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不正義遁走曲(ふせいぎフーガ)(完結済み)

 ( プロ小説投稿城 )
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ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

一 おじいちゃんの遺言

 風見風牙(かざみフーガ)は普通の小学五年生だ。
 これといって挙げるべき特徴もない普通の子どもで、ごく当たり前の平凡な毎日を送っている。

 いや、少し普通の小学五年生と違うところもある。
 フーガは正義の味方を目指している。
 頭の中ではいつでも悪の組織に対抗する準備はバッチリ整っていて、いつ、突然、何時、襲撃を受けたとしても、万全に対応できる、つもりでいる。
 ランドセルの中にはおじいちゃんが木を削って作ってくれた変身ベルトが入っていて、みんなには内緒だがスマホに救助信号が入ればいつでも助けに行くことができる、と思っている。

 夢見がちで、年の割に幼稚な考えだが、フーガは結構本気で自分はいつか正義の味方の組織に呼ばれて、ヒーローに任命される日が来るのではないかと思っている。

 もちろん、思っているだけだったのだが――。

 その日常は唐突に終わりを迎えた。
 国分寺にあるおじいちゃんの家から連絡があったのは、フーガが小学校から帰ってきたすぐあとだった。
 フーガは同じ小学五年生の友達の朔助(サクスケ)(さっちゃんとみんなから呼ばれている)とこれから遊びに行くところだったから、それを急にお母さんに止められたのは、なんだか面白くなかった。

「おじいちゃんちに? 今すぐ? だって、さっちゃんが外で待ってるのに!」

「さっちゃんは待ってくれるけど、おじいちゃんは待てないの。わかるでしょ、物事には優先順位ってものがあるの。そんなしょうもないこと言ってる場合じゃないの。聞き分けないこと言わないで、さっさと用意して。さっちゃんには帰ってもらいなさい」

 にべもなくお母さんは忙しそうに自分の部屋と洗面所を行ったり来たりして、タオルや下着をいくつも出したり、とにかく落ち着かない様子で、フーガのことも単なる面倒事の一つとしてしか思っていないようだった。

 フーガはでも、と言ったが、お母さんはまるで聞いていない。お母さんはいつもそうだ。
 なんでもかんでも場合で片付ける。フーガはお母さんが使うこの場合という言い回しが大嫌いだった。

 お母さんは、本当はそれがどういう場合であっても、フーガの言っていることがどういう内容であっても関係なくこの言葉を持ち出して、イットウリョウダンで自分の言うことを聞かせる。全部、そういう場合じゃないから、で片付ける。最初からフーガの言うことなんて聞く気もないのだ。
 もしフーガが本当に正義の味方で、フーガの世界が物語なら、最後に倒すべき敵として現れるのは、ひょっとしたらこのお母さんかも知れない、とフーガは思う。

 もちろん、お母さんがショウシンショウメイ悪い人なわけではない。
 別にギャクタイされているわけでもないし、お母さんが嫌いなわけでもない。
 ただ、お母さんとフーガの意見が食い違うと、お母さんはいつも自分の後ろに、ジョウシキとか、セケンとか、オトナのツゴウなんてものを味方につけて、フーガの話をそういう場合じゃない、で済ませる。
 そうすると、どうしてだかフーガが絶対に負ける。お母さんに勝てない。

 フーガにだって、フーガの事情がある。お母さんはそれをちゃんと聞きもしない。
 でもお母さんはそれで当たり前だと思っているし、それを認められないのはフーガが子どもだから、と言われてしまう。
 それって変だ。間違ってる。フーガはそんな思いも込めてお母さんを見ていた。お母さんはそれに気づこうともしない。

 そこに後ろからフーガの肩を叩く手があった。

「あきらめろ、フーガ。それに、おじいちゃんはこうしてる間にも死んじゃうかも知れないんだからな」

 お兄ちゃんの奏音(カノン)だった。眼鏡を直しつつ、落ち着いた低い声で言う。
 お兄ちゃんはどちらかというとお父さんによく似ていて、その髪の毛はお母さん似のフーガと違い、色も薄くなくて真っ黒だったし、フーガのようにクリクリと巻いてもいない。
 艶やかで、家の蛍光灯の光でも綺麗に輪っかができる。憧れても手に入らない物の一つだった。

 頭も良く、カンジョウテキにならずにフーガに物事を教えてくれるお兄ちゃんにフーガはいつも憧れていた。
 お兄ちゃんは、フーガよりずっと大人の考えができる存在だった。
 大人の考えとは、自分のカンジョウをセイギョして、本当に自分が得する行動を取ることができる器用な生き方だ。
 実際おじいちゃんちに行かずにさっちゃんと遊ぶなんていうのは、それこそ間違いの上に間違いを重ねるような、不器用でオロカなことだった。
 フーガだって、ここでさっちゃんと遊びに行きたい、なんてわがままが許される場合じゃないことは、ヒャクもショウチしている。
 そう、国分寺のおじいちゃんの家から入った連絡というのは、今にもおじいちゃんが死ぬかも知れない、という知らせだった。

1年前 No.0
切替: メイン記事(23) サブ記事 (7) ページ: 1

 
 

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

 フーガのおじいちゃんは今年で確か七十七歳。

 五年前に大腸がんが見つかって、抗がん剤での治療を拒み続け、今も入院せず、自宅で暮らしていた。
 意識はよほどはっきりしていたけれど、寝たきりなのは違いなく、夏休みや冬休みにフーガたちが遊びに行くと、大層嬉しがって、手作りのおもちゃを作ってくれたり、昔の話を聞かせてくれたりした。

「正義の味方は、家族のシニメには会えないものだよ」

 フーガは何となくお兄ちゃんの大人の考えに従うのも気に食わなかったので、あてつけのように言った。
 死に目の意味も、ほとんど分かっていない。するとお兄ちゃんは呆れたようにため息をついて、フーガの頭に軽くげんこつを食らわせた。

「冗談でも、そういうことは本当に言わない方がいい。フーガはおじいちゃんのこと、好きだったろ?」

 フーガは叩かれたところに右手を当てて、どこか寂しそうに伏し目がちにフーガの両目を捉えるお兄ちゃんを見つめた。
 お兄ちゃんは、怒っている。自分が今言ったことは、かなり悪いことみたいだ。フーガはその目の色から、それを察する。

 そして、ごめんなさいと小さく呟くと、お兄ちゃんは同じように小さく、うんと答えた。
 早くしろよ、と優しく言い添えて、お兄ちゃんは廊下の奥の台所に消えていった。

 おじいちゃんが、死ぬ。

 フーガはこのおじいちゃんが大好きだった。
 今の一軒家に引っ越してくるまで、フーガはおじいちゃんの家で、家族で暮らしていた。
 五年前、おじいちゃんの大腸がんが見つかるのと同時期に、フーガには弟ができた。流石に家族も増えるし、病気のおじいちゃんの介護と、子ども三人の面倒は見切れない、とお母さんが強く言って、フーガの一家は国分寺市から隣の小金井市にある、今の家に引っ越したのだ。

 おじいちゃんは、フーガの夢の数少ない理解者の一人だった。
 というより、フーガが正義の味方に憧れるようになったのは、もしかしたら、おじいちゃんのせいかもしれなかった。
 おじいちゃんは、フーガが正義の味方になるための、いろいろなものを作ってくれた。
 正義の味方の変身ベルトや、トレードマークのバッジ、正体を隠すための仮面も、秘密の合言葉も。
 フーガの夢は、全部おじいちゃんと一緒に紡がれたものだった。
 お父さんや、お母さんのように、バカな夢だと笑ったりせず、いつも真剣に、一緒に考えてくれた。

 おじいちゃんが、死ぬ。
 それはまだ、人の、ましてや血のつながりのある肉親の死を、一度も経験したことのないフーガにとって、全然想像のつかないことだった。
 どういう反応をすればいいのかわからない。もちろん喜ぶべきではないことはわかる。
 でもなぜか、悲しみがわき起こるほど、それは心に迫ってこない。
 いや、悲しいと考えると、この上なく悲しいことに違いないから、もしかしたらフーガの脳みそが勝手にそれを考えないようにしているのかもしれない。
 とにかく今、フーガの心は、おじいちゃんが死ぬ、ということについて、なんにも感じていない。
 ああ、そうなの、くらいにしか思っていない。自分でも不思議なほどだ。

 お母さんみたいに、慌てふためくべきなんだろうか、とフーガは思う。
 そうかもしれない。
 おじいちゃんは、お父さんのお父さんであって、お母さんのお父さんではない。
 お母さんとおじいちゃんには、血の繋がりはないのだ。
 それなのに、あんなにあたふたしているのだから、四分の一の血の繋がりがあるフーガは、一層びっくりして、泣いて、とにかく大慌てになるべきなのかもしれなかった。

 それでも、フーガには、今は見えないところで死の淵にいるおじいちゃんにお見舞いに行くより、すぐ玄関先で、フーガのことを首を長くして待っているさっちゃんに、遊べなくなったことを伝えることの方が、よっぽど気の重いことだった。
 廊下で思い悩んでいると、つったってないで用意しなさい、とお母さんが怒鳴った。

 用意って言ったって、何をすればいいのか。
 お母さんの言うことはいつもバクゼンとしている。気をつけなさい、とか、お行儀よくしなさい、とか、全然グタイテキじゃない。

「とりあえず、ランドセル置いて、ティッシュとハンカチは持った方がいいな。お前、泣くかも知れないし。靴下は汚いから、一応履き替えておけ。それから、これな」

 お兄ちゃんは廊下でまごついているフーガにほい、とアイスを差し出す。

「さっちゃんにごめんねって、これあげて来い」

 そう言ってお兄ちゃんは笑う。フーガは自分がするべきことがはっきりわかって、頭がすっきりした。
 すぐにアイスを受け取って、玄関を駆け抜ける。
 お兄ちゃんはお母さんと違って、言うことがすごくはっきりしていて、グタイテキだ。
 何をどうすればいいのか、ちゃんと教えてくれる。フーガはお兄ちゃんのカノンが大好きだった。

 玄関を出ると、階段を降りた先にある門の柱に寄りかかってブラブラ体を揺すっているさっちゃんがいた。
 まだ六月なのに、半袖の下から覗くその肌は随分と黒いし、国分寺にある剣道道場で鍛えているその腕は、フーガよりずっとがっしりしていた。
 ツンツンしたいがぐり頭は、触るともそもそして案外気持ちいい。
 さっちゃんは玄関から出てきたフーガを見ると、不満げに口をとがらせた。そんな顔しても全然可愛くない。

「おそーいフーガ」

 声変わりしつつあるさっちゃんの声はざりざりしたしゃがれ声だ。
 最近は音楽の授業で歌う時も、もう声が出ない音があるみたいで、歌うのをサボってよく怒られている。

「ごめん、さっちゃん、今日行けないや」

「え! なんで?」

 フーガはおじいちゃんのことを説明する。するとさっちゃんは神妙な顔になった。

「それじゃあしょうがないな。フーガ、早くじいちゃんとこ行った方がいいよ」

 さっちゃんは怒りもせずに、あっさりと納得した。

「ごめんね、このアイス、あげるから、また今度ね」

「アイスなんていいから、さっさとじいちゃんとこ行ってやれよ。オレ、この前じいちゃん死んじゃった時、会えなかったから」

 さっちゃんはぐっと涙をこらえるように、鼻をすすった。
 さっちゃんのおじいちゃんは大工の棟梁で、ついこの間、お葬式をあげたばっかりだった。
 さっちゃんはおじいちゃんのことを誇りに思っていて、自分もいつかおじいちゃんみたいな大工になる、といつも言っていて、それだけにお葬式のあとの一週間は、本当に声をかけるのも大丈夫かと思うくらいに落ち込んでいた。
 もしかしたら、それを思い出して、また暗くなるのではないか、とフーガは心配したが、さっちゃんは、そんじゃな、と言って、結局フーガの手からアイスを取って、そのまま走って自分の家の方に行ってしまった。

 さっちゃんがいなくなって、フーガはここで初めて、おじいちゃんが死んでしまうかもしれない、ということに、心臓がひやりと苦しくなるのを感じた。

1年前 No.1

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

――おじいちゃんが、死ぬ。

 いつかこんな日が来る、ということは、誰が言わなくても、誰に教えられなくても、フーガ自身予感していたことだった。
 フーガの頭の中には、家族がピンチになって救援を求めてくる時の正義の味方としての振る舞いも、織り込み済みだった。
 でも、実際にこんなふうに、おじいちゃんがそういう状態になったと聞かされると、フーガの備えは何の役にも立たなかった。
 なんだか思っていたのと全然違う。

 ワクワクしたり、ドキドキしたりしない。当たり前だ。
 本当に人が死にそうになっている時に、ワクワクもドキドキもない。
 ただただ嫌な胸騒ぎがするだけで、なんだか落ち着かなくて胸とお腹の間の辺りがゾワゾワする。気持ち悪い。
 ちょうど、空を見ると、そのフーガの胸の内を映し出したような、ゴロゴロした曇り空だった。

 玄関から家に戻ると、お母さんはこんな時なのにパリっとしたスーツを着て、化粧をしていた。
 それを見ていたフーガの目から、お母さんへの不満がにじみ出てしまっていたのか、お兄ちゃんが見てやるな、と声をかけてきた。

「母さんはいろいろ立場があるんだ。お嫁さんだからな」

 お兄ちゃんの言うことにしては、なんだかバクゼンとした言葉だった。
 もしかしたら、お兄ちゃんも、落ち着いているように見えて、頭の中は大混乱なのかもしれない。

 それから大慌てで帰ってきたお父さんと一緒に、フーガたちは、国分寺のおじいちゃんの家に行った。
 おじいちゃんは、まだ生きていた。これから死ぬところだった。
 おじいちゃんは悟(サトル)おじさんと二人で暮らしている。
 元々おじさんは国分寺のアパートで一人暮らししていたが、フーガたち一家が引っ越すことになって、おじいちゃんの介護のために、この家に戻ってきたのだ。
 おじさんはお父さんのお兄さんで、フーガたちが会うたびに結婚しないの、と聞いても、ショウガイ独身を貫く、と笑いながら言う気さくな人だった。
 お父さんのお兄さんだから、お父さんより年上のはずなのに、並んでいると、おじさんの方がずっと若く見えて、フーガには不思議だった。
 お父さんにそう言うと、兄貴が若く見えるのは家族がいる苦労を知らないからだ、と言うのだが、おじさんだって、おじいちゃんの介護をしながら清掃センターのお仕事をしているのだから、そんなに違いはないとフーガは思うのだが。

 そのおじさんも、フーガたちが家に着くと、落ち着きなさげにおじいちゃんの部屋と居間を行ったり来たりしていた。
 そして、いつもネンレイフショウのおじさんが、この時初めて、お父さんより年上の、それなりに歳をとった、中年の人に見えた。
 疲れてくたびれているのだ。おじさんだけではない。
 お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんでさえ、いつもより二割くらい、年をとっているように見えた。
 そういうものなのかもしれない。
 人の死というのは、死んでいく人ばかりではなく、その周りに残される人たちからも、少しずつ生の力を奪って、年老いさせていくのではないか。
 周りから見れば、フーガもそんな風に見えているだろうか。

 おじいちゃんの家にはおじいちゃんの家族が揃っていた。
 おじいちゃんの二人の息子である、フーガのお父さんとサトルおじさん。
 そして、フーガのお母さんと、三人の孫、つまり、お兄ちゃんのカノンと、フーガと、そして弟の空遥(ソナタ)の六人。
 サトルおじさんは居間にみんなを集めて言った。

「これから、おじいちゃんが、家族の一人ひとりに、お別れを言うから、みんな順番に、一人ずつ、おじいちゃんの部屋に行って、おじいちゃんの言葉を聞いてあげてくれ」

「一人で、ですか、子どもたちも?」

 サトルおじさんの言葉に、お母さんが苛立った刺々しい声を上げた。

「歌子(ウタコ)さん、ここはどうか、親父の言うことを聞き入れてやって欲しい。もちろん、何かあったらすぐに呼んでくれれば、ドアのすぐ外に、私が立っているから」

 サトルおじさんは、丁寧な言い方で、申し訳なさそうに頭を下げた。
 フーガにはサトルおじさんが頭を下げる理由がわからなかった。
 おじいちゃんは、死ぬ前に、みんなに言っておきたいことがあるから、一人ひとり部屋に呼び出して、ユイゴンを伝える。それのどこが問題なのか。
 どうしてお母さんが、嫌そうな反応をするのかが、全く理解できなかった。

「ソナタは遠慮させてください。もし何かあったら……」

「ウタコ……」

「あなたは黙ってて!」

 強い口調でお母さんはサトルおじさんに言う。横からお父さんが割って入ったが、全く相手にされない。
 ソナタは大丈夫だよ、ぼく平気だよ、と言うが、これもやっぱり相手にされない。

「ソナタ君には、ウタコさんについていてもらおう」

 折れたのはサトルおじさんの方だった。

「とにかく、時間がないんだ。親父は、明日まではもう、もたない」

 それからまず、サトルおじさんが行き、十分くらいして、顔を真っ赤にして、涙をボロボロこぼして、おじいちゃんの部屋から出てきた。
 次にお父さんが入って、やっぱり同じように涙でぐしゃぐしゃになって帰ってきた。
 それを見ていて、フーガは急に帰りたくなった。おじいちゃんに会うのが、とても怖くなった。
 それは、どうしてなのかわからない恐怖だった。
 でも、とにかく今。ここから逃げ出したい。あの部屋に入りたくない。
 そして、お母さんが呼ばれた。
 サトルおじさんと一緒におじいちゃんの部屋に入っていくお母さんを見て、フーガはその背にすがってそれを止めたい気分だった。

