阿 @private11 ★iPhone=wIHYi007jk
『i do』を聴いて
「誓う、誓うよ」あるいは「きっと、きっと」のところが呟くように、1度目は口を突いてでたかのように、2度目は自分の口を突いて出た1度目のそれを自分「が」繰り返す。しかしそれは静かに繰り返されるのみであって、ミスチルの『and i love you』のように、「感情的に」声を高めたりはしない。しかし私の「無表情」や「無機質な文章」と呼ばれるそれらがけっして無機質でもなんでもないように、押し留められた、溜められた、いわゆる「感情の爆発」とは異なる、静謐な「感情」がある。
静かに繰り返すのは「伝えよう」としていないから。孤独な決断だから。歌詞を見りゃわかる。しかし平井堅のように目を閉じて自分の気分に浸りきったりはしていないだろう。目を開いたまま、見据えたまま、歌は歌われねばならない。少なくともこの歌は。
「感情が入りすぎてて気持ち悪い」という感想にはいくらかの真性がある。ノッコのように一定のカリスマ性がなければ、「心を込めて」歌うというのは、目を閉じて歌うというのは、歌で歌われている世界に聴き手が入ることを妨げる。そしてノッコのような者ならば、そう歌ったとしても、歌われている世界に聴き手が入りこむことを妨げはしない、というわけでもない。
「心を込めない」という在り方が、他方ではるかに「心を込めた」在り方になる。「心を込める」かのように歌うのは、その歌に思い入れがあるほど簡単なことであり、歌と曲で描かれているものより歌手が前面化してしまうからだ。
大槻ケンヂと絶望少女たちのライブ映像を見てオーケンへの評価を私が下方修正せざるをえなくなったのはなぜか。彼はたしかにボイストレーニングかなにかをしたのだろう、ビブラートが「良く」なっている印象を私はもったが、それを出そうとしすぎていたのではないか。若い女と一緒に歌うってんで張り切りすぎていたのかもしれない。
『ルビーの指輪』を歌う寺尾も見たが、あいつはたぶん歌詞をちゃんと覚えておらず、そしてトチることを恥だと思っており、それは我慢ならないから、サングラスかけて足元のテレビに流れる歌詞を見る目線を隠しているに違いない。気取るのはいいとしても気取りすぎ。
「心を込めて歌う」とはどういうことであり、それがたった一つの優れた歌唱であるのか、ということだ。平井堅の場合を見るに、私にはそうは思われない。『楽園』の淡々とした風情はよかったと思うけれど、それも平井堅の歌唱というよりは曲の良さによるところが大きいのかもしれない。
阿 @private11 ★iPhone=wIHYi007jk
「後進国」の子どもへのインタビューで「勉強したい」だとかなんとか子どもは言うが、それは我々が思うような「純粋な学的好奇心」などといったものではなく、もっとハングリーな、医者や教師(公務員)などになることで、農村地帯からの脱出を可能にするものとして、彼らが勉強を捉えているからではないか。
ああいうインタビューをもとに「子どもにはこのように純粋な好奇心があるのです。日本のような学校制度はそうした好奇心をry」なんたらかんたら言うのは、ただの幻想でありうる。勉強するということが社会的ステータスであり、それゆえに勉強することに憧れている、ということも大いにありうるのだから。
私は「子ども」に夢を見ない。私よりずっと強かでありうる。
ダイアルを回し、肩と頬で受話器を挟み、視線を天井へチラと写し、舌で唇を湿らせ、身体を左右に揺らすのを見て、ブルース・ウィリスだなぁと安心する。
少年Avs.中年Z。出会ってはいけない2人が、出逢ったーー
クズ2人が織りなすハートフルhurtfulストーリー。
自販機の下を覗いたり寄る辺ない昼間をタクシーの運ちゃんとの会話(一方的)に費やしたり信号無視したチャンネーにガチギレしたりする中年Zがいよいよ追い詰められて空き巣に走るも、尿瓶代わりのペットボトルが乱立し引き千切られた卒業アルバムが散乱する少年Aの部屋だった。
みたいな話をどうせ物語書くなら書きたいと思うが、書くわけがないので中年Zは今日もあなたの街の片隅の側溝から百円玉を摘みながら笑顔でこんにちはするのでしょう。
『聖馬蹄形惑星の大詐欺師』『達人の山』『バンディリア旅行団』『ルベド』『gipnoza』『上昇初期値』ヘヴィロテなうーん。
アイマスと平沢進のMAD見つけてたまらんちん。千早回にバンディリアとか卑怯すぎる。
阿 @private11 ★iPhone=l04ZGcnWfn
