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Utopia of the underground world

 ( 小説投稿城 )
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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

理想郷を求める者は、どんなに時が流れようと絶えることはない。


天をも穿たんとする霊峰の下、ずっとずっと下に、“それ”は存在した。密やかに窪んだ洞窟を通り抜けて、暗闇の中を進んで、道が続く限り足を進めて行けば、やがて古ぼけた扉の前にたどり着く。
其処には左右に獅子の銅像が設けられ、彼らのお眼鏡に敵えば扉は開き、彼らに認められなくば目の前の生き物は一瞬でその生を奪われるという。門番たる獅子が見定めるのは来訪者の経歴だとも、内面的なものであるとも噂されるが彼らは何も語らない。だからこそ、人は其処で躊躇うのだ。もしかしたら殺されてしまうのではないか、扉を開けてもらえないのではないのだろうか、と。
それは所謂試練なのだろう。人間とは試練を課される生き物である。否、生き物であれば誰しも試練を与えられるのだろう。それを乗り越えられなければ切り捨てられ、見事乗り越えることができたのなら彼らの望むものが手に入る。その摂理は太古の昔から変わることはなく、人が生まれ落ちてから幾度となく試練は与えられ続けた。これも過去に与えられた幾つもの前例に倣っているのだろう。
そういった訳で、無事に扉が開かれたのなら、その先にあるのは人の世を捨てたことさえ喜ばしく感じられるほどの、地底に創られた理想的な国家なのだという。二度と空を見ることが出来なくなっても構わないと思えるほどの場所。すなわち其処は理想郷。
安寧を、享楽を、もしくは前者以外の何かを求めて其処を目指す者は、口を揃えて皆こう言うのだ。


其の地の名はシャルヴァ。
地の底に在りし、神代を模した理想郷、と。

メモ2018/09/18 18:49 : すずり☆uVgy9R1pZdc @suzuri0213★Android-ti0IvmfI1e

【第1幕:さらば青空、向かうは地底】>>1-5

【幕間:シャルヴァなる地】>>6

【第2幕:王子の帰還】>>7-12

【第3幕:集落の営み】>>13-19

【幕間:焔が抱くは夢幻】>>20

【第4幕:本の杜への誘い】>>22-29

【第5幕:輪廻の忌み子と王子の記憶】>>30-34

【第6幕:緑纏う者たち】>>35-42

【第7幕:守り手の導き】>>43-47

【第8幕:神蛇の窖へ】>>48-52

【第9幕:旧き者たちの戦い】>>53-58

【第10幕:選定の儀】>>59-64

【第11幕:転機の訪れ】>>65-71

【第12幕:忌み子の憧憬】>>72-75

【幕間:其の日、彼女は生を求めた】>>76

【第13幕:王宮勤めの始まり】>>77-83

【第14幕:受難と薬師と可笑しな羅刹】>>84-92

【第15幕:雑色三人衆、初めてのお使い】>>93-

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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.47

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【第8幕:神蛇の窖へ】

翌日、朝食を出すからとウィルデが各々の部屋に声をかけたこともあってか、一同は昨夜テララと会話したあの洞に集まっていた。ヴィアレは相変わらず寝起きが良いから朝から元気だったし、ノルドは欠伸をしてはいるが特に具合が悪そうにも見えない。ナラカは昨晩に比べるとだいぶと顔色が良くなっていた。エルトだけは何やら神妙な表情をしており、ヴィアレはそんな彼を不思議そうに眺めていた。

「おはよう。ささ、朝御飯をお食べ。腹が減ってはなんとやら、だからね」

笑顔で洞に入ってきたテララの後ろには、器用なことに片手に朝食が乗っかった大皿、もう片方の手に人数分の杯と茶の入っているのだろう水差しを持っているウィルデがいた。下手したら落としてしまいそうな姿勢なのに、よくもまああそこまでひょいひょいと扱えるものだ、とヴィアレは感心してしまう。自分だったら絶対に落としている。

「この朝食って、お前が作ったのか?」
「……なんだよ、文句でもあるってのか?」
「いや、長なのに料理とかするんだなって思っただけだよ」

ノルドの質問にウィルデはぎろりと彼を睨み付ける。昨日のいざこざはまだウィルデの中で燻っているらしい。やはり根に持つ性分なのだろうか。

「この洞に住んでるのは俺と守り手様だけだからな。俺が作らなきゃどうしようもねぇだろ。それにもともと料理とか家事は嫌いじゃないからさ。日課みたいなもんだよ」
「なるほど、ウィルデは母のようなものなのだな!」
「……手前、それ本気で言ってるのか?」

ヴィアレには勿論悪気なんてないのだが、それでも彼の発言は直球に過ぎる。案の定ウィルデは瞳の笑っていない笑顔を浮かべてじりじりヴィアレに詰め寄る。だが其処に本気の敵意はなく、変なことを言ったヴィアレを軽く叱っているようにも見えた。さすがとでも言うべきなのだろうか、ヴィアレは意識していないのであろうが他人の懐に入るのが巧すぎる。

「そうだ、ノルド。はいこれ。例の草履だよ」
「お、おぉ、これが……!」

何気ない所作でテララがノルドへと手渡したもの、それは昨夜テララが作ることを承諾した件の草履だった。見たところ何か変わったようなところは見られない、何処にでもありそうな草履である。思わずヴィアレは身を乗り出して覗き込んだが、不思議と特別な感じはしなかった。むしろ普通過ぎて、他の草履に交えたらわからなくなってしまいそうだ。
それでもノルドにとっては重要なものに変わりはないのだろう、頭を床に擦り付ける勢いで謝礼を述べていた。テララはにこやかに「良いんだよ」と告げてから、付け加えるように続ける。

「そうだ、ついでだから、僕からひとつお願いをさせてくれないかな?」
「お願い……?」
「そう、この森から北に進んだところに洞窟があるんだけど……。其処を調べてきて欲しい。どうやら彼処に何かが住み着いているみたいだからね、猛獣でもいたらまずいだろう?だから君たちに様子見を頼みたいんだ」

テララはあくまでも強制することはなく、本当に“お願い”としてノルドたち一行に頼んだ。ノルドは草履を作ってもらったこともあってか軽く「おぅ、良いぜ!」と返していたし、ヴィアレもわくわくしているのか表情が明るい。“それにエルトは危機感を覚えた”。どうして、出会って1日2日の人間とも言えない存在の頼みをこうまでしてすんなりと聞くことが出来るのか。エルトは事情を知っているからまだ良い。しかしテララは先程、“猛獣かもしれない”とも口にしたのだ。そんな危険が付きまとう場所へ行くことに、何故彼処までの早さで二つ返事が出来て、楽しみに思うことが出来るというのか。

「……あの」

おずおずと。消え入ってしまいそうな声量で、それでも何とか伝えようと、挙手をした者があった。テララの視線がゆるりとそちらに向く。

「……の、ノルドさんは、“選定の儀”を間近に控えているんです。だから……その、危ない場所に行くのは、どうかと思うのですが……」

意外なことに、声を上げたのはこれまで黙々と朝食に集中していたナラカだった。彼女はノルドを兄のように慕っている。だからこそ、今回同行し、ノルドが羅刹に勝てる術を見つけたことを喜ばしく、そしてこれからの“選定の儀”を不安に思っているのだろう。この時初めてエルトはナラカを見直した。この小娘は少なくとも愚かではない。

「大丈夫だよ。此方からはウィルデを付けるし、いざとなったら逃げても構わないんだからね。言うなればノルドの草履の試し履きみたいなものだ。そうだろう、エルト?」
「……っ……はい、そうですね」

突然自分に振られるとはわからずに、エルトは彼にしては珍しく上擦った声を上げる。ナラカはそんなエルトを見て表情をますます固くしたが、これ以上反論しても無駄だと考えたのだろう。「……わかりました」とだけ素っ気なく言うと、また朝食を口に運び始めた。

1ヶ月前 No.48

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.49

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ナーガが棲むという洞窟は、“森の民”の暮らす森を抜けて少し時間をかけたところにある岩山の中に存在した。至るところにぽこぽこと穴が開いているが、その中でもいちばん大きいのが件のナーガの住み処なのだろう。馬車を停めて伸びをしながら、ノルドが眼前に広がる岩山を見上げる。

「此処に何かいるって話だったな。とりあえず入ってみようぜ」

ナーガという存在すら知らないノルドは、そんな風に軽い調子で言ってからひょいひょいと岩山の突起を飛び越えながら洞窟に向かって進んでいく。岩山にいるとは思えないほどの身軽さに驚きを覚えながら、エルトやヴィアレも彼の後に続く。ナラカも躊躇いを隠しきれないようだったが、渋々といった様子で一同の背中を追いかけた。一行が進んだのを確認してから、ウィルデが最後尾を行く。
やはり体力的なものもあるのだろう、エルトも格好の割りに疲れた様子は見せず、ヴィアレもそんな彼にぴったり着いていけている。しかしナラカはもともと体力がないこともあってか、途中で息を吐いてからなんとか前にいる者たちを追っていた。その速度は御世辞にも速いとは言えないものだ。しかしそんなナラカを抜かすことなく、ウィルデはずっと彼女の後ろに付いていた。ウィルデの表情に疲れはなく、足取りもしっかりしている。ナラカとしてはどうしてウィルデが自分を抜かして行かないのか不思議でならず、ちらとウィルデを一瞥してから視線を逸らして声をかける。

「……あの、もし遅かったら、抜かしていって良いですよ……」
「俺は守り手様からお前らを任されたんだ、誰かを置いていくなんて出来るわけねぇだろ。俺は別にどのくらいの速さで進んでも構わねぇから、お前も気にすんな」
「……けど……」

さらりと、本当に気にしていないのであろう口振りで口にしたウィルデだったが、それでもナラカは納得がいかなかったようだ。何かを言いかけて、はっと口をつぐむ。そんなナラカの姿にウィルデは「……あー、くそ……」と小さく悪態を吐いてから、唐突に彼女の体を小脇に抱えた。それはもう、少し大きめの荷物でも抱えるかのように、あっさりと。

「えっ、えっ、ウィルデさん……!?」
「飛ばすぞ、口閉じときな!」
「ウィルデさん!?」

ウィルデの突然の行動に戸惑いを隠せない様子のナラカだが、すぐにウィルデから言われた通りに口を閉じることになった。何せウィルデはナラカを抱えたまま凄まじい勢いで岩山を上っていくのだ。その速さといったら尋常ではなく、下手に口を開きでもしたらうっかり舌を噛んでしまいそうだった。これが草履の効果だったらテララが末恐ろしいし、ウィルデ一人の実力だというのならナラカはこれからウィルデのことを同じ人間とは思えなくなるだろう。要するに速かった。とんでもない俊足だったのだ。
ウィルデの足は間もなくヴィアレたちに追い付くこととなった。最後尾だったヴィアレの隣まで走るとウィルデは速度を落とす。いきなり並走してきたウィルデにヴィアレは一瞬目を見開いたが、すぐにむっとむくれた表情になった。

「ウィルデばかりずるいぞ、我とてナラカを運べる!」
「運ばなくて良いですってば!……あの、ウィルデさん、そろそろ下ろしていただけませんか?ずっと抱えていただいているのも、ちょっと……」
「気ィ張るなよ、お前下ろしたらまたくたくたになるだろうが。洞窟に入るまで休んでろ。足下見えてりゃ俺も運べる」

ウィルデに対して謎の対抗心を見せるヴィアレに反論してから、ナラカはウィルデに自分を下ろすようにと願い出た。しかしウィルデからこう言われてしまってはぐうの音も出ない。幸いエルトは此方を見向きもしないから、ナラカが苦手なあの視線を浴びることもないだろう。此処はウィルデの言うとおり、ナラカは大人しく運ばれることにした。隣でヴィアレが交代だなんだと言っていたのは、聞かなかったことにしよう。

1ヶ月前 No.50

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

無事に全員が洞窟の中に入ったのを確認すると、やっとウィルデは小脇に抱えていたナラカを地面を下ろした。洞窟の中は薄暗く、奥に進んでいくほど足場が悪くなることが予想されたからだろう。ノルドはもう手に松明を持っている。彼のそばにいればひとまず暗闇に取り込まれることはないだろう。

「……それにしても、本当にこんな洞窟に生き物なんているのか?見たところずっと真っ暗だぞ」

訝しげに言いながらも、ノルドが歩みを止めることはない。松明に照らされる洞窟内は薄ぼんやりとして、不気味な雰囲気が漂っていた。普通洞窟というと、中に蝙蝠だとか虫だとか、少なくとも夜行性の生き物が住み処としているはずである。しかしこの洞窟は不思議な程に生き物の息遣いや気配が見受けられない。ただの自然物だとしても、其処に暮らす生き物がいるのが普通だというのに。暗闇というものは意図せずとも人間の恐怖心を煽る材料となる。ナラカは肩から掛けていた鞄を握り締めていたし、ヴィアレでさえも辺りをしきりにきょろきょろ不安そうに見回していた。

「ひゃあっ!?」

と、一行が用心しながら進んでいたところ、突然ナラカがそんな甲高い悲鳴を上げた。洞窟の中に彼女の声が反響して、ナラカが望まずともそれはよく聞こえた。

「どうしたナラカ!?」
「わ、私の服の中に、何かが……!」
「何です、もしや蛇ですか!?」
「は?蛇?」

まずナラカの方を振り返ってノルドが彼女を案じるが、直ぐ様駆け寄ってきたのは意外なことにエルトであった。ナラカの両肩を掴んで詰め寄り、案の定彼女の喉からは「ひいっ」とか細い悲鳴が漏れる。エルトの口にした蛇という単語に疑問を覚えつつも、ノルドは手に持っていた松明でナラカを照らした。
ナラカの胸元、其処からひょっこりと顔を出していたのは、あまりにも奇妙としか言いようのない生き物だった。餅のような丸みを帯びた体に、つぶらな黒い目と真一文字に引き結ばれた口が付いている。大きさは手のひらに乗る程度だろうか。少なくとも地上にはいなさそうな姿形をしている。奇妙ではあるが何処と無く可愛らしさも感じさせるその表情は、引き締まった場を弛ませそうな雰囲気をかもし出していた。

「……なんだこりゃ」
「あぁ、こいつぁ餅蜥蜴って奴だな。地上の蜥蜴とは似ても似つかないが、俺たちの間ではそう呼ばれてる。街中じゃあ生息してないみたいだが、此処等じゃ割りと珍しくない生き物だよ。毒も害もないし、歯もないから触っても大丈夫だぜ」
「おぉ、もちもちだな!」

何が入ってきたのかと気色ばんでいたノルドは拍子抜けしたようだったが、ウィルデの解説を受けたヴィアレは早速頭を出す餅蜥蜴をつんつんとつついていた。餅蜥蜴は何度かつつかれるとヴィアレの指をぱくりと食わえたが、歯がないこともあって痛みは全くなかった。むしろもちもちとして気持ち良い。唾液が付くこともなく、本当にただ食わえただけのようだった。

「それにしても、どうしてこんなところに……。返した方が、良いのでしょうか?」
「いや、なついちまったみたいならそのまま連れてった方が良いだろ。こいつらは人懐っこいからな。それに……」

胸元でヴィアレの指をはぐはぐと食わえる餅蜥蜴を眺めながら、ナラカは困ったようにウィルデに問いかける。しかしウィルデはナラカの意見をやんわりと反対し、一旦口をつぐんだ。そして数秒後勿体ぶってから、やっと口を開く。


「可愛いだろ?」


ウィルデのその言葉に、一瞬だけではあるがその場が静まり返った。可愛い。たしかに餅蜥蜴は可愛い。だがそれをウィルデが言ってしまうと何とも言えない違和感に襲われてしまう。皆が一瞬言葉を失ってしまうくらいには。

