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チェンマイから来たオリヴィア

 ( 小説投稿城2世(大人風味) )
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葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

半分は実話である。
俺の人生を狂わせた悪夢の様な物語を語っていこう。
人名、団体名は全て仮名である。



(1)出会い

その女の底なしの暗い目。俺が引き寄せられたのは、そのあまりに暗い目のせいだった。

彼女は「ユリ」と名乗った。
俺が彼女の隣に座ったのは、俺の「Anyone speak English?」という言葉に彼女が「Ya!」と答えたからだ。

当時のタイ・スナックはほとんどがチェンマイ出身者。騙されて来る者も多かった。東北のイサーン出身者が増えてくるのは5年後くらいからである。

彼女達はほとんど日本語を話せなかった。ただ酒と食事のメニュー、その後にはカラオケの本を持ってきて「うた、うたって」と言うだけである。俺が「誰か英語話せるか?」と問いかけたのは「俺は歌を歌いに来たんでもないしデートしに来たんでもない。君たちの話が聞きたいんだ。」という意志表示だった。俺はここのママさんが英語を話せないのを知っていた。

3年前 No.0
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葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

当時、騙されて日本へ来る女性は10人に1人という割合だったと推測する。今はほとんど0だが。

タイ人ブローカーが日本人のヤクザに「何十人女性を連れて行く」と契約する。
人数が集まらない時は騙して連れて来て人数を合わせる事になるのである。
騙して連れて来られた人は皆独身である。売春の仕事と分かって来る人達がみな夫と子供がいるのと対照的だ。


俺は彼女と英語で話す内に彼女が独身である事を確信した。俺のこういう直感は結構するどい。しかしもちろん直感だけでは無理だ。タイ人で流暢な英語を話すのは大学出に限られている事、下手な英語を話すのは社会へ出てから憶えた人である事、特に女性が下手な英語を話す場合はパッポンやパタヤで働いた経験がある事などの知識が必要だ。

ユリの英語は綺麗だった。そして何よりその底なしの暗い目が騙されて来た事、また日本の歌を何も知らないのは日本へ来たばかりである事を示していた。俺は彼女をホテルへ連れ出し、彼女の身の上話を聞かせてもらった。


日本には「MERCY」という救援団体がある。騙されて日本へ連れて来られたフィリピンやタイの女性を本国へ送り返す組織だ。

そこは世界中の人権団体と連絡を取り合っている非常に権威のある団体で、ヤクザも簡単には手が出せない。もし手を出したら国連の人権委員会が黙っていないだろう。ヤクザもそれが分かっているからMERCYとだけは喧嘩しないのだ。
MERCYは女性を本国へ送還する費用を飛行機のチケット代も含めてヤクザに請求し、大体ヤクザは払うそうである。

こういう緊急避難的な人権団体はどの国にもある様だ。
タイの「仏教者人民連帯」などはもっと過激である。マフィアと抗争になる事も躊躇しない。
こんな事が単なる市民運動でできるはずがない。恐らく隣国の共産党やゲリラ組織がバックに付いているのだろう。

しかしMERCYは人使いが荒いのでも有名だ。自分でタイスナックへ足を運ぶ事は無い。他の中小グループが女性を連れて連絡を取ってくるのを、あるいは女性が自力でスナックを脱出し連絡を取ってくるのを待っている。

俺はユリをMERCYまで送り届けようと決めた。


3年前 No.1

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

その日、俺は話だけを聞いてユリを帰すつもりだった。だが・・・・・
ユリの目はあまりに暗く、しかも美しかった。
(以下、英会話は全て日本語に直して書く)

「君はオリヴィア・ハッシーにそっくりだね。」
「ああ、その人、知ってるわ。ジュリエット役の人でしょう?」
「うん、映画見たの?」
「友達の家でビデオで見たわ。」
「そうか、だけど君の方がもっと綺麗だ。」
「ありがとう。」

そう言いながらユリは俺に抱きついてキスしてきた。
俺はベッドの脇の灯りを消した。二人ともかなり酒が回っていた。

***********************

翌日は日曜だった。電話の音で目覚めた俺は出た方が良いか迷った。
休日出勤の可能性があったからだ。

まだ酒が醒めていない。頭も痛かった。
このままシカトしていれば別の人間に公出の役が回る。

だが電話の音は20回鳴ってもまだ続いた。会社じゃない。
しかたなく電話に出るとユリの声だった。

「Ya、ユリの。今向かいのスナックに居るの。早く来て!」

俺は驚いた。向かいのタイ・スナックのママさんが逃亡の手助けをしたのだ。
俺はまだまだその世界の実態を知らなかった。これがよくある事だと知ったのは何年も後の事だ。

会社の車でスナックへ着くとユリとママさんが出て来た。
ユリは大きなバッグを抱えている。徹夜で準備したのだろう。彼女の覚悟のほどがうかがえた。

ユリを乗せると俺は一旦家に戻った。まだMERCYに連絡も取っていなかったのだ。

家に着くと、すぐにMERCYとタイ大使館に電話を入れた。

3年前 No.2

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

MERCYの人とは新宿の某喫茶店で落ち合う事になった。
向こうも用心深く、緊急避難の場所は決して教えない。

大使館の女性の対応は冷たかった。
俺は「彼女がパスポートを紛失した」と伝えた所、「そういう事なら板橋の第2入管へ行って下さい。」とだけ言ってガチャンと電話を切られてしまった。嫌な予感がした。


MERCYの女性は約束の時間より20分遅れて来た。
恐らく一度別な人間に様子を見に来させて俺の話が本当かどうか確かめた上で来たのだろう。そういう所はさすがにプロだ。

彼女はユリにいろいろと根堀り葉堀り質問してきた。
ユリの話は(当たり前だが)俺にしたのと全く同じだった。

チェンマイの大学生である事。
日本のタイ・レストランでの料理の仕事と聞いて応募した事。
売春の実態は聞いていたが、警察官の仲介だったので安心だと思った事。
パスポートはスナックのママさんに取られた事。
売春の仕事と知って来る女性と違い、パスポートは本名である事。

全てを聞いてMERCYの女性はユリを信用したらしく、喫茶店の電話で本部の人と話した後、俺に家に帰る様に促し、二人はその後も話を続けていた。

一人で帰宅した俺は自分がグッタリと疲れているのに気付いた。
これで終わったのだ。昨夜の事は夢だったのだ。忘れよう。そう自分に言い聞かせた。

もう一度寝ようとベッドに戻った時、ユリがミュージック・テープを置き忘れて行ったのに気付いた。
ラジカセで聴いてみるとタイの古い歌謡曲のようだ。
日本の歌謡曲には有りそうもないメロディーとコード進行だ。沖縄のメロディーに少し近いだろうか?
悲しいメロディーだった。

全部聴き終わった時、俺は涙を流していた。
「何を泣いている? 俺は良い事をしたんじゃないか。ユリはタイに帰れるんだ。」
そう考えても涙は止まってくれなかった。
鈍い後悔の念の様なものが俺の中にくすぶっていた。
自分がユリに恋してしまった事に俺はようやく気付いた。

3年前 No.3

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

(2)急転

ユリから再び電話がきたのは翌日の夜、ベッドに潜り込んだ直後だった。

「Ya ユリの。MERCYはダメだわ、貴方の家に帰る、迎えに来て。」
「何だって? どうして?」
「とにかくダメ。今あの喫茶店にいるからすぐ来て。」
「すぐって、もう9時だぞ。何があったんだ?」
「いいからすぐ来て!」(Don't say why but come right now!)

