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Utopia of the underground world

 ( 小説投稿城 )
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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

理想郷を求める者は、どんなに時が流れようと絶えることはない。


天をも穿たんとする霊峰の下、ずっとずっと下に、“それ”は存在した。密やかに窪んだ洞窟を通り抜けて、暗闇の中を進んで、道が続く限り足を進めて行けば、やがて古ぼけた扉の前にたどり着く。
其処には左右に獅子の銅像が設けられ、彼らのお眼鏡に敵えば扉は開き、彼らに認められなくば目の前の生き物は一瞬でその生を奪われるという。門番たる獅子が見定めるのは来訪者の経歴だとも、内面的なものであるとも噂されるが彼らは何も語らない。だからこそ、人は其処で躊躇うのだ。もしかしたら殺されてしまうのではないか、扉を開けてもらえないのではないのだろうか、と。
それは所謂試練なのだろう。人間とは試練を課される生き物である。否、生き物であれば誰しも試練を与えられるのだろう。それを乗り越えられなければ切り捨てられ、見事乗り越えることができたのなら彼らの望むものが手に入る。その摂理は太古の昔から変わることはなく、人が生まれ落ちてから幾度となく試練は与えられ続けた。これも過去に与えられた幾つもの前例に倣っているのだろう。
そういった訳で、無事に扉が開かれたのなら、その先にあるのは人の世を捨てたことさえ喜ばしく感じられるほどの、地底に創られた理想的な国家なのだという。二度と空を見ることが出来なくなっても構わないと思えるほどの場所。すなわち其処は理想郷。
安寧を、享楽を、もしくは前者以外の何かを求めて其処を目指す者は、口を揃えて皆こう言うのだ。


其の地の名はシャルヴァ。
地の底に在りし、神代を模した理想郷、と。

メモ2019/01/14 13:49 : すずり☆uVgy9R1pZdc @suzuri0213★Android-ti0IvmfI1e

【第1幕:さらば青空、向かうは地底】>>1-5

【幕間:シャルヴァなる地】>>6

【第2幕:王子の帰還】>>7-12

【第3幕:集落の営み】>>13-19

【幕間:焔が抱くは夢幻】>>20

【第4幕:本の杜への誘い】>>22-29

【第5幕:輪廻の忌み子と王子の記憶】>>30-34

【第6幕:緑纏う者たち】>>35-42

【第7幕:守り手の導き】>>43-47

【第8幕:神蛇の窖へ】>>48-52

【第9幕:旧き者たちの戦い】>>53-58

【第10幕:選定の儀】>>59-64

【第11幕:転機の訪れ】>>65-71

【第12幕:忌み子の憧憬】>>72-75

【幕間:其の日、彼女は生を求めた】>>76

【第13幕:王宮勤めの始まり】>>77-83

【第14幕:受難と薬師と可笑しな羅刹】>>84-92

【第15幕:雑色三人衆、初めてのお使い】>>93-97

【第16幕:離宮の住人】>>98-103

【第17幕:市場での再会】>>104-108

【第18幕:其は単なる波乱に非ず】>>109-114

【幕間:視えるが故の横恋慕】>>115

【第19幕:賽は既に投げられた】>>116-120

【第20幕:邂逅は偶然か、或いは必然か】>>121-126

【第21幕:惨禍の記憶は引き金となりて】>>127-131

【第22幕:少女の企て、揺れる思惑】>>132-137

【第23幕:事件は地底の昼下がりを揺らす】>>138-142

【第24幕:少女は胸に薔薇を抱く】>>143-150

【第25幕:彼の誤算と彼女の憤怒】>>151-154

【第26幕:取った遅れは戻せない】>>155-161

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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ティヴェラ国の宰相、アドルファスは以前旧アーカム領を訪れた時と何ら変わっていなかった。相変わらず黒衣に身を包み、眉間に深い皺を寄せて、睨み付けるようにして此方を見つめていた。出された花茶には一切口を付けることはない。毒でも心配しているのだろうか。

(……だったら一人で来なければ良いのに)

茶を淹れた張本人であるナラカはついついそんなことを考えてしまう。アドルファスは部下などを連れて来ずに、たった一人でこの薬師の住まいを訪れた。そりゃあアロイスが驚いた理由もわかる気がする。覗き穴を見てみたらしかめっ面の宰相がたった一人で立ち尽くしていたとなったら、誰だって我が目を疑うことであろう。

「……して、用件は何ですか、宰相殿?」

そう切り出したのはアドルファスと正面向かって座っているアロイスだった。敬語は遣い慣れていないのだろうか、何処と無くたどたどしい物言いであった。アドルファスはそんなアロイスを一瞥してから、表情を微塵も動かすことなく口を開く。

「……此度、此処にやって来たのは宮廷薬師……及び其処の者の処遇について話し合うためだ」
「え、僕?」

アドルファスの言葉にきょとんとした表情を浮かべるのはナラカの隣をなにがなんでも死守しているスメルトである。彼はアドルファスに視線を向けられても平然としていた。一周回って羨ましくなるくらいの精神力だ。

「スメルト……貴様は本来離宮にいるべき者のはずだ。何故このような場所にいる?」
「えぇ、聞いてないの?僕の部屋の扉が壊れちゃったから、此処に居させてもらってるだけだよ?」
「……それはただの口実であろう。私が問いたいのは貴様が“この場所を選んだ理由”だ」

ゆるりとした態度を崩さないスメルトに、アドルファスは鋭い視線を送る。たしかに彼からしてみれば、何故スメルトが薬師の住まいに滞在することを望んだのか気になるところだろう。特にスメルトは人間らしい姿をしている者なら全てを嫌うというから尚更だ。
アドルファスの質問を受けたスメルトは、相変わらずにこにこと微笑みを浮かべたままであった。それが逆に不気味でもあり、ナラカは寒気を覚えずにはいられない。何故彼はこの状況で笑っていられるのだろうか。

「そりゃあ、僕が気に入ったからに決まってるじゃない。此処には僕の好きな人が二人もいるんだよ?代わりのお部屋を何処にするかって聞かれたら、僕なら迷わず此処を選ぶね」
「ふん……アロイス殿、貴殿はこの者の発言に異論はないのかね?」
「異論なら山ほどありますが、今回の一件がこの程度で収まったのはこいつの尽力のおかげでもありますからね。とりあえず、部屋の修築が終わるまでは此処に滞在させるつもりでいます」

ちらりと横目で一瞥してきたアドルファスに、アロイスは小さく肩を竦めるだけであった。アドルファスはそれでひとまずは納得したのか、スメルトについてはそれ以上何も言うことはなかった。

「……話を変えよう。宮廷薬師が殺害された件についてだが……第一目撃者は、君かね?」
「は、はいっ」

突然話を振られて、ナラカは分かりやすく上擦った声でそう返事をする。アドルファスはそんなナラカのことを、何故かじっと凝視した。

「……君、名前は何と言う?」
「な……ナラカと申します」
「そうか……。君とは何処かで会ったことがあるような気がしたのだが……」
「え……えぇと、この前、選定の儀の行われた集落の出身なので……。恐らく報酬を受け取った際にお会いしたものかと……」

まさかアドルファスが自分の顔をうっすらとでも覚えていたとは予想だにしていなかったのでこれにはナラカも驚いてしまった。自分はそれほど目立つ容姿をしていないはずなのに、不思議なこともあるものである。シュルティラに呼ばれるまでノルドの近くにいたからだろうか。何にせよ、此処で自らの素性を誤魔化しても利はないので、ナラカは正直にアドルファスに自らの出身を伝えた。アドルファスは少しだけ目を見開くと、「……そうか」とだけ口にする。

「……話を逸らしてしまってすまない。本題に入ろう。君が昨夜、取り調べを受けた際に言っていた男……エルト、という人物についてなのだがね」
「……はい」
「“そのような人物は、初めからこの王宮にはいなかった”のだよ。不思議なことにな」
「なっ━━━━!?」

次いでアドルファスから告げられた言葉に、ナラカは愕然とした。エルトがこの王宮にいないなんて信じられない。だって、たしかにナラカは何度も彼の姿を見たのだ。人違いなんてことがあるはずはない。忘れたくても、ナラカはあの男の顔を忘れることは出来ないのだから。

「そんな、そんなことが、あるはず━━━━」
「嗚呼、君の言い分を疑っている訳ではない。私は、そのエルトという人間が何らかの偽名を用いているものかと考えている。故に、私にも詳しく、エルトという男の特徴を伝えて欲しいのだ」

てっきり自分が疑われるものかと思っていたナラカだったが、アドルファスから否定的な言葉は出てこなかった。あくまでも業務的な彼の口振りにナラカは一瞬ぽかんとしてしまったが、此処で狼狽えていてはいけないとなんとか言葉をひねり出す。

「えっと……エルトは、少し波打った黒髪の持ち主です。瞳も、同じように真っ黒です。あ、あと、それから、肌が浅黒いというか、多少日焼けしているようにも思えます」
「日焼け……。なるほど、他には?」
「えぇと……あとは……」

普段から女装したエルトばから見てきたので、改まって特徴を伝えろと言われるとどうしても伝えにくいところがある。なんとか女装していないエルトの特徴を伝えようとナラカは頭を捻っていた━━━━矢先であった。


「おとどけもの!です!!」


何の予兆もなく唐突に開け放たれた扉。バァン、という音に一同の視線がそちらに否が応でも集中する。其処にいる人物にはナラカにも見覚えがあった。嗚呼、あの顔立ちは、あの人物は━━━━。

「━━━━あんな、感じです」

エルトに瓜二つの容姿をした男、ハルシャフを目の前にしたナラカは、つい指を差してそんなことを口走っていた。

1ヶ月前 No.163

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

「……要するに、この商人とエルトという人物は“瓜二つだが別人”……ということで良いのだな?」

ハルシャフの乱入から少しして、アドルファスは眉間を揉みながらそうナラカに尋ねた。勢い余って「エルトはあんな感じです」と口走ってしまったナラカは、うつむきながらこくりとうなずく。ちゃっかりナラカの隣に居座ったハルシャフは、こてんと小さく首をかしげる。

「エルトが、どうかしたの?」
「あー……その、まあ……かくかくしかじかで……」
「かくかく、しかじか……?」

どうしてハルシャフがこんなところにいるのかはナラカにもよくわからなかったが、何よりもエルトが大好きな彼に真実を伝えるのはさすがに酷だとナラカは考えた。ハルシャフは顔こそ気に食わないもののそれ以外に恨みはない。むしろエルトに比べたらよっぽど好意的である。かくかくしかじかが通じていないようだが、まあ真実が直接伝わってしまうよりはましであろう。

「と、とりあえずハルシャフさんは奥の待合室でお待ちください……」
「うん、わかった」

ひとまずいつまでもハルシャフをこの場に置いておく訳にもいかないので、彼には一時的に奥の部屋で待っていてもらうことにする。待合室と突発的に言ってしまったがそんなものはないので、とりあえずスメルトが使用している空き部屋に移動してもらった。ナラカがスメルトに視線を送ったところ、特に何の反応も示していなかったので良しとする。後で何か言われたらいっしょに遊んであげるとか何とか言って誤魔化そう。ナラカとしてはあまり誤魔化したくはなかったのだが。

「……あの男は君のいうエルトとは知り合いなのかね?」

ハルシャフが奥の部屋に入ったところで、アドルファスがそう尋ねてきた。大方双子か何かかと思われているのだろう。これに関してはナラカも困ってしまった。ハルシャフの事情を話せば、そもそもシャルヴァに神代の生物であるナーガがまだ存在しているという前提で話を進めなくてはならなくなる。そうすればハルシャフの立場はどうなるだろうか。神代の生物として王宮に引き取られてしまうのではないか。それではまずい。まずすぎる。自分の発言によって知り合いの人生(人ではない)が左右されてしまうなんて嫌だ。相手がエルトであったら別に構わないのだが、相手はハルシャフである。

(ハルシャフさんまで巻き込みたくはない……!)

少なくともナラカは、エルトはともかくハルシャフのことは出来るだけこの騒動には巻き込みたくなかった。良くも悪くも純粋なハルシャフは嫌いではないのだ。彼に迷惑をかける訳にはいかない。

「た……たしかに彼はエルトの知り合いなのですが……。あの方はエルトに一方的に憧れているだけのただの他人というか……」
「他人……?しかし、瓜二つなのであろう?」
「そ……それは……彼がエルトのことを気に入って、ついつい擬態してしまっただけで……」
「「擬態!?」」

どう言い訳をしたものか迷いに迷ったナラカはついハルシャフが人間らしからぬ行為に及んだことを溢してしまった。擬態という単語に、アドルファスだけでなくアロイスも反応する。スメルトは特に反応を見せなかったが、ナラカを見ているところからすると彼も気になっているのだろう。胸元に潜んでいた餅蜥蜴でさえもナラカのことを見上げている。

(どうしよう……!)

ナラカの背中を嫌な汗が流れる。どう誤魔化したら良いのだろう。ナラカの頭の中はそれだけでいっぱいになっていた。何せ相手はティヴェラ国の宰相である。下手な言い逃れは出来ないだろう。しかし、だからと言ってありのままを話すのもまずい。下手したらエルトのことは後回しにされてナーガの探索が行われてしまうかもしれない。そして何よりハルシャフがどうなるかわからないのである。ナラカは一生懸命に頭を動かした。かき集められるだけの情報を脳裏でかき集めた。だがナラカには上手く誤魔化すだけの基礎知識がない上に混乱しているという状況なので、彼女の思うような考えは全く浮かばない。ナラカの頭はもう限界だった。ぐるぐると脳内が掻き回されているような感覚を覚えていた、まさにその時だった。


「どうもーーーーー!!」


再び、バァンと扉が開かれる。ナラカに向けられていた視線はまたしても玄関先に集まることとなった。勿論、思考回路がパンクしそうになっていたナラカの注意もそちらに引き付けられることとなる。

「いやぁ、えろうすんまへん。うちは毎度此方で市場を出させてもろてる、ライオ・デ・ソル商会言います。うちの者が此方に来てるいうんで迎えに来たんですけど……お取り込み中でしたか?」

入ってきた青年は唖然とする一同に向けて明朗な笑みを崩さない。畿内のものに似た訛りを持つこの青年を前に、ナラカはぽかんと口を開けていることしか出来なかった。

1ヶ月前 No.164

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

一応ナラカは畿内……に近い場所で育った。そのため、そこら辺の言語というか、方言は一通り理解しているつもりでいる。だからこそ、いきなり突入してきた青年の口調に驚いたのだ。何故異郷であるはずのシャルヴァで、聞き慣れた言葉を聞かなければならないのかと。

「……なんでお前が……」
「あ……アロイスさん、知り合いなんですか……?」

青年の登場に溜め息を吐くアロイスに、すかさずナラカは問いかける。抱いた疑問は早いうちに解決しておきたかった。

「月に一度、定期的に市場が開かれるだろ。こいつはフィオレッロっていってな、其処に店を連ねる商人の一人だ。うちで作る薬の材料は、大体こいつのところから買ってる」
「せやで〜。お嬢ちゃんも小鈴んとこの子やんな?俺はさっきこいつが言った通りフィオレッロっちゅー者や。よろしゅうなぁ」
「は、はぁ……」

つまりフィオレッロからしてみればアロイスたちはお得意様、ということになるのだろうか。彼らの商隊のところには寄らずにあっちこっちを歩き回っていた身なのでその辺りはいまいちわからないナラカである。しかしにこやかに挨拶されたところをつっけんどんに返す訳にもいかないので、とりあえず会釈はしておいた。

「……して、だ。ライオ・デ・ソル商会とやらの者。貴様の用件は同胞の回収だけか?それならば早急に用を済ませて……」
「いやぁ、俺もそうしたいところなんですけどねぇ。何や物騒なお話をお宅さんの雑色から聞いたんで、それも含めてお伝えしに来たんですわ」

不機嫌そうな表情を崩すことなく告げるアドルファスだったが、フィオレッロは動じることがなかった。むしろアドルファスに対しても何か話を持ちかけるつもりでいるらしい。フィオレッロの言葉に、ティヴェラの宰相の眉がぴくりと神経質に動く。

「……何が言いたい?」
「や、あくまでも噂、噂なんですけどね。武具庫の方から来た雑色が、何や侵入者がおるらしいって騒いどったんですよ。何か邪魔でも入りよったらしいですけど……。せやから、俺としては王様にもしものことでもあったらあかんなぁ思う訳ですよ」
「侵入者……!?」

朗々と、危機感もなさげに話すフィオレッロとは対照的に、アドルファスだけでなくアロイスやナラカにも緊張が走る。スメルトだけは退屈そうにしていたが、まあ彼のことは一旦置いておこう。

「……貴様、本気で言っているのか」
「嫌やわぁ、俺はいつでも本気ですし、真面目に生きてきたつもりでおります。ま、一介の商人の話なんで、信じても信じなくても構いまへん。やけど、ねぇ?一応、確認くらいはせぇへんとあかんのちゃいます?」

いくらアドルファスに睨まれようと、フィオレッロの態度は変わらない。臆することも、怯えることもなく、ただただ笑顔でアドルファスを見つめるだけである。そんなフィオレッロを暫し睨み付けてから、アドルファスは忌々しげに席を立つ。

「……すまないが、話は此処までとさせてもらう。陛下に何かあってからでは済まされないからな。……ライオ・デ・ソル商会の者とやら。私に進言したからには、相応の心構えでいるように」
「わかっております。気い付けてくださいね」
「ふん……。……アロイス。後任の薬師についてはまた後日伺おう。それまでは貴様が代理を務めよ」

そう伝えてから、アドルファスは足早に薬師の住まいを後にした。バタン、と扉が閉まり、数秒間を沈黙が包む。そして、薬師の住まいに一切の音が聞こえなくなった辺りで━━━━「はぁぁぁぁ〜〜〜」と一際大きい溜め息を吐いたのはフィオレッロだった。

「ごっつ緊張したぁぁ〜〜……。何やあの宰相はん、全くにこりともせぇへん……。まるでお面やわ……」
「な、なんでそんな相手にあんなこと言ったんだよ……。つかフィオレッロ、さっき来た奴はお前のお仲間か?」
「おぉ、せやせや。ハルシャフー、もう出て来てええでー」

呆れ顔のアロイスは放っておいて、フィオレッロはよく通る声でハルシャフに呼び掛ける。すると、ひょこりと奥の部屋からハルシャフ……だけではなく、身を隠していたアリックとルタも出て来た。恐らくアドルファスがいなくなったので出て来ても良いのだと判断したのだろう。

「おはなし、おわった?」
「おう、終わった終わった!で、ハルシャフ、品物はちゃあんと持っとるやろな?」
「うん!ここに、ある!」

じゃーん、とわざわざ効果音まで口で言いながらハルシャフが取り出したのは、それほどの大きさもない木箱であった。誰でも両手を使えば簡単に持ててしまいそうな一品である。ナラカとスメルト、そして先程まで奥の部屋に避難していたアリックとルタはしげしげとその木箱を眺める。

「これは……?」
「たしか先週か……先々週辺りに小鈴から頼まれてた材料や。小鈴はうちの商会を贔屓にしてくれはるからな、市場以外でもこうやって取引すんねん」
「で……でも、小鈴さんは……」

明るく話すフィオレッロに、ナラカは恐る恐るといった様子で小鈴のことを伝えようとする。そうだ、彼女はもういないのだ。ナラカだってそれを認めたくはない。けれど、もう過ぎ去ってしまったことなのだ。だから伝えねばならない。それでも言い淀むナラカを見て、フィオレッロは困ったように苦笑いした。

「お嬢ちゃん、小鈴がどないしたかなんて、もうとっくに知ってんで」
「え……でも、なんで」
「……おいアロイス。お前、まさかこの子に“あのこと”を伝えてへんとでも言うんか?」

じろり、と。アロイスに視線を向けたフィオレッロの表情はひどく冷えきっていた。その表情の変化にナラカの背筋はぞわりと粟立つ。しかしアロイスは顔色ひとつ変えることなく、フィオレッロに向かい合った。

「だからどうしたってんだよ」
「どうしたもこうしたもあらへん。お前はお嬢ちゃんのためだとか思ってるんやろけどな、お前のやっとることが何よりも酷やで」
「……お前には関係ねぇだろ、フィオレッロ」
「いいや、大有りやど阿呆。何年この仕事やっとると思てんねん、お前の阿呆さ加減くらい理解出来るわ」
「ねぇ、ふたりとも、けんかしないで」

言葉を重ねていくうちにどんどん剣呑になっていく室内であったが、横から入ってきたハルシャフがそう告げたことで一旦フィオレッロの表情から刺々しさが消えた。ごめんなぁ、とハルシャフの頭を撫でてから、彼はアロイスに向き直る。

「ともかく、や。アロイス、痛い目見たくないんなら、早いところ話しといた方がええで。その方がわだかまりも溜まらんやろ」
「…………」
「ふん、黙り決めよって。あんま意地張っても後から困るんは己やで」

そう告げると、フィオレッロはまだ何か伝えたそうなハルシャフを連れて薬師の住まいを後にした。室内にはまだ人がいるというのに、どうしてか静けさを打ち消すことは出来なかった。

1ヶ月前 No.165

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

「……フィオレッロさんは、一体何が言いたかったのでしょう」

曼荼羅の光がだいぶ弱まってきた頃。ナラカはすやすやと眠るルタ……とアロイスに布団をかけてやりながら、ふとそんな風に呟いた。この二人はなんだかんだで仲良くなったらしく、ルタの方からいっしょに遊んで欲しいと頼みに行くくらいであった。アロイスもアロイスで本気で遊んであげているから、なんだか兄弟のようにも見えてしまう。子供の体力というのは底なしで、結局アロイスはルタと遊び倒した。そうして二人仲良くお昼寝ならぬお夕寝に興じているという訳である。疲れているところを起こすのもよろしくないので、離宮に食事を運ぶ時間までは寝かせておこうとナラカはアリックと決めたのだった。

「さぁね。大方、羅刹君のしたことが気に食わなかったんじゃないのかなぁ」

何気ないナラカの呟きに、スメルトはにこにこしながらそう答える。相変わらずスメルトはアロイスのことを名前で呼ばない。いつでもどこでも羅刹だとか、羅刹君だとか、そういった呼び方でしか呼ばないのだ。アロイスも特に何も指摘しないので、彼なりに受容しているということなのだろうか。

「……小鈴殿のことで、何かあるのでしょうか」

不安げな表情で口にしたのはアリックである。ルタのさらさらとした金髪を撫でながら、彼女は物憂げな表情を浮かべた。そんなアリックにスメルトは笑顔を崩さぬままに告げる。

「教えてあげようか」
「……え?」
「別に君になら教えても良いよ。君の反応とかどうでも良いし。僕はナラカが吃驚しちゃわないか不安なだけだからね」

きっとスメルトはナラカに気を遣ったのであろう。ナラカもなんとなくそれは理解出来た。しかし、何処と無く自分が疎外されているような気がしてならなかった。相手が相手なので思いっきり睨むことなんて出来ない━━━━と怖じ気付く程この時のナラカは落ち着いておらず、スメルトにずいと近寄った。

「私は吃驚なんてしません」
「えっ、な……ナラカ?」
「私だって子供じゃないんです。それらしく気を遣われてもこっちは嬉しくも何ともありません。私にも話してください」

突然ぐいぐいと詰め寄ってきたナラカに、スメルトは驚きを隠しきれないようだった。いつもの彼からは想像も出来ない程に狼狽えている。あわあわとしながら、スメルトは両手を前に出して「わかった、わかったから……」とナラカを制止しようとする。

「は、話すよナラカ。だからそんなに怒らないで?僕、ナラカがそんなに怒るなんて思ってなくて……。ご、ごめんね……!」
「……怒ってません」
「怒ってるじゃない……!」

明らかに不満がありますと言っているようなナラカに、スメルトはすっかりたじたじといった様子だった。突然蚊帳の外に追いやられたアリックは初めこそ戸惑っていたが、次第に微笑ましげな表情へと変わっていった。非常に穏やかな空気をかもし出しながらナラカとスメルトのやり取りを見ている。完全に傍観者といった立ち位置に落ち着いていた。
そんなアリックはさておき、スメルトは改まるようにごほんとひとつ咳払いをする。ナラカの表情がまだ硬いというか、険しいままなので若干おどおどしているのが、なんというか彼らしくなかった。

「良い、本当に吃驚しないでね?ティヴェラ王国はこれまでに何度も戦で勝利を飾ってきた。10年前にはこのシャルヴァを統一しちゃったくらいだ。その勝因が何だか、君たちはわかる?」
「勝因……?」
「……単に白兵戦に優れていた、だけではありませんよね。羅刹部隊の活躍が大きかったのでしょうか?」

スメルトからの問いかけに、真っ先に答えたのはアリックだった。しかし彼女の答えを、スメルトはすぐに「ぶっぶー」と否定する。

「たしかに羅刹部隊がいたのも大きいけど……。あいつらは破壊することしか知らない脳筋の集まりだよ?はっきり言って諸刃の剣。ティヴェラの勝利の決定的な要因にはならないかな」
「なるほど、違うのですか……。……では、船で」
「君はお馬鹿さんなんだね。そもそもこのシャルヴァに船で攻めるべきところはないよ。溜池とか湖っぽいものはあるけど、そんなのぶっちゃけ戦に使わないし」
「しかし戦といったら船でしょう」
「君の持論はどうでも良いから」

真面目に答え続けるアリックであったが、いかんせん生まれが島国故にスメルトの望む答えは導き出せないようだった。同じく島国の生まれであるナラカとしてはわからなくもないのだがさすがにこの地底王国でそれはないと思う。恐らくアリックは本当に海の傍で暮らしてきたのだろう。ナラカの育ってきたところは一応内陸だから、何でもかんでも海に繋げようとは思わない。とりあえずイングランドは海戦が強そうということと、そんなイングランドがアリックは本当に好きなのだということは把握出来た。とりあえずずっと二人のやり取りを見ているだけではいけないので、ナラカはおずおずと口を挟む。

「えっと……ティヴェラ王国に優れた忍がいらっしゃった……とか」
「しのび……?」
「あ、隠密部隊のことです」

やはり忍という単語は日ノ本でしか通じないのだろうか。首をかしげたスメルトに、ナラカはそう解説を入れる。すると、みるみるうちにスメルトの表情が輝いていった。そしてナラカに影がかかるくらいに近付いて、満面の笑みを浮かべる。

「すごい!すごいよナラカ!大正解!」
「そ……そうなんですか……?」
「うんうん、そうなんだよ!ティヴェラ王国には諜報や暗殺を一手に担う隠密部隊があってね。小憎たらしいけど、そいつらの活躍によって戦を有利に進めているんだよ。本当に気に食わないけど」

笑顔で不穏なことを告げながら、スメルトは一度ナラカとアリックを見る。ナラカはそれに対して何も言わない。真相を告げよと、無言のうちに物語っていた。
スメルトも、そしてアリックもそんな空気を察したのだろう。アリックも黙したままスメルトを見つめた。四つの視線に晒されたスメルトはそれに怯むこともなく、二人の外界の住民に向けて告げる。


「王宮薬師は隠密部隊の隊長を兼ねるんだ。つまり小鈴━━━━あいつは当代の隠密部隊隊長だったんだよ」


1ヶ月前 No.166

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【第28幕:彼が望んだその先は】

━━━━この地下牢に入れられてから、何日が経っただろうか。きっと数えられない程の日数ではないのだろうが、彼にはそもそも考えたり数えたりする気力というものがなかった。

(……失敗、したのか)

そう考えるだけで、彼の思考はそれだけに囚われる。自分の計画が失敗したのだという現実は彼の体には重すぎる荷であった。それを背負ってしまった以上、彼は重圧に苦しむ他ない。たとえどのような理由があれど、彼は重荷を負わなければならないのだ。

(上手く、やるはずだった。間違えるはずなんて、なかったはずだ。それなのに、オレは何処をどのように間違えたのだろう)

曼荼羅の光さえ入らないこの湿っぽい地下牢で彼は思い悩む。そう、言い訳のように聞こえるかもしれないが、彼の計画は実行されるまで完璧であったはずなのだ。綿密に練り、根気強く周囲の調査も行って、やっとのことで実行に移した。それなのに、彼は失敗したのだ。失敗して、光も何も入らない地下牢に押し込められたという訳だ。

(……まるで、反逆者だ)

そのように考えても、何も好転しないと彼は知っていた。むしろ耐えがたい苦しみに苛まれることも知っていた。けれどそう思わずにはいられなかった。それほどまでに、彼の心は追い詰められていたのだ。
彼はティヴェラ王国が好きである。今も、昔も、ティヴェラという国が好きで好きでたまらない。このような扱いを受けている今だって、決して彼はティヴェラ王国を恨みはしない。なぜなら彼はティヴェラ王国を愛しているから。ティヴェラ王国の民であることを、何よりも誇りに思っているから。だから決して、ティヴェラ王国に負の感情は抱けない。いや、抱こうともしないのだ。彼にとってティヴェラ王国は全てなのである。

(……オレは、この国が好きだ。本当に、本当に好きなんだ)

そう、尋問にやって来た兵士たちにも伝えたはずだった。けれど彼らは彼の話を聞いても、それを信じてはくれなかった。当たり前と言えば当たり前である。国王のおわす玉座に乗り込もうとした雑色の言うことなど、誰も真には受けないだろう。
しかし彼は納得出来なかった。信じてもらえなかったことが、ではない。これまでの騒動━━━━離宮の住民の脱走、宮廷薬師の殺害などの疑いも一手にかけられたことが、である。彼はそれを真っ向から否定した。そんなことを自分がするはずはない、と。自分はただ国王に会いたかっただけの、ティヴェラ王国を愛する一人の国民に過ぎない、と。

(……そうだ。オレは離宮の住民を逃がしたり、宮廷薬師を殺したりなんてしない。そんなことをしたって、あの方のためにはならない)

誰に対する反論なのかはわからない。しかし彼は自分がティヴェラ王国に反逆心を抱いていないということを誰かにわかって欲しかった。自分はこんなにもティヴェラ王国を愛しているというのに、誰がそのようなことをするものか。いっそのこと、反逆者なんて捻り潰したいくらいの気概でいる。もしも彼に冤罪を晴らす機会が与えられたのなら、彼は誰よりもそれらの事件の犯人を見つけ出すために奔走することであろう。

(……あのお方は、オレのことを覚えていらっしゃらないだろうか)

彼は脳裏にある人物を思い浮かべる。何よりも、誰よりも焦がれ、会いたいと願ってきた人物。その人物本人が自分のことを覚えている確証など何処にもない。もしかしたら忌み嫌っているかもしれない。どちらにせよ、どのような感情を抱かれていても彼は構わなかった。会うことさえ出来たのなら、彼はそれだけで良かったのだ。そう、会うことさえ、出来たのなら。

「……くく、随分と懸想に耽っているようだな?」
「━━━━!?」

鉄格子の向こう側から、その声は聞こえた。彼は咄嗟に振り返る。手首足首に繋がれた鎖がじゃらじゃらと金属音を立て、擦れた皮膚がひりひりと痛んだ。

「……ルードゥス、とか言ったな。何の用だ」
「ほう……俺の名を知っているのか。これはますます面白い」

鉄格子の向こう側にいる美男子━━━━ルードゥスは、警戒心を露にする彼にも臆した様子はなく、ただにんまりと何処か淫靡な笑みを浮かべているだけであった。それがますます彼は気に食わない。

(……なんだ、この顔の良さは)

この世にあってはならぬ程の美貌。ルードゥスの美貌であれば国のひとつやふたつなど簡単に滅びてしまいそうだし、その笑みを至近距離で見た者の目は潰れてしまいそうだし、ルードゥスの周りの空気を吸うだけで肺の中が甘ったるい香りで満ちてしまいそうだ。それだけこの男は顔が良かった。幸いなことに彼は顔云々で惑わされるような人間ではなかった。そのため、むしろルードゥスには多大なる警戒心を抱いていたのである。

「不遇の者よ。貴様、クルーファに会いに行こうとしたらしいな?一体何のために、其処までの危険を冒した?」
「…………」
「報復か?自らを追放した父が憎いか?それとも貴様自身が王位を欲していたのか?」
「……っ、黙れ!!」

揶揄するようなルードゥスの口調に、思わず彼は声を荒げた。そんなことをしても抵抗のひとつも出来やしないし、尋問の際に痛め付けられた体の節々が痛むだけであった。ルードゥスはそんな彼を見てますます笑みを深める。かつん、かつんと靴音を鳴らしながら、鉄格子の向こうから彼に向けて両手を伸ばした。

「まあ、そう怒るな。俺は貴様のことを誰よりも理解している。貴様が俺をどのように思おうと、俺が貴様に向ける感情は変わらぬ」
「…………」
「嗚呼、哀れよな。これほどまでにこの国を愛した人間を俺は見たことがない。どれ、俺から貴様に慈悲をやろう。貴様は見るに耐えぬ」

何も言おうとしない彼に嘆息してから、ルードゥスは彼の頬に両手を添えた。━━━━瞬間、彼の視界がぐにゃりと歪む。じゃらりと鳴る鎖の音も、湿っぽい地下牢の臭いも、ルードゥスの顔に浮かぶ表情も、今の彼は五感で感じることが出来なかった。

1ヶ月前 No.167

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

彼の生まれはティヴェラ王国である。それだけは何があっても譲ることは出来ない。

彼の脳裏に思い浮かぶのは懐かしき日々であった。曼荼羅の優しい光を浴びながら、何不自由することもなく過ごしていた在りし日々。彼は走り回ることが好きだった。体を動かすことも好きだった。だから毎日のように中庭に出ては連れの使用人たちを困らせていた。

━━━━殿下、あまり走り回っては危のうございます。そろそろお部屋に戻りましょう。

若手の使用人はそう言ったが、彼は笑顔のままぶんぶんと首を横に振った。この日は風の五大の力を受けた靴とやらが手に入ったので、それの性能を試していたのだ。初めは半信半疑の彼であったが、使ってみるとそれこそ風のように駆けることが出来る。彼はこの感覚に病み付きになった。だから使用人の忠告なんて聞きたくはなかった。使用人が困った顔をしても、彼は全く気にすることもなく駆け回り続けた。

━━━━××××××。

しかし、そんな彼の足はぴたりと止まった。代わりに、ぱっと顔を輝かせて振り返る。其処には、彼の好きな人物が佇んでいたのだ。

━━━━兄上!

