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Utopia of the underground world

 ( 小説投稿城 )
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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

理想郷を求める者は、どんなに時が流れようと絶えることはない。


天をも穿たんとする霊峰の下、ずっとずっと下に、“それ”は存在した。密やかに窪んだ洞窟を通り抜けて、暗闇の中を進んで、道が続く限り足を進めて行けば、やがて古ぼけた扉の前にたどり着く。
其処には左右に獅子の銅像が設けられ、彼らのお眼鏡に敵えば扉は開き、彼らに認められなくば目の前の生き物は一瞬でその生を奪われるという。門番たる獅子が見定めるのは来訪者の経歴だとも、内面的なものであるとも噂されるが彼らは何も語らない。だからこそ、人は其処で躊躇うのだ。もしかしたら殺されてしまうのではないか、扉を開けてもらえないのではないのだろうか、と。
それは所謂試練なのだろう。人間とは試練を課される生き物である。否、生き物であれば誰しも試練を与えられるのだろう。それを乗り越えられなければ切り捨てられ、見事乗り越えることができたのなら彼らの望むものが手に入る。その摂理は太古の昔から変わることはなく、人が生まれ落ちてから幾度となく試練は与えられ続けた。これも過去に与えられた幾つもの前例に倣っているのだろう。
そういった訳で、無事に扉が開かれたのなら、その先にあるのは人の世を捨てたことさえ喜ばしく感じられるほどの、地底に創られた理想的な国家なのだという。二度と空を見ることが出来なくなっても構わないと思えるほどの場所。すなわち其処は理想郷。
安寧を、享楽を、もしくは前者以外の何かを求めて其処を目指す者は、口を揃えて皆こう言うのだ。


其の地の名はシャルヴァ。
地の底に在りし、神代を模した理想郷、と。

1年前 No.0
メモ2019/07/13 14:20 : すずり☆uVgy9R1pZdc @suzuri0213★Android-ti0IvmfI1e

【第1幕:さらば青空、向かうは地底】>>1-5

【幕間:シャルヴァなる地】>>6

【第2幕:王子の帰還】>>7-12

【第3幕:集落の営み】>>13-19

【幕間:焔が抱くは夢幻】>>20

【第4幕:本の杜への誘い】>>22-29

【第5幕:輪廻の忌み子と王子の記憶】>>30-34

【第6幕:緑纏う者たち】>>35-42

【第7幕:守り手の導き】>>43-47

【第8幕:神蛇の窖へ】>>48-52

【第9幕:旧き者たちの戦い】>>53-58

【第10幕:選定の儀】>>59-64

【第11幕:転機の訪れ】>>65-71

【第12幕:忌み子の憧憬】>>72-75

【幕間:其の日、彼女は生を求めた】>>76

【第13幕:王宮勤めの始まり】>>77-83

【第14幕:受難と薬師と可笑しな羅刹】>>84-92

【第15幕:雑色三人衆、初めてのお使い】>>93-97

【第16幕:離宮の住人】>>98-103

【第17幕:市場での再会】>>104-108

【第18幕:其は単なる波乱に非ず】>>109-114

【幕間:視えるが故の横恋慕】>>115

【第19幕:賽は既に投げられた】>>116-120

【第20幕:邂逅は偶然か、或いは必然か】>>121-126

【第21幕:惨禍の記憶は引き金となりて】>>127-131

【第22幕:少女の企て、揺れる思惑】>>132-137

【第23幕:事件は地底の昼下がりを揺らす】>>138-142

【第24幕:少女は胸に薔薇を抱く】>>143-150

【第25幕:彼の誤算と彼女の憤怒】>>151-154

【第26幕:取った遅れは戻せない】>>155-161

…続きを読む(47行)

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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

同じ罪人を取り扱う場所と言えど、地下牢と懲罰棟は同じ場所にある訳ではない。懲罰棟は地下ではなく、王宮の二階と同じ高さに位置している。王宮とは渡り廊下で繋がっている形になる。ナラカは訪れたことこそないが、迷子にならないようにと小鈴が手渡してくれた王宮の地図に載っていたので知っていた。……とは言え、積極的に行きたいと思う場所ではないのだが。

「……スメルト殿、私のことは運んでくださらないのですか?」

じっとりとした視線をスメルトに向けるのはアリックである。スメルトはそれをそっぽを向くことで無視した。
……というのも、いざ懲罰棟に向かって全力疾走したとは言え、ナラカの体力が持たなかったことに由来する。少し走ったら息切れしてしまったナラカを見かねて、スメルトが彼女を抱えて走ってくれたのである。ナラカが望むなら横抱きでも良いよ、とスメルトは気を利かせて(?)くれたが、さすがに恥ずかしいので気持ちだけもらって遠慮しておいた。いくら緊急事態でも羞恥心とは働くものである。

(……けど、アリックさんは走りっぱなしなんだよなぁ……)

ナラカのことを抱えても楽々と走っているスメルトだったが、やはりアリックのことはそのまま放っておいていた。そのためアリックは此処ずっと走りっぱなしである。体力があるとは言え、彼女とて人間だ。恐らくそれなりに疲れていることだろう。というか、疲れていたからスメルトに声をかけたのかもしれない。

「私はナラカ殿の友ですよ。その辺り考えてくださってもよろしいのではないですか?」
「やだよ。君は紳士なんでしょ?だったら自分で走りなよ。それに僕、ナラカ以外の人間を抱えたくないし」
「紳士だって疲れる時は疲れるものですよ。それに自分の友人を助けない者をナラカ殿がどう思うことか……」

此処でぎすぎすしている場合でないことはナラカもわかっている。何故この二人はいらぬところで対立するのだろう。しばらくスメルトのお世話になっていたかったところだが、これ以上この状況はまずいと思ってナラカは腹を括る。

「あの、それなら私が走り━━━━」
「ナラカはそのままで良いから!!」「ナラカ殿はそのままで良いですから!!」
「……はい」

どういうことか、二人から同時に止められてしまった。変なところでは声が揃うものだな、とナラカはこんな状況だがしみじみしてしまう。この二人、実はなんだかんだで仲良しなのではなかろうか。そんな疑惑すら浮かんでくる。
とりあえず、懲罰棟には無事に到着した。途中で何体か傀儡と遭遇こそしたものの、スメルトとアリックが蹴散らしてくれたので難なく進むことが出来た。やはり武闘派が二人いてくれるとありがたい。

「……此処ですね」

結局ずっと走ってきたアリックが、扉の前でごくりと唾を飲み込む。きらびやかな王宮とは異なり、懲罰棟にはじめじめとした陰鬱な空気が立ち込めていた。そりゃあ、尋問や拷問を行う場所なのだから湿っぽくて当然と言えば当然だ。逆に明るかったらそれはそれで怖い。
アリックを先頭に、一行は懲罰棟を進む。やはり地下牢と同じようにもぬけの殻だ。誰かいてくれたのなら助かるのだが、可能性は限りなく低いだろう。アリックの話によると、ルードゥスはこの王宮の人間を傀儡に変えているとのことだ。懲罰棟に入れられていた者も例外ではないだろう。

「……あのお二人は、知り合い……なのですよね?」

無人の懲罰棟を歩いている最中、アリックがナラカにそう問いかけてきた。あのお二人、というのはノルドとエステリアのことだろう。ナラカとしてもあの二人が救援にやって来たことは予想外だった。目を合わせただけでも(エステリアが一方的に)襲い掛かりそうな二人だが、意気投合すればそれなりに相性が良いようだ。やり方はよろしくないが、ノルドには見る目があるらしい。

「知り合いというか、因縁の相手というか……。ある一件で戦うことになって、その際にノルドさんがエステリアさんに一目惚れしてしまったんです。それでぎくしゃくしていたらしいんですけど……」
「な、なるほど。戦中に一目惚れとは、なかなかに肝の据わった方なのですね、あの方……ノルド殿は。彼が離宮に侵入した時にしか顔を合わせたことがないので、彼方は私のことを知らないとは思いますが」

アリックが若干引く気持ちもわかる。普通、命の奪い合いをしている最中に恋情を覚えることはないだろう。たしかにエステリアは瑞々しい美少女だが、そういった問題ではない。やはりノルドは何処か“ずれている”のだ。それゆえにあれほどまでの武勇を誇ることが出来るのかもしれない。英雄とは時に引かれる程度の何かを持ち合わせるものである。あの時ナラカはそう学んだ。というか学ばされた。

「まあまあ、とりあえず味方してくれるなら僕はそれで良いと思うよ?ナラカの敵になったら駄目だけどね。それに、何とかっていう羅刹の方はルードゥスを殺してくれたでしょう?あれはありがたかったなぁ。あいつ、すっごく気に食わなかったし」

エステリアの名前を覚える気がなさそうなスメルトは、にこにこしながらあまり穏やかではないことを口にする。彼の経歴からしてティヴェラの羅刹を嫌う気持ちもわからなくはないが、これまでに何度か顔を合わせている以上名前くらいは覚えてやっても良いと思う。
しかし、これに対してはナラカは素直に喜べなかった。なんとなく、なんとなくだが、本当にルードゥスは死んだのかという疑念が残って仕方がないのだ。

「……たしかに、ルードゥスさんは殺されていたみたいですけど……。でも、それでも傀儡が動いてるのって、ちょっと可笑しくないですか」
「しかし……ルードゥスの話によれば、この国の王も一枚噛んでいるようでしたが……。それにナラカ殿、殺されていたみたい、って……」
「あ、あんなの普通に見られませんから……!少し目を逸らすくらい当たり前ですから……!あとスメルトさん、いつまで私のこと抱えてるんですか!?私そろそろ歩けますよ!?」
「あっ、ごめんねぇ。ナラカってば軽いから、いくらでも持ってられるんだもん」

人が死ぬ現場なんて凝視出来る方が可笑しい……と、少なくともナラカは思う。戦乱の時代に生まれたからと言って、誰もが血なまぐさい現場に慣れている訳ではないのだ。ましてやナラカは兵士でも武士でもない。いくら憎き相手と言えど、目の前で頭部が打ち砕かれたら目を逸らしたくもなる。それといつまでも抱えられているのは何だか恥ずかしいのでスメルトには下ろしてもらうことにした。スメルトは残念そうだったが、このままでは駄目人間になりそうなので自分の足で歩くつもりだ。甘やかされるのも楽ではない。
スメルトに下ろしてもらったところで、ルードゥスについての考察を再開する。立ち止まってはいられないので歩きながらだ。

「いくら王様が関係しているといっても、あんな数の傀儡を全て王様が管理するのは難しいと思います。そもそも、王様はそれほど暇ではないはずです。補佐官も忙しいのでしょうが、王様は国を守らなければならない要なんですよ?そんな方が、傀儡ごときに時間を割いていられるでしょうか」
「……まあ、王とは率いるというよりも、軍を導くものですからね。あれだけ我が物顔で傀儡を率いていたルードゥス殿が死んだというのに、傀儡たちが止まらないのは少なからず違和感を覚えます」
「そうなんです。指揮者がいなくなった軍というものは多かれ少なかれ揺れるもの。しかし傀儡たちは、ルードゥスの死に戸惑うことなくノルドさんたちに応戦していた」

かつん、と靴音が湿った懲罰棟の廊下に響く。ナラカは前を見据えたまま、ぽつり、と決して大きくはない声で呟いた。


「ルードゥスは、まだ生きているのではないでしょうか」


━━━━瞬間、懲罰棟の廊下の壁から“腕が伸びる”。生気がなく、青白いその腕は、ナラカたちを容易く拘束した。かしゃん、と何かの落ちる音が懲罰棟の廊下に響く。

「くく、人間にしてはよく考えたものだ。愚かしく賤しいことに変わりはないがな」

此方を小馬鹿にしたかのような声。それは前方から聞こえてきた。壁に磔のような形になったナラカの背中を嫌な汗が流れていく。憶測とは何気ないところで当たるものだ。そして、時に人間を窮地へと追い詰める。


ナラカたちの目の前には、先程エステリアに殺されたはずのルードゥスが、悠然として佇んでいた。

1ヶ月前 No.344

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.345

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.346

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【第62幕:薔薇抱いた男の結末】

━━━━彼の男の名は、アダムといった。

アダム。それは人間の祖とされた原初の男の名前と同じだった。彼の親が何を思って名付けたのかはわからない。だが、少なくとも彼はアダムとして生きてきた。それだけは間違いのない事実である。
アダムの生まれた家━━━━カルヴァート家は代々密偵として働く家系であった。その当時、仕えていた国は破竹の勢いで勢力を伸ばしていた。それまで田舎の島国と呼ばれてきたその国を、アダムは愛していた。この身を捧げようとも思った。それだけの忠誠心を以てアダムは働いていた。彼の上司でもある女王はある時アダムを呼び出して、このように切り出した。

━━━━カルヴァート卿、シャルヴァという土地の名を耳にしたことはありますか?

シャルヴァ、という地名をアダムが聞いたことはなかった。だが、女王陛下が言うのならば其処は要地たり得る場所なのだろうとアダムは理解した。この国はまだまだ近隣の強国には及ばない。ならば、そのシャルヴァという土地は、この国が発展するための足掛かりとなるのではないか。そう考えたアダムは、女王へと問いかけた。

━━━━その、シャルヴァという地は、何処にあるのですか、陛下。
━━━━嗚呼、理解が早くて助かるわ、カルヴァート卿。シャルヴァは伝承によれば、印度よりもやや北の山脈の中にあるというの。けれど山中にある訳ではないわ。シャルヴァは、地底に創られた理想郷なのですって。

女王はシャルヴァの伝承を、とある貿易商から聞いたようだった。……と言っても、直接聞いた訳ではなく人伝に、だろう。何でも、そのシャルヴァという理想郷はヒマラヤの地底に創られていて、其処では人々が憂いを忘れて暮らしているのだという。本当にそのような理想郷があるのか、と疑いたい気持ちはあった。だが、敬愛する女王があまりにも楽しそうにシャルヴァについて話すものだから、アダムもついつい聞き入ってしまったのだ。

━━━━そんな理想郷を、ね。私たちのものには出来なくとも、少なくとも同盟国に出来たら素敵だと思うのよ。勿論、出来ることならば私たちの土地にしたいけれど。夢のような理想郷を手に入れたとなれば、きっとイスパニアやポルトガルやフランスを追い越すことが出来るはずよ。……ねぇ、カルヴァート卿。貴殿もそう思うでしょう?
━━━━は。私も、同じ思いにございます。

少女のようにはしゃぐ女王に、アダムは肯定の意を示す他なかった。女王のこのような表情を見るのは、本当に初めてだったのだ。この女王は幼い頃から不遇な道を歩んできた。このようにはしゃぐ余裕もなかったことだろう。そんな彼女の心を躍らせる程の話ならば、信じる以外に何が出来ようか。いや、何も出来まい。


━━━━女王陛下。このアダム・カルヴァートにお命じくださいませ。必ずやシャルヴァを見つけ出し、我等が故郷を━━━━イングランドを、より強き国に致しましょう。


故にアダムはシャルヴァへの出立を決意した。女王はやや戸惑ったが、其処は国を治める者として、威厳を持ってアダムへと命じた。これでアダムは正式に、シャルヴァを探せとこの国の長から命じられたのである。

━━━━父上!
━━━━……ただいま、アリシア。

だが、そんなアダムにも懸念はあった。家に帰れば、真っ先に出迎えてくれる愛娘━━━━アリシアの存在である。アダムの妻はアリシアを産んですぐに亡くなってしまったので、アダムが男手ひとつで彼女を育てていた。無事に育てられるかと不安で仕方がなかったアダムだったが、周りの助けもあって、アリシアは今年で10歳の誕生日を迎えた。

━━━━よう、カルヴァート。遅かったな。
━━━━これはこれは、サー。いらしていたのですね。

そして後から顔を出したのは、アダムの長年の知り合いでもあるサーと呼ばれる男である。彼はアダムが留守にしている時に、よくアリシアの面倒を見てくれていた。一応私掠免許を有しているお偉いさん……のはずなのだが、アリシアのことは気にかけてくれているようで、最近はよく来てくれる。アリシアもサーにはよくなついていた。

━━━━アリシア。俺は親父と話があるから、先に茶淹れて待ってろ。焼いてあるマフィンはもう食ってて良いぞ。
━━━━い、いえ、サー。私は皆と食べたいのです。ですから、ちゃんと我慢します。
━━━━そうかそうか、アリシアは良い子だなぁ。

アリシアの頭を撫でてから、サーは別室に行くようにとアダムを促した。恐らくサーの作ったマフィンは黒焦げなのだろうが、いつものことなのでアリシアに気にする様子はなかった。
閑話休題。アダムとて決して愚かではない。彼━━━━サーから問われるであろう内容はなんとなく察知している。アダムも特に何か言うこともなく、サーに付いていった。

━━━━……で、女王陛下は何と仰せになった?
━━━━それが……。

やはりサーの聞きたいことは女王からの命令についてだった。予想は出来ていたので、アダムも隠し立てすることはなくシャルヴァの探索に関してサーに伝える。サーはしばらく黙って聞いていたが、アダムが一通り話し終わったところで重たく口を開いた。

━━━━……理想郷、か。あの女王陛下にしては夢を見ているな。珍しいこともあったものだ。
━━━━サー……。
━━━━わかってる、わかってるよ。最近女王陛下の人気は衰えつつある。それに加えて凶作と戦費ものし掛かってくるもんだから、民の不満は尤もだ。女王陛下に重圧がかかるのは致し方ない。

はぁ、とサーは深い溜め息を吐く。アダムはわかっているのだ。このサーという男がどれだけ女王に忠誠を誓っているのかを。アダムに事細かく女王の命令について聞いてくるのも、サーが誰よりも女王を案じているからだと、長年の付き合いであるアダムも理解していた。

━━━━皮肉なもんだよなぁ、国民ってのも。女王陛下が即位なさられた時はとんでもなく重たい期待を陛下に向けていたってのに、今じゃ密かに死を望んでいやがる。
━━━━……女王陛下が、重圧に耐えかねていると。そう、卿はおっしゃりたいのですか。
━━━━馬鹿、必ずしもそう言いたいって訳じゃねぇよ。民の声だって尤もだ。……けどなぁ。女王陛下は気丈に見えて、実のところかなり繊細なんだよ。ほら、あのお方、ずっとどろどろした争いの中にいるだろ?世継ぎがいねぇってお偉いさんたちは嘆いてるが、俺は逆に陛下が独身で良かったと思ってるよ。強国に嫁いでいたら、陛下は今よりももっと苦悩していたはずだ。いずれ侵略される運命を辿るよりは、イングランドと結婚した方がずっと良い。

遠くを見つめながら、サーは誰に向けるでもなく語る。それをアダムは黙って聞いていた。この国の━━━━イングランドのために、女王が骨を粉にして尽くしてきたのはアダムも承知の上だ。サーが女王を憐れむ気持ちもわかる。きっと女王本人が耳にしたのなら、良い顔はしないのだろうが。

━━━━お前に圧力をかけるつもりはねぇが、女王陛下はお前に多大な期待を抱いている。お前ならシャルヴァという名の、夢物語のような理想郷を見つけ出してくれると信じている。それを理解しておけよ。
━━━━わかっています。女王陛下のため、必ずや理想郷にたどり着いてみせますとも。
━━━━はは、良い意気だ。それじゃあ、この話は此処で終わりにしよう。アリシアも待ってるだろうしな。

固い表情を一瞬で崩してから、サーはすたすたと別室に歩いていく。その背中を見つめながらアダムは自らの手をそっと其処に翳した。

━━━━理想郷、か。

そんなものが本当にあるのかはわからない。だが、何としてでも見つけ出さなくてはならないのは確かだ。アダムは女王の期待を━━━━ひいては、イングランドの今後を背負っているようなものだ。それに応えなければならない。愛すべきイングランドに発展をもたらさなくてはならない。ぐっと拳を握ってから、アダムは何事もなかったかのようにサーの背中を追いかけた。

1ヶ月前 No.347

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

シャルヴァ探索への旅立ちに反対する者はいなかった。……というのも、この任務は内密に行われたものだったからだ。アダムの出立はひっそりとしたものだったし、それゆえに見送りに来る者も極めて少なかった。だがそれをアダムは悲しいとは思わない。むしろそれがありがたかった。こうして、アダムとごく限られた彼の付き人はシャルヴァを目指して旅立った。
ヒマラヤ入りが危険なことはアダムも重々承知の上だった。それゆえに準備は欠かさなかったし、現地の人々を頼ることも辞さなかった。この土地についてはこの土地の住民がいちばんよく知っている。異郷の民だからと忌避するのは得策ではないとアダムは考えた。

━━━━……とは言え、これほどまでに早く着くとは……。

アダムたちは彼らが思っていたよりもあっさりとシャルヴァにたどり着いてしまった。無論、喜ぶべきことではある。しかし、たまたま見つけた洞窟に入ってみたらその先がシャルヴァだったなどということが果たしてあって良いのか、アダムとしては不安ではあった。
門も恙無く潜り、進んだ先にあったのは繁栄の二文字をそのまま体現したかのような都であった。これにはアダムも、その付き人も思わずほう、と息を吐いてしまう。それほどまでにシャルヴァの街並みは美しかったし、この世のものとは思えない幻想的な雰囲気と人々の営みを両立させている不思議さがあった。

━━━━もし、ミスター。この国の都はどちらでしょうか。

アダムは外界から続く道のりを警備しているらしい兵士の一人に声をかける。このシャルヴァではどのような言語が使われているのかわからないので、一先ず母国の言葉で声をかけた。

━━━━何だ?お前たち、外界から来たのか?
━━━━いかにも。私たちはイングランドという国より参りました。この国の王にお目通りしたいのですが、どのようにすればよろしいでしょうか。

どういう訳か、アダムの言葉は通じた。加えて門番の言葉もわかる。シャルヴァでは英語が通じるのだろうか。アダムたちが首をかしげていると、兵士は困ったように頭を掻いた。

━━━━悪いな、そういったことは俺の管轄じゃあないんだ。一先ず、この国の……ティヴェラの王宮にだけ行ってみたらどうだろうか。異国からの使節ならば、陛下も歓待するかもしれない。
━━━━わかりました。ありがとうございます、ミスター。

とりあえず、怪しい者だと突っぱねられなかっただけでも幸運である。兵士に一礼してから、アダムたちはティヴェラ王国の王族が住まうという王宮を目指すことにした。少し歩けば王都に入るとのことだったので、そう遠くはなさそうだ。

━━━━それにしても、地底にこのような世界が広がっているとは……。

賑々しい市場を通り抜けながら、アダムは視線のみで周りを観察する。シャルヴァは地底にある理想郷だと言うものだから、もっと暗くてひっそりしていると聞いていた。だが、太陽がない代わりに頭上には巨大な曼荼羅が輝き、民草の生活を見守っている。それに加えて、シャルヴァにはティヴェラという王朝が存在するということもわかった。これだけ繁栄している都なのだ、きっとティヴェラを治めている王も一筋縄ではいくまい。
時折道行く人にを尋ねながら、アダムたちは何とか王宮の前までたどり着くことが出来た。印度などの南亜細亜の文化を彷彿とさせる、異国情緒溢れる造りをしている。そんな王宮を見上げながら、アダムは思わずごくりと生唾を飲み込んだ。

━━━━これが、この楽園を統べる者の城か。

正直、アダムはまだ夢見心地である。自分が今シャルヴァに立っていることに関しても、一概に現実とは言い切れない。それだけ幻想的であり、現実味がなかったのだ。
とりあえず、いきなり突撃していく訳にはいかないので、アダムは門番に声をかけることにした。正面の大きな門の向こうには跳ね橋が見える。周りを堀で囲っているから、あの跳ね橋を使わないと王宮には入れないのだろう。深呼吸をしてから、アダムは門番へと声をかける。

━━━━すみません、ミスター。王宮に向かいたいのですが……。
━━━━……王宮に?

門番はわかりやすく訝しげな表情をする。こういった反応をされることはなんとなく予想がついていたので、アダムも驚かない。ただ、やはりか、という気持ちはあった。

━━━━私たちは決して怪しい者ではありません。ただ、この国の王に話が……。
━━━━貴様らのような身元も知れぬ者たちを陛下に会わせられるものか。立場を弁えろ。

案の定、門番からは素っ気なく突き放された。しかしだからといって此処ではいそうですかと諦める訳にもいかない。アダムは胸元から王家の紋章を取り出して、門番の方へと見せる。

━━━━私たちはイングランドの女王陛下の勅命を受けて参りました。決して他意はございません。この国と良き関係が持てればと思い、参った次第にございます。
━━━━黙れ黙れ、このシャルヴァにはティヴェラ以外の国など存在しない!これ以上戯れ言を並べ立てるのならば、曲者として引っ捕らえるぞ!

アダムの必死の説得の甲斐なく、門番たちは此方に槍を向けてきた。これはまずい。非常にまずい。悔しいが、此処は一度離れるしかないのか。━━━━そう、アダムが諦めかけた矢先であった。


━━━━へぇ、異国からの使節か。


アダムの頭上から、興味深そうな色を含んだ男の声が聞こえてきた。門番のものでも、アダムの臣下のものでもない、気品のある流麗な声。誰だ、とアダムが振り返る前に、門番たちは慌てた様子でその場に膝をついた。

━━━━へ……“陛下”……!
━━━━うむ、お勤めご苦労。だが先程の行動は感心しないな。この国を守ろうという気持ちはわかるが、客人に対しては些か失礼に当たるのではないか?
━━━━も、申し訳ございません……!

門番たちに声をかけているのは、豪勢な造りの馬車の窓から顔を出した一人の男だった。アダムよりも少し年下なのだろうか、甘い顔立ちをした金髪碧眼の美男であった。だが軽薄な様子はなく、身に纏う衣服もそうだが、何よりも雰囲気が常人とは思えない程に厳かであった。門番たちの様子、そして“陛下”と呼ばれていたことから、アダムは一瞬にしてこの男の立場というものを理解した。

━━━━……この男が、理想郷の王か。

す、とアダムは馬車に乗っている男に向けて膝を折り、頭を下げる。その様子を見たアダムの臣下たちも、急いで彼に倣った。

━━━━お騒がせして申し訳ございません。私たちはイングランド……いえ、外界のとある国より参りました使節にございます。この国の国王陛下にお目通りしたく思い、王宮の方を伺いました。
━━━━……イングランド……聞いたことのない名前だ。
━━━━それは尤もなことかと存じます、国王陛下。しかしイングランドの女王陛下は、このシャルヴァと真剣に交流を持ちたくお思いであらせられます。悪いようにはいたしませぬ、どうかお話だけでも聞いてはいただけないでしょうか。

じっ、とアダムは国王らしき男の碧い瞳を見つめる。先に目を離してはいけないような気がしたのだ。国王もまた、アダムのことを見据えていた━━━━が、暫ししてにっこりと満面の笑みを浮かべた。

━━━━良いだろう。我が王宮に来なさい。何処の国であれ、使節がやって来たことは喜ばしきことだ。歓待しない訳にはいくまい。
━━━━……ありがたき幸せにございます、国王陛下。
━━━━よせ、堅苦しいのは好きではない。それと、我が名はクルーファという。……そのように呼べと言うつもりはないが、まあ覚えておいて損はないぞ?

国王━━━━クルーファの表情は悪戯っ子のそれに似ていた。不思議な男だ、と思いつつ、アダムは彼の乗る馬車の後に続いてティヴェラの王宮へと足を踏み入れた。

1ヶ月前 No.348

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.349

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

アダムたちはティヴェラにとっては食客という扱いになっていたが、ある程度行動の自由は許されていた。外出をしたい際には目的と場所を伝えれば大抵の場所には行けたし、欲しいものがあればすぐに取り寄せてもらえた。また、王宮の中も自由に見て回ることが出来た。

━━━━私たちは、恵まれているのだろうな。

ふう、とアダムは息を吐く。そして、そっと後方を振り返った。

━━━━…………。

いる。それは後ろを向く前からなんとなくわかっていた。隠しようもない視線が此方に向けられているような気がしてならなかった。というか実際に向けられていた。アダムは戸惑いを隠せないまま、とりあえず“彼女”に声をかけてみることにする。

━━━━な……何か用かな、レディ?
━━━━……別に。たいしたことじゃ、ない。

アダムを後方から凝視していたのは、以前クルーファに謁見した際に顔を合わせた隠密の少女だった。相変わらずにこりともせずに、むすっとした表情でアダムを見ている。まだアダムはこの少女の名前すら知らないが、その顔は忘れられないくらい印象的だったので、いくらか落ち着いて対応出来た。━━━━さすがに困惑しない訳にはいかなかったが。

━━━━……お前は外界から来たと聞いた。外界には、シャルヴァにない技術が存在しているのだろう。……だから、少し気になっただけだ。
━━━━シャルヴァにない技術……?
━━━━例えば医術だ。シャルヴァでは、主に五大の恩恵による力を使って治療をすることが多い。……五大については、知っているか?

五大とその恩恵については、アダムもクルーファから聞き及んでいた。神代に存在したものがシャルヴァでは今も利用されている。そのことに驚きこそしたが、受け入れるまでにそう時間はかからなかった。……というのも、受け入れる受け入れない以前に、外界からの来客であるアダムには五大の恩恵が行き届いていなかったのである。使えないのならとやかく言おうと何も起こらない。ならば周りの者たちが五大の恩恵を受けているのを見ているしかない。アダムは悔しいとは思わなかったし、もとより五大の恩恵を渇望している訳でもなかった。それゆえに五大については、“シャルヴァにおいて重視されているもの”くらいの認識しか持ち合わせていなかった。

━━━━……その様子だと、ある程度のことはわかってるみたいだな。まあ、陛下のお気に入りになったんだ。それくらいは仕込まれていて当然か。
━━━━お気に入りって……さすがに、そのような大層なものではないと思うぞ。私たちは異国からの使節に過ぎない。特別視される謂れはないさ。
━━━━いいや、それは絶対にあり得ない。陛下の目は本気だ。本気でお前に興味を抱いている。お前たちの持ってきた鉄砲とかいう武器だって、あんなに興味津々に見ていたんだ。きっと頭の中では何か新しいことを考えているに違いない。

クルーファの前では一貫しておとなしかった少女だが、アダムを前にするとやけに饒舌であった。何処からその自信が来るのかはわからないが、クルーファの傍に長くいたのなら、ある程度彼の気持ちだとか思惑だとかもわかるようになっているのだろう。そのため、アダムもあまり深く突っ込まないことにした。

━━━━……それで、だ。お前に手伝って欲しいことがある。
━━━━私に……?
━━━━そうだ。詳しいことは後から教える。付いてこい。

素っ気なくそう言うと、少女は名乗ることもなくすたすた歩き出した。これは、付いていくべきなのだろうか。一瞬迷いはしたが、とりあえずアダムは少女の背中を追いかけた。後から文句を言われるのは厄介だ。
少女は歩くのがやけに速かった。もともとこうなのか、それとも気が急いているのか。どちらが正しいのかはわからなかったが、少なくともアダムが早足にならなければすぐに置いていかれそうなことは確かだった。

━━━━此処だ。

そんな少女が立ち止まったのは、ある部屋の前でだった。懐から鍵を取り出して開けている辺り、彼女の私室なのだろう。名前も知らない少女の部屋に入って良いものかとアダムは思ったが、少女は特に気にしていないらしくあっさりとアダムを入れてくれた。

━━━━……此処は、君の部屋なのかな?
━━━━そうだ。まあ座れ。茶を淹れてやる。

きょろきょろ辺りを見回しているアダムに椅子を引いてやってから、少女は茶の支度をし始めた。おとなしく座ってから、アダムは改めて室内を観察する。
年頃の少女の部屋とは思えない程、質素で飾り気のない部屋だった。生活のための必要最低限のものが揃えられている以外には、特にこれといったものはない。アダムの娘のアリシアもあまり飾り立てない方だが、この少女の部屋に比べたらまだ彩りがある方だと思う。……彼女の部屋の彩りは、アダムに欲しい欲しいとねだっていたイングランドの国旗なのだが。

━━━━ほら、飲め。お前の国の茶とは違うかもしれないが、其処は妥協しろ。
━━━━あ、ありがとう。

ことん、と置かれた茶は何かしらの花弁が浮かんでいた。東洋ではこういった茶が流行っているのだろうか、と思いながらアダムは一口啜ってみる。ふわり、と花の香りが控えめにだが口の中に広がった。
ふぅと息を吐いて何気なく顔を上げてみると、少女がじっと此方を見つめていた。相変わらず何を考えているのかよくわからない。とりあえず、アダムは味の感想を言ってみる。

━━━━美味しいよ。……ところで、君の名前を伺いたいのだが……。
━━━━……小鈴。

どう切り出したものかと大の大人であるアダムは悩んだが、少女━━━━小鈴は特に気にした様子もなくさらりと名乗った。名前の響きからして明の出身なのだろうか。地底でいちいち出身を聞くのも何だか野暮な気がしたので、アダムはその辺りは保留しておいた。そして、かねてから気になっていたことを小鈴へと問いかける。

━━━━して、小鈴君。君は私に、何か用でもあるのかね?

アダムからの問いかけを耳にした瞬間に、小鈴の動きはぴたりと止まった。先程まで動き回っていた訳でもないのに、どういう訳かアダムはそう形容せざるを得なかったのだ。視線までもをアダムに固定して、小鈴はす、と目を細めて口を開く。

━━━━お前、口は固い方か?
━━━━……ある程度の秘密は守ろう。良心が咎めれば別だが。

そうか、とだけ小鈴は返事をした。そして、残っていた茶をぐいっと飲み干す。

━━━━こっちだ。来い。

小鈴は手近いところにあった、やや小さめの扉を開いてその中に入っていった。躊躇いがない訳ではなかったが、此処まで来ておいて引き返す訳にもいかず、アダムは彼女に付いていくことにした。
扉の先は物置のような、小さな部屋になっていた。その狭さから、小部屋はひとつ寝台が置かれるだけで随分と狭苦しい印象を与えた。

━━━━……これは……。

アダムは息を飲む。寝台の上にある“それ”を見て、思わず目を見開いた。そんな彼の驚愕の視線を受けて尚、小鈴は表情を崩さない。むしろこれが目的だとでも言わんばかりに、アダムから視線を逸らすことはなかった。

寝台の上には、ぴくりとも動かぬ男が横たわっていた。

顔色が悪い訳ではない。息をしていない訳でもない。男の胸は規則正しく動いている。ただ単に、彼は眠っているだけなのだ。だが、どうしてかアダムにとってはそれが普通のこととは思えなかった。この男は何かただならぬ理由があって眠っているのではないかと、彼の中で疑惑が生まれた。

━━━━私の父だ。一年前から、ずっと眠っている。

小鈴の口調は淡々としていた。それがかえって不気味でもあった。ごくり、と唾を飲み込んでから、アダムは小鈴に恐々と尋ねる。

━━━━お父上は、何故……。
━━━━一年前、王宮に曲者が忍び込んだ。何でも、かつてティヴェラが滅ぼした、アーカムという国の関係者共だった。そいつらを引っ捕らえようとした際に、強かに頭を打ち付けたらしい。それからずっとこの様子だ。

そっと近くにあった布巾で男の額を拭いてやりながら、小鈴は抑揚のない声で話す。彼女が悲しんでいるのか、それとも他の感情を抱いているのか、アダムにはよくわからなかった。ただ彼女は事実だけを述べている。それゆえに、いくら密偵として働いてきたアダムであっても、小鈴の真意は全く読み取れなかった。

━━━━なぁ、頼みがあるんだ。

ずい、と小鈴の顔が迫る。その黒い瞳には有無を言わせぬ力があるように思えた。何も言えずにいるアダムに、小鈴は告げる。


━━━━父上を目覚めさせる方法を、共に探して欲しい。

1ヶ月前 No.350

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

アダムがティヴェラの食客になってから、一体何年が過ぎた頃であろうか。少なくとも、一年は経っていた……とアダムは思う。クルーファはアダムたちをずっと手元に置いていた。地上の産物をティヴェラでも製造しようと試み始め、それもあってアダムたちは地上に戻る暇がないようなものだった。

━━━━重用されたことは幸いだったが……。しかし、これほど長期間ティヴェラに滞在していては、イングランドの方に心配をかけるのではないか。

回廊を歩きながら、アダムはせっせと働く王宮の召し使いたちに目線を向ける。イングランドで東奔西走していた頃が懐かしい。女王陛下にお変わりはないだろうか。アリシアは元気でやっているだろうか。心配の種は尽きることがなく、むしろイングランドを思えば思う程に生まれてくる。任務のために故郷を離れることは今までにもあったが、これほどまでに長いのは初めてだ。不安が募るのも可笑しい話ではない。そんなむず痒い気持ちもあり、何故だか無性に外を歩きたくなって、アダムは特に用もないのにぶらぶらと散歩に興じていた。

━━━━……ん?あれは……。

半ばぼんやりとしていたアダムだったが、ふと気になるものを見つけてぱちぱちと何度か瞬きをした。アダムの正面、つまり目の前から此方に向かって歩いてくる数人の人間。それがどういう訳かアダムの目に留まった。
知り合いという訳ではない。むしろ全然知らない顔だった。仕事柄、アダムは人の顔をすぐに覚えられる。それなのに知らないということは十中八九初対面だろう。アダムは立ち止まってその人物たちを注視する。

━━━━王宮の人間ではないのか……?

見たところ、彼らは召し使いや役人のようではなかった。というか、その格好がそれぞれ違うのである。ある者は商人のような服装をし、ある者はいわゆる海賊のように大胆な着こなしをしている。中には異国情緒溢れる、東方の衣服を纏った者もいた。一体何処からやって来たのかよくわからないその集団だったが、その中心にいた壮年の男がアダムに気づいたようで、つと視線を此方に向けてきた。

━━━━おう、お前がイングランドからの食客か?良かったら話そうや。
━━━━……な……!?

男からかけられた言葉は、アダムに少なからず衝撃を与えた。何故自分がイングランドから来たことを知っているのか。……いや、“イングランドという国をを知っているのか”。一気に警戒の色を強くしたアダムに、男はからからと笑った。

━━━━そないに身構えんでもええやん。いくらお前がイングランドの出身かて、いきなり弾ぶちこんだりはせぇへんよ。……まあ、こないな場でなかったら問答無用やけどね?