ユリは喫茶店の電話で叫んでいた。その緊張した雰囲気に仕方なく俺は疲れた身体に鞭打ちもう一度ベッドから出て庭へ出ると車のエンジンをかけた。夜の空気は5月の割には寒かった。

喫茶店に着いたのは10時を過ぎていたと思う。
常磐自動車道を120kmで飛ばしたのだが、土浦から新宿までは結構距離がある。俺は運転しながら次第に不安がつのって来るのを感じた。

「MERCYの人と喧嘩したのか?それとも・・・・」

その不安はタイ大使館に電話して冷たくあしらわれた時の不安と同じ性質のものだった。或る予感が俺の頭をよぎった。

3年前 No.4

葉山 ★Android=gN3GKHk0Vr

喫茶店は薄暗かった。同じ店なのに昼と夜で随分イメージが違う。

ユリは青暗い光の中でやつれて見えた。その大きく暗い目はますます暗い輝きを放っている。

「暗い輝き」なんて形容矛盾だな。俺は変な事を考えながら、しかしユリの目はその様にしか表現出来ないと思った。

店の払いを済まして車に乗るとユリは頭を仰け反らせ、後ろ頭を助手席の枕にゴツンとぶつけ溜め息を漏らした。
「Oh, my God !」

「どうしたんだ?」
「Mercyの人は親の住所、電話番号全部聞き出そうとするのよ。」
「何故言えないんだ?」
「だって私は親には3ヶ月日本に旅行に行くって言ってあるのよ。本当の事を話されたらもう家にも大学にも戻れなくなるわ。」
「しかし帰国の手続きはどうする?」
「大使館にもう一回電話して。」

初めに大使館に電話した時から何度も感じていた漠然とした黒い予感が少しずつ或る形を取り始めていた。

そのジトッとした湿り気を持った予感は、軟体動物の様に俺の身体の内側にへばりつき、寝不足の身体を一層重くした。

「明日仕事早いんだ。明日の夜考えよう。」
俺はそう言うと後は一言も話さず高速を飛ばし続けた。
話す元気もなかった。

家へ着くとユリが入浴している間に少し筋者系の知人に電話を入れた。

「実は俺の知り合いの所へフィリピンの女が逃げ込んで来て、国へ帰そうとしてるらしいんだが、こういう場合はどうなんだろうね? 」
「その女は借金は終わってんのか?」
「いや、日本へ来たばかりらしい。」
「そりゃ無理だな。借金抱えた女をそう簡単にヤクザが逃がす訳ないだろ?」
「そういう女が大使館へ逃げ込むのは分かり切ってるから、そういう場合は大使館の回りで待ち伏せしてんだよ。 その男にやめる様に言った方がいいぞ。」

俺はゆっくり受話器を置いた。
黒い予感が遂にはっきりとした形を取った。

3年前 No.5

葉山 ★Android=gN3GKHk0Vr

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3年前 No.6

葉山 ★Android=gN3GKHk0Vr

チェンマイに咲く白百合よ

薔薇で有名なチェンマイの高原で

なぜ貴女は一輪だけ

淋しそうに咲いていたのか?

華麗で饒舌な薔薇に周りを囲まれ

なぜ貴女は一人孤独に

膝を抱えていたのか?

今になってやっと解る

語らない貴女の

語りたかった言葉が

沸騰する言葉と沈殿する言葉

その二つが貴女の中にあったのだという事を


3年前 No.7

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

(3)逃走

翌日、俺は仕事が手に着かなかった。昨日のユリと知人の言葉が頭の中をグルグルと回転していた。

「Don't say why but come right now !」
「Oh my God !」
「そういう場合は大使館の回りで待ち伏せしてんだよ」

これらの言葉を何度も反芻する内に、俺は自分の置かれた立場、自分の抱えた問題の大きさが次第に飲み込めてきた。
人権団体を通さずに自力で逃走する事が如何に困難で命がけの事か、ユリは分かっていたのだ。

早めに仕事を切り上げると家へ速攻で帰った。ユリは眠っていた。彼女も疲労困憊なのだろう。
とにかくもう一度大使館に電話するしかない。俺は何度も躊躇しながらタイ国大使館の番号を押した。
これからの困難を考えると指が重かった。


「はい、タイ国大使館です。」
前回と違って電話に出たのは日本人の男だった。正直言ってほっとした。
「日本人ならまだ何とかなる」何の根拠もない安堵感が俺を少し軽くした。

「一昨日も電話したんですが、友人のタイ女性がパスポートを紛失してしまいまして、
本人はもうタイへ帰る事を希望しているんですが、どういう手続きをすれば良いでしょうか?」
俺はできるだけ平静を装って明るい声で聞いた。

「そうですか、女性本人は今そこにいますか?」
「いや、今ちょっと出かけてますが・・・」
「では、本人がいる時にもう一度かけ直してもらえますか?」
「えっ、どうしてですか? 手続きのやり方だけ教えていただく事はできないんですか?」
「それはですね、この問題は非常にデリケートな問題が絡んでいますので、まず直接本人の意志と、
そのパスポートを紛失した経過を確認しないとお話できない事になっています。」
「分かりました、またかけ直します」
「はい、では30分後くらいにお願いします」

電話を切ると、俺はタバコを一本吸った。
「考えろ! 作戦を練らなきゃ駄目だ!」

そして考えている内にふと気付いた。
「ん? 30分後ってもう大使館閉まってるじゃないか?」
「分かっていてワザと言ったのか?」

再びあの湿った黒い軟体動物が身体の中で大きくなっていく。重くなる心と反比例して心臓の鼓動が速くなっていくのが分かった。
「まさか、ワザと嫌がらせを・・・・・・」
「いや、そんなはずはない。もう一度電話してみよう。」

俺はユリを起こすと今までの会話を説明した。
「わかったわ、No problem」彼女の方が平静だ。そこでもう一度電話したが、話し中だった。
それから5分おきに電話し続けたがずっと話し中だ。明日もう1回かけるしかない。

スナックでは今頃大騒ぎになっているはずだ。追っ手の手配をしているかも知れない。
しかし俺の家にいる事は分からないはずだ。さあどうする? 考えろ!

さしあたり会社に電話して3日間の有給休暇を取った。疲れていた。心身共に。

「今日はもう寝よう。疲れがとれてからの方が良いアイデアが浮かぶかも知れない」
そういう結論になった。


3年前 No.8

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

翌朝早めに目が覚めると、ユリはもう起きて台所でタイ料理を作っていた。
今日から闘いが始まる。俺は気合いを入れた。

初めて食べるタイ料理は全く違和感が無かった。
「ユリ、料理上手なんだな」
「Ya、料理教室で習ったのよ」
「そうか」
会話はこれだけだった。二人とも緊張している。

9時ぴったりに大使館へ電話した。昨日と同じ会話。俺はすぐにユリと代わった。
何やらタイ語で5分ほど話すと彼女は電話を切った。

「第2入管へ行ってくれって」
「うん、それは分かってる、それだけか?」
「Ya」

104で第2入管の電話番号を聞くと、すぐに電話してみた。ところが、
「まずタイ国大使館で身分証明書を見せて紹介状を取ってきて下さい」と言う。
「大使館に電話したら第2入管へ行ってくれと言われたんですが・・・」
「パスポートを紛失したという証明書はこちらで発行します。しかし、それには本人がタイ国籍を持っている事の証明が必要です。それは大使館でないとできません。」

何故だ? これじゃたらい回しじゃないか?
俺の中で再び黒い軟体動物が成長し始めた。

「ユリ、身分証明書って持ってるか?」
「Oh、IDね、それなら有るわ」

彼女はカバンの中を引っ掻き回すとボロボロになった紙切れを出した。
ところどころ破けているが、印刷されたタイ語とガルーダの赤い押印から公文書である事がはっきり分かった。

大使館へ行ってみるしかないな。俺は覚悟を決めた。

ヤクザが張っているとすれば大使館のすぐそばのはずだ。回りを全部囲むには近くでなければ人数が足りなくなる。車は何台も使わないだろう。何人かで立って待ち伏せしているだろう。こっちが車で突進すればよけるはずだ。大使館に入ってしまえばこっちのもんだ。奴等も構内で騒ぎは起こせない。だが、大使館の門が閉まっていると開けてる間に囲まれる可能性がある。まずユリを別な所で待機させて門が開いているかどうか確認しないと駄目だ。

作戦は決まった。一晩寝た効果があった様だ。俺は下らない事で苦笑した。

まずユリにスナックのホステスや向かいのスナックのママさんに電話を入れて「大阪の領事館へ逃げる」と言いふらさせた。陽動作戦だ。
次に近所でサングラスとマスク、それに金髪のカツラを買った。俺のカバンにはペンに偽装したナイフを忍ばせた。これは以前友人にもらったものだ。これなら大使館で身体検査をされても誤魔化せる。まさか金属探知機までは使わないだろう。