「……とにかく、先に進みましょう」

ごほん、と咳払いをひとつしてから、エルトがそう釘を刺して一行は再び歩き出した。とりあえず餅蜥蜴は連れていく方針で誰も異存はないらしい。相変わらず餅蜥蜴はナラカになついているようで、胸元から出てくると肩が気に入ったのか其処にちょこんと鎮座した。

「……それにしても、この洞窟はどのくらいの広さなんだろうな。岩山の中にあるってことは、一応果てがあるって見方で合ってるんだろうがよ」

時折辺りの様子を窺いながら、ノルドが呟くようにそう口にする。彼としては独り言のつもりだったのだろうが、その声量が大きかったために皆がその声を聞くこととなった。

「さぁ、どうなのでしょう。私も此処までは来たことがないのでわかりかねますが……ウィルデ殿、あなたなら知っているのでは?」

顎に手を遣りながら、エルトは何気なくウィルデへと問いを投げ掛けた。しかしそれに返ってくる言葉はない。ずっと前を向いて歩いていたエルトも、さすがに無視されるのは気に食わなかったのだろう。ウィルデ殿、とやや語気を強めて後ろを振り返った。

だが其処に、ウィルデはいない。

ウィルデはたしかに、先程までノルドやエルトたちの数歩後ろを歩いていたはずだった。隣にナラカがいたのも覚えている。しかし、現にウィルデはいないのだ。ウィルデだけでなく、その隣を歩いていたナラカも、忽然と姿を消していた。

「ど……どういうことなのだ……!?まさか、はぐれたのか……!?」
「いや、そんなはずはない!だって此処はずっと一本道だったじゃねぇか、はぐれる余地なんて何処にもないはずだ!」

不安を思いきり表情に乗せて、ヴィアレはナラカとウィルデの姿を探すが、ノルドの反論でぐっと口をつぐむ。そうだ、たしかにこの洞窟は横道がなく、自分たちはずっと一本道を歩いてきた。はぐれる要素なんてなかったはずだ。それでもウィルデとナラカはいなくなってしまったのだから、もうどうしようも出来ない。

「……此処は、先に進むしかないでしょう。今の私たちに出来るのは洞窟の探索だけです。引き返して迷っても本末転倒というもの。ならば目の前の道を歩いていくしか手立てはありません」

だからこそ、エルトはそのように提案するしか出来なかった。ナラカはともかく、ウィルデと離れることになってしまったのはエルトにとっても誤算だが、それを悔いていても仕方がないというものだ。エルトの判断にヴィアレやノルドが反対することはなく、三人は再び洞窟の果てを目指して歩き出した。

1ヶ月前 No.51

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1ヶ月前 No.52

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1ヶ月前 No.53

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1ヶ月前 No.54

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1ヶ月前 No.55

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1ヶ月前 No.56

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1ヶ月前 No.57

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ノルドが馬車を飛ばしてくれたおかげで、良くも悪くも“森の民”が住まう森には早めにたどり着くことが出来た。エルトやウィルデやナラカはげっそりとしていたが、ナーガの青年はご満悦といった様子で、ヴィアレといっしょにきゃっきゃとはしゃいでいた。二人が喜んでくれたことにはノルドも満更でもなかったらしい。後ろで青い顔をしている面々が見えていないくらいには。

「おかえり、皆。……うん、話はおいおい聞かせてくれるかな?」

それもあってか、一行を出迎えたテララは珍しいことに苦笑いを浮かべていた。手負いの者には治療を施すからと、ウィルデ、ナラカ、そしてナーガの青年はティルダによって別室に連れていかれる。

「エルト、エルトは大丈夫なのかい?」

ノルドとヴィアレが共に湯浴みに行ってしまったので、少なからず手持ちぶさたであったエルトだったが、テララに声をかけられたことは救いでも何でもなかった。エルトはテララのような、掴み所のない者が得意ではない。全てを見透かしたかのようなテララの瞳に見つめられると、どうしても其処から逃げ出したくなってしまう。目を逸らさずにはいられない。情けない話だが、エルトは恐れているのだ。自分の弱さをテララに見抜かれそうで、恐ろしくて仕方がない。たった20の若造が、テララのような精霊に誤魔化せることなどないように思えてならない。

「……私は、大丈夫です。怪我もありません」
「そう、それなら良かった。きっとあの二人が湯浴みを終えるまで時間があるだろうし、少し話をしないかい?僕の部屋まで案内するよ」
「……わかりました」

穏やかでありながら有無を言わせぬテララの物言いには、エルトも首を縦に振るしかない。そのままテララの部屋まで案内されて、エルトは其処にあった椅子に腰掛けるようにと促される。テララは椅子がないからと、エルトが座った椅子の傍にある寝台に腰掛けた。

「それで……一体、何があったんだい?見たところナーガは君のことが大好きそうじゃないか。彼が暴れた訳ではないんだろう?」
「……何故、わかるのですか」
「ん、それはね、ナーガは気に入った生き物に擬態することが出来るんだよ。あのナーガ、明らかに君に擬態していただろう?完全に君の姿を取ることは出来ずとも、姿を似せるのは友愛の証だ。きっと君の力になってくれるだろう」

テララは特に気にすることもなく、ゆるりとした様子で語るが、エルトとしては気が気ではない。テララの真意は何なのか。もしかしたら、今日ナラカを見捨てようとしたことを言及されるかもしれない。自分だけ怪我をしなかったことを責められるかもしれない。思い当たる節はいくらでもあった。だから怖かったのだ。何を言われるかわからない。どう対処するのが最善なのだろうか。どうすれば、この場を乗り切れるのだろうか。

「……エルト、大丈夫かい?」

思い詰めていたのが顔に表れてしまっていたのだろう、テララが心配そうにエルトの顔を覗き込む。はっとしてエルトは誤魔化すように咳払いをした。その様子を見たテララは、くすりと密やかに微笑む。

「やっぱり何かあったみたいだね。決して口外はしないから、僕に教えてくれないかな」
「……っ……実は……」

一瞬躊躇ったものの、エルトの口はするすると動いた。ナーガの青年を見つけた後、ウィルデたちが羅刹の襲撃に遭っていたこと。ナーガの青年の力を以てしても羅刹には敵わなかったということ。ナラカが襲われそうだったというのに、自分は彼女を見捨てて逃げようとしていたこと。間一髪のところでシュルティラに助けられたこと。テララはそんなエルトの話を静かに聞いていたが、一段落したところでやっと口を開く。

「……エルト。君は、一体どうしたいんだい?」
「どう……とは……」
「ナラカを見捨てるなら、君は早急に見捨てることが出来たはずだ。それなのに君は迷っていたね。迷うことが悪いこととは言わないけれど、場合によっては命取りにもなる。優柔不断でいるのは若者の特権だけれど、いつまでもどっち付かずではいられないよ」
「それは……」
「嗚呼、ごめんね。君をいじめたい訳じゃないんだ。今日は疲れただろう、泊まってお行き。“選定の儀”も近いんだろう?だったら今くらいはゆっくり休まなくちゃ」

言い淀むエルトに微笑んでから、テララは話を締め括った。エルトはこれ以上何も言うことが出来ず、逃げるように「……失礼しました」と部屋を出ていく。自分の部屋までの道のりが、やけに長く感じられた。

(……私は、やはり甘い)

自分でもわかっていることだった。見捨てるだなんだと言っておいて、結局エルトは逃げ切れなかった。ナラカの怒声を聞かずとも良かったというのに。後ろめたく思っていたのは事実だが、逃げる暇などいくらでもあったはずだ。それなのにエルトの体は動かなかった。言い訳はしない。ナラカに圧倒されていたのだ。彼女の言い分は尤もだった。自分がどれだけ最低な人間か、嫌でも思い知らされた。

(……どう、すべきなのだろうか。私は)

エルトは片手で顔を覆う。嗚呼、本当に、私はどうすれば良いのだろう。そんな葛藤に押し潰されそうになりながら、エルトは重い足を動かした。

1ヶ月前 No.58

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1ヶ月前 No.59

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各々朝食も食べ終えて、準備が済んだこともあり、無事に“森の民”の森を出ることが出来そうだった。見送りにはテララとウィルデ、ティルダたちも来てくれて大所帯だ。ティルダからはナラカの傷に塗るようにと薬まで貰った。ナラカとしてはありがたい限りである。傷跡が残るのはナラカでも好ましいことではない。同居しているのがヴィアレとエルトで、エルトに頼りたくない以上自分で何とかするしかないナラカだが、医術についての知識はからきしなので此処でティルダに薬を貰えて助かった。

「それじゃ、気を付けて。君が“選定の儀”を潜り抜けられると信じているよ」
「すまねぇ、感謝する。ウィルデとティルダも色々とありがとな」
「おう、死ぬんじゃねぇぞ」

別れの挨拶を済ませたところで、ノルドの馬車は出発した。さすがに昨日の逆落としで所々傷付いた部分があったらしく、突貫ではあるが“森の民”によって修理をしてくれたとのことだった。五大における“風”の力を込めた部品を使ったからとテララが言っていたので、前よりも早く集落に着くかもしれない。
ガタゴトと馬車に揺られながら半時程で集落が見えてきた。行きは半日かかったというのにこの早さである。これにはノルドやエルトも突っ込まないことにした。“森の民”凄すぎる。もう様々である。これには行きに思いきり酔っていたナラカも餅蜥蜴をふにふにいじっている間に到着してしまったのでなんとも言えなかった。

「あ……エルト」
「どうしたんです、ハルシャフ?彼処が私たちの暮らしている集落ですよ」
「……なんか、ざわざわしてる……」

ハルシャフがエルトの袖を引きながら指差した先、それは明らかにノルドたちの向かっている集落だった。彼の言うように集落の入り口には人だかりが出来ている。何頭かの馬が繋がれているのもわかった。

「ノルド、普段はこれほど人が集まることなどあるのか?」
「いや、ないはずだ。あったとしても、一月前にティヴェラの兵士たちが来たときくらいで……」

言いかけてから、はっとノルドは目を見開く。彼の言葉からして、嫌な予感はしていた。間もなく集落にたどり着くと、ノルドは「悪いが馬車を頼んだ!俺はあっちの様子を見てくる!」とすぐに駆けていってしまった。その場に取り残されたエルトたちだったが、彼らにぱたぱたと近づいてくる人物の姿があった。

「皆、なんとか間に合ったようで良かったよ……!ノルド君はもう行ったのかい?」
「アシェリム殿……。はい、ノルディウス殿なら、先程集落の中央へと向かわれました。何かあったのですか?」

厚着なのに急いで来たからか、はぁはぁと肩で息をするアシェリムの背を擦りながらエルトは質問に答えると共に自分の気になった点をアシェリムに問いかける。アシェリムはけほけほと小さく咳き込んでから一息吐き、落ち着いてから口を開く。

「そうかい……それなら良かった。……いや、ノルド君にとっては良いことでもないか。明日に予定されていた“選定の儀”だったんだがね、どういう風の吹き回しか、ティヴェラの兵士や羅刹たちは今さっきこの集落にやって来たんだよ」
「今さっき……!?しかし何故……」
「理由は私にもわからないよ。ただ、彼らが急いているだけなのかもしれない。……それで、何か収穫はあったのかい?」
「ええ、ありましたとも。詳しい話はおいおい致しましょう、私はまずノルディウス殿のところに行きたく思います」

やはりノルドの様子が気になるのだろうか、この時のエルトはやけに焦っているように見えた。アシェリムもそんな彼の意思を汲んだのだろう、「わかった」と首を縦に振る。

「“選定の儀”は広場で行われるはずだ。皆も恐らく其処に集まっていると思うよ」
「ありがとうございます。では行きましょう」

簡潔に謝礼の言葉を述べてから、エルトは早足で広場へと向かって歩いていった。エルトにくっついているハルシャフも釣られる形で着いていく。ヴィアレとナラカも急いで彼らの後を追いかけた。

1ヶ月前 No.60

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

昨日出会ってしまった羅刹がいたらどうしようかと思ってヴィアレの背中に隠れるようにしていたナラカだったが、広場を見る限りあの羅刹はいなさそうで安心した。集落の人間が入ってこられないようにと規制する柵があり、関係者以外はその柵の向こうに行けないようだったから羅刹が此方に干渉しやすいとは言えないのだろうが、それでもあの乱暴な羅刹なら何をしてくるかわからない。肩で頬を擦り寄せてくる餅蜥蜴に少し心が和らいだナラカだが、ノルドがこれから命を賭した戦いに挑まなければならないことに対する不安は拭いきれなかった。

「準備は滞りなく進んでいるようだな」

兵士たちの指揮を取っているのは昨日の羅刹の男やシュルティラに比べるとやや小柄な人物だった。全身を重厚な鎧で覆っているので体格もいまいちわからないし兜が頭部の半分を占めているために顔つきもわかりづらい。ただ、声変わりしていない声音からまだ成人していないのではないかとエルトは推測した。

「エルト、あんな若者でも要職に就けるものなのか?」
「しっ、聞こえたらどうするんです。……まあ、たしかに良家の者であれば若くして出世することもあるのでしょう」
「ほう……そうなのか……」

ヴィアレの場を憚らぬ問いかけに注意しながら説明してやると、彼は興味深そうに鎧の人物を見つめていた。何か気になることでもあるのだろうか。そうしているうちに、何処に行っていたのかは不明だがリリアもエルトたちを見つけたのか合流を果たすことが出来た。

「リリア、久方ぶりだな!」
「ふふ、お前は相変わらず元気よな。……エルトよ、“選定の儀”の方はどうなっている?」
「一通りの準備は終わったようです。……しかし何故、“選定の儀”は今日開催することになったのでしょうね。予定では明日だったはずでは?」

エルトがそうリリアに問いかけると、彼女はふるふると首を横に振った。そして何処か諦めのような感情を含んだ声色でその問いかけに答える。

「ティヴェラの王の側近とやらが急に予定変更をせよと言い出したらしい。その側近はやたらと権力を恣にしておるようだからな、兵士たちも逆らえないようだ。大方王の愛人か何かなのであろうよ」
「愛人?……ということは、女子でも側近にまで出世出来るのか!?」
「いや、それはなかろう。女でもある程度の出世は出来るだろうが、妃になるのが真っ当な道であろうな」
「しかし、愛人なのであろう?」
「あの……もう止めにしませんか……?」

愛人というのは女性だけと考えているのだろうか、疑問を包み隠さずリリアに問い続けるヴィアレをなんとかナラカは止めることに成功した。リリアが口元に微笑をたたえている辺りからして、彼女が良からぬことを考えているのはよくわかった。ナラカの故郷では男色は珍しくなかったが、さすがに無垢な少年に伝えようとは思えない。ましてや中性的で美しい容姿をしているヴィアレのことだ、これを真に受けたら大変なことになりかねない……とナラカは思う。ナラカが止めたおかげでヴィアレは「そうだな、これから“選定の儀”が始まる故な」とあっさり引き下がった。それもあるがとりあえず引き下がってくれて良かった。リリアが少し残念そうな顔をしていたが気にしないでおこう。あの人はたぶん面白がっているだけだ。

「リリア、君はこの“選定の儀”をどう見る?」

ナラカが一人謎の責任感に苛まれる中で、アシェリムはそうリリアに尋ねた。リリアは艶やかな黒髪をさらりと揺らしながら、「そうさな……」とアシェリムに向き直る。

「芳しいものとは思えぬな。急な予定変更も気になるところだ。ノルドが“森の民”の支援を受けているならばまだ勝ち目はあるのやもしれぬが……妾が見てきた中で勝者の有る“選定の儀”などなかったぞ」
「ふむ……しかしノルド君を信じるしか僕たちには出来ないだろう。そのために手を尽くしはしたのだからね」
「アシェリム、お前にしては後ろ向きだな。いつもは変に余裕ぶっているというのに、怖じ気付いているのか?」
「ノルド君の心境に比べれば私の不安なんて些細なものさ。ほら、そろそろ始まるみたいだ」

アシェリムが指した先には、いつもの服装の上から簡素な鎧を身に付けたノルドが広場に入ってきた光景がある。手には普段愛用しているという槍が握られているから、きっと今回もそれが彼の獲物となるのだろう。対するは、先程見かけた鎧兜に身を包んだ人物。……ということはあの人物が羅刹ということで間違いないのだろう。彼、もしくは彼女の手に有るのは身の丈には合わない二振りの棍棒。あれで殴られたらひとたまりもないことであろう。いくら体が頑強なノルドもあれでは大怪我を避けられまい。
二人は無言で前へ出る。そうして打ち合わせをしていたのかわからないが、ほぼ同時に一礼した。広場の傍に設置されていた高台にいたティヴェラの兵士が、そんな二人の様子を見下ろしていた。


「━━━━始め!」


兵士のその言葉、そして次いで鳴り響いた銅鑼の音を皮切りに、“選定の儀”は始まった。

1ヶ月前 No.61

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1ヶ月前 No.62

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激昂した羅刹の目は赤く染まるというが、その伝承は本当のことだったようだ。両目を真っ赤にした羅刹は先程の隙のなさなど何処へやら、持てる力の全てを用いてノルドに襲い掛かっていた。防御を捨てているのかと言わんばかりの積極性である。ノルドはなんとか避けてはいるが、それだけで手一杯のようだった。

「お、落ち着けって!たしかに変なこと言ったのは謝る!けどお前は本当に綺麗だと思うぞ!」
「黙れ!死ね!」

戦いながら必死に繰り出したノルドの弁明も徒労に終わった。 むしろ逆効果と言っても良いだろう。羅刹の少女の殺意はますます燃え上がり一撃も乱暴なものに変わっていく。避けることは前よりも容易になったが、あれは当たったら腕が持っていかれる奴だ。ひとまずノルドはもう一本の棍棒のところまで駆けると、落ちていた自分の槍を取った。とりあえず武器を取り戻すことは出来た。後はどうやってあの羅刹の動きを止めるかだ。

(この“選定の儀”ってどうすりゃ終わるんだ……!?)