笑顔を浮かべていながらも、男の眼差しの奥には明確な敵意が込められている。男の周りにいる者たちも、警戒心と敵意をない交ぜにした視線をアダムに向けていた。男から目線は外さぬまま、アダムは声を潜めて彼に尋ねる。

━━━━……貴様ら、何処の手の者だ。
━━━━嫌やわぁ、そないに怖い顔せんといてや。俺たちは“たまたま”理想郷を見つけてもうたただの商人やで。お前が思うとるみたいな人間ちゃうから安心せぇ。

妙な訛りだ、とアダムは思った。シャルヴァではありとあらゆる言語が通じると知ったが、それでも訛って聞こえるのならやはり変わった物言いなのだろう。

━━━━……おい、あまり挑発して出禁になるのは御免ある。いくら祖国をぼこぼこにした国の輩だからって、突っかかるのはよろしないネ。

しばらく視線の応酬を繰り広げていたアダムと男だったが、それを見かねた男の仲間が宥めに入った。男とは違うが、此方もやはり訛っている。一目で性別がこれと決められないような、中性的な見た目をした中華風の出で立ちの人物だった。変なふてぶてしさがあるが、この中ではけっこうなお偉いさんなのだろうか。

━━━━いや、悪いなぁ瑞英。イングランドって聞いたらついな、いてもたってもいられんねん。
━━━━それとこれとは話が別ある。こいつが気に食わないのは仕方ねーあるが、王宮でやるもんじゃねーある。こいつはまがりなりにも国王の寵愛を得ているある。頭がどうなっても瑞英は構わねーあるが、フィオレッロやお前の愛娘━━━━ミリアムにまで被害がいったらどうするつもりネ?少しは周りを見るよろし。

瑞英、と呼ばれた人物はアダムのことも何気に貶してはいたが、少なくともある程度の常識は持ち合わせているように見えた。そうでなければ諌めには入らないはずだ。頭と呼ばれている男は申し訳なさそうに頭を掻く。

━━━━悪かった、悪かったって。せやからそないに睨まんでくれや。お前、可愛い顔して怒るとごっつ怖うてしゃーないんやもの。
━━━━……本当に、余計なことばっかり言ってくれるあるね、頭は。……フィオレッロ、ミリアム。お前らは頭みてーになっちゃ駄目あるよ。

じろり、と頭を睨んでから、瑞英は頭の傍に付いていた二人の子供にそう告げる。男の子がフィオレッロ、女の子がミリアムらしい。彼らにとっては慣れていることなのか、二人とも苦笑いしていた。
しかし、アダムとしてはのほほんと見守っている場合ではない。この者たちの傍にはいてはいけないような気がしたのだ。皆が話し込んでいるうちに、アダムはそそくさとその場を離れようとした。


━━━━待ってくれ。まだ行くな。


だが、そんなアダムの目論みは背後から呼び掛けられた声によって失敗に終わった。頭を始めとした、この場にいる全ての人間の視線が一斉に同じ方向━━━━アダムの後ろを向く。

━━━━……お前あるか。何の用ある。

つい、と瑞英が目を細める。何処か警戒するかのような目付きだった。そんな視線を向けられて、少女━━━━小鈴は、彼女にしては珍しく息を切らせながら告げる。

━━━━今日こそは、今日こそは教えてもらうぞ。お前は知っているはずだろう。“甦りの秘術”を。
━━━━そんな大それたものじゃねーと、何回言ったらお前は理解するある。第一、瑞英は方法を知っているだけでそれを成功させた訳じゃねーある。
━━━━知っているだけでも良いんだ。悪いようには使わない。だから教えてくれ。
━━━━駄目あるよ、気軽に教えるもんじゃねーある。瑞英に構ってる暇があるなら、真っ当な方法を見つけるよろし。

瑞英は小鈴をしっしとあしらうと、ちらとアダムを横目で見る。そして、服の袖で口元を隠しながら、何処か他人事のような口振りで言葉を紡ぐ。

━━━━……お前、何を考えてるかは知らねーあるが、この娘の言うことをほいほい手伝っちゃ駄目あるよ。人助けのつもりでも、こいつの為そうとしていることは十中八九禁忌ある。真っ当な人間がするようなことじゃねーある。立場とか細々したことは抜きにして、一回よく考えるよろし。

そう一息に告げてから、瑞英はすたすたとその場を歩き去ってしまう。置いていかれるような形となった残りの面々も、慌ててその後を追いかけていった。頭に関しては此方を一度だけ振り返ったが、特に何も言うことはなかった。

━━━━……小鈴君、先程の者たちは……。

彼らの姿が見えなくなったところで、アダムは件の一行の詳細を小鈴に聞こうとする。話しかけていたところからして、少なくとも初対面ではないのだろう。イングランドをやたらと敵視しているようだったので、アダムとしては放っておけない。
……が、アダムは小鈴の表情を見て、思わず語尾を濁らせた。いつも無表情な彼女は、何とも言い難い悔しげな表情をしていたのだ。唇から血が滲むのではないかというくらいに強く噛み締めて、見えなくなってからもずっと彼らが去っていった方向を睨み付けていた。その凄まじさたるや、大の男であるアダムでさえも萎縮してしまうくらいである。

━━━━……あいつらは、ライオ・デ・ソル商会と言ってな。何でも、外界から来たとかいう商人たちの集まりらしい。最近は新し物好きの陛下のところにちょくちょく来るが……まあ、お前がいるからあまり優遇してはもらえていないみたいだな。
━━━━……知り合い、なのか?
━━━━どうなのだろうな。あの男か女かわからない、瑞英という奴がいただろう。あいつは噂によると“気”の使い方を外界で修行したらしくてな。私の父上を甦らせるような術もなくはないと聞いたから交渉しているが、見ての通りあの様だ。

溜め息を吐いてから、小鈴はすっともとの無表情に戻る。一瞬で纏う雰囲気を変えられるのはさすがと言ったところだろうか。

━━━━……何してる?
━━━━い、いや、何でもない。少しぼうっとしていたみたいだ。

適当に笑って誤魔化してから、アダムは足早にその場を離れた。小鈴が追いかけてくる気配はなく、そのまま彼は誰ともすれ違わずに宛がわれた自室まで戻ることが出来た。内側から鍵を閉めて、ほう、と息を吐く。何だか、少しの時間だったのにどっと疲れてしまった。

━━━━禁忌……か。

正直なところ、アダムは真剣に小鈴の計画に協力しようとしている訳ではない。情けない話だがあの時は彼女に気圧されて、つい是とうなずいてしまったのだ。それに、娘を持つ身として年端もゆかない少女がいじらしく父親を望む姿はどうにも放っておけなかった。まあ、言うなれば一種のお節介のようなものだ。

━━━━恐らく、小鈴君の計画が成ることはないだろう。例え成っても、それまで私がシャルヴァに滞在しているとは限らない。

裏切るようで申し訳ない気持ちはあった。だがアダムがシャルヴァにやって来たのは、小鈴の父親の意識を甦らせるためではない。そう自分に言い聞かせながら、アダムは心の底から沸き上がってくる罪悪感を懸命に押し止めた。

1ヶ月前 No.351

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1ヶ月前 No.352

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

アダムの体はお世辞にも動けるような状態ではなかった。それなのに体に鞭を打って全力疾走したのだから、その分かかる負担も並のものではない。何とかクルーファの私室が見えないところまで走ったは良いものの、体の方は最早限界だった。がくり、とアダムの体は床へと崩れ落ちてしまう。

━━━━……嗚呼、逃げなければ。

ずるり、ずるりと、アダムは床に血を擦り付けながら前に進む。この際、矜持や体裁などはどうでも良かった。早くあの化け物のような麗人から逃げて、治療を受けなければならない。そうでもしなければ自分は死んでしまう。……そういった自覚がアダムにはあった。事実、彼の目の前は多量の出血によってぼんやりと霞みがかっている。
逃げなければならない、とは思うものの、具体的な場所はアダムにも思い付かなかった。ただ殺されたくない一心で、生きたいという願いだけで、彼は前に進んでいた。その度に、べったりと、地面に赤い線が引かれていく。

━━━━誰か。誰か、通りかからないものか。

いつもはある程度人が通っているはずの回廊だが、この日はどういう訳か人っ子一人通っていなかった。まるで事前に人払いでもされていたかのようだ。アダムは歯噛みしながらも、這いずるのをやめない。此処で止まったら、もう二度と動けないような気がしてならなかった。

━━━━誰でも良い。大臣でも、武人でも、使用人でも構わない。私を見つけて、助けてくれる者ならば、立場なんて些細なことだ……!

息をする度に、アダムの口からは血が流れ出ていく。痛くて苦しくて堪らない。今すぐ止まって眠ってしまいたい。だが、アダムは止まらなかった。彼の脳裏に浮かぶ光景は、彼を決して諦めさせはしなかった。

━━━━……女王陛下。サー。陛下の愛するイングランドの民たち。そして……私の可愛い可愛い砂糖菓子の、アリシア。

イングランドの風景が思い浮かぶ。大切な人々の顔が思い浮かぶ。アダムはイングランドを愛している。イングランドを治める女王のことも敬愛している。彼女の治める国の民たちも、大切に思っている。
そして、何よりも大切な一人娘のアリシア。彼女は何物にも代えがたい、アダムのたったひとつの宝物だ。彼女の姿をもう一度だけでも見たい。大事な娘を一人にさせたくはない。

━━━━此処で、こんなところで、野垂れ死んでなるものか。私は生きたい、生きなければならない……!そのためならば、どんな苦難も受け入れよう……!

アダムは今に力尽きても可笑しくなかった。それでも、生きたいという渇望によって彼は動き続けていた。凄まじい生命力というか、往生際の悪さである。この重傷で動けるだけでも大したものだ。徐々に靄がかかっていく視界に何とか抵抗しながら、アダムは前だけを見据えていた。


━━━━何、してる。


如何なる神の慈悲かと思った。だが、それは慈悲に満ちた神の声ではない。無機質な中に少しの驚愕を含んだ、聞き慣れた少女の声である。アダムはおもむろに、視線を上へと移した。

━━━━小鈴君……。
━━━━……何があったんだ。死にかけじゃあないか。

何があっても小鈴の表情は変わらないと思っていたが、案外そうでもなかった。アダムを見下ろす彼女は分かりやすく困惑している。アダムはひゅうひゅうとか細い息をしながら、小鈴を赫と見つめた。

━━━━じ……事情などは、後から話す。すまないが、手当てをしてくれないか。
━━━━手当てしろって……。そんな怪我で、よく喋れるな。
━━━━こう見えて、実はとても辛いんだ。今にも、瞼を落としてしまいたい。しかし、しかしだ小鈴君。私は死にたくないんだよ。何だって良い、何をしてくれたって構わない。私を助けてくれ。

話している間にも、アダムの唇からは赤黒い血が溢れ続けた。それでも、アダムは小鈴に話しかけることをやめない。それだけ死にたくなかったのだ。それだけ、生きたかったのだ。
必死に小語りかけてくるアダムを、小鈴は様々な感情をない交ぜにしたかのような、あまりにも複雑な表情で見つめていた。そして、躊躇うような目付きをしながら、アダムの懇願に答える。

━━━━……どんな方法でも、お前は私を咎めないか?どれだけ人道から外れている方法でも、お前は是とうなずくか?
━━━━咎めないし、うなずくとも。生きられるのなら、いつかイングランドに帰れるのならば、私の体などどうなったって構わない。
━━━━……そうか。そう、なんだな。

小鈴は憐れみにも似た色合いの瞳でアダムを見ていた。━━━━そして、半ば倒れているにも近いアダムの背中に、彼女は馬乗りになる。


━━━━許せ。


とすっ、と。いとも簡単に、小鈴はアダムの背中に隠し持っていたらしい短刀を突き立てた。びくん、とアダムの体が震える。毒でも仕込まれていたのだろうか、やけに体が痺れてならなかった。きっと痛いに違いないのだろう。だがアダムの体は痛みを感じすぎて、最早麻痺しているにも近かった。

━━━━嗚呼、私は……。

死ぬのだろうか。アダムは重くなる瞼に逆らえず、ゆっくりと幽冥に身を落とす。死にたくなかった。もう一度、イングランドに戻って、アリシアを抱き締めてやりたかった。女王陛下に拝謁したかった。それが叶わないなんて、あまりにも辛すぎる。愛した子を、忠誠を誓った主君を、裏切ることになるなんて━━━━。

━━━━私は……まだ、死ぬ訳には……。

閉じた瞼を開けねばならない。たとえまた痛みや苦しみが襲ってきたって構わない。大切なものを失うくらいならば、何であろうと耐えてみせる。アダムは全身に力を入れる。何とかして力を振り絞って、一度は閉じてしまった瞼を開けようと試みた。


瞼は、案外あっさりと開いた。


痛みはない。苦しみも、怠さも、体にのし掛かってくる疲労感もない。何処もかしこも万全だった。健康そのものといった体調に、アダムはすぐに疑問を覚える。そうこうしているうちに完全に意識が回復したのか、ぼやけていた視界が鮮明になった。
見えたのは、何処か既視感のある天井だった。背中には固い寝台の感触がある。アダムはおもむろに起き上がって、きょろきょろと辺りを見回した。

━━━━……あ、れは。

寝起きすぐ故に寝ぼけている訳ではない。たしかに“それ”は其処にあったのだ。アダムがそちらに行こうとしたのとほぼ同時に、部屋に小鈴が入ってくる。

━━━━……まだ動いたら駄目だ。安静にしておけ。
━━━━しかし、小鈴君……。
━━━━良いから。諸々のことは私が話す。お前はおとなしく横になっとけ。

小鈴に睨まれて、アダムは渋々横になる。ことり、と持ってきた盆を机に置いてから、小鈴は寝台の傍にあった椅子に腰かけた。

━━━━初めに、私は謝らなければならない。……お前には、悪いことをした。

いつもなら清々しい程にふてぶてしい小鈴が開口一番に謝罪したことに、アダムは少なからず驚かされた。こんなことがあるのか、と口に出してしまいそうになって、何とか咳払いをして誤魔化す。小鈴の目がじろりと此方を睥睨したようにも見えたが気にしない。アダムには、それよりも気になることがあるのだ。

━━━……小鈴君。君は、私に一体何をしたのかね?……何故、彼処に“私の体が転がっている”?

アダムの指差した方向には、“一人の男が横たわっている”。彼はアダムもよく見知った顔であった。━━━━すなわち、彼自身である。
小鈴は一瞬、ほんの一瞬だけ、何処か悲哀に満ちた目で“アダムの体”を見た。しかし、すぐに視線をアダムへと戻して口を開く。

━━━━僵尸、というものを知っているか?中華ではけっこう昔から語られていた怪異なのだがな、人が死んで埋葬する前に室内に安置しておくと夜になって突然動き出して、人を驚かすことがあるという話があった。それが僵尸だ。お前の体は死まで秒読みの状態だった。普通の手当てではまず間に合わない。だから、“一度殺した”。
━━━━……そして、私を僵尸にした、と?……だが可笑しくはないか?私を殺して僵尸にしたのならば、何故“私の体が彼処に転がっているのだ”?

アダムの指差した方向には、たしかにアダムの体がある。ぴくりとも動かないその様子から、死んでいると見て可笑しくはなさそうだ。それなのに、アダムの意識ははっきりとしている上に“体の感覚もある”。それが不可思議でならなかった。

━━━━……ただ僵尸にするだけでは、お前の体は損傷が酷すぎた。誰に何をされたかは知らないが、あれは私では到底修復出来る類いの傷ではない。下手したら生きながらにして腐り落ちていくことになる。━━━━故に、私は“お前の気を父上の体に移し変えた”。
━━━━……そのようなことが、可能なのか?
━━━━中華の秘術を少しかじってな。瑞英からは教えてもらえなかったから、この前にライオ・デ・ソル商会に忍び込んだんだ。其処で書物の内容を書き取って、此処まで方法を持ち込んだ。上手くいくかはわからなかったが……とりあえず、お前の意識があるなら万々歳ってところだな。見たところ体も動かせるみたいで何よりだ。

アダムとしては俄に信じられない話だったが、実際にアダムの体は彼の意識とは別にあり、自分が自分でないことは事実なので疑いようがない。手厳しく瑞英に突っぱねられていた割には反応が薄いと思っていたが、まさか余所に忍び込んでいたとは思いもよらなかった。人は意外なところで行動的になるものだ。

━━━━しかし……良かったのか?これでは君の父上は、もう……。
━━━━良いんだ。お前は生きたかったんだろう?それ以上の理由はないさ。死にたくないと思うのは可笑しいことじゃない。十分理由になり得る。申し訳ないとか思うんじゃないぞ。

アダムが器としてしまった以上、小鈴の父の体はもう彼としては甦ることは不可能だろう。危険を冒してまで小鈴は父を甦らせようとしていたのに、アダムを救うためにその機会を潰してしまったとなっては、アダムとしては何とも言い難い心境であった。だが小鈴本人は本当に気にしていないらしい。いつも通りの無表情で、さらりとそんなことを言ってのけた。きっと謝罪したら睨まれる奴だ、とアダムはすぐに理解する。小鈴とはそういう少女だ。

━━━━あ、そうだ。この状況だと、さすがにお前は死んだってことになるだろうな。そうでなきゃお前を傷付けた奴も躍起になるだろう。面倒臭いことになるのは御免だから、新たな名前でも考えておけ。私もいちいち疑われたくはないからな。
━━━━名前……か。
━━━━凝れとは言わないが、あまりわかりやすいものにもするなよ。このシャルヴァではありとあらゆる言語が通じるから、下手な誤魔化しは利かないと思え。

唐突に名前を考えろ、と言われても、アダムは良さげなものをすぐには思い付かない。首をかしげて、しばらく考える。そして、やはり脈絡なく顔を上げた。そのまま小鈴にそっと耳打ちする。

━━━━……おい、お前、適当に考えただろう。
━━━━そんなことはない。私とて真剣に考えたつもりだ。
━━━━そうかよ。まあ、お前が良いなら良いけどな。……あぁ、あと、これは私が預かっておく。お前はたった今からアダムじゃなくて、アドルファスなのだから。

アダムの名前が彫り付けられた鉄砲を持って、小鈴はそう告げる。きっと、彼を思ってのことなのだろう。そうでなければわざわざ預からずに廃棄するに違いない。
それにもう、“彼”はあの鉄砲は使えないのだ。あれはイングランドの女王がアダム・カルヴァートのために拵えたもの。今の彼━━━━アドルファスのために造られたものでは、ないのだから。

1ヶ月前 No.353

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.354

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

本当に驚いた時には声は出ず、体も動かないのだな、と今更ながら思う。叫ぼうと思っても口は回らず、何処かに手を伸ばそうとしても体が倒れ込むのが先である。何とか受け身を取ろうとはしたが、そもそも武術をやってきた訳ではないナラカがそのような努力に及んでも徒労に終わることは確実で、せいぜい頭から倒れないようにするだけで精一杯だった。

「ナラカ!」

遠くでスメルトが叫んでいるのがわかる。彼に答えようとナラカは起き上がるが、目の前には数多の傀儡が迫りつつあった。

(あ……これ、もう駄目かも)

死にたくない、と泣き叫ぶ暇なんてなかった。ただ、直感的にそう思っただけだった。懐から短筒を取り出そうとしたが、きっと今では遅いのだろう。傀儡たちとの距離は十分に縮まっている。
━━━━嗚呼、どうしてこんなことになったのだろう。少し泣きそうになったナラカではあったが、その直後に彼女の頭上を何か黒い影が覆う。

「あ、アリックさん……!?」

一体何がどうなっているのか。戸惑いを隠しきれないナラカを余所に、アリックは犇めく傀儡たちの上に堂々と着地した。遠慮のえの字もないその振る舞いはむしろ晴れ晴れしいくらいである。ナラカがぽかんとしていると、後ろからどたばたと誰かが駆け寄ってくる足音が聞こえてくる。

「ナラカ、大丈夫?」
「は、はい。私は大丈夫です、スメルトさん」
「あいつったら無茶苦茶だよ。ナラカを突き飛ばしただけじゃなくて、僕のこと踏み台にしたんだよ?おかげであんなにすっ飛んじゃって……何をするつもりなのか知らないけど、よくやるよねぇ」

背中を踏み台にされたのか擦りながら、スメルトはアリックの向かっていった方向にじっとりとした視線を送る。━━━━とは言え、アリックのことを殺そうとしない辺り、一応味方として扱ってはいるのだろう。此方に襲い来る傀儡を難なく伸しながら、ナラカが立ち上がるのを手伝う。戦闘力となると途端に頼りになる辺りやはりスメルトである。
そしてアリックはというと、飛び乗った傀儡たちの上をのしのしと遠慮なく歩いてアドルファスのいるところまで向かおうとしていた。何というか、このように形容しては何だが天晴れな振る舞いである。この至近距離では鉄砲を使用するのは愚策と考えたのか、弾丸を撃ち込まずにそのまま銃身でぶん殴るわ、向かってきた傀儡を蹴飛ばすわして前に進んでいた。礼儀正しい彼女が海賊紛いの行為をしていたとは俄に信じられなかったナラカだが、こういった振る舞いを見るとあっさり納得出来てしまう。アリックの目指す紳士とは何だったのであろうか。

「くく、その小娘を囮にしてアドルファスのもとへと突っ込むか。人間ながらよく考えたものよなぁ、若造」

破竹の勢いでアドルファスのもとへと向かうアリックを、ルードゥスはくすくすと密やかに笑みながら眺めていた。それこそ、餌を探して必死に駆け回る狗でも見るかのような目付きで。

「嗚呼、愚かしい。愚かしいぞ人の子よ。それほど簡単に俺が課した試練を乗り越えられるとでも思うたのか?愛しい程に憐れで、嘆かわしい程に醜いなァ、若造。いくら貴様が駆けたところで、所詮は━━━━」

高みの見物を決め込もうとしていたのだろう。何処か他人事のように嗤っていたルードゥスだったが、その言葉が途中で突然途切れた。

「……貴様、まだ生きていたか……!」

ルードゥスの極彩色の瞳が驚愕に染まる。何とかアリックに追い付こうとしていたナラカとスメルトも、思わず息を飲んだ。諦めていた訳ではない。けれど、まさか此処まで来てこのような展開に転ぶとは思ってもいなかった。アリックに至っては、目線がルードゥスのいる方向に釘付けになっている。


「━━━━所詮は無駄な足掻き、と。そう言いたかったのだろう、蛇め」


がしり、とルードゥスの背中に回り込むようにして、“彼”は其処に立っていた。おびただしい量の血を流し、ルードゥスの纏う衣服すら赤く染める彼の体は、最早満身創痍といったところであろう。それでも倒れないのは彼の体の頑強さからか、はたまたその胸に宿る不屈の意志の賜物か。どちらにせよ構わない。彼の援護は、ナラカたちにとっては間違いなくありがたいものであった。

「あ、アドルファス殿!」
「……“アリシア”、よく聞きなさい。お前に、伝えておかねばならないことがある」

血を吐きながらも、アドルファスの瞳はアリックだけを見つめている。その眼差しは、あまりにも温かく、そして優しさと慈愛に満ちたものだった。それこそ、“娘を思う父親”の如く。

「アリシア、もしも此処を切り抜けられたのなら、薬師の住まいに向かいなさい。其処に、お前に渡さねばならないものがある」
「渡さねば、ならないもの……?それは、それは何なのです……!?」
「今は言えない。故に自分で確かめるんだ。良いか、小鈴君は薬棚を改造していた。其処を探せば自ずと見つかっ━━━━ぐぅっ……!?」

何かアリックに伝えようとしていたらしいアドルファスだったが、その途中で彼の口からは苦悶の声が出た。いつの間にかアドルファスの後ろに傀儡たちが回り込み、その背中を滅多刺しにしていたのだ。

「……娘によく似て、何処までも愚かしき男よなぁ、アドルファス?俺が“かつて神々も有していた武器では殺せない”ことを知っていながら……押さえ付けたところで何も起こらぬ、貴様がただ傷付くだけに過ぎないというに……」
「……ほう、言ったな」

厭らしい笑みを浮かべながら冷笑したルードゥスだったが、むしろそれはアドルファスをも笑ませるだけの効果を有していた。これは可笑しい、とルードゥスも気づいたのだろう。はっとして目を見開いたところで、最早全てが遅かった。


ぱぁん、と。


鉛玉が弾ける。地下牢の空気が少し煙ったような気がした。銃口から立ち上る細い煙の向こうを、狙撃主━━━━アリックは見据える。

「な━━━━これ、は━━━━!?」

先程まであれだけ威勢が良かったルードゥスだが、アリックから狙撃された瞬間にその美しき顏をしかめた。彼の胸には小さな穴が空いている。すなわち、アリックによって空けられた銃創であった。

「……貴殿は随分と人を舐め腐っていたようですが……。その、愚かしい人の造った武器で傷つけられるのは、どのような気分でいらっしゃいますか?」
「おのれ……!俺を、俺を誰と心得る……!」
「貴殿が誰であろうと、私にとっては詮なきこと。お覚悟を、ルードゥス殿……いえ、誘惑の蛇よ!」

もう一発。次はルードゥスの脇腹へと弾丸が飛んでいった。ルードゥスの傷は塞がることがない。どうやら本当に攻撃が通じているようだ。

「く……!人間風情が、小癪な……!第一、アドルファスが貴様の父と決まった訳では……!」
「……いいえ、アドルファス殿はたしかに私の父上です。貴殿が認めていたからではない。アドルファス殿は、何処からどう見ても父上だ。……そうでしょう、父上?」

ルードゥスを逃がすまいと、四方八方から刺されながらも彼を押さえ付けるアドルファスに、アリックは視線を向ける。其処に悲しみや憂いはない。ただただ父を慕う子の目をして、アリックはアドルファスに呼び掛けた。

「……う…………い……」

ぼそぼそと、ほぼ吐息ではないのかと思わせるくらいに儚いアドルファスの返答。だが、アリックはそれを刹那のうちに理解した。にっこりとアドルファスに微笑んでから、彼女は再びルードゥスへと視線を戻す。そして、何も言わずに次の弾を装填した。

「貴様……俺を、殺すつもりか」
「もとよりその予定ではございました。それが争いというものでしょう。仕掛けてきたのは貴殿だ。今更命乞いなどなさっても無駄ですよ」
「くく……命乞い、だと……?俺が人間に頭など垂れるものか。嗚呼、そうとも。貴様らは俺を殺めた後に、きっと後悔するだろう。俺を殺したところで何も得られはせぬ。むしろ、より苛烈な災厄が、貴様らを襲うことになるだろう。災厄が過ぎ去り、全てが零に戻る前に……果たして、何が残━━━━」

ルードゥスが最後まで言い切る前に、アリックは引き金を引いていた。それこそ容赦のひとつもなく、ただの作業のような呆気なさだった。どさり、と音を立ててルードゥスの肢体が床へと倒れ伏す。そして、ルードゥスの体は空気に溶けて━━━━たった一匹の、三つの銃創を有している萎びた蛇の死骸だけが後に残った。それに呼応するようにアドルファスを取り囲んでいた傀儡たちも糸の切られた人形のように倒れていった。

「……父上……」

一歩、一歩。アリックはアドルファスのいたであろうところへ歩いていく。積み重なる傀儡を退けて、退けて、退けて━━━━。そうして、やっとのことで、アドルファスを見つけた。


彼の息は、既に止まっていた。


あれだけ刺されたのだ。生還出来る保障など何処にもなかった。それを、アドルファス自身もわかっていたはずだ。わかった上でルードゥスを押さえ付け、アリックを助けたのだろう。

「……アリックさん」

そんなアリックに、ナラカは何と声をかけて良いかわからなかった。ナラカは、父親の顔を見たことがない。だから、父親というものがどのような存在なのか、身を以て経験したことがないのだ。それゆえに、父という心の支柱を喪ったアリックに、とてもではないが声をかける気にはなれなかった。声をかける資格など、自分にはないと思った。
アリックは、そっとアドルファスの手を握りながら、此方へと振り返った。いつもの通り、紳士然とした表情で。

「……薬師の住まいへ向かいましょう。其処に、アドルファス殿の伝えたかった何かがあるはずです」
「……アリックさん、あなたは……」
「私は大丈夫です。……すみませんが、スメルト殿。アドルファス殿を運んではいただけないでしょうか。このような薄暗い場所に置き去りにする訳にはいきません」

普段ならば嫌だよ、とでも言いそうなスメルトだが、今回は珍しくこくりとすぐに首を縦に振った。それが意外だったのだろう。アリックはぱちぱちと瞬きをして、丁寧にありがとうございます、と礼を述べてから、薬師の住まいを目指して歩き出した。

1ヶ月前 No.355

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薬師の住まいまでの道のりはわかっている。だが、この時ばかりはあまりにも遠く思えた。アリックの足取りはわかりやすく重い。これでも相当堪えているのだろう。アリックは気丈だから、きっとそうは見せまいと強がっているに違いない。

(……そんなことをしなくても、誰も何も言わないのに)

家族を喪う辛さは、ナラカもよくわかっているつもりだ。あの胸の張り裂けるような感覚は、何があっても絶対に味わいたくはない。それだけ苦しいものなのだ。それだけ耐えるのが難しいものなのだ。アリックとてまだ二十歳にも満たぬ少女に過ぎない。彼女は母親を既に亡くしていると聞いた。それに加えて父親も喪ったとなれば、その心の傷は如何程のものだろうか。考えるだけでも胸が苦しくなってくる。
しかし歩き続けていればいつかは目的地にたどり着くもので、一行は無事に薬師の住まいまでやって来た。途中で傀儡たちに襲われなかったのだけは幸いだったと言って良いだろう。ルードゥスが死んだことにより、傀儡たちもまた行動を停止したらしい。……ということは、反乱軍に従っていた傀儡たちも動かなくなったのだろうか。真偽は定かではないので今のナラカにはどうとも言えないが、少なくともそうであって欲しいとは思った。

「えぇと……たしか、薬棚に何かあるのでしたよね」

到着するや否や、アリックは薬棚に近づいていってあれこれと探し始めた。一先ずスメルトにはアドルファスのことを寝台に横たわらせておいてもらい、ナラカたちもアリックを手伝うことにする。

「アドルファス殿は、小鈴さんが薬棚を改造していたとおっしゃっていましたが……。一体、何処をどのように改造していたのでしょう」
「その辺りに関しては、私としても何とも言えません。ただ……もし、今の今まで誰にも見つかることはなかったのならば、それこそ隠密としての知恵を凝らした場所に、アドルファス殿に関わる何かが隠されているのでしょう。だとすれば、何としてでも見つけなければ……」

アリックの表情は真剣そのものだった。最早その目はナラカを見てはいない。ひたすらに、アドルファスの伝えようとしていたものを探している。その様子を見て、果たしてアリックに話しかけようと思える者がいようか。いや、いまい。
アリックによって半ば乱雑に退かされた薬瓶の数々を、ナラカはちゃっかり物色しておく。使えそうなものは拝借することにした。もともと此処で働いていた身だし、責められることはないだろう。

「……ねぇねぇ、ナラカ」

なるべくアリックの邪魔をしないようにと努めていたナラカの肩をちょんちょん、とつついたのはスメルトだった。彼にしては一応気を遣っているのだろうか。いつもより声を潜めている……ような気がする。

「どうしたんですか、スメルトさん」
「僕、思ったんだけどさぁ……。あの薬棚、真っ二つにならないかな?」
「ま、真っ二つ……!?」

いくら建築に造詣が深い訳ではないナラカであっても、スメルトの言葉は衝撃的だった。真っ二つ。真っ二つである。スメルトならば出来ないことはないのかもしれない。だが、中に何かを隠しているのならば、それこそ真っ二つはまずいと思う。下手すれば中身ごと破壊してしまいかねない。

「ま、真っ二つはいくら何でもまずいと思うのですが……!」
「大丈夫大丈夫、多分中身が壊れることはないよ。とりあえず一回やらせてくれない?そうじゃないとあいつ、世界が滅ぶまでずっと探し続けてるよ」
「お、お気持ちはわからなくもないですけど、まずは様子見した方が……!」

にこやかな表情のまま、ずんずんとスメルトは薬棚に向かって歩いていく。まずい、まずすぎる。ナラカの心の中では警鐘が鳴りっぱなしだった。

(あれ、絶対スメルトさん苛ついてる……!)

スメルトはもともと辛抱強い方ではない。常ににこにこしてはいるが、上機嫌という訳ではないのである。スメルトからしてみれば、こんな探し物は早いところ終わらせてしまいたいのだろう。彼はこういった細々した作業は好きそうではないので、余計アリックの姿に苛立ちを覚えたのかもしれない。

「ちょっと弄るねー」
「す、スメルト殿!?」

驚くアリックには見向きもせずに、スメルトは薬棚を“横倒しにした”。呆気にとられているナラカとアリックを余所に、スメルトはじろじろと薬棚を観察する。━━━━そして、まるで宝箱でも開くかのように、薬棚の縁に手をかけてかぱりと“開けた”。

「な、な、な……!?」
「ほら、開いたよ。君の探し物って、これじゃないの?」
「ど、どうして……!?」

スメルトがアリックに差し出したのは、大振りな木箱だった。アリックはというと、驚愕からかわなわなと震えている。ナラカも驚愕こそあったが、アリック程ではなかったので、一先ずスメルトに問うことにした。

「な……何故スメルトさんは、この仕掛けがわかったんですか……?」
「うーん、そうだなぁ。強いて言うなら、アロイス君がこの棚を気にしてたからかな。僕が此処で過ごすようになったのはあの隠密……小鈴が死んでからだったけど、やっぱり周りって見ておくものだね。とりあえず気になってたから、気づかれない程度に観察してたんだ。そうしたら、変な切れ込みがあるのに気づいたって訳」

アロイスが小鈴から何か聞かされていたのか、ナラカにはわからない。ただ、スメルトが見た限りアロイスはこの薬棚をやけに気にしていたようだ。観察していた、と言ってもそれらしい様子はあまり見られなかったから、それこそ目で見て観察するだけだったのだろう。スメルトの観察眼は侮れない。
一方、スメルトから木箱を手渡されたアリックはというと、恐る恐るといった様子でそれを開けていた。中身はナラカも気になるので、そっと近付いて見てみる。

「これは……」
「……はい。間違いなく、父上の使用していたもの━━━━女王陛下より賜った、父上のための鉄砲です」

木箱に入っていたのは、一丁の鉄砲だった。アリックが持っていたものと同じように薔薇の紋章が施されている。━━━━だが、それはアリックのものとは決定的に異なっていた。

(……アダム・カルヴァート……)

本来ならば、ナラカには読めないはずなのだろう。しかし此処はシャルヴァである。かつて世界中の言語が同じだった時代には既に存在していたというこの理想郷では、人間の話す言葉であればほとんどのものが通じるようになっている。故にナラカも、鉄砲に彫り付けられた文字の意味を理解することが出来た。見慣れない文字であることは変わらないが、何故かその意味だけはすぐに頭に浮かんでくるのである。

「それじゃあ……本当に、アドルファス殿はアリックさんのお父上だったのですね……」
「……そういう、ことになりますね。でも、良かったです。これで父上を捜すという私の目的は達成されたのですから」

アリックは穏やかに微笑んでいる。けれど、ナラカからしてみればやるせない気持ちでいっぱいだった。せっかく、せっかく会えたのに、彼女らは死に別れることになってしまった。どうせならば、二人とも生きて地上に戻るべきだったのだ。それはもう、絶対に叶わない。
そっと、アリックは鉄砲を手に取った。……が、その視線はすぐに動くこととなる。鉄砲の下には、一通の封筒が仕舞い込まれていたのだ。

「……封筒……?」

勿論アリックがそれに気づかないはずもなく、彼女は木箱から封筒を取って眺める。そして、何度か瞬きをしてから、ナラカの方に向き直った。

「……すみません、ナラカ殿。少し、席を外してもよろしいでしょうか。身勝手なこととは心得ておりますが、私は暫しの間一人になりたいのです」
「……ええ、構いませんよ、アリックさん。気にしないでくださいね」

アリックの気持ちはナラカにもよくわかった。故に、彼女はアリックの頼みをすげなく切り捨てることはなかった。アリックは一瞬だけ眉根を下げてから、ありがとうございます、と一礼する。そして、足早にかつて自分に割り当てられていた部屋へと駆け込んでいった。

1ヶ月前 No.356

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ぱたん、と扉を閉めてから、アリックはふぅ、と息を吐く。お世辞にも、苦しくない状況ではなかった。少しでも油断すれば、嗚咽がせり上がり涙が溢れ落ちそうだった。

(耐えなければ)

ずび、と洟を吸い戻して、アリックは唇を噛み締める。泣いてはならない。だって自分は紳士なのだから。━━━━アリックの本来の性別だと淑女の方が適切なのだろうが、彼女が目指してきたのは言うまでもなく紳士であった。それは単にイングランドに生まれたからという理由だけでなく、父の背中を見てきたということも理由に入る。
アダムはアリックにとって、越えようのない人物であった。女王の信頼を得て、イングランドを愛し、そしてイングランドに愛されたとも言える人物。それこそがアダムだった。彼のようになりたくても、アリックには一生なれないような気がしてならなかった。それだけアダムはアリックにとって偉大な人物だったのだ。

「…………」

がさり、とアリックは封筒を開ける。中には数枚の便箋が入っていた。間違えようもない、アダムの筆跡だった。


《拝啓、名も知れぬ誰かへ。
この手紙の封が切られたということは、私に何か大事があったということなのだろう。きっとティヴェラの王宮は混沌の坩堝と化しているに違いない。もしもこの場が危険に瀕しそうな場合は、すぐにこの木箱を持って避難することを勧める。あなたが倒れてしまったら、この手紙は意味を成さなくなってしまうのだから。
そういえば、自己紹介をまだしていなかった。私はアダム・カルヴァートという。かつてこの国にイングランドという国からの使節として滞在していた者だ。尤も、この手紙を書いている今、アダム・カルヴァートは死んだということになっている。細かいことは気にせずに読んで欲しい。所詮遺書のようなものだ。
さて、あなたがどのような立場の人間で、どのようにしてこの木箱を見つけたのかは問わないでおこう。しかし、単刀直入に言って、このティヴェラは既に異常の中に取り込まれてしまった。恐らくいつか、途方もない出来事がこの国を襲うことになるだろう。それがいつかはわからないし、もしかしたら今かもしれない。今、あなたの身の回りで可笑しなことが起こっているのなら、どうかこの手紙を捨てずに最後まで読んで欲しい。勿論、あなたの身に危険が迫っているのなら避難することが最優先だ。安全な場所にたどり着いたら、気休めにでもこの手紙を開いてくれ。
私は言葉を繕うのが得意な方ではない。だからはっきりと言わせてもらおう。この国の王、クルーファは既に死んでいる。羅刹の反乱が起こった際に、クルーファは大胆な転換政策を取っただろう。あの時、クルーファは生きていなかった。クルーファと名乗っていたのは、クルーファではない。ティヴェラ王家との繋がりを持たない、赤の他人と言っても良い者だ。
これはあくまでも私の憶測に過ぎない。だが、クルーファを殺めた人物は、きっと下記の者以外に当てはまりはしないだろう。
その者の名はヴィアレ━━━━かつてアーカム王国という国の始祖が、このシャルヴァを創るための贄とした精霊である》


此処まで読んで、アリックは思わずはっと顔を上げた。この手紙に記されている人物の名前に聞き覚えがあったのだ。

(ヴィアレ……というと、私と同室だった、あのヴィアレ殿なのか……?)