準備が整うとユリにカツラをかぶせ、サングラスをかけさせて車に乗り込んだ。


3年前 No.9

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6


五反田の喫茶店でユリを降ろすと俺は一人で上大崎の大使館前まで車を走らせた。首都高の下は車が多いが、大使館はそこから50mほど路地を入った所にある。路地は袋小路になっている。奴等に路地の入口を塞がれたら終わりだ。

俺はゆっくり路地を走り、突き当たりまで行ってみた。あたりに怪しい人影は見あたらない。正門も開いている。それを確認すると、五反田まで引き返し、もう一度ユリを乗せた。

しかし大使館の路地へ戻った時、道路の向かい側からもう1台、黒いベンツがこちらへ向かって来た。血が逆流した。俺はアクセルを踏み込んで特急で正門の中へ入ると、最も人混みのある場所で急停車した。「キューッ」とブレーキの音が響き、みんながこちらを振り向いた。ベンツはこっちを追い抜いて駐車場へ向かった。少しそこで様子を見ていると、降りてきたのは外交官風の紳士だった。

神経質になり過ぎているようだ。俺も駐車場に車を止めてユリにカツラだけ脱がせ、サングラスはかけたままで大使館に入った。

受付はタイ人の女性だった。俺はまた嫌な予感がした。時計を見ると午後3時をまわっていた。
「午前中電話した者ですが、パスポートを紛失した件で・・・」
「第2入管の証明書は取りましたか?」
「いや、第2入管に電話したら、まずこちらでタイ国籍を持っている証明を取って来てくれと言われたんです。」

受付の女性は中のタイ人男性と何やら1〜2分ほど話すと「控え室でお待ち下さい。あとで女性の名前をお呼びします。」と言う。

控え室にはタイ人の女性がすでに二人いた。見るからにホステス風だ。彼女達はユリを怪訝そうな目で見つめた。ユリがホステスとは雰囲気が違う事が分かるのだろう。俺にも分かったのだから彼女達にはもっと明瞭に分かるはずだ。

結局順番で1時間ほど待たされてユリの本名「パッサラー・アナンターシン」が呼ばれた。
通された部屋は狭く(6畳ほどしかない)タイ人の女性と日本人の男性が並び、向かいにユリを座らせた。そこでタイ語の会話が始まった。もちろん俺には分からない。しかしだんだんユリの語気が強くなり、ムキになってくるのが分かった。20分くらいの話が終わるとユリは立ってタイ式の合掌をした。女性は軽く手を合わせただけだった。ワザと身分の差を見せつけている。
「そう言えばタイは王国なんだな」俺は変な事に感心した。

タイは身分制社会である。国王陛下の権力は絶対で、国王を侮辱する発言をすると、それだけで逮捕される。これは後で知った事だが、駅で毎朝8時に国歌が放送されると、駅のベンチで座っている客が全員起立して国歌がなり終わるまで直立不動の姿勢をとる。各家庭に仏壇があるが、そこに仏像とならんで国王陛下の写真が必ず飾られる。国王は神様扱いなのだ。

またタイは日本語と同じくらい敬語が発達している。同じ動作を表す単語が粗雑な言い方から高級な言い方まで3段階くらい有り、さらに王族しか使えない単語もある。こういうデリケートさは非常に日本と似ている。いや、明治時代の日本に似ていると言うべきか。

3年前 No.10

葉山 ★Android=gN3GKHk0Vr

大使館にIDを提出すると再び待合室で30分ほど待たされた後、タイ語の証明書とその日本語のコピーを渡された。

「これで第2入管へ行けば良いんですか?」と聞くと受付のタイ女性は「そうです」と冷ややかに答えて軽くソッポを向いた。

何て嫌な女だ!
舌打ちして大使館を出ようとしたその時、俺の腕にからめたユリの手がビクッと痙攣した。

ユリの視線の先を見て俺もギョッとした。
ユリのいたスナック「C」のママだ!

俺はさり気なさをよそおうのに神経を集中した。
下手に立ち止まったりしたら却って気付かれる。

その痩せた頬と氷の様な視線は間違いようが無かった。
俺はユリの手を引き、歩く方角をベンチの方へ変えた。

二人はママに背を向けてベンチに腰を下ろすと、俺はタバコを1本吸った。
「私にも1本頂戴」というユリに驚いて「ユリ、タバコ吸うのか? 女子学生が珍しいな」と言うと「今時のタイの女子学生はみんな吸ってるわよ。ガンジャだって珍しくないわ。」という返事にますます驚いた。
タイ語でマリファナの事をガンジャと言う。

しかしそんな事はどうでも良い。
ママは何をしに来たんだ?
ユリの逃走を報告しに?
いや違う!
ユリがここへ来なかったか聞きに来たに違いない!
だがそんな事、教えるはずがない。
しかし、もし大使館員にママと通じてる人間がいたら?
いや、そんな馬鹿な事ある訳ない!
いや、しかし、ひょっとすると・・・・

吸い終わって振り返るとママの姿はもう見えなかった。中へ入った様だ。 ユリにサングラスをかけさせておいて良かった。

「良し行こう!」ユリの手を取って早足で車へ戻ると、ユリに助手席のシートを倒させた。
これで覗き込まない限り分からない。

大使館を出るとユリはシートを起こし、突然まくし立て始めた。

「あの大使館の女! 私が貴方を騙して金を巻き上げようとしてるんだと思ってるのよ! impossible!」

「巻き上げる?それはどういう意味だ?」

「借金背負ってる女が逃げるとタイで殺されたり親が家を取られたりする事があるの。だからそういう女は日本人を何とか騙して残りの借金を日本人に払ってもらおうとするのよ。」

「・・・・・・・・」

俺は言葉を失った。その様子に気付いたのかユリはすぐに言った。

「私の場合は大丈夫。ブローカーの募集で来た訳じゃないからブローカーの名簿に載ってないはずだから。どこの誰だか分からないはずよ。」

「そうか・・・・・・・
しかし、そんな事がよくあるんじゃ疑われるのも無理ないな。」

するとユリは猛然と反論した。

「言葉や動作を見れば私がスナックの売春婦と違う事は分かるはずなのに。失礼の極みだわ!」

俺はユリが無い腹を探られた事ではなく、売春婦と間違えられた事に腹を立てているのだと分かった。

「身分社会」という言葉がまた頭に浮かんだ。


大使館でユリに事情聴取したタイ女性、ソッポを向いた受付のタイ女性、そしてユリも同じ身分的道徳の中で生きている。

タイ社会に「反差別」という発想は無い。それはキリスト教、特に宗教改革以後のキリスト教に特有のものだ。

それはパリサイ派が「アム・ハーレツ」と言って軽蔑した取税人や売春婦とばかり付き合っていたイエスの生きざまが前提になっている。

そして欧米型民主主義もその延長上にあるのだ。

キリスト教文化圏以外の国では、「社会的地位の高さと徳の高さは比例する」という身分道徳が定着している。

3年前 No.11

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

もう5時を過ぎていたので、その日はいったん帰るしかなかった。

腹も減っていたが、ユリを連れてレストランに入る訳にはいかない。どこにヤクザの目が光っているか分からない。
土浦のコンビニで弁当とジュースとビールを買って家に着くとユリの持ってきたタイ・ポップスを聴きながら二人で団らんとなった。

家と言っても6畳ひと間のアパート暮らしだ。外見は古くさいアパートだが部屋の中はそれなりに小綺麗にしている。

俺は当時としては精巧なコンポデッキにエレキピアノとシンセサイザーを持っていた。シンセはコルグのM1だ。俺はこれが自慢だった。
全て回線をつないでマイナスワン・テープに合わせてジャズ・ピアノ、ジャズ・オルガンの練習ができる様になっている。

その反対側は本棚とダンベル、エキスパンダ、ぶら下がり健康器などの筋トレの器具、そしてベッド。
空いたスペースは1畳分ほどしか無い。しかしそれで全く不便を感じた事は無かった。空手の練習は1畳あれば充分にできる。

