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ピルグリムの唄 〜許しの讃歌〜【完結済み】

 ( プロ小説投稿城 )
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ゴン・優友・椎螺・碧月・御崎 ★8bRTE7eaVc_jJA

またまたゴン達です。以前合作のオズの方を投稿させていただいたんですが、これも別の合作になります。
ジャンプのスーパーダッシュ大賞の方に投稿させていただいたんですが二次選考どまりだったので、少し直してこちらに投稿します。
またまた十二万文字とかネット小説としたら鬼のような分量なんですが、最後までお付き合いいただければ幸いかと思います。
それでは一から本編スタートです。

2年前 No.0
メモ2014/05/17 16:29 : ゴン @gorurugonn★8bRTE7eaVc_dMG

碑文 >>1

【悪い噂話】 >>2

【プロローグ】 >>3

【1】 >>4 >>5 >>6 >>7 >>8

【2】 >>9 >>10 >>11 >>12 >>13 >>14 >>15 >>16 >>17

【3】 >>18 >>19 >>20 >>21 >>22

【4】 >>23 >>24 >>25 >>26

【5】 >>27 >>28 >>29 >>30 >>31

【6】 >>32 >>33 >>34 >>35

【7】 >>36 >>37 >>38 >>39 >>40

【8】 >>41 >>42 >>43 >>44

【9】 >>45 >>46 >>47 >>48 >>49 >>50

【10】 >>51 >>52 >>53 >>54 >>55

【11】 >>56 >>57 >>58 >>59 >>60 >>61

【12】 >>62 >>63 >>64

【エピローグ】>>65

【良い噂話】 >>66

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ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

 門を通り抜け、庭の芝が生い茂る緑の階段を昇っていきます。
 庭木はきれいに整えられ、中央には噴水もありました。手入れをされた花壇がかぐわしい花を咲かせています。

 アメリアはアンダンテさんたちを一旦ホールに案内しました。
 外観とたがわず、内装もそれは立派でした。天井にはきらきら光るガラスの照明がどっしりとありました。

「わぁ、アンダンテさん、すごいですねあれ」

「シャンデリアというのだよ。君、あまりきょろきょろするのじゃない。紳士たるものそんなはしたないことはしないものだ」

 そう言われてもフォルテ君には絢爛なお屋敷の全てが新鮮でした。眼が動くのを止めることができません。
 こんな豪華な家を、お話の中にも聞いたことがありませんでした。
 そして改めて、フィーネちゃんとぶつかったことを思い出し、再び弁償とか土下座という言葉が頭の中に踊ります。
 何とはなしに少し心配になってきました。

 しばらくすると、アメリアが二人の前にやってきて言いました。

「申し訳ございません。家内は大変立て込んでおりまして、しばらく応接室でお待ちいただきたいのですが……」

「お構いなく。しかし、我々はともかくミス・フィーネもお食事をとられていないのでは?」

 アンダンテさんはとぼけた顔をしています。要するに何か食べるものをくださいと言っているのです。
 アメリアは二人を食堂に通します。そして簡単な食事を運ばせるように指示しました。

「紳士ははしたない真似はしないんじゃないんですか?」

 フォルテ君は横目でアンダンテさんを見ながら言いました。

「紳士は親切の押し売りはしないのだよ。これはミス・フィーネを助けたことに対する正当な報酬だよ。借りは返さなければ。そして、貸したなら返す機会は用意しないと」

 アンダンテさんはしれっとした顔でひげをつまみながら答えます。

「そういうもんですか?」

「そういうものさ。無論君は食べなくても構わんよ。これは私の持論であって君がつきあうことはないのだからね」

 アンダンテさんが少し意地悪く笑って言います。
 フォルテ君はむくれて食べますよ、と答えました。素直なのはいいことだよ、とアンダンテさんは満足そうです。

 フォルテ君はフィーネちゃんのことが心配になりました。
 フィーネちゃんはお屋敷に着くと、どこかへ行ってしまいました。アメリアが呼ぶのにも答えず、白い猫を抱えたまま。

――きっとまた泣いているんだ。

 フォルテ君は思います。出会った時から、フィーネちゃんは泣いてばかり。
 フォルテ君はまだ一度も、その笑顔を見ていませんでした。

2年前 No.17

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

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2年前 No.18

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

 貴婦人はその言葉に笑みを浮かべます。

「そうそう、美味しい紅茶があるのです。ひとしきりお食事がお済みになったら、ぜひ」

「いいえ、どうぞもうお構いなく」

「どうか。あなた方がいなかったら、あの子はもしかしたら本当に死んでいたかもしれません。心から感謝しているのです。おもてなしさせてください」

「……ではお言葉に甘えて」

 失礼、と貴婦人は車椅子を押されて部屋を出ていきました。

「優しそうな人だね、アンダンテさん。アンダンテさんの口説きにも平然としてるし」

「良家の子女であれば、私の言い回し程度の受け流し方は心得ているものだよ。むきになる君がお子様だということだ。……ところで君はその両手のパンをどうにかしたまえ」

 はあい、とフォルテ君がいっぺんにパンを口に詰め込みます。ほっぺたを膨らませてまるでリスのような顔になりました。
 そこにどこからか慌ただしい声が聞こえてきます。

『ああ、奥様! お客様のおもてなしは我々がいたしますので!』
『お願い、せめて紅茶だけでも入れさせて頂戴。フィーネを助けてくれたあの方たちに、何か恩返しがしたいの』
『ご無理をなさらないでくださいませ。私が車椅子を動かします』

「――やっぱり良い人だね、アンダンテさん」

 微かに聞こえてくる微笑ましいやり取り。それを聞いてフォルテ君は確信して言いました。

「ああ、そのようだね」

 今度はアンダンテさんもしっかりと答え、ようやくフォークを取りました。
 そしてごちそうを食べようとした時です。またもや慌ただしいやり取りが聞こえてきました。どうやら玄関のあたりです。

『旦那様! 今までどちらにいらしていたのですか!』
『や、やあ、おはよう。ちょっと教会まで散歩をね』
『あれ程お嬢様の捜索は我々に任せるように申し上げたではないですか。服もそんなに汚されてしまって』
『う、うむ……。しかしじっとしていられなくてね』

――フィーネちゃんのお父さんかな?

 会話を聞きながらフォルテ君は思いました。そうしてちょっぴりフィーネちゃんを羨ましくも思いました。
 フォルテ君の両親はもういません。母親にはお墓もなく、父親は記憶さえありませんでした。

「――いいお家だね、アンダンテさん」

 その気持ちを振り払うように、フォルテ君は言って、笑いました。

「ああ、とても」

 アンダンテさんはそれに答えるように微笑みを浮かべます。

「それにしても、フィーネちゃんは来ないのかな……」

 フォルテ君が心配そうな顔をしてぼそりと呟きました。やっぱり悲しいんだろうな、とフォルテ君は思います。
 あんなに勢いよく食べ散らかしていた手も、いつの間にかぴたりと止まっていました。

「おや、この肉は食べないのかね。食べないならもらうが」

「たっ、食べますっ! 休憩してたんだよっ!」

「そこまで一生懸命に食べなくても。まるで普段私が、ロクに食べものを与えていないかのようじゃないか」

「こんなに美味しいものは初めてだよ。いつもかたいパンや干し肉とか、ほとんど味のしないスープばっかりじゃないですか!」

2年前 No.19

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

 小声で言い合いながら、二人は用意された料理をすっかり食べ終えました。
 そんな二人のやりとりを、車椅子の貴婦人は嬉しそうな顔をして眺めていました。
 そして、食べ終わった頃を見計らって食堂に入り、四つのカップとティーセットと、焼き菓子の入ったお皿が置かれたお盆を、机の上にことり、と静かに置きます。

「仲が宜しいのね。大変いいことだわ、仲睦まじいというのは」

「とんでもないことでございます奥様。彼はともかく、私は子供や男や男の子供と睦まじくするような破廉恥なことはいたしませんよ。そう見えたのだとしたら大変恐縮ですが全くの誤解でございます。私が睦まじくしたいのは奥様のようなお美しい女性だけですよ」

「ほほほ、面白いことを仰るのね。さすが旅人さんだわ。坊や、お砂糖はいくつ?」

 貴婦人は洗練された動作でポットからカップに紅茶を注ぎ、フォルテ君に尋ねました。

「あっ、紅茶! ええっと、じゃあ、四つ!」

「欲張りを言うのじゃないよ。すみません一つで十分です」

「構いませんよ。あなたは?」

「私は五つでお願いします」

 アンダンテさんは真剣な顔で言いました。

「オレより多く頼んでるし」

「負けてたまるものか。紳士たるもの常に全力を尽くすのだよ」

「ふふふ、本当に楽しい方々だこと。どうぞ。お砂糖四つですよ」

「ありがとうございます奥様! いただきまーす……熱っ!」

「君。こんなに湯気がでているんだ、熱いのは当たり前だろう」

「あらあら。熱すぎたわね」

 そんな風に三人が談笑しているところに扉を叩く音が聞こえます。夫人は主人ですわ、と微笑み、どうぞ、と声を上げました。
 ドアから出てきたのはこざっぱりとした清潔な服を着た男性。眼鏡の下の目を細めて満面の笑みを浮かべた優しそうな顔。
 それでありながら立派な風格が漂っています。

 紳士ってこういう人のことだよな――。

 フォルテ君はちらりと自分の師匠の方を見て考えました。自称紳士のアンダンテさんとはどこか違う雰囲気があります。
 そのアンダンテさんは静かに立ちたまえフォルテ君と言いました。フォルテ君は挨拶をするんだ、と慌てて立ち上がります。

「あなた方ですか、フィーネを助けてくださったのは。保護者として、お礼申し上げます」

「いえいえ、私たちこそごちそうをいただきまして。旅人などという卑しい身には有り余る程のおもてなし。恐悦至極に存じます」

「ああ、そういえばあなたは旅人でしたか……私は現在この屋敷の主であります、ヨハネス・ブラームスと申します。こちらは妻のクララです」

「私はアンダンテ、これはフォルテといいます」

 アンダンテさんはフォルテ君の頭にさりげなく手を当てました。フォルテ君は慌てて頭を下げます。
 それを見たクララ夫人は、また楽しそうに笑いました。

「旅人さんですか……間近で見るのは初めてですな」

 ヨハネス氏は眼鏡を正してアンダンテさんをまじまじと見ました。

「結構なことです。旦那様のような高貴なお方が、私たちのような下賤な輩とかかわりを持っているなど、誉れ高きブラームス家に泥を塗るようなもの。お見せできるような芸もなくて申し訳ない。ああ、しかしこのフォルテ君は芸達者なので御所望とあれば裸で踊りますが」

「ちょっと、何言ってるのアンダンテさん! だ、だんなさまどうかまにうけないでください!」

 フォルテ君が使いなれない敬語でたどたどしく言うと、ヨハネス氏は静かに笑いました。

2年前 No.20

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

「失敬。いやいや、楽しい方々だ」

「あなた、そんな興味津々の目で見ないで。失礼ですよ」

「ああ、失敬」

 おほんおほん、と咳ばらい。そしてヨハネス氏は真面目な顔つきになりました。

「本当に、フィーネのことは何と申し上げればわからない程に感謝しています。あなた方は恩人だ。本当は彼女の口から伝えなければならないのだが、ありがとうございます」

 ヨハネス氏は握手を求めました。アンダンテさんは恐縮です、と握手を丁重にお断りしました。
 ヨハネス氏は少し残念そうでしたが気を取り直して椅子に座ります。アンダンテさんとフォルテ君も再び座り直しました。

「今晩はここに泊まってくださいな。今晩と言わずしばらく滞在してください。だってフィーネの恩人さんですもの」

 クララ夫人が口元をほころばせてそう言いました。

「とんでもない。お食事までいただいて、その上厚かましくも寝床までもいただいてしまったら、私たちはこの先一体どうやってその恩を返せばいいのか見当もつきません。お気持ちだけで」

「いえいえ、恩返しに困るのはこちらの方ですわ。姪の恩人を大してもてなしもせずに返しただなんて、それこそブラームス家の家名に恥じます。ぜひお泊りになって」

「そこまで言われては断るのが逆に心苦しくなりますね。しかし、ご厚意とはいえ、やはり何もしないというわけには――」

「それでは――お仕事の依頼ということでは? 報酬として我が家でおもてなしし、旅に必要なものもいくらか用意します。その代わりに、あることをお願いしたいのですが」

 思い切ったようにヨハネス氏が言いました。

「ピアを――あの猫を、埋葬していただけませんか?」

――お安いご用です。

ヨハネス氏の申し出に、アンダンテさんが二つ返事で頷きました。
その時。

「ち、ちょっと待ってください!」

 フォルテ君は慌ててティーカップを机に置き言いました。突然の音にクララ夫人はとても驚いた顔をしました。
 アンダンテさんは眉根を寄せてフォルテ君を見つめます。
 静まり返る応接間。静寂の中でフォルテ君本人が一番戸惑っているようでした。

「え、っと……その……」

 上手く言葉が出てこないフォルテ君。それを責めるでもなく優しい顔つきでヨハネス氏は目を細めます。
 何故だか申し訳なさそうに苦笑いを浮かべながら。彼の言葉を遮ろうとはせず、ただ静かに次の言葉を待ちます。
 誰もしゃべらない沈黙の中。
 フォルテ君は、深呼吸を一つ交え小さく頷きました。

「フィーネちゃんが……」

 やっと紡ぎだされた一言。アンダンテさんは容赦なく短いため息を返します。
 しかしそれだけで、苦言を呈したりはしませんでした。代わりに口を開いたのはヨハネス氏です。
 顔の前で手を組み、柔らかな眼差しでフォルテ君の方を見ます。

「フィーネが? あの子が、何か」

 ヨハネス氏は何か切実な顔つきで問いかけます。そんな真剣な様子で聞かれると、フォルテ君も言葉に詰まってしまいます。
 別に、フィーネちゃんの気持ちがわかるわけでもありませんし、そもそも彼女とは今朝あったばかりで、言葉さえロクに交わしていないのです。
 それでも、今になって、何でもないです、とは言えませんでした。
 しばらく考え込んで俯いていた顔をぱっと上げます。真っ直ぐな目でヨハネス氏と向き合い、フォルテ君は言いました。

「ピアは、フィーネちゃ……さんにとって、とても大切な友達、家族なんですよね? それなのにフィーネちゃ……フィーネさんっ、の話を聞かないまま、そんな埋葬だなんて……そんなの、いいわけないじゃないですか!」

2年前 No.21

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

 フォルテ君の耳は、真っ赤です。けれど彼の表情も声も、真剣そのものでした。
 フォルテ君は、自分の母親のことを思い出していました。
 自殺者だからというだけで、ごみ焼き場で焼かれた骨。埋めることも、撒くことも許されずに、弔ってくれる場所を訪ね歩く日々。
 フォルテ君は埋葬の大切さを知っていました。弔いはその命にかかわった全てのものが、別れを受け入れるための儀式です。
 それが、一番親しかった人の意向を無視して進められていいはずがありません。
 そんな姿にクララ夫人は真っ先にハッとしたようでした。そうね、と小さく呟いた彼女に、三人の視線が移ります。

「一番、大切なことを、置き去りにしたままね。私たちは」

 クララ夫人は静かに言います。フォルテ君は大きく頷きました。

「しかし」

 制すように、黙り込んでいたアンダンテさんが口を開きました。誰に目を向けるでもなく、呟くように言葉を続けます。

「どうするつもりかね」

 出過ぎた真似をするなとも、無礼なことを言うなとも言いません。
 ただ、君に何か考えがあるのかね、と静かに問いかけるのです。
 冷静な眼差しにフォルテ君の熱はさっと冷めていきます。アンダンテさんの目はフォルテ君を見てはいませんでした。

 また水を打ったように、しいんと静まり返る部屋。
 フォルテ君は一人考えました。どうするべきか、ではなく単純に自分はどうしたいかを。
 そして少し難しく、フィーネちゃんはどうしてほしいかも。
 しかし、これだ! と言えるような解決策は一つも出てきません。それでも――。
 彼は机についたままの両手を軽く、きゅっと握り締めました。

「……話して、きます」

「話す?」

 そこでやっと、アンダンテさんがフォルテ君の方を見ました。

「はい。あの、少しだけ、時間をください。ピアの埋葬、少しだけ、待ってください。オレ――フィーネちゃんと、話してきます。ピアのこと、きちんとお別れできるように」

 フォルテ君もまた、真っ直ぐにアンダンテさんの目を見据えます。アンダンテさんはそれには答えませんでした。
 しばらくして、ヨハネス氏とクララ夫人に視線を移しました。

「――という、申し出なのですが、宜しいでしょうか?」

 恐る恐る、フォルテ君も二人の方を見ます。怒られるのではないかと心の中ではびくびくしていました。
 しかし、二人は迷う素振りすらなく、笑顔で頷きました。途端にまた、ぱっと明るい表情でフォルテ君は笑います。

「あ、ありがとうございます! オレ、行ってきます!」

 フォルテ君は叫ぶなり部屋をどたばたとかけ出していきました。慌ただしい彼を見送りながらアンダンテさんはぽつりと言います。

「彼はミス・フィーネの部屋を知っているのだろうか……」

 言うまでもなく、フォルテ君はそんなのは知りません。玄関までやってきてようやくそのことに気づきました。
 そして、フィーネちゃんの部屋はどこですか、と尋ねて回ります。ぺこぺこと何度も、頭を下げながら。

2年前 No.22

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

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2年前 No.23

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

「……オレは、うん。……いやだな」

 フィーネちゃんは扉の方を見ました。

――その向こうにいるであろう、フォルテ君の方に目を移します。

「そばにいてくれる人が、泣いてたら……夢どころじゃなくて、不安になると思う」

 途切れとぎれに、フォルテ君は言います。
 自分が言ったこと、言おうとしていること。それを必死に頭の中で整理しながら、言葉を考えます。

「どうせなら……笑ってて欲しいな。そうしたら――あ、大丈夫なんだ、って安心する。いい夢も、きっと見られる」

 一人で言いながら、こくこくと頷くフォルテ君。
 フィーネちゃんはもう一度、胸の中の猫に目を向けました。

「だからさ、笑っていようよ。いつまでも、泣いてたら、ピアは安心して、寝てられないよ」

「……うるさい」

 え、と呟くフォルテ君に、フィーネちゃんはもう一度、うるさいと怒鳴りました。

「フィーネちゃん?」

「あなたに何がわかるの? パパもママも死んじゃって、ピアも死んで、私、もう一人きりだわ! 家族はもう誰もいない! みんな私のことなんて置いて、どこかに行ってしまう! 大体、あの時、あなたとぶつからなかったら、今頃私はピアを捕まえて、ピアもきっと、生きて、今も、一緒に……。一緒にいられたに、違いないわ! あなたとぶつかったから……そこから全部、おかしくなっちゃったのよ!」

 泣きながら息に詰まりつつそれだけ言うと、扉の向こうのフォルテ君はしんと黙ってしまいました。

 言い終わってから、フィーネちゃんは猛烈な後悔に襲われました。
 フォルテ君はフィーネちゃんにどれほど優しくしてくれたでしょう。
 井戸に落ちた時だって、無傷で済んだのはフォルテ君がいたからです。それなのに――。

「……オレも、家族、いないよ」

 フォルテ君は唇をぎゅっと噛んで、ぽつりと言いました。
 フィーネちゃんは小さく、え、と聞き返します。

「父さんのことは覚えてもいないんだ。気がつけば母さんと二人きりで。でも母さん、オレを残したまま自殺しちゃってさ。それで、お墓も作ってあげられないんだ。どこの共同墓地でも、自殺者は入れられないって。だから、教会から下賜される免罪符を買うために、アンダンテさんと一緒に旅をして、お金を稼いでるんだ。免罪符があれば、母さんの自殺も許されるから」

――お墓、作ってあげようよ。

 そう言うフォルテ君の声はとても優しく、それだけに悲しいものでした。

「ピアが安らかに眠れるように、綺麗な寝床を。フィーネちゃんはそれができる人なんだから。オレと違って」

――フォルテ君は。フォルテ君も。

 その声の様子に、フィーネちゃんが、今言ったことが彼にとってどれほどひどいことだったかを痛感しました。
――謝らなければいけない、そう強く思いフィーネちゃんはゆっくりと部屋の外へ出てきました。
 ごめんなさい、と白い猫を抱えたまま、頭を下げます。

「本当に、ひどいことを言って、フォルテ君は励まそうとしてくれたのに、ごめんなさい」

 フォルテ君は慌てて両手を振り、本当に大丈夫だよ、と返します。
 フィーネちゃんはふ、と笑いました。泣きはらした目でしたが、それは確かに笑顔でした。
 フォルテ君が初めて見るフィーネちゃんの笑顔。
 それは泣き顔より、ずっとずっと素敵に見えました。

「……ピアをね、眠らせてあげなきゃいけないの」

 その言葉にフォルテ君は短く、うん、とだけ返しました。

「……叔父様と、叔母様に心配かけちゃった。謝らなきゃ」

「……うん。心配してたからね」

――あの二人はフィーネちゃんのお父さんとお母さんじゃないんだ。

 フィーネちゃんはさっき、パパとママは死んでしまったと言っていました。
 きっと不幸なことが続いていたのです。塞ぎこんでしまうのも無理はありません。

「……アンダンテさんにも、お願いしなきゃ」

「……うん。言ってたからね」

 返事が単調になってしまっているフォルテ君。
 それがおかしくてフィーネちゃんはまたくすりと笑います。
 フォルテ君はばつが悪くて、指で頬をかきながら目をそらします。
 そんなフォルテ君にフィーネちゃんは手を差し伸べました。

「……こっち」

「……あ、案内してくれるんだね。ありがとう」

 フォルテ君はやや顔を赤らめて、その手を取ります。
 そして食堂へ引き返します。ゆっくりと、フィーネちゃんと二人で。

2年前 No.24

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

 お屋敷は本当に広く、フォルテ君には到底道を覚えきれません。
 食堂は一階。フィーネちゃんの部屋は二階。だからそこを行き来する途中に階段があるのはわかります。
 しかし、このお屋敷の階段は普通の廊下にもありました。
 いいえ、このお屋敷には階段がない廊下はほとんどありません。
 そう言っても間違いではない程、あちこちに階段があるのです。

 階段のわきには、必ず段差のない坂道が横に並んでいました。きっと車椅子のクララ夫人への配慮なのでしょう。
 壁にはこの家の人たちの絵が至るところにありました。大きな花瓶に見たこともない花が活けられています。
 それを見るにつけ、フォルテ君はこの家のすごさを実感しました。

 二人はようやく食堂に着きました。ヨハネス氏とアンダンテさんが何か話しているのが見えました。
 さすがに声までは聞こえません。フォルテ君はフィーネちゃんにしー、と人差し指を立てます。

「邪魔をしちゃいけないから、じっとしていよう」

 そう言ったものの、フォルテ君は話が気になって耳を澄ませます。
 何を話しているんだろうと思いました。ヨハネス氏の顔は真剣そのものといった様子です。

「……せめて……一目だけでも、会わせてやることが出来たなら」

 ヨハネス氏がそう言ったのが、ようやくフォルテ君に聞こえました。
 しかしアンダンテさんは静かにその続きを制しました。
 ヨハネス氏は不審に思って部屋の中を見回します。すると入口に立っている二人と目が合いました。
 フォルテ君は慌てながら、何かをごまかす様に頭を下げます。
 フィーネちゃんの方はどこか気まずそうに、笑ってみせました。

 ヨハネス氏がフィーネちゃんを優しく呼びました。
 彼女はおずおずとそちらに歩いていきます。胸には白い猫を抱いたまま。
 その小さな体を夫人はそっと抱きしめました。そして優しく彼女の頭を、髪を撫でます。

