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Utopia of the underground world

 ( 小説投稿城 )
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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

理想郷を求める者は、どんなに時が流れようと絶えることはない。


天をも穿たんとする霊峰の下、ずっとずっと下に、“それ”は存在した。密やかに窪んだ洞窟を通り抜けて、暗闇の中を進んで、道が続く限り足を進めて行けば、やがて古ぼけた扉の前にたどり着く。
其処には左右に獅子の銅像が設けられ、彼らのお眼鏡に敵えば扉は開き、彼らに認められなくば目の前の生き物は一瞬でその生を奪われるという。門番たる獅子が見定めるのは来訪者の経歴だとも、内面的なものであるとも噂されるが彼らは何も語らない。だからこそ、人は其処で躊躇うのだ。もしかしたら殺されてしまうのではないか、扉を開けてもらえないのではないのだろうか、と。
それは所謂試練なのだろう。人間とは試練を課される生き物である。否、生き物であれば誰しも試練を与えられるのだろう。それを乗り越えられなければ切り捨てられ、見事乗り越えることができたのなら彼らの望むものが手に入る。その摂理は太古の昔から変わることはなく、人が生まれ落ちてから幾度となく試練は与えられ続けた。これも過去に与えられた幾つもの前例に倣っているのだろう。
そういった訳で、無事に扉が開かれたのなら、その先にあるのは人の世を捨てたことさえ喜ばしく感じられるほどの、地底に創られた理想的な国家なのだという。二度と空を見ることが出来なくなっても構わないと思えるほどの場所。すなわち其処は理想郷。
安寧を、享楽を、もしくは前者以外の何かを求めて其処を目指す者は、口を揃えて皆こう言うのだ。


其の地の名はシャルヴァ。
地の底に在りし、神代を模した理想郷、と。

メモ2018/11/20 18:34 : すずり☆uVgy9R1pZdc @suzuri0213★Android-ti0IvmfI1e

【第1幕:さらば青空、向かうは地底】>>1-5

【幕間:シャルヴァなる地】>>6

【第2幕:王子の帰還】>>7-12

【第3幕:集落の営み】>>13-19

【幕間:焔が抱くは夢幻】>>20

【第4幕:本の杜への誘い】>>22-29

【第5幕:輪廻の忌み子と王子の記憶】>>30-34

【第6幕:緑纏う者たち】>>35-42

【第7幕:守り手の導き】>>43-47

【第8幕:神蛇の窖へ】>>48-52

【第9幕:旧き者たちの戦い】>>53-58

【第10幕:選定の儀】>>59-64

【第11幕:転機の訪れ】>>65-71

【第12幕:忌み子の憧憬】>>72-75

【幕間:其の日、彼女は生を求めた】>>76

【第13幕:王宮勤めの始まり】>>77-83

【第14幕:受難と薬師と可笑しな羅刹】>>84-92

【第15幕:雑色三人衆、初めてのお使い】>>93-97

【第16幕:離宮の住人】>>98-103

【第17幕:市場での再会】>>104-108

【第18幕:其は単なる波乱に非ず】>>109-114

【幕間:視えるが故の横恋慕】>>115

【第19幕:賽は既に投げられた】>>116-120

【第20幕:邂逅は偶然か、或いは必然か】>>121-126

【第21幕:惨禍の記憶は引き金となりて】>>127-131

【第22幕:少女の企て、揺れる思惑】>>132-137

【第23幕:事件は地底の昼下がりを揺らす】>>138-142

【第24幕:少女は胸に薔薇を抱く】>>143-150

【第25幕:彼の誤算と彼女の憤怒】>>151-154

【第26幕:取った遅れは戻せない】>>155-

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すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.106

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

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1ヶ月前 No.107

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

それから何処かに寄るという気にはなれず、ヴィアレとハルシャフはまたフィオレッロの商隊のもとへ戻ってきた。グラネットとエミリオは二人が帰ってくるとぱっと視線を此方に向ける。ヴィアレはもう慣れたが、ハルシャフはそうでもないのかあたふたと視線をあちらこちらに向けてから、気恥ずかしそうにうつむいた。

「なんだよお前、年頃の娘みてーな顔しやがって」

そんなハルシャフをからかいたいのか、グラネットがうりうりと軽く小突きながら彼の傍に寄った。ハルシャフはややむっとした表情を浮かべながらグラネットを見る。

「わたしは、おとこ。それをいうなら、あなたのほうがおんなのこみたい」
「なっ、なんでだよ」
「ちいさいから」

ぴしり。ヴィアレがかつてグラネットと出会った時と同じように、グラネットの動きは唐突に停止した。固まった身体に対して、ぴくぴくとグラネットの顔はひきつりつつある。これはいけない。ヴィアレもエミリオも直感でそう思った。小さいだとか低いだとか、何がとは言わないがグラネットにとっては禁句なのだ。彼の前でそういったことは言わないようにしようと、二人の間では暗黙の了解になっている。そのためグラネットが何かしでかす前にと二人は動いた。それとほぼ同時に、グラネットの口が動く。

「っんだとテメー!!」
「わーっ、グラネット!駄目だよぅ、頭の仲間に手ぇ出すのは御法度だから!もれなく後で頭にぼこぼこのめためたにされちゃうから此処は抑えて!」

今にもハルシャフに殴りかかりそうなグラネットをエミリオが羽交い締めにして止める。いくらグラネットが暴れようと身長はエミリオの方が高く、グラネットはじたばたともがくしか出来ない。こういったこともグラネットの悩みの種なのかとヴィアレはしみじみ考えた。

「おいヴィアレ!お前何しみじみ黄昏てるんだよ!なんとかしろよこの状況!」
「いや……これはエミリオが正しいと思うぞ……」
「そうだよぅ!僕だってグラネットが頭にぼこぼこにされるのなんて嫌だからこうしてるだけなんだよ!?良いから落ち着いてってば!」
「何や、何騒いどるん?」

ぎゃーぎゃーと騒いでいた一同のもとに、呼ばれてもいないフィオレッロがひょこりと顔を出しに来る。振り返ったハルシャフを除く三人ははっと息を飲んだ。そしてすぐに騒ぐのをやめて静かになった。

「え……どうしたん君ら……。いきなりそないな顔せんといてや……怖いわ……」
「悪ぃ、たぶん原因俺だわ……」

いきなり静かになった一同に若干引いているフィオレッロの後ろから、一人の体格の良い青年が顔を出す。ヴィアレたちが固まったのもこの青年が原因だった。ついこの間出会った彼からは逃げた思い出が大きすぎてそれ以外のことがちっぽけに思える。

「アロイス、あの子らと知り合いなん?つか何したん?めっちゃ怖がられとるやないか」
「あー……かくかくしかじかでな……」
「なるほど……ようわからんけどなんとなく理解したわ……。お前のことやさかい、しゃーないっちゃしゃーないことなんやろけど……エミリオ泣かせたらほんまどつき回すで」

フィオレッロに笑顔で圧力をかけられている青年━━━━アロイスは「ははは……」と乾いた笑みを浮かべる。エミリオが言うだけあってフィオレッロの威圧感は凄まじい。これは本当にぼこぼこのめためたにされそうである。気のせいかもしれないが背後にとてつもない貫禄というか、威風を感じさせる佇まいだ。

「か、頭……。その人とは、どういったご関係で……?」

顔を青くさせながらフィオレッロに尋ねたのはエミリオだった。フィオレッロはすぐに表情を弛い笑みに変えると、エミリオの頭をよーしよしよしと撫でながら説明する。

「エミリオ、こいつはな、いわゆるお得意様や」
「お得意様……?」
「せや。移動市場の時にはいっつもぎょうさん買うてくれんねん。せやからちょい怖くても許したってなー」

何か酷いことされそうになったら頭に言うんやで、と付け足しながらフィオレッロはエミリオを安心させるようににこやかに微笑んだ。しかしその微笑みがなんだか怖い。恐らくアロイスからしてみれば何をされるのかわからないのも相まって迂闊な行動は出来なくなっていることだろう。

「とりあえずさ、ヴィアレ。そろそろ別の店も見に行かねーか?ずっと此処にいるのもなんだかあれだしよ」
「そうだな、グラネット。エミリオはどうする?残るなら後で迎えに行くが……」
「ううん、僕も行くよ。他の商隊も見てみたいし」

グラネットの誘いにヴィアレはうなずいてからエミリオにそう問いかけた。もしかしたらこの商隊のところに戻ると言うかもしれないからとエミリオに気を遣ったが、その必要はなかったようだ。

「寂しいわぁ、もうちょい居ってもかまへんのに。……ま、エミリオにもダチが出来たっちゅーことやな。俺らのことは気にせんで、楽しんできぃや!」
「ありがとう、頭。頭も、お仕事頑張ってね」

エミリオが少し気恥ずかしそうにフィオレッロに手を振ると、彼は心底嬉しそうな笑顔を浮かべてエミリオに手を振り返した。それを真似してか、ハルシャフも両手をぶんぶんと振っている。そんな光景を微笑ましく思いながら、ヴィアレも彼らに手を振ったのだった。

1ヶ月前 No.108

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【第18幕:其は単なる波乱に非ず】

買い物は嫌いではない。むしろ昔は好きな方だったと思う。それなのに、この日は居心地が悪くて仕方がなかった。誰が悪いというわけではないけれど、なんとなくこの場にいてはならない気がする。だからついつい、肩を縮こませてしまう。

「━━━━ナラカ殿?どうしたのですか?」

そんなナラカの心の機微が自然と外に出ていたのか、それとも相手がそういったことを感じ取るのに長けているのか━━━━。どちらにせよアリックはナラカを気にかけているようで、彼女の顔を覗き込んできた。何もしていないのに曼荼羅の光を受けて潤む翡翠色の瞳に見つめられて、ナラカははっとしてすぐに目を逸らす。

「い、いえ……特には。少し、緊張してしまって……」
「たしかにこの人混みですからね。肩の力が入るのは無理もありません」

しどろもどろに答えたナラカにも、アリックは怪訝そうな表情をすることなくはきはきと答える。どうしてそこまできちんとした対応が出来るのか、ナラカにはわからなかった。自分が同じ状況だったら明らかに「なんだこいつ」という視線を送るだろうに。
この日、ナラカとアリックは離宮に昼食を運び終えてから小鈴に移動市場に行くように言われた。許可されたのではなく行くようにと言われたのだ。なんでも使いを頼みたいとのことで、アロイス一人には頼みきれないからということだった。使いに行くのは構わなかったのだが、ナラカは初日の出来事もあったのであまり長居をしたくはなかった。出来るだけ顔を見せたくなくて、頭巾のついた外套を纏って外に出た訳だが、隣にアリックのような美男子がいると嫌でも目立つ。アリックはあまり気にしていないようで、周りの視線をすり抜けつつ色々な商隊の店棚を除いていた。

「あの……アリックさん。まずは、小鈴さんに頼まれているものを買いませんか……?」
「も、申し訳ありません!私としたことが、すっかり夢中になっていて……。そうですね、まずはお使いの方を優先しましょう」

興味津々といった様子で陳列されている品々を眺めるアリックに、ナラカはおずおずと声をかける。仕事を遂行しなければならないという使命感よりも、早く帰りたい気持ちの方が強かったのだ。声をかけられたアリックの方は少し恥ずかしいのかはにかみながら再び歩き出す。

(……見られてる)

周りの人々、ついでに言うと女性からの視線がナラカに突き刺さる。そりゃあそうだ、頭巾を深く被ったよくわからない奴がきらきらしい美男子と歩いているのだから。嫉妬や羨望の視線を向けられないはずがない。
はぁ、と溜め息を吐く。ナラカに視線を向ける者の中には悪態を吐く者も少なくはなかった。彼女らの言葉は聞きたくなくても耳に入ってくるもので、ナラカは憂鬱な気分にならざるを得ない。なんであんな醜女が、だとか、媚びを売る薄汚い小娘、だとか。これまで罵られたことは幾度となくあったが、それでも慣れるものではない。それにナラカは罵詈雑言をぶつけられて嬉しくなれる程の精神力や性癖を持ち合わせてはいないのだ。素直に傷つくしか出来ない。

「……!」

唇を噛み締めていると、突然足下に何かが突き出されたような感覚と共にナラカは思いきり躓いた。どしゃ、とそのままナラカの身体は地面に叩き付けられる。くすくすくす、と密やかな笑い声がナラカの耳に入った。

(あいつら……!)

