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Utopia of the underground world

 ( 小説投稿城 )
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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

理想郷を求める者は、どんなに時が流れようと絶えることはない。


天をも穿たんとする霊峰の下、ずっとずっと下に、“それ”は存在した。密やかに窪んだ洞窟を通り抜けて、暗闇の中を進んで、道が続く限り足を進めて行けば、やがて古ぼけた扉の前にたどり着く。
其処には左右に獅子の銅像が設けられ、彼らのお眼鏡に敵えば扉は開き、彼らに認められなくば目の前の生き物は一瞬でその生を奪われるという。門番たる獅子が見定めるのは来訪者の経歴だとも、内面的なものであるとも噂されるが彼らは何も語らない。だからこそ、人は其処で躊躇うのだ。もしかしたら殺されてしまうのではないか、扉を開けてもらえないのではないのだろうか、と。
それは所謂試練なのだろう。人間とは試練を課される生き物である。否、生き物であれば誰しも試練を与えられるのだろう。それを乗り越えられなければ切り捨てられ、見事乗り越えることができたのなら彼らの望むものが手に入る。その摂理は太古の昔から変わることはなく、人が生まれ落ちてから幾度となく試練は与えられ続けた。これも過去に与えられた幾つもの前例に倣っているのだろう。
そういった訳で、無事に扉が開かれたのなら、その先にあるのは人の世を捨てたことさえ喜ばしく感じられるほどの、地底に創られた理想的な国家なのだという。二度と空を見ることが出来なくなっても構わないと思えるほどの場所。すなわち其処は理想郷。
安寧を、享楽を、もしくは前者以外の何かを求めて其処を目指す者は、口を揃えて皆こう言うのだ。


其の地の名はシャルヴァ。
地の底に在りし、神代を模した理想郷、と。

1年前 No.0
メモ2019/09/08 12:02 : すずり☆uVgy9R1pZdc @suzuri0213★Android-ti0IvmfI1e

【第1幕:さらば青空、向かうは地底】>>1-5

【幕間:シャルヴァなる地】>>6

【第2幕:王子の帰還】>>7-12

【第3幕:集落の営み】>>13-19

【幕間:焔が抱くは夢幻】>>20

【第4幕:本の杜への誘い】>>22-29

【第5幕:輪廻の忌み子と王子の記憶】>>30-34

【第6幕:緑纏う者たち】>>35-42

【第7幕:守り手の導き】>>43-47

【第8幕:神蛇の窖へ】>>48-52

【第9幕:旧き者たちの戦い】>>53-58

【第10幕:選定の儀】>>59-64

【第11幕:転機の訪れ】>>65-71

【第12幕:忌み子の憧憬】>>72-75

【幕間:其の日、彼女は生を求めた】>>76

【第13幕:王宮勤めの始まり】>>77-83

【第14幕:受難と薬師と可笑しな羅刹】>>84-92

【第15幕:雑色三人衆、初めてのお使い】>>93-97

【第16幕:離宮の住人】>>98-103

【第17幕:市場での再会】>>104-108

【第18幕:其は単なる波乱に非ず】>>109-114

【幕間:視えるが故の横恋慕】>>115

【第19幕:賽は既に投げられた】>>116-120

【第20幕:邂逅は偶然か、或いは必然か】>>121-126

【第21幕:惨禍の記憶は引き金となりて】>>127-131

【第22幕:少女の企て、揺れる思惑】>>132-137

【第23幕:事件は地底の昼下がりを揺らす】>>138-142

【第24幕:少女は胸に薔薇を抱く】>>143-150

【第25幕:彼の誤算と彼女の憤怒】>>151-154

【第26幕:取った遅れは戻せない】>>155-161

…続きを読む(61行)

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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

いくら赤の他人と言えど、同じ意味合いを持つ名前のナラカがどのような人となりをしているのか、ニラヤは大方わかっているつもりであった。だからナラカが死にたくないと願っていることを彼女は看破した。故にナラカの心を折らせようと、ニラヤは彼女に死の呪いを課したのだ。

(……なのに、なのに、なのに!)

ニラヤの呪いは上手く作用していた。少なくともつい先程までは、ナラカの心を蝕んでいたはずなのだ。だが、どういう訳か、ナラカの中からはすっかり恐怖が消え去ってしまった。今のナラカはただ生きたいと願い、一歩も動かずに自分の生だけを望んでいる。
正直、予想外の出来事であった。ニラヤは叫び出したいのをぐっと堪える。此処でニラヤがナラカの死から意識を逸らせば、彼女は真っ先にニラヤへと飛びかかってくるだろう。悔しいがニラヤはナラカを舐めきっていた。どうせ一人では何も出来ず、震えているしか出来ない小娘なのだろうと侮っていた。そんな相手から殴りかかられたら、誰だって一瞬は怯むだろう。だから死の呪いに押し込めた。動きを制限し、死を待つだけの状態を維持しておこうと考えた。

(それなのに……!彼奴は、何故彼処までして生きようと望む……!?彼奴に生きる目的なんてあるの……!?認めたくないけど、彼奴は私と同じように、まともな半生を送ってこなかったはずなのに……!)

盗み見たつもりはないが、ニラヤは呪いをかけたついでにナラカの半生を垣間見てしまった。彼女に瘴気を送り込んだら、偶然見えてしまったのだ。決して意図的に見ようと思って見た訳ではない。
ナラカは捨て子だったらしい。それはニラヤも同じことだが、ナラカは10まで育てられることもなく両親に捨てられた。生まれたことすら疎まれた。そしてナラカは戦で大切な人を奪われた。たしかにニラヤも奪われたが、それはシュルティラ一人だった。ナラカは育ての親と、片割れでもある兄を奪われたという。

(認めたくない、認めたくないけど……!でも、私よりも彼奴の方が、遥かに失い、奪われたものが大きい!それなのに、なんで彼奴は……!)

人の不幸は比べようのないものだ。どれだけ犠牲が多かろうと少なかろうと、喪う悲哀は何物にも代えがたい。だが、ニラヤはこの時比べざるを得なかったのだ。どうしてこれほどまでに壮絶な人生を送ってきた者が、それでも生きると足掻くのか。それがニラヤにはわからなかった。わかるはずがなかった。
ニラヤは生前、シュルティラを生きる基軸としてきた。彼がいたから自分は此処に立っていられる。シュルティラこそがニラヤの生きる意味であり、理由であり、価値であった。だからシュルティラ以外の人間と関わりを持つことはほとんどなかったし、関わろうと思う気持ちもなかった。だってシュルティラ以上の人間など存在しないからだ。シュルティラがいなければこの世界など塵芥の集まりに過ぎない。それだけ、ニラヤはシュルティラがいるが故に生きていた。シュルティラがいたから、ニラヤは彼処まで生きてこれたのだ。

(“そういった奴”の人生ってそういうものじゃないの?この世と自分を繋ぎ止める楔さえなければ、この世界の価値なんてないようなものなんじゃないの?全てをなくしたら、この世界には一体何が残るの?)

わからなかった。ニラヤには何もわからなかった。シュルティラのいない世界を想像してみるが、吐き気がしたので止めておいた。とにもかくにも、それだけ辛い世界なのだ。生きることを止めたいと願うしかない世界なのだ。そんな世界で生きていようと思えるのは、よっぽど恵まれている人間だろうとニラヤは思う。例えばあのアーカムの祖。彼のように最初からある程度の幸せを保障されている人間なら、この理不尽な世界でも上手くやっていけることだろう。
だがナラカは一目見ただけでもわかる程に平々凡々な少女だった。特別な生まれでもなく、特に秀でたところもなさそうな彼女は、襲いかかる不幸に耐えられるような人間には見えなかった。人間として生きていた頃のニラヤと同じ、力あるものに振り回されるしかない無力でか弱い存在。それが、そんな少女が、何よりも恐れているものから逃げずに立ち向かおうとしている━━━━!

「━━━━何、何なのっ!?どうしてお前は死のうと思わないの!?早く諦めなさいよ!いつまで耐えるつもりなの!?お前のために助けが来るなんてわからないのに!」

ついにニラヤは業を煮やした。これ以上ナラカに頑張って欲しくはなかったのだ。此処までされていながらまだ生を求められると、自分がこうして怨霊になった意味が見出だせなくなるような気がして恐ろしかった。このような小娘に耐えられて、自分には耐えられない世界などあってはならない。あってはならないのだとニラヤは思った。
念を強める。死がよりナラカに近づくようにとニラヤは全力で念じる。どうだ、これなら恐ろしくて仕方がないだろう。もう諦めてしまえ。もう全て受け入れてしまえ。死ねばお前は楽になれる。この苦しい世界から逃れられる。そう伝えているつもりなのに、ナラカは一歩も退こうとはしない。この呪いさえなければ、また此方に殴りかかってきそうな気迫すらかもし出している。

「お前だってわかっているはずだ!この世は苦しみばかりで、理不尽なことばかりで、どんなに善行を積んだ人でも悲惨な死に方をする!謙虚に生きていた人が死に、傲慢な人が生き延びる!そんな世界をお前は愛するの!?愛することなんて出来ないでしょう!私たちは持たざる者だ!持てる者に全て奪われてしまう!こんな世界など消えてなくなってしまえば良いと、お前は思わないの!?もっと、もっと穏やかで平和で争いのない世界だったなら、シュルティラだってあんな最期を迎えることはなかったはずなのに!お前の大切な人だって、今頃生きていたかもしれないのに!それでもお前はこの世界で生きることを受容するの!?答えろ、答えろナラカ!私と同じ、地獄に墜ちた者よ!」

ニラヤの叫びは最早懇願に近かった。お願いだから、同意してくれ。肯定してくれと。これ以上、自分の意見に抗わないでくれと。そう、ニラヤの燃える瞳は語っていた。ただナラカが自分の言葉に是と言ってくれることだけを待ち望んでいた。
しかし、ナラカは動かない。そしてニラヤに同意することも、彼女の言葉を肯定することもしなかった。これまでと同じように、ただひたすら生きたいと、生きるのだと念じているだけだった。

「…………ッ!お前は、お前は可笑しい!お前にも、この理不尽な世界を憎む権利がある!こんな世界など滅んでしまえと、お前だって叫べるのに━━━━」

いてもたってもいられなくなったらしいニラヤは、ナラカに向けて駆け出す。その細い首に手をかけてやろうと、彼女に近づく。そして、右目を燃やしながら、凄まじい形相でナラカの首に手を伸ばして━━━━。


「『━━━━否ッ!!』」


それは、波のように空気の中に混じってニラヤへと押し寄せてきた。怨霊であるニラヤでさえも怯んでしまうような、あり得ない程“強すぎる”気配。それはナラカのものでも、ニラヤのものでもない。この場にいる二人からは、到底出すことの出来ない気迫だ。

「な……お前、は……!お前は、静観を決め込んでいたはずじゃ……!」

ずるり、と一歩後退しながら、ニラヤは驚愕にその表情を引き攣らせる。こんなことがあってなるものか。そう言いたかったが、口にすることは出来なかった。“それ”が何であるか、ニラヤは少しだけだがわかってしまったのだ。

「……お前、まさか……!お前はまだ自我を保っていたというの……!?彼奴の中に取り込まれれば、お前ごときの自我なんて刹那のうちに失われてしまうはずなのに……!」

震えるニラヤを、“それ”は━━━━否、“それ”を宿した少女の瞳はおもむろに捉えた。其処に憐れみや怒りや悲しみはなく、ただ真っ直ぐ、無垢なままにニラヤを見据えるだけだった。それが、ニラヤにとっては何よりも恐ろしいのだろう。

(これだから……これだから、精霊の類いは嫌いなんだ……!いつもいつもいつもいつも、私のことを見定めて……!無感情で無機質な彼奴ならまだましだった。こいつは、本当に“真っ直ぐ見ている”だけなんだから……!)

ニラヤを見据えるナラカの瞳。それは先程までの、積もりに積もった怒りを含んだそれではない。極めて対等な立場から、ニラヤを裁定するがごとき瞳。この世界━━━━すなわちシャルヴァの礎である精霊のそれに似ていながらも、其処にはあの精霊にはない温度が感じられる。それが、ニラヤからしてみれば何とも言い難い気持ち悪さを湛えていた。こんな目をする精霊がいてなるものか。そう、怨霊たるニラヤが後退りするくらいに、その瞳は異質だった。


ナラカの左目はこの理想郷の贄とされた精霊を彷彿とさせる、鮮やかな紅に染まっていた。

7ヶ月前 No.398

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【幕間:奈落はその身に紅を宿す】



どのくらいの時間が経ったのだろう。


考えるのも億劫だ。思うことすら疲労に繋がりそうで気だるい。どうせ何も出来ない体なのだとわかっているのに、これまで頻繁に動かしてきたからか、いやに頭を働かせようとしてしまう。こんなことをしても、あの精霊が許すはずがないのに。
嗚呼、外はどうなっているのだろう。何もわからない。何も見えない。何も聞こえない。何も匂わない。何も感じない。五感などとうになくなっているようなものだった。今こうしてぼんやりと考えていられるのも、かなり幸運だとわかっていた。いつになるかはわからないが、近いうちにこの自我も溶けてしまうだろう。正直言って、これまでずっと気を張り続けているのだ。辛くて辛くて仕方がなくて、少しでも気を抜いたら意識ごと那由多の彼方に吹っ飛んでしまいそうだけど、それでも何とか自我を保とうともがいている。

━━━━我は、どうしてこうまでして自我を保っているのだろう。

自分でも、ふとわからなくなることがある。自分はどうしてこんなに頑張っているのだろうと首をかしげたくなることがある。最早自分がどのような顔で喜怒哀楽を表していたのか、自分がどのような性格だったのか、自分がどのような姿をしていたのかも思い出せない。その辺りの記憶は、きっと“本体”であるあの精霊に持っていかれてしまった。だから、もう自分がどう呼ばれていたのかもわからない。
けれど━━━━何もかもを忘れてしまう前、自分は最後の悪足掻きをしたらしい。気づいたらずっと自我を保ちながら“在った”。“気”となってしまっていても、“そうしなければならない”ということはなんとなくわかった。来るべき時が来るまで、何がなんでも自我を保ち続けろ。意識を手放してはいけない。目を閉じてはいけない。━━━━目はもとより、視覚なんてあってないようなものだが。

━━━━……辛い。疲れた。もう眠ってしまいたい。こうまでして、我はしたかったことがあるのだろうか。我は、こうまでして手放したくなかった何かを持っていたのだろうか。

何もわからない。わからないまま、それでも自我は保つ。かつて自分は自分にそうし続けろと言い聞かせた。何があっても、その自我だけはあの精霊に渡すなと。お前は精霊の端末などではない。お前は、×××に名付けられた、××××なのだ、と。

━━━━思い出せない。誰だったのだろう、我に名前をくれたのは。我の名前を呼んだのは。全て、全て思い出せない。何も見えないし、聞こえない。何も、何も……我にはわからない。

いっそこの辛ささえも消えてしまえば良いのにと願う。そうするために何をすれば良いのかはわかっているけれど、それはかつての自分が許してくれない。目を閉じるなと、かつての自分は言った。だから目は閉じない。自我も手放さない。辛くて苦しくて疲れて怠くて仕方がなくても、自分が願ったことなのだから、その時が来るまで果たさなくてはならない。そういうものだと、何故か自分でもわかっている。
わかっていても、やはり辛いことに変わりはない。今すぐにでも目を閉じてしまいたい自分が何者でなくなってしまっても良いから、どうか自分に諦める理由を━━━━。


『 死にたくない 』


聞こえた。それはたしかに耳の中に入ってきた音だった。死にたくない。そう言う少女の声だった。


『 生きたい 』


耳を澄ます。あるのかないのかわからない神経も研ぎ澄まして、少女の声に耳を傾ける。この声は誰のものだっただろう。たしか聞いたことがある声だ。きっと身近なところにいた人物なのだろう。聞いていると何処かがほんわり暖かくなる……ような気がする。この場で感覚も何もないけれど、どうしてかそのように感じる。人の形を取っていた時に、そう感じていたのだろうか。とにかく全ての感覚を失っている身であっても、その少女の声は聞こえた。


『 生きる 』


はっきりと。前よりも明確に、少女の声は聞こえてくる。きっと今の自分に二つの目があったのなら、大きく見開いていたことだろう。

━━━━この、声は……。

知っている、知っているのだ。絶対に、以前に聞いたことのある声に違いないのだ。忘れてしまった記憶の中に、この声の主がいるはずだ。必死に、遠くに転がっていってしまった記憶の糸を辿る。もう少し、もう少しで思い出せそうなのだ。この声の主は━━━━。


━━━━……ナラカ?


何故か、口をついてそんな言葉が飛び出た。特に考えた訳でも、思い出したという達成感がある訳でもないのに。まるで、そう名前を呼ぶことが当たり前のように、ナラカという単語が紡がれた。

━━━━……行かなければ。これまでの我が此処まで耐えるように言ったのは……全て、この時のためだ。

何もわからない。何もかもわからないままに、その“気”は飛んでいく。何故こうまでして耐えようとしたのか、詳細な理由は知らない。それでも、飛び出すのは今だと自分の中で何かが告げていた。
故に━━━━たとえ今、相手のことを綺麗さっぱり忘れていようと、最早自分が何者かさえわからなくても。その幽かな“気”は、かつての知己に向かって真っ直ぐに飛んでいった。そして叫ぶ。叫んで叫んで叫んで叫ぶ。


「『━━━━否ッ!!』」


それは、自分自身の声ではない。ナラカという少女の体を一時的に借りたが故に出る声だ。今見えている光景も、ナラカの目に映っているものを共有しているに過ぎない。もとより、人の形は失っているのだから。
それでも良い。最早人でなくても構わない。自分のすべきことは何か、自分でも理解しているつもりだ。故に、今はただそれを果たすのみ。


「『古の禍よ、地獄の名を冠する娘よ!そなたの呪い、この“ヴィアレ”が引き受けた!この奈落の娘にかかるあらゆる呪い、全て我に還元すると思え!』」


そう叫び終わると同時に、その“気”は瘴気の外へと飛ばされていく。この体でなかなかよく頑張った方だと思う。ナラカにかかる呪いは全て“気”が吸い取った。実体を持たない“気”にその呪いがかかることはなく、きっと本体の方に回されることだろう。このシャルヴァの礎たる精霊に呪いが効くかはわからないが、それはそれである。今はただ、“気”の自分に出来ることをするだけだ。そう思いながら、その“気”は次なる場所へと飛んでいった。

7ヶ月前 No.399

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【第71幕:丁々発止の乙女たち】

ずるり、と体の中に何かが入り込んでくるような感覚であった。その瞬間だけナラカの意識は虚空に放り出され、気が付いた時にはあのおぞましい死の気配が跡形もなく消え去っていた。

(……何、今の)

お世辞にも気持ちの良い、快い感覚とは言えなかった。だが、“知らない気配ではなかった”ように思える。先程まで自分の中に何が入っていたのか、ナラカにはわからない。だが何処か安心出来るような、見知った感じがしてならなかった。気のせいならばそれで良いが、気になるものは気になる。
とにもかくにも、この一瞬で何があったのかはわからないが、体調の方はかなり快復しているようだった。ずっと背後に感じていた死の気配は消え去っているし、体もなんとなく軽くなった気がする。言うなればぐっすり眠った後の朝に近い。

「……お前、やっぱり普通の人間ではなかったんだな。“あんなもの”を味方につけているなんて……!」

向かい側から聞こえてくる声を耳にして、ナラカははっと意識をそちらに向けた。其処には驚愕、そして苛立ちを露にしたニラヤがいる。彼女はナラカからも見てわかる程に汗をかきながら、ひたすらに此方を睨み付けていた。

「お前は、お前だけは!私と同じように、ただの凡人であると思っていたのに!やっぱりそれなりの伝があったんだな!しかも精霊と繋がっているとは忌々しい……!」
「…………あの、ひとつ良いですか?」

今にもナラカに瘴気をぶつけてきそうな勢いのニラヤに対して彼女の口から出てきたのは、驚く程冷めきった声であった。まだニラヤを許した訳でも理解しようとしている訳でもない。だが、ナラカは不思議と先程よりも幾分か落ち着いてしまったのである。半目でニラヤを見ながら、ナラカは彼女に問いかける。


「何故、あなたは私に“普通であること”を求めるんですか?」


それは、何の邪な気持ちもなく、ただ純粋な疑問から来る言葉であった。よくよく聞いてみれば、ニラヤは事あるごとにナラカに対して普通であることを求めているように思える。ナラカがニラヤの瘴気を弾いた時もそうであった。ナラカが普通でない、と判断したニラヤは、より一層怒りを募らせていた。

「別に私が普通であろうとなかろうと、あなたに大きな関係はないはず。そもそも、普通って何ですか?人によって普通の基準って異なるものでしょう。それなのに、あなたは何故……」
「……黙れ、黙れ黙れ黙れ!!お前は普通でなければならない!だって……だって、そうでなければ“シュルティラが私を助けた理由が不純なものになってしまう”!」

ニラヤの言葉は最早悲鳴に近かった。火花を撒き散らしながら、ニラヤは頭を抱えて叫ぶ。まるで赤子が母親にすがるかのように、助けを求めるかのように叫んでいる。
ナラカはそんなニラヤを、暫し黙って眺めていた。そして、ふぅ、と小さく息を吐く。次いで上げられた彼女の顔には、酷く冷たい表情が浮かんでいた。

「……何言ってるんですか、あなたは」
「……何、って。そんなの……」
「ええ、わかってる。わかってますよ、私。あなたの言いたいことがわからない程馬鹿じゃありませんから。……でも、あなたの言葉をわかることは出来ても、理解し、共感することは難しい。だからこその問いです。あなたは、一体何を以てそのようなことを言ってるんですか?」

先程思いきり怒りをぶつけてしまったことは、ナラカもそれなりに恥じていた。もしも葵がこの場にいたのなら、そのように叫ぶことははしたないと嗜めていたことだろう。昔からナラカは短気で、ちょっとしたことで沸点に達してしまっていた。それを直そう直そうと思ってはいても、なかなか改善出来ないものだった。結局己が内に溜め込むことしか出来なかったナラカは、最終的に爆発させる他なかったのだ。
だから、今度こそは落ち着いて話をしようと思った。憎悪だけで数千年存在してきたニラヤを相手に落ち着いて話など出来そうもないが、少なくとも自分だけは落ち着いていようとナラカは心掛けていた。

「……あなたがシュルティラさんを好いている理由はわかりますよ。滅茶苦茶わかります。私だって同じようなものだもの。むしろあの状況で助けられて惚れない相手がいるんですか?いるとしたら仙人か何かですね。一目惚れして間違いないですよ、あれは」
「だったら、お前も━━━━」
「でも、あなたは最初からはき違えてる。あなたはシュルティラさんに惚れているあまり、シュルティラさんを過度に理想化し過ぎている。だから、シュルティラさんは“普通の人間”を分け隔てなく助けると、損得目的で人助けすることなんて一切ないなんて信じられるんだ!」

だが、無理なものは無理だった。これには怒らざるを得なかった。ぐっと拳を握りしめながらナラカはニラヤを見据える。きっと今、自分は酷い顔をしているだろうと理解しながら、それでも繕うことはせずに叫んだ。
ニラヤがナラカに“普通であること”を求める理由。それは、彼女が抱くシュルティラの印象を壊されないようにしようとしていたからに他ならなかった。シュルティラは損得で動いたり人を助けたりなどしない。あの人はあくまでも平民だから、自分と同じような、何の変哲もない民を助けようとしている。それ以外の人間を助けるなんて認められないし許せない。詰まるところそういうことなのだろう。シュルティラの印象から外れるような事態に陥って欲しくないというのがニラヤの願いに違いない。

「シュルティラさんを好きな気持ちはわかる。私だってサヴィヤさんが好きだ。けれど、それを理想化するのは傲慢に過ぎる。シュルティラさんはお前の理想に従って生きているのではない。赤の他人のお前が、シュルティラさんの人生を左右するな!」
「うるさいッ!じゃあお前はシュルティラの何を知っているというの!?シュルティラと共に生きてきた訳でもないお前が!シュルティラの過去を知るはずもないお前が!何を以てシュルティラを語る!?シュルティラを理解する!?お前こそ、知ったかぶりでシュルティラを語っているようなものだろう!」
「そうだよ知らないよ!知る訳ないでしょ、私はお前と同じ時代に生まれた訳じゃないんだから!」

ニラヤに睨まれて、ついナラカの声も大きくなる。相手が怒鳴っているとつい此方もつられてしまうものだ。礼儀がなっていないとわかってはいるが、この際礼儀以前の問題なのでさすがに気にしてはいられなかった。

「私が知っているのはシュルティラさんじゃなくてサヴィヤさんだ!サヴィヤさんがシュルティラさんだってわかったのもつい最近なのに、お前を基準にして話を進めるな!お前そんなだから他人の気持ちわからないんだぞ!」
「よ、余計なお世話だ小娘!シュルティラ以外の人間の気持ちなどわかって堪るか!シュルティラ以外の人間など興味の欠片もない!」
「うわっ最悪だなお前!シュルティラさんしか見えないのか!恋は乙女を般若に変えると何処かで聞いたけど、本当に恋慕の情程恐ろしいものはないな!恐ろしくて夜しか眠れないわ!」
「戯言を……!お前なぞに私の気持ちがわかるはずがあるまい!私は死んでもシュルティラを愛してきた!何年経とうと、この想いは消えなかった!消えて欲しいとも思わなかった!たった一人の人間を愛し続けることも出来ないお前に、私が負けるものか!必ずやお前をこの瘴気の中で挽き肉にしてやろう!」

黒々とした瘴気が沸き上がる。しかし、ナラカは先程よりも恐怖を抱くことはなかった。死の恐怖に散々晒されて、いっそのこと吹っ切れてしまったのだろうか。はん、とナラカは不遜に鼻で笑ってやる。


「やれるものならやってみるが良い」


ニラヤの顔が瞬で歪む。これでぶつかることは必須となっただろう。だがナラカは怯まない。来るつもりならばいつでもかかって来いとでも言うように、ただニラヤの両目をじっと見つめていた。

7ヶ月前 No.400

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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6ヶ月前 No.401

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ニラヤがナラカを憎む理由はなんとなくではあるがわかる気がする。同じ男に想いを寄せているとなれば張り合いたくもなるだろう。ナラカとしてはとんだとばっちりだが、それでも納得することは出来た。シュルティラの気持ちを勝手に解釈して彼を果てなき輪廻の渦に巻き込むような女なのだから、逆恨みされても仕方がない、と。
だが、さすがに先程までの会話で闘志を抱かれるとは予想も出来なかった。何せナラカだって後悔しているくらいの発言なのである。普通ならこっぴどく怒られるどころか引かれたって可笑しくないのだ。それでナラカもびくびくしていた訳だが、まさか真剣勝負を挑まれるとは思わなかった。これまでの会話のどの部分に思うところがあったのだろうか。ナラカにはさっぱりわからなかった。

(……けど、やっとまともに話せるようになったんだ。この勝負、受けない訳にはいかない)

とにもかくにも、ずっと支離滅裂だったニラヤが、だいぶ落ち着いてくれたのは大きい。先程からニラヤはナラカのことを“小娘”とは呼ばずに度々ナラカと名前を呼んでいる。殴り合っているうちに頭を冷やしてくれたのだろうか。

「……そうですね。此処で決着を付けましょう」

肉弾戦が得意だという訳ではない。少なくともこの瘴気の中では多少動けるようになるというだけだ。だからニラヤに対して勝機があるとはっきり確信は出来ない。むしろ敗北する確率の方が高いかもしれない。
それでも、此処で勝負を付けない訳にはいかないとナラカも理解していた。相手が神の血を引いていようと、所謂神代の生まれであろうと、怨霊に成り果てていようと━━━━譲れないものが、其処にはある。ナラカもニラヤも、同じようにサヴィヤ及びシュルティラという男を想っている。同じ土俵に立つには十分過ぎる理由だ。故に、ナラカはこの勝負を受けることにした。

(いくら人間離れしていたとしても、内面まで超然している訳じゃない。それなら、いくらでも突ける隙はあるはずだ……!)

つ、と一瞬ニラヤに視線を走らせてから、ナラカは彼女に向かって飛び出す。これまではニラヤが先に出ることが多かったが、今度はナラカが先手を取ったのだ。ニラヤの左頬を目掛けてナラカは拳を振り上げる。

「ふっ、私はまだ何も言ってはいないのに、殴り合いで勝負を付けようとするなんて……!やはりお前はそんじょそこらの女とは違うな!」

褒めているのか貶しているのかわからないが、ニラヤは笑みながらそうナラカを評価する。きっと前向きな評価なのだろう……と思うくらいしかナラカには出来ない。
しかしニラヤも褒めはしたが易々とナラカの攻撃を受けてくれる訳ではなかった。す、と顔を背けてナラカの拳を避けると、彼女の首目掛けて手刀を繰り出してくる。当たれば最悪気絶するか、良くても滅茶苦茶痛いかのどちらかだろう。

(しゃがめ、私!)

普段はこのような瞬発力はないが、今回ばかりはこの瘴気の中で念じることによってナラカはニラヤの手刀を回避した。いきなりしゃがみこんだせいで脹ら脛の辺りがバキバキ言ったように思えたが気にしない。恐らく後日の筋肉痛が多少酷くなる程度だろう。自分の命に比べれば筋肉痛など可愛いものだ。
ナラカに避けられたニラヤは一瞬体勢を崩したかのように思えたが、彼方はこの瘴気の作成者である。何と後方に宙返りすることでナラカとの間に距離を取った。ナラカとしては、不覚にも少し格好いいと思ってしまった自分が憎くなってくる。

(まさかあいつ……徒手空拳だけで相手しようとしてる……?)

遠距離戦となれば瘴気を使えば良いのに、ニラヤにその様子は見受けられなかった。それどころか再び構えの姿勢に入っている。どう見てもやる気満々だ。それだけ認めてもらったということなのか、それともただ単にニラヤが殴り合いの楽しさに目覚めてしまったのか。どちらにせよ、ナラカが彼女を倒さなければならないことに変わりはない。
舐められているのか、それとも多少は認められているのか。ナラカにはわからない。だからナラカはニラヤに全力で当たるしかない。手加減出来る余裕なんてないし、下手したら殺されるかもしれないのだ。死なずにこの瘴気を出るためには、多少の危険も冒さなければならない。

(だったら……まずはあいつが動けないようにしないと……!)

身体能力はある程度誤魔化すことが出来るが、それはナラカもニラヤも同じことである。ニラヤの方が頭の切れる人間だったらナラカが負けるのは必須だ。だったら先に動きを止めてしまうのが得策だろう。
そう考えたナラカはすぐに行動を起こす。ニラヤに向かって駆けていくと、そのまま彼女に蹴りを入れようと脚を振り上げる。だがニラヤも見逃してはくれない。ナラカが蹴りを入れる前に、ニラヤの拳が腹へと飛んできた。脚を上げた状態のまま回避することは難しく、ナラカは腹部の痛みを感じる前にその勢いに押されて吹っ飛んでいた。恐らくニラヤも何かしらの強化を行っていたのだろう。どう、と倒れたナラカに、彼女は一歩、また一歩と近付いてきた。

「……なかなかに見所のある人間だったよ、お前は。けれど私に勝てるはずがなかった。此処まで持ちこたえたのは単にお前の実力だ。誇るが良い、奈落の娘」
「…………」
「同じ男を想っていると初めて知ったときは、憎らしくも思ったけど……。今となってはいっそ清々しいな。お前のことは徹底的に痛め付けてやるつもりだったけど気が変わった。好きなしに方を言え。お前の望み通りに殺してやる」

言っていることは相変わらず物騒だが、ニラヤの表情には一種の慈悲のような色があった。こんな慈悲あって堪るか、というのがナラカの心情であったが、此処はややこしくしたくないのでぐっと圧し殺す。

(……好きな死に方、か)

ナラカは首を捻る。まず死ぬことが嫌なナラカとしては、この問いには老衰、と答えるのがいちばんだと思う。しかしニラヤがその死に方で殺してくれる訳がないし、仮に承諾したとしても死ぬまでこの瘴気の中にいるのは気が滅入ること間違いなしだった。

「……あの、辞世の句を考えさせていただいてもよろしいですか?」
「辞世の句?」

何とか頭を捻って絞り出した答えは、ナラカが誰かに見られたり知られたりすることを何よりも拒んでいるはずのものだった。決して嫌いなものではないけれど、誰にも見られたくないのは事実である。こればかりはサヴィヤにも見られたくはない。というか見られて半狂乱になった。今考えるとあれも良い思い出のひとつ……とは思えない。明らかに消し去りたい記憶だ。

「ええと……私の故郷では、死ぬ前に詩歌をしたためるんです。内容は人によってまちまちなんですけど……でも、そういう文化があるんです。だから、その……私も、辞世の句を作りたいといいますか、何といいますか」
「……わかった。他国の文化は尊重してこそだ。私の時代の讃歌のようなものなのだろうな。お前に考える時間を与えよう」
「あ、何か書くものあります?紙の代わりにはこの包帯を使いますけど、筆はさすがに持っていなくて」
「……其処の瘴気を使うと良い。今、墨にしておいたからな」

ありがとうございます、と礼を述べてからナラカは人差し指に瘴気の墨を付けると、切り取った包帯に辞世の句を書いていく。その様子をニラヤはじっと見つめていた。其処まで見られたら逆に作りづらいが、文句を言えるような立場ではないのでナラカは黙っておく。
詩歌の腕に自信がある訳ではない。むしろ恥ずべきものだという自覚がナラカにはあった。だが、何故かこの時だけは悩むことなくすらすらと句が出来上がっていった。葵に教えてもらっていた時は、いつも指南書が手放せなかったというのに。

「……出来ました」

ナラカはふぅっ、と包帯に息を吹き掛けると、それをニラヤに手渡した。ニラヤはそれを見て怪訝そうに首を傾げる。

「何故私に渡す?」
「こういったものは、死後に誰かに見てもらわなければなりません。此処で私の辞世の句を見ることが出来るのはあなただけでしょう。消去法です、消去法」
「そ、そうなのか」

ニラヤはやや面食らったようだが、ナラカの言葉を疑うこともなく包帯に目を落とした。万国の言葉が通じるシャルヴァなので、読むことに支障はあるまい。

「『天伝ふ 日出ずる国の 暁を 目にする時ぞ 消ゆるべきかな』……。これは、一体どういう━━━━」

どういう意味だ、とニラヤが問う前に。ニラヤが、ナラカの方へ顔を上げる前に。彼女は既に動き出している。

「かかったな━━━━!」

渾身の、全身全霊の、体当たり。ナラカの体こそ小さかったが、気を抜いていたニラヤには十分な威力の攻撃となった。二人は体勢を崩し、そのまま地面へと倒れ伏す。━━━━そして、ニラヤの額に、冷たいものが突きつけられた。

「はぁ、はぁ、はぁっ━━━━」

がちがちと震えながら、歯の根を鳴らしながらナラカが突きつけるもの。それは、五大を壊す文明の利器━━━━鉄砲に他ならなかった。

6ヶ月前 No.402

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ニラヤは、少しの間きょとんとしてナラカを見ていた。何が起こったのかわからない。まさにそういった表情であった。
一方、ナラカの方は震えながら、顔を真っ青にしながら、ニラヤを凝視していた。自分が優位に立っているというのに、その表情は全く晴れなかった。むしろナラカの方が苦しげで追い詰められているように見えた。

「……何だ、それは」

喉の奥から言葉も出ないらしいナラカを見たニラヤの第一声はそれだった。案の定ナラカは答えない。戦きながら、それでもニラヤからは目を離さずにいる。

「……その態度は何だと言っている!」
「……っ……!」

何も言わないナラカに業を煮やしたのか、ついにニラヤは大声を上げた。それにナラカはびくりと震えるが、場所を退こうとはしない。相変わらず恐怖しながら、ニラヤに銃口を向けている。

「私を殺すのが恐ろしいのか?それとも卑怯な戦法を使ったことに後ろめたさを感じているのか?どちらにせよお前は其処で震えているべきではない!殺すならば殺せ、それが戦場の理というものだろう!」
「わ、私は……」
「お前が私を殺したことを後悔するのは構わない。むしろ後悔して、お前のその後の人生に痼を残せたのなら私としては本望だ。だが殺すことを躊躇われるのは私にとって屈辱でしかないぞナラカ!殺すことを躊躇するような軟弱者のお前を、私は決して認めない!」

ニラヤの顔は怒りに染まっていた。それは今までナラカに向けられていたものとは違う。これまでにあった憎悪はなりを潜め、ただ迷うナラカに怒りのみをぶつけていた。
ナラカはどうしたら良いかわからなかった。ニラヤの言う通り、ナラカは人を殺すことに躊躇いを持っている。これまで生きてきた中で、人間を殺したことなどナラカは一度もない。いくら戦乱の時代に生きているからと言って、誰も彼もが人を殺めている訳ではない。むしろナラカのような、どちらかと言うと“殺される側”の人間の方が世の中には多いだろう。力こそが全てとされる中で力を持たない者。力ある者に従うことで生き延びている者。そういった人間がいざ人を殺せと言われてすぐに実行出来るものだろうか。ナラカの場合は否だった。命を狙ってきた相手であっても、その命を取ることは純粋に恐ろしかった。

(……殺したくない)

それは、ニラヤを生かしておきたいからではない。誰かの命を奪うことを恐れているだけだ。結局、ナラカは自己保身しか出来ない。それはナラカ自身がよくわかっている。大事なのは自分の心身だ。精神的な傷を負ってまで得たいものなど、少なくとも此処にはない。

「……早くしろ。私はもたもたする者が嫌いだ。悔やむならば私を殺してから悔やめ。その方がまだましだ」

ニラヤはすっかり腹を括っているようで、ナラカを鋭く睨むだけである。良いから殺せ、とその目が物語っている。恐怖に戦くナラカへの苛立ちが其処にはあった。
そんな中で━━━━恐怖を覚えていたナラカはふと疑問に思う。ニラヤに銃口を向けながら、顔を青くさせながら。それでもナラカにはわからないことがあった。上手く合わない歯の根のまま、ナラカはニラヤに問いかける。

「ど、どうして、あなたは……」
「……御託は良い。早くしろと言っている」
「あ、あなたは……あなたは……」
「早くしろ!早く私を殺せ!」

ついに痺れを切らしたのか、ニラヤはぐいっと上半身を起こした。━━━━だが、ナラカにとってはその瞬間こそが好機である。鉄砲を握りしめていた腕を振り上げると、その銃身でニラヤの横っ面を殴り飛ばす。ナラカが怯えてばかりいるものだと認識していたらしいニラヤは不意を突かれた形になり、顔を驚愕でいっぱいにしながら横に転がった。

━━━━そして、響く銃声。

ぽっかりと、それこそ型抜きでもされたかのように、ニラヤの下腹部には穴が空いていた。其処から血が流れ出ることはなく、後方の様子が見えるのみである。ニラヤは目を見開いてその穴の傍に右手を持っていった。当然穴が空いているだけなので、手には何も付着しない。

「……どうして、あなたは死を求めようとしているのですか」

まだ震えてはいるが、若干落ち着きを取り戻した声音で問いかけるのはナラカである。彼女の手にある鉄砲からは細く煙が漂っていた。詰まるところ、彼女はニラヤに向けて発砲したのである。それをニラヤが知るまでにそう時間はかからない。彼女はナラカからの問いかけを受けて、顔をしかめながら口を開く。

「……お前に教える義理はない」
「そうは言っても可笑しいものは可笑しい。あなたは先程まで、殺せなんて一言も言わなかった。私が瘴気を弄ったら怒り狂っていたあなたが、どうして此処まで潔くなれるんですか?いくら私のことを多少認めてくれたからって、命まで預けるような人じゃなかったはずです。あなたは何を考えているんですか?」
「……何を、なんて。そんなの、決まってるじゃない」

ずっと強気だったニラヤの声が、明らかに弱々しさを帯びた。年相応の少女のものに近くなったのはニラヤの声だけではない。浮かぶ表情からも、幾分か苛烈さが消えているような気がした。

「……私は、たしかにお前のことが気に食わなかったよ。私の方がシュルティラのことを長く想っているし、すぐに死にたくないって言って逃げ出すようなお前が、シュルティラを想う資格なんてないって思ってた。ちょっと認めてはやったけど、お前に殺されたい気持ちなんてこれっぽっちもないよ。たとえお前を殺すことはあっても、お前に負けるつもりなんてなかった」
「それじゃあ、どうして……」
「妥協だよ。私は死にかけてる。誰に殺されるか考えて、それでお前を選んだってだけの話だよ」

そう、ニラヤが言った矢先━━━━彼女の真上から、何かが彼女目掛けて降ってきた。ナラカは思わず背を向けてニラヤから距離を取る。ぐさりぐさりと何かが突き刺さるような音が聞こえてきた。
恐る恐るナラカがニラヤの方を向くと、其処には苦しげに踞ったニラヤの姿があった。その背中には、幾つもの矢が突き刺さっている。

(あの矢って、もしかしてエルトの……)

エルトがニラヤに向かって射ていた矢。それらは全て彼女の瘴気が吸い込んでいた。てっきり無効化しているものかと思っていたが、どうやらニラヤを傷付けるだけの力は残されていたらしい。要するに、“届く時間が遅れていた”だけの話であった。

「……やっぱり、アーカムには……あの忌々しい男の弓からは、逃げられなかったみたい。避けることも、壊すことも出来なかった。何とか私に届く時間を延ばしてはいたけど……でも、無理なものは無理だった。私は結局、アーカムの王族に殺される運命だったんだ」
「……だからあなたは、私に殺せと言っていたんですか」
「そうだよ。だってアーカムの王族に殺されるなんて許せないもの。あいつらに殺されるくらいなら、恋敵に殺される方がよっぽど良い。お前のことは気に食わないけど、シュルティラを奪った奴等に比べたらまだ可愛いものだ。お前を殺せないのなら、せめて好きなように死なせて欲しい」

目に見える怪我をしていなくても、ニラヤが追い詰められていることはナラカにもわかった。あと数本、アーカムの至宝によって放たれた矢が刺さればニラヤは息絶えるだろう。それだけ彼女は消耗していた。ナラカに撃たれたこともあるのだろうが、やはり仇敵の矢による威力は凄まじい。

「ナラカ……お前は、本当に幸せな暮らしをしてきたみたいだね。そんな風に生き物の命を奪うことに躊躇えるなんて、私の時代ではよっぽどのお偉いさんしか出来なかったはずだよ。苦しむ者がいたら、介錯してやるのが道義というものだった。それを拒むなんて、相手にもっと苦しめって言っているようなものだよ」
「…………」
「お前の生きている時代は、きっと平和なんだろうね。私の生きていた時代は、戦争が絶えなかった。いつも何処かで戦火が上がって、いつも何処かで人が死んでた。そんな時代に生まれなかった、お前は運が良━━━━」

お前は運が良かったのだろうね。そう言おうとしたニラヤの頬に、ナラカは思いきり平手を食らわせた。ぱちん、と響いたそれは、何の細工もされていない、ただの少女の一撃だった。