彼には兄がいた。2歳年上の兄は、彼よりもずっとずっと大人びていて聡明だった。いつも走り回っているやんちゃな彼とは対照的に、いつも勉学に励み、書を好み、何か書き物をしていることの多い人間である。そんな兄が彼は好きだった。いつか兄のようにもなりたいと思っていた。そんな兄も、彼のことは可愛いようで、よく遊んだり面倒を見たりしてくれている。

━━━━××××××、あまり迷惑をかけてはいけない。気持ちはわかるが、怪我でもしたら大変だろう?
━━━━でも、兄上。このお靴は、本当に楽しいんです。僕は風の五大を使えないから……。
━━━━…………。

何処と無く寂しそうな彼の表情に、兄は沈黙する。彼は五大の恩恵を得てはいた。しかしそれは風ではない。加えて、兄の受けた五大の恩恵は風であった。彼にとってはそれが羨ましかったのであろう。わざわざ風の五大の力を受けた靴などを取り寄せたのもそれがあってのことかもしれない。そんな弟の気持ちを兄は察してしまった。兄は暫し思案してから、そうだ、と彼に持ちかける。

━━━━おいで、××××××。
━━━━……?兄上……?

突然の誘いに首をかしげた彼を、兄は軽々と持ち上げた。そして彼の小さな体を自分の肩へと乗せる。いわゆる肩車というやつだ。

━━━━あ、兄上っ?
━━━━ふふ、これならお前も俺も楽しくて一石二鳥だ。嫌か?
━━━━……!いいえ、いいえっ!××××××は満足にございます、兄上!
━━━━それなら良かった。さぁ、父上も心配している。宮に戻ろう。

兄の言葉に、彼は力一杯うなずいた。兄はそんな弟の表情を見て、ふわりと淡く微笑む。少し離れたところで事の顛末を見守っていた若い使用人は、彼ら兄弟の戯れを微笑ましそうに眺めていた。
風の五大の力を受けた兄の足は速い。びゅんびゅんと風景画のように過ぎ去っていく景色を、彼は兄の肩の上から楽しんだ。兄は彼よりもずっと背が高い。もともと成長するのが早いのかもしれないが、彼の身長は一向に伸びないままなのだ。悔しそうにする彼を見て、兄はよくお前は母上に似たのだな、と苦笑したものであった。彼の父は背が高いが、一方で母は小柄なのである。

━━━━さ、着いたぞ。

そんな他愛もないことを考えているうちに、兄弟は両親のいる部屋の前へと到着していた。彼は下ろしてもらってから、一応服に汚れなどが付いていないか確認する。大丈夫だ、目立った汚れなどはない。

━━━━父上!母上!

ばたん、と扉を開けて、彼は愛しき両親のもとへ駆け寄る。父はそんな彼の姿を見て表情を綻ばせ、母はまぁまぁ、と微笑ましい、慈愛のこもった視線を向けた。定位置である父の膝の上に登ってから、ふと彼は違和感を覚えて父へと尋ねた。

━━━━父上、この方は……?
━━━━嗚呼、××××××。この子は私たちの新しい家族だよ。
━━━━家族……?

彼が視線を遣った先には、まだ年若い少女がいた。限りなく銀色に近い金髪と、碧い瞳を持った美しい少女。彼女は少々居心地悪そうに、彼や兄から目線を逸らした。

━━━━まあ、色々あってね。この子はお前の姉のようなものになることになったんだ。ほらティルア、お前も挨拶をしなさい。
━━━━……よろしく、お願いいたします……。

ティルアと呼ばれた少女は、彼に向けて遠慮がちに挨拶をした。まだ緊張しているようだ。彼もこの頃は人付き合いなるものにあまり慣れてはいなかったので、小さくお辞儀して返しただけであった。そんな彼らの様子を見て、母はあらあらと苦笑いする。

━━━━二人とも緊張しているのね。どうかしら、これから皆でお茶でも。ちょうどお菓子もあるものね、よろしいのではないかしら?
━━━━うむ、そうだな!さあ××××××、ティルア。それにお前も。せっかくだから、皆で仲良くしようではないか!

母の提案に父は直ぐ様賛同の意を示す。彼も両親が乗り気ならそれが良いことなのだろうと考えた。現に、その時の両親や兄、そしてティルアは、皆幸せそうな表情をしていたのだから。

1ヶ月前 No.168

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

初めこそ彼に対して緊張していたティルアではあったが、時間を経ていくうちに彼女は段々と彼や兄に対しても気さくになっていった。父から姉になる、と言われたからであろうか。一月もすれば、ティルアはすっかり姉貴分として振る舞うようになった。
そんなティルアが彼は嫌いではなかった。むしろ好感すら持てた。天真爛漫な彼女はよく彼や兄を茶会に誘ってくれて、其処で他愛もないお喋りをしたり、美味しい菓子を分け合ったりした。ティルアは彼や兄、そして彼の何人もの異母兄弟のことさえも可愛がった。何でも、もともと世話をするのは嫌いではないらしい。暇があると裁縫に勤しんで、可愛らしい服を作ることもあった。

━━━━ねぇ、聞いた?この前陛下が引き取った子のこと……。

だから、たまたま廊下を歩いていた際に耳に入った下女たちの噂話を、彼は放っておくことが出来なかった。急いで壁の影に隠れて、そっと耳を澄ます。

━━━━あぁ、ティルア様のこと?
━━━━そうそう。あの方って、たしかこの前亡くなった大臣の娘でしょう?母親の方はだいぶ昔に亡くなって天涯孤独になってしまったから、可哀想にお思いになった陛下が養子として引き取ったんですって。
━━━━ふぅん。で、それがどうしたっていうのよ?

一見何気ない下女たちの会話のようにも聞こえるが、彼にとってはそのような軽いものではなかった。ティルアのこととなったら、なぜだか酷く胸騒ぎがしたのだ。気付かれないように注意しながらも、真剣に聞き耳を立てる。

━━━━何でも、王族に名を連ねるためにティルア様本人が大臣を殺したって話が挙がってるのよ。臣籍から王族に昇進するなんて、まずただ事じゃあないもの。
━━━━けどさぁ、さすがに信憑性がないんじゃないの?ティルア様ってまだ二十歳にもなってないんでしょう?天涯孤独の身になったって陛下に引き取られるとは限らないじゃない。其処まで上手く事が進むのかしら?
━━━━でもね、大臣の死因は食中毒だったのよ?これは何処をどう考えても毒殺に他ならないでしょう。やっぱりティルア様が殺したに違いないわ。

彼の姿が見えていないことを良いことに、下女たちの噂話は盛り上がっていく。しかし彼は最後まで話を聞く気にはなれず、足早にその場を後にした。走って、ただ走って走って走って、彼はある場所へと向かった。早くあの場所から、噂話の聞こえるところから離れたくて仕方がなかった。

━━━━まあ、××××××?そんなに急いで、一体どうしたの?
━━━━っ……!

そんな矢先に、彼は曲がり角でティルアと鉢合わせした。彼が目指していた先は、ティルアの部屋だったのである。しかしいきなり出会うこととなってしまった彼は、ティルアの姿を見ても上手く言葉が出てこない。どうしたら、どんな言葉をかけたら良いのだろうか。あんな話をティルアに伝えたくはないし、伝えようとも思わない。けれどこのまま黙ったままというのはいけない気がした。その結果、彼は葛藤によって口をもごもごと動かすことしか出来なくなったのである。

━━━━××××××?何処か、具合でも……。
━━━━あ、義姉上っ!

彼に声をかけようとしたティルアだったが、それを言い終える前に彼の方が口を開いていた。彼の勢いに、思わずティルアはぽかんとした表情を浮かべる。彼は肩で息をしながら、真っ直ぐにティルアのことを見つめた。

━━━━僕は……××××××は、何があろうと、義姉上のことを信じています!

それだけです、とだけ付け加えると、彼は逃げるようにしてティルアのもとから離れた。後ろからティルアの声がかかることはなかった、気がする。そうだ、記憶の中ではなかったはずだった。けれど、不思議なことにこの時は後ろからティルアの声が聞こえてきたのである。


━━━━ありがとう、私の可愛い義弟。私も、あなたのことを信じているわ━━━━ガーネリオス。


彼━━━━否、ガーネリオスはぴたりと立ち止まる。こんな風に呼ばれたことなどあっただろうか。ティルアは今、どんな表情をしているのだろうか。それが気になって仕方がなかった。義姉上、と後方にいるのであろうティルアに向かってガーネリオスは振り返る。

しかし其処にティルアはいない。

後方に広がっていたのは先程までとは全く違う光景であった。ティヴェラの兵士たちが怒号を上げながら、何やら人々を押し出しているようにも見えた。押し出されている人々をガーネリオスは知っている。

(あれは……王族……?)

自分と血が繋がっている者、繋がっていない者、そんなものは関係なしに王族という王族が王宮から追い出されていた。中には財産を持つ暇もなく外に追いやられた者もいる。そんな光景を、ガーネリオスは半ば呆然として眺めていた。

━━━━兄上!義姉上!

そんな中、ガーネリオスの耳に入ってきたのはまだ幼さを残す声音であった。はっとしてそちらに顔を向けると、其処には泣きじゃくる“自分自身”がいる。何処にいるのでもない兄と義姉に向かって、必死に手を伸ばす少年がいる。そして、それは紛れもなく、幼かった頃の自分自身なのであった。

(嗚呼、オレは━━━━)

ぐにゃりぐにゃりと視界が歪む。泣きじゃくる自分の声がどんどん遠ざかっていく。かつて小さい自分がそうしていたように、ガーネリオスは手を伸ばす。しかしその掌は、何もない虚空を掴んだだけだった。



「━━━━思い出したか?」



程よい距離から聞こえてきたルードゥスの声でガーネリオスははっと我に返る。慌てて辺りを見回してみれば、其処にあるのは薄暗い地下牢であった。

(……夢……にしては、やけに……)

現実味があった。冷や汗が止まらない。何とも言えない気持ち悪さがガーネリオスの体を支配していた。なんだろう、“まるで実際にあったことを追体験している”ような感覚である。ぶるぶると震えていた掌を握りしめることで、ガーネリオスはなんとか自分を落ち着けようとした。

「くく、ガーネリオス。捨てられし王子よ。貴様は何を望む?」
「…………」
「俺なりの憐憫だ。貴様の望むものをひとつくれてやろう。俺はこう見えて王とは程近い立ち位置にいるからな、たいていのことはしてやれる」
「…………!?」

相変わらず甘美でいながら毒々しい笑みを浮かべて、ルードゥスは鉄格子の向こう側からガーネリオスのことを見つめている。ルードゥスの言葉に思わず反応してしまったガーネリオスだったが、すぐにもたげた頭をうつむけた。先程見ていた夢……のようなものの影響だろうか、なんだか頭が酷く重い。

(……何でも、望むものを……。もし、それが本当に出来るのなら……)

あのルードゥスという男のことを、ガーネリオスは信じたくない。あんな淫靡な表情を浮かべるような男なのだ、きっと腹の中ではろくでもないことを考えているに違いないとガーネリオスは踏んでいる。しかし、しかしだ。ルードゥスの言葉は、ガーネリオスにとって願ってもないものであった。

「……本当に、何でも良いのか」
「無論。望みがあるのなら言うが良い」

ルードゥスが笑む。待ち構えていたとばかりにガーネリオスの顔を、虹のような色合いの瞳が見下ろす。ガーネリオスはすぅ、と息を吸ってから、挑むようにルードゥスを見据えた。


「オレの、望みは━━━━」

1ヶ月前 No.169

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

「━━━━謁見、とな」

特段驚く様子も、狼狽える様子もなく、霊鳥を模した仮面で顔……というよりは頭部全体を覆い隠した王、クルーファは応じた。ゆるり、と彼は視線を眼下のルードゥスから玉座の間と外部を繋ぐ扉へと向ける。

「嗚呼、何でも貴様に直々に会いたいという奴がいたものでな。その有り様があまりにも哀れでならず、こうして扉の外に待たせているという訳だ」
「…………余が断じる可能性もあると見てその行動に至ったのか?ルードゥスよ」
「くく、どうであろうな。しかしだクルーファ、貴様への謁見を望むのは“この国の王子”であるぞ?」
「……王子、か」

クルーファの反応を面白がるような素振りのルードゥスの言葉を聞いて、ティヴェラ王国の王は暫し顎に手を遣って考え込む仕草を見せた。とは言え、仮面に覆われているのでその表情はちらりとも見えない訳だが。……閑話休題、答えにたどり着いたらしいクルーファはす、と顔を上げる。

「その者を通せ、ルードゥス」
「構わぬのか?」
「構わぬ。そしてこれは余のための謁見である。ルードゥス、お前は退出せよ」
「くく、貴様も律儀よな」

密やかに笑い声を漏らしてから、ルードゥスは玉座の間を後にした。それと入れ違いになるようにして、ガーネリオスが玉座の間へと入る。相変わらず風采の上がらない囚人服のままで、手足には細かい傷痕が残り、何処からどう見てもぼろぼろの風体であった。しかしその表情は決して虚ろなものではない。何か、意を決したかのような━━━━そんな真剣な表情をガーネリオスは浮かべていた。

「……謁見のご許可をくださり、誠に忝なく存じます、国王陛下」

ガーネリオスはクルーファに向けて、非常に恭しく一礼した。クルーファはそんなガーネリオスの姿を見下ろして、彼に言葉をかける。

「……良い。面を上げよ。国民の望みを叶えるは王としての役目。そう畏まるでない」
「━━━━はっ。ありがたき幸せにございます、陛下」
「……して、お前は何故余への謁見を求めた?お前は本来ならばこの王宮にて務めを果たすべき雑色。如何様にして、斯様な決断へと至ったのだ?」

クルーファからの問いかけに、ガーネリオスは一瞬言葉に詰まった。それをクルーファは見逃さない。す、と玉座から立ち上がって、うつむくガーネリオスのことを見下ろした。

「余はティヴェラの王だ。我が王宮に務める者のことはある程度熟知しておる。お前のことも同様だ━━━━グラネット」
「━━━━!!」

ガーネリオス━━━━否、グラネットはびくりと肩を震わせた。グラネットはこれまで、クルーファに対して一度もその名を名乗ってはいない。そもそも交わした言葉というものが少なすぎる。たしかにグラネットは騒動の犯人ではあるが、名前が割れるような段階まで捜査は進んでいないはずだ。だとしたら、何故クルーファは彼がグラネットと名乗っていることを知っているのだろうか。

「……いくら雑色と言えど、我が王宮に務める人間に変わりはない。武官も、文官も、雑色も、担当する部署が異なるのみ。余からしてみれば本質は変わらぬ」

故にわかる、とでも言いたいのだろう。グラネットはそれが衝撃でしかなかった。クルーファは、己の父は、まるで自分の息子を他人のように扱う。いや、今はこのような、ぼろ雑巾のような姿であるし、追放した息子のことなど思い出したくもないのだろう。グラネットもそれは重々承知していた。しかしクルーファの言動は明らかにおかしい。彼の口振りには温かさも冷たさもないのだ。本当に、ガーネリオスという息子の存在を知らないかのような素振りだ。

(……いや、戸惑っていても仕方ない)

これも一種の試練なのだ、とグラネットは無理矢理自分を納得させた。王たるもの、むやみやたらと私情を交えてはいけないのだろう。クルーファの背負う重荷など、自分にわかるはずもない。そうグラネットは信じることにした。負けじとクルーファのことを見上げて、彼のもとにも届くように声を張り上げる。

「恐れながら陛下!グラネットという名は仮のものに過ぎませぬ!我が名はガーネリオス!紅き宝玉の子と、あなたが名付けた!私は三年前のあの日に王宮を去った、あなたの息子にございます!」
「…………」
「信じられぬやもしれませぬ!しかし私はあなたの息子だ!この身に授かりし五大が、何よりの証にございます!」

ばちり、と。グラネットの周りを微かな電流が走った。ティヴェラの王族は雷神の血統とされている。そのため雷を模した五大を授かって生まれることが多いのだ。グラネットもその中の一人であり、五大を使いこなすことが出来た。

「私はあなたを憎んでも、恨んでもおりませぬ!ただ、あなたにお会いすることだけを胸に生きて参りました!再び王族の列席に加えていただこうとは思いませぬ!ただ……ただ、あなたや兄上、義姉上にお会いしたいだけにございます!」

グラネットは叫ぶ。クルーファに自らの声を届けんと、精一杯に叫ぶ。クルーファはそんなグラネットのことを静かに見下ろしていたが、やがて何も言うことなく玉座のある上部からグラネットのいるところまでを繋ぐ階段を下り始めた。こつ、こつとクルーファの立てる靴音だけが玉座の間に響く。グラネットは静かに、クルーファが下りてくるのを待っていた。

「ガーネリオス。お前の決意と望みはわかった。遠路遥々、苦労であったな」
「は、はい……!」

グラネットの目の前までやって来たクルーファの声音は穏やかなものだった。グラネットは思わず目を輝かせてしまう。褒められた。ただそれだけで、グラネットの四肢から五臓六腑に至るまでに力がみなぎった。嗚呼、自分はこの方のために生きている。

「其処までして余に会うことを望んだ人間は、お前が初めてやもしれぬ」

クルーファはそう呟いてから、すっ、と手を顔の仮面へと持っていく。頭部を覆い隠していたそれが、ゆっくりと離れていく。グラネットはごくりと生唾を飲み込んだ。本当に、本当にこんなことがあって良いというのか。自分の他にも追放された王族は数多くいるというのに。━━━━だが、そんな罪悪感めいたものをグラネットはすぐに打ち消した。だって自分は努力をしたのだ。頼る場所のない母と市井にまで落ちぶれて、それでも尚生きようと日々足掻き続けた。母は心労が祟って亡くなってしまったけれど、それも今日で報われる。だって、だって目の前には、焦がれた父親がいるのだから━━━━。

「父上━━━━!」

叫ぶ。叫ぶ。クルーファに、父親に向けて。グラネットの表情はこれ以上ないくらいの輝きに満ち溢れていた━━━━そう、あくまでも満ち溢れて“いた”のだ。

「…………え」

しかしグラネットの表情は一瞬で硬直することとなる。仮面を取ったクルーファの顔を見上げて、荘厳な玉座の間には似合わない、ぽかんとした顔をした。其処にあるのは、喜怒哀楽のどれでもなく。


「なんで、お前が━━━━」


斬、と。風を切るような音がしたかと思うと、グラネットの首はごろりと床に転がっていた。ただ純粋な驚愕だけを顔に浮かべながら、苦悶の声も恨み言も吐くことなくグラネットの首は胴体から離れた。グラネット━━━━もとい、ティヴェラ王国第二王子ガーネリオスは、ただただ驚きながら死んだのだ。

1ヶ月前 No.170

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少し前から胸騒ぎはしていた。なんだか嫌な予感がして仕方がないこともあった。最近はやたらと王宮を賑わせる事件が多すぎる。それもあってのことであろうと彼は考えていた。何時だかは忘れてしまったが、宮廷薬師から「宰相殿は気を張りすぎだ」と睨まれたことがある。だからただ単に自分は心配性が過ぎるだけなのだろう、そう思っていたのだ。

「……陛下」

しかし、その心配は惜しくも杞憂になってはくれなかった。彼が立ち尽くす眼前には、一面の赤い水溜まりが広がっている。其処に程近い場所に佇んでいるのは、ティヴェラ王国国王であるクルーファだった。

「……アドルファスか」

クルーファはゆらり、と顔を上げる。相変わらず仮面を付けているので表情まで見て取ることは出来ない。ただ不気味な霊鳥の面が此方を見つめているばかりだ。此処まで駆け付けたアドルファスは何とか乱れる息を整えてから、クルーファに一歩近づく。

「……何が、あったというのです」
「何、そう大したことではない。そうだろう、クルーファ?」

アドルファスの問いかけに答えたのはクルーファではなかった。いつからいたのかはわからないが、退室したはずのルードゥスがクルーファの隣まで移動していた。艶かしく笑む彼に、アドルファスはますます眉間の皺を深くする。このルードゥスという男が彼は苦手だ。嫌悪感さえ抱くこともある。それでも相手が王たるクルーファの側にいることを許されている限り、悔しいがとやかく言うことは出来ない。

「……嗚呼。ルードゥスの言う通りだ。大したことではなかった」
「しかし、この男は……」
「ガーネリオス、とかいうらしい。余との謁見を望んだが故に許した。ティヴェラ王国の王族である以上、こうせざるを得なかったが」

クルーファは混乱する様子もなく、ただ淡々とアドルファスに向けて説明する。アドルファスは呆然と足元に転がるガーネリオスの首を眺めているしか出来なかった。しかしその首も、ルードゥスによって拾い上げられる。

「誠、哀れな人間であったよ。この男は。何処までも王を追いかけようとしていた」
「……!ルードゥス、貴様が……!」

ルードゥスの言葉に、アドルファスは目を吊り上げた。それもそのはず、アドルファスはこの首のことを知っていたのだ。ガーネリオス、とか言われてはいるがアドルファスが知っている彼の名前はグラネットという。彼は数日前に、武具庫から繋がる隠し通路を通って玉座の間まで侵入しようとしていた。宮廷薬師の住まいに行っていたアドルファスは偶然鉢合わせたフィオレッロから話を聞いたことで彼を捕縛するに至った。どんなに手を尽くしても何も吐こうとはしない、と尋問官が溜め息を吐いていたのをアドルファスはよく覚えている。

「くく、そう怒るなアドルファス。どう転ぼうと、最後に歩む道筋は変わりのないものだったのだからな」
「だが囚人を許可なく連れ出して良いとは一言も言っていないぞ、ルードゥス」
「良いではないか。結果として我等に影響はなかったのだから。クルーファがいる限り、この王国に反乱など起こせぬ。それは貴様もよくよくわかっておろう?」

いくらアドルファスが凄もうと、ルードゥスは反省する様子がない。アドルファスはまだ小言を言ってやりたかったが、クルーファの手前なので嘆息するだけに留めた。つくづく、この男とはそりが合わない。

「……ともかく、この者の片付けは隠密部隊に任せるとしましょう。して、陛下。他の王族に関しては如何なさいますか」
「他の王族……?」
「離宮に押し込めておった者たちのことであろう?一人は脱走したようだが……残っているのは何の力も持たぬ女。わざわざ手を下す程のものか?」

アドルファスの言葉に首をかしげたクルーファの横合いから、ルードゥスが口を挟む。その口調はいっそ清々しい程に投げやりであった。大方、その辺りの細々としたことには興味がないのだろう。このルードゥスという男は、自らの愉悦と快楽のためにしか動かない。アドルファスはそんなルードゥスを一発……いや最低でも十発程ひっぱたいてやりたくなったが、ごほんと咳払いをしてその衝動を誤魔化す。何よりも大切なのはクルーファの意見なのだから、自分が口を出してはいけない。

「離宮の者はそのままにしておくが良い。恐らく手出しする余地もなかろう」
「くく、良いのかクルーファ?あの女はともかく、逃げ出した王子の目は誤魔化せぬぞ」
「……構わぬ。奴が“視よう”と余のところまでは届くまい」

それだけを告げると、もう用はないとでも言うようにクルーファは玉座の間を後にした。恐らく衣服に血が付いてしまったためそれらを召し替えに行くのだろう。何処までも自分の赴くがままに生きる御仁である。にやにやと此方を見つめるルードゥスを鋭く一瞥してから、アドルファスは再び深い溜め息を吐いたのであった。

1ヶ月前 No.171

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.172

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

これまでしてきたのと同じようにルタを宮廷薬師の住まいに預けてから、ヴィアレは仕事場へと向かう。アリックはずっと宮廷薬師の住まいで寝泊まりしているらしく、此方の都合も鑑みてかヴィアレたちの部屋に来ることはほとんどなくなってしまった。少し物寂しくもあったがお互いの利害が一致しているので何とも言えないところだ。

「ヴィアレ、どうしたのー?元気ないよ?」

そんなことを考えていたのが顔に出ていたのだろうか、近くで拭き掃除に励んでいたエミリオがそう問いかけてきた。今日は特に運搬の仕事などもないので一日かけて兵舎の掃除を行うことになっている。むさい兵士たちは数日もすればすぐに兵舎を散らかしてしまうのだ。

「い、いや……。少し、考え事をしていてな」
「考え事かぁ、珍しいね。何か悲しいことでもあったの?」
「特にはないが……。……まあ、気分のようなものだな」

そっかぁ、と返したエミリオの表情は普段通りのままである。しかしヴィアレにとってはそれが不自然でならなかった。

(……昨日まで、ひどく落ち込んでいたというのに……)

そう、エミリオは昨日まで、仕事をしている時もそうでない時も、どんよりと落ち込んでいたのだ。理由は簡単なことである。数日前に姿を消したグラネットが、まだ帰ってこないから。一応フィオレッロが話をつけるとは言ってくれたものの、あの日から進展らしい進展はなかった。つまりは音沙汰がなかったということだ。エミリオはそれを気にしていて、いつも明るい彼の表情は重く沈むばかりだった。それなのに今日になってみたら、そんなことはなかったと言わんばかりの態度なのである。ヴィアレも不思議に思わざるを得なかった。

(このような短時間で、立ち直ることが出来るものなのか……?)

ふんふんと鼻歌を歌いながら仕事に励むエミリオを、ヴィアレは疑わしげに観察した。空元気にしては自然過ぎるし、エミリオが此処までの演技派という印象も持てない。時折同僚と話しているエミリオの言動に嘘偽りはなさそうだ。ヴィアレは一度、自分が気にしすぎているだけなのではないかとすら思った。しかし客観的に考えてみても不自然極まりないのだ。自然過ぎて逆に不自然な状況。それにヴィアレは悶々としていた。

「な、なぁ、エミリオ」
「ん〜?」

この状況のままではいけない。ヴィアレはそう考えた。だから、多少ぎこちなくはなったのだが、エミリオに声をかけた。振り返ったエミリオの表情には負の感情が見受けられない。ただ仕事をしていたら話しかけられただけの、そんな何の変哲もない表情。それが今のヴィアレからしてみたら気持ち悪かった。

「グラネットは今頃、どうしているだろうな」

昨日まであんなに落ち込んでいたエミリオの前で、グラネットの名前を持ち出すのは気が引けた。もしかしたらエミリオは頑張って負の感情を表に出すまいと努力しているだけで、本当はまだ悲しみから乗り切れていないのではないか━━━━。そんな風に思いもした。しかし躊躇っていては話が進まない。そのためヴィアレは腹を括ったのだ。もしもエミリオを傷付けてしまったら、その責任は自分が負おう、と。

「……ヴィアレ」

エミリオが言葉を紡ぎ出す。その少しの時間でさえも、ヴィアレにとっては長く感じられた。ゆっくりと、エミリオの唇が動いていく。それをヴィアレは、ごくりと固唾を飲んで見守っていた。


「グラネットって、誰?」


エミリオから返ってきた言葉。それは全く予想していないものであった。え、とヴィアレの口から吐息めいた驚愕の言葉が漏れる。エミリオはうーん、と考える素振りを見せながら言葉を続けた。

「そんな名前の人、うちの部署にはいなかったんじゃないかなぁ。ヴィアレは知り合いが多いから、たぶん違う部署にいるんじゃない?そのグラネット……?って人」
「ま、待てエミリオ……!そなた、本気で言っているのか……!?グラネットだぞ、グラネット!この前まで共に仕事をしていたではないか!」

思わずヴィアレはグラネットの肩を掴んでそう捲し立てていた。忘れるなんてあり得ない。グラネットが数年前に姿を消したというのなら、たとえ忘れていてもそれは仕方のないことなのかもしれない。しかしエミリオは昨日までグラネットがいないことに落ち込んでいたし、彼についてぼそぼそと呟くこともあったのだ。たったの一日でグラネットのことを忘れてしまうなんてどうかしている。

「で……でも……。そんなこと言われたって、僕は本当に知らないんだよ、そんな名前の人……」
「本当に、本当に覚えていないのか!?グラネットだぞ、共に仕事をしたグラネットだぞ!?忘れるなんてことがあるのか!?」

ついエミリオに詰め寄ってしまったヴィアレだったが、エミリオの戸惑う様子を見て「……すまない」と彼から離れた。相手がわからないと言っている以上、無理に問い詰めるべきではないだろう。しかしヴィアレの胸の中に生まれたもやもやとした感情は依然として消えないままであった。

1ヶ月前 No.173

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1ヶ月前 No.174

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

室内にいたのは決してエルト一人だけではなかった。ノルドもいたしリリアもいた。ヴィアレの知らない顔も二つほどあった。此処にいるということは、エルトの同胞という認識で良いのだろうか。

「いつまでも立ちっぱなしというのも辛いでしょう。遠慮せず、其処に座りなさい」
「う、うむ」

ぼうっと室内を見渡していたヴィアレだったがエルトにそう促されておずおずと着席する。じろり、と室内の視線がヴィアレに集まった。なんだか居心地が悪い。

(……あれは、エルト……なのか?)