たいていは挑戦者が羅刹に殺されて終わりだが挑戦者の勝利はどの時点で決まるのだろうか。ノルドは目の前の羅刹を殺したくはない。ついでに言ったら嫁として貰いたい。そんなことを言ったらますます羅刹は怒り狂うと思われるので口には出さなかった。まあ、つまるところの一目惚れである。

(とりあえずあっちの意識を失わせれば良いのか……?女の子を殺すなんて俺はやりたくねぇぞ……!)

いくら羅刹とは言えど目の前にいるのはノルド好みの美しい少女なのだ。どうにか殺さずに事を終えることは出来ないものか。彼方は殺す気満々のようだが、それはまず置いておこう。まず目の前の羅刹を気絶させることを考えよう。気絶させることは殺すよりも難しいものだが、こうなってはやるしかない。ノルドも腹を括った。せっかく一目惚れしたのだ、惚れた力でなんとかしてやる。
きりりと引き締まったノルドの表情に、見物人やティヴェラの兵士はごくりと生唾を飲み込んだ。たしかに先程の彼の言動は羅刹に挑む者としてどうなんだよ、と誰もが思ったが、今のノルドの状況を考えてみるとなんだか立場など関係なくノルドを応援したくなってくる。ナラカは前に読んだ物語の中に似たような状況があったなぁ、なんてぼんやり考えてしまった。いつの時代であろうと勇者は何かのために戦うものなのだ。

「殺す、殺す、下郎めがッ!!」

先程から何度目になるのかわからないくらい「殺す」を連発する羅刹の少女は棍棒一本で戦うと決めたらしい。転がっているもう一本の棍棒には目もくれず、ひたすらノルドを狙って攻撃を繰り返している。あの棍棒で頭でも打ち砕かれたらさすがのノルドでも死ぬ。それくらいの勢いで羅刹の棍棒は打ち出されていた。
だが、しかし。逆に考えてしまえば、羅刹は目の前のノルドを殺すことで必死なのである。つまりは先程よりも隙は増えたということになるのだ。見極めれば、羅刹の隙を突くことが出来るかもしれない。

(隙を、ねぇ……)

ノルドは考えた。ひとつ、実践出来そうなことはあった。しかしそれは危険が高い上に後からどうなるかわかったものではない。下手したら羅刹の動きを封じても殺されることになるかもしれない。けれど今此処で死ぬよりはずっとましだ。恋した少女に殺されることを好ましく思う者も世の中にはいるかもしれないが、少なくともノルドは嬉しくない。どうせなら好いた女と添い遂げて死にたいものである。
やるしかない。ノルドは覚悟を決めた。羅刹の棍棒が向かってくる。しかしノルドが臆することはなかった。だん、と地面を思いきり蹴り付けて、羅刹の懐へと飛び込む。此処まで近付かれては羅刹も棍棒を振るうことは出来ない。唐突に近付いてきたノルドに、一瞬羅刹の目から殺意が消えて、驚愕だけが映し出される。ノルドは勢いに任せて羅刹を押し倒す。羅刹がノルドよりもだいぶと小さいこともあってか、組み敷くのは容易だった。がしゃん、と鎧が地面とぶつかる音が響くとほぼ同時、羅刹の目が大きく見開かれる。

ノルドと羅刹の唇は、短い間ではあるが重なっていた。

その場の空気はわかりやすく固まった。ヴィアレはぽかんとして口を開きっぱなしにしていたし、エルトはこめかみに手を遣ってやれやれと首を振り、ナラカは頬を染めて口元を手で覆っていた。

「な……な、何をするのだ、貴様……!」

唇を離された羅刹の顔も真っ赤だった。ノルドの頬をばちん、と思いきり張り飛ばすと、逃げるように後退する。

「う、あ、うぁぁぁ、あぁぁぁぁぁ!!何故私に!あっ、あのような、あのような……っ!!ぐっ、うぅ、貴様を殺して私も死ぬ!!」
「お、落ち着いてくだされエステリア様!“選定の儀”はまだ終わってはおりませぬ!」
「五月蝿い!」

エステリアと呼ばれた羅刹を宥めようと駆け寄ったティヴェラの兵士は彼女に拳で殴り付けられてけっこうな距離を飛んでいった。たぶんあの哀れな兵士は脳震盪を起こして気を失っていることだろう。彼の今後に影響がないことを祈りたい。

「…………」

見物人の中を掻き分けて、一人頭を抱えて叫んでいるエステリアの肩を優しく叩いたのは、紛れもなくシュルティラであった。彼もまた“選定の儀”にやって来ていたらしい。あまりにも人間的な登場に一瞬見物人は突っ込みそびれたが、やがて「シュルティラだ……!」とざわめき始めた。この集落はアーカム出身の者がほとんどなので、シュルティラの伝承も少なからず知っているのだろう。皆それまでの雰囲気は何処へやら、シュルティラに怯えるばかりだった。

「しゅ、シュルティラ……!なんだ、貴様も私を凌辱しようというのか……!?」
「…………」

相当トラウマになってしまったのか、ガタガタ震えながらシュルティラに掴みかかろうとするエステリアに、彼はふるふると小さく首を振って否定の意を示した。そして、指で小さく×印を作ってノルドの方を見る。

「……嗚呼、そうだな。“選定の儀”があった。貴様はもう終わりだと言うのか、シュルティラ」
「…………」

こくり。何故シュルティラの意図をエステリアが理解できたのかはわからないが、彼は“選定の儀”はこれにて終いと伝えに来たらしい。エステリアは腑に落ちなさそうな表情をしていたが、やがて小さく深呼吸をしてから、高台で事の顛末をはらはらと見守っていたティヴェラ兵士に向けて告げる。

「“選定の儀”はこれまでとせよ。かの者は奮闘した。私がそれを認めよう。故に引き分けとするが良い。この勝負に勝者はいない」
「は、はっ……!仰せの通りに……!」
「それから、先の事は他言無用とする。口外すれば貴様を殺す」

良いな、と念押ししてから、エステリアは早足でティヴェラの兵士の中へと紛れて行ってしまった。これ以上ノルドの姿を見たくはなかったのだろう。その証拠に、去り際の彼女の耳は酷く紅かった。
見物人の歓声が響く。ティヴェラの兵士たちも我がことのように喜んでいた。これまでの“選定の儀”では、人間はただ羅刹に惨く殺害されるだけだったのであろう。ノルドはへらり、といつも浮かべている快活な笑みを浮かべてから柵の向こうにいる集落の面々に向けて駆け出して行く。歓声と労いの言葉に包まれながら集落の人々に囲まれるノルドは、さながら何処かの勇者のようだった。

1ヶ月前 No.63

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ノルドはこれから怪我の治療をしてから集落で執り行われる祝宴に呼ばれるらしい。ヴィアレたちはノルドを追いかけて集落の方に戻ってしまったが、ナラカは人がほとんどいなくなった広場できょろきょろと辺りを見回していた。大体のティヴェラ兵は皆後片付けを終えてくたびれた表情をしている。

「……今なら、行けるかな?」

肩に乗せた餅蜥蜴に、小さくそう尋ねてみる。餅蜥蜴は基本的に鳴かないのでナラカに頬擦りしただけだった。ナラカは広場に積み上げられた煉瓦の壁に隠れながら、そっとティヴェラ兵たちの様子を窺う。此方には気づいていないようだったが、ナラカの会いたい人物は其処にはいなかった。

(何処にいるんだろう……。出来るなら早く会って早く済ませたいんだけど……)
「……何をしている?」
「ぎゃっ!?」

こそこそと広場を見ていたナラカの背後から唐突に声がかかったことにより、ナラカは15の娘とは思えない可愛らしさの欠片もない叫び声を上げてしまった。ばっ、と振り返って見た先には一人の男が中腰になって此方を見ていた。当初会いたいと思っていた人物ではないが、ナラカの表情がぱっと華やいだ。

「サヴィヤさん……!」

人間離れした美しさの青年、サヴィヤのことはナラカも嫌いではない。むしろ男性が苦手なナラカでもまともに話すことの出来る数少ない人物である。彼と会うのは“森の民”の森に行く前が最後だった。この日のサヴィヤは他のティヴェラ兵と同じ鞣し革の鎧を纏っていた。それにナラカが気づかない訳がなく、あれ、と口にする。

「サヴィヤさん、もしかしてティヴェラの兵士だったんですか?」
「……嗚呼、そうだ。集落の者たちには、秘密だが……」

ナラカからの質問に、サヴィヤはもごもごと語尾を小さくする。そして所在無さげに視線を泳がせる彼を見て、ナラカはなんとなくサヴィヤの言いたいことを察した。要するに黙っていて欲しいのだろう。この集落の者たちは、大体がアーカム出身の者だ。そんな彼らがサヴィヤの職業を聞いたら、彼に冷たく当たるかもしれない。特にあのいけ好かない女装男などは、あからさまにサヴィヤを冷遇するだろう。そう考えながら、ナラカはサヴィヤにぎこちなく微笑みかける。笑顔を作るのは難しいものだ。

「大丈夫ですよ、私、誰にも言いませんから。それに、サヴィヤさんがティヴェラ国の兵士でも気にしませんよ。だって私、シャルヴァの人間じゃありませんし」
「……すまないな、ナラカ。そう言ってもらえると、俺も助かる」
「謝らなくて良いんですよ。だってサヴィヤさんにはお世話になってるし、これくらい当然です」

サヴィヤはそんなナラカの様子を見て、安心したように「……そうか」と呟いた。そしてナラカの肩に乗った餅蜥蜴をじーっと見つめてくる。ナラカが餅蜥蜴を肩から下ろして手のひらに乗っけて差し出すと、サヴィヤは恐る恐るといった様子で餅蜥蜴を撫でた。

「ところで、ナラカ。お前は祝宴に行かなくて良いのか?」
「あ、えっと……。実は、会いたい人がいるんです。その方にお会いできないかと、此処で待っていたんですけど……」
「成る程、出待ちか」
「……はい」

歯に衣着せぬサヴィヤの物言いにナラカは少し気恥ずかしくなる。出待ちに変わりはないのだが、なんとなく違う。餅蜥蜴に気に入られたのか、はぐはぐ指を食わえられながら、サヴィヤは次いで問いかける。

「して、会いたい者とは誰だ?俺で良ければ伝えておこう」
「いや、その……。たぶん、サヴィヤさんには難しい相手だと思います……」
「難しい相手……?」
「…………シュルティラさん、なんですけど……」

今度はナラカが言いにくそうに、俯きながら消え入りそうな声で答える。果たしてこれまでシュルティラに会いたいなどという人間がいたのだろうか。話を聞く限りシュルティラは忌み嫌われていたようだし、彼に会いに行こうとする人間も少なかったのではあるまいか。サヴィヤは驚いたのかひゅ、と息を飲むと、暫し思案しているのか口をつぐむ。そしてまた無表情に戻ると、「成る程……」と口を開いた。

「シュルティラに会いたい、か。たしかにそれは、俺も難しいな……」
「で……ですよね……」
「だが方法はある」
「ですよね…………はい!?」

てっきり無理だと否定されるものだと思っていたので、ナラカは釣られてしまいそうになるが、済んでのところで突っ込むことが出来た。あるのか。あのシュルティラを相手に、方法があるというのか。驚愕するナラカを余所に、サヴィヤは懐からごそごそと何かを取り出した。

「……それは?」
「帳面と、黒鉛を木で挟んだものだ。これでシュルティラに手紙を書く。そしてそれを俺がさりげなく奴のもとまで持っていく。会うことは出来ずとも、伝えたいことは相手に送ることが出来るだろう」

むふー、と音が聞こえてきそうなくらいにサヴィヤは自慢げな表情をしていた。たしかに、とナラカも一瞬納得しかけたが、いやいやいやと首を振る。たしかに良い案だとは思う。しかし内容をよく考えてみるとサヴィヤが滅茶苦茶大変なのではないか。シュルティラのところまでこっそり持っていくなんて出来るのだろうか。エルトみたいに吹っ飛ばされてしまわないだろうか……と、ナラカの心配の種は尽きない。どうだろうか、と言いたげな視線を向けてくるサヴィヤに、ナラカはおずおず申し出る。

「たしかに、名案だとは思うんですけど……。その、サヴィヤさん、大丈夫なんですか……?シュルティラさんの近くとかに行って、怪我とかしませんか?周りに怪しまれたり気味悪がられたりしませんか……?」
「その点についても案ずるな。シュルティラには基本的に誰も近寄らない。そしてシュルティラは基本的に何もすることがなければ何処かをぶらぶらしてぼんやりしている……と知り合いの兵士が言っていた。故に奴の荷に手紙を紛れ込ませるのはそう難しいことではない」
「そ……そうなんですか」

誰から聞いたんだろう……と若干疑問に思うナラカであった。サヴィヤの話だとシュルティラは意外とぽわぽわしている感じである。普段自分が抱いている印象とは違うが、本当に大丈夫なのだろうか。しかしサヴィヤが此処まで言うのだ、彼の厚意を無下にする訳にもいかない。

「……わかりました。サヴィヤさん、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
「そう畏まるな。さ、手紙を書くが良い。俺は彼方を見ているから、書き終わったら教えてくれ」
「あ……ありがとうございます」

さっと背を向けたサヴィヤに感謝しつつ、ナラカは渡された帳面の頁を一枚だけ切り離して其処に言葉を連ねていく。餅蜥蜴が飛ばないようにだろうか、頁の端に座ってくれていた。

(えっと……まずはお礼、だよね。洞窟では、助けてくださりありがとうございました。感謝してもしきれません……。あとはなんだろう……お陰様で私は元気です……?いや、身元は明かしておくべきなのかな……?でもたぶんシュルティラさんも身に覚えはあるのでは……?だったら良いか、えーと……。シュルティラさんも、お体を大事に……って、アーカムの人にしばかれそうだなこれは……。まあいいや、折り畳んでおくから書いておこう)

