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根源衝動、あるいはオルガン

 ( SS投稿城 )
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ゴン @gorurugonn ★Q8TMMWCxfD_lvY

 ミキサーの中に鶏を入れる。
 ミキサーのスイッチを入れる。
 出来上がったものと出来上がる前を比較する。
 質量も中に入っている成分も、一つも変わっていないけれど、ミキサーを回した後に残っているドロドロとした肉汁は、鶏ではない。
 この時、失われたものは何か。

「何も、失われてないんじゃないの? ただ、バラバラになってしまっただけ」

 樹さんは静かにそう答えた。
 樹さんは今、浜辺に打ち付けられた死体を引きずっている。
 つい、三分前に、樹さんが拳銃で撃ち殺した、樹さんのお母さんだった。

 浜に静かに打ち付ける波は、人が人を殺しあうこの異常な光景さえ、とるに足らないと言い聞かせるように、変わらず砕けていく。
 樹さんの足元は血で覆われているのに、波がことごとくその鮮血を洗い去っていく。
 許しているようだ、と私は思った。
 樹さんの行いは、少なくとも私と、樹さんと、それからこの浜辺に、許容されていた。

「別に鶏じゃなくてもそうでしょ。ゲーム機でも、何ならカレーライスだっていい。粉々のぐちゃぐちゃにしてしまったそれは、何一つ変わっていないけれど、もう元のものとして機能しない。それは全てのものが、正しく配列されている状態でこそ、その機能を全うするものだからなんだよ」

 何も失われていなくても、バラバラになってしまったものは、もう正しく機能しない――。
 だから、殺したというのだろうか。

「いや、これは違うな。ひょっとして人間は、正しく配列されているというそれだけでは、機能しないのかも。例えば、完全に人間の生態を用意できたとしよう。すべての細胞が生きていて、心臓も動いていて、呼吸もしている。でも、その人間はまだ意思がない。脳死状態にあるわけではなく、ちゃんと脳も生きているんだ。この人間はいずれ目を覚ますだろうか。僕は覚まさないと思う」

「どうしてですか」

「根源衝動がないからだよ。人を人たらしめる最初の原理だ。恐怖にしろ、安堵にしろ、憤怒にしろ、絶望にしろ、僕たちは生まれた瞬間に、その魂の根底に一つ、僕たちを構成する唯一の衝動を抱えて生まれてくる。僕にとってのそれは、僕を産み落とした存在を抹殺することだった」

――母さんは生きていてはいけなかった。僕のような人間を産み落とすのだからね。

 そう言って笑う樹さんを、私は理解できなかった。
 樹さんは至極まっとうな人だった。仕事もしているし、恋人もいる。
 なぜ、それらをすべて捨て去ってまで、こんな凶行に走らなければならなかったのだろう。

 今夜、海に打ち付ける波は温く、その風は温い。
 樹さんを責め立てることは何の意味もないと言い聞かせるように、春の夜が更けていく。

 明日、私と樹さんは結婚式を挙げる予定だった。
 だというのに、樹さんはその前日、拭いきれない罪をその両手に抱えた。
 春の海が許しても、法は樹さんを裁くだろう。

「これから、どうするんですか」

「逮捕されるだろうね」

「私たちの結婚式は?」

「君は一人でも生きていけるよ」

「二人で逃げましょう」

「ならばなぜ通報したの?」

 私は答えに窮した。
 警報が聞こえる。逮捕しに来るとでもいうのだろうか。
 罪を犯した後でその人間を檻で囲う意味がどこにあるだろう。
 なぜその人が凶行に至る前にその手に枷をしてあげなかったのだろう。

「全部、ちぐはぐなんだよ。首を絞めながらでなければ愛していると言えないんだ。抱きしめてほしいのに、噛みつくことばかり覚えた。昔からそう。本当は母さんのことが大好きなんだ。だけど罵ることしかできなかった。嬉しさを共有しようと思えば思うほど、その幸福が大きいものであればあるほど、許せないんだ。そういう運命なんだよ。僕は、母さんに与えられた罰なんだ」

――結婚式、たのしみだったなぁ。

――だから殺したというのか。
 その身に降り注いだ幸福が極大になった結果として、それを喜び合おうとした帰結として、ねじれた表現が鉄の鋭さをもって心臓を貫いたとでも。
 ならば私が、樹さんを檻から出してしまったということになるのだろうか。

 今夜、海に打ち付ける波は温く、その風は温い。

「もうこれで、誰のことも殺したいと思わずにすむ。ねじれは解けたんだから。僕はもう、ようやく誰かのことを本当に愛して、キスができるようになったんだ」

 嘘だ。ねじれたものがうっとうしくて、樹さんは切ってはいけないものを切ってしまったのだ。
 繋ごうと結んでみれば、今度はねじれ以上に不格好な結び目が許せなくて、また我慢できなくなる。