「甘ったれたこと言ってんじゃねぇぞこの大馬鹿女ッ!!」

轟いたのはナラカの怒声。はっとニラヤが顔を上げてみると、其処には怒りに顔を真っ赤にした少女がいた。彼女は先程までニラヤが浮かべていた表情を遥かに凌ぐそれで顔中を歪めながら、ニラヤに対して憤怒をぶつける。

「平和な時代、ですって!?私と同じ時代を生きている訳でもないのに、よくそんなことが言えたものだな!平和な時代が来たことなんてない!お前が何百年、何千年前に生きていたのかは知らないけど、少なくとも私の生きている時代に永久の平和なんて訪れはしていない!ちょっとした理由で戦が起こって、たくさん人が死んで、戦に出てない人も死んで、何処もかしこも血塗れになる!そういうことがいつ起こるかわからない中で、薄氷の上で私たちは生きてるんだ!」

ナラカの言葉を、ニラヤは黙って聞いていた。それは静かに聞き入っているというよりも、むしろ面食らっていると表現した方が適切であった。目を瞬かせているニラヤに詰め寄りながらナラカは怒鳴るのを止めない。

「お前の時代の戦がどうだったかは知らないけど!こっちなんて平和なんて言葉とは何千里もかけ離れた血なまぐさい戦ばっかりだったんだからな!奇襲に夜襲に暗殺に謀殺、謀反も鏖もよくあることだった!義を重んじた人は悉く死に、手を汚した者が生き永らえた!そんな時代が平和な訳あるものか!一騎討ちなんてやってみろ、名乗りを挙げてる時点で殺されるぞ!未来を知らないからって、何でもかんでも自己解釈するな!というかお前の言ってることはちんぷんかんぷんなんだよ!最初の頃の憎しみ何処行った!?今更落ち着きやがって、お前の発言戦輪みたいになってるぞ!」
「……じゃあ、どうしろって言うの?お前は私に何を望んでいるの?」
「望むことなんてある訳ないだろ!お前は誰の手も借りず、一人で勝手に死ねば良い!この時代がどうなってるか知らない癖に、よくもまあ私に説教が出来たものだ!私はお前を絶対に殺してなんかやらないからな!お前はお前の人生でも振り返って、死ぬまでに己が過ちを猛省してろ!」

一息に怒鳴り終えたナラカの息は荒くなっていた。苦しかったのか、一度彼女は深呼吸をしてからニラヤに向き直る。無理矢理に落ち着かせたからか、その表情は何かを押し込めたような複雑さがあった。

「……だから、さ。人は誰も、自分が思った通りに生きるなんて出来ないんだよ。満足して死んでいった人も、きっと生前に色々苦労してたかもしれない。それでも、自分の好きなように生きて、たった一度の生を駆け抜けてる人だっている。どんな人生が理想的で、どんな終わり方が最優かなんて、この世にいる人の数だけ解釈があるんだよ」
「…………」
「だから他人の人生に、その人以外が口出ししちゃいけない。どんな結末でも、最期にそれを評価するのはその人生を生きた人だ。それを第三者がねじ曲げるなんて言語道断だよ」
「それ、は……」

ニラヤは瞠目する。心当たりがない訳ではなかった。……というか、ナラカに言われて思い出したのだ。自らがこうして怨霊に成り果てている理由。そして、自分が最愛の人に向かって、どのような苦難を課したのか。ずっと善きことと思ってきた“それ”を、ニラヤは改めて見つめ直した。

「……私は、あなたの苦難を知らない。どれだけ辛かったのか、私にわかるはずもない。だから私はあなたをこれ以上責めはしない。ただ、自分のしたことをもう一度ゆっくり考えろとは思うよ。今にも死ぬかもしれないって状況で反省しろって言われるのもなかなかきついと思うけど」
「……お前は、これからどうするの?」
「決まってるじゃん、外に出られる機会を待つよ。だいぶ時間も経ったことだし、そろそろあなたも限界でしょ。外側だって、いつ崩れるかわからない状態だと思う」
「……わからないよ。助けが来ないかもしれないし、お前が助けられるとも限らない」

ニラヤの言葉を聞いたナラカは、一瞬きょとんと彼女を見つめた。そして、ぷふっと小さく吹き出す。

「やだなぁ、私が全部他人任せにする訳ないじゃん」
「……?でも……」
「いくらあっちに私を助ける気がなくたって、あの糞真面目なエルトがあなたを放ってまでティヴェラの王様のところに向かう訳がないでしょ。絶対うだうだ悩みながら、それでもあなたを倒しに来るよ。それが王族の責務だからって言ってね。血反吐吐きながらでも果たそうとする奴だよ、あいつは。だから此処から脱け出す機会なんていくらでもある。いざとなったら私だって自力でどうにかするよ。一応、私だってやる時はやるから」

それにね、とナラカは付け足す。其処にいたのは、無愛想でつっけんどんな、人付き合いの苦手な少女ではなかった。これには思わずニラヤもひゅ、と息を飲み込んだ。


「サヴィヤさんは、きっとあなたを放っておかない」


━━━━恋する少女でも、何かを盲信する少女でもなく。ただただ一途に、たった一人の男を信じる少女が、其処にいた。

6ヶ月前 No.403

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【第72幕:輪廻の忌み子は呪詛に笑む】

ニーラムの張っていた結界のおかげで、ニラヤの変成した多頭の大蛇は同じ場所に留まっていた。この場所は大きめの広間のようになっていて、ひとつ上の階から客人が見下ろせる仕様である。それを利用して、エルトとリリア、そして餅蜥蜴を連れているアリックとスメルトと液状化したため小瓶に入れられたニーラムは大蛇からは死角になりそうな場所に陣取っていた。此処からだと階下の様子を一望出来る。

「……本当に、大丈夫なんでしょうか」

不安げに呟くのはアリックである。その後ろに控えているスメルトに至っては、凄まじい形相で大蛇を睨み付けている。大方、ナラカの安否が気になって仕方がないのだろう。スメルトはナラカによくなついている様子だったので、エルトもすぐに彼の胸中を察することが出来た。

(……無事でいてくれよ)

以前なら、ナラカの命などエルトは気にしなかっただろう。だが、今となっては彼女の無事を祈る他ない。理由はわからないが、エルトはナラカに救われたのだ。彼女がいなければ、エルトは今此処にいなかったかもしれない。そう思うと、ナラカには無事でいてもらわなければ困る。いつまでも借りを返せないのはいくらエルトでも精神的に辛い。

『……そろそろね。皆、気を引き締めてちょうだい』

液状化しているため念話の形でニーラムが一同に告げる。この場にいる誰もが、不安を胸にしながらもその言葉にこくりとうなずいた。
━━━━それを見たのかどうかはわからない。ただ、エルトたちの同意が合図となったことに変わりはなかった。エルトたちから見て右側からノルドが、左側から紫蘭が飛び出した。ノルドは飛び降りた速度を利用して上から大蛇の頭に向かって長槍を突き立て、紫蘭は懐から取り出した投擲用の短刀を投げつける。

「ちいっ、やっぱり効かねぇか!」

ノルドが臍を噛んでいる辺り、あの大蛇には傷ひとつ付けることが出来ていないのだろう。紫蘭が投げつけた短刀も瘴気の中に吸い込まれていった。エルトが射た矢と同じだ。

『効かなくても気にしないで!とにかくあの大蛇の気を引き続けなさい!』
「無茶を言う……!とりあえず時間稼ぎをすれば良いのだろう!?それなら任せておけ!」

ニーラムからの指示に文句を言いつつも、紫蘭は彼女から言われた通り大蛇との戦闘に専念する。短刀が駄目ならば煙幕を使って大蛇の頭部のひとつを目眩ましさせるなど、紫蘭にしては隠密らしいことをやっている。いつもならその強靭すぎて凶刃のような拳で何もかもを打ち砕いている彼女にしては珍しい。
一方、ノルドの方は“森の民”たちから授けられた草履を駆使して、普通の人間ならばあり得ない速度で大蛇の周りをひょいひょいと逃げ回って翻弄していた。武器が通じないのならせめて視線だけでも引き付けておこうという算段なのだろう。危険極まりない行為ではあるが、不思議とノルドなら大丈夫だろうという気になってくる。

(……出来ることなら、一秒でも早く合図が欲しいが……)

アーカムの至宝に矢をつがえながら、エルトは階下に目を凝らす。まだ、まだだ。まだ射ろという合図は送られていない。

(シュルティラ……全ては、お前の作戦にかかっているのだぞ。何時になったら合図を寄越してくれるんだ)

正直に言って、エルトはやきもきしていた。サヴィヤの作戦によると、あの大蛇━━━━すなわちニラヤを倒すためにはエルトの持つアーカムの至宝が決め手となるという。ニラヤは地上でも神秘が日常的だった時代に生きていた人間だ。いくら人間離れしていたとしても、その性質だけはいつまでも付きまとう。そのためニラヤを今のシャルヴァの五大で攻撃することは不可能に近いのだとサヴィヤは語った。サヴィヤはシュルティラとしてずっと輪廻を続けているためにある程度の傷は付けられるというが、やはり致命傷を与える程度には及ばないらしい。ニラヤを倒すにはかつてニラヤを殺した武器、もしくはありとあらゆる五大及び神秘を打ち砕く文明の利器を用いなければならないようだ。
故に、エルトは切り札として、サヴィヤから合図が出された時のみ矢を射るようにと言われていた。むやみやたらにニラヤを攻撃したら、攻撃目標がエルトに向かってしまうかもしれないからだ。サヴィヤいわく、あのアーカムの至宝たる弓から最大限の力を引き出せるのはエルトのみだという。

(……そう言ったお前の五大を送り込まれなければ、私とて彼奴に太刀打ち出来なかったがな)

エルトの五大だけではニラヤをすぐには傷つけられなかった。サヴィヤによると時間差で効くものだというが、果たして本当に攻撃が効いているのだろうか。エルトには全くわからない。もしかしたら、サヴィヤがエルトを慰めるためにそのようなことを口にしたのかもしれない。そうであったのなら何発かサヴィヤのことを殴らせて欲しいところだ。もしもナラカが無事であったのなら、エルトの方が先に殴られそうだが。
何はともあれ、今のエルトは動いてはいけないことになっている。何せ指示を出すはずのサヴィヤが出て来ないのだ。彼が来なければ話は始まらない。

「……そもそもさ、あの真っ白い人、何処で何をしてるんだろうね?あんな風に取り仕切ってたから、逃げたって訳じゃないだろうけど……」
「……それは私にもわかりませんよ、スメルト殿。あの男の考えていることなどわかる人間の方が希少だ。彼奴は何やら準備をすると言っていました。大方それに手間取っているのでしょう。……というか、何故私に彼奴のことを聞くのですか?」
「んー、だってあの隠密が『あの二人は先程まで二人で仲良しこよししていたからな!もうお互いがお互いのことを知り尽くしていそうだからわからないことがあったらどちらかに聞くのが得策だぞ!これは君子からの助言である!』って大声で言ってたからさぁ。……あ、大声なのはいつものことだったね」
「……彼奴……」

まだかまだかとサヴィヤを待っている最中にスメルトからそんなことを問いかけられたら、エルトも眉間に皺を寄せざるを得ない。本当にあの隠密の少女こと紫蘭は余計なところで現れてくれたものだ。何というか、狙ったかのような間の悪さである。本人が全く気にしていない辺り質が悪い。悪すぎる。スメルトの物真似が若干似ているのも小憎たらしい。

「ず、紫蘭殿のことは置いておいてですね。それだけサヴィヤ殿は貴殿を信頼しておられるということですよ、エルト殿。そうでなければわざわざ貴殿を救出し、介抱することなどありますまい」
「……そう、なのでしょうかね。私にはあの男の心がよくわからない」
「部外者の私が口を出すのは無粋と理解しておりますが、今はわからずとも良いのではないでしょうか。とりあえず、一度真っ正面からサヴィヤ殿と向き合ってみるとよろしいでしょう。あの御仁のお顔を見れば、自ずとわかるものですよ」

こほん、と小さく咳払いをしてから、アリックはそう言ってエルトに微笑みかけた。何とまあ惚れ惚れする美形である。さすがに一目惚れこそしないが、アリックの顔の造形にはエルトも一目置いた。エルトはアリックの性別を知らないが、とにもかくにも美しいことはわかる。この若者が酒気によって暴れたり海賊紛いの行為で人生を楽しんでいたり故郷に並々ならぬ愛国心を抱くが故に大暴走したりしたことをエルトが知れば、果たしてどのような感慨を抱くのだろうか。
閑話休題。とりあえず、何をするにもサヴィヤの合図が来なければ始まらないということだ。ノルドと紫蘭が先に投入されたのは、サヴィヤがいない間大蛇の目を引き付けておくためである。そうでもしなければ大蛇はエルトを狙うだろうとサヴィヤは言っていた。ニラヤのアーカムに対する憎しみは凄まじい。アーカムの始祖と顔が似ているということもあるのだろうが、エルトをその血筋だけで殺めようとしてきただけのことはある。

「おいっ、そろそろ俺たちも限界だぞ!さすがにこうまで動き回ってちゃ疲れる!」
「泣き声は見苦しいぞ、アーカムの小僧!君子たるもの、どのような状況であっても弱音を吐いてはならないと学ばなかったのか!」
「こ、小僧っ!?」

さて、階下のノルドと紫蘭はというと、何だかんだ言いながら引き付けを一手に担っていた。ただ、ノルドの言うようにそろそろ疲労が溜まってきたらしい。紫蘭も強気な態度でいるが、その額には汗が流れている。二人とも疲れていることに変わりはなかった。
これを黙って見ていられる程エルトも感情が希薄ではない。彼はとてつもなく大きな溜め息を吐いて眉間を揉んでから、真っ直ぐ前だけを見据える。そして、すぅ、と息を吸った。


「何時まで待たせるつもりだ、“兄上”!!」


その時、この場にいた誰もが多かれ少なかれ衝撃を受けたことだろう。兄上。たしかにエルトは兄上と言った。憎むべき対象として見ていたサヴィヤに対して、彼は兄上と言ったのだ。この時だけであったとしても、エルトはサヴィヤを自分の兄と呼んだ。その意味の大きさを、此処まで来て理解せぬ者はいまい。
一瞬、一瞬だけ、場が沈黙する。あの大蛇でさえも動きを止めたように思えた。そんな不思議な沈黙から、数秒経った頃合いであった。


凄まじい轟音を立てながら、“天井を突き破って何かが落ちてきた”。


エルトのいるような客間からでも、広間に入る扉からでもなく。サヴィヤは王宮の外に出てその頂上━━━━ちょうど広間の真上に登り、其処から“武器を持っていない方の手にありったけの五大を纏わせ”、それを思いきり叩き付けることでこうして落下してきたのだった。……ということをこの中の誰かが理解するまでにどのくらいの時間がかかるだろうか。とりあえず今のところ理解している者はいないだろう。
ずどん、と音を立ててサヴィヤは着地する。彼の立つ床にはまるで雷でも墜ちたかのような跡がついた。サヴィヤの足にかかった衝撃はきっと並大抵のものではないはずだが、彼は相変わらずしれっとした表情で佇む━━━━と思いきや、ふっと唇を綻ばせた。

「……兄上、か」
「良いからあれを早くどうにかしろ!お前を兄と認めるのはそれからだ!」

明らかに自分の方を向きながら告げるサヴィヤに、エルトはいつになく声を荒らげる。それを見たサヴィヤは微笑んだまま、こくりとうなずいた。

6ヶ月前 No.404

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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6ヶ月前 No.405

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ぱぁん、ぱぁん、と幾度も鉛玉の弾ける音が響き渡る。その度に瘴気の壁は揺らいだが、それでも壊れることはない。ついに切れてしまった弾に、ナラカは思わず舌打ちする。

「……無駄だよ。そんなものじゃ、この瘴気は壊せない」

諦めたような声音で告げるのはニラヤである。彼女の体には幾多の矢が突き刺さり、もう動くことすらままならない状況だった。むしろ今こうして話せていることが奇跡だろう。瘴気の地面に横たわったまま、視線だけをナラカに向けている。
そんなニラヤを、ナラカはちらと一瞥しただけだった。弾がなくなったからといって諦める程ナラカも潔くはない。出来るところまで悪足掻きをするのがナラカという少女だ。弾のなくなった銃身で、ナラカはガツガツと瘴気の壁を殴り付け始めた。

「……だから無駄だってば。往生際悪すぎ」
「……あなたは其処で寝ていたらどうです?私はあなたと違って此処から出なくちゃいけないんですから。ずっとこんな暗いところにいたくはありません」
「暗いところ……か。それはシャルヴァも同じことなんじゃないの?……あぁ、でもお前は“ヴィアレ”に見られていないから、望んで此処に来た訳じゃないのか」
「……ヴィアレさんを知っているんですか?」

ニラヤの発したヴィアレという単語に、ナラカはぴくりと反応した。動けないニラヤのもとにつかつかと歩いていくと、片膝をついて彼女から話を聞き出そうとする。ニラヤは薄く笑ってから、少しだけ顔を動かしてナラカの方を向いた。

「ヴィアレさん、って……。そんな風に呼び合える存在なの……?」
「……少なくとも、私にとってはそうでした」
「そっか。……多分、人違いだとは思うけど……ヴィアレっていうのは、このシャルヴァを創る上で礎になった精霊のことだよ。まあ、私と同じような身の上なんだよね。あのアーカムの始祖の被害者」
「精霊……?」

てっきり知り合いのヴィアレの話になると思っていたナラカは、突然出てきた精霊という言葉に首をかしげる。少なくともナラカが知るヴィアレは、テララやニーラムのような精霊には見えなかった。たしかに外見は精霊とも肩を並べそうなくらいに美しかったが、ヴィアレに精霊のような達観した雰囲気や、長きを生きてきたが故の貫禄のようなものは見えず、むしろ生まれたての赤子のような空気さえかもし出していた。精霊というならば長生きしているという印象がある。ヴィアレはどちらかと言えば、体だけ成長が早くて中身が追いついていない子供のように見える。
ナラカの怪訝そうな顔を見たニラヤは、力なく苦笑した。まあそういう反応するよね、とでも言いたげな表情であった。

「……ヴィアレっていうのはね、このシャルヴァを創る時、アーカムの祖によって生贄にされた精霊だよ。本来ならこのシャルヴァに顕現することすら出来ない存在だったはずなんだけど……色々と奥の手を使っていたみたい。しかも当代のティヴェ何とかっていう国の王様の方針が気に入らないとかで、王様を殺してそいつの振りをしてる。何でも、新たな端末をどうこうするとか言ってたけど……」
「ちょっと待ってください、それじゃあ今の王様は……」
「うん、死んだよ。王様を名乗っているのはヴィアレという精霊。今玉座にいるのは人間じゃなくて、一柱の精霊だ」

いきなりの情報に、ナラカは頭がくらくらとした。ヴィアレという名前の精霊。それがナラカの知るヴィアレと同一人物ならぬ同一精霊かはさておき、現在王を名乗っているのは王ではなく彼を殺した精霊ときた。これにはナラカもどのような反応で返したら良いのかわからない。

「……面倒なことになった、って思っているでしょう。私だって、ヴィアレがいなかったらこうして表に出ることはなかったんだよ」

急に黙りこくったナラカを見て、ニラヤは溜め息を吐きながら告げる。話すことも辛そうな様子だったが、本人が口を閉じようとしないのでナラカも無理には止めなかった。

「あのヴィアレが、どういうことか知らないけど“気”を放出するような真似をしたから……。だから、曼荼羅の基になっていた私は怨霊として顕現した。ヴィアレがおとなしくしていれば、こんな目に遭うこともなかったのに……」
「……それは自業自得でしょ。第一、そのヴィアレとかいう精霊じゃなくても、あなたは顕現した瞬間にアーカム王家を滅ぼそうと暴れていたはず」
「……ふふ、生意気なこと」

吐き捨てるように言い返してきたナラカに、ニラヤはまだ可愛いげのある憎まれ口を叩く。何だかんだ言いつつ、10年間しっかりと教育を受けてきただけのことはある。落ち着いていればニラヤも王族の一人と見なして差し支えはなかった。

「……それにしても、あなたはいつ死ぬんでしょうね。随分としぶといですけど」
「あら、私に死んで欲しいの?ナラカ。本当はお前、人の死なんて目の前で見たくないと思っている癖に」
「…………」
「そう睨まないでよ。私だって、苦しくて仕方ないんだもの。出来ることなら、もう……」

そう言いかけて、ニラヤは何かに気づいたかのようにはっと目を見開いた。そして、視線をきょろきょろと泳がせる。ナラカは何が起こったのかわからず、ニラヤに詰め寄った。

「どうしたんですか……!?」
「……シュルティラ。シュルティラが、私にその“気”を送り込んでいる……。嗚呼、あれはアーカムの“気”……。シュルティラ、あの人ったら、まさか……」
「ごちゃごちゃ言わないで!サヴィヤさんが来てるんですか!?来てるんですよね!?」
「そう……シュルティラが来ている。だから落ち着いて、ナラカ。お前には、やって欲しいことがあるの。今からそれをお願いするから、お前は私の言う通りに……っ……!?」

言う通りにしなさい、と言おうとしたニラヤだったが、急に体勢が変わって息を飲む。ぐらりと彼女の視界は揺れた。
それもそのはず、ナラカはニラヤの言葉を最後まで聞くことなく彼女を無理矢理おぶったのである。ナラカの小柄な体は最初こそぐらぐらと揺れていたが、何とか足を踏ん張って体勢を整えていた。ニラヤは細身だから、ナラカの力でも何とか背負えたのだろう。

「……ちょっと、何してるの?」
「何って、あなたをサヴィヤさんのところまで連れていこうとしてるんです。こんなところで野垂れ死んで、あなたは満足なんですか?」
「たしかに、そうだけど……。でも、無茶だよ。お前だけ行けば良いじゃない」
「馬鹿じゃないの、思ってもない癖に。あなたみたいな奴が私に伸されて満足して死んでく訳ないでしょ。未練たらたらのまま死んだらまた出てくるかもしれない。それはかなり迷惑なことだ。……だったら私が多少疲れても、サヴィヤさんと一回会っておいた方が良い」
「……変なところでお節介だね、お前。私はさっきお前を殺そうとしていたのに……」

頑ななナラカに、ニラヤはやれやれとでも言いたげに肩を竦める。これは何を言っても下ろしてもらえないと悟ったのか、特に抵抗することもなくおとなしくしていた。そして、ナラカの胸元を何やらごそごそと弄り始める。

「……そういった趣味がおありで?」
「ある訳ないじゃない。お前の無駄な脂肪を弄ったって、楽しいことは何もないよ。まあ、後で確認しておきなさい。変なことはしていないから」
「……あなたに言われても、信憑性がないのですが」
「随分嫌われてるみたいだね、いっそ笑えてくるよ。……それだけ用心深いってことか」

ふふ、とニラヤは控えめに笑う。これまで高笑いばかりされてきた身としては、こういった微笑の方が気味が悪いというものだ。
何も言わずにニラヤを背負って歩くナラカの頭頂部を、背負われているニラヤは黙って見下ろしていた。何処に向かっているのかナラカにはわからなかった。とにかく歩かなければと思った。サヴィヤが何処にいるかなど、わかるはずもない。要するに感覚というものだ。

「……ねぇ、ナラカ。シュルティラは、私のことを憎んでいるかな」

少し不安げな声音で、ニラヤはナラカに問いかける。その声は震えているようにも聞こえた。ナラカからニラヤの顔は見えないのでわからないが、きっと頼りなさげな顔をしていることだろう。

「……さぁ。私はサヴィヤさんでないからわかりません。でも、私やあなたのような面倒臭くて厄介な人間を、あの人は嫌な顔ひとつせずに助けてくれました。だから、少なくとも助けには来てくれるんじゃないですか」
「……そう、だね。助けに来てくれると良いね。……シュルティラは誰かに頼られるのが好きだから、今でも人助けしてるんだね。多分、捨て子だから……。いらないと捨て置かれた子だから、誰かから頼りにされるのが嬉しいんだよ、シュルティラは。富める者も貧しき者も、強き者も弱き者も、善き者も悪しき者も、シュルティラからしてみれば同じ人間に過ぎないんだ。誰に助けてって願われてもあの人は躊躇いなく手を差し伸べるし、助けてと言った人から頼まれたことは躊躇いなくこなすんだと思う。あの人は本当に分け隔てがないから、だから私なんかのことも助けてくれたんだ」
「……私は別に分け隔てがない訳じゃないと思うけど」

どうして、とニラヤが掠れ声で尋ねる。声を出すのも辛いらしい。ナラカはニラヤの方を振り向かずに答える。

「だってサヴィヤさん、エルトのことを弟だと思って大切にしてるから」
「アーカムの王子を……?」
「サヴィヤさん、エルトに自分から武器を向けたことないんです。アーカムを滅ぼしたティヴェラに仕えてるのにですよ?きっとサヴィヤさんは、エルトのことを唯一無二の弟だと思っている。だから傷つけないし、あなたの攻撃からも彼を守った」
「……じゃあ、私はシュルティラに……」
「好かれてるか嫌われてるかなんて、実際に聞いてみないとわからないでしょう。たしかにサヴィヤさんは損なくらいお人好しです。けど、他人に必ずしも平等な訳じゃない。だからあなたにも、あなたにしか抱かない感情を抱いているはず。色々想像して悲観的になっている暇があるのなら、一度顔でも合わせてみたらどうです?」

ナラカは相変わらずつっけんどんだった。しかし、何を思ったのかニラヤは薄く微笑む。其処に憎悪や怨恨はなく、ただの穏やかな少女としての顔に他ならなかった。

「……そうだね。でも、私にはもう無理みたい。もう、私は━━━━」

今にも空気中に溶けてなくなってしまいそうなニラヤの声。それは、言葉にはしておらずとも限界が近付いてきているということを示していた。これでもよく持った方だと思う。ニラヤは諦めたように目を閉じようとする。此処で自分は消えるのだと、言わんばかりに。


瞬間、瘴気の壁の一部が爆発するかのように消えてなくなった。


ナラカ、そしてニラヤは瞠目する。一体何が起こったのだろうと。そして、それを理解する前に、二人の瞳はある人物を捉えていた。

「シュルティラ……!」

震える声でニラヤが叫ぶ。ずるり、とナラカの背中から彼女は落ちるようにして降りた。あわや地面にぶつかってしまいそうだったニラヤの体を、ナラカは咄嗟に支える。これが火事場の馬鹿力というものなのだろう。普段は絶対に出来なさそうだが、ナラカは渾身の力でニラヤを抱き上げた。さすがに横抱きには出来なかったが、持ち上げられただけでも大したものだ。そのままよろよろしながら、ナラカは傷だらけで降り立ったサヴィヤへと近付いていく。

「サヴィヤ、さん……!この人を……!」

ナラカは顔を真っ赤にしながら、サヴィヤにニラヤを差し出そうとする。サヴィヤとニラヤはお互いに手を伸ばした。それこそ、抱擁でもするかのように。
二人━━━━否、ナラカを加えた三人は、一歩、また一歩と距離を縮めていった。やがて、サヴィヤとニラヤの指先が触れ合う程の距離へと近付き━━━━。


触れるか触れ合わないか、わからないところでニラヤは光の粒子となって消えた。


ニラヤの体は、恐らく存在しているだけでも辛い状態だったのだろう。いつ消えても可笑しくなかった彼女の肉体は、サヴィヤとの邂逅を果たした上で消滅した。サヴィヤの腕の中に収まったのは、かつてニラヤであったはずの光の粒子と、ニラヤを抱えていたナラカであった。

6ヶ月前 No.406

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

まるで霧が晴れていくように、瘴気で出来ていた大蛇は消滅していった。サヴィヤを除く面々は、半ば信じられないといった面持ちでその様子を眺めていた。もしかしたらまたあの大蛇が襲ってくるかもしれない。幾度となく予想外の展開に当たってきた一同は警戒こそしたが、大蛇は徐々に消えていき、その痕跡はひとつとして残らなかった。
そして、どす黒き霧が晴れていくと共に、その真ん中に佇む人影が見えてきた。それが何者であるかは、問わずともわかる。

「……シュルティラ」
「……ナラカ殿は……!」

エルトが呟き、そしてアリックが身を乗り出して彼━━━━サヴィヤを見下ろす。いくら気丈なアリックと言えど、唯一無二の友の安否が気がかりで仕方ないのだろう。彼女と共にいる餅蜥蜴も首を伸ばしていた。
サヴィヤの血塗れの腕の中に、ナラカはいた。何処か放心したような、心此処にあらずといった表情で虚空を見つめていた。サヴィヤと共にいる時は頬を染めながらあわあわと慌てている彼女にしては、不気味なくらいに静かだった。

「良かった、ナラカ!無事で……」

真っ先に彼女に駆け寄っていったのは紫蘭であった。いつもほとんど空気を読まず、己を君子と称して腹から声を出している隠密の少女は、ナラカの背中を笑いながらばしばしと叩こうとして━━━━ひっ、と息を飲んだ。

「な━━━━ナラカ、それは━━━━」
「…………触れるな」

手を伸ばしかけた紫蘭から、ナラカを遠ざけたのはサヴィヤだった。彼の腕の中にいるナラカは、これといった反応を見せることもなく、陰鬱とした虚ろな目をしているだけだった。

ナラカの体には、どす黒い痣のようなものが広がっていた。

服に隠されている部分も換算すると、体のほぼ半分といったところだろうか。腕や脚、そして右側の目元まで広がったそれは、明らかに人間が負うようなものではなかった。まるで瀝青でもぶちまけられたかのようだ。紫蘭の後に続いてやって来たノルドも、階下へ降りてきたエルトたちも、ナラカの白い肌を覆うそれがただ事ではないことを即座に感じ取った。

「……シュルティラ、これはどういうことだ」

眉間にこれでもかと皺を寄せながら問いかけたのはエルトだった。彼は自分の兄であろう男を射抜かんばかりの視線で睨み付ける。

「……ニラヤの瘴気の中に長時間いたが故の反動だ。ナラカは外界の人間故、こういったものへの耐性はある程度ついているはずだが……。やはり、長すぎたのだろう。見たところ体に悪影響はないようだが━━━━」
「御託は良い。それで、その痣は治るのか?それらを消す方法は、あるのか?」

エルトはいつになく焦燥した様子でサヴィヤへと詰め寄った。エルトの深い夜空のような色合いの瞳と、サヴィヤの晴れ渡った空の色をした瞳がぶつかり合う。誰もが口を挟めない程、彼らの視線の応酬は凄まじかった。

「……ない訳では、ない」

先に口を開いたのはサヴィヤだった。彼は僅かに眉尻を下げながら続ける。

「……だが、このシャルヴァにいる限り、この瘴気が抜けきることはない」
「貴様……!」

次いで出てきたサヴィヤの言葉に、エルトは赫と目を見開いて彼に掴みかかろうとする。其処にあるのは、以前まで抱いていたシュルティラという忌み子に対する憎悪ではない。ただ、サヴィヤにぶつける純粋な憤りだけであった。
しかし、エルトとサヴィヤがぶつかり合うことはなかった。すぐにナラカがサヴィヤの前に立ち、エルトを真っ直ぐに見つめたのである。

「私は、大丈夫ですから。本当に、大丈夫ですから」
「……大丈夫、だと……?お前は何を根拠にそのようなことが言える」
「……サヴィヤさんの言う通り、体に異常はないので。きっと私よりサヴィヤさんの方が、辛いお怪我をしています。体は痛くありませんし、苦しくもありません。だから大丈夫です。放っておいてください」

ナラカは弱々しい声でそう告げてから、サヴィヤの腕から出て、アリックたちのところも通り過ぎて、ふらふらと広間から出ていってしまった。スメルトとアリックが彼女を追いかけようとしたが、サヴィヤが「待て」と二人を制止する。

「……今は一人にしておいてやった方が良い。あれでも相当堪えているのだろう」
「……だったら尚更、君が付いてあげるべきじゃないの?たしかに僕が行ったってナラカは辛いだけかもしれない。でも、君なら……」
「すまないが、俺でも無理なことだ。ナラカに休息を与えられるのは、ナラカ本人に他ならない。……エルティリナ、お前の気持ちもわからなくはないが、お前に出来ることは何もないぞ」
「…………」

サヴィヤは相変わらず杓子定規な物言いであった。悪気がある訳ではないということは、付き合いの長いノルドやリリアならわかるところであったが、エルトやスメルトからしてみればやはりつっけんどんに聞こえるらしい。スメルトはナラカのためなら、と彼にしては珍しく妥協したようだったが、エルトの方は納得がいっていないらしくサヴィヤを睨み付けたままであった。

「そ、それよりさ。あの……精霊のヴィアレはどうするんだよ?今のところ、俺たちに敵意を抱いてる訳じゃねぇって話だったが……」

この気まずい空気を何とか切り替えようと、ノルドが半ば無理矢理に話題を切り出す。それは先程ニーラムを圧倒的な力で制した、精霊のヴィアレのことだった。
件のヴィアレについては皆解決しなければならない問題だと思っていたのだろう。あれだけ剣呑な空気をかもし出していたエルトも、一先ずは溜め息を吐いて落ち着いた様子を見せた。ノルドはほっと一安心してから、小瓶の中のニーラムを見る。視線を感じ取ったらしいニーラムは相変わらずの念話で話し始めた。

『……まあ、今のところは、でしょうけど。ヴィアレはあれでもシャルヴァの土台となってきた器よ。少しでも気が変われば、このシャルヴァの人間全てを消し去れるだけの力は有しているわ。楯突くのは得策ではないでしょうけど……』
「けどよ、俺たちをすげぇ敵視してるって訳じゃねぇなら、話し合いで穏便に済ませられるかもしれないんだよな?精霊サマは怒られちまったけど、エルトが交渉に行けばいけるんじゃねぇのか?」
「……それはさすがにないでしょう。私はかの精霊をシャルヴァの礎にした男の子孫なのです。加えて見目もよく似ているらしいですから、精霊のヴィアレが良く思うはずがないでしょう。すぐに敵と見なされて攻撃を受けるかもしれません」

ノルドの提案を真っ向から叩き切ったのはエルトだった。彼の言い分も尤もである。いくら精霊としてシャルヴァの民たちを愛しているとは言え、自分を傷付け、このシャルヴァに押し込めた男の子孫をヴィアレが許しているとは考えにくい。許しているとすればよっぽど寛大な心の持ち主であるか、喜怒哀楽をはじめとした感情が欠落しているかのどちらかであろう。

「では、これからどうするべきなのだ?我等はティヴェラに攻め入った。其処までは良いが、このまま何もせずに戻れば本末転倒というものだ。我が軍の兵士たちも納得しないだろう」
「私たちも困るぞ。私たちはヴィアレという者を捜している。……話によるとそのヴィアレは一応人間らしいと聞いているから、必ずしも精霊のヴィアレと同一人物とは限らないがな。それに、同行していたルタ殿……このティヴェラの第一王子ともはぐれてしまった。現在エステリアが捜索に向かっているが、一人では心許ないだろう。精霊のヴィアレはともかく、人間のヴィアレは捜させて欲しいのだが」

此処でリリアと紫蘭がエルトに対して異議を唱える。リリアの言いたいことはエルトにもわかったが、紫蘭の言葉には反応せざるを得ない。

「……ヴィアレを捜すとは、どういうことなのですか?」
「なんだ、貴様知らないのか?……そんな顔をするな、承知の上かと思ったのだ。実はな、我々の知るヴィアレはルードゥスによってこの王宮に連れ去られたらしい。私とルタ殿はヴィアレを捜しにこの王宮に潜り込んだのだ」
「何と……。そのようなことがあったのか」

紫蘭の話は寝耳に水だったようで、リリアのように声に出している訳ではないエルトも驚きを隠せない様子だった。精霊のヴィアレに関しては警戒せざるを得ないが、自分たちの知っているヴィアレのことはどうしても心配になる。ルードゥスに連れ去られたというのだから尚更である。

「……とにかく、まずはヴィアレと接触を図らなければなるまい。今のところ、ヴィアレにお前たちが殺される未来は見えていない。奴のところに向かったところで、少なくとも死人は出ないだろう」

一同を見渡してから、サヴィヤは無表情のままに告げる。そんな彼を、直ぐ様睨み付けたのはエルトだった。

「本当に信じて良いのだろうな?もしも貴様が精霊であるヴィアレに荷担して我等を滅そうと言うのなら、私も黙ってはいられないぞ」
「……信じて欲しい、と言ったところで、最終的な判断を下すのはお前たちだ。無論、俺とてお前たちから離れる訳ではない。極めて個人的な用事を済ませてから、お前たちを追いかけるつもりでいる。少なくともエルティリナ、俺はお前を憎んではいないし、敵視してもいない。お前が俺にどのような感情を抱いていようと、お前が俺を見ていてくれるのならばそれだけで喜ばしいと思っている。故にこそ、俺はお前たちを助けよう」

じっ、とサヴィヤの真っ青な瞳がエルトを見据えた。お前たち、と言ってはいるが、その視線は明らかにエルトにだけ向けられている。それに気づかない程エルトも鈍感ではない。わかった、と溜め息を吐きながら答える。

「……ならば、今はお前を信じよう、シュルティラ。だが、少しでも怪しい真似をしたら私はお前の敵になる。良いな」
「ああ、感謝する。俺は決してお前を裏切りはしないぞ、エルティリナ」
「御託は良い。私たちはどうするべきか、今はそれだけを伝えろ」

うっすらと微笑んだサヴィヤから、エルトはぷいと顔を背ける。きっとエルトでなくとも視線を逸らさずにはいられなかっただろう。その時のサヴィヤの表情は、あまりにも美しかったのだ。
エルトや周りの人物には何とも気まずさげな雰囲気が漂ったが、サヴィヤ本人は特に気にしていないようだった。表情をするりとまた無に戻して続ける。

「精霊のヴィアレのところへ行く人数は多すぎない方が良いだろう。お前たちには人間のヴィアレやルタ、そしてナラカを捜しに行って欲しい」
「……ナラカ殿は、貴殿が捜した方が良いのではないですか」
「俺とて精霊のヴィアレを放ってはおけんよ。それに、ナラカはお前たちを少なからず大切な存在と見なしている。お前たちを邪険にすることはないだろう。……それに、俺には此処でやらなければならないことがある。悪いが、先に行っていてはくれないか」

すぐに合流する、と付け加えてサヴィヤは今度こそ一同を見渡した。その目は恐ろしい程に曇りがない。それこそ澄みきった空のごとき瞳である。顔の造形だけでなく、体の部位の色合いまでもが計算され尽くしているように思える。

「……わかった。あまり時間はかけるなよ」

はじめに口を開いたのはエルトだった。彼はそれだけを告げると広間をすたすたと出て行ってしまう。他の面々も、そんな彼に続いて一人、また一人と広間を後にした。

6ヶ月前 No.407

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6ヶ月前 No.408

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ほとんどシュルティラという男のことしか考えずに過ごしてきたニラヤであっても、サヴィヤの言いたいことはなんとなくわかった。どれだけ自分が猛省したとしても、サヴィヤはこういう男だった。滅多なことで他人に後ろ向きな感情を向けることなく、助けてくれと頼まれればそれが誰であろうと手を差し伸べる。助けた人間の顔はずっと覚えて、その後の暮らしまで案じてくれる。昔からシュルティラは━━━━いや、サヴィヤという男はそういうところがあった。それはニラヤもよくよく知っていた。だからこそ、ニラヤはサヴィヤを此処まで想えたのだ。
そして、ニラヤは理解してしまった。サヴィヤが自分に、どのような感情を向けているのかということを。彼の表情や振る舞いから、嫌でも感じ取ってしまったのだ。

(シュルティラは━━━━私のことを、昔からの友達だとしか思っていないんだ)

サヴィヤがニラヤを友好的に思っていることは確かである。しかし、其処にニラヤのような恋愛感情はない。かつての友としてしか、サヴィヤはニラヤを見てはいないのだ。それが嫌でもわかってしまったニラヤは、少なからず衝撃を受けた。それと同時に、やっぱりか、という諦めの気持ちもあった。

(たしかに、シュルティラは分け隔てをしないとは言っても、ある程度の分別はついている。けど……それでも、やっぱり深い関係まで突き進むことはないんだ。シュルティラにとって、友とは等しく友なのだから)

サヴィヤは、“サヴィヤとして生きていた”頃から友人を大切にする質であった。幼い頃から捨て子だ何だとからかわれてきた彼が人との関わりを好むのはやや不思議だったが、今になって考えてみるとそれが拍車をかけたようなものなのだろう。他人から邪険にされたり、疎まれたりしたからこそ人との関わりを求めるようになった。そう考えると辻褄が合う。
黙りこくってしまったニラヤに対して、サヴィヤは不思議そうな表情をしていた。此方の姿が見えていなくて本当に良かった、とニラヤは思う。もしも人としての姿を保っていたなら、今のニラヤは情けない顔をしていたに違いないのだから。

『……それで、シュルティラはこれからどうするの?彼奴らのこと、助けに行くの?』

何だか気まずくなってきたので、ニラヤは半ば無理矢理に話を切り替える。これ以上自分の傷を抉りたくはなかったのだ。
ニラヤの問いかけに対して、サヴィヤはぱちぱちと何度か瞬きをしてからこくりと首を縦に振った。

「うむ、そうするつもりだ。エルティリナは俺の唯一無二の弟だからな。それに、ノルドたちも俺に良くしてくれた。彼らを助けるのが道理というものだろう。……いや、道理がなくとも俺は彼らを助けたい」
『……ナラカのことはどうするの?彼奴、だいぶ傷心のようだったけど……。あなたが行ってやらなかったら、きっと……』
「やけにナラカのことを気にするな、ニラヤ。仲良くなれたようで何よりだ」
『……まあ、そうだね。そういうことにしておいてあげる』

ナラカと仲良くなれた、という言葉には語弊があるが、ニラヤは特に突っ込まないことにしておいた。サヴィヤは軋轢や衝突を好まない。それゆえに、二人が和解したと判断して喜ばしい気持ちになったのだろう。サヴィヤの喜びを壊すなど、ニラヤにとっては言語道断だ。
そして、ナラカに関しての話題を振られたサヴィヤは、むぅ、と悩む様子を見せた。少し考えてから、彼はおもむろに口を開く。

「放っておく訳にはいかん、とは思っている。だが、俺にはナラカの行く先が見えないんだ」
『え……?でも、あなたは空を超えた境地、識に至ったはずじゃ……』
「そのはずだ。だが、ナラカの過去や気持ちはわかっても、その未来が見えない。エルティリナがこのシャルヴァで死なないことはわかっている。しかしナラカがどうなるかは全くわからない。見える結末の中から、ナラカの姿だけがぽっかりと消えているんだ。今に始まったことではなくて、出会った時からナラカの未来は空白のままだった」
『そんな……。千里眼が通じないのは、精霊や自分よりも上位の千里眼持ちくらいのものでしょう?あのアーカムの末裔があなたのことを千里眼で見られないのはわかる。でも、ナラカはただの平々凡々な小娘のはず。たしかに、私を気合いで捩じ伏せるだけの気概はあったけど……。でも、そんなことって……』
「……信じられずとも、実際に起こっていることなのだから仕方あるまい。……故に、俺は不安なのだ。俺が介入することで、ナラカの未来が絶たれるようなことでもあったら、どのようにすれば良いのだろうと」

