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砕けた時間 ( SS投稿城 )
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すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_GKj 先生がゆっくりと、ぼくの頬に触れる。目と鼻の先に、先生のぼくを見つめる顔がある。ぼくはそのまま、くちびるを重ねたい衝動をこらえて、先生のことばを待った。先生は、宙に浮かぶ何かをつかまえるみたいに、目で追って、それからためらいがちに言った。 「あなたは、何も悪くないのよ。悪いのはすべて、わたしなの」 申し訳なさそうに目を伏せて、それからぼくを見つめる。甘い吐息が顔にかかる。そのままぼくらは、時を忘れて、キスをした。
昨日のことが、夢のように感じられる。遠くでセミが鳴いている。クーラーのよく効いた部屋で、まどろんだ瞳をホワイトボードに向けながら、ぼくは一個下のゼミ生の発表を聞いている。彼女の発表は、戸惑いながらも、丸みをいたわってなでるように、想いを込めて丁寧に進んでゆく。彼女の「哲学」に対する愛が感じられる、すてきな発表だった。 「西岡くんは、どう思う?」 先生は、まるで昨日のことがなかったかのように、素でぼくに話しかける。きっと同じ部屋にいる仲間の誰も、ぼくと先生が許されない関係にあるなんて、思いもしないだろう。 ぼくはその場で、ぼくに求められていることを、求められているとおりに発言した。それはとてもわかりやすいことだった。先生は満足そうにほほ笑んで、教室を見渡したあと、ぼくの発言を補いながら、発表の評価を柔らかくその学生に伝えた。ぼくはうとうとしながら、喋る先生の、昨日何度も口づけをしたうなじの辺りを、ぼんやりと眺めていた。そこにはまだ、ほのかな甘い香りが漂っていた。
「高田さんは、うつくしい」 ぼくが資料室で本を探していると、同じゼミの斎藤が、いつのまにかぼくの隣に立っていて、ため息をもらしながら、話しかけてきた。斎藤はわきにプラトンの著作を抱えていた。 「けだし、高田さんは美のイデアを分有している」 ぼくは笑いながら、なんだそれ、とあしらった。でも内心では、先生の名前を聞いて、びくついていた。 「おれは、先生のことが好きだ」 斎藤はいきなり、抱えていた本を、ぽん、とたたいてそう言った。ぼくはいきなりの台詞におどろいて、おもわず、手に取りかけていた本を棚に押しもどした。 「なんとか、お近づきになりたいと思っている」 ぼくは冗談を言って、またあしらおうかと思ったけど、向かいあった斎藤の、真剣なまなざしに触れて、ことばを呑んだ。 「彼女の横顔に射す、物憂げな影に、おれは何とかしてやりたいと思った。それがいつしか、恋心に変わっていった」 斎藤の語りは、どこか遠くで響いているようだった。それよりもぼくは、斎藤が先生に恋をしているという事実に、どうしていいかわからなかった。ごめん、斎藤、ぼくも先生のことが好きなんだ、それでぼくと先生はお互いに愛しあっているんだ、とは、ぼくはその場ですぐに言えなかった。そのことに対する戸惑いが、なによりも先にあった。 斎藤は自分の短く刈った頭をなでながら、ひどくためらいがちに、ぽつりぽつりと想いを告げていった。なんだか自分が告白されているみたいで、ぼくは恥ずかしくなった。ぼくは、照れながら話す斎藤に、妙な愛くるしさを感じた。
しずかに資料室のドアが開く。中に入ってきたのは、先生だった。 「よかった、西岡くん。ここにいたんだ。ちょっと、研究室まで来てくれる?」 ぼくらはちょうど先生のことを話していたから、とても驚いて、斎藤なんかは脇に抱えていた本を落としてしまうくらいだった。 「はい、すぐ行きます」 ぼくらを残して先生が去っていったあと、ぼくは斎藤の顔を見た。そこには、濁った水の底をのぞくときのような、注意深げな表情があった。斎藤はそんな表情でしばらく、じっとぼくを見つめると、笑って、行ってこいよ、と言った。どうやらぼくは白と判定されたらしい。ぼくは複雑な感情におそわれた。
ブラインダーのすき間から、夏の日ざしがこぼれる。先生はうすく紫に塗った爪のある指で、ゆっくりと本のページを繰った。めくるたびに、なつかしい香りがする。 「あった、ここだ」 そう言って先生は、付箋の貼ってある箇所をぼくに見せた。ぼくがずっと前にお願いしていた、卒論で使えそうな箇所を、見つけておいてくれたのだ。なるほど、その箇所は、ぼくの求めていたところだった。 「ありがとうございます」 そう言って去ろうとするぼくを、先生がひきとめた。悩ましげに下がった眉の下にある、悶えるような瞳が、まっすぐにぼくを射抜く。ぼくは惹きつけられるようにして、先生のそばに行き、手を取り、その甲にキスをした。それから慈しんで、手のひらを撫でた。官能的な吐息が、先生のうすくひらいた口から洩れる。 それからぼくらは、夏の日ざしが傾くまで、深く愛しあった。