――やめよう、お母さん、今すぐ帰ろう。

 そう言えば、きっとお母さんはそれを聞き入れてくれるような気がした。
 それでおじいちゃんの死は、フーガの知らないところでいつの間にか終わっていて、フーガはそれを聞かされるだけで、自分のいつもと変わらない日常を壊されることなく、普通に暮らしていけるのではないかと思った。
 とにかく、おじいちゃんの部屋に入ってしまえば、その当たり前の毎日は、きっと何かが変わってしまう。
 そして、二度と、今までの平凡な日常には戻れない。そんな気がした。

 でも、そんなことを思っている間にお母さんは居間を出て行って、そして気づいた時には、やっぱり泣いて帰ってきた。
 血の繋がってないお母さんでさえ、あんなにボロボロ泣いてしまうんだ。
 きっと自分も泣いてしまうに違いない、とフーガは思った。
 そして、さっちゃんみたいに、しばらくは立ち直れなくなるんだと思った。

 お兄ちゃんが呼ばれた。フーガの番は、もうすぐそこまで迫っている。
 頭の中で、赤信号が灯る。キンキュウジシンソクホウみたいな怖い音がする。
 すごく悪いことが、あの扉の向こうに待っているという、確信めいた予感。
 背中がじっとりと湿っている。フーガは乾いた唇をぺろりと舐めた。

「フーガ君」

 戻ってきたお兄ちゃんと入れ違いにサトルおじさんがフーガの名前を呼んだ。
 お兄ちゃんは真っ青な顔をしていたけど、泣いてはいなかった。
 フーガは魔法にかけられたみたいに、立ち上がって、サトルおじさんに背中を押されて、おじいちゃんの部屋に向かう。
 サトルおじさんは、おじいちゃんの様子がおかしくなったら、すぐに呼ぶんだよと言って、部屋の前で立ち止まって、フーガだけ入るように促した。

 フーガは二回ノックして、おじいちゃん、と声をかけた。自分でもびっくりするくらいかすれていて、こんな声だったかと思うほどだった。
 でも、返ってきたおじいちゃんの、入りなさい、という声の方が、よっぽどかすれて弱々しくて、その声は、おじいちゃんの命のロウソクが、もうあと少しで消えそうであることをフーガに伝えていた。

1年前 No.2

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

 フーガは少しためらって、でも、ドアを開けた。
 ベッドの前には衝立があって、フーガはその内側に入る。
 横になったおじいちゃんが、今にも死にそうな顔をしていた。
 すっかり痩せて、ガイコツみたいだ。目は周りが黒くなっておちくぼんでいるし、唇は紫色で、震えている。

 それは、死、そのものの姿だった。
 おじいちゃんはもう、死に取りつかれている。

「フーガ」

 おじいちゃんの、震える紫色の唇が言う。その奥にある歯は黄色い色をしていて、舌は真っ黒だ。

「フーガ、聞いているね」

 おじいちゃんが、もう一度フーガの名前を呼ぶ。
 フーガは恐る恐る、聞いてるよ、と答えた。

「フーガ、お前は……」

 おじいちゃんは、何かを言いかけて、口をつぐみ、握り締めた掛け布団の端を、じっと眺めていた。
 やがて、一つ息をついて、何かを決心したような強い光を宿した目でフーガの目を見た。そして、口を開く。

「フーガ、お前は、正義の味方になりたいと、今もちゃんと思っているかい」

 おじいちゃんの言葉に、フーガははてなを浮かべる。
 いきなり何の話をしているのだろう。こんな時に。こんな、今にも自分が死ぬかもしれないという時に、何の話を。

「ちゃんと、思っているかい、フーガ」

 おじいちゃんは念を押すように繰り返した。
 フーガは、なんだかその様子が怖くて、すくんだように小さく、うんと頷く。

「正義の味方は助けを求める人を、決して見捨てない。そうだね」

 それは、おじいちゃんとフーガが考えた、正義の味方の三つの掟だった。
 一つ、正義の味方は正体を知られてはいけない。
 二つ、正義の味方は悪に負けてはいけない。
 三つ、正義の味方は、助けを求める人を決して見捨てない。
 実際のフーガは、周りに正義の味方を夢見ていることが筒抜けで、そのことをよくバカにされるし、宿題をサボったり、お手伝いをサボったりと、自分の心のうちにある小さな悪の心にしばしば負けてしまう。
 ただ、助けを求める人を決して見捨てない、という点に関しては、フーガは自信があった。
 フーガは電車でお年寄りや妊婦さんに率先して席を譲るし、道に迷っている人を交番まで連れて行ったこともある。
 フーガは少なくともこれまで、助けを求められてそれを見捨てたことはない。

 だからフーガはおじいちゃんの質問に、大きく首を縦に振った。もちろんだった。
 それを確認するように見つめていたおじいちゃんは、ふぅ、とため息をついて、もう一度、フーガの名前を呼んだ。

「お前は、マッチは付けられるね」

 マッチくらいは理科の授業でアルコールランプをつける時にも、林間学校でハンゴウスイサンをした時にもつけたことがあるけれど。

「うん、できるよ」

「なら、地図は、読めるね」

「読めるよ」

 フーガはおじいちゃんのオモワクがわからない。
 それよりも、おじいちゃんが話しているのが、見ているフーガの方が辛くなってくるほどに、弱々しくて、フーガはこんな話は早くやめてすぐに病院に行くべきだと思った。
 だって、正義の味方でも、病気で死ぬ人は助けられないのだ。
 病人を治すことができるのは、お医者さんとお母さんだけだ。おじいちゃんのお母さんはもうとっくにいない。
 そしてフーガは、お医者さんではない。おじいちゃんは、フーガには救えない。

「いいね、フーガ。おじいちゃんがこれから言うことをよく聞いて、その通りにしてくれるね。そうしないと、大変なことが起こってしまう。くれぐれも、私の言う通りに、その通りにしてくれ。できるね」

 きっと、おじいちゃんはフーガが言うことを聞くまで、何度でも同じことを繰り返す。
 そう思ったフーガは、早くこの空間から出たい気持ちもあって、素直にうん、と返事をした。
 そうすると、おじいちゃんはベッドの向こうにある文机を指して、言う。

「あの一番下の引き出しの下に、偽物の底がついていて、本物の底はその下にあるんだ。二重底というやつなんだけれどね。その、二重底の中に一枚封筒が入っている。それを出してきておくれ」

 フーガは言われたとおり、文机の一番下の引き出しを引いた。中にはぎっしりと本や書類が入っていた。

「これ、出していいの?」

「そう、全部出して、空っぽにして、封筒を出したあとに、また元に戻しておくれ」

 面倒くさい、とは思ったものの、フーガはその通りにした。
 それに、二重底というのはいかにも何か秘密っぽくて、少しだけ、本当にほんの少しだけ、ワクワクもしていた。
 それでもやっぱり、そんなもの見ない方がいい、という警告も同じくらい頭の中にはあった。

 早く見たい、さっさとしろと急かす思いを、やめた方がいい、絶対に後悔するから、という思いが押し戻す。
 二つの思いがフーガの頭の中でおしくらまんじゅうをしている間に、フーガの体はおじいちゃんに言われたことを優先した。

 とりあえず中のものを全て外に出す。引き出しの底には妙な線が刻まれていた。
 フーガは適当になんとなくでそれをいじる。わずかに左にずらした時、その線が引き出しの左の壁にかちりとはまり込んで、右側に少し隙間ができた。
 そこから、指を押し入れて底を引っ張ると、引き出しの底は簡単に外れた。

 興奮で脳みそが焼かれていく。頭の中のおしくらまんじゅうは急かす思いの圧勝に終わっていた。
 フーガはとてもドキドキしていた。中には古茶けた大きめの封筒が入っていた。

「封筒は見つかったかい」

「うん」

「それじゃあ、また元に戻して、それを持ってきておくれ」

 フーガはさっき底を外したのとは逆の要領で、元に戻す。うまくできるか不安だったが、案外簡単だった。
 それから大急ぎで、引き出しから出したものを戻す。この封筒の中身を早く知りたくて、乱暴になってしまったが、フーガはさして気にしていなかった。
 それを見ていたおじいちゃんも、特にとがめはしなかった。
 そして、元のように引き出しを押し込むと、フーガは早足でその封筒を持っておじいちゃんの横に行った。

1年前 No.3

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

 おじいちゃんは封筒を見て、わずかに体を起こす。
 フーガは慌ててその背を支えた。

 痩せこけた骨ばった背中がフーガの肌に触れる。
 それは例えようもなく、恐ろしい感触だった。
 パジャマ越しに触れた、おじいちゃんのわずかに温かく、湿ったハリのない肌。
 もうきっと、明日を待たずに死体になるその体。体を満たしているべき生命が、かろうじて爪を引っ掛けて残っているだけの器。
 そこにわずかに残るエネルギーを、おじいちゃんは今、フーガのためだけに使っている。

 触れた瞬間に腕から死が伝わって来るようなその感じがフーガにはたまらなく怖かった。
 フーガは震えるのを必死でこらえる。大丈夫、怖くない。平気だ。いつものおじいちゃんと変わりない。
 夏休みに竹とんぼを作ってくれる優しいおじいちゃんだ。フーガの大好きなおじいちゃんだ。
 それでも震えるフーガの手に隠すことのできない恐怖に、おじいちゃんは多分気づいていただろう。

 おじいちゃんは封筒を開けて、中に入っていた紙を出した。
 それは地図のように見えた。しかも、とんでもなく古い地図だ。
 紙は端の方がふにゃふにゃで全体的にものすごく茶色くなっていて、干からびてしまっているようだった。

「いいかいフーガ、お前にこれから頼むことは、本当に、本当に大切なことだ。お前がもしこれを間違ってしまったら、お前の家族はバラバラになってしまうかもしれない、危険なことだ。だけどお前はこれを果たさなければならない。お前にしか頼めないんだ。サトルでも、ケイスケでも、ウタコさんでも、カノンでもソナタでもなく、お前が。おじいちゃんの言うことがわかるね」

 おじいちゃんの言い方は、真剣だった。フーガはこんな表情のおじいちゃんを見たことがない。
 目は座っていて、声は静かだけど、強い言い方だった。断ることを許さない、茶化すこともできない、そんな雰囲気だ。
 フーガはやや緊張して、それでも、わかるよ、と答えた。本当は全然わかっていなかった。

「これは、地図だ。もう五十年近く前のものだから、今の地図とは全然違うけど、ここ国分寺の恋ヶ窪(こいがくぼ)周辺の地図だ。フーガ、お前は、この地図を見て、この地図にある、このマークの場所を探して、そこにあるものを、一つ残らず燃やして欲しい」

 おじいちゃんは地図の真ん中にある×のマークを震える指先でなぞってフーガに示す。

「燃やす?」

「そう、一つ残らず、燃やして欲しい。見つけたら、すぐに、だ。大人に相談しようとか、誰かに知らせなくちゃ、とお前は絶対に思うけど、いいね、誰にも知らせちゃいけない。それは、この世界にあってはいけないもので、おじいちゃんが、お前のおじいちゃんがそれを隠していたという事実は、誰にも知られてはいけないんだ」

 黄色い目をでぎょろりとフーガを睨んで、おじいちゃんは言った。
 怖かった。でもそれ以上に、フーガは気分が高まっていくのを感じていた。
 おじいちゃんが、そんなにも秘密というものは一体何なのか。
 そして、それがフーガにだけ託されるということの意味。フーガは平凡な小学五年生だ。
 それが、急にすごく特別なものになったみたいで、なんだか嬉しい。

「何があるの?」

「それは言えない。そして、そこにあったものを、おじいちゃんがどうして持っているのか、お前はそれを調べようと思えば、きっとわかってしまうだろうけど、でもそれはできるならでいいから、調べないで欲しい。おじいちゃんは本当は悪い人だったんだ。だけど、お前たちの前では、できる限り善良な人間でいたつもりだ。本当のことを知れば、お前は私を嫌いになるかもしれない。だがこれまでにお前たちと接してきた態度には、偽りはなかった。どうか、疎まないで欲しい。わかるね」

 フーガはややためらって、それでもうんと答えた。

「いいかいフーガ、お前はこの地図で、この場所を探して、そこにあるものを一つ残らず燃やすんだ。そして、それは全て、お前一人で行わなければならない。他の誰にも知られてはいけない。サトルにも、お父さんやお母さんにも」

「お兄ちゃんは?」

 中学生のお兄ちゃんはフーガよりよっぽど大人だったし利口だった。
 そんな大事なことを頼むなら、フーガよりよっぽど適任だったろうし、フーガはまずお兄ちゃんの力をアテにしようと思っていた。

「カノンか、そうだな。でもダメだ。あの子も、もう……、とにかく、いいね、お兄ちゃんもダメだ。家族にも、それ以外の誰にも教えてはいけない。お前一人でやらなくちゃいけない。そうしないと、本当に大変なことになってしまうんだ」

 あの――お兄ちゃんにも頼めないことを。
 おじいちゃんはフーガに頼んでいる。お兄ちゃんより、信頼されている。お兄ちゃんより勝っている。
 フーガは勝手にそう思って、ますます興奮した。

 そしておじいちゃんは地図を小さくたたんで、フーガに渡した。

「これは、ポケットにしまって、誰にも気づかれないようにしなさい。家に帰ったら、誰にも見つからない場所に隠して置くんだ。そして、私が死んだあと、この場所に行ってくれ」

 フーガは恐る恐るその地図を受け取った。
 その手を、おじいちゃんは枯れ枝のような指が並ぶ手で、がっしりと強く掴んできた。

「お願いだよ、フーガ。私を助けてくれるね」

 おじいちゃんの声は風の音のようにかすれて小さかった。
 フーガは一つつばをゴクリと飲み込む。

「大丈夫だよ、おじいちゃん」

 フーガが地図を受け取って、ポケットにしまうと、おじいちゃんはもう行きなさいと言った。
 フーガは振り返らず、部屋を出た。

1年前 No.4

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

 部屋の外にはサトルおじさんが待っていた。フーガはそれを見て、急に心臓がバクバクしだした。

「大丈夫かい、フーガ君」

 フーガはポケットの中のものを見られまいと、手を突っ込んで、頑なに中の地図を握り締めていた。

「ポケットに、何か入っているのかい?」

 サトルおじさんが身をかがめて迫って来る。
 フーガは咄嗟に身をよじっておじさんから顔を背けた。
 自分でもバカだと思うくらい、露骨な仕草だと思った。

「な、何でもないよ」

 その言葉が真っ赤な嘘であることは、きっとおじさんの目にも明らかだった。
 でも、おじさんはそうかい、と言っただけで、それ以上は何も言ってこず、そのままフーガを居間に連れて行った。
 それからお母さんがソナタを伴ってもう一度、おじいちゃんの部屋に入って、すぐに出てきた。それからあとは、ただ待つだけの時間だった。

 サトルおじさんが出前をとってくれて、フーガたちはおじいちゃんの家でラーメンを食べた。
 それがどんな味だったか、フーガはほとんど覚えていない。
 ただ、ポケットの中にある、地図の重み、それに託されたおじいちゃんの思いの重さが、ずっとそこにのしかかっていて、フーガは気が気ではなかった。

 お母さんやお父さんが何かを聞いてきたし、お兄ちゃんも何か言ったけれど、フーガはどれにもほとんど反応しなかった。
 大人はそれを、フーガがおじいちゃんが死んでしまうから、ショックを受けてそうなっているんだろうと思ってくれたようだが、フーガの頭を支配していたのは、結局のところ、この地図が、何を示しているのか、ということだけだった。

 きっと、何かすごい、お宝があるんだ、という妄想がフーガの頭の中には広がっていた。
 そしてそれは、お父さんにもお母さんにも、そして、あのお兄ちゃんでさえ秘密にしなくてはいけないことで、たった一人、フーガにだけ託されたのだ。
 おじいちゃんはフーガだけを特別に、それにふさわしいと考えて、任せてくれた。
 その事実がフーガを例えようもなくすごくいい気にさせていた。

 一刻も早く、今日を終わらせて、すぐにでもこの宝の地図を解読したい気持ちでいっぱいだった。
 そこには何があるんだろう。宝石とかだろうか、それとも美術品だろうか。
 いや、もしかしたら、もっとすごいものかも知れない。
 例えば、おじいちゃんは実は、隠れた正義の味方で、この地図に示されているのは、正義の味方の組織の秘密基地の入口なんじゃないだろうか。
 そしておじいちゃんは、実は死んだと見せかけて、その秘密基地で、組織の幹部として、フーガを迎え入れ、フーガは隠れたヒーローとして、悪と戦う本物の正義の味方になるのではないか。

 そしたら、悪の組織っていうのはどんな相手だろう。やっぱり変身するのだろうか。
 フーガはロボットに乗せてもらえるだろうか。
 フーガの妄想はとどまるところを知らない。

「フーガ、何笑ってる」

 ラーメンを食べ終わったお兄ちゃんが、ふとフーガに声をかけてきた。
 フーガは慌てて何でもない、と答える。危ない。お父さんやお母さんはともかく、お兄ちゃんはフーガのことをすごくよく見ている。
 そこでフーガはハッと気づく。

――もしかして、お兄ちゃんは悪の組織のスパイなのでは。

 それで、おじいちゃんは、お兄ちゃんにも明かしてはいけないと言ったのではないか。
 だとすれば、フーガが正義の味方となった暁には、いずれお兄ちゃんと戦わなくてはいけないことになる。
 あんなに優しくて、頭が良くて、尊敬しているお兄ちゃんと。
 いや、違う。きっとお兄ちゃんはセンノウされているだけだ。
 だからお兄ちゃんを操っているその上の悪い奴から、お兄ちゃんを取り戻すのが、フーガの使命なのだ。
 だとすれば、その悪い奴っていうのは一体誰だ。