試行錯誤しながらなんとか手紙を書き終えたナラカは、頁を封筒の形に折り畳んでから「終わりました」とサヴィヤに呼び掛ける。サヴィヤはくるりと此方を振り返ると、ナラカの差し出した頁と帳面、そして黒鉛を受け取った。

「承った。俺からシュルティラのところに持っていこう」
「はい、本当にありがとうございます。サヴィヤさんにはお世話になりっぱなしですね」
「……そうだな。では、俺はそろそろ行くとしよう。ナラカ、お前も早く祝宴に行くと良い」
「はい、サヴィヤさん。また」

ぺこり、とナラカが一礼すると、サヴィヤは小さく手を振って駆けていった。その後ろ姿をぼんやりと眺めていたナラカだったが、いつの間にか肩に移動していた餅蜥蜴に頬擦りされたことではっと我に返る。そうだ、祝宴に遅れたら皆に訝しまれる。ナラカも駆け足で祝宴が行われているノルドの家へと向かった。

1ヶ月前 No.64

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【第11幕:転機の訪れ】

“選定の儀”から数日が経ち、湧きに湧いていた集落もやっともとの平穏を取り戻しつつあった。ノルドはさすがに無傷というわけにはいかなかったようで、リリアいわく「此奴が頑強でなければ平手打ちされた時点で歯が数本吹っ飛んでいた」とのことだった。本当に羅刹の相手が彼で良かった、と誰もが思ったことだろう。幸いながら骨は何処も折れていないようだったし、一週間程休めば治りそうだという。それでも祝宴には包帯だらけで参加していたので、ノルドの怪我は決して軽いものではないのだろう。

「いやぁ、悪いな。手伝いなんてさせちまってよ」
「何を言う、当然のことをしたまでだ!ほら、ノルドは休んでおれ!」

そのため、この日ヴィアレはエルトとナラカ、そしてハルシャフを引き連れてノルドの家の手伝いに来ていた。言い出しっぺ……というのは怪しいが珍しいことにナラカが外出しようとしているところをヴィアレが捕まえて、彼女がノルドの家の手伝いをしようとしていることが明らかとなったのだ。ナラカとしてはエルトがいることに対しては不満を隠しきれないようだったが、さすがに文句は言わなかった。というかまず言えない。エルトが料理を担当するとのことで、掃除を担当するナラカと離れることになったのは幸いだった。

「……おい、しい?」

エルトの作った粥を食べるノルドの方をじっと見ながら、エルトに着いてきたがどうすることも出来ずエルトから「ノルディウス殿のお側にいて差し上げなさい」と言われたハルシャフはそう問いかける。ゆらゆらと尻尾を揺らしながら、いかにも「お粥食べたい」と言いたげな瞳でノルドを見つめている。そう言うハルシャフは今朝エルトの作った食事をぺろりとたいらげていた。要するにエルトの作るものはなんだって好きらしい。

「ん、美味いぞ!ハルシャフも食うか?」
「……!い、いや、だめ。わたしは、たべない」
「本当か〜?」
「ほんと。たべないったらたべない」
「じゃあ俺が全部食っちまおうかな〜」
「あ、だ、だめ!ひとくち、ひとくちたべる!」
「……何してるんだろう、あの人たち……」

掃き掃除をしていたナラカが思わず呟いてしまうほど、ノルドとハルシャフはすぐに打ち解けている上にじゃれあっていた。ハルシャフはエルトの口調を真似しようとしているのか、頑張って彼らしく喋ろうとしている。なんというかまあ、微笑ましいものである。

「……ノルド、居るか?」

和気藹々としていた室内だったが、リリアが入ってきたことでなんとなく気まずい雰囲気が流れる。ノルドにお粥をあーんしてもらっていたハルシャフだけが口をはふはふとさせていた。リリアもリリアで何とも言い難そうな表情をしながら、椅子に座っているノルドの傍へと近付く。

「ノルドよ、“選定の儀”の報酬があるそうだ。広場にティヴェラの者が集まっている。立てるか?」
「ああ、行けるぜ姐さん。それにしても、報酬なんて本当にあったんだな。俺はてっきり、放っておかれるのかと思ってたぜ」

よっこらせと立ち上がりながらノルドは茶化したような口調で言う。しかし彼の言い分もわからないでもない。“選定の儀”が終わるや否やティヴェラの兵士たちはさっさと後片付けをしていたし、もうこの集落には戻ってこないものかと思わせるような雰囲気を漂わせていたからだ。

「お前らも来るか?嫌ってんなら無理強いはしないけどよ」
「我は行くぞ!」
「私も同行させていただきます」
「エルトがいくなら、わたしもいく」

ノルドの呼び掛けに、ヴィアレとエルト、そしてハルシャフは是と首を縦に振った。そうなると自然と一同の視線は返事をしていないナラカに向けられる。

「……私も、行きます。着いていきます」

ナラカは居心地悪そうにしながらも、こくりと小さくうなずいた。ナラカなら待っていると言いそうなものだったが、彼女にも彼女なりの考えというものがあるのだろう。「よし、じゃあ皆で行くか!」というノルドの掛け声と共に、ヴィアレたちは広場へと向かうことにしたのである。

1ヶ月前 No.65

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30日前 No.66

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ヴィアレとハルシャフがナラカを探しに行くほんの少し前。ナラカは足早に人気のないところを目指して歩を進めていた。後ろからはがしゃりがしゃりと金属音が鳴る。無理もない、“彼”は全身を黒い鎧に包んでいるのだから。

(誰にも見つかりませんように、誰にも見つかりませんように……)

ナラカがそう願う理由はただひとつ。彼女の後ろを着いてくるのが何を隠そうシュルティラなのである。輪廻の忌み子としてアーカム地区では恐れられ、忌み嫌われるシュルティラだ。もしもナラカが引き連れていたなんてわかったらたまったものではない。村八分にでもされたらどうしよう、とナラカとしては気が気ではなかった。
そんなナラカの心中を察しているのかどうかはわからないが、人混みでごった返す中で彼女はシュルティラにつんつんと肩をつつかれた。集落の者たちは件の用紙とやらに夢中で気づいていなかったらしい。しかし立ち話なんて出来ないので一先ず着いてくるようにと手招きしてからナラカはなるべく人のいない場所へとシュルティラを案内した。とは言うものの結局何処へ向かえば良いのかわからずに家の裏手に来てしまった訳だが。まあシュルティラに「此処が我が家です」と紹介する訳ではないので良いだろう。紹介して闇討ちにでも遭ったら困る。主にナラカが。

「そ、それで……何か、私にご用ですか……?」

立ち止まってから数秒深呼吸をして、ナラカは恐る恐るシュルティラに問いかけた。一度助けてもらった身ではあるが、シュルティラがナラカに友好的であるかどうかはわからない。恐らく内容はあの手紙のことだろうとは思うのだが、どうしても不安は拭えない。

「…………」

シュルティラは無言のまま、ごそごそと懐から何かを取り出した。何を出すつもりなんだと身構えたナラカだったが、シュルティラが取り出したのは一冊の帳面だった。彼はそれを両手で持つと、ナラカに向けて頁を捲る。

《手紙を読んだ》
「あ、は……はぁ……。それは、どうも……」

開いた頁にでかでかと書かれた文字。それはシュルティラが発したい言葉なのだろう。なんとなく彼の意図を理解したナラカは、おずおずとだがうなずいた。シュルティラもこくりとうなずいてから、次の頁へと移る。

《お前が無事で何よりだ》
「あ……ありがとうございます。お陰様で……」
《俺は嬉しい》
「そ、そうですか……。そうおっしゃっていただけると、私も嬉しいです……」

シュルティラは頁を捲ろうとして、ナラカの顔と次の頁を何度か見比べた。どうやら返したい言葉と合わなかったようだ。いきなりしゃがみこむと、地面に指で文字を書き始めた。

《あまり無理をするな》
「え、どうしてですか……?」
《思い悩むような顔をしていた》
「えっ、わ、私が、ですか……?」
《何かあるなら話して欲しい》

そう地面に記してから、シュルティラはぱらぱらと帳面の頁を捲って《嫌なら無理に話す必要はない》と書かれた頁を開く。何故それは書いていたのだろうか。シュルティラは意外に気を遣える性格らしい。ナラカは少し迷ってから、やや声を潜めて口を開く。

「あの、私、実はですね……。王宮勤め、やってみたいんです。でも、あんなに人がいる中に入っていくのが怖くて……。なかなか、用紙を取りに行けなかったんです。そんな自分が嫌で、なんかこう……自己嫌悪していたというか……」
「…………」

どんどんしどろもどろになっていくナラカの顔をじっと見つめてから、シュルティラは地面に指を滑らせる。

《そういうこともある》
「は、はい……」
《だが後ろ向きに考えるのはおすすめ出来ない》
「はい……?」
《お前は一歩を踏み出せなかったのではない》

さらさらさら。シュルティラは籠手を着けた指を滑らせる。ナラカも思わず、そんな彼の言葉を真剣に見つめてしまっていた。

《皆に順番を譲ったのだ》
「……シュルティラ、さん」

シュルティラは記し終えると、立ち上がって地面に付けていなかった方の手でナラカの頭をぽすぽすと撫でた。ナラカに兄弟がいたことはないが、兄がいたのならこのようにしてくれたのだろうかとふと思ってしまった。尤も、シュルティラはあのいけ好かないエルトの兄ということになるのだが。

「シュルティラさんは、前向きなんですね」
《そうだろうか》
「はい、とっても。とっても、とっても前向きだと思います。それは、本当に、凄いことです」

それは決して媚びへつらいではなく、ナラカの本心から出た言葉だった。ナラカの見ている世界と、シュルティラの見ている世界は大きく違っている。どうしてそのように、誰も傷付かないような考え方が出来るのだろうか。ナラカは不思議でならない。シュルティラは誰よりも、このシャルヴァという世界の中で、傷付く立場にいるというのに。どうしてそんな優しいことが言えるのだろうかと。
なんとなく目のやり場に困ってうつむいてしまったナラカのことを、シュルティラはしばらくじっと見つめていた。兜を被っているからわからないが、シュルティラはどんな顔をしているのだろうか。伝承によればシャルヴァにいる誰もが竦むような目をした、とてつもなく恐ろしい見た目をしているという。

(そんな風には思えない)

しかし、実際に接してみればシュルティラは優しい人間だった。少なくとも、ナラカにとっては恐ろしい人間などではなかった。シュルティラの姿は不気味だが、彼は自分から進んで誰かを傷付けるようなことはしなかった。嗚呼、そうだ。シュルティラは自分から誰かを攻撃などしなかった。あくまでも、戦ったとしても、防戦のつもりなのだろう。

(この人、もしかしたら大きな誤解をされているのかもしれない)

そう気づかされたのはナラカにとっても大事なことなのかもしれない。シュルティラと話す機会を得られたのは僥幸だった。サヴィヤには感謝してもしきれない。
とん、と。ナラカの肩をまた痛みを感じない程度にシュルティラは優しく叩いた。帳面の頁を捲って、ある頁をナラカに見せる。

《俺はそろそろ行く》
「あ、そうですよね……!ごめんなさい、長々とお話しすることになってしまって……」
《構わん》
「そ、それなら良いんですけど……。き、気を付けてお帰りくださいね……!本当に、ありがとうございました……!」
《お前と話せて良かった》

最後にそう書かれている頁を見せてから、シュルティラは四つ折りにされている何かをナラカの手の中に置いて、広場の方へと戻っていった。家の影に隠れながら、ナラカはそっとシュルティラに手渡されたそれを開いてみる。

「…………!」

急いで握り締めてきたのか、所々くしゃりとした皺があるその紙。それはナラカが持っていくことの出来なかった、仕官及び王宮勤めの応募用紙だった。

29日前 No.67

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28日前 No.68

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27日前 No.69

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ナラカの家には無事に到着し、ヴィアレとハルシャフはいつものように若干立て付けの悪い扉を慣れた様子で開けた。中にはナラカがいて、机に向かって何か書き物をしていたようだったが、二人が入ってきたのを見ると慌ててそれを隠した。

「あ……お帰りなさい」
「嗚呼、ただいまナラカ。先に帰っていたのだな」
「は、はい……人混みはその、苦手なので……」

思い切り目を逸らしながらナラカは机の上を急いで片付け始める。それはそれはもう、わかりやすさ満載で。それを見たハルシャフは、とことことナラカに近付いていく。

「なにしてたの?」
「な、なんでもありません」
「なにかしてた?」
「なんでもありませんってば!」
「は、ハルシャフ。そなたはエルトにナラカが戻っていたことを伝えてはくれまいか。何も言わぬままでは心配をかけるであろう」

悪意も何もなく問いかけ続けるハルシャフに、ナラカはぶんぶんと首を振りながらも明らかに気圧されていた。見かねたヴィアレが声をかけると、ハルシャフは「ん、わかった」と返事をしてまた玄関を潜っていった。ふぅ、というナラカの息が聞こえる。

「……して、ナラカ。何をそんなに焦っていたのだ?」
「だから、なんでもないと言ってるでしょ」
「す、すまぬ」

改めて尋ねたヴィアレだったが、ナラカから即答されてさすがに引き下がるしかなかった。ナラカは居心地悪そうにきょろきょろ辺りを見回してから、また椅子へと腰を下ろした。ヴィアレも彼女の向かいの席へと座る。

「ナラカ、その、だな。聞きたいことがあるのだが」
「……なんですか」
「ナラカは何故、エルトに協力しようと思ったのだ?」

不機嫌そうな表情をしていたナラカだったが、ヴィアレからの問いかけを聞いて驚いたように目を見開いた。何故。ナラカの口はそう動いていた。ぎゅ、と胸元を握りしめて、ナラカはヴィアレから視線を外す。その様子は見るからになにかを抱え込んでいるようにしか見えなかった。しばらくの沈黙の後、ナラカはやっと口を開く。

「……あなたには、関係ないでしょ」
「いいや、ある。そなたはいつも、戦うことや傷付くことを恐れているように見える。それなのにエルトに協力しようと決めたのは不自然極まりない。何故そう決意したのか、教えてはくれまいか」
「わ……私は、私は……」

ナラカは下を向きながら、もごもごと口を動かそうとする。言いたいことはあるのだろう。しかしどうしてかそれを口にすることは出来ないようだった。

「……ナラカ?」
「……ヴィアレさん、は……。ヴィアレさんは、エルトさんのことを仲間として慕っているでしょう」
「そ、そうだが……」
「それなら、私の話はどうか聞かないでください。この質問はなかったことにしましょう。何をどう思ったのかは知らないけれど、あなたも皆のところに戻って……」

なんとかしてヴィアレを遠ざけようと、ナラカは出来るだけ平静を装ってそう彼に告げようとしたつもりだった。しかし彼女の言葉は途中で引っ込む。ナラカは臆したのだ。真っ直ぐに自分を見つめてくるヴィアレの瞳に。焔のように紅い彼の眼は、吸い込まれてしまいそうな美しさはもとより、ヴィアレ自身の意志の強さも秘めていた。隠せない。ナラカがそう思うくらいには。

「ナラカ」

ずい、とヴィアレはナラカに顔を近付ける。中性的な美しさばかり目についていたヴィアレの顔だが、何処と無く前よりも凛々しくなっているような気がした。少なくともナラカには。

「……っば、馬鹿、馬鹿、ばーか!!」

そのため、ナラカはそのように叫ぶことしか出来なかった。馬鹿馬鹿馬鹿、と繰り返しながら彼女は立ち上がってどんどんと地団駄を踏む。そのまま隠していた紙やら筆記具やらを掴むと、ずかずかと自室に向かって歩いていこうとして、ぴたりと扉の前で止まった。

