励みになります)
(また言い忘れましたがコメントもしていただいて構いませんので、感想なり批評なりリクエストなりお気軽にどうぞ)

9ヶ月前 No.21

削除済み @lupus ★zmzlCWJ3Nb_XWi

【記事主より削除】 ( 2017/03/09 22:19 )

9ヶ月前 No.22

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【記事主より削除】 ( 2017/03/09 22:19 )

9ヶ月前 No.23

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【記事主より削除】 ( 2017/03/09 22:19 )

9ヶ月前 No.24

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9ヶ月前 No.25

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「僕がもっと優しかったならあの子は死なずに済んだのかなあ」
 目の前でシチューをスプーンで掬いながら、トカゲはまるで日常会話のようなテンションで言った。そんなこと言うなよ。それが言えなかった。俺がトカゲを否定しようが肯定しようが、どっちにしろ、「サソリはやさしいね」と塞ぎこんでしまう。俺はただ黙ってシチューを口に含んだ。自分で作ったシチューは少しだけ母の味を思い出させた。
 結局あれから何も言わず、互いにスプーンの金属音だけが響く食事になった。食事ってこんなものだったっけ?
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
 それでも二人いっしょに手を合わせてごちそうさまの挨拶をする。今日も我ながらおいしくできたように思う。トカゲは何を作っても文句ひとつ言わず食べてくれるし、ちゃんと残さないでくれるし、自分の分の後片付けは自らしてくれる。それだけでじゅうぶん、ありがたかった。各々が食器をキッチンに持って行き、洗い、乾かし、そして食器置きに並べていく。今日も流し台はそれなりにきれいだ。うんうん満足だ。
 はあ……と溜め息を吐いてソファーへ戻るころにはもう八時になっていた。ソファーの上ではトカゲが体育座りをしている。顔を膝にうずめて色んなものから身を守っている。そういう日なのだろう。感傷的になって、自己嫌悪して、すべて捨ててしまいたくなるようなそんな日なんだろう、彼にとって。あえて何も言わずに横へ座り、テレビの電源を入れようとリモコンを手に取るちょうどそのとき、トカゲが弱弱しく声をあげた。
「しんでしまいたい」と。
 トカゲがそう言うと、俺はいつだって驚く。それで不安になる。
「なにもないよ、サソリ。おれ、おれ、どうしたらいいのかな。しんじゃいたい。心臓をあげたあの子は死んじゃって、信用してたあの子は音信不通、あいされたかったあの子は僕を見ちゃいない。さびしい。なんで生きてるんだろうボク」
 不安定になるとトカゲは一人称や言葉遣いがあやふやになる。自分自身さえ保てなくなる。
 白い髪がか細く揺れた。下を向いている目は俺から見えないけど、もしかしたら涙ぐんでるのかもしれない。トカゲが望むあの子たちがどんな子なのか、俺は会ったこともなければ詳しく聞いたこともないのでよくわからない。死、音信不通、無愛。まだ音信普通くらいしか経験したことがなかった。だから安易なことは何も言えなかった。
 ゆっくりトカゲの頭に手を添えると、トカゲは心底怯えるように肩を震わせた。怖がっている。トカゲ以外をすべて拒んでいる。
「……ごめん、いいよ、もう。ありがとう」
 僕もうねるね。顔を上げ、そう言うと寂しい笑顔を俺に向けた。また心をすり減らしているように見えた。トカゲはそうして自身の心を削り、砕き、飲み込んでいかなければ生きていけないようだった。俺は今日もまた自分を無力に感じた。



9ヶ月前 No.26

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「ねえ、いたいよ」
 恋人に噛み付かれている。まるで吸血鬼のように、今こうしなければ飢え死ぬとでも言いたげに、とがった八重歯が肩にめり込んでいる。恋人いわく甘噛みだそうだが、されている当人としてはどんな噛み方だろうとそれなりに痛い。噛まれる瞬間は必ず電流が走る。これに慣れたくはないが、慣れないままというのも何だかなと思う。微妙なところだ。
 後ろから抱きつく形で私を噛んだまま、恋人は離れようとしない。相手の髪が首元でこすれるせいですぐったく、なるべくはやく離れてほしい気がする。もちろん、あたたかいわけで、それからこうして一緒にいられる時間も限られているのだから離れてほしくない気もする。さっきから曖昧に思考が揺れていた。それは恋人がいるせいだ。いつだって、どんなときだって、必ずこうなるのだ。理由はわからない。
「きょうは甘えただね?」
 子供みたいな恋人がおかしくて可愛らしくてそう笑うと、恋人はようやく唇を離した。肩には見事な噛み痕が残っているだろう。見なくとももうわかる。恋人の噛み癖は今に始まったことじゃあない。
「あしたから、おまえ、出張だろ」
 ふてぶてしい口調が愛おしかった。私の仕事に嫉妬しているのかい、君。
「お土産買ってくるよ。なにがいい?」
「無事に帰ってくるならなんでもいい」
「君も明日当直だろう? そんなに拗ねててだいじょうぶかい?」
「大丈夫じゃない」
 私の左肩に顔をうずめて、今度は猫のようにすり寄ってくる。一日でも会えないのがさびしいのだ、恋人はさびしがり屋なのだ。
 何とか届く右腕を伸ばして恋人の頭を撫でてやる。きれいに乾いた黒髪は空気を含んでふわふわ浮いているようだ。私はわずかに微笑む。こんな日々が何より愛おしいものだと気づくのは、恋人が残した噛み痕を見るとき。私の右手や腕にもそれはある。噛めるところは、いわば私の皮膚という皮膚はすべて、恋人のターゲットになりうる。今日は偶然肩だっただけである。しかし、一週間後、つまりは私の出張が終わる日、きっと大変なことになるだろう。肩だけではなくなるのだ。手首や腕、首、太もも、さらには噛みづらい鎖骨にまで噛んでくるかもしれない。そう考えると出張したくない気分にもなった。
 私を抱きしめて放さない恋人に、もう寝ようかと提案してみる。案の定、いやだと返ってきた。しかたない、今日は夜更かしだ。
 ゆっくりゆっくり恋人の手を解き、互いに向き合う形をとってみると驚くことに、ほんとうに子供のような顔をしていた。思うようにいかなく、だからといってワガママも言えず、むっとふてくされている表情だ。
「かわいいね」
 赤く染まる頬に噛み痕だらけの手を添えると、からかうんじゃない、と叱られてしまった。からかいではなく本心だったのだが、どうやら上手に伝わらなかったようだ。誤解をごまかすわけでも、とうぜん、逃げたわけでもない自然な空気のもと額にキスをひとつ落としたとき、艶やかに熱を帯びた声で「すき」と恋人は言った。ああ、それはずるいだろう、君。