――サトルおじさんに違いない。

 フーガは完全に妄想の世界に入り込んでいた。
 既に頭の中ではフーガは正義のヒーローになりきっていて、悪の組織と戦うための必殺技の考案が始まっていた。
 そんなフーガをおいてけぼりにして、おじいちゃんの時計の砂は着々となくなりつつあった。

 医者が呼ばれた。そして、時計が十時の鐘を鳴らした。
 平成二十七年六月十七日、午後十時十三分。
 フーガのおじいちゃんは、七十七年の生涯を終えた。
 降り出した雨は、まるでおじいちゃんが天国に行くことを許さないとでも言うように、激しいものだった。

1年前 No.5

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二 地図の示す場所

 それから慌ただしい日々が続いた。
 お通夜やらお葬式やら、おじいちゃんの遺品の整理やら、とにかく大人たちはすごく忙しそうにしていたし、それはフーガたち子どもも、それに巻き込まれる形で大変になった。

 お母さんもお父さんもしばらく家に帰る時間が遅い日が続いて、フーガたちは親の分も含めて夕ご飯は自分で作らなければならなくなった。
 フーガは料理なんてしたことなかったが、お兄ちゃんに言われるがままに、カレーを作ったり、肉じゃがを作ったり、サラダを作ったりした。
 お兄ちゃんはサトルおじさんに連れられて、よく釣りに行く。
 釣れた魚を持って帰ってきて、自分で捌いて、フーガたちにご馳走してくれることもよくあったから、料理が上手だった。

 きっとお兄ちゃんはそこで、悪の組織としてのトクベツな訓練を受けているに違いない。
 おじいちゃんの遺言があってからこちら、フーガの中にはサトルおじさんを中心とした悪の組織があって、おじいちゃんはそれと戦っていた正義の味方だったという想像がすっかり形を持っていた。

 だから、その手先としてセンノウされているお兄ちゃんは、フーガにとって要注意人物になっていたし、その行動には敏感に目を光らせていた。
 フーガが率先して料理を手伝ったのはそうした背景があった。
 お兄ちゃん一人に任せていたら、気づかないうちにお兄ちゃんが組織で開発した薬を使って、フーガをサイミンジュツにかけ、おじいちゃんの秘密の地図を渡させてしまうかもしれないし、そのままフーガも悪の組織の一員にセンノウされてしまうかもしれない。

 しかし、とりあえずフーガが見張っている限り、お兄ちゃんにそうした怪しい動きは見られなかった。
 流石にフーガが慕っていただけはあって、下手なことはしない。
 敵ながらアッパレだ、とフーガは聞きかじったセリフを頭で唱える。

 お父さんやお母さんが忙しくしている間、フーガは一刻も早く地図の場所に行きたいのはやまやまだったが、それ以上におじいちゃんとの別れのための儀式で、フーガ自身も参加しなければならないことが多かったために、なかなか自由な時間が取れなかった。
だが、フーガはその間、何もせず、ただ悠長に時間を過ごしていたわけではない。
 誰もいない時を見計らって、居間のパソコンで、しきりに恋ヶ窪周辺の地図を検索していた。

 おじいちゃんは、地図は昔のものだから、今とは違うと言っていた。そして、五十年近く前の国分寺の恋ヶ窪周辺の地図と言っていた。
 フーガは五十年も前の東京の国分寺の街並みなんて想像もつかない。一九六〇年代くらいだろうか。
 その時代に何があったか、フーガはこれといってよく知らない。
 第二次世界大戦が終わったのは一九四五年だから、多分いかにも戦後で焼け野原、ということはなかったんだと思う。
 東京タワーが建ったのが五八年で、東京オリンピックが行われたのが六四年だと、確か最近の授業で習った。
 だから多分、なんというか、戦後からのフッコウ、みたいなものにこの国全体で燃えていた時代なんだと思う。
 確かコウドケイザイセイチョウキ、というのがあって、それはこの頃から始まったのではなかったか。
 そして、ウルトラマンが最初にテレビでやったのもこの頃らしい。
 やっぱり、日本が発展する中で、それを妨害しようとアンヤクする悪の組織があって、おじいちゃんはそれと戦っていた正義の味方だったのではないか。
 パソコンでその頃のジダイハイケイを調べれば調べるほど、フーガは自分の思い込みがより一層強いものになっていくのを感じていた。

 フーガは居間のパソコンの前で、地図を広げる。
 東京都、国分寺市、恋ヶ窪。フーガは国分寺の病院で生まれ、今はその隣の小金井市に住んでいる。
 国分寺市、小金井市、多摩市、さらに国立市と武蔵野市を加えた東京のちょうど真ん中辺りに位置するこの区域を、武蔵野グループと呼ぶ人もいる。
 ただ、その中にあって、武蔵野と比べると、国分寺はパッとしない、とフーガは思う。

 有名な学校が多いのは事実だ。でも、秋葉原とか、渋谷とか、都心と比べると、恐ろしく田舎だと思う。
 それは他の地域を知らないフーガの思い込みかもしれなかったけれど、国分寺は、なんというか、地味だ。
 暮らしに不便を感じたことはないが、これこそ国分寺! と言えるようなものもない。
 都市というほど都市でもなく、確かに旧国分寺跡という、かなり立派な史跡が残っていたけれど、それも結局は跡があるというだけで、建物自体が残っているわけでもない。
 ましてやその中でも恋ヶ窪は、本当に普通の街以外の何物でもない。

 おじいちゃんの地図では、辺りは山ばかりで、建物らしい建物もないようで、ただ、真ん中に位置を示す×が描かれているだけだった。
 唯一指標になりそうなのは、地図の上で交わる三本の線路と思われる白黒のしましまの線とそこに書かれた駅と思われる四角の記号だけだ。
 不親切に駅名は書いてなかったが、その線路は、特徴的な直角三角形を描くように交わっていた。
 ×の印は、三本の線路がつくる三角形からさほど離れていない。
 地図を見る限りでは、多分この三つの線路は中央本線、武蔵野線、西武国分寺線で作られる三角形だ。
 パソコンの画面に表示されているその地図と見比べてみても、すごくよく似ている。
 底辺は一キロ、縦は一キロ三百メートル、斜辺が一キロ五百メートルくらいのそんなに広くない範囲だ。
 そして、×の印は、その三角形の外側に、縦の辺のちょうど真ん中辺りから、二百メートルくらい離れた場所にある。
 今の地図で見れば、そこにあるのはフーガが夏になるとよくさっちゃんと一緒に行く市民プールくらいなのだが。

 おじいちゃんは、これは五十年前の地図だと言っていた。
 市民プールは五十年前にはきっとそこにはなかったはずだ。
 だとすれば、これはもっと別のものを示しているに違いない。

 そして、地図を調べていくうちに、フーガは気になるものを見つけた。
 市民プールの横にある建物である。
 それは国分寺市の清掃センターだった。清掃センターは確かサトルおじさんの働いている場所だった。
 あの悪の組織の幹部のサトルおじさんの。

 おじいちゃんが示しているのは、もしかしたら正義の味方の基地ではなくて、悪の組織のアジトなのかもしれない、とフーガは思った。
 もちろん、この地図が書かれた当初は清掃センターもなかったはずである。
 ということは、おじいちゃんたちの正義の組織にとって大切なものがあった場所に、おじさんたちの悪の組織が清掃センターとしてアジトを建ててしまったということなのではないか。
 そして、それを燃やしてくれということは、フーガにそのアジトの壊滅を任せたということなのではないか。
 それこそが正義の味方に至るための試練で、それを果たせた暁には、フーガは立派に正義の味方として、組織に迎え入れられるのでは。

 それはフーガにとって十分にあり得ると思えることだった。
 おじいちゃんは最後にフーガに助けを求めたのだ。
 それはきっと、自分が果たせなかった悪の組織の拠点を潰して、世界の平和を守ってくれるね、という意味だったのではないか。
 だとすれば、フーガのすべきことは、清掃センターに潜入して、そこを破壊すること。

 フーガは少し考えて、それはどうにもまずいことのように思えた。
 清掃センターがなくなれば、少なからず国分寺に住んでいる人たちは困るだろう。
 それにどうにも犯罪行為のようにしか思えなくて、正義の味方のすることじゃない気がする。

 フーガはもう一度、地図を見た。地図には場所を示す暗号のような文章が書かれていた。

『百年目の木の下』

 フーガにはなんのことかさっぱりわからなかった。樹齢百年の木の根元ということだろうか。
 こういう時こそ、お兄ちゃんの力を借りたいところだったが、そのお兄ちゃんが悪の手先とわかった今は、それはないものねだりというものだった。
 何かきっかけを探しながら、何もできない日々が続いていた。
 いっそのこと恋ヶ窪に行ってみようかなどと考えていた頃。おじいちゃんが死んでから七日目、初七日の水曜日。
 フーガは思いもよらない出来事で、その悪の組織のアジトへと侵入することになった。
 小学校の社会見学で、清掃センターに行くことになったのだ。

1年前 No.6

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1年前 No.7

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 次の日、おじいちゃんの命日から八日が経った木曜日、フーガはようやく、今日こそは行けそうだ、という日に巡りあった。
 梅雨時なのにカラリと晴れていたし、さっちゃんは今日剣道のお稽古で、遊びの予定も入っていない。
 お父さんやお母さんから特別頼まれていることもなかったし、お葬式も終わっている。

 絶好の日だった。
 フーガは学校から帰ると、ランドセルを置き、大急ぎで宿題を終わらせて、地図を広げて、武蔵小金井駅を目指した。

 フーガはもう一度、国分寺に行ってみることにしたのだ。
 学校の行事で見張っている先生や、バカにしてくるみんなや、さっちゃんがいない時に、一人きりで街を探せば、何かわかるかも知れない。

 まずは中央本線に乗って武蔵小金井駅から国分寺駅へ。国分寺駅から国分寺線に乗って恋ヶ窪へ。
 乗り換えは一つで、お金は三百円とかからないし、時間にすれば十分もしない。すぐ近くだ。
 実際電車に乗ってしまえば、目的地に思いを馳せる間もないくらいあっという間に、恋ヶ窪にたどり着いてしまった。

 駅の前には日本で四つしかない恋の字が入る駅という看板が掲げてあった。
 とりあえずフーガは、近くの植え込みの縁に座って地図を広げる。

 結局、この地図が示している場所にあるのは、清掃センターか市民プールくらいだ。
 あとは大体この辺り一帯が雑木林でしかない。おじいちゃんの地図ではそもそも清掃センターも市民プールも建つ前で、何もない。
 やっぱりフーガは清掃センターが怪しいと思っている。
 何しろおじさんが勤めている先だし、その親であるおじいちゃんがこうしてフーガに地図を残しているのだ。無関係ではないはずだ、とは思うものの――。

 フーガは頭をガリガリとかいた。来てみたはいいけど、結局何もわからない。
 地図に書かれているものと、あまりに景色が変わりすぎている。
 フーガは地図をじろりと睨む。そうしたところで新しい発見があるわけでも、何か隠れたメッセージが浮かび上がるわけでもない。

「よう、フーガ!」

 だから突然後ろから声をかけられた時、フーガは驚きのあまり叫んでしまったし、地図を手から落としてしまった。

「何びっくりしてんだよ、何だそれ?」

 声をかけてきたのはさっちゃんだった。肩に剣道の竹刀を背負って、半袖半ズボンでそのたくましい体を晒している。
 いがぐり頭がやや湿っているということは、きっと習っている剣道の道場からの帰りなのだろう。
 そういえば恋ヶ窪の方にあるとか言ってたっけ。
 そんなことが矢継ぎ早にフーガの頭をかすめていくが、それよりもさっちゃんはフーガが落とした地図をいつの間にか拾って、手に取って見ていた。

「だ、ダメだよさっちゃん、それ返して」

 フーガが取り返そうと手を伸ばすがさっちゃんは地図を上に掲げて、自分は見上げるようにしてそれを眺める。
 さっちゃんの方が背が大きいから、手を伸ばされるとフーガの手はそれに届かない。

「これ、何だ?」

「言う必要ないでしょ、返して!」

「大事なものか?」

「どうでもいいでしょ!」

「なんでこんなところにいるんだよ。一人できたのか?」

「関係ないって言ってるだろ!」

 フーガが声を荒らげてそう言うと、さっちゃんはにやりと笑ってふぅんと言った。

「宝の地図か何かだな」

 ぎくりとした。

「ち、違うよ、な、何言ってんだよ」

「図星だな。そういえば、この前じいちゃんのお葬式だったな」

 さっちゃんの中で、きっとその考えははっきりした形を持つものになっていっていた。
 その考えというのはつまり、あのさっちゃんとの遊びがダメになった日が、おじいちゃんの命日で、あの日おじいちゃんちに行ったフーガが、そこでこの地図を貰い、そこに示された何かを探しに、フーガが今日、恋ヶ窪にやってきたという、ズバリその通りの考えだ。

 さっちゃんはこういう時だけすごく勘がいい。

「そしてお前は今困っている。地図に書かれている場所がわかんないからだ」

 それも図星だった。
 フーガは何もかも見透かされて不機嫌になりながら、もう一度小さな声で、返してと言った。多分返してはくれないだろうが。

「返して『も』いい」

「『も』って何?」

「その宝探し、オレにも手伝わせろ」

「はぁ? ダメに決まってるでしょ!」

「ってことは、宝探しは宝探しなんだ。で、やっぱり場所がわかんなくて困ってるんだな」

 フーガはあ、と声を上げる。しまった。ユードージンモンだ。さっちゃんはやっぱりこういう時だけ、すごく頭の回転が早い。

「オレは、この場所がどこだかわかる」

「嘘だよ。絶対嘘。適当なこと言わないでよ!」

 口からでまかせに決まっている。フーガでさえ、もう一週間以上悩んでいるのに。

「オレが嘘言ったことあるか?」

 それはなかった。ソクトウでダンゲンできる。
 小学校で友達になってから、五年間。さっちゃんは少なくともフーガの前では一度も嘘をついたことはなかった。
 一年生のころ、掃除の時間に雑巾を投げて窓ガラスを割った時も、三年生になって、学校の桜の木に登って太い枝ごと折れて落っこちた時も、先生に叱られて、親に怒られても、さっちゃんは嘘はつかず、正直を貫き通した。
 モクゲキシャがフーガだけで、フーガと口裏を合わせればごまかせるような時も、さっちゃんは決してそうしなかった。
 さっちゃんは嘘はつかない。それは信じられることだった。そして今は、一人でも多くの知恵が欲しいことも。

「……本当にわかるの?」

 フーガは疑うような目つきでさっちゃんを見つめながら言う。
 さっちゃんは任せろ、と自分の胸を叩いた。

「で、お宝っていうのは、何なんだよ」

 フーガはため息をついて、おじいちゃんがフーガに託したその地図のケイイを話した。

「ってことは、フーガのじいちゃんは、正義の味方で、やっぱりあのおじさんって人は悪の組織の幹部で、この場所には正義の味方の秘密基地に繋がる入口か何かがあって、そこを見つけ出せたらフーガはじいちゃんと同じ、正義の味方になるってことか?」

「うん」

「ばっかじゃねーの」

 さっちゃんが心底呆れて、見下したような声で言うから、流石にフーガも頭にきた。

「もういいよ! ふんだ! その地図はもう、ずっと見てたから、頭の中にちゃんと入ってるから! その地図はさっちゃんにあげるよ! もう知らない! 絶交する!」

 フーガは顔を真っ赤にして大声で言い、歩き出す。そして知らない方へ一人でずんずん進んでいく。
 慌ててさっちゃんが追いかけてくる。

「あー、悪かった。ごめん。フーガ、じいちゃん死んだばっかりだもんな。バカにするみたいなこと言って悪かったよ。謝るから、この通り」

 さっちゃんは駆け足でフーガの横に並びながら両手を顔の前で合わせて頭を下げる。
 フーガは無視を決め込んでいた。

「腹減ってるだろ、おにぎりあるぞ、ジュースも飲むか? おごってやるよ、ほら、な? 機嫌なおせよ、いい子だから」

 すっかり子ども扱いの言い方に、フーガはますます腹を立てた。
 背が少し高いからって、自分の方が大人みたいな顔して。
 生まれたのはフーガの方が二ヶ月も早いのに。
 さっちゃんは怒ったままのフーガに呆れたようにため息をついた。

「エックス山だ」

 さっちゃんが立ち止まって言った。フーガは三歩歩いて、足を止める。

「その×マークが示してるのは、エックス山だ。×じゃないんだ。英語のXなんだ」

 フーガは振り返った。さっちゃんはやっぱりニヤリと笑っている。

「何、エックス山って」

「言ったろ、わかるって。そこ、エックス山だよ。絶対。その地図の辺りにあってエックスって言ったら、エックス山だよ」

 さっちゃんは自信満々に言う。フーガはその確信めいた様子がなんだか気に食わない。
 自分がずっと悩んでいたものを、ついさっき地図を見たばっかりのさっちゃんが解き明かしたというのがむしゃくしゃする。
 それでも、何も手がかりがないよりは、さっちゃんの知恵に頼るのが、一つ前進なのは間違いなかった。
 エックス山というのも、ちゃんと聞いておきたい。

「その近くにそう呼ばれてる山があるんだよ。山っていうか、森っていうか、林っていうか。ほら、市民プールの近くだし、あそこにある清掃センター、フーガのおじさんが勤めてるところだろ、昨日社会見学行ったところ」