ヴィアレ。かつて、アリックと同室だった無邪気な少年。今となってはだいぶ疎遠になってしまったが、元気でやっているのだろうか。ヴィアレのことはアリックも嫌いではなかった。所々世間知らずなところもあったが、純粋で無垢な彼はいつも場を明るくさせていた。そんな彼がクルーファを殺害したなど、すぐに飲み込める話ではない。
アリックは再び手紙に視線を戻す。何はともあれ、続きを読まなくてはなるまい。


《ヴィアレは伝承によれば、シャルヴァの礎とされ、精霊として甦ることはなかったはずだった。だが、私が見た限りそれはあり得ないだろう。奴は何らかの対策を練っていた。故にあの時私たちの前に姿を現し、そしてクルーファを殺害したのだ。そして、今では奴がクルーファを名乗っている。突然霊鳥の仮面を着け始めたのも、素顔を隠すためだろう。
何故精霊が王を騙っているのか、私にも詳細なことはわからない。ただ、ヴィアレは近々、このシャルヴァの“気”が揺らぐと口にしていた。それを乗り切るために、手を打つのだ、と。そう、たしかに私の前で口にした。そのために、大掛かりな作業に取り掛かるのだ、とも。
私も全てを聞いた訳ではないから、詳しいことは口に出来ない。しかし、ヴィアレの言う“気”の揺らぎは、かつて起こった何よりも大きなものなのだという。これを止めるために、ヴィアレは何やら切り札を用意しているらしいが……。その切り札が何なのか、私には見当もつかない。それゆえに、ティヴェラで何か異常が起これば、ヴィアレが動き出したのだと思って欲しい。あれは精霊だ。人間の常識など通用しない。あれは精霊でありながら、シャルヴァという世界そのものなのだ。あれに殺された者はシャルヴァに殺されたも同じ。代用品が現れない限り、その人物の記憶はシャルヴァで生まれた全ての者から消えてしまう。それだけ恐ろしい奴なのだ。
加えて、ヴィアレに付き従っている、ルードゥスという男にも気を付けろ。あれは人類にとっての災厄そのもののような男だ。試練を与えていると本人は豪語するが、そういった話は全て無視してくれて構わない。あれの言葉は毒そのものだ。人間に悪影響しか及ぼさない。ルードゥスはシャルヴァに関してはどうでも良いようだったが、ヴィアレの計画のどさくさに紛れて何やらよろしくないおふざけに身を投じるつもりらしい。ルードゥスという男には間違っても近付かないように。近付けば近付くだけ、あなたの寿命が縮むと思いなさい。
この木箱に入っているものの説明をしよう。これは鉄砲と言って、外界で造られた武器だ。弾を装填して敵を撃ち抜けば、相手を傷付けることが出来る。詳しい使い方は別紙を参照して欲しい。此処に書くと長くなってしまうからね。
とにもかくにも、その鉄砲はシャルヴァの五大を無視して攻撃出来る数少ない武器だ。もしも人智を超えた、神秘と呼べる相手に襲われた際にはこれを使いなさい。鉄砲はあのヴィアレにも効いた。逃亡までの時間稼ぎにはなるだろうから、是非有効活用して欲しい。
的確な助言になるかはわからないが、本当にあなたがこのティヴェラでどうしようもなくなってしまった時、地上へ行くことを恐れるなとだけ言っておこう。私は地上の出身だ。きっと、シャルヴァの人間にとって、地上とは捨て去りたくて堪らない場所なのだと思う。だが、地上はあなたたちの思っているような場所ではない。たしかにシャルヴァに比べれば不便だ。夏は暑く、冬は寒い。私の故郷のイングランドなんて、ずっと曇っているか霧が出ていて太陽が顔を出す日の方が珍しいくらいだ。下手すれば一週間、空から水が降ってくることだってある。けれども、それでも人間は生きている。どんな環境であっても、其処で精一杯に生きている。だから、あなただって暮らせるはずだ。地上には、あなたの知らない素晴らしいものや、酷いものがある。それら全てを知れとは言わない。ただ、死にたくないのなら、太陽に顔を見せても、きっと誰も責めはしない。むしろ歓迎するだろう。あなたたちの恐れている空は、あなたたちを見守っている。どうか、怖がらないで欲しい。地上だってまだまだ捨てたものではない。
長々と書いてしまってすまない。あまり手紙を書くのは得意ではないんだ。最後に、自分勝手だとは思うが、ひとつあなたに知っておいて欲しいことがある。
私の生まれは前述の通り、イングランドという地上の島国だ。其処には娘を一人残してきている。名をアリシアという、砂糖菓子のような可愛い娘だ。もしも、もしもだ。あなたが地上に出て、イングランドを次なる住み処に決めたのならば、どうかこの木箱をアリシアのもとに届けて欲しい。ロンドンという都市に行って、とりあえずサーと呼ばれている人物を当たってくれれば良い。別のサーに当たっても、恐らく最終的に私の言っているサーのもとまでたどり着くだろう。そのサーがアリシアの面倒を見てくれているはずだから、彼を通してくれ。きっとこの木箱の中身を見せれば、あなたを無下に扱うことはしないだろう。茶菓子は尋常でないくらいに焦げているかもしれないが、彼の淹れる茶は本当に美味しいんだ。
届けられないのならばそれで構わない。あなたにはあなたの道がある。それを阻もうとは思わない。この手紙が、少しでもあなたの役に立てば嬉しく思う。
願わくは、イングランドに永久の繁栄がありますように。
アダム・カルヴァート》


最早、涙を止めることなど不可避であった。アリックはみっともなく泣きながら、手紙を握り締めた。

(嗚呼、父上)

━━━━どうして、父を助けられなかったのだろう。どうして、父を死なせてしまったのだろう。自分には、まだ出来ることがあったはずなのに。
アリックは後悔に苛まれていた。このようなことを考えては駄目だ、と思う気持ちはある。けれども、それ以上にアダムという父の喪失はアリックにとって哀しかった。父と再びイングランドに帰るのだと、そう決意してアリックは故郷を飛び出したのだ。これでは、目的が達成されたとは言えない。

「……っ、ぐす……」

しかし、アリックは人の死にある程度慣れている人間であった。そのため、悲しくても泣き叫ぶことはなく、手紙の内容に意識を戻すことが出来た。父が危惧する事態。今、自分たちの置かれている状況は、まさしくそれに該当する。

「……皆に、伝えなければ」

ごしごしと、アリックは袖で乱暴に涙を拭う。紳士とは、人前で泣かないものだ。むしろ泣いている少女にハンカチを手渡せるくらいの心持ちでいなければ、紳士とは呼べないだろう。だから、アリックはいくら悲しくても人前で涙は見せやしない。常に穏やかに、余裕を持って、時々皮肉を織り混ぜる。それが紳士というものである。

「……女王陛下、万歳」

死の間際、アドルファスが呟いた言葉。それはアドルファスをアダムたらしめる一言だった。イングランドに尽くした一人の男━━━━自らの父が、最期に告げた祖国への賛辞を口にしてから、アリックは部屋を後にした。

1ヶ月前 No.357

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「やっぱりお前ら、此処にいたのか」

ナラカとスメルトがアリックを待っていた中、薬師の住まいに新たな来客があった。聞き覚えのある声に振り返ってみると、其処にはアロイスに紫蘭、ノルドとエステリアの姿がある。どれも見知った顔なので、とりあえずナラカは彼らを追い返すような真似はしなかった。ノルドに関しては反乱軍の人間なので少し不安な部分もあったが、状況からして彼の味方を出来るのは彼一人、最高でも運良く(?)気の変わったエステリアくらいのものだろう。そのため、ノルドについてもそのまま此処にいてもらうことにした。

「どうでしたか、アロイスさん。キラナさんは見つかりましたか?」
「いいや、さっぱりだ。もしかしたら、王宮の外に出たのかもしれない。……そっちは、宰相殿を見つけることは出来たらしいな」

ちら、とアロイスは横たえられたアドルファスの亡骸に視線を向ける。紫蘭とエステリアは表情を曇らせていた。彼女たちにとって、アドルファスは頼みの綱だったのだ。このような反応に至るのは何ら可笑しいことではない。

「……アドルファス殿は、ルードゥスとの対戦で身を挺してまで私たちの勝利に貢献してくださいました。……尤も、ルードゥスを仕留めたのはアリックさんなのですが……」
「そうか……。それで、そのアリックは何処に行ったんだ?」
「ええと……それは……」
「ああ、あいつなら、あっちの部屋にこもってるよ。何でも、アドルファスの隠していた箱の中身が気になるとかでね。細かいことはよくわからないけど、アドルファスはあいつの父親だったみたいだし」

なんとなく言いづらくて口ごもってしまったナラカだが、遠慮も隠喩も何もないスメルトがあっさりと真実を口にした。凄まじいまでの単刀直入っぷりである。どんな名刀でもこれには吃驚だ。
案の定、紫蘭は「はぁ!?」と声を荒げ、そして普段は冷静沈着なエステリアも分かりやすく動揺して床をみしっと踏みつけた。ある程度の調整が出来ているのか、床にひびが入ることはなかった。いつだか羅刹でも何でもない人間が地面を踏み割っていたような気もするが、それは一先ず置いておこう。

「そっ、それは一体どういうことなのだ!?あの馬鹿と宰相殿が、おっ、おっ、親子だと!?じょ、冗談なら叩き割るぞ!」
「僕が君に冗談を言うように見える?」
「み、見えないが!見えないが、そんな衝撃的なことを唐突に暴露されれば誰だって嘘かと疑うわ!そもそもだ、何故二人が親子であることがわかった!?二人は似ても似つかんだろう!主に見た目が!」

紫蘭の焦りようは凄まじい。普段からやたらと声が大きくて、度々周りから「ことあるごとに高笑いするのやめろ」と突っ込まれている彼女だが、今日は更に拍車がかかっている。にじり寄られているスメルトがしれっとしているので尚更だ。

「何故って言われてもさぁ……。本人がそう言ってたからに決まってるじゃない。僕とナラカはあくまでもそれを見ていただけに過ぎない。詳細なことなんて何も知らないよ」
「……では、その……アリックとかいう者だけが宰相殿の真実を知っているという訳か?」
「そういうことになるね。尤も、あいつの事情なんて僕はさっぱり知らないし、知るつもりもないよ。だからこれ以上問われても、答えられることはひとつもない。……わかった?」

笑顔に裏付けられた見事なまでの圧力で、スメルトは紫蘭と、彼女の後から質問をしてきたエステリアを制した。これには紫蘭もぐっと言葉を詰まらせ、ごにょごにょと口の中で文句を言う他ない。紫蘭よりも些か落ち着いているエステリアは、ふむ、と形の良い頤に手を添えた。

「……なぁ、ナラカ。詰まるところ、禍の大元ってのはルードゥスっていう補佐官……っつー認識で良いのか?」

蚊帳の外な感じの否めないノルドは、こそっとナラカにそう尋ねる。敵対関係でない知り合いと言える存在は彼女だけだからだろう。尤も、だからと言って仲間と言えるような立場でもない訳だが。

「はい、そうなりますね。……でも、これで全ての問題が解決した訳ではない……と思います。たしかにルードゥスは王宮の人々を傀儡に変えて私たちを襲ってきました。でも、恐らくルードゥスは黒幕ではない」
「じゃあ、黒幕ってのは……」

誰なんだよ、とノルドが問おうとした瞬間に、ぱたん、と奥の方から扉を閉める音が聞こえてきた。一同の視線は、一気にそちらに集まることとなる。

「……これはこれは。皆さん、お集まりのようで」
「……アリックさん」

再び姿を現したアリックは、一見すればいつも通りの、紳士然とした様子であった。しかし、彼女と過ごす時間が長かったナラカには、決してそうでないということがわかる。

(泣いてたのか)

僅かに目元の赤いアリックを見て、ナラカは彼女の内心をなんとなく察してしまった。だが其処には突っ込まない。いくら何でもそれは野暮過ぎる。
ナラカの思いをアリックが知るか知らないかはさておき、彼女はやや焦りを含んだ様子であった。ノルドとエステリアにちらと視線を遣ってから、再びナラカたちへと向き直る。

「ちょうど皆さんにはお伝えしなければならないことがあったのです。急かすようで申し訳ないのですが、まずは此方をご覧ください」
「これは……?」
「アドルファス殿の残していたお手紙です。これを読んでいただければ、概要は全てわかるかと」

アリックが一同の前に差し出したのは、一枚の便箋だった。正確に言えば、先程まで彼女が読んでいたアドルファスからの手紙━━━━の前半部分である。さすがに後半部分を皆に見せるのは堪えるらしい。二枚目をアリックが差し出すことはなかった。
まあ、細かいことはナラカたちの知らぬところである。まずはアリックから手渡された便箋を皆で読むことにした。

「……陛下が、既に殺されていた……だと……」

何よりも一同を愕然とさせたのは、クルーファに関しての文であった。ティヴェラの国王は既に死んでいる。しかも、相手はシャルヴァの礎となった精霊ときた。簡単にはいそうですか、と信じられる話とは言えない。しかし手紙に記されている以上、嘘だと割り切ることも難しかった。
クルーファが既に死んでいるという事実もなかなかに衝撃的な話ではあった。だが、ナラカはそればかりに驚愕してはいられなかった。クルーファについて記されている行から数行下にいったところに目が留まったのである。


「“ヴィアレ”━━━━?」


その名前には聞き覚えがあった。いや、聞き覚えがある、という言葉では片付けられない程に近しい人物だった。ヴィアレ。彼はたしか、ライオ・デ・ソル商会のところに短期就労をしに行っていたはずだ。ナラカの記憶ではそうだった気がする。

「……ナラカ。ヴィアレって、あの……」

ノルドが声を潜めて呟いたのも、ナラカと同じ人物に思い至ったためであろう。きっと、ヴィアレに会ったことのある者は彼の顔を思い浮かべているはずだ。恐らく、この中でヴィアレと全く面識がない者はいない。
たしかに、言っては何だがヴィアレは精霊と言われても可笑しくない見た目をしている。中性的で穢れがなくて、まるで生まれたばかりの人間の如く純粋で無垢なヴィアレ。その出自ははっきりとしていなかったし、謎の残る部分だって少なくはなかった。だが、ヴィアレはこう言っていた。地上でエルトに助けられて彼に付いてきたのだ、と。その話が嘘のようには思えないし、もしも偽りだとしたらエルトも一枚噛んでいることになる。正直、ヴィアレだけの問題ではなくなってしまうのだ。

「……このヴィアレという精霊が、私たちの知るヴィアレという者と同一かはわかりません。ただ、この王宮はかの精霊の手の内にあるも同然です。この便箋に書いてある通り、早急に外界へと脱出した方が良いでしょう」

一通り便箋の中身を皆が読み終わったらしいと判断したのか、アリックは淡々とした口振りでそう告げた。あっさりと言ってはくれるが、なかなかに重大なことだとナラカは思う。

(……外界に……つまり、地上に出るってことだよね……)

地上に戻りたかったナラカからしてみれば、願ってもいない話だ。だが、どうしてかわからないが素直に喜べない自分がいる。あんなに帰りたがっていたというのに、何故なのだろう。そう疑問に思っていた矢先に、ナラカの近くから声が上がった。

「……待て。私は、まだ目的を果たしていない」

口を開いたのは紫蘭であった。彼女は、自分よりも背の高いアリックを見上げながら、険しい表情を崩さずに言う。

「私はこの国の第一王子━━━━ルタと共に、ルードゥスに連行されたというヴィアレを取り戻しにこの王宮へとやって来た。少なくとも、ルタの身の安全を確保してから王宮を出たい。ついでにヴィアレも助けたいところだ」
「しかし……そのヴィアレは、一連の騒動の黒幕なのやもしれんぞ。その時はどうするつもりだ?」
「どうするも何も、殴れるだけ殴ってルタと逃げるさ。勝てない相手に挑みはしても、死ぬような真似は御免だからな」

エステリアから眉を潜められても、紫蘭はそう言い放った。まあ、言ってしまえばいつも通りの紫蘭である。周りを一切気にしないその物言いは、ある意味で傍若無人とも言えるだろう。他人にあまり悪印象を抱かせない辺りが何とも紫蘭らしい。

「……まあ、たしかに任務を全うせずに王宮を出るのはよろしくありませんからね。では、多少危険は残りますが、少なくともルタ殿を━━━━」
「━━━━それは出来ない」

ルタ殿を救出してから王宮を出よう。アリックはそのように提案しようとした。だが、横から放たれた厳然とした声に、その提案は阻まれてしまう。

「……なんでだよ、エステリア」
「…………」

アロイスから問いかけられた発言者━━━━エステリアは、ぐっと唇を噛む。悔しげに、然れど毅然と、彼女は一同に告げる。


「もうじき……反乱軍は砦を落とすだろう。彼奴らを止めなければ━━━━間違いなく、ティヴェラは終わる」

1ヶ月前 No.358

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

反乱軍。ナラカはその存在をすっかり失念していた。もとはと言えば、ナラカたちはこの戦争を止めるために動き出したのだ。その元凶がルードゥスらしい、という憶測に則って。故に、いくらルードゥスを倒せたとしても、反乱軍そのものを止められなければ意味がないようなものなのである。

「けどよ……その反乱軍に、俺たちはどう対応しろって言うんだ?ティヴェラの戦力のほとんどは傀儡になっちまった。その傀儡たちも今はもう動かない。俺たちに出来ることなんて限られてるぞ」

エステリアの言葉にいの一番に反応したのはアロイスだった。彼の言うことはナラカにも理解出来る。今自分たちが置かれている状況は、あまりにも絶望的だ。
傀儡が動かなくなったということは、反乱軍の兵士の半数を削ったという見方も出来る。何があってもひたすらに此方に攻めかかってくる相手がいなくなったのは悪いこととは言えない。だが、ティヴェラの王宮を守る兵士たちもまた傀儡となった。そして今しがたルードゥスの死によって動かなくなった。ティヴェラの王宮に残された戦力は最早自分たちしかいない。そんな状態で反乱軍に挑むのは無謀が過ぎるとエステリアは言いたいのだろう。

「……貴様に聞くのは腹立たしくて仕方がないのだが、今のところ、傀儡を抜いた反乱軍の規模はどのくらいだ?」

アロイスからの問いを受けて、エステリアは敵意を丸出しにしたままノルドへと尋ねる。殺意でないのがせめてもの救いだろうか。どちらにせよ好意的な態度とは言えない。

「そうだな……。傀儡で兵士の半数を補っていた感じだから、以前より格段に規模が小さくなっているのは確かだ。けど、今の俺たちに比べたら大軍なことに変わりはねぇな」
「では、私たちに王宮を開け渡せと?」
「何も其処まで言ってねぇだろ。とにもかくにも正面から戦うのは無謀だ。だからある程度知恵を絞った方が……」
「……お待ちください」

エステリアと問答を繰り広げていたノルドを遮ったのはアリックだった。彼女は警戒心を露にしながら、ノルドを真っ直ぐに見据える。

「細かいことはよく知りませんが、貴殿は反乱軍の一員なのですよね?何故私たちに助言とも取れる行動を取るのですか?反乱軍にとって、私たちの存在は決して良いものではないはずなのに」
「……それは」
「貴殿がナラカ殿のお知り合いということは知っています。ナラカ殿にとって、庇おうと思える程大切なお方だということも。ですが、貴殿はどうなのです?貴殿は何を以て、我々に協力しておられるのですか?」

しん、とその場が水を打ったように静まり返った。そして、ほとんどの者の目線がノルドへと集束する。一瞬にして、この空間の雰囲気は張り詰めた。

「……何だよ、俺を疑ってるのか?」

対するノルドは、困ったようにぽりぽりと頭を掻いている。その振る舞いですら、アリックたちからしたら疑わしく思えるのだろう。ますますノルドに向けられる視線は厳しいものに変わった。それこそ、近くにいるナラカの二の腕が薄ら寒くなる程度に、だ。

「……そうですね。疑っているか疑っていないかと問われれば、間違いなく前者でしょう。貴殿は以前に離宮に乗り込んだ。詰まるところ、ティヴェラに敵対しているはずの人間です。一体どのような心変わりがあったのですか?」
「心変わりっつーか、なんつーか……。とりあえず俺は間者じゃない。それだけは自信を持って言える」
「その根拠は何処にあるのですか?答えていただくまで、少なくとも私は貴殿を信用することは出来ない」

舌戦はアリックが圧倒的優位であった。ノルドはわかりやすくたじたじとしている。集落にいた頃ならナラカもノルドを助けたいと思っただろうが、今のノルドはティヴェラに反旗を翻した反乱軍の一員だ。とてもじゃないが擁護出来る立場ではない。薄情な奴と思われても仕方がないが、ナラカはこの件に関しては口をつぐんでいるしか出来なかった。

「……たしかにそいつは怪しいが、信用に足らない人間ではないぞ、薬師のところの」

しかし、ナラカの懸念に呼応でもしたかのように、横合いからノルドにとっては助け船になるであろう発言があった。まだアリックの名前を覚えていないのか、彼女の口調は何処かぎこちない。だが、ナラカにとってそんなことは些細な問題に過ぎなかった。

(エステリアさん……!?)

そう、声を上げたのはエステリアだったのである。ことあるごとにノルドに凄まじい敵意や殺意を向け、目の敵にしていた彼女が、ノルドを擁護したのだ。“選定の儀”での一件を知っているナラカは思わず目をかっ開いた。

「ほう、何故そう言い切れるのです?」
「……これは偏見だと言われても仕方のないことだが……。此奴は、少なくとも卑怯な真似はしない。平気で武人を侮辱するようなことはあっても、後味の悪くなるような戦をすることはないだろう」

エステリアの表情は真剣そのものだった。庇ってもらっている形のノルドも、彼女の様子を黙って見守っている。それほどまでに感じ入ったのであろう。二人の関係性をなんとなくだが把握しているナラカも、このような状況だが微笑ましい気持ちになった。エステリアがそれを知ったらナラカの命はなさそうだが。
ノルドに疑惑の目を向けていたアリックも、エステリアの言葉にやや目付きが柔らかくなったように思える。察しの良い彼女も気づいたのだろう。二人は武人としてお互いを認め合っているのだと。故に、それ以上エステリアを詰問することはなかった。そして、「そうですか……」と彼女に返答しようとした━━━━まさにその時であった。


「━━━━して、貴様らはやたらと気が合うようだが、要するに恋仲なのか?」


ぴしり、と。先程とは色々と違う意味でその場が静まり返った。何が要するに、なのだ。要するな、とナラカは内心で思いきり突っ込んだ。アリックとアロイスは硬直し、スメルトは「あーあ、やっちゃった」と他人事のように小さく嘆息し、エステリアは筆舌に尽くしがたい、どす黒い雰囲気を全身からかもし出していた。ノルドだけは、「おっ」と嬉しそうにしている。どうか彼の方にエステリアが振り向きませんように、とナラカは強く祈る他なかった。

「……誰と、誰が、恋仲だと……?」

獣のような目付きでエステリアが睨み付ける先には、きょとんとした表情の紫蘭がいる。鈍感な彼女は、エステリアの目を赤く染め上げるだけの爆弾発言を投下して尚平然としていた。その度胸は素晴らしいと思う。あくまでも度胸だけはの話だが。

「ん?聞いていなかったのか?貴様と、其処のノルドとかいうおと━━━━」
「黙れ馬鹿ぁ!!」

紫蘭がその場の雰囲気など介さずに全てを話してしまいそうになったところで、鬼のような形相をしたアリックが彼女に体当たりを敢行して無理矢理にその言葉を遮った。自分よりも背の高いアリックに体当たりされた紫蘭だが、そのまま吹っ飛んでいくことはなく何とか踏ん張って耐えた。やはり体術に関しては一流である。

「な、何をする!?」
「あっ、あなたが何をしてるんですか!この空間を血の海にするつもりですか!?」
「ナラカ殿のおっしゃる通りです!手前はいい加減空気を読むってことを覚えやが……覚えなさい!」

自分の発言の何処に問題があったのかわかっていない様子の紫蘭を、ナラカとアリックは顔を真っ青にさせながら咎め立てた。無自覚って恐ろしい。改めてナラカはそう気づかされた。
そして、エステリアの方はというと、全身から怒気を漂わせながらおもむろに立ち上がった。これはまずい、とノルドも気づいたのだろう。にやけていた表情も心なしか引きつっているように見える。アロイスが止めに入る前に、エステリアの唇は動いていた。

「……次に愚かな問いを向けてみよ。この男の首は胴体から離れていることだろう。努々忘れぬことだ……」
「えっ、俺……?」

犠牲になるのは紫蘭だと思っていたのだろう。意外そうなノルドの呟きが漏れた。そんな彼は放っておいて、エステリアは凄まじい表情のまま続ける。

「……其処の男と私は、全てが解決すれば死合う約定を結んでいる。決して生半可な関係ではない。……良いな」
「お、応……。貴様らにも色々と事情があったのだな……」

周りからの視線も追加で浴びせられて、紫蘭はやっとおとなしく首を縦に振った。基本的に空気を読まない彼女だが、大人数で押せばいけるようだ。
とにもかくにも、話が脱線してしまったので気を取り直すことにする。ごほん、とわざとらしく咳払いをしてから、ノルドは改めて反乱軍の進軍について切り出した。

「と、とりあえず、だ。いくら反乱軍の勢いが良くたって、いきなり王宮に進軍することはねぇと思う。その前に、だだっ広い王都をどうにかしなくちゃならねぇからな」
「王都を…………って、まさか」
「そのまさか、だ。下手すれば、王都の住民から犠牲が出るかもしれない」

ひゅ、と誰かの喉が鳴るのがナラカの耳にも入ってきた。エルトたち反乱軍はティヴェラへの報復を目的としている。━━━━ならば、その憎しみが何の罪もないティヴェラの民に向くことだってないとは言い切れない。

「……貴様は、それを容認するのか?」

真っ先に問いかけたのは、未だ穏やかとは言い難い雰囲気を身に纏うエステリアである。責任感の強い彼女のことだ、出来ることなら罪なき無辜の民が犠牲になるなんて事態は防ぎたいのだろう。その射抜くかの如き眼差しがよくよく物語っている。

「俺だって出来ることならいらない犠牲は出したくねぇよ?……けど、エルトが……総大将が何を考えてるのか、俺にもさっぱりでさ。総大将の方針がはっきりしてりゃあ、打つ手もあるって物だが」
「……え、方針、わからないんですか……?」

ぽりぽりと頭を掻くノルドに、ナラカはぽかんとしてからそう尋ねた。ノルドの表情はわかりやすく「あ、やべ」と告げている。どうやら漏らしたくはなかったらしい。しかし言ってしまったのは事実なので、彼は言いにくそうにしながらも口を閉ざすことはなかった。なんだかんだで根は良い奴である。

「いや、なぁ……。こう、俺はエルトが何を考えてんのか、正直言ってわからないんだよ。ティヴェラの砦になってるアーカムの王宮も陥落させた後は放りっぱなしだし、この間なんかティヴェラの王宮には出来る限り進軍したくないとか言い出すし……」
「……それ、大丈夫なの?そいつ、一応総大将なんでしょう?進軍に憂いとか感じてる時点で駄目だと思うんだけど」
「まあ、そうなんだけどよ……。とにかく、エルトの真意ってのが俺にはわからないんだ。シュルティラにはがんがん突っ込んでいくが、それ以外に対してはなんつーか……言っちゃ何だが無頓着なんだよな。たまに虚空を見てぼうっとしてることもあるしよ」
「……あいつが……」

エルトがぼんやりしている光景など、ナラカには容易に想像出来なかった。其処まで精神を磨り減らしているということなのだろうか。それでもやはりしっくり来るものではない。

「あっ、言っておくけど、さすがにこっちの機密情報を流すつもりはないからな。俺はあくまでも反乱軍の一員ってことになってるんだ。然るべき場合にはあっちに付くから、そのつもりでいてくれよ」
「何だ貴様は、面倒臭い奴だな」

後ろでは皆がまだ何か話しているようだった。だが、ナラカとしてはどうしてもエルトのことが気にかかって仕方がない。別に心配しているという訳ではないのだ。だが、似た者同士である彼が何か抱えていると考えると、どうしても気にせずにはいられなかった。

1ヶ月前 No.359

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【幕間:疾駆するは陽光の姫君】

彼女は駆けていた。普段から体を動かしてこなかったので、少し走っただけでも息苦しくて堪らなかった。出来ることなら、何度か立ち止まって息を整えたかった。

(止まっちゃ駄目、止まっちゃ駄目、止まっちゃ駄目……!)

けれども彼女は止まらなかった。げほげほ咳き込みながら、顔を真っ赤にしながら、それでも一生懸命に駆け続けた。長い長い回廊を走り抜けて、ことあるごとに邪魔をしてくる傀儡を必死で振り切って。五大なんてまともに使ったことがないから、度々出力を間違えた。そのため王宮の壁に幾つもの傷を拵えてしまった。
罪悪感など覚えない。むしろ以前の彼女が聞いたらくすくすとほくそ笑みそうな話だ。こんな王宮など壊れてしまえと、何度思ったことか。あわよくば、ある日突然反乱軍でも興って、白馬に乗った顔の良い騎士が助けに来てくれればどれだけ良いだろうとさえ考えた。そんなものは夢物語だと笑われそうだったので、ずっと心の奥底に仕舞い込んできた訳だが。

「はぁ、はぁ、はぁっ……!」

どのくらい駆け続けただろうか。彼女はやっと立ち止まった。立ち止まった瞬間に膝から崩れ落ちそうになったが、此処はぐっと我慢する。何故だかわからないが、此処で膝をついてはいけないような気がした。息を切らしながら、彼女はしっかりと目の前を見据える。

(此処を、出れば……)

王宮が恨めしいことに変わりはない。だが、たしかに王宮は彼女を守る鳥籠だった。その鳥籠から飛び立つことに恐怖がないと言ったら嘘になる。王宮から王都へと続く跳ね橋を前に、彼女はごくりと唾を飲み込んだ。
このまま戻ってしまおうか。一瞬だけ、彼女は躊躇った。市井になんて出たことはない。身分が知れれば、何をされるかわからないような世界なのだ。いくら理想郷と言えど、このような混乱状態では秩序も何もあったものではないだろう。もしかしたら傀儡のいる王宮の方がまだましかもしれない。

(……でも、あたしは逃げなければ)

せっかく生かしてもらったのだ。また死地に戻るなんて死んでも御免だった。彼女は息も整わないままに、跳ね橋を一気に駆け抜ける。いつ上がるかとどきどきしていたが、無事に跳ね橋を通り抜けることは出来た。

(何処に向かおう……)

彼女には頼れるような伝もないようなものだった。此処10年、まともに外に出たことすらないのだ。世間知らずということに加えて、彼女には誰かに話しかける勇気というものが培われていなかった。王宮では自分から口を開くことなんてほとんどないにも等しかったのだ。それゆえに、いざ王都にやって来たからと言って何をするかなんて、咄嗟に思い付くものではなかった。
彼女は一先ず、挙動不審にきょろきょろと辺りを見回す。王都は混乱の渦に飲まれていた。彼方では怒号が聞こえ、此方では慌ただしく駆け抜けていく民がいる。何をそんなに急いでいるかなど、言うまでもない。

(……もうすぐ、反乱軍が来るんだ)

反乱軍。昔はどれだけ待ち望んでいたことか。だが、今となってはむしろ恐怖しかない。一度離宮に乗り込んで来られた時には肝が冷えたなんてものではなかった。恐ろしくて叫び声を上げてしまったくらいなのだ。彼女の義弟だと名乗った青年に、彼女は付いていこうとは思えなかった。それほどまでに恐ろしかった。離宮にやって来る使用人に、思わず助けを求めてしまったくらいだ。これで彼女は反乱軍にとって面倒な人間という立ち位置になっただろう。
故に、彼女は出来るだけ反乱軍と顔を合わせたくはなかった。万が一捕まりでもしたら、何をされるかわからない。痛いのも苦しいのも彼女は嫌だった。だから今、彼女は焦っていた。何処か、何処か居心地の良い逃げ場を見つけなければ━━━━。


「━━━━うわぁ!?」

ばすん、と。彼女の腹部に何か温かいものがぶつかってきた。普段のぐうたらとした生活で、彼女の腹にはそれなりの贅肉がついている。そのため其処まで痛くはなかったが、やはり衝撃を受けないという訳にもいかず、彼女はその場で尻餅をついてしまった。

「ちょ、何するのよ……!」
「お、お前こそ、ちゃんと前見ろよ!危ないだろ!」

ぶつかってきたのはまだ年端もいかない子供だった。口調からして少年だろうか。まだ少年と形容するにはやや幼い見た目をしていた。ぷくりと膨れた頬が可愛らしい。
しかし今は子供を愛でている時間などない。彼女はむっとしこそしたものの、何とか飲み込んで少年に向き直る。せっかく人と会えたのだ、出来る限りのことはせねばなるまい。

「あ……あんた、此処で何してるの?……というか、皆何をしようとしてるの?」
「何って……逃げるんだよ、外に。少なくとも、うちは逃げるんだーって、頭が言ってたぞ」
「逃げる……?」

外に逃げる、とはどういうことなのだろうか。疑問を浮かべている彼女を余所に、少年の視線は別の場所に移ろう。……というのも、少年のことを呼ぶ声が聞こえてきたからだ。

「おーい、ティノ!何しとんねん、一人じゃ危ないやろ!」
「だって、エミリオがいねーって聞いたから!俺じきじきに探してやろうと思って!」
「せやからって人様に迷惑かけたらあかんよ、ティノ!お姉ちゃん困っとるやないか!早う謝り!」

少年の名前はティノというらしかった。だがそんなことは彼女にとってどうでも良い。彼女はティノの保護者と思わしき青年に掴みかか……ろうとしたが、その顔を見た瞬間にすっと一歩退いた。……まあ、何というか、顔が良かったのである。少なくとも彼女の判定では良い部類に入った。

「ん?お姉ちゃんどしたん、前来たり後ろ下がったりして……」
「な、何でもないわよっ。そ、それより、逃げるって、一体……」

青年から顔を近付けられて、彼女の心臓はばくばくと跳ねる。もとより顔の良い男が好きな割に耐性がないので、至近距離だと色々と障りがあるのだ。顔を背けながら、彼女は青年へと尋ねる。

「あぁ、見ればわかるやろけど、今王宮の方が可笑しくなっとんねん。今はまだましな方やけどな、さっきはぎょうさん“気”が立ち上っててえらい事態やったんやで。せやから、またああいうことが起こったら困るさかい、外界に逃げよかって話になっとるんや」
「外界に……!?」
「せやで。……でもなぁ……。俺の商隊んところにいた子が、一人はぐれてもうたみたいでなぁ……。さっきから捜しとるんやけど、全く見つからへん。まさか王宮に行ったとかやあらへんよな……」
「おっ、王宮に行くなんて、それはただの馬鹿よ……!今、王宮には動く木偶人形がうじゃうじゃしてるんだから……!」

青年は心配こそしているようだが、何処か危機感の感じられない物言いをする。それに我慢ならなくて、彼女は羞恥心関係なしに彼に詰め寄った。……が、やはり恥ずかしくなったのかまた後退した。何にせよ、耐性とはなかなか付かないものである。
一方、彼女の内心など全く知らないのであろう青年とティノは、彼女の発言に暫し目をぱちくりさせていた。そして、何秒か経った後で青年がおずおずと口を開く。

「お……お姉ちゃん、王宮から来たん?」
「そ、そうよ!何か不都合なことでもあるっていうの……!?」
「いや、そういうんやないねん。ただ、王宮に俺らの知り合いも行っとってな……。とりあえずお姉ちゃん、お名前教えてくれへん?俺はこの王都で商売やらしてもろてる、ライオ・デ・ソル商会のフィオレッロっていうんやけど」

はっ、と彼女は自らの口を掌で塞ぐ。思わず口を滑らせてしまった。そんな彼女を、フィオレッロと名乗った青年は苦笑いして見ていた。憐れまれているのはなんとなく気に食わなかったが、隠し立てしていても良いことはない。彼女はぼそぼそと、消え入りそうな声で名乗る。

「……キラナ。キラナよ」
「え?何?聞こえへんのやけど」
「……だからキラナっつってんでしょ!まったくもう、鈍いったらありゃしない!」

恥ずかしいのを我慢して名乗ったというのに、フィオレッロはあろうことか聞き返してくるという行動に及んできた。これに痺れを切らした彼女━━━━キラナは、きっと目をつり上げて声を荒げる。

「…………え、キラナって……」
「あっ、阿呆か、ティノ!キラナ様っちゅーたらアーカムの元王女様やで!いくら何でも呼び捨てはあかん!」

呆然とするティノを叱ってから、フィオレッロはぎぎぎ、とぎこちない動きで首をキラナの方へと向ける。その笑顔は引きつっていた。

「そそそ……それで、王女様が俺たちに何の用ですのん……?あっ、あんま無理なことは抜きで願いますわ……」
「……別に、大した用なんてないわよ。ただ、あたしをあんたたちに同行させなさい」
「同行させるって……王女様、外界に行くつもりなんか?」

きっと、シャルヴァを創ったアーカムの血族であるキラナは外界落ちを厭うとフィオレッロは考えているのだろう。その表情にはわかりやすく疑問の色が浮かんでいた。
たしかにキラナはそれを否定出来ない。外界落ちなんて嫌だし、出来ることならシャルヴァに残っていたい。幼い頃から、外界は穢れと苦悩に満ちた場所だと彼女も教育を受けてきた。それゆえに外界に対する恐怖は少なからずある。それでも━━━━それでも、キラナは外界落ちが最善だと判断した。

「……当たり前でしょ。それ以外に何があるっていうの?……安心なさい、一応見返りは用意しているつもりだから。だから……まずはあんたたちの商会?とやらに連れていきなさい」

キラナの態度はやはり横柄であった。だが其処に先程までの恐れはない。フィオレッロは困ったようにティノと顔を見合わせてから、キラナに向かってこくりとうなずいた。

1ヶ月前 No.360

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【第64幕:指し示す導を王子は知らず】


━━━━嗚呼、ついに。ついに、ティヴェラ王国を守る最後の砦が落ちた。


反乱軍は歓喜で満ちていた。ついにあの憎きティヴェラの砦を落としたのだ。この砦さえ落としてしまえば王都への進軍は難しくない。それゆえに兵士たちの喜びも並大抵のものではないのだろう。

「…………」

そんな兵士たちを、エルトは馬上から眺めていた。その表情には疲れが見える。いくら総大将とは言え、エルトも戦場を駆けてきた身だ。自らの手で弓を引き、遠距離から自軍を支えてきた。兵士たちもそのことを知らない訳がないので、エルトとすれ違う者は皆瞳を輝かせて会釈をしてきた。それこそ、王の凱旋に喜ぶ民のように。
だが、エルトの表情は浮かない。それどころか一層眉間の皺は深まり、顔色も悪くなっているような気がする。周りに兵士がいなくなったのを見計らって深い溜め息を吐いている辺り、相当参っているようだった。

「……無事か?」

そんなエルトに並んで声をかけてきたのは、相変わらず素っ気なさの目立つイオニスだった。彼はラビスとの戦闘で割りと洒落にならない手傷を負い、リリアには安静にするようにと念を押されていた。……はずなのだが、いつの間にか戦場へと舞い戻っていたらしい。傷は塞がっているようなので平気そうだが、また何かあってからでは遅い。無事であることを喜びたいのはむしろエルトの方だった。

「……ええ、おかげさまで。イオニス殿こそ、手負いだというのに戦場に復帰なさって……。何事もなくて、本当に良かった」
「……その点については、申し訳ないと思っている」

エルトの内心を少なからず察したのだろうか。いつもしれっとしているイオニスにしては珍しく、素直に謝罪をしてきた。こうなってしまえば、エルトもこれ以上彼を責めることは出来ない。
お互いに口数が多い方でもないので、それきり会話は途切れてしまった。何とも言えない気まずい雰囲気がその場に流れる。イオニスの方も居心地の悪さを感じているのか、そっとエルトから目を逸らしていた。

(嫌ならば立ち去れば良いものを……)

少なくとも、エルトは「それではこれで」と立ち去ろうとした。立ち去ろうとしたのだ。しかしイオニスもまた、エルトが向かう方向へと馬を走らせてくる。そして、エルトの数歩後ろを歩かせるのだ。まるで、まだ話があるとでも言うかのように。

「……何か、私にご用ですか」

いてもたってもいられなくなって、最終的にエルトはイオニスへと振り返った。何か反応でも示されるかと思ったが、別段そのようなことはなく、イオニスはやはり無表情でエルトを見つめていた。本当に何を考えているのか読み取れない男である。
問いかけられたイオニスはというと、やや口を開くのを躊躇うような様子を見せた。しかし意を決したのか、ひとつ咳払いをしてから言葉を連ね始める。

「……お前、大丈夫か?」
「…………はい?」

何を問うてくるかと思えば、あまりにも的外れな質問であった。エルトが拍子抜けしてしまったのも無理はない。

(……大丈夫か、など)

聞くまでもないだろう、とエルトは思う。エルトは目に見えるような大怪我を負っている訳ではないし、病に体を侵されている訳でもない。健康状態で言ったら、何も問題はないはずなのである。イオニスが一体自分の何を案じているのか、エルトにはわからなかった。それでも、答えなければ沈黙しか続かないので、エルトはにっこりと作り笑顔を浮かべる。