 言葉はありませんでした。感触を確かめるように何度も何度も繰り返し撫で続けます。
 夫人の目にはうっすらと涙が浮かんでいました。
 ヨハネス氏もその場に屈み込みました。そしてそっと添えるように、フィーネちゃんの頬を撫でます。

「すまなかったね。……わかってやることも、できなくて」

 フィーネちゃんは小さく首を振りました。

――フォルテ君が呼びに来てくれなければきっと、誰も部屋にいれなかった。

 そう思うからです。
 こんなにも心配してくれる二人でも。きっと会おうとは思わなかったでしょう。
 そんな自分の思いに、彼女の小さな胸はきゅっと痛みました。

 フィーネちゃんはヨハネス氏たちと目を合わせようとしません。
 ヨハネス氏とクララ夫人はその思いが痛い程わかりました。
 二人もまた苦しみを秘めているのです。フィーネちゃんと同じように。
 夫妻は互いに顔を見合わせ、困ったように笑いました。二人には子供がいませんでした。
 だからこんな時にどうすればいいのかわかりません。

 アンダンテさんはそんなぎこちない三人を静かに見ていました。
 そして近付いてきたフォルテ君をちらりと見て言います。

「立ち聞きは、あまり行儀がよくない、と……教えなかったかね」

 フォルテ君は、冷や汗をかきながら負けじと弁明します。

「邪魔をしちゃいけないって、気を遣ったんですよ」

「……成程?」

 それ以上は続けませんでした。アンダンテさんは目を細めてフォルテ君を見ます。
 何も聞いてこないし、何も言いません。それがかえってフォルテ君には居心地が悪く感じられました。

「だ、だから、その」

 言い訳を言おうとしても後が続かず、しどろもどろになるばかり。
 アンダンテさんはフォルテ君など気にかけるそぶりもありません。

「まあいいだろう」

 その一言で、短すぎる会話を無理矢理終わらせます。

「喜びたまえフォルテ君。ヨハネス氏のご厚意でしばらくここに逗留できることになった。さしあたって……」

 アンダンテさんはそこで切って席を立ちました。そしてフィーネちゃんの抱える白い猫に目を向けます。
 彼女や夫妻にも聞こえるように、言葉を続けます。

「葬儀を行いましょう。……フォルテ君、必要なものを揃えてきてくれたまえ」

 葬儀、という言葉に、フィーネちゃんの体は強張ります。
 不安げにまた、白い猫を見つめました。静かに眠り続け、もう二度と目を覚まさない猫。
 じっと見つめる程、また目には涙が滲み始めます。涙が零れないように、瞬きを我慢しようとしても、無理でした。

「必要なもの?」

 フォルテ君は尋ね返します。

2年前 No.25

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG


 フィーネちゃんのことは気がかりです。
 しかしここは家族三人だけにしてあげるべきだと思いました。
 それよりも、自分は自分ができるだけのことをするしかない、と。

「祭壇はこの家の礼拝堂を使わせて貰おう。墓碑には庭の楡(にれ)の木を。棺を作るから板が必要だ……わかるね。それと、花も忘れないように」

 どのような板かも、どんな花かも、伝えません。
 それでもまたか、とフォルテ君は思います。
 経験上、それとなく用意すべき物の見当を付けることは出来ます。
 雑用を任されているんだな、と心の隅でフォルテ君は思いました。
 しかし、わかりましたと返事をします。

「アンダンテさんは?」

「ご遺体を整える。私にしかできないからね。葬儀は五時から始める。それまでに帰ってきたまえ」

「はい」

 着々と話は進んで行きます。それは、この猫とのお別れが近付いていることに他なりません。
 頭では、フィーネちゃんもわかっているのです。
 ここでアンダンテさんの申し出を拒むことは、わがままなのだと。

 それでも、いやでした。離れたくない、そう思わずにいられないのです。
 フィーネちゃんは思うように動けず、肩だけを小さく震わせます。
 抱きしめる白い猫を、クララ夫人がそっと撫でます。
 驚いて顔を上げると、ようやく夫人と目が合いました。夫人は目を合わせたまま、優しくフィーネ、と名前を呼びます。

「お見送りを、しましょう。……ありがとうって、お祈りしましょう。そうすれば……いつかまた、会える日が来るから。きっと」

 フィーネちゃんはぽろぽろと、止めどなく涙を流します。そしてまた俯きます。
 泣き続ける彼女に、フォルテ君が堪らず近寄りました。
 クララ夫人は少し、車椅子を引いて後ろに下がりました。フォルテ君とフィーネちゃんが向き合えるように。
 フォルテ君はその気遣いにむしろ、顔を赤らめました。しかしにっこりと笑って言います。

「大丈夫だよ。アンダンテさんは優しいから。ピアをきれいにしてくれるよ」

 伝え残してフォルテ君は部屋を出ていきます。
 その途中で軽く、アンダンテさんを肘で小突きながら。
 そんな弟子にアンダンテさんはあからさまに顔をしかめます。
 フィーネちゃんは不安げな顔でその様子を見ていました。
 アンダンテさんはその視線に気づくとため息を一つ。
 それからできる限り、穏やかな顔を作って、彼女に近付きます。

「さあミス・フィーネ、最後のお別れをしましょう」

 アンダンテさんはそっと、フィーネちゃんに傅いて手を取ります。
 けれどフィーネちゃんはまだ、不安そうな顔をしていました。
 白い猫を預けることも、まだ踏み切れないでいます。
 クララ夫人とヨハネス氏がそっと、彼女の肩に手を添えました。
 フィーネちゃんは二人の方を交互に見上げます。
 二人はそっと微笑んで一度頷きました。大丈夫、と言い聞かせるように。

 フィーネちゃんは一度、胸の中の猫をぎゅっと抱きしめました。
 それからアンダンテさんとしっかり目を合わせます。
 そしてようやく、その雪のように白い猫を彼にそっと預けました。

2年前 No.26

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

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2年前 No.27

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

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2年前 No.28

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

「そんなことないよね、ピア……」

 フィーネちゃんは寝返りを打ちました。もう目が覚めてからこれが何度目でしょう。
 フィーネちゃんはお葬式の途中に眠ってしまったようでした。
 気が付いたら自分のベッドの中で眠っていました。
 ぐっすり寝てしまったためでしょうか。眠らなくちゃと目を瞑っても少しも眠くはなりません。

――一日でたくさんのことが起きてしまったせいかもしれない。

 フィーネちゃんは思いました。遠くの部屋でボーン、ボーンと時計が鳴る音が響きます。
 十二回の鐘の音を聞いて、もう真夜中なのだと驚いてしまいます。
 きっと、もう誰もが寝静まっているに違いありません。
 しんと静まり返った部屋の中。自分の息の音が大きく感じられます。
 無性にどきどきして喉が渇いてきました。

 水を飲みに行こうと、フィーネちゃんは起き上がります。
 そっと冷えた床に素足を下ろすと気持ちよく感じられました。
 まるで泥棒が歩くように静かに静かに廊下を歩きます。その時に、本当に寂しくなりました。

 昨日まで、こんなふうに夜に歩く時もピアがいてくれたのに。
 今ではそのピアもいないのです。もちろんパパもママも。
 そう思うとまた、何とも言えない感情が胸に押し寄せます。

「……ええ、あの子もわかってくれると」

 フィーネちゃんはふと、足を止めました。どこからか誰かの話し声が聞こえた気がしたのです。
 しかしこの時間に起きている人がいるはずがありません。気のせいだろう、そう思って再び歩き出しました。

「いくらこの街に留まっておられるとはいえ、ここまでいらっしゃるのは難儀なことだったでしょう。何せあなた方の今いる世界と、こちらは、文字通り階層が違う。ヤコブの梯子を昇る苦労お察しいたします。このたびはご足労頂き、恐縮です。ブラームス卿」

 その声にフィーネちゃんはどきりとしました。
 その不思議な声と会話をしているのは、アンダンテさんでした。
 それは昼間余裕そうに会う人会う人を口説きまわっていた彼とは全く違い、とても丁寧で、慇懃な口調でした。

 フィーネちゃんは隠れるようにして声の居場所を探します。
 ヒュルル、と風が吹き込む音が聞こえました。中庭のちょうど、今日ピアを埋葬したという楡の木の下あたり。
 古びたカンテラが枝の一つに吊り下げてありました。そこに二つの影が浮かび上がっています。
 一つの長い影と、そして、まるで猫のような形をした影。

 フィーネちゃんは慌てて庭の奥に目を凝らしました。
 影の主は簡単に見つかりました。アンダンテさんと、その前に座る一匹の猫。
 しかし、さっきの声の主の姿はどこにも見当たりません。

 アンダンテさんを、下から睨みつけるような一匹の黒猫。
 尻尾は長く、細い猫らしい体は思わずピアを彷彿とさせます。
 ただピアと異なるのはその体色です。漆黒の闇に溶けこんでいきそうな立派な濡れ羽色の猫でした。

――アンダンテさんは誰としゃべっているんだろう。

 フィーネちゃんはそれを探すようにじっと窓を覗き込みました。
 おさまらなかった喉の渇きはいつの間にか消えていました。
 今は会話から耳を離すことができません。
 フィーネちゃんはそっと裸足のまま中庭に出ました。茂みに隠れ、聞き耳を立てます。
 真夜中の内緒の会話は、とても無視できるものではありません。

「いいえ、こんなことは、大したことではありません。グリッサンドに生まれたものにとって、階段を昇るなどということは、日常茶飯事です」

 猫の口から聞こえた声に、フィーネちゃんは思わず悲鳴を上げそうになり、寸でのところでそれをこらえ、ごくりと大きく喉を鳴らしました。
 猫がしゃべったから驚いたのではありません。
 その猫の声は――、ブラームス卿の、フィーネちゃんのお父さんのものに違いなかったからです。

「こんなことになって、さぞお困りでしょう。ミス・フィーネは間違いなくブラームス家に流れる女預言者の血を引き継いでいる。ブラームス家の血脈は、この地の天へと続く門を支える柱だ。彼女が塞ぎこんでしまったことで、その柱が傾き、ここの門を通って天へと召される魂の多くが、足止めを余儀なくされている」

 アンダンテさんの言うことは、フィーネちゃんには全く分かりませんでした。
 しかし、猫は――ブラームス卿は、その通りです、と答えました。

「せめて、あの子にこの家のことを教えてから行くことができればよかったのですが、本当に間の悪い時に災難に遭ってしまいました。この街に溜まった魂は人々の心に不安と猜疑を植え付けています。どうにかしないと、本当に祟りになってしまう」

「ご安心を。そのためにフォルテ君とお嬢様に井戸に落ちてもらったのです。お嬢様の愛猫そっくりに成り済ました伯爵を追わせ、井戸の中にピアそっくりの死体の人形を置いてね」

 ピアそっくりの死体の人形――?

 フィーネちゃんはそれがどういうことなのか、詳しく聞きたくてたまりませんでした。

「本物のピアは教会に導きました。いずれお嬢様はご自分で彼女を見つけるでしょう」

「ミスター・アンダンテ、このような姿になってまで、あなたに救済を求めるのは筋違いとはわかっておりますが、私達には他にどうしようもないのです。私たちの死は、フィーネの柱も、教会の司祭様の柱も砕いてしまった。どちらか片方でも残っていれば、時が解決したでしょうが、両方とも砕けてしまっては、門が塞がってしまいます。修理できるのは、あなたのような旅人しかいない。どうか、あなたの背で、この街の罪を支えてください」

 ブラームス卿は、必死な声でアンダンテさんに訴えかけます。
 アンダンテさんは静かに承っております、と答えました。

「私達は旅人(ピルグリム)。元よりこの旅は罪を負い続ける巡礼の道です。重い罪を背負う程に、私達の歩みは強くあることができるのです。お気になさいますな。さあ、これ以上は、あなた方の魂を損なってしまいます。ブラームス卿、今日はお帰りください。後のことは私達にお任せあれ」

「お願いします、どうか……娘を、頼みます。あなただけが……」

 やがてブラームス卿の声は途切れていき、最後にはただの猫の鳴き声になってしまいました。

――行かないで、パパ、私、ここにいるよ。ここにいるんだよ。

 フィーネちゃんは叫びたい気持ちを必死で抑えます。
 誰に言われたわけでもないのに、今日のこの夜の密会は、秘密にしなければいけないのだと心で理解していました。
 きっと、声を出した瞬間に、それは夢のように消えてなくなってしまうに違いないのです。
 フィーネちゃんはそれでも切なくて、泣きたい気分でした。

2年前 No.29

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

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2年前 No.30

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

「もう言い訳も出てこないのかね、アドルフよ。なぜお嬢様に本当のことを言わないのだね」

「それは……彼女に『試練』が必要だからだよ」

「試練?」

 フィーネちゃんは心の中で伯爵が尋ねるのと同じように呟きます。

「一体、何の試練だね?」

 伯爵はフィーネちゃんの思いを代弁してくれました。

「私はね、あの子を救いたいのだよ」

「……救う?」

 フィーネちゃんは呟きます。それを代弁するように、伯爵もアンダンテさんにそう尋ねました。
 月光に照らされるアンダンテさんは、どこか寂しそうでした。

「生きているものを、生きているうちに救いたいのだ。彼女は今、許すことができない呪いにかかっている。自分を一人残した両親を許せず、自分の差別する街を許せず、何よりもそれで自分自身を許せなくなっている。それをどうにかしたい。彼女が自分自身を、畢竟他者を許せるように、救いたいのだ」

「そのお嬢様を騙しているお前が救済を口にするかね。お前が手を貸すまでもなくお嬢様は救いを得るだろうよ。彼女にはそもそも何の罪もないのだから」

 フィーネちゃんには伯爵の言葉の意味がわかりません。

「お前に生きた人間は救えない。だってお前は『死者のための音楽を奏でるもの』なのだからね。あのお嬢様はお前の弟子が救うだろう。所詮血の通ったものは血の通ったものにしか救われないのだ。お前の肌の下に赤い血は流れていないよ」

 ヒュルルと風の音が大きく聞こえました。月光の下の一人と一匹の間を、荒々しく吹き抜けていきます。
 フィーネちゃんは途端に胸が苦しくなるような気がしました。

「自分の罪に正直でいられないものに許しは訪れないよ。――アドルフ、こんなことをいつまで続けるのだい?」

「免罪譜を手に入れるまで――少なくともあなたが消えるまでは続けなければなるまい」

 伯爵はくつくつと笑います。

「許されることのない罪を背負ってせいぜい遠くまで逃げるがいい。お休み、アドルフ。また会おう」

 伯爵が立ち上がって振り向きました。フィーネちゃんは慌てて茂みにしゃがみこみます。
 しかし、その拍子に服が枝に絡まってしまいました。ざわ、と大きな音が中庭に響きます。
 するとアンダンテさんはその音に気づきさっと立ち上がります。
 フィーネちゃんは逃げようとしました。しかし、すっかり腰が抜けて思うように動けません。

「これはこれはミス・フィーネ。フォルテ君との話を聞いていませんでしたか? 立ち聞きはあまり行儀がよくないと申し上げたはず――」

 片手にカンテラを持ったアンダンテさんが近付いてきます。
 その真っ黒な目がフィーネちゃんの魂を吸い込むようでした。
 フィーネちゃんは恐ろしくて言葉すらまともに出てきません。

「私の首の痕が見えますか。何を弔っても消えない私の罪の証だ」

 アンダンテさんはその時ネクタイを外していました。ワイシャツの胸もはだけていました。
 彼の首周りには見るのも痛々しい赤黒い縄の痕。まるで毒々しい蛇が巻き付いているようです。

「首の縄の痕が意味することがわかりますか。私の罪がわかりますか」

 首括りは処刑の証。首を括られるのは罪人、しかも重い罪に科せられる刑罰です。
 人殺し、放火、強盗――許されない罪の証。フィーネちゃんはあまりの恐さに叫びそうになります。

「ミス・フィーネ、あなたは今夜見たことを何も覚えていない。しかしあなたが今日葬儀の時に味わった違和感の正体を、あなたはわかっている。私の言葉がわかりますね」

 フィーネちゃんは首を縦に振ることしかできません。
 アンダンテさんは宜しい、と言いました。そして、カンテラの明りをふ、と吹き消します。
 それとともに景色は真っ暗闇に包まれました。

 もう目の前にアンダンテさんの姿はありません。
 そもそも自分が今どこにいたかもわからなくなりました。
 何を見ていて、何を聞いていたのか思い出せなくなっていきます。
 何がどうなっていたのか、必死に思い出そうとします。
 しかし記憶はあっという間に漏れ出して消えていきました。
 まるで手のひらに水をくむように。思い出す先から、わからなくなっていきます。

――あれ、さっきアンダンテさんは誰と話していたんだっけ。いいえ、そもそもアンダンテさんって誰?
 それよりも、そんなことを考えてる私は誰?

 わからない。

――わからない。

2年前 No.31

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

【六】

「……ん、あ、私……」

「おはようございますお嬢様」

 見慣れた部屋。見慣れたベッドの上。見慣れたアメリアの顔。何もかもがいつものようです。
 フィーネちゃんはベッドの上でしばらくぼんやりとしていました。
 何かとても大事なことを思ったはずなのです。フィーネちゃんは一生懸命思い出そうとしました。

「アメリア……、ねえアメリア」

「どうなさいました?」

 フィーネちゃんはベッドから出て机の上を見ました。それから引き出しの中を確かめて、戸棚も開けて探します。

「パパとママからいただいた万年筆、知らない?」

 アメリアは何かを思い出すように黒い瞳を斜め上にあげます。

「昨日、お疲れで眠ってしまわれたお嬢様のお召し変えをいたしましたのは、このアメリアでございます。僭越ながら申し上げれば、その時のお持ち物の中に万年筆はございませんでした」

「……そう」

 目に見えてがっくりしているフィーネちゃん。
 アメリアは何とか励まそうと思いました。でもいい言葉が出てきません。

「お召し物をご用意いたしますね。皆様お待ちかねです」

「いいわ、アメリア。ご飯はここに持ってきて。……、ごめんなさい。叔父様と叔母様にも」

「……かしこまりました。至急ご用意いたします」

 アメリアは腰の位置で手を重ねてお辞儀をします。そして静かに部屋を出ていきました。
 アメリアがいなくなると急に静かになった気がしました。何だか部屋が広くなったように感じられます。
 こんな時そばにいてくれるピアが、今日からはいないのです。フィーネちゃんは最後に見たピアを思い出します。

 白い棺の中で眠るようにうずくまったピア。生きていたのは、最後はあの井戸に落ちる光景。
 光る万年筆をくわえて――あれ。
 何だか妙な違和感。フィーネちゃんはその違和感を受け流すことはできません。
 これはおかしいことなのです。何がおかしいのか、考えなければ。何かとても重大なことが、今見えた気がしたのです。

――ピアは、どうして逃げたんだっけ。

 私が川に行って、家に帰ろうとした。その時に万年筆が流されていることに気づいて。
 ピアはそれを追って。私は追いかけて。ピアは万年筆を川から取った。そして更に逃げた。
 ピアは万年筆をくわえていた。そして。井戸に落ちた。
 その時はくわえていたかしら。その後、フォルテ君と一緒に井戸に落っこちた時。
 その底で見つけたピアは。死んでいた。そして万年筆を、くわえていなかった――。

 井戸の中に忘れてきてしまったのでしょうか。そうかもしれません。
 フィーネちゃんはピアが死んだのがとてもつらかったのです。ピアの体以外は何も目に入っていませんでした。

――でも、もし。

――井戸の中に万年筆がなかったら。

 フィーネちゃんは寝巻のまま部屋を飛び出しました。
 屋敷のメイドやフットマンがその姿に思わず手を伸ばします。
 その手をかいくぐって、フィーネちゃんは食堂に駆けつけました。

 早朝からの全力疾走にさすがに息が上がっていました。
 しかし、食堂にいた客人の姿に、そんなものはすぐさまどこかに行ってしまいます。

「やあ可憐なお嬢様、今みんなであなたの話をしていました。来ていただけると、信じていましたよ」

 客人――アンダンテさんは振り向きます。その黒いひげを少し引っ張りながら。

2年前 No.32

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

その横でパンを頬張っているフォルテ君にフィーネちゃんは話しかけます。

「ふぉ、フォルテ君、あの井戸の底に万年筆はあった?」

 突然の質問にフォルテ君がぽかんとします。
 フィーネちゃんはもう一度繰り返しました。

「お願い、大切なことなの。あそこに、井戸の底に、万年筆があった?」

「はひゃっひゃひょほほふほ」

「フォルテ君、はしたない真似はやめないかね。口の中のものを飲みこみたまえ」

 アンダンテさんが言います。フォルテ君は口をもごもご動かして、ゴックンと飲み下しました。
 それから、今度は聞き取れる言葉で言いました。

「なかったと思うよ。オレは上がる時に、忘れ物がないかよく見たし、だから万年筆があれば気づいたと思うよ」

 その言葉に、目眩がするような感覚に襲われました。それは希望であったかもしれません。
 でも、落っこちていくような感覚は絶望にも似ていました。

「アンダンテ、さん……、あなたが昨日埋葬したピアは」

 さて、とアンダンテさんは涼しげな顔で言います。

「私はあの猫を埋葬しただけであって、彼女をピアだとわかるのは君だけだったからね」

 会話としては成立していません。ヨハネス氏と、クララ夫人には何の事だかさっぱりでした。
 でもフィーネちゃんには十分です。フィーネちゃんはパンを一つつかんで振り返ります。
 そして即座に食堂を出て行こうとしました。そこにアメリアが立ちふさがります。

「アメリア、どいて。私、ピアを探しに行くわ!」

「いけませんお嬢様! そのような格好でお客様の前に出ていらして、そのお姿で出かけるおつもりですか?」

 ハッとしてフィーネちゃんは自分の恰好をあらためました。
 真っ白なワンピースのフリルのついたパジャマ姿です。髪も寝ぐせのまま。靴も履いていません。
 思わずフォルテ君の顔を見てしまいます。するとアンダンテさんがフォルテ君の眼を隠していました。

「……ごめんなさいアメリア。ごめんなさい叔父様、叔母様。着替えてきます。その後食事を」

「あ、ああ、そうしなさい。何にしても、元気そうで何より」

 ヨハネス氏は困ったように笑うと、夫人も同じように笑いました。
 フィーネちゃんはアメリアを従えて、部屋に戻ります。

「どうされたのですか、お嬢様」

「ピアは生きてるかもしれないの」

 その言葉にアメリアは聞き返すこともできません。

「探しに行くわ」

「それならば、わたくしがお供いたします」

「アメリア、これは私の問題だから……、あなたに迷惑をかけたくないの」

「ダメです。もしかして井戸の中に探しに行くおつもりですか? お一人でどのようになさるおつもりです?」

 アメリアはにっこりと笑います。

「そうね、お願いするわ。協力して」

「お安いご用です」

 フィーネちゃんはすぐに着替えて食事を済ませました。ピアのことを思うと居ても立ってもいられませんでした。
 そしてヨハネス氏とクララ夫人に出かけることを告げます。二人は特別引き止めたりすることはありませんでした。
 むしろフィーネちゃんが元気になったと喜んでいたようです。

 扉を開けるととてもいい天気でした。心地よいそよ風が栗色の髪をなびかせていきます。

「行きましょう」

 アメリアは大きなトランクを持って静かに従います。
 二人は途中で庭のパラソルの下に二人の客人の姿を見つけました。

2年前 No.33

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

「ご機嫌よう、ミス・フィーネ、ミス・アメリア。今日も今日とてお美しい。特にミス・アメリア、あなたの黒曜石のように澄んだ瞳はたまらない。いかにも貞淑なメイド服の内側に、どのような熱を孕んでいるのかと思うと、私はこうしてタバコの消耗がいつもの三倍にも上ってしまうほどです。ところでその出で立ちはどちらかへお出かけかな?」