座ったところで、ヴィアレは再度エルトのことを眺める。姿形が大きく変わった……という訳ではない。男性としての装いをしているくらいだが、大まかな顔の造形はそう変わってはいなかった。だというのに、彼は今までのエルトとは大きく違っていた。何というか……彼にあった温かみが、全て冷やしきられてしまったかのような感覚である。いくら微笑みを浮かべようと、其処に親しみやすさというものはない。何処か近寄りがたい冷たさを孕んでいる。少し余所見をしたらその首をかかれてしまいそうな、そんな危うささえある。

「なぁエルト、まずは改めて自己紹介をした方が良いんじゃねぇか?ヴィアレが緊張しちまってるぜ」

何も話そうとしないヴィアレを緊張しているものだと解釈したらしいノルドが、そんな風にエルトを促した。ノルドは相変わらず奔放なようでいて気が利く。エルトはそうですね、と呟いてから一同に向き直った。

「皆さん、この者が我々の同胞であるヴィアレです。彼も旧アーカム領における我々の同志となります。……さ、ヴィアレ。挨拶なさい」
「……よ、よろしく頼む」

ぺこり、とヴィアレが頭を下げると、ぱちぱちとまばらに拍手が起きる。恐らく外には聞こえない程度の音であろう。拍手の音がだいぶと小さくなってから、「じゃあ次はボクたちの番だね」と声が上がる。

「はじめまして、ヴィアレ君?ちゃん?どーしよっかな、可愛いからヴィアレちゃんにしようっと。━━━━ごほん。ボクはレイン。ノルド君たちの住んでる村から少し離れたところに暮らしてるよ。今後ともよろしくねー」

最初に自己紹介をしたのはヴィアレよりも年下に見える少女であった。口調は男の子のものに近いが、纏っている衣服は明らかに女物だ。これで男だというのならヴィアレはもう旧アーカム領の要人は女装をしなければならないのだと思い込むことであろう。レインはしげしげとヴィアレのことを眺め回して、にんまりと満足そうな表情を浮かべる。

「ふぉ……すっごぉい、滅茶苦茶綺麗だね、この子。今時こんな子いるんだぁ……へぇ……」
「……傀儡使よ。其奴は生きている人間、貴様の材料ではないぞ?」
「わかってるよっ、そんなことくらい!ボクだってさすがに生身の人間は弄くろうとは思わないさ!」

じろじろとヴィアレを凝視していたレインは、リリアからぴしゃりとお叱りの言葉を受けてぷりぷりと可愛らしく憤慨した。なんだか親子のようだなぁ、としみじみしかけたヴィアレだったが、ふと疑問を覚えてリリアに問いかける。

「り、リリア……傀儡使、というのは……」
「嗚呼、そのことか。……そういったことは貴様自身で話すが良かろう」
「えー、リリアってば話してくれないのー?ボク難しいこと説明するの好きじゃないんだけどぉ」

そんな文句を垂れつつも、レインはよいせと立ち上がって近くにあった椅子の上へと上る。ふふん、と得意げにヴィアレを見下ろしてから、レインはちょいちょいとまだ自己紹介をしていない面子を呼び寄せた。

「多分こういうのって、口で説明するよりも実際に見てもらった方が良いと思うんだよねぇ。あ、この子はワーヒド。ボクの自慢の子なんだぁ」
「わ、ワーヒド殿か。よろしく頼む」
「…………」

ワーヒド、と紹介された男は簡素な衣服に身を包んだ、よく引き締まった体つきの三十に満たない程の外見をしていた。表情らしい表情を浮かべることはなく、ただ無表情でヴィアレのことを見下ろしている。はっきり言って可愛げとかそういった次元の問題ではなさそうだが、レインはそんなワーヒドをよしよしと犬猫を愛でるかのように撫でていた。

「本当は色々出来るんだけど、初心者だからやさしめにしてあげる。━━━━ワーヒド、頭を取れ」
「……承知」

ぼそり、と呟くと、ワーヒドは何の躊躇いもなく自分の頭を“取った”。突然のことにヴィアレはただただ唖然とするしかない。だって頭が取れたのだ。“頭が、取れた”のだ。そんなことをして生きていられる人間などいられるであろうか、いやいるはずがない。

「くふふ、驚いた?ボクはね、主人の命令を何でも聞く人工の召し使い……傀儡を操ることが出来るんだ。作り方はとっても簡単。人間の体の一部をボク特製の薬に漬け込んで、それを人形に嵌め込んじゃえば完成。核になった人間の体の一部が破壊されない限り機能が停止することはないから、とっても便利なんだよ」
「で……では、ワーヒド殿は……」
「そ。平たく言えばお人形。ついでに其処にいる子たちはみーんなボクの傀儡。ボクの言うことなら何でも聞いてくれるし、たいていのことはそつなくこなしてくれる良い子たちだよ?」

いとおしそうにワーヒドを撫でながら、レインはむふふと微笑む。ヴィアレはまだ納得出来ない部分も多かったが、なんとなく詮索するのはよろしくないと思い口をつぐんでおいた。しかし、まだ疑問は残っている。これはレインだけに聞く質問ではないので、ヴィアレはエルトへと向き直る。

「して……何故エルトはこのように皆を集めたのだ?ノルドたちは、わざわざ集落から忍んでやって来たのだろう?……何か、すべきことでもあるのか?」
「……すべきこと、ですか」

ヴィアレからの問いかけを受けたエルトは、表情の起伏が少ない彼にしては珍しく、うっすらと微笑んだ。その微笑みをヴィアレは永劫忘れないことであろう。何故ならば、その微笑みはひどく胸騒ぎを起こすような、不穏に満ち溢れたものだったのだから。


「離宮におわす我等の同盟者を救出の後、この王宮を脱出します」


1ヶ月前 No.175

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

離宮、と聞くことは多くとも、ヴィアレは離宮に入ったことはない。まず、入れる立場ではなかったからだ。以前、離宮には何があるのかとグラネットやエミリオに聞いてみたことがあった。すると二人とも、彼処に行くなんてとんでもない、という顔をした。彼処は限られた人間しか入ることの許されない場所だから、と。だからどのような人物が集まっているのかは知らなかったが、自分のような立場の人間が入ることを禁じられている場所ということはヴィアレも知っていた。

「ま……待てエルト。同盟者……とは、どのようにして接触を図ったのだ?」
「……嗚呼、そういえばあなたは私の職を知らないのでしたね」

慌ててヴィアレが再度の問いかけを投げ掛けると、エルトはふぅと嘆息した。なんだか軽く責められているような感覚を覚えないでもない雰囲気である。ぴりぴりした空気にヴィアレが肩身の狭い思いをしていると、「まあまあ」とノルドとアシェリムが間に入ってくれた。

「ヴィアレとエルトは違う部署に入ってたんだろ?関わりがないんじゃ知らなくても可笑しくはないって。な?」
「それにお互いの立場を知っておくのも悪くはないと思うしね。手間をかけさせて悪いけど、再三の説明を頼めるかな、エルト君」
「……それもそうですね。わかりました」

ノルドとアシェリムの仲裁も入ってか、エルトの顔つきはいくらか柔らかいものに変わる。しかしヴィアレとしては安心など出来なかった。

(エルトは……此処まで近寄りがたい男だったか……?)

王宮勤めに入ってからおおよそ二月程しか経っていないというのに、一体彼に何があったというのか。此処まで雰囲気ががらりと変わってしまうと、さすがのヴィアレでも居心地悪く感じてしまう。この雰囲気であれば皮肉なことだがナラカの話にも信憑性が出てくる。

「私はあれから通信を司る部署に配属されましてね。鳩などによって外部と接触を図ることが出来ました。しかし旧アーカム領と連絡を取るだけでは不足が生まれる。其処で私はこの王宮内に内通者を持つことにしました」
「……それで、離宮の住人を……?」
「はい。此方が条件を示せば彼方はすんなりと承諾してくださいました。そのために、私は多くの情報を掴むことが出来た。故に、その同盟者を離宮より連れて、我々はこの王宮から脱出することとしたのです」

エルトの顔色は変わらない。かつて、夕飯をどうしようかとヴィアレに問いかけてきた時と変わらない表情で、そんな作戦を練っている。それがヴィアレにとっては痛ましくて仕方がなかった。

「そこで、ヴィアレには頼みたいことがあるのです。これはあなたにしか頼めない任務ですからね、アシェリム殿に探させたのですよ」
「我にしか……?」
「ええ。離宮に行くにはどうしても邪魔が入ります。そのため、あなたには薬師のところの者たちを足止めしていて欲しいのです。彼らとは顔見知りなのでしょう?面識のある相手であれば、無下にはされないはずです」

エルトから提示された案に、ヴィアレは何も言い返すことが出来なかった。薬師のところの者の足止めをする。言葉にしてみれば簡単なことだ。しかし、それを実行するとなるとどうにもやりづらい。

(だって、それは……ナラカやアリックを嵌めることになる)

ヴィアレにとって、エルトはかけがえのない恩人だ。彼がいなければ自分は今此処で生きていたかさえもわからない。そんなエルトに報いたいという思いは本物だ。然れど、ナラカとアリックもヴィアレの大切な人間である。二人や、ルタの面倒を見てくれた薬師のところの者たちを騙すような真似はしたくない。たとえどのような大義名分があったとしても、だ。

「……エルト。我は、弁が立たぬ。故に、そのような役目を負うことは……」
「いいえ、いいえ。あなたならやれます。私はあなたの力を知っている。臆することなく進めば、自ずと良い結果を招き入れることが出来ますよ」
「そうそう、暗示ってけっこう強いもんだからな!そんなに気負わずにさ、肩の力を抜いてみろって!」

エルトやノルド、それにこの場にいる誰もがヴィアレの内心など推し量れてはいなかった。まだ幼さの抜けきらない少年が、与えられた任務に緊張している。彼らはそう考えていた。少なくとも、ヴィアレが板挟みの状態で揺れているなどとは、微塵も考えていなかったのだ。

「……とにもかくにも、計画を実行しない訳には参りません。……ヴィアレ、頼みましたよ」

時間がない。それはエルトの口振りから見て取ることが出来た。しかしヴィアレにとって、重要なのは時間ではない。どのような答えが最善なのか、ヴィアレにはまだわからないのだ。

(……我は、どうすれば良いのだ。どうすれば、この窮地を上手く切り抜けられる……?)

考えている間にも、一行は既に動き出し始めている。ノルドが励ますようにヴィアレの背中を軽く叩いてくれたが、この時のヴィアレにはそれすらもずしりと重く感じられた。

1ヶ月前 No.176

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

とぼとぼと、重い足取りでヴィアレは歩く。もう少しで、宮廷薬師の住まいに着いてしまいそうだ。彼処にはまだルタも残されている。恐らくこれからヴィアレが帰ってくるものだと信じて待っていることだろう。そう考えると、余計にヴィアレの胸はきりきりと締め付けられるような感覚に襲われた。

(……本当は、行きたくなどない)

出来ることなら、このまま踵を返して自室まで帰ってしまいたかった。しかしヴィアレにそんなことは出来ない。離宮から少し離れた茂みの中で、エルトたちが息を潜めて離宮に忍び込む機会を待っているのだ。ナラカたちを騙したくもないが、彼らを見捨てる訳にもいかない。だから足を止めることは出来ないのだ。足を止めれば、其処でヴィアレの時間は止まってしまう。そんなのは嫌だった。この苦しい時間が、一分一秒でも短ければと思った。だから足を動かす。何も考えず、ただひたすらに足を動かす。そうすれば、辛い時間もきっと終わる━━━━。

「……ヴィアレさん?」

そんな最中、ヴィアレの前方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。止めてはならない、と思う。思うのに、自然とヴィアレの足は止まっていた。

「……ナラカ」
「ルタさんのお迎えですか?」
「い……いや、そういう、訳では」

今まさに会いたくないと考えていた少女━━━━ナラカがヴィアレの心中を知るよしもなく、しどろもどろになる彼を訝しげに見つめていた。ヴィアレはナラカに何と声をかけるべきなのかわからない。自分が挙動不審であることはわかっていたが、平静を取り繕うことは出来なかったのだ。

「……何か、あったんですか?」

心配する、というよりは疑わしげな視線をナラカは向けてくる。これは黙りを決め込む訳にはいかない。一生懸命に言葉を練った。ナラカに変な疑念を抱かれる前にと、慌てて口を開く。

「な、ナラカはこの王宮での生活は、楽しいか!?」
「……はぁ?」

ヴィアレの口から飛び出したのは、あまりにも場違いな問いかけであった。ナラカがすっとんきょうな声を出したのも当然である。いきなり今の生活は楽しいか、なんて問われても、首をかしげるしか出来ないだろう。ヴィアレはつくづく自分の語彙力やひらめきのなさを悔やむこととなった。

「……まあ、楽しい……とまではいかないけど、そこそこ充実していることにはなると思います」

ヴィアレの場違い極まりない質問に答えてくれる辺り、ナラカは律儀なのだろう。しかし彼女の表情は、決して負の感情を含むものではなかった。いつも無表情で仏頂面なことの多いナラカにしては珍しい。

「先輩とか、同僚の方も良くしてくださいますし……。ちょっと怖い人もいるけど、最近は慣れてきましたから。毎日安心して眠れる場所と、不味くないご飯と、最低限の仕事があるという点では、私は恵まれているのでしょう」
「……ナラカは、働き者なのだな」
「そうでもありませんよ。ヴィアレさんだって知ってるでしょ。私、集落ではまともに働くことなんてそんなにありませんでしたから」
「……まあ、たしかに」

ナラカからそう言われて、ふとヴィアレは集落にいた頃のナラカを思い出してみる。彼女はたいてい自室にこもっていることが多く、自分から外出しようとすることは極めて少なかった。ヴィアレが無理矢理起こして連れ出すことも少なくはなかったし、考えてみればナラカは暇さえあれば書物を読んだり何やらにょろにょろと書き物をしているような少女であった。炊き出しの手伝いもある程度はするが、自分の仕事が終わればさっさと家に引っ込んでしまう。あんなだから集落の奴らとも壁があるんだよな、とノルドが苦笑していた。

「私、面倒臭いことは好きじゃありません。けど、動くこと全般が嫌いという訳ではないんです。働いて、その働きに見合った相応の評価をしてもらえるなら、私だって働こうという気持ちにはなります」
「環境による……ということなのか?」
「そう、かもしれません。でも、きっと、此処の人たちのほとんどは、私のことを知らないから……だから、此処までやれたのではないかと思うんです。あの集落では、私はあまり好ましく思われていなかったみたいですし」

ヴィアレはナラカの言葉を否定しない。たしかに彼女と集落の民の間には壁があった。それはナラカも理解しているのだろう。彼女も集落の民と積極的に関わろうとはしなかった。目を合わせることもなく、そそくさと家に逃げ込んでいくナラカを、ヴィアレは何度も見たことがあるからだ。其処から考えてみれば、今のナラカはかなり外交的になった、とヴィアレは思う。少なくとも彼女は、道ですれ違って声をかけてくれるような少女ではなかった。

「……ナラカ。そなたは、この場所で働き続けたいと思うか?」
「この、場所で……?」
「いつか此処から離れる日が来るというのなら、そなたはどう思う?」

ナラカの瞳を真っ直ぐに見ながら、ヴィアレは彼女に問う。この問いかけには、どうか正直に答えて欲しかった。ナラカはぱちぱちと何度か瞬きをしてから、おもむろに口を開く。

「私は……ずっと此処で働きたい、という訳ではありません。もともと、外界に戻りたくて、そのための手掛かりが欲しくて、こっそり忍んで来たようなものなので」
「…………」
「王宮勤めにも、年季というものがあると聞きました。それが明けるまでは、私なりに精一杯働こうとは思っています。此処の人たちにはお世話になっていますし、年季が明けるまでに何かお礼が出来れば良いのですが」

顎に手を遣って真面目に考えるナラカに、ヴィアレは内心驚いた。彼女のことだから、帰りたい、と考えているとはなんとなく予想出来ていたのだ。けれど、ナラカは帰りたいというだけではなかった。少なくとも、働かねばならない時間を、自分なりに精一杯働こうとしていた。あの引っ込み思案なナラカが、だ。彼女は至極真っ当な手段で外界に戻ろうと考えている。今の仕事に従事した上で、満足した上で、目標に向けて進もうとしている。

(……奪うことなど、出来ない)

ヴィアレは策士には向かない。それは自分でもわかっていた。だって、こんな少女一人の言葉に容易く揺らされているのだから。ぐ、と拳を握り締めてから、ヴィアレは思いきって口を開いた。

「ナラカ、アリックや……その他の者にも伝えてくれ。離宮の近くに、怪しい影があった」
「怪しい影……?」
「ま、また侵入者やもしれぬ。一応見に行った方が良いと思うぞ。あ、あとルタはすまぬがそちらに預ける。我にはやらねばならぬことがある故な」
「え、ちょっと、ヴィアレさん……!?」

ナラカが続く言葉を紡ごうとしているのも待たないで、ヴィアレは既に駆け出していた。後ろからナラカが何か言っているのが聞こえてきたが、ヴィアレの足は今度こそ目的地に到着するまでに止まることはなかった。

1ヶ月前 No.177

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

まさかヴィアレが戻ってくるなどとは夢にも思っていなかったのだろう。自分の前に再び姿を現したヴィアレに、エルトはきょとんと目を丸くさせた。彼の傍らにはリリアが侍っている。その他の面子の姿は見受けられなかった。

「ヴィアレ……?どうしたというのです、戻ってくるようにとは指示していなかったはずですが……」

戸惑う表情を見せるエルトに、一度はヴィアレも言葉に詰まった。彼に自分のしたことを伝えるのは怖い。怖いが、告げねばならないのだ。こんなところで臆していては、ヴィアレはいつまでも臆病者のままである。

「……我は、そなたの計画には協力出来ぬ」
「な……っ……」

はっきりと、ヴィアレはそう告げた。エルトとリリアは明らかに驚愕の表情を浮かべ、ヴィアレのことを凝視する。彼らを裏切るような形になるのはヴィアレとて好ましいものではない。しかし彼は決断したのだ。このような、この計画に関係のない人々の平穏を崩すような方法でティヴェラ王国に対するというなら、エルトたちに協力は出来ないと。それをすぐに撤回する程、ヴィアレの意志は弱くない。

「ヴィ……アレ……?な、何を言うておる……?怖くなったのなら、妾も共に行こう。だから……だから、冗談だと、言うておくれ……」

震える声音で、リリアが一歩ヴィアレに近づいた。それでもヴィアレは其処から一歩も動くことなく、黙してエルトとリリアをしっかと見据える。すぅ、と一度深く呼吸してから、エルトはヴィアレへと問いかける。

「……どういった心境の変化ですか、ヴィアレ。あなたも愚かではないでしょう。ならばティヴェラがアーカムに為したことを、理解出来るはずです」
「……わかっている。たしかに、ティヴェラはアーカムを滅ぼした。そして、多くの民が犠牲になった。それは我でもわかる」
「ならば何故、このような愚行に及んだのですか!」

びりびりと周囲の空気が振動した━━━━とヴィアレに思わせる程度に、エルトには気迫が満ち溢れていた。悲愴な表情を浮かべるリリアとはまるで対照的である。ヴィアレはエルトの、このような鬼気迫った表情を見たことはない。素直に、恐ろしいと思った。彼の受けてきた屈辱は底知れないものだともわかったし、同時に彼はこの計画を絶対に遂行するつもりでいるということも理解出来た。だからこそ━━━━ヴィアレも覚悟を決めなくてはならない。

「エルト、そなたはこれまで、この計画において何人の人間を殺めた?」
「……何が言いたいのです」
「答えよ。何人の人間を殺めた?」

エルトの表情には思わず後退したくなってしまったが、ヴィアレはなんとか踏ん張って彼にそう尋ねた。エルトはぎり、と歯噛みして、思い切りヴィアレのことを睨み付ける。

「何人?数えたことなどありませんよ。ええ、数えたことなどありませんとも。ひとつの国への報復に、犠牲を出せぬ訳がない。これは致し方ないことなのです」
「ふん、よくもまあ左様なことをいけしゃあしゃあと口に出来るな、エルト。それではそなたは、アーカムを滅ぼしたティヴェラのやり方とそう変わりないそれで、ティヴェラを貶めようとしているだけではないか」
「ヴィアレ!」

出来る限りエルトから目線を外すことなく、ヴィアレはエルトに言い放つ。悲痛な声を上げたのはエルトではなくリリアの方であった。彼女は肩をぶるぶると震わせて、今にも泣き出してしまいそうな顔で、懇願するようにヴィアレを見つめていた。

「もうやめよ、ヴィアレ……!そのようなことは我等もよくわかっておる……!だが他にやり方がないのだ。こうするしかないのだ……!エルトは……殿下は何も悪くない。殿下もまた、被害者なのだから……!」
「……すまぬ、リリア。だが我はこの計画が成って欲しくはない。……そう、決めたのだ」

ヴィアレが告げると、リリアはがくりと膝から地面へと崩れ落ちた。まるで糸の切れてしまった操り人形のようで、その姿は見るからに憐れであった。しかしヴィアレは同情こそすれど共感はしない。此処で相手に感情移入していてはヴィアレの足が掬われる。
そんなヴィアレを見ていたエルトは、何やらじっと此方を睨み付けるばかりであった。何故か額には汗が浮き、眉間には深い皺が刻み込まれている。不思議に思ったヴィアレではあったがそのようなことに構っている暇はない。

「とにもかくにも、そういう訳だ。我は誰にも与しはせぬ。ただ此処で在るように生きて、そう在るべき在り方で日々を過ごす。故に……もうそなたたちの計画に荷担は出来ない」

そう告げてから、ヴィアレはくるりと踵を返す。何と声をかけられようと、ヴィアレは振り向かないつもりでいた。決別とはそういうものだ。後戻りなど、決してしてはならない。

「……っ、待ちなさい……!」

そんなヴィアレを逃すまいと、エルトがだん、と一歩を踏み出す。振り返りこそしなかったが、ヴィアレにはエルトが走って追いかけてくるであろうということがわかった。ならば逃げなければならない。ヴィアレも駆けようと足を上げた。━━━━しかし、それよりも前にこの場にはいなかったはずの人物の声が響き渡る。


「おいおい、背中がお留守だぜ」


ひゅ、と空を切る音。背後からはずざっ、と後退りするような足音が聞こえてきた。何が起こったというのか。思わず後方を振り返りそうになったヴィアレだったが、そうする前に「振り返るな!」と叱咤の声が飛ぶ。

「坊っちゃん、お前は逃げな!此処にいても危ないだけだ、だったら一分一秒でも早く安全な場所に向かえ!」
「う、うむ……!承知した……!」

後方からかかる声にそう返事をしてから、ヴィアレは一目散に駆け出した。さすがナラカ、仕事が早い。何だか後ろめたい気もするが、あの羅刹の青年━━━━アロイスなら、きっと上手くやってくれるだろう。今のヴィアレはそう願ってこの場所から離れることしか出来なかった。

1ヶ月前 No.178

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【第30幕:見えぬ先行き、暗澹と】

伝承に聞く羅刹というものは、皆戦闘本能の塊であるとエルトは聞いてきた。だから、その羅刹━━━━アロイスに背後を取られた時、彼はヴィアレを見逃さざるを得なかったのだ。背中を一秒でも長く向けていれば、それだけエルトの命が奪われる確率も高くなる。ヴィアレを逃がすのは惜しいことだが、さすがのエルトでも背に腹は代えられない。

「……何者です?」
「そりゃあこっちが聞きたいところだ。お前こそ何者だ?……嗚呼、もしかして最近噂になってる“エルト”か?」
「…………」

アロイスに向き直ると、彼からは揶揄るような口調で挑発された。何故それを、と問い質したくなったが、余計な口は聞くまいとエルトは無言を貫く。恐らくナラカ辺りが漏らしたのであろう。彼女にとってエルトは目の敵、ティヴェラ王国にその情報を売っていても可笑しい話ではない。あくまでも予想に過ぎないが、エルトのナラカに対する苛立ちはますます募っていくばかりだった。

「……どうする?彼奴は紛れもなく羅刹だぞ」

エルトの背に隠れるようにしながら、こそりとリリアが耳打ちする。エルトの名を呼ばないのは、万が一でもアロイスに彼の名前が伝わることを恐れているからであろう。やはりアーカム王国の王子の妃として選ばれただけあって、彼女は頭がよく回る。

(たしかに相手は羅刹……油断をすればそれだけで命取りになる。……何よりも恐ろしいのは、あいつはまだ“殺気のひとつも発していない”ことだ)

アロイスはあくまでも“声をかけただけ”に過ぎない。これはエルトとしては予想外であった。これまで見てきた羅刹という羅刹は、目の前の男のように殺気を出すことなく接触を図ってきたことなどなかったからだ。状況が違う、と突っ込まれてしまいそうだが、これは羅刹にしては異常事態なのである。姿こそ人間に似てはいれど、羅刹はもともと人間を食らう悪鬼。闘争本能は人間のそれを遥かに超え、殺人行為への抵抗も薄い。……少なくとも、エルトはそう習ってきたのだ。だからこそ、このアロイスという羅刹はエルトにとって薄気味悪い存在でしかなかった。

「……あなたは支援に回りなさい。相手は羅刹です、何かあってからでは遅いですからね」
「わかった。……無茶はするなよ?」

リリアは戦闘向きではない。それを考慮してエルトは前に立った。それを見たアロイスはひゅう、と揶揄するように口笛を吹く。

「へぇ、女を躊躇いなく殺めるような奴かと思ってたが、随分と紳士的じゃねぇか」
「…………」
「黙りを決め込むならそれで構わないんだけどな。けどよ……“時間稼ぎをするのは無駄な足掻きって奴だぜ”」
「…………!?」

エルトが驚愕に瞳を見開いた瞬間、アロイスはとん、と地面を蹴っていた。そのまま武器を持つこともない彼はエルトへと拳を叩き込もうとする。いくら徒手空拳と言えど羅刹に殴られたとなってはリリアの治癒も追い付くまい。エルトはぐん、と無理無理に身体を捻ってアロイスの攻撃をかわした。

(……何故、露呈した……!?)

腰に携えていた鞘から剣を抜きつつ、エルトは目の前の羅刹を睨み付ける。この羅刹は読心術でも使えるのか。だとしたら余計放っておくことは出来ない。

「お、図星か?だったら悪いな、焦らせちまって」
「……黙りなさい!」

そう叫んでから、エルトはアロイスへと斬りかかる。一太刀目を避けられる。しかしエルトは体勢を崩すことなく、ひゅるりと残心も置かずにアロイスに向き直った。そのまま彼に傷を負わせんと剣を突き出す。だがアロイスも完全な丸腰という訳ではなく両腕に金属製の籠手を装備しており、ガキン、と甲高い金属音を鳴らした。

「そうは言うけどよ。お前、本当にこの状況がわかってるのか?」
「……何を……!」

何を言いたいのだ、とエルトはアロイスを問い詰めようとして止めた。否、エルトはアロイスを問い詰めたのだ。しかし言葉を発することはなく、ただ己が剣のみでアロイスを非難した。腕が駄目なら頭を狙うしかない。当然アロイスはそれを防ごうとする。しかしその隙間を縫うようにして、エルトは剣を突き通した。つぷ、とアロイスの頬が軽く切れる。羅刹の身体能力を以てしても、エルトの一撃を完全に避けることは出来なかったようだ。

「っ……!」

此処に来て初めて、アロイスは後退した。尚も剣を構えるエルトを見つめてから、あろうことかアロイスはにやりと“笑みを浮かべた”。いとも愉しそうに、唇の端を吊り上げたのだ。

「……成る程なぁ。お前、ただの武人じゃねぇだろ」
「…………」
「その一手。その攻め。人間でも、羅刹でも━━━━いや、神代より後に生まれた者であれば誰も読むことは出来ないだろうよ。お前が悉く“先に読んでいる”んだからな」
「━━━━!」

アロイスの口振りは決して飾ったものでも、衒ったものでもなかった。しかしその言葉はたしかにエルトの胸へと突き刺さったのだ。ずり、と後退りするエルトに、アロイスは微笑みながら続ける。

「だが、恐らくお前の身体までは可笑しくないんだろう?先読みが出来るたぁ言っても、身体への負担は避けきれない。だが其処の女が何かしらの手を加えることで、お前の身体は持っている。ほら、お前、俺と戦っても息切れひとつしてないだろ?」
「……貴様」
「お前がどのような力を持ってるかは知らんがこんなところで俺と殺り合ってる時点で時既に遅しって奴だぜ。……そろそろ、頃合いなんじゃねぇかな」
「頃合い……?」

アロイスの言葉に一瞬首をかしげたエルトだったが、ふとあることに気づく。そうだ。自分たちは、エルトとリリアは、あくまでも“周囲の見張りに過ぎなかった”のだ。大切なのは、重要なのは、自分たちではなく離宮に潜入した残りの面々ではないか━━━━!