 それはとっくにわかっている。でも、エックス山というのはフーガは知らなかった。

「今は公園だけどな、そこ、本当は昔、地図に書いてない場所だったんだよ。確か、天然の貴重な植物がたくさん生えてて、それを盗んでいく人に荒らされないようにするために。道がエックスに交差してるからとか言われてるけど、本当は秘密のエックスなんだよ。その地図、いつ書かれたものかわかんないけど、すっげー古いんだろ。ならその頃、エックス山は、まだ秘密の場所だったはずだ」

 フーガは心臓の音がどくんと高鳴るその音を聞いた。
 小走りにさっちゃんの元に駆け寄る。

「今は公園みたいになって、ホゴダンタイの人が手入れしてるみたいだけど、それだって多分隅から隅にやってるわけじゃない。きっとどっかに秘密基地の入口があるんだ。いや、そのホゴダンタイの人っていうのが、実は正義の味方の組織の人だったりして」

「そのエックス山はどこにあるの?」

「絶交はどうした?」

 さっちゃんが意地の悪い笑顔で言う。
 フーガは手を差し出す。仲直りの握手だ。

「悪かったよ」

「いいよ。で、そのエックス山って?」

「こっちだ」

 さっちゃんは走り出した。フーガもそれについていく。

1年前 No.8

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 さっちゃんが向かったのは市民プールの方だった。
 毎年夏休みにさっちゃんと市民プールに行く時は西国分寺駅で降りて向かうから、恋ヶ窪方面から行くのは初めてだった。
 道はどうにも田舎臭くて、周りの風景には緑が多い。
 さっちゃんの話によるとエックス山にはカブトムシなんかもいて、捕りに行く子どもも多いらしいが、フーガはそういうのに興味を持たなかったからか全然知らないことだった。
 道の途中でさっちゃんはプールに行く方の道からそれて、人気のない道に入っていく。開けた畑が広がっていて、その奥に、やや小高い森が見えた。

「あれがエックス山だ。西恋ヶ窪緑地」

 あそこが。あそこに。
 おじいちゃんが残したものがある。敵の本拠地のすぐ近くにある、正義の味方の秘密基地が。
 フーガの足は自然に先へ先へと進んでいた。
 森の入口には看板が立っていて、案内図が書かれていた。
 もちろん、おじいちゃんの残したものは、そんな道の中にはないだろう。

「とりあえず、一回りしてみよう」

 さっちゃんの声は、少しだけだけど、震えていた。
 フーガも、ここに確かにおじいちゃんの残したものがあるのだと思うと、興奮して立っているのかどうかもあやふやな感じだった。踏み出した一歩がやけに手応えがない。なんだかふわふわして、転びそうになる。

「大丈夫か、フーガ」

「平気だよ」

 見かねてさっちゃんが手を差し伸べてくるけど、フーガはそれを突っぱねる。
 そうだ。正義の味方はこんなことでいちいち立ち止まっていられない。

「――百年目の木の下、だよな」

 おじいちゃんの地図に書いてあった言葉だ。
 フーガは確認するようにさっちゃんから返してもらった地図を見る。
 確かにそう書いてある。素直に考えるなら、樹齢百年の木のことに思える。
 市民プールや清掃センターに比べたら、ずっとそのメッセージは、ここのことを指しているように思えた。
 とりあえずフーガとさっちゃんは二人で道に沿って森を歩いた。

 森の中はなんだか森の外より湿っている気がした。梅雨時だからだろうか。
 地面にはこの前に降った雨の水たまりがあちこちに残っていたし、遊歩道は一見綺麗だったけれど、歩いてみればフーガの靴はすぐに泥だらけになった。
 あちらこちらの木に『この木なんの木』と書かれたプレートがかかっていて、裏返すと木の種類が書かれていたり、テーブルと椅子のある広場があったり、公園としてきちんと整備されているのはすぐに分かった。
 いかにも秘密基地がありそうなウッソウとした森を期待していたフーガは少し肩透かしを食らった気分だった。
 奥に入ってみればそうでもないのだが、入口の方は結構人の家に近く、木も少ないこともあって丸見えだった。
 もちろん五十年前はそうではなかったのだろうけど。

 ものすごく広い、ということもなく、三十分もしないうちに終わりまで辿ることができた。
 でも、それは道が、という話で、広さで言えば、道になっていない部分は大きく、しかもその中からたった一本の目当ての木を探すというのは、相当な苦労だと、すぐにわかった。
 しかも、森の立札には、道以外の部分に立ち入りをセイゲンする言葉が書かれていた。
 貴重な植物が生えているということは、なんとなくわかる。
 そして、いくら正義の味方の秘密基地を探すためとは言え、森を荒らすという行いは、フーガ自身の正義感からは外れる行為だった。

 それに、日が暮れ始めていた。
 これからあっという間に夜が来るという時間に、子どもだけで森の中に入ろうとするのはジサツコウイだ。

「今日はもう、帰ろう」

 さっちゃんが言った。
 フーガはその顔を恨めしげに振り返る。

「そんな顔してもダメだぞ。エックス山ってわかっただけでも一歩前進だろ」

 エックス山かどうかだって、秘密基地が見つかってみなくちゃわからないんだ。
 フーガはそう言おうと思ったけど、さっちゃんの言っていることはどう考えてもセイロンで、しかも大人の考えだった。
 悔しいけど、認めざるを得ない。今日はもう、無理だ。
 フーガは言葉にはせず、ただ来た道をもどることで意思を示した。
 さっちゃんは何も言わず、そのあとをついてきた。
 恋ヶ窪駅まで戻ってきて、ようやくフーガは口を開いた。

「今日は、ありがとう」

「ん。探検は、日曜日か? 予定立てて置くぞ」

 フーガももっぱらそのつもりだった。二人は今週の日曜日、十時に武蔵小金井駅の前に集合して、もう一度エックス山を探検する計画を立てた。

「さっちゃん、今日のことは」

「おう、二人だけの秘密だからな」

 フーガが念を押そうとすると、さっちゃんはそれを察して先に応じてくれた。
 指切りをして、武蔵小金井駅でさっちゃんと別れた。
 空は随分暗くなっていて、フーガはお腹が空いていることに気づいた。
 家に帰ると、お母さんが頭に角を生やして待っていた。

「遅かったわね」

「ごめんなさい」

「どこに行ってたの?」

 お母さんは腕を組んで玄関の前に立ちふさがって、フーガを見下ろしていた。
 フーガは少し考えて、嘘をついてごまかそうかとも思ったけど、それはやめることにした。
 これから正義の味方になるというのに、いちいち小さなことで嘘をついたりしていたらダメだと思ったからだ。
 でも、かと言ってお母さんに正直に言えるようなことでもなかった。内容もそうだし、そもそもおじいちゃんからは、誰にも知られてはいけないと言われていたのだ。
 さっちゃんには知られてしまったが、それはフカコウリョクというもので、とにかく既に一人、もう約束を破って知られてしまった以上は、これ以上秘密が漏れるのは避けなければならなかった。
 だから、フーガは何も答えなかった。

「答えなさい、フーガ」

 お母さんの怒りが急上昇していくのがわかった。それでもフーガは答えない。答えられない事情があった。
 お母さんの言葉を借りて言うなら、ユウセンジュンイが、フーガにとっては、おじいちゃんの秘密を守ることが一番で、お母さんにとっていい子でいることは、それほど重要ではない。
 お母さんはフーガがいい子であればいい子であるほど喜ぶのだろうけど。フーガはお母さんを喜ばせるために生まれたわけじゃない。
 今はまだ、わからないけど、もっとずっと大事な、やるべきことがある。
 そして今、それはおじいちゃんの秘密に関わること、つまり、地図の謎を解き明かすことに思えた。

1年前 No.9

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「俺が頼んだんだよ」

 後ろからエプロンをつけたお兄ちゃんが声をかけてきた。

「この前おじさんと釣りに行った時、おじさんのお気に入りのルアー間違えてもって帰ってきちゃったから、フーガに届けに行ってもらってたんだよ。なあ、フーガ」

 お兄ちゃんはお母さんを通り越して、冷静なメガネの下からフーガの目をじっと見ながら、口からでまかせを言った。
 かばってくれているんだ、とこれまでのフーガだったら思っただろう。
 でも、おじいちゃんが正義の味方で、お兄ちゃんが悪の手先かもしれないということを知っているフーガにとっては、そのお兄ちゃんの嘘は、何か疑わしいものに見えた。

 これは、罠に違いない。
 フーガはお兄ちゃんの言葉にやはり返事をしなかった。

「ほら、もうご飯にしようよ。それとも、フーガと一緒にそこで、ご飯が冷めてカピカピになるまで意地の張り合いを続けるつもり?」

 お兄ちゃんがそう言うと、お母さんは仕方ない、というように、入りなさい、とフーガに道を開けた。

「靴を揃える!」

 何気なく上がろうとしたフーガにお母さんがこれみよがしに怒鳴る。
 フーガは慌てて靴を揃えて、手を洗ってうがいをし、お母さんと、お兄ちゃんと、ソナタの四人でご飯を食べた。

 今日のごはんはお兄ちゃんの酢豚だった。酢豚のもとなんてお兄ちゃんは使わない。
 生姜焼きだってタレを自分でつくるし、フレンチトーストは前日から用意を始める。だからそれだけ美味しかったし、実際今日のご飯も凄く美味しかった。

 あと片付けはフーガの仕事だった。
 みんなの食器を洗って、流しをきれいにする。
 そのあとフーガはお風呂に入って、自分の部屋に戻った。
 子ども部屋はお兄ちゃんと共用で、お兄ちゃんは自分の机に向かって勉強していた。
 フーガはそれを見て、そそくさと、何食わぬ顔で自分も勉強机に向かう。

「今日、どうして遅くなったんだ?」

 お兄ちゃんはノートに字を書きながら、フーガの方を見ないで言った。
 フーガはどきりとした。やっぱりと思った。そら来たと思った。

「お兄ちゃんに頼まれて、おじさんにルアー返しに行ってたはずだけど」

 フーガはまずケンセイにお兄ちゃんがお母さんについた嘘をそのまま返した。

「じゃあおじさんにフーガがルアーちゃんと返せたか連絡してみようか」

 お兄ちゃんは平然と言う。それはまずい。なるべくおじさんにはこちらの動きを知られたくない。
 流石にお兄ちゃんはフーガの一番嫌がることを押さえている。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「お前、この頃様子おかしいから」

 やっぱり、お兄ちゃんは――。

「おじいちゃんが死んだあとくらいから、何か変なんだよ。いちいち俺のことじっと見てたりするし、机やランドセルに何か隠してるみたいだし。最初はおじいちゃんが死んで、心の整理がついてないから変なことしてるのかと思ったけど、何か違うな。お前、もしかしておじいちゃんから、何かもらってるだろ」

 間違いない。お兄ちゃんはやっぱり悪の手先なんだ。
 だからおじいちゃんがフーガに託したものを、横取りしようとしているんだ。
 フーガの目に、確信の色が宿る。
 お兄ちゃんは――敵だ。

「何を隠してるんだよ。もしかして、お金か何かか?」

「お兄ちゃんは、知らなくていいことだよ!」

 フーガは大きな声で言った。

「やっぱり何かもらってるんだな」

 フーガはしまったと思った。本日二度目のユードージンモンだ。

「関係ないでしょ!」

 フーガは更に怒鳴る。するとドアを強くたたく音がした。

「喧嘩はやめなさい。静かにして」

 お母さんが叱って、一旦はフーガもお兄ちゃんもお互いに口を閉ざした。
 お兄ちゃんの何かを探るような視線と、フーガの拒絶の眼差しがぶつかる。
 先に視線を逸らしたのはお兄ちゃんだった。

「お前が言わないなら、俺も聞かないよ。そのうちわかることだろうしな」

 それきり、お兄ちゃんは話しかけてくることはなかった。
 フーガはいつお兄ちゃんが悪の手先としての本性を現してくるか、気が気ではなかったが、寝て起きてみれば、結局いつもどおりの朝だった。
 お兄ちゃんがご飯を作っていて、お母さんは洗濯物を干し、お父さんはベランダの花に水をくれている。
 ソナタは朝の教育テレビに夢中だ。
 それでも、フーガの中には、はっきりとした思いが宿っていた。
 この家に、味方はいない。
 そして、フーガは、一刻も早く、おじいちゃんの遺したものを見つけなければならない。

1年前 No.10

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三 遺されたもの

 さっちゃんとの約束の日曜日が来るまでの間に、フーガにとってエックス山はもはや知らない場所ではなく、そこに正義の味方の秘密基地があるのは必然とも言える場所になっていた。
 大体はさっちゃんが言っていたとおりだが、エックス山は、確かに昔は、秘密の場所だったらしい。
 なんでも貴重な野草の宝庫であり、盗掘の危険性から、地元では有名でも、公にはその場所は秘密にされていて、だからこそ謎の山、エックス山という隠語で呼ばれていたのだとか。それはもちろん表向きのことに違いない。

 本当の理由はそこがこの日本を陰で支える正義の味方の本拠地であり、悪の組織から守るために公表を避けていたのだ。
 そう、盗掘というのは野草を盗むことではなく、悪の組織がスパイとして、エックス山の情報を盗むことを指す、これこそが隠語なのだ。
 秘密にされていた自然保護区。自然保護とはつまり、悪の魔の手から世界を守ることにほかならない。
 つまりそれは、正義の味方の秘密基地がそこにあることの証明だった。少なくともフーガにとっては。

 そして、日曜日が来た。
 その日の空模様はフーガが少し不安に思う程度には悪かった。
 太陽は朝から厚い雲に覆われて、姿を見せていなかったし、空そのものがなんだか少し低くて、しかも黒かった。

 それでもフーガの決意はそんなものには動じなかった。
 フーガはお母さんに前もってさっちゃんと一緒に遊びに行くからお弁当を作ってもらってあり、帰りも遅くなるかもしれないから心配しないで、と伝えておいた。
 エックス山で自然観察、と正直に言えば、お母さんは何も言ってこなかった。
 映画に行くとか、ゲームセンターに行くとか、さっちゃんの家で一日中ゲームをするとか、そういうことよりよっぽどケンゼンに聞こえたのだろう。

 フーガは約束の一時間前にはもう武蔵小金井駅にいた。
 そして、さっちゃんはそのわずか十五分後にやってきた。結局さっちゃんも、おんなじ気持ちで、待ちきれないのだ。

「ビコウされてないだろうな」

 現れるなりさっちゃんは抑えた声で行ってきた。
 言われてフーガはハッとする。そんなの全然気にしていなかった。無用心だった。

「されてないと思う……多分だけど」

「カノン兄ちゃんは?」

「今日は友達の家に遊びにいくって。ボクが出た時はまだ家にいたけど」

 さっちゃんはその答えを聞くと、一度辺りをぐるりと見渡した。

「まあ大丈夫だろ」

 二人は挨拶もそこそこに、すぐに電車に乗って、あの日のように恋ヶ窪駅で降りた。
 そしてエックス山を目指す。隠されていた自然保護区域、西恋ケ窪緑地へ。
 怪しげな雲行きが幸いしたのか、公園として開放されている保護区の割に、人気はなかった。
 自転車も止まっていなかったし、ハイキングみたいな装いの人もいなかった。
 絶好の機会だった。

 二人は何も言わずとも、お互いに顔を見合わせて、森の中に入っていった。
 フーガたちはまず中央にあるテーブル広場に行って、そこで改めておじいちゃんの地図を広げた。
 地図に示されているのはこのエックス山の位置だけで、その中のどこにおじいちゃんの残したものが隠されているかは、例の一文にしか頼る以外になさそうだった。

『百年目の木の下』

 フーガはそれが樹齢百年の木であると、見当をつけていた。
 その上でフーガは今日までの間に、インターネットでそれらしい情報を探していた。
 そして、過去の電子新聞の記事に、エックス山のことが書かれているものを見つけた。
 そこには、エックス山の中心部にある樹齢約百年のクヌギの幹が、昆虫採集を目的とした人たちに剥がされて、荒らされているという内容が書かれており、自然保護へのケイショウを鳴らすものだった。
 注目すべきは樹齢百年の木がエックス山にあること、そしてそれは、エックス山の中心部にあるということ、さらにクヌギの木であるという点である。
 つまり、この中央テーブル広場の付近の林の中に、樹齢百年のクヌギの木があるということだ。それが百年目の木の下の木である可能性は高い。
 そのことをさっちゃんに告げると、さっちゃんはいい推理だ、とフーガを褒めた。

「クヌギってのは、どんぐりの木だよな?」

「どんぐりの木はたくさんあるんだよ。でも、樹齢百年、しかも、きっとこの地図が書かれたのは五十年くらい前だから、その頃に樹齢百年だったなら、今はもっと古いってことだから、きっと大きな木だよ。木の皮がデコボコに割れてる大きな木を探そう。正義の味方の秘密基地の入口があるなら、きっと足跡か何か人が出入りしてるコンセキがあるはずだから」

 そしてなにか見つかればそこだけ掘り返せばいい。適当に山を掘り返すわけじゃないから自然破壊でもないはずだ。
 フーガはそう自分がやることを正当化した。
 ここでフーガは樹齢百年というキーワードにだけ注目していて新聞記事のクヌギの木と、おじいちゃんが言う百年目の木が別のものである可能性を全く無視していた。
 普通に考えれば、五十年前に樹齢百年だった木が、そのずっとあとに書かれた新聞記事で同じく樹齢百年と表現されるのはおかしいのだが。

 しかし、そうした自分に都合の悪い矛盾はさっくり無視して、フーガは背負ってきたリュックサックから虫眼鏡を二つ取り出した。
 さっちゃんはそれを見て、ジュンビバンタンじゃん、と言った。