8ヶ月前 No.27

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_XWi

 あなたの言葉遣いに惚れ込んでいただけだよ。羨望だっただろうか、畏怖だっただろうか、嫌悪だっただろうか、たまにぼくはそんな気持ちになってあなたを押し殺してしまうね。それでも何回か眠るうちにまた戻ってくるんだ。そう、あなたの言葉のきれいさと自分勝手さに気づかされるんだ。好きなんだと。あなたのように言葉を落としたいと。
 何度も夢に見るよ。真っ白な部屋。虚無に似た願い。笑うあなた。そんな夢を見るとき、いつだってぼくは泣きたくなるんだ。見たくないんだあんな夢。思い出でしか生きてくれないあなたなんて嫌ってしまいたくなるよ。ほんとうに。ああ、ぼくはぼくの好きなように生きたらいいと知っているんだよ。驚くだろう? もうあなたの期待するぼくではないんだ。だからこそ、ぼくは忘れたい。あなたを。あなたのその綺麗だった言葉遣いや、伏し目がちなまぶたや、ぼくを魅了した存在自体を。知らなかったことにしたいのさ。憧れが憎悪に変わるまえに、そうさ、早くしないとぼくはあなたを忌み嫌ってしまいそうなんだよ。だから、だからね、早くぼくの脳から目から涙から心臓から血液から、言葉から、いなくなってよ。おねがいだ。

8ヶ月前 No.28

むっく☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_jWF



 死を彩る / しをいろどる
 裏話というか裏設定というか




 ぼくは産声を上げたそのとき、すでに絶望していたのだと思う。何に対してかはわからないが、そうじゃなければ、なぜ、ぼくは生に意味を見出せないのか。死を崇高対象にするのか。まったく説明できない。
 生きた存在(もの)を一度も愛したことがなかった。
 両親、兄妹、親戚、友人。ぼくは恵まれていた。優しい両親からは山ほどの愛情を、物知りな兄妹からは程よい兄弟愛を、優れた親戚からは心地よい博愛を、笑い合ってくれる友人からは尊大な友情をもらってきた。それでも、ぼくは何も返せなかった。彼らを愛しい≠ニいう目で見られなかったのだ。それよりも車に轢かれた野良猫のほうが何倍も魅力的に思えるし、愛しいとも感じられる。ただ、それを言ったところで理解されないことは、生まれたときから何となく勘づいていたから言わなかった。
 そんなある日、両親が死んだ。交通事故だったらしい。ぼくが高校生のときだ。
 いとおしい。
 素直にそう思った。事実を知り、両親の死に顔を見たとき、初めて心の底から愛情が湧き上がってきたのだ。あいしている。何度も心内で呟いた。ああ、これがみんなが騒ぐ普遍的な愛というものなのかと理解し、同時に、やっぱりぼくは死人しか愛せないのだと、そのときはっきり自覚もした。

 それからぼくはそれなりに勉強をし、それなりに交友関係を築いて、教師になった。元々絵を描くのが好きだったこともあり、担当は美術。生徒はみんな――あたりまえだが生きているので愛着が湧くこともなかったが、沢山の人と関わることで何か変わるのではないかというわずかな希望を持っていた。だが今に至るまで変わらなかった。
 彼に会ったのは教師になってから数年後のことである。入学式の際、何十人といる生徒のうち彼だけに視線がいった。今思い返せば一目惚れだったのかもしれない。とにかく、ぼくは彼を見つめる時期が続き、そして、やがて彼は美術部に入った。接点が増えたことが嬉しかった。だが関わってみると思った以上に相対的な存在だと知ることになる。生を愛す彼と、死を愛すぼく。それでもなぜか拒絶できなかった。そしてそれは彼も同じようだった。まったく、愛とは盲目なものである。

「先生は死が好きなのに自殺しないの?」

 彼は相手を思いやることができなかった。

「死んだぼくを目視できるならしてもいいけどねえ」
「オバケって曖昧だしね」

 ぼくが生きてきた中で、初めて好きだと思えた存在が彼。でも愛しい≠ノ辿りつかない。愛しいと思いたかった。彼を、おそらく最初で最後のぼくの初恋人を、愛したかった。ころしてしまいたかった。
 もちろん葛藤した。幾度も、幾度も、悩んだ。未来ある人から何より生を好む人から、それを奪うなどそんなこと許されるのか。結果的にぼくが彼を愛せたとして、はたして、同じように彼がぼくを愛し返してくれるというのか。葛藤は一年七ヶ月続いた。彼は二度目の進級を目の前にしていた。一年七ヶ月の中、ぼくらは逢瀬を繰り返したし、そのおかげでお互いに特別な情を持つまでに発展した。だからこそ告げられなかった。君を殺したいと、ぼくのために死んでほしいと。
 雪景色が日常になる冬休み。彼は美術室にいた。絵を描くのが何より好きだった彼は、部活の活動日だろうが何であろうが、描きたくなったらいつだってやってくる。だからぼくもいつだって美術室にいた。それが二人の当たり前だった。

「先生、おれ、今にも死にそうな先生のこと、すきだよ」

 衝動は一瞬だった。
 今まで必死に押さえていた愛情やら希望やら殺意やらがぼくを支配した。ぼくだってすきだ。あいしている。そんな口先よりずっと愛したいのだ。ああ、君が死んでくれたなら!
 彼が座っていた椅子がガタリと大きな音をたてた。握っていた筆はどこかへ飛んでいった。遠くでカランと音がする。途中まで色付けされたキャンバスが大袈裟に揺れる。彼は床に倒れこむ。ぼくは首に手をのばしていた。力を込める。刹那、戸惑う。手を離す。ぼくは何をしようとしていたんだっけ?
 ごめん、口を開いた。ただ、口を開けただけで声にできなかった。彼がそれを遮ったのだ。


「いいよ、先生」
「俺殺しても、いいよ」


 笑っていた。全てを受け入れたような、これから起こることが幸福であるというふうな表情をしている。やわらかい笑み。ぼくは、彼のそんな笑みを初めてみた気がした。
 手が震え、思わず泣きそうになった。彼はぼくを愛し、また、ぼくに愛されることを許し、飲み込み、それでいてそれを幸福だというのだ。生を何より好む彼が。ぼくのために命一つ犠牲にしてくれる。彼ならば、いつになっても愛せるだろう。確信せざるを得なかった。
 力を込める。呻き声が部室を満たす。呼吸したがる彼の本能。それを止めたがるぼくの理性。彼はきれいだった。ヒュッ。今日からぼくは、彼を愛し始める。何よりも望んだことだった。息が止まる。力を込める。力を込める。力を込める。ボキッ。バキッ。手を離す。きれいだった。誰より、何より、うつくしかった。
 ぼくは涙をこぼした。後悔だったのか、懺悔だったのか、喜びだったのか、愛しさだったのか、虚無からだったのか、はたまた全ての感情からか。
 ああ、あぁ、あぁあ!
 彼の胸元に蹲って幼い子のように泣き喚く。その瞬間、初めて愛しい=Aと思えた。
 しばらく泣き続けた。そして、今日の画題にしていたしろいはなを花瓶から抜き、彼の胸にそっと添える。芸術作品であった。ぼくにとって最高の存在(もの)。