「……っ、退きなさい!」
「……そのための足止めだ。此処を通すわけにはいかない」

アロイスの動きを読むことは不可能ではない。しかしいくら動きを読もうとしても、ただ斬り合っているだけでは相手の行動を止めることは出来なかった。どうしたものか。エルトの額に汗が浮かぶ。

「……殿下!貴殿は先に進め!此処は妾が引き受ける!」
「……!?あなた、何を言って……!?」

ずぶり、ずぶりと。背後で何かが波打つかのような音が聞こえてくる。エルトが振り返る前に、お止めなさいと叫ぶ前に、リリアは行動を開始していた。


「貴様が通さぬというのなら━━━━妾が貴様を飲み込もう。我等の怨恨、その身を以て味わうが良い━━━━!」


リリアは水の五大の恩恵を受ける。しかし、だからといって水全てを自在に操ることが出来る訳ではない。五大の基となるシャルヴァの“気”を全て水に変換するしか、リリアに与えられた方法はないのだ。故にリリアは今、“空中からアロイスに向けて水の塊を落とそうと”している。そのようなことをすればリリアの体内の“気”でさえも持っていかれることだろう。さすればリリアの体にも甚大な被害が及ぶ。これでは本末転倒だ。

(……だが……この機会を逃せば……!)

この機会を逃せば離宮へは向かえない。それ故の決断だったのだろう。エルトはリリアの決断を無駄にしたくはなかった。だから離宮に向けて駆け出そうとする。一刻も早く、“彼ら”の救援に行かなければならない。今回の計画の要となるのはヴィアレでもナラカでもなく、離宮に潜む同盟者なのだから。

「っ、頼みましたよ!」

だからたとえリリアを置いていくことになろうと、それが最善の判断だったのだ。仕方のないこととエルトが認めない限り、この場を打開する方法なんてものは見つからない。くるり、とエルトが離宮に向けて踵を返した━━━━次の瞬間であった。


「オレの!お兄様に!何してやがる━━━━!!」


それは頭上━━━━すなわち、離宮の窓から落ちてきた。かつてエルトがそうしたように、窓を突き破って落下してきたのだ。怒りを露にした“彼”の落下する先は、紛れもなくリリアが放たんとする水球の上であった。

1ヶ月前 No.179

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1ヶ月前 No.180

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旧アーカム領の人間にとってはあまり身近に感じられる話ではないが、三年前に北の荒れ地に住む羅刹たちがティヴェラ王国に対して反乱を起こしたということは耳にしていた。その時に凄まじい数のティヴェラ兵や、ティヴェラの羅刹部隊が殺戮されたということも。感情という感情を込めに込めて殺害するというのも恐ろしいが、彼らのやり口はそんなものとは大違いだった。敵対した、もしくはティヴェラ王国の人間であれば無作為に殺害したのである。其処でおびただしい数の人間が落命し、死した後も辱しめを受けたという話を聞いたときには、ノルドの背筋も凍ったものだった。

(スメルト……っていうと、その反乱の首謀者じゃねぇか……!)

聞き覚えのある名前だ、と思っていたが、まさかそんな危険人物が目の前に立っていることになろうとは。ごくり、とノルドは思わず生唾を飲み込む。このようなことがあって良いのか。スメルトはどちらかというと自分たちに敵対するような立場ではないはずである。出来ることなら仲間にしたい、と口にする同胞も少なくはなかった。

「へぇ、余所見するなんて随分と余裕なんだね、君」

そんなことを考えていた矢先であった。ノルドは自らの首根っこにしゅ、と風音を立てて何かが向かってくることに気づいた。咄嗟に身を捻って後ろへと腰を折る。幸い向かってきた“それ”は首もとを少々かするだけであったが、それでも触れたところからは出血があった。

「ちょ、嘘でしょ……!?」

ちゃっかり傀儡に自分を守らせたレインが、少し離れたところで息を飲んでいるのがノルドにもわかった。その理由だって十分に理解している。

(こいつ……手刀で俺の首をはねようとしやがった……!)

この間の“選定の儀”で羅刹の恐ろしさは把握しているつもりでいたが、やはり真っ向から対峙するとなると拭いきれない恐怖というものがある。ノルドは一旦後方に飛び退いてスメルトとの間に距離を取った。この男、伊達に反乱を起こしていた訳ではなさそうだ。何もかもが予想の範囲外、此方の常識などいとも容易く引っくり返してくれる。

「おいレイン、あとどのくらいの傀儡を使える!?」

槍の鋒をスメルトに向けながら、ノルドはレインに問いかける。突然呼び掛けられたレインはびくりとその細い肩を揺らしてから、「え、えっとぉ……」としどろもどろに口を開いた。

「今暇してるのが三人だから……。ボクを守る分を除くと、多くても二人……とか?」
「お前、行きはもっと持ってなかったか!?」
「し、仕方ないでしょう……!?だってほぼ目眩ましとかに使っちゃったし、其処の子たちは隠密に当ててるし……。ぶっちゃけもう使える子なんていないにも等しいんだよっ!?」
「あーあー、わかったよ!じゃあとりあえず使えそうな奴を前に出せ!このままじゃ埒が空かねぇ!」

よっぽど自分の傀儡を無駄にしたくないというか、他人のために使いたくないのかぐずるレインをノルドは呆れ顔で見る。先程は躊躇いもなく傀儡を自爆させていたというのに、よくもまあこのようなことが言えたものである。とにもかくにも、傀儡を貸してくれるというのならノルドにとっても好都合だ。

「あれ、もう終わり?逃げるのかな?」

此方が揉めている間にも、スメルトは体勢を整えている。あれならいつでも此方に襲い掛かることが出来るだろう。考えるだけでもノルドの胃はキリキリと痛んだが、此処はぐっと我慢する。隣にいるアシェリムにそっと目配せをしてから、ノルドはすぅと息を吸う。

「おいスメルトとやら!悪いが俺たちはお前に構っている暇は持ち合わせてなくてな!混ざり物は混ざり物同士仲良く殺っててくれ!」

そう告げてから、ノルドはがっと口に槍を食わえると右手でアシェリム、左手でレインの手を引いて一目散に駆け出した。向かう先はこの上に控えている同盟者の部屋である。今回の目的は同盟者の救出、故にいくら敵に背中を向けようとノルドとしてはいっこうに構わないのである。他の面々がどのように思うかはわからなかったが、少なくとも今此処にいる面子ならノルドが逃げようともそれを咎めることはなさそうだった。何せアシェリムとレインだ。直接的な戦闘をあまり好まないアシェリムと、見ての通りなレインなら、ノルドがどれだけ見苦しい真似をしようとそれが全体の不利益に繋がらなければある程度目を瞑ってはくれるだろう。レインの場合は傀儡がああだこうだと言ってきそうな気配はあったが、死ぬことに比べたらそんなものは些細な問題である。

「ぼ、ボクの傀儡ぃ〜〜!!!」
「これは致し方のないことだよ、レイン君。無事であるならば彼らとも近いうちに合流出来ることだろう」
「でもでもでもぉ〜〜〜〜!!!」
「おいっ、あんまり喋るな!舌噛むぞ!」

傀儡と離ればなれにされたことに半泣きになるレインだが、“森の民”から作ってもらった草履を履いたノルドに手を引かれながら叫ぶのはさすがに無理があったらしい。ぐずぐずと泣いてはいたが、ノルドに叱責されてからは口を閉じていた。

「……あーあ、行っちゃった。上には何があるかも知らない癖に、よくもまああんなに威勢良く啖呵を切れたものだよね」

取り残される形となったスメルトは、三人を追いかけることもなくただその場に佇むだけであった。その周囲を、置いていかれたレインの傀儡が囲んでいく。完全に四方を塞がれた形であるが、スメルトに焦りは見られなかった。

「まあ良いや。あいつらがどうなるかなんて僕の知ったことじゃないし。……とりあえず、気分を悪くされたのは確かだから此処で発散しちゃおうっと」

コキリ、と笑顔で拳を鳴らしながら、スメルトはにっこりと微笑む。しかしその微笑みの裏には、先程とは違って何やらよろしくない感情をふんだんに盛り込んだ雰囲気が漂っていた。

1ヶ月前 No.181

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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30日前 No.182

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29日前 No.183

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昔から……と言ってもせいぜい一年程の付き合いでしかないのだが、ノルドの知るナラカはあまり表情らしい表情を浮かべることのない少女だった。いつでもむすっとした仏頂面で、この世の全てが面白くないとでも言いたげな顔つきをしていた。もっと笑った方が良いのにと、ノルドは苦笑いしつつ彼女にそう言ったものだ。そうするとナラカは、大体何か言いたそうに口をもごもごと動かしてから、ふいっとそっぽを向いていたのをよく覚えている。

(……こいつ、こんな顔も出来たのか)

だから、緊張を秘めながらも此方を睨み付けるかのように見つめるナラカに、ノルドは一種の新鮮さを感じてしまったのだ。思えば、ヴィアレたちが集落に来たときから、ナラカは随分と感情を表に出すようになった。彼女に何か心境の変化があったのか。よくわからなかったが、ノルドは少なくともそう考えることにした。ヴィアレやエルトとの出会いが、ナラカに良きものとなったのだろうと。

「……ルタ。そして、ナラカ。何故、あなたたちが共にいるのです……?」

ノルドに御されたまま、掠れた声でティルアは尋ねる。ナラカは何も言わない。なぜなら、彼女よりも早く金髪の少年━━━━ルタが口を開いたからであった。

「それは俺が離宮を脱け出して、今世話になっているのがこの者の部署だったからだ。深い意味はない」
「……そう……」
「俺からも義姉上に問いたい。━━━━何故、アーカム王国の者に荷担する?」

ルタの答えと問いかけは至極簡潔明快なものだった。しかしティルアは口をつぐんでしまう。ルタに対して答えられない理由でもあるのだろうか。暫しの間沈黙を保ってから、ティルアはやっとその桃色の唇を開いた。

「……ルタ。共に参りましょう」
「義姉上……?」
「私はあなたのことを探していたのです。こうして出会えたことは僥倖と言えるでしょう。私はこの者たちと共に王宮を脱出します。ですから、あなたも共に……」
「俺は行けない」

ティルアが全てを言い終わる前に、ルタははっきりとそう答えていた。行けない、と。ただ真っ直ぐにティルアのことを見据えて、彼女の提案を否定した。弱々しかったティルアの微笑みは、ルタの言葉ひとつで萎れた花のように沈んでいく。それを、ルタは目を逸らして、ナラカはただじっと見つめていた。

「……ナラカ、お前は俺たちといっしょに来るよな?」

何故かはわからない。だが、ノルドはそんなナラカの様子が不安で仕方なかったのだ。ナラカが何を思って此処までやって来たのか。それがノルドには読み取れない。かつて近くにいたはずの少女の思惑は、たった数ヶ月で得体のしれない靄に覆い隠されているような気がしてならなかった。だから問うたのだ。お前も、俺たちの仲間だよな、と。これまでと同じように、共に行動してくれるよな、と。
━━━━だが、ナラカは黙って首を横に振った。その表情は、一概にこれといった単語で表すことは出来ない、複雑な感情をない交ぜにしたかのようなものだった。

「……ノルドさん。その人を置いて早く逃げてください」
「ナラカ……?」
「直に王宮の兵士たちもやって来ます。このようなことをしていると露見すれば、ティルアさんだけでなく、あなたにも裁定の目は向けられる。これは反逆罪です。この国の王に対する不敬です。決して、赦されることではない」

ナラカの言葉は淡々としたものだった。何処の視点からの言葉なのかはわからない。ただ、ノルドの身は案じてくれているようだった。だがそれでも、ノルドは納得出来ない。どうしてナラカは計画の中止を此処までして促すというのか。ナラカだってエルトの計画に荷担すると言っていたはずだ。これまでに、共に行動したことだってあったはずだ。それなのに、何故このような行動に及んだのか。

「私はあなたや……旧アーカム領の方々には感謝しています。でも……でも、やっぱり無理です。この計画にこれ以上荷担なんて出来ません。我が身可愛さもあるけれど……でも、私はエルトの言うことなんて聞いていられないんです」
「…………」
「お願いです、ノルドさん。あなた方がティヴェラを憎む気持ちはわかります。故郷を滅ぼされたのだから、当然だと思います。けれど、もっと他にやり方があると思うんです。こんなこと、見方によっては、ティヴェラと━━━━」

ナラカが何を言おうとしたのかはわからない。しかしナラカの吐きたかった言葉は途中で遮られる形となった。ひゅ、と言葉を紡いでいたナラカは息を飲み、彼女の話を聞いていたノルドはがばりと視線をナラカから離した。

「……御託は良いの。早くルタを渡して。ルタを手に入れるためなら、私は何だってやるわ」

しばらく黙っていたティルアが、その手に短剣を握り締めてナラカとルタのことを睨み付けていた。一体何処でそんなものを手に入れたというのだろうか。しかし今はそんなことを気にしてはいられない。ティルアを止めなければ、彼女は何を仕出かすかわからない状況である。万が一ナラカやルタに傷が付くようなことがあってはならない。

「おい、止め……」
「来ないで!」

ティルアの肩を掴もうとしたノルドだったが、突如叫んだティルアから閃光のようなものが発せられたことで咄嗟に彼女から飛び退く形となった。その隙にティルアはナラカに向かって一直線に向かっていく。

(あれは五大……いや、それよりもナラカか……!)

いくらこれ以上エルトの計画に荷担しないと言っていようと、ノルドにとってナラカは同じ集落で暮らしてきた大切な人間に他ならない。彼女の言葉に疑問を覚えこそしたが、だからといって死んで欲しいとは思っていないのだ。だからティルアがナラカへと一直線に向かっていった時、彼女を止めなければならないと思った。しかしティルアの五大に怯んでいた僅かな時間が仇となったのだろう。ノルドの手はすかりと空を切る。

「……っ!」

ティルアに飛びかかられ……そうになったナラカは、まずルタをどんと真横に突き飛ばした。間違っても彼に被害が及ばないようにという彼女なりの心遣いだろうか。そして向かってきたティルアの両手首を、がっしりと掴む。

「な……何、するんですかっ……!」
「ルタを……私の義弟を、返せと言っているのです!」

両手首を掴まれた姿勢のまま、ティルアはずずず、と前進する。それに合わせてナラカの小柄な身体も押される形となった。どう見たってナラカが不利な状況。しかしノルドもルタも、二人の間に割って入ることは出来なかった。

(距離が近すぎる……!)

ノルドの得物は槍だ。ナラカとティルアが取っ組み合いをしている以上、武器を使うことなんて出来ない。下手したら二人を団子刺しにでもしてしまいそうだ。だからといって徒手空拳で挑むことも難しい。割って入ればどちらかを攻撃しなくてはならないのだ。どちらも傷付けたくないノルドとしては、手加減をしたところでそれが女性二人にとって“手加減にならないかもしれない”ことを危惧していた。

「返せって……もともとルタさんはあなたの物じゃないでしょう……!だったらルタさん本人のご意向を優先すべきです……!」
「私はルタの幸せを第一に思っているわ!あなたなどにわかるはずもないでしょう!」
「幸せだなんだって口にしてる時点であなたは三流です……!幸せってものは簡単に気づかないからこその幸せなんですよ!大体それは人に強要するものではないです!あなたは根本的に吐き違えています!」
「何を……知った風に!」

ぐぐぐ、とティルアがより強い力を込めてナラカを押す。このままではナラカは扉にぶつかってしまう。そうノルドが考えた最中であった。

「きゃっ……!?」

響いたのは意外なことにティルアの悲鳴で、そのままどさりと何かが倒れるような音が聞こえてきた。自分に注意が向いていない隙に、ルタが扉の鍵を開けたのだろう。それをナラカは見逃さない。瞬時にティルアから手を離してしゃがみこむことで、彼女の体勢を崩したのであろう。よろめいたティルアは扉の外に出るしか道がなくなる。

(つまり廊下で片をつけるってことかよ……!)

武術の経験がないナラカにしては考えたものである。外に出ていったティルアやナラカ、ルタを追いかけるために、ノルドも急いで廊下へと向かった。

28日前 No.184

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27日前 No.185

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26日前 No.186

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ノルドの足音が聞こえなくなった辺りで、サヴィヤはふぅとひとつ息を吐いた。突然のことに動けずにいたらしいアリックが、ルタを地面に下ろしてティルアの傍まで駆け寄ってくる。逃げられることを避けるためだろう。

「さ……サヴィヤさん……」

そんな中で、ナラカはわなわなと震えながらサヴィヤの名前を呼ぶしか出来なかった。どうして彼がわざわざ自分が刺されてまでナラカを守ったのか、未だに理解出来ずにいた。ナラカはサヴィヤがこの王宮でどのような立ち位置にいるのかいまいちわかっていない。だが自分よりもサヴィヤの方が意義のある立場にいるのだろうということは理解していた。だから、庇われたということが信じられずにいたのだ。

「嗚呼、ナラカ。怪我なら大丈夫だ。━━━━すまない、其処の婦人の身柄を頼めるか」
「はっ、はい」

アリックにティルアの身柄をひとまず預けてから、サヴィヤは全身をナラカの方に向ける。彼の細い身体が曼荼羅の光に薄く映し出されたがこの時ばかりはナラカもサヴィヤに見とれている訳にはいかなかった。何故なら、彼の下腹部には深々と短剣が突き刺さっていたのだから。

「だっ、大丈夫じゃないですこんなの!は、早く手当てしなきゃ……!」
「……?この程度の怪我であれば、大したことでは……」
「たいっ、大したことです!」

混乱していることもあってかナラカの声は震えが止まらず吃りっぱなしであった。それだけ衝撃的だったのだ。サヴィヤはそんなナラカに反して平静を崩すことがない。まるでかすり傷程度しか負っていないかのような素振りである。本当に痛みを感じていないのだろうかとさえ思わされるサヴィヤの言動に、さすがのナラカもいつまでも怖がったままではいられない。

「んー、君が誰かは知らないけど手当てはした方が良いんじゃない?ナラカもこう言ってるんだしさ」

そうこうしているうちにひょこりと踊り場から顔を出したのは見たところ無傷のスメルトと、そんな彼に着いてくる隠密らしき一人の若者だった。口元を隠しているのではっきりと顔がわかる訳ではないが、恐らく二十歳には満たない年頃であろう。

「心遣い痛み入る。だが俺はこれからせねばならない案件があるからな。手当てならその後に行うのが得策だろう」
「で、でも……!お腹の怪我はさすがにその、まずいのでは……!?」
「俺のことを案じてくれるのはありがたい。しかしこれは一刻を争う事態でな。━━━━今回の騒動に、これからシュルティラが出るとの話が持ち上がったのだ」

手負いのままで仕事に行こうとするサヴィヤを止めようとしたナラカだったが、彼はふるふると首を横に振った。少なくとも軍事関係の仕事に就いているサヴィヤには事前に情報が伝えられているのだろう。シュルティラが出る、と言われればナラカも軽率に反論は出来ない。

「……何故、シュルティラが?私の同盟者たちは其処まで事を大きくしたのですか?」

次いでサヴィヤに問いかけたのは、アリックに見張られる形となっているティルアであった。たしかに彼女の質問にはナラカも同感だ。ただ侵入者が入ったというだけで、ティヴェラは切り札とも言えるシュルティラを出すというのだろうか。これでは、まるで━━━━。

(侵入者がアーカム王国の手の者だって、わかってるみたい)

そんなことが出来るのだろうか、と思う。いくら見張りを徹底したからといって、そのようなことがすぐにわかるはずもない。わかっていたのならとっくの昔にエルトは捕まっていたはずだ。それなのに、今になってティヴェラは最終兵器をこの時点で出そうとしている。これはあまりにも不自然であった。

「……それは俺にもわからない。俺はあくまでも一介の兵士に過ぎないからな。上の思惑など知る機会はない」
「……そう」
「だが、ひとつだけ言えることはある。……事が終わるまで、外に出ない方が良い。シュルティラは人間ではないからな。その巻き添えを食らえば、怪我などというものでは済まされないこともある」

それだけを告げると、サヴィヤは怪我を負っているというのに小走りでその場を後にした。その後ろ姿を、ナラカはただ黙って見送るしか出来ない。ナラカには、サヴィヤを引き留める権利などないのだから。

(ノルドさんたちは……無事でいてくれるだろうか)

見限るようなことを言っておいて、ノルドたちの心配をする自分はやはり甘いのだろうとナラカは思う。そもそも逃がそうと、助けようとした時点でナラカはどっち付かずの半端者ということになるのだ。自分の愚かさなら改めて理解した。こんな中途半端なことばかりしていてはいずれ大失敗する日が来るのではないかと、何だか末恐ろしくなってくる。

(……私が軽率に首を突っ込んで良いことじゃなかったんだ。いくらエルトのことが憎いからって、私なんかが手出しをしたから……だから、サヴィヤさんは負わなくても良い怪我を負ったんだ)

いくら考えたって今更結果が変わらないということはナラカもわかっている。過ぎてしまったことはどうにまならない。だが、この時のナラカはただひたすら自己嫌悪に陥っていた。

25日前 No.187

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

━━━━ばしゃり、と水の弾ける音がした。

辺り一面に、先程までリリアがアロイスにぶつけようとしていた水球……だったはずの水が飛び散る。近くにいたリリアやエルトは勿論、水球に飛び込んでいったラビスは思いきりそれを被ることとなった。

「な━━━━」

しかし、リリアはずぶ濡れになったことなど気にしてはいなかった。いきなりやって来た乱入者に唖然と目を見開くのみである。その気持ちもわからなくはない。自分が一世一代の大技をぶつけようとしているところに、いきなり上から邪魔が入ったというのだから、驚いたって無理はないだろう。しかもそれが五大の恩恵を受けない羅刹なのだから尚更だ。

「お兄様、ご無事ですか……!?」

ラビスの方はエルトとリリアには見向きもせずに、一目散にアロイスのところまで駆け寄っていった。お兄様、と呼んではいるが二人の顔立ちは全く似ていない。義兄弟か何かだろうか、とエルトは予想した。

「俺なら問題はない。それよりも、だ。ラビス、お前まで敵に背中を向けてどうする。見苦しいだろうが」
「も……申し訳ございません、お兄様。……あいつらは、殺して良いですか?」
「駄目だ。男は生け捕りにして良いが、女は逃がせ。くれぐれも女に怪我は負わせるなよ」

淡々とした態度のアロイスに、ラビスはすっかり借りてきた猫のように大人しくなってしまっている。かつてナーガを探しに行った帰りに遭遇した嵐のような羅刹と同一人事とはとうてい考えられない。二人の関係性はいまいちわからなかったが、あのアロイスという羅刹はラビスの手綱を握っていられるような猛者であり手練れであるということはエルトにも理解することが出来た。まあ、とどのつまり嘗めてかかってはいけない相手ということだ。

(……それにしても、何故リリア殿には逃がすようにという指示が……?)

剣を構え直しながら、エルトは羅刹二人の会話を脳内で反芻する。自分は捕らえて良いがリリアは逃がさなければならないとは、一体どのような思惑なのだろうか。まるでこの羅刹たちはエルトのみを憎んでいるようだ。

(……まさか)

此処でエルトははっと気づいてしまった。リリアたち集落の人間は憎まず、エルトのみを憎んでいる者。もしも“彼女”が今回のエルトの計画を耳にしたというのなら、このような手段に及んでも可笑しい話ではない。

「ッ、らァッ!!」
「……っ!」

そんなことを考えていた矢先にラビスの大剣が唸り、エルトは済んでのところでくるりと身体を回転させて彼の一撃を避ける。ラビスはよろける様子もなく、「ははァッ!」と大口を開けて笑った。

「へェ、お前、オレの動きでも予想してるのかよ!普通其処は剣で受け止めるところだってのに!」
「おい馬鹿っ、そいつは本当に“読んでる”んだよ!」
「え━━━━」

アロイスの言葉を聞き終わるか聞き終わらないか、その瀬戸際でラビスの腹にエルトの強烈な蹴りがめり込んだ。完全にアロイスとの会話で油断していたラビスはどしゃり、と地面へ叩き付けられる。アロイスはそれを見るや否やさっと解いていた構えを持ち直してエルトへと向き直った。いつ攻撃が来ても良いようにというアロイスなりの用心なのだろう。しかしエルトは攻撃に映ることはなかった。

「エルト君!」
「な……アシェリム殿……!?」

はぁはぁと息切れしながら、涙目のレインを背負ってやって来たのはアシェリムであった。彼には離宮への潜入を任せていたはずだ。アシェリムが戻ってくるということは離宮で何か起こったのだろう。

「何があったのです……!?」
「悪い、エルト君。同盟者を連れ出すのは無理そうだ。レインの傀儡も全てやられてしまったからね」
「うぅ、あの変な武器さえなければいけたのにぃ〜……!」

悔しげに言うレインの様子からして、傀儡が全滅したのは真なのだろうとエルトは考えた。だとすれば此方の勝利はほぼないものと見て差し支えはない。レインの傀儡は主要部さえ破壊されなければ何度でも再生するという特徴を有している。だから何回でも使い回しが出来た。しかしそれを破壊するだけの威力を持つ武器の使い手がいるとなると話は別である。エルトたちに勝ち目はない。

「……っ、撤退です。撤退します。此処は一度退かねばなりません」
「だが殿下、ノルドは……!?」
「ノルディウス殿であればすぐに追い付くでしょう。今は私たちだけでも撤退しなければ、全てが水の泡です……!」

未だ合流しないノルドを案ずるリリアの気持ちもわからなくはない。しかし今は非常事態なのだ。エルトはとにもかくにもこの王宮を脱出すべく一目散に駆け出す。その後をアシェリムやリリアも追った。

「……ッ、くそ!待て!」

げほげほと咳き込みながら、ラビスはエルトたちを追いかけようとしたが、アロイスはそんな彼を片手で制した。まるで止まれとでも言うようなアロイスの態度に、ラビスは目を丸くしてから問い掛ける。

「ど……どういうことですか、お兄様!?あいつらは、みすみす逃がして良い存在では……!」
「嗚呼、そうだろうよ。けど、だとしたらうちの国だって黙っちゃいねぇだろう」
「……そ、そんな!お兄様は、上が“シュルティラを出す”とでも考えておられるのですか……!?」

あり得ない、とでも言うように叫ぶラビスを一瞥してから、アロイスはひとつ息を吐く。離宮にはたしか隠密部隊も置いていたはずだ。何かあれば此方に連絡が届いても可笑しくはないはずである。それなのに不思議なほど音沙汰というものがない。だとすればエルトたちはティヴェラにとって隠密部隊を以てしても敵わぬ相手、ということになる。

「……別にシュルティラを出すんじゃねぇかとまでは言ってねぇよ。ただ、この状況じゃあさすがのお上も何らかの手を打つだろうって考えただけだ」
「しかし……」
「俺たちの役目は離宮への侵入者の捕縛だ。あいつらは離宮から脱け出した。だったら俺たちの仕事は終わりだろうよ」

未だに納得出来ないといった面持ちのラビスを宥めるようにそう告げてから、アロイスは静かになった離宮を見上げる。上がどのような判断を下すのかはわからない。いや、わからなくて良いのだ。まがりなりにもアロイスやラビスは、ティヴェラ王国に仕える者の一人でしかないのだから。

24日前 No.188

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

王宮から脱出することが容易でないことはエルトも理解していた。アシェリムとレイン、リリアの三人を連れているとなれば尚更だ。故に正面を切って王宮から脱け出すなど出来ない。時々遠回りしながら、エルトは兵士たちの目を如何様にして誤魔化すかを考えた。

(ノルディウス殿と合流することも考慮に入れると……あまり長い時間を取ってはいられない)

とにもかくにもまずは王宮の外に出なければならない。それが最も難しいことをエルトは理解していた。恐らく今回の騒動を受けてティヴェラ側も万全の警備を敷いていることであろう。ならば此方も出来る限り身を隠しながら進むしか方法はあるまい。いちいちティヴェラの兵士を相手にしていたら此方の身が持たないであろう。

「エルト!」

そんなことを考えながらこそこそと人気のない王宮を進んでいた一行の上から、唐突にノルドの声が聞こえてきた。一瞬身構えはしたものの王宮の回廊の上から軽々と飛び降りてきたノルド本人を見て、エルトはひとまず安心する。

「ノルディウス殿、ご無事で何よりです」
「おう、ありがとな。ただ、俺としちゃあ再会の挨拶は後にしたいところだ。ティヴェラの兵士共が城門のところに集まりつつあるからな」
「何ですって……!?」

ノルドと合流出来たことは良いが、伝わるのは良いことばかりとは限らなかった。たしかに兵士たちが城門に置かれるということは納得がいく。だがエルトとしては彼らの行動は厄介である他なかった。

「どうするの、行きは君が跳ね橋の操作をやってくれたけど……。城門の警備に力を入れられたら、そもそもボクたちは此処から逃げられなくなっちゃうよ……!」
「たしかに……あの跳ね橋を上げられなかったら私たちは脱出の手段を失ったにも等しいな」

レインやアシェリムが焦る気持ちもエルトは重々理解するところであった。ティヴェラの王宮には都と繋ぐ跳ね橋を経由して入るしかなく、それは出ていくのも同じである。つまりティヴェラの王宮には出入口がひとつしかないのだ。外敵が入ってくることをなるべく防ぐためにこのような造りになっているのだろう。敵でなくとも入るのには時間がかかる代物だ。ノルドたちを王宮に入れるために、エルトは見張りの兵士たちに虚偽の情報を伝えて自分が操作を代わり、跳ね橋を上げた。しかし城門の警備を重視されたとなればエルトたちは跳ね橋を上げることが出来なくなる。

(要するに……城門の警備を何とかしなければ、私たちは完全な詰みという訳か)

王宮から脱出出来なければエルトたちが捕まるのは時間の問題だ。何とかして策を練らなければとは思うものの、頭の中はぐちゃぐちゃと塗り潰されているようで、上手く考えがまとまってくれない。いつもはこのようなことはないのに、一体どうして今日になってこんな状態になるのだろうか。

「……エルト君」

思い悩むエルトに気づいていたのかはわからない。だがこの時、アシェリムは至極落ち着いた様子でエルトに声をかけてきた。この場にはあまりにも相応しくなく、適しない程の彼の落ち着きぶりは、何処と無く不気味でもあった。

「私に案がある。少し不利益を被るかもしれないけれど、これなら兵士たちの目を欺けると思う」
「アシェリム殿……?」
「アシェリム、それはいけない……!お前が集落に帰らなくてどうするというのだ……!?」

穏やかな様子のアシェリムとは対照的に、まだ話の全容を聞いていないはずのリリアは必死に彼のことを止めようとしていた。アシェリムの言う作戦がどういったものなのかはまだエルトにはわからない。だがリリアの様子からして、それが尋常ではないものであるということはうっすらとエルトも感じ取ることが出来た。

「そうだぜアシェリム、リリア姐さんの言う通りだ。今此処でお前が帰れなくなってどうするんだよ?お前がエルトの役に立ちたいって気持ちはわかるが、今はその時じゃねぇだろ?」
「いや……そうでもないよ。君たちだってわかっているはずだろう?今回の計画は、完全に失敗したって」