「そのリュック、あと何が入ってんだよ」

「とりあえず軍手とスコップと、カッパと傘と、あとお弁当と、スマホと懐中電灯と、マッチとロウソクと、ビニールテープとハサミとルーズリーフとか、とりあえず色々」

「懐中電灯があればマッチとロウソクはいらないじゃないか?」

 さっちゃんの言葉に、フーガは少し、答えるのをためらった。
 マッチとロウソクは明かりとりの為の道具ではない。
 なんだかんだで正義の味方の秘密基地という空想を広げて盛り上がっていたフーガだったが、おじいちゃんが言っていたことは、忘れているわけではなかった。
 おじいちゃんはそこにあるものを燃やしてくれと言っていたのだ。

「少し、念入りすぎたかな。まあいいでしょ、備えあれば嬉しいな、って言うし」

「備えあれば憂いなし、な」

 ごまかしのための冗談にさっちゃんは素直に引っかかる。こういうところは単純なのだ。
 それ以上はセンサクしてくることもなく、さっちゃんはフーガから虫眼鏡を受け取った。

 遊歩道に沿って柵が敷かれていて、立札が立っていて、できるだけ中に入らないで、と控えめな注意を促していた。完全立ち入り禁止の訳ではなく、植物観察のため、最低限の立ち入りは認めているらしい。

「せーので越えようぜ」

 さっちゃんが言った。フーガは頷く。

 二人で声を揃えてせーのと言い、柵を一歩でまたぐ。
 それからもう一歩で柵の外側に出て、それから二人は慌てて辺りを見回して、誰にも見られていないことを確認する。
 誰もいない。
 聞こえるのは遠くを通る車の音と、鳥の声だ。静かだった。

「よし、探すぞ」

 さっちゃんが言って、フーガとさっちゃんは虫眼鏡で、それぞれ一本一本木を見ていく。
 そしてフーガはすぐに、多分樹齢百年以上の木というのは、もしかして自分が思っているよりも多いのではないかという、疑念にぶつかった。
 よくよく考えてみれば、このエックス山、つまり、西恋ケ窪緑地と呼ばれている森一帯そのものは、きっと百年どころか、江戸時代、いや、そのずっと前からここに森として存在していたはずで、木だってきっと、その頃からあるには違いないのだ。
 里山として手入れされていたという話だから、定期的に切られては生え変わってを繰り返してはいただろうけれど、それだって里山として利用されていたのはもうずいぶん前の話で、またここを、元の綺麗な雑木林に戻そうという運動は、フーガが調べた限りではごく最近起こったものだったはずだ。
 そして、その活動記録に書かれていた、伐採の範囲は、この中心部より、ずっと入口に近いところだったはずだ。
 つまり、この中央部付近には、古い木がそのまま残されているということだ。どれもこれも、立派な太い幹の木ばかりだった。

「フーガ、見つかったか?」

「そんな簡単に見つかるわけないよ」

 そんなことは、最初から分かりきったことだったが、実際こうして、地面に座り込んで木を一本一本確かめていく作業の苦労を実感すると、フーガは自分の覚悟がいかに甘いものだったかを思い知る。
 言うほど簡単なことでは全然なかった。
 そのうちに、遠くで雷が鳴って、空がどんどん暗くなった。

「雨だ」

 さっちゃんが言った。
 フーガは顔を上げる。その鼻先に一粒、雨が触った。
 思うまもなく、すぐに雨は激しくなった。一気に土砂降りになって、フーガたちはとりあえず、雨合羽を着て傘をさした。

「帰ろう」

 この前と同じ言葉をさっちゃんが繰り返した。
 いつも思う。さっちゃんはあきらめが良すぎる。
 それは大人な判断かもしれないけど、正義の味方の発想じゃない。正義の味方は絶対にあきらめない。
 しつこいくらいに粘り強く、悪に対して道を譲らないものだ。

「もうちょっと」

 フーガは食い下がった。

「もう無理だよ。あきらめよう」

「帰るなら、一人で帰ればいいよ」

 フーガの言葉に、さっちゃんは少し怒ったように言う。

「こんなところに一人で残ってたら、叱られるぞ」

「叱られるのが怖くて、正義の味方なんかになれないよ!」

「まだそんな事を言って!」

 さっちゃんがドン、とフーガを突き飛ばした。
 フーガはバランスを崩して、ぬかるみに足を取られて転ぶ。
 背中を太い幹にぶつける。さっちゃんは小さく、あ、と言ったけれど、ごめんとは言わなかった。

「じいちゃんが死んで、悲しいから、悲しいのに耐え切れないから、バカみたいなことしてるんだと思って付き合ってたけど、もうやめだ! フーガ、こんなところにお宝なんて、ましてや正義の味方の秘密基地なんてあるわけない!」

 さっちゃんが大声で言う。
 フーガは薄々感づいていたことだった。
 さっちゃんは、やっぱりフーガよりちょっと大人で、自分がおじいちゃんを亡くした時の経験をキャッカンテキに捉えていて、その時の気持ちを、フーガも味わっていると思って、同情したのだ。
 そして、同情して、心配だから、同じバカをやって、きっと、フーガが自分から正義の味方をあきらめられるように、付き合ってくれたに過ぎない。
 本気で正義の味方の秘密基地が見つかるなんて、思ってもいない。

 改めてそれが本人の口から告げられて、フーガはなんだ、やっぱりと思う反面で、どこか安心していた。
 さっちゃんは正義の味方になれない。

――だって正義の味方になるのは、おじいちゃんに選ばれたのはボクなんだから。

「オレ、帰るから!」

 さっちゃんが背中を向ける。
 フーガは立ち上がろうとして、地面に手を付いた。
 太い木の根元、水が溜まる土の上。フーガは気づいた。
 木の根元の幹に何か刻まれている。刻まれた部分を幹が覆うように回復して、膨らんだ跡がまるで文字のように。
 それは、百、と書かれているように見えた。

――百年目の、木の、下。

 フーガの目はその木の根から続く地面へと移る。木を伝って流れる雨水を追うように。
 木の幹の根元に溜まった水が、流れている。その水たまりの少し先にある、地面の中に向かって。
 それを見た瞬間、全身の血が、足の方に流れて、頭に血が足りなくなるのを感じた。

1年前 No.11

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 フーガは手に持っていたスコップを突き立てる。
 柔らかい。感触が違う。
 そしてすぐに、ガツ、と硬いものに当たった。フーガは流れ込んでくる泥を払って、虫眼鏡で覗き込む。
 中に何かプラスチックのような自然物ではないものが見えた。

「さっちゃん! あった!」

 フーガは大声でさっちゃんを呼ぶ。
 何だという、不機嫌な顔でさっちゃんは振り返った。

「ここ、何かある。ここだよ。ここ!」

 さっちゃんはまさか、という顔をして近づいてきて、穴を覗き込んだ。
 そして中にある明らかに人工的な何かを見て、フーガと顔を見合わせる。
 二人は何も言わず、懸命に地面を掘り返した。気づいたら結構な大穴がポッカリと掘り下げられていた。
 そして出てきたのは、正義の味方の秘密基地ではないことは、明らかだった。

 中にあったのはプラスチック製のものすごく重いケースが三つだった。
 さっちゃんと二人で、全力で持ち上げなければ穴から引きずり出すこともできない、一抱えもあるケース。
 簡単な留め金がついているだけで鍵はかかっていなかった。

 フーガはさっちゃんと顔を見合わせて、それを開ける。
 震える。フーガ自身、本当に何か見つかるとは、心の底から信じられていない部分があった。
 それが、本当に見つかったのだ。おじいちゃんがフーガに託した、何かものすごく、秘密にしなければならないその証拠が。

「――お金?」

 中に入っていたのは、これまた正義の味方とは一層かけ離れた、よっぽど生々しいものだった。そこにあったのは札束だった。
 フーガたちが見知った福沢諭吉のお札ではない。描かれているのは聖徳太子の肖像だった。
 多分フーガ達が生まれるよりもずっと昔の紙幣で、おそらく百万円の束になっているものが、ぎっしりと詰められている。
 三つのケースどれもが、札束でいっぱいだった。

「すっげえ、大金持ちじゃん! フーガすげえよこれ! お前のじいちゃん、お前にとんでもないお宝残してたんだな!」

 さっちゃんは見たこともない大金に、はしゃいだ声を出していた。

 フーガは。
 それを見て、なんだか心をすごく冷たいものがワシ掴みにしているみたいな感覚を味わった。
 これは、おじいちゃんがフーガに、フーガのために遺した遺産だろうか。
 フーガにはそう思えなかった。こんな大金をフーガに遺す理由がわからなかったからだ。
 大金を遺産として遺すなら、家族でしかも大人である、サトルおじさんとお父さんに遺されるべきで、その二人を飛ばしてフーガにそれを与えるとは思えない。
 そして何より、おじいちゃんの言葉は、フーガにそれを与える、というものではなかったのだ。

 おじいちゃんはそれを燃やしてくれと言ったのだ。一体何を。

――この莫大なお金を。

「これ、百万円の束だぜきっと! いちにーさんしー……これで十だから、一千万、それが十個ってことは、このケース一つで一億円! それが三つってことは……三億円だ! これだけあれば、なんでもできるな! 一生遊んで暮らせるぞ!」

「やめよう」

 浮かれた声のさっちゃんに、フーガは震えるような声で言った。

「どうしたんだよフーガ、すげえぞ! 喜べよ!」

「やめてよ!」

 フーガが大声を上げる。近くに雷が落ちて、ものすごい閃光と、爆発したみたいな音が辺りに轟く。
 耳が聞こえなくなって、キーンと高い音が響く。

「元に戻そう」

 さっちゃんはまだ耳が聞こえないようで、聞き返すように耳に手を当てた。

「元に戻そう! すぐに隠して!」

 なんでというさっちゃんに構わず、フーガはさっちゃんが取り出した札束をケースにむちゃくちゃに詰めて、留め金をかけて一人で引きずって、ケースを穴に放り込んだ。
 さっちゃんは呆然とそれをただ見ているだけだった。
 フーガは三つトランクを穴に入れて、その上にどんどん土を被せる。
 それでも元のように自然にはならなかった。
 どうしても土を掘り返した跡が隠せない。
 上から木の葉をかぶせても、何をしても、そこだけ不自然になってしまう。

「帰ろう」

「お金は? このままじゃ、誰かに横取りされちゃうぞ!」

 さっちゃんは強い口調で言った。それは、そうかもしれない。
 フーガは少し考えて、持ってきていたビニールテープを掘り返した地面の周りに生えている木に縛り付けた。
 そして、ルーズリーフにマジックで、植生試験地、立ち入り禁止、と、できるだけ綺麗な字で書いて、それをセロテープで貼り付ける。
 ショクセイシケンチというのはこの森の多様性を守るために色んな草木を植えて育てる場所だ。
 同じように立ち入り禁止と書かれた立札が森の中にいくつかあったから、多分ハッタリとしてはそれなりに通用するものだろう。
 少なくともただ立ち入り禁止と書くよりは。

「子供だましにもならないぞ」

 その通りだったが、だったらこれを誰にも気づかれずに、ここから別の場所に動かすことが出来るのか、という問題もある。
 子ども二人でようやく持ち上げられるトランク三つ。
 しかもフーガもさっちゃんも電車できているから、家に持ち帰るにしても、電車に乗らなくてはならない。
 そうしたら余計に人目に付くし、その途中でこのお金が見つかれば、それこそ横取りどころの騒ぎではない。
 持ち帰るにせよ、このままにするにせよ、今日、この持ち物では、どうしようもない。
 それは確かなことだった。
 フーガがそれをさっちゃんに告げると、さっちゃんはなるほど、それもそうかと頷いた。

「じゃあ、どうするんだ?」

「わからない」

 フーガは正直に答えた。動揺しているのは事実だった。
 びっくりもしているし、それ以前に現実味がない。
 まだ自分でも何が起こったのか、何を見つけたのか、わかっていない気がする。
 もう少しちゃんと落ち着いて、考えたい。
 こんな土砂降りの雨の中じゃなくて、暖かくて、くつろげる場所で。

「とか言って、独り占めする気じゃないだろうな」

「そんなわけないだろ!」

 それは心外だった。いくらさっちゃんでも、そんなことを考えていると疑われるのは、流石に腹が立つ。

「そんなわけないな。悪かった」

 さっちゃんもそれがわかったのか、素直に誤りを認める。

「でも、こんなのすぐバレるぞ」

「わかってる。そんなに時間はかけない。とにかく今日は帰って、眠って、ちゃんと考えたいんだ」

「そうだな。オレも少し、疲れた」

 さっちゃんがそう言って、二人はエックス山をあとにした。
 泥だらけの雨合羽を駅で脱ぐ。
 それでも靴はどろどろで、下に着ていた服もびしょ濡れだったけど、二人はそれで電車に乗って、家に帰った。

1年前 No.12

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

 フーガが家に着いたのは四時頃だった。
 家に帰るとお母さんは泥だらけのフーガを見てお冠で、すぐにフーガを裸にひん剥いて、まずお風呂に入れた。
 その間に、手洗いで泥を落としなさいと、フーガの汚れた服をお風呂場に投げてくる。
 フーガはいちいちそれを受け取っては、蛇口でお湯を出して、石鹸でゆすいでいく。

 ひとしきり洗濯が終わって、それを洗濯機に入れ終え、自分の体もきれいにして、温かい湯船に浸かると、自然にふう、と声が出てしまう。
 とにかく疲れた。色々と考えなくちゃいけないことがあることはわかっている。
 わかっているが、何も考えたくなかった。
 不安を感じていることさえ、考えたくないくらいに疲れていた。

 お風呂から出て、部屋に行って、ベッドに横になった。
 それだけだったはずなのに、目が覚めたのは真夜中の午前三時だった。
 眠ってしまったのだ。結局作ってもらったお弁当さえ食べておらず、フーガはお腹がぺこぺこだった。
 台所に行くとフーガの分の夕御飯とお弁当がラップをかけたまま、残されていた。
 あまりの空腹に、温め直すこともせずに、冷たいご飯をかきこんだ。
 お腹が満たされると、少し落ち着いて、フーガは牛乳をコップに入れて、一口飲んで、昨日のことを振り返った。

 おじいちゃんの遺したものは、正義の味方の秘密基地の地図なんかじゃなくて、あの大金のことだったのだ。
 それはまあいい。そもそもおじいちゃんはそれが秘密基地の地図だなんて一言も言わなかった。
 フーガが勝手にそう考えただけだ。そうだったらいいのにな、と。

 それは多分、フーガ自身、そこにあるものが、何か嫌なものであるということを、おじいちゃんに頼まれた時から、バクゼンと感じていたからだと思う。
 おじいちゃんの頼み方は必死で、その内容は少し、怖いものが見え隠れしていた。
 フーガは自分で自分を騙して、怯える気持ちを隠して、自分にとって気持ちのいい空想に逃げ込んだ。
 だから、隠されていたのが正義の味方の秘密基地じゃなかったことについては、フーガはがっかりするくらいは構わないだろうけど、それでおじいちゃんを恨めしく思うのは筋違いだ。

 でも。

 あのお金は。
 おじいちゃんが燃やして欲しいと、誰にも見つからないように探し出して、燃やして欲しいと頼んだあのお金は。
 きっと、おじいちゃんが働いている間にコツコツ貯めた財産とかではない。
 じゃあ一体なんなんだ、とフーガは自分自身に問う。

――やめよう。

 考えない方がいい。明日、学校が終わったら――。

 あのお金は、さっさと燃やしてしまおう。それがいい。
 フーガはそう心に決めて、牛乳を飲み干して、もう一度、ベッドに戻った。

 そうして朝が来て、いつもどおり朝ごはんを食べて、フーガは学校に行った。
 下駄箱の前でさっちゃんに会う。
 さっちゃんはフーガを見るなり、その頭を脇に挟んで、無理やりトイレの個室に連れ込んだ。

「痛い痛い! もう、なんだよさっちゃん!」

「フーガ、いいか、よく聞けよ」

 さっちゃんはトイレの床にランドセルをおいて、その中から何かの紙を取り出して、フーガに見せる。

「あのお金、もしかしたら、すごくやばいかも知れない」

 さっちゃんが見せてきたプリントは、インターネットの何かのサイトの画面のコピーで、その一番上の見出しに『三億円強奪事件』と書かれていた。

「三億円事件くらい、フーガも知ってるよな」

 名前くらいなら、確かにフーガも知っていた。事件の内容もそこそこに知っていることはあった。
 確か、偽物の白バイ警官に変装した犯人が、ゲンキンユソウシャを運転する人たちに、この車に爆弾が仕掛けられている、と嘘をついて、調べるふりをして、運転する人たちを車から降ろし、車の下で発炎筒をたいて煙を出し、爆弾が爆発しそうだ、と周りから避難させ、自分が車にまんまと乗り込み、そのまま車ごとお金を奪ったという話だった気がする。他の強奪事件とは違って、誰ひとり傷つけられたものはいなく、余りにも鮮やかな犯行で犯罪史上に残る大事件だったとフーガは認識していた。確かずっと前にジコウが成立して、メイキュウ入りになったはずだ。

 さっちゃんがくれたコピーに目を通す。
 盗まれた額は当時の強奪事件としては最高金額だとか、現在の価値に直すと十億円に相当する、なんて文字がすぐにフーガの目にとまった。

「あのお金、多分、その事件で盗まれた、三億円だよ」

「まさか……」

 冗談でしょ、と言おうと思ったのに、言葉が上手く出てこない。
 それは、さっちゃんの言うことが、いかにももっともらしくて、あのおじいちゃんの態度とお願いの理由としても、しっくりくる内容だったからだ。
 それからさっちゃんは言いにくそうに、それでも心を決めたように、フーガの目を見て言った。