 パイプから煙を燻らせながらアンダンテさんが尋ねます。その横でフォルテ君は何やらせっせと書き物をしているようです。

「ええ、ちょっと街の下まで行って参ります」

 アメリアはアンダンテさんの前半の口説き文句には全く触れずに、顔色一つ変えずに答えます。
 その答えにアンダンテさんは「ふむ」とだけ答えました。

「ところでフォルテ君は何をしているの? それは日記?」

「その通り。字の読み書きの練習も兼ねてね」

 フィーネちゃんの問いに答えたのはアンダンテさんでした。

「わわっ! み、見ないでよ!」

 フィーネちゃんはフォルテ君の抱える本を覗き込もうとしました。
 するとフォルテ君は慌てて自分の腕の中にそれを隠します。

「まあいいじゃないかフォルテ君。どうせ君にしか読めない暗号みたいな字面なんだから」

「ひ、ひどいやアンダンテさん! これでもかなり上達したんだぜ!」

「それじゃあ何かミス・フィーネに言葉を贈ってみたまえ、ああそうだな、君、君の名前、どうせフォルテとしか名乗っていないのだろう? いい機会だからフルネームで教えて差し上げなさい」

「え? え!」

 そんな無茶な! とフォルテ君はアンダンテさんを見ました。それからフィーネちゃんを見つめます。
 やがてフォルテ君は、鬼のように難しい顔で何かを書きました。
 そして俯いたままフィーネちゃんに渡します。それを読んだフィーネちゃんは少し眉をひそめました。
 しかし、やがてフッと吹き出しました。後ろから覗くアメリアも可笑しそうにクスクスと笑っています。

「……ふむ。君は一体何と書いたのだね?」

「だから、クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(Clavicembalo Col Piano E Forte)って……」

「成程、そう言われればそう読めないこともないが……Fが左右逆になっているしチェンバロのチェにhは不要だ」

「ふんだ、どうせオレは自分の名前もロクに書けませんようだ」

「フォルテ君の名前って、とっても長いのね」

 フィーネちゃんは感心したような声で言いました。

「長いほうが旅人として格式があるとか言ってさ。アンダンテさんが後からいろいろ足してくんだよ。ただのフォルテでいいって言ってるのに」

 フォルテ君はむくれてそっぽを向いています。そんな彼をよそにアンダンテさんは時に、と二人に尋ねました。

「その用事というのは、お帰りは遅くなるのですか?」

「どうでしょうか。わたくしは仕事もあるのでそれまでには帰るつもりです」

「ふむ……それは些か心許ない。フォルテ君」

「な、何ですかあ、アンダンテさん」

 ペンを鼻と上唇で挟んで口をつきだしているフォルテ君。さっきのことでまだむすっとしながら答えます。
 アンダンテさんはなおも、それを気にするそぶりすら見せません。

「君、お二人にお供したまえ」

「え? ちょっとアンダンテさ――」

「ミス・フィーネ、宜しいかな?」

「私は嬉しいですけど、フォルテ君はあまり行きたくなさそう……」

「だ、そうだが? フォルテ君」

「な、何言ってるんですかアンダンテさん! オレは最初から行くつもりだった!」

「というわけでお二方、荷物持ちでも汚れ仕事でも何でも使ってやってください」

 何だか上手く言いくるめられたような気もします。

「ありがとう、フォルテ君」

 フィーネちゃんが満面の笑顔で言いました。フォルテ君の違和感はその一言に吹き飛んでいきます。
 何せ泣いてばかりいたフィーネちゃんです。その彼女に飛び切り素敵な笑顔で言われたら断れません。

「それからミス・アメリア、少し電話を貸していただきたいのですが……」

「あ、はい。玄関の脇にあるのを自由に使ってもらって構いませんよ。それでは行って参ります」

「感謝します。お気をつけて。フォルテ君、くれぐれも失礼のないようにしてくれたまえよ」

「わかってますってば!」

 三人は芝で作られた緑の階段を降りて、門から出ていきます。
 その姿が見えなくなるのを確認し、アンダンテさんは立ち上がり、つかつかと速い足取りで庭を横切って玄関を目指します。

2年前 No.34

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

 玄関には質素な電話機がぽつりと置かれていました。
 アンダンテさんはらくだ色のベストのポケットから何かのメモを取り出し、それを見ながらとても長い番号をダイアルしていきます。
 やがて受話器の向こうに呼び出し音が鳴りました。それからすぐに若い男の溌剌とした声が聞こえました。

『はいもしもし! こちら世界最速の郵便馬車(クシコスポスト)のプレストです! お手紙から浴槽までありとあらゆるものを世界最速でお届けいたします!』

「浴槽はともかく相変わらず耳に心地いい元気な声だ、プレスト君。ご無沙汰」

 絶句した相手が電話を切るまでにしばらく時間がありました。

「ふむ……」

 切られた電話をしばしアンダンテさんは黒い目で見つめました。その目は怒っているようではありません。
 むしろどこか悪戯をする子どものような喜びさえあるようです。そしてもう一度長ったらしい番号を回していきます。

『…………』

「やあプレスト君、久しぶり。ご挨拶どうも」

『……ピー。ただいま留守にしています。仕事の依頼のある方は――』

「隣にいるのはヴォルフガングかい? いつにもまして鼻息が荒いじゃないか」

――ブツリ。

「ふむ……」

 三度アンダンテさんはかけ直します。その顔は明らかに面白がっていました。
 次の電話は、繋がるまでにパイプの中が一度空になる程でした。やがて受話器の向こうで疲れ切った声が応えました。

「おお、ようやく繋がった。危うく肺が煙だらけになるところだったよ。ヴォルフガングは厩の中に上手く納まったかね? 先程ぶり、プレスト君」

『いい加減にしてくれ! こっちは仕事で忙しいんだよ! ただでさえあんたとかかわるとロクなことがないんだ!』

「まま、そう無碍にしないでくれたまえ。昔の門下のよしみじゃないか」

『ふん、……あんたからその話題を振るってことはよっぽどの困りようみたいだな』

「……かもしれない。それで、仕事は頼めるのかな? 少々やっかいなんだ」

 プレスト君と呼ばれた男が受話器の向こうで鼻を鳴らします。
 しかしそれは不機嫌さの現れではありません。むしろ溢れる自信の象徴でした。

『俺とヴォルフガングに運べないものはない。あんたもよく知ってるはずだ』

「さすがは世界最速の郵便馬車。助かるよ。――さて、仕事の話といこうか」

 アンダンテさんは口ひげを撫でつつ言いました。

『どうせまたしち面倒くさいことなんだろ? 言っとくけど免罪譜がどうこう言うならお断りだからな』

 電話越しの声は多少いらついているようでもあります。
 それもそのはず。プレスト君は大変に短気な性格でとてもせっかちでした。
 アンダンテさんはそんな彼を怒らせるのも楽しみの一つでした。プレスト君を焦らすように話をそらしたりします。

「見合った報酬は払ってるだろう?」

『額の問題じゃねえよ。あんた感謝とかないだろ』

「そんなこともない。君には感謝している」

 悪びれることもなくアンダンテさんは言いました。全く顔の見えない電話越し。
 もし顔が見えてもその言葉には真心は感じられないでしょう。
 まるでへたくそな朗読家のように抑揚のないセリフでした。

『気持ち悪いなあんたに言われても』

「感謝を強要された上に感謝したら全否定された。一体どういうことかね」

『大体あんたが俺にいつも取ってる態度だな。それで? 仕事は何だよ』

 これ以上引き延ばすと電話を切られかねないかな――。
 アンダンテさんは言葉尻の雰囲気からそう判断します。
 プレスト君を怒らせるのはやはり愉快な気持ちになります。フォルテ君を困らせるのとはまた違う面白さがありました。
 しかしあんまり怒らせるのも酷なことです。

「大渓谷――リタルダンド」

 電話の向こうで、プレスト君は沈黙しました。

2年前 No.35

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【七】

「フィーネちゃん、でもあの井戸の底には何もないと思うよ?」

 フォルテ君は前を歩くフィーネちゃんに話しかけました。
 グリッサンドは階段の街です。今もまさに階段を降りている最中でした。
 その階段は壁から煉瓦がちょっと出ている程度のものです。手すりなどはあるはずもなく、とても小さく粗末なものでした。
 フォルテ君は足元を見るので精いっぱい。当然フィーネちゃんの声音など、うかがえるわけがありません。

「何もないことが重要かもしれないの。ううん、何もなかったら――」

 フィーネちゃんはふと立ち止まります。フォルテ君は思わずぶつかりそうになりました。
 危ないと思って、ぐいと体をそらせます。こんな場所でぶつかり合えば大怪我をしてしまいます。

「うわ、っととと!」

 フォルテ君は大きく体勢を崩しました。つんのめるように階段から飛び出してしまいます。
 幸いなことに地面は近く、何とか足から着地できました。しかし、その後でしびれるような痛みが走りました。
 それは足の裏から頭のてっぺんへと駆け抜けていきます。

「大丈夫? ごめんなさい!」

「平気平気! アンダンテさんの無理難題に比べたらこんなこと朝飯前どころかその前におしっこするより簡単だよ!」

 胸を張ってフォルテ君は言いました。その表現にフィーネちゃんは思わずに顔を赤らめてしまいます。
 後ろでつき従っているアメリアは二人を見てクスリと笑いました。
 生き生きしたフィーネちゃんの姿。そんなものはここのところ、ずっとなかったのです。
 思い返せば、二人の旅人が来てからでしょうか。フィーネちゃんはやたらと行動的でした。
 アメリアは二人の旅人に、微かな期待を抱いていました。もしかしたらフィーネちゃんを救ってくれるのではないか、と。

「ところでフィーネちゃん、その『万年筆』って?」

 フォルテ君の問いにフィーネちゃんは少し言いよどみます。しばらく間をおいて「大切なもの」と答えました。
 それからやはり考えを巡らすようにじっと黙りこくるのです。代わりにアメリアがそっとフォルテ君に説明しました。

「フィーネ様の亡くなったご両親からのプレゼントです。それをフィーネ様はとても大切にされていて、いつも肌身離さずお持ちだったのです」

「フィーネちゃんのお父さんとお母さんって――」

 言いかけてフォルテ君は口をつぐんでしまいました。
 さすがに失礼かと思いました。それくらいの分別はありました。
 フィーネちゃんは少し寂しそうに笑い、いいの、と言います。

「一月前に事故で死んじゃった。今はヨハネス叔父様とクララ叔母様が面倒を見てくれてるの。万年筆は――パパとママの代わりみたいなものだった。私が字を書き始めた頃に買ってくれてね。二人はいつも仕事でいないから寂しい時はそれを握りしめるの。そうすると何だか、勇気がわいてくるような気がして」

 フォルテ君はその気持ちは何となくわかりました。
 母親の骨を抱えたまま、あちこちの霊園を巡り歩いて、それでもどこにも埋める場所がなくて、お金も食べ物もなく、一人ぼっちの夜。
 そんなとき骨の入った壺を抱きしめていると、何だか抱きしめ返してくれているような気がして、少しだけ元気が出て、次の日もまた、歩き出すことができるのです。

「パパはね、万年筆は時を超える魔法の道具なんだって言ってたの。万年筆で書いた文字は、紙を燃やしても、破いても永遠に残り続けるんだって。燃えて灰になっても、言葉を残したことそのものを、万年筆が覚えているの。万年筆は手入れを怠らなければ私がおばあちゃんになってもずっと使えるから、万年筆がある限り、それで書いた言葉や気持ちは絶対に亡くならないんだって。――素敵でしょう? パパはそういうお話を、よく私にしてくれたわ」

 フィーネちゃんは懐かしむように目を細めて笑います。
 フォルテ君は、フィーネちゃんがどんなにお父さんのことが好きだったか、少しだけわかったような気がしました。

「大丈夫、きっと見つかるよ! オレに任せて!」

 フォルテ君は勢いよく古井戸の方へ駆け出しました。
 せめてその大事な万年筆だけは見つけてあげたい。そうしないとフィーネちゃんはまた泣いてしまうと思いました。
 フォルテ君は人が泣いているのがいやなのです。

 井戸の周りは昨日のままでした。近くの柱に助けられた時のままに縄が結わえられています。
 その一端は暗い井戸の底へと飲み込まれるように垂れていました。
 フォルテ君はそれを伝って井戸の底へと下りていこうとします。
 しかしアメリアが、お待ちくださいとそれを止めました。

「お客様にそのようなことはさせられません。わたくしが参ります」

「大丈夫だよアメリアさん。それにほら、アメリアさんはいざという時に、人を呼んだり中に入ってオレを助けたりしてくれる人として、上にいてくれた方が安心でしょう? 縄が大人の重さに耐えられないかもしれないし」

「ですが……」

 煮え切らないアメリアに、フォルテ君が大丈夫と重ねて言います。
 アメリアはわかりましたと答えました。そしてトランクを開けると中からカンテラとマッチを出しました。
 マッチに火をつけカンテラを灯します。

「お持ちください。中は暗いでしょうから」

 フォルテ君はカンテラを縄の下に括り付けました。それを井戸の底まで下ろします。次いで縄を下り始めました。

「フォルテ君、ありがとう! 気をつけてね」

 フィーネちゃんが井戸の縁から心配そうに顔を覗かせます。
 下へ下へと伝っていくにつれ、井戸の口は遠ざかっていきました。
 昨日は気が動転していたために何とも思いませんでしたが、古井戸の中はとても冷え冷えとしていました。
 そして思ったよりも深いことに気づきます。

 もしもあの時アンダンテさんが通りかからなかったら――。
 そう考えると気温とは違う寒さにフォルテ君は身震いします。
 そうして今度ばかりはあの偏屈な師匠に感謝するのでした。

2年前 No.36

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

「フォルテ君ー! 大丈夫ー?」

 苔むした井戸の底にフォルテ君は下り立ちました。頭上に、小さくフィーネちゃんの影が見えました。
 大丈夫と返事をしてフォルテ君は周囲を見渡します。広く幅がある井戸の底は薄暗く、カンテラだけが頼りでした。
 これがなければ探し物など到底出来そうにありません。

「フォルテ君ー、どう? 見つかった?」

 どれ程経ったでしょうか。フォルテ君の耳に反響するフィーネちゃんの声が聞こえました。

「ううん」

 フォルテ君は汗を拭って見上げました。土や泥で黒に塗れているその手に万年筆はありません。

「やっぱりここにはないかもしれない」

 フォルテ君は答えます。その声は井戸の壁に跳ね返ってワンワンと響くようでした。次いで急いで付け足します。

「でもここになくてもでもきっと見つかるよ! もう少し待ってて!」

 その言葉に、フィーネちゃんの影は首を振りました。

「ありがとうフォルテ君。でももういいの。そこは寒いでしょうから早く上がってきて」

 その声は落ち込むというよりもどこか潔くもありました。
 フォルテ君はもうフィーネちゃんがあきらめてしまったのかと焦ります。
 もう少しだけ、とフォルテ君は返しました。

「大事なものなんでしょ! あきらめちゃだめだよ! ちょっと待ってて、きっと見つけるから!」

「ううんフォルテ君、違うの!」

 フィーネちゃんが声を張りました。その声は何だか喜びに弾んでいるようです。
 フォルテ君は不思議に思いました。

「フォルテ君! 万年筆は『そこには』ないかもしれない!」

 そしてフィーネちゃんは言いました。

「――ピアはまだ生きてるかもしれないの!」

 それを聞いたフォルテ君は驚きました。

「わけがわからないよフィーネちゃん! それってどういうこと?」

 縄を伝って上がってきたフォルテ君は、井戸の縁に腰掛けます。そしてフィーネちゃんに尋ねました。

「ねえ、ピアが生きてるってどういうこと? だってピアは昨日アンダンテさんが埋葬したはずだよ」

 そうです。ピアは昨日ここにいる全員の前で埋葬されたはずでした。
 フィーネちゃんはしばらくじっと考えていました。しかし、やがて口を開きました。

「あの白い猫は、もしかしたらピアじゃなかったのかもしれないの」

「ええっ!」

 フォルテ君は驚きました。フィーネちゃんと傍らに控えているアメリアを交互に見ました。

「本当のところは私にもよくわからないの。ピアの死を認めたくないって私の気持ちがこんなことを思わせるのかも……」

 そこでフィーネちゃんは頭を振りました。

「ううん、でも確かにピアはまだ生きている気がする。どこかで私が迎えにくるのを待っている気がするの」

――それなら埋葬した白猫がピアかどうかを確かめてみたら……。

 口元まで出かかった言葉をフォルテ君は飲み込みました。
 それがピアだったならフィーネちゃんはまた悲しむでしょう。
 更にいくら動物のものであっても墓暴きは許されません。それだけはダメだとフォルテ君は思いました。

――ならピアを探すしかない。たとえ見つからなくても、だ。

 フォルテ君はアメリアを見ました。視線に気づいたアメリアがこくりと意味深に頷きました。
 その温かな瞳はフィーネちゃんを静かに見守っています。

「よし、探そうよフィーネちゃん!」

 フォルテ君が言いました。

「街の隅から隅まで、全部ね!」

「フォルテ君……うん!」

 アメリアもフォルテ君も今一番大切なことは何か知っていました。
 それはフィーネちゃんが笑顔を取り戻すことです。こうして、少しずつでも。

「とはいえ、心当たりはあるのですか? お嬢様」

 決意を新たにした二人をよそに、アメリアは冷静に言いました。
 アメリアは水を差すようなことを言うつもりはありませんでしたが、少し突き放したような言い方になってしまいました。
 しかし、アメリアは慌てることはありません。

「いつも申し上げているでしょう? 何事も計画が大事だと。思い立ったが吉日というのは一理ありますが、吉日を長続きさせるのも、必要以上に厄日を招かないのも全ては理に沿った計画があってこそなのですよ」

 そう言ってアメリアはまたトランクの中を広げました。その中から一枚の折り畳まれた大きな紙を取り出します。

「アメリア、それは?」

「もちろん、ここ、グリッサンドの地図でございます」

 アメリアは不敵な笑みを浮かべてフィーネちゃんの方を見ました。
 フォルテ君とフィーネちゃんは顔を見合せます。

 その時いきなり甲高い音が街中に響き渡りました。
 角笛のような大きな音でした。でもそれよりはずっと緊張感のある響きです。
 フォルテ君は何事かとあたりを見回します。その間にアメリアとフィーネちゃんは地面に伏せました。

「フォルテ様! すぐにそこから降りてください!」

 アメリアが叫びました。しかしフォルテ君は動転していてどうすることもできません。
 街の中には赤いランプが灯ってくるくると回っています。
 それを見た家の中の人々が一斉に家から駆け出してきます。
 フォルテ君は何が起こっているのだろうと、呆然としていました。
 そして、そのまま、ズン、と地面が大きく揺れました。遠くの方から轟音が街中に響き渡ります。

「えっ――」

 地震だ、と理解し井戸から離れようとしたその瞬間。
 ボロリ、と鈍い音がしました。フォルテ君の座っていた井戸の縁が砕けたのです。
 そのままフォルテ君は井戸に真っ逆さまに落っこちていきます。

 アメリアとフィーネちゃんはその光景を見ていました。
 でも、揺れが収まるまで動くことができませんでした。ようやく揺れが止まるとすぐに井戸の方へと駆け寄ります。
 アメリアはすぐさま井戸の中を確認しました。暗い路地裏で、井戸の中はなお暗く底がよく見えません。

「フォルテ君! フォルテ君っ!」

 フィーネちゃんも井戸に駆け寄りました。
 しかし、アメリアは井戸の前に立ちふさがるように手を広げます。
 フィーネちゃんは勢い余ってその胸に顔をぶつけました。

「アメリア、どいて頂戴! フォルテ君が!」

「落ち着きなさいませお嬢様。見ての通り、あの井戸縁は今にも崩れる程脆くなっているのです。慌てて覗きこんで、お嬢様がお怪我なさいましたらいかがなさるおつもりですか?」

「でも、でも――」

「でも、ももしも、もございません!」

2年前 No.37

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 アメリアが声を荒らげたその時です。

「うおーい、大丈夫だよー」

 何とも暢気な声が聞こえました。フォルテ君です。
 今度こそ、フィーネちゃんはアメリアの手をくぐり抜けました。
 そっと井戸の中を覗きこみます。崩さないよう慎重に。

「フォルテくーん! 大丈夫ー?」

「大丈夫だよフィーネちゃん! オレの頭はアンダンテさんのげんこつより堅いんだ!」

 冗談かもわからない言葉でフォルテ君は答えます。
 ひとまずフィーネちゃんは胸を撫で下ろします。やがてフォルテ君が再び這い上がってきました。

「ああ、良かった!」

 フィーネちゃんはフォルテ君を抱きしめました。フォルテ君は顔を真っ赤にしておたおたします。
 アメリアの咳払いが聞こえました。それを聞いてフォルテ君が男の子だということを思い出します。
 そして、フォルテ君と同じように顔を赤らめました。

「だ、大丈夫? 怪我、ない?」

「う、うん。ないよ。平気」

 はにかみながら二人は離れ、ぎこちなく言いました。

「この辺は旧市街です。石材も相当古いものですからね。旦那様方は近々旧市街の再建に着手されようとしていました」

「街の再建って、……そんなことができるくらい大きな家なの!」

 アメリアの言葉にフォルテ君は大層度肝を抜かれました。家を建て直すなどという程度のことではありません。

「ブラームス家は、このグリッサンドの街を開拓した、街の創始者の家の一つです。そもそもここから硝石が取れることを発見したのは、旦那様の祖先に当たる方です」

 グリッサンド――別名石の街。『階段の街』とも呼ばれていました。
 山肌に沿って階段状に建物が並んでいるからです。
 ここは昔、大きな火山で、山自体が五百年前の噴火によって崩落しました。
 それから時が流れ、今のような小高い山になりました。
 多くの地層を持つグリッサンドは多様な鉱石の採取ができます。
 街が階段状なのは、層ごとに鉱石の採取を行っているためです。
 今も花崗岩、水晶などは少し地面を掘るだけでも簡単に取れます。
 街並みが白くきらきらと輝くのは、水晶を含んでいるからでした。

 ブラームス家はここから硝石が取れると発見した最初の家です。
 そのブラームス家の始祖をヴェロニカ・ブラームスと言います。
 彼女は卓越した科学の知識と商才を持っていました。
 そしてブラームス家と、この街の繁栄を築いたとされています。
 ヴェロニカは硝石を使って様々な発明を行いました。
 当時としてはあまりにも水準の高い技術を有していました。魔女とさえ呼ばれる程に。

「豚肉の塩漬けを作る時にも使います。黴菌が繁殖するのを防ぐのです」

「へー、食べられるんだ」

 ヴェロニカは、この山に採石のためにどんどん人を住ませました。そうしてできた街がグリッサンドなのです。
 今もブラームス家はこの街の採石権と、採石場の元締めです。
 ですから、ブラームス家はいい街をつくる責任があるのでした。それがブラームス家の不文律なのです。
 ヴェロニカの時代から守られ続ける家訓でした。

「北の旧市街は地下も採掘がほとんど終わり穴だらけです。このように街のどこがいつ抜けてもおかしくないとも言われています。だから、旦那様方は旧市街を新造する再建計画を立てていました。そのための資材を隣街に見に行く途中で――」

 言ってからアメリアは慌てて口を覆いました。
 フィーネちゃんは何のことかわかりませんでした。しかしアメリアのその様子から気づきます。
 それがあの仕事なのだと。
 誕生日に、どうしても出かけなければならなかったその仕事――。そんなことを知ろうともしていなかった自分に気づきました。

――悲しかったのは叔父様と叔母様も同じはずなのに。

 ヨハネス氏はもともと学者で、大学で教授を務めていました。
 でもフィーネちゃんの面倒をみるために、その職もやめました。
 そしてなれない経営をそれでも一生懸命務めています。
 クララ夫人はもともと商人の家の人でした。
 事故で足が悪く、この階段だらけのグリッサンドでは、付き添いがなければ動くこともままならないのに、ブラームス家を必死で守っています。