テーブルは無かった。独身時代の俺は近くの牛丼屋かファミレスで食事するのが習慣になっていたし、たまに弁当を買えば、下に新聞を敷いて食べていた。

物欲というものが俺には自分でも呆れるほど無い。
空手とジャズピアノの練習、そして読書。
それ以外俺の人生には何も要らない。そう思っていた。
そうだ・・・独身でいる内は。

「狭い家ね」
「うん、独身だからな」
「あなた、恋人いないの?」
「いない」
「結婚したくないの?」
「・・・・・・・・・」

頭の中で「ユリと結婚したら・・・」という考えがかすめた。
しかしすぐに自分で打ち消した。いや、そんな事できるはずがない。ユリはタイに帰るんだ。

「もう寝よう、酔っぱらった 明日はまた早く出よう」と言うとユリは暗い表情で言った。

「ママさん、何しに大使館へ来たんだろう?」
「うん・・・・・・俺もそれが気になるんだ」
「きっとヤクザも大使館も警察も全部グルなのよ」
「そんなわけないだろ、日本は民主主義の国だぞ」
「そうね、タイとは違う」

俺とユリは重い心を抱えながらベッドに入った。


************************


翌朝、早めに起きて新聞を読み始めた直後、俺は次の見出しに目が吸い寄せられた。

「タイ女性10人を保護した警察、再びヤクザに引き渡す」(!!)

何だと? 俺は我が目を疑った。しかしもう一度よく見ても確かにそう書いてあった。
俺はまだまだこの問題の実態を知らなかったのだ。

3年前 No.12

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

その記事を全文読んでみた。

○月○日、○○○○警察で保護された10人のタイ女性をその後警察が女性達の働いていた暴力団員のスナック店長に引き渡していた事が分かり、関係者に大きな衝撃を与えている。
以前から「じゃぱゆきさん」の緊急保護、母国への帰還活動を続けてきた人権団体「MERCY」の代表を務める長野和子氏は「ありうべからざる事。日タイの国際問題にも発展しかねない。」と怒りをあらわにした。
タイ国の人権団体「仏教者人民連帯」は直ちに声明を発表し、日タイ間の国際的人身売買の実態を国連人権委員会で討議する提案をする構えを見せている。
タイ国の下院議員○○氏はこの問題を調査するために来日する意向を明らかにした。


俺はこれをユリに言わない方が良いと思った。大使館で見た「C」のママの事が再び頭をよぎった。
少なくとも警察は信用できない事がはっきりした。大使館や入管はどうなのか?
疑心暗鬼がますます強くなり暗澹たる思いにかられる。しかし今さら引き返す事はできない。行く所まで行くしかない。

時計を見ると8時を回っていた。これから出れば入管に着くのが9時くらいになる。
ユリを起こすと彼女は眠そうな声で「まずシャワーを浴びたいわ。それから朝食を食べてから出ましょう。」と言う。
のんびりした雰囲気だ。心無しか、いつもの暗い目も少し明るく見えた。

まあ良いか、早く行っても結果が良くなる訳じゃない。俺ももっとゆったり構えないとな。
そう言い聞かせてユリがシャワーを浴び、朝食を作るのを待つ事にした。

しかし食事は喉を通らなかった。新聞の記事とママの姿が胃のあたりにつっかえっている。ユリの作ったタイ料理は今日は胃に鈍痛を引き起こした。胃をやられたらしい。


無言の食事を終えた二人は車でも無言だった。第2入管に着くと窓口はすでに行列ができていた。見るとタイ人やフィリピン人らしい女性も何人かいる。言葉で分かるのだ。30分ほど並んで窓口で国籍証明とIDを手渡すと、さらに待合室で順番待ちだ。20人以上並んでいる。「本でも持って来れば良かったな」一瞬そう思ったが本など読める心境ではない事も分かっていた。

2時間以上待っただろうか?ユリは頭を俺の肩にもたせかけて眠っていた。
「パッサナー・アナンターシン」 ユリの名が呼ばれた。

「パスポート紛失証明書です。これを持ってもう一度大使館へ行って下さい」
「えっ、またですか?何でですか?」
「そういう手続き上の規則になっています。皆さんそうしていただいてます」
「はあ、そうですか」

また大使館へ行くしかない。これからすぐ行けば午後1時には着くだろう。俺はうんざりしながらもう1度上大崎へ向かった。
大使館の少し手前でまたユリに座席を倒してもらいサングラスをかけさせた。あたりに不審者がいない事を確認すると門から中へ入りできるだけ玄関に近い場所へ車を止めた。

「ユリ、着いたぞ、行こう」と言って外へ出ようとした時、俺は目を剥いた。10mほど先にまたママがいる!

「ユリ、やっぱり駄目だ!もう1回寝ろ!」ユリにまた助手席を倒させると様子をうかがった。
ママは大使館の職員らしい男と話している。と、次の瞬間、ママがこっちを見た。俺はすかさず目をそらしたが、ママはずっとこっちを見ている。
俺の顔は分からないはずだ。俺は高まる動悸を押さえて何食わぬ顔で別の方を見ていたが、彼女はこちらへ向かって歩き始めた。
俺はすかさずユリの顔にハンカチをかぶせた。ママは俺の車の脇を通り過ぎる時、中を覗き込んだ。しかし足を止めずにそのままベンチの方へ向かって行った。心臓が止まるかと思った。

俺はどうしようか迷った。ママはさすがにユリの顔は覚えている。サングラスを掛けていてもすぐに見破るだろう。しかしこのままずっと車で待機しているのも不自然だ。

俺はちょっと後ろを振り返った。ママはベンチで煙草を吸っている。
「5分だけ様子を見よう。それくらいなら不自然じゃないだろう。このまま帰ってくれれば良いのだが。」

予想通りママは煙草を吸い終わるとまたワザと俺の車のすぐそばを通り、中を覗き込み、それから再び大使館の職員らしい人と二言三言言葉を交わすと駐車していたベンツに乗り、自分で運転して大使館を出て行った。

3年前 No.13

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6


「よし、大丈夫だ。ユリ、行くぞ。」と言うと、ユリはゆっくり助手席を起こした。
「怖いわ。」
「もう帰ったよ、大丈夫だ。」

二人は中へ入ると珍しく一人も並んでいなかった。
第2入管でもらった書類を手渡すと、1時間ほど待たされて再び例の狭い部屋へ呼ばれた。
前と同じ女性だった。彼女はこちらを冷たい目で見ている。いつ見ても高慢な態度だ。

タイ語でユリと5〜6分話した後、彼女は日本語で「1週間ほど調査期間があります。それから仮パスポートを発行します。」と言った。
「何だ、日本語話せるんじゃないか。」と思ったが、それより調査期間というのが気になった。

「調査期間って何を調査するんですか?」と聞くと「この女性の身辺調査です。タイでの住所、家族関係などを確認します。」と言う。

「タイ国籍を持っている事がはっきりしたんだから、もう何も調べる必要は・・・」と言いかけると彼女はとたんに険しい顔になり声を荒げて俺の言葉をさえぎった。「貴方は何も知らない。この問題は日本とタイの間で大きな問題になっています。」

20秒ほどの沈黙の後、ユリはタイ式の合掌(ワイ)をした。彼女はまた軽く手を合わせただけだった。



部屋から出るとユリは小声で「あの女!やっぱりグルなのよ!できるだけ時間をかせいで私達がヤクザに捕まるのを待ってるのよ!」と言う。

「そんな事ないさ。考え過ぎだ。1週間くらい待とう。」
「彼女は下の人間だから分からないのよ。大使に直接言えば分かってもらえるわ。」
「・・・・・・・・」

廊下の階段の下まで来た時、ユリは突然階段を駆け上がった。
「あっ!」俺は止める暇も無かった。後からついて駆け上がると2階の廊下でユリは二人の警備員に捕まった。

それから俺達はすごすごと車へ戻り、帰途に着いた。

「このままじゃ殺されるわ。大使に直訴する方法を考えて!」ユリの声はこわばっていた。
今朝の新聞記事を読んだ俺は反論できなかった。

確かにユリの言う通りかも知れない。大体ママが二日も連続で大使館に来るってのがどう考えてもおかしい。家で作戦を立て直そう。

俺は土浦のスーパーで肉と野菜を買って家へ向かった。

3年前 No.14

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

翌日の朝、俺は自治労の幹部のAに電話を入れた。彼は大学時代のサークルの先輩だ。
事情を正直に話すと、国会議員のM氏を紹介すると言う。
俺はもう三日有給休暇を取ると、その日の内に新宿の喫茶店でAとM氏と会う事にした。