「お前のじいちゃん、三億円事件の、犯人の一人だよ」

 フーガは頭から水を浴びせかけられた気分だった。
 フーガはそれでもさっちゃんに否定のための疑問を投げかけた。

「三億円事件って、すごく昔の事件じゃなかったっけ?」

「一九六八年、今から四十七年前の事件だ。あの地図と同じ、大体五十年前だ。お札も福沢諭吉じゃなかっただろ。その頃、お前のじいちゃん何歳だよ」

 さっちゃんの質問に、フーガは一生懸命頭の中で計算する。おじいちゃんは七十七歳、そこから四十七引くってことは。

「三十歳くらい?」

「白バイ警官になりすました犯人も、それくらいだったって言われてた。しかもこの事件が起きたのは府中市なんだ。国分寺のすぐそばだよ」

 確かに府中市は国分寺市の隣にある。
 フーガは社会の時間にやった地元のことを調べる授業を思い出す。フーガ達が住む小金井市ともすぐそばにある。

「でも、犯人たちはお金をだまし取ったんでしょ? それに事件から五十年近く経ってるんだから、そしたらそのお金はもうきっと使い切ってなくなってるはずだよ」

「三億円事件のお金は出回った記録がないんだ。警察がお金についてる番号を全部控えて、どこかでそのお金が使われていれば、引っかかるはずなんだ。それがないってことは、今になってもまだ、そのお金は、どこかにそのまま、残されているはずなんだ」

 どこかに――エックス山に。

「でも、どうしてそれが、エックス山に?」

「自然保護区、だったからじゃないか。野草の盗掘を防ぐために、公表されなかった場所だろ。当然警察がたくさん来て、そこを荒らし回るってことも、ダメってことになるはずだ。今でこそあんなふうに開放されているけど、事件があった四十七年前、あそこはまだ秘密の場所だったはずだ」

「それじゃあ、ボクたち――」

 結局、どんな疑問をぶつけても、あそこに三億円があったという事実を前にしては、どれもこれも全く意味を成さない。
 だって確かに、あのトランクの中にはお金が入っていたのだから。
 そしておじいちゃんは、それを燃やしてくれと頼んだのだ。この世界に存在してはいけないものだと。

 なぜ――。

――それが、犯罪によって手に入れられたものだからだとしたら。

「うん」

 警察、行くか。
 さっちゃんは小さく言った。行けとは言わなかった。
 あくまでも判断はフーガに任せるという疑問の形だった。

1年前 No.13

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 フーガは考える。常識とか、正義に当てはめるなら、当然警察に行くべきだ。
 いや、そもそもあのお金が見つかった時点で、本当ならフーガはそうすべきだったのだ。
 誰か、もっとちゃんと事態を判断できる大人に、助けを求めるべきだったのだ。
 でも、もしここで警察に行ったら。
 多分、フーガのおじいちゃんが三億円事件の犯人だったという証拠が見つかってしまう。

「ねえさっちゃん、三億円事件って、確か、もうジコウになった、ミカイケツ事件だったよね」

「うん、そうだと思う」

 ジコウというのは、もうその事件を警察が捜査する期間が終わって、犯罪として裁くことができなくなったということだ。
 つまり、警察はもう、おじいちゃんをきっと、三億円事件の犯人として追求することはできない。できないと思う。

 でもきっと、世間の目はそれを許さないだろう。
 何せ今でさえたまにテレビで特集が組まれることもあるくらいの、五十年近く経った小学生のフーガでさえ知っているような、超有名な事件なのだ。
 その犯人が判明したとなれば、きっと大騒ぎになる。
 フーガたちは、その犯人の家族ということで、いろんな人に騒ぎ立てられて、多分この街から出ていかなければならなくなる。

――お前がもしこれを間違ってしまったら、お前の家族はバラバラになってしまうかもしれない。

 フーガはおじいちゃんの言葉の意味がようやくわかった。

「燃やしちゃおう」

 フーガは言った。

 フーガは今、正義の味方になる資格を永久に失った。
 フーガがしようとしていることは、間違いなく悪だ。おじいちゃんが昔行った犯罪を、インペイしようとするギソウコウサク。
 でも、フーガは正しいことを行う恐怖に負けて、安心できる悪事に逃げた。

 正義の味方に一番必要なのは、何よりも正しいことを行い続ける強い心だ。
 そして、その正義が一番試されるのは、悪と戦う時ではない。
 悪いことをしてしまったあと、あるいは、何か自分にとって悪いことが起きてしまったあと、それを隠さずに、取り繕わずに、正直に打ち明けられるかどうか。
 それをなかったことにしてしまいたい、隠してしまおう、バレなきゃいいんだ、という悪の囁きに打ち勝って、怒られることを覚悟して正直になれるかどうか。
 それが境目だ。
 正義の味方と、正義の味方になれない普通の人とを分ける、その境界だ。

 フーガは、悪の囁きに負けた。正義の味方にはなれない。
 ひ弱な心の、ただの普通の小学五年生でしかなくなった。

――だからフーガだったのだ。

 お兄ちゃんくらいの大人の判断が出来たら、まずおじいちゃんに地図を託されたところで、本気で宝探しをしようなんて絶対にしない。
 そして、フーガなら、その地図の場所を解き明かしたとして、三億円を見つけても使い道がない。悪用するだけの力がない。
 要するにフーガが子どもで、バカで無力だったから、おじいちゃんはフーガに託したのだ。

 おじいちゃんは――正義の味方なんかじゃない。

「それって、正義の味方のすることじゃないぞ」

 さっちゃんは言った。

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」

――そんなこと言ってる場合じゃないの。

 あのおじいちゃんが死んだ日、お母さんがフーガに言ったことだ。
 それと同じ言葉をフーガは今、さっちゃんに言っている。なんて便利な言葉だろう。
 実際に今がどういう場合かなんて関係なく、相手の言っていることの事情も関係なく、自分の都合の悪いことを、そういう場合じゃない、と片付けることができる。
 ジョウシキとか、当たり前とか、そういうぼやっとしていて、よくわからないものの名を借りて、自分にとって邪魔になるものを切り捨てる言葉だ。
 しかも相手にそんなこともわからないのか、と言葉に出さずに見下す感じが含まれている。
 さっちゃんだって、そんなこと言ってる場合じゃないことくらい、とっくにショウチしているに違いないのだ。
 それでも正義の味方を持ち出してくるのは、さっちゃんがフーガが正義の味方を志していることを知っていて、バカにしつつもその実現に協力してくれるからだ。
 さっちゃんはフーガの夢をソンチョウして言ってくれている。
 それなのにフーガは、正義の味方を、そんなこと言ってる場合じゃないと、子どもの遊びをやめさせる親と同じ言い方で、場合の問題で片付けてしまった。

 フーガはもう、正義の味方でも何でもない。
 今この瞬間、正義の味方は、フーガにとって、子どものお遊びでしかなくなった。
 フーガは正義の味方になる資格を失ったばかりではなく、それを本気で夢見てきた自分さえも裏切ったのだ。
 フーガの志はたった今、ただのごっこ遊びに過ぎなかったことになった。
 さっちゃんは何かを言いかけたけど、それをやめて、それでいいのか、とフーガに聞いた。いいのかどうかはフーガにはわからない。

「今日、学校が終わったら、もう一回、あそこに行こう。それで、全部終わりだ」

 さっちゃんは少し下を向いて、なんだかがっかりしたように、わかったと言った。

「お前のじいちゃんを、犯罪者にするわけにもいかないしな」

 さっちゃんは無理をするように笑って言った。
 大人の反応だと思った。本当はきっとフクザツな気分なんだろうけど、それをこらえて、フーガを安心させるために、笑ってみせる。
 フーガにはまだ、できないことの一つだった。
 実は、フーガは、本当はあれは、三億円事件のお金じゃなくて、おじいちゃんが正しい方法で集めた正統なる遺産かも知れないという可能性を捨てきれずにいた。
 万が一、いや、三億に一つくらいの可能性だったけれど。

 おじいちゃんがあくせく働いて、コツコツ気づいた財産を、フーガのために残してくれたのではないか、と。
 でも、そうだったとしても、あれだけのお金の存在は、きっとフーガたち家族の関係をカイメツテキに壊してしまうものになり得る。
 それに、正しいお金だったとしても、やっぱりおじいちゃんがそれを燃やしてくれとフーガに頼んだのは事実だった。
 そして三億に二億九千九百九十九万九千九百九十九は何らかの犯罪に関わるお金に思えるものを、もしかしたらそうじゃなかったかもしれない、というラッカンテキな考えで誰かに打ち明ける気には到底なれなかった。

 あのお金は、この世界に存在してはならないのだ。
 それがどういうものであったにせよ。

1年前 No.14

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四 不正義の活躍

 フーガはその日、学校が終わるとすぐに家を出た。
 お兄ちゃんはなぜかフーガが帰るともう家にいて、夕飯の準備をしていた。
 フーガはそのお兄ちゃんにちょっと遊びに行ってくると言い残して、マッチとロウソクとスコップと、懐中電灯と消火用の水にペットボトル三本分の水を持って出かけた。

 昨日のように駅にはさっちゃんの姿があった。
 やっぱり何も言わずに電車に乗り、そのまま恋ヶ窪駅で降りて、二人でエックス山を目指す。
 ビニールテープは張られたままになっていた。穴も、掘り返されたあとは特になかった。
 フーガはまず木にくくりつけてあったテープをさっちゃんと一緒に外して、リュックの中にしまった。
 それからフーガとさっちゃんは協力して穴を掘り返し、三つのケースを取り出して、中を開けた。
 改めて見ると、現実感がなくなるほどのお金だった。多分、きっと三億円。百万円の札束が三百個。一万円が三万枚。途方もない額だ。

「よし、さっさと燃やしちゃおう」

 さっちゃんが言った。フーガもその通りにしようと思って、マッチをこすって火をつける。
 森は昨日の雨で湿っていたし、火事とかにはならないと思っていた。大丈夫だ、これでおしまいだ。
 でも、いざ火をつける段になると、妙なためらいが生まれた。

 本当にこれでいいのか。これだけのお金、他に有意義な使い道はないのか。

「……フーガ?」

 さっちゃんが声をかけてきた。マッチの火が手元まで迫って、フーガは慌ててそれを落とす。
 湿った地面に触れて、マッチの火が消える。

「オレがやろうか?」

「う、ううん、ボクがやるよ」

 フーガがもう一度、マッチを擦ろうとしたその時だった。

「何やってんだ」

 声がした。
 さっちゃんも、フーガも度肝を抜かれた。
 何よりも見られてはいけない場面だった。今フーガたちがやろうとしていることも、そしてこの、三億円も。

 声の主は、お兄ちゃんだった。
 さっちゃんはフーガとお兄ちゃんの間を交互に見回した。
 フーガはびっくりした勢いで火のついたマッチを持ったままお兄ちゃんの方を見て完全に止まってしまった。動きも。頭の回転も。
 お兄ちゃんは、ただフーガの目をじっと見ているだけだった。
 やがてマッチの火がフーガの手元まで燃え落ちてきて、フーガは火傷しそうな熱さにようやく我に返ってマッチを慌てて離した。
 地面に落ちて、またマッチの火が消えた。

「何、やってんだ」

 お兄ちゃんは、さっきよりゆっくり、同じ言葉を繰り返した。
 フーガは答えない。答えられない。
 さっちゃんは何も言わずにフーガを見ていたけど、その様子はなんだかこの状況にしてはやけに落ち着いているように見えた。

「それ、何だ」

 お兄ちゃんはフーガたちの足元に広がっている、ケースに入った古いお札の束をちらりと見て、言った。

「どうしてそんなもの、お前が持ってるんだ」

 お兄ちゃんが一歩近づく。フーガは怯えたように腰を上げた。
 お兄ちゃんはどうしてここに現れたのか。
 今この状況で現れるお兄ちゃんは、フーガたちの味方か。
 おじいちゃんはずっと正義の味方だと思ってたけど、実はとんでもない犯罪者だったかもしれない。
 そしてそれの遺言を実行しようとしているフーガは多分、悪の手先だ。
 なら、ここで現れたお兄ちゃんこそが正義の味方なのか。
 フーガにはもう、誰が正義で悪で、自分がどっち側にいるのかわからなくなっていた。

 でもとりあえず、お兄ちゃんは今、フーガたちとは対立する立場にいる。
 戦わなくちゃいけない。
 フーガがまた、元の何もない、いつもどおりの毎日を取り戻すためには、この三億円はなかったことにならなくてはいけない。
 そう考えている間にも、お兄ちゃんはジリジリとフーガに近づいて、いつの間にか目の前に立っていた。
 そしてあっという間に、フーガの手からマッチを奪い取った。

「おじいちゃんが死んだ日から、ずっとなんか隠してると思ってたけど、こういうことだったんだな」

「おじいちゃんから言われたんだよ。燃やしてくれって。そうしないと、大変なことになっちゃうからって」

 わかってる、とお兄ちゃんは答えた。
 それから付け加えるように、もう十分大変なことなんだけど、と言った。

「でも、こんなの、ここで燃やしたら、それこそ大変なことになるぞ。これだけの量の札束、全部燃やしたら、すごく大きな火になるし、煙も出る。そうすれば誰かそれを見て、山火事かと思って消防に通報が行くかもしれない。そうしたら、秘密にするどころじゃなくなるし、お前は放火の罪に問われることになるんだぞ」

 それって、すごく悪い犯罪なんだからな、とお兄ちゃんは言った。
 フーガはわかってるよ、とムキになって答えたけど、本当はそんなことまで考えていなかった。

「もしそれで誰にもバレずに燃やせたとして、灰はどうするつもりだった? 紙幣の印刷は普通に燃えたくらいじゃインクの跡が残るから、灰をそのままにしておけば、ここを保全する人たちの誰かが気づいて、そこからこのことが明らかになるぞ」

 フーガは答えようもなくて、うう、とだけ唸った。
 お兄ちゃんの言うことはグタイテキで、筋が通っていて、フーガにもその通りだと思わせる説得力があった。
 自分の考えの足りなさを思い知らされている気分がして、嫌な気持ちだったけれど。
 それでもお兄ちゃんの言うとおりであることには違いなかった。

「なんで相談しなかった」

 そう言いながら、お兄ちゃんはフーガの手にマッチを返す。
 フーガはそれをどうしようか迷って、結局ポケットにしまった。

「それは……おじいちゃんに」

 いや、違う。確かにおじいちゃんは誰にも言ってはいけないと言ったのだけれど。そうすればひどいことになるからと。
 でも、フーガがお兄ちゃんにこのことを打ち明けなかったのは、単純にフーガが自分の空想の中で、自分が正義の味方で、お兄ちゃんは悪の手先だと思い込もうとしたからだ。
 そうであれば、自分はお兄ちゃんよりすごいと思えたからだ。

 フーガはお兄ちゃんを尊敬していた。自分が適うはずもないと思っていた。
 だからこそ、お兄ちゃんがセンノウされている悪の手先という妄想はフーガにとって心地よいものだった。
 お兄ちゃんを貶めることなく、自然にフーガがお兄ちゃんより優位に立つことができた。
 フーガは最初からお兄ちゃんのことを信じようとさえしていなかった。
 バカ、とお兄ちゃんは呟いて、フーガの頭にぽんと手を乗せた。

「いつも一人で抱え込もうとして。自分で助けてって言えないから、こんなことにもなるんだ」

 フーガの目から涙が落ちる。おじいちゃんが死ぬ時にフーガに渡してきた、とてつもなく重いものが、降ろされた気がした。
 フーガが気づかないうちにそれは、ずっとフーガを押さえつけて、辛い思いをさせていた。
 それを取り払ってくれた。お兄ちゃんが、今。

「泣くな。怒らないから」

「お兄ちゃん、ボク、一人で頑張ったんだよ、おじいちゃんに言われたから。秘密にしておかないと、大変なことになるって言われたから、誰にも知られないように……」

「お、オレもいたんだけど」

 泣きべそをかきながら言うフーガの言葉に、さっちゃんが慌てて付け加える。
 お兄ちゃんはさっちゃんの方を見て、ありがとうな、と言った。

「さっちゃんは本当にフーガのことよく見ててくれるよな。おかげでいつも、最悪になる前になんとかなってる。世話になってるな」

 はにかんだように笑うさっちゃんを見て、フーガはきょとんとする。

「お兄ちゃん、知ってたの?」

「昨日さっちゃんから電話もらってな。お前が相当やばいことしてるって、連絡もらったんだよ」

「さっちゃん?」

 二人だけの秘密と口にしたのはさっちゃんの方ではなかったのか。

「いやー、流石にお金のことが絡んでくるとなー。三億円事件のこと教えてくれたのはカノン兄ちゃんだし」

 フーガは道理でと思った。さっちゃんがそんな事件のことを詳しく推理したりするわけがない。
 さっちゃんは勘は鋭いけど、頭を使うのは苦手なタイプだ。
 フーガはそこで、自分が踊らされていただけのように思えて、なんだかバツが悪くてふてくされた気分になった。
 さっちゃんだって嘘をつかないみたいなことを言って、肝心なところでは結局約束を破るんじゃないか。
 おかげで助かったには違いないのだけど。

「そんな顔すんな。それより、これをどうするかの方が優先だ」

 お母さん譲りのユウセンジュンイだ。
 でも、こればっかりはフーガもその通りだと思わざるを得なかった。
 実際この三億円をこのままにしておくわけにはいかない。

「ここじゃ、燃やせないんでしょ?」

「そう。どうやったって人に見つかるからな。燃やしている最中にせよ、燃やしたあとにせよ」

「じゃあどうするの?」

 フーガが聞くと、お兄ちゃんはスマホを取り出して、誰かに電話した。

「うん、そう、なんとか確保できた。うん、誰にも見つかってないから、できるだけ急いで来て。うん、ありがとう、おじさん」

 聞こえてきたおじさんという言葉に、フーガは思わず身構える。
 おじさんというのはサトルおじさんのことではないだろうか。
 サトルおじさんとお兄ちゃんの組み合わせ。それは、フーガが悪の手先として思い描いていた二人組だ。