「アメリア、私――恥ずかしいわ」

「ご自分でそれにお気づきになったのならそれは、とても立派なことですよ」

 それが何のことなのか、フォルテ君にはわかりませんでした。
 どうやらさっきフォルテ君に抱きついたことではなさそうです。

「ところで、さっきのすごい音は何?」

 フォルテ君がアメリアに聞きました。

「あれは警報、サイレンです。この街は先程も申しあげました通り採石で成り立っております。石を掘るには地面を爆破することが不可欠。しかし街全体がそれによって、小規模な地震にみまわれるのです。ですからこの街では、あらかじめ採掘の日程を組んで、爆破を行う日取りを街の人みんなに知らせておくのです」

 アメリアは失礼しましたと、言いました。

「迂闊でしたわ。今日がその日だって朝確認したばかりだったのに」

 アメリアは申し訳ないといった顔でフォルテ君を見ました。
 フォルテ君は慌てて平気だと言うように手をブンブン振りました。

「そして実際に爆破を行う際には、ブラームス家から街中の警報器に信号が行き、街の人に知らせるようになっているのです。この音が鳴ったら火を直ちに止め、身を低くし、揺れに備えるように。爆破だけでなく、緊急の災害時にも警報を鳴らします。多くの人は緊急警報が鳴ったら、大階段ヤコブの梯子に集まることを、ほとんど反射的に行えるようになっているのです」

 聞いてフォルテ君はびっくりしました。そんな緊急事態に対策を持っている街なんて初めて来ました。

「警報装置の開発をされたのがヨハネス様、それを街中に設置し、避難の手引きをお作りになったのが旦那様でした」

「フィーネちゃんの家の人たちってすごいんだね」

 フォルテ君が感心して言いました。

「さあ、わたくしたちが今いる場所がここ、お嬢様、ピアが行きそうな心当たりのあるところはどこですか?」

 フィーネちゃんは考え込みます。

「ピアが、どこからピアじゃなかったのか、ずっと考えていたの。何度か見失ったけど、うん、一番長くて、それによく考えたら、あの後見つけたのは、もうピアじゃなかったと思うの」

「それってもしかして……」

「フォルテ君とぶつかった時、多分、そこでピアを見失って、その後、私たちはピアじゃない猫を追いかけて、ここに来たんだと思う」

「よし、そこで聞き込みをかけて見よう!」

 フォルテ君が張りきって言いました。
 しかしフィーネちゃんは暗い顔です。ダメだと思う、とフィーネちゃんは静かに言います。

「私は……呪われてるから」

2年前 No.38

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2年前 No.39

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 しかし、言う前にフィーネちゃんが先に口を開きました。

「怒鳴ってごめんなさい。でも、私、パパとママが出掛ける日に、ケンカしてしまって、大っ嫌いって言ってしまったの。そんなことで、と思うかもしれないけど、もしかしたら、私がちゃんとお見送りをしていれば、二人は生きてたんじゃないかって、私はあの時本当にパパとママを呪ってしまったんじゃないか、って思ってしまうの」

「偶然に決まっていますお嬢様。お嬢様と亡き旦那様のケンカはそれが初めてではございません。たまたま悪いことに悪いことが重なってしまっただけです。呪いなど、ありませんわ」

「アメリア、私あの噂を聞いた時、本当に自分が怖くなったの。本当に人は死んでしまうんだわ。そして私は、パパとママとの最後の思い出を、とても嫌なものにしてしまった」

「フィーネ様……」

「アメリア、呪いなんてないというのなら、どうしてパパとママは死んでしまったの? 私がだいっきらいと言ってしまったからなの? 二人に行ってらっしゃいの挨拶が出来なかったせいなの? 偶然だって、私がパパとママにだいっきらいと言って、二人が死んでしまったのは事実なんだわ。パパとママの最後に見た私は、怒った顔をして二人を責めていたのよ」

 フィーネちゃんにとってそれは紛れもない真実でした。それが例えようもなく許せないことでした。
 二人と言葉を交わせる最後だと知っていれば、きっともっと言葉を尽くして、何かもっと違う別れ方があったはずなのです。
 それでもフィーネちゃんはそんなことを知りもしないで、二人にひどいことを言ってしまいました。

「お別れを言うことも、出来ないの。だって私達は誰がいつ死んでしまうかわからないんですもの。今もそう。言わなければよかったと思うようなことを、多分私は言っているんだわ。それがとてもつらい。何を言っても、何をしても、きっと後悔してしまう」

 あんなことを言わなければよかった。あんなことをしなければよかった。
 フィーネちゃんはパパとママが死んでしまってから、そればかり考えていました。
 呪いなんて噂が立つようになってからは、余計にそのことばかり考えるようになりました。
 もし、自分が誰かと関わることで、本当にその人が不幸になってしまうのだとしたら――。
 そうならないとは限らない、現に自分はパパとママにそうしてしまったのだ、という事実が、フィーネちゃんの心にべったりとこびりついて、いつの間にか人と関わるのが怖くなってしまいました。

 呪いなんてない。それは呪いなんかじゃない。
 フィーネちゃんだってそんなことはわかっているはずなのです。
 でも噂はいつの間にか真実であると人々に思われていました。
 かたくなに話すことを拒むブラームス家の娘。口をきけば呪われる魔女の末裔。
 その噂は更にフィーネちゃんを追い詰め、余計に話せないという悪循環に陥っていました。

「ねえフィーネちゃん、そんな呪いなんてあるわけないよ」

 フォルテ君がそう言うとフィーネちゃんは声を震わせました。

「でもフォルテ君もさっき井戸に落ちたわ! もしかしたらって思うと……わたし、私、本当に心臓が止まるかと……」

「でもほらこの通りぴんぴんしてる! アンダンテさんと旅をしてたら一日に二回はあんな目に遭うよ」

 フィーネちゃんは顔を上げます。その表情は不安げで、目は潤んでいます。
 フォルテ君はにっこり笑って言いました。

「ねえ、元気にピアを探そうよ! そんな悲しい顔してちゃあピアも出てきにくいんじゃないかな。呪いとかオレにはよくわからないけど、そんなもの放っておけばいいんだよ。だってこの通りオレはしっかり生きているんだから。逆立ちで歩くこともできるよ!」

 そう言ってフォルテ君は身軽に逆立ちをして見せました。
 ワイシャツがめくれておへそが見えてしまいました。しかしフォルテ君はそんなことを気にしません。
 そのままそれにね、と続けます。

「フィーネちゃん、誰がいつどこでどう死んだって、それが自分の知ってる人で、ましてや好きな人だったなら、どうしたって後悔は残るんだよ。オレはアンダンテさんと旅をしてそういう人ばっかり見てきたからね。でも、後悔って別に悪いことじゃないよ」

 その言葉に、フィーネちゃんはえ、と聞き返します。

「だってそうだろ。後悔して、誰かが傷つくわけじゃない。別に誰かをいやな気持ちにさせてるってこともない。自分がいやな気持ちになってさ、でもそれだけだよ。後悔して死ぬわけでもないよ。死ぬ程後悔することはあっても、後悔するから死ぬわけじゃない。死ぬのは自殺するからだったり、病気になったりするからで、後悔してるから死ぬわけじゃないよ」

 フォルテ君はえい、と言って逆立ちをやめました。

「いやな気分の時は精いっぱいいやな気分になればいいし、落ち込みたい時は落ちるところまで落ちればいいよ。どん底まで落ちてみればさ、ほら、昨日井戸に落ちた時みたいにきっと光が見える。助けてって叫べば、知らない人だって助けてくれるよ」

 フィーネちゃんはフォルテ君を見つめます。それからアメリアを見つめました。

「フォルテ君……アメリア……」

――何か私は勘違いをしていたのかもしれない。

 私のそばにはいつだって私を助けてくれる人がいたんだ。
 そうフィーネちゃんは気づきました。ごしごしと目元を拭ってフィーネちゃんは頷きました。

「ありがとう、フォルテ君、アメリア」

 その様子を見ていたアメリアは心の中でそっと微笑みました。
 フィーネちゃんに必要なのは友達でした。自分のことを励ましてくれる友達。一緒に遊んでくれる友達、泣いてくれる友達。

 昔はそれが自分だったのに――。

 アメリアは思い出して少し寂しく思いました。
 でも今は、この小さな旅人に何もかも託してみようと思うのです。
 きっと何もかもうまくいく。アメリアはそう願わずにはいられませんでした。

2年前 No.40

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【八】

 そうしてピアを街中に探し回る日が三日目に入りました。
 今のところめぼしい情報は皆無で、フィーネちゃんが思い起こすピアが行きそうな場所も大体回ってしまいました。
 誰の心にも、本当は、ピアはあの日に死んでしまっていて、今こうやって探し回ることは、全くの無駄なのではないか、という思いが沸き起こっていました。

 でも、悪いことばかりでもなかったのです。
 それはフィーネちゃんを見る街の人達の眼が、恐ろしいものを見るような嫌なものから、だんだんに普通のものになってきたことです。
 まだ数人とはいえ、毎回のようにいくドーナツ屋の女将さんや、花屋のご主人、広場でいつも遊んでいる子どもたちなどは、挨拶をしてくれ、話を聞いてくれるようになりつつありました。

 きっと街の人達も、本心で呪いなど信じているわけではないのです。
 それはやはり、どうにもならない不幸の連続と、それで塞ぎこんでしまうフィーネちゃん自身が合わさったことで発生した、霧のようなものでした。
 フィーネちゃん自身が明るく街を照らせば、霧は晴れるのです。

 三人は一度ヤコブの梯子の中腹にある広場にやってきました。
 階段と斜面ばかりのグリッサンド。ここはこの街で一番広い平坦な場所した。多くの道がこの広場から分岐しています。
 ふとフォルテ君は、足元にある文字の彫られた石畳を見ました。

「うーんと、そらをとぶ、はねを、もたなければ……? あー読めない!」

 フォルテ君は字が読めません。アンダンテさんから日記を書かされているのもそのためです。
 今ようやくアルファベットを書けるようになったところでした。自分のやたらと長ったらしい名前を書くのも相当な苦労でした。

「こう書いてあるの。『空を飛ぶ羽を持たなければ、神へと続くいただきに、私たちは階段を作る。天高く続く階段を作る』『かくて聖人は血の衣を纏い、鳴り響く角笛の下、罪を背負いて階段を昇る。天高く続く階段を昇る』」

 フィーネちゃんはすらすらと読み上げます。それだけでもフォルテ君にとってはすごいことでした。
 尊敬のこもった眼差しでフィーネちゃんを見つめつつ、どういう意味? とフィーネちゃんに問いかけました。

「少し休憩しましょう。フォルテ君の膝も、すごく痛そう」

「こんなのへっちゃらだよ」

 フォルテ君はそう言いました。同時にお腹がきゅうとなりました。

「おやつにしませんか。特製のドーナツがあります」

 アメリアの言葉に三人は休憩を取ることにしました。広場の噴水の縁に腰掛けながらおやつのドーナツを食べます。
 アメリアはしゃがんで、フォルテ君の膝を消毒しています。彼の体にはあちこちすりむけた傷や、あざができていました。
 フォルテ君はこの階段だらけの街にまだ慣れていません。だからそこここで躓いては転んでしまいました。
 その様子にフィーネちゃんは自分のせいでは、と心配になります。
 フォルテ君に呪いが降りかかっているのではないか――。
 そんな思いで胸がチクチク痛むのでした。

「あの碑文はね、この街の二人の聖人のことを指しているの。一人はこの街を侵略者から守った聖ヤコブ。そしてもう一人は聖ヤコブの秘跡を受け継いでこの街を繁栄させた十字架を背負う聖女、ヴェロニカ」

「十字架を背負う聖女?」

「女預言者の方が知られてるかな。この街が侵略されたって話は知ってる?」

「あ、アンダンテさんが言ってたよ。この街が噴火して、侵略者をやっつけたんでしょう?」

 フォルテ君は少し前に、偏屈な師匠に聞かされた話を思い出します。

「ヴェロニカはその噴火を預言して、街の人を逃がしたと言われているの。領主ヤコブが十字架を背負ってこの階段を昇る途中で倒れてしまってね。その汗を拭ったんだけど、その時に彼女は天啓を受けたんだって。そこがこの広場なの」

 へえ、と聞き入りながらフォルテ君は広場を見回しました。
 まだあちこちにフィーネちゃんをうかがういやな視線を感じます。
 でも、フォルテ君が見る限り、それは確実に減っていました。
 多分、フィーネちゃんが元気に街を歩いているからでしょう。
 その様子を見て街の人たちも安心しているのです。噂はただの世迷言だったのだ、と。
 やはりフィーネちゃんの落ち込んだ態度も原因だったのです。

「ヴェロニカは宣託に従って、この街に家を作ったの。その家は代々宣託に従って、街に尽くすことが使命。そうして聖ヤコブの霊を慰めるの。ヴェロニカの名前はヴェロニカ・ブラームス。私で三十代目なんだって」

「え! ブラームス家って……!」

 フィーネちゃんの言葉にフォルテ君は目を丸くします。

「そう、私の家。でもヴェロニカは教会から異端だって言われて結局聖ヤコブと同じく、十字架を背負ってこの道を昇って、この広場で火あぶりにされたの。ヴェロニカが命を落としたその時に、火あぶり台の下から泉がわきだしたんだって。この噴水はその時にできたの。そんな伝説があるから、私の家は何かあるとすぐに魔女だとか、呪いだって噂が立ちやすいんだって、パパが言ってたわ」

 またフィーネちゃんは悲しそうに目を伏せました。
 フォルテ君は呪いなんてないと軽く励ますように言いました。
 しかしそれは単なる口さがない噂ではなかったのです。
 実は街の成立にかかわる深い根を持つ話なのだ――。
 そのことがフォルテ君にもわかってきてしまいました。

――気休めのようなことを言って、どれくらいフィーネちゃんを励ますことができるのか。

 フォルテ君はわからなくなりつつありました。話題を変えるようにフォルテ君は言います。

2年前 No.41

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「そういえば、もうすぐお祭りがあるんだって? アンダンテさんはそれを見に来たんだって言ってたんだ。救済のお祭りとか何とか。確か、びあ、びあ……」

「ヴィア・ドロローサ。聖ヤコブと、ヴェロニカを祀るお祭りでね。そういえばアメリア、今年のラビは決まったの?」

 フィーネちゃんはふと思い出したかのように問いかけました。

「いえ、司祭様はこのところ体調が芳しくなく、いまだ天啓を得られないとおっしゃっていました」

「ラビ?」

「ラビっていうのは、ヴィア・ドロローサでこのヤコブの梯子を昇る一番重要な役目。ラビに選ばれた人はヴィア・ドロローサの夜中の零時から、ちょうど六時間かけて、この階段を一番下から頂上の教会を目指して昇るの」

「六時間!」

 フォルテ君は驚きました。そして不思議になりました。
 似たようなやり取りを最近した覚えがあります。確かアンダンテさんにも同じことを言われたような気がします。

「その途中でラビはいろんなものに出会うと言われているの。幻を見るんだって。そして、その幻は後ろを振り返らせようとするの。ラビが後ろを振り返ってしまったり、日の出までに教会にたどり着けなかったりしたらお祭りは失敗。振り返らずにたどり着けたら成功。ラビに選ばれる人は街の罪人で、教会に何らかの罪の告白をした人と決まっているの。ラビが失敗したら、その年はラビの罪に応じた大きな災いが街に降りかかるから、教会で一週間お祈りをするの」

「重要な役目なんだね。でも、この階段、六時間で昇るって、大変だね。成功するの?」

 フォルテ君は広場を横切って続く大階段を振り返って眺めました。
 それは到底六時間あっても踏破できそうには見えません。

「神のご加護がある人は成功するって言うわ。司祭様が誰をラビに選ぶかも重要なの。司祭様は天啓に基づいてラビを選定するのだけど、もし失敗したならそれは選定した司祭様の責任だから」

 ふうんとフォルテ君はそのお祭りを思い浮かべます。

「ラビが教会に着くと審問が行われて、そこでラビの罪と、もう一人の罪人と、どちらを許すかを街の人たちが決めるの。ヴィア・ドロローサで許された人は、天国に行けるんだって。だからラビになりたがる人もいるの」

「フィーネちゃんもラビになりたい?」

 フォルテ君は何の気なしに聞きました。しかし、その言葉にフィーネちゃんの表情が陰りました。
 言ってからフォルテ君は余計なことを言ったと後悔しました。

「私の罪が許されるなら、……ラビになるのもいいかもしれない。でも、司祭様の具合が悪いのは、きっと私の呪いのせいだから。司祭様はずっと私を励まそうと家に来てくれていたのに、私、会うのが怖くて。それで司祭様の体調もどんどん悪くなっているって聞いて、ああ、やっぱり私は呪われてるんだって思ったの」

「……呪いなんて、ないよ」

 え、と小さくフィーネちゃんは聞き返します。
 その眼をき、っと見つめてフォルテ君は大きな声で言います。

「呪いなんて! ないっ!」

 それは広場中に響くような大声でした。誰もがびっくりしてそちらを振り向きました。
 周りで木の実をついばんでいた鳥たちも。
 日だまりの中で本を読んでいる若い女性も。
 鬼ごっこをして遊んでいる子供たちも一様に。

 フィーネちゃんは恥ずかしくなりました。
 慌ててフォルテ君を止めようとします。しかしフォルテ君は言います。
 それはフォルテ君自身でもよくわからない衝動でした。
 ちょうど埋葬しようとアンダンテさんが言い出した時のような。
 フィーネちゃんの意志とは関係なく勝手に話を進めて――。フォルテ君はそれが許せなかったのです。

 今もそうです。フィーネちゃんとは関係ないところで呪いだなんて言われて。
 フィーネちゃんはそれを信じ込まされてつらい思いをしている。
 フォルテ君は感情に突き動かされて大声で言いました。後先は考えず、口が動くままに。

「呪いなんてない! ないったらない! フィーネちゃんもフィーネちゃんだ!」

 いきなり矛先を向けられてフィーネちゃんは目を丸くしました。

「どうして呪いなんてないんだってみんなに言わないんだ! 何でそこでお家に引きこもっちゃうんだよ! ヨハネスさんもクララさんもそうだ! アメリアさんだって! フィーネちゃんはこの街で一番偉いんでしょ! ブラームス家は街で一番偉大な家なんでしょ! それなのにどうして街のみんなに言って聞かせないんだよ!」

 フォルテ君はフィーネちゃんが羨ましく思えました。
 彼女の周りには味方になってくれる大人がたくさんいるからです。
 あんなにたくさんの人に愛されて、守られているのに、フィーネちゃんは泣くのです。
 泣いても誰にも助けてもらえなかったフォルテ君は――。フィーネちゃんの涙が羨ましかったのです。

「フィーネちゃんは呪われてなんかいないって、不幸な事件が重なっただけのことを呪いだなんて馬鹿馬鹿しいって、どうして言わないんだ! 街の人たちだって本当は、ブラームス家の人たちがはっきり言ってくれるのを待ってたんだ! でも何も言ってくれないから、不安で……」

 パチン、と乾いた音が響きました。アメリアがフォルテ君の頬をはたいたのです。
 アメリア、とフィーネちゃんは弱弱しく言いました。

「……申し訳ございません。お客様に手を上げるなどあってはならないこととわかっておりますが、こらえ切れませんでした」

「アメリアさん……」

 はぁ、と大きく息をついて、アメリアは言いました。

「確かに、わたくしどもの態度は問題だったかもしれません」

 アメリアはフォルテ君を叩いた手のひらを握り締めました。
 細い爪が白い肌に食い込む程に突き立てられています。

「我々はお嬢様に呪いなどないと言っておきながら、心のどこかで、もしかしたらと思っていたのです。ブラームス家の系譜や、この街の成立の歴史がそう思わせていたこともあるでしょう」

 アメリアは本当にどうしてあの時に怒鳴らなかったと思いました。
 あの時、アメリアは堂々と噂に立ち向かうべきだったのです。
 アメリアは怒ってよかったのです。他ならぬ主人が傷つけられたのですから。

「わたくしたちは噂が起こった時に、毅然として呪いなどないと言うべきでした。わたくしたちのあいまいな態度が、街の人々にとって噂が真実であるように思わせてしまった。それならば、呪いの噂を振りまいていたのは我々のようなものです。……フィーネ様、申し訳ございません」

「アメリア……」

 ですが、とアメリアは続けます。

「お嬢様のお気持ちもお察しくださいませ。ご両親を失い、深く傷ついていたお嬢様が呪いの噂を聞いて、どれ程心を痛められたか。失意のお嬢様には呪いを否定できるような心の力はなかったのでございます」

 アメリアが必死に噂を否定するだけでは足りないのです。
 噂をなくすためには、フィーネちゃん自身の意志が必要でした。
 彼女自身がその気にならなければ、どうしようもなかったのです。

「……ごめん。そうだよね。出来たら、してたよね」

 フォルテ君はしゅんと項垂れます。

「……そっか。そうだわ」

 その時、フィーネちゃんは手を叩いて言いました。何かを思い出したようでした。
 どうしたの、とフォルテ君が聞くと、フィーネちゃんは答えます。

「私、呪いのことをずっと気に病んでいて、でもそれからしばらくの間、お見舞いに来てくれる人もいたの。だけどその人たちをずっと断っていて……そうだわ、私……だからきっと、その人たちも心配させてしまったんだわ。謝らないと」

 アメリア、とフィーネちゃんは強い調子で呼びかけました。

「私、司祭様に謝らないと。ずっとお見舞いにいらしてくれていたのに。失礼なままで。呪いなんて関係ないんだわ。心配をおかけしたまま。元気になったって伝えなくちゃ」

「ピア探しはどうするの?」

 フォルテ君は聞きます。そこにアメリアがすっと地図を見せました。
 地図の中央部に『教会』の印があり、丸く囲われています。
 それはピアがいそうな場所を示したものでした。

「教会はピアが生まれた場所なの」

 フィーネちゃんは大きな階段――ヤコブの梯子の頂上を見ました。
 そこには岩をくりぬいて作られた大きな教会。厳かな佇まいで建っていました。

 まるでこちらを待っていたかのように。

2年前 No.42

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2年前 No.43

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2年前 No.44

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【九】

 すでに日は暮れかかっていました。
 フォルテ君たちはようやく山頂の教会にたどり着きました。
 上ってきた階段を振り返ると太陽が、フォルテ君の目線と同じくらいの高さに浮かんでいます。
 フォルテ君は前を向き悠々と佇む教会を見上げました。街を見下ろす教会の塔の上には、立派な鐘楼台がありました。
 そこには見事な、大きな金色の鐘がきらきらと輝いています。

 司祭の住まいは教会の裏側にありました。
 三人は広大な教会をぐるりと回りながら周辺を探します。どこかにピアの姿が見えないかと。
 頂上は広く、平坦にひらけていました。教会から少し離れたところには大きな泉がありました。そこから四方に水路が流れています。

「ここはこの街の水源でもあるんですよ」

 フォルテ君にアメリアがそう教えてくれました。しかし探せどもピアの姿は一向に見つかりませんでした。

――ここにもピアはいないかもしれない。

 教会の外周を三分の二程回った頃です。フォルテ君の脳裏にはそんな思いがよぎっていました。
 その時ちょうど前から人が歩いてくるのが見えました。フィーネちゃんは司祭かと思ってどきりとしました。
 近くに来るとそれは真っ白な服に身を包んだシスターでした。

「今日のお祈りはもうおしまいですよ」

 シスターは微笑みながらそう言います。しかしフィーネちゃんの顔を見てハッと表情をこわばらせました。

「あなたは、ブラームス家の……」

 その表情にここでもかとフォルテ君は思いました。
 教会のシスターまでフィーネちゃんの噂を気にしているだなんて。
 フォルテ君は気分が落ち込んでいくのがわかりました。
 アメリアを見ると小さく首を振っています。仕方ありません、そう告げているようでした。