酷くないP『守護者』や『なにがジェーンに起こったのか?』や『さよならを教えて』を視聴して思うのは、我々が「解放」と見なすことの多くは、上述の作品で見られる〈症状の更新〉とでも言うべき現象を、取り違えたものでありうる、ということだ。
操壊 @tukimonoda ★kIBtVXVdAz_Im8
遅すぎる謝罪かとは思いますが、阿さんへレスする前にメイン記事へ書き込んだ失礼な行為、
申し訳ありませんでした。刃牙道7巻、満喫で読もうと思ったら満席で、
コンビニで買って家で読んだら、烈さんまだ死んでなくて安心した。
ただもう一刀両断されたような線が入っちゃってるけど、
あれは武蔵の技能で紐だけ切ったということであって欲しい。
板垣恵介が救いようのない話を書くような人でないことを願うばかり。
いやでも久々に熱いバトルで面白かった。
『hatoful boyfriends』とかいう女向け恋愛ゲーム、痺れるわぁ。every birdy(エヴリバディにかけてる)やぞ? 脱帽。
私は基本的に無神論者だが、それは、神がいようがなんだろうが、そんなことに頓着せずに物事を考える、そのかぎりでのことである。神が存在するか存在しないか? 知らない。天国はあるか否か? 知らない。存在すると言っても、存在しないと言っても、どちらも嘘になるだろう。
死者はどこへ行くのか? どこへも行かないのか? 知らない。しかし生きて〈いる〉のであれ死んで〈いる〉のであれ、私には死んでいるものとしての誰かが現れている。無論、どちらのシニフィアンにも〈いる〉が共通しているから死者は存在するとか「実在する」などとは言わない。しかし、それにも関わらず、私には「死んでいる」誰かが、「死んだ」誰かが、現れている。
「頭の中」になんぞ存在しない。「心の中」になんぞ存在しない。ただ、私に死者たるその誰かが現れている、ということにすぎない。私がその誰かについて考えるという事態は、トイレットペーパーについて考えるということではなく、ボードリヤールについて考えるということでもない。
つまり、或るものが〈実体ousiaである〉とは、或るものが或る状態に在る、ということではありえない。
繰り返すが、私は「死後の世界」なんてものは信じていない。ただ、存在しないとも見なしてもいない。そもそも「存在する」ということについて人は何をしって
いるのか。
死者の弔いに関して、やれ「自己満足だ」とか言う者は、なにもわかっていない。弔いの儀式というのは、いまやどうなっているのかわかりもしない、しかし、私があらゆるものと区別してその個体について想うことを可能にする、〈誰か〉への、不安な心地からの、私にできるかぎりでのことをしようとする、愛ゆえの振る舞いである。もちろん、葬式というのは形骸化し、葬式の参加者もしばしばルーティンに参加しているだけのこともあるだろうけれど。
それでも葬式というのが大事なのは、それが、私の知らなかったその死者の振る舞いなどを見聞きすることができたりして、その死者への意識を新たにする、一つの契機だからである。たとえ醜聞であっても。
その意味では、墓参りというのは必要ないだろう。或る日、或る時、そこへ行こうという気になるのなら行けばよいとは思う。墓や仏壇の前に座ってわざわざ語りかけるということをせずとも(仏壇や墓の前でのみ死者を想うべきだというわけでもあるまいに)、月夜に酒でも飲みながら「あんなことあったなぁ」とか、つらつら死者を想えばよいだろう。
不安という〈気分〉からのあれやこれやの想いの、なにが「自己満足」だろう。不安というのは、存在者が存在するという対象ならざる出来事および存在者の在り方へ向けらているわけだが、こうした不安は、或るものに対する在り方を、改めて俎上にあげるという、静かなエネルゲイアである。死者や魂に対する一つの無邪気な存在論を取っている自然主義(死んでいる者は存在していない)、同じくおためごかしのセラピーがごとき態度(振り返らず前向きに生きよう)、同じく政治的あるいは心理的な必要性からの有神論(人間は神的であるとかなんとか言って魂は在るとか軽々に言う)、そのどれらも、死者を想うという現在性の忘却でしかない。
挙句、墓場の省スペース化のために携帯であれこれしたり、墓参りの代行サービスや、高層ビルに「墓場」を作ったりする始末だ。そこまでして「墓参り」することも「墓場」を作ることもないだろう。
結局のところ、古本のように、反復して読まれたことで折り目がついたり、シミができたり、