「…………あの、ヴィアレさん」
「なんだ?」
「……私は、ただの人間です。あなたもそうでしょう?……だから、こんな地底の人の感情は、よくわからない。報復がどうとか、私には関係ないし、するつもりもありません。あなたは、ティヴェラ国をこのまま滅ぼすことが良いことだと思いますか?」

後ろを向いたまま、ナラカはヴィアレに問いかける。彼女の背中は酷く頼りなさげに見えた。ヴィアレは一瞬息を吸い込んでから、なんでもの背中に向けて答える。

「エルトは我が恩人だ。故にエルトが望むことなら、我は手伝いたい。……手伝いたいが、それが誰かを酷く傷付け、犠牲を産み出すようなものであるならば、考え直すこともあるやもしれん」
「……そうですか」

きぃ、ぱたん。ナラカは短く答えてから、自室へと入っていく。その背中は、先程に比べて幾らか肩の荷が下りたようにも見えた。

26日前 No.70

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25日前 No.71

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24日前 No.72

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王が鎮座する部屋のことをティヴェラでは“玉座の間”と呼んだ。其処はたいていの者は入ることの出来ない空間であったが、シュルティラは入り慣れているのか躊躇いなく重苦しい扉を開けて中へと入る。その後ろから着いてきていた男も彼に続く。

「……来たか、シュルティラ」

扉を潜ってすぐに目に入ったのは黒衣を纏った堅い表情の男━━━━宰相であるアドルファスだった。そして彼の傍で玉座に座っている、何処か不気味な霊鳥を模した仮面を着けた人物が黙ってシュルティラを見ている。アドルファスから少し離れたところには、“選定の儀”でノルドと戦った羅刹の少女━━━━エステリアがむすっとした表情で佇んでいた。

「……ルードゥス、貴様は着いて来ずとも良かったものを……」
「何を言う、俺だけ仲間外れにするなど無粋にも程があろう?して話とは何なのだクルーファ、疾く話せ」
「貴様、殿下に向かって何という口を……!」

アドルファスからルードゥス、と呼ばれた男はクルーファと呼ばれた仮面の人物に友人を相手にするかのような口振りで話を促した。それを快く思わないのであろうエステリアはルードゥスに射殺さんばかりの表情で彼を睨み付ける。しかしルードゥスは臆した様子もなく、彼女をあしらうように口角を上げただけだった。クルーファは特に気にした様子もなく、玉座から動かずにエステリアを制するつもりなのか片手を上げた。

「良い、エステル」
「ですが殿下、この者の言動はあまりにも目に余ります!そのように見逃していては、いずれ……!」
「余が構わぬと言っているのだ。気にするなエステル、此奴は余には逆らえぬ」

エステル、というのはエステリアの愛称なのだろうか。とにもかくにも気色ばんでいたエステリアはクルーファに宥められたことで不本意そうではあったがルードゥスに向けていた敵意を鎮めた。クルーファは視線をエステリアからシュルティラへと移す。

「……シュルティラよ。先日のラビスの件は済まなかったな」
「……いえ、当然のことをしたまで」
「クルーファよ、こんな素振りをしてはいるが、此奴は襲われかけた小娘が相当気にかかっている様子でな。心配で見に行ったら手紙を貰ったのだと。くく、愉快よな。あの輪廻の忌み子が、人の子を気にかけるとは」
「ルードゥス!」

シュルティラに対して密やかに笑いながら揶揄るルードゥスに、再びエステリアが声を荒らげる。今にもルードゥスに飛びかかりそうな勢いだったが、彼はそれを恐れる気配など出さず、むしろ楽しんでいるかのようにエステリアへと視線を向けた。

「貴様も貴様で人の子に情を向けるのか?かつては人をも食ろうた羅刹がなぁ。時の流れとは残酷なものだ」
「……何が言いたい」
「エステリア、貴様は臭い。人の臭いが付きすぎている。嗚呼、もしや先日の接吻でより人に近付いたか?」
「貴様ぁっ、殺されたいのか!?」
「……双方落ち着かれよ。このまま騒ぎを収めぬのなら退室願いたい」

今にも一触即発、といった雰囲気を感じ取ったのか、アドルファスがルードゥスとエステリアへ静かに制止の言葉をかけた。決して大きな声ではないが、彼の言葉はよく響いた。ルードゥスは全く反省していないのかわざとらしく肩を竦め、エステリアは悔しげに唇を噛んだ。ひとまずこの場は収まったということで良いようである。沈黙していたクルーファは、再びシュルティラへの問いを続ける。

「……して、シュルティラ。お前に頼みたき儀がある」
「……それは如何なる用件か」
「そう難しいことではない。近々旧アーカム領より王宮勤めの志願者がやって来るであろう。その際に、怪しい者が居らぬか見定めてほしいのだ」

クルーファはシュルティラに身を屈め、面の下からくぐもった声で彼に頼む。シュルティラは同じく顔が見えないクルーファに、何も言わずこくりとうなずいた。

「お前なら請け負うてくれると思っていたぞシュルティラ。見定めるとは言うても殺すまでには至らずとも良い。あくまでも不安要素が無いか確認するだけ故な」
「……承知」

短く返事をすると、シュルティラはすたすた何処かに向かって歩いていく。段々と遠ざかっていくシュルティラの背中に、「……何処へ向かうつもりだ?」とアドルファスが声をかける。

「……姉上のもとへ」

シュルティラの答えはただそれだけだった。アドルファスは眉間を揉みながら溜め息を吐いていたが、止めない辺り彼の行動を制限するつもりはないようだった。止められぬシュルティラはそのまま玉座の間を出ていき、また扉の閉まる重苦しい音が響いた。

23日前 No.73

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22日前 No.74

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━━━━昔のことは、よく覚えている。


離宮を出て、シュルティラは結局もといた噴水まで戻ってきた。他に行きたい場所がないのだ。自室に行ってもやたらときらきらしくて落ち着かないし、かといって気軽に話せるような友もいない。せいぜい姉である先程の女性━━━━元アーカム王国第一王女である、キラナくらいとしか、シュルティラは込み入った話をすることは出来ない。他の面子はなんとなくそういった話が出来るような人間ではない気がしてならないのだ。
そうだ、シュルティラには気軽に話せる人間などこれまでいなかったような気がする。いや、かつてシュルティラ以外の名を与えられていた時代、つまりは地上で生きていた頃はそういった人間もいた。あの頃の名前は、シャルヴァでは口にしてはいけないことになっている。そのためシュルティラもその名を名乗ることはなくなってしまった。

(……嫌いな名ではなかった)

これはシュルティラの本心である。まだ神代と呼ばれていたあの時代に生きていたシュルティラは、決して恵まれた人生とは言えなかったがそれなりに楽しくやれていた。友人もいた。家族も一応、いた。腕を競い合える好敵手だっていた。家族に関してはあってないようなものだったけれど、今となっては些細な問題だ。当時はやたらお家柄を気にしていたけれど。
あの時代、シュルティラがまだ忌み子として扱われていなかった頃。それを思い出す度に、彼は何とも言えない気持ちに襲われる。なんだろう、この感情は。回顧だろうか。それとも後悔だろうか。シュルティラにはわからなかった。昔ならわかったのかもしれない。だが数千年も輪廻を続けてきた彼は、時を経るごとに人間的な感情というものに疎くなっていった。他人の気持ちが量れない。それをどうしようと思うことも、最近ではなくなっていった。同じような人生の繰り返し。そう、繰り返しなのだ。シャルヴァに生まれ、忌み子として扱われ、そして最期はアーカムの人間に殺される。決まりきった構図だった。殺されることに対する恐怖というものもシュルティラにはなかった。そうあるならば受け入れるしかない。一種の諦めを抱きながら、シュルティラは己を殺める人間に何の感情も抱きはしない。

(……嗚呼、しかし、俺は羨ましい)

ふと、脳裏に浮かんだのは一人の少女の姿であった。頼りなく、決して目立つような見た目ではなく、いつも何かに怯えているような。シュルティラが触れてしまえば、すぐにぽきりと折れてしまいそうな少女。シュルティラに手紙をくれた少女のことを、彼は事あるごとに思い出す。彼女が羨ましくて仕方がない。

(羨ましい。俺も、俺も見たい。俺も、出来ることならば━━━━)
「思索に耽るとは珍しいな、シュルティラ。先の姉との会話が其処まで愉快だったか?」

ぼんやりと天井の曼荼羅を見上げていたシュルティラの視界に入ってきたのは、またしてもルードゥスだった。流麗な顔立ちはやはり何処か厭らしい笑みを浮かべているせいで淫靡なものに見える。シュルティラが何かを言う前に、勝手にルードゥスは彼の隣に腰かけた。

「あの曼荼羅が気になるか?」
「…………」
「そう身構えるな。ただ質問をしただけではないか」

警戒しているのか何も言わないシュルティラの肩を軽く叩いてから、ルードゥスはちらと曼荼羅を一瞥した。光の入らないシャルヴァを照らす曼荼羅は、さながら太陽のようである。これはただの比喩ではない。この曼荼羅は太陽を体現したかのように1日の中で光度を変えるのである。そのためシャルヴァの人間はこの曼荼羅に合わせて生活を営む。曼荼羅が輝き出したら起床し、逆に光が弱まり始めたら各々が家路につくのだ。

「あれは地底における太陽らしい。シャルヴァが創られた頃はまだ神代が続いていたからな、火神でも太陽神でも、あるいは精霊であっても人間と関わる機会はあったのだろう。一説には神の血を少なからず引く者の遺品を天井に埋め込んだらあの曼荼羅が出来たとも言うぞ」
「……何が言いたい?」
「くく、場合によっては貴様の知己が天井に埋められておるやもしれぬな。シュルティラ、貴様も一応神代の生まれ。神々に見初められた人間は何人も見ておろう?」
「……知らんな。心当たりはない」

左様か、とだけ呟いて、シュルティラの答えが面白くなかったらしいルードゥスは立ち上がって何処かへ歩いていってしまった。飽きっぽい彼らしいと言えば彼らしいが、シュルティラとしては彼と話した意義を見出だせずに話が終わってしまうのは少し不愉快だった。

「…………」

曼荼羅に向けて、シュルティラは手を伸ばす。籠手に包まれた己が真っ黒な手は、曼荼羅の光を吸い込んでしまいそうに思えた。嗚呼、これが太陽だったなら。つい、そう思ってしまうシュルティラは、今は遠い天道を思いつつ兜の下の目を細めた。

21日前 No.75

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20日前 No.76

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【第13幕:王宮勤めの始まり】

その日の集落はまだ朝だというのに酷く賑やかだった。それもそのはず、この日は王宮勤めを望む者たちが都に向かうことになっているのだから。王宮からやって来た馬車には乗り切れないほどの人数が押し掛けてきたため、運搬はかなりの時間を有していた。混雑を避けるためにヴィアレとエルトはノルドの馬車に乗ることにした。

「いやぁ、まさかお前らが王宮勤めに行くなんてな!俺は向いてないから送ってくしか出来ないけど、王都に行けるってのは羨ましいぜ!」
「まあ、何月か一度は帰ってこられるとの話であった故、完全に離ればなれという訳ではなかろう。その時には土産を持って行くぞ!」

そうヴィアレが言うと、ノルドはにししと笑ってから彼の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でた。それを見たエルトはなんとなく微笑ましい気持ちになる。ああいったことは昔兄たちによくしてもらっていたため懐かしい。末っ子のエルトは腹違いの兄たちにもよく可愛がられていたのだ。
今回、ヴィアレとエルトは王宮に仕える下男として王都に向かうことにしていた。そのためエルトも今回ばかりは男性の出で立ちをしている。集落の面々の中には「あんな奴いたっけ……?」と訝しげな表情をしている者もいたが、どうせ王宮に行くのだからあまり構わず気にしないことにした。変に関わったり誤魔化したりするとそれこそ勘づかれる。

「そういえば、ナラカはどうしたんだ?あいつも王宮勤めに行くなら、いっしょに連れていくけどよ」
「さあ……私たちが家を出た時にちょうど起きて来ましたが、特に何か言ってはいませんでしたよ。此処に来てからも姿を見かけませんし」
「そうか……ならあいつは集落に残るのかな。ナラカらしいっちゃナラカらしいが」

ナラカは朝に出ていこうとするエルトたちに一瞥もくれなかった。エルトとしては当たり前のことなのだが、ヴィアレは彼女ともいっしょに行きたかったのか、エルトにもう少し待とうもう少し待とうとごねていた。しかしそれでもナラカはのろのろと準備をしていたので、見かねたエルトはまだ待とうとするヴィアレを集落の入り口まで連れてきたのである。初めはしょんぼりとしていたヴィアレだったが、ナラカの性分から彼女は王宮勤めに行かないだろうと自分で納得したのかもしれない。今ではいつも通りの元気な様子を見せていた。

「ヴィアレ君、エルト君!」
「アシェリム、それにリリア!来てくれたのか!」

荷物を馬車に詰め終えたところで、ヴィアレは此方にぱたぱたと駆けてくるアシェリムと、その後を着いてくるリリアの姿を見つけて大きく手を振った。アシェリムは厚着なこともあってか肩で息をしながら、ヴィアレの手を握る。

「君たちが王宮に行くとはね。どうか、くれぐれも無理はしないでおくれ」
「大丈夫だ、アシェリム!そなたこそ、怪我は大丈夫なのか?」
「嗚呼、それについては安心してくれ。リリアに治して貰ったからね。あの時は色々とすまなかった、私としたことが切羽詰まってしまったみたいだ」
「……アシェリム」

アシェリムは穏やかに微笑んでいたが、ヴィアレの表情は優れない。事情を知らないエルトは何と言えば良いのかわからず、ノルドにちらと視線を向けるしか出来ない。浮かない表情のヴィアレに声をかけたのは、アシェリムでもノルドでもなくリリアだった。

「妾が見た限りアシェリムの怪我は完治した。お前が心配せずとも良いのだぞ」
「しかし……」
「王宮に行くのだろう?ならばそのようなしけた顔をするな。門出というのは笑って行うものだぞ」

リリアの言葉は優しい。その優しさがヴィアレにとっては不服だった。それでも彼女に何かを言い返すことは出来ずに、ヴィアレはこくりとうなずく。それを見て安心したのか、アシェリムは「体には気を付けるんだよ」と声をかけてヴィアレから手を離した。

「さあ、行っておいで。君なら出来るはずだ」
「……かたじけない。帰ってきた時には、必ず良い知らせを持ち帰ろう!」

そう告げてから、ヴィアレは馬車へと乗り込んだ。エルトも一礼してから、ヴィアレに続いて馬車に乗り込む。たった一月、然れど一月。生活を営んだ集落は、風を切る馬車により離れつつあった。

19日前 No.77

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18日前 No.78

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話している中で、アリックは旧アーカム領から来たわけではないと語った。王宮勤めを求めてやって来たものの、この行列を無視する訳にもいかず混ざり込むしか出来なくなってしまったのだという。特に選別などはなさそうだが、分けられているのなら困る、と彼は語った。

「噂によれば、王宮に入る前に審査を受けるようです。怪しい人間はその場でお縄のようですよ」
「そ……それは怖いな。怪しまれぬようにせねば……」
「心当たりでもあるのですか?」

まるで我がことのように震えるヴィアレを、エルトがじろりと横目で見る。あのアドルファスとかいう宰相の顔つきから厳しい審査を受けるような予感はしていたので、エルトは細心の注意を払って持ち物を揃えてきた。そのため剣などの武器はナラカの家に置いてきている。恐らくナラカやハルシャフが使う機会はないだろう。

(そういえば、見送りにハルシャフがいませんでしたね……)

ふと、エルトは見送りにハルシャフがいなかったことに気づく。ばたばたしていて気にしていなかったが、不思議なこともあるものだ。昨夜は離れたくないと言わんばかりに引っ付いてきたというのに。