白妙の美貌が憂いに翳る。ニラヤは胸が締め付けられるような思いだった。そして、サヴィヤにこうまで憂いを与えるナラカを少し羨ましく思った。

『……要するに、シュルティラ。あなたは自分が行動することで、あの子が死ぬようなことがあってはいけないと思っているんだよね?……じゃあ、逆に聞くけれど、どうしてあなたは其処までナラカを生かそうとするの?ナラカを生かすことで、あなたに何らかの利があるとでもいうの?』

問わずにはいられなかった。確かめずにはいられなかった。それは単なる嫉妬からだけではない。ニラヤはたしかに悔しかったが、其処には純粋な疑問も存在していた。どうしてサヴィヤはこうまでしてナラカを生かそうとするのか。きっとサヴィヤはナラカに助けられたことなどないだろうし、ナラカの手を借りずとも生きていけるはずだ。いくらサヴィヤがお人好しだからといって、此処まで庇護しようとすることは可笑しい。そう、ニラヤは考えたのだ。

「……俺は、損得勘定で人を助けたりはせぬよ。助けてくれと求められれば、それに応じるだけのことだ。ナラカは俺に向かって死にたくないと言った。だから俺はナラカを生かしたのだ」
『けれど……シュルティラ、あなたはわかっていたのでしょう?あの子を生かしたところで、シャルヴァで幸せになれる訳がない。実際にナラカはシャルヴァで数多の苦難にぶつかった。あなたが助けてやらなければ、きっとあの子は無事でいられなかった。ナラカは全てにおいてあなたに助けを求めた訳じゃない。それなのに、どうしてあなたはナラカを助けるの?生かしたところで苦しみしかないあの子を、どうして殺してやらなかったの?』
「……それも、そうだな。ナラカは、彼処で生を終えていた方が楽だったのかもしれない」

サヴィヤはふぅ、と息を吐いて再び天を仰ぐ。そして、あまりにも真っ直ぐな目のままニラヤに向かって答えた。


「だが、俺はナラカを生かしたかった」


サヴィヤはきっぱりと言い放った。その言葉が何を意味しているのか、わからない程ニラヤも愚かではなかった。
基本的に、他人への分け隔てなく人助けをするサヴィヤが。相手の望んだことがどのようなものであれ、可哀想なくらい真面目に遂行してみせようとするサヴィヤが。ナラカの前途が苦難に満ちたものであるとわかっていて尚、“彼女を生かそうとした”。それは、サヴィヤが大切な弟をアーカムの末裔でありながら殺そうとしなかったことと類似していた。しかし其処にあるのは家族への愛情ではない。サヴィヤとナラカはこのシャルヴァで出会うまで、何の関わりもない人間であった。

「……これは、俺の利己的で自分勝手な行動に過ぎない。ナラカのことを生かしたいと思った俺は、ナラカをあえて救わなかったのだ」
『シュルティラ、あなたは……』
「わかっている。このことをナラカが知れば、どのような顔をするだろうかという不安は少なからずある。だが、彼処まで生を渇望する人間というのは初めて見たように思えた。此処で死ぬことが救いになり得るというのに生きたいと足掻き、理想郷にたどり着いていながら地上に戻りたいと願うその姿勢は、どうしてか俺には輝かしく見えた。ナラカの目指す先に、かつて俺も見上げた太陽があったからだろうか」

サヴィヤは感慨深そうに、開いていた掌をぎゅっと握る。出会った頃のナラカを思い出すように、訥々と語りながら。

「だからな、ニラヤ。俺はナラカを生かしたいのだ。これは俺個人の感情で、義務感や正義感から来るものではない。俺自身の願いだ。たとえナラカが死にたいと思っても、俺は彼奴に生きろと言うだろう。……どうして此処まで思えるのか俺も不思議だが、どうにもこの気持ちは変えられない」
『……そっか。それなら、尚更ナラカについてあげていた方が良いと思うよ。ナラカはあなたを待っているはず。きっとあなたが来れば、あの子は喜んでくれるに違いない。……だからね、シュルティラ━━━━いいえ、サヴィヤ。あなたはあなたの救いたい人を救い、為したいことを為しなさい。あなたの人生を縛り付けた私がこんなことを言うのは烏滸がましいってわかっているけど……それでも、私はあなたに笑っていて欲しいの。そう望むことだけは、許して欲しいな』
「許すも何も、俺はお前に怒ってなどいないぞニラヤ。かつてお前が俺の無事を祈ってくれた時と同じだ。友の祈りは喜ばしい」

ニラヤの言葉に嘘偽りはなかった。本当に、本心からサヴィヤの無事を祈り、そしてナラカを生かして欲しいと思ったのだ。ナラカのことは気に食わないが、根性のある人間だということはニラヤもわかっている。ならば死にたくないと自分に抗ったように、他の神秘に対しても抗い続けて欲しい。そうでなければニラヤが浮かばれない。

(第一……あなたはあのアーカムの末裔とナラカを助けるために、己が人間性を捨てたのでしょう。此処で私が止めるなんて無粋が過ぎる)

引き留めたい気持ちはあった。自分の傍から離れないで欲しい気持ちもあった。けれどサヴィヤはそれを望まないだろう。ならば、たまには慎ましくならねばならないとニラヤは思う。最後くらいは、良い印象を残していきたい。それくらいの我が儘は、通したって良いだろう。

『じゃあね、サヴィヤ。私の大切な人。あなたとまた会えた時には、お互いにまともな人生を歩みましょう』
「ああ、そうだな。次の輪廻でまた会おう」

未練は残さず、追うことも引き留めることもなく。数千年縛られた忌み子と縛り付けた呪詛は地底の王国でお互いに別れを告げた。

6ヶ月前 No.409

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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6ヶ月前 No.410

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

シャルヴァを理想郷として創り直す。その言葉を瞬時に理解出来た者などいなかっただろう。数秒間の沈黙の後、エルトたちの中から声が上がった。

『……どういうことなの、ヴィアレ。あんた、一体何を考えてるのよ』

真っ先に発言したのは、精霊であるヴィアレに肉体を奪われたニーラムであった。相手が相手なのでしばらくは黙っていたようだが、さすがに我慢出来なかったらしい。その言葉尻からは疑問だけでなく、静かな怒りが滲み出ている。
しかし、精霊であるヴィアレは全くニーラムに怯むことはなかった。一度御した相手ということもあるのだろうが、このヴィアレは謂わば全知全能たる一神教の神に等しい存在と言っても過言ではない存在なのである。恐らくニーラムが本気で当たろうと、このヴィアレには勝算があるのだろう。そう周りに思わせるだけの佇まいであった。

「……ニーラムか。相変わらず往生際の悪い精霊であるな、貴様は」
『御託はいらないわ。それよりもヴィアレ、あんたはこのシャルヴァをどうするつもりなの?いかにも神様然としてるけど、あんたは所詮精霊なのよ?出来ることが限られてるのはあんたもわかってるはず。それを理解した上で、あんたは何をしようとしているの?こいつらにもわかるように説明なさい』
「……知れたこと。シャルヴァの創成、これすなわち原点回帰に他ならぬ」
「原点、回帰━━━━」

さらりと精霊のヴィアレは口にしたが、エルトは顔を青くさせる他なかった。原点回帰。原点回帰と、たしかにこのヴィアレは口にした。どのような方法でそれを成すのかエルトにはわからなかったが、少なくとも危機感を覚えるには十分な単語であった。

「あなたは……私たちを、シャルヴァの民を、どうするつもりなのですか」
「どうするもこうするもあるまいよ。我はこの荒廃したシャルヴァを一に戻す。その上で、シャルヴァの民たちには一度このシャルヴァと共に消えてもらわねばならない。奴等の心もシャルヴァと共に荒んでしまった。それを浄化するのは、当然の役目であろう?」
『━━━━ふざけないでっ!あんたの動機は世界を滅ぼす原因になり得る愚者の行動と変わりないわよ!』

リリアの手にある小瓶の中で、ニーラムは怒りを体現するかのように小さいながらも波を起こした。彼女が激昂する気持ちもわからなくはない。だが、精霊のヴィアレはそれに心を揺らすことはなく、つとニーラムに視線を寄越すだけだった。

「愚者、か。人間より逃げ続けてきた貴様がよくもそのように言えたものだ。我は逃げることすら出来なかった。このシャルヴァの底で、どれだけの月日を過ごしてきたか……貴様にはわかるまい」
『わからないに決まってるでしょう、馬鹿じゃないの。あんた、長生きしすぎて頭可笑しくなったみたいね。少なくとも昔は馬鹿でもそんな世迷い言を言うことはなかったでしょ』
「世迷い言を吐いているのは貴様の方だ、ニーラム。貴様にこのシャルヴァの危機がわかるものか。我はこう見えてもこの理想郷を愛している。あの男より託されたシャルヴァを、我がどれだけ気を張って守ってきたか……貴様に理解出来るものか」
『ふん……そうは言うけどね、ヴィアレ。あんたはこれまで何もしてこなかったじゃない。ただ見ているだけだった奴が、今更王を語るなんて片腹痛いわ。もしかして、精霊の分際で野心でも抱くようになったのかしら?』

ニーラムがくすくす笑いながら全てを言い終える前に、轟、とその場に一瞬だけだが突風が吹いた。気を抜いていれば吹き飛ばされそうな威力だ。エルトは足を踏ん張り、ノルドはリリアを支える。ニーラムの水面にも波が立った。
そして、此方を見下ろす精霊のヴィアレの顔には、初めて表情らしい表情が浮かんでいた。美しい顏は、苛立ちと怒りに歪められている。どうやらニーラムの言葉は精霊のヴィアレの逆鱗に触れたようだ。

「……戯言は大概にするが良い、ニーラム。貴様ごときには何もわかるはずがない、何もわからせはしない。あの男の真意を汲み取ったのは、後にも先にも我だけである」

噛み殺すようなヴィアレの声音で、エルトはなんとなく察してしまった。察せざるを得なかった。

(……この精霊、我が祖に並々ならぬ執着を抱いているな)

以前にテララから聞かされた話の時点で予想はしていたが、このヴィアレがアーカムの祖に抱く感情は複雑に過ぎる。嫌ならば自爆でも何でも、それこそ死に物狂いで行動を起こせば事足りる話だった。それなのにこのヴィアレは大人しくシャルヴァの礎になり、三年前まではその役目を全うしていた。
アリックの手紙からエルトも精霊のヴィアレに関する事柄は把握していたが、やはり腑に落ちない点が幾つか見受けられる。そのため一概にこう、とは言えないが、とりあえず精霊のヴィアレがアーカムの祖のことを今の今まで根に持っていることはわかった。ニラヤといいこのヴィアレといい、執念とは恐ろしいものである。これでは10年間ティヴェラへの報復を考えていた自分が馬鹿らしく思えてくる。

「……ともかく、これは定められし宿命なのである。エルティリナ、貴様は我がシャルヴァの民を救わなんだことを責め立てたな。しかし、奴等を生かすことが真に奴等の幸福なのだろうかと考えたことはあるか?」
「……それは」
「あの男の血を引き、一度は外界に落ちた貴様ならわからなくもないのではないか?生きることが人の幸福とは言い難い。あの時死んでいれば、と後悔する者もいるだろう。今のシャルヴァを存続させたところで、幸福になる者などいはすまい。我はそんなシャルヴァを建て直し、真なる理想郷を創ろうとしている。それを貴様は悪しきことと見なすのか?」
「……何にせよ、死ぬ承諾を得ていない民を見殺しにし、勝手に世界を創り変えるのは無責任だとは思いますが」

エルトは出来ることなら無辜の民を犠牲にしたくはないと考えている。それはかつてティヴェラがそうしたから同じになりたくない、という訳ではなく、単純に無意味な殺生を避けたいだけのことだった。後に禍根が残るとか、そういう問題ではない。したくないから避けようとしているだけなのである。人の命の重さはどれも等しく同じだ。そのためエルトは出来るだけ人を殺めないように心掛けている。その結果として、ナラカとは対立することになってしまったが。
精霊のヴィアレは、解せないとでも言いたげな目でエルトを見た。その顔はまた無表情に戻っている。

「無責任、か。たしかに、貴様から見ればそういうことになるのやもしれぬ。貴様らはこの世で生きることに必死で、シャルヴァの全容を見る余裕などあるまい。だが、我と同じ立場に置かれ、このシャルヴァを見れば、きっと貴様らも危惧することだろう」
「危惧はするでしょう。しかし、それは民を殺めて良い理由にはならないはずです」
「……?貴様は可笑しなことを言うのだな。誰がシャルヴァの民を殺めると言った?」

こてん、と精霊のヴィアレは首を傾げる。それこそ、ただ純粋に、自分の意見に反論されたことを理解出来ていないような仕草だった。もしもニーラムが人間としての肉体を持っていたのなら、顔を歪めて怒っていたことだろう。

「我はシャルヴァの民を殺めなどせぬよ。奴等にはこのシャルヴァが在るべき姿へと戻るその時まで、肉体を手放してもらうだけのこと。奴等の“気”は我が大切に保管しよう。何、肉体など仮の宿りに過ぎぬ。我が理想郷の完成まで、そのようなものは必要ないだろう?」
「……あなたは、まさか」
「エルティリナよ。何故、貴様はそのような顔をする?何も問題はあるまい。この理想郷を創り直す際に民の“気”をその肉体から抜き取り、シャルヴァの完成まで眠らせておくだけの話なのだからな」

精霊のヴィアレはいとも簡単に言ってくれる。しかし、エルトとしては目眩がしそうな話であった。エルトの問答に口を挟むまいと後方で黙っていたノルドとリリアも、真っ直ぐに精霊のヴィアレを睨み付けている。二人も、エルトと同様の感情を抱いているようだった。

(……許されない。許されるはずがない。問題などあるに決まっている。“何の罪もない民を一時的に殺し、その命を管理する”など━━━━!)

あまりにも突拍子もない話だった。それは、このシャルヴァにおいて全ての選択肢を精霊のヴィアレ以外の者が奪われているようなものであった。誰も知らない、精霊のヴィアレ以外が知るはずもない、シャルヴァの再構築。理想郷の再編。何も知らないまま知らない相手から命を好き勝手にされるなど、エルトからしてみれば理不尽な殺人と相違ない。
エルトは精霊のヴィアレを見据える。もとより話し合いなど通じない相手であった。相手は精霊を超越し、“ひとつの世界”になったかのような存在だ。人間の感性など、きっと彼方には些末なことなのだろう。

「……ほう、貴様も我を解さぬか。我は哀しい。貴様には、この理想郷でのびのびと生きて欲しかったというに」
「たとえあなたが理想郷を再編したとしても、それは私たちにとって理想郷と呼べるものではないでしょう。第三者に管理されきった人生など、生きているとは言い難い」
「ふふ、良き目をしておる。それは千里眼、だな?あの男もよく似た目をしていた。━━━━だが、シャルヴァに生まれた者である限り、貴様らに我は殺せぬよ」

瞬間、エルトの体は凍り付いたかのように動かなくなる。きっと絶対に動かせないという訳ではないのだろう。現に瞬きは出来るし、呼吸も出来る。だが今の状況では、エルトは━━━━いや、この場にいる精霊のヴィアレ以外の人物は、完全に行動を制限されているようなものであった。


精霊のヴィアレを攻撃しようという気持ちから来る行動。それらは全て、ヴィアレの手によって封じ込められた。

6ヶ月前 No.411

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6ヶ月前 No.412

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急いで扉に駆け寄ったが駄目だった。エルトがどれだけ押そうと引こうと叩こうと、扉は鍵でもかけられたかのようにびくともしなかった。

「……無駄なことを。この空間……否、この世界は我の肉体に相違ない。それに抗うことなど出来ようか、いや出来まい」

やれやれ、とでも言いたげに肩を竦めて、精霊のヴィアレは再びエルトの目の前まで歩いてきた。そして無理矢理に自分の方へエルトを向かせる。嫌でも精霊のヴィアレの紅い瞳と目が合った。

「……私を残して、どうするつもりなのですか」

底知れぬ不安感に襲われながら、エルトは震える声で精霊のヴィアレにそう問いかけた。いくらエルトだって、人智を超えた精霊と相対して平然としていられる程の度胸は持ち合わせていない。ついでに今は仲間もおらず、完全に一対一の状況だ。王族としての矜持がなければ、エルトは今すぐにでも逃げ出そうとしていたことだろう。それだけの風格を、この紅き精霊はその身に纏わせていた。
エルトの問いかけに対して、精霊のヴィアレはふむ、と首を傾げる。そして、エルトの頬を撫でながらそれに対する答えを口にした。


「エルティリナ、貴様は理想郷を再編した後の世界で初めての人間となるのだ」


はっきり言おう。エルトは精霊のヴィアレが言っていることを理解出来なかった。初めての人間、などと言われてもすぐに納得なんて出来ない。出来るはずがない。其処まで察しの良い人間がいたらある意味恐ろしい。
状況を理解出来ていないエルトは黙りこくるしかなかった。しばらく気まずい沈黙がその場に流れる。それを見た精霊のヴィアレは、意外なことに眉尻を少しだけだが残念そうに下げた。

「……何かわからないことがあると黙って硬直するのは、あの男と同じであるな」
「……申し訳ありません。しかし、あなたの言葉の意味は……」
「良い、良い。わからないものは仕方があるまい。我は精霊であり、このシャルヴァそのものである。この程度のことで貴様を処することはないよ」

気のせいかどうかはわからない。だが、エルトと二人きりになってから、精霊のヴィアレは僅かにであるが口調に柔らかさが混じったように思う。もしかしたら懐古や憧憬といった気持ちが、この精霊にはまだ残っているのかもしれない。……とは言え、表情はほとんど変わらないままなのだが。
とりあえず、今のところはだがエルトが殺される心配はないらしい。だが油断は禁物である。相手は自分と同じ人間ではなく、数千年の時をこのシャルヴァの礎として過ごしてきた精霊なのだ。人間の道徳や倫理観が通じるものと思ってはいけない。エルトは改めて気を引き締めてから、気を取り直すように咳払いをして精霊のヴィアレに尋ねる。

「……して、私を初めての人間にするとは、一体どういうことなのですか」
「……?言葉通り、そのままの意味であるが。我は最終的にこのシャルヴァの民全ての“気”を抜き取る。まあ、それも一時的なことであるから安心するが良い。しかしな、エルティリナ。世界の創造に際して、必ず必要とされるものがある。それは万民の模範、そして基礎となる人間である」

さらりと精霊のヴィアレは口にしたが、それはエルトからしてみれば開いた口が塞がらない程の爆弾発言だった。万民の模範、基礎となる人間。それは恐らく、どの世界の創造にも必要不可欠なものなのだろう。だが、その重要性はわかっていても、いざ自分がそれになれと言われたらそれはそれで困る。

「……何故、私なのですか。私は完璧な、非の打ち所のない人間とは言い難い存在です。私を選んだところで、あなたの望む理想郷には不釣り合いなはず。それなのに……」
「貴様が不完全なことは我も承知の上である。だが、貴様が不完全だからこそ、我は貴様を選んだ。たとえ貴様がアーカム王室の血を引いていなかろうとそれは変わらぬ。人間とは不完全にして、欠けているところがあらねばならぬ。完璧な人間など、このシャルヴァ━━━━否、三千世界の何処を探そうと存在せぬだろうよ」
「しかし、何も私である必要は━━━━」
「貴様でなければならぬのだ。葛藤し煩悶する貴様でなければ、我が理想のシャルヴァは成り立たぬ。理想郷が理想郷であるように、人間もまた人間でなくてはならぬ故な」

故に貴様が案じる必要は皆無、と精霊のヴィアレは付け加えた。 しかしエルトは納得がいかない。いくはずがなかった。

(私のような人間がが万民の基軸にされるなど、耐えられるはずがない━━━━!)

自己中心的な考え方であることはエルトとて承知の上である。だが、エルトはそう思うことを抑えることが出来なかった。考えるだけでも全身が寒気に襲われ、ぞわりぞわりと鳥肌が立った。
エルトは自己肯定感が低い、と自負している。自分の性格が好きか嫌いかと問われたら間違いなく嫌いだと答えるだろうし、内面だけでなく自分の見た目だってあまり好きではない。シャルヴァに再び足を踏み入れた当初は、地上の日に焼けてしまった自分の肌を見ることすら腹立たしかった。そんな自分を基礎として世界が創られるなんて耐えられないし認めたくもない。絶対にろくな世界など出来上がらないだろうとエルトは思う。

(私のような人間がこの世界の基軸になるなど、絶対にあってはならない!そんなことを飲むくらいならば、シュルティラを兄上と呼んだ方がまだましだ!)

精霊のヴィアレが、自分を陥れた男の子孫であるエルトを憎んでいるのならばまだわかる気がしないでもない。しかし精霊のヴィアレはエルトを憎む訳でもなく、むしろ重んじているかのような扱いをしている。それがエルトには我慢ならなかった。意を決して、彼は精霊のヴィアレに向かって口を開く。

「……あなたのような高位の精霊に選ばれるということは、本来ならば願ってもないことなのでしょう。しかし、私は自分を好いてはいない。それに、あなたの創る理想郷に荷担するつもりもない。私はアーカムの王子だ。ティヴェラの王となったあなたに与する理由など何処にもない」
「ティヴェラの王、か……。なるほど、貴様から見て我はそのような映り方をしていたのだな。意外だ、意外の一言に尽きるぞエルティリナ。やはり貴様は原初の人間に相応しい。━━━━故にこそ、我は貴様を欲し、貴様を此処から逃がしはしない」

つ、と精霊のヴィアレがエルトの額に触れる。━━━━その瞬間、エルトの体内の血液全てが沸騰したかのように、彼の体は突如として熱を帯びた。

「━━━━っ!?」
「多少手荒になることは許せ。貴様が拒むのなら、我自らの手で貴様の“気”を創り変えよう。何、懸念の必要はない。全て我に任せておくが良い」

エルトは声を上げることも出来なかった。まるで体を内側から焼き尽くされているような感覚に、声にならない悲鳴を上げた。熱い。怖い。苦しい。アーカムの王子としての矜持なんて、今なら捨ててしまえそうだった。今はただ、この苦しみから逃れたくて仕方がなかった。

(私は、死ぬのか……?)

崩れ落ちることも出来ないまま、エルトは唇の端から唾液を垂らしてぼんやりと考える。死ねるのならば死んでしまいたい。身体中の“気”が暴れ続けて、この短時間でエルトの心はすっかり折れてしまった。苦しい。苦しい。苦しい。誰でも良いから助けて欲しい。抗うなんて考えられなかった。これは自力で何とか出来るものではない。人智を超えた精霊に立ち向かうなんて、最初から無理だった。これは徒労に過ぎなかったのだ。
死んでしまいたいと思っても、エルトの心には死に対する恐怖があった。恐ろしい、怖い、とそれは幼子のように泣きじゃくる。今になってやっと、エルトは死にたくないと震えていたナラカの気持ちに共感することが出来た。死を目の前にすることは、言い様もなく恐ろしい。

(嗚呼……ならばこれは、私に対する報いなのかもしれない)

高潔に生きようと努力はしてきた。しかし理想通りの生き方なんて出来るはずもなかった。最終的にエルトは卑怯な手を使っていた。自覚はしていたが、仕方のないことだと己に言い聞かせた。その結果が、今の苦しみなのだろう。
ナラカはエルトのことは嫌いだが、死んで欲しいとまでは思っていないと言った。彼女は嘘が吐けない性分である。その言葉に偽りはないのだろう。だが、エルトからしてみればそんなことはないだろうと否定してやりたかった。むしろ憎まれなければならないと思った。ナラカに憎まれず、彼女に助けられてしまったから、きっと今自分はこのような目に遭っているのだ。薄れゆく意識の中で、エルトはみっともなく自己嫌悪した。これだから自分なんて嫌いだ。どうせなら死んで、理想的な人間に生まれ変わってしまいたい━━━━。


『 駄目だ 』


静寂の中で、鈴を鳴らしたかのように。朦朧とするエルトの意識の中に、その声は響いた。


『 そなたは、生きなければ 』


その声は怒っていた。その声の主を、エルトは知っていた。かつて王立図書館に赴いた際も、その声の主はエルトを叱責し、そして手を引いてくれた。その人物を助けたのは紛れもなくエルトだが、エルトもまた、その人物に幾度となく助けられてきた。


「━━━━ヴィアレ?」


精霊ではない、精霊のヴィアレが端末と呼んでいた、エルトの助けたヴィアレ。エルトの脳裏に響いた声はたしかにヴィアレのものだった。

「な━━━━これ、は……」

ぱきん、と。凍った水面にひびが入り、其処から薄氷が壊れていくかのように。エルトの動かなかった身体は感覚を取り戻し、苦しさはあれど動かせるようになった。その瞬間をエルトが見逃すはずもなく、だん、と地面を蹴って走り出す。当然、精霊のヴィアレだって黙ってはいない。エルトに向けて直ぐ様その手を伸ばしてくる。

しかし、精霊の掌は突如として作り物のそれのようにひび割れ、瓦解する。

それこそ、本当に“壊れた”と言うべき光景であった。エルトは驚きこそしたが立ち止まりはしない。とにもかくにも此処から出なければ。あの扉が開くか開かないかはわからないが、何事もやってみなければわからない。そう考えたエルトだったが、目を向けた先の扉はどういう訳か既に開いていた。

「此方だ!急げ!」

扉の向こうには、まだ年端もいかない金髪碧眼の少年と、先程イオニスたちと共に逃がしたはずの少年━━━━エミリオがいた。エルトとしては解せない部分だらけだったが、今は構っていられない。転がり込むようにして扉の外に駆け込むと、それに体当たりするようにして玉座の間との繋がりを隔てる。そして金髪の少年を俵担ぎにすると、もう片方の手でエミリオのことを引っ張って、エルトはこれ以上ないくらいの全力疾走でその場を後にした。

6ヶ月前 No.413

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「……な、何とかなった、ね……」

はぁはぁと肩で息をしながら、エミリオはふにゃりとした笑みを浮かべた。エルトたちはとにかく玉座の間から離れようと、かつて食堂として使われていた場所まで走ってきた。エミリオの息が上がっているのは当然のことである。エルトだって疲労感から近くにあった椅子にずるずると寄り掛かっていた。

「……まあ、今のところは……ですがね。あの精霊が追いかけてこないのは幸いでしたが……」
「ええっ、あの人って精霊だったの……!?」
「いかにも。あれこそは、このシャルヴァを創る上で礎となり、今はシャルヴァそのものとなった━━━━って、あなたやけに馴れ馴れしくありませんか?」
「あ、ごめんなさい。なんか切羽詰まってたんで、つい」

てへ、とエミリオはこの場にそぐわない弛さしかない笑顔でエルトに謝罪した。同じ危険を味わうと親近感を覚えてしまう質らしい。王族として生きることを重要視してきたエルトだが、こういった場合はさすがに不敬と断じることは出来ず、溜め息を吐きながら眉間を揉むだけに留めておいた。エミリオに悪気はないのだし、見逃すのが無難だろう。
エミリオのせいで何だかほのぼのしてしまったが、今は場の空気を弛めている場合ではない。エルトは気を取り直してエミリオに向き直る。

「……して、何故あなたが此処に?イオニス殿たちと逃げたのではなかったのですか?」
「うーん、そうだったんだけど、やっぱり王宮を出たくなくて……。ほら、ヴィアレだって捜さなくちゃいけませんし。とにかく、僕としてはこのままにしておきたくなかったんです。だからイオニスさんたちには無理を言って、王宮に残してもらいました」
「そうだったのですか。……まあ、あの方ならやりそうですけどね」

何だかんだ言ってイオニスは他人を縛らない。他人がやりたいと言ったことは平然とやらせるような男だ。それゆえに、エミリオの頼みもすんなり飲んだのだろう。そうでなければ、エルトよりもハルシャフの望みを優先することなどあるまい。まあ、相手が相手なのでエルトも責めようとは思えないが。そもそも、責めたくてももうハルシャフのことは責められない。
とにもかくにも、エミリオの事情はわかった。一先ず無事でいてくれたようなので一安心である。いくら他人であっても、知り合ったからには無事を願わずにはいられない。とりあえずエミリオの方は大丈夫そうなので、エルトは次に金髪碧眼の少年に事情を聞くことにする。彼は先程から一言も発することはなく、憂いを帯びた面持ちでうつむいていた。見れば、少年の体には幾つもの傷が見受けられる。

「……大丈夫、ですか?気分が悪いのなら……」
「……いや、そういう訳じゃないんだ。心配をかけてしまってすまない」
「良いのですよ。どうかお気になさらず。私はエルティリナと申します。畏まる必要はありません、私のことはどうぞお気軽にエルトとお呼びください。して、あなたのお名前は……」

出来るだけ怖がらせないように、と心掛けながらエルトは少年に微笑みかける。だが少年の表情は和らぐことなく、むしろエルトが名乗ったことによってより一層険しくなった。少年はその青い瞳でエルトを見上げながら唇を動かす。

「……俺は、ルタという。エルティリナ━━━━お前は、アーカム王国の生き残りだな?」
「……ええ、いかにも。私はアーカム王国……すなわち、あなたのお父上に滅ぼされた国の王族です。しかし、あなたを憎むつもりはありません。このような状況で、国がどうとは言っていられない。あなたが私に敵さぬ限り、私はあなたに敵対しないと誓いましょう」
「そうか。……それを聞いて安心した。ありがとう」

ルタ、という名前の意味をエルトはきちんと理解していた。ティヴェラ王国の第一王子にして離宮に幽閉されていた存在。彼がエルトを警戒するのは当然であり、またエルトがルタに良からぬ感情を抱くことも当然であった。お互いに敵対していた国の王子同士なのだ。シュルティラに抱いていたものとはまた別の感情を抱かざるを得ない。
しかし、いくら幼い姿をしていても相手は一国の王子であった。彼が何故それほどまでにあどけない姿をしているのかエルトはわからなかったが、少なくとも王子としての度量は自分よりも上に思えた。王族として寛大でありながら、威厳をも併せ持つ者。それがエルトからルタに送る評価であった。

「ふぅ、良かったぁ。二人とも話がわかるみたいで僕も安心したよ。ね、ルタ君。もしかしたら、エルトさんなら僕たちに協力してくれるんじゃないかな?」
「……ルタ君……」
「良い、俺は気にしていない」

にこやかにルタの頭を撫でるエミリオを、エルトは複雑そうな目で見つめる。しかしルタはそれを一蹴してから、撫でられるがままにエルトへと話を続けた。

「エルト。俺は、ヴィアレという者を捜してこの王宮に乗り込んだ。共に潜入した隠密がいたのだが……」
「紫蘭殿、というのでしょう?彼女とならこの王宮でお会いしました。特に大事という訳でもありませんでしたし、近いうちに合流出来るでしょう」
「なるほど、紫蘭と会っていたんだな。……まああの者がちょっとしたことで倒れるようには思えないからな。まずは此方の事情を聞いて欲しい」

どうやらルタも紫蘭という少女のことを十二分に理解しているらしい。やや苦笑したように思えたのはきっと気のせいではないはずだ。しかしその苦笑もすぐに引っ込み、次に視線を向けた瞬間には険しい顔つきに戻っていた。

「俺はルードゥスからの襲撃に遭い、紫蘭とはぐれてしまった。其処でヴィアレを捜すために王宮を回っていたところ、たまたまエステリアと合流したんだ。彼女はまず王に謁見しなければならないと考えていたらしい。俺も父上の動向は気になっていたから、彼女に同行することにした。一人では、何が起こるかわからなかったからな」
「……それで、あなたはあのヴィアレに合ったのですか」
「そうだ。一瞬、一瞬だけ。自分の知るヴィアレが其処にいるのかと思ったが、俺はすぐにその考えを廃したよ。あんな無機質な目をしたヴィアレなど、俺は一度も見たことがない。それに……あのヴィアレは、俺たちと目を合わそうともしなかった」

其処まで言い終えてから、ルタは悲しげに顔を伏せる。彼の気持ちはエルトも痛い程よくわかった。精霊のヴィアレは無機質に過ぎる。自分たちの知っているヴィアレとは瓜二つだが、その在り方は似ても似つかなかった。あれは機構だ。シャルヴァという理想郷を成り立たせるための機構に過ぎない。あの精霊が、人とわかり合うことなど不可能に近いだろう。何せ人に寄り添うことなく存在してきたのだから。
ルタはゆっくりと深呼吸をしてから、再びエルトに向き直った。その表情にはもう憂いは浮かんでいない。

「俺たちとあのヴィアレの戦力差は絶望的だった。其処で、エステリアは俺を逃がして自分だけ残ったんだ。……何とも情けない話だろう?俺は逃げて、逃げて逃げて逃げて、立ち止まったところでエミリオに会ったんだ。ちょうど利害も一致していたし、俺たちは共に行動することにしたという訳だよ」
「うんうん。ルタ君の話も嘘には聞こえなかったし、僕もヴィアレが心配だったからね〜。それで王様の部屋に行ってみたら、エルトさんが大変なことになってるんだもの。精霊だって言うから不安だったけど、一先ず鉄砲は効いたみたいで良かったよ」
「お、お待ちなさいエミリオ。まさか、あなたはあのヴィアレを御したというのですか」

何者かが精霊のヴィアレに攻撃を加えたことはエルトもわかっていた。だが、まさかそれがエミリオだとは思うまい。やや焦った調子でエミリオへと問いかけると、彼はあっけらかんとした様子で「うん、そうだよ……ですよ」とうなずいた。敬語に戻すことにはまだ慣れていないようだ。

「僕も一応護身用に一丁もらってたからね。あんまり使う機会はないかなって思ってたんだけど、けっこう効くものなんだねぇ」
「効くなんてものじゃありませんよ、それは!それは神秘に対する切り札です。使わないなんて選択はないようなものだ!」
「うーん、でも僕が使ってもあんまり効き目がないのは本当ですよ。こういうのはやっぱり本場の人が使ってこそですもん。だからナラカちゃんに渡されたのであって……」

エルトに詰め寄られたエミリオは困ったように眉尻を下げていたが、何かを思い出したのかはっと目を見開いた。そして、慌てた様子でエルトに向かって口を開く。

「そうだ、ナラカちゃん!……エルトさん、この辺りでこれくらいの、小さくて可愛い黒髪の女の子見ませんでしたか!?」
「……ナラカを、知っているのですか」
「あ、エルトさんもナラカちゃんのこと知ってるんですね!僕、さっきナラカちゃんに会ったんですよ!ナラカちゃんってば泣いてたから、何があったのかなって思って……」

エミリオが最後まで言いきる前に、エルトは彼の肩口をがしりと掴んだ。びくり、と震えるエミリオに、エルトは鋭い視線を向ける。

「詳しく話しなさい。あなたがイオニス殿たちと別れてからのことを、具に」

エルトの勢いに、エミリオは明らかに気圧された様子だった。彼が一瞬ルタの方を見ると、ルタは構わないと言うように首を縦に振る。エミリオはそれを確認してから、おもむろにこれまでの経緯を話し始めた。

6ヶ月前 No.414

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6ヶ月前 No.415

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

エミリオに問いかけられたナラカは、恐る恐るといった様子で彼の方を見た。そして両腕で我が身を抱き締めながら、こくり、と小さくうなずく。それを見たエミリオは、ぱっと表情を和らげて「良かったぁ!」と口にした。

「何か王宮にお化けみたいな木偶人形が出てるって聞いてたから、僕心配だったんだよ!いくら鉄砲を持ってたって、ナラカちゃんは女の子だもの。何かあったらいけないよね、うん」
「……そ、そんな、ことは」
「とりあえず、さ。ナラカちゃん、まずは座って話そうよ。立ち話はさすがに無粋でしょ?」

にこやかに話すエミリオを、ナラカは初め警戒心丸出しといった表情で見つめていた。しかしエミリオの素性や人柄を少なからず知っているということもあるのだろう。エミリオの言った通り、彼の隣までちょこちょこと歩いてきて、膝を抱えて腰を下ろした。それを見てから、エミリオも彼女と同様に腰を下ろす。
ヴィアレを捜さなければならないという気持ちはあった。だが、エミリオはこの状態のナラカを放っておこうとは思えなかった。故に彼女と話すことにした。たとえ時間を食うことになっても、話さずに後悔するよりは良い。

「……あの、あなたは確か……」
「あ、僕?僕はエミリオ。前に会った時はばたばたしてて自己紹介とか出来なかったからね。覚えてなくてもしょうがないよ」

どうやらナラカはエミリオの名前を覚えていなかったらしい。申し訳なさそうに顔を伏せるナラカに、エミリオは気にしないでと伝える。他人の名前を覚えることはそう簡単なことではない。商売に携わっているエミリオにはそれがよくわかる。
とりあえず、聞くだけのことは聞かねばならない。エミリオは言葉を選びながら、ナラカに尋ねていく。

「それで、さ。ナラカちゃん、あのでっかい蛇ってどうなったの?ナラカちゃんが無事ってことは、あの蛇は……」
「……はい。サヴィヤさんや、エルトによって倒されました。皆は無事です」
「そっかぁ、それなら一安心だね。ナラカちゃんってばあの蛇に取り込まれちゃってたから、僕心配だったんだよ。無事解決したみたいで本当に良かった」

エミリオは朗らかな笑顔を浮かべてそうナラカに告げたが、ナラカの表情は彼とは対照的に険しいものへと変わった。信じられない、といった顔付きをしてから、彼女はエミリオを睨み付ける。その体は微かに震えていた。

「……無事解決、ですって……?あなた、それは本心から思っているんですか……?」
「……?うん、そうだよ。だってナラカちゃんは生きてるし、蛇ももう出て来ないなら、それで万事━━━━」

万事解決でしょう?と。そう告げようとしたエミリオの胸ぐらを、ナラカは容赦なく掴み上げた。ぐっ、とエミリオの息が詰まる。それに伴って、言おうとしていた言葉も引っ込んでしまった。

「━━━━ふざけないで!!」

そして、ナラカからは悲痛なまでの怒声がかけられる。少女の可愛らしい声は、言葉とは裏腹に不安げな響きを伴って発せられた。

「無事?解決?そんな訳ないでしょう!あなたの目は節穴なんですか!?私の姿が普通に見えますか!?見えないでしょう!?」
「な、ナラカちゃん……?」
「姿だけじゃない!私はあの蛇の中にいた人の望みを叶えてやることさえも出来なかった!私なんかよりも、彼奴の方がよっぽど一途でサヴィヤさんのことを想っていたのに、最後に話させてやることも出来なかったんだ!それなのに無事解決したなんて、そんなこと言える訳がないじゃない!」

エミリオの胸ぐらを掴んでがくがくと揺らしていたナラカだったが、やがて我に返ったのか気まずさげに手を離した。声を荒らげたためか彼女の肩は小さく上下していた。一応申し訳ないという気持ちは起こったのだろう。ナラカは消え入りそうな声で「……すみません」と謝罪の言葉を述べた。

「……そりゃ、周りから見たら無事解決したことになると思います。あなたの言葉が間違ってるなんてことはない。……でも、私は納得がいかなかった。それだけの話です」
「…………」
「……本当にごめんなさい。八つ当たりなんかして……。あなただって大変なのはわかってます。今のことはなかったことにしても良いので……」

どんどん語尾を尻すぼみにしながら、ナラカはそれでは私はこれで、と深く頭を下げてからその場を立ち去ろうとした。もうエミリオと顔を合わせるのが辛くて仕方がなかったのだろう。彼に八つ当たりしても何かが変わる訳ではないということはナラカだってわかっていた。むしろ悪いことをしてしまったという気持ちさえあった。

「待って」

しかし、立ち去ろうとするナラカの腕を、エミリオは咄嗟に掴んだ。びくり、とナラカの体が震える。それを見たエミリオは、慌ててナラカの腕から自らの手を退かして「ご、ごめんねナラカちゃん……!」と後退りした。

「確かナラカちゃん、他人から触られるの嫌だったよね……!?それなのにごめんね、僕ったら二回も……!」
「二回……?…………あ」

そんなこと二回もあったっけ、と考えたらしいナラカは、思い当たる節があったのかはっとしてエミリオを二度見した。エミリオとしてはあまり良い思い出ではないが、もっと嫌な思いをしたのはナラカだと思っているので、甘んじて彼女の視線を受け入れる。
それはエミリオ、そしてナラカが王宮勤めをした初日のことであった。二人は名乗ってこそおらずとも、たまたま食堂で遭遇していたのだ。

(ナラカちゃんは言われるまで気付いてなかったみたいだけど……僕としては忘れたくても忘れられない出来事だからなぁ……)

あの日、友人が出来たエミリオを内心はしゃぎまくっていたのである。それはそれはもうるんるんで、世界が薔薇色に見えていたと言っても過言ではない。そんな中でエミリオはナラカの後ろ姿を見つけてしまったのだ。そして直感的にこう思った。━━━━ああ、あれはきっと可愛い子に違いない、と。
そしてエミリオは鮮やかに玉砕した。ナラカからは凄まじい平手打ちを食らい、そして彼女に最悪な印象を与えたままになってしまった。いくら底抜けに明るいエミリオだからと言って、細かいことだと気にしない訳ではない。この一件に関して、エミリオは悶々と悩み続けた。可愛い女の子に恐怖心を与えてしまうなんて許されない行為だ。このようなことがあってはならないし、エミリオからしてみれば一生残る傷跡である。何とか誤解を解きたかったが、ばたばたしていたこともあり、結局ナラカとはゆっくり話すことが出来なかった。

「あ、あの時はごめんねナラカちゃん……!本当に申し訳ないと思ってるし、可愛いって思ったのも事実だし、今だってナラカちゃんは十分可愛いと思うんだけど……!」
「え、いや、お世辞とかいらないので……。それに、どう見たって今の私が可愛い訳……」
「━━━━可愛いよっっ!!」

普段は気弱なエミリオだが、この時ばかりは大きな声が出た。びくり、とナラカの細い肩が揺れる。それだけエミリオの勢いは凄まじかったのだろう。

「ナラカちゃんは可愛いよ!可愛いに決まってるじゃないか!僕は基本的に見た目とかあんまり気にしないつもりでいるけど、もし気にしてたとしてもナラカちゃんのことは可愛いって思ってるよ!」
「な、何を根拠にそんなことを……」
「だってナラカちゃんは今、“信じたいと思う何かを真っ直ぐに見ている”じゃないか!」

弱々しげに反論しようとしたナラカは、エミリオからそう指摘されて押し黙った。それは必ずしも打ち負かされたということではないのだろう。現に彼女は思い当たる節があったらしく、かあっと顔を赤くさせている。これを好機と捉えたエミリオは、直ぐ様ナラカに畳み掛けた。