「今の、サトルおじさん?」

 フーガがそう聞くと、お兄ちゃんはああ、と答えた。

「おじさんの職場、すぐそこの清掃センターだよ。そこの焼却炉で、この三億円、跡形もなく燃やしてもらう。それなら誰にもバレないし、焼却灰からバレる可能性もほとんど無視できる」

 それから十分もしないうちに、おじさんがやってきた。

1年前 No.15

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1年前 No.16

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1年前 No.17

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「フーガ! フーガッ! 返事しろ!」

 お兄ちゃんが吠えるように叫んでいるのが見えた。
 フーガは声を上げる。

「大丈夫だよ、お兄ちゃん!」

 フーガの声が聞こえると、お兄ちゃんは一層大きな声で叫んだ。

「生きてるのか! 無事か? どこだ、今助けに行くから!」

 フーガは自分が持ってきたリュックの中に懐中電灯があることを思い出して、それを出して照らす。
 光を掲げるフーガの姿を見て、お兄ちゃんが泣いたような笑顔を浮かべた。

「フーガ!」

「はいはーい、感動シーン終了でーす。ここからは真剣な大人同士のお仕事の話にしましょーか」

 後ろから妙に気の抜けた、ふんわりした声がして、お兄ちゃんが鬼のような顔をして振り返る。
 あの女、サエキさんがヘラヘラ笑っている。

「ここで、焼却炉を運転させて、フーガ君もろとも三億円を燃えカスにするのは簡単です。でもそれじゃあサエキがここまでした意味がないしー、まず間違いなくそのあとサエキはみなさんにボコボコにされて警察に連れて行かれますね。全員殺して高飛びって選択肢もなくはないけど、平和主義のサエキとしてはそこまでしたくないでーす。バカみたいだし」

 もう十分バカみたいですけど、と自分で言って自分で笑う。

「それに、このことを警察沙汰にすると、みなさんも困るでしょー。なんせあの三億円事件のことがバレちゃいますからねー。それを隠蔽するためにこうなったのにぃ、結果的にフーガ君も助からず、しかも秘密も隠せないとなればー、それはそれでバカみたいな話でしょー?」

「もう、そんなこと言ってる場合じゃない。あんた自分が何してるのかわかってるのか!」

 お兄ちゃんはいつも冷静なお兄ちゃんらしくなく、怒った口調で荒っぽく言う。
 また場合の話だ。もうフーガは、今起きているのがどういう場合なのかすっかり理解の範囲を超えて、考えるのをやめている。
 フーガが今考えていたのは――結局正義の味方のことだった。
 問題、悪人が欲する三億円とともに、一人では脱出できない焼却炉に落とされた正義の味方は一体どうする。

「あれあれぇ、意外ですー、そんなこと言われるなんてー。みなさんこそ自分がしてること、どれだけ悪いことかわかってますかぁ、あの大犯罪の隠蔽工作を行おうとすることは、許されるのに、サエキのしてることは悪いことだって責めるんですかぁ? その善悪の基準はどこにあるんでしょうねー。笑っちゃいますよ」

 サエキさんは無邪気な声を上げてけらけらとお兄ちゃんを笑った。
 お兄ちゃんは悔しそうにぎりぎりと歯を食いしばる。
 サエキさんの言っていることは、認めたくないけど、間違いではない。
 そもそもがフーガたちのしようとしていることが、いや、おじいちゃんのしたことが間違っているのだ。
 ならばその上に生まれる行動をどれだけ重ねたところで、それは正しいものには絶対にならない。
 悪の土壌に正義の花は咲かないのだ。

「それにそんなこと言ってる場合なんですよ、今は。お互い得する選択をしませんか? つまり、みなさんはフーガ君を助けるために焼却炉に降りる、サエキは下にある三億円を回収するために下に降りる。それでみなさんがフーガ君を助けて、サエキが三億円を頂いて、それで今回の件は丸く収めませんかぁ? 誰も損しないでしょー? みなさんはそもそも三億円が欲しいってスタンスじゃないじゃないですかぁ。だからサエキが三億円を手にすること自体には、特に反対も賛成もないはず。ましてやフーガ君が助けられるんだから、それがベストじゃなくないですかぁ?」

 お兄ちゃんは、迷った。当たり前だ。実際これは、フーガの命が掛かっているのだから。

「このトランク落としますから、それにそこにあるお金入れてくださーい。入れ終わったらサエキが取りに行きます。ね、これで本当にめでたしめでたしじゃなくないですかぁ」

 サエキさんが乱暴にフーガのところに三つのトランクを投げつけてきた。
 ここにお金を入れれば、自分は助けてもらえる。
 サエキさんを見逃せば、全部なかったことにできる。

 でも、正義の味方なら――。

「それともサエキを人殺しにしますかぁ? フーガ君やそのお兄さんが素直にしてくれれば、サエキは何の罪も犯さなくて済むんですよぉ。それなのに、意地を張ってサエキを悪人にします? 助けてくれますよねぇ、本当はサエキだってこんなことしたくないんですよぉ」

――助けてくれますよねぇ。

 その言葉を聞いた時、フーガの心の何かに、火が付いた。
 それは損得で考えれば絶対損だし、器用な大人の考えでは絶対になかった。
 多分正しい考えでもない。でも、ここで悪に屈するのは――それこそ卑怯で、悪だ。

「お兄ちゃん、迷うことないよ。大丈夫だよ、サエキさん!」

 フーガは叫んだ。そしてポケットに入っているものを出した。
 それはマッチだった。あとさきのことなんて考えず、フーガは最初からこうするべきだったのだ。

「三億円は、あんたのものになんかならない!」

 フーガはマッチに火を点け、それを紙に灯す。
 あの日、おじいちゃんがフーガに託した、三億円の場所を書いた地図。
 フーガが本当に燃やすべきだったのは、三億円ではない。
 こんなふざけた地図を、おじいちゃんの罪の証を、フーガはくだらないと最初に燃やしてしまうべきだったのだ。

 隠すなら隠すで、燃やすなら燃やすで、さっさとケリをつけて、おじいちゃんは堂々と胸を張って、フーガたちのおじいちゃんでいればよかったのだ。
 こんなもの、こんな地図、隠して取っておいてないで、さっさと捨てて、忘れてしまえばよかったのだ。
 ましてやその処理をフーガにお願いなんてされても、困るだけだ。

 燃え上がる地図を見て、フーガは胸のすくような思いだった。
 それだけの思い悩みを詰めた、苦しみの証が、火を上げて焼かれていく。
 そして大きくなった炎をそのまま足元に広がる札束に燃え移す。
 火はみるみる広がって、焼けた札束が炎による上昇気流で宙を舞った。

「あーあ! やっちゃったよ、もう知らない」

 ヘラヘラ笑っていたサエキさんの顔がすべてを見下した冷徹な色に染まる。

「さよならです。サエキはなーんにも知りませーん。焼却炉運転させちゃいまーす。サエキはその間に逃げますけど、みなさんはせいぜいフーガ君の火葬が終わる前に救出の方法を考えてください。じゃーね」

 そう言ってサエキさんが奥に引っ込んで、何かをした。
 すると扉が勝手に締まり、ゴミが溜まっていた地面が崩れ落ちるように動き出した。
 ガソリンみたいな臭いが広がっていく。焼却炉が作動したのだ。

「フーガ、フーガ!」

「任せてよ、お兄ちゃん! サエキさん! ボクは、あんたに殺されたりしないよ! 正義の味方は、死なないんだから!」

 閉じていく扉の隙間からこちらを覗くお兄ちゃんに、フーガは笑ってみせた。
 その後ろで逃げる準備をしているサエキさんにも。

 そして、扉が閉じる。完璧に決まった。完全に正義の味方だ。
 フーガは命懸けのカッコ付けに心の中で勝ち誇る。
 そして終わった。フーガは閉じ込められた。稼働する、焼却炉の中に。

 いや、めげている場合ではない。フーガは何としても脱出しなくては。
 それがいかに口先だけのものだったとしても、サエキさんは確かに言った。助けて、と。
 ならばフーガは、それに答えなければならない。正義の味方を夢見た子どもの端くれとして。

 フーガは懐中電灯で辺りを照らす。こんなことで死ぬなんてまっぴらだった。
 何かどこかに出口があるはずだ。きっとお兄ちゃんたちが何かしてくれるに違いない。
 とにかくあきらめたら終わりなんだ。

 そして――正義の味方は、絶対に最後まであきらめない。
 フーガはもう正義の味方では決してないけど、それでも執念深く、しぶとくもがくのだ。

 焼却炉だって、初めからゴミを貯めているわけじゃない。
 まずそれを作る人がいて、ゴミを貯めて置く場所だって、点検するために、人が入る場所が存在する。
 あのサエキさんが言っていたじゃないか。誰も中には入れないなんて施設は、それこそ設計不可能だ。
 どこかに、人が行き来できるようになっているはずなのだ。

 そう思って壁伝いを照らすと、階段が高いところまで通じているのが見えた。
 フーガは流れ落ちるゴミをかき分けてそちらに移動していく。
 まるで絡みつく海を進んでいるようだった。そもそも立つことさえままならない。
 しかもゴミの波は、水よりよっぽど重い。そうこうしているうちに、だんだん辺りが熱くなってきた。

 それでもフーガはようやく、階段の手すりを掴んだ。
 じわっとした温かさに、残された時間の短さを知る。腕に力を込めてよじ登る。
 休むまもなく階段を上り始める。
 いくつかのドアがあったけれど、焼却炉の中からは開けることができないようだった。
 いや、それどころか、どのドアであっても焼却炉が稼働中なら、ロックが掛かっているから、ドアからの出入りはきっとできない。
 多分お兄ちゃんは大慌てで焼却炉を止めようとしてくれているだろうけど、おじさんがあんな状態だったし、そう簡単ではないだろう。

 下の方で、壁から炎が吹き出すのが見えた。
 マッチなんかより、よっぽど凄まじい炎の勢い。
 三億円はあっという間に粉みじんになったしトランクは一瞬でどろどろに溶けて燃え尽きていった。
 フーガは疲れと熱さから全身汗でびしょ濡れだったが、それでも階段を上り続けた。
 左右に折り返して登っていく階段の六つ目の踊り場をすぎ、三つ目のドアが開かないことを確認したところで、フーガは膝に手を付いた。
 だんだん息が苦しくなっているのは、走って辛いからだけじゃない。
 炎が燃えると酸素がなくなって二酸化炭素が出る。空気が足りなくなっているのだ。
 それに、その空気自体がすごく熱くなり始めていて、息をすることそのものが苦しい。

1年前 No.18

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――あとは焼却炉内につながる換気ダクトを通るしかないですけど。

 サエキさんの言葉が頭をよぎった。
 そうだ。炎は燃料だけでは燃えない。炎を燃やすためには、大量の空気が必要なのだ。
 フーガはサエキさんが説明してくれた清掃センターの仕組みと自分が習った理科の知識を頭で思い出す。

 まさかここでサエキさんに救われるとは思いもしなかった。
 しかし、あの人は確かに、焼却炉と換気ダクトは直接外と繋がっていると言っていた。
 フーガがその考えに至った時、猛烈な勢いで風を吹き付けている穴が目の前にあった。
 穴には格子がはまっていたが、フーガなら、小柄な子どものフーガなら、通り抜けることができそうだった。

 問題は、その熱だった。触れば、金属のダクトは、アイロン並みに熱い。
 ここに体をつけるのは、すごく抵抗がある。
 フーガは何かないか、と思って、そういえば、三億円を燃やしたあとの消火のために、ペットボトルの水を三本分持ってきているのを思い出した。
 一本を自分の頭にかけ、残りの二本をダクトの下側に注ぐ。
 まだ水が一瞬で蒸発するほどの熱ではない。
 しかしこれはこのあとどんどん上昇していく。迷っている場合ではない。

 フーガは身をよじってその格子の隙間に体を挟み込む。
 もったいないがリュックはここに置いていくしかないようだ。
 フーガは肩からリュックを下ろし、隙間を体で押し開ける勢いでねじ込む。
 前からは強烈な風で目も開けていられない。後ろからは猛烈な熱さが迫っている。
 それにダクト自体がやっぱりものすごく熱くて肌は火傷しそうだ。

 おじさんは大丈夫だろうか。サエキさんをお兄ちゃんはどうしただろう。さっちゃんもみんな、無事でいればいいんだけど。
 死にそうな状況に、フーガはいろいろ思って、そんな場合じゃないと思い直す。
 今はとにかく必死でこの換気ダクトに体をねじ込んで、一刻も早く焼却炉から脱出する場合だ。
 そうだ、今一番優先されることはサエキさんを逃げられなくすることでも、おじさんを心配することでもない。
 フーガがここから助かることだ。それだけを考えて、それだけは実現しなくてはならない。

 こうなってしまっては、それだけがみんなを助ける唯一の方法だ。
 フーガが死ねば、サエキさんは人殺しだし、フーガの人生もこれまでだ。
 おじいちゃんが隠し続けた三億円のことは隠し通せなくなるし、フーガの家族もバラバラになるだろう。
 さっちゃんだってきっと無事では済まない。だが、生きてここから出られれば、それを防ぐことが出来る。
 とにかくフーガが生き残ることで、決定的なハメツから、世界を救うことができる。

――それは、紛れもない正義だ。

 じりじり痛む肌を我慢して体を隙間に押し込む。上半身が通った。
 フーガはお腹を引っ込めて腰を通す。おしりが引っかかる。
 フーガは前に後ろに腰を振る。バキ、と鈍い音がしたと思ったら、格子が一本折れてしまった。
 でもそれでフーガの体は格子を通り抜けた。

 そのまま換気ダクトを這うようにしてとにかく外に向かって進む。
 風のする方が外に通じる道だ。明かりはなくとも、手探りで前へと進む。
 穴が上下に伸びていた。フーガは体を穴に突っ張って、全力で上へと這い上がる。
 縦の穴には焼却炉の方に向かって伸びる横穴がいくつか続いていた。
 多分どこかで大きなプロペラが回っていて、この縦穴は風を分散させるのと、ここで風と一緒に入ってきたゴミを落とすためのものだろう。
 フーガは懸命に縦穴を上へ上へと這い上がる。

 一番上まで来ると、急に、風の温度が一つ、下がった気がした。
 さっきより穴が広い。
 そして、フーガが登ってきたその後ろに、大きな換気扇が轟音を立てて回っていたが、それはどんどんゆっくりになっていく。
 止まりかけている。きっとお兄ちゃんたちが焼却炉を停止させたのだ。
 止まりそうな換気扇から振り返ると、外の景色が見えた。出口だ。

 出口の格子を思い切り中から揺さぶる。フーガは格子を突き破って、外に飛び出した。
 換気口の入口は、やや高いところにあって、フーガは頭から地面に落っこちてしたたかに身を打ち据える。
 でも、痛いってことは、生きてるってことだ。
 助かったのだ。フーガは生きて焼却炉から脱出できたのだ。

 フーガはまず大きく息を吸い込んだ。
 焼却炉の燃え盛る灼熱の空気に比べれば、夏の夜の蒸し暑さなんて、よっぽど涼しいくらいだ。
 焼け付くダクトの中を這って進んできたフーガには真冬並みの冷たさが恋しいくらいだった。
 冷たくて、吸い込んでも少しも苦しくない空気を吸っては吐いて吸っては吐いて、思い切り呼吸し尽くす。
 空気がある世界は素晴らしい、生きてて良かった、とフーガは心から思った。

 どうやら換気口は清掃センターの裏手に続いていたらしい。
 目の前にそびえ立つ巨大な煙突が、そそり立つ影のように空に向かって伸びていた。
 フーガは急いで正面に回って、お兄ちゃんたちを探す。

 辺りは騒がしかった。救急車に消防車が見えた。でもパトカーは見当たらない。
 同じく赤い警報灯をくるくる光らせて、それぞれに大きなサイレンを鳴らして。
 清掃センターの正面の入口に回り込むと、おじさんが担架に運ばれて救急車に乗せられるところだった。
 その脇で、お兄ちゃんが消防士の人に囲まれていた。

「お兄ちゃん!」

 消防の人を前に泣きそうな顔をして弟が、と説明していたお兄ちゃんに、フーガは駆け寄る。
 お兄ちゃんは目を丸くした。そして飛び込んでくるフーガを思い切り抱きとめた。

「フーガ、フーガッ!」

 お兄ちゃんが強くフーガの頭を握り締めて名前を叫んだ。

「フーガ、無事だったのか!」

 どこにいたのか、さっちゃんも駆け寄って声を上げた。
 抱きしめ合うフーガたちを見て、さっちゃんは、嬉し涙を流してよかったよかったと大声で泣く。

「どういうことだい? 焼却炉の中に閉じ込められた少年というのは?」

 消防の人が怪訝そうにお兄ちゃんに聞く。

「ボクです。自力で出てきました――」

 フーガの限界はそこまでだった。
 それだけ言い終えると、フーガは力尽きて、お兄ちゃんの体にズルズルと倒れ込んでしまった。
 意識はまだあって、立たなくちゃ、とは思ったが、体に力が入らなかった。
 お兄ちゃんがすごい顔をして、大丈夫かと叫んでいて、大丈夫と答えようとしたけど、唸り声のような音が漏れるばかりで、ちゃんとした言葉にならない。
 そのうちに世界がぐるぐると回りだして、フーガの意識はぽっかり浮かぶ月の彼方に飛んでいった。