「ご心配なさらず。余程のものをお持ちでなければ引っ掛かることはありませんよ」
「……何故そう言い切れるのです?」
「私の知り合いが昔に王宮に入ったことがあるのです。その際に準備を手伝ったのですよ。武器などを持ち込まないのは当たり前ですが、危険性がなければたいていのものは持ち込みを許されるようですね」
「そうなのか……それなら良いのだが……」

やけに詳しいアリックをエルトは訝しむが、彼はどうやら知り合いが王宮勤めに行ったことがあるらしく、エルトはこれ以上問い詰めるようなことはしなかった。いきなり出会って此処まで馴れ馴れしいとエルトとしては警戒してしまうのだが、今のところアリックに裏は見られない。彼がまだ本性を現していないのか、もしくは本当にただ友好的なだけなのか。これまでずっと他人に対して気を張り詰めていたからか、エルトは何かあるとすぐに他人を疑うようになっていた。

「あ、見えてきましたよ。あれがティヴェラ王国の王宮です」

アリックが声を上げたことで、ヴィアレとエルトは彼の指差す方向へと視線を動かす。ティヴェラの王宮。それはシャルヴァ生まれのエルトも見たことがなかった。
アーカムの王宮はチベットなどの文化を想起させるような造形をしていたが、ティヴェラの王宮は印度など南亜細亜の建築物に似た造りだった。玉ねぎのような膨らみを持つ建物が幾つも連なっている光景は圧巻である。王宮の前には堀が巡らされており、跳ね橋を下ろさなければ行き来出来ないようになっているようだった。アーカムの王宮は土を盛って小高い丘のようなものを造ってからその上に宮殿を乗せる造りだったので、これにはエルトもほうと感嘆の吐息を漏らす他ない。白い外壁には曼荼羅の光がかかり、うっすらと曼荼羅の模様が浮かび上がっている。アーカムの王宮も美しいものだったがティヴェラのそれもなかなかだ。

「これは凄いな!我の住まいより大きい!」
「当たり前でしょう、王宮なのですから。いつまでもはしゃいでいないで、審査を通れるよう準備をしておきなさい」
「ふふ、エルト殿はヴィアレ殿の母上のようですね」

ヴィアレとエルトのやり取りを微笑ましそうに見守るアリックをエルトは睨み付けようとしたが、彼の穏やかな微笑みにそれを向けるのは難しく、呆れたようにこめかみを揉むしか出来なかった。つくづくやりにくい相手。アリックに対するエルトの評価はその一点に限った。

17日前 No.79

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跳ね橋が下ろされ、王宮勤めの希望者は無事に王宮内に入ることが出来た。入れたからと言ってそこから審査があった訳だが、ヴィアレとエルト、そしてアリックは特に問題なくそれを通過した。審査と言っても簡単な持ち物検査のようなもので、武器などを持ってきていない三人は案外するりと通り抜けられた。そもそも追い返される人間がいるのであろうか。下心丸見えな人間ならあり得なくはないが。

「これからどうすれば良いのだ?」

無事審査を通り抜けられたことに安心したのか、明らかにほっとした表情でヴィアレが尋ねる。そんな彼にアリックがくすりと微笑みかけた。

「先程の審査の際に、用紙を渡されたでしょう?其処にあなたが配属された部署と、これから過ごすことになる部屋が記されているはずですよ」
「どれどれ……我は雑色らしいな。エルトはどうだったのだ?」
「私は文官のものでの下働きのようですね。あなたとは別の部署です」
「そ、そんな……!」

何がどうなったら同じ部署に入れると思っていたのだろうか、ヴィアレは心なしか顔を青くさせて本気で驚いているようだった。やれやれと言いたげなエルトには目もくれずに、ヴィアレは勝手に彼の用紙をふんだくると隅から隅まで目を走らせる。せめて部屋が同じなら、とでも思っていたのだろうか。しかしヴィアレの希望はすぐに打ち砕かれることになる。真剣そのものだったヴィアレの表情は絶望一色といった様子に様変わりしていた。

「部屋も……別……」
「残念でしたね」
「ぜ、絶対思っておらぬだろう!」
「まあまあヴィアレ殿。部署は異なりますが、あなたと同室なのは私ですよ」
「…………へ?」

横から口を挟んできたアリックの言葉に、一瞬ヴィアレがきょとんとした表情を浮かべた。そしてすぐにぱあっと笑顔の花を咲かせる。童子のそれにも似た無邪気な表情に、アリックは少しだけ驚いたようだった。

「それは真か!?……うむ、うむ!真だな!そなたと同室とは嬉しいこともあるものよ!これからよろしく頼む!」
「ええ。こちらこそ、よろしくお願いいたしますね」

用紙を覗き込んできただけではなくいきなり手を取ってぶんぶんと強めの握手をしてくるヴィアレに、アリックは相変わらずたおやかな笑みを浮かべる。ヴィアレより幾分か背の高いアリックは慈しむような視線をヴィアレに向けていた。一体どのような素晴らしい教育を受けてきたらこのような物腰でいられるのだろうか。端麗な容姿に加えてこの立ち振舞いとなれば、そのうちアリックは女性たちからとんでもない人気を誇ることになるであろう。

「……と、いう訳だ。我は独りぼっちではなかったぞ!」
「はいはい、それは良かったですね」
「エルトは誰と同室になるのであろうな!怖い者だったら我の部屋に来ても良いのだぞ?」
「なんですか怖い者って……。何のために審査をしていると思っているんです?物騒な方がいらっしゃる訳ないでしょう」
「いいや、わからぬぞ。神殿で読んだ書物の中には、素手で首をねじ切る猛者もいた。そういった者と同室になったらエルトはどうするというのだ?」

独りぼっちの王宮勤めを避けられたからか、ヴィアレは得意気にエルトを見上げてくる。例えが独特すぎて何処をどう突っ込めば良いのかわからない。エルトは溜め息を吐いて、「そういった方は兵役の方が適しているでしょう」と釘を刺した。

「とにかく、まずは部屋に向かって荷物を置くのが先でしょう。これから部署ごとに説明もあるのですから、素早い行動を心掛けねば」
「ふふ、たしかにエルト殿のおっしゃる通りですね。さ、参りましょうヴィアレ殿」

微笑みながらやんわりとヴィアレを導くアリックはさすがとしか言いようがない。まだエルトと話していたかったヴィアレも、彼に促されては抵抗も出来ないというもの。わかった、と渋々ながらうなずいて、アリックの後に続いたのであった。

16日前 No.80

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15日前 No.81

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14日前 No.82

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きゃいきゃい言いながらも休憩時間まで仕事をしていると、雑色の仕事が終わる時間帯になっていた。王宮にある使用人用の食堂があるとのことで、ヴィアレたちは其処で共に夕食を摂ることにした。

「僕、こんな賑やかなところでご飯食べるのって初めてだよ。いつもは仕事が終わり次第個人で、って感じだったからね〜」
「お前、仕事してたのか……?」
「な、なんなのその顔は!僕だって仕事くらいしてたよ!」

恐らくグラネットはエミリオがこれまでまともな職に就いていないものだと思っていたのだろう。彼の言葉に神妙な表情を浮かべた。たしかに先程の仕事中にもエミリオはことあるごとにヴィアレに話しかけてきてグラネットからお叱りを受けていたので、彼が真面目に仕事をしている姿はヴィアレも想像しにくかった。

「もう、グラネットったら酷いんだから。僕皆のご飯取って来るね。二人は席取っといて」
「良いのか?一人では辛かろう」
「いーの!これくらい出来ないとさすがにカッコ悪いじゃん?僕だって可愛い子の前でカッコつけたいもん!」
「お前喋んない方が全然ましだな……」

なんだかんだ言いつつ食事を取りに行ってくれたエミリオを見送ってから、ヴィアレとグラネットは手近な席を取っておいた。四人掛けだからエミリオを入れても余裕があるだろう。別に相席になっても構わないので、広々とは使わず席はひとつ空けておくことにした。

「それにしたって、けっこうな人だよな。一気に雇うっては聞いてたけど、驚かずにはいられねーや」
「グラネットは旧アーカム領から来たのではないのか?」
「おう、オレはもともとティヴェラの生まれだからな。ヴィアレ、お前は旧アーカム領から来たのか?」

グラネットの問いかけに、ヴィアレはこくりとうなずく。旧アーカム領から来たとは言っても其処出身ではないので多くは語れない。エルトによれば外界からやって来たということは極力話さない方が良いとのことだった。ティヴェラ国だけではなく、シャルヴァ全体も含めて外界の人間に差別意識を抱いている民も少なくはないという。外界へ出ることを“外界落ち”と呼ぶのはそれもあってのことなのだろう。だとしたら落ちる、なんて言わない。
うなずいたヴィアレを見たグラネットは、彼から気まずそうに目線を一瞬外した。そのままきょろきょろと所在無さげに視線をさ迷わせてから、またヴィアレの顔を見つめる。

「その……そっちって、今はどんな感じなんだ?やっぱり、まだ荒れてるのか?」
「うぅむ……たしかに、都に比べたら廃れているかもしれない。だが、決して寂れている訳ではないぞ。民もいるし、集落もある。それに、ティヴェラとも完全に遮断されているという訳でもないからな」
「そ、そっか。やっぱり、そんな感じなんだな……」

やや挙動不審なグラネットに、ヴィアレは訝しげな表情を浮かべる。どうしてグラネットは焦るような素振りを見せているのだろうか。ヴィアレは彼の顔を覗き込む。グラネットの碧い瞳と、ヴィアレの紅い瞳がかち合った。

「我はティヴェラの者を何とも思うておらぬ。そもそも戦のこともよく知らなんだ。そなたが気にすることではないぞ、グラネット」
「そ、そうだけどよ……」
「……?そうだけど、どうしたのだ?」
「うわぁ〜〜〜ん、どうしよう二人ともぉぉ!!僕、僕やらかしちゃった〜〜〜〜〜!!!」

気まずそうな雰囲気の中に突然割り込んできたのはなんとも気の抜ける泣き声だった。振り返ってみれば、ちゃんと人数分の食事をお盆に乗せて持ってきたエミリオがいる。彼の左頬にはなんとも痛々しい赤い手形があった。要するに誰かに平手で打たれたのだろう。しくしくめそめそと泣きながらやって来たエミリオを、周囲の者たちは奇異の目で見ていた。

「どうしたのだエミリオ!?何があった!?」
「うぇぇん、ご飯貰いに行く途中にすっごい可愛い子がいてさぁ……。でもなんかよくわからないけどずぶ濡れで……可笑しいな、不思議だな、可愛いな、胸おっきいな〜って思って声をかけてみても、全然振り返ってくれないの。聞こえてないかもって思って肩叩いてみたら、物凄い勢いでぶたれちゃった……。どうしよう、僕可愛い子に嫌われたとか信じたくないよぅ……!」

何があったのかと真面目に問うたヴィアレだったが、エミリオから返ってきたのは彼の予想に反するものだった。途中まで真剣に聞いていたグラネットは溜め息まで吐いている。とりあえず、ヴィアレはめそめそと泣くエミリオの頭をよしよしと撫でてやった。

「……要するに、ナンパが失敗しただけじゃねーか。自業自得だろ」
「う、うん……。まあそれはわかってるよ……何度も声とかかけたらさすがに怖いよね……。本当にどうしよう、明日から僕はこんな気持ちで過ごさなきゃならないのか……」
「き、きっとその子も申し訳なく思っているはずだ!明日、また食堂で会うたら謝りに行こうぞ。我とグラネットも伴する故な!」
「おい、なんでオレまで巻き込んでんだよ!とにかく飯食うぞ飯!腹が減っちゃあどうにもなんねーからな!」

おら座れ、とエミリオを席に促してから、グラネットは一人一人の食事を分けていく。言葉は荒くとも彼なりにエミリオのことを気遣ってやっているようだった。エミリオもそれを理解しているのだろう、ふにゃりと笑みを浮かべると食事に手を付け始めた。

13日前 No.83

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【第14幕:受難と薬師と可笑しな羅刹】



何を間違ったのだろう。


ナラカは思う。自分はどの時点から間違っていたのだろうか。どうしてこんな惨めな思いをしながら、独りとぼとぼと歩いていかなければならないのだろうか。考えても考えても、結局最後は“最初から間違っていた”という結論に追い込まれる。それがどうにも受け入れられなくて、受け入れたくなくて、ナラカはまた泣きそうになる。
お腹が空いた。先程から何度もきゅるる、と腹が鳴っている。その度に、胸元に隠れている餅蜥蜴が此方を心配するように顔を出してくる。餅蜥蜴のつぶらな瞳には、濡れ鼠の惨めな小娘しか映っていない。

(どうして、私がこんな目に遭わなきゃならないんだろう)

餅蜥蜴を人差し指で撫でながら、ナラカは今日何度目になるかわからない程にまたそう考えてしまう。こんなことを考えたって、誰が励ましてくれる訳でもないというのに。ただ独りで悲劇の姫君になろうとしているみたいで厭だったけれど、この状況を打破出来ない限り考えることをやめられなかった。
周りの下男や下女たちが、不審そうな表情で歩いていくナラカに視線を遣る。何やらひそひそと噂話をしている者もいた。何を話しているのかはなんとなく予想がつく。大方ナラカの聞きたくない話なのだろう。だからナラカは彼らのことを無視して、足を早めに動かすことにした。出来るだけ遠くへ行かなければ。出来るだけ人のいない、静かな場所に。そんな場所がこの王宮にあるのかはわからなかったが、それでも探し続けなければならない。こんなところにいたっていつまでも辛いだけだ。だったら独りでいた方がよっぽど良い。

(何処に行けば、独りになれるだろうか)

知り合いがいない訳ではない。しかしヴィアレやエルトには王宮勤めに行くことすら伝えなかったし、此処に来てまでシュルティラに頼るのはどうかと思う。今のところ味方と言える存在は胸元の餅蜥蜴だけ。餅蜥蜴がいなければ心が折れていたかもしれない。これほどまでに小動物に感謝する日が来るなんて思っていなかった。
しばらく歩いていると、途端に人通りが少なくなった。それと共につんと鼻をすえる臭いが漂い始める。嗚呼、ごみ捨て場が近いのかとナラカは考えた。服に臭いが付くとか、そういったことは最早気にしなくなっていた。とにかく今は独りでいたかったのだ。そのまま歩を進めていくと、やはりごみ捨て場にたどり着いた。朝方に燃やすのだろう、この時間帯はけっこうなごみの量だった。

「……!」

ぼんやりとしていたナラカだったが、突如はっと目を見開いてごみの入っている大きな籠の中を覗き込む。そして躊躇することなくその中へと手を突っ込んだ。
ナラカが引っ張り出したのはごみで薄汚れた麻の鞄だった。いつもナラカが首から下げているものである。ナラカは汚れや臭いを気にせず、鞄をぎゅっと抱き締めた。

(……嗚呼、本当に、どうして)

嘆いていても仕方がない。泣いていても誰も振り向くことはない。慣れているはずだ。慣れているはずなのだ。それなのに、どうしてこんなに辛いのだろう。ナラカは鞄を抱き締めながらほろほろと涙を溢していた。本当なら声を大にして泣きじゃくりたかったけれど、そんなことが出来るはずもない。ナラカは声を抑えるようにして、ただ嗚咽を漏らすことしか出来なかった。

12日前 No.84

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━━━━時は、今日の朝方まで遡る。

ナラカはヴィアレとエルトが出ていくや否や、素早く準備を整えて広場に向かい、王宮から出された馬車に飛び込んだ。既にぎゅうぎゅう詰めだったが気にしない。酔わないようにと梅干しは食べてきたし、そこまで大きな荷物は持っていないからかさばることもないだろう。出入口から振り落とされないようにと、ナラカは出来るだけ奥に体を動かした。

(ティヴェラ国の都……。どんなところなんだろう……)