見上げた先にいたのは、かつて初日にナラカのことを嘲り笑った者たちの一部だった。たしかナラカに水をかけた下女もあの者たちの中のどれかだ。ナラカとて忘れるほど軽く見ていないし、絶対に忘れるはずがない。このあばずれ、と罵ってやりたい気持ちに駆られたナラカだったが、こんな場所で汚ならしい言葉を遣えば白い目で見られるし、アリックにも引かれてしまう。下手すれば小鈴の沽券にも関わるだろう。立ち上がろうとしたところで背中を蹴飛ばされてまたつんのめりながら、それでもナラカは何も言わずその場から離れようとした。こんなところにいつまでもいたくはない。早くこの場から離れたかった。

「素晴らしい淑女っぷりですね」

そんな中、その場に響き渡ったのはアリックの朗々とした声だった。ナラカも、ナラカを転ばせた下女たちも、はっとして彼のいる方向を向く。アリックはにっこりと笑顔を浮かべながら次ぐ言葉を紡いだ。

「ええ、本当に見習いたくなる振る舞いです。あなた方のご両親は、それはそれは素晴らしい教育をなさったのですね。私、感心してしまいました」

にこにこと微笑みながらそう告げるアリックにナラカも下女たちも凍りついた。相当空気の読めない者でなければそれが純粋な賛美であるとは思わないだろう。痛烈な皮肉、それ以外の何物でもない。

「大丈夫ですか、ナラカ殿?私の手をお使いください」
「あっあ、はひ、どうも……」

絶句する下女たちを尻目に、アリックはナラカにその陶磁器のようなすべらかさの手を差し出してくる。突然のことに頭が追い付いていないナラカは吃りながらアリックの手を取った。本当に男性の手なのかと疑問に思わせられる程、アリックの手は綺麗だった。

「はぐれたり、先程のようなことがあったりしてはいけませんね。よろしければ、手を繋いでも構いませんか?」
「あっはい、そうですね、私もその方が良いと思いましゅ」

アリックからの提案に賛同の意を示そうとしたら思いきり語尾を噛んでしまった。それをアリックは何と言うこともなく、優しくナラカの手を握って「それでは参りましょうか」と歩いていく。恥ずかしいやら申し訳ないやらで顔が熱くなるのを感じながら、ナラカは手を引かれるままに足を動かした。

1ヶ月前 No.109

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

しばらく歩いてから、アリックは歩く速度を緩めてナラカの方を振り返った。その表情は至極穏やかで、だからこそナラカは萎縮してしまう。アリックには多大な迷惑をかけてしまった上に、あんな情けないところをわざわざ助けてもらった。何と礼を言ったら良いのかわからなかった。

「……ナラカ殿」
「な、なんでしょう……」

だからアリックに声をかけられて、ナラカは思わず力んでしまう。どんな言葉がかかっても大丈夫なようにと、己を引き締める。アリックはそんなナラカの様子を見て、形の良い眉を少し下げた。

「……嫌では、ありませんか」
「えっあ、な、何がですか……?」
「……あなたは、触れられるのがあまり得意ではないというのに、勝手に手を握ってしまったものですから……。あなたが不快な思いをしていないか、気になっていたのです。申し訳ございません……」

申し訳なさそうな表情をするアリックに、ナラカは一瞬きょとんとした表情を浮かべる。何故この人は私に謝っているのだろう、と素直な疑問を覚えた。ナラカはどう言葉を返したものかと悩みつつ、アリックのことを見上げる。

「あ、あの……アリックさん。謝ることは、ないかと思います……。アリックさんには助けていただきましたし、むしろ私の方が謝りたいくらいなので……。それに、嫌じゃないですから。手を繋ぐの」

自分で言っていて段々と恥ずかしくなったのか、ナラカの語尾はどんどん小さくなっていった。アリックはナラカの様子を見て、「良かった」と小さく呟く。

「どうしても、見過ごしてはおけなかったのです……。紳士であれば、もう少しその場に適した対応があったというのに、お見苦しいものを見せてしまいましたね」
「見苦しくなんてないですよ……!私だったらたぶん、凄く口汚いこと言ってると思いますし……!」

なんとかアリックを励まそうとしたところ、こんなこと口走って良いのか?と後から首を傾げたくなることを口にしてしまった。一応ナラカは誰に対しても無礼がないようにと丁寧な物言いを心掛けている。しかしいつでもそれを保っていられる程器用でもない訳で、独りになると元来の口の悪さが飛び出てしまうこともあるのだ。あまり他人には見られたくないのだが、もう何人かには勘づかれているかもしれない。特にサヴィヤ辺りには思いきり見られているから手遅れである。
それを聞いたアリックは何度かぱちぱちと瞬きをしてから、くすりと品良く表情を崩した。

「ふふ、ナラカ殿でも口調が碎けてしまうことがあるのですね。意外です」
「い、意外!?」
「だって、ナラカ殿はいつも丁寧な立ち振舞いでしょう?私はあまりそういった口調でいるのが得意ではないものですから、いつもその技術といいますか、振る舞いを盗めないかと思っていたのです」
「ぬ、盗むところなんてありませんよ!」

予想だにしていなかったことを言われてナラカは普通に慌てた。それにアリックの方がよっぽど振る舞いは出来ているとナラカは思う。そんなアリックからこう言われたのでは、どう反応して良いものかわからない。あわあわと辺りを見回してから、ナラカは誤魔化すかのようにある商隊の陳列品を指差した。

「あ、アリックさん!あそこ、あそこにあるのって、香草じゃないですか?たしか、頼まれていた中に香草もありましたよね……!?」
「そうですね。まずはお使いを済ませましょうか」

挙動不審なナラカに何か言うこともなく、アリックはナラカの手を引いたまま陳列品に近付いていく。いつまで握ったつもりなのだろう。アリックは嫌ではないのだろうか。色々と考えているうちにどんどん恥ずかしくなって、ナラカの視線は段々と下に落ちてきていた。

「……ナラカ殿?どうかされたのですか?」

そんなナラカを案ずるようにいつの間にか勘定を済ませたアリックが覗き込んできて、ナラカは「ひっ!?」と情けない悲鳴を上げてしまう。綺麗な顔というものは心臓によろしくない。下手したら止まっていた。

「ご気分が優れないのですか?無理はなさらないでくださいね、辛ければ私が運ぶことも出来ますから」
「ち、ちが、違います!わた、私はただ、疲れたからちょっと休みたかっただけで……!体調は万全です、元気も元気、大元気です!」

大元気ってなんだよ、と自分で突っ込みたくなったナラカだったが、目を逸らした先を見つめてはっと息を飲む。人混みの中でもナラカが“彼”を見間違えるはずがなかった。“彼”の顔だけは、忘れたくても忘れられないのだから。

(エルトの野郎……!)

表面上ではさん付けしていたが、内心ではこの呼び方である。しかし向こうから歩いてくるのがエルトであることに変わりはない。エルトはまだ此方に気付いていないようだが、いずれは彼の目にナラカとアリックの姿が入ることだろう。それだけは嫌だった。あんな奴とは出来れば関わりたくなかった。ナラカはぐるん、と首を一気にアリックの方に向ける。アリックの翡翠色の瞳が、驚きに見開かれるのがわかった。

「移動しましょう」
「ナラカ殿?」
「移動するんです。移動します。着いてきてください」

先程までのおどおどとした態度はどこへやら、ナラカは凄まじいまでの決断力で動き出していた。アリックの手を引き、ナラカはひたすらに人混みを掻き分けていく。後ろのアリックがどのような表情をしているかなど、気にする余地もなかった。

1ヶ月前 No.110

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

どのくらい歩き続けただろうか。ナラカはアリックを喧騒から外れた中庭まで引っ張ってくることに成功した。ただただ市場から離れることだけを考えて歩いていたナラカだったが、ふと自分がずっとアリックの手を握りっぱなしだったことに気が付いて、慌てて彼の手を離した。

「す、すみません……!無理矢理此処まで連れてきてしまって……!」

思えば、ナラカが市場から逃げたのは完全に私情が入り交じってのことである。アリックには何の非もない。それなのに、自分のわがままでこんなところまで連れてきてしまった。今更何を、と言われるかもしれないがナラカは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
アリックはそんなナラカのことをきょとんと眺めていたが、やがてふわりと穏やかに笑みを浮かべた。

「良いのですよ。あなたにもあなたの事情がある。それを私がどうこう言う資格はありません」
「し、しかし……」
「それに、たまにはこうしてゆっくり話すのも悪くはないでしょう。よろしければ、座って話でもしませんか」

アリックからの誘いをナラカが断れるはずもなく、彼女はこくりとうなずいた。アリックは腰を下ろしてから、ナラカを促すように自らの隣を軽く叩く。ナラカはおずおずと彼の隣に腰を下ろした。

「…………」
「…………」

……下ろしたは良いが、二人の間には居心地の悪い沈黙が続く。何を話したら良いというのだろうか。思えば、ナラカはアリックのことをよく知らない。だったら幾つか質問でもすべきなのだろうが、どういった質問をすれば良いものかすらもわからないのだ。何度かちらちらとアリックの様子を窺ってみるが、その度に彼と目が合って慌てて顔を逸らし、再び沈黙という流れが出来上がってしまっていた。これではいけない。そうわかっていても、こういった場面でどう話すべきなのかナラカにはわからない。だからアリックの顔色を窺うしか出来なかった。