「あぁ、愛してい」
「これが俺?」

 聞き慣れすぎた声が、ぼくの真上で鳴っていた。見上げると彼がいた。彼はぼくらが信じていなかった曖昧的存在になったようだ。死した彼を、それでもなお動く彼を見ることができる。なんて幸せだ、僥倖だ。

「生が好きだからこうなっちゃった」
「ぼくらは傲慢だからね、しょうがないさ」
「先生は後追いするの?」
「生への縋りがないからなあ……君のようにおばけになれない気がする」
「たしかに」

 とりあえず彼の抜け殻をどうにかしようと話を進める。ぼくは時間がかかると思っていたが、案外簡単に終わった。それから彼は転がる筆に手を伸ばし、キャンバスに触れる。無機質であれば滞りなく触れられるようだった。またぼくも無機質みたいなものだからか、たまに触れられるときがあった。ぼくらは「前と何も変わらないね」と笑い合った。
 そして、妙な少女が現れるのは、もう少し先の話である。


8ヶ月前 No.29

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_jWF



「いつ、ぼくが、三万回殺してもいいと言った、の」
 三万回殺したはずの少年が俺の目の前で睨んでいる。恨み。恨み。恨み。それしかこもっていない眼差しをしていた。その瞳孔は鋭いがやはり幼い。何も知らないからそんなふうに睨めるのだ、そんなふうに憎むのだ。俺が殺した過去――つまり、俺自身――ぼく、は、まだ大きすぎる洋服を被り「いたかった」「くるしかった」と連呼する。しかし俺には届かない。か細い喉から出る声など、昔の俺の声など、とうに知れている。おまけに俺は音楽の聴きすぎで耳が遠くなってしまった。残念だ。ぼくよ。
 おまえが怨嗟を呟き続けようとも、俺はおまえを殺すだろう。
 そうして俺は生きてきたのだ。自らの過去を拒絶し、後悔し、嗚咽し、殺すことで、なんとか生き延びている。もしかすれば、ただの死に損ないなのかもしれないが。
「ぼく、ぼ、くはね、きみの、きみだけの、……」
「きみだけの」
「う、ん、そう、きみ、だけのしんぞう、だよ」
「しんぞう」
「うん、きみが殺した三万個ぶんの心臓は、どこに、捨てたの」
 たどたどしいやら流暢やらな言葉遣いを使いながら、ぼくはにんまり笑った。ぼくは死なない。思い出は朽ちない。過去は錆びることがあっても消えることはない。ぼくは言わば不死身だ。なんてことだ、不死身なんて大層なこと、過去の俺は易々とやってのけている。俺は今しか生きられない。なんてことだ。
「全部踏み潰してしまったよ」
「ふみつぶして、それで」
「それで? 捨てたとかじゃないんだよ。心臓はもうない」
「それで、きみは、なにを得たの」
「生きるための活力を」
「ぁはっ、活力! い、っぽもまえに、すすめ、てない、のに!」
 まったくおかしい、とケタケタ笑い出す。ぼくはそのあと、過去を引きずりまわりているくせに! と手を叩いた。
 殺した。
 三万一回目。殺した。ぼくを。たまにやってくるのだ。俺が生きるために殺してきた過去をそれこそ恨むように、ぼくが自主的にやってきて、俺をばかにしていく。そしてそのなかには、小ばかにしていく今回のケースもあるし、ただひたすらに首を絞めてくるケースもある。首を絞めるケースはやっかいだ。本当に俺も死にかける。妄想だと笑うだろうが、行動を誤れば本当に、本当に、本当に、本当に、死ぬ。
 グシャリ。心臓を踏む。ぼくは死んだ。黒い血。笑うぼく。黒い視界。暗転。グニャリ。わずかな日差し。響く電子音。六時三十七分を示す二本の針。骨が鳴る。バキッ。ピピピッ、ピピ、ピピピ。ようやく目が覚め、視界も安定し、はあ……と息を吐いた。ぼくは死んだ。それでも過去は死なない。俺が生きてきたしるしだ。死ねない。はあ、ともう一度あくびをした。天気もよく清清しい一日の始まり。仕事へ行く支度をしなければ、と重い体をどうにか動かしていく。
 一歩も前に進めてないのに! 過去を引きずりまわしているくせに!
 ガシャン、と目の前の鏡が割れた。手には赤い血がついている。一瞬、俺の顔がぼくに見えた気がした。