「あの、突然こんな時間にお邪魔してごめんなさいシスター様」

 フィーネちゃんが一歩前に進み出ました。

「今日は……司祭様に謝りに来ました。今更だというのはわかっています。でも、私が元気をなくしている時に何度も訪ねていただいたのに……私、一度も司祭様とお会いしませんでした」

「いえ、フィーネ様――」

「わかっています」

 シスターの言葉を遮って、フィーネちゃんは続けます。
 声を震わせながら。必死で言葉を紡ぎます。

「街で私が何と噂されているのかは知っています。迷惑はかけません。でも少しの間だけでいいんです。私、とても失礼なことをしました。司祭様が体調を壊されたのもきっと私のせいで……。お願いします、司祭様に会わせてください」

 真剣な三人の表情を見て、シスターは慌てました。

「フィーネ様、ご心配なさらないでください。司祭様はもちろん会ってくださいます。むしろ司祭様ご自身が、間もなくあなたがいらっしゃるだろうと仰っていたので、少し驚いてしまったのです」

 三人はどういうことかと顔を見合わせます。それからシスターはにっこり笑って言いました。

「どうぞこちらへ。司祭様とフィーネ様のご友人がお待ちです」

 教会の裏手にある司祭の住居はとても簡素なものでした。
 まるで岩をくりぬいて窓と扉をくっつけただけのようです。部屋の壁はゴツゴツとした岩がそのままでした。

「あちこち少し尖っているので気をつけてくださいね」

 シスターが言いました。フォルテ君はもう二箇所程、腕をすりむいていました。
 血が出る程大きな傷ではありませんでした。フォルテ君は指に唾をつけてそれで傷口を撫でます。

「司祭様はこちらにいらっしゃいます。本来ならば書斎か客室にお通しするべきなのですが、床を出ることができないのです。どうか中へ」

 シスターは一礼してそう言いました。その言葉にフィーネちゃんはドキリとします。
 そして、そんなにお加減が悪いのですかと問いました。

「ご心配には及びません。先日、棚の上のものを取ろうとして足を捻ってしまったのです。司祭様も、フィーネ様にお会いすることを心待ちにされています。どうぞ中へ」

「寝間に立ち入るのであれば、みんなで行ったのでは失礼ですね」

 アメリアが言います。するとシスターがいいえと制しました。

「フィーネ様とともに訪れた方皆様とのお達しでございます。皆様でどうか」

 頭を下げるシスターに、三人は迷いました。
 しかし心を決め、ドアを叩きます。中から、ややかすれた低い声が返ってきます。

「フィーネ・ブラームスです。司祭様、あなたに謝りに来ました」

 お入りなさい――。静かに声が答えます。

 フィーネちゃんはゆっくりと木造りの扉を開けました。
 きぃときしむ音を立てて重いドアが開かれます。
 途端にフィーネちゃんの胸に、何かが飛び込んできました。
 フィーネちゃんは直感的にそれを思い切り抱きしめます。もう二度と離さないように。
 柔らかい肌触り。手になじむ懐かしい感触。その温もり――。

「ピア――!」

 フィーネちゃんはそれを両手でつかんでまっすぐ腕を伸ばします。
 いなくなってから何度その名前を唱えたことでしょう。何度彼女のために泣いたことでしょう。
 死んでしまったと思った時、どんなに絶望したことでしょう。

 しかし今。まさしくこの瞬間。

 ピアは確かに、生きて彼女の腕の中に帰ってきたのです。
 フィーネちゃんはピアを抱きしめて顔をうずめます。ピアはフィーネちゃんの耳を優しくなめました。

「ピア、……ピア! ああよかった、本当に。すごく心配したわ、すごく……街中探し回ったのよ。どこに行っていたの……?」

 ピアは一声鳴いてフィーネちゃんの手から離れます。

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 それから部屋の机の上に乗りました。
 その上に置いてあるものをくわえて、再び戻ってきます。
 ピアはそれを誇らしげにフィーネちゃんに渡します。
 そしてフィーネちゃん腕の中で満足そうに喉を鳴らしました。フォルテ君が後ろから覗き込んで言いました。

「フィーネちゃん、それ……」

「うん」

 それは万年筆でした。あの日、川に落とし、ピアが拾った、パパとママの形見――。

「ありがとう、ピア」

 涙が流れるフィーネちゃんの頬を、ピアが心配そうになめました。
 フィーネちゃんはくすぐったそうに微笑んで涙を拭いました。

「ごめんね、ピアも心配だったよね。私、泣き虫だから心配だったよね。でもね、いろんな人に助けられて私はここまで来ることができたの」

 ピアは青い瞳でフォルテ君の緑色の目を覗き込みます。
 フォルテ君には、何だかお礼を言われているように思えました。

「でも、どうしてピアは家に帰らずにずっとここにいたんだろう? まるでここでフィーネちゃんを待ってたみたいだ」

 それが聞こえたのか、ピアはまたフィーネちゃんの肩を降ります。
 そして、ぴょんとベッドの上に飛び乗ります。ベッドの上には白い髪の老人が座っていました。
 寝間着ですが、どこにもたるんでいるような気配はありません。
 それでいて、穏やかな雰囲気を持った人でした。
 肩には長い三つ編みがかかっています。
 膝に乗るピアを皺の目立つ大きな手が優しく撫でていました。老人は言います。

「ピア、と名付けたのですね。ブラームス卿がこの子を引き取りに来た日のことを今でも覚えていますよ。この子の母親は生まれつき体が弱くて、この子もとても小さく生まれてね……、長くは生きられないだろうと思っていました」

 老人の空の色をした瞳がフィーネちゃんをとらえます。
 そして、再びピアを見ました。老人は立派に育って、と嬉しそうな声で言いました。

「明かりをつけてくださいませんか。私は目が弱くてね。暗くてお顔がよく見えない」

 日はすでに没していました。フォルテ君たちにとっても部屋は薄暗くなっていました。
 アメリアはさっとランプにマッチで火を灯します。
 ろうそくの炎が照らす老人の顔。厳かな顔でした。
 でもその言葉にはどこか疲れているような気配が漂っていました。

「そちらの子は――初めてお会いしますね。グリッサンドで司祭を務めています。ピラトと申します」

 フォルテ君は慌てて背筋を伸ばします。

「は、はじめまして。フォルテ、です!」

「椅子の用意ができなくて申し訳ありません。あなたは、アメリアさんでしたね。すまないが、その辺の椅子をこの子たちに用意していただけませんか。何分、長い話をしなければならない」

 仰せのままに、とアメリアは二人に椅子を差し出しました。
 フォルテ君とフィーネちゃんは恐る恐る座ります。

「あなたもどこか適当な場所に掛けてください」

「いえ、わたくしは――」

「どうか。子どもたちにとっては年寄りの長話など聞きたくもない類だろうが、これは、ブラームス夫妻の死にかかわる話なのです。どうか私の告白を聞いていただきたい」

 私の、罪深い告白を――。

 司祭はそう言って、もう一度ピアを撫でました。
 アメリアが座るのを確認すると、司祭は話を始めました。

「街では――あなたに関して悪い噂が立っているようですね」

「司祭様……!」

 司祭の言葉に思わずアメリアは憤り、腰を浮かせます。
 しかしフィーネちゃんはアメリアの名前を短く呼び、制します。
 司祭の顔をじっと見つめる幼い主人の顔。フィーネちゃんは毅然と前を向いています。
 アメリアは失礼しましたと、椅子に座り直します。

「失礼しました、司祭様。――ええ、その通りです」

 フィーネちゃんが言いました。

「相当、気に病んでいたのですね。……自殺を思い立つ程に」

「――何故、それを」

「ご家族に遺書を残されたでしょう。心配したヨハネス様はそれを教会に届けてくれたのです。あなたの行いが、神に許されるだろうかと。――自殺が罪だということはご存知ですね」

 自殺は殺人と同等の罪――。いいえ、それ以上に罪深いとされている行いでした。
 自殺者は葬儀を行うことも、墓を作ることも禁じられています。
 牢屋に入れられる罪人でも、墓を持つことは許されます。葬儀も行われはします。
 自殺者は、それさえも拒絶されるならわしがありました。

「――知っていました」

 そう、フィーネちゃんはそんなことは承知だったのです。
 その上で遺書を書き、ひたすらに神に許しを乞いました。そして家を出て、橋に向かいました。

 フィーネちゃんは悲しくなったのです。
 パパとママが死んでしまったことも。その二人にひどい言葉をかけてしまったことも。
 それが原因で街の人たちからひどいことを言われることも。全て、何もかもが。
 どうすればいいのかわからなくなって、ただ救いを求めました。

 夜の街はとても静かでした。フィーネちゃんの悪口を言う人もいませんでした。
 あの日に死ななかったのは、単なる偶然だったのかもしれません。
 悲しくて悲しくて仕方ありませんでした。でも、それを責める声もしなかったのです。
 夜の街は静かにフィーネちゃんの嗚咽を聞いてくれました。
 死ななかった理由があるとすれば、それだけのことです。

「あの時は、パパもママも、本当に嫌いだと思いました。こんなにつらい中に私を一人にして、って。お誕生日は一緒にいてくれるって言ったのに……、約束したのにって……」

 段々とフィーネちゃんの声は弱弱しくなります。鼻をすする音が聞こえ始めました。

「お仕事だから仕方ないんです。……でも、約束したのにって。約束したのに、帰ってきてくれなくて……、死んだって、言われて。私、パパとママがいなくて寂しかったのに、寂しいってことも、言えないままだった」

2年前 No.46

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 聞いていてフォルテ君も段々に悲しくなって来ました。目頭が熱くなってきます。
 フィーネちゃんが苦しんでいた胸の内を思います。どんなに悲しくつらかったことでしょう。
 フォルテ君だって母親が死んで、埋葬さえできなくて、どれほど悲しい思いをしたことでしょう。
 愛していた人が死んでしまうというのは本当に、どうしようもなくつらいものです。
 フィーネちゃんはずっと一人で耐えてきたのです。

「それからずっと、泣いていて、最初はただ悲しかったのに……、いつの間にか、パパもママも約束を破ったんだっていう気持ちが強くなってきて、自分が一番かわいそうだって……、泣いてたんです。私は世界で一番不幸なんだって。本当にかわいそうなのは、死んでしまった人たちのはずなのに」

 誰もが最初、かわいそうだと泣いてくれました。
 でもだんだんみんなの声は励ましに変わっていきました。
 いつまでも泣いていてはいけないとか。泣いているとご両親が悲しむとか。
 そういうことを言う人を疎ましく感じるようになりました。

 自分は大切な人を一度に二人も失ったというのに。
 こんなにも悲嘆にくれているというのに。悲しみのどん底にいるというのに。
 それでもお日様は昇ります。街の人はいつも通りに暮らしているのです。
 それは何だか、とても許せないことに感じられました。
 ましてや元気を出してと言われるのはすごく腹が立ちました。

「――噂を聞いた時、少しだけホッとしましたね」

「――はい。噂を最初に聞いた時、なんてひどいって思う半分で、私は喜んでいたんです。みんなが私のことを恐れているって、すごく悲しかったけど、何だかとても安心しました」

 二人が死んでも、街は壊れもしないし、滅びもしませんでした。
 それどころか、街はブラームス夫妻の死を忘れようとしました。
 それがフィーネちゃんには許せませんでした。
 ブラームス家が作った街が、ブラームス家無しでも続いていく。
 それを認めたら、二人は何のために死んでしまったのか――。わからなくなります。

 だから、呪いで街が滅んでもいいと思いました。
 噂はブラームス家への信頼が残っている証拠でもあったのです。
 フィーネちゃんは悲しみの底でとても安心していました。

 街は自分を恐れている。ブラームス家の影響力におびえている。
 受け入れれば、そこはとても居心地のいい場所でもありました。

 自分は魔女の末裔。呪いで街を支配する――。
 パパも、ママも、この街も、何もかも、だいっきらい。
 全て滅んでしまえばいいんだ。この命と一緒に。

――そう思いました。

「それは間違っていますよ」

 司祭は静かに言いました。フィーネちゃんも静かに、はいと返します。

「間違っています。だから――壊すことにしたんです」

 その時、自分がひどく穢れた存在に感じられました。
 自分は家を穢してしまったのだと感じました。呪われたというのにふさわしい程に。
 だからフィーネちゃんは、悲しくなったのです。そして家を抜け出したのです。
 少しでもパパとママの近くに行くために。まだ心にきれいなものがあるうちに。

 そうですか、と司祭は俯き、膝の上のピアを見ました。

「今も死にたいと――あなたの世界を壊してしまいたいと思いますか」

 問われて、フィーネちゃんは静かに首を振ります。
 今はむしろ、このままでは死ねないという気持ちがしていました。
 こんな状況では、パパとママに合わせる顔がないと思いました。

――ああ、そうだ。そうだったんだ。

「いいえ」

 フィーネちゃんはきっぱりと答えます。

「それは何故?」

「ピアが許してくれました。私が生きていてもいいと言ってくれました。きっと私が昨日埋めた猫は、世界を呪って恨んでいた私自身だったんです。でも、その私は死んで、アンダンテさんが埋葬してくれました。ピアも帰ってきてくれました。フォルテ君も、アメリアも、叔父様も叔母様も、みんなこんな私でも生きていていいって言ってくれます。だから生きます」

「噂は残っていますよ」

「でも噂は噂です。私がちゃんといいことをしていれば、みんなわかってくれます。私がふさぎ込んでいるから立った噂なら、明るくしていればいずれ消えます」

 司祭は、老いた顔に淡い笑みを浮かべました。
 それはろうそくの光が揺らめいてそう見えただけかもしれません。
 本当に一瞬、瞬き程の間でした。でもフィーネちゃんには確かに笑ったように見えました。

「罪は許されると思いますか?」

 司祭は言いました。

「グリッサンドは罪人が許される奇跡が起こる街です」

 フィーネちゃんは言い切りました。

「――私が殺したようなものです」

 司祭は息が詰まるような声で言いました。

「ブラームス夫妻は街の再建を担っていました。私も再建計画の会議に出席していました。ブラームス卿が街を再建すると言った時、反対するものは誰もいませんでした。私ももちろん賛成だった。北市街の老朽化は著しく、いつ地震が起こるともわからないこの地では、耐震性のある街にしていくのは当然です」

 フィーネちゃんもその計画のことは知っていました。

「ただ、それは決して早急に進めることではなく、長い時間をかけて徐々に進めていくはずのものだった。着工も当初は、三年は先のことだという話になりました。でも、私は計画を急がせました」

 司祭はそこまで言うと激しくせき込みました。
 アメリアが慌てて背中をさすります。口を拭う布を見てフォルテ君はあっと驚きました。
 白い布は強かに血に濡れています。

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「失礼、私には時間が残されていなかったのです。私は自分が死ぬ前に街の再建の道筋だけは作っておきたかった。それが私の務めだと思ったのです。今思えば、自分の名誉のためだったのかもしれません。私は生きているうちに街の再建の着工に取り掛かりたかった。私が死んでも、街は残る。私の功績になる――そんな欲に取りつかれたのです」

 フィーネちゃんはただ黙って司祭の告白を聞きます。

「だから私は今年のヴィア・ドロローサには、着工が始まるように手配しました。ブラームス卿にも無理をしてもらいました。一月前、隣街に資材が届いたという報告が来たのです。私はすぐにブラームス卿に知らせて、確認し、受け取りに行ってくれるように頼みました」

 それは、とアメリアが慌てた声を上げます。フィーネちゃんはなおも黙っていました。

「ブラームス卿は断りませんでした。その日があなたの誕生日だということを私は知っていました。頼めばあの方は断らない確信もありました。その日ブラームス卿は出かけ、そして二度と帰ってこなかった」

――本当にごめんよ。急な仕事なんだ。

――そんな……。嘘つき、パパとママの嘘つき!

 何か胸の奥を鋭い刃物で貫かれたような感覚に見舞われました。

「……それじゃあ」

 フィーネちゃんはようやく絞り出すように言いました。

「お二人を死に追いやったのは間違いなく私です。本当にすまないことをしたと思います。――ごめんなさい」

 フィーネちゃんは何も言えませんでした。更に司祭の告白は続きます。

「そしてあなたが呪われているという噂が立つようになったのも私の責任です。崩落の知らせの後、私はあなたの家を何度も訪れました。許されるとは思いませんでしたが、あなたにはこの経緯を知らせなければならなかった。あなたはなかなか私との面会を許してくれず、私は日々消沈して帰りました」

 その頃は必死に自分の家の礼拝堂でお祈りをしていたのです。パパとママが無事であるように、と。

「あなたが人を呪うというのは、一連の私の様子を見ていた街の住人が言い出したことです。そして私はそれを知っていて、敢えて訂正をしなかった。あなたに無実の汚名を着せることに私は抵抗しなかったのです。それどころかあなたが絶対に私に会ってくれないとわかった後もしばらくあなたの家に通い、噂を助長さえしました」

「司祭様、あなた……」

 アメリアは蒼白な顔をして司祭を見つめました。
 司祭はアメリアの手を借りてようやく体を起こしていました。それでもなお話を続けます。

「私は自らの罪でブラームス夫妻を死に追いやってしまいました。私は最初、それを真摯な気持ちであなたに伝え、そしてあなたの怒りも甘んじて受け入れようと思ったのです。もしも夫妻を生き返らせることができるというなら、命を投げ出すことに微塵のためらいもありません。でもあなたはなかなか会ってくれなかった」

――許してくれなかった、と司祭はかすれた声で言いました。

「私の心の中は段々と穢れていきました。私はこんなにつらい思いをして謝りに行っているのに話すら聞いてもらえない――そんなあなたが呪われていると噂されようと、私は構わなかったのです」

 それにこうも思いました、と司祭は言いました。すでに顔に色はなく、目はうつろです。

「あなたが本当に呪いの力を持っていて、その力のせいでブラームス夫妻が亡くなったというのは真実かもしれない、と思ったのです。そうすれば二人が亡くなったのは私のせいではない。私は潔白でいられる――欺瞞です。私は結局、自分のわがままで二人を犠牲にし、それから目を背けるためにあなたを自殺に追いやったのです」

 さあ。

――こんな私をあなたは許してくれるでしょうか。

 そう言って司祭はフィーネちゃんを見据えます。
 その時のフィーネちゃんの目に浮かんでいたものを正しく理解できた人は、きっとフィーネちゃん自身も含めて誰もいなかったことでしょう。

――この人が、いなければ、パパとママは。

――生きていたかもしれないのに。

――私は、今も。

――それなのに、許せなんて。

 そんな思いがろうそくの炎が揺らめく刹那に、フィーネちゃんの心の中を激しく、ぞわぞわとかき乱していきます。

「――少し、考えさせてください」

 乾いた喉でフィーネちゃんはようやくそれだけ言えました。

「フィーネちゃん……」

 フォルテ君の声には構わず静かにフィーネちゃんは出ていきます。
 その後をフォルテ君とピアは追いかけます。
 アメリアは司祭に尋ねました。蒼白だった表情は幾分落ち着きを取り戻しています。

「司祭様、あなたのような敬虔な方が本当にそんなことを……」

「アメリアさん、人間というのは本当にもろい生き物です。白ければ白い程汚れてしまう服のように。気づいた時には、服は取り返しのつかない程汚れてしまっていることは少なくありません」

 確かに、と司祭は続けます。

「あの子に真実を話す必要はなかったかもしれません。あなた方に支えられ、ここにたどり着いた時の彼女はもうほとんど回復しているように見えました。あなたには、私の行為がまたもや卑しい欺瞞に思えるかもしれませんね。自らの罪に耐えかね、楽になりたいがために許しを請うているのだと」

 でも私は彼女の決断を知りたかった、と司祭は言いました。

「これから先、彼女は幾度となくこの一ヶ月の出来事を思い起こさねばならない時が来ます。自分のせいで両親が死んだと、あのいわれのない噂がふと脳裏を掠めた時、その時彼女の隣にあなたはいないかもしれません。あの旅人の坊やもピアも」

 アメリアはハッとしました。そして、黙って頷きます。

「そんな時、彼女は彼女を許すことができなければならないでしょう。私は許されなくても構わない。でも、せめて彼女は、自分に許されるべきだと思いませんか?」

 一滴の涙がその皺だらけの頬を伝います。
 アメリアはただただ見つめることしかできませんでした。

2年前 No.48

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 グリッサンドの夜はゆっくりとやってきます。
 地平線の向こうからふくよかな月が顔を出していました。
 明るいはずだ、とフィーネちゃんは思います。時が流れるのは本当にあっという間です。
 その圧倒的な力は、何もかも平等に押し流していきます。良いことでも、悪いことでも。

「フォルテ君は今までどんな街を旅してきたの?」

 煉瓦で囲われた泉の縁に、ピアを挟んで二人は座っていました。
 不意に尋ねられてフォルテ君は少し詰まります。でも、しばらく考えて元気に話し始めました。

「グリッサンドみたいないい街は久々だよ。たいていは小さな町。教会がある街は死者の救済が確立されてるから、行かなくていいってアンダンテさんは言うんだ」

 グリッサンドは大きいし教会もある。アンダンテさんが寄ったのが奇跡みたいだよ――。
 フォルテ君はそう笑います。

「普段行くのは、じめじめして暗いところ。鼻がおかしくなりそうな薬の臭いが立ちこめてる村だったり、全くだーれもしゃべらない町もあった。変な鶏が干からびたようなものを首からぶら下げてて、それがこの町の唯一の会話の方法なんだって。こんなに賑やかな街に入るのは珍しいんだ」

 フィーネちゃんは熱心にフォルテ君の話を聞いていました。
 それからぽつりと呟きました。

「私も、フォルテ君と一緒に行きたいな。私、商人の子どもなのにどこにも行ったことないから。パパとママが行った街に私も行ってみたい」

 フォルテ君は満面の笑みを浮かべて言います。

「おいでよ! いろいろ大変なこともあるけどきっと楽しいから。アンダンテさんはオレが何とか説得してみせるよ」

 そう胸を張るフォルテ君。フィーネちゃんは微笑みました。
 本当に行けたらいいなとぼんやり思いました。

――きっと素晴らしいことが、たくさんあるだろうな。

 ビュウと風が吹いて二人と一匹の間を通り抜けていきます。

「フィーネちゃんは……その、司祭様のこと許せない?」

 しばらく考えて、フィーネちゃんはゆっくりと首を振りました。

「わからないの。ううん、多分、憎いし、恨んでも、いると思う。でも、よくわからないの。どうして司祭様なんだろうって。どうしてパパとママが死んでしまったんだろうって。司祭様は絶対に意地悪でパパとママに仕事を急がせたわけじゃない。だって、本当にお具合が悪そうに見えたもの。きっと、どうにもならないことがあって、だから、パパとママは死んじゃったんだけど、それの原因は確かに司祭様なんだけど……。でも、司祭様を責めてもどうにもならないよね。あんなことになるなんて、誰にもわからないことなんだから」

「司祭様が死んじゃえばいいと思う?」

 突然、フォルテ君は物騒なことを言い出しました。
 しかし、フォルテ君の緑色の瞳は、それが冗談ではないことを物語っています。

「そんなこと……うん、そうだね。そういうことだね。私、また同じことの繰り返しをしようとしてる。ここで私が司祭様を憎んで、ひどいことを言って、それで司祭様がお亡くなりになったら、きっと私、また嫌になる。後悔すると思う。許せないってそういうことなんだわ。相手がいなくなってしまったときに、それは自分自身に呪いとして返ってくる」

――フィーネ。

 その時、フィーネちゃんの頭に、ブラームス卿があの日の少し前に出した謎かけが過ぎりました。
 聖ヤコブは自分の死を前に、それでも自分を殺そうとする者たちが主に許されることを望んだ。それはどうしてなのでしょう。
 今のフィーネちゃんと同じだったのではないでしょうか。
 自分の民が、侵略者を憎まないように、憎悪と復讐に縛られることなく、新しい土地で前を向いて生きていけるように、後悔にならないように願ったのです。