「……あの、ナラカ殿」

そんな中、アリックが少し視線を下に向けながらそう声を出した。ナラカはびくりと身体を揺らしてから、聞き逃してはなるまいとアリックを注視する。

「その……ナラカ殿には、好きなものはありますか」
「…………はい?」

アリックから投げ掛けられた質問に、ナラカはそれ以外の言葉を返すことが出来なかった。いや、わかっている。アリックに悪気なんてないことくらい、ナラカもわかっているのだ。しかしながら好きなものである。あまりにも大まかかつ抽象的な問いかけに、ナラカも首を傾げざるを得ない。そんなナラカの顔付きを見て、アリックは申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「いえ、特にこれといった意味はなく……た、例えば、好きな食べ物とか、好きなお花とか、好きな色とか……。そういったものを、知りたくて」
「そ、そうですよね……!えぇと、好きな食べ物……は、白いお米、ですかね」
「…………コメ?」

今度はアリックが怪訝そうな表情をして首を傾げる番だった。まさか、彼は米の存在を知らないのか。ナラカの顔に衝撃が走る。

「お……お米、食べないんですか……!?」
「は、はい……私は、食べたことがなく……。麦飯のこと、でしょうか……?」
「いえ、あの、知らないなら、良いんです……」

きっとシャルヴァの西側では米を食べないのだろうとナラカは推測した。たしかに南蛮では米を食べないというし、それはシャルヴァでも同じことなのだろう。文化的な衝撃を受けることにはなったが、前向きに考えれば新しい食文化を知れた。そういうことにしておこう。

「えっと、好きな花……は、そうですね……。あっ、私、梅とか好きです……!」
「梅…………?」
「あ、知らないなら良いです……」

自分の好きなものがことごとく知られていないことに若干落ち込むナラカである。梅は割りとどこでも咲いているものかと思っていたが、シャルヴァにはないのだろうか。一応地底ではあるが森林はあるし、探してみれば梅も見つかるかもしれない。

「そ、それで、アリックさんは何がお好きなんですか?」
「私、ですか……。私はお魚が好きですね。あとは、茹でたお野菜とか……。火の通ったものが好きなんです。お花は薔薇ですね。ええ、薔薇ですとも」

好物に関してはしばし考えてから答えたアリックだったが、花に関しては即答だった。薔薇と言えばナラカも知っている。ぽん、と手を叩いて同意を示す。

「茨のことですね。お腹が痛いときのお薬にすると良いって聞きました」
「なるほど、お薬に……。万能、ということでしょうか。ええ、きっとそうでしょう。さすがです」

ふむ、と顎に手を遣りながら納得するアリックはやはり絵になったが、ナラカとしては「万能ではないのでは……?」と首を捻らざるを得ない。まあ、アリックはなんだか少し嬉しそう……というか誇っているようにも見えるので、それはそれで良しとしよう。ナラカはとりあえずうふふあははとぎこちなくアリックに相づちを打っておく。アリックはナラカの適当さ加減には気づいていないようで、楽しそうに薔薇の話やどんな焼き方の魚が美味しいかという話や野菜の話をするなどしていた。ナラカが罪悪感を覚えるほどに。

「ナラカ殿」
「はっ、はい?」

だからいきなりアリックに声をかけられて、ナラカは咄嗟に居住まいを正してしまった。何か指摘されるのではないか。しかしそんな不安を覚えるよりも前に入ってきたのは、それはそれは嬉しそうなアリックの笑顔だった。

「あなたとの語らいは飽きが来ない。本当に、とても楽しく思います」
「あ……ありがとうございます……?」

にこにこと微笑むアリックに、ナラカはさっきあまりお話聞いてなくてごめんなさいと内心で謝罪した。こんなに機嫌がよろしくなるなんて正直思っていなかった。目を逸らそうとしたナラカだったが、アリックにずいと近付かれたことでそれは不可能となる。


「ナラカ殿、私はあなたと仲良くしたい!」
「…………はぁ?」


あまりにも、あまりにも唐突過ぎる言葉。しかしアリックの表情は真剣そのもので、言葉の意味も相まってナラカは戸惑うしかなかったのである。

1ヶ月前 No.111

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

ナラカは驚愕した。必ず、この目の前の美男子に何かしらの良い答えを返さねばならぬと決意した。ナラカには色恋がわからぬ。ナラカは、まだ恋人がいたこともない娘である。人を避け、基本的に家に引きこもって暮らして来た。けれども人付き合いに関しては、人一倍に敏感であった。

「……駄目に、ございますか……?」

云々とあれこれ考えていたナラカの表情が険しかったのだろう。不安げな顔をして、アリックがそう小さく問いかけた。はっとして顔を上げると、其処には物憂げな表情をした アリックがいる。これはまずい。ナラカとて、このような美男子が何の脈絡もなく自分に告白してくるなどとは思っていない。これには何か意味があるのだと、深読みに深読みを重ねた。そして迷走した。どうすれば良いのかわからなくなって、頭の中がこんがらがり始めた。

「駄目……では、ないんですけど……」
「けど……?」
「そ……そういうのは、まずはお友達から始めるのが妥当だと思います……」

自分は何を言っているんだろう。口に出してから後悔してもどうにもならないことはナラカもわかっている。しかし、今のナラカはそう言うしか出来なかった。そう言うのが精一杯だったのだ。
アリックはきょとん、と一瞬固まった。何と言われるだろうか、という不安がナラカを襲う。出来ることなら優しい言葉をかけて欲しい……なんて思っていたところ、アリックが一気に顔を近付けてきた。ひっ、とナラカは叫び出したいのを必死に抑えて後ろに仰け反る。アリックはあまりにもきらきらとした瞳で、ナラカのことを見つめていた。

「良いのですか!?」
「はい……!?」
「ナラカ殿!あなたはお友達になることを、許してくださるというのですか!?」
「えっ、ええ、まあ……。で、でも、お友達って許す許さないとかでなるものではなく……」

ナラカが言い終わるか言い終わらないかのうちに、アリックは唐突に立ち上がって「お友達!お友達ですって!やったぁぁ!」とぴょんぴょん跳ね回る。しかし落ち着いたのか、しばらくするとまたナラカの隣に腰を下ろした。

「私、お友達って初めてなんです!ですから嬉しくて仕方なくて!」
「け……けど、アリックさんって顔……と人柄もよろしいですし、お友達なら多いようにも思えるのですが……」
「いいえ、いいえ!あなたが、ナラカ殿が、初めてのお友達です!初めての、お友達!なんて良い響き!出来ることならあなたを私の実家に連れていきたい!」
「じ、実家……!?」

至極嬉しそうなアリックを何とも言えない複雑な表情で眺めていたナラカだったが、彼の爆弾発言は見逃すことが出来なかった。実家。実家である。まさかそんなことはあるまいと思いつつも、いやもしかしたらと思う自分もいる。混乱するナラカを見て、はっとしたらしいアリックはわたわたと慌てる様子を見せた。

「も、申し訳ありません……!私としたことが、無理を言ってしまいましたね……!」
「い、いえ、決してそのようなことは……!け、けれど普通は、お家に誘うのは割りと仲が進展してからですので……!」
「そうですね、その方が良いでしょう!嬉しくて、なんだかすっかり慌てていました……!お恥ずかしい……!」

ナラカの言葉で落ち着きを取り戻したのか、アリックは僅かにその白い頬を染めた。本当に、美形というものは得でしかない。だってどんな表情をしても美しいものは美しいのだから。
そんなことをぼんやりと考えていたナラカだったが、ふと後ろからコツコツと誰かが近付いてくるような音がすることに気づいた。誰だろうか。ナラカは特に危機感などは覚えなかった。今日は移動市場が開かれているから、王宮だって賑わっている。そもそも誰かとすれ違わないことの方がおかしい。先程いちばん会いたくないエルトは見かけたから、その可能性は低そうだ。だとしたらアロイス辺りか。そう呑気に考えながら、ナラカは何気なく後ろを振り返った。

「━━━━よォ。洞窟以来か?」
「━━━━!!」

彼のことは忘れない、忘れるはずがない。一瞬でナラカの身体が恐怖に固まる。がくがくと震えるナラカを、彼は下卑た笑みを以て見下ろした。


ハルシャフのいた洞窟、その帰り道でナラカを襲わんとした羅刹が、其処にいた。

1ヶ月前 No.112

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

羅刹の男は変わっていなかった。顔立ちも、身に纏う雰囲気も、洞窟の傍で邂逅した時と何ら変わりなかった。それがまたナラカの心を恐怖におののかせる。武器は手にしていないようだが、相手は羅刹。武器など無くともナラカのような小娘を殺めることくらい余裕であろう。いや、この男のことだから、殺めるよりも酷く、惨たらしいことをされるかもしれない。言い知れぬ恐怖はナラカの中で膨れ上がるばかりだった。

「……お知り合い、ですか?」

一瞬でがたがた震え出したナラカを不審に思ったのだろう、彼女を庇うように前に出ながらアリックはそう問いかける。ナラカは否定の意を込めてふるふると首を横に振ったが、羅刹の男は「はッ!」と一笑に付した。

「つれねェこと言うなよォ。あァ、もしかしてそいつと犯ったからオレのことは忘れたってか!お前がそんな尻軽だったとは思わなかったぜ」
「っ、違う!」

下品に笑う男に、ナラカは羞恥を覚えながらも反論する。羅刹は怖い。しかしそんなことを言われたら否定せずにはいられなかった。自分はまだ誰にも体を許したことはない。相手からしてみれば些細な問題かもしれないが、ナラカからしてみればそれは非常に重要な問題だった。

「……ナラカ殿、場所を変えましょう。この方と話していれば日が暮れます」

そんなナラカと羅刹のやり取りを見ていたアリックは、なんとなく二人の関係性を察したのだろうか。先程までの笑顔を消して、険しい表情でナラカにそう告げる。羅刹の男は一瞬目を見開いたが、すぐにまた下品な笑みを浮かべた。

「逃げるのか?あァ?女を連れて?こんな腰抜けが良いなんて、お前も趣味が悪ィなァ?」
「……参りましょうナラカ殿。私たちはまだ使いを済ませてはいません」
「聞けッつッてんだろうが、腰抜けェ!!」

アリックは羅刹の男の言葉をことごとく無視してその場から離れようとした。しかし羅刹の男は無視されっぱなしなことに業を煮やしたのだろう、声を荒げてアリックの胸ぐらを掴む。アリックとて決して小柄ではないが、羅刹の男に比べたら華奢で細身だ。彼の身体は今にも持ち上がりそうで、ナラカは思わずアリックさん、と叫んでいた。

「……っ、何のつもりですか。私に何か非があるとでも?」
「あァ、あるさ、あるに決まってんだろ!このオレをお前は“無いもの”として扱ったんだからなァ!」
「それがどうしたというのです、あなたとの語らいに意味はない。ナラカ殿も嫌がっておいででしょう。紳士たるもの、引き際も見極めなければならぬもの。それがわからない相手とお話しても意義は見出だせませんよ」

激昂し、瞳を赤く染めた羅刹にアリックは淡々と答える。全く臆する様子も見せず、あまりにも落ち着いた対応。ナラカはそれを素直に凄いと思った。あんなに怖くてたまらない人に、こうも物を言えるなんて、ナラカには考えられないことだ。自分だったら土下座していたかもしれない。そうしたら、相手にとっては思うつぼだろう。自分の矜持を捨てずにいられることは羨ましかったし、何より尊敬に値した。
ぐっ、と言葉に詰まった羅刹に溜め息を吐いてから、アリックはやれやれとでも言いたげに肩を竦める。そして冷めきった視線を羅刹の男へと向けた。

「お話はここまでで構いませんか?それでは私たちは先を急ぐ身ですので、この辺りで」
「……ッざけんな……ッざけんじゃねェぞ!!」

羅刹の手を払い除けようとしたアリックだったが、そううまくいくはずがなく羅刹はますます怒りを露にした。アリックの足が地面から浮き上がる。彼は羅刹の男に持ち上げられていた。このままずっとこの姿勢を保ち続けていたら窒息するかもしれない。

(どうしよう、なんとかしなきゃ……!)