「私は大丈夫ですよ、イオニス殿。直に王都へ向かうことが出来るとなっては、おちおち不調でもいられますまい」
「……いや、そういったことではない」

何とか丸く収めようとしたエルトだったが、そんな彼の思惑に反してイオニスは首を横に振った。彼の長い黒髪がさらさらと揺れる。

「ずっと……ずっと、お前は本調子ではないように見える。勿論、健康状態で言えば何も問題はなさそうだ。……だが、精神的にはどうなのだ?先程も、酷く疲れたような顔をしていたが」
「……見て、いらっしゃったのですか」

面倒なことになった。再び溜め息を吐きたいのを必死に堪えて、エルトは何とかそれだけを絞り出した。まさかイオニスに見られていたとは思いもよらなかった。彼を相手にするのはなかなか骨が折れるので、出来ることなら見逃して欲しかった。

「……たしかに、私は疲れています。しかし、だからと言って此処で弱音を吐けましょうか。私は反乱軍の総大将なのです。自分の為すべきことを為さぬまま、休んで良いことなどありません」

イオニスからの追及がないことを祈りつつ、エルトは彼の言葉を素直に認めた。だが、認めはしても意志は曲げない。イオニスは休めと言いたいのだろう。少なくともエルトはそのように解釈した。けれども、エルトとしては休んでなどいられない。誰に止められようと、前に進まなければならないことに変わりはないのだ。せっかく巡ってきた好機を、こんなところで捨てる訳にはいかない。
エルトの言葉を聞いたイオニスは、ふむ、と顎に手を遣った。暫し視線を落としたものの、再びエルトを真っ直ぐに見据えて唇を開く。

「為すべきこと……か。よく言ったものだ。本当は、何もかもが恐ろしくて仕方ない癖に」
「……何ですって」

エルトの目が細められた。もしも此処にリリアがいたら、イオニスのことを咎めていたに違いない。だが此処にいるのはエルトとイオニスの二人きりだ。誰であっても、口を挟んでくる余地はない。

「お前は総大将だ。その身にかかる重圧は、私などにはわかるまい。……だが、わからずとも、私は疑問に思う。━━━━何故、お前は戦をすることを恐れている?」

イオニスの言葉に、揶揄や嘲笑の色は見られなかった。ただひたすらに疑問に思っている。そんな、純粋な問いかけであった。だからこそ、エルトは言葉に詰まる。愚問と突っぱねることが出来ないのは、何とも面倒なものだ。

「……何も、恐れてなどいません。私には、この反乱軍がある。数でならば、我々が圧倒的に勝っている。私たちには、傀儡が━━━━」
「━━━━その傀儡も、どういう訳か先程動かなくなった。奴等のおかげで人間の兵士たちはほぼ無事だが……それでも、戦力が激減したことに変わりはない。加えて、お前の戦意も落ちているように思える。これを放っておけば、この反乱軍はいずれ瓦解するだろう」
「……あなたは、何が言いたいのですか?私の采配に不満があると?」

業を煮やして、エルトは刺々しくイオニスに尋ねた。訥々と話されることが不快な訳ではないが、出来ることならイオニスには結論を早く述べて欲しかった。
エルトから急かされたイオニスは、す、とその菫色の瞳を細める。じっとエルトを見据えたまま、彼は抑揚をあまり付けずに告げた。

「お前の采配に不安がある訳ではない。お前がこのまま戦場に立ち続けたところで、何を得られるか、という話だ」
「……それは、どういうことです」
「簡単な話だ。お前はもう戦場に立つことを望んではいないだろう。……いや、最初から、望んでなどいなかったのだろうな。お前はアーカムの王宮を奪還しても手を付けず、戦後の計画も特にこれといったものを立てず、そして反乱軍が大勝したという知らせを聞く度に寝付けない状態が続いたらしいではないか。そのような状態で戦地に立てば、お前はいずれ壊れてしまうだろうに……」
「━━━━あなたごときに、何がわかるというのです!」

気が付けば、エルトは声を荒げていた。イオニスは珍しく驚いたのか、瞳をぱちぱちと瞬かせている。だがそんなことはエルトにとってどうだって良い、どうだって良いのだ。問題はイオニスの発した言葉にある。

「……戦を恐れているのは、事実です。ええ、恐ろしいですとも。だが、前に進まなければ我々の悲願は達成されない!恐ろしくとも、足が震えようとも、私には成さねばならないことがある!」
「しかし、お前はアーカムを復興させるとも、新たな国を創るとも明言していないだろう。ただティヴェラへの報復をするとのみ、お前は口にした。それで戦には勝てるかもしれない。だが、何かを成したということにはならないだろう。下手すれば、お前はいらぬ戦を起こしてシャルヴァを混乱させただけの人間と見なされよう」
「そんなことは……!」
「そんなことはない、と言いたい気持ちもわからなくはないがな。しかし、恐れているのは確かなのだろう?亡国の王子よ。お前はあくまでも王子に過ぎない。戦をしたことなど、これが初めてなのだろうよ。故に、一国を滅ぼすことが恐ろしい。何の罪もない民の暮らしを、ただ“ティヴェラの民であった”という理由だけで破壊するのに躊躇いがある。そして━━━━また仲間を喪いたくはない。そうではないのか、エルティリナ」

イオニスはやけに饒舌であった。普段なかなか話さない人間が此処まで口を回していると、意外だという驚き以上に気味の悪さを感じてしまう。何よりもエルトが薄ら寒くなったのは、イオニスの言葉があまりにも的を得ていることであった。……詰まるところ、図星だったのだ。何から何まで見透かされているような感覚を覚えて、エルトの二の腕には鳥肌が立っていた。

「……何故、そのような……」
「何故、と問われてもな。これは私の推測ではない。事前に、ある人物から聞かされ、そして頼まれていたのだ。エルトは何かを怖がっているから、出来る限り助けて欲しい、とな」
「それは、誰が……」

誰が言ったのです、と。エルトが答えようとする前に、ひゅっ、と何かが空を切っていた。そして、首筋にちくりとした痛みが走る。痛み自体はそれほど大きなものではなかったが、エルトの体はぐらりと揺らぎ、どうと地面に叩き付けられた。

「……き……さま、何を……!」
「……すまないな、私とて手荒な真似はしたくないのだ。恨むなら存分に恨め」

エルトはイオニスに言い返そうとする。しかし唇が━━━━いや、体全体が痺れて、上手く動かなかった。それどころか、意識も徐々に薄らいでいく。

(こんな、ところで……!)

終わりたくない。終わって堪るものか。そんなエルトの思いも空しく、彼の意識は冥暗の中に落ちていった。

1ヶ月前 No.361

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

誠実にあれと言われてきた。偽りは悪と教わってきた。自分にも、国民にも誠実で、素直な人間でありなさい、と。そう、父も母も兄も姉も言ってきた。教育係の使用人や、乳母もだ。だから、嘘はいけないのだということはよくよくわかっていた。そして、一度結んだ約束を違えることは、誠実な人間にはあるまじきことだということも理解していた。

(……約束、したのだ。あの日、あの時、たしかに母上に。ああ、そうとも。私は母上に約束した。ティヴェラへの報復を。そしてアーカムの再興を)

エルトの意識はぼんやりとしていた。微睡みの中にいる、と言った方が適切だろうか。これが夢なのか現なのか、エルト本人にもわからなかった。ただ、在りし日の思い出が、波のように幾重にも重なって思い起こされた。

(嗚呼、そうだ。かつて、私は母上を看取った時に誓った。アーカムのために、ティヴェラへの報復をするのだ、と。だから、私は絶対に成し遂げなければならない。そうでもないと、私は━━━━)

忘れもしない、忘れられる訳がない。かつてエルトとその母、アルニールは少しの従者を伴って外界落ちを果たした。しかし、五大の恩恵によって守られているシャルヴァと、五大が既に通じない地上では大きな環境の差があった。シャルヴァにはない季節というものが存在し、溶けるように暑い日や凍える寒さの日があった。
エルトたちが初めに訪れたのは、シャルヴァに繋がる洞穴の存在するチベットであったが、其処は彼らにとってとてつもなく辛い環境と言っても過言ではなかった。山々が近いためか体調不良を訴える者が続出し、ほとんどの従者は此処で倒れてしまった。寒さによって風邪を拗らせた者もいた。これではいけないと考えたアルニールは、何とか暖かい場所へと移動しようと提案した。そうして、エルトたちは印度へと移動した。
だが、場所を変えたからと言って何もかもが解決するという訳ではなかった。チベットよりも暖かかったのは確かである。だが、印度はあまりにも暖かすぎた。環境がチベットとは違いすぎたのだ。結果的にアルニールは熱病に倒れてしまい、エルト以外の従者も彼女のようにばたばたと倒れていった。最早、誰が最初に体調を崩したかなど覚えてはいない。ただ━━━━死の間際に、アルニールがエルトの手を握って、涙ながらに語ったことは、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

━━━━……エルティリナ、私の何よりも大切な子。どうか、どうか聞いて欲しいことがあるのです。

幼かったエルトも、母の様子が尋常ではないことに気づいていた。故に、アルニールに近付いて、出来るだけ彼女の言葉を聞き逃さないようにしようと思った。

━━━━あなたは……あなたにはどうか、もう一度シャルヴァの土を踏んで欲しい。それが何年後、何十年後になるかはわからないけれど……。それでも、あなたには再び、理想郷たるシャルヴァに戻って欲しいのです。

息も絶え絶えなアルニールに、エルトは何と言葉を返したのか覚えてはいない。彼女を励ましたかもしれない。泣いていたかもしれない。うなずいたかもしれない。首を横に振ったかもしれない。今となっては過ぎた過去、自分が何をしたかなんてすっかり忘れてしまった。覚えているのはアルニールの姿と言葉だけ。それだけは、脳裏に焼き付いて離れない。離れてくれない。

━━━━エルティリナ、あなただけが頼りなのです。私はもう長くはないでしょう。ですからこうしてあなたに頼むより他に方法はないのです。どうか……ティヴェラに、鉄槌を与えてくださいまし。

この言葉より数日後、アルニールは息を引き取った。白蓮の寵妃と呼ばれた彼女は窶れ、アーカムの王宮にいた頃とはまるで別人のようだった。そんな母が目に涙を浮かべながら頼み込んできたのだ。その言葉は、嫌でもエルトの心に染み付いた。

(母上の……いや、アーカム王家の者の無念を晴らさなければ。それこそが、私の……エルティリナの生きる意味。これまで生かされてきた私が成さねばならぬこと。だから……いくら恐ろしくとも、私は前に進まなければならないんだ……)

とろとろと微睡みながらも、エルトは歯を食いしばり、眉間には皺を寄せていた。このようなところで鑪を踏んでいるのがもどかしかった。そして、まだ躊躇いを覚えている自分への苛立ちが募った。
いくら旅をして様々な経験をしてきたエルトとは言え、戦争を引き起こし、総大将として軍を率いることは初めてだ。地上を旅していた頃に用心棒をしていたのとは勝手が違う。総大将としての責任の重さは、エルトにとって少なからず重荷となった。
それでも善き頭領であろうと、エルトは必死になって努力した。敵味方関係なく、誰にもこの恐怖を見せまいと、表情を固くしながら進軍を続けた。自分はアーカム王家の血を引く者なのだから、と常に自分自身に言い聞かせていた。実際に、集った者たちは一部を除いてエルトを王家の人間として扱ってくれたし、態度はよろしくなくともエルトには従順な者ばかりであった。何もかもが上手くいった。反乱軍は快進撃を続けた。

(だが、耐えられないものは耐えられなかった)

かつて自分が暮らしていたアーカムの王宮。それを砦としてティヴェラ軍は再利用していた。反乱軍である以上、其処を落とさなくてはならないことは必須であった。
だが、エルトは此処で恐ろしくなった。あの王宮に戻れば、少しでも近付けば、かつての惨劇を思い出してしまいそうで怖かった。エルトは義兄弟を多数殺したシュルティラのことを憎んでいる。そして恐れてもいる。シュルティラの姿が瞼の裏でちらつく度に、エルトは人知れず震えていた。そんな人間が、トラウマを植え付けられた場所に好き好んで行きたいと思えるだろうか。エルトの場合は思えなかった。だから件の砦は落とすだけ落として、中を検問するようなことはしなかった。そのため、砦は今でもほぼ手付かずのままである。
エルトが忌避したかったのはそれだけではなかった。何よりも恐れているのは、“ティヴェラの王都に進軍する”ことであった。イオニスには看破されてしまったが、反乱軍の者たちにはまだ露見していないはずだ。彼らはティヴェラへの報復を望んでいる。もしかしたら、ティヴェラの民たちをも手にかけるかもしれない。

(そのようなことは、絶対に厭だ)

子供の駄々と言われれば、反論は出来ないだろう。しかし駄々を捏ねる程に、エルトは無辜の民が傷つけられるのを良しとしなかった。たしかにティヴェラは憎い。だが、憎むべきはティヴェラという国家を率いる者たちであって、其処に住む民の全てが該当する訳ではない。故にエルトも、初めは出来る限り穏便に済まそうと考えていた。
だが、それはあくまでもエルトの望みに過ぎなかった。10年間も苦難の生活を強いられてきた旧アーカム領の民たちの憎悪は凄まじかった。彼らの中で、ティヴェラの王都を襲うという案は既に決まっていたようなものだった。もとより、彼らはそうするのだと信じていた。それを覆すことなど、エルトには出来そうもなかったし、実際に止めることが出来なかった。エルトは何も言えないまま、此処まで進んできてしまったのだ。

(嗚呼……私は、どうすれば良いのだろう。このような迷いがあると知れれば、反乱軍の者たちはどう思うだろうか。失望してくれるだけならまだ良い。命を狙われでもしたら、それこそ一巻の終わりというものだ)

情けない話だが、エルトは無駄死にしたくはなかった。せっかく此処まで歩んできたのだ。それを無駄にしたくはない。臆病者と笑われても良いから、せめてティヴェラには一矢報いたかった。

(……死にたくない、のか。私は)

まさか自分が生を渇望する日が来るとは、思ってもいなかった。ナラカと同じように考えている自分に苛立つ余裕は、今のエルトには存在していない。

(早く目が覚めて欲しい。……いや、このままいた方が楽なのだろうか。何も、何もかも、私にはわからない)

泣きたかった。だが泣くことは許されない。エルトは強く強く奥歯を噛み締めた。そうして、この微睡みから逃れる時を、ひたすらに待ち続けるより他にはなかった。

1ヶ月前 No.362

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どのくらい、時間が経っただろうか。エルトの四肢に、五体に、徐々にではあるが感覚が戻り始めた。彼は馬に乗せられているようで、心地よい振動が体に伝わってきた。

「……けどさぁ。これって本当に、大丈夫なんだろうな……?」

耳に入ってきたのはイオニスの部下━━━━スピロスの声である。その声音は、何処か不安げな色を含んでいた。

「大丈夫も何も、隊長が命じたことなのだ。我等に出来るのはそれに従うことだけだろう?」
「いや、お前の言うこともまあわからなくはないんだけどさ……。けど、いくら何でも殿下を吹き矢で眠らせるなんて、許されることなのか?もし他の兵士に知られたら、俺たちただじゃ済まないんじゃ……」
「阿呆、そうなれば私たちも隊長と命運を共にするまでだ!私たちは隊長に救われた身、最期まで忠義を尽くしてこそだろう!」

横合いから聞こえてくるのはオルガノスの声である。相変わらずイオニスへの忠義というか愛というか、まあ諸々の感情を爆発させていた。ある意味平常運転という奴だ。
段々はっきりとしてきた視界を前に、エルトは自分の置かれている状況を頭の中で整理する。此処が何処かはわからないが、今自分はスピロスの操る馬に乗せられている。聞こえてくる声の大きさからして、オルガノスも並走しているのだろう。エルトをこのような状態に陥らせたイオニスは此処にはいないようだ。そのイオニスに二人は何か命令を下されている。オルガノスは相変わらずやる気満々だが、スピロスは後ろめたさを感じている━━━━。

「ちゅ、忠義も大事だけどさ、オルガノス。隊長が何を考えていらっしゃるのか、俺には少しわからない。殿下とぶつかることなんて、以前にはなかったのに……」
「……隊長も、心変わりがあったのだろう。あのナラカとかいう娘を見てから、だいぶと表情が和やかになったように思える。ずっと隊長は妹君のことばかり考えていたからな。姿を重ねられる相手を見つけることが出来て、心にゆとりが生まれたのではなかろうか」
「ふむ……ゆとり、ですか」
「いや、これはあくまでもオルガノスの憶測ですよ。本当のところは━━━━って殿下!?」

何の前触れもなく話に参加してきたエルトに、スピロスはわかりやすく驚愕の色を見せた。オルガノスもびくりと肩を揺らしている辺り、スピロスと同じように驚いているのだろう。エルトはふぅ、と息を吐いてから、自分の後ろにいるスピロスへと振り返った。

「私としたことが、油断したばかりにこのような目に遭ってしまいました。……して、イオニス殿はどちらに?」
「もっ、申し訳ございません、殿下……!隊長は此処にはいらっしゃいません……!無礼を働いたという自覚はございます、しかしこれにも事情があるのです……!隊長も、決して殿下に叛意を抱いた訳ではございません……!」
「……では、イオニス殿は如何にしてこのような行為に及ぶなどという考えに至ったのでしょうか?その辺り、あなたたちなら知っているのでは?」

エルトの漆黒の瞳が細められる。スピロスとオルガノスは顔を見合わせてぶるぶると震えた。いくらイオニスに忠義を誓っていると言えど、総大将であるエルトは畏れ多い存在のようである。怖がられる筋合いはないが、今となっては好都合だ。

「た……隊長は、ある方からの頼みを、忠実にこなそうとしただけなのです。ですから、隊長はただ……」
「その、“ある方”というのは誰なのですか?場合によっては、その者を始末しなければなりません。黙っていればどのような処置が下るか……わかりますね?」

ずい、とエルトはスピロスに顔を近付ける。答えなければどうなっても知らんぞ、と暗に伝えられて、スピロスの顔はみるみるうちに青ざめていった。ごくり、と唾を飲み込んでから、彼はオルガノスへと目配せする。オルガノスも勢い良く首を縦に振った。早く話せ、という合図だろう。

「で……殿下。どのようなお話をしても、驚かれませんか……?」
「……まあ、内容によりますね。出来る限り善処はしましょう」
「さ……左様、ですか……」

スピロスは目線を泳がせながら、何度か口をぱくぱくさせる。このまま馬の運転を誤ってしまいかねない程の緊張ぶりである。エルトとしては、口を閉ざされるのは厄介だが、どうか事故だけは起こさないで欲しいところだった。このまま道連れなんて堪ったものではない。

「その……大変、言いづらいのですが……」

ごにょごにょと、スピロスは口の中で言葉を持て余す。しかし、やがて意を決したのか、エルトから目線を逸らしながらこう告げた。


「隊長に頼み事をなさったのは━━━━ハルシャフ殿なんです」


ぴたり。一瞬だが、エルトの体からありとあらゆる“動”が消え失せた。瞬きもせずに、スピロスだけを見つめる他なかった。
ハルシャフ。ハルシャフと、たしかにスピロスは口にした。その表情から、彼が偽りを述べているようには思えない。オルガノスも、はらはらとした顔つきで此方をちらちら見ている。さすがに直視するのは辛いのだろう。

(……ハルシャフが……)

恐らくハルシャフがもう生きてはいないということは、エルトも承知の上であった。あれだけの五大を賄うとなると、自らの五大を発生させて自爆する以外に考えられないだろう。それがハルシャフの望んだことだというのはエルトもわかっている。本当ならば止めたかった。行くなと腕を掴みたかった。そのようなことをするよりも、別の方法を探そうと言って引き留めたかった。
だが、エルトは何も出来なかった。反乱軍の総大将という立場に阻まれた。━━━━否、立場を省みずに動くだけの度胸が、エルトにはなかったのだ。

「……ハルシャフ殿は、最期まで殿下のことを案じておられました。だからこそ、隊長に伝えたのだと思います。……あなたを、王宮まで連れていけ、と」
「…………」
「……殿下。殿下が民を思うお気持ちは、よくわかります。ですが、我々がティヴェラを憎んでいるのもまた事実です。どうか……どうか、お願いです殿下。ご決断を」

スピロスの声は震えていた。オルガノスも、唇をふにゃふにゃにして此方に視線を寄越している。二人が伝えたいこと、考えていること。それは、エルトにもよくわかった。

(嗚呼、そうか。二人は……いや、皆は、ティヴェラにあらゆるものを奪われたのだ)

エルトだって“奪われた”立場の人間だ。だが、少なくともエルトには外界という逃げ場所があった。それは逃がしてくれるだけの味方がいたからだ。ただの民は逃げることすら出来ない。この理想郷こそが、彼らにとっての逃げ場に他ならないのだ。

「……王都へ向かいます。供をしなさい」

喉の奥底から絞り出すかのような、声だった。本当は行きたくなんてない。王都に足を踏み入れたくなんてない。それでも━━━━それでもエルトは逃げられないのだ。何と言ったって、彼はこの反乱軍の総大将なのだから。
はっ、とスピロスとオルガノスが頭を下げる。彼らの操る馬は、王都に向かって進み始めた。

30日前 No.363

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先程反乱軍の手によって陥落させた砦と比べれば規模は落ちるが、ティヴェラの王都にも外敵から守るための壁が設けられている。先着していた反乱軍の兵士たちは王都に入るためにだろう、其処を取り囲んでいた。

「ちょっと、あんたってば大丈夫だったの!?」

エルトへと真っ先に声をかけてきたのは、意外なことにニーラムだった。ふわふわと浮遊する彼女は、スピロスとオルガノスを睨み付けてからエルトの隣へとやって来る。喜怒哀楽がわかりやすい彼女は、今回も感情がはっきりと顔に現れていた。━━━━エルトにもそれがわかるくらいに、彼女は心配そうな顔をしていたのである。

「私は大丈夫ですよ、ニーラム殿。どうかご心配なさらず」
「馬鹿、心配するに決まってるでしょ!あのイオニスとかいう奴、本当に何を考えているのかしら。あんたが命令さえすれば、とっちめることだって出来るけど」
「……いえ、その必要はありません。今どうにかしなくてはならないのは、イオニス殿ではありませんから」

そうニーラムに告げてから、エルトは壁の前に群がる兵士たちを見る。恐らく、ティヴェラの兵士たちはほとんどが従軍してしまったのだろう。砦から命からがら逃げ帰ってきた兵士が何とか応戦しているようだが、それも時間の問題である。

「……どうするの?あんた、ああいう手は使いたくなかったんでしょ?」

眉を潜めながら、ニーラムは小声でエルトへと尋ねた。彼女にまで露見していたとは、エルトとしては恥ずかしい。だが今はそれどころではないので訂正するのは後にしておく。

(……あの方々を止めるのは、果たして正しいことなのだろうか)

たしかに、反乱軍の兵士たちを止めなければ、ティヴェラの民は彼らによって虐殺される可能性が高い。罪のない人間を犠牲にするのはエルトも避けたいところであった。しかし、スピロスやオルガノスの内心を知った身としては、兵士たちを止めるのは無粋なような気もしてならない。彼らはティヴェラによって苦しめられてきたのだ。それゆえに、今こうして反乱軍として戦ってくれているのだろう。その意志を無下にしたくはなかった。
つい、とエルトは視線を戦う兵士たちの方へと移動させる。何とか解決策を見出だせないものか。そう考えた、刹那の出来事であった。

「……っ!」

ぐん、と体が無理矢理に引っ張られるような感覚を覚える。視界が一気に歪み、頭がくらくらとした。この感覚は初めてではない。むしろよく体感するものだった。

(千里眼……!)

エルトの持つ最大の武器。それこそが千里眼である。しかし自由自在に操れるという訳ではなく、エルトの感情や使用意欲を無視して勝手に発動するものだった。そのため、時たまに悪夢を見せられることもあり、エルトとしては持て余す場面も少なくはない。
そんな千里眼が、今この場面で発動した。恐らく、エルトにとって何か重要な出来事がこれから起こるのだろう。歪む目の前に向けて、エルトは目を凝らした。

(人が……出て来る……?)

兵士たちが向かおうとしている壁の内側。其処から一人、人が出て来るのが見えた。見たところ女性だろう。顔立ちを確認しようと、エルトは眉間に皺を寄せて━━━━そして、はっと目を見開いた。

「あの方は━━━━!?」

瞬間、目の前に“今”の風景が戻ってくる。エルトは目をぱちぱちと瞬かせて、慌てて左右を見渡した。━━━━まだ、何も起こっていない。

「ちょっと、どうしたの?」

やたらと周囲を確認しているエルトに、ニーラムが訝しげな視線を向ける。しかし、エルトとしては冷静に自分が見た光景を説明している訳にもいかなかった。ニーラムに答えることもせずに下馬し、壁に向かって走り出していた。

「皆の者、止めなさい!彼処には━━━━!」

エルトが言葉を全て紡ぎ終える前に、“彼女”は一同の前に姿を現していた。かっ、と壁の内側から強烈な光が放たれたかと思うと、次の瞬間には壁の一部が焼け焦げて穴が出来ていた。その向こうに、“彼女”は立っていたのだ。
ざわり、と反乱軍の兵士たちがどよめく。明らかな混乱が彼らを包んでいた。壁への攻撃は瞬く間に収まり、誰もが“彼女”の姿を見る他なかった。現に、スピロスとオルガノスも“彼女”のことを凝視している。

「……誰よ、あれ」

ニーラムですらも息を飲む。それは女性を知らないというだけでなく、純粋な驚愕も含められている言葉であった。
“彼女”は、エルトよりも幾分か年上に見えた。童顔な部類に入るのならば、20代後半でも違和感はなさそうだ。何処か幼さを感じさせる顔立ちをしていたが、その顏には紅で化粧が施されており、顔立ちを華やかなものにしている。唇だけでなく、眦にも紅が入れられているのでよく映える。もともと地味な顔立ちでも、このくらい化粧をされれば大抵は目立つようになるものだ。素顔はどうだかわからないが、少なくとも“彼女”の顔は華やいで見えた。
そして、その身に纏うのは東方を思わせる豪華絢爛な衣装である。紅を基調とした布地に、金糸で装飾が凝らされたそれは、夜闇の中でも光りそうなくらいには眩しい。ふわりと揺れる羽衣は華美な中にも幻想的な雰囲気を漂わせている。しゃらしゃら音が鳴りそうな装飾品も、“彼女”の様相に華を添えていた。

(……あの方は、あれほどまでに眩かっただろうか)

“彼女”のことを、エルトは知っている。だが、エルトの記憶の中の“彼女”は、あのように輝かしい出で立ちをしてはいなかった。言ってしまえば、“彼女”は地味だったのだ。目立つことを厭い、人前に出ることを厭い、王族であることを厭っていた。少なくとも、エルトの目にはそう見えた。

「…………」

“彼女”は皆をぐるりと見渡す。誰もが息を飲んで“彼女”を見つめていた。“彼女”が何と言うのかを待ち構えていた。


「━━━━エルティリナ!」


“彼女”が開口一番に呼んだのは、間違いなくエルトの名前だった。反乱軍の者たちの視線が、一斉にエルトへと集まる。

「エルティリナ、あんた……じゃない、お前がこの反乱軍の長なのだろう!“アーカム王国第一王女、キラナ”の名にかけて命ずる!あたし……じゃない、我が面前へと進み出よ!」

こういった場には慣れないのか所々つっかえているようにも思えたが、“彼女”━━━━キラナは、威厳を持ってエルトへと命を下した。普段人前に出ることを避けてきた彼女にしては、十分頑張った方だろう。

「何だと、キラナ様とは」
「やはり陛下に似ておられる」
「いや、第一王妃のニナルカ様の方が」

アーカムの民にとって、王家の人間とは拠り所にも近いものだ。それゆえに、兵士たちの戦意はかなり収まったと言っても良い。皆が皆、キラナの姿を見てほう、と感嘆の息を漏らしている。

「……どうするの?あいつはああ言っているようだけど」

こそ、とニーラムがエルトに耳打ちしてくる。唐突に現れたキラナのことを警戒しているのだろう。たしかに油断して彼方に向かうのは危険であろう。

「……あの方の要求を飲みます。一応、私の義姉に当たる方です。一概に敵と決めつけるのは良くない」

しかし、敢えてエルトはキラナとの対話に踏みきった。危険が伴うことはわかっている。……だが、出来ることなら血を流さずに王都を攻略したい。詰まるところ、二人の利害は一致しているようなものだった。ならば、この機会を逃す訳にはいかない。
エルトは、かつて助力を求めた義姉のもとへと歩む。誰もが息を飲んで、対話の行方を見守っていた。

29日前 No.364

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28日前 No.365

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27日前 No.366

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26日前 No.367

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いくら歴戦の猛者であったとしても、立ち上る瘴気を見ればよっぽどの者でない限りそれに立ち向かおうという気にはなれないだろう。イオニスたちもそうであった。彼らは少女に剣を向けはしたものの、瘴気を見た瞬間に目を見開いて、直ぐ様後方へと下がった。

「殿下!殿下も早くお退きください!」
「わ、わかっています!」
「嗚呼もう、何なのこいつ……!イオニス、あんたは皆を下がらせなさい!リリア、あんたは結界を!微弱でも構わないから、早く!」

人智を超えたものに対抗出来るのは、同じく人智を超えたものだろう。そう考えたのか、いつになくニーラムはてきぱきと動いて指示を出していた。彼女の生み出した津波が、少女から発せられた瘴気の棘を阻む。ばちばちと音を立てて空気が振動した。

「……くうっ……!」
「ニーラム殿!」

いつも余裕ぶっているニーラムだが、この時ばかりは辛そうだった。それだけ少女の瘴気が強いということなのだろう。エルトは思わず声を上げる。しかし、ニーラムは振り返らずに声を荒げた。

「あたしには構ってないで、さっさとこいつを射なさい!こいつが何者かはわからないけど、絶対にただの人間じゃないことはわかるわ。こいつは、そう……言うなれば、怨念だけで存在している思念体よ!」
「思念体……!?」
「多分このまま放っておいたらまずいことになるのは明らかでしょう。その前に仕留めておかないと……!」

ニーラムは容赦なく少女に氷柱をぶつけようとするが、それらは悉く少女の前で壊れていく。立ち上る瘴気には耐えられないようだった。それだけ瘴気の力が強大ということが目に見えてわかる。

「こ、この女の子誰……!?知り合い……!?」
「……少なくとも、私は初対面だが……。あいつも、知り合いという訳ではなさそうだな」
「じゃあなんで僕たちのことを襲うのさ!?ティヴェラがシャルヴァを統一した今、アーカムを憎んだって仕方ないのに……!」

エミリオは震えながらどさくさ紛れにリリアに抱きつこうとした……が、其処にいたのは同じ長い黒髪でも、エミリオの求める柔らかさが皆無のイオニスだった。エミリオがすっと流れるような動作で彼を避けたのは見事である。変なところで瞬発力が良い。
閑話休題。イオニスの言う通り、エルトはこの少女のことなど一切知らなかった。言ってしまえば顔だって見たことがないし、心当たりも思い付かない。此処までアーカムを憎んでも、滅んでしまった今となっては後の祭りだろう。アーカム王国が存在していた頃の人物なのだろうか。見た目を鑑みればそうであっても可笑しくはなさそうだが、それでもエルトと同世代くらいにしか見えない。事を起こすにはやや遅すぎる。

(……とにかく、あの少女はただ者ではない。きっとまともな生者ですらないのだろう。ならば早いところ御さなければ……)

少女に狙いを定めて、エルトは矢を射る。しかし五大を纏わせているはずのエルトの矢も全て瘴気の中に吸い込まれていった。それでも射続けなければと、エルトは矢をつがえるのをやめない。あの少女が何者かも知らぬまま、ただ此方に敵意を向け続ける限り━━━━。


ぱん、と。


乾いた音がその場で弾けた。今までエルトの放つ矢を吸い込み続けてきた少女の瘴気が、一部だけだが型で抜き取られたような穴を生じさせる。少女の瞳が、ぎょろりとエルトから外れる。

「━━━━き、効いた……?」

不安げな声だった。本当に自信がないような、偶然当たってしまったかのような、少し驚きを含んだ声。その声を、エルトは知っている。恐らく、此処にいる者の誰もが聞いたことのある声である。特にイオニスは、直ぐ様声のした方向へと振り向いていた。

(……ナラカ、か)

ぱちぱちと瞬きをしながら、此方を見つめる少女。それはたしかにナラカであった。いつも嫌なところで遭遇する、とエルトは思う。ナラカとは事あるごとに対立しているような関係である。此処で弱味を握られでもしたら堪ったものではない。
ナラカの傍には、いつぞやの隠密の少女である紫蘭やアリック、スメルト、そしてノルドの姿があった。ノルドはエルトを見つけると、「おっ」と手を振って駆け寄ってきた。

「エルト!良かった、もう会えないかと思ったぜ」
「ノルディウス殿こそ。……しかし、何故ナラカと行動を共にしているのです?あなたはエステリアとかいう羅刹と一戦交えていたはずだったのでは……」
「ああ、そうだったんだけどよ。ちょっくら事情が変わって、ナラカたちと合流したんだ。利害は一致してたし、今の王宮の状況でいちいち文句は言ってられないからな。まあ、お互いに助け合ったって悪くはないだろ?」

ノルドの口振りには、本当に悪気がなさそうだった。エルトは訝しげな表情こそしたものの、特にそれ以上突っ込むことはなく「……そうですか」とうなずいた。たしかに、ノルドの言うことにも一理あったからだ。

「とにかく、今はあいつを何とかして止めなきゃならないのよ!あんたたちの武器、あいつに効くみたいだし……ぼさっとしてないでさっさと応戦しなさい!」
「……あなたがどのような立場の方なのかは存じ上げませんが……まあ良いでしょう。手を貸します」

お前に命令される筋合いはない、とアリックは言いたげだったが、此処で揉めているのも無粋だと考えたのか、おとなしくニーラムの指示に従った。この様子だと、少女の知り合いという訳ではなさそうだ。

「う……うう……」

一方で、瘴気の一部を破壊された少女はというと、苦しげに呻きながらある一点だけを捉えていた。その瞳には、憎悪の炎が燃え上がる。

「お前……お前が、お前が……!死ぬる覚悟の足りない意気地無しの分際で……よくも、よくもあの人の前に……!」
「な……っ!?」

少女の憎悪はナラカに向かった。アーカム王国を憎んでいるとも取れる発言をしていた少女だが、狙ったのはアーカムには何の関係もないナラカである。ずっ、と瘴気が波となり、ナラカ目掛けて襲った。

「ナラカ殿!」
「!」

咄嗟にアリックが少女に銃口を向け、躊躇うことなく発砲する。━━━━だが、瘴気を撃ち砕かれようと、我が身が撃たれそうになろうと、少女の殺意は変わらずナラカに向いていた。アリックからの援護射撃には構わず、少女は片目から血涙を流しながらナラカを睨み付ける。

「お前さえ、お前さえいなければ、あの人だって……!お前があの人を苦しめているんだ!お前さえいなければ、今世でもあの人は役目を全う出来たはずなのに……!」
「待ってください、あなたは……!」
「死を恐れる臆病者め、お前にあの人は救えない!お前などに、救われて堪るものか……!」

ナラカに心当たりはないようだが、少女はもとより聞く耳を持たない。激しい憎悪をナラカに向けながら、彼女を攻撃せんと迫る。ナラカも短筒で応戦しようとしたが、少女の勢いには間に合わない。

(嗚呼、あれは恐らく死ぬな)

少女のナラカに対する態度を見た瞬間に、エルトはそう予感した。今、少女の殺意はナラカだけに向かっている。つまり、先程まで狙われていたエルトのことなど気にしていないのだ。この少女が何者かはわからないが、少なくともあのような瘴気を撒き散らす存在といつまでも戦っていたくはない。エルトはすぐにでも、反乱軍の者たちを撤退させようと口を開きかけた。

「全て……全て、滅ぼさなければ。アーカムも、邪魔者も、全て」

だが、少女の視界から外れてはいても、殺害する対象からエルトが外れたという訳ではなかった。むしろ少女はいっしょくたに殺害しようとしていたのだ。空間が歪み、凄まじい瘴気が生じる。それらはこの場全てを埋め尽くしても可笑しくはなさそうだった。

「ちょ、あいつ、あたしたちまで道連れにするつもり……!?」
「何か対応策はないのですか!?」
「……駄目だな。あれは下手すればこの階全てを覆いかねない。今から逃げても手遅れだろう」
「た、隊長〜っ!諦めないでくださいよぉ〜〜!!」

ニーラムは瞠目し、アリックはそんな彼女に詰め寄り、イオニスは諦観し、オルガノスはイオニスにすがり付いた。何も言わないスメルトはナラカを守ろうと彼女の前に立ち、リリアは額に汗を浮かべながら結界を強め、スピロスは息を飲み、ノルドは槍を構え、エミリオは涙目で震え、紫蘭は歯噛みし、そしてナラカはぎゅっと目を瞑った。誰もが、最早これまでかと心の底で少しでも思っていたことだろう。
少女の瘴気は大きくなるだけ大きくなると、そのまま勢い良く一行へと雪崩れ込んだ。それはこの世界━━━━否、何もかもを飲み込むという滅びの洪水によく似ていた。

25日前 No.368

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24日前 No.369

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

「エルトっ!」

手を伸ばしたが遅かった。ノルドたちが頭領と仰ぐアーカム王家の生き残りは、あっという間に少女の瘴気の中に引きずり込まれていった。ずるり、と瘴気は膨張し、天井にまで届きそうなくらいの大きさに成長している。

「……で、殿下が……」

ずるずると、リリアはその場にへたれこんだ。無理もないだろう。彼女はアーカムの王子であるエルトに、誰よりも期待を抱いていたのだから。
ノルドも呆然としてその場に立ち尽くすことしか出来なかった。もう少し、もう少しだけ早く対応出来ていたら。そうすれば、エルトを助けられたはずだ。━━━━否、ナラカも助けられたはずなのだ。

「……シュルティラ。どうして、そのように悲しい顔をするの?」

一方、ナラカとエルトを取り込んだ少女はというと、ノルドやリリア━━━━果てにはサヴィヤ以外の人間が見えていないようだった。ただサヴィヤだけを見つめて、蕩けるような微笑みを浮かべている。それは、恋する乙女の表情にふさわしい。

「ねぇ、シュルティラ。私はあなたのこと、ずっとずっと待っていたんだよ。あの忌々しい曼荼羅の中で、ずっと……。シュルティラ、私ならあなたを……いえ、私だけがあなたのことを理解して、助けてあげられる。だから……ね、シュルティラ。いっしょにアーカムを、あなたに仇なす者を全て全て滅ぼしましょう?」
「…………」

サヴィヤは何も答えない。だが、それは無視しているという訳ではなく、少女をひたすらに凝視していた。その空色の瞳に、痛い程真っ直ぐな悲哀を込めながら。

「……シュルティラ、あなたは優しすぎるのだと思う。だって、私はあなたに救われたから。一度だけじゃない、何度も何度も……それこそ、人生を変えられるくらいにはね。だから、迷う気持ちはわかるよ」
「…………」
「でも、思い出してみてよ。シュルティラ、あなたは幾度となくアーカムによって殺されてきた。思い出すのも辛いでしょう?今が絶好の機会なんだよ、シュルティラ。今、私に力を貸してくれたなら、あなたはアーカムの残党に報復出来る……。それって、とても素晴らしいことだと思わない?」

少女は両手を広げて、さも愉快そうに微笑む。其処に、純粋な歓喜以外の感情は見受けられなかった。だからこそ、見ている側としてはおぞましかったのだ。この少女は、人間を二人も己の瘴気の中に取り込んでいながら、普通に笑うことが出来ている。はっきり言って、彼女に普遍的な倫理観は備わっていないように見えた。

