Google
    
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▼ページ下 >>

架空面倒物質『ヤルキナイト』に関する若干の考察

 ( SS投稿城 )
- アクセス(110) - いいね!(3)

ゴン @gorurugonn ★DjNTU7Srs9_Q1n

 少し前の自己啓発本の類には、しきりにやる気に関するものが、つまり、モチベーション管理、だとか、やる気を出すコーチング、とか、そんなものが溢れていた。
 2016年において、ほとんどやる気を出すことができなかった僕は、結局のところ計画していた事柄をことごとく達成できずに2017年を迎える事になる。
 なぜこんなにも面倒くさくなってしまったのだろう。
 かつては夢中になっていたことも、何故だか無性に面倒に感じるようになったのだ。
 やる前にそこまでしてやるほどのことだろうか、という問いが頭によぎる。
 やっていたらあんな時間になってしまうな、と逆算する。
 そしてだんだん面倒になって、結局何もしない。そんな日々だ。

 そんなことを考えながらコンビニで100円の缶コーヒーを一気飲みした瞬間に、僕はその原因を解明した。
 それがヤルキナイトの発見である。
 発見であるというのはおかしいかもしれない。なぜならこの物質は実在しないからだ。
 ただ、ヤルキナイトを空想上に定義することによって、もしかしたらありとあらゆる怠惰な気分に染まっている人たちに、役に立つところがあるかも知れないと思って、以下にヤルキナイトに関する考察を書く。

 なんとなく面白くなさそうだな、と思った人は、今まさに脳内でヤルキナイトが生成されている真っ最中だ。ぜひ読んで欲しい。多分その推測が間違っていないことを知るだろう。

 話を戻そう。ヤルキナイトの話だ。
 端的に言うなら、人間にはやる気、とか、モチベーションとか、そういうものは存在しない。
 あるのはヤルキナイトと言う、面倒くささを感じさせる物質で、それが少ないか多いか、それがやる気のあるなしの正体なのだ。

 では、ヤルキナイトとはどういう物質なのだろう。
 ヤルキナイトとは、人間の想像上の疲労感である。
 人間のあらゆる行動には、全て大小の疲労を伴う。
 どれほど楽しいことでも、どれほど愉快なことでも、笑うことも泣くことも、寝ていることさえ、疲労を伴う。疲労を回復する行為さえも、それを行うことそれ自体に疲労は生じていて、ただ、その疲労を上回るだけの活力が回復するから、実質疲れが取れていると感じるだけなのだ。

 そして、人は意識しなくても、感覚的にこの疲労感を記憶する。
 年齢を重ねれば重ねるほどに積み上げられていくこの疲労感のデータベースこそがヤルキナイトの正体である。
 つまり、物事をやるときに、やる前に既に人は、それを終わらせたらどれだけ自分が疲れるかを予想して、やり終えたあとの達成感だとか、そのあとに付随するご褒美だとかを差し引きして、その思考の結果に対して、疲労するのである。

 そして、この空想上の疲労感というのは、あなたが三十歳以下の場合、大体において常に実際の疲労感を上回っている。
 あなたが三十歳以上の場合は、思ったよりも大変であることが多いかも知れない。しかしそれはヤルキナイトの本質的なことではないので、とりあえず流しながら先を読んで欲しい。

 実際やってみたら思いのほか大変だったとか、予想以上に疲れたとかいう場合もあるだろう。だがよくよく考えてみて欲しい。その予想以上に疲れた、ということは、本当に予想に忠実な内容だっただろうか。

 大体の場合、これから行うことをわかりきっていて、頭の中で想像できることと、実際にやることが合致している場合、それを実際に行うことと、行う前に頭の中でやることに対して面倒だな、と思っているときの、その面倒だなという思いは、実際の面倒くささより大きい。思いのほか大変だったというのは言葉のとおり、これからやることを正確に予測できていない場合のヤルキナイトが少ないということなのだ。