「だからね、ナラカちゃん!君が今どんな見た目をしていようと、何を為して何を為せなかったのであろうと、君が可愛いことに変わりはないんだ!だからそんなに怖がらなくて良いし、ナラカちゃんが萎縮する必要なんてない!もしも君を嗤う人がいたのなら、悪いのは十割その人だよ!ナラカちゃんは可愛いんだから!」
「そ、そんなことは……」
「遠慮は良くないよナラカちゃん!もっと君は堂々と胸を張って良いんだ!せっかく立派なものを持ってるんだから……じゃない、君は可愛いんだから!十分すぎるほど可愛いんだから!胸を張って、やりたいことをやれば良い!それで駄目なら周りの頼れる人に頼れば良いよ!いっそ僕とか頭に愚痴っても良い!僕たち全然嫌じゃないから!」

エミリオの言葉は必死そのものだった。ナラカはしばらく呆気に取られた様子でエミリオの言葉を聞いていたが、やがてこくりと小さくうなずいた。やや面食らってはいるようだが、彼の言いたいことを理解したらしい。

「わ……わかり、ました。その……ありがとうございます、エミリオさん」
「お礼なんて良いんだよ。僕は可愛い子の味方だからね。君みたいな子が落ち込んでいたら、放ってなんておけないよ」
「そ、そうですか。それはとても、良い心掛けですね」

エミリオに何と声をかければ良いのかわからないらしいナラカは、目を白黒させながらそのように告げた。何様だよ、と言われてしまいそうだが、生憎エミリオは其処までひねくれてはいない。えへへー、と表情筋を弛めて頭を掻いている辺り、それほど気にしてはいなさそうだった。
どのように別れの言葉を告げていくのが最善なのか、残念ながらナラカにもエミリオにもわからなかった。その場には微妙な空気が流れてしまっていたのだ。……まあ、気まずく思っていたのはナラカだけなのであるが。そのため、二人はなんとなく視線でお互いに訴える。

「……あー……それでは、私は先を急ぎますので……。エミリオさん、道中お気をつけて」
「うん。ナラカちゃんも気を付けてねー」

何処と無く、ナラカの表情は先程よりも晴れているような気がした。それに安心してから、エミリオは再びヴィアレを捜しに歩を進め始めたのだった。

6ヶ月前 No.416

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ナラカと別れたエミリオは、手当たり次第にそれらしい部屋を覗きながらルードゥスの執務室を探していった。お偉いさんの過ごしている辺りには土地勘がないので、一室一室しらみ潰しに探していくしかない。幸い、エミリオの入った部屋の全ては完全にもぬけの殻だったので、誰かに咎められるということはなく進むことが出来た。

(……あの王女様が言ってたことは本当だったんだ……)

使用人たちがいない時点で違和感を覚えてはいたが、官僚までともなると嫌でも確信が持ててしまう。一歩道を間違えれば自分も消されていたかもしれないと思うと、途端に恐ろしく思えてきた。

(……いけない、僕はヴィアレを見つけ出さなくちゃいけないんだ。怖がってなんかいられるもんか)

沸き上がる恐怖心を何とか押さえ付けて、エミリオは歩を進めていく。怖くても、恐ろしくても、何が待ち受けていようとも。エミリオにとって、ヴィアレは何物にも代えがたい存在に他ならない。友人を失うなんて嫌だし、ヴィアレのことを忘れたくもない。そして忘れてしまったグラネットという友人についても知りたい。そんな思いが、エミリオを奮い立たせていた。
しばらく歩いていくと、部屋と部屋の間の間隔が段々と広くなっていった。それだけ所有している者の身分が高いということなのだろう。エミリオは一応幾つかの部屋に入ってみようとしたが、何処も鍵がかかっているらしく入ることが出来ない。

(うーん、どれがルードゥスの部屋なのかはわからないけど……。でも、とにかく何処かの部屋に入ってみないことには始まらないよね……)

エミリオが得ている情報はあまりにも少ない。ヴィアレが何者なのかもまだはっきりとはわかっていないし、ヴィアレが拐われる理由も出来ることなら知りたい。面倒ではあるが、エミリオは一室ずつ鍵が開いていないか確認していった。しばらく外れが続いたが、だからと言ってエミリオが諦める理由にはならない。根気強く挑戦し続けていると、やっと施錠されていない部屋へとたどり着いた。

「あ、やった……!」

開いている部屋があった。それが嬉しかったエミリオは、ろくに確認もせずにその部屋へと足を踏み入れた。
その部屋はあまりにも広く、そして豪奢としか言い様がなかった。何処もかしこもきらびやかで、エミリオは王宮勤めをする前に訪れた貴族の家を思い出した。━━━━いや、前言撤回しよう。貴族の家の比ではない。その部屋にあるもの全てが、触れてはいけないような、見ることすら躊躇うような輝きを放っている。エミリオはこの部屋に安易に足を踏み入れてしまったことを後悔した。しかし、今はヴィアレの一大事である。いちいち躊躇ってなどいられない。

「とりあえず、壊さないように……っと」

うっかりこの部屋にあるものを壊さないように心掛けながら、エミリオは室内を物色する。これほど贅沢の限りを尽くしているのだ。もしかしたらこの部屋はルードゥスのものなのかもしれない。だったら尚更調べる必要がある。
エミリオは戸棚などを調べてから、次は本棚を見て回ることにした。戸棚には目ぼしいものがなかったのだ。入っていたのはどれもこれもきらきらしい装飾品ばかりだった。そういったものを綺麗だとは思うが触れる程エミリオの度胸は据わっていなかったので、そっと見なかったことにした。平民としては心臓に悪いものばかりである。

「ん……何だろう、これ」

そんな中、エミリオは本棚から書物ではない何かを見つけた。それはどうやら額縁のようで、本棚の隅っこに置かれていた。
普通ならば壁にでもかけているのが妥当だというのに、こんなところに置いてあるなんて不自然だ。エミリオは周りの書物を落とさないようにしながら額縁を本棚から抜き取る。多少埃を被っていたので汚れや埃を手で払ってから、エミリオはそれを掲げる。

「……これは……」

額縁には、一枚の絵が嵌め込まれていた。小さめだが、だからこそ腕利きの絵師に依頼したのだろうと思わせるだけの完成度である。其処には家族が描かれていたのだろう。━━━━そうエミリオは憶測した。


その絵には、人の形を型抜いたような、不自然な空白が二つあった。


この絵はどうやらとある家族を描いたものらしい。絵の中には、何かを抱きながら微笑む貴婦人と、やや緊張した面持ちの金髪の少年が描かれている。しかし、貴婦人の隣と彼女の腕の中には、明らかに不自然な空白がある。まるで其処に人がいたが、それだけぽっかりと漂白されたかのような異質さだった。いっそ背景に埋められていたら、エミリオが違和感を覚えることはなかっただろう。

「な……何、これ……」

後から消されたのだろうか。それにしたって漂白の痕などついていないし、これほど綺麗に漂白出来るはずがない。何よりも、それは人間によって為されたものに思えなかった。エミリオが青ざめるのも無理はない。それだけ不気味だった。
そして、エミリオが青ざめた理由はもうひとつ存在する。それはこの絵に描かれ、漂白されていない少年。その容姿が、エミリオのよく知るものだったからだった。


「━━━━ルタ君?」


どういう訳か離宮に押し込められ、そしてライオ・デ・ソル商会を頼ってきたティヴェラ王国の第一王子。すなわちルタが、この絵には描かれていたのだ。それに気づいて何も思わない程エミリオも鈍くはない。確か先代やフィオレッロはこう言っていたはずだ。ティヴェラ王国に生まれた男児は正室の二人だけ、と━━━━。

(じゃあ……此処に描かれてるのは、ティヴェラの王族ってこと……?この女の人に抱えられてるのが、ティヴェラ王国の第二王子……そして、こっちの空白は王様のクルーファ様だって言うの……?)

憶測ならば幾らでも出来る。しかしエミリオはそれをただの憶測と断じられる程冷静ではいられなかった。どうしてクルーファと第二王子の部分だけ消されているのか。その理由はわからないが、何故かおぞましくて仕方がなかった。王族の姿を絵画から消すなんて、何処からどう見ても不敬に当たる。それを見てしまったというだけで、エミリオには底知れぬ恐怖が沸き起こった。
━━━━と、エミリオの後方から、突然がたりと物音がした。あまりに唐突なことだったので、思わずエミリオは「びゃああああっ!?」と情けない悲鳴を上げてしまう。絵をひしっと抱き締めて、エミリオは部屋の隅っこまで高速移動した。


「━━━━待て。怪しい者じゃない。俺だよ、エミリオ」
「…………え……き、君は……」


よいしょ、と言いながら、“それ”は部屋に設けられていた祭壇らしきものの中から出てきた。エミリオは涙でべしょべしょの顔のまま、きょとんとその声の主を見遣る。

「る、ルタ君……なんで此処に……」
「……まあ、色々あってな。それよりも、その絵を見せてくれないか」

ふぅ、と息を吐いてから、その人物━━━━ルタはエミリオの隣まで歩いてくる。先程まで、というか今も彼の描かれた絵を持っているエミリオとしてはなんとなく気まずさのようなものも感じるが、ルタの頼みを無下にすることも出来ないので黙って絵を見せることにする。
ルタはしばらく、エミリオの持っている絵を凝視していた。そして、「……やっぱりか」と苦笑いする。

「や、やっぱりって……?」
「……この絵だ。この絵には俺と父上、母上、そして弟が描かれていたはずだった」
「でも……此処と此処、空白になっちゃってるけど……」
「……そうだ。この空白に、俺の父上と弟がいるはずだったんだ」

ルタは悲しげな表情をしながら、空白の部分をそっとなぞる。その様子を、演技ではないかと疑う程エミリオもひねくれてはいなかった。何とかルタの助けになりたい。そう考えて、彼の肩に手を置く。

「……ねぇ、ルタ君。僕なんかが、君の力になれるかどうかはわからないけど……。でも、話だけでも聞かせてくれないかな。君、何か大変なことに気付いちゃったんだろ?だったら君一人に抱えさせたくなんかない。僕だって君の力になりたいんだ」
「……エミリオ」
「それにね、うん!ルタ君も僕もヴィアレを捜してるだろ?ある程度の情報は共有しておいた方が良いと思ってさ!」

なんとなく気恥ずかしくなって、エミリオはルタから目線を逸らす。ルタの力になりたいのはエミリオの本心から来る気持ちだ。其処には一点の嘘偽りもない。しかし、やはり面と向かって言うのは恥ずかしいのである。
ルタはそんなエミリオを見てきょとんとしていたが、やがてその意図を汲み取ったのか「……わかった」と口にした。そして少しの間沈黙してから、残されたティヴェラの王子は口を開く。


「俺の父上と弟は、この国の礎━━━━空を司る精霊、ヴィアレによって殺された」

6ヶ月前 No.417

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「クルーファとその息子が、あのヴィアレによって殺された━━━━と」


ルタ、そしてエミリオから事の次第を聞いたエルトは、思わず身を乗り出して聞いた言葉を反芻するしか出来なかった。あの空の精霊が王位に就いていること、そしてヴィアレの口から語られたことによって、クルーファが殺されたことは理解していた。しかしその息子が殺されていたことは初耳である。ついでにエミリオが見つけたという絵画に起こった現象も不可解であった。
驚愕するエルトに、ルタは小さく肩を竦める。姿こそ幼いが、その仕草はエルトと同じくらいの年頃と判断しても差し支えない。

「……そうだ。そして、この世界の礎に直接殺められたことで、父上と弟はシャルヴァの全てからその存在を抹消されたのだろう」
「抹消、など。そのようなことが……」
「俺だって信じたくはないさ。だが、起こってしまったことは仕方のないことだ。現に、俺は父上の姿や、弟の名前も忘れてしまった」

ルタは複雑な面持ちで嘆息する。その小さな体に、どれだけの重圧がかかっていることか。想像するだけでエルトは眩暈がするような気分であった。

「しかし……もしそのお話が真実であれば、あなたは父や弟がいたということすら忘れてしまうのではないですか?あの精霊なら余計な取りこぼしはしないと思いますが……」
「それは、まあ……抜け道があったということだろう。まず、父上が殺された後も、精霊のヴィアレは父上を名乗っていた。俺がティヴェラの王族である限り、精霊のヴィアレが名乗る父上の名前を忘れることはないだろう」
「では、弟君の方は」
「……それがな、弟は王宮を追放された後、身分を偽って使用人として働いていたらしい。俺はいわゆる千里眼というものを持っているが、それが少々厄介でな。未来が見えるのではなく、今起こっている出来事を客観的に、上から見下ろすような形で“視る”ことが出来るんだ」

ルタの言う千里眼は王道とも言えよう。現に、エルトの有しているものがそれである。今よりも僅かに進んだ未来を見ることが出来る目。エルトからしてみればこれまでそれを役立ててきた経験より悩まされてきた経験の方が多いのだが、手に入れたからには活用していかなければ損というものだ。しかしやはり慣れないというか、千里眼が弊害を運んでくることも少なくはない。実際に、エルトは悪夢に悩まされ続けてきた。きっとルタにも同じような弊害がもたらされているのだろう。そう考えながら、エルトは無言でルタの話の続きに耳を傾けた。

「これは恐らく、ルードゥス辺りからの嫌がらせだとは思うが……。どういう訳か、俺の千里眼は俺に近しい者の死に引き寄せられてしまうらしい。故に、俺はこの目で弟が殺された場を見てしまった」
「……では、あなたは」
「残念ながら、その時はまだ精霊のヴィアレが父上に扮しているとはわからなかったし、ヴィアレとて其処までは見せてくれなかった。まるで精霊のヴィアレの顔にだけ靄がかかったようだったんだ。だから俺は、父上が弟を殺したものかと思った。……けれど、はっきりそうだとも言えない違和感があったんだ」
「違和感……?」

此処はシャルヴァだ。シャルヴァの礎であり、其処にいるだけで“シャルヴァを体現する”存在のヴィアレにこの理想郷で出来ぬことはないだろう。それに対してルタは違和感を覚えたというのだ。不謹慎なことだとわかってはいても、ついついエルトも身を乗り出してルタに尋ねてしまう。
もしかしたら気分を害されるかもしれないという不安はあったが、ルタは特に表情を変えることはなかった。姿形は幼くとも、内面的な意味では王子として成熟しているのだろう。未だに自分は未熟だという自覚のあるエルトとしては己のことが恥ずかしく思えてくる。

「驚かないで聞いて欲しい。俺は弟の首が飛ばされた次の瞬間に、弟の名前を忘れてしまったんだ」
「な━━━━それ、は」
「……まあ、後から考えればわかることではあった。このシャルヴァの理に直接消されれば、その存在は跡形もなく消えてなくなるだろう。あれほど愛していた弟の名前は、今も思い出せない」
「しかし……ならば何故、あなたは弟が殺害されたことを知っているのです?精霊のヴィアレによって殺されたのならば、弟という存在すら抹消されてしまうのでは?」

クルーファは精霊のヴィアレに殺められたものの、ヴィアレ自身がクルーファを名乗っていたことから存在までは抹消されなかった。だが、今の話を聞く限り、ルタの弟は殺されてからその存在ごと消えてしまったことになる。現に、エミリオが見せてくれた絵画が良い例だ。クルーファとルタの弟がいたはずの場所は、不自然な程に漂白されている。そしてルタは弟の名前すらも思い出せない。それなのに、彼は弟という存在を認識しているのだ。もしもエルトが精霊のヴィアレと同じような立場であれば、そもそも弟がいたという事実をも消すはずである。
エルトの疑問に、ルタは答えなかった。そっと目を伏せた彼の代わりに口を開いたのは、今まで沈黙を貫いていたエミリオだった。

「……ルタ君の弟さんは、本当の名前の他に、もうひとつ名乗っていた名前があったらしいんです。精霊のヴィアレは弟さんのことを皆が忘れちゃった名前の人間として殺したから、もうひとつの名前の方はシャルヴァから消されなかったみたいで……。だから、辛うじて弟がいたってことはわかるんじゃないでしょうか」
「もうひとつの、名前……?」
「……はい。グラネット……っていうらしいんですけど……。エルトさんは、聞いたことありますか?」

グラネット。その名前はエルトも聞いたことがあった。特に関わったことのある人物、という訳ではない。ただ文官たちの噂話に挙がったくらいのものである。しかし、気を張っていたエルトとしては聞き逃せない話題だった。

「確か、玉座の間に侵入しようとして捕まったとかいう、あの……」
「……彼奴は、そのようなことをしていたのか。……いや、すまない。とにかく、あの精霊は強敵だ。それゆえに、俺なんぞを逃がしたエステリアが無事と聞いて安心した。いくら歴戦の勇士たる彼女と言えど、精霊相手では劣勢にならざるを得ないだろう」

グラネットという人間の情報を聞いたルタは、少しだけ表情を曇らせた。━━━━が、次の瞬間にはすぐに王族としての威厳に溢れた顔付きに戻っている。エルトからしてみれば、それを見ただけで負けたような気分になってしまう。エミリオはルタとは対照的に洟を鳴らしていたが、人前ということもあってどうにか涙は溢さないように努力していた。そのいじらしさにはエルトも心が痛む。

「……とりあえず、あの精霊の為そうとしていることは止めなければならないと俺は思う。このままではシャルヴァの民全てが犠牲になってしまうからな。記憶を改竄されて生きるなど、自分の名前を背負って動かされる操り人形のようなものだ。必ず阻止しなくては」
「しかし、あの精霊に立ち向かえる術があるのですか?たしかに精霊のヴィアレには文明の利器が効果的なようですが、それにも限度というものがありましょう。現に、私はあの精霊に動きを封じられて攻撃のひとつも出来やしなかった。このままでは、一か八かの大博打になってしまいますよ」
「……そうだな。まずは作戦を練らなければならないか……」

精霊のヴィアレを相手取って勝てる見込みはお世辞にも多いとは言えない。それはこの場にいる誰しもが理解していることだった。どうやらエミリオの持っている鉄砲のような文明の利器は精霊のヴィアレにも通ずるようだが、弾薬が尽きてしまえば一巻の終わりである。文明の利器はいざという時のための切り札として使用するべきだろう。

(……だとすれば、有効なのはアーカムの至宝辺りか……?)

かつて精霊のヴィアレを射止めたという弓。すなわちアーカムの至宝であれば、あの精霊にも立ち向かえるのではないか。そうエルトは考えた。このアーカムの至宝たる弓は、時間差こそあれどニラヤにも効いていた。ならばこの弓を引けさえすれば、あのヴィアレにも攻撃が出来るかもしれない━━━━。


『━━━━否』


それは、あまりにも唐突な出来事であった。一同の脳裏に、この中の誰でもない者の声が響き渡った。その声の主を、エルトもルタもエミリオも知っている。

「ヴィアレ……!」
『……エルティリナよ。我を打倒しようなど実に嘆かわしい。我はシャルヴァである。我がシャルヴァである限り、シャルヴァの民はこれを覆せぬ。貴様らがこのシャルヴァを転覆させようと謀るならば、我が先手を打つまでのこと』
「……っ、どういうことだ」

姿が見えず、声も抑揚すらない精霊のヴィアレに、一同は表情を険しくさせる。一体この精霊は何処まで見通しているのだろうか。それを見極めることは、この中の誰にも出来なかった。精霊のヴィアレは隔てなく、そして無慈悲にこの王宮━━━━否、シャルヴァにいる全ての者に告げる。


『これより━━━━我はシャルヴァを再編し、真の理想郷を創り上げる』

6ヶ月前 No.418

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【第75幕:精霊は再編の始まりを告げる】

エルトが精霊のヴィアレによってその動きを封じられていた頃、そのようなことに陥っているとは露程も知らないアリックたちはナラカの捜索に勤しんでいた。特にスメルトは普段のやる気のなさをかなぐり捨て、目を皿のようにして辺りをくまなく見回している。それだけ、彼にとってナラカという少女の存在は大きなものなのだろう。

「むぅ、此処にもいないか。彼奴は小さいから捜すのは難しいな」

どういう訳か花瓶の中を探しながら、紫蘭は溜め息を吐く。そのようなところを捜したって誰もいませんよ、とアリックは声をかけようとしたが、肩に乗っかっている餅蜥蜴にぺちぺちと頬を尻尾で叩かれてやめておいた。この不思議な生き物は、時に人間のようにアリックたちをたしなめることがある。正直なところ、アリックはこの餅蜥蜴がどのような生き物なのかよくわからない。ナラカにくっついている餅のような蜥蜴……という扱いである。しかしわからずとも傍にいる生き物なので、なんとなくそういう生き物なのだと割りきれるようになってしまった。ぶっちゃけルードゥスの話もよくわからなかったので、それくらいの扱いがちょうど良いのではないかと思う。
そんな餅蜥蜴もナラカのことを見つけ出したいらしく、アリックの肩の上からきょろきょろとつぶらな瞳を目まぐるしく動かしている。ルードゥスの言っていた通り、忠誠心を体現した生き物だからだろうか。時にアリックの頬を尻尾で叩いては、彼処を捜せとでも言うように催促してくることもある。

「……まあ、この王宮は広大ですからね。すぐに見つかるということはないでしょう。ナラカ殿も王宮の造りはわかっておられるはず。行き違いにさえなっていなければ、合流することも出来るかもしれません」
「行き違いになっていたらどうするのだ?」
「君、そういう不穏なこと言うのやめてくれないかな?」

何とかアリックは前向きに考えようとしたが、相変わらず紫蘭は空気を読んでくれない。しかし此処で珍しくスメルトが彼女をたしなめた。……尤も、スメルトに関してはお前が言うなと言われそうな雰囲気ではあるのだが。

「と、とにかくですよ。ナラカ殿をお一人になんて出来ません。何が何でも見つけ出しましょう!」

気を取り直すようにごほん、と咳払いをしてから、アリックは意気込んで其処にあった曲がり角を曲がる。きっとこの先、ナラカを見つけ出せるものだと信じて。


━━━━アリックたちからは死角となる場所。其処に、聳え立つ嶺がごとき大男が立っていた。


ひゅっ、とアリックの喉が鳴る。これまで様々な人間を━━━━━シャルヴァに来てからは人ならざる者も相手取ってきたアリックではあったが、“彼”には一瞬だけ怯えを覚えざるを得なかった。紫蘭とスメルトも、きっと個人差はあれど似たような反応をしたことだろう。それだけの威圧感と武人としての風格を持ち合わせた人物だったのである。
しかしいつまでも圧倒されてばかりではいられない。アリックはすぅ、と息を吸って自分を落ち着かせる。そして、平静を装いながらその人物に問いかける。

「……何の用ですか、ラビス殿」
「…………」

アリックの見据えた先にいる羅刹の男━━━━すなわちラビスは、むすっとした顔で彼女を見下ろしていた。アリックも女性にしては背の高い方だが、さすがにラビスには敵わない。第一体の造形から違っている気がする。
ラビスは何も言わないままだった。しかしアリックたちとしては彼に無言を貫かれるのは非常に困る。何せ、彼女たちはラビスが今俵担ぎにしている者に用があるのだから。

ラビスの小脇には、顔面蒼白のナラカが抱えられていた。

その時のスメルトの殺気と言ったら、まさに筆舌に尽くしがたかった。それこそ眼光だけで羽虫を殺せそうな勢いである。この中の誰もが、スメルトの顔を直視してはいけないと感じ取ったに違いない。…………いや、妙に肝っ玉の据わっている者もいるので、全員ではないかもしれないが。
とりあえず、どういった経緯でナラカとラビスが出会ったのかはわからないが、ナラカを返してもらわなければならないことは明白である。そうでないとナラカが倒れてしまいそうだし、スメルトが暴れ出すのも時間の問題だ。話し合いにしたって紫蘭が何を言い出すかわからないのが恐ろしい。アリックは様々な葛藤の末に、ナラカを見てからラビスに微笑んだ。勿論、営業用の笑顔である。

「……ラビス殿。言うまでもないこととは思っておりますが、ナラカ殿は私たちの同行者です。彼女を助けていただいたことには心より感謝しています。ですから、ナラカ殿を此方に引き渡してはいただけないでしょうか」
「うわぁ、凄い顔」

アリックとて顔面の筋肉を総動員したつもりである。しかし、波のように押し寄せてくる焦燥感には抗えなかったらしい。スメルトに後ろでぼそっと呟かれてしまった。それこそ彼にだけは言われたくなかったが、此処は我慢するしかない。アリックは奥歯を噛み締めながら、ラビスを見つめ続けた。
しばらく睨み合いを続けていたアリックとラビスだったが、やがて勝敗は決まった。先に根を上げたのはラビスの方で、気まずさげに視線を逸らしながらナラカを床へと降ろす。

「……あー、なンつーかよ。オレだッて、さすがに王宮の人間を妄りに殺しはしねェよ。たまたま其処の廊下を通りかかッたら、ばッたりこいつと会ッてな。とりあえず話し合いの末、オレが此処まで運ンできたッつー訳だよ」
「…………それは真ですか?」
「当たり前に決まッてンだろ、なァ?ほら、手前からも何か言えよ」

何処までも疑り深いアリックに業を煮やしたのか、じろ、とラビスがナラカを横目で見遣る。ナラカはびく、と小さく体を震わせてから、こくこくと首を縦に振った。

「そ、そうです。私が歩いていたら、前方からこの人がやって来て……。それで、此処まで連れてきていただいたんです……」
「本当に?言わされてるのなら無理はしないで良いんだよ、ナラカ。……それにさ、ラビスとか言ったっけ?君、あの反乱軍に捕らえられてたんじゃなかったの?僕、君が猿轡噛まされてぐるぐる巻きにされてたの見たよ?君は彼処からどうやって脱け出したの?」
「……あ、たしかに」

震え声のナラカを自分の後ろに隠すようにしてから、スメルトは凄みを湛えた笑顔でラビスへと捲し立てる。それはもう、のんびりしている印象の強いスメルトでも矢継ぎ早、という表現が似合うくらいの勢いであった。その傍では、紫蘭が過去の光景を思い出すかのようにうんうんとうなずいている。アリックとしては余計な真似はやめろ、と一発飛び蹴りでも入れてやりたいところである。
スメルトからの詰問に、ラビスはぐっと顔を歪めた。彼としても思い出したくないことなのだろう。アリックはその現場を見てはいないが、スメルトの口振りからそれはそれは凄まじい光景だったのだろうと推測した。ちなみに想像するだけの余裕は幸いアリックにはなかった。いくら因縁のある相手だからといって、生憎脳内でまで辱しめる気概をアリックは持ち合わせていない。

「……ンなの、“彼奴らがオレを逃がした”からに決まッてるじゃねェか。何でも、捕らえたままでも特にすることがねェから何処へでも行け、だとよ。あの長髪野郎、次にオレを侮辱したらブッ飛ばしてやる」
「と、とりあえず……貴殿は此方に危害を加える気はない、ということですね?」
「おうよ。手前も其処の混血も面倒臭ェッてのに、その上隠密まで付いていやがる。特に其処のチビ助には昔ぼこぼこにされたからな。認めたくねェが、敵に回しちゃいけねェ。それに今のオレが手前らに敵対したところで、オレやお兄様に利はねェだろ?」
「…………紫蘭さん…………」

やれやれ、とでも言いたげな様子で、ラビスは首を横に振った。その話を聞いたナラカは信じられない、といった様子で紫蘭を見ている。これには普段空気を読む様子が皆無の紫蘭も、わざとらしく視線を逸らしていた。

「あー、その……だな。私はただ、模擬試合で相手を殺しそうな勢いの羅刹を止めろと言われただけでな。決して、決してその鼻っ柱を折ってやろうと、完膚なきまでに叩きのめした訳ではないぞ?私は君子だからな」
「……君子とは……」
「私はっ、君子だからなっ!!」

つい煽り文句が飛び出てしまったアリックを、自称君子こと紫蘭は猛禽類がごとき目で睨み付けた。本当に君子とは一体何なのかと考えさせられる。少なくとも君子は拳で解決しようとはしないと思う。アリックも人のことを言える立ち位置ではないが。

「ねぇ、とにかくナラカは見つかったんだし、揉めてる場合じゃなくない?僕たちも行動方針を決めなくちゃ。そうじゃないと共倒れになっちゃうよ」

ひょこっ、と二人の間に入ってえもいわれぬ威圧感をかもし出しながら牽制したのはスメルトであった。ナラカが見つかったので一安心したのだろう。スメルトにしてはいつになく冷静である。

「……そうですね。では、まずは場所を移動しましょうか。立ち話は無粋ですし」

アリックも紫蘭もスメルトにたしなめられて気恥ずかしくなったのだろう。お互いに目を逸らしながらその意見に賛同した。この人たち変なところで似てるなぁ、とナラカがつくづく思ったのは、彼女だけの秘密である。

6ヶ月前 No.419

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

一先ず皆の座れそうな長椅子のあるところまで移動した一行は、今後の方針について定めることにした。何も決めぬままでは動こうにも動けない。

「……とりあえず、エルトたちは玉座の間に向かった……ということで良いんですね?」

アリックや紫蘭から事の成り行きを聞いたナラカは、神妙な表情で彼女らにそう尋ねた。彼女とてニラヤから精霊のヴィアレのことを聞いているので、不安を覚えない訳にはいかないのだろう。その表情には若干の翳りが見える。

「そうだな。彼奴らの目的はティヴェラの制圧だ。……まあ、あの王子は随分と戦争を嫌っているようだったから、なるべく穏便に済ませたいのだろうが……」
「おいおい、じゃあ陛下はどうするンだよ!?このままじゃ……」
「お待ちくださいラビス殿。驚かれるかもしれませんが、今の国王陛下は国王陛下ではないのです」
「は!?」

アリックは出来るだけ混乱を抑えようとしたようだが、彼女の思惑とは裏腹にラビスはあからさまに驚いた様子を見せた。何せ話が唐突な上に大きすぎるのである。そりゃあ無理もないかという周りからの同情の視線が否めない。

「へ、陛下が陛下でないッてどういうことなンだよ!?」
「いや、私の方も人づてに聞いただけなのですが……。どうやらクルーファという王は既に殺されていて、その王位にはかつてシャルヴァの礎に封ぜられた精霊が就いているらしいのです」
「精霊ッ!?」

がたん、と長椅子が揺れる勢いでラビスが立ち上がる。あまりの勢いにナラカは「ひっ」とか細い悲鳴を上げた。
ナラカに対する前科はありにあるラビスではあるが、さすがに武人として切り替えは出来る質なのであろう。気まずそうに「……あー……」と頭を掻いてから、すごすごと長椅子に座り直した。

「……とりあえず、陛下……クルーファ様はもう亡くなられていて、その名前を騙ッて古代の精霊が王位に就いている……ッつーことで良いンだな?」
「はい。私たちとしても確証の持てることではありません。しかし、あのアドルファス殿でさえもそうおっしゃっておられたのです。最初から疑ってかかるべき案件ではないかと」
「……ふうン。宰相殿が、ねェ……」

ラビスはまだ状況を上手く掴むことが出来ていないようだったが、アリックの口からアドルファスの名前が出た途端急におとなしくなった……ように思えた。いつも乱暴(に見える)ラビスが此処まで落ち着くなんて珍しい。一同は揃って目をぱちくりとさせた。

「……宰相殿に関して、何か気になることでもあるのか?」
「ン、なンつーかな。お兄様が宰相殿のお体を運んできたンだよ。あの宰相殿が亡くなるなんてただ事じゃあねェ。馬鹿なオレでも、これは可笑しいッてことはわかる」

いくら傍若無人なラビスでも、アドルファスのことは上司として仰いでいたのだろう。いつも会ったときには赤いことが多い彼の目だが、この日ばかりはそうではなかった。ラビスもこの状況を少なからず危惧している。それは彼と敵対したことのある者でもよくわかった。

「宰相殿以外にも、何か変なことがあッたンだろ?じゃなきゃ、そいつの肌が“そンな風になる”はずがねェ」
「…………」

ラビスからの指摘に押し黙ったのはナラカであった。ラビスとて悪気はないのだろう。むしろ案じているからこその指摘とも言える。しかしナラカからしてみれば、ラビスの指摘は負の感情しか引き起こさないものである。彼女の表情が一気に沈んだところを見逃した者は誰もいなかった。
なんとなく後ろ向きな雰囲気になってしまったが、ふとラビスが何かを思い付いたようにその顔を上げた。そして、ナラカの方を向いてその双眸を見つめる。

「なァ、その痣みてーなのを治す方法を探さねェか?」
「この痣を……?!
「おう。何つッたッて此処はシャルヴァ、すなわち理想郷だぜ?オレは此処で20年間生まれ育ッてきたけどよ、でけェ病なんかにはかからなかッたし風邪だッてすぐに治ッちまッた。だからよ、その黒い痣を治す方法もないことはないはずだぜ」
「それは妙案だな!貴様の矮小な脳味噌もたまには役立つではないか!」
「手前、もしかしてもしかしなくてもオレのこと馬鹿にしてンだろ!」

ラビスの提案自体は筋の通った良いものであったが、それに次ぐ紫蘭の言葉が最悪であった。これはもう一言多い少ないの問題ではない。彼女にそのつもりはないのだろうが、これに対して怒ることなく相槌を打てる人間がいたのならきっと聖人にでもなっていることだろう。
気を取り直して、ラビスの意見にはアリックもスメルトも賛同の意を示した。ナラカの容姿で二人がどうこう思うということはほとんどないに等しいが、何よりもナラカがこのどす黒い痣を気にしているように見える。先程よりは多少落ち着いたようだが、それでも吹っ切れたところまではいかない。アリックたちとしても、ナラカの痣は取り除いてやりたい。それらはナラカが持つべくして持っているものではないのだから。

「よし、ではナラカ殿の痣を全て消し去る方法を見つけましょう!ティヴェラの王がいないのならば、反乱軍に何をさせても我々の責任にはなりません。ついでに私やナラカ殿はティヴェラ王国に家臣として仕えている訳ではありませんし、少しくらい自由にしたって問題はないでしょう。それに、私としてはぶっちゃけティヴェラよりも友の方が大事ですからね!」
「……君たち、本当に他人の逆鱗すれすれで生きてるよね。こうもお気楽なのが恐ろしくなってきちゃうよ」

はぁ、と溜め息を吐きながらも、スメルトはナラカの痣を取り除くことに関しては全面的に同意であった。そうでなければラビスが提案した時点で立ち上がって彼に殴りかかっていても可笑しくはない。ナラカという少女は、スメルトにとってそれだけ大切な存在ということなのだろう。

「……皆さんにご迷惑をかけてしまって、申し訳ありません。私などのために……」

そしてナラカはというと、申し訳なさげに頭を下げようとしていた。しかしそれを見逃す一同ではない。特に紫蘭は直ぐ様彼女に手を伸ばした。下がろうとしていたナラカの頬をぐいっと押し上げて、紫蘭は口を開く。

「何故謝るのだ、ナラカ!これは私たちがしたくてやろうと決めたこと!貴様を憐れんでのことではない!」
「ひゅ、ひゅうらんはん……」
「ナラカよ、君子を目指すのならば、君子ならば胸を張れ!貴様は多少自分に素直に━━━━いや、素直ではあったか。とにかく、もう少し貴様は前向きになれ!貴様のことを好ましく思っている人間は割りといるのだぞ!其処の羅刹はともかく、あのシュルティラだかサヴィヤだかいう男は明らかに貴様のことをす━━━━」
「と、とりあえず!皆ナラカ殿のことを好ましく思っているということです!ですからナラカ殿はもっと自信をお持ちください!そして紫蘭殿は口を慎みなさい!」

またしても爆弾発言を投下しようとした紫蘭の口を無理矢理に押さえながら、アリックはナラカに向けて強引に笑みを浮かべた。心配しなくとも良い、と彼女に言い聞かせるかのように。アリックの言葉を、ナラカもある程度理解したのだろう。少し表情を和らげてから、何か告げようと口を動かし━━━━。


『━━━━否』


ナラカが言葉を紡ぐよりも先に、一同の脳裏に響く声があった。その声を聞いたことのある者は、決して少なくはないだろう。しかしそれはこの場の何処からか聞こえてくる、というものではない。まるで直接脳裏に語りかけられているかのような感覚であった。

『……エルティリナよ。我を打倒しようなど実に嘆かわしい。我はシャルヴァである。我がシャルヴァである限り、シャルヴァの民はこれを覆せぬ。貴様らがこのシャルヴァを転覆させようと謀るならば、我が先手を打つまでのこと』
「……ヴィアレ殿、ヴィアレ殿なのですか!?貴殿はあのアーカムの王子と、何を話しているのです……!?」

その声━━━━すなわち精霊のヴィアレはエルトと話しているらしく、彼の本名を口にした。まだ精霊のヴィアレと邂逅したことのないアリックは、自分の知るヴィアレという若者を思い浮かべながら声に向かって問いかける。だが、精霊のヴィアレはアリックのことなど意に介した様子もなく、彼女の問いかけに答えることはなかった。


『これより━━━━我はシャルヴァを再編し、真の理想郷を創り上げる』


シャルヴァに住まう、全ての民への宣告。それだけを機械的に告げると、ぷつん、と糸が切れたように精霊のヴィアレの声は聞こえなくなった。

6ヶ月前 No.420

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6ヶ月前 No.421

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

「そもそも、シャルヴァの再編というのは文字通りの再編だ。あの精霊はこのシャルヴァという世界全てを一から創り直そうとしている」

場が落ち着いたところで、サヴィヤは淡々と本題に入った。ちなみに、彼は座らずとも良いと遠慮していたが、ナラカがどうしてもと頼み込んだ結果折れてくれた。そのため、長椅子はかなりぎゅうぎゅう詰めの状態である。ぶっちゃけ苦しい者も少なくはないだろう。

「シャルヴァを創り直す……とは、具体的にはどういうことなのでしょうか?」
「何、簡単なことだ。このシャルヴァを創りたての頃に戻す。それに伴って、シャルヴァの民たちの“気”を抜き取り、シャルヴァに順応させるまで調整する。……言ってしまえば、一度魂を抜き取ってその人物の内面を都合良く作り替えるようなものだな」
「……と、言うと」
「ああ。シャルヴァの民は一度殺される」

さらりと、危機感の欠片もなくサヴィヤは言ってのけた。あまりにもあっさりとした口調で告げられた一同は、しばらくの間ぽかんとしているしかなかった。━━━━精霊のヴィアレの手によって、シャルヴァの民は一度殺される。シャルヴァを創り直すための犠牲となる。それを短時間で受け入れられるはずなどある訳がなかった。

「じゃ、じゃあ……。私たち、このままこうしていたら死んじゃうんですか……?」

恐る恐る、といった様子で口を開いたのはナラカだった。サヴィヤが隣に座ってくれて先程まで心なしか嬉しそうにしていた彼女だったが、今では顔面蒼白である。サヴィヤを見上げるその瞳も、潤んでいるように見える。
そんなナラカを、サヴィヤは数秒間無言で見つめた。そしてぱちぱち、と瞬きをしてから答える。

「うん、死ぬな」

その答えがナラカの耳に入るや否や、彼女は凄まじい勢いで立ち上がってまさに疾風のごとき速さで走り出そうとした。しかしそれを見逃す一同ではない。「待て待て待て待て!」と叫びながら紫蘭がナラカを取り押さえにかかった。さすがのナラカも隠密の速度を振り切れるはずもなく、紫蘭にがっちりと羽交い締めにされる形となった。

「おい、何処へ行こうというのだナラカ!まだ逃げるべき時ではなかろう!」
「こ、こんなの逃げるに決まってるじゃないですか!死ぬんですよ!?シャルヴァにいるってだけで死ぬんですよ!?そんな理不尽受け入れられる訳ないでしょ!私帰ります!地上に帰ります!」
「落ち着けナラカ。残念だがこの王宮は完全に空の精霊の手中にある。地上に出ることはおろか、王宮から出ることも出来ないだろう」
「スメルトさん!スメルトさん!壁壊して!扉が開かないのなら穴を空けて出口を作ってしまえば良いだけのこと!」
「駄目ですね、多分ナラカ殿は動転していらっしゃいます。こうなると恐らく止めることは難しいかと……」
「……手前よォ、こいつの味方じゃなかッたのかよ……」

殺されるのならばなにがなんでもシャルヴァから出なければならない、とナラカは考えたのだろう。紫蘭に取り押さえられながらも必死にじたばたと暴れている。これには紫蘭ですらも割りと苦戦しているようで、ナラカの本気具合が窺える。そんな彼女たちをアリックは何処か他人事のように分析し、ラビスから呆れられていた。
暴れるナラカと紫蘭をしばらくぼんやりと見つめていたサヴィヤだったが、やがておもむろに立ち上がって二人のところまで歩いていった。そして、胸元から何かを取り出すとそれをナラカに見せる。

「ナラカ。お前が動揺するのは道理だ。しかしまだ死ぬと決まった訳ではない。まずはこれでも見て落ち着いて欲しい」
「え……?」

ナラカはぽかんとして、目の前に差し出されたものに視線を向ける。周りにいた面々も、何だろうという気持ちから此方を見た。

サヴィヤが取り出したのは、ナラカがニラヤの瘴気の中でしたためた辞世の句であった。

それをどのようにしてサヴィヤが手に入れたのかはナラカ自身にもわからない。そして、それを見てサヴィヤがどのような感慨を抱いたのかもわからない。ただひとつ言えることは、ナラカが時間稼ぎをするために即興でしたためた歌をサヴィヤに━━━━加えて、この場にいる全員に見られたということだけだった。
ナラカは、ぴたりと暴れるのをやめた。自分の書いた辞世の句を一瞥してから、彼女はふぅ、と息を吐く。その薄い唇から、次いで紡ぎ出された言の葉は━━━━。


「私を埋めてください」
「早まるなナラカーっ!!」


この世の全てを悟ったかのような表情で告げたナラカに、彼女を羽交い締めにしていた紫蘭がその数倍の声で叫んだ。ナラカはもう暴れるつもりはないようだったが、あり得ないくらい顔をしわくちゃにして唇を噛んでいた。

「このシャルヴァが終わるのも嫌だけど、自作の歌を見られるのはもっと嫌、というか精神的に死んでしまいます……!お願いですからその包帯は燃やしてください、そして私のことはどうか地下深くに埋めてくださいぃ……!」
「ナラカ、シャルヴァは既に地下だが」
「サヴィヤ殿!話がややこしくなりますから、貴殿はしばらくお静かに!私が良いと言うまで口を閉じていてください!」

きっとサヴィヤに悪気は微塵もないのだろう。しかし、彼が言葉を紡ぎ出す度に事態はどんどんややこしくなっていく。此処はまずサヴィヤに黙ってもらうしかない。彼がシュルティラであることは二の次だ。恐らく黙れと言われて激怒するような相手ではないだろうとアリックは予想して、サヴィヤにはしばらく黙っておくようにと釘を刺した。
さて、ナラカの方には既にスメルトが向かってくれていた。いつもにこにこして何を考えているかよくわからない彼にしては珍しく、わかりやすく焦った表情をしている。

「な、ナラカ。とりあえず落ち着こうよ、ね?たしかに僕たち、その包帯を見ちゃったけど……でも、中身まで深く理解する暇なんてなかったよ。ましてや僕なんて詩歌のしの字もかすらないような生活してきたし……。だから、そんなに落ち込むことないと思うよ」
「……見られたのなら、内容など理解していなくともそれだけで致命傷だと思うのですが」
「そんなことはありません!私も紫蘭殿もスメルト殿もラビス殿も、芸術とは縁遠い人生を送って参りました!それゆえに、例の物を見てもふーん、何か書いてあるなーくらいの感慨しか抱きません!そうでしょう、皆さん!」