「……すまない」

だが、そんな少女に向かって、サヴィヤは首を横に振った。少女はきょとん、とした顔をしながら、人間ではまずあり得ない角度で首をかしげた。

「……どうして、シュルティラ?あなた、アーカムが……いいえ、人間が憎くはないの?あなたはかつて、数多の人間に裏切られたじゃない。数多の人間に謀られたじゃない。我慢なんてしなくて良いんだよ、シュルティラ。あなたの憎悪は、私が全部受け入れてあげるよ?そのために私は此処に顕現したんだもの、遠慮なんてしないで」
「……いや。お前の誘いには乗れん」

ふるふる、とサヴィヤは再び首を横に振る。それは、やんわりとした拒絶の現れだった。
少女の瞳が見開かれる。わなわなと、唇が震える。彼女は明らかに動揺していた。

「……なんで?なんで、そんな……」
「……すまんな。俺は“今のところ”人間……すなわち、サヴィヤと言えるだろう。お前の求めるシュルティラではない。俺がシュルティラでない限り、お前の望みは俺に向けられたものとは言えない」
「っ、な━━━━」

愕然とする少女を余所に、サヴィヤはくるりと背後の一同に振り返った。そして、安堵からだろうか。ふっと口元を弛める。

「……あの子は逃がしてくれたか。感謝する」
「……そりゃあな。見るからに危なそうな案件にあのビビりを突っ込ませる訳にはいかねぇ。……それに、相手が女の子じゃあ悲しみそうだからな」

ノルドたちの輪からは何人かがいなくなっていた。イオニスとその部下二人、そしてエミリオの姿が見えない。ノルドとサヴィヤの会話の内容からして、エミリオの護衛のためにイオニスたちも付いていかせたようだ。たしかに、五大の恩恵や五大を破壊する術を持たない彼らにこの少女の相手は難しそうである。賢明な判断と言えるだろう。

「……で、サヴィヤ、だったっけ。あの子、あんたの知り合いなんでしょ?一体何者なの?」
「ああ、そうだな。あの子は……っ!?」

不機嫌そうな表情を隠しもせずにに問いかけてきたニーラムに対してサヴィヤは答えようとして━━━━ひゅ、と息を飲んだ。その驚愕は、決してサヴィヤ一人だけのものではない。

「……シュルティラ。あなたはきっと、騙されているんだよね?そんな人間の体に生まれてしまったから、わからなくなっているだけなんだよね?……だったら、私は、私は━━━━あなたの人間性を、奪ってあげる」
「な、あれは、ルードゥスの……!?」
「……っ、よせ……!」

少女が懐から取り出したのは、先程アリックが息の根を止めたはずのルードゥス━━━━の遺骸だった。サヴィヤは何か察したのか、慌てて少女を止めようとしたが、それよりも前に彼女は動いていた。

少女は、躊躇いなくルードゥスの遺骸を口に放り込んだ。

きっと、此処にいる誰もがぞわりとした肌寒さを覚えたことであろう。何も加工のされていない、ましてや食用とは言えない遺骸を食べるなんて、明らかに常軌を逸している。
だが、少女は笑っていた。口角をつり上げながら、愛憎の入り交じった瞳でサヴィヤだけを見据えて、少女は高らかに笑い声を上げた。

「嗚呼、シュルティラ、シュルティラ、シュルティラ!あなたのためならば、私は何にだってなるし何だってする!私の愛しき人よ!この世界全ての生き物を敵に回しても、私だけはあなたの味方でいる!あなたが私を拒否しても、その気持ちは変わらない!」

少女の背後にある瘴気は膨張を続け、やがて少女自身をも飲み込んだ。そして、もやもやとしていたそれは、あるひとつの形を取る。

「あ……あれは……」
「まさか彼奴……ルードゥスの遺骸から、残った五大を取り入れたのか……!?」

一同がざわめくのも無理はなかった。少女すらをも取り込んだ瘴気は、禍々しい空気を振り撒きながらず、と蠢く。その形は、皆がよく知っているだろう動物のものに似ていたが、大きさは実物に比べれば何倍……いや、何十倍にもなりそうな規模だったのだ。

「……サヴィヤ。ひとつ聞かせてくれ。あの子は一体、何者なんだ?」

育ちきってしまった瘴気を見上げながら、ノルドはサヴィヤにそう問いかける。サヴィヤは哀しげにその青い目を伏せながら、ノルドに向けて答える。

「……彼女は、もとは人間の血を引いていた。きっと俺に関わらなければ、このようなことにはならなかったはずだ。……だから、彼女に関する全ての責任は、俺が負わなくてはならない」

そして、サヴィヤは肥大した少女の瘴気に目線を移した。それは、ルードゥスの遺骸を取り込んだからであろうか。巨体であり、そして幾つもの頭部を持つ蛇の姿へと変貌していた。


「彼女の名はニラヤ━━━━梵語において、地獄を意味する語を名に冠した、ただの少女だ」


自分の名前を呼ばれたからか、そうでないのかはわからない。だが、サヴィヤの声を聞いた多等の大蛇━━━━すなわちニラヤは、一同に向けて凄絶なまでの雰囲気を放ちながら咆哮した。

23日前 No.370

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22日前 No.371

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

不安はあったが、シュルティラの義父と義母はニラヤが共に暮らすことを二つ返事で許してくれた。きっと良い人なのだろう、とニラヤは推測した。ニラヤが邪険にされるようなことはなかったし、むしろ待遇は以前よりも良かった。外に出ることを禁じられはしなかったし、家事の手伝いをすることになっていたがまずシュルティラの義母は手解きからしてくれたので、苦であるとは思わなかった。それに何よりも、シュルティラも含めて彼らは優しかった。これ以上に嬉しいことはない。

━━━━何か、辛いことがあったら言って欲しい。俺で良ければ力になろう。

シュルティラは度々、ニラヤにそう言ってくれた。彼女が慣れない生活で苦労してはいないかと、シュルティラなりに気遣ってくれていたのだろう。それがわからない程ニラヤも鈍感ではなかった。

━━━━大丈夫。旦那様も奥様もお優しいし、それに何よりも、あなたがいてくれるから。それだけで十分だよ。
━━━━……?俺が……?
━━━━う、ううん、何でもない。とにかく、今の生活は楽しいよ。前なんかとは大違いだもの。だから心配しないで。

シュルティラは他人の長所をすぐに見つけられるくらいの観察眼を有していたが、自己評価に関してはなかなかに低かった。自分を卑下するということはあまりないものの、褒められるときょとんとしてしまうのだ。それをニラヤがシュルティラの義母に話すと、きっと捨て子であることを心の何処かで気にしているのだろうと口にしていた。シュルティラは時に、近所の同世代の若者から捨て子であることを揶揄されているようだ。それゆえであろうか、自分に対して肯定的な感情を向けられると驚いてしまうらしかった。当然、ニラヤの恋心もニラヤ本人がわかる程には気付かれていない。
なんとなくすっきりはしなかったが、それでもニラヤはシュルティラが好きなことに変わりはなかった。そんなところさえいとおしいと思った。シュルティラは無表情なことが多いので誤解されやすいが、本来ならば冷血漢とは程遠い場所にいる人物なのである。そうでなければニラヤだって今此処にはいなかっただろう。それだけシュルティラは心優しく、慈悲深い人間だった。
そんなシュルティラは、義父の仕事を手伝っていたが、時たまに仕事が終わってからふらりと外出することがあった。特に夜遊びするという訳でもなく、半時から一時もすれば帰ってきたので、義父も義母も特に気にしてはいない様子だった。

━━━━何をしているんだろう。

だが、ニラヤとしてはそうもいかない。シュルティラが外出して何をしているのか、気になって仕方がなかった。だが本人に聞くのは何だか気まずいというか、聞きにくい。そのため、ニラヤはある日思いきって義母に尋ねてみた。

━━━━あの……××××って、時々外出するじゃないですか。何処で、何をしているんでしょう。
━━━━あら、知らなかったの?……まあ、とりあえず付いて行ってみなさいな。まだ遠くへは行っていないはずよ。多分、今日も川の畔にいるんじゃないかしら。
━━━━……川の畔……?

どうしてシュルティラがそんなところに向かうのか、ニラヤにはわからなかった。魚でも釣りに行っているのだろうか。そんな疑問を抱えて首を傾げても、義母はにこにこ微笑むだけだった。
こうなっては実際に行ってみるしかない。ニラヤはシュルティラに気づかれないようにと抜き足差し足で家を出た。
この地域にはそこそこ大きい川が流れている。支流は別にあるが、この近所の人物はそちらに行くよりも近場にある川の方を訪れることの方が多い。古代において、川とは重要な役割を担っている。魚などの食料の確保の他にも、生活用水の補給や沐浴に用いることもある。川は人々の生活に必要不可欠な存在であった。

━━━━……あ……!

さて、シュルティラを追って川辺へとやって来たニラヤは、そう時間をかけることなくその姿を見つけることが出来た。肌の白いシュルティラは暗闇でもうっすらと光って見える……ような気がする。詰まるところ、見つけやすかったのだ。
シュルティラは誰もいない川辺で、何やら作業をしているようだった。黙々と下を向いて手を動かしている。ニラヤは目を凝らして、彼が何をしているのか確かめようとする。

━━━━……あれは、竹……?

シュルティラが手にしていたのは竹らしきものであった。ニラヤはもっとよく見てみようとシュルティラに近づく。……と、いきなりシュルティラの顔がニラヤの方を向いた。ニラヤの心臓は口から飛び出しそうなくらいに跳ね上がる。

━━━━……ニラヤ?何故此処に……。
━━━━よ、よくあなたが行き先も言わずに出ていくから、気になって……。じゃ、邪魔するつもりとかは、ないから……。

なんとなく気まずくなって、ニラヤはしどろもどろにいきさつを告げる。シュルティラは何度かぱちぱち瞬きしてから、そうか、と納得した様子を見せた。

━━━━……弓を作っているんだ。弓と言っても粗末なものだが……。
━━━━弓……?
━━━━ああ。まだ弦は張っていないがな。見るか?

そう言ってから、シュルティラは手にしているものをニラヤに見せてくれた。たしかに手作りのため、職人が作ったものと比べれば些か素朴である。だが、弓として使うには差し支えがなさそうな出来であった。ニラヤは武器を用いたことがないが、シュルティラが丹精込めて作ったことは素人目にもわかった。それだけ熱心に作ってきたのだろう。壊してしまわないようにと気を付けながら、ニラヤはシュルティラに弓を返した。

━━━━す……すごいね。弓を手作りするだなんて……。頑張れば職人になれるかもしれないよ。
━━━━俺は武人の子ではないからな。武術をやりたくても、武器は自給自足しなければならない。そういった身として、お前の言葉は嬉しいものだ。ありがとう。
━━━━……あなた、武術がやりたいの?

照れる素振りを見せず、さらりと感謝の言葉を告げるシュルティラに逆に照れ臭くなりながらニラヤは問いかけた。見てみれば、シュルティラの周りには木の枝を削って作った剣や竹で作った槍のようなものが置いてある。これらも彼が自作したものなのだろう。

━━━━……そうだな。武術がやりたい。出来ることなら、武人たちと同じように覇を競いたいと思っている。体を動かすのはもともと好きだし、色々な武術を嗜んでみるのも楽しそうだ。
━━━━へぇ、それじゃあ誰かに師事してみたら良いんじゃない?あなたは働き者だし、頑張ってるなら力量を認めてくれる人だって、きっと……。

きっといるはずだよ、とニラヤは口にしようとした。だが、その言葉は喉の奥に引っ込んでしまう。シュルティラが、彼らしくもなくあまりに悲しげな顔をしていたからだ。

━━━━……やりたくても、出来ないんだ。俺は平民だから、武術をすることは認められない。
━━━━そんな、武術に身分なんて……。
━━━━関係あるんだ。人にはそれぞれ、すべきことがある。平民は武術を主として生きる訳ではない。だから……。

シュルティラの目には諦めのような色が浮かんでいた。武術をやりたいと思っているが、何処かでそれは無理だとわかっている。そんな、悔しささえ滲む目であった。

━━━━……そんなの、わからないよ。

実際に、ニラヤは悔しかった。気づけば、ぐっと拳を握り締めていた。身分などというものに望みを壊されるなんて耐えられない。ましてや想い人のことなら尚更だ。ニラヤは決して強気な性格ではないが、この時ばかりは声を上げずにいられなかった。

━━━━始める前から諦めちゃ駄目だよ。私、武術なんてやったことないし、あなたみたいに徳のある人間でもないし、こんなこと言うのは生意気かもしれないけど……。でも、あなたが夢を諦めるのは可笑しいと思う。それも、身分なんて理由で阻まれるのは理不尽極まりないよ。
━━━━ニラヤ……。
━━━━本当に武術がやりたいなら、そういった障害なんて気にしてられないと思うよ。努力が報われるとは限らないけど……。でも、やらないよりはずっとずっとまし。まずはやってみなくちゃ。話はそれからだよ。

一息に話したからか、ニラヤの息は上がっていた。それでも、言わない訳にはいかなかった。シュルティラは少しの間ぽかんとしていたが、やがてふっと口元を綻ばせた。

━━━━……ありがとう、ニラヤ。そうだな、やる前から諦めるのは、たしかに可笑しい。
━━━━……!××××……!
━━━━上手くいくかは、わからないが……。それでも、やれるだけのことはやっていこうと思う。
━━━━うん、うん……!きっと、きっとあなたなら出来るよ!あなたはきっと、良い武人になる!

星空の下、二人は手を取り合って笑い合った。ニラヤにとって、何よりも楽しく、嬉しく、そして幸せな一時であった。この後、自分の軽はずみな言動を後悔するとも、どのような運命が待ち受けているとも知らずに、ニラヤは想い人が夢を叶えると愚直に信じきっていた。

21日前 No.372

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

この一件の後、シュルティラはより一層果敢に武術の鍛練に打ち込むようになった。昼間は義父の手伝いを行い、夜間は川辺で鍛練する。ニラヤもシュルティラのために出来ることはしようと思ったし、度々彼のために差し入れを作った。ニラヤの作ったものを、シュルティラはいつも美味い、と言ってその細い体に似合わないくらいにぺろりと平らげてくれた。ニラヤにはそれが何よりも嬉しくて堪らなかった。
そんなある日のこと、いつもあまり表情の変わらないシュルティラが、珍しくニラヤにもわかる程度にるんるんして帰ってきた。これを放っておくニラヤでもなく、諸々一段落した際に彼へと問いかけてみた。

━━━━何だか嬉しそうだね。どうしたの?
━━━━ああ、聞いてくれ。近いうちに、隣国の王女が結婚するらしい。何でもその婿を選ぶために、武術を競う儀を執り行うそうなんだ。
━━━━えっ、それって……。

シュルティラが喜ぶ理由は、ニラヤにもすぐにわかった。恐らく隣国の王女の婿には、武術に優れた者を迎え入れるつもりでいるのだろう。それに参加して、もしも婿に相応しいと見なされたのなら、シュルティラは好きに武術が出来るようになるだけではなく、王族の一人として並び立つことが出来るのだ。これはまたとない好機であった。
だが、シュルティラに恋慕の情を抱いているニラヤとしては、複雑な思いを抱かずにはいられなかった。もしもシュルティラが選ばれたのなら、彼は王族の一員になってしまう。彼の妻になりたいだなんて烏滸がましいとニラヤは思っているが、もう二度と同じ人間として隣に立てなくなるのは素直に辛い。出来ることなら、シュルティラと離れたくなかった。我が儘を言っているということは自覚していたが、これだけはどうしても抑え込めるものではない。

━━━━勿論、武術をしたいというのが一番の理由なのだがな。出来ることならば、義父と義母に恩返しがしたいんだ。これまで大事に育ててくれた二人に、どんなものでも良いから礼をしたい。王族に加わることを望んでいる訳ではないが、孝行が出来るのならそれほど嬉しいことはない。

シュルティラは嘘を吐かない。というか、ニラヤは彼が嘘を吐いたり、誤魔化したりしているところを一度も見たことがないのだ。それは彼の義父と義母も同様にだった。一度聞いてみたことがあるが、二人とも首を横に振っていた。
それゆえに、ニラヤはシュルティラの気持ちを疑わなかった。彼の表情はいつもにまして生き生きとしていて、疑うことすら申し訳ない気持ちになりそうなくらいだった。
シュルティラの武術に対する姿勢は、ニラヤから見ても真摯そのものである。彼はこれまでにも何度か人前で武術を披露する機会に巡り合ったが、大抵身分や出自を理由に嘲笑われて追い出されることが多かった。しかし、それでもシュルティラは怒ることも悔しがることもなく、次の日にはまた素振りに励んでいる。そんな彼の様子をいつも見ていたから、ニラヤはシュルティラを応援せずにはいられなかった。

━━━━……私に、何か出来ることはないだろうか。

その日の晩、ニラヤはいつもシュルティラが自稽古をしている川辺へとやって来ていた。しかしシュルティラはいない。たった一人である。なんとなく眠れなくて、夜の散歩に繰り出したのだ。この時代、夜歩きが安全と言える訳ではなかったが、家からもそう遠くないのでニラヤは気にしなかった。あるとしても、悪戯な精霊に靴を盗まれるくらいのものだろう、と。近所に住む美人で評判の人物は沐浴中に置いておいた服を盗まれたことがあると言うが、ニラヤは自分がそうなるとは夢にも思っていなかった。むしろシュルティラの方があり得そうな話である。

━━━━……嗚呼、月が綺麗だ。

川面に映る、銀色がかった月は今日も美しかった。そういえば今夜は満月か、とニラヤは目を細める。昼間の太陽も嫌いではないが、涼しさがある分夜の方が幾分か心地よい。揺らめく水面から視線を移して、ニラヤは頭上の月を見上げる。


━━━━ニラヤ。聞こえるか、我が娘よ。
━━━━〜〜〜〜!!??


……が、風流な気分を味わう間もなく、ニラヤの頭の中に直接声が響いた。ニラヤは慌てて周りを見渡したが、彼女の周囲には人っ子一人見受けられない。

━━━━そう慌てるな。私はお前に害を為す存在ではない。
━━━━あっ、慌てるとか、そういうことの前に……!あなたは誰なんですか……!?
━━━━私か?私はお前の父だ。
━━━━ち、父ぃ!?

脳裏に響く声は至極冷静沈着であった。だがニラヤとしては落ち着いていられない。何とか記憶を掘り起こして、捨てられる前のことを思い出してみる。たしか、ニラヤを育ててくれた侍女には夫がいたはずだ。

━━━━……いや、あの。無礼を承知で申し上げます。私の父は、あなたのお声とは全く違う声をしています。それに、一人称も私ではなかったはずです。
━━━━うむ、まあそれも当たり前のことである。あの男は……否、あの侍女はお前の母ではなく、それどころか全く血の繋がっていない他人なのだからな。
━━━━な、何ですって!?

最早混乱するしかない。ニラヤは汗をかきながら、何処を向いて良いのかわからないのでとりあえず頭上を見ながら叫ぶ。少なくとも、今の話はこのように突然暴露するものではないだろうとニラヤは思う。しかもシュルティラの一件で物思いに沈んでいる時に告白されるとなると驚愕を通り越して頭も痛くなってくる。もしかしたら気まぐれな神の悪戯なのかとさえ思えてきた。
そんなニラヤのことが見えているのかいないのか。ニラヤからはさっぱりわからないが、声は相変わらずの調子で続けた。

━━━━驚くのも無理はなかろうな。何と言っても、お前は生まれてきたその時から疎まれ、存在を消されたようなものだ。実の母と親子として顔を合わせたことは一度もあるまい。
━━━━で……では、私には、別に母がいるんですね?その母とは、どのような人間でいらっしゃるのでしょうか。そして、あなたは一体何者にございますか?
━━━━どのような、か。ふむ、説明するのはちと面倒だな。だが、他でもない娘の頼みだ。断る理由は何処にも在りはせぬよ。

とにもかくにも、聞かない訳にはいかない。このままうやむやにしたら、きっとニラヤはシュルティラどころではなくなってしまうだろう。それはどうしても避けたかった。出来ることなら、ひとつのことにだけ集中したい。

━━━━まずはそうさな……。お前は生まれ故郷を覚えているな?
━━━━……はい。それなりに大きな王国だったと思いますが……。

声はゆったりとした調子で話し始めた。ニラヤもシュルティラと暮らし始めたのは10歳からなので、その前の記憶がない訳ではない。だからと言って、積極的に思い出したいという訳でもないのだが。
ニラヤの反応の後、声はふむ、と少し考えるような口振りになった。そして、数秒から十数秒にかけて沈黙し、やがて沈黙に意味があるのかわからないくらいにさらりと話を再開する。


━━━━ニラヤ、お前はその国の王女と私……この国の月神との間に生まれた子だ。
━━━━はぁ、なるほど…………はぁ!!??


不敬だとか、そのような細かいことは今更考えられなかった。ニラヤとて神への畏敬を欠いている訳ではないが、この時ばかりは話が違う。色々と衝撃的すぎる告白に、彼女は声を荒げざるを得なかった。

━━━━な、な……何故、そのような……!
━━━━ご冗談を、と。そう、お前は言いたいのだな。たしかに信じられぬ話かとは思う。だが、ニラヤよ。お前は間違いなく私の娘だ。信じられなくとも、まずは川面を見てみるが良かろう。お前が私の娘であるならば、右目が私と同じように、銀色の輝きを放っていることだろう。
━━━━そ、そんなまさか……。

そんなことはないだろう。ニラヤは脳裏に響く月神の言葉を信じはしていなかった。少なくとも、視線を下にずらすまでは。

ニラヤの右目は、たしかに月と同じ銀色に変色していた。

見間違いかと思った。何度も何度も目を擦ってみた。だが、目の前の光景は変わらない。ニラヤのそれは、普通の人間であれば持たないであろう色合いの瞳である。彼女は呆然としているしか出来なかった。これは何かの冗談だ。そう信じたかった。

━━━━それはお前が私の子であることの印のようなものだ。その瞳があったが故に、私はお前をこうして見つけることが出来た。神と言えども数ある民の中から一人だけを見つけることは難しい。こうして会えたことは幸運と言って他ならないだろう。
━━━━では、この瞳は……。
━━━━案ずるな。それは満月の夜にしか光らぬ。……して、話は変わるがな、ニラヤ。お前は何か、欲しいものはないか?せっかくこうして会えたのだ。自分勝手なことは承知だが、私も父親らしいことをしたい。人間との間に子を儲けたのは初めてだからな。お前のために、何かしてやりたいのだ。

月神の声は多少うきうきしているように聞こえた。神でも子供を気にすることがあるのか、とニラヤは少し驚く。本当に頼んで良いのだろうか。しかし、これを断るのは些か礼に欠ける。ニラヤは暫し悩んでから、思いきって口を開いた。

━━━━……では、ひとつ。ひとつだけ、欲しいものがございます。私は市井に捨てられていたところをこの家の者に助けられ、今まで世話になってきました。その者が、近いうちに武術を披露する儀に参加するというのです。しかし、この家は武人の家系ではありません。ですから良い武器を買うことも出来ないのです。もし、もしよろしければ、私の恩人のために武器をくださいませんか。
━━━━ほう。武器、とな。
━━━━はい。何でも構いません。私の恩人は何だって使いこなしてみせます。剣も槍も弓も得意です。
━━━━……ニラヤよ。気持ちはわからんでもないが、その者は戦に出るのではなかろう?ならば武器はやめておくのが良い。我等神の造った兵器は人の世を壊すことなど容易い。相当な使い手であれば尚更のことだ。最悪、お前の恩人は破壊者だ、鬼だと後ろ指を差されてしまうかもしれない。

ぐっ、とニラヤは言葉に詰まった。たしかに、神の造った武器となるとどれほどの威力を有しているのか見当もつかない。その気になれば、この世界を滅ぼすことだって不可能ではないだろう。そんなことをシュルティラにさせたくはない。

━━━━……では、私たちに運をくださることは可能ですか?
━━━━運?
━━━━はい。無事に目的地までたどり着き、儀に参加出来る運を。何も、勝たせよとは望みません。私の恩人が、無事に儀礼に参加出来れば、それで十分なのです。

武器がいけないのならば、道中の無事をとニラヤは考えた。このご時世、何処で何が起こるかわからない。シュルティラであっても、敵わない相手に出会うことがあるかもしれない。それならせめて、儀に出ることが出来るようにと願うことにした。それならば世界が滅ぶことも、誰かが無駄に死ぬこともない。
これには月神もほう、と先程よりも興味深そうな色を声に含ませた。

━━━━なるほどな。よく考えたものだ。ではそれをお前の望みとしよう。
━━━━あ……ありがとうございます。私などの望みを……。
━━━━良い、良い。私にとって、お前はかけがえのない娘だ。その娘の健気な望みを叶えるのは当然のこと。そうへりくだるものではないぞ。
━━━━そう、ですか。
━━━━そうだとも。私は神故、こうしてお前と話せる機会はそう多くない。だが、何か困ったことがあれば夜空を見上げてみなさい。もしかしたら、お前の力になれるやもしれぬ故な。

それっきり、月神の声はぷつりと聞こえなくなってしまった。現実味はほとんどないが、夢だとも思えない。試しにニラヤは自らの頬を引っ張ってみる。

━━━━……痛い。

引っ張った頬は痛かった。ニラヤはおもむろに立ち上がると、わかりやすく腑に落ちない、と言いたげな顔をしながら首をかしげながら家路を辿っていった。

※警告に同意して書きこまれました (性的な表現)
20日前 No.373

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てっきりシュルティラは一人で隣国に向かうものかと思われたが、彼は意外なことにニラヤの同行を望んだ。義父と義母も反対することはなく、二人で行ってきなさいと旅賃をくれた。何だか申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、ニラヤとしては嬉しくもある。シュルティラと共に、隣国の街まで旅をした。
シュルティラの腕っぷしが強いということもあったのだろうが、月神の加護が効いていたのだろう。旅の途中で障害に当たることは全くと言って良い程なかった。おかげで二人は無事に隣国までたどり着き、前日には宿屋でゆっくりと休むことが出来た。

━━━━特に何も起こらなかったのは幸運だったな。それに幸先が良い。

儀の当日、いつもより幾分か上機嫌な様子で、シュルティラは空を見上げた。それこそ天晴れと言って差し支えのない程の青空である。これだけ見事に晴れ渡っていると此方の気分も良くなってくるものだ。

━━━━いよいよだね。無理はしない程度で頑張ってね。怪我とかしたら嫌だよ。
━━━━わかっている。お前は相変わらず心配性だな。今回は戦う訳でもなく、ただ力試しをするだけなのだから、そう心配することはないというのに……。
━━━━万が一のことだってあるじゃない。用心しすぎるに越したことはないよ。

心配するニラヤに、シュルティラはふふ、と微笑んだ。その表情の美しさたるや、ニラヤの唇から紡がれるはずだった言葉をことごとく忘却させてしまう程度の威力である。ぷしゅう、と顔から湯気が出ても可笑しくなさそうなニラヤの頭を、追い討ちだとでも言わんばかりにシュルティラは優しく撫でた。

━━━━案ずるな、ニラヤ。お前は、俺が些末なことで倒れ伏す男に見えるか?
━━━━……み、み、見えないです、はい……。
━━━━……?そう畏まる必要はないが……。とにもかくにも、参加者と観客は此処で別れなくてはならないようだからな。お前も、危険に首を突っ込まずにいるんだぞ。

やんわりと無茶をせぬよう注意してから、シュルティラは会場に向かって歩いていった。ニラヤはまだ頬の火照りを冷ませないまま、シュルティラの後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

━━━━……上手くいったら、あの人は王族の婿になってしまうのか……。

改めて考えてみると、何だか虚無感に襲われそうになる。ニラヤにとって、シュルティラは唯一の人なのだ。彼よりも高いところに行けるような人間がいようか、いやいまい。眉間を押さえて、ニラヤは溜め息を吐く。どうしてシュルティラはあれほどまでに美しく、気高く、そして慈愛に満ちているのだろうかと、今更ながら考える。
シュルティラが結婚することを悪いとは思わない。彼は誰にでも分け隔てなくその慈愛を見せるし、困っている人間がいたらどのような人物であれその手を差し伸べるような男だ。そんな彼を好きになる者がいないのなら、それこそこの世界は腐りきっている。現に、ニラヤというお手本のような人間がいるのだ。恩義を通り越して、彼女はシュルティラに恋してしまった。たとえシュルティラがおぞましい姿をしていたとしても、あの体験をすれば今と同じように恋心を抱いていた自信がある。詰まるところ、ニラヤはシュルティラの人柄に惚れたのだ。

━━━━……まあ、あの人はこれまで報われないことばっかりだった。親に捨てられて、平民だからと好きなことも満足に出来ないで……。それなのに、あの人は恨み言ひとつ言わないで今日まで生きている。幸せにならない方が不条理ってものだ。

ましてや、ニラヤは自分がシュルティラに釣り合う存在だとは微塵も思ってはいなかった。あの高潔なシュルティラの隣に自分が立っている姿を想像したら、むしろ自分に対して腹が立ってくる。シュルティラのことは好きだが、隣に並び立つ自信はない。それだけシュルティラはニラヤにとって大きく、そして眩しいくらいに清い存在なのだ。
此処は素直にシュルティラを応援しよう。ニラヤは複雑な面持ちのまま腹を括った。最早うだうだ言ってはいられない。これはシュルティラにとって、一世一代の大勝負なのである。ニラヤの私情など入る余地はない。ニラヤは少し潤んでしまった目元を擦る。このままだと泣いてしまいそうだった。

━━━━……あ、あの!
━━━━……?

物思いに耽っていたニラヤに、横合いから突然声がかけられる。気を取り直して見てみると、其処にはニラヤより幾分か年下に見える少年が立っていた。くっきりとした目元やすっと通った鼻筋、そして何より引き締まった精悍な顔立ちは、いずれ彼が相当な美男子に成長することを物語っていた。長旅をしてきたのか、服はそれなりに草臥れている。だが、それすらも一種の風情に見えてしまう程、その少年の見目は良かった。シュルティラは人智を凌駕しそうなくらい神秘的な美男だが、この少年は人であるが故の美男である。

━━━━ど……どうかしたの?迷子?

そんな美少年に話しかけられるなんて思っていなかったニラヤは、やや戸惑いながら彼へと尋ねる。少年ははきはきとした声音でニラヤへと答える。

━━━━はい。恥ずかしながら、伴の者とはぐれてしまったのです。一人で行くのは危険かと思い、あなたさえよろしければ同行させていただけないかと思っているのですが……どうでしょうか?
━━━━え……別に、付いてくるのは構わないけれど……。でも、私はただの観客だよ?それにお金だってそんなに持っていないし……。
━━━━お金など関係ありません。同行していただけるだけで十分なのです。

少年の眼差しは、痛い程に真っ直ぐだった。断るのは無粋に思えたので、ニラヤは彼の頼みを受け入れることにした。この少年が何処の誰なのかはわからない。だが、此処で彼を置いていくのが最善の選択とは思えなかった。
少年は礼儀正しく、そして聡明であった。恐らくそれなりの教育を施されてきたのだろう。その立ち振舞いは、ニラヤからしてみても非の打ち所がなかった。仮にも王族の血を引いている━━━━ということになっているニラヤとしては、何だか恥ずかしくなってくる。

━━━━これは……かなり混雑していますね。油断したら人混みに押し潰されてしまいそうだ。

会場に入ると、少年の言う通り人の波に押し潰されてしまいそうなくらいの混雑ぶりだった。こういった場所に慣れていないニラヤはくらりとしてしまいそうになるが、何とか気力を振り絞って前を見据える。せっかくシュルティラが晴れ舞台に立つかもしれない機会なのだ。人混みごときに負けてなどいられない。
━━━━と思っていた矢先に、す、と少年の手がニラヤの手に触れる。硬く骨張ったそれは、まだ若いとは言え明らかに男性のものだった。

━━━━お手を。こうしていれば、はぐれることはないでしょう。
━━━━あ、う、うん。ありがとう。
━━━━いえ、女性に何かあってはなりませんから。これくらい当然のことですよ。

突然のことに戸惑うニラヤに、少年はにこりと微笑む。きっとニラヤがシュルティラと出会っていなかったら、この少年に一目惚れしていたことだろう。無自覚なのか意識してなのかはわからないが、末恐ろしい少年だとニラヤは思った。

━━━━きっと、こういう子が将来ちやほやされるんだろうなぁ……。

そういったものと無縁の生活を送ってきたニラヤからしてみれば、完全に他人事である。しかし今はぼんやり考えたって咎められることはないだろう。何せ、人混みが凄すぎて競技の様子などこれっぽっちも見えなかったのだから。

━━━━あの人の姿は見たいけど……。でも、無理して私が怪我でもしたらあの人との約束を破ることになっちゃうな。

シュルティラのことを応援したい気持ちは勿論のことだが大いにある。しかし、見えないものはどうやっても見えないことに変わりはないのだ。ニラヤは特別背が高い訳ではないし、飛び抜けて目が良い訳でもない。ついでに言えば、人混みを掻き分けて進んでいく勇気もない。詰まるところ、打つ手はほとんどないようなものである。目の前に見えるのはひたすらに人の背中だけだ。
溜め息を吐きたいのを必死で堪える。隣にいる少年は平然としているのに、年上の自分が気を落としていてはみっともないことこの上ない。少しは忍耐というものを学んでみなければ。そう思っていた矢先に、少年がくるりとニラヤの方を向いた。

━━━━あ、あの。
━━━━……?何?
━━━━あ、いえ……。その、不躾なことは承知しているのですが……。あなたは、この国のお生まれなのですか?
━━━━……あー……。

少年の質問は、ニラヤにとって答えづらいものであった。たしかに、訝しく思われても仕方のないことだと思う。ニラヤの目鼻立ちはこの国の人間らしいものではない。この国よりも西方に当たる国で生まれたニラヤは、此処の国の人々からしてみれば異国情緒溢れる顔立ちをしているのだろう。故に、ニラヤは少年を責めようとは思わなかった。

━━━━あ、えと……言いづらいのならば、無理にとは……。
━━━━ううん、良いよ。大丈夫。私、片親が西域の生まれだから、こっちでは珍しい見た目なのかもしれない。まあ、育ったのはこっちだから、生まれ故郷の方はあんまり記憶にないんだけどね。
━━━━そ……そうなのですか。

少年はあたふたとしていたが、ニラヤが気分を害したのではないと見るとほっとしたような表情を浮かべた。割りと人の感情の機微を気にする性分のようだ。そんなに周りの顔色を窺っていたら苦労するよ、とニラヤは言ってやりたかったが、余計なお世話になりそうなので黙っておいた。
自分の生まれ故郷に関しては、今となっては遠い過去の出来事、くらいにしか思わない。たしかにニラヤは故郷の記憶を有している。だが、其処に思い入れは特にないのだ。母親を恨むことも出来なくはなさそうだが、今の生活に慣れてしまっているので今更そのようなことは考えられない。全てはシュルティラのおかげだ。彼がいてくれたから、ニラヤは今の生活を楽しめている。

━━━━……でも、そのシュルティラも、もしかしたら遠いところに行ってしまうかもしれないんだよな……。

シュルティラに勝ち抜いて欲しいのは本心である。しかし、彼が離れてしまうのはやはり容易に耐えられるものではない。それを考えて、ニラヤは悶々とする。━━━━が、そんな憂鬱を吹き飛ばすような歓声があがったことによってニラヤの意識はそちらに持っていかれた。

━━━━な、何だ、あいつ!?あの装飾だらけの弓を引くどころか、的のど真ん中に当てやがった!
━━━━信じられない……!彼は何者だ……!?
━━━━きっと百年、いや、千年に一度の逸材に違いない!

わっと会場が興奮と熱気に包まれる。それもあってか、観客は前へ前へと進み、ニラヤもその流れに巻き込まれていつの間にか最前列までやって来ていた。

━━━━一体、誰が……。

これほど観客が湧くとは思わなかったので、ニラヤはどちらかというと興奮よりも驚愕と疲弊の方が大きかった。逸材と呼ばれるその人物は誰なのか。そう思い、目の前を見つめて━━━━ニラヤははっと息を飲んだ。

━━━━あ……あれは……!

観客の誰もが視線を向ける相手。ある者は驚きを隠さず、ある者は興奮冷めやらぬままに喝采を送り、ある者はその人物の美しさに夢見心地になっていた。ニラヤの疲労も遥か彼方へと吹き飛び、そして純粋な嬉しさが体を包み込む。


喝采の渦の中にいる男。それは間違いなく、後にシュルティラと呼ばれる男であった。

19日前 No.374

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ニラヤの心は跳ね躍るかのような歓喜に包まれていた。シュルティラだ。シュルティラが、観客の視線を一手に集め、そして喝采を浴びているのだ。これほどまでに喜ばしいことがあろうか、いやない。現にニラヤは嬉し泣きしてしまいそうだった。

━━━━おお、では其処の者、陛下と姫君に顔をお見せなさい。貴殿の武勇であれば、姫君もきっと満足なさることだろう。

大臣と思わしき初老の男が、シュルティラのもとへと駆け寄る。シュルティラはこういった扱いをされることに慣れていないのか、ややぎこちない仕草でうなずいてから彼に付いて王と王女のもとに歩いていった。喜びや誇らしさではなく、緊張した面持ちで歩むシュルティラは実に彼らしい。
嫉妬しているという訳ではないが、ニラヤは王女の方へと視線を映す。艶やかな黒髪を長く伸ばし、目鼻立ちのはっきりとした美少女であった。褐色の肌は健康的な印象を与え、すらりとした手足が眩しい。ニラヤなど並び立つのも恥ずかしく思えるくらいの器量である。たしかにこれだけ美しい娘であったのなら、並みの男に渡したくない父親……もとい、国王の気持ちもわからなくはない。だからこのような手の込んだ選定を行ったという訳だ。

━━━━……何にせよ、風格と美貌を兼ね備えていると見た。きっと、それはそれは素晴らしい姫君なのだろう。

じっ、とニラヤは王女を注視する。不敬と咎められたら困りものだが、その時はその時だ。ニラヤとしては、自分の想い人の嫁になるであろう人物を見定めずにはいられなかった。
王女の方も、シュルティラのことを穴が開きそうなくらいに凝視していた。これから自分の婿になるかもしれない男である。気になって当然だろう。す、と少し固さのある様子で跪いたシュルティラを見下ろしながら、王女の隣に座している王がシュルティラへと問う。

━━━━……表を上げよ、若き武人。此度は誠に良きものを見せてくれた。貴殿の武勇は誇るべきものだ。
━━━━……は。お褒めにあずかり、恐縮にございます。
━━━━そう畏まらずとも良い。では、貴殿の名と出身を伺いたい。

いつも表情があまり変わらない印象のあるシュルティラも、この時ばかりは身を強張らせているように見えた。ニラヤも、ごくりと生唾を飲んでその様子を見守る。

━━━━……私の名は、××××と。隣国の××国の市井にて……。

少し震えを含んだ声音で、シュルティラは問われた内容を答えようとして━━━━その言葉を途中で詰まらせた。それは、決してシュルティラの声が出なくなった訳ではない。きっと、ニラヤも同じような状況であれば、言葉を失ってしまうに違いなかった。

━━━━……今、何と。何と、おっしゃいましたか。

婚約する相手であるはずの王女。彼女は凄まじい形相で、シュルティラのことを睨み付けていた。お世辞にも機嫌が良いとは言えない表情である。形の良い眉根は潜められ、口元は嫌悪に歪みきっていた。
これはまずいとシュルティラも感じ取ったのだろう。慌てた様子で口を開く。

━━━━あ、いえ……。私は、たしかに市井で暮らしてはおりますが━━━━。
━━━━市井、市井ですって?そのような身分の者が、私の婿になれる、と。そうお考えでしたの?平民ごときが、王族の席に加われるとでも?
━━━━そ、それは……!
━━━━どのような武勇を誇ろうと、どのような能力を有していようと。……私は、平民なぞと婚礼を挙げたくはありません。わかったのならば疾く去りなさい。

王女の視線は冷えきっていた。シュルティラの顔がさっと青くなる。これまでシュルティラを賛美していた群衆たちは、互いに顔を見合わせた。そして、次の瞬間には、その口からは怒号と罵詈雑言のみが飛び出していた。

━━━━そうだ、出ていけ!
━━━━賤めが、場を弁えよ!
━━━━二度と姿を見せるな、野良犬め!
━━━━お前はその見た目で、春でも売っていれば良かろう!