この状況はナラカもまずいと判断した。なんとかしてアリックを救い出したいとは思うが、羅刹の男を相手にどう立ち回れば良いのかわからない。きょろきょろと辺りを見回して、近くに誰かいないかと探す。王宮の兵士たちであればこの状況をなんとかしてくれるかもしれない。羅刹を止めてくれるかもしれない。そんな思いを込めてナラカは人影を探し続けた。それと同時にどうして人気のない場所を選んでしまったのだろうと自分を責めた。一時の判断とは言えもっと考えるべきだった。そんな後悔はナラカの胸を覆い尽くさんとしている。

「……だ、誰か……」

見ているだけだなんて嫌だった。傍観者になどなりたくなかった。怖かった、怖かったけれどナラカは震える声音でそう口にした。誰か助けて、そう言いたかった。
羅刹の視線が此方に移る。アリックの唇がナラカ殿、と動く。何も聞こえなかった。否、ナラカの耳が聞こうとしていなかったのかもしれない。しかしこの際どちらでも良かった。ぶるぶると震えながら、ナラカはすぅ、と息を吸う。

「誰か━━━━!!!」

瞬間、ナラカの横を何かが通りすぎていくのがわかった。ナラカがハッとした時には、もう“それ”は羅刹の前にいる。


「ラビス。こいつらは俺の物だからな。とっとと離れやがれ」


いつも通りの、口角がへらりと上がった笑み。それが今のナラカにとっては最も安心出来るものに他ならなかった。羅刹の男は目の前の男━━━━アロイスを目にして、ひゅ、と小さく息を飲んだ。

「━━━━お兄様」

彼の口から出たのは、先程までの威勢も横柄さも感じさせない、母親に置いていかれた子供のような、そんなか細い声だった。

1ヶ月前 No.113

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1ヶ月前 No.114

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【幕間:視えるが故の横恋慕】


彼は視ていた。

賑やかな市場の様子を。買い物に興じる人々の姿を。それら全てを、ぼんやりと、何の感情も持つことなく、ただひたすらに視ていた。
揉める者もいた。羅刹に襲われかけていた者もいた。それに対してこれといった感慨は抱かなかった。彼にとっては些末なことだった。このシャルヴァで誰が生き、誰が死のうと彼は構わなかった。人の生死は誰かが操れるものではない。魂は流転する。これはある種の悟りなのかもしれなかった。それが彼にとっての“普通”であり、“日常”であった。それが変わるとは、これっぽっちも考えていなかった。

━━━━変わらない。

彼が第一に思ったのはそれである。変わらない、なんの変わりもない、ただの風景。それに退屈と思うことはなかった。否、退屈と思うことがわからなかった。何が楽しくて何が退屈なのか、彼にはまだ理解できていなかったのだ。ただ、“視ることが出来る”から視るだけのことである。其処に他意も何もない。私情など彼は知らなかった。ずっとこの狭苦しい離宮に押し込められて、変わりのない日々を過ごすだけのことだった。食べ物の味も、匂いも、何かを触った感触も、彼にとっては全てがどうでも良いものに過ぎない。食べられれば、嗅げれば、触ることが出来れば、それがどのようなものであっても構わなかった。彼は生を楽しまず、生に悩まず、生に喜ばず、生にすがることは決してなかったのだから。
彼の視線が動く。動いた先には、意外なものが映り込んでいた。彼の瞳は少し見開かれる。多少なりとも驚いたらしい。

━━━━ナーガ……?まだ、存在していたのか……?

それは伝承に聞く神の蛇だった。せっせと仕事に勤しんでいるナーガは、腰に布を巻いて尻尾を隠している。しかし彼の見ている角度からは尻尾の存在がよくわかった。存在するかどうかと言われていた神代の蛇に、彼はほぅと感嘆の息を吐いた。しかしずっとナーガばかりを見ることはない。あれがどのような力を有しているかは不明だが、此方の気配に勘づかれたらいけないと考えたのだ。彼は視線を外して、別のところを見てみることにする。


━━━━!!!


それは衝撃だった。彼の胸中で、何かが爆発した気がした。それなのに苦しみはなく、後に残るのは激しい鼓動と不思議な胸の温かみであった。

━━━━なんだこれは。

跳ね回る胸を押さえ付けながら、彼はおずおずと“その人物”を再び見る。男だろうか、それとも女だろうか。どちらにせよ美しい容姿をしていた。隣にいる、同じくらいの年頃の少年と何やら談笑している。その笑顔はとても眩しくて、然れどずっと見ていたくなる魅力に溢れていた。

━━━━あの子は、誰だ。

どくん、どくんと。これまで鳴っているかもわからなかった心臓がうるさい。この感情は何なのだろう。息苦しさはあるけれど、何処か痺れるような心地よさがある。この感情には、どう対処すれば良いのだろうか。
彼は熱くなった頬を押さえる。あの美しい人はそんなことをしているうちに何処かに移動してしまった。それでも、彼はその美しい人のことを決して忘れないだろう。何故なら、彼の抱いたその感情は紛れもなく“恋”なのだから。

1ヶ月前 No.115

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

【第19幕:賽は既に投げられた】

移動市場が開かれてから二日。商隊たちが去った後の王宮は市場の賑やかさを手放した代わりに日常を取り戻した。移動市場の余韻に浸る者もいれば、また今までと同じように仕事に励む者もいる。どちらにせよ、王宮の日常が送られることに変わりはない。
ナラカはどちらかと言えば前者だ。しかし、それは良い意味でではない。むしろ悪い意味合いが強かった。あれから何処と無くアロイスには話しかけづらくて、少しよそよそしい態度を取ってしまう。だからといってお友達宣言をしたアリックと親しくなったかと言えばそうでもない。たった二日で何が変わるのか、と突っ込まれそうだが、それほどこの二日間はナラカにとって長く感じさせるものだったのだ。

「……どう、したら良いのかなぁ」

脱ぎ捨てた寝間着の上でもぞもぞ動いている餅蜥蜴を、ナラカはつんつんとつつく。相変わらず柔らかい。餅蜥蜴はつぶらな瞳でナラカを見上げてから、こてんと首を傾げた。

「……わからないよねぇ」

ごめんね、と小さく謝ってから、ナラカは餅蜥蜴を持ち上げて自分の肩に乗せる。餅蜥蜴はいつもの定位置に移動すると、ナラカにすりすりと頬擦りした。ナラカは自分でも移動市場の日から事あるごとに餅蜥蜴に話しかけている気がしないでもない。ナラカとてわかっている。餅蜥蜴に話しかけても、結局無駄な愚痴にしかならないということを。この行為には何の意義もない。けれど己の気持ちを外に吐き出すことでなんとなく気を晴らしているような気分になるのだ。餅蜥蜴には申し訳ないと思っている。自分みたいな人間のどうでもいい愚痴を、聞きたくもないのに聞かせているのだから。
息を吐いてから寝間着を畳む。きっと今日もいつも通りの仕事だろう。朝が苦手なナラカは朝食の担当は外してもらい、その代わり昼食と夕食を毎日離宮に運んでいた。だからここのところは寝不足にもならない。畳んだ寝間着を寝台の端に寄せてから、ナラカは扉を開く。

「…………」
「…………おはよ」

う、と告げられる前にナラカは扉を閉めた。何故なら扉を開けた目の前に、アロイスが直立不動で立っていたからである。気まずさ全開の相手を朝一で目にした衝撃は言葉に出来ない。一回深呼吸をしてから、ナラカは再び扉を開けた。

「……なぁ、なんでさっき閉めたんだよ」
「…………すみません…………」

アロイスはいた。継続してその場に立っているままだった。こうなってはもう言い繕うことも出来ないのでナラカは素直に謝っておく。アロイスも特には気にしていないようで、「飯出来てるぜ」とナラカの先を歩いていった。ナラカも小走りで彼の背中を追いかける。
いつも食事を摂っている大きな机のある部屋に行くと、おやつなのであろう桃饅を頬張っている小鈴とアリックがいた。ナラカの姿を見ると小鈴は「ほはほー」とくぐもった声で恐らく「おはよう」と挨拶をし、アリックはふわりと微笑みを浮かべた。

「おはようございます、ナラカ殿。小鈴殿が桃饅なるものを作ってくださいましたので、ナラカ殿も召し上がりませんか」
「こら、まずは朝飯が先だ」

飯の前におやつを食わせるな、と小鈴がアリックに注意する。注意されたアリックはしゅんと悲しそうな顔をした。先程まで完璧な表情だったのに、いきなり人間臭くなってナラカは吹き出しそうになる。失礼なので我慢したが。
今日の朝食は麦飯と葉物の羮、そして何やら瓜を塩に漬けたものだった。漬物のひとつかと思って食べてみたナラカだったが、やはり故郷で食べていたものとはなんだか違う味である。美味しいことに変わりはないが、少し違和感は覚えた。まあ新しい料理としては十分に美味しいものだ。作ってもらっている身分で偉そうなことは言えない。

「……なぁ、ナラカ」

もぐもぐと朝食を口に運んでいたナラカに、非常に言いにくそうな顔をしながらアロイスが声をかけた。噛んでいたものをごくんと飲み込んでから、ナラカはアロイスの方を向く。

「……なんでしょうか?」
「いや、良い。細かいことは昼飯を運ぶ時に言うからよ。邪魔して悪かった」

てっきり何か真面目なことを話し出すのではないかと思われたアロイスだったが、そう言うと桃饅を手に取って食べ始めた。そんな彼を訝しく思ったナラカだが、特にその後気にすることでもないだろうと判断してまた朝食を食べることに集中した。