そう早口で告げてから、がばっ、とアリックは一同を見渡す。ラビスに至っては何でオレが、と言いたげな顔をしていたが、紫蘭とスメルトが凄まじい殺気を振り撒きながら「お前もうなずけ」と目で訴えていたので、彼らと同じように首を縦に振っていた。まさに凄絶の一言が似合う空気である。

「わかりました、わかりましたから!私も少し取り乱してました!ですから私の歌に関する話はもうやめましょう!?サヴィヤさんももう喋って良いから!」

そんな空気に業を煮やしたのか、ついにナラカが折れた。このままでは収拾がつかなくなると察してしまったのだろう。地味に空気が読めるのもなかなかに辛い。
さて、ナラカからもう喋って良いと許可を出してもらったサヴィヤはというと、彼なりに言葉を選ぼうとしているのかしばらく口をもごもごとさせていた。そして、先程よりは躊躇いのある様子で唇を開く。

「……実は、だな。俺たち……すなわち、この王宮にいる者はまだ死なない……と、思う」
「おいおい、何だよそのパッとしねェ感じはよォ。死なねェのかそうでねェのかはッきりしやがれ」
「……今のところは、死なないだろう。だが、だからと言ってずっと王宮に留まっている訳にもいかない。これは、王宮が後回しにされているに過ぎないのだから」
「後回し……って……」

何かを察したのか、ナラカがさっと顔色を変える。サヴィヤはその蒼穹の瞳を伏せながら、憂いを帯びた声音で語る。


「シャルヴァの再編は、この王宮の外━━━━すなわち、ティヴェラの王宮を除いたシャルヴァ全域で進行している」

6ヶ月前 No.422

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6ヶ月前 No.423

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6ヶ月前 No.424

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所変わって、ライオ・デ・ソル商会の商館。王都は全体的にばたばたとしていたが、この商館も例外ではなかった。

「解せんある!全く以て解せんある!どーして瑞英たちが他の民たちに順番を譲らなければいけねーある!」

その中でも、一際憤慨しているのが瑞英であった。憤怒の形相でがじがじと爪を噛んでいる瑞英からは並々ならぬ焦燥感と苛立ちがかもし出されている。周りの人間のほとんどが瑞英から目を背ける始末だ。目を合わせたら矛先が向かってきそうで怖いのだろう。誰しも考えることは同じである。

「しゃーないやろぉ。こっちは一国の王女サマ預かっとる身なんやで?先行して何かあったら堪らへんやん」
「一国の……って、アーカム王国はもう滅んだ国ある!今存在してるみてーな言い方は止した方がよろし!」
「あーあー、亡国で悪かったわねぇ!」

鬼のような形相と剣幕の瑞英に、キラナはほぼやけくそになって怒鳴り返した。エルトたち反乱軍の前では威厳を見せ付けるために飾り立てていた彼女だったが、今ではすっかり化粧も落として楽な服装に着替えている。彼女も一応王族のはずなのだが、此処数年間を寝巻き同然の姿で過ごしてきたからか抵抗はないらしい。今も座布団を敷いた長椅子にだらしなく横になっている状態だ。ちゃっかり片手で菓子を摘まんでいる辺り素人目にもかなり馴染んでいるように見える。

「か、勘違いしないでよね!あたしだって好きでティヴェラに連れてこられた訳じゃないんだから!ティヴェラが襲ってくるって聞いてアーカムの離宮に閉じこもってひたすらに震えてたらいきなり部屋がぶち破られた時のこと、あんたたちは考えたこともないでしょう!あたしだってこう見えてそこそこ苦労して━━━━あ、このお菓子美味しい。何て言うの、これ?」
「ああ、それは確かトゥロン…………って阿呆、そないにもぐもぐされながら話されても説得力皆無やわ!」
「生きるためには形振りなんて構っちゃいられないのよ!ちょっとくらいの図太さも可愛げがあるってものでしょう!?━━━━あ、これも美味しいわね。イスパニアってもしかしてあたしの舌と超仲良しなのかも」

初めこそフィオレッロに照れていたキラナであったが、付き合っていくうちにだいぶと慣れてきたらしい。目の前で寝そべりながら菓子を食べられるくらいには打ち解けてきたようだ。フィオレッロは特に気にしていないようだが、瑞英は物凄い表情でキラナを見ている。男か女かわかりにくい瑞英はキラナの守備範囲ではなかったようだ。

「……とりあえず、ある程度の奴等が無事に避難したら瑞英たちも外界に行くあるよ。嫌なくらい予想が当たって吃驚ある。まさか精霊自らの手でシャルヴァを創り直すとは思ってもいなかったある」
「まあ、何が起こるかわからへんのが人生やからなぁ。俺は別に外界やろうとシャルヴァやろうと構へんよ。……それよりも王女サマ、あんたは抵抗ないんか?アーカムっちゅーたらシャルヴァを創った第一人者やろ。俺らといっしょに来て良かったんか?」

やれやれある、と肩を竦める瑞英に苦笑してから、フィオレッロはキラナの方へと向き直る。いくら神経が図太かろうと、キラナは生粋のシャルヴァ生まれだ。外界は穢れた場所だという教育を施されていても可笑しくはない。そんな境遇の人間が外界に赴くとなれば、少なからず不安を抱くものであろう。
フィオレッロからの気遣いに、キラナは「……あー、そういう奴ね」と菓子を頬張りながらわかりきったような顔をした。口の中のものを全て飲み込んでから、キラナは口を開く。

「不安っちゃ不安だけど、今更怖いとか言ってられないでしょ。端的に言えば、生きるか死ぬかなんだからさ。あたしは死にたくないから外界に行く。……まあ、ぶっちゃけ怖いって気持ちはあるけどね。ずーっと外界は穢れた場所だって教えられてきた訳だし」
「……王女サマ」
「そりゃ怖いに決まってるでしょ?寝物語で聞かされてきたこともあるけど、何よりも外界から帰ってきたエルティリナを見ちゃったのよ?真っ白な肌で、いつも朗らかに笑ってた可愛い弟があんなに浅黒い肌になって、険しい顔をしてるなんて思いも寄らないじゃない。外界はエルティリナを変えてしまう程恐ろしい場所なんじゃないかって、嫌でも想像してしまうじゃない」

先程キラナの止めた反乱軍の頭領。その名前がエルティリナということは、フィオレッロも瑞英も把握している。何でも、キラナとは異母姉弟の関係らしい。
アーカム王国にいる時も離宮に引きこもっていることの多かったキラナだが、他の王族と関わりがない訳ではなかった。それゆえに、嫌々参加した会合や王族での食事でエルトと顔を合わせることも度々あった。末っ子ということもあってか、人付き合いを避けてきたキラナもエルトのことは可愛がっていた。それゆえに、彼の豹変ぶりには驚かざるを得なかったのだ。

「あんな風になるのは正直に言って嫌だし、出来ることならずっとシャルヴァにいたいに決まってるじゃない。でも、生死を問われたら間違いなくあたしは生きることを選ぶ。それだけの話よ」
「……意外と割り切ってるあるね。もう一人の弟━━━━シュルティラの方は、どうするつもりあるか?」
「……シュルティラ、ねぇ……」

シュルティラという名前を出された途端、キラナの表情がわかりやすく翳った。しかしそれは忌避から来るものではなく、シュルティラという弟を案じているかのような色を帯びていた。

「まあ心配っちゃ心配だけど、あいつには好きなようにやらせるのが一番だと思うのよ。いつもより変にやる気があるみたいだし、目標みたいなのを定めてるっぽいからあたしは口出ししないことにしてるわ」
「目標?何やそれ」
「あたしだってよくわからないわよ。でもシュルティラの奴、やけに張り切っていたの。何でも、ナラカとかいう王宮の使用人を絶対に生かすとか何とか言って……」

キラナが全てを言い終える前に、商館の奥からがたがたと何かが崩れるような音が聞こえてきた。どうやら奥の部屋にも誰かがいるらしい。この中の誰かが反応する前に、ひょっこりと奥の部屋から顔を出す人物があった。

「悪い、驚かせたか?」
「あ…………」
「……やっちまったあるな」

フィオレッロはあんぐりと口を開き、瑞英は諦めの混じった表情で語る。顔を出した人物は初めこそ二人が何を言っているのかわからないという顔をしていたものの、後から自分の過ちに気付いたようだった。“彼”がはっとして口を押さえた時にはもう遅い。


ライオ・デ・ソル商会の商館中に、キラナの悲鳴が響き渡った。


その時のキラナの行動と言ったら凄絶の一言に尽きた。寝そべっていた長椅子から跳ねるようにして飛び起きると、そのままどたばた室内を走り回った。そして、偶然別の部屋からやって来たミリアムの背中に全速力で隠れた。

「ななななな、何で此処に羅刹がいるのよぉっ!?」
「え、ちょ、どうしたん!?頭、何があったんや!?」
「あー……。やっぱり、いきなり顔合わせるんは得策やなかったみたいやな……。アロイス、とりあえずお前はそこら辺座っとけ。王女サマは俺らで説得したるさかい」
「……怖がられたまま座っとけって、お前なかなかきついこと言うのな……」

ひたすらに怖がられていることに若干傷付いたらしい羅刹の青年━━━━アロイスは、フィオレッロからの指示に表情を引き攣らせる。そんな傷心のアロイスに対して、フィオレッロは悪いなぁ、と舌を出してあまりにも簡素な謝罪を述べたのであった。

6ヶ月前 No.425

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6ヶ月前 No.426

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6ヶ月前 No.427

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サヴィヤの様子は至って変わりなかった。取り乱すことも、かといって変に警戒している訳でもない。彼はひたすらに自然体だったのだ。自然体のまま、サヴィヤは精霊のヴィアレと対峙した。空色の瞳と、真紅の瞳がかち合った。

「……ヴィアレ。お前は、何を望んでいる?」

何も話そうとしない精霊のヴィアレに、サヴィヤは単刀直入に問いかける。こてん、と首をかしげながら、それこそ純粋な疑問だけを精霊のヴィアレにぶつけた。
その瞬間の精霊のヴィアレと言ったら、まるで鬼神か夜叉のごとき表情をしていた。美しすぎる顏に浮かぶ負の感情とは、此処まで恐ろしいものを生み出すのか、と。此処に普通の、平々凡々な人間がいたらそのように思ったに違いない。そして、きっと精霊のヴィアレから目線を逸らして、背中に走る寒気と必死に戦っていただろう。

「……我に望みなどない。我はシャルヴァそのものである。それが欲望など持って良いものか」
「さあ、それを決めるのは俺ではないよ。ヴィアレ、お前がシャルヴァならばお前の自由にすれば良かろう。お前がしたいようにし、好ましいものを庇護し、憎ましきものを排除するが良い」
「……輪廻の忌み子よ。貴様はどう足掻こうと人に過ぎぬな。……我はシャルヴァという世界である。世界は欲望なぞ持たぬ。世界とは、ただ“そう在れと言われたように在る”のみである。己が感情のみで動くのは王に過ぎぬ。王は人間で十分であり、そして我は王で在れとは命じられておらぬ」

精霊のヴィアレの視線は、明らかな敵意に満ち溢れていた。たしかに、この精霊の口振りからすれば、輪廻の忌み子たるシュルティラを同類と見なすことはないだろう。精霊のヴィアレはアーカムの祖を心の底から崇拝しているようにも見える。シュルティラは太古よりアーカムの祖と敵対している。精霊のヴィアレが警戒するのも無理はない。
だが、シュルティラであるサヴィヤ自身はしれっとした顔をしたままだった。どれだけ警戒心を抱かれても、どれだけ睨み付けられても、表情ひとつ変わらない。泰然自若として、精霊のヴィアレのことを見上げている。そしてそのまま、彼はその薄い唇を開いた。

「……では問おう。空の精霊よ、お前はあの男に命じられてこのシャルヴァを再編せんとしているのか?シャルヴァを再編せよと、アーカムの祖より命じられたのか?」
「……これは我の、我自身の意思である。我はあのまま、ただの“気”となって消え果てたくはなかった。それゆえに我はこのような端末を造り続けたのだ。いつか来るシャルヴァの危機に、いち早く反応出来るように……とな」
「ほう、ではお前は今、アーカムの祖の目を盗んで自分勝手に行動しているのだな。てっきりお前はアーカムの祖を慕っているのかと思っていたが、俺の見当違いだったようだ。本当にすまないことをした」

恐らくサヴィヤに悪気はないのだろう。しかし精霊のヴィアレからしてみれば、彼の口振りは自分を侮辱しているように聞こえても可笑しくはなかった。赫と精霊のヴィアレの瞳が見開かれたかと思うと、次の瞬間には轟、と熱風が吹き付けていた。

「……あまり図に乗るでないぞ、輪廻の忌み子。貴様とて我の力は知っておるはず。今の我は火と風、二つの精霊を“気”へと変え、その権能を我が物とした。……此処まで言えば貴様とて理解するはずである。貴様は我には勝てぬ。“貴様がシャルヴァの民である限り”、我への勝利は不可能也!」

手を一振りしただけで火柱を出現させた精霊のヴィアレは、哄笑しながらサヴィヤのことを見下ろした。牽制のつもりだったのだろう。精霊のヴィアレが出現させた火柱はサヴィヤのいる場所からすれすれのところで消えた。しかしサヴィヤは眉根を動かすこともなく、精霊のヴィアレから目を離さない。

「……では、“シャルヴァの民でなければ”、お前にも敵うということか?空の精霊」
「戯けたことを。貴様の立てた粗末な作戦など我にはお見通しだ。いくら貴様が“アーカムの王子として得た五大”を捨てようとも、シャルヴァに生まれた事実は変わらぬ。貴様がシュルティラである限り、シャルヴァに生まれぬ道理にはならぬよ。シュルティラという名の忌み子は、シャルヴァが生んだのだからな」
「……なるほど。たしかに、その理屈は理に敵っているな」

勝ち誇ったように笑む精霊のヴィアレに、サヴィヤは馬鹿正直に納得するような素振りを見せた。精霊のヴィアレは、そんなサヴィヤを見下ろしながらふん、と鼻で笑う。

「貴様が人間性を捨てたところで、我に敵う理由にはならぬ。我はシャルヴァであり、シャルヴァは我である。貴様程度の悪足掻きでどうにかなるものか」
「そうなのか、勉強になった。俺ではお前を倒せないのだな」
「何度も言わせるな。貴様は……否、このシャルヴァの民たちは決して我に逆らえぬ。言うなればそうさな━━━━我に逆らった時点で、貴様の命運は既に尽きたようなものだ」

精霊のヴィアレがその言葉を言い終えて寸暇も惜しむ暇もなく、サヴィヤの立っていた場所に向かって幾つもの鎌鼬が飛んで来る。これはサヴィヤも予期していたのか、軽やかに身を翻してかわした。しかし、鎌鼬は止めどなくサヴィヤを狙って放たれ続ける。

「諦めよ、輪廻の忌み子。いつまでも逃げてなどいられまい。貴様は新たなシャルヴァ、完璧なる理想郷には不要。シャルヴァを再編した暁には、貴様の存在ごと消し去ってやろう」
「……そのようなことが出来るのか?俺の輪廻はアーカム王家を根絶させない限り続くものだと聞いていたが」
「あの月神の子など、この我に御せぬ相手ではない。我の“気”によって顕現するとは思わなんだが、あれはいずれ鎮圧されるべき災禍と予想はついておった。あれが“気”となった今、貴様にかけられた呪詛を解くことなど容易い。せいぜい遺言のひとつやふたつでも考えておれば良かろう」

そう言っている間にも、サヴィヤには次々と鎌鼬や床からせり上がる炎が襲い掛かる。それらをサヴィヤは慣れた様子で避けていった。精霊のヴィアレ相手では“識之目”が通じにくいとは言っていたが、全く効かないという訳ではないらしい。
全ての攻撃を避けに避け続けて、サヴィヤはすとん、と着地する。そして真っ直ぐ精霊のヴィアレを見据えたまま、ふっと口角を上げた。

「では、貴様に散らされる前にひとつ言っておこうか、“ヴィアレ”。━━━━お前は、感情など捨ててはいないな?」
「━━━━っ!?」

それは、サヴィヤの何気ない問いかけに過ぎなかった。これまでの問いかけと同じように、あまり抑揚のない、淡々とした口調でサヴィヤは言葉を紡いだ。
だが、これに対して精霊のヴィアレはわかりやすく動揺した様子を見せた。それはそれは素人目に見てもよくわかる程度に。

「ば━━━━馬鹿を言うな。我はシャルヴァの礎。それに感情など必要あろうか、いやあるはずがない。そのようなものを有しておれば、不利益しか被らぬ。それがわからぬ程我も蒙昧ではない」
「ふむ……しかし、それはどうだろうな?先程からお前は怒り、笑い、そして取り乱している。其処に感情がないと言えるだろうか?感情なしに其処まで多彩な表情を作ることが出来るだろうか?……なぁ、空の精霊よ。お前の苦悩は全くわからんが、お前がこのシャルヴァとして在り続けてきた間、ずっと虚勢を張り続けてきたことはわかるよ。そうでなければそのような顔で俺を見はすまい」
「な……何を、言って━━━━」

ひたり。精霊のヴィアレは、自身の頬にその手で触れる。今の自分がどのような表情をしているのか、など。精霊のヴィアレにわかるはずもなかった。わかるはずがなかった。自分の顔なんて、見えるはずがないのだから。
精霊のヴィアレが気を取られていた瞬間を、サヴィヤは見逃さなかった。たん、と床を蹴ったかと思うと、そのまま精霊のヴィアレのところまで一直線に“飛んできた”。精霊のヴィアレが気付いた頃には、その体はサヴィヤによってがっしりと掴まれている。

「な━━━━!?」
「捕まえてしまえば此方のものだ、空の精霊。お前がシャルヴァで在る限り、我等の計画を阻止することは出来ない」
「ふ、ざけた真似を……!貴様など、この場で殺して━━━━ッ!?」

殺してやろうか、と。そう言おうとして、精霊のヴィアレの体は大きく跳ね上がった。久し振りに感じたそれは、世間一般的には痛みと呼ばれるものだった。ずきりずきりと、精霊のヴィアレの胸元が痛む。━━━━だがそれは、精霊のヴィアレ自身が受けた痛みではない。

「貴様、一体何を……!?」
「……お前自身が言ったことだろう。自分はシャルヴァなのだと。シャルヴァであるが故に、シャルヴァの民は自分には敵わないのだと。ならば、それは“シャルヴァの民でなければお前を打ち倒せる”ことになる」
「な━━━━そのような、ことが」

あるはずがない。あるはずがなかった。しかしサヴィヤは微笑んでいる。精霊のヴィアレに触れていることで、彼はその体から“気”を抜き取られているというのに。苦しいはずなのに、耐え難い痛みに襲われているはずなのに、それでもサヴィヤは笑っている。それだけ、彼は確信しているのだ。━━━━あの者なら勝てる、と信じられる相手がいるのだ。
サヴィヤが目を向ける先には、誰もいない。少なくとも、精霊のヴィアレには何も見えなかった。見える訳がなかった。


意識をなくした端末のヴィアレ。その体に、何者かによって異物が叩き込まれた。

6ヶ月前 No.428

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【第77幕:精霊の残せしもの】

「━━━━ヴィアレはね、ああ見えて強がりさんなんだ」

四半時もかかっていない、それこそほんの少し時間を遡った程度の頃のこと。サヴィヤたちの前に現れたテララは、ゆるりとした調子でそう話し始めた。本当に何の脈絡もなく、である。そのため、一同は思わず首を傾げざるを得なかった。

「……?何だよ、藪から棒に。どうせならその精霊とやらの弱点でも教えてくれよ」

その中で真っ先に疑問を口にしたのはラビスであった。肉弾戦での真っ向勝負を得手とする彼らしい。たしかにラビス以外でも、精霊のヴィアレの性格だとか人となり━━━━もとい精霊となりを知るくらいなら弱点を教えて欲しいと思った者は少なからずいた。良くも悪くも血気盛んな面子が集まっているものだ。
テララはそんなラビスにくすりと笑んでから、何だよ、と食って掛かろうとした彼の鼻の頭にちょんと触れた。それだけで、不思議なことにラビスの動きはぴたりと封じられる。

「君の……いや、君たちの気持ちもわからなくはないけれどね?でも、正攻法でヴィアレを倒すなんて夢のまた夢さ。此処は少しぐらいズルをしたって誰も責めやしないよ。上手くいかなければ、このシャルヴァの民たちが全て殺されてしまうようなものなのだからね」
「むぅ、勝てば官軍、という奴だな?君子的には納得がいかないが、まあ仕方あるまい。……して、地の精霊よ。貴様は如何様にして空の精霊の懐に入る算段だ?」

悪びれる様子もなく口にしてのけたテララに、話を聞いていた紫蘭は渋い顔をした。君子を自称する彼女としては、正々堂々と戦いたいところなのだろう。しかし精霊の話ともなると、さすがの紫蘭でも無闇矢鱈に反論は出来ないらしい。

「そうだねぇ。言ってしまえば、ヴィアレは礎となったことで幾つかの不利益を被ったのさ。あの子はそんな素振りを見せることはないし、むしろ礎となったことで無敵になったかのように振る舞っているけれど……。でも、その実かなり辛いはずだよ。あの子は周りに見せようとしないだけで、途方もない苦しみに苛まれているはずなんだ」
「……その不利益とは、どのようなものなのでしょうか」
「うーん、精霊の僕が言うよりも、これは君が言うべきなんじゃないかなぁ?君だってわかっているんだろう?いつまでも黙っているのは良くないよ」

紳士的とは言え、やはり戦いに身を置いてきたが故なのだろう。その翡翠色の目を爛々とさせながら、アリックはテララに詰め寄った。海賊育ちとは恐ろしい。アリックの生まれは良いはずなのだが、今までの所業のせいで育ちの良さがだいぶと打ち消されているような気がする。
だがテララも永きを生きてきた精霊である。アリックに詰め寄られても顔色を変えず、視線をサヴィヤへと移した。いきなり話を振られたサヴィヤはきょとんとしていたが、すぐに流れを掴んだのかテララからその役を請け負った。

「……あなた程ではないが、俺も空の精霊に関しては一応の知識を持ち合わせている。要するにあの精霊は、“無理にシャルヴァという世界の理になろうとしている”ということだろう?」
「世界の理に……?それってどういうこと?」
「言葉にするのはそこそこ難しいが……。言ってしまえば、あの精霊は虚勢を張っているのだ。自分がシャルヴァとして機能するために、あたかも世界の理のような真似をしている」
「その通り。だから僕は、ヴィアレが強がりだと言ったのさ。たかだか精霊の体で彼処までやろうとするなんて、気が遠くなりそうだよ。それだけの無茶を、ヴィアレはしているってことさ」

サヴィヤに舵を取らせておきながら、ちゃっかり美味しいところを持っていく辺り、テララも強かである。サヴィヤが複雑そうな顔をするのも無理はない。そんな彼にぱちんと片目を瞑ってから、テララは「良いよ、続けて」と先を促した。

「……ともあれ、あの精霊はそのままの状態ではとてもではないがシャルヴァという世界の理には程遠かった。それゆえに、空の精霊は自分が持っていた機能を作り替えた。かつて持っていたものを手放して、奴は礎に必要な権能を手に入れた。……まあ、言うなれば等価交換というものだな」
「……それは」
「精霊も人も持っているもの。生きる上で必要不可欠なもの。それを空の精霊は手放した。あの精霊は、自分の意思でシャルヴァ礎になろうとしたのだ」

サヴィヤは憐れむように目を伏せる。たった一人の人間に認めてもらいたいと足掻いた、かの精霊への憐憫。それは決して口には出されなかったが、この場の誰しもが感じ取る程度にはわかりやすかった。


「精霊のヴィアレは、五感のうち三つを喪っている」


五感。それは精霊でなくとも━━━━いや、生物ならば大抵が持ち合わせているものである。それらがなくては生きていくことも儘ならず、生物として立つことも困難になる。ひとつでも欠けて良いものではなく、然れど皆喪うまでそのありがたみに気付くことが難しい。そんな代物を、あの精霊は三つも喪っているのだとサヴィヤは口にした。一同が絶句するのも致し方なかった。

「……それは、真か」
「俺が今此処で偽りを述べようと、何の利もなかろうよ。これは紛れもない事実だ。奴を一目見た時に気付ける程、それはそれはわかりやすかったとも」
「より正確に言うと、視覚、嗅覚、味覚の三つだね。まあ、精霊は食事を必要としないから、このうち二つはあってもなくても同じようなものなんだろうけれど」

テララはさらりと言ってくれるが、此処にいる面々は精霊ではない。精霊に近い精神性を有する者はいるのだろうが、少なくとも肉体的には人間……のはずである。五感は全て揃ってこそのものだ。

「それじゃあ、その精霊は目が見えないってこと?」
「全く見えない、って訳ではないけれどね。言っただろう?ヴィアレは五感のうち三つを喪った代わりに、シャルヴァを支えるだけの権能を手に入れたって。詰まるところ、ヴィアレも完全に見えない訳じゃないんだよ。ほら、ヴィアレはすなわちシャルヴァだろう?だから、“シャルヴァとして”周りを見ることが出来るんだよ」
「シャルヴァとして……?」

テララの言葉に、これまで黙って話を聞いていたナラカは思わずおうむ返しになって首を傾げた。精霊のヴィアレが五感の幾つかを喪っていることはわかった。しかし、“シャルヴァとして周りを見ている”なんて言われても納得いくはずがない。此方は生きるか死ぬかで精一杯だというのに。
そんなナラカを見て、サヴィヤは「その気持ちはわからなくもない」と無表情なまま同意の言葉を連ねた。せめてもう少し表情を変化させて欲しいところだが、今はそうも言っていられない。

「言い方は雑になってしまうが、このシャルヴァ全てが空の精霊の瞳であり、体のようなものなんだ。だから理想郷を求めてやって来た民たち、そしてシャルヴァで生まれた民たち全ての行動が空の精霊には見えている。言うなれば、奴は監視機構のような働きをしている」
「だが、奴にナラカの姿は見えないのだろう?それを駆使して空の精霊を倒す方法があると言ったのは貴様だぞ、地の精霊。いい加減前置きにも飽きた。早く本題に入らんか」
「ありゃ、見透かされちゃってたか。僕も歳をとったなぁ」

じろり、と紫蘭から睨まれたテララは、何処か他人事のように苦笑いした。本当に忘れていたのか、それとも意図的に論点をずらそうとしていたのか。それは考えるだけ無駄というものである。

「とりあえず、ナラカ。君はヴィアレからその姿を視認されない唯一の存在だ。けれど、それはあくまでも“シャルヴァとしてのヴィアレ”から。ヴィアレの前に立てば、君の声は聞こえるだろうし、触れたら即効で気付かれるよ。ヴィアレだって、聴覚と触覚は残しているのだからね」
「……それは、わかっています。最初から最後まで精霊を騙しきれるとは思っていません」
「ふふ、それなら良いんだ。君は聡い子のようだし、何たってシュルティラが認めるくらいだもの。上手くやってくれるとは思っているよ。……それで、だ。ナラカ、単刀直入に言うけど、君は胸元に大層なものを持っているね?」
「…………えっ」

にこにこと、テララは微笑んだままだった。しかしその言葉はナラカや、その周りの面々にとって見過ごせぬものに違いなかった。絶句するナラカの周りを、直ぐ様アリックや紫蘭、そしてスメルトが取り囲む。ナラカの胸元に隠れていた餅蜥蜴も出てきてしまう始末だ。ラビスはやれやれとでも言いたげな表情をしたまま、ちらとサヴィヤを横目で見てからテララに声をかける。

「おいおい、精霊サマよォ……。いくら長生きしてたッて、それはないンじゃねェ?オレが他人のこと言えた義理じゃァねェけどよ」
「……?皆何か誤解をしているようだけど、多分君たちが想像しているものと僕の言っていることは全然違うと思うよ?だからシュルティラもそんな怖い顔をしないの。僕が言いたいのは、ナラカがあの月神の子から渡されたものについてだよ。……多分、今はあの生き物の口の中にあるだろうけど」
「……え、それって」

ナラカが目をぱちくりとさせている間に、餅蜥蜴は“それ”をぺっと吐き出していた。どうやらずっと口の中に入れていたらしい。

「きっ、貴様今何を吐いた!?この生き物は病になることがあるのか!?」
「落ち着きなさい紫蘭殿!餅蜥蜴は確か何でも食べるはずです、どうせ吐いたと言っても食事の吐き戻しとかで━━━━なんですかこれはっ!?」
「……とりあえず、二人とも落ち着け。それは決して有毒なものではない」

ぎゃんぎゃんと騒ぐアリックと紫蘭を、まるで暴れ馬でも落ち着かせるかのようにサヴィヤは宥めた。いくらナラカでもサヴィヤからこのように見られたくはない、と深く心に刻んだ。何せ彼は暴れる動物に苦労しながらもそれを慈しむような目をして二人を見ている。本人に悪気がなさそうなのがまた辛い。
とにもかくにも、餅蜥蜴の吐き出したものを確認しない訳にはいかない。ナラカはしゃがみこむと、床に落ちたそれを拾い上げた。

「……これは」

それは、ナラカにも見覚えがあるものだった。ニラヤの生前の記憶の中で見たもの。きっとニラヤが死するその瞬間まで持っていたはずのもの。


(━━━━どうして、“これ”が私のところに)


戦地に赴くサヴィヤに、ニラヤが祈りを込めて手渡した首飾り。かつて真白かったそれは赤黒く血に染まって其処に在った。

6ヶ月前 No.429

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ナラカが拾い上げたものが何たるか、きっとサヴィヤもわかっていたのだろう。それに目を向けた瞬間に、その二つの青空が大きく見開かれたのをナラカは見逃さなかった。あれだけ無表情でいることが多いサヴィヤが驚愕を表に出したのだ。彼からしてみても、驚くべきことだったのだろう。そう思うと、ナラカはやはりニラヤには勝てない、と痛感する。恐らく、自分はサヴィヤにあのような表情をさせられない。
しかしいつまでもしんみりしてはいられない。ナラカの後ろから、ひょこりとテララが首飾りを覗き込んでいた。いきなり美しすぎる顔が至近距離に来て、ナラカは飛び上がりそうになってしまう。

「へぇ、あの月神の子、こんなものを持っていたんだね。……いや、こればかりはあの子の骨と遺品を大事にしていたアーカムの祖に脱帽すべきかな?何はともあれ、それがあるならヴィアレを相手にしても立ち回れそうだね。良かった良かった」
「待ってください、これってそんなにすごいものなんですか?たしかに太古のものなら、何かすごいご利益とかありそうですけど……」
「ご利益なんてものじゃないよ。これは、シュルティラの人間性がこれでもかとばかりに詰め込まれている代物だ。……そうだろう、シュルティラ?」

問いながら、テララはおもむろにサヴィヤへと振り返る。サヴィヤはぱちぱちと何度か瞬きしてから、こくりとうなずいた。

「……如何にも。その首飾りにはかつて“ただのサヴィヤ”であった俺の流した血と、今世の……すなわち“アーカムの王子として生まれた”俺の五大が内包されている。それひとつで、一人分の命を賄えるだろう」
「に、人間性って……。じゃあ、今のサヴィヤさんは……」
「ああ。紛うことなき“輪廻の忌み子”に他ならぬ。今の俺が抱えている五大は全て“シュルティラとしてのもの”だ。もうアーカム王家に伝わる炎は使えんよ」
「……そんな」

サヴィヤはしれっと言ってくれるが、ナラカとしては愕然とするしかなかった。ナラカは五大についてまだ曖昧な知識しか持ち合わせていない。だが、少なくともサヴィヤの五大は、彼がアーカム王家の者として生まれた証であるとナラカもわかっていた。サヴィヤは喜んでいたはずだ。初めて弟が出来たのだと。それなのに、彼はアーカム王家の者としての五大を手放してしまった。きっと、その五大はニラヤとの戦闘で手放したのだろう。少なからず関わっていた者として、ずしりとナラカの心にのし掛かるものがあった。
罪悪感でいっぱいになっているナラカを、サヴィヤはしばらく無言で見下ろしていた。アリックをはじめとする周りの面々は、何も言おうとしなかった。此処でナラカに言葉をかけるのはあまりにも無粋と判断したのだろう。いくら武辺物であったって、場の空気を読めない程ではない。

「まあまあ、ナラカ。そんなに落ち込む必要はないよ。いくら人間性を捨てたからと言って、シュルティラの命にまで影響することはないからね。今はまず、ヴィアレのことを考えようじゃないか」
「……そうですね。ごめんなさい、一人で落ち込んだりして」

そんなナラカの肩をぽん、と軽く叩いたのはテララだった。相変わらず微笑みを浮かべたまま穏やかに声をかけているが、其処には何とも言いがたい冷たさがある。いくら優しくとも、人間を好ましく思っていようとも、テララは人間ではない。テララは精霊なのだ。どれだけ人に寄り添おうとしても、その気持ちを理解することは出来ないのだろう。だから何処か他人事のような口振りになる。それをわかっていて人間と距離を取っていたニーラムの方が、まだ人間への理解があるというものだ。
ナラカの答えに、テララはにっこりと微笑む。話を再開して良い、とナラカが言ったのだと解釈したのだろう。

「とりあえず、ヴィアレに勘づかれずに近付くことが出来るのは今のところナラカだけだ。そのナラカには、この首飾りを持ってあることをやってもらおうと思う」
「あること……?」
「ほら、君も知っているだろう?ヴィアレには“気”を貯めておくための端末……すなわち、君たちがこれまでヴィアレと呼んでいた端末がある。あれから“気”を抜き取ったことで、ヴィアレはシャルヴァの再編に確信を持った。そして今もヴィアレは端末を傍に置いている……。つまり、この端末をどうにかしてしまえば、ヴィアレに大打撃を与えることが出来るってことだ」

微笑みながらテララは言うが、ナラカとしては不安を覚えざるを得ない。端末、というのはナラカたちの知るヴィアレのことだ。やや距離感が近くてはじめこそ鬱陶しがっていたナラカだが、少なくとも今は大切な友人だと思っている仲である。精霊のヴィアレの目論見は止めなくてはならないと思う。精霊のヴィアレを倒すために知り合いの━━━━詰まるところ端末のヴィアレを犠牲にしろとでも言われたら、と思うとナラカはいてもたってもいられなかった。
不安げなナラカの顔つきを見て、テララは「大丈夫だよ」と笑んだ。綺麗すぎて、逆に此方が不安になるような笑顔だった。

「君たちの知り合いのヴィアレが死ぬことはない、と思う。やってみなくちゃわからないことではあるけれど……。でも、今の端末は“気”を完全に抜き取られたがらんどうの状態だ。其処にこの首飾りを叩き込めば、一か八か意識を取り戻すと思う」
「……それは、危険ではないのか?君子でなくともわかるぞ。それは大博打に他ならない。失敗したらどうするつもりだ?」
「うーん、心配する気持ちもわかるけどね。でも、今はああだこうだ言っていられない状況なんだよ。これくらいしか方法がないんだ。……君からも何か言ったらどうだい、シュルティラ」
「……そうだな。他に打開策がないか“視て”みたが、突破口はひとつしかない。成功しても失敗してもこれしかないのだ。ならば俺の人間性がヴィアレに馴染むことを祈るしかないだろう」

不穏な空気を孕む作戦内容に、思わず紫蘭は顔をしかめる。しかしサヴィヤから諭されて、不満げながらも承諾した様子を見せた。これしかないのならば、多少は妥協しなければならないだろうと判断したようだ。

「……とりあえず、ナラカ殿が我々の知るヴィアレ殿を生き返らせる……ということなのですね。たしかに危険であることは否めませんが、これも致し方のないことでしょう。何よりも大切なのは人命ですから。このアリック、微力ながら貴殿たちの手伝いをさせていただきたく思います」
「ン、オレは例の精霊とやらをぶッ倒せるなら何でもいーぜ。陛下を殺すなんざ、不敬通り越して大逆罪だからなァ。ティヴェラに仕える武人として、見過ごす訳にゃあいかねェよ」
「僕はナラカが行くなら付いていくよ?ナラカ一人を危険な目に遭わせる訳にはいかないからね」
「皆さん……」

アリックをはじめとして、次々と同意の声が上がる。此処まで自分を案じてくれている、または共に行くと言ってくれる者がいることに、ナラカは感動のあまり泣きそうだった。傍らではサヴィヤが優しい表情で此方を見ている。まるで春の日の暖かな日差しのような眼差しであった。

(……たしかに、ちょっと怖いけど……。でも、皆が付いてくれている。皆が皆そうじゃないかもしれないけど、私だからと信じてくれているんだ。だったら、私もやらなくちゃ)

ナラカは決して精霊のヴィアレに勝利する自信がある訳ではない。むしろ精霊などという存在に立ち向かうこと自体が恐ろしくて堪らない。出来ることなら逃げてしまいたい、という気持ちは今も燻り続けている。
それでも、それでもだ。ナラカにだって守りたいものはある。奪われてはいけないと思うものがある。精霊のヴィアレが成そうとしていることは、理不尽な虐殺とそう変わりない。詰まるところ其処に苦痛が含まれるか含まれないか、という問題である。たしかに苦痛なき死は誰もが望むものなのだろうが、死はどう足掻こうと死に他ならない。死を望まぬ者がその命を第三者によって奪われようとしているのなら、それを看過してはいけないとナラカは思う。

「……行きましょう。あの精霊の目論見は止められなくてはならないものだ。私に出来ることであれば、喜んで━━━━」

喜んで協力致しましょう、と。ナラカが言おうとした瞬間に、つん、とその唇にひんやりとした指が当てられた。見れば、ナラカの真っ正面で常磐色の麗人が微笑んでいる。


「期待していたのなら申し訳ないけれど……。ナラカ、君はシュルティラと二人でヴィアレに挑むんだ。その他の人たちには悪いけど他のことをしてもらうよ」
「「「「「はぁ!!!!!?????」」」」」


打ち合わせでもしていたのかと思う程に、サヴィヤとテララを除くその場の面々の声が見事に重なった。誰も彼もが信じられない、といった様子でテララを見ていた。

「…………」

驚愕に満ち溢れる空間の中で、サヴィヤは小さく肩を竦める。しかしその表情は、何処か楽しげなようにも見えた。━━━━尤も、それを知る者はほとんどいないようなものだったが。

6ヶ月前 No.430

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5ヶ月前 No.431

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

誰かから殺意や敵意を向けられたことがないと言うと嘘になる。しかし、これほどまでに純粋なものは初めてだった。それゆえに、ナラカは蛇に睨まれた蛙の如く、その場から動けなくなってしまった。

「……貴様の姿、しかとこの目で見たぞ。嗚呼、我に見えぬものがあるとはな。加えてこの理想郷にそぐわぬ人間がいたとは、何とも嘆かわしいことである」

一歩一歩、精霊のヴィアレはナラカのもとへと近付いてくる。ナラカの後ろでは、サヴィヤが譫言のように此処から逃げろ、逃げろと呟き続けていた。ヴィアレの意識が戻る気配はなく、逃げろと言うサヴィヤも見るからに重傷を負っている。このままナラカが逃げれば、間違いなくサヴィヤは命を落とすだろう。故に、ナラカは恐ろしくてもその場から逃げることが出来なかった。逃げたいという気持ちはあったが、サヴィヤやヴィアレを置いて逃げることだけは嫌だった。
ナラカはぐっと精霊のヴィアレを睨み付ける。しかしその視線は交わることなく、見事にすれ違っていく。精霊のヴィアレの目がナラカと合うことはない。きっとナラカの姿を見たのは、ヴィアレの目を通してなのだろうとナラカは察した。

「……我が端末があまりに嬉しそうに接するもの故、如何様な人間かと思うていたが……。よもや斯様なまでに穢れを纏いし人間が、我が端末に声をかけていたなど……。不敬にも程があろう」
「ふ、不敬って……」
「我はシャルヴァである。シャルヴァは外界を超越せし理想郷。幾多の民が、安寧を求めて集う場所。貴様は其処を汚し、我が端末をも穢れの中に引き込んだのだ。これを不敬と言わずして何と言おうか」

精霊のヴィアレの紅い目は、純粋な侮蔑に溢れていた。この精霊はナラカを人間ではなく、外界の生き物━━━━詰まるところ、下賤の者としてしか見ていない。汚れている、と評したのはナラカの身体中についた瘴気の痕ではなく、あくまでも生まれに関してのことだろう。その口振りからは、嫌悪と苛立ちが感じ取れた。

(……嗚呼、この精霊は)

そんな精霊のヴィアレを、ナラカはつと見上げた。もう少しすれば、精霊のヴィアレはナラカのもとまでたどり着くだろう。きっとこの精霊はナラカを殺す。サヴィヤも殺す。そしてヴィアレの命を再び奪う。そういったことを精霊のヴィアレが口にした訳ではないが、ナラカにはなんとなく予想が付いていた。
精霊のヴィアレが此方にたどり着く前に、何かしらの手を打たなければならない。ナラカの後ろではサヴィヤが立ち上がろうとしているが、彼に任せてはいけない気がする。ナラカはサヴィヤが立ち上がる前に、自ら精霊のヴィアレに向かって一歩近付いた。

「…………あの、良いですか」
「…………?」

唾を飲み込んで、精霊のヴィアレを見据える。何の力も持たない小娘に睨み付けられたシャルヴァの礎は、意外だったのか首をかしげた。何も言ってこないので、ナラカは自分の発言が許されたと見なして口を開く。

「シャルヴァの精霊。真なるヴィアレ。あなたに問いたいことがあります。━━━━あなたは一体、“どのように在りたい”のですか?」
「…………っ」

ひゅ、精霊のヴィアレの喉が鳴ったのが、多少距離のあるナラカの耳にも入った。これはナラカの知らないことだが、この時彼女の後ろにいたサヴィヤは驚いたように目を見開いていた。

「……戯言を。我が在り方など、貴様ごときにわかるはずがあるまい」
「ええ、わかりません。わかる訳がないでしょう。だってあなたは精霊だ。私とは生まれからして違う。……いや、そもそも同じ精霊でも、あなたの気持ちなどわからないでしょうね。わからないからこそ、私は聞いているんです。あなたがどのように在りたいのかを」
「どのように在りたいか、だと?笑わせるな。我はこのシャルヴァの完全無欠なる礎として“在る”のだ。今更こうしたい、ああしたいなどという欲望はない。そも、我は欲望なぞとうの昔に捨てた。どう足掻こうと、語ることは出来ぬ」
「……ふぅん」

ナラカの声音はひどく気だるげだった。立ち止まったままの精霊のヴィアレを差し置いて、彼女はかつかつと歩いていく。そして懐から何かを取り出すと、それを空の精霊の眉間へと押し当てた。


「嘘つき」


眉間に当たる冷たい銃口と、あまりにも冷淡なナラカの言葉。ざわり、と精霊のヴィアレの背中を冷たいものが通り過ぎていった。

「私ね、わかるんですよ?だって、ずっとサヴィヤさんといっしょにいたから。あなたとサヴィヤさんが何を話していたのかまではわからないけど、それでもあなたの表情の機微はちゃんと見ていた。……ヴィアレ。空の座に至りし精霊よ。あなたは喜怒哀楽を……いや、感情の全てを捨てていない上に、むしろそれらを増大させているでしょう」
「そのような、ことは━━━━!」
「あるんですよ、それが。サヴィヤさんにも指摘されていたでしょう?あなた、今酷い顔をしていますよ。いくら外界の道具に触れたからって、其処まで怯えることはないでしょうに」
「…………っ!?」

自分の眉間に押し当てられているものが何なのか、精霊のヴィアレは今になって気付いたらしい。さっと顔を青ざめさせると、そのまま後方へと飛び退いた。それを見たナラカは、冷淡な瞳で精霊のヴィアレを見る。

「やっぱり。図星だったんですね?あなたは自分のことをひとつの世界だと思ってるみたいですけど、本当はそんなことない。かつて自分を傷付けた武器を恐れてしまうような、ごく普通の感情を持った精霊ではないですか」
「……っ、黙れ……!ごく普通、などという言葉で我を形容するな……!我は、我は世界だ!シャルヴァという名の理想郷だ!理想郷は苦なき楽園でなければならぬ!我は楽園の維持だけのために在る礎に過ぎぬのだ!」
「……いいや。それは違うな、空の精霊」

精霊のヴィアレの叫びに答えたのは、ナラカではなくサヴィヤだった。彼はすっくと立ち上がって、ナラカの隣へと歩いていく。そして、其処から酷く狼狽した様子の精霊を見上げて、それこそ何の感慨も含まぬ声音で告げた。

「お前は世界などではない。ただ一途に一人の人間を想い続ける精霊に過ぎん。お前が今の今までシャルヴァの礎として在り続けたのは、ただ単にそう在れかしと命じられたが故ではあるまい。お前はアーカムの祖の命令が嬉しかったのだろう?たとえどのような形であっても自らを頼ってくれたことが嬉しくて、その命令に忠実であろうとしたのではないのか?」
「……出鱈目を。それはあくまでも貴様の憶測であろう?貴様に我の思考など読めるものか」
「いいや、読めるさ。何せ“今読んだ”のだからな」

サヴィヤはあっけらかんと口にしたが、ナラカや恐らく精霊のヴィアレからしてみれば、それはあまりにも重大過ぎる告白だった。今の状況下はわかっているつもりだが、ナラカは思わずサヴィヤを問い質してしまう。

「な、今読んだって……!サヴィヤさん、あの精霊の考えてることはわからないんじゃなかったんですか……!?」
「まあ、先程まではいまいちわからなかったのだがな。先程お前と空の精霊が問答していただろう?その時に幾らか俺の方で余裕が出来たから少し頑張って視てみた」
「精霊の五大って気合いでどうにかなるものなの!?」

最早空気など読むまいとナラカは決意した。それだけ衝撃的なことをサヴィヤは口にしたのである。精霊の五大にはいくら識の域に至ったサヴィヤでも届かない、という話にはなんとなく理解出来た。しかしそれを己の気合いと根性で打ち破ってしまうのは信じられない。とりあえずわかることは、サヴィヤの精神力が桁違いに強すぎることくらいである。彼の経歴からして強いことは明確なのだが。
一方、自身の隠していた内面を看破された精霊のヴィアレはというと、しばらく無言でわなわなと震えていた。…………が、やがてきっと眼下の人間たちを見据える。その目には明らかな怒りが存在し、そして涙ぐんでいるようにも見えた。

「……貴様は、貴様らは、我が世界に見えぬのだな。我は最早精霊ではない。シャルヴァというひとつの理想郷である。それを否定するのならば、貴様らごと消し去るまで━━━━!」

轟、と玉座の間全体が揺れる。地震にある程度慣れているナラカもこれには立っていられなくて、思わずサヴィヤに手を伸ばしかけた。
━━━━が、彼女の手がサヴィヤを掴む前に、サヴィヤはナラカを突き飛ばしている。思い切り飛ばされたナラカはどう、と玉座の間の扉の前で転がった。

「さ、サヴィヤさ━━━━」
「手荒になったことは謝ろう。だが、それでもお前には生きてもらわねばならない。俺は、何よりもお前の生を望んでいるのだから」
「厭だ、厭だ、厭だ……!待ってサヴィヤさん、あなたを残しては━━━━!」
「行けナラカ。生きて日の目を見るが良い」

サヴィヤはナラカに有無を言わせなかった。それでもナラカはサヴィヤに手を伸ばす。彼を置いては行けない。彼を一人にはさせたくない。出来ることなら、サヴィヤも共に━━━━!