会場に、もう祝福の気配はなかった。ただひたすらにシュルティラが罵倒され、誰も彼もが寄って集ってシュルティラを貶した。シュルティラは何も言わずに、言われるがままになって立ち尽くしていた。
何とかしなければ。ニラヤは辺りを見回した。何とかして、シュルティラを助けなければ。だが、シュルティラを助けようとする者は何処にもいなかった。皆がシュルティラを標的にして指を差していた。

━━━━どうしよう、どうしたら、シュルティラを助けられる……!?

ニラヤは必死に考えた。このようなことがあって堪るものか。この数多の群衆から、どうにかしてシュルティラを逃がしたい。そう思っていた最中━━━━ニラヤは、ついに“それ”を見てしまった。
つぅ、と。シュルティラの青く澄みきった瞳から、一筋の涙が流れたのだ。今まで何を言われても耐えて、誰を非難することもなく、我慢し続けていたシュルティラが、泣いたのである。あれだけ努力して、父母のためにとも働いて、それでも武術の鍛練を欠かさず、道行く人だけでなく動物たちにも優しかったあのシュルティラが、初めて人前で負の感情を見せたのだ。それが何を意味するか、わからない程ニラヤも愚かではない。
気が付けば、ニラヤの体はそれこそ放たれた矢のように飛び出していた。競技場を駆けて、駆けて駆けて駆けて、一直線に王女の方へと突き進んでいく。シュルティラが目を見開いていたが、今のニラヤにはあの憎らしき王女しか見えていない。

━━━━この阿魔め、恥を知れ━━━━っ!?

どう、と。ニラヤの腹部に形容するのも難しそうな、それほどの痛みが走った。嗚呼、蹴りつけられたのだとニラヤが理解する前に、彼女の体は地面に叩き付けられている。そして、間もなくしてニラヤの背中は思いきり踏みつけられた。ぐうっ、とニラヤの口からは苦悶の声が漏れる。

━━━━無礼者め、恥を知るのは貴様の方だ!
━━━━貴様もあの賤の仲間か、えぇ?この場で素っ首落としてくれようか!

ニラヤを蹴りつけたのであろう兵士と、踏みつけている兵士が見下ろしてくる。今にもニラヤのことを殺してしまいそうな勢いだった。げほっ、とニラヤは咳き込みながら、それでも二人のことを睨み付ける。……が、横っ面を蹴り飛ばされていつまでも睨んでいることは出来なかった。

━━━━……!

シュルティラが、シュルティラの瞳が、涙に濡れながらもつり上がる。滅多なことで怒ることのないシュルティラが、である。これは完全に逆鱗に触れたといっても差し支えはないであろう。
最早会場中がシュルティラとニラヤを敵視していた。このままシュルティラが武器を取るのが先か、兵士がニラヤを斬りつけるのが先か。まさに一触即発といった状況であった。


━━━━皆の者、静まれ!


ざあっ、と風が吹いたかのようだった。その一喝で会場は静まり返り、誰もがその唇を閉じざるを得なかった。
その声の主は、小走りでニラヤのもとへと駆け寄ってきた。ぼんやりとした視界の中に映ったのは、シュルティラと同年代に見える若者であった。いかにも武人らしい体つきと、シュルティラ程ではないが整った目鼻立ちをしている。彼はニラヤに意識があることを確認すると、そのまま彼女の手を握りながら問いかけてくる。

━━━━大丈夫か?立てるか?
━━━━……あ……ちょっと、難しそうで……。
━━━━そうか。ならば私に掴まりなさい。少し揺れるぞ。

そう言うや否や、若者はニラヤをひょいと抱き上げた。そしてシュルティラに何やら声をかけると、そのまま競技場を疾風のように走り抜けた。何もかもがあっという間の出来事で、ニラヤは目を回しているしか出来なかった。
若者が速度を緩めたのは、外に停めてある馬車までたどり着いてからだった。手早くニラヤとシュルティラを広い馬車に乗せると、若者は御者に合図をしてすぐに走らせる。そうこうしている間に、ニラヤの傍に召し使いらしき少年がやって来て、傷の手当てをし始めた。

━━━━あ、あの……これは……?

あまりにも突然のことに、ニラヤの頭は混乱していた。シュルティラも何が何だかわからないといった顔つきをしている。若者はごそごそと果物や水を出しながら、すまんな、とまずは謝罪を述べた。

━━━━無理矢理に連れてきてしまったことはすまないと思っている。だが、あのような状況を見てはいてもたってもいられなくてな。つい連れ出してしまった。許してくれ。
━━━━は、はあ……。
━━━━それよりも、怪我の方は大丈夫か?まったく、まだうら若き乙女に酷なことをするものだ……。痛むところがあれば、遠慮せずに言って欲しい。
━━━━いえ、大丈夫……だと思います。ありがとうございます。

たしかに負わされた傷は痛かったが、耐えられる程度なら最低でも骨は折れていないだろう。せいぜい鼻血が出たくらいだが、時間が経てば止まったのでそれほど重い怪我ではなさそうである。
一方シュルティラはというと、警戒心をまだ解いていないようで、じっと若者のことを見据えていた。その視線だけで穴が空いてしまいそうだ。

━━━━……して、貴殿は……。
━━━━ああ、そうだな。自己紹介もせずに話してしまっていた。私は××国の王家の血を引いている者だ。……とは言え、後継となるかはまだわからんのだがね。

若者は、一応ニラヤたちが暮らしている国の王子という立場にあるらしい。この国では王家の中にもいくつかの派閥があり、後継者がどの派閥の人間になるのかわからないのだという。本来ならば現在の王の嫡子であるこの王子が妥当だが、王家内ではごたごたとしていて誰になるのかさっぱりとのことだった。

━━━━実を言うとだな、二人とも。あの選定は、全て一から仕組まれていたものだったのだよ。
━━━━仕組まれていた……?
━━━━そうだ。うちの国には、武勇を誇る王子がいてな。あの王女は、そいつと婚約したかったのだろう。だが国を背負う者という体面もある。故にあのような儀礼に及んだという訳だよ。

王子いわく、先程シュルティラが引いていた弓はこの国の王家の者たちが神々に祈りを捧げることで賜った代物なのだという。目当ての王子にしか引くことの出来ないように、ある程度の条件を課していたのではないかと王女は推測した。

━━━━しかし……もしそうであれば、何故俺はあの弓を引くことが出来たのだろうか。それにある特定の者だけを選びたいのなら、このような儀を開かずとも良かったのでは……。
━━━━まあ、これは私の憶測に過ぎないのだが……。恐らく、この国は件の王子の関係者と双方婚礼には賛成していたんだろう。しかし、実のところその王子のいる派閥は、かなり落ちぶれているようなものなんだ。私たちの派閥と敵対しているから、あまり話したくはないが……とにもかくにも、奴等はあまり公にすることなく、隣国との繋がりを持って力を蓄えようとしたのだろう。小賢しいにも程がある。

王子の表情の奥底には、敵対する派閥に対する憎しみのような色が垣間見えた。しかし、シュルティラは顔色を変えない。変えないまま、王子のことを見つめている。

━━━━……無理にとは言わんがね。もし、もしもあなたがその武勇を発揮したいのであれば、私のところに来ないか?
━━━━俺を……?
━━━━ああ、勿論身分や出自で判断することはないさ。あなたを侮辱した奴等に報復したいのであれば、それだけで私たちの仲間となる資格を得たようなものだ。どうだ、悪い話ではないだろう?

たしかに、利害は一致しているとニラヤは思った。シュルティラを侮辱した彼らの所属する派閥と、この王子の所属する派閥は敵対しているという。ならば、いつかはお互いに衝突するはずだ。その機会に雪辱を晴らすことは不可能ではないだろう。

━━━━……わかった。俺はお前に付いていく。

こくり、とシュルティラは首を縦に振った。王子の口角がつり上がる。二人は固く握手をし、その場には決して悪くはない雰囲気が漂った。
この時から━━━━いや、もしかしたらもっとずっと前から、シュルティラの悲劇的な運命は定まっていたのかもしれない。しかし、それを知らないニラヤは、二人の様子を一抹の不安を抱えながら見ているしか出来なかった。

18日前 No.375

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斯くして、シュルティラはとある王子のもとで武人として働くようになった。ニラヤもシュルティラと共に王宮に入る━━━━ということはなく、彼女は以前と同じように市井で暮らしていた。義父と義母の手伝いだけではなく、ニラヤ自身も近隣の寺院などで下働きをすることにしたのだ。……とは言え、シュルティラは稼ぎのほとんどを実家に寄越すので、ニラヤが働いていると言っても家のことはシュルティラが支えているようなものだった。

━━━━……最近、会えてないなぁ……。

わかっていたことではあるが、王宮にいる以上シュルティラはあまり市井には戻ってこれないようだった。全く帰ってこない、ということはなく、少なくとも一ヶ月に数回は実家に帰ってくるので、会う機会が皆無という訳ではない。
だが、それでもニラヤにとって寂しいものは寂しいのだ。きっとシュルティラは数多くの武功を挙げていることだろう。実家に送られてくる報酬がその最たるものだ。だとすれば、王宮の中でもシュルティラは良い意味で目立っているに違いない。それに加えてあの容姿となると、最早向かうところ敵なしである。そう考えるとニラヤの唇からは望まずとも溜め息ばかりが飛び出てきてしまう。

━━━━いや、シュルティラに相手が出来るのはめでたいことだけどさ……。

あの一件以来、シュルティラは全くと言って良いほど女性に近付くことはないのだという。シュルティラを引き入れた王子から、一度ニラヤのもとに手紙が届いたのだ。あいつの好みの女性はどのような者か、と。初見でニラヤは手紙を破り捨てたくなったが、相手が相手なのでぐっと抑えた。王子いわく、シュルティラは昼も夜も時間さえあれば武術の鍛練に勤しんでいるらしく、彼としては不安になるくらいなのだという。シュルティラがずっと武術を自由にやりたがっていたのを知っていたニラヤは特に驚かなかったが、王子たちからしてみれば衝撃的だったらしい。シュルティラの配属された部隊の者たちも、驚きこそしたがそんな彼を受け入れてくれているという。
とにもかくにも、シュルティラが活躍していることに変わりはない。しかし、近頃は隣国の王女との婚姻で件の派閥が力を伸ばしてきているとも聞いた。そう遠くないうちに両勢力は何処かでぶつかるだろう。そんな噂は市井をも駆け巡った。

━━━━……それで、あなたも出陣するの?
━━━━ああ。そのように伝えられている。

誰もが戦火の気配に怯える中、何の前触れもなくひょっこりとシュルティラが帰省してきた。義父と義母は彼をもてなしたが、皆内心では不穏な気配を感じ取っていた。いてもたってもいられなかったニラヤは、帰り際に思いきってシュルティラへと訪ねたのだった。
シュルティラの対応はあっさりとしていた。これまで数多の戦に従軍してきたというのだから慣れきってしまったのだろう。それでも殺気立つことはなく、以前とそう変わりのない立ち振舞いな辺りが恐ろしい。これならいっそ多少刺々しくなってくれた方がわかりやすいというものだ。

━━━━その……大丈夫、なんだよね?いや、私が心配したって仕方ないんだけど……。でも、何の前触れもなく帰ってくるなんて初めてだったから、不安で……。
━━━━……大丈夫だ。最近は忙しくてな。事前に伝えることが出来なかっただけだ。
━━━━そ……それなら、良いんだけど……。

シュルティラがいくら大丈夫と言っても、ニラヤの不安は拭いきれなかった。何故だかはわからないが、このままシュルティラを行かせてはいけないような気がしたのだ。意を決して、ニラヤはぐっとシュルティラの服の端を掴む。シュルティラは、意外そうな顔をしてニラヤのことを見た。

━━━━……あの、あのね、××××。行くなとは、言わないけど……でも、その……無茶は、しないでね。
━━━━ニラヤ……。
━━━━……ごめんね、いつも私、こんなことばっかり言ってるね……。あなたのことを信じられない訳じゃないけど、でもやっぱり心配で……。

もごもごと、ニラヤは口の中で含むようにシュルティラへと告げた。詰まるところ、シュルティラに死んで欲しくなかったのだ。出来ることなら、死地になど赴いて欲しくはない。安全なところにいて欲しい。シュルティラなら簡単に命を擲ってしまいそうで、ニラヤは一秒でも長く彼のことを引き留めておきたかった。きっとシュルティラなら行くのだろうとわかってはいても、それを受け入れるだけの余裕をニラヤは持ち合わせていなかった。
シュルティラは、うつむくニラヤに空色の双眸を向ける。そして、何も言わないまま、彼女をぐっと自分の胸に引き寄せた。

━━━━……っ!?

背負われることも、抱き上げられることも以前にはあった。だが、それはあくまでもニラヤが怪我をしたり疲弊したりしている時のことで、今回のような事例は全くの初めてだった。要するに、ニラヤはシュルティラに抱き締められている。ニラヤの身に何か起こっているという訳でもないのに、だ。ニラヤの呼吸は止まってしまいそうだった。ついでに、シュルティラに聞こえてしまうだろうというくらいには心臓の音がうるさかった。

━━━━な……何を……!?

シュルティラからこういったことをすることはまずないので、ニラヤは動揺して上手く言葉を紡ぎ出せない。きっと自分は酷い顔をしていることだろう、とニラヤ自身にもわかった。だから、シュルティラの顔を見上げるなんて出来なくて、ただ彼の胸に顔を押し付けるしか出来なかった。

━━━━……大丈夫だ。俺も、お前も、望まぬ結果にはならない。俺が、させはしない。

シュルティラの表情はわからない。だが、普段と同じ、淡々としていながら何処か暖かみのある声音であった。そして、ニラヤを安心させようとしているのか、そっと彼女の頭を撫でた。

━━━━……嗚呼、これは。

其処で、ニラヤは悟ってしまった。シュルティラが彼女に何を言おうとしているのかを。わかってしまったからこそ、ニラヤの目からは止めどなく涙が流れた。
きっと、シュルティラの言う“大丈夫”とは、ニラヤや義父や義母の生活についてのことなのだろう。シュルティラが守ろうとしているものは自分の命ではなく、家族たちの生活なのだ。そう思うと悲しくて仕方がなかった。

━━━━……ねぇ、少しだけ、少しだけだから、験担ぎしても良い?

抱き締められたまま、ニラヤはシュルティラに尋ねる。シュルティラは、一瞬首をかしげてから、ああ、と答えた。それに少しほっとしてから、ニラヤはお下げの片方を結わえていた紐をしゅるりと解き、そして胸元から何かを取り出した。

━━━━……はい、これ。即席で申し訳ないんだけど、私が今用意出来るものってこれくらいしかなくて……。
━━━━……これは……?
━━━━あー……よく行く川辺で見つけたんだ。ほら、あのいつもあなたが鍛練してた場所。綺麗だったから、頑張って磨いてみたの。ちょうど穴も開いてるし、其処に紐を通したらお守りになるかな、って……。

ニラヤが紐と共に手渡したのは、艶のある乳白色の石であった。遠目で見た時に何故だか目について、持ち帰って磨いてみたのだ。すると思いもよらず綺麗になったので、なんとなく胸元に入れて持ち歩いていた。宝石とは言えないものだが、装飾品にしても違和感はないだろう。
もっと手持ちの金があれば、シュルティラにより役立ちそうなものを買えたかもしれない。だが、どうしてだかわからないが、今此処で何か渡しておかなければもうこのような機会は巡ってこないような気がしてならなかった。それゆえに、ニラヤは手持ちでお守りに出来そうなものを彼に手渡したのだ。

━━━━……ありがとう。どのようなものでも、真心がこもっていれば至上の一品になり得る。大切に身に付けさせてもらうとしよう。

シュルティラは文句ひとつ言わず、大事そうに石へと紐を通してから首にかけた。彼の白い肌と重なると、その石は溶け合ってしまいそうだった。
す、とシュルティラがニラヤから離れる。彼は発つつもりなのだ。行って欲しくないというニラヤの気持ちは変わらないが、これ以上引き留めることは出来なかった。引き留めたところでシュルティラが戦場に赴こうとしていることに変わりはないのだ。それがわかってしまった以上、ニラヤに出来ることは限られている。

━━━━……それじゃあね、××××。あなたの武運を祈ってる。
━━━━ああ。……達者でな。

簡潔な別れの挨拶を済ませると、シュルティラは停めていた馬に乗って走り去っていった。その背中が見えなくなるまで、ニラヤはずっと外で立ち尽くしていた。

17日前 No.376

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16日前 No.377

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ニラヤはその後、有無を言うことも出来ずに王宮へと連れていかれた。どうやら王子である青年の周りには、何人もの伏兵が潜んでいたらしい。あっという間にニラヤは拘束され、気づけば高価そうなお召し物に着替えさせられて敵地の王宮の椅子に座っていた。見たところ晩餐会といったところだろうか。通された広間には多くの王侯貴族らしき人間が押し寄せていた。

━━━━……逃げることは、出来ないか。

ニラヤの傍には例の青年が付いている。シュルティラと同等か、あるいはそれ以上と言える彼を相手に立ち回る気力など、ニラヤにはもうなかった。くらくらする倦怠感に酔いながら、ニラヤはぼんやりと晩餐会の様子を眺めていた。特に面白いことなどない。シュルティラが死んだ世界など、色彩すら喪われたようなものである。ニラヤの見る世界は一面灰色だった。
そんなニラヤに向かって、急いだ様子で駆けてくる者があった。つとニラヤが視線を向けてみると、其処にはニラヤによく似た容貌をした妙齢の女性がいた。

━━━━嗚呼、ニラヤ……!本当に、ニラヤなのですね……!?
━━━━…………?

誰だ、この女は。ニラヤは定まらない目のまま首をかしげた。……いや、この女が誰かなどわかりきっている。その容姿を見れば、馬鹿でもニラヤとこの女との関係性を察することだろう。
無反応を極めるニラヤに、女はそっと目を伏せた。後ろから彼女を追いかけてきたらしいお付きの者たちは、皆困ったように眉尻を下げている。お前が、いやお前が、と何やら押し付け合っているようだった。それを見た王子は、そっとニラヤの耳元に口を近づける。

━━━━喜びなさい。あの方は、あなたの母上ですよ。
━━━━……母、上。

ニラヤの母。ニラヤをいないことにしようとした張本人。ニラヤの人生を変えた者。本来ならば憎んで然るべきところなのだろう。だが、今のニラヤは何の感慨も起きなかった。へぇ、そう、で終わりである。そのままふいと視線を彼らから逸らすと、女がすすり泣く声が聞こえてきた。しかしそれもニラヤは無視する。無視して、広間を出ていこうとした。だが見かねたらしい王子が、瞬時にその腕を掴んで自分のもとに引き寄せる。

━━━━駄目でしょう、ニラヤ殿。せっかく、お母上とお会い出来たのです。お話のひとつでも、なさられたらいかがですか。
━━━━……自分を捨てた人間となど、話したくはありません。
━━━━……そうですか。では、無理に話せとは言いません。ですが、お話だけは聞いて差し上げなさい。お母上から、あなたにお話があるようですから。

じっと、青年の黒目がちな瞳がニラヤを見つめる。ずっと見つめられていることに耐えられなくて、ニラヤは最終的に母やその付き人がいる方向に顔を向けた。既に半泣きになっている母は、潤んだ瞳でニラヤを凝視している。そして付き人たちに促されながら、所々つっかえて話し始めた。

━━━━っ、ごめんなさい、ニラヤ。私、私はあなたを……。
━━━━……御託はいりません。お話だけすればそれで結構です。

冷たく言い放ったニラヤに、再び母は崩れ落ちそうになる。それを何とか付き人が支えて事なきを得たが、母はもう話せるような状態ではなかった。ニラヤの顔を見る度に涙を流していては話にならない。
こほん、と咳払いしてからニラヤの前に進み出たのは王子である。いつまでたっても話が始まらないので自分が話した方が早いと思ったのであろう。

━━━━ニラヤ殿。あなたの故郷である国と、我が国は同盟を結んだのです。西域では小国が分立し、戦が絶えない状況が続いています。それを打破しようと、あなたのお父上……現国王陛下はお考えになられました。
━━━━…………。
━━━━我々の結束を強めるためにも、私たちは姻戚関係を結ぶことと致しました。あなたの国の王族の中から、一人此方の王族と婚礼を挙げる、と。其処であなたに……ニラヤ殿に、白羽の矢が立ったのですよ。
━━━━……婚礼……。

馬鹿な話だ、と思った。シュルティラという拠り所を失ってしまったニラヤからしてみれば、政略結婚などもっての他である。シュルティラのいない世界でなど生きてはいけない。生きる価値すらない。そんな自分に、目の前の者たちは婚礼を迫っている。此方の気など、一切知ることもなく。

━━━━……そのような話、私が二つ返事で飲むと思っていたのですか?

故に、ニラヤは澱んだ瞳を以てその場にいる者たちに拒否の意思を伝えた。王子の方もある程度予想は出来ていたのか、小さく肩を竦める。しかし、母な方は納得がいかなかったのか、ふらふらよろめきながらニラヤに一歩近づいた。

━━━━……何故、何故なのです?あなたはこれまで、市井で暮らしてきたのでしょう?ならば多かれ少なかれ苦労をしてきたはずです。王族の列席に加われば、今までよりもずっと……ずっと良い暮らしが出来るのですよ!?それなのに何故……。
━━━━……はは。何故か、ですって……?

すがり付こうとしてくる母を、ニラヤはどんと突き飛ばした。体勢を崩した母を付き人が受け止め、そして会場中から冷たい視線がニラヤに向けられる。王子は、ニラヤ殿、と彼女に手を伸ばそうとしてきたが、それをニラヤはするりと避けた。

━━━━……皆、知らないのでしょう。私がこれまでの生活で何を得たのかも。あなたたちに、何を奪われたのかも。何も何も、知らないのでしょう。

譫言のようにぶつぶつ呟きながら、ニラヤはおぼつかない足取りで歩いていく。誰もがニラヤを気味が悪いもののように避けたため、ニラヤはすぐに目的地━━━━露台へとたどり着くことが出来た。

━━━━可笑しい、ですよね?王族だろうが平民だろうが、同じ人間であることに変わりはないのに。身分が違うというだけで、まるで違う生き物のように取り扱って。王族というだけで不自由のない暮らしを送り、平民というだけで生活を束縛される。

ニラヤの見上げた先には満月がある。……が、その様子は何処か異質だった。王子は何かに気づいたのか、はっとしてニラヤへと駆け寄る。

━━━━ニラヤ殿……!
━━━━……私から、最愛の人を……××××を奪っておいて。私の生きる意味を奪っておいて。私を我が物にしようなどと、よくもまあ愚かなことを考えたものだ。私が祖国や、お前たちを愛している訳がないというのに!

轟、と。ニラヤの全身から、比喩ではなく凄まじい“気”が放出される。神代と呼ばれた時代であれど、ニラヤはこれまでそういったものを扱ってこなかった。それなのに、今彼女はこの場を震え上がらせるだけの“気”を放っている。明らかに異常事態であった。
しかも、様子が可笑しいのはニラヤだけではなかった。露台から見える月、それが不自然に欠けて見えるのだ。これは後世において月蝕と呼ばれる現象だったが、この時代ではそのようなことはまだ解明されていない。誰もが不測の事態であると判断して、その場から逃げ出そうとしたりニラヤに向けて震えながら武器を構えたりした。だがニラヤは怯まない。むしろ見た者をぞっとさせるような笑みを浮かべながら両手を広げてくるりと回った。

━━━━私は決して許さない。あの人を貶めただけでなく、命を奪ったお前たちを!お前たちの繁栄が続く限り、私はお前たちを呪ってやろう!そうでなければ……あの人の無念は、絶対に晴れない!

ニラヤの右目は銀色に輝くばかりか、炎を上げて“燃えていた”。其処にあるのは王族への憎しみのみ。誰のことも見てはおらず、誰もを呪わんと見ている。矛盾にまみれながら、ニラヤは彼らを憎悪する。
これではいけない、と思ったのだろう。王子は苦しげな表情をしながら、シュルティラを殺したその弓に矢をつがえた。そして、ニラヤに向けて矢を放つ。放たれた矢は真っ直ぐニラヤのもとまで飛んで行き、彼女の胸を貫いた。

━━━━……ふふふ、あはははははッ!私を殺すか!殺しただけで救われるとは思うなよ、私の呪詛は未来永劫、私と同じ奈落に墜ちた者が現れるまで、お前たちを苛むことだろう!

笑いながら、嗤いながら。ニラヤは月蝕を背に露台から飛び降りた。この王宮の高さから落ちれば、まず命はないだろう。それでもニラヤは笑っていた。ただ、憎き一族への呪詛を口にしながら、愛する人の後を追うように、彼女は地へと墜ちた。

15日前 No.378

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【第67幕:災厄に抗う者たち】

厭な汗が頬を伝う感触で、ナラカは意識を覚醒させた。はっとして起き上がってみると、其処は一面灰色の、何もない空間であった。まるで曇天の日の空の中に突っ込んでしまったかのような光景である。ナラカは多少頭痛がするのを我慢して、きょろきょろと辺りを見回した。

(エルト……!)

ナラカからそう遠くない場所に、気を失って倒れているらしいエルトが見えた。思わずナラカは身構えてしまったが、まだ起きていないとわかってまずは一安心する。どうしてもエルトを見ると恐怖が勝ってしまう。いつか一発ぶん殴ってやりたいと思っているのに、いちいち怯えていては情けないったらありゃしない。
とりあえず、エルトからは少し距離を取っておくことにする。万が一の事態があったら大変どころの話ではない。エルトをちらちらと横目で見ながら、ナラカは現在の状況を自分の中で整理する。

(エルトもいる……ってことは、こいつもあのニラヤとかいう化け物女に取り込まれたってことなのかな……?だとしたらこいつも、今あの走馬灯みたいな夢を見てるはず……)

ニラヤの過去を映し出したらしい走馬灯は、ナラカが先程まで見ていたものだった。ニラヤ以外の固有名詞がわからなかったのは、彼女の記憶によるものだろうか。ナラカにとってはどうでも良い話だが、シュルティラ……引いてはサヴィヤが関わっているとなれば、話は別だ。彼を危機に陥れるような人物であれば、放ってはおけない。


「その生半可な正義感が腹立たしいんだよ」
「……!?」


気づいた時にはもう遅かった。ナラカの背中を何者かが蹴り飛ばし、ナラカは無様にも地面に倒れ伏した。その背中を、追い討ちのようにぐりぐりと踏みつけられる。

「……お前も、あの人のことを好いているのか。何も知らない小娘の分際で生意気な」
「……ニラヤ」

自らに明確な敵意を向けてくる少女━━━━ニラヤを、ナラカもまた敵意と警戒心を以て睨み付ける。ニラヤはちっ、とわかりやすく舌打ちをしてから、ナラカに冷えきった視線を向けてきた。

「……よくもまあ、私の想い人に此処まで近づいたこと。あの人のこと、何も知らない癖に」
「……知らないから何だと言うのです。第一、あなたの方だって……」
「━━━━うるさいッ!」

ナラカが少し言い返そうとしただけで、ニラヤは声を荒げてより強くナラカの背中を踏みつけた。ぐうっ、とナラカの唇からは苦悶の声が漏れる。食後にこうされていたら、胃の中のものを全て外に吐き出していたに違いない。きっと背中にはくっきりとした痕がついていることだろう。
ニラヤは思い切り叫んだからか、はぁはぁと息を荒くしていた。一度、呼吸を落ち着けるように深く息を吐いてから、彼女は視線をナラカから移す。

「……ふん。いくら年月が経とうと、やはりお前の一族は変わらないな。早いところ滅んでしまえば良かったのに。アーカムの王族がいなくなれば、あの人は解放されたはずなのに」
「…………」

ニラヤの視線の先には、彼女に向けて短剣を構えるエルトがいる。いつから起きていたのかはわからないが、彼もまたニラヤの夢を見ていたようだ。顔色はお世辞にも良いとは言えない。むしろ体調が悪そうにも見える。例の弓を持っていないのは、取り込まれた際に落としてしまったからだろうか。どちらにせよ、今のナラカには分析している余裕などない。

(あいつ、一体どうするつもりなんだろう……)

今のナラカとしては、出来る限り早くこのニラヤをどうにかして欲しかった。恐らく、今の彼女は人ではない。もしも人であったのなら、それこそ不老不死とかその辺りの、人智を超えまくった所業である。そのようなことがあってはならないと思うし、あって欲しくもない。それから此方に敵意を向けてくるのは勘弁して欲しい。

「……あなたは、何故“此処にいらっしゃる”のです?聞いたところによると、あなたは我が祖の戦勝祝いの宴にて亡くなったと聞きました。それが今、どうして……」

エルトもナラカと同じようなことを思っていたらしい。ニラヤに短剣を向けたまま、声を潜めて尋ねた。
エルトからの問いかけを耳にしたニラヤは、一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。そして、間もなくしてにぃ、と口角をつり上げる。その表情は絵巻物で見た悪鬼羅刹のそれに近い。

「何故……何故、ですって?よく言うものだ、あの憎きお前の祖が私を此処に縛り付けた癖に」
「我が祖が……?」
「そうだ。何を血迷ったか知らないけど、あの男は私の亡骸を……骨を大事に保管して、この理想郷まで持ってきた。そして、あの天上の曼荼羅を創る上での源にした。この理想郷が滅びるまで、見守れとでも言うつもりなのかは知らないけど……。それなのに、このシャルヴァの五大が乱れたせいで、私は瘴気を纏った怨霊として顕現してしまった。これほど屈辱的なことはないよ」

天上の曼荼羅。それはシャルヴァにおいて、太陽の代わりにもなっているあの曼荼羅のことを言っているのだろう。どのような仕組みで光っているのかは知らなかったが、まさかニラヤの遺骨が含まれていたとは。

(……そういえば、こいつ確か月神の子なんだっけ……)

今では信じられないような話ではあるが、あの時代では神と人の間に子が生まれるということは、そう可笑しいことではなかったようだ。天上より人々を照らすものと言えばついつい太陽が思い浮かんでしまうが、よくよく考えてみれば月も同じようなものである。月神の血を引くニラヤであれば、月の代わりも務まりそうだ。
エルトも少なからず衝撃を受けたのか、ニラヤに返答することはなかった。彼女はこれを好機と見なしたのか、ふん、とエルトを嘲笑う。

「その様子だと、お前は何も知らなかったみたいだな。シュルティラのことも、シャルヴァのことも。何も聞かされずに、甘やかされて暮らしてきたって訳だ」
「……あなたから見れば、そういうことになるのかもしれませんね。ですが、私は……」

エルトが何か言いかけようとした時、轟と空間が歪んだような気がした。━━━━否、実際に揺れたのだ。

「お前の身の上話などどうだって良い!お前さえ、お前さえ死ねば、シュルティラは解放されるのだから!」

それはニラヤの怒気のようだった。ぐらぐらと揺れる空間で、何も掴まるもののないエルトは膝をついた。ニラヤの右目は燃えている。其処から溢れ落ちる火の粉はまるで涙のようだ。しかし、其処に悲哀は感じられない。在るのはただ、アーカム王家への憎悪と怨念だけである。

(嗚呼、こいつは……)

ニラヤに踏みつけられながら、みっともなく地に付しながら。ナラカは思ってしまった。このニラヤという少女への評価。それはあまりにも簡素なものだった。


「面倒臭い女」


ぽつり。言うつもりはなかったが、ついつい口を潜り抜けてその言葉は飛び出してしまった。きっとニラヤにも、エルトにも聞こえてしまったことだろう。
ニラヤの目が見開かれる。そして、その中に凄まじい憤怒の色が混じった。もう一度ナラカを踏みつけようと、その足が振り上げられる。

「━━━━っ!?」

しかし、その隙を“エルトは”見逃さなかった。ひゅ、と風を切る音が響いたかと思うと、ニラヤの頬すれすれを短剣が飛んでいる。ニラヤは直ぐ様回避したが、ナラカからは離れなくてはならなかった。ナラカはすぐには立ち上がらずに、転がってニラヤと一定の距離を取ってから立った。踏まれていた背中が痛むが、動けない程ではない。

「おのれ……!」

ぎりぃ、と音が鳴るほどに歯を食い縛りながらニラヤはエルトを睥睨する。その表情はただの少女が浮かべるにしてはあまりにも禍々しすぎるものであった。エルトが少し身震いするのもわからなくはない。実際に、ナラカも恐ろしくてニラヤから目を逸らしてしまった。

「……あなたの目的は、何なのです」

手ぶらになってしまったからか、エルトは恐る恐る窺うようにニラヤへと問いかけた。……しかし、彼はとうにわかっているのだろう。ニラヤが何のために、エルトとナラカのことを取り込んだのかを。ナラカだってなんとなく理解しているのだ、エルトがわからないはずがない。
がくん、とニラヤの首が不自然な程に傾いた。あれで首をかしげているつもりなのだろう。その動きは、最早化生の類いに近い。

「……そんなこと、決まっているじゃない。憎きアーカムの王子と━━━━生意気にも私と同じ奈落の名を背負った、其処の小娘を抹殺するだけだ!」

ニラヤの瘴気が膨れ上がる。どす黒く重たいそれは、エルトとナラカへと向けられた殺意に相違なかった。

14日前 No.379

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13日前 No.380

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━━━━王族とは、国を統べる者として、少なからず責任を負うべきである。

それが一族の掟として定められていた訳ではなかったが、少なくともエルトはそのように認識していた。アーカムの王族が犯した不始末は、たとえ人物が違えどアーカムの王族が片付けなければならない。そうでなければ、反乱軍の長など務められないし、務める価値すらないようなものだ。これは一種の矜持であった。エルトが王族として、守らなければならない━━━━否、エルトを王族たらしめる信条であった。

(……何を、何をしている、あの娘は!?)

だが、その信条が、今まさに破られようとしていた。倒れたエルトの前に立ち塞がった者。それは決して王族ではなく、名だたる戦士でもなく、高名な軍師でもなく━━━━。

たった一人の、力なき少女だった。

ナラカがエルトに対して苦手意識を抱いていたように、エルトもナラカに対してある種の苦手意識を抱いていた。初めこそ、簡単に扱える手駒として利用するつもりだったが、このナラカという少女はなかなかに厄介な人間であった。
厄介、というよりかは、巡り合わせがことごとく合わなかった、とでも言うべきだろうか。幾度となくエルトの計画を阻害し、彼と対立することがほとんどで、今回のように協力することなどエルトがシャルヴァに来て間もない頃くらいのものだった。離れてからはそれこそ目を合わせる度に睨み合っていたような関係性だ。助けられる理由も義理もなかった。
それなのに、ナラカは実際に今、エルトを守るように立っている。微かに震えながら、それでもニラヤという化け物に立ち向かっている。

(あいつは、気でも可笑しくなったのか……!?)

エルトが何度瞬きをしようと、その光景は変わらない。ナラカの小さな背中があるのみだ。信じられなかったが、信じる他なかった。

「……ふぅん、話……話、ねぇ。何か小細工をしようって魂胆なの?」

ニラヤの意識は、完全にナラカへと移ったようだ。エルトのことなど、全く見てはいない。彼女の燃え盛る視線は、ナラカに狙いを定めている。
ナラカはニラヤを睨み付けたまま、ふるふると首を横に振った。その表情はエルトからは見えないが、恐らく怯えや恐怖が少なからず見えていることだろう。

「いいえ。小細工など、あなたに効かないことくらいわかっています。私はただ……あなたについて、知りたいだけです」
「……私?まさか、弱点でも聞き出すつもり?余計なことを問えば、お前の━━━━」
「━━━━『命はない』、でしょう?……あなたの琴線が何処にあるのかは知りません。ですから、いくら配慮していても、あなたの逆鱗に触れることはあるでしょう。……それも承知の上です。承知の上で、私はあなたに話しかけているのです。ですから、どうか私にあなたとの会話の時間をください」

ナラカがニラヤの言葉を遮った瞬間に、ニラヤの眉間の皺は一層深まったように思えた。明らかに怒っている。殺意が湧いている。
……だが、ニラヤはどういう訳か、ナラカを攻撃しようとはしなかった。理性によって押し止めたのだろうか。どちらにせよ、思い止まってくれたのならそれに越したことはない。左腕と左足が潰れている以上、エルトはナラカの後ろからニラヤの攻撃をまともに避けることは出来ないのだから。

「……ふん。まあ、最後にはどうせ皆死ぬのだから良いということにしてやろうじゃないの。それで何、話したいことって」

一先ず、ニラヤは会話することは受け入れてくれたようだ。若干腑に落ちない、という顔をしているが、特に言及はしていないので突っ込む必要はないだろう。
問いかけられたナラカは、そうですね、と少し考えてから、つと視線を上げた。ニラヤはナラカよりも幾分か背が高いので、多少見上げる形となるのだ。

「……その右目は、“どうして燃えている”のですか?」

ぴくり、と。ニラヤの眉が微かに動いた。これは横から見ていたエルトも、聞かれたくない事柄なのだなと理解する。ナラカの問いとなったニラヤの右目は燃え上がった。……が、またしてもニラヤはナラカを攻撃しなかった。ちっ、と小さく舌打ちしてからそっぽを向く。

「……教えてあげる訳ないでしょう。私だって、好きでこんな目になった訳じゃない。これは、ただ━━━━」
「━━━━ただ、偶然こうなってしまった。……そうですね?」
「…………っ!」

再び、ナラカがニラヤの言葉を遮る。ニラヤの顔は歪み、エルトにもはっきり聞こえる程度の歯ぎしりをしたが、尚も彼女は立ち尽くしたままである。まるで、ナラカに攻撃することを制限されているかのようだった。

「あなたは、月神の子……なんですよね。故に、その力を存分に発揮出来る夜間に例の呪詛を吐き出した。いくら神の子と言っても、あなたは本来戦うべき力を有してはいない。月神の力を無理矢理にでも借りなければ、あなたはまずあの呪詛を吐き出すことすら難しかった」
「…………」
「……けれど、予想外の出来事が起きた。起こってしまった。ただの満月ならば、あなたの目はそのようなことにならなかったでしょう。でもあの日は月蝕が起こった。ただの月ではなく、あれは太陽と重なったものだった。……故に、あなたは呪詛を吐く際に“邪魔をされた”。月とは相反する太陽によって」
「━━━━うるさい!」

ニラヤが、耳を塞ぎながら拒絶の意を示した。ぜぇぜぇと荒い息のまま、彼女はナラカを凄まじい形相で凝視する。

「お前にっ、お前なんかに、何がわかるっていうんだ!私は、私はただ、必死だっただけだというのに!お前ごときに、私の苦悩がわかって堪るものか!」

そのまま、ニラヤはその拳に瘴気を纏わせてナラカに殴りかかる。激昂しているからか、その動きはかなり乱暴であった。狙いなどほとんどついていないような一撃を、ナラカは間一髪でかわす。そして、真っ直ぐエルトの方まで走ってきた。

「此処から見て、南へ!南へ向かいなさい!
「っ、そう言われましても……!」
「良いから!転がってでも行け!」

どん、とナラカは思いきりエルトの背中を突き飛ばす。それが単なる苛立ちからではないことを、エルトは瞬時に理解した。何とか受け身を取って、エルトは負傷した部分をこれ以上打ち付けないようにと心掛ける。そして、その姿勢のままごろごろと、ナラカに言われた通り南に向かって転がっていった。

「小癪な真似を……!」

どうやら、ニラヤはまずナラカを殺さなければと目標を変えたらしい。ぱたぱたと、エルトとは逆の方向に駆けていったナラカを目で追っている。詰まるところ、ニラヤの意識は一時的にエルトから外れることとなった。

(景色はあまり変わらない……。この瘴気に、何か仕掛けでもあるのか……?)