「ねえ、キスをして」

「……嫌です」

「そうだね」

 樹さんは笑う。
 そして、倒れ伏して死んでいる母親の頭を抱えて胸に抱く。

「じゃあ、歌を歌って。眠れるまで」

 もう樹さんには、眠りをもたらす夜など訪れないのだろう。
 夜ごとに死んだ母親の夢を見て、魘されながら目を覚ますのだ。
 人に与えられた原理として、人の形をしたものを殺した人間に、枕は祝福をもたらさない。

「何を歌いましょうか」

「折り紙のオルガンで……」

「え?」

 ふいに歌い出した樹さんの調子はずれな歌声を、私は聞き逃してしまう。
 だが、印象的な歌詞だったから、聞き返さなくてもわかってはいた。
 それは昔、本当に昔、樹さんが子供だった頃、子供向けの教育番組のオープニングとして親しまれてきた音楽だった。

「どんな歌い出しだったっけ、この歌。宇宙の海で運動会、円盤遠足絵の具で絵日記……、イチゴ畑の一年生、石ころ一個コロコロ……」

 それは子供向けの国語、つまり言葉の教育の番組であり、歌詞はあいうえおの音の並びで、それぞれの音から始まる言葉で順番に構成される。

「あはなんだったっけ……」

「アシカの赤ちゃん、甘えんぼ、ですよ」

 私がそういうと、樹さんはああ、と嬉しそうに笑って、そして悲しそうに一つ、息を吐いた。

「折り紙のオルガンで……折り紙のオルガンで……お母さんも、おから始まるんだね」

「おの次はかです。母さんはすぐそこにいたんですよ」

ははは、本当だ、おかしいね。

 波の間に悲しい笑い声は響くことも許されない。

「何のために生まれてきたんだろう。もし、こうならない未来があったんだとしたら、なんでここまで来ちゃったんだろう」

 それこそ、樹さんの根源衝動が、つまりオルガンが求めたというしかないのではないか。
 樹さんが母を憎んだように、私は樹さんを愛した。
 花が上に向かって伸びるように、満ちた月が次の日に欠けているように。
 そうならないようにはできないものがある。
 先延ばしにすることはできても、いつか必ずそうなる。

 だから、私はこの結末に驚きはしたものの、意外だとは思わなかったし、納得していた。
 樹さんに根源衝動があるように、私の中にも、鳴り響くオルガンがあることも。

「これ、十分後に出る始発の新幹線のチケットです。こっちは成田からの空港便のチケット。トランクの中は着替えとかお金とか、いろいろです。もちろんパスポートもあります」

 私が樹さんに詰め寄って一抱えもあるトランクを突き出すと、心底意外そうに目を丸くする。

「逃げてください。一人で生きてください。あなたを追いかける全てから逃げて、この世界で生き延びてください」

「生き延びる? どうして?」

「私が樹さんを捕まえます。捕まえに行きます。あなたを捕まえることだけを願うことで、生きていくことができます。だから、私から逃げてください」

 愛するものを追いかけること。
 それに翻弄され、蹂躙され、疲弊し、消耗すること。
 骨折り損をして、くたびれもうけをして、全てを失うこと。
 そうすることでしか、私は私でいることができないのだ。

「何も考えないでください、わからないなら今はメモの指示通りにして。いいですか、人はただ生きているだけで本当に無限の価値があるんです。死んでいたら、本当に何一つできないものが、命がある、ただそれだけのことで太陽系を脱出することだってできるようになるんです。鶏だったものにできることは何もないけど、生きている鶏は卵だって生むし、朝日より先に鳴くことだってできます。いつかは空を自由に飛ぶ日だって来るかもしれません」

「何の話をしているの?」

「これからの話です。当分は逃亡者として生きるんです。屈従や忍耐が必要になります。でも耐えて生きてください。あるいは誰かを殺したくなるかもしれない。でも、そこからも逃げてください。いつか、必ず捕まえに行きます。何一つ不自由ない鋼の牢獄に樹さんを閉じ込めてあげますから、だから私が捕まえるまで、生き延びて、逃げ延びてください」

――走って。

 私が樹さんを突き飛ばすと、よろよろと走り出す。
 重いトランクを不器用に抱えて、こちらを何度も振り返りながら、それでもその影は、温い海岸線を少しずつ遠ざかっていく。

「いきなさい! 走って!」

 私は樹さんに声を張り上げる。
 涙を流し、声を振り絞り、そんな私と、死んだ樹さんのお母さんのもとに、パトカーが近づき、警察が近づいてくる。

 私は逮捕されるだろう。
 そして、警察の捜査を混乱させて、樹さんの逃亡時間を稼がなくてはならない。それと同時に、私自身は決して罪に問われないように立ち回らなければならない。

 ミキサーを回した時に失われる何か。
 根源衝動、あるいはオルガン。
 失われたときに、二度と機能しなくなるもの。
 樹さんが失い、そして私が得た何か。

 命よりも原始的で、生命よりも原理的な何か。

 パトカーのドアが閉められる。
 水平線からは、太陽が顔を出す。

――鶏の声がした。

 ご結婚、といったのかもしれなかった。

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