1ヶ月前 No.116

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

朝食を食べてからは自室で餅蜥蜴と遊ぶなどして時間を潰し、ナラカは昼食を運搬する時刻に再び自室を出た。この仕事を始めてからちょうど一週間程経ったので、一通りの仕事はもう覚えた。この日も慣れた手つきでお盆を持ち、離宮の階段を上る。まずは四階。初日以降、あの危険そうな人物の部屋はアロイスが請け負ってくれているのでナラカが担当しているのは実質一部屋だ。

「……アロイスさん?」

……のはずだったのだが、この日は何かがおかしかった。例の汚い部屋に食事を運び終えて、さあ三階の分の食事を運ぼうと思っていたナラカだったが、もうひとつの部屋の前でアロイスが立ち尽くしているのを見た。何かあったのだろうと察しはしたが、放っておくことも出来ず、ナラカは声をかけたのだった。
ナラカからの呼び掛けに、アロイスはぱっと顔を明るくさせる。訝しげに思ったナラカの前にずいっと近づいてから、アロイスはぱしんと両手を合わせた。

「ナラカ、お前に頼みがある!」
「な……なんでしょう……?」

嫌な予感はした。しかし今更引き下がることも出来なかった。恐る恐るナラカは頼み込むアロイスに問いかける。

「悪いが、この部屋に入って」
「すみません無理です!!」

くれないか、とアロイスが言う前にナラカはそう拒否の姿勢を見せた。もう一度この部屋に入るなんて無理だ。また襲われるかもしれないし今度は五体満足、最悪生きて帰ってこられない可能性だって否定出来ない。だからこそアロイスに頼んだのではないか。逃げようとしたナラカだったが、その前にアロイスが先回りすることで道が塞がれる。ナラカは捕まえられないようにと構えながら、アロイスを睨み付けた。

「ど、どうして今になってそんなことになるんですか!私、生贄になんてなりたくないです!」
「生贄ってなんだよ!こっちにもこっちの理由があってだな……!」
「私三階のお部屋に行かなくちゃならないんです!失礼します!」

これ以上留まっているのは良くないと考えて、ナラカは強行突破を試みようとした。しかし試みようとしたその瞬間に件の部屋からドンドンドンドン、と内側から激しく扉を叩く音が聞こえてくる。駆け出そうとしていたナラカは「ひいっ」とその姿勢のまま硬直した。

「……ねぇ、其処に、いるんでしょ……?」

ひとしきり扉を叩いてから、その奥から聞こえてきたのはやや息切れを含んだ声だった。間違いない、この部屋の住人だ。ナラカは何も言わずにずりずりと後退りする。

「いるならこっちに来てよ……僕の、僕のところに来てよ……!早く、早くこっちに来てよ!」

ドンッ、と一際大きく扉が叩かれる。ただひたすらに恐ろしくて、ナラカは両手で我が身を抱えていることしか出来なかった。あの部屋に入るなんて出来ない、出来るはずがない。ぶるぶる震えているナラカの胸元から、異様な雰囲気を察したらしい餅蜥蜴が顔を覗かせる。ナラカは餅蜥蜴を抱き締めて、ただ震えていることしか出来なかった。

「……落ち着けよ、混血。まだそいつが来るとは決まってない。これ以上騒ぐならお前の望みは聞かねぇぞ」

そんなナラカの様子を見てか、アロイスが扉を一度蹴飛ばしてから内側にいるのであろう人物に向けてそう声をかける。すると相手もアロイスの言うことに納得したのか、一旦は静かになった。それを確認してから、アロイスはナラカに近付いてくる。

「悪いな、押し付けるつもりはないんだ。けどよ、お前があの部屋に入ってから、住んでる奴の様子が明らかに可笑しい。前よりも攻撃的になった上に、お前を出せってしきりに言いやがる。ちょうど、今みたいにな。だから今日だけでも良い、一回あの部屋に入ってくれないか。勿論俺も同伴する。何かあったら俺がなんとかするつもりだ。だから、頼む」

アロイスは頭を下げた。其処に後ろめたいものはなさそうに思えた。少なくとも、ナラカにはそう思えたのだ。ナラカは決して騙されにくい人間ではない。むしろその逆であると自分でも思う。しかし、そんなナラカはアロイスを信じたいと、そう心から思ったのだ。

「……わかりました。私で、よろしければ」

だから、首を縦に振った。まだ怖かったし、震えも収まっていなかったけれど。それでも、ナラカはアロイスの頼みにうなずいたことを後悔してはいなかったし、後悔すまいと決意していたのだった。

1ヶ月前 No.117

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初日にしたのと同じように、ナラカは部屋の扉を軽く三回叩いた。返事はなかったが、それでも「失礼します」と声をかけて、扉を開ける。大丈夫、後ろにはアロイスがいる。いざとなったら彼がなんとかしてくれるはずだ。だから自分は、ただ食事を運べば良いのだと、ナラカはそう自分に言い聞かせた。

(……散らかってる)

部屋の中は、以前にナラカが訪れた時よりもだいぶと散らかっていた。それもただ物が片付けられていないという訳ではなく、何かが暴れたかのような散乱具合であった。脚の折れた椅子を避けて、ナラカは一歩、前に進む。“彼がいるのはわかっている”のだ。しかし住人は姿を見せない。奥の部屋に行ってしまったのだろうか。

「あ、あの……」

なんだか気味が悪くて、ナラカは小さく声を上げた。すると、奥の部屋からどたばたと何かを倒すような音が響く。やはり住人は奥の部屋にいるようだった。
お盆を机に乗せてから、ナラカはアロイスを見る。このまま待っていた方が良いのか。アロイスは何も言わず、こくりとうなずくだけであった。まだ此処にいた方が良いのだろうか。彼の真意はわからなかったが、ナラカはひとまず留まっておくことにした。それでも住人が出てこなかったら、帰って良いかアロイスに聞くことにしよう。そう考えていると、奥の部屋から足音が聞こえ、そして住人である男性が姿を現した。

「……!」

その時の彼の雰囲気といったら、思わずナラカがこのまま目の前の男性は天国にでも行ってしまうのかと考えるほどのものであった。全身から幸せそうな雰囲気がかもし出されている。彼は一歩一歩、ナラカに近付いてくる。後退りしてはいけない気がして、ナラカも両足を踏ん張った。

「ほ……本当に……本当に、来てくれたんだね」

男性は、ナラカの目の前まで歩いてくると、高いところから彼女を見下ろした。小柄なナラカとひどく上背の高い男性では、かなりの身長差が生まれるのだ。男性はその大きな手翳し、ナラカの頭上に影を作る。ひゅ、とナラカの喉が鳴った。触られる。そんなの嫌だ。でも此処で逃げたくはない。こんなところでまた揉めたくはないし、きっとアロイスにも迷惑がかかる。自分から争いの火種なんて作りたくない。

「さわ、触ったら呪いますよ……!」
「呪……!?」

だからナラカは必死で、男性に向けて触るなと伝えたはずだった。また呪ってやると宣言したのだ。しかし今度はアロイスが変な反応を返して、なんとも言えない異様な空気が生まれてしまった。男性はというと、長い前髪の奥で笑顔を浮かべている。何が可笑しいのかは知らなかったが、正直ナラカはこの状況で笑えるなんてどんな神経をしているんだと素直に思った。

「ふふ、君、本当に面白いことを言うんだね。僕、どんな風に呪われるの?教えて?」
「ど、どんな風に……!?え、えっと、顔に、吹き出物が出来るとか……」
「地味だな……」

至極楽しそうに問いかけてきた男性に戸惑いながらも答えたナラカだったが、アロイスの呟きによってなんとなくやってしまった感が拭えない感じになってしまう。相手を引き剥がそうと考え出した答えなのに、逆に楽しませてどうするのだ。悩むナラカの心など知らないであろう男性は、相変わらず笑顔を浮かべたまま此方を見ている。

「君、どのくらい此処にいられるの?僕と、どのくらいお話出来る?」
「え……えぇ……どのくらい、とは……」
「何日くらいなら此処にいても怒られない?僕のところにずっといても良いんだよ。そうしたら僕のこと呪い放題でしょう?好きなだけ呪えば良いよ。僕はそれで満足だから。ねぇ、どうなの?」

うきうきとした表情で男性はナラカに顔を近付ける。長い前髪の隙間から、意外に大きな瞳が見えた。しかしナラカは言葉をなんとか捻り出そうと四苦八苦するばかりだ。だって好きなだけ呪って良いなんて、そんなことを言われるなんて思ってもいなかったのだから。これではナラカが呪い大好きな人間のようになってしまうではないか。ナラカは決してそういった陰湿な趣味は持っていない。たしかに餅蜥蜴と遊ぶとか、もう少しやることはあるだろうと責められてしまいそうなことをしているけれど、それでも呪い専門の人間ではないのだ。
明らかに追い詰められかけている形のナラカを見かねたのだろう、彼女の後ろにいたアロイスが「ちょっと待った」と待ったをかけた。ずっとにこにこしていた男性の顔に陰りが出来る。

「……何?」
「こいつは宮廷薬師のところで働いている。お前一人にばかりかまけてはいられないんだよ」
「じゃあ辞めれば良いじゃない。そうして、僕のところで働けば良いよ」
「こいつは宮廷薬師のところで働きたがってるんだ。また嫌われたいのか?」

瞬間、男性の表情が歪んだ。ナラカからは口元しか見えなかったが、それは憎しみや嫌悪といった感情に歪められていた。先程までの笑顔は消えて、彼からははち切れんばかりの殺意がにじみ出る。

「……君は何なの?僕を好きなだけ邪魔してさ。そんなに僕のことが嫌いなら、さっさと殺せば良かったのに」
「俺とて法は破りたくねぇよ。お前を裁くのは俺じゃなくて国だ。お前を殺すのもそうだろうよ」
「国、国って。君、本当にそう思ってるの?ティヴェラが第一だって、本当に思えるの?僕にはわからないよ。ティヴェラなんて、さっさと滅んでしまえば良いのに」

二人の間に、言葉では形容し難い刺々しい雰囲気が流れる。そんなやり取りをする大の男二人に挟まれながらも、ナラカはある疑問を覚えていた。

(ティヴェラの滅亡を望む……ってことは、この人はアーカム側の人……?でも、エルトの野郎は羅刹を見たことがないみたいだったのに……)

目の前の男性には羅刹らしいところがある。しかし、だとしたらエルトの言動に齟齬が生まれるのだ。ナラカの中で記憶の糸が絡まり合う。何がなんだかわからない歯痒さがナラカを襲った。