M氏は見るからに温厚そうな人だった。
「初めまして、大変お世話になります。」と頭を下げると、
「いやいや、A君から事情は大体聞いて心配しておりました。」と国会議員とは思えない丁重さだ。やはり友人のコネというのは強力である。Aの仲介がなければ彼と口をきく事さえできないだろう。

それから詳しい経過を説明するとM氏は「国会でこの問題を取り上げるかも知れません。」と言う。
「えっ、こんな個人的な事を?」
「うん、全く個人的な事であれば無理ですが、日タイ間の社会的、法制的な問題という事になれば取り上げる事は可能です。」
「また国会で取り上げる、と大使館と入管に言えば圧力にもなるでしょう。」

この後の会話は省略する。政治の圧力には政治の圧力で対抗するのが唯一の手段だとM氏は語った。
M氏とAは(そして俺も)学生時代に「入管体制解体」の運動をしていた仲間だったのが幸いしたようだ。

3年前 No.15

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

家に帰って2〜3時間後、M氏から電話がかかってきた。3日後にもう一度大使館へ行ってみて下さいとの事。

3日後の朝、俺とユリは再び大使館へ向かった。

嘘の様に事がスムーズに運んだ。大使が入館への特別な紹介状を書いてくれていた。
それを持って今度は丸の内の第1入管へ行き、仮パスポートを発行してもらう。
そこからすぐに新宿の旅行代理店へ直行、たまたま3日後の格安航空券が空いていた。

その日で有給休暇は終わり、翌日から俺は出張だった。
本来は1週間の出張なのだが、俺は口実をもうけて3日で帰らせてもらいユリと成田へ向かった。

最後の別れだ。俺は彼女に何と言えば良いか考えていた。
空港で二人で食事をし、搭乗が始まった時、俺達は1分ほど抱き合いキスをした。

俺はユリほど英語が達者じゃなかったが、精一杯の気持ちを込めて言った。

「Please get happy in Thailand. And never come back to Japan again」

ユリは「I'll come back to meet you some day」と答えた。

嘘なのは分かっていた。二人は長く見つめ合った。

ユリは例の暗い目で俺を見ながらゆっくり階段を下りて行った。

3年前 No.16

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6

(4)タイ・マフィアの論理

空港からの帰り、俺は松戸のスナックに寄った。例の筋者系の知人が経営する店だ。
彼から「久しぶりに飲まないか」と誘われていたのだ。彼はヤクザの組員ではない。
日本人だが、タイ・マフィアと一緒に動いているブローカーだ。

彼は学生運動くずれ、という変わり種だった。俺と僅かに交流があったのも学生運動時代からの知り合いだったからだ。彼は俺より4歳年下だが俺よりずっと老けて見える。


店へ行くのは初めてだった。住所を頼りに30分ほど捜してようやく見つけたスナック「紅牛」は駅前から続く繁華街のはずれにあるうらぶれた感じの小さい店だった。「紅牛」なんていかにもタイ・マフィアっぽい名前だ。タイには「赤い牡牛」という右翼団体がある。
中へ入ると、会うのは3年ぶり以上なのに一目で俺と分かった様だ。

「よおぉ、葉山、ずいぶん久しぶりだな。」
「ああ、お前また老けたな。」
「はは、いろいろあったからな。それよりお前のダチの話、心配してたんだぜ。その後どうなった?」
「・・・・・・・・」

彼は厨房から出てくると表の看板を「本日閉店」に変え、内鍵を閉めた。

「葉山は焼酎だよな。」
「いや、最近は弱くなって梅酒しか飲まないんだ。」
「梅酒? まあ有ることは有るが・・・」

彼は焼酎と梅酒のボトル、ウーロン茶と氷を用意してボックスの俺の向かいに腰を下ろした。

「音楽でも流すか?」
「ああ、ジャズが聴ければ最高だが。」
「ジャズもあるよ。」

彼は厨房に入ると有線のスイッチを入れた。ビル・エヴァンスのピアノだった。
紅牛にビル・エヴァンスか。俺はそのアンバランスに思わず笑ってしまった。

「何が可笑しいんだ?」
「いや、何でもない。」

彼は俺の梅酒と自分の焼酎に氷を入れてかき回すと「3年ぶりだな、乾杯だ。」と言ってグラスを上げた。俺も「ありがとう、乾杯。」と言うと梅酒をふたくち飲んだ。これなら胃炎でも大丈夫だと思った。

3年前 No.17

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6


「で、そのダチはどうなった?」
「うん、諦めたみたいだな。」

「諦めた」の意味が違うが事実だった。

「そりゃ良かった。下手すりゃそいつまで殺されるぜ。」
「・・・・・・・・」
「フィリピンは最近ビザが取れないんだ。今はタイの方が多いな。」

彼は俺の目をじっと見て言った。まるで見破られている気がして落ち着かなかった。

「そうか、しかしあいつら可愛そうだよな。」
「可愛そう?」
「だって騙されて来てるんだろ?」
「フン、なーにを」彼はせせら笑った。
「お前、何にも知らないんだな、あいつ等のほとんどが自分から応募して来てんだよ。」
「だけど貧乏でやむを得ず応募するんだろ?」

彼は俺をじっと見ながら焼酎を一気飲みして、フーーーンと鼻で長い溜息をついた。

「お前、ずいぶん青臭い事言うな。いいか葉山、あいつらは親に家を建てて、子供を学校に行かせるために来るんだ。家族の命を救うために来るんだ。俺達はその手伝いをしてんだよ。」
「人助けか?」
「お前笑ってんのか? 俺は本当にそう思ってんだぜ。俺はこの仕事にプライドを持ってんだ。俺達がこの仕事をしなきゃあいつらどうなる? 死ぬしか無いだろ? 日本に来れなきゃ台湾かアメリカに行くだけだよ。どっちにしろあいつらは体売らなきゃ生きていけないんだよ。」
「・・・・・・・・」
「葉山、タイやフィリピンの田舎に住んでみろ。地獄だぜ。あいつらは地獄から抜け出すために必死になってんだ。」
「・・・・・・・・」
「あっちじゃ先進国の論理なんて通じないんだよ。金の無い人間は金の有る人間の回りに群がる。マフィアのボスは何十人も女を囲ってる。あいつらが一番幸せになる道はマフィアの情婦になる事だ。そうやってみんな生きてんだよ。」
「・・・・・・・・・」
「葉山、まあ飲めよ。」
「ああ。」俺は力なく答えた。胃炎がまた痛み出していたが、無理して梅酒を喉へ注ぎ込んだ。

「だけど、マフィアは女に凄い借金を背負わせるよな。」
「いいか葉山、俺等も命がけなんだ。捕まったらムショ行きだ。それだけの危険を犯して仕事してんだよ。それなりの危険手当てをもらうのは当然だろ?」
「・・・・・・・・・・」
「おまけにお前のダチの所へ来た女みたいに逃げ出す女もいる。日本へ来て3ヶ月以内に逃げた場合は俺等ブローカーが弁償するんだよ。3ヶ月以上経って逃げたらスナックの店長の自腹になるけどな。」
「・・・・・・・・・・」

それだけ言うと彼はまた鼻で溜息をつき、マールボローを1本吸った。俺と同じ煙草だ。俺も煙草に火を付けた。

「お前の気持ちは分かるよ。俺の女房だってフィリピンだからな。」


*************************


帰り道、俺は体の疲れ以上に精神がグッタリと疲れているのを感じていた。ユリと別れたからだけではなかった。

俺は何も反論できなかった。社会正義とは一体何だろう? 先進国の正義と発展途上国の正義。アメリカの正義とイスラムの正義。俺が学生運動でやってきた事は何だったのだろう? MERCYがやっている事は本当に正義なのか? 俺の精神の核が崩れてきていた。