アシェリムの言葉はエルトにも十分突き刺さるものであった。失敗した。それは自分でもわかっていたはずだったが、改めて言葉にされると何とも言えない気持ちになる。悔しさ、悲しさと言うよりは、ただ自分の中身が空っぽになってしまったかのような、不自然な虚無感に覆われるような感覚だった。

「だからね、エルト君。君はこれ以上此処で失敗してはいけないんだ。君は私たちの計画の要だからね。大樹の幹が駄目になってしまってはそれこそこの計画はお仕舞いだ」
「……アシェリム殿……」
「私は君に、ティヴェラへの報復を完遂して欲しい。枝葉が無くなったとしても、幹が無事なら何とかなる。だからお願いだ、エルト君。私に、此度の殿を任せてはくれないか」

アシェリムの目は真剣そのものだ。きっと彼も本気なのだろう。エルトはその覚悟を否定することなど出来なかった。ぐ、と唇を噛んでからおもむろに首を縦に振る。

「……わかりました。アシェリム殿、あなたに殿を任せましょう」
「殿下……!」
「良いんだ、リリア。これが私の望みなんだ。だからそのような顔をしないでおくれ」

エルトがアシェリムの望みを聞いた後も尚、リリアは彼のことを引き留めようとした。しかしアシェリムはにっこりと目元を緩ませて、まるで嫌々と駄々をこねる子供をあやすかのようにリリアの頭を撫でる。リリアは今にも泣き出しそうになっているのを隠すかのように、ずっとうつむいてアシェリムに顔を見せまいとしているようだった。

「……ノルド君。リリアを頼んだよ」
「……嗚呼。任された」
「ありがとう。……さぁ、エルト君。この王宮を脱出しなさい。私も少なからず、君の計画が成功することを祈っているよ」

アシェリムの言葉に、エルトは声を出して答えることが出来なかった。ただこくりとひとつだけうなずいて、後ろを振り返らずに歩き出す。そうすることが、今エルトに出来るアシェリムへの最大の感謝だったのだ。

23日前 No.189

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ティルアの身柄を兵士たちに引き渡し、ナラカたち一行は無事に薬師の住まいへと戻ったところであった。ラビスや隠密たちも兵士と共に同行して城門の警備に尽力するらしかった。サヴィヤからの警告だとシュルティラが出るというのだ。彼の力はティヴェラの民であるアロイスも知るところのようで、速やかに戻るようにと促された。

「……ナラカ殿、大丈夫ですか?」

薬師の住まいに戻り、アリックから花茶を淹れてもらってもナラカの表情は晴れないままだった。ずんと重く沈み込んだ表情のナラカを、スメルトははらはらとした面持ちでちらちらと見ている。この羅刹はナラカのことになると途端に奥手になるきらいがあるらしい。普段の威圧感など何処かへと消えてしまい、心配そうにナラカに視線を送るスメルトに苦笑しつつ、アロイスはナラカへと向き直った。

「当事者じゃねぇ俺が言うのも何だが、ありゃあお前が全て悪い訳じゃねぇだろ。サヴィヤとかいう兵士も無事だったんだから、むしろ万々歳じゃねぇのか」
「……でも、サヴィヤさんにはまだお仕事があるのに……」
「それこそ仕事に行くか行かないかは本人の責任だろ。仕事に行けるんだからあいつの怪我は大したことなかったんじゃねぇか?軽い怪我くらいだったら治療も施せるだろうしな」

だからあんまり気負うなよ、とアロイスは付け加えた。しかしナラカははいそうですかと納得する訳にはいかない。そもそもサヴィヤに庇ってもらったことだけでも申し訳なくて仕方がないのだ。彼処でサヴィヤが自分を守らずにいたら、サヴィヤはあのような怪我をせずに済んだというのに。

(……まあ、たしかに私も怪我はしたくなかったけどさ)

ナラカとて被虐趣味がある訳ではない。勿論怪我などはしたくないし、痛いことも好きではないから刺されたくなどなかった。だがそれとこれとは話が違うのだ。人間の価値というところから考えてみれば、ナラカよりもサヴィヤの方が“怪我を負ってはいけない人間”である。それなのにわざわざ庇ってもらって、特に何を為すことも出来なかった自分がナラカは不甲斐なくて堪らなかった。

「……っ、ナラカ、ナラカ……!」
「……?なんです、ルタさん……?」

そんな中で突然ルタが血相を変えて寝室から飛び出してきた。しきりにナラカの名前を呼ぶので落ち込んでいたナラカもこれには反応せざるを得ない。もう遅いからと床につかせていたはずだが、何かあったのだろうか。

「外、外に……!外にいる者が……!」
「どうしたんですかルタ殿、落ち着いてください……!」

アリックが宥めても、ルタは何かに取り憑かれたかのように外が、外にいる者がと繰り返し続けた。ルタの部屋……というか薬師の住まいのほとんどの部屋には窓がついていない。それなのにどうしてルタは外がどうだとか騒ぐのだろうか。……そんなことを考えかけて、ナラカはすぐにその考えを否定する。

(いや……今回だけじゃない)

思えば、ルタが予見したかのように何かを告げるのは初めてのことではなかった。間違いない、ルタには何かが“視えている”。少なくともナラカはそう確信した。

「おいっ、ナラカ!?」

アロイスの声も聞かずに、ナラカは窓際に駆け寄った。そして急いで窓を開ける。いつもの夜と同じように、曼荼羅の淡い光に照らされた離宮が見えた。━━━━否、いつもと同じ、ではない。ナラカの瞳はあるものを捉えていた。

(アシェリムさん……!?)

曼荼羅の光に照らされる離宮、その屋上にアシェリムが立っていた。どのような経緯で彼が再び離宮に戻ったのかはわからない。少なくともナラカはアリックから、アシェリムと彼と共にいた子供は外に逃がしたと聞いていた。だからきっと、アシェリムはもう外に逃げることが出来ただろうと考えていたのだ。

「なんだ、あいつ……!?」
「あの方は……!先程外に行くよう促したはずですが……!」

血相を変えたナラカに引き続いてアロイスとアリックもアシェリムの姿を凝視する。アリックの口振りからしてアシェリムは一度外に逃がされたということで間違いはないのだろう。しかしアシェリムは離宮にいる。何故、どうしてという疑問がナラカの脳裏を駆け巡った。
そんなナラカの思惑など知るはずもないアシェリムは、眼下の王宮を見下ろす。緩やかな夜風が彼の身に纏う布をひらひらと揺らしていた。

「━━━━聞くが良い、ティヴェラに仕える者共よ!」

アシェリムはこれまでにナラカが聞いたこともないくらいに声を張り上げた。彼の声は決して尖ったものではない。それなのにアシェリムの声はナラカ━━━━否、彼の声を聞く者全ての肌をびりびりと痺れさせるかのような気迫を孕んでいた。

「我はティヴェラを憎む者!我はティヴェラを呪う者!かの国が我らにもたらした禍、今此処で貴様らに返還してやろう!」

そう言うや否や、アシェリムは自らの顔を覆っていた布を剥ぎ取った。普段は薄暗くてはっきりと見えないはずの外の景色だが、この時ばかりは嫌に鮮明に映し出されていた。

「な━━━━何、あれ」

ナラカはアシェリムの素顔を見たことはない。本人が見せたがろうとしなかったのだ。食事をする時も、彼は器用に顔を見せることなく物を口に運んでいた。ナラカが布は、と問いかけようとすると、いつも目尻を緩めて、ごめんねと申し訳なさそうに告げるのだった。だからナラカもそれ以上アシェリムの素顔について詮索することは無粋だと考えたのだ。人には人の事情がある。それをむやみやたらに詮索してはならないと、自分に言い聞かせた。
だからこそ━━━━曼荼羅の光に照らされたアシェリムの顔に、ナラカは息を飲むしか出来なかったのだ。アシェリムの顔には無数の痣のようなものが存在していた。それもただの痣ではない。それらは普通怪我をした時に生じるものとは思えない、毒々しい紫色をしていた。まるで、何かの呪いのような━━━━呪術に造詣が深い訳でもないナラカがそう考える程度には禍々しい代物を、アシェリムは隠し持っていたのだ。

「なっ……なんだ、ありゃあ……!?」

アロイスやアリックもアシェリムの姿を見て唖然としている。ルタに至っては、アシェリムを恐れるかのように頭を両手で抱えてぶるぶると震えていた。たしかに今のアシェリムの姿は禍を纏った怪物に見えないこともないだろう。しかしナラカにとっては、彼がどのような雰囲気を纏っていたとしても、自分に良くしてくれた集落の住民に変わりはなかった。故にこそ、今のアシェリムを見るのはあまりにも辛くて仕方がなかったのだ。

「━━━━ティヴェラに罰を。ティヴェラに禍を。我が呪詛は、ティヴェラの全てを飲み込もう━━━━!」

アシェリムは叫んだ。声が枯れんばかりに叫んだ。その叫びは、恐らくティヴェラの王宮中に響き渡ったことであろう。城門を守る兵士も、回廊を歩く使用人たちも、ありとあらゆる官吏たちも、皆アシェリムの叫びを耳にした。鳥肌を立てる者もいれば、あの者は何を言っているのだと首をかしげる者もいた。だがしかし、誰もが離宮の屋上に立つ彼が何者なのか、そして彼の思惑を知りはしなかった。


次の瞬間、アシェリムの身体から黒い煙のようなものが吹き出す。


アシェリムの身体から生じた黒い煙のようなものは勢い良く曼荼羅へと向かって立ち上っていく。アシェリムの事情を知らない者たちでも、それが吉兆を示すものではないということは理解出来た。

「な……あ……アシェリム、さん……!?」

ナラカもその内の一人であった。ただ呆然としながら、何やら人ならざるモノに堕ち往くアシェリムを眺めているしか、彼女には出来なかったのだ。

22日前 No.190

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

アーカム王国という国がまだあった頃、彼はよく王立図書館に通っていた。理由は簡単、学問が好きだったのである。暇さえあれば何かしらの書物を読み漁り、時には夜を徹してしまうこともあった。ただ書物を読むのが好きなだけではない。彼は生活に役立ちそうなものを作ることも好きだった。近所の住民のいらない木材や古くて使えなくなってしまった諸々の素材をかき集めては、何か使い道はないかと模索した。

━━━━お前、本当に物好きなのだな。その年頃でこうも机に向かう奴など、正直に言って初めて見たぞ。

近所でも名のあるお家の一人娘は、そんな彼を見て嘲笑うでも気味悪がるでもなく、呆れたようにそう溜め息を吐いた。近くに変わり者の少年がいるという噂は前々から聞いていたのだろう。わざわざ本人の家へと上がり込んで、実物を目にした彼女はどのように思ったことだろうか。予想通りか、あるいは予想と違っていたか。彼にとっては地味に気になるところではあったが、そのような素振りを表に出すことはなかった。

━━━━物好きで構わないよ。これはしたくて行っていることなのだから。
━━━━別に責めてはおらぬ。臍を曲げるな。
━━━━臍なんて曲げてないさ。ただ、当たり前のことを言われて少し気になっただけだよ。

正直なところ、彼は少し拗ねていた。自分などに話しかけずとも快適に暮らしていけるはずのお嬢様に揶揄られているような気がして、何だか悔しかったのだ。だが令嬢はその柳眉を少し潜めただけで、気にする様子もなく彼の隣にしゃがみこんだ。

━━━━何がしたいんだい、君?
━━━━何って、見るだけだ。お前に損はなかろう?
━━━━あのね、損とか得とか、そういった問題じゃあないんだよ。
━━━━ならば良いではないか。咎めを受けるとしたら十中八九妾であろうからな。お前は気にせず続けているが良い。

令嬢はまさに傍若無人であった。次の日も、また次の日も、そのまた次の日も彼のところにやって来ては、じいっと彼のやること為すことを見つめているだけなのだ。そのため彼も令嬢を放っておく訳にもいかなくなった。初めは帰れとやんわり促した。けれども令嬢は聞こうとしない。次は強めに言ってみた。それでも令嬢は聞こうとしない。とうとう彼は諦めた。好きにしろと令嬢に伝えると、ほれ見たことかと胸を張られた。

━━━━言っておくけど、君も相当な物好きだよ。
━━━━物好きで結構。これでお前とお揃いだな。
━━━━そんなのでお揃いになっても複雑でしかないよ……。

そう言ってから、彼はついこの間自分も同じようなことを令嬢に告げたことを思い出した。令嬢はそれに気づいていたのか、にやにやと笑って彼を見ている。彼女は変なところで人間臭いというか、お高くとまったところがない。接していて楽……なことに変わりはないが、彼にとっては変な感じであった。何故彼女は自分のような人間のところにいつもいつも足繁く通うのだろうか。そんな疑問は令嬢の姿を見る度に鎌首をもたげた。

━━━━ねぇ、どうして君は、私などに構うんだい?

故に、ある時彼は思いきって令嬢に問いかけてみた。彼からの質問を受けた令嬢はきょとんとした表情を浮かべてから、そうさな、と少し考え込む素振りを見せた。

━━━━暇なのだ。
━━━━……へ?

令嬢の返しは非常に意外なものであった。そのため彼も、普段は出さないようなすっとんきょうな声を出してしまったのである。

━━━━父上も母上も、暇さえあれば妾の将来のことばかり。今の妾など見向きもせぬわ。しかして妾の周囲の人間も同様でな。家に居てもつまらぬのだ。故に外に出てみれば、お前のような酔狂な者が居よう?これは放っておけぬ、放ってはおかぬ。うむ、つまりだな。これは致し方のないことなのだ。
━━━━要するに、君は将来のことしか考えない家族や近辺の者たちから逃げているというのかな?
━━━━む……まあ、そういうことにはなるのだが……。

彼の口振りが気に入らないのか、令嬢はやや唇を尖らせながらも肯定の意を示す。まあ、そんなところであろうと彼も踏んでいた。金持ちというものは色々とややこしいと彼も理解していたのである。

━━━━だからといって、私のような孤児に構う必要はないだろう?それとも憐れみのつもりかい?
━━━━そんな訳がなかろう!馬鹿なのかお前は!
━━━━じゃあ私に構う必要などないだろう?

そう彼が言うと令嬢はふるふると駄々をこねる幼子のように首を振った。何がなんでも自分に構いたいというのか。彼ははぁ、と溜め息を吐く。本当に、令嬢が彼と接する利点や接点というものがないのだ。彼は幼い頃に母親を亡くして、父親は変わり者の息子を置いて家を出ていってしまった。つまりは孤児だ。身寄りも何もない、ただの物好きな人間に過ぎないのだ。かたや相手はアーカム王国でも五本の指に入るほどの名家の令嬢である。まさに月とすっぽん、(此処は地底だが)天と地程の差があるといっても過言ではない。いくら周囲の人間がつまらないからといって、彼を選ぶ理由なんてないにも等しいのだ。

━━━━何度も言わせるな、妾は損得勘定でお前に構っているのではない。故に理由など必要ないのだ。わかったか?

艶やかさと乙女の瑞々しさを併せ持った令嬢はこれ以上言うことはないとでも言うようにびしっと彼を指差した。これには彼も、はいはいと適当に返事をしておく他なかった。
その後も令嬢は彼のもとを訪れ続けた。彼はそんな彼女の行動にあれこれと口出しをすることはなかった。これ以上文句を言っても令嬢には通用しないと悟った……ということもある。だが実のところ、彼は令嬢が来ることを楽しみに思うようになっていたのだ。口に出せばきっと揶揄られるだろうから、決して口に出すことはなかったが、それでも彼にとって令嬢は好ましい人間へと変化したのである。


━━━━王家に嫁ぐことになった。


そんな知らせを令嬢が持って来たのは、あまりにも突然のことであった。いつもと同じように彼の家にやって来た彼女は、普段よりは幾分か沈んだ面持ちでそう彼に告げた。彼はすぐには彼女の言葉をうまく噛み砕くことが出来ず、ただきょとんとして目をぱちぱちとさせるしか出来なかった。

━━━━どういうことなんだい?
━━━━そのままの意味だ。妾はこの国の王族の妻となる。父上も母上も大層喜んでくださった。
━━━━君も、嬉しいのかい?
━━━━……別に。これといった感情は覚えぬな。ただ、此処に来るのは恐らく今日が最後になろう。別れの言葉のひとつでもくれてやりたかったが、上手く考えられなんだ。

令嬢はつんとそっぽを向いた。彼は決して人間の心の機微を読み取るのが上手い訳ではなかったが、それでも彼女の言わんとするところをなんとなく察してしまった。だから、ぎこちなく微笑んで、彼女にこう言ったのだ。

━━━━良いよ。別れの言葉なんていらない。
━━━━……?どういう、ことだ……?
━━━━私は変わり者だ。きっとそれなりに頑張れば、官吏くらいにはなれるかもしれない。そうしたら、同じ場所に居ることは出来るよ。

それを聞くと、令嬢はにんまりと満足そうに口角を吊り上げた。まるで悪戯を成功させた童子のように微笑んだ。楽しみだ、と口にした彼女の表情は晴れやかだった。
……故に、彼は令嬢と離れることをそれほど後悔しはしなかったのだ。同じ国にいるのだから、きっとまたいつか会う機会は得られよう。そんな風に、彼は考えていたのだ。だから一生懸命学問に励んだ。少しでも令嬢の近くに行けるようにと、精一杯努力した。


だが、ティヴェラ王国は希望をアーカム王国ごと持ち去っていった。


アーカム王国の王宮は血に塗れた。彼は己が身分も気にせずに、王宮に向けて駆けた。駆けて駆けて駆け続けた。なんとか阿鼻叫喚の王宮に潜り込むことは出来た。令嬢が無事であれと願った。

━━━━リリア!リリア!

令嬢の名を呼んだ。声が枯れるかと思った。それでも彼は駆けて、名を呼び続けた。何人ものティヴェラの兵士とすれ違いそうになった。そんな危険を冒してまで、彼は令嬢を見つけ出したかったのだ。
どれくらい駆けただろうか。彼はやっと、やっと令嬢の姿を見つけた。だが彼は、彼女に駆け寄ることは出来なかった。

━━━━リリア……?

彼女の顔は絶望にまみれていた。彼女の身体は血と、誰のものかわからないおびただしい量の体液に濡れていた。顔には幾つもの傷痕があった。殴られたのだろうか。いや、そんなものはまだ軽い方だ。令嬢はただ傷つけられた訳ではない。犯され、辱しめられ、襤褸布のように近くの死体が積み上げられた場所に打ち捨てられていた。まだ令嬢には息がある。意識だってある。それなのに、彼女は死体と同等の、いや、それ以下の扱いを受けたのだった。


彼は呪った。ティヴェラを、ティヴェラの兵士を、令嬢を傷つけたもの全てを、有らん限りの憎しみの的とした。


だから一生懸命呪術を学んだ。少しでもこの恨みをぶつけられたらと努力した。しかし彼には素養がなかった。無理な呪術の体得は彼の身体に異常をきたした。成長は止まり、食も細くなり、身体は縮み、至るところに不気味な痣が現れた。だが彼は諦めなかった。出来る限りの呪術を己の身体へと取り込んだ。故に彼は━━━━アシェリムは、生ける呪いの詰まった爆弾となったのである。

21日前 No.191

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

(……嗚呼、そうだった)

薄れゆく意識の中で、アシェリムは思う。何故だかはわからない。だがこの時、どうしてか過去のことを思い出したのだ。走馬灯、という奴だろうか。そう考えると何故か口元が緩んでしまう。

(呪うために生きた私が、誰かのためにこの身を犠牲にする日が来るとはね)

恐らくアシェリムは死ぬだろう。それはアシェリム本人も理解するところであった。しかし彼はそれをも承知で自らの身体に宿る呪詛を解放した。全てはエルトたちを王宮の外に逃がすための囮。アシェリムの身体に蓄積し続けた呪詛は彼の内部で随分と大きくなった。ティヴェラ全域、とまではいかずともいずれ王宮を飲み込むことであろう。そうなればここ数日の王宮は外に出れば呪詛によって死ぬ人間で溢れかえるに違いない。

(……ナラカには少し悪いことをしたかもしれないが……これも宿命だ。後悔などしていない)

ナラカに関しては巻き込んで申し訳ない気持ちがない訳ではなかった。彼女はなんとなく放っておけなかったのだ。何故か旧アーカム領に迷い込んだ、身元も知れぬ不思議な少女。彼女をティヴェラの斥候だと言う者もいれば、何か不吉なものを持ってくると言う者もいた。まあ妥当な扱いではあろう。

(なんてったって、あの名前だからね。気味悪がられるのは致し方のないことだった)

ノルドから名前は何という、と尋ねられた少女は小さくナラカ、と答えた。その意味合いをアシェリムは理解していたのだ。アーカムだけではなく、シャルヴァでは印度で使われるというサンスクリット語というものが広く知られている。これはシャルヴァを拓いたのが印度の人間だから……と一般には謳われているが、実際のところはよくわかっていない。とにもかくにも、ナラカの名前が凶兆を示しているのではないかと口にする者も少なくはなかったという話である。
だがアシェリムはそのようなことを些細だとして気にしなかった。ノルドやリリアも同様だった。だからナラカの面倒を見続けた。初めこそ心を開いてはくれなかったナラカだったが、次第に打ち解けてきたのか、たまには仕事を手伝ってくれることもあった。多少ひねくれてはいたが、ナラカは悪人ではなかった。むしろアシェリムとしては、彼女は真面目で正直な良い子に違いない。故にアシェリムはナラカを自身の呪詛に巻き込んでしまったことを少々気にしているのであった。

(……エルト君━━━━殿下が無事に逃げおおせてくれたのなら私はそれで構わない。願わくば、この呪詛がティヴェラの都を包んでくれたのなら尚良かったが……王宮に広がってくれただけでも、十分━━━━)
「━━━━否。貴様の呪詛は残させぬ」

それは何処からともなく聞こえてきた。アシェリムは視線を走らせようとしたが、呪詛を暴発させたことにより既に彼の身体は自由に動かなくなっていた。ぼんやりとしか見えていない視界を、アシェリムは懸命に凝視する。

(……っ、誰だ……!?何処にいる……!?いや、この声は……!)
「俺は此処だ。アーカムの残党よ」

声が聞こえてきたのは驚くべきことに耳元であった。アシェリムは必死に首を動かそうとする。なんとか動かすことが出来た視界には、純黒の鎧が映っていた。

「お……お前、は……!」

その人物の姿をアシェリムは忘れたことがない━━━━否、忘れることは出来ないであろう。伝承に聞いた彼の姿と、それは本当に酷似していたのだ。まさに呪われし子、終わらぬ輪廻を巡る忌み子。誰よりも憎むべき男━━━━シュルティラは、泰然自若としてアシェリムの傍に立っていた。

「言葉は不要。貴様の身体は既に朽ち始めている。俺は貴様を討ちはしない」

シュルティラの顔は見えない。だが彼からアシェリムに注がれる視線には、微かな憐れみが込められていた。ふざけるな、とアシェリムは叫びたかった。だが最早声も出ない。シュルティラもそれをわかっているのだろうか、アシェリムの返答を待つ様子もなく再び言葉を紡ぎ始める。

「俺は貴様を責めはしない。貴様を憎みはしない。誰も悪くない、誰も悪くはないのだ。故に俺は誰も討ちはしない」
「…………」
「だが俺はシャルヴァの民が死ぬことを望まない。誰も悪くはないというに、呪詛を降らすはまさに鏖の所業。民が苦しみ、死ぬことを俺は見過ごせぬ」

シュルティラの手には黄金に輝く、巨大な弓があった。シュルティラはそれに矢をつがえる。何をするつもりなのか。いや、何をするかはわかっている。だがアシェリムには、“何故シュルティラが矢を射ようとするのかがわからなかった”。身体を動かせず、声も出せぬアシェリムに言い聞かせるように、シュルティラは静かに告げる。


「故に━━━━俺はこの呪詛を熄滅する」


ひゅ、と風を切って、シュルティラのつがえた矢は放たれた。アシェリムの呪詛は今まさに天へと昇って雲を創り、そのまま地上における雨のようにティヴェラの王宮へと降り注ごうとしていた。
━━━━だが呪詛の雨は降らなかった。曼荼羅を覆い隠そうとしていた雲、それに向かってシュルティラの矢は飛んでいく。その鏃は紅蓮の火の粉を帯び、紅き軌道を描きながら雲に向かって一直線に進んでいった。その矢は何処までも、何処までも突き進み━━━━アシェリムの呪詛に満ちた雲の中へと突入する。

次の瞬間、雲が刹那のうちに“燃えた”。

どす黒い雲はまるで油を塗りたくられた襤褸布の如く、紅の焔を上げて燃えた。比喩ではなく本当に燃えているのだ。ティヴェラの上空はこの瞬間に紅蓮に染まり、まるで外界の夕焼けにも似た光景が広がった。下界に火の粉が落ちることはない。ただ、燃えるだけなのだ。

(嗚呼━━━━そうか。彼も、またアーカムの王族だということか)

怒ることも、悲しむことも、憎むことも出来ずに、アシェリムはぼんやりとそんなことを考えていた。ティヴェラの王家が雷神の血統であるように、アーカムの王家も神の血をその身に流している。アーカム王家は火神の血統━━━━つまり、シュルティラが火の五大を使いこなすのはアーカムの王族であるが故であった。

(憎たらしい程に、美しい。これが……これが、神代の力━━━━)

燃え盛る頭上を見上げながら、アシェリムはたしかに一筋、涙を流した。ぽたり、とその涙が離宮の屋根に落ちるか落ちないか━━━━少なくともそれが離宮の屋根にじんわりと染み込んだ頃には、アシェリムの瞳は完全に閉じきられ、二度と開くことはなかった。

20日前 No.192

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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19日前 No.193

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

人には誰しも溢れ出る感情を塞き止めきれなくなる時があるという。ナラカはこれまでそんなことは一生のうちに一度か二度であろうと高を括っていた。少なくとも自分にはないと思っていた。しかし決してそのようなことはなく、今のナラカは溢れ出る様々な負の感情に苛まれていた。

(……私は、どうすれば良かったんだろう)

サヴィヤに庇われたということはたしかにナラカの心に傷を残した。それに追い討ちをかけるかのように、アシェリムがあの後死んだという知らせを受けたのである。薬師の住まいにやって来た衛兵の話によれば、アシェリムは自らの身体に宿った呪詛を解放したことにより死亡したのだという。彼の呪詛によってティヴェラには呪いの込められた雨か降るところであったがシュルティラの手によってそれは未然に防がれたとのことだった。アシェリムの遺体は燃え尽きた炭のように萎びて、少し触れただけでその箇所がほろほろと崩れてしまう程の有り様であったらしい。

(多分、アシェリムさんは他の人を逃がすために囮になったんだ)

他に捕縛された者はいないというから、きっとアシェリムの役目は足止めだったのだろう。初めこそナラカはそんな風に考えたくなくて、きっとエルトがアシェリムを見捨てたんだとひねくれた考えを抱こうとしていた。だがナラカはアシェリムの気性を少なからず理解している。彼なら皆を逃がすために自らの命を投げ出すことも厭わないだろう、と納得出来てしまう自分がいた。だからアシェリムのことを責めることも出来なかったのだ。もとより、もう彼と話すことは出来ないのでどうにもならないことには他ならないのだが。

(……私は、誰にも死んで欲しくなかったのに。誰にも、傷付いて欲しくなかったのに)

考えれば考えるほど、ナラカの胸中はやりきれなさに満ちていく。少しでも油断すると涙がこぼれ落ちてしまいそうだ。ぐっと唇を噛みながら、ナラカは筆を取る。そして机の隅に貯めていた木札……程度の大きさの木材に、何やら書きなぐるようにして記した。ふぅ、と息を吐いてから木材を見直したナラカは、口をへの字に曲げてそれを床に投げ捨てる。床には同じように投げ捨てられたらしい木材が散乱していた。

「……馬鹿みたい」

誰に言うでもなく吐き捨てるように呟いたナラカではあったが、その直後に自室の扉が叩かれたことによってびくりと肩を揺らした。大方アリックかアロイスだろうとナラカは予測して、ふいと扉から目を背ける。

「……大事なことでないなら放っておいてください」

今は誰とも関わりたくはない。そうナラカは思っていた━━━━というのに、きぃ、と扉の開く音がした。話を聞いていなかったのか。ナラカの顔に苛立ちが広がる。放っておいてください、と再三告げるためにナラカは振り返り━━━━そして硬直する。

「な、な、な━━━━!?」
「突然訪ねるような真似をしてすまない。余計なお世話やもしれぬが、お前のことが気にかかったものでな」

其処に立っていたのは紛れもなくサヴィヤ本人であった。ナラカの自己嫌悪の種その一とも言える人物の来訪に、自己嫌悪している本人は固まるしか出来ない。一体どうして、と問いかけたい。だが口は上手く動いてはくれなかった。そのためナラカは、餌を求める魚のように口をぱくぱくとさせるだけであった。

「……?ナラカ、これは何だ……?」

そんな最中にも、サヴィヤは腰を落として何かを拾い上げている。あ、とナラカが声を出す前に、サヴィヤはそれを視界の中に入れていた。

「ん……?『うつせみの』……?」
「ひっ、いやぁぁぁぁぁぁ!!!!」

サヴィヤの呟きに、ナラカはこれでもかと言わんばかりに絶叫した。その大きさは並大抵のものではなく、その絶叫を聞き付けてどたどたとアロイスやアロイス、ルタまでやって来る羽目になった。

「どっ、どうした!?」
「わ……わからない……。ただ、このようなものを拾ったら、突然……」
「はっ、早くそれを捨ててください!見ないでください!本当、目に入れるようなものではないので!!」

何が起きたのかわからず戸惑った様子のサヴィヤにナラカは直ぐ様詰め寄った。その勢いと剣幕にサヴィヤだけでなく、彼の近くにいたアロイスも一歩後ずさる。

「しかしナラカ……これはいわゆる詩歌の類いではないのか?ならば捨てる程のものでは……」
「それは出来映えが最悪なんです!教養のない凡人が書きなぐった塵芥程度の価値しかない木です!というかいつまでも持ってないで早く捨ててください!」
「俺が言うのも何だが、出来映えは悪くないと思うぞ?」
「あなたの価値観とかの問題じゃないんです!廃棄しなければならないんです!燃やすか埋めるか沈めるかしないと……!そうでないと私は━━━━!!」

まるで般若の如き形相で、いつも彼に接しているときの何処か照れたような様子はなく、ただただナラカは必死にサヴィヤへと捲し立てた。捲し立てようとした。しかし二の句を次ごうとする前に、ナラカは気づいてしまったのだ。気まずそうな顔をして、恐らく拾ったのであろう木材を集まって見ているアリックとアロイスとルタの姿を━━━━。


「いっそ私を埋めろぉぉぉぉぉ!!!」
「なっ、ナラカ!?」


羞恥心に咽び泣くナラカを落ち着かせるためにこの場にいる者たちは最低でも十分程度の時間を有した。この一件を境に、この場の誰もがたとえどのようなものであっても他人の創作物を勝手に見てはいけないと学んだのである。

18日前 No.194

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

「……先程は、本当にすまなかった」

ナラカが落ち着いたところで、サヴィヤは深々と頭を下げた。これ以上事を荒立てては収拾がつかないということで、アロイスたちは一旦別の部屋へと下がってくれたらしい。ナラカはひとしきり暴れたせいか、げっそりと疲れた顔をしていた。ちなみに暴れた拍子にちゃっかり移動したらしい餅蜥蜴はサヴィヤの指をかじっている。

「いえ……私こそすみませんでした……。少し、気が動転してしまって……」
「誰にでも知られたくないことはある。あれは仕方のないことだった」
「は、はぁ……」

サヴィヤから真剣にそんなことを言われてしまっては、ナラカも気の抜けた返答をするしかない。とりあえず詩歌を書きなぐった木材は机の中に仕舞っておくことにした。しっかり木箱にも入れたので今後触れられることはまずないだろう。しかしいつまでも残しておく訳にはいかないので、いつか機を見て燃やしたいところでもある。

「さ……サヴィヤさんこそ、お怪我は大丈夫なんですか?もう動いても良いと、お医者様からご許可が下りたのですか?」

話を逸らすのと、もとより気になっていたこともあり、ナラカはサヴィヤにそう問いかけた。医術の心得のないナラカとて、サヴィヤの怪我がこのような短期間で完治するものではないことくらい理解している。腹部をあれだけ深々と刺されたのだから、普通は安静にしていなければならないはずだ。それなのにサヴィヤは先程自分の作った詩歌を燃やせ燃やせと暴れるナラカをどうどうと宥めていた。あの時は気が動転していたナラカだったが、後から考えてみればぞっとする出来事である。自分のせいでサヴィヤの怪我が悪化したなんて洒落にならない。もしナラカが武士だったのなら最悪腹を切らねばならないところであった。
ナラカからの問いかけに、サヴィヤは「うむ」と首を縦に振った。怪我人のはずだというのに相変わらずの無表情である。平生通りでいてくれるのは気分的には楽ではあったが、ナラカとしては少々不安にもなった。

「俺の傷はお前が思うよりも深くはなかったようだ。出歩いても良いという許可ももらった」
「けれど……お腹を刺されたんですよね……?」
「急所は外れていたらしい。今ではあまり痛みもないぞ」

そう言ってから、サヴィヤは躊躇うことなく衣服を持ち上げて自分の腹部をナラカに見せた。男性の腹部を突然見せられては色恋のいの字も知らないナラカは戸惑う他なかったが、これはサヴィヤの健康にも関わることなのでおずおずと眺めさせてもらうことにする。決して邪な気持ちはない。

(……手当て、簡単過ぎない……?)