7ヶ月前 No.30

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_ya5

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7ヶ月前 No.31

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_giC

「誤って殺してしまったんだ」
 返り血を浴びた男が、玄関の前に立っている。そして「特売の卵を買い忘れてしまったんだ」と同じテンションで、「殺してしまったんだ」と、ぼくに伝えてくる。半開きのドアからインターホンを見ると、彼がつけたであろう血がついている。ということは、つい先刻過ちを犯してきたということ。それからその足でぼくのアパートに直行してきたということ。
 なぜなんだろうか。彼はぼくの友人の友人である。つまり、知人程度なのだ。その知人程度になぜこのような暴露をしようと思ったのか。
 もしかしたら、ぼくくらいの存在だからよかったのか。親しすぎる相手に吐露するというのは、時に毒になりかねない。
「とりあえず入ってくださいよ」
 根が優しいぼくは拒めなかった。――優しいというのは嘘だが、まあ、話を聞かないことにはどうにも動けないだろう。
 彼がしたことは正当防衛としての行為だという小さな希望を持ち、狭い室内に招き入れた。内側のドアノブにも酸化し始めた血がまばらにつく。なんだかぼくが殺人犯のようだ。いやいや、そんな。
 リビングに彼を通す。そしてそこに置かれた椅子に座るよう促し、ぼくはキッチンへ向かった。
「ありがとう。それで、ああ、ええと、そうだな。何から話すべきかな」
 コトン。
 淹れたてのコーヒーをテーブルに置くと、彼は礼を言う。こうして礼が言えるのなら、そこまで性格異常には思えないな。
「その前にコーヒーに何か入れますか?」
「あ、そうだな……砂糖だけでいい」
 その返答を受け、ぼくは角砂糖が入った戸棚に手を伸ばす。角砂糖入れはガラスでできたティーポットの形をしている。友人からの頂き物だ。ぼくの好みではないが、まあ、量が入るから助かっているのだ。
「なんでぼくのところに?」
 カランと可愛らしく鳴る角砂糖を彼に差し出すと、彼は再度ありがとうと会釈する。それからぼくも椅子に座ると、彼と向かい合う状態になった。改めて見ても返り血がすごい。凶器は持っていなかったから何で殺害したのかわからないが、相当な殺し方をしたのだろう。そうでなければ、あんな、映画のような血しぶき……。
 あ。手。手にも血がついている。いや、まあ、当たり前か。
 角砂糖入れに手を伸ばしたときに見えたその光景に、思わず、この人は本当に、と思った。てのひらには無数の切り傷ができていた。ドラマでよく見る防御創だろうか。
 チャプン。
 向こうのブラックコーヒーの中に甘みが広がっていく。彼はそのあと、しずかにコーヒーカップを持ち上げると、物音一つたてずに一口分くちに含む。白い取っ手に赤が着色される。先に洗面所に連れて行ったらよかったな。
「……うん、おいしいな」
 彼は悠長に微笑んだ。
「ああ、そうだ。さっきの問いは、そうだな、近くにあったからなんだ。マチ君の家が」
「あれぼくの名前覚えてるんですか?」
「え? そりゃあ、まあ……前、名乗ってくれたじゃないか」
「はあ、ありがとうございます」
 前、と言っても一年以上前のことだ。友人の誕生日パーティーで初めて会って、そのときに軽い自己紹介しただけである。だから生憎、ぼくは彼の名前を覚えていない。これから先関わらないと決め込んでいた。友人が見せつける写真の中で見かけたことがあったから、顔は何となく覚えていたが。
「ちなみに俺はシマヒロだ」
「あっ、ありがとうございます」
 さらりと名前を告げられ、申し訳なさで顔が熱くなった。彼、シマヒロさんは優しく笑っている。
 ぼくは殺りたてホヤホヤな殺人犯と会話している。それなのに、十年ぶりの旧友と会ったときみたいな雰囲気で過ごしている。気を抜くと、シマヒロさんが殺人犯だと忘れそうになった。どう見ても悪人には見えない。もしや、これがトリックなのか。
 シマヒロさんはおそらくぼくより年上だ。年上の友人の友人だから。そんな今どうでもいいことに根拠のない根拠を組み立てて、ぼくもブラックコーヒーを一口飲んだ。
 うっ。
 苦い。
「俺、これから自首しに行くからさ、その前に……一回、俺のこと絞めてくれないか」
 えっ。苦い。痛い。
 喉を通りかけたブラックコーヒーが暴れ出して、自然と咳が出た。
「こ、こ殺せってことですか?」
「死ぬ寸前まででいい」
「いや、そうじゃなくて、なんでですか?」
 いきなり話が噛み合わなくなった。気づけばシマヒロさんのコーヒーカップはきれいになっていて、もう準備はできている、というふうだった。シマヒロさんはまっすぐな目をする。その視線が痛かった。純粋的な願い。それがこの世で一番、刺さるものに思えるほど。
「本当は今すぐにでも死んでしまいたいんだ。でも、それは俺だけが報われる道でしかない。償ったことにはならない。だから、周囲(ひと)から許されるために、ちゃんと牢には入る。でも俺は、俺からも許されたいんだ。ずるい人間だろう。……そのために、マチ君にさ、絞めてほしいんだ。死ねないならせめて死にかけたいんだ。そうじゃないと、おれ」
 そこまで言って、シマヒロさんはハッと眉を歪ませる。
「ごめん、マチ君は優しいからつい言い過ぎちゃったよ。ごめん。忘れてくれていい。この状況も、俺が脅して無理やり起こしたことにしてくれていい」
 また優しく笑う。その笑顔が、兄妹ができたゆえに泣くのを堪え始めた、長男のように思えた。泣きたいのに、泣いたらいけない。お兄ちゃんだから。そんな悲しい笑顔。
「ひとごろしの言うことなんて聞かない方がいい」
 いやだな。そんな顔、しないでくれ。やめてくれ。
「ぼく、優しくないですよ」
「優しいよ」
「ぼく、あの」
「いいよ、そんな顔すんなよ。悪かった。俺、そろそろ行くね。ありがとうマチ君」
 血だらけの手だから、さいごにマチ君の頭を撫でられないのが残念だな。
 シマヒロさんはそう付け加えて、自分の手を見つめる。礼の代わりに頭を撫でるくせでもあるのかな。ああいや、今はそんなこと気にしている暇じゃない。
 ガタンと椅子が音をたてた。シマヒロさんを救わなければ。ぼくの中には良心からなのかも親切心からなのかもわからない衝動が生まれていた。なぜだろうか。
 玄関に向かう高い背中に、ぼくは勢いよく両手を伸ばした。

6ヶ月前 No.32

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_giC

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6ヶ月前 No.33

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_giC

 火薬の匂いがした。銃声も花火の音も聞こえないが、ふと、ずいぶん前に嗅いだことのある匂いだと、そちらに意識を向けた。

5ヶ月前 No.34

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_giC

 折ってしまった筆が散乱するアトリエに、数ヶ月ぶりに入ってみることにした。そうすると案の定、乾いた絵の具の匂いが充満していた。換気だってしていないんだ。しょうがないか。少し軋む木の床を踏みしめていく。蒸し暑い室内に点在するカラフルな色と、まるで割り箸のようにへし折られた筆や鉛筆と、描きかけになっている古いスケッチブックらは、驚くほど何も変わっていなかった。錆びれた窓を一分くらいかけて開けてやる。途端に流れ込む新しく涼しい風。それはぼくの頬を力強く撫で、髪を揺らし、止まっていたアトリエ内を一掃した。息をする。
 ぼくはそっと、近くに転がる筆に手を伸ばす。かわいそうに。あのときのぼくがこんなことしなければ、今も活きていたかもしれないのに。かわいそうに。――いや、今からでも?
 そう考えると今すぐに行動したくなった。随分持ちにくくなったそれらをかき集め、干乾びた絵の具の中から使えそうなものだけ引き寄せ、ほこりをかぶったスケッチブックの余白のページを探し始めた。へたくそな絵ばかり。でも、まぎれもなく、ぼくの絵ばかり。あのとき確かに思い描いた、正しかったぼくの理想が詰まっている。
 こんなに描いていたのか。知らなかった。
 捲っても、捲っても、中途半端でもぶさいくな絵が必ず描いてあった。何も考えず描いていたから気づかなかった。途中からは過去の産物を眺めるのも止めて、ただ白いページだけを一心不乱に探す。ペリ、ぺり、ぺり。最後から三枚前。ようやくそれは見つかる。ぼくは大袈裟に安堵した。もしなかったら、市街地に戻って買ってくることになったかもしれないと考えていた。開けっ放しの窓からセミの叫びが響いた。
「……ふう、はぁ――っ、よし」
 スンと鼻を鳴らして冷たい空気を改めて取り込む。それがとても心地よかった。車から持ってきた水をバケツに全部注いだ。これで、ようやく、準備は整った。
 思わず手は震えたが、それよりも何倍も高揚しているのが分かる。ぺた。ぺた。使える絵の具は少なかった。黄色と、青と、白しか使えなかった。それでも白が使えただけマシかもしれない。ぺた。さり、さり。モデルもなく、イメージもなく、ただなんとなく描き続けた。時間が空けど、ここに青がほしいな、とか、ここに濃淡があったらしっくりくるな、とか、そういった感性は滅んじゃいなかった。それに驚きつつ色を重ねる。楽しい。額から汗がおちた。こんなに楽しかったっけ? 全て捨てるつもりでここを出たのに、いやになったから止めたはずなのに、絵を描くっていうのはこんなに満たされるものだったか? どうだったっけ。でも、今、こうして心底楽しく思えているという事実はある。それならきっとそうだったのだろう。だって、何よりも好きだったから、こうした隔離場所を作ったんだ。ああ、そうだ、小さいとき、ぼくはこんな新鮮な気持ちを抱いたんだ、だから……。
 息をするのも忘れ、気づけばセミと一緒にカラスや定刻ベルの声も聞こえてきた。そこで一度大きく息を吸う。生々しい絵の具のかおり。ぼくが愛したものたち。完成した絵はやっぱりうまくなかった。子供の殴り描きだ。でも、幼少期にクレヨンで初めて描いた絵みたいに、すごくきれいだった。