俺はとにかく眠りたかった。


3年前 No.18

葉山 ★Android=gN3GKHk0Vr

その夜、俺は胃の痛みと闘いながら、野菜ジュースだけで過ごした。
しかし右を下にしてベッドに横になりテレビのニュースを見ながらくつろいでも、まだ痛みは収まらなかった。

「くそっ、完敗だ・・・」

俺は呟いた。

「元過激派の特殊部隊」という俺の密かなプライドが崩れ始めるのを感じていた。

「俺が青臭いだと?」
「くそっ、当たってるじゃないか!」

俺は彼に思想的に敗北した。
新左翼の論理がタイ・マフィアの論理に負けたのだ。

しかもグゥの音も出ないほどの完敗だ。

「しかし、本当に彼の言う事が全面的に正しいのか?」
「だったら俺はもう左翼なんか止めてタイ・マフィアになるしかないだろ?」

俺は考えを整理しようとしたが、胃痛がそれを邪魔した。

思想的不安から来る痛みに失恋の痛み、酒とタイ料理の辛さによる胃炎の痛みが重なっていた。

「結論は先送りだ。今日は寝よう。」
そう思って電気を消した時、電話が鳴った。

会社か?と思って出ると、出た途端にプツリと切れて「ツーツーツー」と話し中の音。

受話器を置いて1分もしない内にまた電話が鳴った。
出るとまたプツリ、ツーツーツーだ。

ちっ、イタズラか、暇な奴だ。

しかし3回目が鳴った時、何故か背筋がゾクッとした。

5〜6回鳴らせてから受話器を取ると、今度は切れなかった。

「もしもし」
「・・・・・・・・・・・」
「もしもし」
「・・・・・・・・・・・」

俺は少し恐怖を感じて怒鳴った。
「てめぇ、ぶっ殺すぞ、ふざけんな!」
勢い良くガチャッと受話器を置くと少し気分が良くなった。

そう言えばユリが来てから空手の道場へ行ってなかった。

「せやーっ」と大声を出す事、サンドバッグを思い切り蹴る事、これだけでかなりモヤモヤが吹き飛ぶものだ。

良し、次の日曜に10時間くらい空手の練習してやる。それでモヤモヤを吹き飛ばそう。

そう思ってもう一度電気を消して横になった。

その日はそれ以上怪しい電話はかかって来なかった。

しかし今から思えば、この無言電話が破局の始まりだった。

俺はまだまだこの問題の実態を知らなかったのだ。

3年前 No.19

葉山 ★1VBAC8U5ZM_1G6


(5) 破局

チェンマイの野に咲く百合は

嵐の中でも散ることはない

それなのに貴女はなぜ・・・・・・


聞こえないか?

奪われた者達の悲鳴が・・・・・

一枚一枚と花弁を奪われていった

彼女の慟哭が

貴方達には聞こえなかったのか?

https://www.youtube.com/watch?v=5KfYPsU16K4

3年前 No.20

葉山 @kirin035 ★1VBAC8U5ZM_1G6


それから2〜3日に1回くらいの割合で無言電話がかかってくるようになった。
俺はどうやらそれがユリ事件と関係あるらしい事がようやく分かってきた。
かかり始めたタイミングからそうとしか考えられなかった。

そして2週間後、決定的な事件が起きた。
また夜になって電話が鳴った。俺はうんざりしながら出るかどうか考えた。
しかし会社からだとまずい。やはり出るしかなかった。

「もしもし」

すると相手はタイ語で何か話した。
俺はもう一度「もしもし?」と言うと今度は英語で話してきた。

「パッサナー・アナンターシンはいるか?」

!!!
俺は心臓の高鳴りを押さえて答えた。

「もしもし、こちらは葉山ですが。」
「パッサラー・アナンターシンはいるか?」
「もしもし? どちらへおかけですか? こちら葉山ですが。」
「貴方がアナンターシンと一緒だった事は分かっている。
 もうタイへ帰ったのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「アナンターシンはもうタイへ帰ったのか?」

俺は電話を切って接続コードを抜いた。
俺の心臓はジョギングの後のようにバクバクしていた。

タイ・マフィアだ! 俺は一瞬で理解した。

何故ここの電話番号が分かったんだ?
俺がこの間、電話番号を書いた所と言えば・・・・・
大使館しかなかった。
という事は・・・・・・・
大使館がマフィアに電話番号を教えたのか?

頭にユリの言葉がよみがえった。
「きっとヤクザも大使館も警察も全部グルなのよ。」
それにあの新聞の記事と大使館で見たママの姿が重なった。

最悪の事態が起こりつつあった。

3年前 No.21

葉山 @kirin035 ★1VBAC8U5ZM_1G6


翌日の夜、俺は梅酒ロックを飲み、バッハのオルガン曲集を聴きながらゆっくり対策を考えた。

シリアスな問題を考える時はやはりバッハがいい。

幸い大使館で住所までは書かなかった。相手が日本のヤクザではなくタイマフィアである限り俺の住所を探るのは困難だろう。

しかしこのまま電話線を切っておく訳にはいかない。会社からの連絡もある。

電話番号を変えたらどうか?

しかしまたいつかユリが電話してくる可能性もあった。

やはり当分シラを切り続けるしかなさそうだ。

奴に何と言えばいいか?

いろいろ考えた挙げ句、「一度は家へ来たが、そのうち別の知り合いの所へ行った。」と言う事にした。
あまりしつこく聞く様ならそのたびに切ればいい。

結論が出た・・・・・・

俺はホッとしてもう一杯梅酒ロックを作った。

CDをジャズに入れ替えようとした時、はっと気付いた。

待てよ、ユリは・・・・・!!

「C」のママはユリのパスポートを持っている。パスポートには住所が書いてあるはずだ。

という事は・・・・・・

ユリが捕まる !!

俺の体を電流が走った。

3年前 No.22

葉山 @kirin035 ★1VBAC8U5ZM_1G6


その男からその後1回電話があっただけだったのは意外だった。
俺は考えた通り「1度は自分の家に来て一緒に大使館へ行ったが、その後別の知り合いの所へ行った。」と伝えた。
彼は答えずに電話を切った。

ユリから再び電話が来たのはその2日後の夜だった。
彼女の声は前より低くなっていた。
「Ya、ユリの。」
「ユリ!! こっちにブローカーから電話が来たんだ!」
「分かってる。こっちにもあったわ。」
「ブローカーは何て言ってた?」
「借金の残り120万バーツを返せって・・・・」

ユリの声は震えていた。120万バーツは約350万円だ。

「無視したらどうなる?」
「殺されるわ。」
「逃げろ! バンコクでアパートを探せ!」
「無理よ。親の住所まで知られたから。」
「親は何て言ってる?」
「ママは泣いてるわ。」
「父親は?」
「私は父親はいないの。山岳ゲリラとの戦争で死んだわ。もう10年以上前よ。」
「・・・・・・・・・・」
「大学も奨学金で入ったのよ。唯一の収入がママのやってるレストランなのよ。」
「・・・・・・・・・・」
「どうしたら良いの?」
「明日もう一度電話くれ。一晩考えてみる。」
「はい。」


電話を切った後、俺は梅酒ロックを飲みながら考えた。
ユリのために俺はどこまでやれるのか?
もともとはMERCYへ連れて行って終わるはずだった。
たかが1週間一緒にいた女のために命を賭けるのか?
一瞬、悪魔の様な考えが浮かんだ。
「俺が彼女を見捨てれば終わる。」(!)