動き出した馬車に揺られながら、ナラカはまだ見ぬ王都に思いを馳せる。ナラカはノルドたちに着いていって市場に赴いたことはあるが、都市部までには入ったことがなかったのだ。噂に聞けば、其処は理想郷をそのまま具現化したかのようなところだという。ナラカの胸は高鳴りを抑えられなかった。
ナラカの暮らしていた集落からティヴェラの都まではそれほどの距離を有していないので馬車は程なくして目的地に到着した。押し出されるようにして外に出たナラカは、とにもかくにもはぐれないようにと人の波に揉まれながら着いていく。恐らく前方に案内の兵士か何かがいるのだろう。彼らによって自分たちは王宮まで案内されるようだった。

「……ナラカ」

くい、と。歩いていたナラカが下げていた鞄の紐を、後ろから軽く引っ張られた。ナラカは後ろに倒れそうになるのをなんとか堪えてから、慌てて後方を振り返る。かかった声には聞き覚えがあったのだ。

「な、なんで此処にいるんですか……!?」
「……エルト、いなくなってたから……」

ナラカを呼び止めたのはナーガの青年、ハルシャフだった。尻尾を隠すためなのか、腰に布を巻き付けている。それでも尻尾が動けば布が不自然に動くのでナラカからしてみれば隠していても意味がない。どうせなら手の鱗も隠した方が良いと思う。

「ハルシャフさん、あなたも用紙を貰ったんですか?」
「ようし?」
「これです、これ。王宮勤めに行く人は、これを書かなくてはならないんですよ」
「…………もってない」

ナラカが用紙を見せると、ハルシャフはしゅんと眉尻を下げた。やはり彼は用紙を持っていなかったらしい。

「ナラカ、それ、もらっちゃだめ?」
「だ、駄目ですよ……!それにもう名前とか書いてしまいましたし……。ハルシャフさん女の子じゃないでしょう?」
「うん……そうだよね。ごめんなさい……」

下手したら奪われてしまうのではと危惧したナラカは必死で用紙を守ろうと身構えたが、ハルシャフは案外あっさりと退いた。それでも悲しそうな表情であることに変わりはない。あの憎きエルトと全く同じ顔だが、なんとなくナラカも可哀想に思えてくる。

「い、今なら大丈夫です。けっこう歩いて来てしまったけれど、馬車のところまで戻れば帰れると思います。きっとノルドさんたちもいらっしゃいますから、その馬車に乗せてもらったらどうでしょうか」
「……でも」
「エルトさんに会いたいなら、集落で用紙を貰ってください。そうでないと王宮勤めは出来ないんですから。エルトさんだって、不正な手段でハルシャフさんには入ってきて欲しくないと思います」
「……うん。わかった」

ナラカの言葉にハルシャフはこくりとうなずいて、とぼとぼとした足取りで来た道を戻っていった。彼も連れていけることなら連れていってやりたいが、違反者になってまで連れ込むつもりはない。きっと集落にもまたあの用紙は補充されるはずだ。そう信じてハルシャフに戻るよう言う他、ナラカには手段がなかった。

(……仕方ない。仕方のないことだったんだ)

一生懸命そう自分に言い聞かせながら、ナラカは再び歩き始める。間もなくすれば王宮に到着するだろう。これからは実質知り合いのいない場所で働くことになるのだ。気を引き締めるためにも、ナラカはぐっと目の前を見据えた。

11日前 No.85

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跳ね橋を渡ってから、ナラカは他の面々と同じように審査を受けることになった。この点については心配はない。刃物などは持ってきていないし、そもそも武器なんてひとつも持ってはいない。食べ物も保存の利く質素な非常食だけである。此処はあまり心配せずに通ることが出来るだろう。そう考えていたナラカの胸元が、何やらもぞもぞと動いた。

「……!?」

胸元からひょこりと顔を出したのは、何を隠そう餅蜥蜴であった。嗚呼、そうだ。朝はばたばたしていた思いっきり忘れていたけれど、自分には餅蜥蜴がいたのだ。いつも気づかないうちに服の中に潜り込んでいて、突然出てくる度に驚いていたものだ。しかも今回は自分の審査の二番ほど前。ナラカは声を出しそうになるのを必死に我慢しながら、餅蜥蜴を奥に押し込もうとする。

(なんで今日は出たがるの……!?)

しかしナラカの思惑とは裏腹に、餅蜥蜴は押し込まれてもすぐにまた顔を出してしまう。そうこうしているうちにナラカの順番が迫りつつあった。なんとか餅蜥蜴を隠そうとしながら審査している面々を覗き見たナラカはひゅっと息を飲む。

(シュルティラさん……!?あの人ってけっこう偉い方なんじゃ……!?)

なんと、審査に立ち合っているのがかのシュルティラだったのである。今日も今日とて完全武装の彼にナラカの震えは止まらない。もしかして、違反者はシュルティラに処罰されてしまうのではないか。そんな疑念が生まれてしまい、ナラカの背中を冷や汗が伝う。何としてでも隠すべきか。いや、後から餅蜥蜴を忍ばせていることが露見して処罰されたらどうするのだ。いっそのこと正直に餅蜥蜴を出したまま審査に進むべきなのか━━━━。ナラカの心中は破裂してしまいそうだった。

「次!」
「はっ、はいぃ……!」

そうこうしているうちにナラカは誘導の兵士に呼ばれてしまった。声は裏返るし、振る舞いもなんとなく挙動不審になっている気がする。現に右足と右腕を同時に出してしまったから、周りの面々に訝しげな顔をされた。餅蜥蜴は最後の最後まで引っ込んでくれなかったため、ええいままよと吹っ切れて肩に乗せておくことにした。ナラカはかちこちに固まりながら審査官とシュルティラの前まで歩いていく。

「えー、まずは鞄を…………の前に、その肩の生き物は……?」

やはり餅蜥蜴は何とも言えない存在感を放っていたのだろう。平静を装って鞄を下ろそうとしていたナラカはその質問に顔を青くさせた。やっぱり突っ込まれた。そりゃあたしかに気になるだろう。ナラカはぶるぶる震えながら餅蜥蜴を手に乗せる。

「あ……あの……。家で、飼っていたんですけど……。なんか、着いてきてしまって……。あ、その、草食ですから、害はないと思います……。そ、それに、とてもおとなしいですし、鳴き声も発しません……。糞もそこまで大きくないし、草食なので臭いもありません……。とても飼いやすいです……。それにほら……こう、近くで見ると、とても可愛くて……」

慌てるあまり謎の宣伝のような口調になりながら、ナラカは審査官に餅蜥蜴を見せた。審査官はどう対応して良いのかわからないようで、戸惑いながらシュルティラに「い、如何致しましょう……?」と尋ねる。

「…………」

ぐっ、と。シュルティラは無言で親指を立ててからうなずいた。是、ということなのだろうか。審査官も彼の真意はよくわからなかったらしく、「で、ではその通りに……」と戸惑った様子を隠さずに首を振っていた。シュルティラが何も言わないところから見て、審査官の判断は間違っていなかったのだろう。

「では、鞄の中を拝見させていただきますね」
「ど……どうぞ……」

ひとまず餅蜥蜴の持ち込みが通ったのは良いとして、次ぐ手荷物検査にナラカはごくりと生唾を飲み込む。此方で引っ掛かったらどうすれば良いのだろうか。……という心配は杞憂に終わった。ナラカの手荷物は数分確認されてからすぐに戻ってきた。特に気になるものはなかったらしい。

「最後に、あなたは学問において、何か特別な教養をお持ちですか?」
「学問……?ええと……読み書きは、出来ますけど……」
「読み書きの他に、詩作の経験だとか、文学作品の暗誦だとか……。そういったものをお持ちでしたら、此処で教えていただきたいのですが」
「……一応、源平の戦のお話は、覚えていますが……」

審査官からの問いかけに、ナラカは頭を悩ませながらそう答えた。源平の合戦。眠れない時によく聞かせてもらった覚えがある。だから大体の話の内容は覚えているし、頼まれれば語り聞かせることも出来る。審査官は源平、なんて聞くのは初めてだったのだろう。ナラカに「少しお聞かせください」と頼んだ。

「……はい、わかりました」

すぅ、と息を吸い込んだ。何度も何度も、微睡みの狭間で聞いた節。ナラカの口からはすらすらと淀みなくそれらが流れ出た。本当に初めの、触りの部分。それを語り終えるのは案外早いものだった。審査官はぽかんとしてナラカを見つめていたが、すぐにはっと我に返ったのか手元の書類を書き始める。

「素晴らしい!このような戯曲は聞いたことがありませんでした。これからの王宮勤めも、頑張ってください」
「は、はぁ……。ありがとうございます……」

なぜだかひどく絶賛されていることに首を傾げながら、ナラカは妨げにならぬようにと審査官から渡された用紙を受け取って前へと進んだ。餅蜥蜴は先程までは外に出ようとしていた癖に事が終わるとまたナラカの胸元に潜り込んでしまった。

「……全く、何なんだろう……」

そう呟きながら、ナラカは自分の部屋に向けて歩みを進める。これから自分がどうなるかなど、その時の彼女は考えてすらいなかった。

10日前 No.86

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自分の部屋に荷物を置いてから、ナラカは仕事場に向かうことにした。たしかナラカの配属先では、王宮の要人たちの衣服を洗濯することを仕事としていたはずだ。一見地味な仕事のようにも思えるが、貴人と触れ合えるという仕事内容からしてけっこう上の立場と言っても良い仕事らしい。用紙の裏に記してある地図を見ながら、ナラカは仕事場を目指した。

(もしかして、私ったら思いもよらず出世する感じ……?)

期待していた訳ではない。決して出世しようだとか、良い地位が欲しいだとか、そういった感情などナラカにはなかった。ただ、王宮勤めという新しい環境に身を投じたかっただけだったのだ。しかしその滑り出しがなかなか良い感じで、ナラカの胸には淡い期待が生まれつつあった。ティヴェラの王族や貴人についてはまだまだわからないけれど、もし気に入られたら。そう思うと、いつもは頑なに動かない表情筋が少し弛んだ。
いつもより少しだけ弾む足取りで、ナラカは仕事場に向かう。こういった仕事はやはり性別が分けられているようで、周りには同性しかいなかった。

(……?雰囲気悪っ……)

しかし彼女らはナラカを見ると何やらひそひそと小声で話をしたり、あからさまに距離を取ったりしてナラカから離れていた。そんな彼女らの様子にナラカは疑問を覚える。どうして彼女らは自分を避けるのだろう。たしかに自分の容姿に自信はないし、旧アーカム領の人間だからティヴェラの人間からしてみれば余所者なのだろう。それでもこんなに遠巻きにされる理由がわからない。

「━━━━ナラカ」

かつ、かつと床を鳴らす靴音が聞こえた。見れば、険しい顔をした女性が此方に近づいてくるではないか。周りにいた同僚たちは先程よりもナラカとの距離を広げた。

「返事をなさい、あなたがナラカなのでしょう?」
「は、はい。私が、ナラカですが……」

厳しい面持ちと刺々しい口調でそう告げられてナラカは思わず身をすくませる。何か悪いことでもしただろうか。全く身に覚えがない。けれど目の前の女性は相変わらず此方を睨み付けている。ナラカは彼女の様子を窺うように、唇を震わせながらその顔を見上げる。

「ナラカ。何故此処にいるのです?」
「え……何故って、先程此処に配属されて……。あの、もしかして、場所を間違えて……」
「いいえ。あなたは先程不正行為によってこの部署への配属を可能にしたとの連絡が入りましてね。故に、此を以て配属を取り消しとさせていただくことにしたのですよ。さあ、早く出ていきなさい」
「配属……取り消し……?」

ナラカは女性の言っていることが理解出来なかった。嘘だ。そんなことあるはずがない。だって自分は認められたのだ。不正なんてしていない。どうしてそんな話になったのだろう。ナラカの頭は情報を処理出来ず、ぐるぐると渦を描いて回り続けていた。そうしている間にも、女性は踵を返して遠ざかっていく。慌ててナラカはその後を追いかけた。

「ま、待ってください!私、不正行為なんて何もしていません!これは何かの間違いです、間違いなんです!この紙、この紙には私の配属が記されています!こんな短時間で配属が取り消しになるなんて、私聞いてません!」
「はしたないですよ。早く下がりなさい」
「違う、違うんです!誤解です!私は正当な手段で此処に入れてもらったんです!そんな、いきなり取り消しだなんて認められません!そういったお話が出るとしても、こんなすぐに出るはずがない!ですから私は━━━━!」

必死に女性に食い下がろうとしていたナラカだったが、突如腹部に鈍痛を感じてその場に倒れ伏した。げほげほと咳き込みながら、ナラカは腹部を蹴飛ばされたのだと認識する。

「恥を知りなさい、亡国民めが!」

なんとか頭をもたげて女性を見上げると、彼女は心の底から軽蔑し、二度と顔も見たくないといった風な表情でナラカを見下していた。それと同時に周りからはきゃはは、くすくすと嘲笑の声が上がる。

(嗚呼、なるほど)

ナラカは理解した。不正行為なんていうのはただの建前。本当は、彼女らは旧アーカム領からやって来た自分を同僚になんてしたくなかっただけだったのだ。そう思うと無性に腹が立って仕方がなかった。自分はアーカムの人間なんかじゃないのに。どうして何も知らない奴らに嘲笑われなくてはならないのだろう。なんとか力を振り絞って立ち上がると、ナラカはぎりっと自らを嗤う者らを睨み付ける。

「こっち見るんじゃないよ!」

何処からともなくそんな声が上がって、ばしゃりと何か冷たいものがかけられた。水、だろうか。ナラカにはわからなかった。ただ、濡れ鼠になった自分を誰もが嘲笑っていた。

「……っ!」

居てもたってもいられなくなって、ナラカは出口に向けて駆け出した。途中で何度も足を引っ掛けられたし、踏みつけられたし、数えきれない程地面と接吻したが、それでもなんとかナラカは外に出た。独りになりたい。ただそれだけで、ナラカは息を切らしながら駆けるのをやめなかった。

9日前 No.87

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8日前 No.88

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7日前 No.89

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6日前 No.90

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5日前 No.91

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「……で、だ。ナラカ、お前、これまで何があったか覚えてるか」

気を取り直して、小鈴はナラカにそう切り出した。ナラカとしては思い出したくもなかったがいかんせん自分のことなのでうやむやにも出来ない。とりあえず最後の記憶だけを呼び起こすことにする。

「たしか、ごみ捨て場で倒れて……」
「そうだ。怖くも何ともないこいつに土下座したらしいな。わかりやすく落ち込んでたぞ」
「小鈴、お前なぁ……」

くすくすと密やかに笑む小鈴に、アロイスがじとりと視線を送る。しかし小鈴はそんな彼を気にする素振りを見せることもなく、再びナラカに向き直った。

「お前、何があったのか知らないがずぶ濡れだっただろ。熱は出してるわ擦り傷だらけだわ、ついでになんか臭いわでこっちは大変だったんだからな。感謝しろよ」
「はぁ……ありがとう、ございます……」
「いまいち納得いかなそうだけどな、お前は幸福者だぞ。なんたって私は宮廷薬師だからな。普通なら治すのに一週間かかる熱を二日で治してやったんだ」
「え……二日……?」

小鈴の言葉を聞いて、ナラカは絶句する。二日。二日も寝ていたというのだろうか。いや、たしかにナラカは寝起きがよろしくない。お昼過ぎくらいに起きて、夜眠れなくて夜更かしして、またお昼過ぎくらいに起きて……という生活を送っていたことだってなくはない。けれど丸々二日も爆睡していたなんて、さすがのナラカも信じられなかった。だからあんなに腹が減っていたのか。信じたくはないがなんとなく納得出来てしまうところが辛い。