 司祭が行ったことは、確かにブラームス夫妻を死なせる結果になってしまいました。
 フィーネちゃんが街から差別される原因になってしまいました。
 でもそれは決してそうしようと思って行われたことではありません。
 だからフィーネちゃんはそのことで司祭を憎むべきではありませんでした。
 憎んだところでどうしようもなく、さらに司祭には残りの時間もわずかなのです。
 フィーネちゃんはそれを分かった上で、司祭も、街の人も許すべきだと思いました。
 少なくとも許したいと思いました。

 そして、自らの非を詫び、許され、改めてグリッサンドの人々に認めてもらおうと思いました。
 責めて、憎んでもどうにもならないことです。
 お互いの罪を認め合い、許し合って前に進まなければ。
 そうでなくては、何も変わっていきません。
 ただ恨みと憎しみという呪いの渦の中をぐるぐると回るだけです。

――そういうことだったんだよね、パパ。

2年前 No.49

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 答えを司祭に伝えるために、フィーネちゃんは駆け出しました。
 フォルテ君は急いでその後を追います。ピアはフィーネちゃんの後を追い、追い越して走っていきます。
 そしてあっという間に姿が見えなくなってしまいました。でも、フィーネちゃんはもう焦りません。

――ピアはどこにも行かない。私のことを待っていてくれる。

 フィーネちゃんは今、はっきりとそれを信じることができました。
 フィーネちゃんは呪われた娘だと呼ばれました。呪われたと言うのなら、呪ったのは誰でしょう。
 フィーネちゃん自身が自分を呪っていたのです。
 自分で自分を孤独と哀れみの渦の中に突き落としていたのです。
 度重なる不幸と不運がそう思わせていたのです。でもフィーネちゃん自身を呪うフィーネちゃんはもはやいません。

 それはブラームス邸の楡の木の下にいます。たくさんの花に囲まれて眠るように埋まっています。
 アンダンテさんが埋葬してくれたものです。

 グリッサンド――罪人が許される街。
 誰かに許されたいと思うなら、誰かを許せなければいけません。
 許されるとは許すということ。呪いとは――許せないこと。

 司祭の部屋の木戸の前にピアはいました。頬を寄せるように体をこすりつけています。
 フィーネちゃんがここに来ることを知っていたようです。そして今か今かと待ちわびているみたいでした。
 フィーネちゃんはその木戸をそっと開けます。中程まで開けるとアメリアが手伝って開けてくれました。

 中には司祭がいました。外にいたシスターもいました。
 寝床の上でもなお凛々しく座っています。峻厳としているようで、どこか慈悲深い面持ちでした。

「司祭様のこと、本当は少し、怒っています」

 フィーネちゃんは、短く言いました。

「でも、許そうと、許したいと思うんです。パパもママも、司祭様のことを恨んでいません。災いは天が起こすもの。パパとママが死んでしまったのは確かに司祭様が原因かもしれません。でも、それを責めても、何も変わらないんです。噂のこともそうです。司祭様のせいだ、司祭様が悪い、なんて言って責めても、噂がなくなるわけでも、パパとママが帰ってくるわけでもなくて、だから、上手く言えないんですけど――」

 フィーネちゃんは言葉に詰まります。司祭はただその宣告を静かに受け止めていました。

「――許します。司祭様がこれ以上ご自分を責めないように。私も、これ以上自分を責めないように。自分と、司祭様と、街の人たちみんな、許してまた最初からやり直そうと思うんです」

 フィーネちゃんはにっこりと笑います。
 パパもママもきっと、最期の時も司祭様を恨まなかった――。
 それは確信できます。二人はそういう人ではありません。
 二人を思うのならば、目の前の老人を責めることはできません。
 二人が愛した街を恨むことが、どうしてできるでしょう。
 それをしたら、本当に呪われた娘になってしまう――。
 そうフィーネちゃんは思いました。

「悔いることと許しを乞うことは別なのだと思います。私たちは自らの行いを悔いることはできますが、人間の罪を許すのは神様の仕事でしょう? ならば司祭様が自らの行いに罪を感じるなら、それを許せるのは神様だけです。私は司祭様の行いは潔白だったと思います」

 司祭はゆっくりと目を閉じました。

「街の再建は早い方が良かったに違いなく、司祭様が、自分が亡くなる前に段取りだけは作っておこうとするのは当然のことです。噂の話は司祭様の行動は一つも間違ってないでしょう? 謝りにいらしてくれたのを受け入れなかったのは私の罪です。司祭様は本当にお体が悪いのに……謝るのは私の方です。本当に、ごめんなさい」

 フィーネちゃんはそう言うと頭を深く下げました。
 ピアがフィーネちゃんの足元に首をこすりつけます。

――これでいいんだよね?

 フィーネちゃんは心の中でピアに問いました。ピアは目を細めて体をすり寄せます。
 体全体でフィーネちゃんを褒めてくれているように感じました。
 それから、とフィーネちゃんは言いました。

「街の再建を手伝わせてください。パパとママができなかったこと、私が引き継ぎたいんです。私にできること、やるべきことは、きっとそれだから」

 司祭はしばらく目を瞑っていました。それからゆっくりと呼吸を整えて静かに言いました。

「フィーネ・ブラームス、あなたを許します。天啓が下りました」

 フィーネちゃんは顔を上げました。
 優しい笑みを浮かべた司祭の顔がありました。まるでつきものが落ちたようです。

「あなたが今年のラビです」

2年前 No.50

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【十】

「――成程、それではミス・フィーネはご自身の意思でラビになることを受け入れたのですね」

 アメリアとフォルテ君がブラームス邸に着いたのは七時過ぎです。もうあたりは真っ暗になっていました。
 あまりに帰りが遅い三人を家の誰もが心配していました。ヨハネス氏も、クララ夫人も。
 ようやく帰ってきたかと思えば、一人足りないではありませんか。
 誰よりも大切なフィーネちゃんの姿が見えません。二人は大層驚きました。
 事情を聞くと、二人は更に驚きました。何とフィーネちゃんはラビに選ばれたというのです。
 ヴィア・ドロローサの主役とも言えるとても重要な役目です。

――お嬢様はお祭りのために教会ですでに禊に入っています。

 アメリアは言いました。

「おめでとうございます、ミスター・ブラームス、ミセス・ブラームス。彼女の栄誉に」

 アンダンテさんは、応接室にいました。そこでヨハネス氏とグラスを交わしていたのです。
 黙っていたかと思えば、嬉しそうにヨハネス氏にグラスを掲げます。
 一方でその報告を聞いた二人は落ち着かない様子でした。心配でどう受け止めてよいかわかりません。
 顔には喜びと不安がないまぜになった複雑な表情が浮かびます。

 グリッサンドでは最も名誉のある役目。それがヴィア・ドロローサのラビでした。
 しかしそれは同時にとても責任が重く、大変な役目でもあります。
 フィーネちゃんは決して体調も万全とは言えません。外に出かけられるようになったのも、つい最近のこと。
 二人の旅人がやってきてからのことでしかありません。
 それまでのフィーネちゃんはひどく落ち込んでいました。自殺を思い立つ程までに思いつめていたのです。

「……姪は、フィーネは大丈夫なのでしょうか」

 肘掛椅子に座りこむヨハネス氏の手をクララ夫人は両手で包みます。
 ヨハネス氏はその手を一度握り返し、アンダンテさんに問いました。
 アンダンテさんとフィーネちゃんは何の接点もありません。
 そんなアンダンテさんに保証などできるはずもないことです。
 それでも誰かに大丈夫だと言ってほしかったのです。それくらいに不安でした。

「信じることです。ミス・アメリア、探し物は見つかったのでしょう?」

「あ、そうですわ。旦那様、ピアは無事見つかりました。教会で保護されていたんです」

 アメリアがそう告げました。ヨハネス氏とクララ夫人は顔を見合わせます。

「それは本当かね、アメリア」

「ピアは生きていたの?」

 二人が同時に言うのでアメリアは少し言いよどみました。
 しかし、間違いありません、と落ち着いて答えます。

「では、昨日庭に埋葬したあの白い猫は?」

「あれもピアでしょう。お嬢様はそう仰った」

 アメリアの言葉と明らかに矛盾する答え。しかし何一つ問題ないかのようにアンダンテさんは答えます。
 ヨハネス氏とクララ夫人はもう一度、二人で顔を見合わせます。

「奇跡、というのはえてして起こるものですからね。ピアはミス・フィーネの祈りによって彼岸から舞い戻ったのです」

 アンダンテさんは両手を広げてそう言いました。
 二人は両手を組んで祈るように額の前にかざしました。それはとても畏れ多いことに二人には思えました。

「さて、夜も更けました。フォルテ君も戻ったことですし、私も仕事があるので今日は失礼いたします」

 そう言ってアンダンテさんは席を立ちました。これは、と気づいたようにヨハネス氏は立ち上がります。

「ミス・フィーネが無事にラビを果たせるように祈りましょう。奇跡は祈りの前に降ってくるものですから」

 アンダンテさんはそう言い残して扉を開きます。フォルテ君は話の邪魔にならないように脇に立っていました。
 でも、アンダンテさんに伴われて応接室を後にしました。

「よう坊主、久しぶりだな。相変わらず小っちゃいなりしてんな。少しは成長してんのか?」

 応接室の外の扉の前には黒い服の青年がいました。壁に背中を預けるようにもたれかかっています。
 その枯れ枝の色をした髪と、ハンチングの下で不敵に笑う深紅の眼を見て、フォルテ君は思わず声を上げました。

「プレスト兄ちゃん!」

「すまないねプレスト君、さっき話した通り、離れはあの状態なんでね。君と彼のために客間を開けてもらうようにお願いしておいた。ヴィア・ドロローサが終わるまでフォルテ君の面倒を頼むよ」

「っけ、急ぎで無茶な仕事させて今度は子守かよ。言っておくがこの仕事は別料金だからな」

 プレスト君は眉を寄せてため息をつくように言いました。
 ハンチングを乱暴につかんでいかにも憎々しげです。
 フォルテ君には話が見えません。どういうことかと聞くと、プレスト君が答えます。

「いいか、坊主。お前の師匠はな、一日でお前が昨日泊まった離れを使えなくしちまったんだぜ。今もそのことをこのお屋敷のご主人様に平身低頭謝りっぱなしでようやく、お前が泊まるための客間を貸してもらえる算段をつけてもらったってこった。で、偉大なるお前のお師匠様は離れで『壊れ物』をできる限り修復するからって、健気にも自分は夜も眠らずに修復作業だとよ」

「あ、アンダンテさん……」

 フォルテ君は不安げな顔をしてアンダンテさんを見上げます。アンダンテさんはそっぽを向いていました。

「ま、お前が気にすることじゃねえよ。お前は邪魔にならねえように隅っこで縮まってろ。あいつは離れに戻るが、お前は俺と一緒に客間だ。せいぜい、お金持ちの建築様式ってものを堪能するとしようぜ。こんなお屋敷に入れることは、もう二度とないだろうからな」

 そう言ってすたすたとプレスト君は歩いていきます。
 アンダンテさんも何も言わずに、背を向けて離れていきます。
 フォルテ君はアンダンテさんを追いかけようとしました。
 しかし、背中からプレスト君が、坊主、と呼んできます。
 あきらめるように後ろを向いて、プレスト君の後に続きます。

2年前 No.51

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「ねえ、プレスト兄ちゃん、アンダンテさんは何をしたの?」

「贖罪だよ。あいつはそれ以外に何もしてない」

「食材?」

 その言葉とともにフォルテ君のお腹がぐうとなりました。

「何だよ、お前夕飯食ってないのか?」

「だって、今日は本当にいろいろあって」

 責め立てるようにプレスト君は言いました。フォルテ君は思わず下を向いて腕をさすります。
 ピアを探す道中に怪我をしたところです。いろんな場所でついた傷は腕だけではありませんでした。

「あーあー、お前何だよ、傷だらけじゃねえか」

 プレスト君はかがみこんで、ぐいとフォルテ君の腕の傷を見ます。
 それからフォルテ君の全身をまじまじと見ました。あちこちに手当てのあとがあるその体を。

「子どもの傷は勲章って言うけどな。女の子のために負った傷ならそれこそ栄誉の負傷だけどよ。しょうがねえ、キッチンでなんか残ってないか聞いてきてやるよ。ここで待ってろ」

 プレスト君はそう言ってキッチンの方に向かいました。
 広い玄関ホールにフォルテ君だけが残ります。何だか急に一人きりになった気がします。
 唐突にフィーネちゃんのことを思いました。きっと、同じように今、教会で一人きりのはずでした。
 フォルテ君は帰り道にアメリアから聞いた話を思い出します。

――ラビとは、ヴィア・ドロローサのお祭りで、階段を昇る役目を担うもののことです。ラビを選定するのは司祭様の役目です。ラビは大体お祭りがある春分の一週間前から教会で禊を受けなければなりません。お嬢様の場合、祭りまで一週間を切ってしまいましたから、ぎりぎりになりますが、泉の水で体を清め、俗世のものを身に付けず、肉や魚を絶ち、一日中箱の上に座って過ごすのです。

 箱、とフォルテ君は聞き返しました。

 アメリアはそこがグリッサンドの頂上なのだと語りました。

――お祭りの前日から、ラビは立つこともままならない木製の箱の中に入ります。その箱の中では一切の物音は聞こえず、光も入りません。食事も禁じられ、最初の日に自分が入るのとともにいただける、はちみつと水とひとかけのパン以外は何も食べることは許されません。

 いわゆる断食という奴だ、とフォルテ君は思いました。

――そんな中でひたすらに聖句を唱え続け、一昼夜をかけて、街の男たちが箱を教会から門前に降ろします。そしてお祭りの日の零時、箱はようやく開けられ、ラビは空腹と、長時間閉じ込められていたことによる疲労で、神がかりの状態になりながらこの果てしない大階段を昇るのです。

 そう言ってアメリアは立ち止まって正門を見下ろしました。
 大きな大きな階段、ヤコブの梯子の中腹で。ずっと向こうに星明りのように小さく灯る門前のかがり火。
 それを何とも言えない表情で見つめていました。
 フォルテ君はふと振り返りました。背後には夜の闇の中に更に暗い巨大な石造りの教会。
 その気の遠くなるような長い道のり。到底、自分にはできそうにないなと思いました。
 フォルテ君はきっとすぐに餓死してしまうことでしょう。

――それでも、フィーネちゃんはやるんだね。

 アメリアは何とも答えませんでした。グリッサンドはフィーネちゃんが生まれ育った街です。
 お祭りがどういうものか。ラビが何をするのか。そんなことは十分承知だったことでしょう。
 それきり、二人とも何も言わずに、ブラームス邸に帰りました。
 そしてヨハネス氏たちに、そのことを報告したのです。

 きゅる、とお腹が鳴りました。お腹が空いているのは間違いありません。
 でも、自分だけお腹いっぱい食べていいのかと思ってしまいます。
 フィーネちゃんは、大変な試練に挑もうとしているのに。それも一人きりで。

「おー、どうした難しい顔して。腹が空きすぎて気分悪くなったか?」

 プレスト君が戻ってきました。両手には美味しそうなチキンのグリルを載せています。
 漂う香ばしいにおいに、口の中によだれが溢れます。おら、とプレスト君は右手の皿をフォルテ君に渡しました。
 目の前にそれがあると一層食欲をそそります。

 それでも――。

「プレスト兄ちゃん、ラビの人は、こういうものも食べられないんだね」

「お前はラビじゃないし、お前が食べない分がラビの腹にたまるわけでもない。食べないでいればお前の心はそれでいいかもしれないけど、体は決して満足しないし、ましてやお前以外の誰一人、それをありがたいとは思わない。いらないなら俺がもらうぞ」

 プレスト君は肉を一切れ指でつまんで食べました。
 これはなかなか、とどうやら気に入ったようです。
 フォルテ君は複雑な思いでプレスト君を見返します。視線に気づいてか、プレスト君は頭をかきました。

「あらかじめ食べないことが決まってて、生き物も殺さないならそれは意味があることかもしれないけど、殺しておいて、料理しておいて、いざ食べる段になって食べられませんっていうのは、尊いことでも何でもないぞ。お前が食べなきゃこれは捨てられるしかないんだからな」

「そんなこと、わかってるよ……」

 心を見透かしているかのようにプレスト君は答えます。フォルテ君は憮然として唇を尖らせました。
 フィーネちゃんのことを考えるとご飯も喉を通りません。それは本当です。
 でも、それをフィーネちゃんが喜ばないのも確かでした。むしろフィーネちゃんはそれを知れば、傷ついてしまうでしょう。

「ラビがこの家の娘の役目なら、お前にはお前の役目がある。せいぜいそれを見定めて、役目を果たすんだな。祈るってなそういうこった。食えるうちは神様が食えって言ってんだから、つべこべ言わずに食うんだな。いずれ食えない日が来ても後悔しないように」

――自分の、役目。

「……うん!」

 フォルテ君はプレスト君の言葉に元気よく頷きます。割り当てられた客間に入ってご飯を食べました。
 たくさん食べて、たくさん眠って。そして、たくさん考えようと思いました。
 今フィーネちゃんのために何ができるのか。自分は何をしたいのか。

2年前 No.52

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2年前 No.53

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 その頃、広場ではフォルテ君がぐったりと項垂れていました。
 何軒かの家を回って戸を叩いてみたものの返事はありません。誰もフォルテ君を相手にしようとはしません。
 このままでは、フィーネちゃんは一人ぼっちです。本当にたった一人で昇らなければならなくなります。
 この長い長いヤコブの梯子を。
 何か自分にできることはないか、フォルテ君は必死に考えます。でも、なかなか良い案は浮かびません。

「青菜に塩とはこのことだな」

 コツコツと石畳を叩く足音。フォルテ君はハッとして顔を上げました。

「あ……何だ、プレスト兄ちゃんか」

「何だとは何だ。ったく、俺の苦労も知らずに……。で、街の人間は説得できそうか?」

 フォルテ君は俯いて首を振ります。

「ねえプレスト兄ちゃん。どうして街の人たちはこんなにもフィーネちゃんにつらく当たるんだろう」

「それは街の連中にとっちゃそっちの方が安心だからさ」

 フォルテ君の隣によっこいしょと腰掛け、プレスト君は言います。
 自分の頭のあたりにプレスト君の腕があります。改めてフォルテ君は彼の巨躯を実感しました。

「どういうこと?」

「何故フィーネ・ブラームスは呪われた娘と言われたと思う?」

 プレスト君が聞きました。

「それは……、フィーネちゃんの身近な人がたくさん死んで、しかもフィーネちゃんは街の伝説を作った家の娘だったから、不思議な力があってもおかしくないと街の人たちは思ったからだよ」

「それは原因の方だな。俺が聞いてるのは理由だ。街の連中はフィーネ・ブラームスが呪われていると思うことでどうしたかったんだと思う?」

「どうって……」

 フォルテ君にはプレスト君の質問の意味がよくわかりません。

「この街は一枚岩の信頼関係があった。ブラームス夫妻を中心にして、グリッサンドの連中は団結していた。だが、その信頼関係の中心である夫妻が死んで、一枚岩は崩壊の危機に陥っている。街の人間は結束を守ろうとした。だから、その中心に自分たちを結束させるに足るものを無理やりはめ込んだんだ」

「それが……フィーネちゃんの呪い?」

「古典的な方法だよ。対立する関係は共通の敵を見出すことで結束する。街の人間はフィーネ・ブラームスを敵とみなすことで再び安定した。今の街の人間にとって、彼女が呪われていないことを認めることは再び結束が失われることを意味する。それがいやなのさ」

「そんな――!」

「だが活路もある。街の奴らが求めるのが結束だっていうなら、現状はむしろ好都合かもしれない。敵としてではあるけれど、連中はフィーネ・ブラームスを中心に結束していることには違いない。なら、彼女が劇的な力で街の信頼に足る存在になったとしたどうだ? 彼女はブラームス夫妻の代わりとして、街の長として信頼の中心に座れるんじゃねえか?」

「そうか――。もし、街の人たちにフィーネちゃんが呪われていないことをはっきりと示すことができれば、みんなフィーネちゃんのことを祝福してくれる。でも、どうやって?」

 活路が見えた気がして、フォルテ君は早口に聞きました。

「なあ小僧。お前も旅人の見習いならな、旅人らしく街の奴らを説得してみろよ」

「旅人らしく?」

「ちょっと待ってろ」

 そう言ってプレスト君は来た道を戻っていきます。
 しばらくしてプレスト君は、後ろに漆黒の馬を連れて来ました。
 彼の愛馬、ヴォルフガングです。ヴォルフガングの背中には黒いケースが括りつけられています。
 プレスト君はその一つを取り外すと、ケースを開きました。

「最近随分弾いてなかったからな。音がずれてるかもしれねえが……よっと」

 ケースの中から現れたのは、真っ黒なギターでした。
 鏡のように艶やかな表面。青い空に浮かぶ雲さえはっきりと映っていました。
 漆黒のギターを抱えるプレスト君。真剣で、彼が普段持っている軽薄な感じが少しもありません。

「ガブリエルって名だ」

 ヴァイオリンよりも二回り程大きな楽器。それをひょいと持ち上げてプレスト君は言います。

「楽器に名前があるの?」

「ああ、旅人の持つ楽器には全て名前がある」

 へえと感心していたフォルテ君はあっと息を漏らしました。
 アンダンテさんのヴァイオリンの名前をフォルテ君は知りません。思わずプレスト君に訊ねます。

「エーデル……。二度と忘れるな」

 プレスト君は呟くようにそう言いました。

「旅人の楽器ってのは本当は鎮魂のために使うもんなんだが……まあいいさ。小僧、お前、ヴォルフガングに合わせてタップを踏め」

「タップ?」

 ヴォルフ、とプレスト君が小さく呼びました。
 そしてギターをかき鳴らします。すると、漆黒の馬は前足二本を器用に踏み鳴らし始めました。
 それは見事に軽快なリズムを奏でます。

 タン、タン、タタタン。タタタン、タタタ、タタタ、タタタン。

 ヴォルフガングは世界最速の郵便馬車馬、タップを踏むなど造作もないことでした。
 蹄の音は石造りの街全体に響き渡りました。
 硬い壁に反響して。踏みしめられた石畳を伝わって。プレスト君のギターがそれに彩りを加えます。
 時に激しく、時に緩やかに、緩急をつけて、闊達に。二つの旋律が美しい音楽を生み出しました。

「すごい! オレもやりたい!」

「お前、礼服のローファーを持ってるだろ? お前の師匠はその様子だとまだ教えてないみたいだが、ありゃタップシューズなんだぜ。取ってこいよ」

 フォルテ君は目を爛々と輝かせました。大急ぎでブラームス邸に戻ると、靴を履き替えます。
 そして急いで来た道を戻ります。確かに言われた通りでした。
 石畳を走るたびに、かつんかつんと高い音を立てます。その靴音に足取りも軽くなります。

 その足音に、何事かとふとある人はドアを開けました。ある人は窓から広場を覗きます。
 そして、広場には少しずつ人が集まり始めました。その軽やかな音色に誘われるように。

「さあ、よってらっしゃい見てらっしゃい! 奇想天外摩訶不思議、本日皆様にお目にかけるのはこちらに控える悪戯好きの腕白小僧、その名もクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ! ある日彼は靴をもらった。そしてその靴、歩いてみるととっても素敵な音がする」

 プレスト君がフォルテ君に目配せをしました。フォルテ君は、慌てて足を踏み鳴らします。
 カン、カンと足の裏から脳髄を揺さぶるような軽快な音がします。

「そこで少年、タップの先生に手ほどきをしてもらおうと街で一番きれいな足音をさせてる人を探した。そして見つけた一番きれいな足音の持ち主はあろうことか人間じゃなかった! そう、少年にタップを教えてくれるのは何と馬! 走らせたなら疾風のごとく、荷を運ぶのも何のその! 世界一のクシコスポスト、ヴォルフガング!」