ユリとの1週間が俺の頭の中を駆けめぐった。
俺の体の下で喘いだ彼女の顔が浮かんだ。俺の耳元で甘えた声を思い出した。

「駄目だ。ユリを見捨てるなんてできる訳ない。」
俺は泣いた。ユリのために泣くのは2度目だった。

次の晩、再びユリから電話が来た時、もうためらいは無かった。

「ユリ、これからタイへ行く。俺がブローカーと交渉する。」
「貴方、残りの借金を払えるの?」
「分割なら何とかなる。」
「ごめんなさい。借金の清算が終わったら結婚して。」
「ああ、俺もそのつもりだ。」
「ねえ貴方、私、生命保険に入ってるの。自殺でも保険おりるかしら?」
「ユリ、何を言ってんだ? おい!馬鹿な事を言うな!」

ユリは泣きながら電話を切った。

ユリの住所と電話番号をメモすると、さっそくHISに電話を入れた。
しかし1週間以内の格安航空券は無かった。仕方がない。俺は普通の航空券を予約した。
片道6万3千円だった。帰りはバンコクで買う事ににして片道だけ予約した。格安の約4倍だがそんな事を言ってる場合じゃない。
さしあたって三日分の着替えと財布とパスポートをショルダーバッグに詰め込んだ。
パスポートは以前韓国へ出張に行く時に作ってあった。

翌日の早朝、成田行きの快速電車の中で俺は神に祈っていた。

「神がユリを見捨てるはずが無い。」

俺は通常の思考を失いつつあった。何故か頭の中で日曜洋画劇場のエンディング・テーマが鳴っていた。圧縮された重い時間が流れた。

3年前 No.23

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

バンコクのドンムアン空港へ着くと機内放送が流れた。

「当機は予定時刻通りにドンムアン空港へ到着しました。バンコクの現在の時刻は午後3時25分、気温はは37度となっております。本日はノース・ウェストをご利用いただき誠にありがとうございました。」

「37度」と聞いて機内がざわついた。
俺もタイが熱帯である事をすっかり忘れていた。やっぱり頭がどうかしてる。
俺はセーターを脱いでバッグに詰め込んだ。


とにかくタイの事は何も知らない。ここからチェンマイまで国内便に乗り換えないと駄目なのだが、空港のスタッフに英語は通じるだろうか? いや、ユリに電話してここまで迎えに来てもらうか? いや、電話するにはまずバーツに両替しないと・・・・

しかしそんな細かい心配は杞憂だった。入国管理を出てロビーに着くとユリが手を振っていた。

「ユリ・・・・・」
「あなた・・・・」

二人は抱き合った。激しい暑さも回りがジロジロ見ているのも気にならなかった。
しかしキスをする気にはならなかった。そんな事をしている場合じゃない。

「今バンコクの友達の自宅に避難してるのよ。チェンマイの自宅にブローカーから何度も電話が来て怖くて怖くて。」

「母親は?」

「ママも別の場所へ避難したわ。」

「そうか・・・・・」

空港でさしあたり3万円をバーツに両替するとタクシーに乗った。

「じゃあその友達の家であの男に電話するんだな。」

「No! 今日はホテルへ泊まりましょう。」

「えっ? 何で?」

「友達には何も話してないのよ。恥ずかしくて話せないわ。」

「・・・・・・・・・・」

結局バンコク郊外の安めのホテルを見つけてそこに泊まる事にした。ホテルは一泊500バーツ(約1500円)にしては綺麗だった。

フロントでユリとホテルマンがタイ語で何やらゴチャゴチャ話すと2階の部屋へ案内された。

日本で言えばビジネスホテルとシティーホテルの中間くらいの感じだった。

「まず何か食べよう。今朝から何も食べてないんだ。」

「私は食べたからいいわ。」

「そうか・・・・・」

フロントへ電話するとパカパーオとアイスコーヒーを二つ頼んだ。

食事の後、さっそくあの男、Mr.リーに電話した。名前からして華僑である事が分かる。

「ハロー、こちら葉山です。」

「Mr.葉山、今自宅か?」

「いや、タイのホテルだ。」

「・・・・・・・・」

「アナンターシンの借金の事で相談したい。」

「アナンターシンは今そこにいるのか?」

「いや、ここにはいない。」

「彼女は今どこにいる?」

「それは分からない。彼女の方から電話が来て連絡を取り合っている。」

「・・・・・・・・OK、彼女の借金を貴方が払ってくれると言うなら私も助かる。私もできれば事を荒立てたくないんだ。」

リーの低い声は静かだが凄みを帯びていた。

3年前 No.24

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

「彼女の借金は120万バーツと聞いているが・・・」

「その通り。」

「はっきり言いましょう。一度には無理だ。分割なら何とかなります。」

「フム、それで?」

「1ヶ月1万バーツずつ、10年払いという事でどうだろう?」

「Mr.葉山、それは余りに非常識だ。10年払いなんていうローンはどこにも無いよ。」

「・・・・・・・・・・」

「せいぜい3年だ。毎月4万バーツ払って欲しい。それで2年半だ。」

「・・・・・・・・・・」

4万バーツは約12万円、当時の俺の給料は18万しか無かった。無理だ。

「それは無理だ。2万バーツではどうだろう?」

「何故無理なんだ?日本人はみんな金持ちだろう?」

「日本人が全部金持ちのわけじゃない。」

「貴方は彼女の命が危なくなっても良いのか?」

「・・・・・・・・・・」

「良く考えてくれ。明日もう一度電話してくれ。」

「分かった。」


電話を切るとユリがすすり泣いているのに気付いた。

「ユリ、泣くな。何とかなるよ。」

「貴方、わたし殺されるわ、助けて。」

俺はユリの肩を抱いて背中をさすった。
しかし俺自身も本当は泣きたい気持ちだった。

フロントへ電話してワインを頼んだ。俺はこういう時、軽く酒が入った方が良い考えが浮かぶ。

時計を見ると6時を回っていた。

「友達に電話しないと。いつまでも帰らないと心配するわ。」

「ああ、そうだな。」

ホテルマンがワインボトルとグラスを持って入って来ると、ユリの涙目を見て足を止めた。

2〜3秒二人を見た後、視線を落とし、ワインセットをテーブルに置き、ユリに何かタイ語で一言話すとすぐに出て行った。二人が痴話喧嘩をしたと思ったのだろう。

3年前 No.25

葉山 @kirin035 ★1VBAC8U5ZM_1G6

その後ユリはバンコクの友人と1時間ほど電話で話していた。

その間、俺はワインを飲みながら考えた。


逃げるのはどう考えても無理だと思われた。外国にでも逃げれば別だが。

やはりMr.リーと交渉して落とし所を探すしかない。

月3万バーツならどうか? 9万円、それなら切り詰めれば何とか食っていける。

3年ちょっとだ。3年間刑務所へ入ったと思えばいい。

しかしリーが駄目だと言ったらどうする?

そこで俺はふと、ユリが「自殺」という言葉を口にしたのを思い出した。

これは使えるかも知れないな。奴もユリが死んで俺が引き上げたら1銭も回収できない事になる。そんな事は望まないはずだ。

他にもいろいろ考えたが、それ以上に良いアイデアは浮かばなかった。



ユリは電話が終わると「友達に全部話したわ。彼女はバイクでミャンマーへ逃げたらどうかって言うんだけど。」と青ざめた顔で言った。

「ミャンマーだって? そんなの無理だ!! 」

俺は思わず大声を上げた。ユリは指を口にあて「シーッ」と言った。

「そうでもないわ。私はチェンライ生まれ。黄金の三角地帯の山道は詳しいのよ。」

「だって国境には軍の警備隊がいるだろ?」

「警備隊が知らない抜け道も知ってるわ。」

「やめろ!死ぬぞ!」

「ええ、まだ決めたわけじゃないわ。」

俺は暗澹たる思いでユリを見た。暗いユリの目がギラギラ光っていた。決死の覚悟が表れていた。


俺達はどこまで墜ちるのか? 坂道を転げ落ちる様に事態が加速して行くのを俺はまるで夢を見る様に眺めていた。現実感が失われていくような錯覚を覚えた。

3年前 No.26

葉山 @kirin035 ★1VBAC8U5ZM_1G6

翌日の夜、俺はもう一度リーに電話した。

「ハロー、こちら葉山です。」

「Mr. 葉山、考えてくれたか?」

「1ヶ月3万バーツでは無理だろうか? それで3年4ヶ月で終わる。」

「それはNoだ。4万バーツだ。」

「Mr. リー、それは無理なんだ。昨日言った通りだ。」

「アナンターシンがどうなっても良いのか?」

「彼女はもう自殺するって言ってるよ。」

「What !?」

「あるいは外国へ逃げる可能性もある。」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「そうなったら貴方も困るだろう? 僕も困る。何とか3万で妥協してくれないか?」