サヴィヤの引き締まった腹部には、ナラカの手のひらよりも少し小さめに切られた綿紗が貼り付けられているだけであった。これではサヴィヤの怪我は大したものではないように見えてしまう。いや、軽傷であることが悪いとは言えないのだが、ナラカが見た限りサヴィヤの傷はもっと深いものに見えた。こんな簡素な手当てで済むようなものではなかったはずだ。

(いくら焦っていたからって……見間違いにしても可笑しい)

シャルヴァには傷の治りを早くする万能薬でもあるのだろうか。ナラカの頭で考えられるのはそれくらいのことであった。いかんせん怪我人の治療をしたことがないのでナラカにはどうこう言う権利はない。それでも違和感を覚えずにはいられないのだ。サヴィヤの負った怪我は、この程度のものであったのだろうかと。

「ま、まあ、大事がないようで良かったです。でも、完治するまでは無茶をしないでくださいね」
「嗚呼、わかっている」

こくり、とサヴィヤがうなずいたのを確認してから、ナラカはぐっと自らの拳を握りしめる。言わなければならない。否、此処でしか言えない。この機会を逃したら、ナラカは一生このもやもやとした気持ちを有したまま過ごさなければならなくなるであろう。それだけは避けたかった。いそいそと衣服をもとに戻そうとするサヴィヤに、ナラカは確と視線を向ける。

「さ……サヴィヤさん!」
「……?どうした?」

突然自らの名前を呼ばれたサヴィヤは少し驚いたようである。切れ長の美しい瞳を僅かに見開いて、ナラカに向き直った。まるで地上の空のような綺麗な瞳を向けられて、ナラカは一度ごくりと唾を飲み込んだ。

「あの、あのっ……!離宮では、助けていただいて、ありがとうございました……!」

所々つっかえながらも、ナラカは一気に言い切ることが出来た。そして勢い良く頭を下げる。サヴィヤはそんなナラカの様子を見てきょとんとしていたが、やがてふっと口角を緩めた。

「礼を言われる程のことではないが……お前が無事であるならそれが何より嬉しい。お前が無事で本当に良かった、ナラカ」

そんな優しい口調で微笑まれては、考えていた言葉も何処かへ飛んでいってしまうというものだ。美男子の微笑みを目の当たりにしたナラカは、ただこくこくとうなずいているしか出来なかった。要するに二の句が次げなかったのである。男性はあまり得意ではないし、むしろ少し苦手なところもあるけれども、そういったものを飛び越えてナラカが見惚れてしまうくらいにサヴィヤは美しかった。恐らく彼の微笑みでちょっとした村が消えかねない。少なくともナラカはそう思った。その程度の威力であった。もしも此処に稀代の詩人や歌人がいたのなら、サヴィヤをどのように形容したであろうか。きっとどれだけ飾り立てても、サヴィヤの美しさを表すに適当な言葉というものは見つけられないことだろう。

「……あー……ちょっと良いか?」

そんな何とも言い難い雰囲気に終止符を打つかのように、扉の隙間からアロイスが声をかけてきた。気恥ずかしさにナラカはぶしゅう、と頭から湯気を出しそうな勢いで赤面する。今日はつくづく災難続きであった。

17日前 No.195

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決してアロイスに入ってきて欲しくないという訳ではなかったが、あの空気の中でいきなり声をかけられたナラカはなんとなく気まずさを感じながら目を逸らしていた。いや、何も疚しいことはないのだ。ないのだが、こう、あまり他人に見られたい現場ではなかった。言うなればアロイスにはその場の空気というものをもう少し読んで欲しかった。何事にも時機というものがある。

「……して、用件は何だ?」

色々な意味で疲弊しているナラカとは対照的にサヴィヤは平然としてアロイスにそう問いかけた。アロイスもアロイスで場の空気を今更ながら察しているのか、「お、おう」と若干言いにくそうに口を開く。

「離宮の住人……ティルアの処遇がどうなったのかを知りたくてな。軍部に勤めるあんたなら知ってるんじゃねぇかと思ったんだが」
「……なるほど。そういうことか」

アロイスの問いかけはナラカも気になるところであった。たしかにティルアの処遇がどのようになったのか、まだ公に発表はされていない。あまつさえ旧アーカム領の者たちに助力し、ティヴェラの王宮を脱け出そうとしただけではなくティヴェラの兵士であるサヴィヤを傷付けた彼女の罪は、決して軽いものとは見なされないだろう。ティヴェラにおける法がどのようなものなのか、ナラカはまだ知らない。だが自らの経験からしてティルアには重い刑が課せられるのではないかという予感があった。

「俺も詳しくはわからないが……件の婦人には極刑が課せられると聞いた。国家に対する反逆罪と見なされたのであろう」
「……極刑……」

極刑。すなわち死罪ということか。ナラカも薄々そのような気はしていたが、やはり言葉にして出されるとずしりとした重みがある。当然の処遇だと思うものの、今まで話したことのある、接したことのある人間が大罪人として裁かれるというのは良い気持ちとは言えなかった。

「刑が執行される日時はまだ決まっていない。だが少なくとも近いうちには執行されるものではないかと考えられている。あの宰相がいつまでも罪人を生かしておくとは思えん」
「宰相……って、アドルファス殿のこと……ですよね」
「うむ。あの宰相は良くも悪くも仕事が早い。これまでティヴェラにおいて極刑の判決を下された者は一月以内に刑を執行されている。ティルアもそれくらいの期間で処されることであろう」

サヴィヤの口調は淡々としている。きっと彼は私情を交えないつもりでいるのだろう。一人の兵士である時点でそれは仕方のないことだとナラカは思う。己の仕事に私情を交えていては何も進まない。それこそ、私情を交えた戦なんてもっての他だ。あいつが気にくわないから、あいつは自分にとって大切な人間だから━━━━そんな気持ちを有したまま戦うなんて、手枷足枷を着けているにも等しい。むしろ敵に余計な感情を向ける人間は武人に向かないだろう。

「面会は出来るのか?」
「今のところは不可能だろう。だが執行の日が近付けば、一定の条件を満たした者であれば兵士立ち会いのもとで簡単な面会は出来るかもしれない」
「……そうか」
「まだ詳細は決まっていないからな。今から諸々の予定が変更されることもあろう。何かあったらその都度伝えるつもりだ」

面会の是非をアロイスが問うたのは、ルタのことを考えてのことだろう。血は繋がっておらずとも、ティルアはルタにとって家族とも言える存在であった。ティヴェラの王族のほとんどが追放された今となっては、尚更彼女の存在は大きかったに違いない。

(そういえば……ルタさんの弟が、今のティヴェラの王様に殺されたらしいけど……)

一昨日の離宮での会話を思い出して、ふとナラカはガーネリオスとかいうルタの弟に思いを馳せた。どのような人物なのかはわからない。だがルタの親類ということは、やはりそのガーネリオスも王族の一員であったのだろう。しかも現王の子だ。それを王は殺害したのだという。話題に上がっている様子はなかったので、恐らく内密に行われたことなのであろう。

(どうしてルタさんがそんなことを知っていたんだろう……。ルタさんはここしばらく、王族との関わりなんて持てなかったはずなのに……)

小鈴がいた時ならともかく、まだ新たな宮廷薬師が決まっていない今となっては王族がどうこうとかいう話をルタが聞き付けるのは不可能なはずである。ルタは一体何処でそのような情報を手に入れたというのか。

「……そういえば、離宮に入れられていた者はどうした?今日は姿を見かけないが」

ナラカがあれこれと考えていることなど露知らぬであろうサヴィヤは、何の気なしに話題を変える。恐らくスメルトのことであろう。たしかに今日は珍しく彼の声を聞いていない。昨日は無理矢理にでもナラカの部屋に入ってこようとして大変だった。なんとかアロイスとアリックで彼を止めていたが、下手したらナラカの部屋の何処かしらが壊れていたかもしれない。そう考えると色々な意味でぞっとする。もしも扉を壊されようものならナラカはスメルトを一発殴りたいところであった。
スメルトの名前が挙がった瞬間、アロイスの表情は一気に苦々しいものへと変わった。それを見たナラカはまたスメルトが何かやらかしたのではないかと察する。スメルトがアロイスとの間に揉め事を起こすのはそう珍しいことではないのだ。スメルトいわくアロイスのこともそこそこ気に入っているらしいので、今日まで大した問題は起きていない。だがアロイスがスメルトに頭を悩ませているのは本当のことである。ナラカも見かねて仲裁に入ることもあるし、今となっては一種の日常茶飯事と化していた。

「あいつなぁ……。何があったのかは知らんが、朝起きてみたら置き手紙を置いてどっかに行きやがった」
「そ……それって、大丈夫なんですか?」
「置き手紙には夕刻までには帰るって書いてあったけどよ……。やっぱり心配だからな、隠密部隊に姿を見つけたら言ってくれとは頼んどいた。人間嫌いなあいつのことだから、問題を起こさないとは限らないだろ」

アロイスの言う通り、スメルトは筋金入りの人間嫌いである。表面上はにこにことしているが一度気に入らないと判断した人間は容赦なく殺め、傷付けることも厭わない。殺人を楽しむのではなくて、嫌いだから排除するといった形なのだ。ナラカやアロイスのような例外がいなければ、恐らくスメルトはアリックやルタのことも殺害対象と見なしていることだろう。尤も、アリックはというとそんなスメルトに最近は慣れてきたのか、事あるごとに「私はナラカ殿のお友達ですから」と主張している。聞いている此方側がひやひやするので出来ることならやめて欲しい。

「とにかく、スメルトが見つかり次第隠密がこっちに来るようになってる。だからあまり心配はしなくても…………」
「━━━━此処で何してやがる、この××××!」

心配しなくても良い、と告げようとしたらしいアロイスだったが、玄関口に近い客室から聞こえてきた声によってそれは遮られた。サヴィヤが思わずナラカの耳を押さえてしまう程度には汚い言葉が薬師の住まい中に響き渡ることになる。ちなみにナラカは触られたということよりも言葉のあまりの汚さの方に驚いて目を丸くしていた。

「……とりあえず話は一旦保留だ」

眉間を揉みながら至極疲れたように告げて、アロイスは客室の方へ走っていく。薬師の住まいに住まわせてもらっている身としてはナラカも放っておくことが出来ず、サヴィヤを促してアロイスの後を追いかけた。

16日前 No.196

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客間にナラカたちがたどり着くと、其処には異様とも言える光景が広がっていた。一足先に到着していたらしいアロイスは案の定疲労困憊といった表情を浮かべている。彼の心労を思うとナラカもなんだか心苦しくなってくる。

「……おい、こりゃあどういうことなんだよ」
「……こ、これには、深い事情がありまして……」

気まずそうに答えたのはアリックだった。彼女は何故かはわからないが、まだ二十歳にも満たなそうな若者を床に組み伏せている。ちなみに信じたくはないが先程の声もアリックのものであった。ルタはというと色々と驚いたらしく、椅子を持ち上げてアリックと彼女の組み伏せている若者に突進せんとしていた。混沌しか存在しない空間。これにはナラカも呆気に取られているしかなかった。

「羅刹!貴様のところの指導は一体どうなっている!?」

組み伏せられている若者は怒り心頭といった様子で、ぷんすこと怒りながらアロイスを責めていた。暴れようとする若者ではあったが、その度にアリックが間髪入れずに鋭い関節技を繰り出してくるので身動きが取れずにいるらしい。アリックさんって此処まで武闘派だったんだ、と一瞬驚いたナラカだったが、そういえば彼女は幼い頃から海賊まがいの行為をしていたということを思い出してすぐに納得した。イングランド恐るべし。

「いや、そう言われてもよ……。アリック、そいつを離してやれ」
「しかし……!気付いたら天井に張り付いていた者ですよ……!?衛兵に引き渡さねばまずいことになるのでは……!?」
「馬鹿者、正面切って玄関から入ってくる隠密があるものか!貴様の頭には餡でも入っていったぁぁ!?」
「それを言うなら手前の脳味噌こそ蝸牛でも詰まってんだろ!ぴーぴー喚くな!」

若者が話す度にアリックの口調はがらりと粗野なものへと変わる。何故蝸牛なんだろう、と流れを未だに汲み取れないナラカはぼんやり考えた。この間に、サヴィヤはルタの警戒を解いて彼が持ち上げている椅子を下ろさせることに成功している。

「落ち着けよ二人とも。アリック、そいつは怪しい者じゃねぇ。そいつは多分スメルトのことを報告しに来た隠密だ」
「隠密ぅ?こんなちんちくりんが?」
「誰がちんちくりんだッ!」

渋々といった様子のアリックに解放された若者は、頭から口元にかけて覆っていた頭巾のようなものを取り外す。さらり、と其処からは癖のない黒髪が飛び出す。つり目がちな瞳に、彫りの浅い顔立ち。見たところナラカともそう年の変わらなそうな少女である。間違いなく東洋人だ、とナラカは確信した。

「全く……大姐は何故このような奴等を雇ったというのか……」

ぶつくさと文句を言う少女に、けっ、とでも言いたそうなアリック。明らかに雰囲気がよろしくない。お友達として此処はなんとかせねばとナラカは恐る恐る少女に問いかける。

「あの……大姐、というのは……?」
「なんだ貴様、我々の祖国の言語もわからんのか?言わんでもわかるだろう、この呼称は小鈴先生に向けたものだ」
「ナラカ殿、大姐というのはたしか明の言語で姉上という意味です」
「貴様ッ、余計なことを……!」

どうやらアリックは明の言語にも造詣が深いらしい。ほとんどわからないナラカからしてみれば羨ましいことには他ならないのだが、今の状況では火に油を注ぐようなものである。それはアロイスも感じ取ったらしく、半ば割り込むようにしてアリックと少女の間に立った。

「で、だ。隠密、此処に来たってことは、何か伝えるべきことがあるんじゃねぇのか?まずはそれを聞かせてくれ」
「……ふん。まあ良いだろう。なんたってあの大姐の部下の頼みだからな。私が引き受けなくて誰が引き受けるというのだ」

よいしょと自分で椅子を引いて座ってから、少女は薄い胸を張る。この様子だと何か成果があったと見て良いだろう。アロイスも表情を少し明るめて、少女の隣へと座る。

「して、件の者なのだがな。何故かは知らんが雑色のもとに向かっていたぞ」
「雑色の……?」
「兵舍に近い方のな。あいつ、知り合いの雑色でもいるのか?」
「いや、いないはずだと……」

いないはずだと思う、と口にしかけて、アロイスははっと何かを思い出したようだった。ナラカも少女の話を聞いていて、なんとなく思い当たる節を見つける。スメルトの知り合いの雑色と言ったら、“彼”しかいないはずだ。

(まさか……スメルトさん、ヴィアレさんに何かご用があって……)

いくら整った容姿をしたヴィアレだからといって、根っからの人間嫌いであるスメルトが相手では万が一のことも起こりかねない。そう考えるとナラカもぞっとしてしまう。ヴィアレは一昨日にエルトがいるという情報を与えてくれたにも等しい存在だ。彼に何かあっては(主にナラカが)困る。

「わ、私、今すぐ見に行った方が良いと思います……!」

気づけば、ナラカは挙手をしてそんなことを口走っていた。普段自分の意見をあまり口にしないナラカの発言に、アロイスやアリックは驚いた表情を見せる。しかし彼女の判断が妥当だと考えたのだろう、ナラカの意見に反論することはなかった。

「そうだな。余所様に迷惑はかけられねぇ。隠密、こいつを案内してくれ。一人で行かせるのは心許ないからな」
「当たり前だろう。こんな小娘を一人でうろちょろさせるものか。……それと、其処の貴様。貴様にも着いてきてもらうぞ」
「……え、俺……?」

少女が指名したのは意外なことにルタだった。彼もまさか自分が選ばれるとは思っていなかったらしく、きょとんと目を丸くしている。しかし行きたくないという訳ではないらしく、きょろきょろと辺りを見回してからナラカの傍まで歩いてきた。そして隠密の少女に不安を抱いているのか、そっとナラカの背に隠れる。紅顔の美少年にこのようなことをされてナラカも嬉しくない訳ではない。くうっ、と嬉しさで歯ぎしりしたくなったが、さすがに此処は我慢した。

「貴様らには幾つか問いたいことがある。━━━━私の問いに相応しい答えを期待しているぞ」

じろり、と見定めるような視線を一度向けてから、少女はナラカとルタを案内するためか玄関の扉を開けた。

15日前 No.197

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隠密の少女は紫蘭(ズーラン)と名乗った。隠密が自分の名前を名乗るのもどうかとナラカは思ったが、本人いわく名前とは仮のものらしい。いやそれにしては発音もしっかりしていないか、と思わずナラカは突っ込みたくなったが、紫蘭のこれまでの言動から鑑みてやめておくことにした。また突っかかられても困る。

「隠密部隊の名前は皆発音が独特なのだな。こだわりでもあるのか?」

ナラカと手を繋ぎながら歩くルタは、物怖じというものを知らないのかそう紫蘭に質問する。やや緊張はしているようだが、警戒はある程度解いたらしい。そりゃあ隠密なのに彼処まで騒がしければ多少安心はするだろう。ナラカの知る隠密はあのようにきゃんきゃん騒ぎ立てるものではなかった。

「我らの祖は東方の大国出身でな。北方の異民族に追いやられてシャルヴァ入りしたのだが、その際に言葉を忘れぬようにと、名前は祖国寄りのものにする決まりになっているのだ」
「日常的な言葉にも、故郷の言葉を使うのか?」
「多少はな。まあシャルヴァはほとんどの言語が通じてしまうから、あくまでも発音程度のものだが…………って、何故貴様らにこのようなことを話さねばならんのだ」

もうだいぶと自分の素性やら何やらを話してしまった後で、紫蘭はじろりとナラカとルタを睨み付ける。話してきたのはそっちなんだけどな……とナラカは思うが、大人しく「申し訳ございません」と形ばかりの謝罪をしておいた。恐らく紫蘭は単純だ。突っかかってくる人間には噛みつくが、大人しくしていればそれ以上構ってくることもないだろう。案の定紫蘭はナラカたちを責め立てることもなく、話を切り替えるかのようにごほん、とひとつ咳払いをした。

「……して、ルタとやら。私は貴様に聞かねばならんことがある」
「な……何だ?」

変に勿体ぶった様子の紫蘭に、ルタもごくりと唾を飲み込んだ。いくら相手が未熟そうな少女と言えど、紫蘭は隠密部隊の一人なのだ。そうとなれば、ティヴェラの闇に生きる者と言っても過言ではない。何を問われても良いようにとナラカも紫蘭の問いかけを待ち構えた。


「貴様は何故あの女……ティルアに着いていかなかった?義姉の誘いを、何故貴様は断った?」


紫蘭の問いはそういったものだった。それはナラカも気になっていたところではあったし、いつか聞く機会があったら聞いてみたいと思っていた事柄でもあった。つまりは妥当な問いかけだったのだ。
紫蘭からの質問を受けたルタは、一瞬目を丸くさせた。そして何か恥ずかしいことでもあるのか、もじもじしながら視線を逸らす。

「……笑わないで聞いてくれるか?」
「えっ?」
「笑いませんよ、ルタさん。もし笑う方がいらっしゃったのなら、その方は情趣を解さない無粋者だと思います」
「……えっ?」

紫蘭にとって、ルタの反応は意外なものだったのだろう。わかりやすく戸惑う彼女をさりげなく此方の流れに乗せるために、ナラカも紫蘭をちらちら見ながらそう言ってやった。もしかしたら怒り散らすかもしれない、という不安もあったが、紫蘭はどうやら乗せられやすい人間だったようだ。ぱちぱちと目を瞬かせているところを見ると上手くいったと見て良いだろう。周りの状況が悪いものではないことを確認したのか、ルタはすぅ、と息を吸う。ナラカと紫蘭の視線が、真っ直ぐルタに向いた。


「お……俺には、好いている者がいるから……。だから、その者に想いを伝えるまでは、此処を出て行けない……」


かぁぁ、と白い頬に朱を走らせながら、ルタはもごもごとだがそう言い切った。スメルトのところに一刻も早く向かいたいナラカではあったが、これにはぴたりと歩みを止めてしまう。紫蘭も同様であった。驚愕をわかりやすく顔に出して、足を一歩踏み出したままの姿勢で硬直した。

「そっ、そそそ、それは一体どういうことなのだっ!?」
「ず、紫蘭さんおちゅちゅいてください!」
「貴様がもちつけ!!」

落ち着かない東方女子二人は自分を棚に上げつつお互いを注意する。二人とも見事に噛み噛みであった。しかし此処には真っ赤になっているルタしかいないので揉め事に発展することはなかった。

「き、貴様!好いた者とは誰だ!?そっ、其処までぞっこんなら隠密部隊の力を用いて会わせてやらんこともないぞ!?」
「そんなことに隠密部隊の力使っちゃって良いんですか!?」
「良い!私が許す!何だって君子は寛大だからな!故に私も寛大でなければなるまい!」

紫蘭としては自分は君子ということになっているらしい。自分で言ってしまう辺りどうなのかと思ったが、ナラカも人のことを言えるような身分ではないので口をつぐんでおいた。誰だって君子と思えば君子になり、暗君と思えば暗君になるものなのだ。謂わば暗示のようなものである……と思いたい。

「ルタよ!その想い人の容貌を教えろ!どんなに目立たない人間でも我らの手にかかれば見つけることは容易いからな!」
「え……で、でも……。こんなことを聞いたら、皆引いてしまうのではないか……?」
「引かぬ!私は男でも女でも構わぬ!恋愛なるものは個人の自由だからな!」
「紫蘭さんけっこう寛容なんですね……」

たしかにナラカの故郷でも衆道はそういうものとして特に禁じられてはいなかったが、紫蘭がそういったことに寛容であることは意外であった。彼女のような人間であれば、顔を赤くして憤慨しそうなものだとナラカは考えていた。実際ナラカの周りにはそういった人間が少なからずいたので、其処から来る予想とも言えたのだが。
閑話休題。話を振られたルタはというと、紫蘭の言葉におろおろと戸惑っていた。戸惑っている、というよりは困っている、といった方が正しそうである。

「あ……えっと……。気遣ってくれるのはありがたいのだが、その……。俺には、わからないんだ……」
「わからない……?」
「その……好いた、者の……性別が……。男なのか、女なのか……」
「はぁ!?」

すっとんきょうな声を上げたのは紫蘭である。ルタの肩をがくがくと揺さぶっていることからナラカは彼女がひどく動揺していると把握することが出来た。

「おいっ、それはどういうことなんだ!?貴様の好いた者は本当に人間なんだろうな!?」
「に……人間、だと思う……」
「ならば性別くらいわかるだろう!?」
「いや……それが……。男にも見えるし、女にも見えるというか……。性別という概念が、そもそも……」
「いや人間なんだろう!?ただの人間が色々と超越してどうする!?人間以外が働いているとかはっきり言ってティヴェラの王宮危険過ぎるぞ!?」
「い……言われてみればたしかに……人間のような、人間でないような……」
「待て!其奴は人間だ!人間でないなどあってはならない!詰まるところあるかないかの話だろう!?」
「は……恥ずかしくて、見てない……」
「いや普通は見ませんから!!」

これにはさすがにナラカも突っ込まざるを得なくなった。少なくとも屋外でするような話ではないと思う。声を荒げたせいではぁはぁと息切れしながら、ナラカはルタに向き直った。

「ルタさん、あなたはその人とお話ししたことがありますか?」
「うん、ある……」
「それじゃあ、その人は私と顔を合わせたことがありますか?」
「うん……」
「……わかりました」
「いやわかるのか!?」

簡単な問答だけで話を終わらせたナラカに、紫蘭が飛び付くようにして詰め寄ってくる。だがこの時点でなんとなくナラカには予想がついていた。いや、外れている可能性は十二分にあったが、まずはスメルトの様子を見に行かねばなるまい。

「紫蘭さん、気になるお気持ちは凄く凄くわかるのですが、まずはスメルトさんの様子を見に行きましょう。何か騒動でも起こっていたら大変ですし……」
「だが……!」
「それでルタさんの想い人が傷付いたら、あなたはどう責任を取ってくださるのですか?」

ずい、とナラカに詰め寄られて、紫蘭はぐぬぬと悔しげに歯噛みする。そのままずっと見つめているとやがて根負けしたらしく、未練が残っていますとでも言わんばかりの顔つきで渋々歩き出した。ナラカもほっと胸を撫で下ろしてから、改めてルタの手を引いて歩を進めた。

14日前 No.198

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【第33幕:微睡みの記憶は引き金となるか】

特に心当たりというものはない。だがヴィアレはこの時、確実に命の危機に瀕している自覚があった。自分の近くにいた雑色たちは皆ヴィアレから距離を取り、エミリオは近くにいてくれるもののヴィアレの後ろに隠れて小鹿のように震えている。

「うふふ、こんにちはぁ。ヴィアレ君……は、君だよね?」

明らかに恐怖を覚えている周囲を気にしていないのか、むしろこの状況を楽しんでいるのか。にこにこと朗らかな笑顔を浮かべながら、彼はヴィアレのことを見下ろしていた。もう少しで天井に触れてしまいそうな程の大男に、ヴィアレも足がすくむ。それでもなんとか気力を振り絞って、彼に向かってこくりとうなずいてみせた。

「う……うむ。我がヴィアレだ」
「だよねぇ。不思議な色の髪と目をしてたから僕も覚えてたんだ。人の名前を覚えるのは正直言って苦手なんだけどね」

まるでヴィアレを追い詰めるかのように、大男━━━━━スメルトは彼に顔を近付けた。名も知らぬ大男にいきなり絡まれたヴィアレは逃げ出したくてたまらなかったが、足は地面にくっついてしまったかのように動いてくれない。それにエミリオや、同僚の雑色たちのことも放ってはおけない。自分が逃げ出したら、スメルトの標的は同僚たちになるかもしれないのだ。ヴィアレはごくりと唾を飲み込んでから、恐る恐るスメルトへと問いかける。

「して……そなたは、我に何か用でもあるのか?話があるのなら外に出よう。此処では皆の仕事の邪魔になってしまう」
「うーん、僕は別に此処でも良いんだけど……。でも、君がそう言うのなら外に出てあげても良いよ?此処の奴等は皆腰抜けみたいだし」

笑顔で毒を吐いてから、スメルトは着いてこいとでも言うかのようにすたすたと外に向けて歩き出した。心臓はまだどくどくと早鐘を打っていたが、とりあえずスメルトがヴィアレの条件を飲んでくれただけでも感謝すべきだろう。

「ヴィアレ……本当に行くの……?」

背後でガタガタと震えていたエミリオが、半ば涙目になりながらヴィアレに尋ねる。口には出していないが、その目は思いっきり「行かない方が良い」と物語っている。エミリオの気持ちはありがたかったが、ヴィアレは彼を優しく離してやることしか出来なかった。

「うむ。我に用事らしいからな。そう込み入った話でもあるまいし、すぐに終わるだろう。任せてしまって悪いが、仕事を頼む」
「……うん。気を付けてね……」

すん、と鼻をすするエミリオの頭を軽く撫でてやってから、ヴィアレは駆け足でスメルトの背中を追いかける。のしのしと歩くスメルトは、伝承に聞く巨人を思わせた。

(我に、何を問うつもりなのだろう……)

人気のない兵舎の裏まで来たところで、スメルトはその歩みを止めた。そして笑顔のまま、くるりとヴィアレに向き直る。だがにこやかな彼とは真逆に、ヴィアレの表情は警戒と不安でぎこちないものであった。

「そんなに怖がらないでよ。君を殺すつもりはないんだから」

そんなヴィアレの内心を読み取ったのだろうか、スメルトは表情を微塵も変えることなくそう告げた。これで怖がらせるつもりがないというのなら、スメルトは筋金入りの天然というか世間知らずというか……とにもかくにも人の感情の機敏に疎いことこの上ないだろう。殺すつもりはない、ということは“殺しはしないが場合によっては惨たらしい手段を取るかもしれない”と受け取られても可笑しくはないのだから。

「僕が聞きたいのは、ナラカのことなんだ。多分ナラカのことを知っている人は君とナラカ本人以外にいないと思うからね。だから君を頼ることにしたんだよ」

うふふ、と朗らかに笑いながらスメルトは話を切り出した。そんなことだろうとヴィアレは薄々勘づいてはいた。以前宮廷薬師の住まいを訪れた時、スメルトがナラカに固執していたのを覚えていたからだ。一体スメルトとナラカの間に何があったというのだろうか。この好かれ具合から、ナラカが悪印象を与えたという訳ではなさそうである。

「……ナラカの何を知りたいというのだ」
「うーん、そうだなぁ。色々と聞きたいことはあるけれど……。今いちばん気になるのは、一昨日に王宮に侵入した奴等とナラカとの関係、かなぁ」

教えなければただではおかない、とスメルトの目は物語っていた。要するに彼はエルトたちとナラカの関係性を知りたい、ということなのだろう。

「……我は彼らと接したことがない故、断片的にしか知らぬが」
「それでも良いんだよ。知ってることがあるのなら聞かせて?」
「……わかった」

有無を言わさぬスメルトの物言いに、ヴィアレも首を縦に振るしかない。しかしエルトたちのことをどのように話したものか、ヴィアレとしては悩みどころでもあった。つい自分はエルトたちとは無関係だと口走ってしまったが、本当にこれで良かったのだろうか。我が身可愛さに自己保身へと走ってしまったことを、ヴィアレは言った先から悔いることとなった。

「……ナラカは……先日、我に侵入者たちの一員に脅されていたと伝えに来た。それで、不本意のまま彼らの手助けをさせられていたらしい」
「嗚呼、この前のね。……でも、なんでナラカはわざわざ君に教えに来たのかな?」
「……恐らく、我がこの王宮で働いていることを知っていたからだろう。もしかしたら、ナラカは侵入者たちが何か行動を起こす予兆を感じ取っていたのやもしれぬ」
「……へぇ。そうなんだぁ」

スメルトの語調は変わらなかった。だが表情が明らかに変化したことはヴィアレにも理解出来た。すぅ、と浮かべていた微笑みが何処かに消えていって、その目に明確な侮蔑が宿ったのをヴィアレは見てしまったのだ。
がしり、と。ヴィアレの頭部が掴まれる。スメルトの手は大きかった。それはもう、ヴィアレの頭を一掴みにしてしまう程度には。

「どうして僕に嘘を吐くの?」

ぎちり。ヴィアレの頭部を掴む手に力が込められる。このままでは殺される。死に対する恐怖がヴィアレを襲った。

「な……何故……」
「何故わかったのかって?当たり前じゃない。ナラカは誰かに侵入者のことを教えてもらったんだ。じゃなきゃ、一昨日にあんな急いで事を起こそうとはしない」

氷のように冷えきったスメルトの目がヴィアレを見る。それだけでヴィアレの心臓はきゅっと縮み上がった。何とかして逃げなければ。けれどその方法がわからない。ヴィアレの呼吸だけが荒くなり、そしてスメルトの手に込められる力が強まっていく。己の頭が軋む音に、ヴィアレは悲鳴を上げた。

「教えて。君が知るナラカを。ナラカを苦しめるあの侵入者共のことを。そうすれば、僕だってすぐにあいつらを殺せるんだから」

視界が眩む。痛い。痛い。こんな痛みをヴィアレは知らない。嫌だ。死にたくない。誰か助けて。助けを求めようとしても、ヴィアレの口は上手く回ってくれない。涙が流れる。息をすることさえ苦しい。こんな思いをしたくない。嫌だ、嫌だ、厭だ嫌だいやだ死にたくない生きたい誰か助けて━━━━!!