 プレスト君が大きな声で言い、ギターをかき鳴らします。
 するとヴォルフガングが小刻みに蹄を鳴らしました。周囲から歓声がわき起こります。

「おい坊主、見てみな」

 フォルテ君が振り返ります。周囲にはすでに小さな人だかりができ始めていました。
 ほとんどはフォルテ君より小さな子どもです。それでもみんな興味深そうに、こちらを眺めています。

「さあ、少年が馬にタップを習うこの舞台、見逃したなら一生モノの後悔になること間違いなし。よってらっしゃい見てらっしゃい!」

 それからフォルテ君は一生懸命タップを踏みました。ヴォルフガングの蹄に合わせて。
 フォルテ君はタップの心得はありません。ですからうまくできるわけがありませんでした。
 しかし、失敗をしてもプレスト君が時に茶化して笑いに変えます。
 ヴォルフガングはあきらめの目線を投げかけたりします。そして不肖の弟子に呆れたように鼻息を鳴らしました。
 集まった人たちは大笑いし、拍手を送りました。

 どれくらい経ったでしょう。フォルテ君にはとても短い間に思えました。
 でもいつの間にか東の空の太陽がちょうど真上に来ていました。
 フォルテ君は夢中でタップを踏んでいました。自分が汗びっしょりなことにも気づきませんでした。

「なかなか良いステップじゃねえか坊主。ほら、観客に挨拶がまだだ」

 プレスト君が言いました。フォルテ君は観客の方に向き直り、深々と頭を下げます。
 人はまだそんなに多くありません。でも見ていた人は惜しみない拍手を送ってくれました。
 ふと物陰でこちらを覗いている三人の小さな子に目が合いました。フォルテ君は小さく手を振ります。
 すると三人は恥ずかしそうに眼をそらし、去ってしまいました。

2年前 No.54

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 そうしての二人と一頭は徐々に人だかりを作っていきました。
 三日目の夕方には街の半分くらいの人々が集まっていた程です。
 プレスト君の演奏に合わせて踊る人や歌う人。まさにお祭り騒ぎです。
 公演に合わせ、露店で食べ物やお酒を売る人たちも出てきました。二人が演奏をしている最中は街中がわき立っています。

 ヴィア・ドロローサはグリッサンドで最も歴史のあるお祭りです。
 街の人たちだってこのお祭りを毎年とても楽しみにしていました。誰も、やりたくないなどと思っている人はいません。
 フォルテ君たちの公演も三日が経ちました。いよいよお祭りは明日に迫っていました。

「みんな聞いてくれ」

 音楽がやみ、広場がしんと静まり返りました。群衆の中心でプレスト君が立ち上がって言いました。

「どうして例年通りに祭りをしない。屋台を出して、装飾を施さない。こんなチンケな演奏じゃなく、伝統と誇りに満ちた祭典がこのグリッサンドにはあるだろう」

 水を打ったような広場の中、一人の年老いた男が進み出ました。

「どうにもならぬ事情があるのだ。ある魔女が司祭様をたぶらかし、ヤコブの梯子を汚そうとしておる」

「フィーネ・ブラームスか」

 プレスト君がそう言うと、男はわずかに身じろぎました。

「かつて十字架の聖女が何故この階段を昇ったか、その罪状をあんたらはよく知っているはずだ。かつて聖ヤコブが、何と言われて十字架を背負ってあの階段を昇ったか、あんたらが一番よく知っているだろう!」

 広場には徐々にどよめきが広がっていきます。それに負けないくらい大声でフォルテ君は叫びました。

「そうだよ! フィーネちゃんが魔女なんて、そんなわけない! フィーネちゃんは泣いてたんだ! 死のうとしてたんだ! 自分がいるせいで人が死んじゃうからって!」

「あの娘は呪われた娘だ!」
「かかわると殺される!」
「ブラームス夫妻を呪い殺した!」

 フォルテ君の声に一斉に集まった人たちは怒号の雨を降らせます。
 フォルテ君はたじろぎました。今にもその人だかりは二人に襲いかかってきそうに見えました。
 フォルテ君は後ずさりしそうになります。しかしそんな彼を、プレスト君はそっと支えました。

「プレスト兄ちゃん……?」

 その時です。ヴォルフガングが嘶きました。前足を高く振り上げ、首を伸ばし、雄叫びを上げました。
 もちろんフォルテ君もびっくりしました。
 しかし、それ以上に街の人たちは驚いたようです。あたりは一瞬で静まり返りました。

 フォルテ君はプレスト君を見上げます。そこにいたのは見知ったプレスト君ではありませんでした。
 いつもの気怠げな表情はありません。握り拳を固め、プレスト君は怒っていました。
 でもそれは、街の人たちに対してではないように感じられました。

 しかし、一瞬でその違和感は消えてしまいました。
 プレスト君は一度大きく息を吸います。そして街の人々に向かって言いました。
 その表情はフォルテ君の知っているいつものプレスト君でした。

「あの娘が、望んで本当にそんなことをすると、あんたたちは思ってんのか」

 前に立つ男はしばらく何か言おうと口を開け閉めしていました。
 しかし、その内項垂れてしまいました。その姿は、グリッサンドの街の住人全ての心を表していました。

「あんたらも本当はわかっているはずだ! この街には悪人なんかいない。魔女もいない。誰もかれも善人ばかりで、本当は祝福に満ちた街だったじゃないか! 思い出せ、ブラームス卿が何をしていたか。あんたたちに何をしてくれたか!」

 一人の男が呟きました。

「私たちは取り返しのつかないことをしてしまった。今更許してもらえるはずがない」

「それは違うよ」

 フォルテ君が男の前に立って言いました。

「それはフィーネちゃんが決めることだよ。許してくれないだろうから間違ったままでいいなんて、そんなのおかしいよ。許してくれてもくれなくても、間違っていると思うなら謝らなくちゃ」

「少年、君は小さいし旅人だからわからない」

「そうかもしれない。でも、みんな聞いてほしい。街の人たちみんなに聞いてほしい。フィーネちゃんがどういう気持ちで、この長い階段を、飲まず食わずのフラフラの状態で昇るっていう試練に挑むのか。フィーネちゃんは、街の人たちに謝りたいんだ。心配や不安を振りまいて、みんなに迷惑をかけたことをすまないと思ってる。本当にすまないと思ってるから、つらい試練も覚悟した」

 フィーネちゃんはきっと街の人を恨んだりしていません。
 だからこそラビを受け入れたのです。自分の罪を認めたからこそ、試練を受け入れる覚悟をしたのです。
 街の人たちにはその覚悟を見届ける責任がありました。

「だからみんなに、フィーネちゃんの覚悟と誠意を見てほしい。明日、フィーネちゃんはこの階段を昇る。それを見て、それでもみんなが、フィーネちゃんが魔女だと思うなら、その時は好きにすればいい。許すか許さないかみんなが決めればいい。でも、フィーネちゃんが謝るのを見もしないで、許さないって決めつけないでよ!」

 日が西に傾き、街の人々はそれぞれの家へと帰っていきました。閑散とした広場に二人だけが残りました。

「みんなわかってくれたのかな、プレスト兄ちゃん」

「さあな。でもやることはやったろ。あとは嬢ちゃんが儀式を無事に終わらせるのを願うしかない」

「うん」

「それからな、坊主」

 ガブリエルをケースに仕舞いながら、プレスト君は言いました。

「困ってる人を助けてやるのは基本的におせっかいなんだからな。転んだ奴は自分で起き上がるしかない。悩んでる奴は自分で道を見つけるしかない。助け起こしてやろうとか、答えを教えてやろうなんて思わない方がいい。それは親切じゃないし、いつかお前は誰かを助け起こそうとして自分も一緒に転ぶことになる。お前の足はお前以外の人間を支えるようにはできてない。人間は結局一人で立っているしかできない。もたれ合ったり支え合ったりしてると、二度と立てなくなるぞ」

「え?」

「普通のおせっかいなお人よしとして生きていくなら別にそれだって構いやしないし、立派な生き方だと思うがな。でも、お前が自分のことを旅人だと思っていて、これからもお前の師匠と一緒に旅をしていくつもりなら、そういうのはやめろ。いつか後悔する」

 ヴォルフガングの黒い背にケースを括り付けるプレスト君。
 その顔はフォルテ君からは見ることができませんでした。
 ただ、その声は小さく、その分深刻な響きを持っていました。
 意味を聞こうとするフォルテ君の背を、冷たい風が撫でます。
 汗の染みたワイシャツにそれは、冷たい感触を伝えます。フォルテ君はくしゃみをしてしまいました。

「おら、さっさと帰って、一っ風呂浴びて飯にありつこうぜ。ったく余計な体力使っちまった。お前らとかかわるとロクなことねえよ」

 プレスト君は前の言葉をかき消すように大きな声で言いました。
 鼻をすすりながらきょとんとするフォルテ君。そんな彼を置いて早々と階段を昇っていきます。
 その先の坂道の頂上――教会の隣に大きな月が浮かんでいます。
 ヴィア・ドロローサが、ついに明日に迫っていました。

2年前 No.55

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【十一】

――私たちは階段を作る。私たちは階段を作る。
 天高く続くいただきに。いただきに階段を作る――。

 体を横たえることできない程狭い箱の中。
 フィーネちゃんはひたすらに祈りの言葉を唱え続けています。静かに箱の中の小さな箱に座って。

 いえ、もう唱え続けているという感覚はありませんでした。
 それは呼吸と同じくらいに自然なことになっていました。
 意識して唱えているのではありません。唱えていることが自然で当然なのです。

 箱の中には明かり一つありません。音もフィーネちゃんが唱える聖句以外には何も聞こえません。
 本当に狭い箱の中でした。座っていてなお、頭をかがめなければ天井に触れてしまう程です。
 フィーネちゃんは背を丸め、ずっと同じ言葉を繰り返し続けます。

 箱に入ったのがどれくらい前のことになるのか。そして後どれだけここにいなければならないのか。
 もはや何一つ気にはなりません。何故自分が祈っているのかも、今自分が何をしているのかも。
 何もかもわからなくなってどれくらい経ったでしょう。果てしない祈りの中。
 フィーネちゃんは自分が何者なのかも失ってしまいました。

 暗闇はいつまでもいつまでも無限に続くように思われます。一時間が過ぎ、半日が過ぎました。
 一日が経過する頃には意識はどこか遠くに、おぼろげに浮かんでいました。
 神がかり――というのでしょう。毎年、ラビはこの極限の状態の中で一歩ずつ階段を昇るのです。
 そしてまさに今、フィーネちゃんは箱から出されます。
 このグリッサンドの正門から山頂の教会まで延々と続く大階段。――ヤコブの梯子を昇ろうとしていました。

 ヴィア・ドロローサが始まるのです。フィーネちゃんを取り囲む樫の木の板が外されました。
 その姿があらわになります。彼女を知る人には、その姿はとても痛々しいものに見えました。
 春の新芽のような若々しい緑色をした目は一点の光もありません。
 鈴が転がるような声で笑う唇は渇いてひび割れています。所々ささくれ立ってさえいました。
 櫛の通されていない髪は乱れたまま。そしてかなり痩せてしまっているのが一目にわかります。

 フィーネちゃんはすでに自分の名前もわかりません。
 それでも自分が今何をすればいいのかは覚えていました。ゆっくりと箱の上から立ち上がります。
 そして目の前にそびえたつ階段を昇ろうとします。
 しかし、足腰はすっかり萎えていました。
 丸一日も動くことを禁じられていたのです。思うように動かせるわけがありません。
 最初の一歩にフィーネちゃんは転び、身を打ち据えました。

 その痛みはあまりに新鮮で強烈に感じられました。
 あらゆる感覚を遮断されていた中で久しぶりに感じる痛み。刺激が強すぎて声を上げることもできません。
 ただ荒い息を吐きます。そして、それでも四つん這いになりながらゆっくり動き始めます。
 虫のように、一歩ずつ。這うようにして階段を昇ります。

 裸足の両足はぺたりぺたりと歩くたびに、小さな音を立てます。
 春先の夜の石畳の階段はとても冷えていました。
 もちろん真冬のように足の皮が凍って張り付くことはありませんが、すぐに冷えた末端は感触を失いました。
 それからはもう、意志の力だけで体を動かすしかありません。

 目は箱の中ですっかり衰えてしまいました。いまだに焦点をうまく合わせることができません。
 ぼやけた視界には街並みさえおぼろに映ります。高みにそびえる教会は、一向に近付いている気がしません。
 心臓だけは激しく脈打って、今にも口から出てきてしまいそう。
 フィーネちゃんは心臓が出ないように口をつぐみます。
 そして元に戻すようにごくりとつばを飲み込もうとしました。
 しかし、口の中はカラカラで、逆に喉が張り合わされたようになって咳き込んでしまいます。

 ぺたりぺたり。

 フィーネちゃんは震える手足を必死に動かします。階段を一段、また一段と昇っていきます。

 ぺたり、ぺたり。ぺたり、ぺたり、コツ、コツ。

 不意に背後から聞こえた靴音。
 フィーネちゃんは一瞬立ち止まります。しかし、すぐにまた階段を昇り始めました。

 ぺたり、ぺたり。コツコツ、カッカッ。

 ぺたり、ぺたり。コツコツ、カッカッ。

 それは明らかにフィーネちゃんのものではない足音です。
 革靴とハイヒールの靴音でした。誰か二人が、階段を昇っているのです。フィーネちゃんの後につき従うように。

――誰。

 フィーネちゃんは心の中で問いかけました。
 もちろん答えはありません。フィーネちゃんが一段を昇るたびに、一段。
 昇るまでずっと立ち止まって、昇るとすかさず一段を昇る足音。
 振り返りたくても、それは許されないことでした。
 ヤコブの梯子でラビが振り返ることは、試練を放棄する合図。振り返れば祭りは中止。
 その時点で教会のシスターたちが、手当てをしてくれます。しかしそれは同時に、祭りの失敗を意味することでした。

 もちろんもうフィーネちゃんはそんな戒律を覚えてはいません。
 しかし十三年をこの街で過ごした体はそのことを覚えています。
 心の奥底には祭りの決まりがしみついています。
 それがフィーネちゃんに戒律を守らせていました。

 ぺたり、ぺたり。コツコツ、カッカッ。

 一歩を踏み出すたびに、誰かは同じ歩幅で一歩進みます。離れもしなければ、近付きもしませんでした。

――あなたたちは誰。

 ぺたり、ぺたり、コツコツ、カッカッ。

――どうしてついてくるの。

 ぺたり、ぺたり、コツコツ、カッカッ。

――シスター? 教会の人たち?

 ぺたり、ぺたり、コツコツ、カッカッ。

――ヨハネス叔父様、クララ叔母様?

 ぺたり、ぺたり、コツコツ、カッカッ。

 後ろを振り向けば、全てを終わりにすることができます。
 振り向いてしまいたいとも強く思いました。それでも、前へ、前へと少しずつフィーネちゃんは歩きます。
 振り返ってはいけないのだと、体だけが覚えていました。

2年前 No.56

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2年前 No.57

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「本当に、どうにもならないことなのかな。せめて一目でもフィーネちゃんの姿を見てくれれば、絶対にわかると思うんだ。あんな必死の女の子を見て、放っておける人、いるわけないよ」

「そうですね……」

「こんな時にあの時みたいにサイレンが鳴ったりすればいいのに。そうしたらみんなヤコブの梯子に集まるんでしょう?」

 フォルテ君は井戸に落ちた時の光景を思い出して言いました。
 それを聞いたアメリアの顔色が目に見えて変わっていきます。
 アメリアは何かを呟きながら、唇に手を当てて考え込みました。

「アメリアさん?」

「それだわ、それですわ、フォルテ様……聖人は血にまみれて角笛の中を昇るのですわ。お嬢様は血にまみれていないし、角笛が鳴っていない」

 言うや否やアメリアは走りだしました。フォルテ君は慌てて後を追いかけます。
 裏道を通って広場から一気に駆け上がります。そのまま横道を走ってブラームス邸にたどり着きました。
 お屋敷は人気がなく、明かりもほとんどついていません。静まり返っていました。

「ここを開けてください!」

 アメリアは門扉に手をかけて門番に怒鳴りつけるように言います。門番はアメリアを見つけて眉をひそめました。

「フィーネ様を見捨てたあなたが今更何の御用でしょうか」

 アメリアは今になって、お屋敷をやめたことを後悔しました。
 しかしここで立ち止まるわけにもいきません。
 その時、後ろから息せきかけて追いかけてきた声がありました。フォルテ君です。
 アメリアはすかさず門番に緊急事態ですと言いました。

「こちらの旅人のお弟子様がお嬢様の試練に必要な大切な道具を屋敷の中に忘れたままにしていると。取りに行きたいので開けてもらえませんか?」

 それを聞くと、威圧的だった門番の表情が不安げに曇りました。

「しかし、もうヴィア・ドロローサは始まっていますよね。大丈夫なのですか?」

「お嬢様が教会に到着するまでに間に合えばいいのです。開けてください。それともこのままお嬢様の試練が失敗に終わるのを待ちますか?」

 アメリアが少し強い口調で言いました。めっそうもないと門番は二人を門の内へと通します。
 フォルテ君はきょとんとしていました。しかしアメリアに手を引かれるように門をくぐりました。

「わたくし一人ではやめた手前お屋敷に戻ることができないのです。勝手に嘘のだしにしてしまってすみません」

「それはいいけど、何をするつもりなの、アメリアさん」

「サイレンを鳴らすのです」

 え、と思わずフォルテ君は立ち止まってしまいました。アメリアは振り返ってフォルテ君を見つめます。

「この街でサイレンを乱用するのは重罪です。ですからフォルテ様をこれ以上巻き込むわけにはいきません。どうかここでお待ちになっていてください。ここからはわたくし一人で行います。たくさんのご助力とお導き、言葉もありません」

 そしてまた、アメリアは深く頭を下げるのでした。

「冗談でしょ。ここでサヨナラなんて、悲しいこと言わないでよ。最後まで付きあわせて」

「わたくしはこの街の人間です。そしてブラームス家に仕えた身。主人を助ける義務があります。フォルテ様はお客様です。これ以上のご面倒をおかけできません」

「オレはフィーネちゃんのともだちだよ。ともだちが困ってるなら、助けるのは当たり前だよ」

 フォルテ君は毅然とアメリアの目を見つめます。アメリアは睨み付けるように見返します。
 そしてふと顔をほころばせました。

「この街に訪れた旅人があなたでよかった。こちらです」

 それから二人はお屋敷に入ってヨハネス氏の書斎に向かいます。
 その間中、誰とも会うことはありませんでした。お屋敷の人たちは、みんな教会でお祈りを上げているのでしょう。
 ひたすらにフィーネちゃんの試練の成功を祈って。

 書斎は鍵がかかっていませんでした。
 中に入ると、フォルテ君の前にたくさんの本の山が現れました。
 積まれた本が、絶妙なバランスでお互いに支え合っています。
 いろいろな学術書。壁のあちこちに貼られた設計図のようなもの。複雑な計算式の書かれた紙の山。
 いかにも発明家の部屋という感じでフォルテ君は驚きます。

「わぁ、すごいお部屋だなぁ!」

 自分を驚かせたサイレンもこの人が発明したんだ。プレスト兄ちゃんを驚かせた馬車も――。

 その部屋はそれらの業績を認めさせる説得力がありました。
 アメリアは見慣れているのかそれに構うこともありません。
 手際よく壁面の本棚の一冊を引き抜きました。ガチャリと錠前の開くような音が響きます。
 アメリアはそのままその本棚ごと壁を押します。するとそこがドアのように開いて、中に部屋が現れました。
 物置と言っても差し支えない小さな部屋です。中にはフォルテ君が見たこともない機械がひしめいています。
 アメリアはその部屋の中から鐘をいくつか取り出しました。

「これは警報がなかった頃に街の人に避難を知らせるために使っていた半鐘です。フォルテ様はこれを鳴らして街を走り回って街の人をヤコブの梯子に案内してください」

 フォルテ君はぽかんと口を開けたままです。
 アメリアは小さく笑って、その部屋の椅子に腰を掛けました。
 赤いボタンを押します。すると机の上の赤いランプが点滅し始めました。それとともに大きな音が鳴り渡ります。

「わたくしはここで可能な限り警報を鳴らし続けます」

 アメリアは目配せをし、フォルテ君に街に戻るように示します。
 フォルテ君は頷きました。そして、手の中の鐘を大きく打ち鳴らし、叫びます。

「みんな! 大変だ! 今すぐヤコブの梯子に集まれっ!」

2年前 No.58

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

 街中はあっという間に赤い光でいっぱいになりました。
 あちこちで警報のサイレンが唸りをあげます。何の前触れもなくいきなり鳴りだした警報。
 街の人たちは驚きました。警報が鳴るのは主に採掘所で爆発がある時です。
 爆破の日程は月ごとに街の掲示板に張り出されます。その日からずれることは決してありません。
 その予定にない警報が鳴っているのです。街の人々は大慌てです。

 それでも地震の多いグリッサンドでは初めてではありません。
 この街の人たちは、こういう事態に慣れています。
 今は亡きブラームス卿が確立した避難時の手引き。何度も行われた避難訓練。
 それが反射的に街の人たちの足をヤコブの梯子に向かわせました。
 半鐘が鳴っているのが遠くの方に聞こえます。

 何事だろう、一体何が起こったというのだろう――。
 それ見たことか。呪われた娘が厄災を招いた――。

 そう思いながら駆け足で人々はヤコブの梯子に集まります。そしてその光景を見て思わず息を飲みました。

 そこには階段を昇る少女の姿がありました。生まれたての鹿のように頼りない足取り。
 弱弱しくも、懸命に地面を踏みしめています。全身から汗が滴り落ちて階段を濡らす程です。
 顔を濡らしているのは涙なのか汗なのか、もう判別もつきません。

 満月とかがり火と、そして避難を知らせる赤い光。それらがその苦難の表情を照らしています。
 少女の姿はこの地に伝わる古い伝承と何一つ変わりませんでした。
 この街を異国の侵攻から守った最初の公爵、聖ヤコブと。
 魔女として引き出され、神に許された聖女ヴェロニカと。
 苦痛に耐えながら、死力を尽くして階段を昇っている少女。
 今、人々の目の前に、まさに伝説が顕現しているのです。

――かくて聖人は血の衣を纏い、鳴り響く角笛の下、罪を背負いて階段を昇る。

 彼女の姿を見た街の人々は立ち尽くし、そしてひれ伏しました。
 手を組み、頭の前に掲げ、そして無言で祈ります。
 自分たちは愚かだったと誰もが思いました。信じるべき、尊いものは目の前にあったのです。

 やがて、そうして祈る人々の人垣ができました。
 ヤコブの梯子の両脇に壁のように並びつくしています。
 もはやこの少女が呪われているなどと、誰一人思っていません。
 呪われるものがこの清浄なる階段を昇れるはずがありません。
 ましてこの困苦に耐えうるはずがありません。
 試練を果たそうと挑むものが呪われているわけがないのです。

 グリッサンドの人々は祈ります。
 彼女が試練を果たすことは彼女自身の罪が許されること。
 またそれは街の住人自身の罪も許されるということです。
 誰もが涙を浮かべて祈りました。自分の罪に許しを求めて。

「大変だ……、大変だよ……はあ、はあっ、……はあ」

 フォルテ君は大声で叫び続けながら半鐘を打ち鳴らします。
 それはもう街中の至るところを駆け回りました。その鐘に続いて多くの人たちが窓から顔を出しました。
 そしてヤコブの梯子の方へと向かいます。
 フォルテ君はもう息も絶え絶えでした。思わずその場に倒れ伏してしまいました。