す、とエルトは瘴気に掌を滑らせてみる。ナラカが触れた時と同じように、触っているという感覚はほとんどなかった。

「……?」

だが、エルトは其処に違和感を覚えた。ナラカが追われていることを良いことに、そっと瘴気に耳を近付けてみる。触ってみても何ともなかったのだから、耳を近付けてどうなるということはないだろう。

『━━━━い、どうする━━━━ままじゃ━━━━』
『━━━━を、討つためには━━━━━しか、方法は━━━━』
『でも━━━━は、━━━━しか━━━━ない━━━━』

途切れ途切れだが、エルトの耳にそれはしっかりと入ってきた。どれが誰のものかという判別もつく。何を言っているのかまでははっきりと聞き取れなかったが、聞こえただけでも十分というものだ。

(この瘴気、決して私たちを隔絶してはいない。外からの声が聞こえる限り、脱出の余地はあるはずだ━━━━!)

音だけではあるが、外の様子を多少窺うことが出来る。━━━━つまり、此処は“空間として隔たりがある”訳ではない。それだけで、エルトの心には一抹の希望になり得た。

12日前 No.381

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11日前 No.382

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【第68幕:忌むべき過去の再演】

時は多少遡る。エルトとナラカがニラヤの瘴気に取り込まれ、その中で脱出せんと試行錯誤していた最中、外でも二人をどうにかして助け出せないかと試行錯誤していた。特に反乱軍の面々はエルトを無事に助け出したくて堪らないといった状況である。ついでに言うと、スメルトやアリックたちはナラカを助け出すのが最優先のようだ。スメルトに至っては自分も瘴気に飛び込もうとしていた。

「……これはまずいな」

ふむ、と顎に手を遣りながら呟くのはシュルティラことサヴィヤである。いちばん重い怪我を負っているはずなのに、この中の誰よりも冷静沈着でいる彼に、驚きだとか恐れを通り越して呆れた者は少なくないだろう。

「あのなぁ、まずいっつーことは皆わかってるんだよ。とりあえず、勝機はあんのか?お前、あいつの知り合いなんだろ」

暴れまわる瘴気の大蛇に槍を構えながらサヴィヤに問うのはノルドである。ニーラムが結界を張ってくれているので、多少暴れられても今のところは大丈夫だが、長期戦になれば不利になると彼もわかっているのだろう。現に、大蛇は槍で突こうがニーラムの攻撃を受けようが傷ひとつ付かない。エルトの放つ矢が吸い込まれていたことがまだ可愛いくらいに思えてくる。
サヴィヤは剣で斬っても斬っても再生する大蛇の尾をひたすら斬りながら、そうだな、と前置きした。そして少し考えてから、ノルドの方を見ずに答える。

「なくはない。俺にはお前たちがニラヤに勝つ未来が見えている。……だが、その過程まではまだ見えない」
「見える、見えないって……。まさか、お前もエルトと同じ……」
「そうだ。千里眼……と言うには少し珍しい、いわゆる亜種というものらしいがな。今のところはとりあえず結果だけ見えている。もう少し時間が経てば幾らか明瞭になるかもしれん」
「時間が経てば、って言ってもねぇ……。第一、その可笑しな筒みたいなのでどうにかならない訳?このあたしの攻撃すら弾いたんだから、この大蛇もどうにか出来るんじゃないの?」

溜め息を吐きながら、会話に横槍を入れてきたニーラムはちらりとアリックの方を見た。可笑しな筒、というのは恐らく鉄砲のことだろう。まだ戦場でナラカに攻撃を打ち消されたことを根に持っているらしい。つくづく執念深い精霊である。
そんなニーラムにじっとりとした視線を向けられたアリックはというと、お世辞にも芳しい状況に置かれている人間とは思えない表情をしていた。その美貌は憂いに翳る……というよりはわかりやすく不安と焦りが見られ、背負う空気も何だかじめじめしているように見える。加えて先程まで手にしていた鉄砲を背負っている専用の袋にしまい、慎ましく後ろに下がっている始末だ。

「いえ……あの……。何と言いますか、不測の事態に陥りまして……」
「はぁ?不測の事態?まさかあの筒、壊れたんじゃないでしょうね?」
「あー……壊れては、いないのです。まだ、壊れては……」

アリックの口調ははっきりとしないものであった。これにはニーラムも、いや、反乱軍の面々も首をかしげる。アリックは非常に言いにくそうに、ごほん、と咳払いをしてから続けた。


「……弾が、もうないのです……」


誰もが言葉を失った。その証拠に、一瞬だけだがその場が水を打ったように静まり返った。きっと、皆考えてもいなかったのだろう。此処まで来て、弾薬の不足に喘ぐこととなろうとは。

「じゃ……じゃあ……もうそれは使えないってこと……?」
「……そう、なりますね……」
「……どうするつもりなの?それじゃあ、ナラカを助けられないじゃない。普通の攻撃が効かないって話だから君に白羽の矢が立ったのに、それすら無駄なら本当に手立てがなくなっちゃうよ。責任は取ってくれるんだよね?」

絶句するニーラムと、静かな威圧感をかもし出すスメルト。後者に至っては、アリックの返答次第では彼女を握り潰さんばかりの禍々しい空気を放っている。下手したらニラヤの瘴気と良い勝負をしそうなくらいだ。どのように責任を取らされるのか、アリックとしては考えたくもないだろう。
しかし、だからと言って状況が変わる訳ではない。此処で仲間割れすることは得策ではないとスメルトもわかっているようで、今アリックをどうこうする様子は見受けられなかった。後で覚悟しろ、ということなのかもしれないが。

「とにもかくにも、その鉄砲とやらは使えないのだろう?それなら、別の武器で相手をするしかない。言っておくが、私に出来ることは煙幕であの大蛇の目を誤魔化すことくらいだぞ」

やれやれ、とでも言いたげに肩を竦めながら、紫蘭は一同を見渡す。五大の恩恵を受けず、そして近接攻撃を得意とする彼女は逃げ回るので精一杯なのだろう。ちゃっかりニーラムの結界に入っている辺りが彼女らしい。

「やれることはほとんどねぇ、か……。だったら此処は一度撤退した方が良いんじゃねぇのか?此処にいたらいずれ皆あの大蛇に食われちまわぁ」
「馬鹿者、あの大蛇は中に殿下とナラカを取り込んでおるのだぞ。一刻も早く助け出さなければ」
「しかし……。そうは言っても打開策がないのでは、我々に出来ることなど……」
「ちょっとあんたたち、結界張ってるあたしの身にもなりなさいよ!いつまでもお喋りされてちゃ困るんだけど!」

撤退か、このまま大蛇への応戦を続けるか。それぞれ考えることも違うため、皆の意見は対立する。そしてずっと結界を張り続けているニーラムの怒号が飛んだ。たしかにいつまでも此処にいれば彼女の結界はいつか壊れるだろう。このシャルヴァの五大のうちひとつを司る精霊とは言えど、やはり限界があるものだ。早いところ決断しなければならない。
そんなこんなでほとんどの面子が揉めていた最中、サヴィヤの視線は何故か別のところへと向かった。大蛇の攻撃を一手に担いつつ、その攻撃を掻い潜ってある場所へと駆けていった。

「…………」

サヴィヤは“それ”を難なく手に取る。ふとサヴィヤがいないことに気づいて、アリックも彼のいる方向に顔を動かした。そして、彼の持っているものを視界に捉える。

「あ……それは」
「……っ!?な、なんであんた、それを……アーカムの至宝を持ち上げられるのよ……!?」

ぱちぱち、と瞬きをするアリックとは反対に、次いでサヴィヤを見たニーラムは驚愕からかわなわなと震え始めた。ニーラムだけではない。ノルドやリリアといった反乱軍に所属している者たちも、目を見開いたり何度も擦ったりしてサヴィヤに視線を送っている。明らかに彼らは驚いている、と事情を知らないアリックにも理解出来た。

「なぁ、一体どうしたというのだ?皆で騒ぎよってからに」
「なぁ、じゃないわよ!何であいつがあの弓を持てるの!?」
「何でも何もないだろう。其処に弓があるのだから、よっぽど重くでもない限り持ち上げて当然なのではないか?」
「あのねぇ、あんたシャルヴァの生まれなのに知らないの!?あの弓は課せられた条件に適する使い手でなければ持ち上げることすら出来ないのよ!?だからアーカムの王族だけが有することが出来て、ティヴェラの侵略に遭っても奪われなかったんじゃない!嗚呼もう、これだから無知な奴は嫌なのよ……!」

わかりやすく苛立ちながら、ニーラムはぎりぎりと歯ぎしりをする。結界の強化に加えて紫蘭の発言を食らったからか、かなり憔悴しているように見える。紫蘭に関してはへぇ、そうなのか、くらいの反応しか示していなかった。鈍感とは時に幸せなものだ。

「と、とにかくだ!シュルティラ……じゃねぇ、サヴィヤ!お前、その弓使えるのか!?」
「ああ。手応えも昔と変わりない。多少弊害はあるだろうが……武器として使う分には問題ないだろう」
「それなら良いが……。いや、しかし、先程殿下が使っていらっしゃった時には攻撃が効いていなかったように思える。本当に、その弓で何とか出来るのか?」
「何とかなる。何とかしてみせるとも。そのために、俺は此処にいるのだからな」

ぎゅっ、と弓を握りながら、サヴィヤは薄く微笑む。その暖かな微笑みは輪廻の忌み子というよりも、かつて集落を手伝いに来てくれた青年のものに相違なかった。

10日前 No.383

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轟、と凄まじい音が轟いた。きっと此処にいなかったら、このような音を聞くことは生涯なかっただろうと思った者は少なくはないはずだ。詰まるところ、その攻撃は“音だけで人を圧倒するがごとき一撃”であった。

「……中身は、普通の人間みたいだったけど。やることは化け物通り越して天変地異じゃない?あいつって」
「お前が言うな」

扉の影に隠れてひそひそと話すのはスメルトと紫蘭である。彼らの横にはノルドにリリア、そしてアリックがいた。一行の周りには万が一のことがあってはならないからと、ニーラムの結界が張られている。ちなみにこの結界、ニーラムが五大を節約したいと言うので、一人でも抜け出せばその結界は切れてしまう仕組みになっていた。そのため皆揃って隠れることにしている。

「それにしても、アーカムを憎むはずのシュルティラが我々に協力してくれるとはな……。不思議なこともあるものだ」
「……紫蘭とやら、お前さてはシュルティラと関わりがなかったな?同じティヴェラに仕えておるというのに……。普通ならば、不思議どころの話ではないぞ」
「そ、それくらい私だってわかっている!私は君子なのだからな!……まあ、たしかに関わりはなかったが……。でも、驚いているのは本当のことだぞ?伝承に聞くだけでも、シュルティラはアーカムに何度も殺されてきたらしいからな。そのシュルティラが、アーカムの王子を救い出すために戦っているなど、摩訶不思議にも程がある」

リリアと言い合いながらもきちんとサヴィヤの様子を窺っている辺り、紫蘭は戦地においてはかなり優秀な部類に入る。……まあ、自分の暮らす世界の情報を掴みきれていないのは置いておこう。
さて、紫蘭の見ている光景だが、たしかにそれは冗談抜きで凄まじかった。何せサヴィヤが立て続けに大蛇に向かって矢を射ているのだ。彼の“気”を纏わせたそれは、五大のように目に見えることはなくともそれはそれは強い威力を誇っている。大蛇もこれには当たってはいけないと感じているのか、必死に身を捩って矢を避けようとしていた。外れた矢が壁にぶつかって巨大な窪地のようになっている始末である。流れ矢でも飛んでこようものなら、大事故に繋がることは間違いない。

「あんた、替えの矢はあるの?そんなにひっきりなしに射ていたら、後が持たないわよ」

サヴィヤの援護をするのはニーラムである。彼女も相当消耗しているはずだが、渋々といった様子でサヴィヤに手を貸してくれている。それだけ、ニラヤのことを危険視しているということだろう。なんだかんだで手伝ってくれている辺り、この精霊もなかなか非情には徹しきれない性分のようだ。

「懸念の必要はない。俺は普段から矢筒を持ち歩いている。計算して射ているとも」
「ふん、それなら良いんだけど……。というか、本当にあの王子を助けられるんでしょうね?中でくたばってたなんて許さないから」
「その点についても案ずるな。エルティリナは生きている。……ところで、何故お前は其処までエルティリナを案じる?それほど深い関わりでも持ったのか?」
「んな訳ないでしょ!あいつとは利害関係が一致しただけよ!変なこと言わないで!」

サヴィヤは相変わらず歯に衣着せぬ発言で、シャルヴァの五大を司る精霊すら赤面させるという偉業を成し遂げた。ニーラムの胸の内を知っているのか知らないのかはわからないが、はっきりものを言い過ぎるというのもなかなかに困り者である。さすがに此処はサヴィヤも空気を読んだのか、それ以上ニーラムに突っ込むことはなかった。恐らく火を司る精霊の話でもしていたら仲間割れしていたに違いない。
閑話休題。サヴィヤの射る矢はたしかに大蛇に届いてはいたが、やはり瘴気の中に吸収されていくだけだった。しかも大蛇も大蛇でサヴィヤの攻撃を危険なものであると理解しているのか回避するために逃げ回っている。先程よりも攻撃性が収まったのは良いが、これではさすがに埒が空かない。

「……あれ、効いてるのかなぁ。ずっと矢を射続けても、あの大蛇は動き回ってるじゃない。本当にあの弓って伝説のお宝なの?」

首をかしげながら、外野で見守るのはスメルトだ。終わりの見えないこの戦闘にやきもきしているのだろう。のんびりしているようで短気な彼らしい。

「仕方ありませんよ、スメルト殿。シュルティラ殿だって尽力されているのです。……まあ、たしかに此処が海であったなら、イングランドの船で一発ですけど」
「貴様はいつもそれだな。あの大蛇はその、なんだ……イングランド?の船でも仕留められないだろう。何せ、普通の攻撃が効かないのだからな」
「それはそうですが…………っ!?」

口を挟んできた紫蘭に返答しようとしたアリックは、その返答を最後まで口に出来ぬまま思いきり吹き飛ばされた。吹き飛ばされたのは何もアリックだけではない。ニーラムの結界の中にいた者全員が、“結界ごと”吹き飛ばされたのである。

「な、何だ!?」
「おいっ、どうなっている!?」

一同が混乱するのも無理はない。幸い結界が壊れることはなかったので、皆怪我をすることは避けられた。……が、驚くべきはそれだけではない。


「穴が、開いてる━━━━?」


何物であっても傷を付けることが出来ないと思われていたニラヤの瘴気、其処から産み出された大蛇。その一部に、何と穴が出来ていたのである。それも、指を突っ込める程度のものではない。人が一人通れるか通れないかの大きさのものだ。

「……上手くいったようだな」

ふぅ、と一息吐きながら、サヴィヤは瘴気を見つめている。どうやら彼の攻撃がついに瘴気まで届いたらしい。これには誰もがおおっ、と歓声を上げたくなったに違いない。実際にノルドは瞳を輝かせながら、嬉しそうにサヴィヤに声をかけていた。

「すっげぇ、本当に効いてやがる!一体どうやってぶちかましたんだ!?」
「今はそのようなことを説明している時間はなかろう。まずはエルティリナとナラカをたす、け……」

助けなければなるまい。サヴィヤはいつも通りの真顔で、ノルドにそう告げようとした。……しかし、それよりも前に彼の口から溢れ出て来たのは、続けようとした言葉ではなかった。
ごぽり、と溢れ出る、赤黒い液体。鉄臭いそれは何処からどう見ても血液に他ならなかった。げほ、げほと咳き込みながら、サヴィヤは血を吐き続ける。素人目に見ても尋常ではない。サヴィヤは少なからず怪我を負っているのに加えて吐血までされると、立場など関係なしに彼の身が心配になってしまう。

「ちょ、ちょっと……。君、大丈夫……?」
「けほ……ん……。気に、するな。俺のことは、良いから……お前たちは、エルティリナと、ナラカのことを……っ……!」

珍しくスメルトがナラカ以外の他者を心配したが、サヴィヤの中には自愛するという選択肢がないようだった。口を開く度にごぽごぽと血が溢れるが、それを押して大蛇に近付いていく。よろよろしている彼を放ってはおけないが、結界のために個人で身動き出来ないのが辛いところだ。

「……!」

そして、サヴィヤは刮目する。血を吐きながらも、彼はたしかに“それ”を視界の内に捉えた。アーカムの至宝であるはずの弓を躊躇いなく地面に投げ捨てると、がばりと両腕を広げて穴から飛び出してきたものを受け止める。前もって準備をしていたものの、やはり衝撃には耐えられなかったのか、サヴィヤの体はぐらりとよろめいた。そのまま尻餅をつきながらもサヴィヤは自らの腕に収まった人間を見て、僅かに安心したような微笑を浮かべる。


「━━━━大事ないか、エルティリナ」
「しゅ……シュルティラ……!?」


穴から飛び出してきたのは、先程大蛇に取り込まれたエルトであった。その左腕と左足からはおびただしい量の血が流れ出ており、実際に彼の顔色もよろしくないことからかなりの血液を失っていることがわかる。だが、意識ははっきりとしているようで、シュルティラの顔を見ると彼の名前をしっかり呼んでいた。

「シュルティラ貴様、その血は……!?」
「説明している時間はない。一先ず今は撤退するぞ。しっかりと掴まっていろ」
「待て、まだ━━━━」

エルトは何かを言いかけたが、サヴィヤはそれを聞く前にその五大を使用していた。爆音が響いたかと思うと、その場に黒煙が立ち上っている。どうやら五大を利用してその場のみの爆発を起こしたらしい。

「全員撤退しろ。引き付けは俺が務める。皆何処でも良いから走って逃げろ、良いな」

それだけを伝えると、サヴィヤはエルトを俵担ぎにして駆け出した。一体何がどうなっているのかわからず困惑しながら、エルトはされるがままになっているしか出来なかった。

9日前 No.384

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エルトを抱えたサヴィヤは王宮をまさに風のように駆け抜けた。しばらく走ったところで、彼はきょろきょろと辺りを見回してから近くの部屋へと入る。やはりルードゥスが王宮の人々を傀儡にしてしまったこともあってか、何処もかしこもしんと静まり返っていた。
入った部屋は使用人の寝起きする場のようで、こぢんまりとした寝台が二つ置かれていた。そのうちのひとつにサヴィヤはエルトを下ろし、近くにあった椅子を寝台の傍まで持ってきて其処に座った。じ、と彼の突き抜けるような空色の瞳に見下ろされて、エルトは少なからず気まずくなる。

「……私を助けて、どうするつもりだ」

喉の奥から絞り出した声は、あまりにも弱々しかった。出来る限りの威厳を持ってサヴィヤに立ち向かおうとしたのに、出血と疲労で上手く声が出てくれない。エルトの生殺与奪は、サヴィヤにかかっているようなものだ。今のエルトは満足に動くことも出来ない。実際に、此処までサヴィヤに運ばれてきたのだから。

「どうもこうも……俺は何をする気もないぞ、エルティリナ。お前を助けたのは俺の意思だ。其処に義務感も下心もない」

しかし、サヴィヤはさらりとエルトの問いを打ち消すような答えを返してきた。助けたいから助けた。それで悪いか、とでも言いたげな表情である。綺麗事を、とエルトは怒鳴り付けてやりたかったが、サヴィヤの目はあまりにも真っ直ぐで、言い返すことすら億劫になった。それだけエルトは疲れていたし、同時にサヴィヤの言葉には不思議な説得力があった。
はぁ、とエルトは溜め息を吐く。眉間を押さえて、今の表情をサヴィヤに見られないようにと努めた。エルトは、今自分がとてもではないが王子として見せられない顔をしているとわかっていた。憎むべき相手に、醜態など晒してなるものか。

「……酷い怪我だな。痛かっただろう」

そんなエルトの努力を知らないのであろうサヴィヤは、彼の腕と足を見て悲しげに眉尻を下げた。ずっと気を張ってきたエルトだが、此処まで来ると最早そのような余裕もなく、ぼやけかかる視界の中で何とか虚勢を保ち続けることで精一杯だった。
サヴィヤは懐から手拭いを取り出すと、それを二つに引き裂いて患部に宛がう。“気”で出血を抑えていたとは言え、やはりまだ血は滲むものだ。くっ、とエルトの顔が痛みに歪んだ。サヴィヤはそれを見る度にすまん、と謝罪をしながら、患部の血を拭っていく。

「……何故、私に其処までする。私はお前に憎まれて当然の、アーカムの王族なんだぞ。それなのに、何故お前は……」

エルトはサヴィヤ━━━━すなわちシュルティラが憎くて憎くて堪らない。だが、この時ばかりは問わずにはいられなかった。何故此処まで自分を助けようとしてくれるのか。エルトの憎悪以上に、シュルティラのアーカムに対する憎悪は強いはずだ。そのアーカムの王族を助けるなんて、エルトには信じがたかった。
ふむ、とサヴィヤは思案する。そしてもう一度エルトと目を合わせて、彼は言い放つ。


「弟だからな」
「…………はい?」


その言葉は、とてつもなく簡素だった。一言でサヴィヤは全てを終わらせた。エルトの体はまるで果てのない三千世界に投げ出されてしまったかのような衝撃を覚え、しばらくぽかんと口を開いているしか出来なかった。

「……弟だからな」
「いや、繰り返さずとも良い。というか何故繰り返した」
「大事なことは繰り返すものだと、かつて憧れた人に教わった」
「……そうか」

どうもサヴィヤの前では感覚が狂う。これは意図的にやっているのだろうか。エルトとしては意図的にやっていた方がずっと良い。無自覚程厄介なものはないと、これまでの経験が物語っている。

「俺はこれまで幾度となく輪廻を繰り返してきたが、正式に弟が出来たのは初めてなんだ。いても身分を偽られたり勘当されたりしていたからな。故にエルティリナ、お前は俺にとって何物にも代えがたい」
「……たしかに、王族であれば利用価値もある。わかりたくはないが、納得はしてやるとも」
「そうだな。お前がいれば俺が嬉しいという利点がある」
「お前……」

よく恥ずかしげもなくこのようなことを言えるものだ、とエルトは思う。この男の中に恥じらうという概念はあるだろうか。考えるだけ無駄な気がしたので、エルトはそれ以上言及はしなかった。
それよりも、エルトはサヴィヤに……シュルティラに、問わなければならないことがある。ごくり、と唾を飲み込んで、エルトはサヴィヤの様子を窺う。何を思っての行動なのかはわからないが、彼は甲斐甲斐しくエルトの怪我の治療をしてくれていた。先程の言葉を信じたくはないが、こうまでされては信じない方が異端のように思えてくる。ええいままよ、とエルトは腹を括った。そしてサヴィヤに問いかける。

「ならばあの日━━━━アーカム王国の滅んだ日、何故お前はレトヴィティー殿と義兄上、義姉上たちを殺した?お前は俺を大切に思っているのだろう。そうであれば、他の王族たちにも同じように思っていたって可笑しくはないはずだ」
「……エルティリナ」
「あの方々は戦に出ている訳ではなかった。ただ王宮で、ティヴェラの軍勢に怯えていらっしゃっただけだ。そんな方々を殺す必要が果たしてあったのか?それに……何故お前はティヴェラに仕えた?……答えろシュルティラ、お前にはこの問いを黙秘する資格はない」

長年の疑問、そして憎悪の原因。その真偽を、エルトは確かめなければならないと思った。これをうやむやにしたままで、全てを終わらせたくなどなかった。あの時、エルトはたしかに見たのだ。血溜まりの中に独り佇むシュルティラの姿を。
サヴィヤは、一瞬きょとんと目を見開いた。そして、物憂げにうつむく。美しい顏とは、どのような感情を湛えていても美しいものだ。エルトに男色の趣味はないし気に食わないことこの上ないが、サヴィヤの顔が綺麗であることは否定しない。美しいものを美しいと認めないのも無粋というものだ。

「……たしかに、いつまでも黙っている訳にはいかんな。お前が追及するのも無理はない」
「……ならば」
「ああ、話すとも。可愛い弟がそう望むなら、俺に断る道理はないというものだ」

もう面と向かって可愛い、と言われるような年ではないというのに、サヴィヤは気にせずに可愛いとエルトを評価した。お前は喧嘩を売っているのか、と言いたい気持ちを必死に押し込めて、エルトは続くサヴィヤの言葉を待つ。

「……正直なところ、すまないことをしたとは思っている。だが、あれは致し方のないことだった。彼処で王族の者たち……義兄弟たちとレトヴィティーを殺しておらずとも、いずれ違う形で惨劇が起こったことだろう」
「この期に及んで言い訳か?シュルティラ。お前の為したことを、私は10年間恨みながら生きてきた。私に納得させられるだけの理由を提示出来ないのならば、相応の償いを求める。お前の所業は、アーカムを滅ぼす一因となったにも等しいからな」

エルトはサヴィヤをきつく睨み付ける。たとえ母親は違おうとも、義兄弟たちはエルトの大切な存在に他ならなかった。それを奪ったのだから、サヴィヤには相応の報いが必要だとエルトは思う。
エルトの言葉を聞いたサヴィヤは悲しげに目を伏せた。その態度が、エルトにとってはより腹立たしかった。どうせならやってやったと開き直って笑ってくれた方がずっと良い。こうも申し訳なさそうな表情をされては、何処に怒りをぶつければ良いのか迷ってしまう。

「……そうだな。言い訳に聞こえてしまうのは至極当然のことだ。俺はそれだけのことをした。その事実は、どうあっても変わることはない」
「…………」
「故に……故にだ、エルティリナ。俺はお前に自分の“気”を送り込む。そうすれば、俺の見た光景をお前も見ることが出来るはずだ」
「ま、待てシュルティラ。いくら何でも、話が急展開過ぎないか」

突然の提案に、エルトは状況云々以前の問題でサヴィヤを止めに入った。たしかにエルトはかつての一件について話せと言った。だが、何も其処まで大掛かりな方法を用いろとは言っていない。しかもサヴィヤの提案は彼の“気”をエルトの体内に送り込むというものだ。何が起こるかわからない身としては、止めざるを得ないだろう。

「案ずるな。俺とて“気”の扱いには慣れているつもりだ。お前の体内で暴発することはないしお前の体に悪影響を及ぼすことはない。少し俺の情報が入ってくるだけだ」
「そ、それが問題なんだシュルティラ!お前程の使い手であれば、“気”を好き勝手いじって記憶を改竄することだって……」
「お前が俺を買ってくれているのは嬉しいが、さすがにそのような真似をしていては手間がかかる。それにな、エルティリナ。俺の“気”を送れば、お前のその傷も快方に向かうかもしれない。だいぶと荒療治になってしまうが、其処は妥協出来るな?」
「ええい、お前一人で勝手に話を進めるな!要するに従えば良いのだろう、従えば!良いか、もし怪しい真似でもしたら二度とお前を兄とは認めないからな!」

これはいくら言っても無駄だとエルトは確信した。まずは好きなようにやらせてみる他ない。そうでもしなければ、サヴィヤは次々と爆弾発言を投下していくことだろう。エルトだっていつまでもそれらに耐えられる訳ではない。今だって色々な意味で満身創痍なのだ。
許可が降りたことに安心したのか、サヴィヤはほっ、と息を吐く。そして、そっとエルトの患部へと手を翳した。

「害はないはずだが、お前にとっては辛い記憶を呼び起こすことになるかもしれない。それだけのことを俺はした」
「……構わん。御託は良いから早くしろ」
「……そうか。恐ろしかったら、俺の手を握っていて良いからな」
「だ、だから、さっさとしろと言っている!妙な兄貴面をするんじゃない!」

変なところで兄ぶってくるサヴィヤを一喝してから、今度こそエルトは深呼吸をして目を閉じる。その瞼の裏に、どのような光景が映っても良いように、気を引き締めながら。

8日前 No.385

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

エルトの質問に答える形だというから、てっきり彼は10年前の光景が映し出されるものかと考えていた。だが、エルトの中に初めに広がった光景は、よく知るアーカムでもシャルヴァの何処かでもなかった。

(……平原……?いや、これは……地上か……?)

それは、かつてエルトが見た夕日というものによく似ていた。……というか、実際にそれは夕日なのだろう。地平線の向こうに沈んでいく橙色の太陽は大きく、シャルヴァ生まれのエルトとしては未だに見慣れないものだ。
そんな夕日に照らされた其処は、どうやら戦における本陣のようだった。夜営などではなく、しっかりと要塞のようなものも造られている。それはさながらちょっとした城のようにも見えた。外観だけでなく、実際に臨時の王宮として使っているのかもしれない。

(……あれは)

本陣はこれからの戦に備えているのだろうか。ある程度準備はしてあり、兵士たちも来るべき戦に備えているように見えた。ただ、夜襲は仕掛けないつもりなのか、皆張り詰めた空気はかもし出しておらず、心地の良い武者震い、といった様子であった。その証拠と言えるのかはわからないが、皆夕食を囲んで歓談していた。
その中にぽつねんと、サヴィヤ━━━━否、シュルティラは座っていた。彼は孤立しているというよりもむしろ、周りの様子を観察して楽しんでいるように見えた。

━━━━……隣、良いか。
━━━━…………!

そんなシュルティラに、後ろから声をかけた者がいた。豪奢な鎧を身に纏った、夕闇すら切り裂きそうな鋭さを湛える男である。シュルティラがわかりやすく畏まったところからして、この男は彼の上司なのだとエルトにも理解することが出来た。

━━━━っあ、×××殿……。
━━━━そう畏まる必要はない、サヴィヤ。すぐに身を固くするのはお前の悪い癖だ。

ぺこり、と頭を下げるシュルティラに、男は真顔でそう言い放った。男としてはシュルティラに助言してやっているつもりなのだろう。だが表情と突き刺さるような口調のせいで咎めているようにも聞こえなくはない。この男、結構な誤解を生みそうである。
だが、エルトとしては気になったのは其処ではなかった。自分がどういった視点にいるのかはわからないが、思わず目をぱちくりとさせ……た気になる。

(サヴィヤ……?たしかに今、この男はサヴィヤと言ったな?ならば、かつてのアーカム……いやシャルヴァにおいて口にすることすら禁忌にされていた名前とは……)

シュルティラ……が現在のように輪廻する前の、彼が地上にいた頃の名前は、アーカムからしてみれば忌々しいことこの上なかった。故に、彼らはシュルティラの名前はシュルティラで統一し、それ以前の名前を口にしてはならないと取り決めた。今となってはその名前すら闇の中であり、アーカム王家の人間であるエルトすら知らない。きっと両親や他の王族も知らなかったことだろう。彼らに関しては、知らなかったというよりも触れなかったと言った方が適切かもしれない。それゆえに、一般人などシュルティラ以前の名前など気にすることもなかった。その忌むべき名前をシュルティラが名乗っていようと、誰も気にしなかったという訳だ。
閑話休題。まずはシュルティラの様子を観察しなければならないと、エルトは目を凝らす。先程までずっと翻弄されていたから、仕返しに彼が慌てる姿を見てみるのも悪くはない。

━━━━……申し訳、ございません。×××殿は俺の憧れですので、どうしても……。
━━━━ほう、俺に憧れているのか、お前は。
━━━━は、はい。×××殿の武勇は神にも比類するが如く轟いております。貴殿のようなお方の下で働けるなど、夢を見ているかのような気分です。

シュルティラは、男に向けて珍しくきらきらとした目を向けていた。憧れている、というのは本当のことなのだろう。男は何度か瞬きをしてから、腰に携えていた剣をいとも簡単にシュルティラへと手渡した。

━━━━×××殿、これは……!
━━━━……生憎、剣術は不得手でな。お前はどの武術も上手くこなすと聞いている。滅多に使わない俺よりも、お前が持っていた方がこの剣も喜ぶだろう。
━━━━あ……ありがたき、幸せにございます!
━━━━……励めよ、サヴィヤ。

深々と頭を下げるシュルティラを一瞥して微かに微笑んでから、男はすたすたと歩き去ってしまった。その後ろ姿が見えなくなるまで、シュルティラは頭を下げたままだった。

(……彼奴にも、憧れる人間がいたのだな)

シュルティラは、エルトの中では何処と無く孤高の男という印象があった。それもあって、他の人間とこうして関わっている彼を見るのは何だか意外だった。上司とあのように話しているのなら、部隊を同じくする同僚とも上手くやれていたのだろうか。そう思いながら、エルトは目の前の光景を注視する。
━━━━が、エルトの思惑とは逆に、シュルティラの記憶は暗転した。そして次にはっきりと全貌が明らかになった時、其処はもう先程と同じ場所ではなかった。……いや、場所は同じだった。だが、その様子はあまりにも異なりすぎていて、エルトが同じ場所だと理解するのに数秒の時間を有した。

(これは……!)

燃える建物。逃げ惑う人々。其処には武人だけでなく、使用人であろう女子供もいる。シュルティラの属する軍の本陣が陥落したと、その光景は物語っていた。

(……間違いない、間違えるはずもない……!此処は、この場所は……!)

エルトはこの光景を“知っている”。以前に一度見たことがある。確信のあることが、この時はむしろ恐ろしかった。何故、何故、何故。何故この光景が、シュルティラの記憶の中にあるというのだ━━━━。

━━━━……はぁ、はぁっ……。

荒い息。上下する肩。端正で整った顔には疲労が見受けられる。馬上からこの惨状を見渡したその青年は、“自分たちがこの本陣を落としたというのに”苦しそうな顔をしていた。その手にはエルトもよく見知った弓━━━━アーカムも至宝が握られている。……ということは、この青年はかのアーカムの祖なのだろう。

━━━━……っ、退きなさい。あの男は死んだ。あなた以外のお仲間は、皆此方側に付きましたよ。
━━━━…………。

アーカムの祖の見下ろす先には、返り血と自分の血で真っ赤になったシュルティラがいた。彼はあの上司の男から賜った剣を握り締めて、アーカムの祖を睨み付けている。シュルティラが劣勢なことは目に見えていたが、それでも彼はアーカムの祖を圧倒していた。戦意を削ごうとする彼を睨みながら、シュルティラはその薄い唇を動かす。

━━━━……貴様は、この戦いに何を求める?
━━━━な……にを、とは……。

それは、至極簡単な問いかけであった。シュルティラはそれだけ問うと、また押し黙ってアーカムの祖の答えを待つ。しかし、アーカムの祖は尋常でない量の汗を流しながら、ふるふると唇を震わせていた。周りにいる部下に命令でもすれば、彼はシュルティラを殺せるだろう。しかしアーカムの祖はシュルティラの目に射竦められたように動けないでいた。

━━━━……私は、王族だ。そうだ、王族なのです。ですから、私には民を導く義務がある。民が窮することなく、飢えることなく、病めることのない国を、世界を、私は創らなければならない。それ以上に、何の理由がこざいましょうか。

怯えながらも、アーカムの祖は王族らしく朗々と答えきった。それは、きっと回答としてはほぼ完璧なものだっただろう。


━━━━否。


しかし、シュルティラはその答えを瞬で否定した。アーカムの祖の体が、びくりと震える。恐らくエルトが此処に人間として立っていたら、彼と同じような反応をしていたことだろう。

━━━━否、否、否。お前は、何もわかっていない。

周りが敵だらけであろうと、相手が王族であろうと。シュルティラには遠慮のえの字もなかった。聞いている方のアーカムの祖はわなわなと震えている。それは決して、王族に対する不敬に怒っているが故ではないのだろう。エルトにもこの時のアーカムの祖の内心は理解出来た。

(……恐ろしいのだ、シュルティラが)

アーカムの祖の、シュルティラに対する恐怖。それはエルトが覚えたことのあるものと通じていた。いや、この状況だと、エルト以上かもしれない。周りに味方がいるというのに、アーカムの祖は四面楚歌に陥ったがごとき表情をしている。弓を持つ手も、わかりやすく小刻みに震えていた。
そんなアーカムの祖の様子をシュルティラが気にする様子など皆無であった。真っ直ぐにアーカムの祖を見据えながら、彼は続ける。

━━━━お前の本来の望みは何だ?民の虐殺か?この王宮の壁を血で塗りたくることか?それとも肉親殺しか?

ず、とシュルティラが一歩前へ進み出る。アーカムの祖の顔は、それだけでさっと青ざめた。シュルティラの真意は推し量れない。何を考えているのかわからない無表情で此方を見ている彼に、アーカムの祖は怯えているしか出来なかったのだろう。

━━━━どれも違うだろう。どれもこれも、お前が本心から望むものではないだろう。だのに何故目的にこのような愚行を付随する?このようなことをすれば、民の心はお前から離れるだけだ。
━━━━う━━━━うるさいっ!!

……だが、シュルティラが饒舌にアーカムの祖に告げた瞬間、何かが弾けたかのように彼は叫んだ。そして、恐らく衝動的にシュルティラに矢を射る。飛んでいった矢はシュルティラの下腹部に突き刺さった。

━━━━っ、うるさい、うるさい、黙れ黙れ黙れ!!貴様に何がわかる!王族として、国を背負う者として、私が何を背負ってきたかなど!知りもしない癖に、知ろうともしない癖に、わかったような口を利くな!