「あの、すみません」

睨み合う二人の間に入ることは怖かった。けれど聞かずにはいられなかった。故にナラカはそっと手を挙げて、そう切り出したのである。

「お……お聞きしたいことがあるんです。私が、個人的に。ですから、その……よろしいでしょうか?」

おずおずと問いかけたナラカに、男性は驚いたような表情をしながらも殺意をしまった。そして、僅かに口元を弛めると、ナラカに向けて微笑みかける。

「良いよ。でも、話すなら君と二人が良いなぁ。あっちの部屋で、僕と二人きりでお話するっていうのなら、僕は構わないよ」
「おい、それは……!」
「君は黙っててくれる?」

男性の提案に反論しようとするアロイスだが、彼はそれも見越していたのか笑顔のままそう牽制した。再びぴりぴりとした空気が流れた室内だったが、ナラカは無理矢理その空気をぶった切ろうと試みる。

「わかりました。大丈夫です、アロイスさん。少し、お話するだけですから」

ナラカがそう言うと、アロイスも納得したのか「……そうかよ」とだけ口にして近くにあった壁に寄り掛かった。それを確認した男性は再度笑顔を取り戻すと、「行こう?」とナラカを促した。

1ヶ月前 No.118

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男性はナラカを奥の寝室へと案内した。其処も案の定散らかっていて、まともに座れそうな椅子はなかった。詰まるところ、ほとんどが破壊されていたのだ。ほぼ脚が折れてしまった椅子たちに戸惑いを隠せないナラカを知ってか知らずか、男性は「座って」とナラカを促した。

「す……座るって、何処に……」
「此処。椅子、使えないでしょう?」

男性が指差したのは寝台の上だった。一瞬ナラカは躊躇いを見せたが、にこにこと口元を綻ばせながら指を差し続ける男性に「無理です」と言うことは出来ずにおずおずと其処に腰を下ろす。まだほんのりと温かい。そう遅くない時間まで寝ていたのだろうか。とりあえずナラカは細かいことには突っ込まないことにした。そうでもしなければこの空間から出ていきたい気持ちに押し潰されてしまう。だって男性は何の前触れもなく、自然にナラカの隣に座ったのだから。

「それで、聞きたいことってなぁに?」

長い前髪をふわりと揺らしながら、男性が首を傾げる。これまで頑張ってどのように聞こうかと考えていたというのに、少し近付かれただけでナラカは緊張に縛り付けられていた。

「あ、あのですね」
「うん?」
「ま、まずはその、お名前を、教えていただけませんか」

最初に質問しようとしていたことを完全に忘れてしまったナラカは、震える声音でそう男性に提案した。彼はきょとんとしたのか、一瞬言葉を発しなくなったが、すぐに周りの雰囲気を明るくさせた。

「そっか、そうだねぇ!まだ僕、君に自己紹介してなかったねぇ。すっかり忘れていたよ」
「そ、そうですか……」
「僕はスメルト。君の名前は?」

スメルトと名乗った男性は早々に自分の自己紹介を終えると、ずいっと顔をナラカに近付けてそう問いかけてきた。あまりにもあっさりと名乗られてナラカは戸惑ったが、此処で断ったら何をされるかわからないという恐怖もある。今更引き下がってはいられない。

「私、は……ナラカ、と、いいます」
「ナラカ。ナラカかぁ。うふふ、なんだか不思議な名前だね。うん、でも君の名前なら僕は良いと思うよ。どんな意味の名前なの?」
「え……と。よく、わかりません、けど……あまり、良い意味ではなかったはず……」

ナラカの名前を聞いて、スメルトは興味津々という素振りを見せる。しかしナラカはあいにくと自分の名前が好きではない。だからスメルトの質問にはうやむやな答えしか出せなかった。それに、そんなことよりも此方から質問したいことだってあるのだ。忘れないうちにスメルトに聞いておかなければなるまい。

「あ、あの、スメルトさん。幾つか、お聞きしても……?」
「あぁ、そうだったね。僕に聞きたいことがあったんだっけ。勿論大丈夫だよ、どんどん聞いて?」

こてん、と小首を傾げるスメルトは幼い童子のようであるが、いかんせん体格がよろしすぎてナラカは萎縮するしかない。もともと小柄なナラカと大柄を超えた上背のスメルトでは身長差が有り余って仕方ないのだ。ごくり、と唾を飲み込んでから、ナラカは恐る恐るといった様子で口を開く。

「す……スメルトさんは、アーカムの、出身なんですか……?」
「アーカムの、出身?僕が?」

ナラカからの問いかけに、スメルトの口元から笑みが消える。これはまずいことを言っただろうか。身を竦めるナラカを、前髪の間からスメルトの瞳が移す。

「……どうして、そう思ったの?」
「え……ど、どうしてって……」

スメルトから問いかけ返されて、ナラカは一瞬口ごもった。これは素直に言っても良いものなのだろうか。アーカムは既に滅んだ国だ。それについてむやみやたらと話すのは不謹慎だし、加えてナラカの立場を疑われる可能性だってある。たしかにエルトはティヴェラに報復するとか、そういったことを言っていた。しかしナラカにそんなつもりは微塵もないのだ。エルトだけならともかく自分まで疑われるのははっきり言って御免だった。
けれど、スメルトの視線を受けてこの質問には答えねばならないと思った。何故かはわからないし、根拠もない。だが此処でスメルトに逆らってはいけない気がした。なんとなく、あくまでもなんとなくなのだが。

「だって……あなたは、ティヴェラのことがあまり好きではないみたいだから……」
「……それで、アーカムの出身じゃないかって思ったの?」
「……はい。アーカムの人は、ティヴェラを良く思っていないと、聞いたことがあるので……」

それを聞いたスメルトは何かを考えるように顎に手を遣った。しばしの沈黙。それがナラカにとっては苦しくて仕方がない。しかしスメルトは突然「……ふふっ」と小さく笑んだ。何の脈絡もなく笑い出されるのは気味が悪く、ナラカはびくりと肩を揺らす。

「そっか。君は“知らない”んだね。それなら仕方がないよ。たしかに僕はティヴェラが好きじゃないけれど、アーカムの人間ではないんだ。詳しいことは、あっちで待っている羅刹に聞くと良いよ。彼なら、きっと色々知ってるはずだからね」
「は、はぁ……」
「ふふ、長くなっちゃったね。これ以上お話してたら羅刹に怒られちゃうから、そろそろ帰った方が良いよ。またお話しようね、ナラカ」

なんだか腑に落ちないままではあったが、たしかにこれ以上話していたらアロイスに心配をかけてしまいそうなのでナラカはこの場を去ることにした。帰り際、寝台に座ったままひらひらと手を振るスメルトに一礼してから、ナラカは足早にその場を後にした。

1ヶ月前 No.119

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1ヶ月前 No.120

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1ヶ月前 No.121

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1ヶ月前 No.122

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部屋に戻ると、少年は変わらずヴィアレの寝台で横になっていた。ヴィアレが扉を開けるとうっすらと瞳を開けて、弱々しく右手をヴィアレに向けて伸ばす。ヴィアレは急いで彼のもとに向かうと、その手を握ってやった。

「ただいま。遅くなってすまない」

ヴィアレの言葉に、少年は小さくうなずく。少し安心したのか、表情が柔らかくなっている気がした。その表情に安堵してから、ヴィアレは鞄の中に入れてきた竹筒の一本を取り出して戸棚から取り出した器に水を注いだ。それを少年の口元に近付ける。

「水だ。飲めるか?」

ヴィアレからの問いかけに、少年はこくりと首を縦に振った。器を口に付けてやると、少年はゆっくりと水を飲む。急に注ぎすぎないようにと慎重にヴィアレは器を傾けた。
少年が水をすべて飲み終わったので、ヴィアレは手拭いに別の竹筒の水を浸して少年の額に置いた。まだぼんやりとしている少年の頭をそっと撫でてやると、彼は頬を綻ばせた。

「今日はもう休むが良い。何かあっても大丈夫だ、我が此処にいるからな」
「……わかった……」

か細い声でそう告げてから、少年は沈みこむように眠りについた。先程よりも規則正しい寝息に胸を撫で下ろしてから、ヴィアレは彼の顔を流れる汗を拭く。

(……何故、このような……)

彼の看病をしながらヴィアレは思う。何故このような幼い子が王宮で倒れていたのだろうと。理由はあるのだろう。あってもらわなければヴィアレが困る。ただ、今の少年に問い質しても意味がない。状態が良くなるまでゆっくり休んでもらって、体調が万全の状態になったら諸々のことを聞いてみることにしよう。……そんなことを考えていた矢先、こんこん、と部屋の扉が外側から叩かれる音が聞こえてきた。

「……?」

アリックだろうか、と初めは思ったヴィアレだったが、アリックなら合鍵を持っているはずだった。故にこの訪問者はアリックではない。だとしたら誰か。ヴィアレは暫し考えてみたが、心当たりはなかった。グラネットもエミリオもこんな他人行儀な叩き方はしないし、第一外から声をかけるはずである。だとしたら誰なのだろうか。疑わしさはあったが、いつまでも待たせるものではないのでヴィアレは扉に近付いていく。出来るだけ開きすぎないように、と扉を細く開いて外を見た。

「…………」

其処にいた人物は、ヴィアレが顔を覗かせても何も言わなかった。ただ、何も言うことなくヴィアレのことを見下ろしていた。本当に、見下ろすだけだった。しかしヴィアレは息を飲み、同時に鼓動が早くなるのを感じる。

「な……何故、そなたが……!?」

夜闇に紛れてしまいそうな黒衣。その上からこれまた真っ黒な鎧を身に付けて、兜の奥からヴィアレに視線を送る男。その姿を忘れたことはない。忘れるはずもない。ヴィアレは彼に何かをされたという訳ではないが、彼の話や伝承はよく覚えていた。
輪廻の忌み子、シュルティラ。彼は何の前触れもなく、ヴィアレの部屋を訪れた。それだけでヴィアレは緊張せざるを得ない。彼は言葉を話せないのだろうか、ただ無言でヴィアレのことを見つめている。不気味な容貌に加えて謎も絡み付き、ヴィアレは思わず扉を閉めてしまいそうになった。しかし、グラネットやエミリオ、そして中にいる少年のことを考えたらこのまま逃げるわけにはいかない。自分のせいで周りの人間にまで迷惑をかけるのだけは避けたかった。

「……何か、用か?」

恐る恐る問いかけると、シュルティラは無言で懐に手を伸ばした。武器でも取り出されるのかと身構えたヴィアレだったが、シュルティラが取り出したのは帳面と板に挟んだ細い黒鉛だった。帳面の頁を捲ると、シュルティラは黒鉛で其処にさらさらと何かを書き付ける。そしてその頁をヴィアレに見せてきた。