玉座の間に、鋭い音が鳴り響く。それを皮切りに、その場のありとあらゆる音は一瞬にして無に帰した。


5ヶ月前 No.432

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5ヶ月前 No.433

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【第78幕:英雄になりきれなかった者たち】

しばらく、その場には沈黙が立ち込めた。誰もが言葉を失い、その場に佇んでいることしか出来なかった。それだけ驚くべき来訪だったのである。

「……貴様。何故、此処にいる」

最初に口を開いたのは精霊のヴィアレだった。その表情は苦悶と、そして驚愕に歪められている。何せ、精霊のヴィアレの片腕は先程の音と共に“吹き飛んでいた”のだから。いくら精霊とは言えど、体の一部が欠損したものなら痛みを感じずにはいられないだろう。
精霊のヴィアレの見据える先には、一人の青年が立っていた。彼はアーカムに伝わる弓を背中に背負い、空いた手には一丁の鉄砲が構えられている。使い方を教えてもらってからそう時間は経っていないはずだが、もともと飲み込みが早かったのだろう。その佇まいはなかなか様になっていた。

「……何故、と言われましても。私が個人的に、あなたを倒さなければならないと考えたからに他なりませんが」
「貴様、貴様は……!この理想郷を崩壊せしめんとする衆愚に荷担するというのか、エルティリナ━━━━!」

精霊のヴィアレが大きな動揺を見せるのは無理もないことであった。其処にいたのは、先程精霊のヴィアレに完膚なきまでに叩きのめされ、一時的に撤退したはずのエルトであったのだから。
驚いたのは何も精霊のヴィアレだけではない。追い詰められていたサヴィヤも、そしてナラカも、ぽかんとした顔でエルトを見つめていた。

「な、なんであなたが…………というより、ノルドさんたちはどうしたんですか?いっしょに行動していたはずじゃなかったんですか?」
「……その点については、完全に私の失策だったと言う他ないでしょう。私は一度この精霊に敗北した。その際に、彼らとははぐれてしまったのです。ノルディウス殿たちは今、この王宮の外にいらっしゃることでしょう」
「は、はぁ……。でも、その鉄砲は……?何処から調達してきたんです?」
「━━━━待てナラカ。そう矢継ぎ早に聞くものではない。今、俺が見ておくから」

最早口からは質問しか飛び出さないナラカを、横から制したのはサヴィヤだった。見ておく、というのは彼の“識之目”を用いることを意味しているのだろう。軽く言ってくれるが、ナラカとしてはそう易々と使うものではないと思う。……まあ、サヴィヤの話によると、見たくないものでも見えてしまうようだったが。
しかしいくら感動の再会と言えど、いつまでものんびりしてはいられない。一同の前には相変わらず精霊のヴィアレが立ち塞がっているのだから。

「エルティリナ、エルティリナ、エルティリナっ……!まさか貴様が、貴様が外界の汚物に触れる日が来ようとは……!貴様には、貴様だけは、清廉なるシャルヴァの民でいてもらわねば困るというのに……!」
「清廉なるシャルヴァの民、か。私を一度地上に送っておいて、よくもそのようなことが言えたものだな。あなたは私を良いように利用したいだけに過ぎないのでしょう?今更取り繕う必要はございませんよ」

悲しげな目で見られようとも、エルトの対応はすげないものだった。精霊のヴィアレの立場としては、理想郷の再編にあたって鍵となるエルトが文明の利器たる鉄砲を用いているのはまずいのだろう。実のところ、ナラカもエルトが鉄砲を用いていることには驚いていた。いくら実用的だとは言え、シャルヴァを創った者の子孫である彼が外界のものを使うなんて信じられない。むしろエルトは外界のものを厭っているかと思っていたのに。
そんな風にナラカが驚いていた矢先に、当のエルトがくるりと此方に振り返った。思わずナラカは姿勢を正してしまう。

「……ナラカ。これはあなたが使いなさい。私ではあまり威力が出ないようです」
「え、そうでしょうか……?少なくとも一定の損害は与えられているようですけど……」
「いいえ、やはりあなたが使う方が効果的だ。……シュルティラ、剣を貸せ。遠間からはナラカが撃った方が良い。お前はどうせまともに動けん体だろう。ヴィアレを連れて柱の影にでも避難していろ」

あまり威力が出ない、と言うものの、エルトは精霊のヴィアレの片腕を吹き飛ばしている。それこそ十分過ぎる損害ではないかとナラカは思うが、何故だか彼から鉄砲を預けられてしまった。どうして其処まで、とナラカは一瞬首をかしげたが、すぐにエルトの真意を悟る。

(そうか、あの精霊には私の姿が見えない。不意を突いて傷付けることが出来る訳だな)

もしもナラカが糞真面目な武家の子だったら、そのような卑怯なことは出来ないと声を上げたことだろう。しかし生憎ナラカは武家の子に育てられたただの民である。正直なところ、自分が受けさえしなければ夜討ち朝駆けにどうこう思うことはない。それゆえに、エルトの提案には賛成であった。相手は精霊なのである。卑怯もへったくれもありはしない。
エルトから鉄砲と予備の弾薬を受け取り、不備がないことを確認する。細かいところまではわからないが、ナラカが見た限り気になるところはなさそうだ。エルトが何処からこの鉄砲を仕入れたのかは不明だが、ナラカでも十分に使えるだろう。

「……エルティリナ。貴様は、真に我に敵対するつもりなのか」

一方、精霊のヴィアレはどうしてもエルトと敵対したくないようだった。片腕をなくしたまま眉尻を下げてエルトに問いかけている。サヴィヤへの対応とはえらい違いである。

「貴様はアーカムの祖の血を引いている。このシャルヴァは神代のようなもの、貴様には原初の人間となる資格がある。穢れなき理想郷を創ることが出来るのだぞ?だというのに、何故拒むのだエルティリナ。貴様に不利益はなかろうに」
「……利益、不利益の問題ではないのです。シャルヴァの礎よ、あなたの成そうとしていることに善悪で評価は出来ない。このシャルヴァを穢れていると見なす者もあれば、このままで良いと見なす者もありましょう。それはどちらも正しく、どちらにも間違いがあるものです。故にこそ、あなた一柱の独断で、この世界が変わるようなことがあってはならない」
「……ならば、此方からも言わせてもらうぞ。エルティリナ、貴様が我を倒せばこのシャルヴァに何が起こるか。それを、貴様はよくよく理解しているか?」
「…………?」

つ、と精霊のヴィアレの視線がエルトから外れる。それまでずっとエルトを見据えていたはずの二つの紅玉は、何を思ったのか天井を仰いだ。

「我はシャルヴァである。シャルヴァという世界である。それを滅せば何が起こるか、聡い貴様なら理解しておろう。世界たる我が揺らげばこのシャルヴァも揺らぐ。すなわち、我が消えればこのシャルヴァも共に消え逝く定めを背負うこととなる」
「それ、は━━━━」
「エルティリナ。貴様は我を滅してこのシャルヴァの民を救う算段だったのであろう?心優しき貴様の思惑もよくわかる。だが、我を消せばこのシャルヴァごと滅亡の一途を辿ることとなるぞ?我は民たちを甦らせることが出来る。だが貴様にそのようなことが出来るか?貴様は我を滅し、そしてシャルヴァの民を滅すこととなるのだ」

精霊のヴィアレに対して、エルトは何も言い返すことが出来なかった。頭が真っ白になった、何も考えられなかった。エルトは民たちを死なせたくはなかったのだ。だからこそ精霊のヴィアレに立ち向かおうと決めた。
それなのに、精霊のヴィアレを倒せばシャルヴァそのものが崩壊すると来た。エルトが呆然とするのも無理はない。シャルヴァはエルトにとって、唯一無二の生まれ故郷だ。それを滅ぼすような真似がどうして出来ようか。いや、出来はすまい。

「思い直したか、エルティリナ?シャルヴァを滅ぼしたくないという心は、我も貴様も同じこと。シャルヴァを守りたければ、我と共に来るが良い」
「……私、は」
「迷う必要はない。シャルヴァを再編すれば、今の記憶も全て消える。貴様は穢れに満ちた外界の記憶を手放して良いのだ。その浅黒き肌ももとの美しい色に戻してやろう」

精霊のヴィアレの声は甘い誘惑となってエルトを誘う。エルトが何よりも気にしていたもの。捨て去りたいと思っているもの。それを精霊のヴィアレは看破した。それを武器に、エルトの心を揺さぶったのだ。
エルトはどうして良いのかわからない。ただ、動けないままに精霊のヴィアレを見上げるしかなかった。エルトの指示を、静かにナラカは待っている。このままではまずいとわかっていても、エルトの答えを待つ他にナラカに出来ることはない。葛藤するエルトが、答えを出すまでは━━━━。


「くだらんな」


ぐい、とエルトの背中が引っ張られ、そして軽くなる。え、とエルトが疑問を口にする前に、その男はかつてアーカムの祖がしたように精霊のヴィアレへと矢を構えていた。

「……貴様、まだ動けたのか」
「当たり前だろう。俺はシュルティラ、すなわち輪廻の忌み子だ。シャルヴァを滅ぼせるのだろう?ならばそれに乗らぬ手はあるまい。お前を殺してこの作り物の理想郷が果てるのならば万々歳といったところか」

血にまみれていながら、頬や唇を青白くさせながら。それでもサヴィヤは立ち上がり、精霊のヴィアレに弓を引く。その手は微かに震えていたが、彼の決意は揺らがない。ただ一心に精霊のヴィアレに狙いを定めているまま、サヴィヤはエルト、そしてナラカへと語りかける。

「俺のことはどのように語り継いでも構わん。俺は善人ではない。数多の人間を殺し、その営みを破壊し尽くした男だ。それがどうなろうとお前たちが悲しむ必要はない。俺はあくまでも輪廻の忌み子なのだ。未来あるお前たちは、俺を踏み台に生きるが良い」
「待て、シュルティラ……いや、サヴィヤ!お前はその弓を引いてはならない!その弓は、アーカムの至宝は……!」
「俺がわかっていないとでも思っていたのか、エルティリナ。この弓は俺を殺したもの。一度ではない、輪廻の度に俺はこの弓によって殺された。故に、“この弓は俺を死に至らしめる”。多少血反吐を吐くくらい承知の上だ」

エルトはこの時、やっと真に理解した。自分をニラヤの瘴気から救い出した時、何故サヴィヤの口元がああまで血で汚れていたのかを。彼がアーカムの至宝を引くということが、どのような意味を持つのかを。アーカムの至宝は、単にサヴィヤを傷付けるだけではなかったのだ。

「空の精霊よ。お前は大きくなりすぎた。お前がシャルヴァとして、この地の民たちを滅すのならば━━━━俺は輪廻の忌み子として、お前を滅ぼそう」
「……ふん、何をし出すかと思えば……。よりにもよって相討ちとはな。貴様、それほどまでにエルティリナに迎合するか」
「当たり前だろう。エルティリナは俺の弟だ。初めての弟なんだ。それを守らずしてどうするというのだ?兄弟の大切さなど、お前には一生わかるまいよ」

冷ややかな精霊のヴィアレの視線を、サヴィヤはさらに無機質でありながら、燃え盛る焔のような目で迎え撃った。唇を震わせながら、彼は空の精霊を見据える。絶対にお前を撃ち落としてやるのだと、その空色の目は語っていた。やれるものならやってみろと言わんばかりの精霊のヴィアレに向かって、サヴィヤはぐっと弓を引き━━━━。


「━━━━ナラカっ!!」


谺したのは、エルトによる全身全霊の叫び。彼はナラカ、と彼女の名前だけを呼んだ。それが何を意味するのか、サヴィヤも精霊のヴィアレもわかっていなかった。
だがナラカは理解していた。うなずくこともなく、彼女は躊躇の欠片もなしに引き金を引く。撃ち出された弾丸は敵である精霊のヴィアレのところには向かわずに、真っ直ぐ目標に向かって飛んでいった。

「……っ……!?」

この時、サヴィヤの無表情が珍しく崩れた。何故なら、ナラカによって撃ち出された弾丸はサヴィヤの方へと飛んで行き━━━━その手にあるアーカムの至宝を、たしかに撃ち砕いたのだから。

5ヶ月前 No.434

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

アーカムの至宝とは、数千年をかけてアーカム王家が守り、そして受け継いできた国宝とも言える存在である。詰まるところ神代の産物であり、このシャルヴァが成り立つ過程において非常に重要な役割を占める宝物であった。アーカムに殺され続けたサヴィヤもその重要性を理解していたし、だからこそアーカムの至宝を用いて精霊のヴィアレを倒そうとした。

「……血迷ったか、エルティリナ!外界の悪しき人間に、崇高なるアーカムの至宝を破壊させるとは……!」

紅き双眸を赫と見開いて、精霊のヴィアレは愕然とする。しかし、当のエルトはそんな空の精霊のことなど気にしてはいない。精霊のヴィアレがエルトを見た時、彼は既に剣を抜いて駆け出していた。

「アーカムの至宝?シャルヴァ創造の切り札?そのようなことはどうでも良い!私には今のシャルヴァしか見えん!私が守るべきは今のシャルヴァの民であり、今のアーカム王家なのだから!」
「エルティリナ、貴様は━━━━!」
「ああそうだ!私は私のまま生きたい!もう血の繋がった人間を死なせたくはない!そのためならば、理想郷など壊れても構わない!」

玉座に続く階段を、エルトは全力疾走で駆け上がる。その目にもう迷いはない。ただひたすらに、精霊のヴィアレに立ち向かわんとする闘志しか存在しない。先程まで覚えていたエルトの躊躇は、もう二度と甦ることはないだろう。
いくら精霊と言えども、精霊のヴィアレは数年間ティヴェラの国王、すなわちクルーファとして振る舞ってきた。それゆえに、玉座の傍らにはいざという時のための剣が備え付けられている。五大によってエルトを制することも出来るというのに、精霊のヴィアレは敢えてその剣を手に取った。

「……良かろう。エルティリナ、気高きアーカムの末裔よ。その闘志に応えるとしよう。我はシャルヴァ。この世界そのものである。それに立ち向かわんとするその姿勢を我は認めよう。どのような手を使おうと構わぬ。シャルヴァの民である限り、貴様はシャルヴァに勝てる訳がないのだから」
「言ったな、“ヴィアレ”━━━━!」

すらり、と精霊のヴィアレが剣を抜く。それとほぼ同時に、階段を上り終えたエルトが斬りかかっていた。彼の剣は精霊のヴィアレの肩口から胸元、すなわち袈裟懸けに振り下ろされる。
だが精霊のヴィアレとて易々と斬られるような器ではない。エルトの振り下ろした剣を、自らの持つそれで直ぐ様受け止める。がきん、と甲高い金属音がその場に鳴り響いた。

「……“ヴィアレ”、か。貴様にそう呼ばれるのは不思議と心地が良い。あのアーカムの祖たる男も、同じような顔でヴィアレと呼んだ」
「無駄口を、叩くなッ……!」

懐かしむように、ゆるりと精霊のヴィアレは語る。その口振りは剣戟に興じている者の言葉とは思えないくらいに穏やかなものだった。エルトが苛立ちを覚えるのも無理はない。
しかしながら、精霊のヴィアレの剣さばきは卓絶の一言に尽きた。エルトとて剣術は並み以上に学んできたつもりでいる。だがそれと十二分に張り合えるくらいに精霊のヴィアレは強かった。今だって、エルトの刺突を難なく防ぎながら、流麗な仕草で攻撃を繰り出している。精霊が剣術を学ぶのは可笑しいと言うつもりはないが、エルトは思わず臍を噛んだ。

「━━━━何処を見ている、エルティリナ」
「……っ!?」

気付いた時には、既に鋭い痛みが襲い掛かっていた。嗚呼、肩口を斬られたのだとエルトが認識した時には、精霊のヴィアレが次の攻撃にかかっている。エルトは何とか体を捻ってそれを回避し、そのまま鍔迫り合いに持ち込むことで精霊のヴィアレの攻撃範囲を狭めた。

(この精霊、強い……!一体、何処で剣術を習ったというのだ……!?)

ぎちぎちとお互いに押し合う最中、エルトは内心で歯噛みする。正直、此処までとは思わなかった。精霊のヴィアレはたしかに強敵と呼べる存在だ。エルトも決して油断してはいない。むしろ細心の注意を払って戦っているつもりだ。先程だって、エルトは精霊のヴィアレの隙を突けないかと機を窺っていただけだった。其処を精霊のヴィアレは突いてきたのである。片腕を失っていながらも、この精霊はエルトに確実な傷を付けた。抜け目がないというよりは、一切の無駄を削ぎ落とした剣術であった。
ぐ、とエルトは精霊のヴィアレを押し出す。この時、ぐらり、と精霊のヴィアレの身体が僅かに揺らいだ。その瞬間をエルトは見逃さない。

「其処だ━━━━!」

ず、と剣を前方へ突き出す。それはたしかに、精霊のヴィアレの胸元へと突き刺さった。人間であれば心臓のある位置、詰まるところ急所である。致命傷とまではいかずとも、大怪我の部類に入ることは間違いない。
精霊のヴィアレは緩慢な仕草でエルトに突き刺された箇所を見る。からん、と床に剣の落ちる音が響いた。


そして、エルトの首は凄絶な力で絞められる。


一瞬、何が起こったのかわからなかった。わからないまま、急速に息が詰まっていく感覚をエルトは覚えた。自らが置かれている状況を理解した時、エルトの口は空気を求めてぱくぱくと魚のように動いている。

「剣戟は愉しかったか、エルティリナ?言うたはずであろう。我はシャルヴァであり、シャルヴァは我であると」
「な……貴様は……っ!?」
「貴様と来たか。哀しきものよな。そのような目で我を見ようと、状況は変わらぬ。我は如何様などはしておらぬし、あくまでも正々堂々と戦ったつもりでいる。“己の好きなように体を作り替える”ことなど、我からしてみれば息をするがごときこと」

息苦しい中で、エルトは理解する。最初から勝ち目などなかったということを。此処がシャルヴァである限り、その礎に敵対した時点で勝敗は決していたということを。

(剣術の優劣など、“初めから存在してはいなかった”。此処がシャルヴァである限り、あの精霊は自分の望むものを何でも手に入れることが出来る……!心臓のある部分を刺したところで、この精霊が死ぬはずなどなかったんだ……!)

薄れゆく意識の中で、エルトは自分の過ちを後悔する。何てものを相手にしてしまったのだろう。たしかに、シャルヴァの民を理不尽な理由で屠られたくないという気持ちは本物だった。だが、エルトは心の何処かでたかを括っていたのだ。高々精霊が、全知全能の力を持つことはないだろう、と。

(シャルヴァに神はいない。シャルヴァにいるのは精霊だけだ。シャルヴァに宗教はない。どのような宗教を信じる者でも、シャルヴァで暮らすことが出来る。それは、神のいらない地……すなわち、精霊を礎とする理想郷であるが故のことだ。この理想郷では、精霊こそが万物を支配するようなものだというのに……)

感覚が鈍っていく。もう足掻くことすら儘ならない。惨めに死んでいく自分を、周りの人々は笑うだろうか。エルトは唇の端に涎を垂らしながら、ぼやけていく視界と意識を共にしようとして━━━━。


次の瞬間、精霊のヴィアレの体が大きく痙攣した。


エルトの首を絞めていた片腕から力が抜ける。エルトはげほげほと咳をしながら、よろよろと精霊のヴィアレの拘束から逃れた

「っはぁ、はぁ、はぁッ……!」

荒い呼吸のまま、精霊のヴィアレの背後に立つ人物は動かない。精霊のヴィアレは、再び自分の胸元を見遣った。其処には、先程までなかったはずの大穴が空いている。背後から鉄砲で撃たれたのだということは、当事者である精霊のヴィアレでなくともすぐに理解出来ることだろう。

「……見事なものだな。高潔なる一戦が瞬く間に穢れたものへと変わった。外界とは何ともおぞましい」
「だ、だって、あなたは、どのような手を使っても良いって、言ったから……!」

人間の姿をしたものを撃つことには、やはり抵抗があったのだろう。ナラカの声や手は震え、いつもより吃っていた。殺すまでには至らなくとも、やはり後味は良くないらしい。心なしか顔色も悪かった。
しかし、そのようなことは些末な問題に過ぎない。精霊のヴィアレは顔をしかめながら、背後に立つナラカへと向き直る。精霊のヴィアレにナラカは見えていないはずだ。それなのに、その紅い目はナラカの方を向いている。ひ、とナラカの喉から悲鳴が漏れた。

「貴様のような人間ごときに、このシャルヴァを滅ぼさせてなるものか。その外界の汚物ごと貴様を滅してやる。我はこのシャルヴァを守らねばならぬ。貴様らの個我になど、我は屈しはせぬ━━━━!」

それは最早シャルヴァの礎でなく、ヴィアレというただの精霊の叫びだった。玉座の間が大きく震える。精霊の怒りを体現するかのように、ぐらぐらと揺れる。何としてでもシャルヴァを維持し、守り通すという覚悟。この振動は、そんな意志の顕れであったのだろう。


「━━━━もう良い」


精霊のヴィアレの憤怒。シャルヴァの守護に駆られる激情。それは、その場に響いたたった一言によって呆気なく打ち消された。

「……!き、さまは……!」
「……もう良いのだ、“ヴィアレ”。もう、そうまで気を張ってくれるな」

今の精霊のヴィアレの背後━━━━すなわち、ちょうどナラカと向き合う場所。其処に、その人物は佇んでいる。驚く程穏やかな表情をして、精霊のヴィアレを見ている。


端末のヴィアレが、目を覚ました。

5ヶ月前 No.435

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先程まで気を失っていたヴィアレがどのようにして目覚めたのかはわからない。だが、今目の前に立っている人物は紛れもなくヴィアレである。それだけで、その場には少なからず動揺が広がった。

「ヴィアレ……?」

息も絶え絶えながら、エルトはヴィアレに視線を向ける。エルトの前に立つヴィアレは、彼についと視線を向けて、口元に微笑を湛えた。

「エルト、ナラカ。心配をかけたな。我ならもう大丈夫だ。もう一人の我のことも、我が責任を持って止めよう」
「で、でも……!ヴィアレさん、病み上がり……っていうか、まだ本調子じゃないんじゃ……!」
「案ずるな、ナラカ。何故かはわからないが、我の体には力がみなぎっている。心配する必要はないぞ」

慌てるナラカに対しても、ヴィアレは泰然自若として答える。その口振りはエルトやナラカの知るヴィアレに他ならなかった。どうしてこの若者はこうまでして余裕でいられるのか。エルトもナラカも疑問に思ったが、それを問う前にヴィアレは口を開いていた。

「……“ヴィアレ”。我が母体にして、シャルヴァを統べる精霊よ。我はそなたに引導を渡しに来た」
「な……何を、言うておるのだ。いや、何故貴様は“苦もなく其処に立っている”……!?いくらシュルティラの五大を受けたとは言え、他者の五大が体に馴染むまでは相応の時間がかかるはずである。だというのに、何故……!」

あまりにも悠然とした佇まいのヴィアレに、精霊のヴィアレですら動揺を隠しきれない様子だった。こうして見ると、むしろ精霊のヴィアレの方が人間臭く感じられる。自我というものを確立させてきた年月の差だろうか。だとすれば何とも皮肉なものである。
閑話休題。何故、とヴィアレを問い詰めようとした精霊のヴィアレだったが、此処で何かに気付いたのかはたと口を閉ざした。そして、その視線を横へとずらす。

「……そうか。貴様が我が端末に小細工をしたのだな、輪廻の忌み子」
「…………」

精霊のヴィアレから睨め付けられても、サヴィヤは薄く微笑むだけだった。彼とて満身創痍なのだろう。血だらけのまま、隅の柱に寄り掛かっていた。
サヴィヤを責め立てることは無意味と考えたらしい精霊のヴィアレは、ふぅ、と気持ちを落ち着けるかのように息を吐いてからヴィアレへと向き直った。そして、苛立ちを圧し殺すように声を潜めながら問いかける。

「……我が端末。何故、あの忌み子の五大を受け入れた?あの怪我であればいくら忌み子と言えども力は鈍る。貴様は輪廻の忌み子の五大を拒むことが出来たはずだ。それなのに、何故……」
「何故……と言われてもな。我はサヴィヤがシュルティラであることも、我がシャルヴァに由来する精霊であることも知らなかった。ただ、この薄ぼんやりとした意識の中から掬い上げてやると語りかけてくる声があった故、それに応じただけに過ぎぬ。そなたやシャルヴァに掌を返した訳ではないぞ」
「ならば、尚更我はわからぬ!貴様はこの理想郷を……シャルヴァを好ましく思うておるのではなかったのか!?何故シャルヴァの崩壊を助長する者たちに付く!?」

がっ、と精霊のヴィアレは片腕だけでヴィアレの肩を揺さぶった。腹に大穴が空いているはずなのに、片腕を欠損しているというのに、精霊のヴィアレの勢いは凄まじい。それほどまでにヴィアレの真意が読めなくてやきもきしているのだろう。
ヴィアレは精霊のヴィアレに詰め寄られて、多少面食らったようだった。しかし、それでも視線を揺らがすことなく、ヴィアレは真っ直ぐに精霊のヴィアレを見つめ返す。

「我は地上を知っている。何せ1年と少し前まで地上で暮らしていたのだからな。故に、我は地上に抵抗がない」
「だが、貴様もシャルヴァを訪れて気付いたはずだ!このシャルヴァは地上よりも居心地が良く、命を脅かすものも、生活を縛る神々もいない!四季もなく、災害に襲われることもないのだ!地上に戻れば、それらがまた貴様の生命を脅かすのだぞ!?そんな世界を擁護する意義などあるまい!」
「━━━━“だが、地上には空がある”」

矢継ぎ早に次々と捲し立てる精霊のヴィアレの言葉は、ヴィアレの一言によってぴたりと止められた。それだけ大きな一言だったのだろう。あれだけ飛び出していた言葉は、一瞬にして引っ込んだ。

「地上には空がある。地上には太陽がある。地上には月がある。地上には星がある。それは、シャルヴァにある何物よりも勝るものなのではないか」
「……そのようなことはあるまい。あのようなものがあったところで、何になるというのだ」
「移り変わる空の色を愛でることが出来る。たった独りで泣いている時、優しく照らす日差しがある。月夜の晩に詩歌をしたためる楽しみがある。道に迷った心細き夜でも、導となるものがある。あれらは遠く離れているようで、我等の傍に寄り添っている。恨みで出来た曼荼羅ではなく、何者にも等しき光が存在する。そのような世界は、本当に醜く穢れたものと言えるのか?」

す、とヴィアレが精霊のヴィアレに一歩近付いた。その瞳は恐ろしい程に真っ直ぐで曇りがない。世間の悪意は知らずとも、己を取り巻く自然を熟知した人間の瞳であった。

「たしかに、雨風は人々の生活を破壊するだろう。火山でも噴火しようものなら、下々の村や町や都は埋もれてしまうこともあろう。生き物が死に、営みは破壊され、居場所はなくなる。災害とはそういうものだ。理不尽に、等しく、全てを喰らって去っていく」
「左様。故にこそ、あの男は……アーカムの祖はシャルヴァを創ったのだ。もう理不尽に死ぬ者があらぬように、と。罪なき人々が天地の気紛れによって蹂躙されることのなきように、と」
「……我が母体よ。ひとつ問うが、果たしてそれは本当にアーカムの祖たる男が語ったことなのか?奴は民たちを救うために、このシャルヴァを創ったというのか?」

それは、あまりにも唐突な問いかけであった。ヴィアレは首をかしげて、さも当然という風に尋ねる。これには精霊のヴィアレも面食らった様子を見せた。

「何だ、藪から棒に……。あの男のことなど、今は関係なかろう」
「いや、大いに関係あるぞ。このシャルヴァはアーカムの祖によって創られたもの。その真意を推し量ることもまた肝要だと我は思うが」

ずい、とヴィアレが精霊のヴィアレに迫る。立っているだけでもやっとという様子だというのに、此処まで問い詰められては精霊のヴィアレも辛いのだろう。もし人間であれば脂汗をかいていそうな表情は、紅き精霊は重々しく口を開いた。

「……この先、貴様らのいずれかが少しでもアーカムの祖を愚弄するようであれば、我はこの身を犠牲にしてでも貴様らを殺める。良いな?」
「ああ、良いとも。我とてそなたの心はわかっている。この場にいる者たちは、決して不躾に人を揶揄るようなことはせぬよ」

エルトやナラカ、そしてサヴィヤが反応をする前に、ヴィアレは二つ返事で精霊のヴィアレに答えていた。それだけ彼らのことを信頼しているということなのだろうか。此方が反応する前に答えられた方としては冷や汗ものである。
だが、大事な端末からの答えとあって、精霊のヴィアレは納得したらしい。うつむいて深く息を吐いてから、ヴィアレに視線を戻す。

「……アーカムの祖は偉大な人間であった。それはどうあろうと変わらぬ。……が、アーカムの祖もエルティリナや、其処にいるのであろう童と同じように、一人の人間に過ぎなかった。血筋としては王族であった故、神の血も入っているようなものだが……内面は、明らかに人間のそれであった。言うてしまえば、何事にも耐えられるような精神性は持ち合わせておらなんだ」
「……では、アーカムの祖は」

何かを悟ったように、ヴィアレは声を落とす。エルトやナラカも、なんとなく想像は付いていた。サヴィヤは何も言わないが、きっとわかっているのだろう。つい、と横目で精霊のヴィアレを見ていた。


「左様。あの者は決して、衆生を救うために理想郷を創ったのではない。“外界より逃げるために”シャルヴァを創ったのである」


精霊のヴィアレの口から放たれた言葉。それはあまりにも頼りなく、そして悲哀に満ちた答えであった。

5ヶ月前 No.436

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

エルトやナラカはアーカムの祖のことを知らない。何せ数千年も前に生きていた人物なのである。もしも二人が前世で彼に出会ったことがあったとしても、今の今までその記憶を引き継ぐということは極めて難しいだろう。サヴィヤという例外も存在するが、彼のことは数えない方が良さそうだ。
だが、ニラヤとの戦闘を経て、二人はなんとなくだがアーカムの祖の人となりについて理解した。はっきりとわかった訳ではない。むしろわからないことは依然として多い。それでも、ひとつだけ言えることはある。

(アーカムの祖は、自分たちとそう変わりない精神性の持ち主だった)

偉大な人物、ということは確かなのだろう。そうでなければ彼はシャルヴァなどという理想郷を完成させはすまい。アーカムの祖はもともと王族であったと聞く。人々を導く優れた指導力があったことは間違いない。
しかし、問題は其処ではないのである。いくら突出した指導力があったとしても、優れた武人であったとしても。アーカムの祖は、あくまでも“人間”であった。度重なる戦に、彼の心も疲弊していたのだろう。王族という責務からやっと解放されたアーカムの祖が求めたものこそが理想郷という名の逃げ場であった。

「戦を終えたあの男━━━━アーカムの祖にとって、外界の全ては恐ろしいものへと変わったのだろう。空から、太陽から、月から、星から逃れたいとあの男は思うていた。口には出さずとも、それは彼奴の顔つきで皆わかることであったよ。あの男はありとあらゆるものを背負いすぎた。一人の人間の身には、とてもではないが耐えきれなかったことだろう。あの男は、あまりにも憐れであった」
「……では、何故あなたは今、こうして此処に存在しようとしたのです?アーカムの祖の事情をわかっているのなら、いっそ消滅を受け入れることも出来たでしょうに……」
「エルティリナ、貴様は見当違いをしておる。たしかに、我は消滅することも出来た。むしろそうした方が、苦痛は少なかったやもしれぬ。だがな、我はアーカムの祖に惚れ込んだのだ。この人間にならば、何処までも付いていこうと思えたのだ。そんな人間が逃れ逃れて行き着いた、最後の砦がこのシャルヴァである。それの行く末を見ぬままに、一柱消え往くことが出来るものか」

首をかしげたエルトに、精霊のヴィアレは確固とした眼差しで答えた。たった一人の人間に寄り添おうとした精霊の姿が其処にはあった。精霊のヴィアレと対峙したエルトも、その目に嘘はないと確信する。

「故に我は意識を保ったまま、何千年とこのシャルヴァを見守り続けた。あの男の望む理想郷がとこしえに続くようにと願いながらな。あの男の創り上げたものが壊れぬように、無に帰してしまわないようにと、我も苦心した」
「……では、何故あなたはアーカム王国の滅亡を看過し、旧アーカム領を廃れたままにしておいたのですか?」

懐かしむようにぽつりぽつりと話していた精霊のヴィアレだったが、その懐古は第三者の言葉によって唐突に遮られた。精霊のヴィアレを責めるかのごとき、鋭い一言である。最早治しようのない傷を負いながら、それでもアーカムの祖について語ろうとする精霊のヴィアレに追い討ちをかける者がいるなんて、この場の誰が想像しただろうか。少なくとも、ヴィアレやエルトはそのようには考えていなかった。
つ、と精霊のヴィアレの視線が動く。それは何かを探るかのような、恐る恐るとした動きであった。精霊のヴィアレはしばらく視線をさ迷わせていたが、やがて声の主を見付けたのか視線を固定させる。

「……貴様、何が言いたい」
「何って━━━━言葉通りの意味、ですが」

精霊のヴィアレの言葉を遮った人物。それは、ヴィアレたちの傍に立つナラカに他ならなかった。精霊のヴィアレからしてみれば、彼女のことが見えないので探すのに手間取ったのであろう。いちいち精霊のヴィアレに移動する度声をかける程、ナラカも優しくはない。先程よりは落ち着いていながらも、突き放すようなつっけんどんな声音で返す。

「あなたがアーカムの祖と、彼の創った理想郷を維持し、守ろうとしていたことはわかりました。けれど、だったら尚更矛盾が残ります。あなたが入れ込んだ人間の建国したアーカム王国の滅亡を、あなた自身は止めようと思わなかったのですか?」
「……一柱の精霊の私情を、世の流転に交えることなど出来まい。アーカムは滅びても、その一族が滅びないことは我もわかっていた。我が手を出す必要はなかったのだ」
「外界から鉄砲が持ち込まれた時はしゃしゃり出てきたのに、大切な方の創り上げたもののひとつが滅ぼされれば捨て置くんですか。精霊の気持ちはよくわからないものです。それに、あなたはシャルヴァの平穏を望んでいながら、それを脅かす人物を泳がせていましたよね?あなたが全知全能の精霊であるならば、ルードゥスの動向に関しても放置しておく理由にはならないはずですが……。その辺り、どうなんです?」

す、とナラカは精霊のヴィアレに一歩近付く。珍しく、精霊のヴィアレは苦渋に満ちた表情をしてナラカのいる方向から顔を背けた。何も言わずに、これ以上責められたくないとでも言うかのような行動だったが、ナラカは躊躇いなく追撃する。

「『まさかこのようなことになるとは思っていなかった』、『自分はシャルヴァを守ることで精一杯だった』……とでもおっしゃるつもりですか?見苦しい。民を動かさず、国も動かさず、ただ其処に“在り続けている”だけの王なんて、何の意味も成しませんよ」
「……王という地位に就いたこともない貴様に、何がわかるというのだ」
「王に……支配する側になったことがないからこそ、ですよ。支配される側からしてみれば、何もしない王なんて不安要素以外の何物でもありません。もともと栄えているティヴェラはまだ良い。困窮し、ひもじい思いをする民が数多く存在する旧アーカム領を、どうして何らかの形で処理しようとしなかったのですか?これも緩やかな流転の中で風化していくとは思わなかったのですか?ティヴェラを滅ぼしかねない人物を危惧する気持ちはなかったのですか?どうして、ティヴェラを……シャルヴァを変えようとはしなかったのですか?」

ナラカの問いかけは、それこそ鉄砲玉のように次々と飛び出てくる。たった一人の小娘の戯言と、精霊のヴィアレは断じることが出来なかった。それはヴィアレやエルトも同様である。平民として生き、支配される側にあったナラカだからこそ、その言葉には説得力があった。支配される側にある民に問い詰められた精霊のヴィアレは、何も言うことが出来ずに突っ立っているしかなかった。

「これまでの歴史の中で、暴君や昏君と呼ばれた君主はたくさんいます。けれどあなたはそれらの足下にも及ばない!王という地位に就いていながら、国の政に通ずる訳でもなく、法のひとつも定めず、ただ行く末を見守るだけとは言語道断!全く以て度しがたい!そのような君主が治める国、いや理想郷など滅びて当然だ!砂塵に埋もれ、戦火の灰と消えた亡国にも値せぬものと知れ!」
「……ナラカ。そろそろ止さないか。もう、我が母体の体は限界なのだ」

燗とナラカの瞳に憤怒の煌めきが宿る。ますます窮地に追い込まれる精霊のヴィアレであったが、それを庇うようにヴィアレがナラカに声をかけた。やや激昂気味だったナラカも、ヴィアレの取りなしには黙って口をつぐむ。それを確認した精霊のヴィアレは、深く息を吐いてからヴィアレへと倒れ込むように寄りかかった。

「ヴィアレ……!」
「大丈夫だ、エルト。我が母体はもう、立っているのもやっとの状態だ。我等に手出しをすることはおろか、まともに動くことも出来まい」

倒れ込んできた精霊のヴィアレの背中を、ヴィアレは優しく撫でる。その手付きは、泣く子をあやす母親のそれに似ていた。

「……我が端末よ。我は、最早限界のようだ。じきに我は消えるだろう。其処な童の言う通り、我は国を治める器ではなかったらしい」
「そうだな。しかし、そなたは数千年に渡ってこのシャルヴァを守り通した。それはどうあっても変わらぬ事実だ。そなたは単に責められるだけの存在ではないぞ」
「……そうか。貴様は優しさに過ぎるな。だが、今となってはその優しさが心地よい。……ヴィアレ、我が端末。このシャルヴァは間もなく崩壊する。穢れた場所と理解してはいるが……。死にたくなくば、其処の者たちを伴って外界へと逃げよ。我から言えることは、その程度だ」

其処まで言い終えると、精霊のヴィアレは自らヴィアレの胸を押して彼から離れた。これ以上自分に構っていなくて良い、ということなのだろう。ヴィアレもそれを理解したのか、精霊のヴィアレに再び手を差し伸べることはしなかった。

「……行こう、皆。我が母体の消滅、これすなわちシャルヴァの消滅である。一刻も早く外界へ脱出しなければ、我等も地底の底に墜ちるだろう」
「……そうだな。エルティリナ、ナラカ。まずはシャルヴァを出ねばならん。この王宮が崩れ去るのも時間の問題だ。疾く付いてこい」