――こんなものじゃない。フィーネちゃんはもっとつらい思いをしているんだ。

 フォルテ君は自分にそう自らを奮い立たせようとしました。
 しかし、もはや寝返りを打つことも満足にできません。
 もう街では、家の中に残っている人はほとんどいませんでした。
 多くの人がヤコブの梯子に集まっていました。
 それでもフォルテ君はそれでもまだ走り回っていたのです。
 息が苦しくて、目の前が暗くなっていきます。

――ダメだ、もう動けない。

 そのままフォルテ君のまぶたはぴたりと閉じてしまいました。
 そして、深い寝息を立て始めます。やがて背の高い男が物陰から現れました。
 男はフォルテ君を抱き起して、肩に担ぎ上げました。

「ホント、むちゃくちゃやる奴だよ、お前……。なあアドルフ、あんたこの子に何をさせようと思ってんだ」

 呆れたような顔でプレスト君は言います。
 そして、ハンチングの下で、悩ましげに肩の少年を見ました。
 そのままプレスト君はブラームス邸に入っていきました。

「ヨハネス様、クララ様! お嬢様が!」

 教会の聖堂で祈るヨハネス氏と、クララ夫人。二人は駆け込んできたアメリアの姿に驚きます。
 今年のヴィア・ドロローサは例年のものと全く違っていました。
 フィーネちゃんがラビに選ばれたこと、見知らぬ旅人が言うままに教会に嘆願して二つの棺を祭壇の下に置いてもらったこと、そしてこの騒ぎ。
 二人はあまりの慌ただしさにどうかなってしまいそうでした

「アメリア、どういうことだね、街中の警報を鳴らして、一体何があったというのだね」

「ご叱責はことが済み次第賜ります。それよりフィーネ様が……」

 ヨハネス氏はその言葉に、そのまま聖堂から出ました。
 そして、教会の門の前に立ちます。そこは大階段、ヤコブの梯子から連なる教会の門前。
 目の前に広がる光景に、ヨハネス氏は言葉を失いました。

 目下に広がる階段の向こうに、大きなかがり火の群れが見えます。
 階段を昇る人々のかがり火です。間違いなくフィーネちゃんの背後につき従っていました。
 祈りの歌声が聞こえます。誰もがフィーネちゃんの試練の成就を祈っていました。

 クララ夫人も、アメリアに車椅子を押されて同じく声を失います。
 ようやく目の当たりにしたその光景。ああ、と小さくため息を洩らします。
 街の人々がフィーネちゃんを受け入れてくれたという事実。
 それにヨハネス氏は崩れ落ちました。そしてクララ夫人の膝に泣き縋るように頭をうずめます。
 彼女も夫の頭を優しく包むようにしてそして、泣きました。
 フィーネちゃんは兄夫婦が亡くなって、一人残された娘でした。
 それが街の人たちから恨まれて、二人には何もできませんでした。
 そのことにどれだけ悩んでいたことでしょう。どれ程こんな日を待ち望んでいたことでしょう。

 ヨハネス氏はふと懐中時計を見ました。日の出は六時です。今は五時十五分。
 かがり火の群れは、ゆっくり一段ずつ昇っていきます。まるで日の出に合わせるかのように。
 間に合うか、間に合わないか。ちょうどそのギリギリの境界にいるような微妙な状況です。

「祈ることです」

 後ろから低い声がしました。いつの間にか黒衣に身を包んだ髪の長い男性が立っていました。

――アンダンテさんです。

 その足元からピアが飛び出しました。
 白い猫は、一目散に教会の外にかけて行きます。階段を昇るフィーネちゃんのもとへ。

2年前 No.59

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

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2年前 No.60

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「そなたが……して、異議のあるものとは?」

「二人の罪人、いえ、全ての罪人の罪を決定づけ、このグリッサンドの混乱の根源となった方々です」

 フィーネちゃんは思わず目を見開きます。その言葉の意味することが理解できたからです。
 二つの棺、自分の罪のその始まり。それは――。

「お二人はもうこちらにいらしています。皆様にももうお見えのはず」

 アンダンテさんがヴァイオリンの弦を一本弾きました。
 キーンと冷たい音が静かにこだまします。それが虚空にしみ込むと同時に、足音が聖堂に響きます。

――コツコツ、カッカッ。

 フィーネちゃんの後ろに立つ誰か。その誰かがそっとフィーネちゃんの肩に手を置きました。
 プレスト君は棺の前に立ち、観音開きになった窓を開きます。そこから覗く顔に人々が息を飲む音が広がっていきます。

――お前は。

――あなたは。

「呪われた子じゃない。私たちの立派な娘だ。フィーネ」

 そしてその声はフィーネちゃんの前に進みました。
 その後姿をフィーネちゃんが間違えるはずがありません。忘れるわけがありません。

「パパ、……ママ!」

 フィーネちゃんは叫びました。
 そして振り返ったその胸に飛び込むように抱き着きます。ブラームス卿はフィーネちゃんを抱きかかえます。

「ブラームス卿!」

 司祭は目を丸くして驚いています。二人はすでに冥府の門をくぐったはずでした。
 いえ、今二人の遺体が祭壇の上の棺に入っているのです。
 それは間違いなく二人が亡くなったことを示していました。
 その顔は崩れ落ちた谷底から引きずり出されたとは思えません。
 二人ともまるで眠っているかのように安らかな美しい顔でした。

 棺の中にいる人物が、棺の前に立って娘を抱きかかえています。
 ならば今聖堂の中央に立つ二人は何だというのでしょう。
 街の人たちは恐れおののいたようにひたすらに地に伏せます。
 二人の旅人と、ブラームス一家、そして司祭――。たったそれだけが、頭を上げています。

 ブラームス夫妻は、平伏する人々の前を通り過ぎます。
 フィーネちゃんはその腕の中でひたすら泣いていました。
 夫妻は祭壇に昇り、自らの遺骸が横たわる棺の前に立ちます。
 そして振り返って聖堂を見ました。街の人々を見回してそして言います。

「みなさん、頭を上げてください」

 ブラームス卿は柔らかい声で言います。恐る恐る、街の人々は立ち上がります。

「私たちの死が、この街に多くの禍根を残したようです。司祭様と、街の人々と、そして娘を、この上なく苦しませてしまった。でも、罪の重さを秤にかけて、どちらの罪が重いか比べるなんて意味がありません。軽ければ罪が許されるというものでも、重いから許されないというものではないでしょう。ただ、自分自身の罪を知り、それと向き合い、許していくことでしか、人は前に進めないのです。この街に罪人なんていない。司祭様、あなたのしたことは何も悪いことではありません。フィーネ、お前にも罪などない」

 フィーネちゃんはその言葉にブラームス卿の顔を見つめました。
 そして何も言わず、その胸に顔をうずめます。ブラームス卿はその頭を優しく撫でました。

「全ては一つの歯車の狂いから始まってしまったこと。この暁に罰せられるものがいるとすれば、それは街の人間全員であるべきで、許されるならば、街の全員が許されなければならない。そうではありませんか?」

 ブラームス卿は振り返ります。司祭は青ざめて見えました。
 即座に司祭は頭にかぶっている帽子を取り、跪きました。

「あなた方には、何を言っても許されないことをしました。……ごめんなさい」

「頭を上げてください、司祭様。責任を感じてくださるなら、どうか娘によくしてやってください。そしてこの街のことを頼みます」

「許してくださるのですか?」

「グリッサンドは罪が許される街です。どうか判決を」

 司祭は顔を上げ、帽子をかぶりました。
 そして杖をダンと大きく叩きつけます。朗々とした声を張り上げて言いました。

「街の民に問う! フィーネ・ブラームスを罰するもの!」

 司祭が問いかけます。聖堂は静まり返っていました。

「では、ピラトを罰するもの!」

 やはり何の声もしません。

「……みなが、許されるべきだと思うもの!」

 聖堂の中心で小さく拍手が響きました。フィーネちゃんです。
 ブラームス夫妻も手を打ち鳴らします。それに合わせて聖堂が、街中が、歓声と拍手に溢れました。
 司祭は杖を鳴らします。

「ここに判決を言い渡す! 全員無罪! ここに、グリッサンドの街そのものに対する免罪符を発行する!」

 そう言って司祭は祭壇の上にある書状に名前を書き、教会の証印をドン、と捺してその免罪符を大きく掲げました。
 歓声は一層大きくなりました。聖堂の中はお祭り騒ぎです。
 その中で、フィーネちゃんだけは、喜んでいませんでいした。
 ブラームス夫妻がいなくなってしまったからです。
 判決が下った瞬間に、二人は霧のように消えてしまいました。

 アンダンテさんが鐘楼台に上っていくのが見えました。
 フィーネちゃんはすかさず後を追いかけます。鐘の前に出ると、太陽が水平線から顔を出すところでした。
 日の光が朝霧を透かし、光の帯が続いています。まるでそれは、天国へとつながる階段のようでした。
 アンダンテさんが脇に立っていました。そして正面には、ブラームス夫妻がいます。

「パパ、ママ、帰ってきたんじゃないんだね……」

 フィーネちゃんは涙をこらえて言います。

「お別れを言いに来たのではないのよ」

 奥様が言いました。

「……パパ、あの日パパが言った謎かけの答え、私、まだわからない。でも憎むことや恨むことでは、何も進んで行かなくて……、許すことが、許さなくちゃそこから一歩も進めないから……だから私」

 それで合っているよ、とブラームス卿は優しくフィーネちゃんのその栗色の髪を撫でました。

「私たちの可愛い娘よ、あの日お前が言えなかったことを、私たちに言っておくれ」

 フィーネちゃんは何と言うべきなのかわかっていました。
 それを言えなければ、きっとこの先ずっと後悔するでしょう。
 でも、その言葉は最期の別れを意味していました。だからどうしても言うことができません。

「フィーネ、お誕生日、おめでとう」

 フィーネちゃんはハッとして目を見開きます。
 それは、彼女がついに聞くことのできなかった言葉でした。
 帰ってくることのなかった二人が言えなかった言葉でした。
 どんなに待ち望んでも、決して聞くことのできない言葉でした。

「パパ、ママァ……」

 フィーネちゃんは涙をボロボロ零しながら、それでも言います。

「……行ってらっしゃい」

 フィーネちゃんは言いました。
 二人は手をつないで、太陽の階段を昇って行きます。
 そして太陽が水平線の上に昇る頃には――。もう二人の姿は消えていました。

2年前 No.61

ゴン ★8bRTE7eaVc_dMG

【十二】

 まるで深い深い空の底に横たわっているようでした。
 閉じられたまぶたの裏に燦々と輝く太陽。頬を撫でる暖かなそよ風。雲が尾をたなびかせながら陽の光を遮って泳いで行きます。
 悲しみも苦しみも、迷いも不安もありません。どこまでもただ平穏な空が続いていました。

――ずっとこのままでいられたらいいのに……。

 不思議な感覚の中で、フィーネちゃんはそう思いました。
 不意に温かく湿った何かがフィーネちゃんの頬に触れました。
 まるで生き物のようにそれは動きます。遠くから声が聞こえてきました。

「ピア! 朝食の時間ですよ! ピア! ……全く、飼い主に似て自由気ままなんだから……」

 ニャァオと耳元で声がしました。目をうっすらと開けると、光が差し込みます。
 真っ白な猫がフィーネちゃんの頬を舐めていました。

「ピア……ただいま」

 フィーネちゃんはそう言いました。どうしてだか、長い旅から帰ってきたような気がしたのです。
 フィーネちゃんが頭を撫でるとピアはまた嬉しそうに鳴きました。そして、フィーネちゃんは戸口に立っている人に気が付きました。

「お嬢様……」

「アメリア……おはよう」

 何と言っていいのかわかりません。フィーネちゃんは頬を赤らめました。
 随分懐かしいような、久しぶりに会ったようなそんな気がします。
 アメリアはコツコツと歩み寄り、ベッドの端に立ちました。その顔はまるで怒っているようです。

「アメリ……」

 言葉を待たず、アメリアはその体を抱きしめました。潰れる程に。強く、強く。

「丸二日も眠っていたのですよ」

 絞り出すような声でアメリアが言いました。

「そう……」

 フィーネちゃんは息もできず、本当に絞り出して言いました。

「心配しました」

 アメリアはようやく手を離します。フィーネちゃんは思わず咳き込みました。
 それを二人で笑い合います。

「ごめんなさい」

 フィーネちゃんは笑顔で言いました。そよ風が入ってきました。
 窓から温かな日差しと街の人々の活気を乗せて。それはいつも通りのグリッサンドの街並みでした。
 フィーネちゃんの、ブラームス夫妻の愛した街並みでした。

「すぐにお食事にしますか? お祭りの時からほとんど食べてないのですから、お腹がペコペコでしょう」

 窓の外を眺めながらフィーネちゃんはアメリア、と尋ねました。

「フォルテ君たちは?」

「ご心配なさらずともまだお屋敷にいらっしゃいますよ」

 アメリアがフィーネちゃんを支えて起こしながら微笑みます。
 フィーネちゃんはそれを見てホッとしたように笑いました。

『ミス・フィーネと、我らがグリッサンドに乾杯!』

 二人が階下に下りていくとてんやわんやの騒ぎが始まりました。
 フォルテ君は感激のあまりフィーネちゃんに抱きつく程です。
 それを街の人から茶化され、目を白黒させるとみんなが笑います。
 もうすっかり彼はこの街の人とも顔なじみになっていました。
 ヨハネス氏とクララ夫人もやはり涙を浮かべていました。そしていつまでもフィーネちゃんを抱きしめていました。

「これは……?」

 食卓の脇にはフルーツや色とりどりの花束がありました。
 それからきれいな紙に包まれた贈り物の山。フィーネちゃんはそれを見てきょとんとします。

「街のみなさんからの祝賀ですよフィーネ」

 クララ夫人が言いました。

「オレからのもあるんだぜ!」

 フォルテ君が嬉々としてその中から一枚の絵を取りだしました。

「これ、フォルテ君が描いたの?」

 フィーネちゃんが聞くとフォルテ君は誇らしげに胸を張りました。
 アンダンテさんが後ろから覗き込んで目を見開いて言いました。

「ふむ、前衛的な絵画だ。差し詰め、街中に生えた羽のあるサボテンといったところか」

「うるさいな! 心がこもっていればいいんですよ!」

 みんなが笑う中、それから、と席を立ったのはプレスト君でした。
 フィーネちゃんと顔を合わせるのは初めてです。二人は簡単な自己紹介をしました。
 プレスト君は金の懐中時計を取り出しました。
 フィーネちゃんはてっきり旅人の合図かと思いました。
 しかし、プレスト君はそれをフィーネちゃんに差し出します。

「崩落したリタルダンド渓谷で、ブラームス卿と奥様は、二人でこれを守るように握りしめていた。おそらくあんたへのプレゼントだったんだろう」

 大崩落に巻き込まれ、右上に大きなヒビの入った懐中時計です。
 蓋を開けると名前と、誕生日の日付が入っていました。時計は一秒のずれもなく時を刻んでいます。
 時計の針がコチコチと鳴り響きました。静まり返った食堂の中に。フィーネちゃんの胸の中に。

「……本当に、ありがとうございます。ずっと大事にします」

「それでだね、フィーネ」

 ヨハネス氏が困ったような、気遣うような表情で言いました。

「週末に、兄様たちの……お前のお父様とお母様の正式な葬儀をあげようと思っているんだ。お前には何度も悲しい思いをさせてしまうことになるが、どうだろうか」

 フィーネちゃんは目を瞑ってしばらく考えていました。それからゆっくり頷きました。

「ありがとうヨハネス叔父様。パパとママも喜ぶと思うわ」

「それから、フォルテ君、君が嫌でなかったら、君のお母様の墓碑も、この街に作ってはどうだろう。君の活躍がなければ、今年のヴィア・ドロローサはどうなっていたかわからない。そんなことで、恩返しになるかはわからないが、どうだろうか」

「え……そんな」

 ヨハネス氏の唐突な申し出にフォルテ君は戸惑いました。
 そして、許しを請うようにアンダンテさんの顔を見ます。
 アンダンテさんはまるで気にしていないように、無表情にひげを撫でていました。
 フォルテ君は迷います。正直、嬉しくてたまらない気持ちはありました。
 でも、本当にそれでいいのかと、何かが首を縦に振らせることを躊躇わせていました。

「すぐに決められなくても構わない。ただ、私たちは本当に君たち旅人に感謝しているんだ」

「おそれおおいことです、だんな様……」

 フォルテ君は慣れない敬語で言いました。ヨハネス氏はそれを見て、一つ微笑んで、話題を切り替えました。

「しかし、よくもあの深山幽谷のリタルダンド渓谷から兄夫婦を見つけてくださいましたね。一体どんな方法を?」

 科学者の瞳を光らせるヨハネス氏をクララ夫人がたしなめます。
 するとアンダンテさんが横槍を入れました。

「何、プレスト君はちょっとばかり鼻が利くんですよ」

「人をハイエナかハゲタカみたいに言うんじゃねーよ」

「ほうら、こんな風にすぐ噛みついてくるでしょう」

 食堂はまた笑い声に包まれます。それからみんなで楽しくお昼を食べました。
 その間に執事が入ってきました。そしてプレスト君の名を呼びます。

「プレスト様にお電話がかかってきております」

「おやおや、こんな時に借金の督促かね? いくら世界最速の駿馬がいようと郵便馬車などでは食うや食わずだろう」

「うるっせーな、あんたこそ旅人以外の副業がない割にやたらと金回りがいいのはどうせロクでもねえことをやってんだろ」

 プレスト君はアンダンテさんの皮肉に皮肉を重ねて返します。
 食堂がまた笑いに包まれると失礼と言ってホールを出ました。
 プレスト君はそれきり戻ってくることはありませんでした。

 アンダンテさんは旅の話をしてみんなを楽しませます。
 フォルテ君も調子づいて、場を和ませました。とても楽しい、お祭りのような一日は夜遅くまで続きました。

2年前 No.62

ゴン @gorurugonn ★8bRTE7eaVc_dMG

 しかし活気づいていた街もだんだんに落ち着いていきます。
 太陽はもうとっくに沈んでいました。夜は更け、人々が夢の中へと誘われる頃。
 ブラームス家の中庭に二つの小さな影がありました。フォルテ君とフィーネちゃんです。
 少し欠けてしまった月を、二人は並んで見上げていました。

「私、本当にヤコブの梯子を昇ったんだね……」

 他人のことを思い出すようにフィーネちゃんは言いました。

「うん。フラフラになって、今にも階段を転げそうになって、本当にハラハラさせるんだもん。でもすごく一生懸命昇ってた。覚えてないの?」

「少しだけ。……とても暗くて、孤独だった。でも本当は、パパやママや、叔父様や叔母様、それからフォルテ君やアメリアが私の背中を押してくれていたんだよね……ありがとう、フォルテ君」

 フォルテ君は気恥ずかしそうに鼻をすすりました。

「来年もこの街にいれば、その時はフォルテ君がラビに選ばれるかもしれないね」

 ふとフィーネちゃんはそんなことを言いました。フォルテ君は慌てて否定します。
 旅人は教会のある街に居つくことは許されないのです。

「それは無理だよ。オレはよそ者だし、アンダンテさんは一度訪れた街にはなかなか戻ろうとしないんだ」

「そう、だよね……」

 フィーネちゃんは小さなため息をついて俯きました。
 その様子でフォルテ君も彼女の考えていることがわかりました。
 夜風が吹き抜け、二人の間に沈黙が残りました。言いたいことがあるのに言い出せない。
 そんな表情で相手をうかがってはお互いに口をつぐむのです。
 切り出したのはフィーネちゃんでした。

「フォルテ君、前に言ってくれたよね。私も一緒においでよって。旅人になって世界中を回ろうって」

「う、うん!」

 フォルテ君の表情がパッと明るくなります。
 しかし、それとは反対に、少女は月に背を向けて話を続けました。

「今でもその気持ちは変わってないよ。フォルテ君たちと世界中を回れたらどんなに素晴らしいだろうって思う。世界にはまだ私の知らないことがいっぱいあるんだよね。パパもママも、そうやって世界中を回ったんだよね」

 それからフィーネちゃんは話し始めました。
 かつて、パパとママが旅した場所の話を。パパとママが話してくれたように。
 このグリッサンドとは、何もかも違う街の話。
 着るものも、食べるものも。吹く風も、聞こえる歌も、きっとみんな違う場所の話。
 中にはフォルテ君も行ったことのある街もあったかもしれません。

「私もいろんな街に行って、いろんなものを見て、いろんな人に会いたい。だから……」

 振り返ったフィーネちゃんの表情を月明かりが照らしました。
 まっすぐフォルテ君を見つめます。少しの悲しさと大きな決意を宿した瞳で。

「だから、もっともっとたくさん勉強して、パパとママの跡を継げるくらい立派な商人になって、そしたら……その時は、フォルテ君たちと一緒に世界中を見て回りたい」

 フォルテ君は静かにフィーネちゃんの話を聞いていました。
 まっすぐに彼女の瞳を見て頷きます。

「フィーネちゃんなら立派にお父さんとお母さんの跡を継げるよ。必ず」

「フォルテ君……ありがとう」

「戻ろっか。もう夜も遅いし、明日から、お葬式の準備をしなくちゃ」

「うん」

 フィーネちゃんはフォルテ君の後をついて歩きます。
 そしてもう一度誰もいなくなった楡の木を振り返りました。
 もう一匹のピアの眠る場所。フィーネちゃんの罪が眠る場所。
 その時、月明かりを何か黒い影が横切った気がしました。気のせいだったでしょうか。
 フィーネちゃんの胸にざわざわと波紋が広がりました。
 誰かがあそこに座って、話している光景が浮かびました。
 その影に何故か、ぼんやりとアンダンテさんの横顔が重なります。

 フォルテ君、とフィーネちゃんは前を歩く少年を呼び止めました。
 何とも言えない胸のざわめきに、言葉が見つかりません。

「その……気をつけて、ね」

「うん! 今度会う時は、たくさんお土産話を話してあげるから。楽しみにしててよ!」

 フォルテ君の無邪気な笑顔。それがどれ程フィーネちゃんを安心させたかわかりません。

――いつだってそうだったもの。

 フィーネちゃんはそう思いました。
 すると、また言いようのない気持ちになってしまうのでした。
 嬉しいようでもあり、悲しい気もしました。
 それでもまだ二人は気づいていません。

 お別れが刻一刻と近付いていることを。

2年前 No.63

ゴン @gorurugonn ★8bRTE7eaVc_dMG

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2年前 No.64

ゴン @gorurugonn ★8bRTE7eaVc_dMG

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2年前 No.65

ゴン @gorurugonn ★8bRTE7eaVc_dMG

【良い噂話】

 おい、聞いたか、ミス・ブラームスの噂。
 聞いた聞いた、外国に行ってしまわれるって本当かい?
 本当も本当、何でも新規事業の開拓だって。
 あの方は辣腕でいらっしゃるからねぇ。
 何もそんな遠くにまで行かなくってもいいのに。
 そんなことを言うものじゃないさ。
 そうとも街のためにやってくださっているんだし。
 東から香辛料が入ってくるとなれば、この街はもっと発展できる。
 寂しくなるねえ。
 行ったらしばらくは帰ってこられないんだろう?
 早くても半年というからなぁ。
 でもフィーネ様はきっと大丈夫だよ。
 そうさ、彼女はこのグリッサンドの守護天使なんだから。
 あたしゃ早く身を固めてほしくってね。お子様が楽しみなんだよ。
 そういや、何でも外国に、あの方の思い人がいなさるとか。
 そうそう、その人に会いに行くって聞いたぞ。
 おいおい、そんな話聞いたことないぜ。
 おやおやそれは本当かい?
 もっと詳しく聞かせておくれ――。

 ピルグリムの唄 〜許しの讃歌〜

 fin.

2年前 No.66
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