「あ……あ、う……ぐ、あ……あああああああああ!!!!」

その悲鳴は断末魔のものにも似ていた。ヴィアレの視界はちかちかと点滅し、次の瞬間に眩しすぎる光のようなものに包まれる。スメルトが何か言っているのが聞こえたが、その意味を理解する前にヴィアレの意識は遥か彼方に吹き飛んでいた。

13日前 No.199

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ヴィアレの意識はぼんやりとした、掴み所のない感覚と共に在った。


其処が何処かはわからない。ただ、真っ暗な空間であった。何もなくて、誰もいなくて、音ひとつ聞こえない。そんな、あまりにも寂しくて静かな空間。この空間を一言で表すならば、すなわち虚無であろう。虚無なんてものを覚えたことのないヴィアレがそう感じたのだから、それは恐らく本当に虚無だったに違いない。

(……我は……)

ヴィアレの意識は微睡みに近い状態にあった。ふわふわと何処かに浮かんでいるかのような、そんな不安定な感覚。自分の身体が何処にあるかもわからなかったし、自分が今何を見ているのかもわからなかった。ただ、其処がひどくがらんどうで、空っぽで、虚ろな場所だということがわかるだけだった。

(此処は……一体……)

ヴィアレは辺りを見回してみようとする。だがまず初めに“首がない”のだ。否、首だけではない。ヴィアレの身体はなかった。ヴィアレはただ意識のまま、何処かわからない空間をたゆたっていた。しかし不思議なことに不安は覚えない。むしろ何処か安心感さえあった。まるで母親の胎内に回帰したかのような━━━━そう形容したくなる程に、生暖かくて蕩けてしまいそうだったのだ。それでもヴィアレは耳を澄ませてみる。それは焦りや不安からではなく、ヴィアレが“そうしたいからした”のに近かった。

━━━━……よ、見よ。この秘められし地を。

誰かの声が聞こえる。誰かはわからない。だがヴィアレはその声を聞いたことのあるような気がしてならなかった。聞き覚えがある、というよりは本能でそう感じ取ったのだ。自分はこの声の主に会ったことがある、と。

(誰だ……?いや、誰でもない……。この声は、我の知る“誰のものでもない”……)

そうだ。その声はエルトのものでも、ナラカのものでも、旧アーカム領の人物のものでも、ティヴェラの王宮の使用人のものでもなかった。誰のものでもなかった。けれどたしかに、ヴィアレは聞いたことがあると感じたのだ。

━━━━地上は穢れに満ちている。誰もが死を恐れ、餓えに苦しみ、何かを憎む。誠、憐れだとは思わないか。

そうだな、とヴィアレは答えた……と思う。その人物に会ったことはないはずなのに、何故だかそんな風に思えてしまったのだ。たしか自分はうなずいた。そうしたら、その人物は満足そうに微笑んで、自分に手を差し伸べたはずだ。

━━━━恐らく、これから先、この世界には救世主というものが生まれることだろう。何らかの方法で人々を救い、導く、救世主が。

救世主、とヴィアレは尋ねた覚えがある。恐らくその時のヴィアレの頭に、救世主という文字はなかったと思う。初めて聞く単語に首をかしげていると、相手はまあそうであろう、とでも言いたそうな、まるでヴィアレが救世主という単語を知らないことが妥当であるかのような顔をした。

━━━━お前が首をかしげるのも無理はない。そのようなものはこれまでに現れることがなかった。神はいたが、それは救世主ではない。神はあくまでも私たちが暮らすための要素に過ぎないのだから。

ヴィアレは驚いた。神々を要素と形容した人間を、彼は見たことがなかったのだろう。恐らく神々というものは、その時のヴィアレにとっては生活に深く関わるものであったに違いない。太古の昔には人間の営みに神々が干渉することも少なくはなかった。いわゆる神代、と呼ばれる時代であろう。千年、二千年……いや、それよりもずっと昔。昔と言うには遠すぎる時代。其処では、神々という存在はあまりにも近しかった。中には神々との間に子を成した人間だっていた。それをヴィアレはよく覚えている。

━━━━恐らく救世主は現れるだろう。だが今すぐにではない。十年、五十年、あるいは百年先かもしれない。それでは遅い。遅すぎる。救世主が現れてくれなければ、今苦しんでいる人間を救うことは出来ない。

尤もな意見だ、とヴィアレは思った。きっと救世主など、すぐには現れてくれない。だがしかし救世主が現れなければ人間は救えない。いつやって来るかもわからない救世主を待ち続けても、その間に人間は苦しみ、死に続けるだけであろう。

━━━━故に、だ。私は理想郷を創ることにした。

どうやって、とヴィアレは問うた。理想郷などどのようにして創るのか、ヴィアレにはわからなかった。そもそも理想郷なるものをいまいち理解していなかったのかもしれない。それは相手も知るところだったのだろう。苦笑してから言葉を続ける。

━━━━本当に成るかはわからない。だが、やってみる他ないだろう。もしかしたら成功するかもしれないし、あるいは失敗するかもしれない。

理想郷とはそういうものだ、と相手は言った。それに対してヴィアレはそうなのか、とあやふやな返事をするしかなかった。だって理想郷を創るなんてことは、後にも先にも初めてなのだから。

━━━━手伝ってはくれないか、ヴィアレ。理想郷を創るには、お前の力が不可欠だ。このような頼み方しか出来ないのは申し訳ないが……。お前がいなければ、理想郷は出来上がらないんだ。

良いぞ、とヴィアレは答えた。何の躊躇いもなく、二つ返事で答えた……と思う。薄ぼんやりとした記憶なのでもっと詳しく調べれば他に何か答えたのかもしれないが、其処までヴィアレは覚えていなかった。

(我は……我は、理想郷を……)

まだ聞いていたい。聞いていたいのに、あるはずのない目蓋がとろとろと落ちていく。ヴィアレの抵抗も虚しく、彼の意識は再び微睡みの中へと沈んでいった。

12日前 No.200

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急に身体の感覚が戻ってくるのはお世辞にも気持ちの良いものではなくて、ヴィアレの目に木製の天井が見えた瞬間に彼を容赦のない重量感が襲った。ずしん、と自分の身体が沈み込んだかのような感覚を覚えて、ヴィアレの息が詰まる。

(此処は……?)

一瞬金縛りのような感覚に襲われはしたものの次第にヴィアレの身体は平生の感覚を取り戻していった。代わりにずきずきと頭が痛んだが、耐えられない程ではなかったので身体を起こしてみる。頭だけではなく身体の節々が痛くて仕方がなかったが、ヴィアレはそんなことを気にはしなかった。……否、それよりもずっと重要なことがあったのだ。

(我は……何をしていた……?)

何処で、何をしていたのか。これまで自分は何を見ていたのか。覚えてはいるのだ。だがそれが何なのか、意識のはっきりとしている今になって考えても、全くわからないのである。いくら考えようとしても、頭の中を巡るのは靄に隠されたかのような曖昧な感覚ばかり。それに頭痛が重なって、ヴィアレは何とも言えない倦怠感を覚えた。

(とにかく……此処が何処なのか、確かめなくては……)

よいしょ、と立ち上がってみると少し立ちくらみがしたが然程問題はなかった。自分の現在立っている空間は小ぢんまりとした部屋のようである。何処かで見た覚えがある部屋だが、痛む頭が思い出すことを邪魔してくる。とにもかくにも誰かに起きたということを伝えねば、とヴィアレは扉を開けて外に出てみる。……とほぼ同時に、近くの部屋から人の声が聞こえてきた。

「……何故このようなことをしたんですか」

その声には聞き覚えがあった。ナラカである。ということは此処は薬師の住まいか、とヴィアレは推測した。よくよく考えてみればこのような造りだったかもしれない。そう考えながら、ヴィアレはナラカの声が聞こえてきた部屋の方へと忍び足で近付いた。どうやらヴィアレが寝かされていた部屋の斜向かいの部屋にナラカはいるらしい。そっと扉に身体を近付けて、耳を澄ませてみる。

「……だって、あの子が嘘を吐くから」
「違います。私はあくまでも“何故あなたが私のことを秘密裏に詮索しようとしたのか”と聞いているんです。行間くらい読みなさい」

ナラカが話している相手はスメルトのようであった。スメルトの声はしょんぼりと沈み、まるで叱られている子供のそれに聞こえる。対するナラカの声はひどく冷えきっていて、それが余計に彼女の怒りを表現しているようにも感じられた。

「私の過去など私に聞けば良いでしょう。何故ヴィアレさんを巻き込もうとしたんです」
「だ、だって……ナラカに聞いたら、失礼かと思って……」
「それで暴力沙汰を起こしたのならそれこそ本末転倒ではありませんか!」

びりびり、と空気が振動したかのようなナラカの怒気に、扉を隔てたヴィアレも思わず跳ね上がった。こんなに怒っているナラカの声など初めて聞いた。間近で聞いているスメルトの驚きは如何程のものであろうか。

「ご……ごめんなさい……」

案の定、扉の向こうから聞こえてくるスメルトの声は非常に弱々しいものであった。今にも泣き出してしまいそうな、幼子のような頼りなさげな声。あの男でもあんな声が出せるのかと、ヴィアレは他人事のように驚いた。……矢先、ヴィアレの身体は前方から突き飛ばされるような感覚を覚えた。

「……盗み聞きとは、無粋ではありませんか」

其処には全身から怒気を迸らせたナラカが佇んでいる。その姿にはヴィアレも恐怖を覚えずにいられなかった。自分よりも小柄なナラカの身体が、今日は一段と大きく見える。

「す、すまぬ、ナラカ……」
「目が覚めたのならそれで構いません。受け答えは出来ますか」
「あ……う、うむ……」

尻餅をついたまま、ヴィアレはこくこくと首を縦に振る。ナラカは目を吊り上げながら、ヴィアレに視線を合わせるためにか片膝を立ててしゃがみこんだ。彼女の黒曜石のような黒い瞳が紅いヴィアレの姿を映す。

「ヴィアレさん。あなたはスメルトさんに、何をしたんですか」
「……え……?」
「スメルトさんはあなたの頭を握り潰そうとした。しかしスメルトさんによれば、あなたの頭を潰す前に、身体中に激痛が走って気を失ってしまったとのことです。実際にスメルトさんはあなたといっしょに気絶して倒れていました」

ナラカの口調は淡々としたもののように聞こえたが、その奥には何かを圧し殺しているかのような雰囲気を秘めていた。ヴィアレは何とかして答えようとしたが、自分が何かをしたという自覚が皆無なので何と言えば良いのかがまずわからない。あたふたと迷うヴィアレを、ナラカは冷ややかな瞳で見つめていた。何も言わないのがかえってヴィアレを焦らせる。何と答えるのが最善なのだろうと、焦燥の念を引き起こさせる。

「まあまあナラカ。そう責め立ててやるなよ」

そんな中、助け船を出したのは客間の方からやって来たアロイスだった。彼はとん、とヴィアレの肩に手を置くと、にかっと屈託のない笑みを浮かべて見せる。

「こんなところで立ち話も何だからよ。歩けるならあっちで話そうぜ。ナラカも、な?」
「う……うむ」
「……わかりました」

アロイスに促された二人に異論はなかったようである。ヴィアレは戸惑いながら、ナラカは相変わらずの仏頂面でアロイスの背中を追いかけた。

11日前 No.201

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アロイスの取り成しで何とか窮地は脱した……と思われたが、だからといってナラカの機嫌が直るわけでもなく、客間は何とも言えない雰囲気に包まれていた。居心地が悪いのはヴィアレだけでなくスメルトも同じなようで、むすっとしたナラカをはらはらとした面持ちでちらちらと見ている。アリックに至っては虚無感すらある表情で座っていた。恐らくヴィアレたちが気を失っている間にも一悶着あったのだろう。

「……ごほん。えー、話しても良い流れなのか、これは……」

そんな風に咳払いをしたのは黒髪の少女━━━━紫蘭であった。彼女も事の一部始終を把握しているのだろう。きょろきょろと頻りに周りを見回している。言い出しっぺを任されているのだろうか。だとしたら不憫でならない。アリックから「早く話せ」とヴィアレにも聞こえるくらいの声で急かされている。

「と、とりあえず……。その、災難であったな。スメルトについては其処の者が叱っておいたらしいから大目に見てやれ」
「ナラカが……?」

ナラカが叱ったくらいでスメルトが大人しくなるのだろうか、そんな風に思っていた時期がヴィアレにもあった。少なくとも今この時まではそう思っていた。しかしスメルトの頬についた赤い手形を見て、彼がこっぴどく叱られたことをヴィアレは理解した。アリックやアロイスの疲れきった表情からして、恐らくあれでもましな方だったのだろう。

「して、だな。ヴィアレ、とか言ったか?貴様はこのシャルヴァの出なのか?」
「え……違うぞ。我は地上で生まれた」

唐突な紫蘭からの質問に、ヴィアレは首を横に振る。ヴィアレは正真正銘地上の生まれ……であると思っている。だって彼の記憶は地上にいた時のものから始まっているのだから。シャルヴァに来たのは後にも先にもこれが初めてで、だからこそエルトたちに様々なことを教えてもらったのだ。
ヴィアレの答えに反応したのは紫蘭ではなく、まるで借りてきた猫のように大人しくしていたスメルトだった。ゆらり、と長い前髪に覆われた目がヴィアレの姿を捉える。

「……じゃあ、どうやって僕にあんなことをしたのかな?あれはどう見ても五大だったけど」
「そのようなことを言われてもだな……!我は五大の力など使うことは出来ぬ!」
「が……外部の人間の仕業ではないのか?」

おずおずと口を挟んできたのはルタである。彼の言葉に紫蘭は首を横に振って否定の意を示した。

「私の隠密技術で調べてみたが、彼処には人がやって来た痕跡はなかった。出来るとするなら遠距離から攻撃された線が有力だが……」
「そのようなことが出来るのか?」
「かなりの強者であればな。だがこの王宮でそういった手練れとくれば、大体目星がつくものだ。詰まるところこの国の要人に限られる」
「しかし……我にはそのような知り合いは居らぬぞ」

要するに、ヴィアレが自分でスメルトを攻撃しなければあの事件は起こらなかったと紫蘭は言いたいのだろう。たしかにその話の筋は通っている。しかしヴィアレは納得出来ない。あの時は必死にもがいていただけで、ヴィアレはこれといったことはしていないはずなのだ。スメルトを攻撃しようなんて意思など何処にもなかった。

「其処で、だ。私は貴様が何らかの要因により“五大に通ずる力”を有したものかと考えた」

話を仕切り直すかのように声の大きさをやや高めながら、紫蘭はとことことヴィアレのもとまで歩いてきた。そしてじっと彼の瞳を見つめてくる。

「な……なんだ?」
「シャルヴァではな、稀にこれまで持っていなかった能力を後天的に得る人間が生まれることもあるのだ。其処の王子が良い例だな」
「え……ルタが……?」

思わぬ例の提示に、ヴィアレは純粋な驚愕を覚えた。いきなり呼ばれたルタは恥ずかしそうにもじもじとしている。

「其処の王子はな、離宮入りしてから鳥瞰の目を持つようになった。鳥瞰、と言うにはやや語弊があるがな。要するに何処にいようとこの王宮のことを“視る”ことが出来るらしい。本人いわく意識を飛ばしているような感覚だから幽体離脱のようなもののようだが」
「そ、そうなのか?ルタ」

ヴィアレに問いかけられたルタは、こくりと控えめにうなずいた。鳥瞰の目。何処にいようとこの王宮を見通す目。そのようなものが、本当に存在するというのだろうか。ルタのことを疑うつもりはないが、どうしてもはいそうですかと簡単にうなずくことは出来なかった。

「信じがたいという気持ちもわかるがな。だがこの王子は鳥瞰の目によって王宮を見渡し、その時に貴様を……」
「ばっ、この馬鹿!!」

得意気に何か言いかけたらしい紫蘭だったが、どうしたのかアリックが無理矢理にその横っ面を張り飛ばして彼女の言を妨害した。ばちぃんという音と共に横に倒れかけた紫蘭は、何とか机の縁に掴まることで転倒を避けた。

「なっ、何をする馬鹿者!大姐にもこんなに強くぶたれたことないのに!」
「馬鹿はそっちだ!本人の前で言う奴があるかこの……この……馬鹿!」
「貴様馬鹿しか言えんのか!」
「お前ら落ち着け!」

犬猿の仲とはまさにこういった関係のことを言うのだろう。きゃんきゃんと揉め始めるアリックと紫蘭を何とか引き剥がすようにしてアロイスが間に入る。何と言うか、ヴィアレとしてはアロイスが気の毒でならない。アリックはあれほど他人を煽るような性格だっただろうか、と首をかしげたくなったが、今はアリックの豹変ぶりを主題にしている訳ではない。

「ま、まあ……とにもかくにも、貴様は何らかの能力を手に入れた可能性が高い。何かあってからでは遅いからな。早いところ何らかの形で検査をした方が良い」
「……うむ」
「予定が空いたらこの宮廷薬師の住まいまで来るが良い。羅刹、貴様なら簡単な検査程度出来るだろう?」
「出来ないことはないが……。いざというときはさすがに医務官のところに行けよ?」

能力を担当するのも医務官なのか、という疑問は残ったが、紫蘭としてはそういった認識になっているらしい。なんとなく腑に落ちないヴィアレではあったが、これ以上話したところでナラカの機嫌が直る訳でもないということは理解していた。何故彼女が此処まで怒りを露にしているのか、ヴィアレには未だにわからない。だが此処を出ていくなら今が絶好の機会だということは目に見えていた。寂しそうなルタの頭を撫でてから、ヴィアレは薬師の住まいを出た。━━━━そして、ぎょっと目を見開く。

「終わったか、ヴィアレ」
「さ……サヴィヤ……」

玄関を出てすぐ傍、ちょうど扉から死角になる場所で、サヴィヤがしゃがみこんで待っていたのだ。驚くヴィアレに、サヴィヤは変わらぬ表情のまま「しー」と唇に立てた指を寄せた。

10日前 No.202

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

サヴィヤはわざわざヴィアレのことを待ってくれていたらしい。てっきり薬師の住まいに入るものかと思われていた彼はとことことヴィアレの後を着いてきた。長身の彼に着いてこられるというのも何だか不思議な気分である。

「……しかし、外にいることはなかったのではないか?」
「閉め出しを食らっていたのでな。入ろうにも入れなかった」

戸惑いながら問いかけたヴィアレに、サヴィヤは躊躇う様子もなくしれっと答えた。ついでにあまり人に聞かせるべきではなさそうな情報まで添えてきた。閉め出された人間は此処まで平然としているものではないと思うのだが、サヴィヤの表情は変わらないままである。精神力が並外れているのか、はたまた何も考えていないだけなのか。どちらにせよ色々な意味でサヴィヤは強者と言える存在だった。

「どうやらナラカは俺に居合わせて欲しくはなかったらしい。だとしたら申し訳ないことをした」

サヴィヤの話から、彼を閉め出したのはナラカだということが明らかとなった。少ししゅんとした雰囲気を纏うサヴィヤを、ヴィアレは何とか励ましたく思った。きっとナラカはサヴィヤのことを煩わしくなど思わない。むしろナラカはサヴィヤを慕っているようにも見える。だからサヴィヤを閉め出したのは、単に彼を嫌っているからという訳ではないはずだ。

「恐らく……ナラカはそなたに格好悪いところを見せたくはなかったのやもしれぬぞ」
「格好悪い、ところ……?」
「ほ、ほら。物凄く、怒っていたではないか」

ヴィアレの言葉を聞いたサヴィヤはふむ、と顎に手を遣る。そしてその整った造形の顔をヴィアレに向けた。鮮やかな青い瞳がヴィアレの姿を捉える。

「怒りは格好悪いことではないと俺は思うが」
「そ……そなたがそう思うておってもだな、ナラカにとってはどうかわからぬではないか」
「……しかし、喜怒哀楽は人間に必要不可欠なものだろう?無理に抑えればそれこそ人間は駄目になる。俺はむしろ感情を表に出す人間の方が好きだ」

ほとんど無表情でいることの多いサヴィヤにこのようなことを言われると、ヴィアレとしても複雑な気分になってしまう。思わず自分の口角を上げようと頬をむにむにと弄ってしまった。それを見たサヴィヤは僅かに目尻を和らげる。

「ヴィアレ。お前はナラカが何故怒っていたのかわかるか」
「……ナラカが……?」
「嗚呼。ナラカは普段彼処まで怒るような人間ではない。それはお前もわかっているだろう?」

まるで見たこともない親のような目付きをするサヴィヤに、不思議な感覚を抱きつつヴィアレはこくりとうなずいた。たしかに、ナラカは普段あのように怒りを露にすることはない。死にたくないという気持ちに突き動かされる彼女を見たことはあるが、誰かを叱っているナラカを見ることは旧アーカム領ではなかった。だからヴィアレも驚いたのだ。何故この少女は此処まで怒っているのだろう、と。

「サヴィヤは……わかっているのか?」
「あくまでも憶測だ。故にナラカの本心はわからん」

ゆるりと答えるサヴィヤに、ヴィアレはごくりと生唾を飲み込んだ。彼は憶測だけでナラカの心を解せるというのだろうか。憶測だって構わない。ナラカの心がわかるというのなら、是非聞かせてほしいところだ。そんな気持ちも込めてヴィアレはサヴィヤを見つめる。歩んでいた二人の足は止まった。誰もいない回廊に、ヴィアレとサヴィヤの息遣いだけが響く。

「……俺はな、ヴィアレ。ナラカはお前だけに怒っている訳ではないと思うのだ」
「……それは、何故だ?」
「ナラカはただ、恐れているだけ……だと思う」
「恐れている……?」

サヴィヤの言葉に、ヴィアレはおうむ返しになるしかなれなかった。ナラカが何かを恐れている。だからヴィアレに怒りを向けた。そう言われても、ヴィアレにはわからなかった。サヴィヤの言葉をすぐに噛み砕くことが出来なかったのだ。そんなヴィアレを諭すかのように、サヴィヤは抑揚の少ない声音で続ける。

「ヴィアレ。お前は地上の出身だと言ったな」
「……うむ。我は、地上の生まれだ」
「ナラカもそう考えていたのだろう。だが今回の一件で、お前が何らかの能力を手に入れたのかもしれないという話が持ち上がった。それは五大に通ずるもの……つまり、シャルヴァに関係する人物だという説が浮上したのだ」

サヴィヤの言うことに、ヴィアレはただ静かに聞いているしか出来ないでいた。サヴィヤはヴィアレの様子を確認しつつ、ゆるゆると言葉を紡ぐ。

「故にナラカは恐れたのだろう。自分の知る人物が、そうではないのかもしれないのだから。その焦燥を、ナラカは上手く処理しきれなかった。やり場のない怒りが沸き起こった。……それは一体、何処に向けられるだろうか」
「あ……我、か……?」

問いかけるような口振りのサヴィヤに、ヴィアレはおずおずと自分を指差してみせる。サヴィヤはそれを見てうむ、とうなずいた。どうやらヴィアレの解釈は間違ってはいなかったようである。

「きっとナラカはお前を同じ地上の人間として何処か安心感を抱いていたのだろう。故にお前に怒るしか出来なかった。お前を突き放すことなど、出来なかったのだ。ナラカは優しい娘だからな、お前から何らかの否定の言葉が欲しかったのかもしれない」
「……我は、どうすれば良かったのだろうか」
「どうすることもあるまい。これは誰かが悪いということではないだろう。お前はお前が成したいことを成せば良い。いずれナラカも己が感情を理解するはずだ」

慈しむような、柔らかで優しくて、春風のように温かい微笑みであった。少なくともヴィアレはサヴィヤの微笑みをそのように受け取った。どうしてこの青年は、こんなにも優しく笑むことが出来るのだろうか。疑問には思ったが、今聞くことではないだろうとヴィアレは判断した。故に、仕事場に戻ろうとする自分に手を振るサヴィヤに手を振り返すしかしなかったのである。

9日前 No.203

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【幕間:夢幻の呵責は翳を呼ぶ】


それが夢だという自覚はあった。


嗚呼、まただ。また、この夢だ。同じような夢を二度も見るなど気味が悪い。この後どうなるかなど、自分はとっくの昔に理解しているというのに、それでも夢は再確認させるかのように同じものを見せてくる。止めようとしても止まらない涙を拭いつつ、早く目が覚めることを願いながら立ち尽くす。そうすることしか、自分には出来ないのだから。

━━━━否。

変な諦念を抱いていた矢先のことであった。何処からともなく、明らかな否定の言葉が聞こえてくる。違う、と思った。前に見た夢にこのような場面はなかったはずだ。誰が、誰が自分を否定しているのか。焦りが生まれた。苛立ちが生まれた。この自分を否定する人物に、そのようなことはないと一喝してやりたくなった。だって自分は間違ったことなど何一つ言ってはいない。間違ったことなど何一つしていない。たとえそれが今は悪と見なされるような所業であっても、最終的に勝利を収めてしまえば誰も何も言わなくなる。勝てば官軍、というものである。だから、否定する人物がいるとすればその人物が間違っているに違いないのだ。

━━━━否、否、否。

それでも否定の言葉は降りかかってくる。まるで自分を呪うかのように、容赦なくそれは浴びせられた。なんてわからず屋なのか。次第に怒りも生まれてきた。このようなわからず屋は、きっと早死にするだろう。そんな怒りと共に振り返った。━━━━そして、戦慄した。


━━━━お前は、何もわかっていない。


其処にいたのはたしかに人であった。だがしかし顔というものが墨で塗りつぶされたかのように真っ黒で、身体を輪郭としてその中は霧のようにもやもやとしていた。人、と言うよりも人型の何か、と形容した方が良いだろう。それはずいと顔……らしき部分を近づけて、あらゆる感情がない交ぜになったかのような、押し殺すような声音でそう言った。

━━━━お前の本来の望みは何だ?民の虐殺か?この王宮の壁を血で塗りたくることか?それとも肉親殺しか?