叫びながら、アーカムの祖はがむしゃらにシュルティラへと矢を射続ける。一歩も退かないシュルティラは、ただ射られるがままになっていた。アーカムの祖から目を離さないとでも言うかのように、ずっと。
やがて、シュルティラの体躯はどうと地に倒れた。その体には幾多の矢が突き刺さり、まるで針山のようだった。息絶えたシュルティラを見ながらも、アーカムの祖の呼吸は荒いままで、顔色も良いとは言えなかった。

━━━━で、殿下……。
━━━━……先に、戻っていなさい。私は後から合流します。
━━━━しかし……。
━━━━良いから!……私は戻れと言っているのです。速やかに戻りなさい。

おずおずと声をかけてきた配下を睨み付けてから、アーカムの祖は何処へともなく馬を走らせる。その背中は、あまりにも寂しく、そして小さく見えた。

(嗚呼、あの光景は。私の、夢に━━━━)

どうしてあのような夢を見たのか。何故だか今なら納得出来るような気がした。其処にエルト自身はおらずとも、そう確信を持つことが出来た。もう動かないシュルティラの体を見ようとして━━━━エルトの視界は、再び暗転した。

7日前 No.386

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6日前 No.387

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どれくらいの時間が経ったのかはわからない。だが、エルトは全ての光景を見てから現実に引き戻された。目の前には、やや眉尻を下げたサヴィヤの美しい顔がある。

「エルティリナ、無事か?異常は感じられないか?」
「……見ての通りだ」

気持ちは晴れなかったが、体調に関しては随分と良くなっているような気がする。第一に、負傷していた腕と足の出血が止まり、打撲程度の青痣で済んでいる。動かしてみると多少は痛かったが、武器を取れない程ではない。それに、負傷に伴って発生していたと思わしき倦怠感や寒気、眩暈も収まっている。これなら走ったり飛んだりしても支障はなさそうだ。
自分の確認は一通り終わらせたので、エルトは再びサヴィヤに向き直る。ほぼ快復したエルトとは対照的に、彼は怪我を負ったままだ。ついでに言えば、口の端には明らかに出血とは思えない血痕が付着している。何が起こったのかはエルトにもわからないが、とりあえずサヴィヤが多かれ少なかれ無理をしているということは明確であった。恐らくこの男は他人の痛みは必死で和らげようとするが、自分の痛みは放っておく質なのだろう。そのうち自滅したって可笑しくはない。それならば、多少形振りが汚くとも生にしがみつこうとする人間の方がまだましである。

「それよりも……だ。シュルティラ、お前には幾つか問わねばならないことがある」
「何だ?あの記憶は改竄していないはずだが」
「……いや、今更お前のことを疑いはしない。あれだけ臨場感を持たされたら、嫌でも信じたくなるようなものだ。そうではなく、何故お前は己が過去……地上にいた頃の記憶までもを流し込んだ?私には関係のないことのように思えるのだが……」

10年前の記憶ならまだわかる。だが、エルトが生まれるずっと前の記憶を見せられる理由はぽんと思い付くものではない。たしかにエルトは以前、同じような光景を夢で見た。その時は質の悪い夢だと思っていたが、まさかこのようなところで繋がるとは思ってもいなかった。
サヴィヤはぱちぱち、と何度か瞬きをする。彼としても意外だったのだろう。ふむ、と少し考えてから、サヴィヤは口を開いた。

「……これはあくまでも俺の憶測だから、はっきりとは言い難いのだがな。恐らく、アーカムの祖が関係しているのだろう」
「祖が……?」
「見てわかったとは思うが、お前とアーカムの祖は瓜二つだ。俺も初めて見た時にはアーカムの祖が甦ったのかと思ったからな。そして、お前は今祖の有していたアーカムの至宝を使っている。それゆえに、俺の記憶の中から、無意識のうちに流れ込んでしまったのかもしれない」
「はぁ……なるほど……?」

いまいち納得はし難かったが、たしかにエルトとアーカムの祖の顔かたちはよく似ていた。畏れ多い気持ちもあるが、事実なので致し方ないだろう。
それよりも、である。エルトは起き上がってずい、とサヴィヤに顔を近付けた。その空色の瞳が困惑に揺れるが気にしない。

「シュルティラ。私はこれまで、お前がレトヴィティー殿や兄弟たちを殺めてきたものだと考えてきた。お前のことを憎んできたのもそれゆえだ」
「……その憎悪は妥当なものだろう。たしかに俺はアーカムの王家の者たちを殺した。結果的にアーカム王国は滅びた。結局のところ、輪廻の忌み子たる俺はアーカムの人間を脅かすことしか出来んのやもしれぬな」
「……ふん。一応忌み子としての自覚はあるようだな。忌々しい程に謙虚なことだ。……それならば、もう私はお前を責めはしないよ、シュルティラ」
「エルティリナ……?」

きょとん、とサヴィヤはエルトを見つめる。エルトはふいと彼から視線をずらした。この男には恥ずかしながら全て話してやらないとわかってもらえないらしい。

「……だから、私はお前を許してやると言っているんだ。お前がアーカムの王族を殺したことは事実だが、其処に憎む理由はなくなった。私も一応王族だからな、多少は寛大でいないとならないだろう」
「……本当に、お前は俺を許すのか?10年間、憎み続けてきたのだろう?」
「勘違いするなよ、シュルティラ。気が変わった、というだけだ。たしかにこの憎悪は私の行動基準のようなものだった。だが、意味もなく他人を憎悪する程無益なものはあるまい。これは王族として当たり前の振る舞いだ。一個人の私情によって他人を振り回すのは、名君のするところではないだろう」

一息に話し終えて、エルトはサヴィヤから顔を背けた。いつまでもこの男の顔を見つめているのは、さすがのエルトでもそれなりに恥ずかしかったのだ。話したいことは話し終えたのだから、これ以上見つめ合う必要はないだろう。サヴィヤが後ろでどのような顔をしているかなんてエルトには関係ない。……そう、関係ないはずなのだ━━━━。


「━━━━ふむふむ、仲良きことは美しきかな、であるな!」
「……っ!?」


その声は、“上から”聞こえてきた。なんとなく話しにくい空気になっていたエルトも、これはさすがに見過ごせない。慌てて振り返ると、其処にはサヴィヤ以外の人物が立っている。

「……あなたは」
「うん、隠密部隊の君子こと紫蘭であるぞ。貴様ら、あの爆発故てっきり自爆したのかと思っていたが、なんだかんだで無事だったのだな。重畳、重畳」

君子とは、とエルトは考えたくなったが、突っ込んでも無駄なような気がしたので何も言わないでおいた。とにもかくにも紫蘭である。ふふん、とふんぞり返っている辺り、自分が君子ということに疑問を抱いてはいなさそうだ。自称なのか、はたまた他人から評価されたのか、地味に気になるところではある。
サヴィヤはというと、紫蘭のことは知っているようで━━━━というか、面識以前に受容してしまっているのか特に突っ込むことはなく「そうか、ご苦労だった」と声をかけた。相も変わらず真顔である。しかし紫蘭はそんなサヴィヤに向かっても調子を崩すことはなかった。お互いに何処かずれているから、逆に噛み合っているようだ。

「いやぁ、不穏な空気になったら天井から飛び出て止めようとは思っていたのだがな。何にせよ、穏便に和解したようで安心したぞ。世の中にはどちらかが死ぬまで殴り合いをして決着をつけるような暗愚もいるらしいからな」
「エルティリナはそのようなことはせぬよ。たしかにこれまで多少揉めはしたが、大怪我をするまでには至っていない。それに、蟠っていた誤解は解けた。今のところ、我等が争う理由はないだろう」
「ほほう、それは良きことだ。まあ、私も君子なのでその心掛けは貴様らよりも先駆けているぞ?姉のように慕っていた人が殺されて一時は曲者を引っ捕らえて全身の関節を外し骨を折ってから酸の中にぶちこんでその上から汞を垂らして中毒死させてやろうかとも考えていたが、やはり冷静になってみるものだな。過去の因縁は引きずらないことにした」

紫蘭は至極普通といった表情だが、その視線はしっかりとエルトに向けられている上に言っていることが物騒に過ぎる。どうやらエルトに姉貴分であった小鈴を殺されたことをまだ根に持っているようだ。この点については完全にエルトが悪いので、彼も言及はしなかった。勿論、前述のような拷問にかけられるのは御免だが。
とにもかくにも、今は過去の因縁を蒸し返している時ではない。エルトは咳払いをしてから紫蘭へと問いかける。

「……とりあえず、今は合流出来たことに感謝しなければなりませんね。他の方々とはお会いしなかったのですか?」
「いいや、私も自分が逃げることで精一杯だったからな。決して置き去りにしていった訳ではないことは信じてくれ。……ああ、そういえば、こいつのことは拾っておいたぞ」
「……む、こいつは……」

紫蘭が懐から取り出したもの。それはナラカが連れている餅蜥蜴であった。相変わらず何を考えているのかさっぱりわからない絶妙な表情をしている。正面から見つめられるとなかなかに辛い。

「意外ですね。てっきり、ナラカと共にいるものかと思っていましたが……」
「小さいから、何処かで溢れ落ちたのかもしれないな。見たところ無傷だから、治療の心配はなさそうだ。ナラカの奴にべったりくっついている印象が強かったが、結構強かなのだな。まあ君子だからどのような生物であろうと助けてはやるが。……触るか?」
「あ、ああ。感謝する」

ずっと餅蜥蜴のことをじっと見つめていたサヴィヤは、意図せずしてその希望を汲んでもらえたようだ。恐る恐るといった様子で紫蘭から餅蜥蜴を受け取る。そのままぷにぷにとつついていた。何というか、どう声をかければ良いのか悩む場面である。

「……あの、未知の生物に触れるのもまた一興だとは思いますがね。まずは、作戦会議をしませんか」

そのため、エルトも声を絞り出すようにしてそう提案した。餅蜥蜴をいっしょになっていじっていたサヴィヤと紫蘭は、お互いに顔を見合わせてからこくりと首を縦に振った。

5日前 No.388

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「……とりあえず、今はあのニラヤとかいう女をどうにかしなくてはならないな」

もうひとつ置いてあった椅子にちょこんと座った紫蘭は、苦々しげな表情をしながらそう切り出した。彼女があからさまに嫌そうな顔をする気持ちはエルトにもよくわかる。あの手の類いの人間━━━━というか怨霊は、出来ることなら相手取りたくはない。事実、エルトたちはほぼ巻き込まれたようなものだ。ニラヤはエルトがアーカムの血を引いていたというだけで殺意を抱いてきた。あまりにも滅茶苦茶としか言い様がない。

「……それで、貴様は奴の中に入ってきたのだろう?どのような感じだったんだ?」
「……その言い方は多少お下品ですが……まあ良いでしょう。今はニラヤの問題が先決ですからね」

恐らく紫蘭に悪気とか悪戯心とか、そういったものは一切ないのだろう。だがやはり語弊があるものは見過ごせないし聞き逃せない。

「あの中は、一面がどす黒い瘴気で満たされていました。触れようとしても触れているという実感はなく、しかしニラヤからぶつけられたものはとてつもなく重い。避けなければ死ぬと見ただけでわかるようなものでした。加えて、五大をどんどん吸い取られてしまうのです。何とか“気”で応戦してみても、ニラヤには全く効く気配がありませんでした。辛うじて、外界からの武器でどうにかなるくらいのものです」
「むぅ、それはなかなかの難敵だな。ならば精神的に負荷をかける他ないか……。なぁ、ニラヤとは言葉を交わしたのだろう?彼奴の人となりはどうだった?」
「……それは私ではなく、此方に聞いた方が良いのでは?」

ちら、とエルトが視線を寄越した先には、相変わらず餅蜥蜴を控えめに触っていたサヴィヤがいる。彼ははっとしたように顔を上げると、きょろきょろ視線を泳がせた。そして、エルトの方を向いてからじっと彼の顔を見つめ、何事もなかったかのように話し始めた。

「……これはあくまでも、俺が過去で見た限りの記憶なのだが……。ニラヤは、滅多に誰かを憎むようなことはしないごく普通の娘だった。俺が見ただけでも、恐らく一度きりだったと思う」
「それだけ優しい娘だったということか?」
「……そうだな。気配りが出来て、周りもよく見ていた。よく俺に軽食を作ってくれたし、励ましてくれたこともあった。それこそ、誰かのために尽くしてやれるような人間だったよ。だから俺も驚いたのだ。ニラヤが、呪詛を吐くことなどあるものか、と」

サヴィヤの表情は、純粋な疑問と申し訳なさに満ちていた。本来ならば、あのようなことはなかったはずだ、と言っているようにも見える。自分が関わらなければニラヤは怨霊になることはなかったと後悔しているのかもしれない。
だが、エルトからしてみればそれは全くの杞憂のように思えた。はぁぁぁ、と大きな溜め息を吐いてから、彼はサヴィヤを半目で見る。

「……お前、武芸の才の代わりに他人の心を細やかに汲み取る術を捨ててきたようだな」
「……む。さすがに聞き捨てならんぞエルティリナ。俺とて、他人の心はわか……こほん、汲み取っているつもりだ。多少齟齬はあるが……」
「その齟齬が大きすぎるのだ、お前は。これは部外者の私にもわかるぞ。━━━━あのニラヤという娘、完全にお前に惚れている。故にこそあのような凶行に及ぶことが出来たのだろう」

しん、とその場が静まり返った。サヴィヤはぽかんとした顔で硬直し、紫蘭は口元に手を当てて震えていた。なんとなくエルトが良からぬことを言ったような空気になってしまったが、こうなっては最早退くことは出来ない。むしろ退いたらもっと酷いことになりそうだ。

「…………ニラヤが、俺に。惚れている……のか?」
「ああ、そうだとも。奴の瘴気の中で私は奴自身の過去を垣間見た。そのほとんどがお前への恋情だ、シュルティラ……いや、サヴィヤ!彼奴の行動基準は間違いなくお前だった!ニラヤにはきっと、お前しか見えていなかったのだろうよ!」
「…………何と」

サヴィヤの驚きは凄まじく大きかったらしい。あの無表情なサヴィヤが、わかりやすく衝撃を受けている。掌の餅蜥蜴はやれやれとでも言いたげに尻尾で彼の手首をぺちぺち叩いている。小動物にまで呆れられてしまったようだ。

「で、では!あの娘は、シュルティラへの恋情だけで彼処まで狂えたのか!?発狂とまではいかずとも、他人を憎むのはかなりの労力がいるぞ!?それを数千年もなど……!」
「ええ、持てたのでしょうね。普通、怒ったり憎んだりすることはそう長続きしないものですよ。少なくとも、ただの人間であればいつかはその気持ちがすうっと和らぐ時が来る。……けれど、あの娘の心の中にはずっと憎悪が存在し続けている。いや、日を追うごとに蓄積されているのかもしれない。それだけの根性を以てニラヤはこの男を殺したアーカム王家と世界を憎み続けているのでしょう」
「しかし……一介の娘がそのような力を持つことなど……!」

紫蘭は信じられない、といった様子で眉間を揉む。たしかにその気持ちはエルトにもわからなくもない。だが、彼はニラヤの過去を望まずして見ている。あり得ない、と思うことであっても、受け入れる他ないのだ。

「……ニラヤは、普通の人間などではありませんでした。むしろ、私や……アーカムの祖に近い出自でしょう」
「……?それは……」
「あの娘、お前には話していなかったのだろうな。お前が鈍感過ぎるということもあるのだろうが……。あのニラヤという娘、半分王族、もう半分は神の血を引いているぞ」
「王族……」
「神ぃ!!??」
「……隠密殿、あなたはもう少し声を落とせないんですか?」

唖然とした様子のサヴィヤと、とてつもなく大きな声を張り上げる紫蘭に、エルトは頭を抱えたくなってしまった。声が大きすぎるのは別だが、ニラヤのことを全く知らない紫蘭が驚くのはまだわかる。しかしニラヤの傍にいたサヴィヤが気づいていなかったというのは辛い。何だかニラヤが哀れに思えてきた。

「あの娘は、西域の国の王女と月神の間に生まれたようです。月蝕の日を利用することで、父親の莫大な力を一時的に我が物とすることが出来たのでしょう。呪詛が生じたのもそのせいですね」
「だが、神と人はこう……恋仲になることはあろうが、子を成すことが出来るというのか……!?まず種族から違うだろう!」
「出来るぞ」
「出来るのか!」

あわあわしながら喚き散らす紫蘭にあっさりと答えたのはサヴィヤである。何の前触れもないのは心臓に悪い。ついでにエルトは耳が痛い。

「あの時代、異種間で子を成すことはそう珍しいことではなかった。俺の周りにもそういった方々が少なからずいたぞ」
「い、いたのか……!」
「……とは言っても、姿形は人間とそう変わりないものがほとんどだ。まあ、やはり多少神々しくて眩しい方もいたが……非常に浮くということはない。強いて言うなら肌が赤かったり青かったりする程度だな」
「赤かったり、青かったり……!」
「……お前、其処まで知っておいて何故ニラヤのことには気付けなかった?」

サヴィヤから追い討ちをかけられて打ち震えている紫蘭はさておき、エルトは呆れた表情で彼へと問いかける。周りにニラヤと同じような境遇の者が多数いたというのに、ニラヤのことには気づいていなかったなど信じられない。たしかに生前のニラヤの見た目は神の要素などほとんどないに等しかった。だが、それでも勘づかないということはないだろう。
エルトから指摘されたサヴィヤは、しょんぼりという効果音が付きそうなくらいに肩を落とした。自分でも反省はしているらしい。これ以上責めても何も起こらなそうなので、エルトは一旦棚に上げておくことにした。

「……して、そのニラヤを倒すためにはどうしたら良いのだ?先程は貴様が矢を射って穴を開けていたが……。そもそも貴様、その傷で戦えるのか?」
「問題はない……と思う。それを言えば、俺よりもエルティリナの方が重傷だった。優先すべきはエルティリナだろう」
「なるほど、弟が可愛いのだな。それなら仕方あるまい。……しかし、その弟が矢を射ても吸い込まれるだけだったではないか。現時点でニラヤに対抗出来るのは貴様くらいのものだぞ」
「いや……まだ、手はある。それに、エルティリナの射た矢も、きっとニラヤには効いているはずだ」
「……っ!?あれは効いていたのか……!?」

てっきりエルトは自分の攻撃などニラヤには届いていないと考えていた。実際に、ニラヤは痛がる素振りも苦しそうな素振りも見せてはいなかったのだ。効いていないと判断して諦めてしまうのは当然だろう。驚愕を隠せないでいるエルトに、サヴィヤは無表情のまま続ける。

「仮にもニラヤ本人を殺した武器だぞ、あの弓は。何もない訳がなかろう」
「だが……」
「平気そうに見えていてもな、あれはあれで相当辛いはずだ。たしかにエルティリナ、お前の持つ“気”はニラヤの生きた時代のものより断然弱い。当てられてもかすり傷程度にしかならないだろう。だが、お前の攻撃には意味がある。重ねれば大きな打撃となるだろう。幸い、ナラカはまだ生きている。出来ることはあるはずだ」
「……どうして、そのような確信が……」

エルトが言葉を紡ぎ終える前に、そっとサヴィヤは彼の手を優しい手付きで取る。彼の白磁の手には、無数の傷が付いていた。そして、エルトを真っ直ぐに見つめながら告げる。


「作戦を思い付いた。聞いてくれるか」

4日前 No.389

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【第69幕:虚空、それは壁となる】

エルトとサヴィヤ、そして紫蘭が別室で作戦会議を行っていた頃とほぼ同時刻。彼ら以外の面子は驚いたことに皆まとまって避難していた。詰まるところ、別行動したのは紫蘭だけということになる。

「あの馬鹿、一体何処に行ったのよ……」

呆れ顔で溜め息を吐くのはニーラムである。彼女はこれまでの援護でかなり消耗したのか、珍しく疲れきった表情をしていた。たしかにずっと結界を張り続けた上にエルトやサヴィヤの援護も行い、極めつけにはニラヤがあの場所から出られないようにと特大の結界も張ってきたのだ。いくらシャルヴァを支える精霊でも疲れないということはないだろう。ニーラムの無理がなければ、この場にいる何人が生き残っていたことか。

「……恐らく、シュルティラ殿と、その弟君……エルト殿を追いかけたものかと思われます。あの馬鹿……ごほん、紫蘭殿はたしかに脳筋なきらいはございますが、無鉄砲なだけの愚者ではないはずです。きっと、彼女なりに考えがあるのでしょう」
「まあ、たしかにあいつらいがみ合ってたもんね。兄弟喧嘩で王宮吹っ飛んだら意味ないし、ナラカだって巻き添えになっちゃう。そういった意味では、緩衝材になってくれるのはありがたいよねぇ」

さりげなく紫蘭を馬鹿呼ばわりしながらも擁護するアリックに、スメルトもにこにこと同意する。スメルトに関してはナラカの無事が最優先のようだ。薬師の住まいで働いていた者なら百も承知だが。

「それよりも、これからどうするんだよ?あのニラヤとかいう奴、まともに相手してたら全滅だぞ」

神妙な面持ちで切り出したのはノルドだった。彼の言葉に、一同は黙り込んでしまう。無理もない話だ。サヴィヤが来るまで、彼らはニラヤに手も足も出なかったのだから。頼みの綱であるアリックの鉄砲も、今や弾薬が切れてしまって使い物にならない。下手な肉弾戦に持ち込もうとしたらエルトやナラカのようにニラヤの中に取り込まれてしまうだろう。エルトは助け出すことが出来たが、ナラカはどういう訳が未だにニラヤに取り込まれたままだ。生死すらはっきりとしない彼女がどうなっているのか、誰もわからない。
あのような化け物に、敵うはずがない。誰しも心の中に多かれ少なかれ諦めの気持ちがあることだろう。今は何とか持ってくれているようだが、ニーラムの結界だっていつ破られるかわからないのだ。こうなったら、今すぐにでも王宮から逃げることが得策かと思われた。

「たしかに……あれはもう怨霊という枠を超えている。あたしだってどうやって倒せば良いかわからないもの。ああ、こんな時に戦馬鹿のウシュナがいれば!」
「すみません、話を遮るようで申し訳ないのですが……ウシュナ殿とはどちら様で……?」
「シャルヴァにおける火の五大を司る精霊だ。ニーラム殿とは対極の位置にいるな」
「……何であたしの周りにはシャルヴァのこと知らない奴がたくさんいるのかしら」

シャルヴァの精霊についてあまり知られていないことが腹立たしいのか、ニーラムは横目でアリックを睨む。リリアから説明を受けたアリックはニーラムから目を微妙に逸らしながら彼女に尋ねた。

「そのウシュナ殿、という方を此処にお呼びすることは出来ないのですか?戦がお好きな方でしかも精霊となれば、あの瘴気の塊に太刀打ち出来るのでは?」
「……あんた、本っ当に何も知らないのね。良いこと、あたしと地の精霊、テララ以外の二柱の精霊はティヴェラ王国に接収されたのよ。けれど王宮から彼らの気配はしない。これっぽっちも精霊たちの痕跡が見られないのよ。あいつらがどうなったのかはわからないけど、此処にいないことは確か。協力なんて仰げないわよ、諦めなさい」
「しかし……此処にいないとなると、一体何処にいらっしゃるのでしょう……」
「そりゃあ勿論、あの空の精霊に取り込まれ━━━━」

途中まで言いかけて、ニーラムははっと口をつぐんだ。言ってはならないことを言ってしまった、とでも言いたげな顔つきである。当然、一同がそれを聞き逃すはずがなかった。そそくさと何処かへ行こうとするニーラムを、スメルトが後ろからがっちりと押さえつける。

「ねぇ、今何か大事そうなこと言ったよね?」
「い……言ってない!あたしは何も言ってないわよ!」
「ふーん、そうなんだぁ。言ってないんだぁ。僕、嘘つきは嫌いだな。全部吐いてくれるまで一本ずつ骨折ってこうかなぁ」
「待て待て待て、さすがに精霊相手に骨はやめとけ!此処で仲間割れしても意味ねぇだろ!」

何がなんでもナラカを助けたいスメルトは必死である。精霊相手に真っ向から喧嘩を吹っ掛ける思い切りの良さには、きっと誰もが(色々な意味で)一目置いたことだろう。しかしさすがにシャルヴァに生きる者として見ていられなかったのか、ノルドが顔を真っ青にさせながら間に入ってきた。スメルトはむぅ、と不満そうな顔をしながらも渋々ニーラムから離れてくれた。

「……ニーラム殿。しかしてその、“空の精霊”とは、一体何者でいらっしゃるのですか?私は地水火風の精霊がいるとしか聞いたことがないのですが」
「その点については妾も気になる。どうか教えてはいただけぬか、ニーラム殿」

アリックは静かな圧を含みながら、リリアは純粋な疑問をその整った顔に浮かべてニーラムへとぶつける。ニーラムの唇からはぐぬぬ、と荘厳な精霊らしからぬ音が漏れる。これはかなり押されていると見た。

「本当に頼む、あの化け物をどうにかするにはあんたの力が必要なんだよ。そのための第一歩として、その……“空の精霊”について教えちゃくれねぇか?な、お前からも何か言ってやれよ」
「えぇ、僕?ちょっと癪だけど……まあ、ナラカのためだしね。今話してくれたら小指だけで我慢してあげ…………ふがっ」
「こ、この方の言うことはお気になさらず!とにもかくにも、私たちはあなたの協力がなければ生まれたての子馬のように覚束ない存在なのです!ですから、ね!?後生ですから!」

またしても物騒なことを宣おうとしたスメルトの頬に間髪入れずに肘鉄を食らわせてから、アリックは早口でニーラムへと詰め寄った。伊達に船上で大暴れしていなかっただけのことはある。恐ろしいくらいに手際が良い。これにはノルドも「すげぇ……」と感嘆していた。純粋な感嘆なのかは不明である。
さて、此処まで迫られたニーラムはというと、ぎりぎりと削れそうなくらいに歯軋りをしていた。恐らく凄まじい葛藤に苛まれているのだろう。頼む、という気持ちを込めて一同はニーラムを凝視する。一部殺意らしきものを込めていた者もいるが気にしてはいけない。

「〜〜〜っ、わかったわよ!わかったからそんな目であたしを見ないで!人の視線とかはっきり言って苦手なのよ!」

四人のごり押しもあってか、最終的にニーラムは折れた。この状況で言うべきなのかどうかわからない台詞を吐いてから、悔しそうにその場に膝をつく。何だか悪いことをしてしまったような気にならないでもないが、誰も表面的には傷付いていなさそうなので良しとしよう。例の肘鉄は出血までには至らなかったので恐らく傷付いたことには入らない━━━━とアリックは定義した。後からスメルトに無言の圧力を向けられそうだが、ニラヤに比べたらまだまだ可愛いものである。

「とりあえずあんたたち、場所を変えるわよ。こんなところで立ち話するような内容でもないんだから」

ふんっ、と鼻息を荒くしながらニーラムは歩き出す。どうやら一周回って開き直ってしまったようだ。皆一様に肩を竦めてから、彼女の背中を追いかけた。

2日前 No.390

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一同が腰を落ち着けたのは、同じ階にある所謂会議室のような部屋であった。何とも言えない重厚感をかもし出す円卓は五人には少々過ぎたもののように思えたが、話し合いをするという点ではぴったりのように思える。特に約一名は円卓を目の前にすっかりはしゃいでいた。

「これが……!これが……!円卓……!サーのお屋敷で見たちゃっちい奴とは全然違う、この……この、何というか、凄い感じ……!端っこの方持って帰りたい……!」
「……君、あんなに懇願してた割りには変なところで寄り道するよね。僕に肘鉄食らわせた癖にね」

おかげで口の中ずっと血の味だよ、とスメルトに威圧されて、アリックは気を取り直すように咳払いした。これは仕方のないことなのだ。生粋のイングランド人であるアリックがかの騎士道物語を知らない訳がなく、アリックも子供が出来たらアーサーと名付けると意気込んだものだ。サーからは騎士道物語など時代遅れだし、海賊やってる身分で騎士道も何もあるものかよと突っ込まれたが、それはそれである。自分の振る舞いには反映せずとも、憧れる気持ちは存在するのだ。いわばアリックは諸々の事情を抜きにした単純な愛読者だった。
閑話休題。憧れの騎士道物語はさておき、まずはニーラムの話を聞かなければならない。彼女の言うところの“空の精霊”について、しっかり教えてもらうこととしよう。

「して、ニーラム殿。あなたが先程おっしゃっていた“空の精霊”とは、一体どのような存在なのですか?」
「……本当は、精霊って定義して良いのかわからないけど。まあ、此処では一応精霊ってことにしておくわ」

ニーラムの歯切れは良いとは言えなかった。出来る限り話したくはなかったらしい。申し訳ない気持ちはあるが、此処はぐっと堪えて耳を傾ける。

「“空の精霊”は、厳密には明文化されていないのよ。奴はシャルヴァを創るためだけに利用された生贄のようなものなの。奴の体と五大を糧として、このシャルヴァは創られた。いわば礎のようなものよ」
「……それって」
「あら、あんたもしかして知ってるの?じゃあ話は早いわね。━━━━その精霊の名前は、ヴィアレっていうの」

ひゅ、と何人かが息を飲むような音が聞こえてきた。ノルドは気まずそうにうつむいている。次いでばん、と円卓を叩いたのはリリアであった。

「待て、ヴィアレだと……!?妾は、妾は……同じ名前の者を知っている!」
「……へぇ、そうなんだ。まあその同名の奴については置いておきましょう。━━━━ヴィアレはアーカムの祖によって神に造られた武器で仕留められ、その体を粉々に砕かれた。そして其処から発生した五大で、シャルヴァの基盤となった……。奴が五大のうちの“空”に割り当てられているのは、恐らく姿を持たない、既に消えた精霊と見なされたからでしょう。アーカムの祖は悶々してたし、ヴィアレを利用したことを密かに後悔していたみたいね。だからあたしたちにだけ、“空の精霊”の存在を告げた」

空。それはすなわち虚空を表す。サンスクリット語ではアーカーシャと訳され、何も妨げるものがなく、全てのものの存在する場所と見なされた。それゆえに、しばしば悟りの境地として表されることもあるという。無為にして実在性があり、何もかもと隔絶していながら一切を包括し擁する━━━━。その在り方に、アーカムの祖はヴィアレと重ね合わせたのだろう。

「本来なら、“空の精霊”はあたしたち精霊たちのみが知るべきものよ。理想郷に犠牲があったなんて、誰も聞きたくないでしょうから。……それに、ヴィアレはもう精霊として存在することはない。シャルヴァの土台としてこの理想郷を支え続ける━━━━永劫にそういうものであると、あたしたちも考えていたのよ」
「……では、その“空の精霊”は」
「……ええ。恐らく、奴は“このシャルヴァに存在している”」

ニーラムの表情が、一層険しくなる。これには思わずアリックもごくりと唾を飲み込んだ。

「何の手違いがあったのかはわからないわ。でも、シャルヴァはあたしたちが関与しなくても正常に存在し続けた。其処をまずは疑うべきだったんでしょうね。……けど、あたしたちは疑わなかった。きっとアーカムの祖はシャルヴァが永遠に続くようにしてくれていたんだと、精霊の癖に人間の手腕にしがみついたのよ。……まああの男は神の系譜だとか何とか言ってたから、純粋な人間ではないんでしょうけど」
「……けどよ、その……仮に、仮にだぜ?精霊のヴィアレが存在したとして、何かまずいことでもあるのかよ?」

話を区切るように溜め息を吐いたニーラムに、おずおずとノルドは問いかけた。彼の頭の中には恐らく、少なからず関わりのあった紅い少年━━━━ヴィアレの姿が浮かんでいることだろう。その名前を告げられると、アリックもリリアも付き合いのあったヴィアレを思い出してしまう。スメルトに関してはそんな奴いたなぁ、くらいの感慨であろうが。
ノルドの問いかけを受けたニーラムは、きつく彼を睨み付けた。それこそ、氷柱のように尖った視線であった。

「まずいに決まってるでしょう!?このシャルヴァは彼奴の犠牲で成り立ったようなものなのよ。目を覚ましてすぐにシャルヴァの破壊に及んだって可笑しくはない。それだけ危険な存在なの。シャルヴァの“気”が全体的に可笑しくなったのは3、4年前だから、きっとその辺りで奴は顕現したのかもしれないわ。……ねぇ、その頃に何か変わったことったなかった?」
「え……ニーラム殿、精霊ですよね……?」
「そんな『かれこれ数千年生きてるんだから数年前の出来事なんて知ってて当たり前じゃないの?』みたいな顔するんじゃないわよ!精霊ってのは基本的に流浪しないものなの!シャルヴァのごたごたにかまけてる程野次馬根性据わってる訳じゃないのよ!」

人から離れて辺境に引きこもっていた精霊はやはり格が違う。世間の出来事に疎いらしいニーラムに思わず怪訝な顔をする者も少なくはなかったが、このような状況でいちいち突っ込んでもいられないので受け流すことにした。

「3、4年前……っつーと、たしか……」
「僕が反乱を起こすように言われた頃だね。ぶっちゃけ思い出したくないし思い出すだけで虫酸が走るけど」
「は、反乱はさておき……。その頃から、噂に聞いた程度だがティヴェラの王……クルーファの政策ががらりと変わったと聞く。これまで外界からやって来た人間を優遇していたのに、それらを一気に追放、処罰したそうだ。街中の商人たちも検問にかけられ、違反した者はティヴェラにおける商売の権利を剥奪されたとか……」
「そう、それよ。クルーファの政策転換はあまりにも大きすぎたのよね?きっと其処に、ヴィアレが絡んでいるは━━━━」

いるはずよ、とニーラムは得意気に口にしようとしたが、何かに気づいたのかすっと唇を動かすことをやめた。そして、目を細めてある人物のいる方向を見る。

「……何?言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ」
「……これを。これを、お読みください。この国の宰相であった方が書き記したものです」

す、と。静かに、アリックはニーラムへとあるものを手渡した。ニーラムは訝しげな顔をしながらそれを受け取り、中身を開く。━━━━そして、わかりやすく驚愕の色を見せた。

「ちょっとあんた、これ━━━━!」
「……はい。この方は嘘を吐かない人です。其処に書いてあることは、恐らく事実でしょう」

ニーラムはわなわなと震えていた。その手にしているもの━━━━アリックが薬師の住まいにて見つけたアドルファスからの手紙を凝視しながら、彼女は信じられない、といった顔つきで叫ぶ。


「まさか、ヴィアレが……“クルーファとして”王座に就いているなんて━━━━!」

2日前 No.391

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ニーラムの動揺は尤もなものだった。アリック以外の面々は直ぐ様ニーラムのもとに駆け寄って、彼女が手にしている手紙に目を向ける。そして、誰もがニーラムと同じように目を見開いた。

「嘘だろ……!?じゃあティヴェラの王サマは、もう生きてねぇってことかよ……!」
「それでは、我等の進軍は……何の意味も、成さなかったというのか……?」

ノルドとリリアの落胆は、アリックにも痛い程刺さった。二人はティヴェラに報復するために結成された反乱軍に所属している━━━━とナラカから聞いている。祖国を滅ぼし、自分たちに受難を与えた王が、もう既にいなかった。その事実は、彼らの進軍を徒労と評するにも等しかった。
どんよりと、その場に重い空気が立ち込める。ノルドもリリアの落胆があまりにも大きかったせいだろう。アリックも何だか気まずくなってしまい、ぐっと口をつぐむ。

「……君たちが何を目指していたのかは知らないけどさぁ。そうやって周りを巻き込みながら落ち込むの、いちばん迷惑だと思うよ?」

そんな中で、遠慮のえの字もなく口を開いたのはスメルトだった。彼は相変わらずにこにこしながら、言い様のない威圧感をかもし出している。

「まずはその“空の精霊”とやらの前に、あの化け物を倒す方が大事でしょ?君たち、もしかしてナラカより自分たちの大義名分の方が大事とか言わないよね?そんなこと言われたら僕も黙っていられないんだけど」
「……お前」
「死んだ人ってのは基本的に生き返らないものだよ。だから君たちが報復したいと思ってたクルーファはもういない。それをくよくよ嘆いててもクルーファは戻ってこないよ。そうしているうちにナラカが戻ってこなくなっちゃったらどうするの?ナラカは今からでも取り戻せるんだよ。“空の精霊”は今のところまだ僕たちに手を出してきていない。だったら、明確に敵対しているあの化け物を倒すのが先決でしょ」

ノルドとリリアは黙ってスメルトの言葉を聞いていた。たしかに彼の言葉には一理ある。友人が絡んでいるということもあってか、アリックもスメルトの意見にはうんうんとうなずいた。普段は物騒なことしか言わないスメルトだが、こういった時には不思議と頼りになるものだ。

「……とりあえず、あたしたちの……反乱軍の目的は後にしましょう。今は救える命が先よ。そうしないと、あいつが暴れ出しそうだし」
「……そうだな。まずはナラカを助けねぇと」

ニーラムの発言を皮切りに、ノルドとリリアもそれに賛同した。ひとまず上手くまとまったようだ。アリックはほっと胸を撫で下ろす。いらない対立は出来るだけ避けたいところだ。

「ちょっと、まだ安心出来る状況じゃないでしょ。あのニラヤを倒す方法がまず見つかっていないんだから」
「そうだな。今のところ、効いているのは殿下の持つアーカムの至宝……アーカムの祖が有したという弓による攻撃だけだ。他に打開策を見つけるか、早いところ殿下と合流せねば収拾が付くまい」

ニーラムとリリアの言うとおり、まずはニラヤへの対応が先だ。アリックも見ていたが、ニラヤに明確な損害を与えていたのはエルトの有した弓だけであった。正確に言えば、あの弓だから効いている、という訳ではない。エルトが引いてもニラヤは矢を吸い込むだけで、シュルティラが引くことではじめてその効果を発揮したのだ。

「出来ることなら、他の方法も見つけたいところですが……。やはり、限られた武器でしかまともに攻撃は出来ないのでしょうか」
「見たところそうでしょうね。まず、あの弓はただの弓じゃない。アーカム王国が数千年かけて守り続けてきた至宝よ。あの弓には特別な条件が課せられていて、その条件を満たす者しか使えない仕組みになっているの。だから、どれだけあたしたちが頑張ろうと、あの弓を使うどころか持ち上げることすら出来ない。……本当、面倒なものよ、あれは」

ニーラムが溜め息を吐いたが、話を聞いたアリックたちは溜め息どころの話ではなかった。唯一の解決策になりそうな武器でさえ、自分たちには使えないのだ。あの弓がアーカムの至宝である限り、アーカムの王族たる者にしか使う資格は与えられない━━━━。

「……待ってください。それでは、どうしてシュルティラ殿があの弓を使えたというのですか?シュルティラ殿は、むしろアーカム王国に敵対する存在なのでは……?」
「ああ、お前は知らなかったのか。当代のシュルティラはちと面倒でな。あいつ、アーカムに敵対する存在でありながらアーカムの王族として生まれたんだよ。しかもエルトの実の兄……同じお妃サマを母親としてるんだ」
「はぁ……。それはそれは、複雑な……」
「……でも、それでも腑に落ちないのはわからなくもないわ。いくらシュルティラがアーカムの王族として生まれたからって、そんな簡単にあの至宝を使えるものなのかしら。輪廻の忌み子なんかに至宝を使われちゃ、アーカムの王族としては許せないことこの上ないでしょ。一体どんな条件が課されてるっていうのかしら、あの代物……」

誰もエルトの落としていった弓に触れなかったのはそのせいか、とアリックは今更ながら納得した。たしかに、扱える扱えない以前に持つことすら許されていなければ、誰も触れようとは思わないだろう。
それでも、シュルティラは迷わずにアーカムの至宝に手を伸ばした。その素振りは、初めから自分があの至宝を使えることをわかっているかのような色を含んでいた。何故アーカム王国に敵対する存在だというのに、シュルティラがあの弓を使うことを許されているのか。些か矛盾があるようにも思えるが、目の前で起こったことを否定する程アリックも強情ではない。

「とにかく、まずはエルト殿やシュルティラ殿と合流した方が良いでしょう。何故シュルティラ殿があの弓を使えるのか、いちばんよく知っていらっしゃるのはシュルティラ殿自身でしょうし」
「そうね、なら早速移動━━━━っ!?」

移動しましょう、とニーラムが言う前に、それは彼女目掛けて“地面から突き上がった”。不意討ちとなったが、さすがにニーラムも伊達に精霊として生きてはいない。直ぐ様避けると、何が起こったのかわかっていない人間たちに結界を張った。

「……何のつもりなのかしら?あたし、別にあんたのことを抹殺しようとしている訳じゃないのよ?ただ、あんたが此処に存在しているということがよくわかっていないだけ。それなのに不意討ちなんて卑怯なんじゃない?……ああ、そういえばあんたは“あの時も”手段を選ばなかったわよね。それなら、あたしから忠告してやっても無駄かしら」

ふん、とニーラムは鼻で笑ったが、その声音は明らかに震えていた。まるで何か底知れぬものに挑むことを恐れているかのような━━━━いつも強きなニーラムらしからぬ語気であった。
ニーラムに話しかけてきた者はいない。この場にはもともと、このような形で不意討ち出来るような人物などいなかったはずなのだ。……少なくとも、この場には。


『━━━━否。先に約定を違えたのは、ニーラム━━━━貴様である』


各々の脳裏に、この場の誰のものでもない声が響いた。皆咄嗟に辺りを見回したが、それらしき人物は何処にもいない。

「これは……!?」
「……ただの念話ね。あいつ、あたしのこと言えない程度に引き込もってるから、多分他人と顔を合わせる勇気がないのよ。存分に笑っておやりなさい」

下を向いたまま、誰とも目を合わせずにニーラムは言う。ぐっと拳を握りしめて、彼女は唇を真一文字に引き締める。怯えた表情など、決して相手には見せるものかとでも言うように。


「あんたこそ、あたしたちを裏切るような形で存在してるようなものじゃない。━━━━シャルヴァの礎にして始まりの精霊、ヴィアレ!」

1日前 No.392

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