「Mr. 葉山、私を脅迫しているのか?」  リーの低い声がさらに低くなった。

「脅迫じゃない。事実を言ってるだけだ。」

「フーム・・・・・電話で話しても駄目なようだな。一度会って話さないか?」

「俺と二人で?」

「できればMiss. アナンターシンも加えて3人でだ。」

「申し訳ないが、今の状態では貴方を信用できない。」

「Mr. 葉山、私を誰だと思ってる? 私は警察にも沢山友人がいるよ。警察に協力してもらって彼女を捕まえる事もできる。」

「それは分かってるよ。しかし彼女が逃げると言ってるんだからしょうがない。僕の意志じゃない。」

するとリーは「残念だな。」と言ってガチャッと一方的に電話を切った。

・・・・・・駄目だった・・・・・・・・

ユリはまた泣き始めた。

「貴方、わたし殺されるわ、助けて。」

今度は慰める言葉も無かった。ただユリの肩を抱いて髪を撫でた。

30分ほど泣くと彼女は立ち上がった。

「やっぱりミャンマーへ逃げるしか無いわ。」

俺は茫然とした。反論のしようが無かった。

「一旦友達の家へ行って準備するわ。」

「ユリ・・・・・もうちょっと待ってくれ。」

「Wait ? Wait for what ? 」彼女は叫んだ。俺は何も言えなかった。

「もう時間が無いわ。ここもすぐばれるわ。」

「・・・・・・・・・・・・・」

ユリが荷物をまとめるのを俺は力が抜けた様にただ眺めているしか無かった。

3年前 No.27

葉山 @kirin035 ★1VBAC8U5ZM_1G6

ユリが友人の住所と電話番号をメモした紙切れを置いて出て行った後、俺はベッドで死体のように仰向けになっていた。

雨が降り始め、次第に強くなった。どのくらい時間が経ったかも分からなかった。

頭の中であの日曜洋画劇場のエンディング・テーマが流れていた。

部屋の電話が鳴った。リーか?急いで出るとフロントだった。

「Miss アナンターシンから電話が入っています。お出になりますか?」
「Of course!」
「OK, Please.」

「ユリの・・・・」  彼女は泣いていた。

「準備はできたのか?」

「そうじゃないの。警察からここへ電話が来たのよ。」

「・・・・・・・・・・!!」

「もう逃げられないわ。」

「・・・・・・・・・・」

「私、やっぱり死ぬわ。」

「馬鹿!やめろ!」

「マフィアに捕まってリンチされるくらいなら自殺した方がましよ。」

「待て!今そっちへ行く!」

「さよなら」

ユリは泣きながら電話を切った。

俺はあわてて彼女の残した住所を調べた。ホテルから3kmほどの中流住宅街だった。

財布とパスポートだけを持って俺は外へ飛び出した。

外は土砂降りになっていた。タクシーを探したが近くにいないのが分かると俺は走り出した。

「ユリ! ユリ! 死ぬな! ユリ!」

俺は顔を歪め、心の中で叫びながら土砂降りの中を走り続けた。

3年前 No.28

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

ユリの友人のマンションに着く頃には雨が少し小降りになっていた。
俺はエレベーターに乗るのももどかしく3階まで一気に階段を駆け上がった。

インターホンを鳴らすと若い女性がドアを開けた。見るからに大学生風だ。彼女は泣いていた。

「Mr.葉山?」
「そうです。」
「パッサラーは睡眠薬を1瓶全部飲んで自殺を図りました。今救急車で運ばれた所です。」

!!
・・・・・遅かった・・・・・・・・・・・・・

「私に買い物を頼んでその隙に飲んだのよ。」

「どこの病院ですか?」

「葉山さん、貴方は早く日本へ帰った方がいい。貴方も危ないです。」

「・・・・・・・・・・・」

「葉山さん、ずぶ濡れですね。とにかく中へどうぞ。」


俺は死人の様にふらふらと中へ入った。中はエアコンで寒いくらいだった。
ダイニング・キッチンのドアの向こうにはベッドが見えた。
俺は寝室まで勝手に足が動くのを止められなかった。
ベッドは真ん中が少し窪み、まだぬくもりが残っていた。彼女がタオルを持って入って来た。

「こちらで体を拭いて下さい。」

俺はタオルを受け取るとダイニング・キッチンへまた死人の様に戻り椅子にへなへなと腰を下ろした。

「病院の住所を教えて下さい。」

「葉山さん、行かない方がいいです。彼等は貴方も追っています。」

「そんな事どうでもいい。もう死んだっていいんだ。」

「馬鹿な事を言わないで下さい。貴方には家族はいないんですか?」

「親と兄弟はいます。」

「そうでしょう? 家族を悲しませてはいけません。カルマを積む事になります。」

「・・・・・・・・・・・・・・」

彼女もまた熱心な仏教徒だった。キッチンの反対側の上方には大きな仏壇があり、立派な仏像と国王陛下の写真が飾られていた。


その時だった。電話が鳴ったのは。

「ハロー」
彼女は2〜3分話すと電話を切った。

「パッサラーは亡くなりました。」

「ああああああああっ」
俺は天を仰いで叫んだ。

彼女も再び泣き出した。


3年前 No.29

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

2時間後、俺はユリの友人の忠告に従ってタクシーで空港へ向かった。

天に向かって慟哭したくなる衝動は、やがてMr.リーへの怒りへと変わっていった。

「ひとこと言ってやらないと気がすまない。」

ドンムアン空港で搭乗手続きを済ますと、中の喫茶店からリーに電話した。

「ハロー」

「Mr.葉山か?」

「そうだ。アナンターシンは自殺したよ。」

「分かっている。彼女と貴方には同情するよ。」

「何故分かった?」

「病院から警察へ連絡が来たからね。」

「貴方は現役の警察官なのか?」

「そんな事は答えられない。」

「貴方が彼女を殺したんだ。」

「What?」

「あんたが彼女を殺したんだ !! 」

「Mr.葉山、この世界には掟がある。彼女は掟を破った。仕方がない。これは情で済む問題じゃないんだよ。」

「・・・・・・・・・・・」

「Mr.葉山、いい事を教えてあげよう。貴方は彼女を人権団体にまかせようとしたね。」

「・・・・・そんな事まで調べたのか」

「調べるまでもない。人権団体から連絡が来たからね。」

「何だって!?」

「私に彼女の住所と電話番号を教えてくれたのは人権団体にいる私の友人だ。」

「・・・・・・・・!!!」

「人権団体がタイの女を救っていると思っているのかね?」

「・・・・・・・・・・・・」

「我々の力を見くびったね。我々はどこにでも友人がいる。もちろん大使館にもだ。」

「・・・・・・・・・・・・」

「Mr.葉山、人権団体のやっている事、あれはいったい何だ?」

「・・・・・・・・・・・・」

「彼等は全くの自己満足だ。 タイの女を一人救うにはね、日本やアメリカの男が一人、人生を潰さなきゃならないんだよ。」


俺は意識を失いそうになって電話を切った。


「じゃぱゆきさん」というシステム、俺が想像していたよりはるかに巨大なシステム、このシステムの前では俺も国会議員のM氏も人権団体も、シンジケートの手の平で転がされるオモチャに過ぎない。

俺はどうやって飛行機に乗ったか覚えていなかった。ただ一つの考えだけが頭の中にぼんやり浮かんでいた。

「もう左翼とは決別しなければならない。」

3年前 No.30

葉山 @kirin035 ★Android=gN3GKHk0Vr

(6)エピローグ

チェンマイの百合は

ある日 花弁をもぎ取られた

それでも生きようとあがいたが

すべて無駄だった

「野のユリを見よ」

イエスはこう語った

俺は嘘を語ったイエスを憎みたい

だが、長い苦悶の後に

俺は唇を震わせてこう言うだろう

「全て神の御心のままに」




*この拙い小説を、今でもタイの苦海に喘ぐ無数のユリたちに捧げる

3年前 No.31
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