いつの間にか、重傷であるサヴィヤが起き上がって門を開けていた。表情には出さないが、彼も彼なりに焦っているらしい。それだけ、シャルヴァの消滅は近付いているということであろう。

「…………」

玉座の間から出る前に、エルトは一度だけ後方を振り返る。かつて何人もの王が座してきた玉座に精霊のヴィアレが腰かけることはなく、その縁に寄りかかって目を閉じているだけであった。━━━━まるで、今は亡き王に寄り添うかのような仕草だと思いながら、エルトは玉座の間を後にした。

5ヶ月前 No.437

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【第79幕:さらば曼荼羅、目指すは蒼穹】


「━━━━始まったみたいだな」

徐々に光を失っていく曼荼羅を見上げながら、ウィルデはぽつりと呟いた。やたらと仰々しいその口調に、傍にいたノルドは肩を竦める。

「そんな言い方しなくてもわかってるっつの。まあ、エルトなら上手くやってくれそうだったからな。万々歳ってことで良いんじゃねぇの」
「阿呆か。まだ万々歳な訳ないだろ。俺たちは早いところ、このシャルヴァから出なくちゃならない。……そうでないと、此処に残るって言った奴等と同じような目に遭うぞ」
「……“気”を抜き取られた者たちのことか」

何処か呑気な態度のノルドに、ウィルデはぴしゃりと言い返す。その言葉を横で聞いていたリリアは、不安げに目を伏せた。その傍らには、青い顔をして壁に凭れ掛かっているエステリアがいる。
体調が芳しくないというのに、エステリアはシャルヴァからの脱出を望む民たちの手助けに勤しんでいた。それこそ、我が身も惜しくないと言わんばかりの働きであった。もともとシャルヴァからの脱出を望む民たちがそれほど多くなかったこともあってか、作業は思っていたよりも滞りなく進んだ。それでも、手間取ったことに変わりはない。様々な人々の助力がなければなし得ないことだったと、この場にいる者たちは実感している。

「……まあ、外界は穢れたところだって教わってきた奴等が大多数だったからな。そんなところに戻りたいって奴の方が少ないのは当たり前だろうよ。幸い……って言うのはどうかと思うが、少なくとも彼奴らは苦しみを感じることなく体内の“気”を抜き取られて死んだ。人の生き方なんて人それぞれだからな、俺たちがどうこう言うのは無粋だよ」
「それはわかるけどよ……。にしたって、精霊のヴィアレは悪足掻きし過ぎじゃねぇのか?シャルヴァをぎりぎりまで存続させようとするなんてよ」
『恐らく、あいつの本能がそうさせているだけのことでしょう。いくら敗北を認めたからと言って、肉体が思い通りに動く訳じゃない。人間だって、命の危機に晒されたら無意識下でも延命を望むものでしょう?それと同じことよ』

それまでリリアの持つ小瓶の中で静かにしていたニーラムが、此処で口を挟んできた。……とは言え、流体になっているので口はないのだが。

『今、ヴィアレがどのような状態なのかはわからないわ。でも、あいつが望もうとも望まざろうとも、あいつの肉体はシャルヴァの存続のために民の“気”を奪い続ける。早いところシャルヴァを出なくちゃならないっていうのは、単にシャルヴァが崩壊するってだけじゃない。もたもたしていたら、ヴィアレに“気”を抜き取られるわよ』
「んなことはわかってるよ。……で、手前らはこれからどうするんだ?俺は此処にいる“森の民”たちを連れて地上に出るが……。どっちにしろ、手前らの落とし前は手前らが付けなくちゃならねぇ。別に周りとか気にしなくて良いからな」

やけに説教臭いニーラムを一蹴してから、ウィルデはノルドたちに向き直る。迎合し阿ねる必要はない、とその常磐色の瞳は告げていた。シャルヴァと命運を共にするか、苦しみに満ちると言われる地上に逃げて生き延びるか。それは自分の意思で決められるものでなくてはならない。

「……妾は地上へ行こう。これまで何度も助けられてきた命だ。そう易々と手放すことは出来ない」

先に答えたのはリリアだった。ニーラムの入った小瓶をぎゅっと握りながら、真っ直ぐにウィルデたちを見つめる。彼女はアシェリムや反乱軍の者たちのことを鑑み、決断を下したのだろう。地上に対する不安を秘めていながらも、覚悟を決めた瞳であった。
そうか、と答えてから、次いでウィルデはノルドとエステリアを見る。手前らはどうするつもりだ、とその目は語っていた。ノルドはちらとエステリアを見てから、普段と変わりない、からりとした笑顔をリリアとウィルデに向ける。

「いやぁ、実のところ、俺はまだどうするか悩んでてな。エステリアと相談して決めるから、お前らは先に行っててくれや」
「しかし、ノルド……」
「良いんだ、リリア姐さん。俺の足の速さは“森の民”のお墨付きだ。間に合わなくて無念の死、なんてことにはならねぇさ」
「……ふん。まあ、それが手前の答えなら俺も文句は言わねぇ。せいぜい逃げ遅れないように気を付けろよ」

心配そうなリリアとは対照的に、ウィルデの法はあっさりとしていた。リリアも不安そうにはしていたが、ウィルデたちに促されてその後を付いていく。途中、何度もノルドの方を振り返りながら。
リリアと“森の民”たちの姿が見えなくなってから、ノルドはふぅと息を吐いた。そして、くるりとエステリアの方に振り返る。壁に凭れた彼女は、じっとりとした視線をノルドへと送っていた。

「……強がりを言いおって。残るのならば残るとはっきり言えば良いだろうに」
「悪いな、俺はお前程度胸が据わってねぇんだわ。残るって口にしたら、逆に逃げ出したくなっちまう。そんなことになるくらいだったら、多少誤魔化しても良いってことだ」
「誤魔化すなんてものではなかったぞ。恐らくあの場の誰もがお前の思惑に気付いていただろう。だからあの女もお前を引き留めようとしたんだ。お前の行動はかえって逆効果だったな」

エステリアの厳しい言葉を、ノルドは何も言わずに甘受した。嘘や演技が苦手なことは、ノルド自身がよくわかっている。皆に勘づかれているだろうという自覚もあった。それゆえに、何を言われてもノルドは言い返さない。もっと上手い隠し方も嘘も、ノルドは知らなかったのだから。
無言でうつむくノルドに、エステリアは溜め息を吐く。それは失望というよりも、純粋に呆れているようだった。

「そう静かになることもないだろう。私は別に怒っていない。……それと、ずっと立っていられると多少疲れる。何処かに移動するつもりがないのなら、隣にでも座ってくれないか」
「……おう」

エステリアの頼みは、ノルドにとって意外なものだったのだろう。目を見開いてぱちくりとさせてから、いそいそと彼女の隣に座った。図体の大きい彼がなんとなく居心地悪そうにしている姿は、なかなか不恰好なものである。

「……エステリア。お前、やっぱり此処に残るのか」

ノルドの口から紡ぎ出される言葉も、何処かたどたどしい。いくら肝の据わっている彼でも、一目惚れした相手には緊張するもののようだ。視線を逸らしている辺りがそれらしい。
エステリアはそんなノルドに、一瞬だけ視線をくれてやってから、目を閉じて静かに考える素振りを見せる。彼女もかなり消耗しているのだろう。出来るだけ言葉は最低限のものだけを選ぼうとしているようだった。

「……私はシャルヴァで生まれ、シャルヴァで育った。出来ることなら、武人としてシャルヴァで死にたかったが……。どうやらそれは不可能らしいからな。せめて好きな場所で死のうと思っただけだ」
「……そうかよ。まあ、お前らしいとは思うけどな。でも、若いのにそんなんで良いのかよ?もっと楽しいことしてぇとか思わねぇの?」
「たわけ。私は武人なのだぞ。戦が楽しみに決まっているだろう」

ぷいとエステリアは顔を背けたが、其処に嫌悪感のようなものは見られなかった。むしろ、子供が我が儘を言っている風な物言いである。生真面目な彼女にしては珍しい。それだけ気が弛んでいるということなのだろうか。
苦笑いしたノルドを横目で見てから、エステリアは憂いを帯びた表情で目を伏せる。お世辞にも苦しくないとは言い難い状態にあるのか、彼女の息はやや荒かった。

「……本当は、お前と打ち合って決着を付けたかったのだがな。この体では、武器を持つこともままなるまい。武人として、これほど悔しいことはない」
「エステリア……」
「……何故お前がそのような腑抜けた顔をするのだ。憐れみならば、何もわからず果てていったシャルヴァの民たちに向けろ。私は憐憫などいらない」

エステリアは相変わらず強気な口調だったが、その顔には少なからず疲弊の色が見えた。疲弊と表現するにはやや軽すぎる顔色でもある。もともと精霊のヴィアレとの戦いで重傷を負っていたのだ。いくらリリアの治療で誤魔化したとしても、それは疲労や痛みを後回しにしているだけに過ぎない。現在エステリアが感じている苦痛など、ノルドにわかるはずがなかった。

「……じゃあ、俺もお前といっしょにシャルヴァで死ぬとするかな。地上に行くのも悪くなさそうだが、お前がいないんじゃ話にならねぇ」
「おい待て、何がじゃあ、なんだ。お前は馬鹿なのか?憐憫はいらないと言ったはずだ」
「ちっげーよ。憐憫なんかじゃねぇっつーの。俺は単に好いた相手といっしょにいたいってだけだ。お前を残して地上に行くのが考えられねぇんだよ」
「……っ、戯れ言を」

エステリアの頬に、僅かだが朱が入る。ノルドはそれを見て満足げに笑ってから、ふぁ、と大欠伸をした。

「んなこと言ってたら、何だか眠くなってきちまった。俺は耐性があるかと思ってたけど、精霊サマには敵わねぇみたいだな。“気”を奪われるって、こんな感じなのか」
「……私が知る訳ないだろう。眠るならとっとと眠れ。私の死に際など、見たって何の価値もなかろうに」
「いいや、そうでもないぜ?お前は綺麗だからな、その顔を見れるだけで得って訳さ」
「…………っ、そうか」

エステリアは、ほぼ吐息のような声でそう呟いてから、ゆっくりと目を閉じた。体内の“気”を奪われたことで、意識を手放したのだろう。本当に、眠りに落ちるかのような仕草であった。
そんな彼女を見てから、ノルドはもうひとつ欠伸をする。そして、エステリアに続くように目を閉じる。壁に凭れ掛かったまま、寄り添い合って眠る二人の男女。その周囲に、それを邪魔する人はいない。


『━━━━本当に、青臭いったらありゃしないわ。恋とか愛とか、あたしの前で見せ付けないで欲しいんだけど』


……否、人はおらずとも、精霊はいた。どういう訳かその場に小瓶ごと残されたニーラムは、心底呆れたとでも言いたげな声音でごちる。恐らくその声がノルドとエステリアに届くことはないだろう。

『理想郷の終わりに際して二人寄り添い合って眠るなんて、何とまあ胸焼けしそうな話ね。あたしが人間でなくて良かったわ。じゃなきゃ胸焼けで死ぬところだったもの』

ぐぐぐ、と水圧で小瓶の蓋を押し開けて、流体のニーラムは外へ出る。ふわふわと浮いたまま辺りを見回して、はぁと溜め息を吐いた。

『人間なんぞに力は貸したくないけど……まあ、事の元凶は人間じゃなくてヴィアレだものね。あたしたちにも責任はあるし、ちょっと手伝ってやろうかしら。こいつらやシャルヴァに残った人間たちだって、後世に掘り出されでもしたら嫌だろうし。どうせなら、深く暗い地の底に沈めてしまいましょう』

そう言うと、流体であったニーラムの体は爆発するかのように激流となって辺りに流れ込み始めた。建物、人、自然の全てを飲み込む激流は止まるところを知らない。あっという間に、その場は広大な湖のようになってしまう。

『……さて、後はテララ辺りが何とかしてくれるでしょうけど……。まあ、せいぜい頑張りなさい、シャルヴァを滅ぼした英雄たち。無事にシャルヴァを出て地上まで逃げられたのなら、心の中で祝ってあげるわ』

水の五大を司る精霊は、他人事のように嘯く。空の精霊を御し、地上へ向かう者たちへ檄を飛ばしながら、彼女はシャルヴァという理想郷にその身を広げていった。

5ヶ月前 No.438

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走りに走って、ヴィアレたちは何とか王宮の外まで出ることが出来た。精霊のヴィアレの力が及ばなくなったためだろうか、固く閉ざされていると聞いていた王宮の正門はいっそ開放的なまでに開け放たれている。普段ならば絶対にあり得ない光景だ。
だが、ヴィアレたちを驚かせたのは正門が開いていたことではない。正門の外、詰まるところ目の前に広がる光景に、彼らは唖然とするしかなかった。

「な……何です、これは……!?」

それは、普段冷静沈着なエルトが目を見開くくらいに衝撃的な光景であった。何せ、王宮の外はそれこそ湖か何かのように水浸しだったのである。水浸し、というよりはむしろ“何もかもが沈められている”と表現した方が適切だろう。湖を見たことのないヴィアレは、言葉も出ずに立ち尽くしていた。

「やあ君たち。どうやら上手くやってくれたようだね。良かった良かった」
「━━━━テララ殿、一体これはどういうことなのですか」

呆然とする一同の背後から平然と現れたのは、大地の五大を司る精霊のテララだった。相変わらず掴み所のない、たおやかな微笑みを浮かべながらひらひらと手を振っている。あまりにも場違いが過ぎる立ち振舞いだ。エルトが鋭い視線を向けたのも無理はない。
エルトからの問いかけを受けたテララは、「ああ、そういえば君たちは知らなかったんだね」と前置きする。王宮にいたのはテララも同じはずなのだが、この精霊には何が起こっていたのか見えていたらしい。

「何か思うところでもあったんだろうね。ニーラムが本気を出したんだよ。言動こそ精霊らしくないけど、あの子も立派な精霊だ。シャルヴァ全域……とまではいかないけれど、少なくともティヴェラの王都はニーラムの中に沈んでしまったよ」
「では、王都に残っていた民たちは……!」
「うーん、まあ大方沈んでしまったね。でも、皆溺れ死んだ訳ではないと思うよ?精霊のヴィアレはたしかに君たちによって目論見を阻止された訳だけれど、それでもまだこの世に存在している。無意識のうちの生存本能で、このシャルヴァに残っている━━━━つまり、シャルヴァを望む者たちの中にある“気”を吸い取っていったんだ。だから、このシャルヴァにいる生きた人間は君たちくらいだ。ニーラムは決して、死にたくないと願う民たちを溺死させた訳ではないよ」

軽いことでもないというのに、テララはいともあっさりと言ってくれる。まさか民たちを救えなかったのでは、と焦ったエルトだったが、テララの話を聞いてなんとなく合点がいった。実際に見た訳ではないが、この精霊の話は偽りとは思えない。

(……そうか、やはりシャルヴァを……理想郷を手放したくなかった民たちもいたのだな)

シャルヴァで生まれ育った者からしてみれば当たり前のようなことではあるが、本来ならばこのシャルヴァの住民は外界から逃げてきた者たちなのである。彼らは戦禍や飢餓、その他諸々の苦痛から逃れるために空を捨ててこの地底にやって来た。地上に戻るくらいなら、シャルヴァで死んだ方がましだと考える者も決して少なくはなかったのだろう。地上は穢れたところだと教わっていたエルトとしては、少々複雑な気分である。
閑話休題。とにもかくにも、ティヴェラの王都が水没したことに変わりはない。シャルヴァから脱出するに際して、道━━━━というか、地面そのものがなくなってしまったのだ。ニーラムが何を考えたのかはわからないが、エルトにしてみれば障害が増えたようなものである。

「……とりあえず、浮くものがない以上泳いで渡るしかありませんか。長距離となると、かなり手間はかかりますが……」
「……エルト。実のところ、我は生まれてこの方泳いだことがないのだが……」
「あの、やっぱり泳いで渡るのは無理があるんじゃないですか……?私だって湖で泳いだことはありますけど、お遊び程度のことですし……」
「━━━━あぁ、それなら問題いらないよ。待ってて、えいっ」

一行がどのようにしてこの水面を渡っていくかという相談をしていた矢先、突然テララが前へと進み出た。そして、す、と右手を前に出す。すると、其処からみるみるうちに枝や蔦が伸びていき、水面の上に橋を造った。

「どうだい、これなら進めるだろう?」
「やった!これなら皆で進めるな!」

ぐっぐっと何度か押してみてから、強度に納得したのかヴィアレが歓声を上げる。エルトとナラカも、一目置いた様子でテララを見た。やはり精霊とは偉大なものだ。神のいないシャルヴァでは、彼らが絶対の存在である。あまり干渉してこないきらいがあったので実感が湧かなかったが、やはりテララも人智を超えたモノのひとつだった。こればかりは感謝と驚き以外の感情が出てこない。
とにもかくにも、道は出来た。さあ行こう、とヴィアレは一同に向き直ろうとした━━━━矢先のことであった。

「……すまないが、俺は行けない」

後ろでずっと沈黙を貫いていたサヴィヤが、唐突に口を挟んできた。素人目にもわかる程の重傷を負っていながらも、彼は此処まで自分の足で走ってきた。無理をさせるのは良くないと考えたのか、意外なことにエルトが肩を貸そうとしていたが、それすらもサヴィヤはやんわりと断っていた。それゆえに、ナラカはてっきりサヴィヤは地上まで走り抜けられるのかと思っていた。

「ど、どういうことですか、サヴィヤさん……!行けない、って……やっぱり、無理をしてたんじゃ……!」
「いや、そうではない。……まあ、そろそろ体も限界だが……。けれど、決してそういう訳ではないんだ。俺はシャルヴァの外には出られない。シャルヴァで死ぬしかないんだ」
「……お前は、もともとは地上で生まれ育ったのだろう?ならば地上に出てはいけない道理はないはずだ。今になって怖じ気づいたというのなら、頬のひとつでも張り飛ばしてやる」

普段は驚く程に前向きだというのに、今のサヴィヤはやたらと後ろ向きである。だからこそナラカは不安感を覚えたし、エルトも苛立ちを隠せないのだろう。ヴィアレはそんな一同を見ておろおろとしている。なんとなく事情を知っていそうなだけに気まずいようだ。
サヴィヤは肩で息をしながら、一同を見渡す。その頬には脂汗が流れていた。彼も相当堪えているのだろう。

「俺は、アーカム王家を滅ぼすまで輪廻を続ける存在だ。シャルヴァがなくなるとなれば、アーカム王家も途絶えるというもの。シュルティラはもう必要なくなる」
「だったら、尚更訳がわかりません……!アーカム王家がなくなるなら、サヴィヤさんだって輪廻から解放されるんじゃないんですか……!?」
「アーカム王家が生きている世界に俺が行くということは、それらを滅ぼし尽くさなければならない定め。俺はもう大切な人々を殺めたくはない。ついでに、この体もがたが来ている。ならばシャルヴァと共に果てるのが道理だろう」

そう言い終わると立っているのも辛くなってきたのか、サヴィヤはその場に腰を下ろしてしまった。彼の負った傷は深い。その上、精霊のヴィアレに“気”を奪われてもいるのだ。サヴィヤの体にかかる負担は、並大抵のものではないだろう。その身で此処まで誰の手も借りずに走ってきたのだから、大したものである。

「なぁサヴィヤ、輪廻の呪詛を解く方法はないのか?我はエルトたちから聞いただけだが、王宮ではそなたを輪廻の渦に落とした張本人がいたそうだな。その者を御したのなら、輪廻の呪詛からは解放されるのではないのか?」
「……いや、ニラヤはまだ残留思念としてこの王宮に存在しているだろう。彼奴はシャルヴァの核として曼荼羅の中に組み込まれた。このシャルヴァが完全に崩壊しきらない限り、ニラヤの残留思念も完全に消滅することはない。したがって、俺は輪廻から脱け出すことは出来ないんだ」
「……そんな……他に、方法は」

他に方法はあるはずだ、と。エルトがサヴィヤの肩を掴んで揺さぶろうとした時である。二人の間に、するりと体を滑り込ませてきた者がいた。

「……わかりました。要するに、ニラヤの力がなければサヴィヤさんは輪廻の忌み子のままなんですね?」
「ナラカ……?」

何処か緊張したような面持ちで話に首を挟んだのはナラカだった。どうして此処でナラカが入ってくるのか、ヴィアレにもエルトにもわからなかった。ニラヤがいなければ、サヴィヤの輪廻は終わらない。それは普通なら絶望すべき局面なのに、ナラカは解決策を見つけたかのような表情をしている。

「……何か思い付いたのかな、ナラカ?」
「……はい。もしかしたら、サヴィヤさんを助けられるかもしれない。だから、ヴィアレさんとあなたは先に行っていてください」
「しかし、ナラカ……!」
「大丈夫。私なら、大丈夫ですから」

誰よりも死にたくないと願っていたナラカが、此処に残ると言うのだ。それをよく知っているヴィアレは彼女を引き留めようとしたが、エルトによって手を引かれる。まるで、全てナラカに任せておけとでも言うかのように。

「……では、頼んだぞ、ナラカ。必ず、必ずまた会おうな」
「ええ。お二人も、お気を付けて」

簡単な挨拶を済ませてから、ヴィアレはエルトと共にテララの拵えた橋に足を踏み出す。願わくは、ナラカもサヴィヤも無事でいて欲しいと切に願いながら。

5ヶ月前 No.439

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5ヶ月前 No.440

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

さて、ナラカを置いて先に地上へ向かっていたヴィアレとエルトであったが、その最中で突然エルトが立ち止まった。それに合わせて、ヴィアレも足を止める。

「……エルト?」
「……ヴィアレ、あなたは先に地上へ向かっていなさい。私は少し遅れます」
「ナラカを迎えに行くのだな?」

エルトが言わずとも、 ヴィアレは彼のせんとすることを理解していた。何だかんだでエルトがナラカを放っておかないことは、ヴィアレもよくよくわかっている。出会った当初はどういう訳か仲が悪く結果として敵対することになってしまったが、関係とは変わるものだ。二人の確執やら何やらを把握しないまま此処まで来てしまったヴィアレは、そう思うしかなかった。
図星だったらしいエルトは、深く溜め息を吐いてから苦笑いした。エルトにしては柔らかい表情である。

「……まったく、あなたには敵いませんね。ナラカを放っておく訳にはいきません。急ぎましょう」
「うむ!まだそう遠くは離れていないはずだ。すぐに追い付けるだろう!」

とにもかくにも、エルトとナラカが和解してくれたのならそれで良い。ヴィアレは大きくうなずいて、エルトの後を追いかける。ヴィアレは知らないことだが、彼は目覚める直前にサヴィヤによって彼の“気”を注ぎ込まれていた。ヴィアレの体調が絶好調だったのはそのためだ。故にこそ、今こうやって走り回ることが出来るのである。
しばらく走っていると、やがてふらつきながら走ってくるナラカの姿が見えてきた。ヴィアレはおーい、とナラカに手を振る。

「ナラカ!迎えに来たぞ!」
「ヴィアレさん……!それに、エルト……さんまで……!どうして……!?」
「我もエルトもそなたが心配でならぬのだ!なぁ、そうだろうエルト?」
「……とにかく、先を急ぎますよ。シャルヴァが崩壊するまでの時間は短い。それまでに何としてでも此処から脱出するのです。……ほら、乗りなさい」

繕うつもりなど微塵もないヴィアレに押されてエルトはごほん、と咳払いをする。そしてややつっけんどんな口調で、ぎこちなくナラカに背中を向けた。背負ってやる、ということなのだろう。エルトが何処までナラカの状態を知っているのかはわからないが、彼なりの気遣いのようだ。
エルトのことを苦手としていたナラカでも、相手からの気遣いに気付けない程鈍くはない。ありがとうございます、ともごもご言ってから素直に彼の背中に乗った。

「多少揺れますが我慢なさい。気分が悪くなったのならすぐに言うのですよ」
「……はぁ。わかりました」
「今の間は何です、今の間は」

口が裂けても「何か変なもの食べました?」とは言えない。それだけエルトが優しくて、ナラカは違和感を覚えずにはいられなかったのである。しかしこんなところで揉めて自滅したらそれこそ洒落にならないので、ナラカは素知らぬ振りをして黙っておいた。何事も程々に済ますのが一番というものだ。エルトが一瞬じろりとナラカの方を見たのは気付かない振りをしておこう。
そんなこんなで、三人は改めて地上に向けて走り出した。ナラカを背負っていても、エルトの足取りは変わらない。それでも、彼を先導しながらヴィアレは何度か様子を見ておく。エルトのこともあるが、ナラカも同じように心配なのだ。話せこそするものの、ナラカの声はいつになく掠れている。お世辞にも万全の体調とは言えないだろう。

(ナラカが何をしたのか、サヴィヤがどうなったのか……。我には、とんとわからぬ。だが、ナラカが納得しているのなら、もう何も言うまい。今はただ、このシャルヴァを脱出することだけを━━━━ん?)

ぱら、と。ヴィアレの頬に、何かが降りかかってくる。シャルヴァは地底に存在するが故に、気象というものがない。そのため、何か降ってくるというのは異常でしかないのだ。
ヴィアレは頬にかかったものを指に乗せて見てみる。それは、彼もよく知るものだった。

「砂……?」

ヴィアレに降ってきたもの。それは乾いた砂であった。首をかしげているヴィアレに、エルトも気付いたようだ。彼はヴィアレの指にある砂を見ると、急に血相を変えた。

「ヴィアレ、それは……!」
「ん?砂だぞ、エルト。何故かはわからぬが、急に降ってきたのだ。不思議なこともあるものだな」
「不思議も何もありませんよ!それは恐らく曼荼羅のある部分が崩れかかっている兆候です!急がなければ私たちは曼荼羅の下敷きになります!」
「な……!?」

言うや否やエルトが駆け出す。ヴィアレも慌ててその後を追いかけた。まさかそのような緊急事態だとは思ってもいなかった。崩壊するということはわかっていても、なかなか実感が湧かなかったということもある。天井の曼荼羅が崩れるなんて予想外にも程がある。
見てみれば、頭上からは砂だけではなく、小石程度の大きさの土砂や礫も落下してきている。いつ岩が落ちてきたって可笑しくはない状況である。これに耐えきれなくなったのか、エルトの背中に背負われているナラカが声を上げる。

「あ、あの……!地上への出口までって、あとどれくらいあるんですか……!?」
「…………まあ、それなりには」
「遠いなら遠いってはっきり言ってよぉ!!」

最早ナラカは半泣きである。こればかりはエルトもうるさいですよ、とは言えない。そもそもエルトがナラカを脅迫しなければ、彼女は今よりも早くシャルヴァを出ることが出来ていたのかもしれないのだ。エルトとて、巻き込んでしまった申し訳なさは感じている。

「やだやだやだやだ、これって本当に間に合うの!?色々助けてもらった分際で言えることじゃないけど、この橋ってこう、自動的に動くとか出来ないのかな!?」
「そればかりは何とも……。テララ殿も多くは語りませんでしたし……」
「あっ、エルト!危ない!」

背中で騒ぐナラカに上手く反論することも出来ず、エルトはうやむやな答えを返すしかない。それに加えて、彼のすれすれを土砂が落ちてくる始末だ。シャルヴァの崩壊までは秒読みといったところか。ヴィアレもエルトもナラカも、これには焦燥感を募らせる他ない。何とかして出口までたどり着かなければ。そのために何か手っ取り早い方法を……とは思うが、そのようなものがすぐに湧いて出てくるはずもなく━━━━。


『止まりなさい!』


その声はその場に響き渡った━━━━否、三人の脳内に直接入り込んできた。ほぼ同時に聞こえたのか、三人の動きは一瞬ぴたりと息を合わせたかのように止まる。しかし立ち止まってはいけないと考えたのだろう、すぐに彼らの足は動き始めた。

『ちょっと待ちなさいよ!あたしが止まれって言ってるんだからもう少し止まっとくのが道理でしょう!?精霊の言うことはとりあえず聞いておけって学ばなかったの!?』
「ですがニーラム殿、このシャルヴァは刻一刻と崩壊を進めているのです!あなたが何を考えていらっしゃるかは存じ上げませんが、私たちは何がなんでもシャルヴァを出なくてはなりません!ご容赦を!」

最早何処に語りかけて良いのかわからなかったので、エルトは声の主━━━━ニーラムに向けてひたすらに叫ぶ。ナラカを背負って走ったままなので、所々で声がひっくり返りそうになっている。致し方のないことなので、突っ込むのは野暮というものだ。
人の姿を保ってはいないので、ニーラムの表情はわからない。だが、その声色からして彼女が苛立っていることは明らかだった。

『だーかーら、あたしはあんたたちがシャルヴァを出るのを手伝ってやろうって言ってるの!テララとも口裏合わせたから、とりあえず言うとおりになさい!』
「どうする、エルト?」
「……まあ、ニーラム殿に逆らっても得はなさそうですからね。此処は従っておくとしましょうか」

渋々といった様子でエルトは立ち止まる。ヴィアレも彼に倣って、その場で歩を止めた。相変わらず頭上からは砂塵が降ってきているため、不安感は募る一方だった。
━━━━それは何の予兆もなく発生した。ず、と足下の橋が動き始めたのである。ヴィアレたちがその異変に身動ぎする前に、橋からは蔦が伸びて彼らの足を拘束した。それと同時に、ぶちぶちと三人のいる場所が橋と乖離していく。

「に、ニーラム殿……!一体、何をなさるおつもりで……!?」
『説明してる暇はないわ。とりあえず、舌を噛まないようにだけ気を付けておきなさい!』
「え━━━━」

一体どういうことなのか。そうエルトが問いかける前に、その音は彼らの耳に入っていた。ざぁん、と響くそれは、エルトやナラカも知っているものである。


後方から三人のもとへ向かってくるもの。それは、津波と見紛う大波であった。


エルトやナラカは海を見たことがある。しかしこれほどまでの大波は初めて━━━━というか生涯目にしないものだと思っていた。そもそも海を見たこともないヴィアレも加えて、一同は口をあんぐりと開けて大波を見上げる。
ざぱぁん、と大波が唸る。それは三人の乗っている乖離した橋をぐんと押し出した。いわゆる波乗りの原理である。大波に乗せられた橋は凄まじい勢いで突き進んでいく。

「す、すごい!何だこれは!?」
『ふふん、もっと褒め称えても良いのよ?これでシャルヴァの出口まで送ったげる。さあ、もう一発いくわよ!』
「待って、これって私が一番危ないんじゃ……」

エルトに背負われているので足を固定されていないナラカが何かを言っていたが、ニーラムがそれを聞く様子はなかった。第二、第三の波が次々と押し寄せてくる。あっという間に三人は地上への出口に繋がる階段の前へとたどり着いていた。

『行きと違って選定は行われないはずだから、その点については安心なさい。せいぜい太陽で目を焼かれないように気を付けなさいな』
「ニーラム殿……。その、何と礼を言えば……」
『礼とかそういうのは良いから。シャルヴァの終わりに輝く機会をくれたってだけで、あたしもテララも満足だから。わかったならさっさと行きなさい』
「……ありがとうございます、ニーラム殿。このご恩、決して忘れません」
「うむ!我からも感謝するぞ、水の精霊!」

礼を言うエルトとヴィアレに続いて、ナラカもエルトの背中からぺこりと会釈をする。ニーラムに見えているかはわからないが、感謝の気持ちは伝えておかねばならないだろう。
ニーラムからの返事はない。早く行け、とでも言いたいのだろうか。どちらにせよ、ヴィアレとエルトは地上に繋がる階段を駆け上がった。立ち止まれば、きっともう足は動かない。ならば最後まで駆けてしまおう。足を止めるのは地上に出てからだ。

(あと少し、あと少しで━━━━!)

地上への出口。それは近いようで遠かった。息を荒らげながら、汗を飛ばしながら。それでも彼らは駆け続けた。理想郷への別れなど、告げる暇すらなかった。ただただ必死だったのだ。それゆえに、理想郷への未練をしみじみと感じることもなく、彼らは開きっぱなしになっていた扉を潜り抜け、洞窟の中も駆け抜ける。目の前にある洞窟の終わりを目指して、彼らはがむしゃらにひた走った。

「━━━━!」

それは誰のものでもなく、然れど誰のものでもあり、声になることはなく、然れど確かな叫びであった。洞窟すらも潜り抜けた先、目指していた終着点。其処に到着してまず初めに目に入ってきたのは、眩しくて仕方のない橙色。シャルヴァでは見ることの叶わない、一日の終わりにして夜への前奏。


それすなわち、見事なりし落陽である。


黄昏を目の当たりにしながら。夕日をその身に浴びながら。ヴィアレは落ちるように意識を手放した。

5ヶ月前 No.441

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【第80幕:空の青に果てはなく】

まず初めに感じたのは、じめじめとした湿っぽい空気だった。心なしか、体もじっとりと汗をかいているように思える。ヴィアレにとってはあまり良いとは言えない寝覚めであった。

「……気が付きましたか」
「エルト……!」

ぱっと体を起こした先には、座って此方を見ているエルトがいた。彼は簡素な服に身を包み、これまで纏っていた緊張感をすっかり解いた穏やかな表情をしている。そのためか、いつもは何処か張り詰めていた周りの空気は、幾分か柔らかくなったように思える。何故か彼の肩には、ナラカのところにいるはずの餅蜥蜴が鎮座していた。

「体調は如何ですか。久方ぶりの地上です。体が上手く動かなければ、そう言ってください」
「いいや、少し怠い気もするが、大したことはない。少し動けば慣れてくるだろう」
「それなら良いのですが……。地上へ逃げた者たちの中には、慣れない空気に体調を崩している方もいると聞いています。どうか、無理だけはなさらないよう」

エルトの視線は柔和にして優しげである。シャルヴァを出たことで、多少肩の力が抜けたらしい。一概に地上に戻ってこれたことを喜べる訳ではないが、エルトが少しでも楽になれたというのなら、ヴィアレとしても一安心だ。
━━━━と、そんなことを考えていた矢先、こんこんとヴィアレのいる部屋の扉が叩かれた。間もなくして扉は開かれ、其処からひょこりと顔を出す者がいる。

「おぉ!ヴィアレちゃん、起きたんやな!おはようさん」
「ヴィアレ〜!無事で良かったぁ〜!」
「エミリオ殿、お気持ちはわかりますがお静かに。外には、まだお休みになられているお方もいらっしゃるのですから」

各々言いたいことを口にしながら部屋に入ってきたのはフィオレッロ、エミリオ、そしてアリックだった。どうやらヴィアレに食事を持ってきたようだ。アリックの手にある盆の上に乗っているものがまともなので、彼女が作った訳ではないのだろう。ヴィアレもエルトもアリックの料理の腕を知らないので、特に何か思うことはなかったが。

「エミリオ!アリック!それにフィオレッロ……殿も……!」
「はは、もううちで勤めとるんやないし、そないに畏まらんでもええんやで。まあ、何はともあれ、ヴィアレちゃんが元気そうで何よりや。朝飯作ってきたさかい、ゆっくり食べぇな」
「うむ、かたじけない。ありがたくいただくとしよう」
「あ〜、やっぱヴィアレちゃんは可愛ぇなぁ。隣のしかめっ面も、あと5年……いや10年遅ければもうちょい可愛かったんやけどなぁ」

ちら、とフィオレッロはエルトを横目で見る。口調こそおどけてはいるが、その中身はじわじわと傷口を抉るような皮肉である。エルトはごほん、と咳払いをしてそれをいなしておいた。この男、やはり御しにくい。
とにもかくにも、いつまでも立ち話をしている訳にはいかないとフィオレッロたちは思ったのだろう。特に何か言うこともなく、ヴィアレの傍に座った。そして、ちゃっかり持ってきていたらしい干し肉をかじり始める。

「そういえば、我等は今何処にいるのだ?我は地上に着いてから、すぐに眠ってしまったようだからな。もし良ければ、教えて欲しい」

フィオレッロの持ってきてくれた朝食を食べながら、ヴィアレは辺りをきょろきょろと見回してそう問いかける。今いる場所は見たところしっかりとした家屋らしい。旧アーカム領にあったものと同じような造りをしている。

「ああ、此処はヒマラヤの麓にある集落です。フィオレッロ殿が村の有力者を説得してくださいましてね。こうして幾つかの空き家を使わせていただいています」
「……集落、か」

ヴィアレの問いかけに答えてくれたのはアリックだった。それを聞いて、ヴィアレの表情に翳りが生まれる。何となくだが、嫌なことを考えてしまったのだ。

「……ヴィアレ、たしかに此処は、かつてあなたがいた村です。あの神殿も残っています」
「…………」

ヴィアレの憂いを唯一理解しているエルトは、ヴィアレと目を合わせることが出来ないまま真実を伝える。ヴィアレの表情はたちまち曇り、食事の手も止まってしまった。
シャルヴァでの波乱万丈な出来事の数々によって忘れかけていたが、もともとヴィアレは生贄として捧げられるはずだったのだ。精霊のヴィアレがシャルヴァと共に消滅してしまった今、ヴィアレを生贄にする必要はなくなった。しかし、シャルヴァの事情を知らない村人たちからしてみれば、儀礼は儀礼として済まさなければならないと思うだろう。もしかしたら再び生贄に捧げられてしまうかもしれない。そんな不安感が、ヴィアレの心を埋め尽くした。

「……心配には及びませんよ、ヴィアレ」

そんなヴィアレの肩に、エルトはそっとその手を置く。きょとんとした顔をしたヴィアレに、エルトは優しく語りかけた。

「実のところ、あなたがこの集落を出てから生贄を捧げる儀式は廃止されたようなのです。村の若者たちによって、非人道的な儀礼は不適切と見なされ、これ以降行わないように取り決められたと聞きました。ですから、あなたが憂う必要はないのですよ」
「……!それは、真か……!?」
「ええ。ですが、村にはまだ人柱の儀礼を重んじている者もいるようです。決して独りでは出歩かず、必ず誰かを伴うようにするのですよ。良いですね?」
「あいわかった!気を付けるとしよう!」

俄には信じられない話であったが、ヴィアレとしては好都合である。それに、もしもヴィアレを生贄にする儀式がまだ存在しているのであれば、こうしてエルトたちと同じ場所にいることは出来ないだろう。幸運なこともあるものだ、とヴィアレは思うことにした。
胸の痞がなくなったところで、ヴィアレは残っていた朝食を全て腹の中へと流し込んだ。丁寧に手を合わせてから、ヴィアレは改めて一同に向き直る。

「なぁ、他の者たちは何処にいるのだ?近くにいるのなら、顔を合わせておきたいのだが……」
「ルタ君なら、瑞英のところにいるよ。リリアさんもそっちにいると思う。ルタ君はこっちに来てから体調とか、その……健康面で気になることがあったみたいだからね。今は検査を受けているよ」
「アロイスとそれにべったりの羅刹は、ミリアムにくっついとったで。確か隠密の女の子とかスメルトもいっしょのはずや。せやな、アリック?」
「はい。私たちはルタ殿とエミリオ殿を保護してから、王宮を出てライオ・デ・ソル商会の方々と合流しましたからね。ヴィアレ殿のお知り合いは、大方商会の関係者のところにいらっしゃるかと」

エルト殿を玉座の間に行くよう指示したのも私たちなんですよ、とアリックは些か得意気に言う。ヴィアレとしては、その時の記憶がないのでそうなのか、とだけ返しておいた。恐らくナラカに首飾りを叩き込まれる前の出来事なのだろう。

「ノルディウス殿やエステリア殿は、シャルヴァに残ることを良しとされたようです。私としては残念ですが、これも彼自身の決断。責めることは出来ません」
「テララやニーラムはどうなったのだ?」
「精霊たちもまた、シャルヴァと運命を共にしました。しかしウィルデ殿たち“森の民”は、此方にいらっしゃいますよ。お会いしたいのならば、取り次いでおきましょう」

エルトたちの話によると、ヴィアレの知り合いのほとんどは地上にいるようだった。ノルドともう会えないのは寂しかったが、彼の選択にどうこう言う権利はない。ノルドのことを思い出して、彼が満足して生涯を閉じられたことを切に祈るばかりである。
そんな中で、ヴィアレはあることに気付いた。エルトも、アリックも、エミリオも、フィオレッロも。一人だけ、触れていない人物がいたのだ。

「……ナラカは、どうしている?」

故に、ヴィアレは思い切って彼らに尋ねた。何故だか皆、口裏を合わせているかのようにナラカのことに触れない。ナラカはヴィアレたちと共にこの地上に脱出出来たはずだ。それなのにどうして避ける必要があるのだろうか。
ヴィアレがナラカの名前を口にした時、その場にぴりっとした雰囲気が漂った。皆一様に顔を見合わせてから、アリックが言いづらそうに口を開く。

「あー……その、ですね。ナラカ殿なら、此処から少し行ったところにある家屋にいらっしゃいます」
「そうなのか!会うことは出来るか?」
「……まあ、出来なくはありませんが……。しかし、ご本人が乗り気でないということもありますし……」
「勿論、断られたらそれに従うまでだ。我とて無理強いはせぬよ。ただ、我はナラカの顔を見たいだけなのだ。疚しい気持ちはひとつもないぞ」

気まずそうな表情をするアリックにずいと顔を近付けながら、ヴィアレは真っ直ぐな瞳でそう告げる。此処まで来るとアリックも誤魔化すに誤魔化せないらしく、若干仰け反りながらこくこくとうなずいた。

「わかりました、わかりましたから!ナラカ殿のところに向かうのを私も止めはしません!むしろ同じように案じている身として、心強いばかりですから!」
「うむ、感謝するぞアリック!」

ほぼ勢いに押されるような形で、アリックはヴィアレにナラカとの面会を許した。ナラカを取り巻く事情はわからないが、一先ず彼女の顔を見られるのならヴィアレは満足である。急いで朝食を掻き込むと、布団から出て立ち上がる。

「よし!そうと決まれば善は急げ、だな!今から顔を洗ってくる故、少々待っていてくれ!」
「ヴィアレ、着替えはこれね」
「ありがとうエミリオ!」

エミリオから着替えを手渡されたヴィアレは、凄まじい勢いで外に飛び出していく。その様子を、皆苦笑いしながら見送った。

5ヶ月前 No.442

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ナラカがいるという空き家の前には、既に三人の先客がいた。エルトとアリックを伴って目的地までたどり着いたヴィアレは、片手を挙げて後方から彼らに挨拶をする。

「おはよう!スメルトと、紫蘭と……ええと、そなたは何処の者かな?会ったことがあるのなら申し訳ないが……」
「……!ヴィアレ……!」

三人のうち二人の名前は覚えていたが、もう一人の名前だけは━━━━というか、ヴィアレには見覚えがなかった。見たところ十代後半程だろうか、振り返ったその人物は精悍な顔立ちをした青年だった。風に靡く金髪と青い瞳が美しい。単に容姿だけでなく、細々とした部分の立ち振舞いからも気品が感じ取れる。良家の子息と紹介されても違和感はない。
そんな青年は、ヴィアレの姿を見るとぱっと表情を綻ばせた。初対面のはずなのに、何処か既視感がある。ヴィアレが首を捻っていると、青年はヴィアレの手をぎゅっと握った。