5ヶ月前 No.35

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_giC

熟んだ目、膿んだ心、倦んだ気持ち。わたしをうんだあなた。切り離せないものを「切り離せる」と思いあがったのは、何よりあなたが弱かったから。誰よりあなたに甘かったから。手を離したかった。軽くなりたかった。それでも、老いゆくあなたの皺だらけの首に手をかけることだけは、どうしてもできなかったんだ。

5ヶ月前 No.36

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_giC

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5ヶ月前 No.37

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_OzI

手のひらにはネジが2つ乗っていた。少年はそれを再度確認すると、とても幸せに満ちた顔をする。「これで、これでなおしてあげるからね」「それで、それで、いっしょに、ひみつきちにいこう」「そしたら、またぼくにわらいかけてね」「やくそくだよ」小さな小屋に駆け込むと、そこには少年と近い年頃の少女が眠っていた。少年はその少女の頭蓋に向けてネジを押し込んだ。頭皮にめり込んでく。ぐ、ぐぐ、ぐに。少年の力では中々通らなかったが、目をつむり両手に全ての力を込めたとき、ブヅッと破ける音がした。もちろんそれは少女の頭皮だった。少年は少し恐怖した。「本には血が出るって書いてなかったのに」と自分がしたことを初めて分析し始めた。だが、一分も経たないうちに、「これはサビだ」と自らに暗示してしまった。


空気中の酸素濃度を徐々に徐々に減らされていくような、圧迫的な息苦しさに襲われている。胃の上あたり。喉と胃の間あたり。吸っても吐いても消えない蟠りが、重い鉛のごとく居座っていた。通常通り息はできるのに、そうするたび泣きたくなった。制服の袖口をなんとなく眺める。周りは騒がしい。声、声、声、紙同士のこすれる音、足がばたついている音、声、笑い声、囁き声。それらが私の脳内まで埋めていくようだ。きもちがわるかった。(息が、したい)ずいぶん進むのが遅い掛け時計をときおり見上げた。あと十分。まだ十分。その十分の中で、私のヘモグロビンはいくら死んで、流れ、また作られるのだろう。かわいそうに。百点なんて取れないこの脳ミソに価値はあるのだろうか。あと一点。あと二点。その僅差が私の甘さだ。九十九点の用紙を見ながら、私はそんなふうに思い、


(ペン)(万年筆)初めて贈り物をされたのは、高校に入学したときだった。父はとても厳しく、私に向かって「頑張ったね」と言うこともしない人だった。頭をやさしく撫でるのは、いつだって母で、それでも、私は父が好きだった。もしかしたら母よりも慕っていたかもしれない。ある日、そんな父が贈り物をしてくれたのだ。新品の制服を身にまとい、今日から新しい私になるのだ、と意気込んでいた私に、父は「ちょっとおいで」と言った。招かれるまま父の部屋へ行く。実を言うと、父の部屋が何より好きだった。この世の中で一番と誇れるほど。そこまで広くはないが、置かれた本棚にはびっしり本が入れられていて、低い机にはいつも書きかけの小説があった。しかしそれを読んだことはなかった。よっぽどのことがない限り、この部屋には誰も入れないのだ、父は。母でさえ月に一度入れば良いほうだったろう。――もしかしたら、「浮かれるんじゃない」と叱咤されるのかと心配になり、私はインクの匂いがする大好きな部屋へ、おそるおそる入ることになった。そうすると父は「お前にはまだ早いかもしれんが……」と顎を触り、少し気恥ずかしそうに「祝いだ。大事に使うんだよ」ときれいに包装された縦長の箱をくれた。それが万年筆だと分かるのは、自室に戻ってからだった。だけれど、嬉しかったのは贈り物だけではなかった。「今まで何もしてやれなくてすまなかった。お前は、きっと幸せになれるぞ。ああ。なんといっても、おれの娘なんだからな」そう言って私の頭を二度撫でた父の言葉が、何より嬉しかった。血の繋がらない私を娘と呼んでくれたのだ。父の前で、私は幼子のように涙をこぼした。それを見て父がやさしく微笑む。そうしてもう一度、私の頭を撫でた。

5ヶ月前 No.38

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_OzI

 気づいたら水浸しになっていた。リビングに置かれたインテリアや家電が、雨をかぶったときのような姿をしている。ひた、ひた。私の足元も例外なく濡れていた。なぜ? 一メートルほど先に転がるバケツを眺めながら、私はこの家に何が起こったのか、必死に思い出そうとした。しかし思い出せなかった。それどころか記憶はどんどん忘却されていくばかりだった。
 なぜ? 私はなぜこんなところに立っているのだっけ。なぜ室内にバケツが投げられているのだっけ。ひた、ひた。とりあえず掃除をしようと、納戸まで歩く。ギイ、中には掃除好きな彼が置いていった掃除道具が山ほど入っていた。細かい用途によって使い分けるのだろうが、あまりに数が多すぎて、未だに大雑把なもの(よく使うもの)しか覚えていない。
 彼とは一体だれだ?
 モップを手にしたとき、ふとそう思う。私はそれを考えながら掃除していくことにした。ひた、ひた。吸水性のいいモップはみるみるうちに水気を吸い取っていく。けれど、家電はどうだろう。元に戻せるだろうか。買い替えも視野に入れなければ。ひた、ひた。数分と経たないうちにモップは満杯になり、持ち上げて歩くたびにビシャビシャと水音を鳴らした。それを専用のバケツに入れ、勢いよく水気を飛ばす。
 そういえば、私はなにを考えようとしていたんだっけ?
 もう思い出せない。すっかりカラカラになったモップをまたフローリングに置く。ぎゅ、ぎゅ。二度目の床は少し動かしにくかった。彼なら上手にやってくれただろうに。彼? ああそうだ。私は彼について考えようとしていた。彼は、え、ええと、彼。そう、彼、私の恋人。彼は私の恋人で、掃除が好きな人だった。だからあんなにたくさんの道具があって、それを使っていつも彼と二人で掃除するから、この家はいつもきれいだった。それなのに、なぜ、今はこんなに水浸しなのか。なぜ? 彼が、いないから? どうして彼はいないの。ひた、ひた。また水気が多いところまでやってくると、モップは嬉しそうに吸収していく。足が冷えている。はあっと息を吐いた。苦しかった。なぜ? 私は涙をこぼした。
 ああそうだ。彼はいない。死んでしまった。こんなに水をまいたところで、なにしてるんだと怒ってもくれないし、掃除してもくれない。私はこの家を、これからは一人できれいにしていかなくてはいけないのだ。