《聞きたいことがある》
「な……何だ、聞きたいこととは」

ヴィアレの問いかけに、シュルティラは少し考えてからまた黒鉛を走らせる。書く速さは速いというのに、彼の書く文字は不思議と読みやすかった。

《此処では話しにくいので部屋に入れて欲しい》
「部屋に……?」
《悪いようにはしない》

そう書いたものを見せてから、シュルティラはその頁に《本当だ》と書き足した。頁を見せてくるシュルティラをヴィアレは注視する。相変わらず顔は見えない。しかし彼は武器も持っていないし、物腰も柔らかなもので、此方に危害を与えようとしているようには思えなかった。

「……わかった」

一言、そう言ってからヴィアレはシュルティラを部屋に招き入れる。シュルティラは頁に《感謝する》と書いてから、ヴィアレの後に続いた。

1ヶ月前 No.123

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普通は何か出すべきなのだろうが、これといって出すものもなくヴィアレはシュルティラに座るよう促した。シュルティラは少年の寝ている寝台にちらと視線を送ってから、ヴィアレに促された通りに椅子に座った。

「して……聞きたいこととは何なのだ」

自身も腰を下ろしてから、ヴィアレはシュルティラに問いかける。シュルティラは一度閉じた帳面をまた開くと、さらさらと手際よく黒鉛を走らせた。

《其処の少年についてだ》
「……!」

一瞬、ヴィアレの身体は金縛りに遭ったかのように硬直した。シュルティラの目的はヴィアレが看病したあの少年。だとしたら少年はこの王宮、あるいはティヴェラ国にとって重要な立ち位置ということになるのではないか。ヴィアレの背中を冷や汗が伝う。もしかしたら、自分はとんでもないことに首を突っ込んでしまったのかもしれないという不安がヴィアレの身体中を襲った。
そんなヴィアレの様子を見て、シュルティラは無言で帳面の頁を捲ると其処に何かを書き付けた。そしてその頁をヴィアレに向ける。

《まずは落ち着け》
「…………」
《焦るのは良くない》
「……わかっている」

シュルティラのような明らかに“非日常”に接している人物に落ち着け、なんて言われるのが不自然で、ヴィアレは所在なさげに彼から目を逸らした。聞いた話によるとシュルティラは酷く恐ろしい存在であった。それが常識的なことを言うなんて、考えられなかったのだ。

《其処の少年が何者か、お前は知っているか?》

ヴィアレが落ち着いた頃合いを見計らってか、シュルティラがそう問いかけてくる。ヴィアレは何も言わずに、ただふるふると首を横に振った。

「知らぬ。其処な少年とはつい先程会ったばかりでな。熱があるようであった故、放っておくことが出来なかった」
《話はしたのか?》
「一言、二言程度だ。簡単な受け答えに過ぎぬ」
《そうか》

シュルティラはひとまずそう書いてから、何か考え込むように顎に手を遣った。甲冑姿なのでなんだか少し不恰好である。シュルティラでも人間らしい姿を見せるのだな、となぜかヴィアレは感慨深くなった。

《驚かないで聞いて欲しい》
「な……何だ?」

しばらく考えてから、シュルティラはそう切り出した。勿体ぶるような口調に、思わずヴィアレは身を乗り出す。シュルティラは先程よりも長い時間、黒鉛を走らせていた。どうやら何か長い話をするようだ。自然とヴィアレも緊張して、生唾を飲み込んでしまう。

《其処の少年はティヴェラ王家の血を引いている》
「お、王家の血を!?」

がたん、と思わずヴィアレは大きな音を立てて立ち上がるが、シュルティラにしぃ、と人差し指を唇に当てられて渋々と座った。何故だろうか、子供扱いされている気がしてならない。シュルティラが何歳なのかは知らなかったが、少なくともエルトとそう離れてはいないはずである。たしかエルトは20歳だと言っていたから20代前半、といったところか。エルトによればあまり歳が開いている訳ではないと言っていたから、さすがにヴィアレと10も20も違うということはなさそうだ。

「しかし……そのような血筋の者が何故此処に?それに、どうしてそなたはその……王子殿を訪ねたのだ?」

また注意されるのは嫌なので、ヴィアレは声を潜めてシュルティラに尋ねる。シュルティラはまた何かを書いてから、ヴィアレに帳面の頁を見せた。

《王子ではない》
「え……?」
《正確には元王子だ》

シュルティラはおもむろに立ち上がり、少年の眠っている寝台に近付いていく。何かされるのではなかろうかと、ヴィアレはすぐに彼の後を追いかけた。シュルティラは少年を見下ろしながら、その火照った頬を小手を嵌めた手でそっと撫でる。その仕草は酷く優しいもので、ヴィアレはぱちぱちと何度か瞬きをした。

「その……シュルティラ、殿」
《シュルティラで良い》

声をかけると、シュルティラはもともと書いていたのか素早く頁を捲った。一応ティヴェラ国の要人だというし、呼び捨てにするのは如何なものだろうかと思う。しかし本人が良いと言っているのだから従うことにしよう。

「この子を……我は、これから一体どうすれば良いのだ?」
《この子は今離宮から脱走し、それによって捜索されている身だ》
「捜索……!?ならば、今日王宮が騒がしかったのはこの子が離宮から逃げ出したからか……!?」

何の前触れもなくそう書いたものを見せてきたシュルティラにヴィアレは詰め寄ろうとしたがまた子供扱いされるのは好ましくなかったのですぐに引き下がった。シュルティラはそんなヴィアレを少しの間眺めていたが、すぐに何かを書き始める。

《この子はひとまずお前に任せたい》
「な、何故、我が」
《今は別件の方を優先したいが、その子を出してはややこしいことになるからだ》

だから頼む、とでも言いたげにシュルティラは両手を合わせる。ヴィアレとしては面倒事に巻き込まれたくはなかったが、何せシュルティラが頼んでいるのだ。それを断れる程ヴィアレの度胸は据わっていなかった。こくり、と首を縦に振ると、シュルティラの纏う空気が幾分か柔らかくなった。ヴィアレに断られると思っていたのだろうか。だとしたらシュルティラは相当な思い違いをしている。

《請け負ってくれて感謝する》
「……それで、我はどうすれば良いのだ?」
《その子の面倒を見る、ただそれだけで良い》
「しかし……我も仕事があるのだが……」

さすがに仕事を犠牲にする訳にはいかない。グラネットやエミリオに迷惑をかけてしまうのは嫌だ。シュルティラはヴィアレの言葉を聞くとすぐに返答を書き出す。

《問題はない》
「え……?」
《詳しいことは後から聞け、とにもかくにもその子は一人でも大丈夫だ》

シュルティラの言っていることがわからないヴィアレを尻目に、シュルティラはすたすたと扉に向けて歩いていってしまう。扉の前で、ふと何かを思い出したのかシュルティラは立ち止まると、すっと帳面を見せてきた。

《欲しいものはないか》
「欲しいもの……?」
《何か欲しいものがあれば部下に運ばせる》
「え……では、肌着と着替えを……」
《了解した、明朝に持ってこさせる》

いきなりのことに戸惑うヴィアレに対して真面目に対応してから、今度こそシュルティラは彼の部屋を出ていった。出ていき際にぺこっと頭を下げるのを忘れない辺りがなんだか彼の壮絶な伝承と合わない。意外と礼儀正しい人なのだろうか。そんな風に思いながら、ヴィアレは込み上げてくる欠伸を噛み殺す。そろそろ寝なければ。今夜は色々とありすぎて疲れた。伸びをしながら、ヴィアレは寝仕度を整えるために準備を始めたのだった。

1ヶ月前 No.124

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揺らされているのがわかった。ゆさゆさと、自分の身体を誰かが両手で揺らしている。ヴィアレの意識は微睡みの中からゆっくりと頭をもたげた。霞む視界に、ぼんやりと金色の丸みを帯びた何かが見え隠れする。

「……?」

疑問に思って手を伸ばしてみると、むぎゅっと手を掴まれた。そのままにぎにぎと手をこねくり回される。これまでこんな触り方をされたことはなくて、ヴィアレはきょとんとしてしまった。それと同時に、意識は段々と明瞭になっていく。ゆっくりと起き上がってみると、自分の寝台の傍に誰かがいるのがわかった。

「あ、起きた……!」

至極嬉しそうな、まだ声変わりをしていない中性的な声が聞こえる。ヴィアレがそちらに顔を向けてみると、昨日出会ったあの金髪の少年がいるではないか。ヴィアレは慌てて空いている方の手で彼の肩を掴む。

「そ、そなた、起き上がって大丈夫なのか……!?」
「うん。もう大丈夫。身体も軽いし、腹も減った」

少年はそう言って、ヴィアレの手をぎゅっと握る。たしかに昨夜とは見違える程に少年は元気そうだ。顔色だって悪くはないし、触った限り熱があるようにも思えない。しかし、ヴィアレは違和感を覚えずにはいられない。

(……なつかれている?)

そう、少年は自分に対して好感を持っているように見える。それは悪いことではないと思うのだが、昨日の今日にしてはべったりし過ぎてはなかろうか。第一、友人なるものはこんな風な触り方をしないはずだ。ヴィアレはこういった触れあい方をしている者をかつて見かけたことがある。ナラカと餅蜥蜴だ。餅蜥蜴は片時もナラカの傍を離れようとせず、何があっても彼女の傍にいようとしていた。その餅蜥蜴がナラカに頬擦りをするのと、目の前の少年がなぜだか重なって見えたのだ。

「え、えぇとだな。着替えたいので、少し離してはくれまいか」

とりあえずずっと寝台にいたままというのもどうかと思うので、ヴィアレはそう切り出してみる。少年は嫌な顔ひとつすることなく、「ん」と首を縦に振った。素直だ。餅蜥蜴はナラカが離れろと言っても離れない。何がなんでも彼女の傍にいようとする。その辺りは異なっているようだった。
ヴィアレが着替えている間、少年は気を遣っているのかどうか知らないが後ろを向いていた。別にヴィアレはそういったことを気にする質ではないので、少し見られたくらいどうということはない。そのため少年の行動には首を傾げたくなった。逆に着替えをまじまじと見られるのもそれはそれで気になるものだが。

「……終わったぞ?」

声をかけなければずっと少年が後ろを向いていそうな気がしたので、ヴィアレはそう声をかけてやる。すると少年はおずおずと振り返り、ヴィアレの着替えが終わったことを確認するととことこ近付いてきた。ヴィアレの肩口までしかない身長の少年は、真っ青な瞳で此方を見上げてくる。

「……お前、名前は何という?」
「わ、我か?」
「他に誰がいるのだ」

唐突に名前を尋ねられて、ヴィアレは一瞬戸惑ってしまう。しかし拗ねたような表情をしながら訴えてくる少年に、これは答えなければという義務感に襲われた。端的に言えば、少年の仕草や表情が可愛らしかったのである。

「我はヴィアレという。好きに呼んでくれて構わんぞ」
「ヴィアレ……ヴィアレか。うん、覚えた。俺はルタ。ルタだ。呼び捨てにしても良いんだぞ、ヴィアレ」
「わ、わかった」