人型は問う。違う、と否定したかった。だが夢の中というものは声を発せられないようで、口をどれだけ動かしても其処から言葉を紡ぐことは出来なかった。ぱくぱくと金魚のように口を動かしている姿を見ても、人型は何の反応も示さなかった。ただ、様々な感情をぶつけるかのように責め立てるだけだ。

━━━━どれも違うだろう。どれもこれも、お前が本心から望むものではないだろう。だのに何故目的にこのような愚行を付随する?このようなことをすれば、民の心はお前から離れるだけだ。
「う━━━━うるさいっ!!」

この時、初めて声が出た。それと同時に周りの風景は一変する。━━━━詰まるところ、目が覚めたのだ。

「……はぁ、はぁ、はぁっ……」

気持ち悪い。嫌なものを見た。あのような人ともつかない不気味な生き物から責め立てられるなどもうこりごりだ。頭が痛くて仕方ない。それはただ悪夢を見たからというだけではなかった。自分の目的を━━━━“そうせねばならないと思い続けてきた生きる目的”を全否定されたことは、少なくとも精神的に快いものとは言えなかった。

8日前 No.204

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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7日前 No.205

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

エルトもノルドも戸惑いはしたが、一応テララは自分たちにとって脅威となる人物ではないためとりあえず椅子を出してやった。エルトはテララのことを警戒しているが、ノルドにとっては恩人とも言える存在だ。突然現れたことには面食らったようだが、エルトのようにぴりぴりとした空気は纏っていなかった。

「……して、話とは?」

飲むかどうかわからなかったがとりあえずテララに茶を淹れつつ、エルトはちらりと横目でテララを見る。未だに性別のわからない常磐色の麗人はくすりと小さく微笑んだ。

「大したことではないんだけどね。君の目についてさ」
「エルトの目……?」

穏やかなテララの言葉にノルドは首をかしげ、エルトはより一層顔を険しくした。エルトの目となると、十中八九千里眼のことであろう。あまり深追いして欲しくはないし、万が一この情報をティヴェラに流されでもしたら堪ったものではない。

「君のそれはいわゆる千里眼、なんだろう?ごめんね、さっきの話を盗み聞きするつもりはなかったんだけどね」
「……いえ、構いませんよ。それよりも、私の千里眼に何か問題でも?」
「問題はないよ。僕としては、君が“いつその千里眼を手に入れたのか”気になるんだ。そういった目は、簡単に手に入れられるものではないからね」

テララの質問の内容は、エルトでもなんとなく予想の出来るものであった。しかしいざ面と向かって問いかけられると一瞬は口ごもってしまうもので、エルトはごくりと唾を飲み込んだ。テララの穏やかな微笑みを前にすると、不思議と緊張してしまう。あの微笑みの裏に何が潜んでいるのか、エルトには全くわからない。

「……それを聞いて、あなたはどうするおつもりですか」
「どうもしないよ?ただ僕たち“森の民”にとって脅威にならないか見定めるだけさ。近々君たちはティヴェラ王国に対して戦でもけしかけそうな勢いだからね」
「……っ!」
「エルト!」

いとも簡単にエルトの目的を見破ったテララ。エルトの中の警戒心は振り切れて、ほとんど一瞬の出来事ではあったが、エルトからはテララに対する殺気が迸った。ノルドが咄嗟に抑えようとしたが、テララはそれに気づかない程鈍感ではない。ふ、と口元を緩めて、「ごめんね」と軽く謝罪した。

「君を驚かせるつもりはないんだ。ただ、僕にとっても君の目は珍しいものだからね。滅多にこんな機会はないから、是非聞いてみようと思っただけなんだよ」
「……私の目を使って、どうしたいのですか?」
「どう……って?どうもこうもないよ。その目は君のものだ。僕にどうこうする権利はないよ」

テララの表情は変わらない。それがエルトにとってはより不気味でならなかった。テララの目的とは一体何だというのか。それがわからないことが尚腹立たしくもあった。

「……何処にも露見しないと、約していただけますか?」
「へぇ、君、用心深いんだね。大丈夫、僕は誰にも言わないよ。そう約束しよう」

再三念を押すエルトにテララは苦笑する。それは言うことをなかなか聞こうとしない駄々っ子を諌めるかのような印象を含んでおり、エルトはそれをあまり良い意味では受け取ることが出来なかった。テララを警戒している身としては当たり前のことかもしれないが。

「……わかりました。話しましょう。━━━━私のこの目は、10年前……私がシャルヴァを出た時に手に入れたものです」

根負けするような形になったのは気に食わないが、相手は人間ですらないシャルヴァの精霊である。エルトは己が目について、テララに話し始めた。

「テララ殿も、五大が何たるものかを理解していらっしゃるはずです。火、水、地、風、空。この五つが五大を構成しています。しかし、一般的に使われるのは空を除く四つ。空に至る者はそうそう現れることがないとされています」
「空……つまり、虚空━━━━悟りの境地を表す要素だね。それがどうかしたのかな?」
「……私はその空の五大を手に入れた。そう言ったら、あなたはお伽噺と笑いますか?」

エルトからの問いかけに、テララは微笑みをたたえたまま首を横に振った。それを見てひとつ息を吐いてから、エルトは再び口を開く。

「恐らく……シャルヴァの人間にとって、外界とはすなわち別世界のようなものなのでしょう。一切の穢れを持たぬシャルヴァの民が外界へと出たことで、私はこの目……千里眼を手に入れたのだと思います。今までに見えぬものが見えるようになり、数歩先の未来を見通すことが可能になった」
「それは……明日の出来事も、わかるということかい?」
「……其処までは、さすがに。私が見るのはあくまでも数分……長くとも数十分程度先のものですよ」
「でも凄いじゃないか。未来が見えるなんて人はそうそういないよ。……もしかして、僕がこれから何をするかも、君にはわかっているのかな?」

テララのその言葉に、ぴりっ、とその場に鋭い空気が流れた。テララがこれから何をするか。それは見守っているノルドにはわからないことだ。それが、当たり前なのだ。だが当事者であるテララと、千里眼を持つエルトであれば、それがわかるのかもしれない。故に軽々しく口出し出来ないノルドは、ごくりと唾を飲み込んで成り行きを見守るしか出来ないのであった。

「……わからない。あなたが、これからどのような行動を取るのか、私にはさっぱり……」

どれくらいの時間、テララを見つめていただろうか。エルトはしばらくしてからテララから目を背けてそう告げた。テララは微笑んだまま、「うん、そっか」と口にする。

「そうだよね、それが普通なんだ。いくら千里眼でも、行動を読みきれない相手というものは必ずしも存在する。僕みたいな精霊とか、君以上の“気”を持つ相手とか、後はそうだな……“善悪関係なしに意志が強すぎる相手”……とかね」
「意志……?」
「そう。どのような形であれ、こうしたいと思う意志は五大を軽々超越する。……君は、五大を越えるだけの意志を持ち合わせているかな?」

見定めるかのようなテララの視線を、エルトは真っ正面から見つめた。此処で目を逸らせばすなわち押されているも同然である。どのような形であれテララに“エルトは退いた”と思わせてはならない。故にエルトはテララを睨んだ。これでもかとばかりに睨み付けた。テララが屈するまで自分も屈しはしない。そんな覚悟がエルトの目の内には存在していた。

「……君の決意は揺るがないようだね。僕が口出しすることではないけれど……君はやっぱり、“あの男”に似ているよ」
「“あの男”……?」

観念するかのように嘆息したテララの唇から紡ぎ出された単語。それにエルトはいち早く反応した。テララもそれを予期していたのであろうか、しめたとばかりに笑みを深める。

「聞きたいかい?君に似た男の話を」
「……ええ、是非とも。シャルヴァに戻った者として━━━━精霊たるあなたのお話には興味があります」

エルトがうなずいたことを確認してから、テララは椅子から立ち上がった。そして締め切られていた窓を開き、シャルヴァの天井に描かれた曼荼羅を見上げる。その常磐色の瞳に宿るのはシャルヴァの人間に対する慈愛か、それとも己が記憶への憧憬か。


「ならば話そう。君に似た男━━━━このシャルヴァを拓いた、アーカム王国の祖のことをね」


6日前 No.206

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

かつてテララにこれといった姿というものはなく、ただヒマラヤの森に座す一精霊でしかなかったという。精霊とは本来人のような形すら持たない。ただ其処に“在り”、特定の土地を護るだけの存在に過ぎなかった。人間がどのような姿形を想像したとしても、それらは所詮偶像であり、精霊たちが“本当の姿”を持つことはまずないのだとテララは手始めに語った。

「だから僕らは人間に干渉することは出来るけれど、姿を現すことは出来ないに等しいんだ。だって僕たちはあくまでも人間の想像する姿しか持っていない訳だからね。それが統一でもされていなければ、僕の姿はぐちゃぐちゃなままだ」

前置き、ということなのだろう。しかしエルトやノルドは現在テララの姿を見ることが出来ている。そうなるとテララの話はなんだか今の状況と噛み合わない。そういった二人の疑問を読み取ったのだろうか、テララは誰かが問いかける前に二の句を継いだ。

「まあ、それも数千年前とかの話さ。シャルヴァが出来たのは人間が数えられない程昔のことだからね。今はこうして、“シャルヴァでなら”精霊の姿を見ることが出来る」
「外界では見ることが出来ないのか?」
「うん。何たって、外界における五大は年々減少しているみたいだからね。僕は外界に出ることが出来ないからどうとも言えないけれど、それでも色々な人からそう聞いているよ」

外界の文明が進化するのと共に、地上における五大の力は減少していく。そのため、人間が栄えようとすれば栄えようとする程五大の力は弱まり、人間と精霊━━━━そして神々の繋がりは薄れていく。神代と呼ばれた時代は文明がそれほど発展していなかった。それゆえに人は神々と交わることが出来た。今では言葉を交わすことすら出来ず、人々は偶像に祈るだけ。いや、最早神々などいないと謳われているかもしれない。

「文明の発展は人間に利益をもたらす。だから人間は文明を発展させようとする。でもそうすれば、自然と揉め事が起きる。当たり前のことなんだけどね、それは神代にあってはならないことなんだ。神代は神々が全てを決めた。僕たち精霊が人々を導いた。だからたとえ揉め事が起こったとしても、最終的には神々が何とかしたんだよ。世界が滅びるくらいの大戦が起こっても、神々が世界をぎりぎりのところで繋ぎ止めていたから、地上の世界は滅亡を回避してきた」

いわば神々は世界の滅亡を防ぐ抑止装置のようなものだった。それを神代の人々はよく理解していたのだろう。神々に護られる人間は彼らを信仰し、崇めることで神々と自分たちを繋げていた。神々は本来天上界に在るものであり、本来であれば人間と関わること自体が特異な事例なのだ。しかし神代の人間は文明を持たなかったが故に、神々を頼るしかなかった。神々もそれを受容した。人間と神々は互いに意識し合うことで生活を樹立させていた。

「けれど結局戦は起こるものだ。さっきも言ったけれど、神代にはとんでもない規模の大戦が何回も起こった。神々や僕たち精霊は戦ごときで死ぬことはない。だから何処に荷担するか、誰を援護するかは自由だった。……でもね、人間は違う。人間は簡単に死んでしまう。どの戦でも、数え切れないくらいの人間が死んだ。勝った方も、負けた方もね」

神代の戦というものはまさに人智を超えた天変地異にも近いものであり、時に人間は滅亡の危機に瀕したこともあった。だから戦の勝者はもうこのような戦が起こらぬようにと、死に瀕することのないようにと、人間の人間による人間のための国を創ろうとした。━━━━すなわち文明が生まれたのだ。

「世界にはたくさんの文明が生まれ始めた。初めの頃こそ、人間は神々を頼っていたよ。けれどある時……それこそ全世界が滅びてしまうのではないかと誰もが危惧するような、そんな大戦なんて言葉では済まされない惨禍が人々を襲った」
「……原初の大戦、ですか」

エルトの言葉に、テララはうなずきで肯定の意を示した。原初の大戦。それは全ての始まりにして終焉を物語る大戦である。詳しいことはエルトも知らないが、いわくそれは当初内戦のようなものだったという。内戦といっても、きっかけはとある王家の内輪揉めだとも言うし、人間の国に神々が干渉したことによる家督争いだとも言われている。真実は歴史の闇に葬り去られたままだが、はっきりと言えることがひとつある。

(……神々が大々的に戦に介入しただけではなく、同じ血族の者同士で殺し合った)

口に出すのは簡単である。だが想像すれば誰もがぞっと背筋を凍らせることであろう。それだけの犠牲を、原初の大戦は生んだのだ。天は裂け地は荒廃し人は死んだ。まさにこの世の地獄とも言わんばかりの有り様であった。それゆえに勝者は二度と戦が起こらないような、強固で堅牢な大国を創ろうと決断したのだ。神々の力を借りずとも人間が生きていけるような、今までにない国を創ろうと。

「それに賛同する者はたくさんいたよ。戦に巻き込まれたいなんて考える民はいなかったからね。勝者を真似て国を興そうとする者もいたし自分の持つ技術を生業に変える者だっていた。詰まるところ、“人の時代”が到来したんだよ」

神々は忘れ去られこそしなかったものの、それからは人間には到底手の届かないものとして扱われ始めた。精霊などの存在を忘れる者も現れた。少しずつ、少しずつ人間は神々から離れ始めたのだ。その代わりに世界には真っ当な国がいくつも興った。文明も形を成し始め、人間は繁栄の一途を辿った。

「……けれど、戦の根本的な撲滅には繋がらなかった。たとえ文明が興っても、ひとつの国が全てを支配しない限り争いはなくならない。かつての勝者は老いてそれを実感した。この世に、戦のなくなる時など来ないのだとね」

かつての勝者は悲嘆した。まだ戦はなくならないと。最早この地上において、人間が本来の意味で救いを得られることは皆無にも等しいと。地上は争乱と私利私欲にまみれ、かつて願った平和とは遠い状況に陥っている。勝者はやるせなさに涙を流した。それを、テララはただの森の精霊として見守っていることしか出来なかった。

「……此処からが本題だ、エルト。その勝者は“多少神の血を引くだけ”の、とある国の王族に過ぎなかった。彼は人々を救いたいと願ったけれど……この世は穢れに満ちているも同然だった。さて、問題だ。勝者はどのようにして、人々を救おうと考えたのかな?」

つ、とエルトの鼻先に人差し指を向けながらテララはそう問いかけた。まるでエルトを試すかのような、挑戦的な表情。エルトは一瞬口をつぐんでから、再びテララに向き直った。

「……人間の手が到来及ばなそうな場所に、理想郷━━━━つまり、シャルヴァを創ったのですね?」

シャルヴァを創った者━━━━要するにアーカム王国の祖のことを、現在テララは語っている。自分の祖先が千里眼を持っていたという話は正直に言って初耳だが、恐らくそれはこれからテララが話すに違いない。案の定、テララはエルトの答えを聞いて艶然と微笑んだ。

「大正解だよ、エルト。アーカムの祖は人の手の及ばない地底に理想郷を創ろうとした」
「しかし……何故我が祖は地底を選んだのでしょうか」
「それはこれから話すことだよ。これには深い事情があるし……君の持つ千里眼にも、深く関わってくることだからね」

意味深長に口角を上げて、テララはその常磐色の瞳を細める。これからこの精霊が何を語るのか、エルトには予想することが出来ない。故に唾を飲み込んで、テララの次の言葉を待つ他エルトに出来ることはなかった。

5日前 No.207

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4日前 No.208

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3日前 No.209

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【第35幕:彼女が厭うは失いし記憶】


━━━━ついにその日はやって来た。

だからといって、決して誰も彼もが沈んだ面持ちでいた訳ではない。王宮に仕える召し使いにとっては、そのようなことは所詮他人事に過ぎないのだ。嗚呼、そんなこともあったっけと、過ぎ去りし過去を少しだけ思い出しては、また仕事に戻っていく。そういうものなのだ。たかだか“罪人のために”心を痛める者など、この王宮には数える程しかいないだろう。

「……ナラカ。そんな顔をするもんじゃねぇよ」

朝からずっと沈んだ様子のナラカを憐れむように声をかけるのはアロイスである。きっと彼もわかっているのだろう。悲しんだところで、落ち込んだところで、何も得るものなどないということを。

「……でも、ティルアさんは……ルタさんにとって、姉のような存在じゃないですか。それなのに……面会も出来ないなんて、あんまりではありませんか」
「そりゃあ仕方ないだろうよ。お上からの許可が下りないんじゃ、たいていのことは出来ないってもんだ。それにお前が落ち込むことじゃあねぇだろ」

な、とアロイスから諭すように言われても、ナラカの心は晴れないままである。そんなナラカが心配なのか、アロイスの後ろに隠れるようにしておろおろとスメルトが視線を送っている。この羅刹はついこの間ナラカからこっぴどく叱られたこともあってか、これまでとは打って変わって大人しくなっていた。あれほど自由だったというのに、今ではナラカを見ると借りてきた猫のように縮こまってしまう。……とは言え、大人しくなったといってもアロイスたちに対しては多少態度が軟化した程度である。以前のようにすぐ殺意を向けることはなくなったが、それでも彼の人間嫌いと奔放な性分は揺らがないようで、未だに離宮には戻ろうとしない。少し怖じ気づいたとは言えナラカの傍を離れるつもりはないらしい。

「……ルタ殿は、大丈夫でしょうか」

一方、王宮に出さなければならない簡単な書類を書き終わったアリックは、ルタがいるであろう部屋の方を眺めて眉尻を下げた。今回はさすがに例の真っ黒焦げ焦げ焼き菓子は作っていないようだ。

「……まあ、あいつなりに堪える部分があるんだろ。落ち着くまでそっとしておいてやるのが最善なんじゃねぇか」
「しかし……このまま面会も出来ないのは、あまりにも不憫でなりません。どうにかして面会が出来るような状況にはならないのでしょうか」
「いや、俺だって面会も出来ないのはどうかと思うけどよ……。言っちゃあ何だが、あの方は今や大罪人だぜ?そう簡単に顔を合わせるなんて出来ないだろうよ……」

だから仕方ないんだ。……そう言いかけたアロイスだったが、すぐにはっと目線を扉の方へと移動させる。閉められていたはずの扉は開け放たれていた。曼荼羅の逆光を浴びて、誰かが玄関先に立っている。

「……どちらさんで?」

やや警戒した面持ちでアロイスは問いかける。玄関先に佇む人物は、かつ、かつ、と靴音を鳴らしながら薬師の住まいへと足を踏み入れる。その姿を見て、ナラカはひゅっと息を飲んだ。

「さ……宰相様……!?」
「……久しいな」

驚愕を隠せないナラカを一瞥したのは、黒衣を纏ったティヴェラの宰相であるアドルファスだった。その鋭い視線にはこの場にいる誰もが一度は心臓を締め付けられるような感覚に陥ったであろう。ほぼ固まるような形になっている一同には目もくれず、アドルファスは一直線にナラカのもとまで歩みを進めていく。そしてその冷厳な表情のまま、じっとナラカの顔を見下ろした。

「……ナラカ、とか言ったな」
「は、はい……」

意外なことにアドルファスはナラカの名前を覚えていた。遠巻きに会ったのも含めれば三回目、面と向かって会ったのは二回目になる。それほど印象的な対面をした覚えはナラカにはなかったが、アドルファスにとってはそうでもなかったのだろうか。黒衣の宰相はナラカの瞳を真っ直ぐ見据えながら口を開く。

「今日の夕頃に処刑予定の罪人━━━━ティルアに関することなのだがな。罪人本人が君と……義弟殿との面会を望んでいる」
「わ……私と、ルタさんと……ですか?」
「そうだ。本来ならば許可は下りないだろうが、宮廷薬師殿には恩があるからな。特別に私の方から面会の許可を出すことにした。ただし私同伴での面会にはなるがな」

アドルファスの口から飛び出たのは願ってもないものであった。一瞬ナラカが自分の耳を疑ってしまう程度である。まさか面会が叶うとは思ってもみなかった。アドルファスが同伴するというが、この際彼の同伴などちっぽけなことに過ぎない。それにナラカだけではなく、ルタも面会することを許されたのだ。ナラカの悩みの種が一瞬にして吹き飛ばされたと言っても過言ではない。

「あ……ありがとうございます、宰相様……!」
「御託は良い。執行までの手続きもあるからな、早く義弟殿に伝え準備を整えることだ」
「はっ、はい!」

ぴしゃりとアドルファスから釘を刺されたナラカは、ルタを呼ぶためにばたばたと駆けていった。その様子をアロイスは苦笑いしながら見守り、スメルトは何処か安心したかのように表情を弛ませる。……そんな最中、アリックだけはじっとアドルファスのことを凝視していた。

「……宰相殿」

アリックの翡翠のような双眼がアドルファスの姿を捉える。彼女の翠の瞳には、真っ黒な宰相の姿が映し出されていた。

「……失礼を承知で伺います。貴殿と……私は、以前にお会いしたことがありますでしょうか?」
「……?いや、ないはずだが……」

アリックの問いかけに、アドルファスは訝しげに首を傾げた。その答えにアリックは「そうですか」と至極落ち着き払った返答を寄越す。まるで、アドルファスがそのような反応をすると予想していたかのようだった。

「いえ、良いのです。私の気のせいやもしれませぬ。宰相殿もお気になさらず」

にっこりと、アリックはまさに好青年然とした微笑みを浮かべる。アドルファスは少しの間釈然としないようだったが、やがて準備を終えたナラカとルタがやって来るとアリックからは目線を外したのであった。

2日前 No.210

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ティルアが拘留されているのは離宮ではなく、王宮の最下層にある監獄であった。曼荼羅の光が届かなくなり、案内人である兵士の持つランプの灯りだけがまともな光源と言っても良い。壁に設置されている燭台の灯りだけではあまりにも心もとないのだ。

(……こんなところに、ティルアさんが……)

いつ終わるかわからない闇に不安感を覚えつつナラカは歩みを止めない。此処で止まれば後ろにいるアドルファスに変な疑いをかけられるかもしれないし、自分にくっつくようにして歩いているルタが転んでしまう危険性だってあるのだ。故にナラカは案内人の兵士の背中をただただ黙って追いかけるしかなかった。

「……此処になります」

どのくらい歩き続けただろうか。一行はやっとティルアの入れられている牢屋の前まで辿り着いた。案内人の兵士が牢屋の中を照らすと、其処には此方に背を向けて座っているティルアがいる。後ろ姿だけでも、彼女が酷く窶れていることがナラカにはわかった。

「……ルタ。それにナラカ。絶対に来てくれると信じていたわ」

くるり、とティルアが振り返る。その瞬間、思わずナラカはあっと声を上げてしまいそうになった。以前に見たティルアと、今の彼女はまるで別人のように見えた。もともと白かった肌だが、今では生気というものがあまり感じられないくらいに青白くなっている。目の下には真っ黒な隈が存在し、唇はかさかさに乾ききっていた。何処と無く痩せたようにも感じられるのは此方に向ける手首の細さからであろうか。とにもかくにも、今のティルアはまるで幽鬼のようであった。

「あ……義姉上……」
「……ふふ、怖いわよね。こんな身なりになってしまったのだから……。でも安心してルタ、あなたやナラカには何もしないわ」

変わり果てた義姉を見て息を飲むルタに、ティルアは力なく微笑んだ。其処には一種の諦念にも似たものが漂っている。そう遠くないうちにこの人間は死ぬ。そう感じさせるような空気にナラカはぞっとした。その視線が次いで自分に向けられたことを含めて、だ。

「……ナラカ。あなたも私が怖い?」
「…………」
「答えてナラカ。私が怖い?」

答えなければ一生この質問を投げ掛けられそうな雰囲気である。本当は答えたくなどない。だが答えなければならないという気持ちもある。ナラカは一瞬考えてから、震える声音でティルアに返答した。

「……怖い、です」
「それはどうして?」
「だ……だって……。あなたが何を考えて私にこのような質問をしているのか、全然わからないから……」

そうナラカが答えると、ティルアは驚いたように目を見開いた。しかしすぐにその驚愕はかき消え、再び彼女の口元には微笑みが戻る。穏やかな表情であることに変わりはないのに、ティルアを纏う雰囲気は何とも形容し難い不気味さをかもし出していた。これには案内人の兵士も思わず体を強張らせる。一方で、事の成り行きを見守るアドルファスの表情は変わらないままであった。

「ふふ……そうね。そうよね。わからないに違いないわ」
「……あなたは、何を……」
「ナラカ。私は死ぬ前に、一度あなたとこうして面と向かって話してみたかったの。勿論ルタのことも大事よ?でもねナラカ、あなたのことはどうしてもそのままにしてはおけないのよ」

ずるり、ずるりと。ティルアは足を引きずるようにして鉄格子へと近づいた。よく見てみると彼女の両足は足枷で繋がれている。足を引きずるようにしていたのは、この足枷があるためであろう。

「ナラカ、私はあの夜、あなたを甘いと評したわ。同郷の人間だけ逃がして助けようとするなんて、あなたは本当に甘いとね」
「…………」
「今でもその気持ちは変わらないわ。あなたの行動は本当に愚かだった。失うことを躊躇いながら動く人間の末路なんてたかが知れている」

ティルアからの言葉はじくじくとナラカの心を突き刺した。自分でも、あの時の自分はどうかしているとは反省している。だが面と向かって他人に言われると、やはりぐうの音も出てこないくらいに言い負かされてしまう。自己嫌悪に陥りやすいナラカではあるが、他人から言われると無性に気に障る。そのようなことを言うためだけに自分を此処に呼び出したのかと、ティルアへの苛立ちがナラカの中でふつふつと燻った。

「ふふ……そんな顔をしないで、ナラカ。私はあなたを貶すためだけに呼び出したのではなくってよ」

知らず知らずのうちにナラカはティルアを睨み付けていたのだろう。ティルアは肩を竦めながらそのようなことを告げた。しかしナラカの警戒は冷めない。次に何を言われるのか、気が気ではなかったのだ。

「たしかにあなたの行動は愚かそのものだけれど……私は疑問だったの。ナラカ、あなたは愚行を犯しはすれど愚者ではない。なのにどうしてそのような行動に及んだのか、とね」
「……どうして、って……。そんなの、知り合いを巻き込みたくなかったからに決まってるでしょう」

これまで散々な言われようだったのもあってか、ナラカの口振りはややきつい。ティルアの問いを投げ掛けるような口調に、彼女は吐き捨てるかの如くそう返した。そんなナラカの態度に、ティルアは表情を歪めることもなく微笑んだまま続ける。

「巻き込みたくなかった、ね……。ナラカ、あなたの言うことは理由になっていないわ。何故そこまでして彼らを守ろうとするのかしら?」
「……守る……?」

疑問を孕んだ声を上げたのはアドルファスだった。其処からじろりとナラカのことを睨み付けてきたが、今のナラカにはそんなことを気にしている余裕はない。

「……あなたに話して、私に何の利があるというのです」
「嗚呼、厭だわ。何でもかんでも損得勘定ばかりで。あなたにも私にも利はありません。そもそも、これは全く有意義な話ではありませんからね」

ならば何故、とナラカはティルアを問い質そうとした。しかしそれよりも先に、ティルアの唇は動いている。


「ねぇ、ナラカ。あなたはこの王宮に来る……いえ、“侵入者の彼ら”と出会う前に、何か大切なものを失ったのではなくて?」


その言葉は湿っぽい監獄の中で反響した。ティルアの言葉は何度も何度も、段々と小さくなりながらも、ナラカの耳の中をぐらぐらと揺らしたのであった。

1日前 No.211

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

否定の言葉を捻り出すまでに、どれだけの時間を有したであろうか。少なくともナラカにとってはかなりの時間、ティルアの言葉に打ちひしがれていたような気がしてならない。本当は数えるまでもない時間かもしれなかったが、いちいち数えていられる程ナラカも落ち着いてはいなかった。

「……違う……」

ナラカの声は掠れていた。此処が静かな監獄でなければかき消えてしまいそうな、そんな大きさの声であった。ナラカは自らの頭を抱えながら、違う、違う、と繰り返す。

「違う……違う……違う、違う違う違う違う違う違う違う!!!」
「な……ナラカ……?」
「違うッ!!」

何度も譫言のように“違う”という単語を繰り返し、ついには叫びへと変わったナラカの声に、ルタが怯えながら彼女の名前を呼ぶ。だがもうナラカにルタの声は届いていない。がたがたと震えながら、自分の爪先を見つめているだけだった。

「私は!私は何も失ってなんかいない!私は、私は永劫ずっと“ナラカのままだった”!何かを失うなんて、あるはずがない、そうだ、あるはずがないんだ……!」
「……本当にそうかしら?あなたはそうやって、自分に言い聞かせているだけなのではなくて?本当は失っているというのに?」
「違う、私には失うものなんてない……!」
「それならあなたはどうしてそんな、不吉な名前を背負っているの!?」

頑なに首を横に振り続けるナラカに、今度はティルアが声を荒げた。案内人の兵士が見かねたのか二人のやり取りを止めようとしたが、アドルファスが何も言わずにそれを制止したために邪魔は入らなかった。

「……不吉な、名前?」

ゆらり。伏せられていたナラカの顔が、再びティルアの方を向く。がらんどうの空洞のようなナラカの声音に、ティルアは小さく肩を揺らした。しかし次の瞬間、ナラカの表情を見たティルアは別の意味で驚くこととなる。


ナラカは泣いていた。ほろほろと、涙を流して泣いていた。


ぽたり、ぽたりとナラカの黒い瞳から流れ落ちる涙が監獄の冷たい床を湿らせていく。ナラカはティルアを睨み付けたまま、ただ静かに涙を流す。それは止めどなく、まるで滝のように流れ続ける。

「……嗚呼、そうだよ。不吉だよ。私の名前は凶兆だ。そんなの、とっくの昔にわかってたよ」

ナラカは一歩、ティルアと自分たちを隔てる鉄格子に近付いた。それから逃げるかのように、ティルアは一歩後退する。

「私は一度奈落に落ちた。それだけのことをしてしまった。もう、もう取り返しなんてつかないんだ。だから私はナラカなのに。だから私は奈落に落ちたのに━━━━!」
「……ナラカ」
「━━━━お前に何がわかるっていうんだ!何も知らないお前に!私のことなんて、何も知らない癖に!お前は私の“何でもない”癖に、わかった風な口を利くな!!」

がしゃん、と鉄格子が揺れた。ナラカが鉄格子を掴んで、それを無理矢理に揺らしていたのである。ティルアはびくりと体を震わせ、アドルファスは案内人の兵士に「止めよ!」と指令をかける。だがナラカにとってはその全てがどうでも良かった。ただ、ナラカは“否定し続けなければならなかった”。

「失うことの辛さを、本当にお前は知っているというのか!?私が味わったものと同じ苦しみを、お前にわかるというのか!?戯れ言を!私の痛みは私にしかわからないというのに!何でもかんでも知ったような口振りで!お前に私の何がわかる!?」
「……何も、わからないわ。でも……」
「でも!?でもとはなんだ!失うことの痛みにでももだってもあるか!人の事情も知らないで、よくもいけしゃあしゃあと━━━━!」

そのまま鉄格子越しにティルアへと掴みかかろうとしたナラカだったが、さすがに其処は案内人でもあった兵士が彼女を羽交い締めにする形で取り押さえた。瞬間、ナラカの全身に鳥肌が走る。最近は慣れてきたとは思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。

「っ、あ…………わるな、触るなっ、触るな触るな触るな……!!」

もがくようにしてナラカは兵士の羽交い締めから逃れようと暴れる。いくら兵士と言えど、案内人の彼はまだ若かった。ましてや案内を任された身で、案内すべき人間が暴れてはついついたじろいでしまうものである。兵士が力を緩めた隙にナラカはその拘束から逃れた。そのままティルアのもとへ……は向かうことなく、ナラカは灯りもなしに来た道を逆走していく。

「ナラカ……!」
「……待ちなさい。彼女なら大丈夫だ」

咄嗟に追いかけようとしたルタを制したのはアドルファスであった。心配そうな表情を浮かべているルタを諭すつもりなのだろうが、宰相の顔は相変わらずのしかめっ面で、少なくとも安心出来るようなものではなかった。

「外までの道は一本道だ。迷うことはないだろう」
「でも……」
「……大丈夫よ、ルタ。安心なさい」

まだナラカのことが気になっている様子のルタだったが、アドルファスとティルアの二人から諭されてぐっと口をつぐむ。いくら大丈夫と言われても、彼の不安は依然として拭いきれないままであった。

6時間前 No.212
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