4ヶ月前 No.39

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_FWA

 こぽ、こぽ、こぽっ、ぼこ。ぽここ。ヤカンの中で水だったものが踊っている。湯気が出る。そうしているうちにヤカンが熱を帯び、もういいよ、と蒸気音を鳴らした。僕はそのタイミングで火を止める。熱そう。いや、熱い。だって今やけどしたのだから。
 キッチンに置いてあるインスタントコーヒーの袋に手を伸ばす。あ、あと少ししか入っていない。忘れないうちに買いにいかなければ。怒られてしまう。彼は無類のコーヒー好きである。もしコーヒー粉がないと知ったら、その途端に、隣のそのまた隣にある都市へ買いにいってしまうだろう。車で行っても片道三時間かかる。往復六時間。彼いわく、あそこのコーヒー粉でなければいけないらしい。そんなに時間をかけるなら、いっそ豆から買ったり、インスタントだとしてももっと高いものを選べばいいのに。このコーヒーは中々おいしいとは言えない。
 いや、少しは、おいしいかもしれない。少しは。
 スプーン一杯分をマグカップへ。そしたらインスタントコーヒーはもう一度キッチンの隅へ戻された。やけどしないように慎重にヤカンを持ち、こぽぽ、と静かに注いでいく。マグカップの半分ほどまで注いだら、今度は別のマグカップを食器棚から取り出してそちらにお湯を流し込んだ。大体マグカップの八割から九割くらいまで。コーヒーのほうは濃い青のマグカップ、お湯のみのほうは濃い緑のマグカップ。ちなみに僕はお湯が好きだ。
 ガチャリ、と音がする。
 両手にマグカップのまま、僕は音がした右側を見た。彼が身体中から湯気をだしている。拭ききれていない前髪から、ときおり水滴が落ち、Tシャツに染みた。スポーツ少年のように短く切り揃えられた茶髪。左耳にはピアスがひとつ。
「コーヒー、できてるよ」
「はんぶん?」
「半分」
 僕に近づきながら、彼はマグカップの中身――コーヒーの量を確かめた。何を飲むときだってコップの半分までしか入れないのだ、彼は。理由はよく分からない。しかしまあ、あきらかに少ないけれど、彼がそれで満足しているのだからそれでいいかなと思っている。
 青を彼に渡すと、それを両手で受け取り、ありがとうと僅かに微笑んだ。熱そう。
 それから二人でソファーの前に座る。わざわざソファーを背もたれにして床に座るのが好きだ。何だか安定感があって落ち着くから。ズズ……とお湯を口に含む。やはり熱い。やけどしたんじゃないかと思った。そんな僕を見て、髪、伸びたね、と彼が呟いた。肩まで伸ばした黒髪が揺れる。彼が触れたせいだ。適当に乾かしたのでまだ水気を含んでいて、しとり、しとりと彼の指に吸い付いて、からまる。僕は彼の手を軽く払った。
「なんで伸ばしてるの」
「なんで、って」
「俺、短いほうが好きだなあ」
 そう言って、コーヒーを飲んだ。すする音がしなかった。彼の、所作がきれいなところが好きだ。
「長くてもかわいいでしょ」
「女みたいで?」
「ちがう」
「俺、女みたいなおまえは嫌だよ」
「ちがうってば」
「じゃあなんで伸ばしてるの」
 僕は何も言えなかった。髪を伸ばす正当な理由が思い浮かばなかった。女になりたいわけではない。それは確かなこと。しかし、そうわけではなくて、僕は女顔だから、伸ばしたほうが、女に見えやすいから。そのほうが、彼が、生きやすいから。
「泣き顔ブサイク」
 おかしそうに笑う。風呂とマグカップで温まった手が僕の頬に伸びた。熱い。
「髪、切りにいこ?」
「やだ」
「長いの似合わないのに」
「かわいい、でしょ」
 強情だなあと彼は肩をくすめ、頬に乗せていた手を首へ移動させた。そのまま体重を僕に預けてくる。ぐ、と息をもらした。後ろにソファーがあってよかった。押し倒されたらさすがに息ができずに窒息死していたかもしれない。
 だが彼の力は強く、頑丈なはずのソファーがどんどん後退していくのが分かる。まってくれ。僕を殺す気か。髪を切らないからってそんな理由で新聞に載るつもりか。僕もまだ死にたくはないので、できるかぎりの力で彼の背中を叩いた。それなのに、ちゃんとドンドンと音はしているのに後退が止まらない。なぜだ。首元でくしゃくしゃに混ざった二人の髪のそばで、吐息が肌に触れた。それは弱々しく、同時に力強い。物理的な力に負けないほど。
「俺、おまえにこんなことさせるために一緒にいるわけじゃない」
「髪切るっていうまで放さないから」
「わ、わかったから、はなせ、しぬ」
 どっちが強情だ。
 無理やり洗髪を約束して、その代わりに上半身の圧迫をなくすことができた。咳払いをする。胸を軽く叩くと、彼は驚いた顔をする。
「やけどしたの」
 指に水ぶくれができていた。そういえば、水で冷やすのを忘れていた。そう伝えると、彼はバカとだけ言い、救急箱があるタンスへ一直線に走っていく。今になってようやくやけどをまじまじと見ていると、痛いような気もしてきた。痛いかもしれない。あ、痛い。痛いな。彼が救急箱を手に戻ってくるころには痛みが堂々と主張していた。それを伝えると、彼はもう一度バカと言った。

3ヶ月前 No.40

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_FWA

「ゥ、え」両手が血だまりになった。血だまりはあふれる。だらだら、ぼたぼた、どんな効果音をつけたらいいのか分からない微妙な流動音が常にながれている。吐いた。あまりにつらいのでひざまずく。吐いた。胃がいたい。針千本を実際に飲んだみたいだ。両手が震え、血だまりは滝になり、最終的には染みになる。カーペットが赤い。赤ワイン。赤ワインみたいだ。また喉に爛れこむ胃酸と血の感覚がして、もう一度両手に血だまりをつくった。