すっかり日の傾いた薄暗がりの遊歩道を、ひとりとぼとぼ歩いて下宿先に向かっていると、うしろから声がした。振り向けばそこに、今日発表だった一個下の後輩がいた。 「先輩、帰り、遅いですね。なにかあったんですか」 「いや、先生のところにいてね。指導してもらっていたんだ」 「そうなんですね」 後輩の沙希はポニーテールを揺らして、ぼくのそばに歩み寄り、肩を並べた。 「今日、発表で先輩にほめてもらって、うれしかったです」 「それはよかった」 そう言いつつも、ぼくはほめたことを忘れていた。沙希はほほ笑んで、ぼくを見透かすように目を細めた。その笑顔はまぶしくて、ぼくの心をくすぐった。 「先輩はどうして、レヴィナスを研究しようと思ったんですか」 唐突な質問に、ぼくは少なからず戸惑った。それを察して沙希がことばをつないだ。 「いや、哲学といっても、レヴィナスって、王道からはすこし、逸れるじゃないですか。わたしなんて、じっさい先輩が研究しているので、はじめて知りましたから」 ぼくは自分がレヴィナスを研究している理由に思いめぐらて、それを言おうかどうか迷った。けっきょく、ぼくはそれを口にしていた。 「むかし、ぼくはいじめられていたんだ。そのときの心の支えが、親父の本棚にあった、レヴィナスの本だった。難しすぎて、意味なんてまったくわからなかったけれど、わからないなりに読んでいるうちに、惹かれていったんだ」 沙希は、何かを考えるように眉をひそめた。 「わたしといっしょですね。わたしもいじめられていたんです。しかも、わたしが勇気を出して告白した人に、急にいじめられるようになったんです」 沙希は苦しそうにとつとつと語った。 ぼくはなんとか、自分なりのことばをひねり出した。 「よく、いじめられるほうが悪いっていうじゃないか。あれ、真に受けなくてもいいと思う。ぼくらはぼくらで、辛い思いをしたっていう事実のほうが、正しさを求めるより何十倍も大切なことだと思う」 「それ、レヴィナスの影響ですか?」 「いや、ぼくの哲学だね」 そう言うと沙希は笑った。 「先輩、好きです」 沙希のことばは、救急車のサイレンに混じって、すこしぼやけた。でもぼくには、はっきりと聞き取れた。ぼくはなんて答えていいかわからなかった。 「これは、わたしの気もち。私だけの気もちだから、いいんです。ただ、伝えたかっただけ。さようなら」 そう言って沙希は、何かから逃げるように、自転車にまたがり、ぼくを置いて去っていった。 夏の盛りには珍しい、風の涼しい一日だった。
沙希が死んだと知ったのは、告白された翌日のことだった。信号無視の車にひき逃げされて、頭を打ち、即死だったそうだ。そのことでざわめきだつ教室の隅で、ぼくは告白されたことは言わないまま、ひたすら動揺していた。 こんな肝心なときに、先生は今日、大学に来ていなかった。ぼくは迷わず、講義のあと、先生の家に向かった。
チャイムを鳴らしても開けてくれないので、ぼくは合鍵を使って玄関を開け、中に入った。 先生は黒い服を着て、庭で紅茶を飲んでいた。 ぼくが声をかけると、先生はゆっくりとふりむき、それから何も見なかったかのように、また紅茶をすすった。先生の目は、帽子のつばに隠れて見えなかった。 「先生、ご存知ですか。沙希が交通事故に遭って、昨日の夜、命を引き取りました」 先生はぼくのことばに何の反応も示さず、また紅茶をすすった。 しばらく続いた沈黙のあと、先生が言った。 「死は、ふいに訪れます。誰にでも、平等に。それが苦しいのは、別れだからです。愛する人との別れだからです」 先生の頬に、ひとすじの涙が流れた。その横を黒い蝶が行き過ぎていった。蝶はそのまま宙で弧を描いて、花に止まった。 ぼくの胸に、これまでせき止めていたやりきれない感情が、ひと息にあふれ出してきた。あのとき、別れ際、ぼくはなんて答えればよかったんだろう。もしかしたら、ぼくが引きとめていたら、彼女は死ななかったかもしれない。
すると不意に、茂みが揺れ、奥から斎藤が出てきた。それは本当に唐突なことだったので、ぼくは後ずさりして転びそうになった。 「よお、西岡」 「なんでお前がここに」 「それはおれが聞きたいよ。どうしてお前が、先生の許可なく、勝手にここに入ってこれたんだ?」 それは、と言いかけて、口をつぐんだ。合鍵を持っているなんて知られたら、ぼくと先生の関係がばれてしまう。 「おれはうすうす気づいてたんだよ、おまえと先生が、そういう関係にあるのを」 斎藤は苦しそうに顔をしかめて、先生を見た。先生は微動だにしない。 「どうしておれに黙ってたんだ?」 「それは、言えるわけないだろ」 「じゃあおまえは、おれが先生のことを好きだと聞いたとき、内心、ほくそ笑んでたっていうのか。最低だな」 そう言って斎藤は、胸ポケットからナイフを取り出した。 「おい、待て! 斎藤、何をするつもりなんだよ!」 「こんな苦しい思いするくらいなら、おまえを殺して、おれも死んでやる!」 そう言って斎藤は、勢いよくぼくにとびかかろうとしてきた。
「やめなさい!」 先生が空を裂く勢いで怒鳴った。時が一瞬止まったような錯覚に陥る。そして先生は、動揺してぴたりと固まった斎藤に歩み寄り、大きく一発、頬を叩いた。斎藤は勢いでその場に倒れこむ。 「罪を重ねてはなりません。自首しなさい。そうすれば、私があなたを赦すから」 そう言って、先生は斎藤を抱き締めた。斎藤は泣いていた。
あとから聞いた話だと、どうやら沙希をひき逃げした犯人が斎藤だったようだ。斎藤はどうしていいかわからず、先生のところを訪ねた。そこにぼくが現れたのだった。
その後、斎藤は自首をした。斎藤は以来、学校に来なくなった。 二人の生徒を失ったショックから、先生はうつ気味になってしまった。 ぼくが先生のところを訪ねると、先生は決まってこう言うのだった。 「死は、ふいに訪れます。それが苦しいのは、それが愛する人との別れだからです」 ぼくらはもう、口づけを交わすことなど、なくなってしまった。
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