 なぜこういうことになるのか。それはヤルキナイトが疲労感の記憶の蓄積であることによる。つまり、何度も繰り返している同じことについては、正確なデータベースが脳の中に存在し、ヤルキナイトも大量に作られる。
 しかし突発的に発生したアクシデントへの対応や、初めてやることなど、自分の中にそのことについて明確な記憶が存在しない事柄については、ヤルキナイトは生産されようがない。それでも疲労を避けるために、予測に基づいて人間はヤルキナイトを生成し、理由をつけてそれを回避しようとするのだが、明確な予測に基づかないのでついついやってしまう。

 好奇心とか、初めてやることに対して前向きになるのもこのためである。
 疲労の記憶がないからこそ、ヤルキナイトが生成されにくく、結果的にそのヤルキナイトの少ない状態をやる気がある状態と認識するのだ。
 子供がやる気や活力にあふれているように映るのもこのためだ。疲労の記憶どころか、そもそもの記憶の母数自体が少なければ、ヤルキナイトは生成されようがない。

 ヤルキナイトが想像上の物質で、実態を持たないことにはもう一つ別の側面がある。
 つまり、ヤルキナイトが想像上のものである以上、想像する、思考を行うということは、それだけでヤルキナイトを増殖させるのだ。
 要するにやる気がない状態というのは、面倒くさいな、と思った瞬間爆発的に膨れ上がるのである。
 これをヤルキナイトの再生産と呼ぶ。
 人は面倒くさいと考えることによって、さらに面倒くさいという気持ちを、つまりヤルキナイトを爆発的に増やしているのだ。

 では、どうすればヤルキナイトをできるだけ少なく、常にやる気に満ちた状態でいることができるのだろう。
 それは、面倒くさいと認識した瞬間に、その面倒くさいことを行ってしまうことだ。
 なぜならヤルキナイトは自己増殖的な物質であり、そのことについて面倒くさいと考えることによって増えていき、減ることはない。つまり、面倒くさいな、と思ったそのときが、そのことについてもっともヤルキナイトが少ない瞬間なのであり、以後そのことを先延ばしにすればするほど、ヤルキナイトは爆発的に増えていく一方だからだ。

 実際、案ずるより産むが易しという言葉がある。
 想像上で疲れている状態を超えるのは、実際に行って思いのほかたやすいことだという記憶を重ねていくしかない。
 そして、人にはやる気というものはなく、ただどれだけ疲れるかを明確に思い描くことができないで、なんとなくやったあとに起こるご褒美や肯定的な感情の方が大きいように思えることをやる気があるように感じるだけなのだ。

 思えば僕はやる気という言葉に、どれほど引き回されてきたことだろう。
 やる気を引き出すことができれば、生きることは快適になる、なんていう言説はそれこそまやかしなのだ。
 人は絶えず面倒くさいと思い続けながら生きていく。
 生命が絶えずエネルギーを消費していく存在である以上、生というものは消耗であり、そこに疲労は絶え間なく生まれる。
 疲労そのものは回復できても、疲労感の記憶は消すことができない。
 年を取るごとにその記憶は膨大なものとなり、また、現実の疲労と想像上の疲労に差がなくなっていく。
 さらに加齢による活力の低下は、想像上の疲労感より実際の疲労を大きくする。これは記憶されている疲労感が確実に現在より若い時に記憶したものである以上、人は常に、昔のほうが疲れにくい存在であることによる。

 でも、ヤルキナイトは実在しない。
 面倒くさいと思っていることと、あなたの目の前にいま存在して、やらなければならない事柄には一つのつながりもなく、面倒くさいと思うことと、それをやることには、一切の因果関係は存在しない。
 やる気なんてないのだ。やる気がみるみる湧いてくるなんてことはありはしない。
 ただ、面倒くさいなぁ、と思いつつやって、思いのほか簡単だった、という達成感に包まれているしかないのだ。
 やり続けていくことだけが、常にヤルキナイトを最小に保つ方法なのだ。

 さあ、履歴書を書こう。
 ハローワークに行こう。

ページ: 1

 
 
<< TOPページ 掲示板TOP 記事データ お知らせメール ▲ページ上 >>
★必ず ローカルルールメビウスリングのルール をご覧ください。
 ▼スタンプ▲スタンプ
※スタンプはいちどに 3個 まで使えます  ×閉じる