3ヶ月前 No.41

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_vDC

「優しい言葉を使っていたらね、優しくなれると思っていたんです」
 オシャレな丸眼鏡を人差し指で掛け直して、君が言う。手には文庫本。しおりの要領で指をページに挟んでいるため、本の題名は分からない。どういう内容なのかも分からない。ぼくはもう無くなりそうなアイスコーヒーをすすった。
 カラン、と氷が溶けて動く音がする。鳴ったのは君の水から。君はどんなときも水しか飲まなかった。
 それは何故だったかな。
「優しくはなれましたか」
 ぼくも君も、口調を崩すのが苦手だった。
「いいえ」
「そうか」
 水を一口含んで、それをゆっくり時間をかけて飲んでいた。そして再び本へと視線を移す。
 優しいと思うんだけどなあ。
 でもそんなことは言えなかった。ぼくの中の彼女と、彼女の中の彼女は違う。それを互いに理解しているゆえに、相手がどんな発言をしようと、肯定も否定もしなかった。ただただ頷き受容する。それがぼくたちの空気だった。

 会話が終了して一時間は経っただろうか。
 君の方から声が発せられる。
「今日はありがとう。私、あなたといるときが一番心地いいかもしれません」
「嬉しいですね、それは」
 パタン、と本を閉じ、テーブルに置く。そこでようやく題名が見えた。
「その本、おもしろかったですか」
「ええ」
「理想の人でも出てきましたか」
「ええ」
「それは、どんな」
 君はたっぷり間をあけた。丸眼鏡がわずかに鼻先へ傾く。
「私とは、正反対の人です」

3ヶ月前 No.42

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_vDC

 彼に触れたことがない。ポップコーンを食べている最中に手がぶつかるだとか、抱きしめるだとか、泣いているときに涙を拭われるだとか、些細なふれあいさえ経験したことがない。そもそも、彼は映画鑑賞中は何も食べない主義だった。そんな彼の横で、私はいつも咀嚼音を鳴らしていた。
 今日は彼の家に泊まりにきている。二桁を超えるほど通っているが、それでもやはり彼との間には通ることができぬ壁があった。私が触れようと試みるたび、彼は切なそうに笑うのだ。そして目じりをしわくちゃにしながら「だめだよ」と言う。ただ、だめだよ、と。
 彼が夕ご飯を作ってくれている。本来なら私が作るべきなのに、私が彼の家に着くころにはもう包丁を握っているし、しかもとてもおいしそうな匂いがしているものだからついつい甘えてしまうのだ。そうして匂いだけでなく味もおいしいときたら、彼に任せたほうが失敗しない。それでも、一応私だって料理はできる。ああ、いつか、私のご飯も食べてもらいたい。いいや、一緒に作るのも楽しそうだなあ。
 ――何をするにも、まずは彼に触れるところから始めなければ、なのだけれど。
「できたよ」
 いつの間にか消えていた調理音。キッチンから出てきた彼はちゃんとしたエプロンを着ていて、まるで母親のようだった。
 あ、にくじゃが。男性に不動の人気を誇る料理。器からは湯気が揺らいでいる。じゃがいもが食欲を誘う香りを纏っている。おいしそう。
 私が見とれていると、次にはほうれん草のごまあえ、白米、豆腐のおみそ汁がどんどんテーブルに追加された。みな温かい空気をつくりだす。ぼうっとしているうちに準備は全て終わり、向かい合わせに座ると二人で手を合わせた。そして食べ始める。いただきますの指先、箸をきれいに持つ右手、お椀を支える左手。私が触れられないもの。楽しい食事をしながら、そんなことを考えていた。
「いつもおいしい」
 にくじゃがを何口か頬張って頬をゆるめる。今まで食べ慣れた味ではないけれど、彼の味、という感じがした。甘いものをあまり好まない彼の料理は、いつもさっぱりしている。
「それはよかった」
 豆腐のおみそ汁を飲んで、そう言って笑う。自身でも満足そうな顔だ。今日はいつも以上にうまく作れたのだろう。
 やわらかい会話を時折はさみ、食事は進んでいく。ご飯も減っていく。温かいうちに食べてしまいたい気持ちと、このおいしさをゆっくり味わいたい気持ちが共存して私の胃を満たした。彼といると私も優しくなれるような気分になる。それはきっと、彼が誰より優しい人だから。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
 もう一度手を合わせ、声をそろえた。見事に空になった食器を見て、彼はまた満足そうに微笑んだ。
 その顔に触れたいと思った。
 そう思ったときには手が伸びていた。食べ終えたばかりの頬めがけて私の右手が動く。彼は私の動作に気づくと、当たり前のように、すっと体を後ろへずらす。触れられない。胃は満ちたのになぜか泣きたくなった。
 それに気づいてか気付かないでか、カチャカチャと細かい音をさせながら、流し台へ歩いていく。私が感傷に浸っている間に、テーブルはきれいな平らになっていた。しかしその上にまた物が置かれる。コップにはお茶が入っていた。
「さわっちゃいけないよ」
 彼からその話題に入るのは珍しかった。もしかしたら初だったかもしれない。
「どうして」
 間髪入れずに私は聞き返す。
「君はきれいだから」
「どうして、遠くへ行こうとするの」
 話がかみ合っていない。彼の答えも聞かずに私は二度目の質問をする。壁をつくって、私を遠ざけて、そうしてどこへ行くの。視界のお茶が揺らいだ。彼は少し驚いたようだった。小さくうなり声をあげて考え込む。私には触らせないその手を、誰には許すの。同僚には許すの。友人になら。家族なら。
 恋人は許さないのに?
「君はきっと、僕がどこへ行こうとここにいてくれるから」
 優しい目で私を捉える。涙がひとつ落ちた。それはお気に入りのスカートに吸い込まれていく。
「わたし、私、あなたが好きよ」
「うん。僕も好きだよ。いつもありがとう」
「だから、その指を私にちょうだい」
 その途端、優しい目に迷いが混ざり、申し訳なさそうにまぶたを下げた。それから、どうしてそんなに触りたいの、と落ち着いた口調で言った。私とは正反対だ。こんなに相手を急かしている私とは。
 どうして、どうして触りたいの。
 どんな返答なら了解を得られるだろう。好きだから、あなたの体温を感じたいから、不安だから、恋人だから、安心するから、壁が薄くなった気になれるから、永遠を信じられるから、たとえば他には何がある。悩み込んだ。それは悪循環だった。悩めば悩むほど何を言ってもあしらわれてしまうと思えてしまって、でも触れたい気持ちは本当で、悩み、また深い思考にはまっていく。そんな私を、彼は静かに待っていた。お茶も飲まずに。悠長な彼はやはり母親のようだった。母というよりは聖母に近いだろうか。
 自分なりに一生懸命考えた末、声を震わせて彼の茶色い目をまっすぐ見る。
「……あなたと一緒に夕ご飯を作りたいの」
 それなら最悪今までの仲でもできるじゃないか。彼がそう言いそうで怖かった。
「僕、そういえば君の手料理たべてなかったね」
 苦笑いと拍子抜けした吐息。今度は作ってもらおうかなあ。またはぐらかされた。結局私の考えはムダだった。ぐ、と涙をこらえるために唇を噛む。
 と、同時に、ずっと動かなかった彼の手がゆらりと動かされた。