1年前 No.19

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

 目が覚めると、病院だった。

 学校帰りらしく、ランドセルを背負ったさっちゃんと目があった。
 さっちゃんはフーガが目を覚ましたのを見て驚いたらしく、脇についているナースコールに手を伸ばしたかと思えば、看護師さん呼んでくると立ち上がったり落ち着かない様子だったが、結局自分で看護師さんを呼びに行って戻ってきたら、ようやく、フーガ、大丈夫か、と聞いてきた。

 その後さっちゃんは帰り、フーガはお医者さんにいくつか質問を受けたあと、お母さんたちに会った。
 怒鳴られることを覚悟していたフーガはまずお母さんがフーガの顔を見て泣き出したのにびっくりしてしまった。
 そして、お兄ちゃんを見てさらにびっくりした。
 お兄ちゃんの顔には殴られた跡があって、ガーゼが貼られていたからだ。
 フーガはすぐにあのサエキさんにやられたんだと思ったが、どうやら違うらしい。

「全くあんたたちは、いたずらでお義兄さんの清掃センターの換気扇の中に忍び込んで焼き殺されるところだなんて、お母さんを心配させるんじゃないの!」

「全くだ、退院したらげんこつだぞ! みんなにすごく迷惑かけたんだからな。カノンも中学生にもなって、そんな常識的なこともわからないのか、お父さんはがっかりだぞ!」

 お母さんとお父さんが大声でフーガを叱りつけた。
 フーガには全然なんのことかわからずきょとんとしていると、お兄ちゃんはいいから、というように口に指を立てていた。

「まあいいじゃん、フーガも無事だったんだし」

「いいわけあるか! 兄貴はお前たちが焼却炉に入ったって動転して転んで頭打って三針も縫ったし、その日当直だった部下の人は責任感じてやめちゃったんだからな。父さん菓子織り持って謝りに行ったけど、引っ越したあとで、もうどうやって謝りに行けばいいのか。退院したら清掃センターに謝りに行くからな。その時は二人共一緒に行くんだぞ」

 お父さんはそれからフーガの頭に手を載せて、抱きしめる。
 耳元で聞こえた心配かけやがって、という声は涙に歪んでいた。
 フーガはとりあえず事情が全くわからないので二人に怒られるままにしていた。
 その日はそれで経過観察ということで一日入院して、翌日も特に問題なかったフーガはそのまま退院することになった。

 事態がわかったのはそうして帰ってお父さんに一発げんこつをもらったあと、お兄ちゃんと一緒に子供部屋で反省ということで二人きりにされたあとだった。
 それは、お兄ちゃんとサトルおじさんで考えた、『そういうこと』にする作戦だったらしい。
 お父さんとお母さん、その他世間一般では、こういうことになっているらしい。

――フーガは社会見学で清掃センターに行った時に、男の子なら誰でも思うであろう、禁じられている焼却炉の中に入ってみたいという欲求を抑えきれず、兄弟で計画を立て、身内であるサトルおじさんが当直の日なら、バレても甘く見られるだろうという打算に基づいて、こっそりと外にある換気口の網を突き破り、焼却炉の中に入り込んでしまった。
 それを知らずにゴミの焼却をしていたサトルおじさんに、ヤバイと思ったフーガたちと一緒に来ていた少年(これがどうもさっちゃんのことらしい)が報告すると、焼却炉の中に甥っ子が入ったという事態におじさんは動転し、椅子からひっくり返って机に頭をぶつけ出血してしまった。
 一緒に清掃センターにいた職員(要するにサエキさんだが)は慌てて焼却炉の緊急消火装置を作動させ消防と救急車を呼んだということになっている。
 中に入った少年(フーガのことだ)はだんだんまずいと思ったのか途中で換気口を逆に戻り、消防が突入しようとしたその時、ちょうど脱出してきて、そのまま保護された。
 一連の事件はサトルおじさんの監督不行届ということでおじさんは主任から降格されたが、クビにはされずになんとか落着した。
 サトルおじさんは上司からたっぷり怒られて給料を結構大幅に減額されたらしく、サエキさんに至ってはフーガが焼却炉の中に入ってしまったというのがあきらかになったとわかると、いつの間にかその場から姿を消し、後日職場に、郵送で退職願が届いて、そのままどこかへ引っ越して今では行方もわからない――そうだ。

 お兄ちゃんとさっちゃんと、そしてフーガはそれぞれの両親からこってりと絞られ、その話の中では忍び込もうという提案をして、さらに年下のフーガをたきつけたということで、お兄ちゃんは二発、フーガは一発お父さんからげんこつをもらった。
 さっちゃんはあわや剣道道場破門の危機にまで瀕したらしいが、さっちゃんがおじさんに報告しなければ、フーガは助からなかったかもしれない、さっちゃんのおかげで助かったという、フーガのお父さんの説得で、なんとか剣道の師範には矛を収めてもらったらしい。
 サトルおじさんはどうしてちゃんと見てないんですか、とお母さんにきつく責められてビンタを食らったらしい。
 よくよく考えてみれば、お母さんたちが信じている話を前提にするなら、むしろその言葉はフーガたちのカントクセキニンを持つお母さんが、おじさんから責められるべきで、おじさんがそんなこと言われるのはどう考えてもおかしいのだが。

 おじさんは事件の中でサエキさんに頭を殴られて、三針も縫って、お父さんのげんこつなんかよりよっぽど重症で、その上仕事でも罰をもらっていて、そもそも事件については全く無関係であったことを考えると、怒り狂って当然なのに、それでもフーガたちに怒ってきたりしないことを考えると、もしかしたらおじさんはおじいちゃんの起こした事件のことを、知っていたのかもしれない。
 おじいちゃんを介護する生活の中で、それに関わる何か重大な証拠を見つけていて、それを密かに処分する機会を伺っていたのではないかと思う。
 全部フーガの妄想だから、証拠も、おじさんのそれらしい言葉の一つもないのだけど、なんとなく、事件の落としどころから、フーガはそんなものを感じた。

 一件は大事といえば大事で、消防と救急車を呼ぶ騒動にまでなった手前、新聞にも載っていて、それでも子どもの暴走を止められない大人という視点からの切り込みで、そこから三億円に結びつけたりするものは全くなかった。
 三億円のことなんて、誰も知らなかった。
 フーガがあんなにいろいろ悩んだり、あんなに危険で怖い思いをした大立ち回りの末に、灰になった、前代未聞の昭和の未解決事件の顛末なんて、誰もまるで知らなかった。

 サエキさんのことは警察に言ったのかと聞くと、お兄ちゃんは言えるわけないだろ、と答えた。

「サエキさんのしたことが警察に知られちゃったら、三億円のこともバレちゃうだろ。あの人はお金独り占めにしようとしておじさん殴って、お前を焼却炉に落としたんだから。こっちとしては、むしろあの人がちゃんと捕まらないでこのことのほとぼりが冷めるまで、警察とは何の関わりもなくそれなりに快適に生きててもらった方が都合がいいんだ。お前が死んでたら、ちょっと許せないけど、助かったし。それに元をたどれば俺たちのせいだし、巻き込まれたって意味ではあの人は被害者だ。あの人だって三億円なんてものがなきゃ、清掃センターでそれ相応に幸せに暮らせてたに違いないんだ。だからな、あの人のことはな、無視だ」

 冷静な目でフーガにそう言うお兄ちゃんは、いきなりいたずらっ子のような笑みを浮かべて、フーガの方に手を伸ばす。

「かっこよかったぞ、フーガ。お前は正義の味方じゃなかったかもしれないけど、立派に、自分の命と、おじいちゃんと、それからサエキさんを救ったんだ。偉かったな」

 お兄ちゃんはそう言ってフーガの頭を荒っぽくくしゃくしゃと撫でた。
 フーガにとってこれ以上ない褒め言葉だった。
 嬉しくてたまらなくて、叫びたいくらいだったが、フーガはただはにかんで、顔を赤く、耳の先まで真っ赤に染めてもじもじするしかできなかった。

 反省は一時間で、フーガたちはそのあと退院祝いのお寿司を食べた。
 お父さんとお母さんはずっとフーガたちをどれだけ心配して、どれだけ迷惑をかけたのか、叱り続けた。
 おめでたいんだか、おめでたくないんだかわからないお祝いだった。

 フーガはしばらくは物陰からサエキさんが突然あの天使のような優しい笑みを浮かべながら、手にトンカチを持って襲って来るんじゃないかとか、夜中に物音がするとサエキさんが屋根の上に潜んでるんじゃないか、とか、不安で怖かったのだが、一週間もすれば、それも平気になった。
 事態がバレればまずいのはサエキさんも一緒だから、そういう意味で言えば、上手く逃げられたあの人が、三億円を持っているわけでもないフーガを襲いに来るのは考えにくいことだった。
 結局のところサトルおじさんがちょっと職場で立場が悪くなって、お兄ちゃんやフーガや、さっちゃんがちょっと大人から色眼鏡をかけて見られるようになったくらいで、しかもそれも時が経てば、あっという間に忘れ去られるようなたぐいのもので、事件は本当にすぐに過去のものになった。

 あの事件は、ないことになったのだ。
 三億円と一緒に、燃え尽きて、灰さえも残らなかった。

1年前 No.20

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

五 四十九日

 梅雨も明けて、本格的な夏になり、フーガたちは夏休みをオウカしていた。
 全然、これまでと変わらない、小学五年生の夏休み。
 フーガはさっちゃんと市民プールで遊んで、その帰り道、裏手にあるエックス山が、ふと気になった。

 誰もあの日のことは、あの一連の事件のことは、何も言わなかった。
 お兄ちゃんも、さっちゃんも、サトルおじさんも。
 何事もなかったかのように、みんなが言うように、フーガたちがいたずらをしただけだったのではないかと、フーガ自身が錯覚するほど、それは遠く、幻のようなものになりつつあった。

「ねえさっちゃん。あの日のこと、覚えてる?」

 あの日のことが、どの日のことなのか、フーガは言わなかった。
 振り返ったさっちゃんは夏真っ盛りになっていよいよ真っ黒だった。
 着ているランニングの色が浮き出て見えるくらいに日に焼けている。
 フーガも少し焼けたけど、それでもさっちゃんの黒さには及びも付かない。

「ばーか、忘れるわけねーだろ。フーガが知らないところでオレがどれだけ苦労してたかとか、話してたらキリないし。大体、オレはあの時初めて嘘をつく羽目になったんだからな。正直が売りだったのに。剣道だって、本当は防具つけてない、しかも女の人なんて殴っちゃいけないんだ。あれはオレの一生のフカクだな。われながら、情けない」

 さっちゃんは呆れたように言った。
 後半はともかく前半については実際その通りだと思った。
 あの日のことが、今こうして、全くなかったことになって、フーガたちが日常にいられるのは、全てさっちゃんのおかげだった。

 さっちゃんが三億円を見つけた時に、お兄ちゃんに相談していなかったら、秘密はきっと誰かにバレてしまい、フーガのおじいちゃんが事件の犯人だと判明していただろう。
 そうすれば、フーガたちはこの街にはいられなかったに違いなく、こんな穏やかな夏休みなど、迎えられなかったかもしれない。
 もっとも、さっちゃんがあの日、恋ヶ窪駅でフーガに会っていなければ、フーガが三億円にたどり着くことはなかった。

 いや、その場合、自然保護区で伐採が定期的に行われているエックス山に隠してあった三億円が見つかるのは時間の問題で、見つかったあとは、結局そこからフーガのおじいちゃんが隠したのだとわかり、そのあとは大騒ぎになっただろう。
 それがフーガが小学五年生の時になるか、あるいはもっとあとになるかだけの違いで、世間にとって、おじいちゃんの正体が謎のまま、それに触れられることさえなく事件の幕が下りたのは、結局はさっちゃんがいたからだ。

「――そうだね、ありがとう。さっちゃん」

「なーに言ってんだか。熱でもあんのか?」

 さっちゃんはフーガの額に手を当てて熱を計る。

「へーねつ。っていうかオレの方が熱いし」

「いや、夢みたいだなって」

 本当に、夢みたいだ。フーガはそういう夢を見ていたんじゃないかと、たまに思う。
 おじいちゃんが死んで、そのことが精神的にショックだったフーガが、正義の味方になりたいという願望で作り上げた、ものすごい作り話。
 お兄ちゃんとサトルおじさんが作り上げた嘘の方が本当は現実で、フーガが知っている事実は、全部フーガの妄想なのではないかと。
 そう思うほどに、フーガの手元には、何も残らなかった。
 三億円も、宝の地図も。おじいちゃんは死んでしまったし、あのサエキさんも、どこかへ消えてしまった。

「夢じゃねーよ。オレたちがとんでもないものを見つけて、とんでもないことやったのも。お前のじいちゃんがしたことも」

 さっちゃんは言う。責めるような口調ではなかった。
 でも、そうなのだ。夢じゃない。
 おじいちゃんは、もしかしたら悪い人だったのかもしれない。
 正義の味方なんかじゃなく。大悪党と言っても過言ではない、歴史的犯罪の、犯人の一人だったのかもしれない。
 それを示す証拠はもう一つもない。何一つ。

 あの日、おじいちゃんがフーガに託したものは、何も残らなかったけれど、フーガはその託されたものを、一生胸に刻み込んで、生きていかなければならない。
 お父さんとお母さんが何も知らなくても。世間や社会が何も知らなくても。
 フーガは知っている。
 あの日、エックス山に隠されていた疑惑のお金と、それを確かに燃やしてくれと頼んだおじいちゃんの最期。

 きっと、誰にも打ち明けることはないだろう。でも、絶対に忘れることもない。

 フーガは夕焼けに染まるエックス山を見る。
 さっちゃんが行くか、と聞いてきたけど、行かないとすぐに答えた。

「今日、おじいちゃんの四十九日だから」

 早く帰って来いと言われているのだ。

1年前 No.21

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

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1年前 No.22

ゴン @gorurugonn ★yRn10TRCWH_pDw

――夢を見ていた。

 おじいちゃんの夢だった。
 夢の中でおじいちゃんがフーガに、すまなかったね、助けてくれてありがとう、と言っていたことだけ、フーガは朝の枕の上で、ぼんやりと覚えていた。
 それもお母さんにラジオ体操に行けと急かされてすぐに忘れてしまう。

 フーガは今日、サトルおじさんとお兄ちゃんに誘われて、さっちゃんと一緒に釣りに行く予定だった。
 喪中で夏まつりに行けなかった分、うんと楽しむつもりでいたので、待ちきれない気持ちだった。
 もちろんお母さんは知らない。
 お母さんはあれ以来、サトルおじさんとフーガたちだけになるようなことがないように、すごく厳しくなった。
 だから今日も、魚を持ち帰ったりはできない。その場で食べられるのだけ食べたら、あとは放流してしまう予定だ。
 お母さんにしてみれば、サトルおじさんの不注意でフーガが死にかけたことになっているからしょうがないのだが、フーガたちにしてみれば、サトルおじさんはむしろ、同じ困難をともに乗り越えた仲間のような感覚で、こうしてお母さんに隠れてでも、遊びに行けるのは純粋に嬉しかった。

 フーガの夏休みの予定はてんこ盛りだ。宿題も山のようだ。しかもフーガはまだ自由研究のお題を決めていない。
 釣りに行く車の中でなんとなくその話をすると、サトルおじさんが言う。

「じゃあ、エックス山の植物観察なんてどうかな。私は、一応あそこの保全委員の一人なんだけど」

『絶対反対!』

 フーガと、さっちゃんと、お兄ちゃんの声が見事に重なった。
 あんまり綺麗に揃ったので、車の中は一瞬無言になる。そのあと、みんなで弾けたように、笑いが起こった。

 あの山には、できればもう行きたくない。
 正義の味方も、しばらくはお預けでいい。

 フーガは正義の味方にはなれないかもしれない。
 でも、それでもいいやと最近思う。
 みんなちょっとずつ悪くて、誰も完全に正しい、正義の味方なんて人はいなくて、それでもちゃんと世界は回っていく。

 正しいことを目指すなら、フーガは警察に行くべきで、そうしていたら、フーガの日常は、カイメツテキに壊れてしまっていたかもしれない。
 フーガはそうならないために悪いことをした。その結果、それでもフーガの日常はずっと続いている。

 この国の社会にとって、三億円事件の最大の痕跡の可能性がある、そのお金が消えてしまったことは、きっと悪事なのだろう。
 正義のハイボクかもしれない。
 でも、それによってフーガは、フーガが住んでいる、ごく小さな日常という世界を、守った。
 悪人として裁かれる人を、誰ひとり生むこともなく、守りきった。

 正義の味方なら、きっと守れなかった世界だ。
 それは正義の味方になれない、ごく普通の、小さな悪意に負けてしまう平凡な小学生である、フーガにしかできない救い方だ。

 風見風牙(かざみフーガ)は普通の小学五年生だ。
 これといって挙げるべき特徴もない普通の子どもで、ごく当たり前の平凡な毎日を送っている。
 いや、少し普通の小学五年生と違うところもある。

 最近、自分の世界を救った。気にしてないがそれが原因で危ない子と思われている。
 みんなは知らないことだが、フーガは人目を忍んで自分の手の届く、ささやかな範囲の世界の崩壊を阻止したのだ。
 間違いなく自分の手で。

 元に戻った日常の世界で、フーガは今日も当たり前の毎日を変わらず過ごしている。
 自慢できることでも誇れることでも、そもそも人に言えることでもなかった。
 でもフーガは、そのことを一生忘れずに生きていくだろう。
 正義の味方をするということは、世界を守ろうとすることは、いつだって誰にも秘密なのだ。
 おじいちゃんの作ってくれた変身ベルトは、もうランドセルに入っていない。

 不正義遁走曲 (了)

1年前 No.23
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