日焼けしたり、角や背が傷んだり、そうした長い時間での滞在に、耐えられなくなっている。いつでも「遠く」との「繋が」りを求め、そこにいる、ということを絶えず相対化しようとしているわけだ。「現在」の存在様式が、古本的ではなく、電子書籍的になっている。薄っぺらで、反復的な読書という長い時間の痕跡を残す(精神的な痕跡を残す)という仕方ではない。細切れの「現在」。
削除済み @119119 ★Android=oSwLZrrPYd
【この投稿は”ポンデリング”削除されました】 削除者: あうら☆マスター ( 2015/10/05 08:44 ) 削除理由: 迷惑行為(文字羅列・無断転載・AA・チェーン・宣伝など)
削除済み @private11 ★iPhone=zojJMTb2yz
【この投稿は”ポンデリング”削除されました】 削除者: あうら☆マスター ( 2015/10/05 08:44 ) 削除理由: 迷惑行為(文字羅列・無断転載・AA・チェーン・宣伝など)
阿 @private11 ★iPhone=lAEIoMsWdI
やっぱり日記板に投稿している素直な子らのレスのほうが、心理主義的にすぎるものも多いが、真剣なものではある。
これは「エリート論」。
「ネタバレ」なんぞ恐るるにたらず。「ネタバレ」が重大であるのは、その「作品」が「ストーリー」という名の「因果関係」に依存しきっているか、その読者が「ストーリー」に依存しきっているか、どちらかであるからにすぎない。
漫画なら、コマ割りの一つ一つに面白さがある。コマ割りだけでなく、コマとコマのあいだの広さも、〈表現〉である。最近なら『東京グール』にコマとコマの間の広さ(狭さ)を意識したコマ割りがあった。どの話だったかはうろ覚えだが。
小説なら、句読点の一つ一つ、さらには、平仮名と漢字がそれぞれ、一つのページに占める割合まで、大まかにであれ、意識しているものがある。
「自己」を隠すことなんぞできはしない。嘘をつくことですら、嘘をつくという行為のア・プリオリを考えさえすれば、「自己」を表す一つの様式だとわかる。痕跡を抹消した痕跡、というのを考えさえすればわかる(「真っ白な」紙上の或る特定の箇所のザラつきはそこで消しゴムが擦り付けられたことを意味している。磨くというのはキズをつけるということだ)。
「ストーリー」に依存した「作品」は、その「ストーリー」がひとたび暗記されてしまいさえすれば、それで終いだ。一発屋なんである。
〈作品〉は「ストーリー」を越えている。
近所のコンビニ店員は客がお金を置くためのあの入れものをスッと移動させた。私の前の客は左手に財布をもっており、あの入れ物は客の正面ぐらいにあった。それをこちらから見て右に移動させたわけだが、それによって、鞄を肘にかけた客が体勢をあまり捻らずにお金を置くことが可能になっていた。
やりおる。
しかし袋の持つところを捩らずに手を離したため、あの二つの輪っかを客が掴むために余計な動作をさせていた。
いまいち。
しかしあの女の子ならそのうち改善できるだろう。先輩に教えられてか、他の店に客として訪れたときに見たのか、そのいずれかであるのかないのかにせよ、入れ物を移動させるということを素直に受け入れて実践できているからだ。それを自分なりに工夫して案出したぐらい、接客に関して意識しているならば、なおさら、袋の輪っかを捩ることで客が袋を持ちやすくなるというのを見さえすればすぐに実践するだろうし、自分が客として訪れた店で袋が捩られていなかったとき手に取りにくかったことを思い出して、改善するだろう。
「戦争を体験したことがない人には戦争の悲惨さがわからないんです!」、なるほど笑
「悲惨さ」とやらを知れば人間が戦争をしなくなるのか、「知っていても」やらざるをえないときがあるのではないか、という問いは控えたうえで、上述の経験論者の言にしたがえば、戦争がなくなるわけがない笑
経験至上主義の反戦争論者は、上述の言葉で、「戦争がなくなるわけないんです!」、と力説している。こんなのに涙ながらに賛同する「反戦争論者」は、まさしく、「コミュニケーションがとれてる」わら
「感覚(内容)」は「主観的なもの」とされるが、古来、「痛み」がなぜか頻繁に話題になるのは、或る人が道案内をしている相手が途中で入れ替わってもその人はその入れ替わりに気づかない(しかしこの実験の企画者や観察者は気づいている)ということがありうるように、「視覚」が「客観的な感覚」であるのに対して、「痛み」あるいは「触覚」というのは、それよりも「主観的な感覚」であるからだ。
「感覚とは主観的なものです」という「定義」は、なにも明らかにしていない。