(彼の手の先はコップか、彼女か)

3ヶ月前 No.43

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_vDC

それは愛だよ。頭蓋を割られたとて、それは愛だよ。祖母はいつも洗脳じみたことを繰り返していた。夏休み。毎年の恒例行事として母方の祖母がいる郊外へ赴いた。母の実家に帰ると、祖母は世界中の悪行を経験したうえでこれから悪巧みしようという笑みを浮かべている。要は意地悪そうな顔だ。おまえは苦労するぞ、その手癖を見たらようわかる。昼食を終えて母が旧友の元へ、父が珍しいものが釣れると噂の川へ行っているとき、祖母は私にそう言った。その笑顔は魔女のようだった。

3ヶ月前 No.44

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_vDC

 先生というのは、一体どんな人に使うのが妥当か。そういう職業に就いている人か、自分が尊敬してやまない人か、それとも、単に年上に向けてか――私の場合、皆(みな)が彼のことをそう呼んでいるからであった。ゆえに尊敬などしていない。むしろ、塞ぎ込んだ生き方をする彼のことを哀れんでいるくらいである。
 私が今向かっているのはひとつの家屋。ボロもガタもきている古びた家だ。日本古来の、というよりは、錆びれ落ちた、と表現するべきだろう。そんな先生の城に辿り着くには、舗装もされていない山道を歩き、体力を大幅に削る坂道を登り、一山越えた気分になれる平坦な砂利道を突き進まなければならない。そもそもこの森にくるまでに3時間も車を運転する必要がある。私はため息をついた。
 まったく、それなりに売れているからといって……。
 確かに先生の書く文章には多くの評価がつく。自筆の(へたくそな)挿絵さえ、味があるなどと言われている。つまりは、私にはさっぱり理解できないが、世の人は先生のとりこなのだ。
 砂浜のような白い砂利道を乗り越えると、ようやく目的地が見えてきた。相も変わらず廃墟と同等の出で立ちである。
 あがった息も整えぬまま、私はドアを4回ノックした。ワインレッドの木板がいい音を鳴らす。
 先生はマイペースな方だ。今日も対応されるまで3分くらいは待った。4回ノックは私だと散々言っているというのに。
 ギィ、ギィ、バタン。簡単に壊れてしまいそうな玄関を過ぎると、先生は私をリビングに招いた。そこはいつ来ても圧倒される景色だ。書斎兼リビングになっているこの一室は、横長の木製テーブルを囲うように本棚が置かれている。そう、半円の円周のような造りである。私はここへ赴くたび、オシャレな図書館にやってきた感覚に浸ってしまう。どんなに呆れたとしても、やはり、先生のセンスは種類が違った。
「どうです、続編は」
 窓は開いているものの、汗が額、顎、そしてワイシャツへと流れた。図書館を背景にして先生は私を見る。何を考えているのかまったく分からない。はたして、その目に温度はあるのか。
 作品、ノットイコール、作者。あたたかく優しい話をつくる人がいたとする。それで、いくら作中で心惹かれることを連発したとしても、その人も作品のように優しいわけではない、という意味だ。それは私が入社したときから教えられてきたことである。作品と作者をイコールで結ぶ人間は、作者の人格に触れた瞬間、安易に勝手に絶望する。会社としては、それで辞められても困るのだ。
 だが私はこの方程式を気に入っている。裏を言えば、どんなに最悪な人格だとしても最高の作品を生み出せる、ということなのだ。何とも頼もしい希望じゃないか。
 先生は様々なジャンルを書く人であった。恋愛も書く。殺人も書く。同性愛表現を含んだものも書く。年齢制限がかかるほどの官能物だって書く。それと同じ要領で、子供でも読めるファンタジーも書いていた。幅広いジャンルではあったが、それらには一冊で完結するという共通点が存在している。
 ゆえに、続編を望むものも多いのだ。あの楽しい話をもう一度。心を救う言葉をもう一度。出版社にはいつもそのような便りが届く。
「私の鉛筆をへし折りにきたのなら帰りたまえ」
「皆が望んでいるのです。先生の続編を。どうしてもいけませんか」
 今日あんなに苦労したのは、先生に続編を書かせるためであった。だからそう易々と引き下がるわけにはいかない。先生は灰色がかった虹彩を一度まぶたの裏に隠し、子供のわがままに付き合う気はないんだ、と言いたげな仕草をした。
「お前は、死人に生き返れと言いたいのかね」
「先生の作品は死人だというのですか」
「そうだ。構想を練り、実際に文章として動かしているときが彼らの生涯だ。そうして書き終えてしまえば彼らの人生も終わる。もう一度言う。私は死人を蘇らせるつもりはない。いいか? 理解ができたら、いや、できなくとも今日は帰りたまえ。……あぁ、新作もま・だ、だ」

3ヶ月前 No.45

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★zmzlCWJ3Nb_vDC

 彼女は花を吐いたのだと思った。カーネイションの花弁のような赤が……しかし、よく見てみると、どうやら鱗のようだった。両手をお椀代わりにしてそれを受け止めている。彼女は言った。
「私死ぬの」
 もう一度、口から鱗が吐き出されて、一瞬のうちにお椀の嵩(かさ)が増していく。
 赤く、はらはら、からから、ひらめいている。
「びょうきなの。血液が鱗にかわっていく、ことばも話せなくなって、いたみに侵されながら、死ぬしかないびょうきなの」
 じゃら。
 赤の鱗は止まることを知らない。包帯を巻いている腕も徐々に赤く染まっていた。おそらく、鱗になったために血管が傷つけられているのだろう。彼女は涙した。かろうじて涙は透明な液のままである。それが彼女の中に存在する、唯一の水分に思えた。
 痛い、と泣いていた。心臓に雪崩(なだ)れ込む鱗の濁流が、彼女の寿命を大幅に削っている。それは僕でも安易に理解できた。それなのにどうすることもできず、手を伸ばすこともせず、ただ見ていた。いたい、痛い、いたい、いたいよ。最早言葉の原型も保っていない言語で彼女は救いを求めている。
 それでも僕は彼女のきれいな鱗を眺めていた。

3ヶ月前 No.46

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★Zfx5QGlazI_zI8

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2ヶ月前 No.47

むっく @lupus☆pPLl3rrZrEE ★Zfx5QGlazI_IZy

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21日前 No.48
ページ: 1

 
 
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