「まあお前の配属されてる部署には連絡入れといてやるからよ。そう心配するなって」

絶句しているナラカを励ますつもりだったのだろう。アロイスが俺に任せろ、とでも言いたげに逞しい胸板をどんと叩く。だがそんなアロイスの厚意もナラカにとっては皮肉にしか聞こえない。

「あの……私、初日に配属を取り消されてしまって……。今は、何処にも配属していないんです……」

口にするのも辛かったが、嘘を吐いてもなんの利点もない。そのためナラカはもごもごと口の中に溜め込むようにしてアロイスにそう伝えた。誇らしげにしていたアロイスは「え」と表情を固まらせる。

「しょ……初日に?そんなことってあるのか?何かの手違いなんじゃねぇのか?」
「いえ……。配属された部署に行ったら、追い払われてしまったんです……。私、何もしていないはずなんですけど、不正行為をしたと言われてしまって……」
「……お前、何処の部署に配属されたんだ?」

信じられないといった表情で声を潜めて尋ねるアロイスにナラカがうなずいていると、横から小鈴が口を挟んできた。ナラカは少し考えてから、「貴人たちのお洗濯をするところだった気が……」と答えた。すると小鈴は目を見開き、ずいっとナラカに詰め寄った。

「それ、本当か?」
「はい……。審査で、私の祖国の軍記物語を朗読してみたら、其処に配属されて……。あの、やっぱり曰く付きの部署なんですか……?」
「曰く付き、って訳じゃあないんだがな。彼処は良いところのお嬢さんだとか、それなりの教養を受けた奴が入れられるところなんだよ。お前、旧アーカム領から来たのか?だとしたらとんでもない快挙だぞ。まず普通の人間はあの部署に入れない。文学作品の朗読なんて、ただの人間は出来ないはずだからな」

小鈴は相変わらず淡々とした口振りだったが、いきなり口数が多くなったことから僅かに高揚していることがナラカにもわかった。思いもよらず、本当にけっこうな地位につけていたらしい。まあ今となっては配属が取り消しになってしまったので後の祭りだが。

「たぶん部署のお偉いさんとか、部署の中で力のある奴としては気に食わなかったんだろ。だから無理矢理にお前の配属を取り消した。一旦部署に入ってしまえばあとは上司の好きに出来るからな。上には適当な理由でもつけて言い訳するだろ」
「じゃ……じゃあ、私は特に悪いことはしてないってことで良いんですよね……?」
「今のところはな。でも自覚がない上に1日で取り消しなんて異常事態からして、私にはそうとしか思えない」
「そうですか……」

とりあえず心当たりも何もないまま不正行為をしたということにならなくてナラカはホッとしたが、安心している場合ではない。何にせよ、配属が取り消されたことに変わりはないのだ。このままではナラカの収入はないし、王宮にいる意味もなくなる。

(どうしよう……!)

ナラカは焦った。何のために王宮勤めをしに来たのか、これではわからなくなってしまう。他に雇ってくれるところなどあるのだろうか。ずっと小鈴のところに世話になる訳にもいかないし、一体どうすれば良いのだろう。あわあわと目線を泳がせるナラカをじっと見つめ、声を発したのはアロイスだった。

「なぁ小鈴。こいつ、此処で働かせたらどうだよ」
「……!?」

唐突なアロイスの提案にナラカはがばりと彼を見る。そんな軽いノリで雇ってもらえるものなのか。そもそも彼は何故そのようなことを言い出したのか。謎が多すぎて混乱するナラカを余所に、小鈴はあっさりと首を縦に振った。

「良いんじゃないのか。お前だけじゃ色々大変だからな。雇ってやらんこともない」
「えっ、えっ、良いんですか!?本当に!?」

あまりにも早く勤め先が決まってしまい、ナラカは思わず小鈴に大声で尋ねてしまう。何故こんなにもすぐに決めてくれたのだろうか。正直に言ってナラカは素性のよくわからない、容姿が特別優れている訳でもない、ついでに言うと厄介にも程がある人間である。そんな人間でも良いのかという疑問がナラカの中では生まれていた。勿論即決してくれたことは素直に嬉しいし、きっかけを作ってくれたアロイスにも感謝している。だが予想以上に決定が早すぎたのだ。

「お前さえ良いなら私は構わないぞ。ちょうど人手が欲しいところだったからな」
「そうそう、こんな可愛いげのない奴と二人きりよりはお前みたいな子がいた方がいででででで」

ナラカの問いに答えつつ、小鈴はアロイスの方を見ることなく彼の頬を引っ張った。なんとなくナラカは合掌したい気分になる。羅刹って頬っぺた引っ張られるんだ、と新たな発見が出来た。

「ええと、その……。お二人とも、よろしくお願いいたします……」
「おう、わかんねぇことは何でも聞いてくれよな!」
「あ、じゃあ……ひとつ良いですか?」

片手で頬を押さえながらも快活に微笑むエヴァルトに、ナラカはおずおずと控えめに切り出した。アロイスは「いいぜ!」と元気よく答える。

「…………お手洗いに行きたいのですが」
「…………突き当たりを左だぜ!」

アロイスの言葉を聞くや否や、ナラカは直ぐ様寝台から下りて、物凄い勢いで部屋を出ていった。唖然とするアロイス、やれやれと肩を竦める小鈴。とにもかくにも、ナラカの勤め先はひとまず決まったのであった。

4日前 No.92

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3日前 No.93

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食堂での朝食を終えて、ヴィアレは自分の仕事場へと向かう。アリックとは別方向だからと食堂で別れた。ここ二日でわかったことだが、グラネットもエミリオもヴィアレより早くは出勤して来ない。二人ともいつも遅刻ぎりぎりでやって来るのだ。ちなみに三回遅刻をすれば何やらきつい仕置きが待っているとのことなので、グラネットとエミリオは汗だくになりながら駆け込んでくる。この日の二人も仲良く肩を並べながら全力疾走してきた。

「ま……間に合った……!」
「なんとか、遅刻、回避……!」

息も絶え絶えなグラネットとエミリオに、ヴィアレは苦笑いしながら「おはよう」と挨拶した。ぜぇぜぇはぁはぁ言いながら飛び込んでくる二人は雑色たちの中では名物になりかけている。今日も同僚たちからは微笑ましげな視線を向けられていた。

「二人は何故いつもぎりぎりの時間にやって来るのだ?朝に弱いのか?」

兵士たちの使うであろう鎧を拭きながら、ヴィアレは床にぶっ倒れている二人へと尋ねる。するといち早くグラネットが「ちっげーよ!」と跳ね起きた。

「エミリオは寝坊だけどオレはちげーからな!オレは早起きしようとしてるんだよ!」
「しかし、遅刻ぎりぎりではないか」
「オレがいつも遅刻しかけるのは同室の奴のせいなんだよ。あいつ、自分だけ起きてさっさと出ていきやがるからな。おかげでオレは寝坊助扱いだ」
「それって多分グラネットが寝坊助なだけなんじゃないかなぁ……」

ふん、と鼻を鳴らしながら主張したグラネットだったが、横から同じく寝坊助仲間のエミリオが口を挟んだ。「うっせーバーカ」とエミリオのよく伸びる頬を引っ張りながらグラネットは続ける。

「たしかにオレだってさ、早起きに慣れてないから寝坊するのは理解してるよ。だから同室の奴には声かけてくれって頼んでんだ。けどあいつはこの二日間何の反応も示さねぇ。要は無視だ無視、ガン無視だ!オレなんか見えてねぇみたいな目ぇしやがる!」
「それは……。……まあ、気持ちは、わかるけど……」

エミリオの言いたいこともわかる。そんな人間に二日間頼むのもどうなのだろうか、と彼は言いたいのだろう。彼の頬がまた引っ張られないようにと、ヴィアレは急いで口を開いた。

「ならば、こういうのはどうだろうか?そなたが我に部屋の位置を教えて、我が毎朝起こしに行く。さすれば、同室の者が居らずとも起きられよう?」
「え、良いのか?つか、お前早起き出来んのか?巻き添えとか食らわないか?」
「案ずるな!我はこう見えて朝には強いのだ。これまでも、厄介な寝坊助は相手取ってきたからな。人を起こすのには慣れている」

ヴィアレが言っているのは勿論ナラカのことである。ナラカはなかなか手強い相手だった。朝に弱いだけではなく、寝起きの悪さも一級品なものだから、毎朝ヴィアレは彼女と布団の争奪戦に洒落込んでいた。ナラカもナラカで根気強く朝からうるさいヴィアレには苦戦を呈しており、最近ではなんだかんだ言いつつヴィアレが来ると起きるようになったのである。ナラカに何が起こったのか、そしてまだあの集落にいると思っているヴィアレは、彼女が一人で起きられるようになっただろうかと思いを馳せた。

「えー、そういうことなら僕もヴィアレに頼もうかなぁ。僕と同じ部屋の人は起こしてくれてるみたいなんだけど、記憶がなくて……。気づいたら出勤時間の鐘が鳴ってるんだよね〜」
「そうなのか。ではエミリオも我が起こしに行こう」
「わぁい、やったー!可愛い子に起こされるなんて最高だよ!」
「お前はまず同室の奴に謝っとけよ」

ぎゅっとヴィアレに抱き付こうとするエミリオの額にグラネットがデコピンを食らわせる。モロに食らったエミリオは「ふぇっ」と言って尻餅をついた。

「もー、何するのさグラネット!」
「お前は野郎にべたべたし過ぎなんだよ!散ったぁ男らしくしやがれ!」
「男らしくって何だよぅ!僕は僕で個性を立たせてるからいーのー!」
「おいおい、じゃれ合うなら余所でやってくれよ。仕事をサボるんなら上司に報告しちまうからな」

ぎゃんぎゃんと騒ぐグラネットとエミリオはいつものことなのでヴィアレも苦笑しつつ眺めていたが、見かねたらしい兵士がわざわざ注意にやって来た。初めはなんだテメー、と言いそうなグラネットだったが、兵士の言葉を聞いて「ひいっ」と縮み上がる。

「す、すんませんっした!後生ですから報告だけはご勘弁を!」
「お、おう。わかったのなら良いんだ。でさ、お前らって雑色だろ?だったらひとつ、頼みたいことがあるんだが」

光の速さで謝罪したグラネットに多少戸惑いながらも、兵士はある提案を持ち出してきた。これにはヴィアレとエミリオも、なんだなんだと耳を傾ける。

「兵舎にある傷薬と包帯が足りなくなっちまったんだ。悪いが、宮廷薬師のところに行って貰ってきて欲しい」
「宮廷薬師?」
「この王宮で働いてる薬師だよ。此処からずっと東に行ったところ……離宮の近くに、石造りの小さな家がある。其処が薬師の住まいさ。薬師は厄介な奴だが、悪人ではない。事情を話せばすぐに手筈を整えてくれるだろう。あっ、領収書は必ず貰ってこいよ。じゃないとツケが通じないからな」
「あいわかった!任されよ!」

一通りの話を聞き、真っ先に返事をしたのはヴィアレだった。宮廷薬師。どんな人物なのかはわからないが、聞いただけでも興味をそそる。行くぞ、とグラネットとエミリオを促して、ヴィアレは薬師の家を目指して歩き出した。

2日前 No.94

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1日前 No.95

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

薬師の家の内部は異国情緒漂う不思議な空間となっていた。窓という窓は丸く、室内に入り込む光もヴィアレたちが普段見るそれとは違って見える。棚には所狭しと薬瓶のようなものが並べられている。硝子の小瓶が窓から入ってくる光を浴びてきらきらと輝いていた。人の営みというものは感じるが、何処と無く妖しげな雰囲気すら漂わせる空間に、ヴィアレたちは息を飲むしか出来なかった。

「まあ茶でも飲んでろ。俺は薬師を呼んでくるからよ」

丸い机に案内された一行はアロイスによって淹れられたのであろう花茶と菓子を出された。アロイスは薬師を呼ぶために一旦別の部屋へと入っていった。薬師の家は奥が住居となっているようだった。

「…………」
「……?どうしたのだ、アリック?」

花茶を見て何やら気難しげな表情をしているアリックに、横にいたヴィアレが問いかける。アリックははっとして、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。

「いえ……特段これといった問題ではないのですが、私が慣れ親しんでいる茶とは違ったものだったので……。違和感を覚えずにはいられなかったのです」
「なんだよ、お前もしかして良いところのお坊ちゃんか?わがまま言うなっつーの」
「ちょっと、グラネット。可愛い子に向かってそんなひどいこと言っちゃ駄目だよ〜」

横から口を挟んできたグラネットを注意したのは、意外なことにエミリオだった。彼からしてみれば一見女性にも見えるアリックは“可愛い子”の中に入るのだろう。エミリオとアリックは同じくらいの背丈なのだが、それでも可愛い子は可愛いらしい。可愛い子、なんて言われたアリックは少し驚いたように目を見開いた。

「私はもう、可愛いなんて言われる年ではないのですが……」
「えーっ、可愛いよぅ!それに可愛い子っていうのに年齢は関係ないからね!おじいちゃんになっても、おばあちゃんになっても可愛い子は可愛いの!」
「そ……そう、なのですね。なるほど。たしかに気持ちはわかる気がします」

エミリオの可愛い子論を聞かされたアリックは顎に手を遣ってふむふむとうなずいていた。どうやら納得してしまったらしい。アリックにも心当たりというか、同じように思う場面があるようだ。

「ところで、二人は何処で知り合ったのだ?共に行動しているように見えたが……」
「えっとねぇ、逃げてる最中に曲がり角を曲がったら向こうからこの子が歩いてきたから案内しようと思ったんだぁ。ほら、可愛い子って遠目からでもわかるじゃん」
「お前なぁ、オレらが捕まってる間に……!」

先程までの青ざめた顔はどこへやら、ほのぼのした調子で話し出すエミリオのこめかみをグラネットはぐりぐりと拳骨で押す。たしかにグラネットの気持ちもわからなくはない。しかしヴィアレはこの数日間でエミリオという人間をなんとなく理解してしまった。普段は怖がりで臆病だが、可愛い子が絡めば彼も男らしさというものを発揮するのだろう。その可愛い子が男女どちらであっても、だ。だからヴィアレはエミリオを責めるつもりはない。かといってグラネットに反論する訳でもない。要はどっちもどっちである。

「……おい、ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃんうるさいぞ。客ってもんならもっと静かに茶を飲むべきだろうが」

段々と騒がしくなっていた室内に、抑揚はなかれどもひどく苛立ちを含んだ声が通った。決して大きくはないが、聞いた者が身体を竦ませてしまうくらいには威圧感を含んだ声音。案の定ヴィアレたちも一斉に口をつぐんだ。
がちゃり、と音を立てて奥にあった扉が開く。其処からはアロイスと、彼の後ろで腰に手を当てて仁王立ちする少女━━━━小鈴がいた。威圧感の主は勿論小鈴である。静かになっている一同の前までずんずん歩いてくると、睨み付けるように彼らを見渡す。

「……で、傷薬と包帯が欲しいって奴はどいつだ?」
「わ……我らだが……」

小鈴はヴィアレよりも小柄だというのに、何故かヴィアレは萎縮せずにはいられなかった。小鈴は「ふぅん」とヴィアレに視線をくれてやってから、戸棚から幾つかの容器と包帯を取り出して箱に詰める。

「ほら、持ってけ」
「か……感謝する……」
「あざっす……」
「ありがとうございますぅ……」

決して小鈴が口にしていた訳ではないが、なんとなくお礼を言わなければろくでもない目に遭いそうな気がして三人はほぼ同時にぺこりとお辞儀をした。

「それで……お前は何の用だ?薬が欲しいならそう言え」
「……私は……」

次いで小鈴が目を向けたのはアリックだった。彼は一瞬だけ目を伏せてから、がばりと顔を上げる。


「私は、此処で働きたいのです!」
「…………はぁ?」


狭い室内に響き渡ったのはアリックの凛とした声と、小鈴の呆れ返ったような声の二つであった。

6時間前 No.96
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