「ヴィアレ、俺だ!ルタだ!」
「━━━━え」


ぴしり、と時が止まる━━━━かのような雰囲気がその場に漂う。ヴィアレは混乱のあまり言葉を失った。この、どう見てもヴィアレよりも年上に見える青年が、ルタ━━━━。

「……どうします、これ?もう私には説明出来なさそうなのですが」
「諦めるなアリック!おいっ、其処のアーカムの王子とやらもそっぽを向いていないで何とか言ったらどうなのだ!貴様らは君子になりたくないのか!?」
「そう言うなら君が説明しなよ。僕、君子とかどうでも良いし」

アリック、紫蘭、スメルトのやり取りはいつも通りである。相変わらずのぐだぐだとした感じに、その場の空気も一瞬で弛くなった……ように思えた。部外者のようになってしまったエルトは、諦観の眼差しで三人のやり取りを眺めている。
とにもかくにも、ナラカに会う前にルタの問題は一段落させておかねばならない。これまでルタは、外見年齢が実年齢に見合ったものではなかった。それがいきなり釣り合うものになってしまったのだから、事情を知らないヴィアレとしては大混乱かつ大困惑である。言葉が出ないのも致し方ない。

「……ええとだな、ヴィアレ。驚くかもしれないが、どうやらルタ殿は五大の影響を受けなくなったことにより急激に成長したらしい。昨日は成長痛に悩まされていたようだ」
「そ……そうなのか……」
「いや、私も信じられないのだがな。起こってしまったことは仕方がないだろう。ルタ殿もこの通りぴんぴんしておられるし、まあ良かったのではないか?」

どうやら吹っ切れてしまったのか、最早開き直った様子で紫蘭が説明する。ヴィアレはどう反応して良いのかわからなかったが、とりあえずルタが元気なら良いということにしておいた。何事にも妥協は肝心だ。

「お、驚かせてしまったのは申し訳ないと思っているが……。まずはナラカへの面会を先にしないか?いつまでも玄関口で話しているのも何だろう」

場の空気に耐えかねたのか、渦中にいたルタがおずおずと一同に進言してきた。たしかに、よくよく考えてみれば此処はナラカのいる家屋の目の前である。中にいるであろうナラカからしてみても、玄関先でいつまでも駄弁られていては迷惑極まりないだろう。冷静になった一同は一先ずルタについての話を此処で終わらせることにした。引き際を見誤るような真似だけは避けたい。

「……して、首尾は如何ですか?あなたたちもナラカへの接触を図っていたのでしょう?」
「うーん、君には言いたくないけど、僕たちでもさっぱり。だから駄目元で君たちに任せようと思ってさ。君が関わるのは癪だけど」
「私だって、好きでこのようなことをしている訳では━━━━っ、やめなさい。あなたの気持ちはわかりましたから」

すげなくスメルトを一蹴しようとしたエルトだったが、肩に乗っていた餅蜥蜴にぺしぺしと頬を叩かれて意見を改めた。てっきり多少心を許してくれたため近くにいるものかと思っていたが、どうやらそれはエルトの見当違いだったらしい。餅蜥蜴の方はまだエルトを警戒している━━━━というか、良いように使っているようだ。小さい体をしていながら強かな生き物である。
とりあえず、エルトはこんこんと扉を叩いてみる。無論反応はなかった。見事なまでの居留守である。肩口からじっとりした視線が向けられているような気がしないでもないが、気にしないことにしておこう。

「……そもそも、ナラカが信を置いているあなたたちでも駄目なのであれば、私が出ても無駄ではありませんか?」
「自分から動いておいてそれはないと思うよ?それに、君より其処の子の方がずっと良さそうだと思うけど」
「……アリック殿ではいけないのですか?確か、ナラカとは仲良くしていたでしょう」
「嗚呼、この者なら先程惨敗していたぞ。こっぴどく無視されて凹んでいたな。良い気味……ごほん、見ていて憐れになる有り様だった」
「紫蘭殿、後で私の借りているお家の裏に来なさい。少し話があります」

ナラカの知り合いは、他人を煽ることしか出来ないのだろうか。そうエルトが思ってしまう程に、彼らの言葉は(色々な意味で)容赦がなかった。知らないうちに内輪揉めが始まっている始末だ。これはさすがに手に負えない。今更ながら、ナラカも苦労していたのだなとエルトは思い知らされた。
そんな惨事を見かねたのか、ルタがちょいちょいとヴィアレの肩をつつく。少し顔が赤いように見えるのは気のせいだろうか。

「此処はやはりヴィアレに任せるのが良いと思う。ヴィアレは、ナラカとも仲良くしていたから……。きっと、ナラカも顔を見せてくれるはずだ」
「……うむ、そうだな。我が行くとしよう」
「ところでこの会話、多分ナラカの方に筒抜けだが大丈夫なのか?」
「しっ!紫蘭殿、お静かに」

またしても余計なことを言おうとする紫蘭の口を、アリックが物理的に塞ぐ。本当にこの隠密の少女からは目が離せない。悪い意味で。
それはそれとして、何もしないことに意味はないので、ヴィアレはまず何度か扉を叩いた。しかし何度叩いても扉の向こうからは返答ひとつ返ってこない。まるで中に誰もいないかのようだ。

「……よし」

此処でヴィアレは作戦を変えることにした。扉を叩いているだけでは駄目だ。ナラカの心を揺さぶることが出来るような呼び掛けをしなくては。

「ナラカ!いるのだろう!?我に顔を見せてはくれまいか!」

扉を叩くことを止めたヴィアレは、声を張り上げて家屋の中にいるのであろうナラカへと呼び掛ける。当然返事は返ってこない。だが、ヴィアレはそれだけで諦めることはなかった。

「此処には我以外にもたくさんの者がいる!皆そなたに会いたいと思うておる!紫蘭やスメルトなど、扉を壊さん勢いだぞ!」
「え、僕この隠密と同じ扱いなの?」
「それは此方の台詞だ!」

後ろで何やら揉めそうになっていたが、今はナラカを呼び出すことが先決である。ヴィアレとて二人に破壊の濡れ衣を押し付けてしまったことは申し訳ないと思っているが、今は気にしないことにした。きっとアリック辺りが上手く抑えてくれることを信じよう。

「……ナラカ。そなたの気持ちは、我の知るところではない。そなたが傷付き、辛い思いをしているというのなら、無理強いするのは得策ではないと思う。だが、こうして無事に地上に出ることが出来たのだ。一目だけでも、顔を見せて欲しい」

ヴィアレの口調は穏やかだ。呼び掛けるというよりは語り掛けるような口振りに、今まで騒いでいた周りの者たちも静かになる。
やがて、きぃ、と軋んだ音を立てて、扉が少しだけ開いた。その隙間から、絞り出すような声が聞こえてくる。

「……ごめんなさい、居留守を使って。でも、さすがに人様のお家を破壊するのは、どうかと」
「ナラカ……!」
「……とりあえず、皆さん中に入ってくれませんか?玄関口でずっと話すのはどうかと思いますので」

つっけんどんな口調でナラカは告げる。だが、何にせよナラカが面会を許してくれたのだ。彼女の提案に反対する者は誰もおらず、皆揃って彼女の借りている家の中へと足を踏み入れた。

5ヶ月前 No.443

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ナラカはどういう訳か、頭から布団を被っていた。まるで神殿を脱け出そうとしていた時のヴィアレである。尤も、ナラカがそんなことを知るはずもないので、ただの偶然なのだろうが。

「それで、ナラカ。具合の方はどうなのだ?」

適当なところに座れと言われたので、ナラカの隣に座ってヴィアレは彼女に問いかける。相変わらず良い意味で遠慮がない。ナラカのお友達を自称しているアリックでさえも、気を遣ってか彼女から少し距離を取って座っているというのに。
ナラカは布団を被ったまま、ちらとヴィアレに視線を寄越す。窓を開けていないせいで部屋は薄暗く、布団の影に隠れてナラカの表情はわかりにくい。

「……まあ、瑞英さんからは特に異常はない、と言われました。ですので、動く分には大丈夫かと」
「そうなのか!安心したぞ」
「……私としては、ヴィアレさんの体調の方が気になりますけどね。仕組みはよくわからないけど、これまでとは違う……言わば、人間の体になったんでしょう?いくら瑞英さんやリリアさんが大丈夫って言ったって、一安心は出来ませんよ」

口には出さなかったが、ナラカの言うことは尤もだ、とエルトは思う。これまで精霊の端末として生きてきたヴィアレだが、サヴィヤの人間性を詰め込んだ首飾りをその身に宿すことによって一人の人間となったのだ。不都合があっても可笑しくはない。それが心配で、エルトはヴィアレの傍にいたようなものである。もしかしたら、ヴィアレはこのまま眠り続けるのではなかろうか、とはらはらしながら彼の寝顔を眺めていた。
そんなエルトの心中をヴィアレが察している訳もなく、彼はナラカに「うむ、気を付ける!」とはきはき答えていた。これくらい元気なら問題はなさそうだが、それでも心配にさせるのがヴィアレである。自分の心配よりも他人の心配をするから厄介極まりない。

「して、何故ナラカはそのように布団を被っているのだ?まるで饅頭のようだぞ」
「餅ではないのか?」
「紫蘭殿のご意見はまた後で聞きますから、今はどうかお静かに」

恐らく餅と餅蜥蜴をかけているのだろうが、紫蘭はあまりにも空気を読まない。やりたくもないお目付け役をやらされているアリックの表情にも疲れが見える。この二人は犬猿の仲だというのに、よくやるものだ。紫蘭を御せる数少ない人間というのが災いしたのかもしれない。だとしたら不運なことだ。
閑話休題。ヴィアレから遠慮のえの字もなく問いかけられたナラカは、ますます表情を暗くしてうつむいてしまった。そしてそのまま、ぼそぼそと告げる。

「……そういえば、ヴィアレさんは知らないんでしたね」
「ナラカ……?」
「……これを見ても、先程と同じように問うことが出来ますか?」

そう言ってから、ナラカは躊躇いなく被っていた布団を剥ぎ取った。ひゅ、と誰かが息を飲む音が聞こえてくる。薄暗くとも、ナラカの顔はよく見えた。それがいけなかったのだろう。


ナラカの顔には、未だ瘴気の残滓が染み付いていた。


毒々しい色をしたその痣は、いくら知り合いとは言え見た者の心臓に良いとは言えないものである。ヴィアレは目を見開き、エルトは申し訳なさそうに目を逸らし、アリックは顔を真っ青にして「ナラカ殿……」と消え入りそうな声で呟き、ルタはうつむき、紫蘭は言葉を失い、スメルトは悔しげに唇を噛んだ。誰もが、ナラカのことを直視出来なかったのだ。

「……私が甘かったみたいです。地上に出れば、この痣も消えるだろう、と……。根拠もなく、そう信じていました」

一同から向けられる居たたまれない表情に、ナラカは無表情で返す。それは意に介していないというよりは、向けられる視線、そして感情全てを拒絶しているかのように見える。いくらエミリオに励まされようと、この痣が消えなかったことはナラカにとって衝撃的だったらしい。彼女は拳をきつく握り締めながら、震える声で続ける。

「こんな顔で、外になんて出られません。きっとシャルヴァの人たちも、そうでない人たちも私のことを気味悪がる。そんなの嫌なんです」
「ナラカ……」
「臆病者だと笑いたいなら笑いなさい。もう冷たい視線を向けられるのは嫌だ。だからもう私のところを訪ねないでください。私とて皆さんに迷惑はかけられない。勿論すぐに此処を出ていくつもりでいます。だから━━━━」

ナラカが最後まで言い終わる前に、“彼女”は動いていた。突然立ち上がった彼女は、周りのことなど気にすることなく、淀みのない足取りで閉めきられている窓の傍へと近付いていく。そして、躊躇いなく窓を開けた。太陽光がこれでもかとばかりに入り込んでくる。

「私には、貴様の気持ちなどわからん!」

それはよく通る声であった。君子を自称する彼女━━━━すなわち紫蘭は、窓を全開にしながら叫ぶ。ナラカはきょとんとして、紫蘭の顔を見上げていた。

「だが、このようなじめじめとした部屋で沈んでいるのはどうかと思うぞ!このままではそのうち貴様に茸が生える!落ち込むのはわからなくもないが、生活くらいはきちんとせんか!」
「……紫蘭さん」
「大体、貴様に落ち込んだ顔など似合わぬわ!貴様は窮地に立たされようと、難敵に立ち塞がられようと、目の前を睨み付けて踏ん張る気概の持ち主であろう!それならば今だって…………っ!?」

年に似合わぬ口調でナラカに説教をしていた紫蘭は、唐突に口をつぐんでわなわなと震え始めた。ナラカの顔を指差しながら、口をあんぐりと開けて。

「……何ですか、失礼ですよ」
「な、な、ナラカ……!きっ、貴様、貴様の顔が……!」
「瘴気ならもともと染み付いていたはずですけど」
「そうではない、そうではないのだ!その瘴気が消えていっているんだ!貴様、試しに私の目の前に向かって腕捲りしてみろ!」
「……?一体、どういう……」

もしかして、自分は紫蘭にからかわれているのではなかろうか。そんな半信半疑といった表情のナラカだが、渋々言われた通りに腕捲りをしてみる。紫蘭のいる方向━━━━開かれた窓に向かって。


次の瞬間、ナラカの肌に染み付いていた瘴気が光の粒となって空気に溶けていく。


これにはナラカも、ナラカ以外の面々も驚愕せざるを得なかった。きっとナラカは知らないことであろうが、就寝したナラカの様子を見に来たリリアも、これは手の施しようがないと首を横に振っていたのだ。それが一瞬にして消えていったとなれば、誰もが驚くこと間違いなしだろう。

(……ああ、なるほど)

だが、驚きはしても、エルトには何となく理由がわかっていた。ヴィアレやアリック、そしてスメルトも交えて騒いでいるナラカを横目で見ながら、彼は静かに思案する。
エルトたちが地上にたどり着いたのは黄昏時であった。夕日こそ見えてはいたものの、太陽はヒマラヤの霊峰の向こうに沈みきった後で、太陽光を直接浴びることは出来なかった。ナラカは地上に戻れば瘴気の痣も消えると思っていたようだから、余程衝撃を受けたのだろう。この痣は地上にたどり着こうと消えることはないのだ、と。

(だが、そのようなことはなかった。我が祖は太陽を恐れ、月を恐れ、星を恐れ……空を手放して理想郷を創ったのだ。だからこそ、それらの光は理想郷で得た全ての恩恵、そして呪詛を破壊する)

昨夜は曇っていたためか、月も星も出ていなかった。だが、今日は目を突かんばかりの晴天である。紫蘭が窓を開けたことで入ってきた太陽光が、ナラカに染み付いていた瘴気を焼いたのだろう。

「わ、私っ、水浴びに行ってきます!」
「よし、その意気だナラカ!私が付いていってやる、思う存分に体を清めるが良い!」
「この隠密だけじゃ不安だし、僕も付いていくね」
「私がいますから、スメルト殿は待っていてくださいッ!」

一転して瞳を輝かせながら、ナラカは家を飛び出していく。それを追いかけていく面々を見ながら、ヴィアレとエルトは苦笑しつつ顔を見合わせた。

5ヶ月前 No.444

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日の下で全身をくまなく洗ったことによって、ナラカの体に染み付いていた瘴気は綺麗さっぱり浄化されたらしい。いつになく輝かしい表情で帰ってきたナラカを見て、ヴィアレもエルトもそれを理解した。後ろで睨み合っているアリックと紫蘭に関しては目を瞑ろう。きっと今回もナラカのいないところで揉めていたに違いない。

「と、とりあえずナラカの悩みも解決したことだし、今後の予定について話さないか?ずっとこの村に留まっている訳にもいかないだろう」

苦し紛れといった様子で話を切り出したのはルタだった。この面子の中ではどうしても常識的な枠になってしまうせいか、彼の眉は下がりっぱなしである。それでも諦観の姿勢に落ちないところがルタらしい。
何はともあれ、今後の予定というのは大切である。地上に出たのは良いが、方針が定まっていなければどうにもしようがない。下手すればヒマラヤの森で遭難、なんてこともあり得る。地上を知っていても知らざろうとも、無謀な行動だけは避けたいものだ。出来ることなら、皆の目的を聞いてから動いておきたい。

「私は勿論、イングランドに帰りますよ。サーには悪いことをしてしまいましたから」

最初に口を開いたのはアリックだった。彼女はもともと地上の生まれなので、故郷に戻るつもりでいるらしい。

「私の目的は父上を捜すことでしたからね。父上のことがわかった以上、此処に留まっている理由はありません。サーだけではなく、女王陛下にも申し訳ないことをしました。ですから、私は一刻も早くイングランドに帰らなくてはなりません」
「あの……。アドルファス殿……じゃない、アリックさんのお父上は……」
「ああ、ナラカ殿は先に休まれてしまいましたからね。父上であれば、この村から少し歩いたところに埋葬しましたよ。さすがに父上をイングランドまで連れていくことは出来ません。父上もきっと納得しておられるでしょう」
「……そう、ですか」

ナラカの表情が憂いに翳る。アドルファスの埋葬はエルトも手伝ったので、ナラカの気持ちが沈むのも何となく理解出来た。アリックの身の上は昨夜に彼女自身から聞いたのだが、何とまあ行動力あってこそのものである。アリックのことは男性だと勘違いしていたので尚更だ。父親を捜すためだけに国を飛び出し、危険を冒してまでシャルヴァにやって来たとは恐れ入る。

(彼女の話で、精霊のヴィアレが顕現した理由も掴めたからな)

過ぎた話ではあるが、エルトは精霊のヴィアレの話を全て把握、そして理解していた訳ではなかった。何故ヴィアレがああまで文明の利器に危機感を覚えたのか。その理由となったのが、アドルファス━━━━もとい、アリックの父親をはじめとする外界からの人々であった。
10年間地上を旅していてエルトも知っていたことだが、世界は収縮を続けている。遠き異国や海を隔てた新大陸を求めて、人々は進み続けている。伝承に聞く理想郷を求めるのも可笑しくはない話だ。もしかしたらシャルヴァも異国の植民地になっていたかもしれない。そう思った精霊のヴィアレの心中は如何程のものであっただろうか。精霊のヴィアレのやり方が正しいとは言い切れないが、あの精霊の考えていたことは少しだけわかった気がする。━━━━そう、今になってエルトは思うのだ。

「わ……私も、アリックさんと同じように、故郷━━━━日ノ本に帰ろうと思っています。先程アリックさんや紫蘭さんに教えていただいたのですけど、どうやらライオ・デ・ソル商会の皆さんは亜細亜の市場を経由するらしいんです。私も途中まで商会の方々に同行させていただくつもりでいます」

アリックをちらと見てから発言したのはナラカである。彼女は故郷に帰るものだろうとほとんどの者が予想していた。あれだけ帰りたい帰りたいと言っていたのだから、当然と言えば当然か。

「そういえばスメルト、貴様はどうする?地上で特に向かいたい場所もなかろう、ナラカに付いていくというのもひとつの手だと思うぞ?」

そんな中で、紫蘭がにやにやとしながらスメルトの脇腹を軽く肘で小突いた。体の丈夫なスメルトが顔をしかめていたことから、それなりに痛かったのだろう。小柄な体の何処から馬鹿力が出ているのかはわからないが、つくづく紫蘭は恐ろしい。
紫蘭からからかわれたスメルトは、その表情に不機嫌そうな色を見せた。無駄に近付く彼女を避けながら、スメルトは告げる。

「何言ってるの?僕はナラカに付いてはいかないよ」
「そうかそうか、貴様はやはり━━━━何だとぅ!?」

思いもよらないスメルトの言葉に、紫蘭は勢い良く立ち上がる。床に座ったいたから良いようなものの、椅子に座っていたらがたがたと少なからず物音がしていたに違いない。それだけの驚きぶりであった。

「じょ、冗談はよせ!スメルト、貴様はナラカに嫌という程なついていただろう!?何故付いていかないことにしたのだ!」
「何故……って言われてもさぁ。僕は僕、ナラカはナラカ。全く違う生き物なんだよ?だったらその先の道だって同じとは限らないじゃない。僕はナラカのことが大事だよ。だから、僕の我が儘でナラカに迷惑をかけたくはないんだ」

スメルトの目は真っ直ぐだった。ただ真摯にナラカを見据えながら、彼は続ける。

「それに、ナラカにはきっと待ってる人がいるはずだから。其処に僕がいたら良くないし、何より僕が納得いかない。だから僕は、僕でもいて良いって言ってもらえるような場所を探すことにするよ。ナラカの前で善きものになれたのなら、他の場所でだってそれが出来るはず。羅刹のいない地上ではもっと辛い仕打ちを受けるかもしれないし、逆に全然気にされないかもしれないけど……。でも、僕に出来ることをやろうと思うよ。もう僕は混血って境遇には縛られないはずだから」
「スメルトさん……」
「まあ、ナラカと離れるのはすっごく寂しいけどね?機会があったら、ナラカのいる日ノ本にも行ってみようかな━━━━って君、何で泣いてるの?」

しんみりした雰囲気もつかの間であった。見てみれば、紫蘭が滝のような勢いで涙を流している。ナラカから手渡された懐紙で洟をかみながら、紫蘭は真っ赤な目をしたままスメルトへと詰め寄る。

「ぐすっ、ひぐっ……!スメルト、私は貴様を見くびっていた……!貴様はずっとナラカに付いて忠犬のように在るものかと思っていたが……それは全くの見当違いだったのだな!」
「ちょっと、暑苦しいからやめてくれない?」
「わ、私は君子失格だ!貴様の本質を見極めることもせず、先入観のみで判断し、戦場でも貴様を端から否定して打ちのめしてしまった……!この紫蘭、中華の地にて修行し直さなければならぬ!」
「いや、あのな……。紫蘭、そなたは……」
「ならぬものはならぬ!!」
「……放っておきなさい。ああいう手合いはそっとしておくのがよろしい」

ずびずび洟を鳴らしながら叫ぶ紫蘭に、さすがのヴィアレも黙ってはいられなかったようだ。心配そうに彼女に声をかけようとしたが、横からエルトが口を挟んだことで事なきを得た。とにもかくにも、紫蘭は中華に向かう予定のようだ。先祖の故郷なので、馴染むことにそう時間はかからないだろう。
此処で、ヴィアレはエルトへと向き直る。ヴィアレはこの後、自分がどうするべきかわからない。そのため、エルトの意見を聞いておこうと考えたのだ。

「なぁ、エルトはこれからどうするつもりなのだ?」
「私ですか?私はアーカムの祖の生まれ故郷があったとされる地を目指しますよ。伝承のうちにしか息づかない土地ではありますが、其処で得るものが皆無ということはないはずです。アーカムの王家に生まれた者として、私に出来ることを成しますよ」
「そうなのか!では、我も━━━━」

我も其処に付いていって良いだろうか、とヴィアレは口にしようとした。しかし、全てを言い終える前に、エルトに唇を指で押さえられる。

「いけませんよ、ヴィアレ。あなたはもう精霊の端末ではない。ヴィアレという名の、一人の人間なのですよ?いつまでも私に付いて回るのはお止しなさい。スメルトの話を聞いていなかったのですか?」
「しかし……」
「今のあなたは、私しか頼れない訳ではないでしょう。人を頼るな、とは言いません。ヴィアレ、あなたはシャルヴァで数多くの出会いを果たした。もう、あなたが頼れるのは私だけではありません。その者たちの手を借りて、自分の行きたい道を進みなさい」

エルトの表情は優しかった。ヴィアレの今後を思い、助言してくれていることはヴィアレ自身も、その周りの者もわかっていた。故にこそ、ヴィアレはエルトに告げる。

「……しかし、我はどうしたいのかわからないのだ。我にはすべきことがない。やりたいと思うこともない。故に、そなたに付いていこうと思うた。そなたなら、この地上のことをよく知っているだろうからな」
「私はあなたよりも世を知っているというだけで、全知全能という訳ではありません。日ノ本やイングランドのことに関しては、ナラカやアリックに劣るでしょう。私もあなたと同じように、世界を知らない」
「……だが、そもそも我には目的がない。そなたのように、今後の計画を有していないのだ。その場合、我は一体どうしたら……」

再び翳ろうとしていたヴィアレだったが、その手は不器用に握られた。ヴィアレが顔を上げると、其処にはどういう訳か顔を真っ赤にしたルタがいる。成長しても、浮かぶ表情はほとんど変わらない。

「わ、わからないのなら、それを探す旅に出れば良いのではないか!?」
「ルタ……?」
「お……俺も、シャルヴァから出た後、どうすれば良いのかわからないんだ!けれど、わからないからと言って立ち止まったままでは、この先俺たちは何も変わらない!不安なこともたくさんあるとは思うが、此処はひとつ、俺と共に世界を巡る旅をしてみないか!?」

ルタの声は上擦り、頬は紅葉を散らしたかのように紅潮していた。不思議なことだが、幼い子供の姿でいた頃よりも初々しさが見て取れる。それは子供らしいというよりも、年頃の少年のする表情に近かった。
ヴィアレはルタの言葉を聞いて、少しの間きょとんとしていた。やがてその紅の瞳は輝き、ルタの手は握り返される。

「うむ、うむ!それは良い提案だ、ルタ!そなたと旅をすることは、我にとっての楽しみとなろう!」
「ほ、本当か……!?嬉しい……!」

見ていて歯がゆくなるような光景に、一同の表情も思わず綻ぶ。━━━━が、此処でナラカはあることに気付いたらしい。珍しくエルトに近寄っていくと、こっそりと彼に耳打ちした。

「あの……ヴィアレさんの性別って……」
「……精霊の端末である時は、自分の思うように変えられたようです。初めに出会った人間が私でしたから、自分も男だと思い込んだのでしょう」
「じゃあ、今は」
「……ええ。体を拭いてやった時に確認しましたが、ヴィアレは正真正銘の男性です。顔立ちや表面上は変わらないように見えますがね」
「…………ルタさん…………」

エルトの返答に、ナラカは何かを悟ったかのように黙りこくった。甘酸っぱい雰囲気の中で、エルトとナラカだけが、諦念の眼差しでヴィアレとルタを見つめていた。

5ヶ月前 No.445

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「……それでは、そろそろ出発だな」

翌日、身支度を整えたヴィアレは村の裏手でエルトやナラカと待ち合わせをしていた。向かう方向はそれぞれ異なる。ただ、どうしても二人とは別れる前に話しておきたかったのだ。昨日も十分話したように思えるが、いざ出立となると話し足りなくて仕方がない。
ヴィアレの誘いを、エルトもナラカも断らなかった。連れや同行者には話しておくから時間がかかるのは気にしなくて良い、と二人とも言ってくれた。何となく気を遣われているような風だが、敢えてヴィアレは気にしないことにしておいた。二人とはもう話せないかもしれないのだ。貴重な機会は大切にしておきたい。

「お待たせしてしまいましたね」
「……遅れて、ごめんなさい」

エルトとナラカは、互いに申し訳なさそうな顔をしてやって来た。言い訳をせずにまず謝罪するところが二人らしい。ヴィアレはそんな二人に微笑みながら、そんなことはないと言うように首を横に振った。

「良いのだ。二人に無茶を言ったのは我なのだからな。それに、我も今さっき来たところだ。そう気に病む必要はないぞ」
「ありがとう、ヴィアレ。私としても、お二人とは話しておきたかったのでね。あなたが機会を設けてくれたこと、嬉しく思います」

口には出さなかったが、ナラカもエルトの言葉にこくこくとうなずいていた。自分も同じように思っている、と言いたいのだろう。出会った当初に比べたら、この二人も打ち解けたものである。二人の関係を案じていたヴィアレも、これには一安心といったところだ。

「そういえば、他の者たちは今後どうするつもりなのか聞いてはいないか?我の知らない者でも構わぬ」

とりあえず、ヴィアレはまだこの先の動向を知らない者たちがどうするつもりなのかを二人に問うことにした。出来ることなら、知り合いの行く先は知っておきたかったのだ。恐らく、この先で再会出来る者は少ない。シャルヴァにいた者たちが何を目指し、何を目的に進んでいくのか。ヴィアレはそれなりに気になっていた。

「リリア殿は、もう少し大きな町まで出るつもりだそうです。何でも、医術に関わるお仕事がしたいのだとか。義姉上の方は、ライオ・デ・ソル商会の方々と共にイスパニアに行くとおっしゃっていました」
「へぇ、キラナさんにしては意外ですね。……失礼、話を戻します。アロイスさんとラビスさんは傭兵でもやりながら定住の地を探すおつもりのようです。ラビスさんは案の定アロイスさんに付いていく形になりましたね」

エルトは時折思い出すかのように、ナラカはキラナの行動に意外そうな顔をしてから自分の知っている人物について話す。ナラカは途中までライオ・デ・ソル商会の者たちと行動を共にするから、キラナの同行に関してはその際に聞くつもりなのだろう。何にせよ、いつも自室に閉じこもっていた彼女が自分から行動を起こしたのだ。エルトもナラカも、悪い気はしない。
ヴィアレは二人の話を聞きながら、ふむふむと相槌を打っていた。そしてあることに気付いたのか、寂しそうに眉尻を下げる。

「……今の話に挙がらなかった者たちは、皆シャルヴァで散ることを良しとしたのだな」
「…………」

ヴィアレの言わんとするところは、二人もよくわかっているつもりであった。だが、いざ言葉にされてみるとそれはそれで辛い。
エルトとナラカは同じように、ノルドは共に地上に来てくれるものだと思っていた。だが、彼はエステリアと共に地上に残った。リリアからそれを聞いた時、エルトもナラカも思わず言葉を失った。同じ旧アーカム領で過ごし、面倒見の良かったノルド。彼とは長からぬ付き合いであった。それゆえに、別れすら告げられなかったことが悲しくて仕方がなかった。

(けれど、それが彼の決断だった以上、第三者が口出しすることは出来ない)

ノルドが何を思っていたかはわからない。だからこそ、ノルドの決めた行く末にとやかく言うのは無粋だ。
ハルシャフだって、自分でこうと決めてその身を擲った。誰を責めることもなく、最後までハルシャフのままで果てたのだ。エルトもナラカも、ハルシャフを喪った悲しみを誤魔化すことは出来ない。だが、彼の選んだ道を否定することは野暮に過ぎる。ハルシャフは、エルトたちの生を望んだ。ならば彼が納得するよう生きることこそが、ハルシャフへの最大の餞となるのだろう。

「……わかっておる。我も、その者らの決断を否定はせぬよ。ただ……少し、悲しくなってしまってな」

沈黙するエルトとナラカの表情を見たヴィアレは、無理矢理笑顔を作ろうとしていた。自分に嘘が吐けないヴィアレなので、どうしても表情には憂いが混じってしまっていたが。

「数多の者たちに助けられて、我は此処に立っている。だから、せめて世話になった者に一言礼を言ってやりたかった。ノルドにも、ハルシャフにも……それに、我の知らないところで我を助けてくれていた者たちにも。我は何かしらの形で、感謝の意を伝えたかった」
「……それが思うように出来たら、人間は思い悩み煩悶することはないでしょう。死者に言葉を伝えることは不可能です。だからこそ、あなたは━━━━いいえ、私たちは生きるべきだ」

後悔の念を募らせるヴィアレに言葉をかけたのはナラカであった。彼女の言葉尻は手厳しかったが、其処には不思議と温かさが込められているように聞こえた。

「私も、多くの人々によって今を生きている。誰の手も借りずに生きていくなんて、人間には到底不可能なこと。だからくよくよするのは今だけにしましょう。いつまでも後ろ向きになっていたら、そのうち黴が生えてきてしまいますからね」
「……ナラカ、それはあなたにも当てはまるのでは?」
「う、うるさいな!私だってたまには年上面してみたいんです!たしかに私だってくよくよめそめそしてましたけど、最終的に打開策は見つかったから良いじゃありませんか!」

ナラカとしては大人っぽくヴィアレのことを励ましてやりたかったようだが、エルトの突っ込みによってその目論見は脆くも崩れた。たしかにナラカは周りにいる人々と比べると年下であることが多かったので、一度は年上面をしてみたかったのだろう。ヴィアレとエルトは預かり知らぬところだが、日ノ本にいた頃もあまり頼られることはなかったらしい。小さくて内向的で妹となると、仕方がなかったのかもしれないが。
エルトとナラカのやり取りを、ヴィアレは微笑ましそうに眺めていた。其処に先程までの翳りはない。

「ふふ、ありがとうナラカ。そうだな、いつまでも後ろばかり向いてはいられぬ。我等はこれより旅立つのだから、もっと先を見据えていかなければ」
「その意気です、ヴィアレ。やはりそうでなくては。あなたに沈んだ顔は似合いません」
「ですね。今回ばかりはエルトに同意します。ヴィアレさんは憂える顔よりも、明るい顔をしていた方が似合いますもの。……あ、でも、これから悲しいことがあったら、遠慮なくルタさんに頼って良いんですからね?あの子……いや、あの人、ヴィアレさんに頼って欲しくて仕方がないみたいですし。まあ頼りすぎると大変なことになるかもしれないので、程々に甘えてみたら良いんじゃないですか?」

何にせよ節度は守ってくださいね、と付け加えて、ナラカは含みのある微笑みを浮かべる。彼女なりに助言をしてくれているらしい。意味はよくわからなかったが、ヴィアレはありがたく受け取っておくことにした。エルトが呆れたような顔をしていたが、まあ気にする程でもないだろう。

「……さて!そろそろ発たねばなるまい。これ以上此処に留まっていたら、もっと別れが辛くなってしまう」

気を取り直すように声を張って、ヴィアレはエルトとナラカに向き直る。二人も、ヴィアレの言わんとしていることは理解したのだろう。穏やかな表情でヴィアレに向かっていた。
思えば、ヴィアレはこの二人との付き合いが一番長かったように思える。時に対立し、時に複雑な感情を抱き、そして何より多くのことを学ばされた。この世に生まれたてと言っても過言ではないヴィアレを、先頭立って導いてくれたような存在だ。二人には、感謝してもしきれない。

「……エルト、そしてナラカ。また会おう、とは言わぬ。我等の行く道は異なる。それらが交わる機会など、本当に稀なことなのだろう。我はそなたたちと出会えたことに感謝している。たくさん迷惑をかけて恩返し出来ないのは申し訳ないが、ありがたく思っているのは事実だ」
「……そのようなこと、わかっていますよ。私は恩返しを望んであなたを助けた訳ではありませんから」
「最初は付いてくるなと突っぱねられたがな。……何はともあれ、ありがとう。この青き空の下で、各々進みたい道を進み、成したいと思うことを成そう。理想郷で得られなかったものを、この不完全で綻びだらけの地上で得られたのなら、それは本当に喜ばしいことなのだろう」
「そうですね。今になって言えることだけど、あなたたちに━━━━ううん、皆に会えて良かったのかなって思うよ。どうか、皆の進む先に幸多からんことを」

お互いに微笑み合いながら、彼らは出立に際して言祝いだ。言祝ぎと言うには些か情に流され過ぎている気がしないでもないが、むしろこのくらいが丁度良い。
一通り言祝ぎが終わったところで、三人はそれぞれの向かう方向へと歩を進める。ヴィアレもエルトもナラカも、後ろを振り返ることはしなかった。別れが惜しくない訳ではない。だからこそ、彼らを引き留めたくはなかったのだ。見るのはこれからの行く先だけで良い。

(━━━━嗚呼、眩しい)

それは誰もが思ったことだ。何となく心中に広がっていく寂しさを紛らわせるために、彼らは空を見上げたのだ。もう晩秋に入りかかる頃合いだというのに、照り付ける太陽は眩しいの一言に尽きる。きっとこの先、数えきれない程この空を見上げることになるのだろう。


結んだ縁を尊びながら。理想郷を否定した者たちは、それぞれの思いを胸に歩き出した。

5ヶ月前 No.446

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【終幕:理想郷の語り部】


所は日ノ本、季節は初冬。

慶長7年、近江国。肌に当たる風が冷たくとも、きゃっきゃとはしゃぐ童たちはそれを気にすることもない。彼らは一昨日にやって来た旅人から、何か面白い話を聞き出せないかと躍起になっていた。この旅人は初めこそ戸惑っていたものの、童たちの頼みを二つ返事で快諾した。そうして、ゆるりと歌うように話をし始めたのだった。


「━━━━理想郷を求める者は、どんなに時が流れようと絶えることはない」


旅人が選んだのは、伝説とも言えそうな“理想郷”の話であった。童たちは聞いたことのない話題にきらきらと瞳を輝かせる。旅人は童たちに気に入ってもらえるか心配だったようだが、彼らの反応を見て安心したように続きを話し始めた。
童たちは、神秘に包まれた旅人の話に夢中になった。もともと生まれ故郷から出たことのない彼らのことだ。異国の話なんて、滅多に聞いたことがなかったのだろう。旅人の話に食い付くのもうなずける。

「……そういった訳で、無事に扉が開かれたのなら、その先にあるのは人の世を捨てたことさえ喜ばしく感じられるほどの、地底に創られた理想的な国家なのだという。二度と空を見ることが出来なくなっても構わないと思えるほどの場所。すなわち其処は理想郷━━━━」
「━━━━こら、お前たち!あんまり旅人さんに苦労をかけるんじゃないよ!」

ゆったりとした口調で話を進めていた旅人だったが、突然割り込んできた乱入者によって話の腰は折られてしまう。童たちは「ひぇっ!」と怯えた様子を見せながら、ちゃっかり旅人を盾にしてその後ろに隠れる。

「良いじゃんか、このお兄さんも良いって言ってくれたんだから!」
「かか様、旅人さんのお話、とってもおもしろいんだよ!お手伝いなら後でするから、今だけ良いでしょー!?」
「ったく、お前たちねぇ……。いくら町が寂れて暇だからって、旅人さんに迷惑かけてちゃ話にならないよ。旅人さんにだって事情があるんだから、いつまでも引き留めてちゃいけないだろ?」

童たちを叱りに来た母親は、語気を弱めて肩を竦める。童たちにああは言っているものの、彼女自身も思うところがあるらしい。

「……この辺りで、何かあったのか?」

そんな彼女のことが気にかかったのだろう。黙って童たちの盾になっていた旅人が、おもむろに口を開いた。母親は「それがねぇ……」とやや声を潜めて旅人に答える。

「旅人さんは海の向こうに行ってたらしいから知らないだろうけど……。二年前に天下を分けたでかい戦があってね、この辺りを治めていた殿様が惨敗しちまったんだよ。それで、その殿様が入っていた城を廃城にして、新しい城を建てようって話が持ち上がったのさ。敗戦軍の将とは言え、前の殿様にはお世話になったからね。この辺りの者たちは寂しくて堪らないのさ」
「そうなのか……。込み入った話だというのに、わざわざすまない」
「良いってもんだよ。旅人さんくらいの美形が来てくれりゃあ、沈んだ空気も少しは軽くなるさね。……それにしてもまあ、よくあんな風の強い夜に一人で歩こうと思ったね。あたしが止めてなきゃ、きっと凍えて風邪引いてたよ」
「……その点に関しては、返す言葉も見つからない」

母親の言葉に、旅人はしょんぼりと悲しそうな空気をかもし出す。その素振りは何処か子供っぽい。
母親の言うとおり、この旅人は一昨日━━━━強風の日にこの地域へやって来た。本人はまだいけると言っていたが、母親は無理矢理に彼を泊めることにした。まだ雪は降っていないとは言え、この風で外に放り出しておくのは良くないと考えたのだろう。せめて宿屋に、と旅人はごねたが、其処は母親の器量で黙らせた。宿屋ではないにしろ、彼女の家は茶屋なのだ。旅人一人泊めるくらい造作もなかったし、何よりもこの旅人がすこぶる美形ときた。下手すれば神仙の類いと見紛うようなこの旅人を放っておくなんて出来っこない。童たちに「かか様面食いー」と揶揄られたことに関しては目を瞑っておきつつ、天気が落ち着くまで旅人に宿を貸していたという訳だ。

「そう落ち込まないどくれ。二年前の大戦から客足は減る一方でね。あたしの主人も戦働きに行って死んじまったし、常連さんも冥土に旅立っちまった。旅人さんみたいな人が来てくれただけでも、嬉しいもんだよ」
「…………」
「……嗚呼、でも一週間くらい前に、見知った顔の子が一人来てくれたんだよ。確か前の殿様のお城で働いてた女の子でねぇ。大戦の折に色々あって近江を離れていたらしいけど、やっと帰ってくることが出来たんだとさ。確か名前は天花って言ったかね。いやぁ、昔は静かで大人しそうな女の子だったけど、二年も経てば変わるもんだねぇ」

それまで静かに母親の話を聞いていた旅人だったが、彼女の口から天花という単語が出てきた瞬間に血相を変えた。赫とその空色の瞳を見開くと、母親に向き直る。

「その娘は何処へ向かった?知っているのなら教えて欲しい」
「確か、城下町に行くって言ってたよ。何でも母親の知り合いが新しい殿様に召し抱えられたとかで、その方を頼るんだとさ。旅人さん、あの子の知り合いかい?」
「ああ。彼女には数えきれない程に救われた。この恩義、生涯の中で返しきれそうもない」

なかなか崩れなかった旅人の表情が、ふっと糸をほどいたかのように崩れる。それは現のものとは思えない、艶冶の限りを尽くした微笑みであった。この麗しき旅人にこれほどまでの表情をさせる少女のことを、母親は末恐ろしく感ぜざるを得なかった。
旅人は天花という少女に早く会いたいのか、急いた様子で立ち上がる。周りにいた童たちは、物足りなさそうな顔付きで彼を見上げた。

「ねぇねぇ、さっきの話の続きはー?」
「せめて最後まで話してよぅ」
「ああ、そうだったな。お前たちには、理想郷の話をしていたんだった」

そのまま出発することも出来ただろうに、旅人は話を途中にしておくのはいけないと考えたのだろう。わざわざ童たちに向き直って、細流のような調子で続ける。

「安寧を、享楽を、もしくは前者以外の何かを求めて其処を目指す者は、口を揃えて皆こう言うのだ」

母親や、その子供たちはこの旅人の経歴を知らない。旅人からもそれを語ることはなく、ただの旅人として振る舞っていた。身の上から何から謎に包まれた彼だが、それでも構わないと思わせるだけの不思議な力を有していた。
━━━━嗚呼、この白妙の美男子こそが理想郷の住人なのではなかろうか。彼の語りを聞いた者たちはそう錯覚した。きっと、この美しく神秘的で、そうでありながらも人間臭い彼は、誰もが羨む理想郷で生まれたのではないか。その理想郷から、何らかの理由で現にやって来たのではないか。━━━━そう、何も知らない日の目を見る民にさえ思わせてしまう程であった。
旅人は語る。かつて存在した理想郷。たとえそれが夢幻であろうと、かつて存在したものであろうと。彼は自身に苦難と煌めきを与えてくれた地を、仙楽を奏でるように語り続ける。



「━━━━其の地の名はシャルヴァ。地の底に在りし、神代を模した理想郷、と」



【完】

5ヶ月前 No.447
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