良いんだぞ、と言っているルタだが、明らかに表情は「呼んで欲しい」と物語っている。そんなルタに押されて、ヴィアレは苦笑いしながらなんとかうなずいた。まるで弟でも出来たかのような気分だ。しかしこういうのもなかなか悪くはない。
……と思っている最中、とんとんと控えめに扉が叩かれる音が響いた。誰かはわからないが、可能性としては昨日シュルティラが言っていた彼の部下という線が高い。しかしそうでない可能性もなくはないので、ヴィアレはひとまずルタに「我が出よう」と告げておいた。ルタは反論することもなく、こくりとうなずいて部屋の奥へと下がった。それを確認してから、ヴィアレは扉を開く。

「……上司に頼まれて来たのだが」

其処にいた人物はヴィアレよりも背が高かった。冷俐そうな視線には戸惑いの色が色濃く混じっている。しかし動揺したのはヴィアレもまた同じことで、ひゅ、と息を飲み込んでからなんとか彼の名前を呼ぶ。


「さ……サヴィヤ……?」


かつて集落で出会った美男子、サヴィヤは複雑そうな表情のまま首を縦に振った。

1ヶ月前 No.125

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29日前 No.126

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【第21幕:惨禍の記憶は引き金となりて】


━━━━あれから1日が経った。

離宮の階段を上りながら、ナラカは沈んだ気分を抑えられずに溜め息を吐いた。離宮の住人が脱走したとあって、昨日は長時間の取り調べを受けた。まず第一発見者のナラカは王宮の兵士たちに囲まれながら彼らに経緯を説明するにあたった。ナラカの供述は怪しいところがないと判断されたのか、それ以上疑いの目を向けられることはなかったのだが、代わりに怪しいとされたのがナラカの代わりに例の部屋へと食事を運んだアリックであった。アリックは取り調べの部屋に連れていかれてからナラカとは比べ物にならない時間の取り調べを受けた。ナラカが眠る頃にもまだ取り調べは続いていたらしく、アリックが帰ってきたのは深夜だったと小鈴は言っていた。

(小鈴さんは、外部の人間の仕業じゃないかって言ってたけど……)

小鈴やアロイスはアリックの仕業ではないだろうと言っていた。しかしナラカとしてはそれらの言葉に素直にうなずくことが出来ない。決してアリックを疑いたい訳ではない、訳ではないのだが、その時に自分がアリックを見ていたという訳ではないので一様に是非を決めることが出来ないでいるのだ。

「……失礼します」

いつもより兵士の多い離宮は居心地が悪い。ナラカは重苦しい雰囲気に押し潰されそうになりながら、まずティルアの部屋へと入った。彼女はナラカの声が聞こえるといつも「はぁい」と明るく返事を返してくれる。この日もいつもと変わることなく返事が向けられた。ナラカが扉を閉めると、奥の部屋からティルアがぱたぱたと小走りでやって来た。

「こんにちは。今日もありがとうね」
「……はい」
「……どうしたの、元気がないじゃない。何か辛いことでもあったの?」
「いえ、そういう訳では……」

沈んだ表情はわかりやすかったのか、ティルアは心配そうに眉尻を下げながらナラカの顔色を窺った。離宮の住人にこんなことを話して良いものかわからなかったので、ナラカはふるふると首を振って否定の意を伝えようとする。そんなナラカを見て、ティルアは困ったように苦笑した。

「あなた、嘘を吐くのが苦手なのね。とりあえずこっちにいらっしゃいな、ずっと立ったままじゃいけないわ」

着いていくべきなのか。迷いはしたが、この時彼女にしては珍しくナラカはなんとなく誰かの傍にいたいと思った。見たところティルアは此方に害を為すような人物には見えないし、これまでの振る舞いを見てきた上で大丈夫だろうとナラカは判断したのである。彼女の背中を追いかけて部屋へと入り、いつも置いている机にお盆を置いた。そうしていると、ティルアが二脚の椅子を此方に持ってくる。

「さ、座って。あまり座り心地は良くないけれど……」
「い、いえ。ありがとうございます」

わざわざ椅子を出してくれただけでもありがたいので、ナラカはぺこりと頭を下げる。その様子を見たティルアはくすりと笑みを浮かべてから自分も椅子に腰を下ろした。

「…………」

しかし、どう話したものかよくわからなくて、ナラカはつい黙りこくってしまう。それを見ているティルアがにこやかなのも辛い。話の切り出し方というものは慣れていないと難しいもので、案の定ナラカは慣れていなかった。もぞもぞと居心地悪そうに足を擦り合わせているしか出来ないのが歯痒い。なんとか話題を見つけなければ。喉の奥をもごもごとさせていたナラカは、思いきって口を開く。

「あっ、あの!」
「?何かしら?」
「ティルアさんのお隣の部屋の方って、どんな方なのでしょうか!?」

沈黙。自分で言い出しておいてナラカはすぐに後悔した。何を言っているんだ私は。出来るだけ外部の事情を知らせないようにと伝えられているのに、件の騒動に勘づかれそうなことを口に出してしまった。次ぐべき言葉も見つからずまたナラカは口ごもってしまう。しかしティルアは少し首を傾げただけだった。

「会ったことがないの?」
「……はい、いつも伺った時には奥のお部屋にいらっしゃるようで……お顔も、拝見したことがないんです」
「それで気になったのね。たしかにあの子は人前に出ることはなさそうだから、あなたがそう思うのも無理はないと思うわ」

ティルアはうんうんとうなずいてから、何処か遠くを見るような眼差しをたたえた。何故そう見えたのかはわからない。しかしナラカには、彼女が何か懐かしむような表情を浮かべているように見えたのだ。


「私の隣の部屋の子の名はルタ。現在のティヴェラ国王の嫡子よ」

28日前 No.127

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「ちゃ、嫡子……!?」

ティルアの言葉に、ナラカは思わず椅子から立ち上がった。シャルヴァの生まれではないナラカでもティルアの言ったことの意味はわかる。つまり、あの部屋の住人━━━━脱走したのはティヴェラ国の王族、しかも王子ということになるではないか。

「で、でも、嫡子ってことはいずれティヴェラ国の王になる方ですよね……!?どうしてそんな方が、この離宮にいらっしゃるんですか!?」

ティルアの言ったことに疑問を覚えたナラカはすかさずティルアを問い詰め……ようとして、自分が酷く焦燥していることに気が付いた。なんだか申し訳なくなって、そのままナラカはすごすごと椅子に戻る。それを確認してから、再びティルアは口を開いた。

「……あなた、知らないの?三年前のこと」
「三年前……?」
「そうよ。シャルヴァの人間なら、誰でも知っているものかと思っていたのだけれど……」
「……すみません、覚えていなくて……」

三年前。何かあったなんてナラカは聞いていない。せいぜい十年前のティヴェラとアーカム間の戦のことくらいだ。知らないことは知らないので仕方がないのだが、シャルヴァの外の人間ということは露見しないようにとナラカは心掛けた。シャルヴァの人間にとって、外界というのは酷く汚らわしいものだと聞いたから。

「……たしかに、覚えていて良いことではないものね。良いわ、教えてあげる」
「……ありがとうございます」
「三年前、シャルヴァを統一したティヴェラ国で内乱が起こったの。きっとこれまでにないくらい規模が大きかったと思うわ。それだけの内乱だったのよ」

記憶の糸を手繰り寄せるように、ティルアは訥々と語り始める。三年前、というとナラカはまだ地上にいた。その頃はきっと、現在の生活を失うとも、自分が今後地底世界で暮らすことになるとも思っていなかっただろう。

「あの……内乱って、やっぱりアーカムの方が起こしたんですか?」

ふと気になって、ナラカは律儀に挙手をしてティルアに問いかけた。もし旧アーカム領の者が首謀者だったのなら、ノルドたちがナラカにそれを隠したのもなんとなく理解出来るからである。━━━━しかし、ナラカの思惑とは逆にティルアはふるふると首を振った。

「……いいえ。アーカムの人間はその内乱に参加していなかったわ。参加出来なかったのよ」
「参加、出来なかった……?」
「だって首謀者たちの本拠地は旧アーカム領から大きく離れたところにある……北の荒れ地だったのよ。ティヴェラはおろか、旧アーカム領から其処に向かうとなったら、かなりの時間がかかるわ。よっぽどの装備をしていかなきゃ、途中で倒れてしまうに決まってる」

ティルアの言葉はナラカにとって衝撃的なものだった。それは決して自分の解釈が間違っていたからではない。ナラカは頭の中でティルアの述べた言葉を反芻する。

(北の、荒れ地……?そんな場所、知らない……)

それほど危険な場所がシャルヴァにあるというのか。ノルドにシャルヴァの一応の地図は描いてもらったが、彼からは北の荒れ地なんて言葉を教えてもらわなかった。ナラカはごくりと唾を飲み込んでから、再びティルアに問いかける。

「……そんな場所に、住んでいる人がいるのですか。それに、そんな場所の人々が、どうしてわざわざティヴェラ国に反乱など起こすのです?だって、距離もあって、それなのに反乱を起こすなんて、自滅してしまうんじゃ……」
「……普通は、そうなの。普通の人間なら、まずあり得ないの。普通の人間なら、そんなところから反乱を起こそうなんて夢にも思わないわ」

まるでかつての戦禍を恐れるかのように、ティルアはその細い身体を震わせる。普通の人間なら、と彼女は言った。ならば反乱を起こしたのは人間ではないというのか。人間以外に反乱など起こせるというのか。ナラカは一瞬ティルアの言葉を否定しかけようとして、はたとひとつの考えに思い至る。誰もが恐れるもの。人間のように見えて、人間からはかけ離れた力を有したもの。ナラカの喉の奥からひゅ、と小さな音が鳴った。口に出すのは恐ろしい。しかしナラカの唇は自然と言葉を紡いでいた。


「羅刹、ですか。内乱の首謀者は」


ティルアは何も言わなかった。ただ、おもむろに首を縦に振る。やっぱり、という思いがナラカにはあった。そしてそれと同時に、ある記憶が彼女の中で鎌首をもたげる。

『そっか。君は“知らない”んだね』

昨日の、スメルトの言葉。それがやけに胸の中で引っ掛かっていた。結局アロイスに聞くことは出来なかったけれど、ナラカは覚えていた。まさか、と思う。まさかそんな偶然があってなるものかと、否定したい気持ちもあった。

(……でも、聞かなくちゃ)

ぐ、と胸元を握り締める。件の部屋の住人について知るために、そしてシャルヴァについて知るために。大それたことだと呆れられてしまうかもしれないけれど、ナラカは聞かなければならないと思った。改めてティルアの顔を見つめる。ティルアが目を見開いたのがわかった。

「教えてください。三年前、何が起こったのか。私に、教えてください」

思っていたよりも、低い声が出た。まるでそれは自分の声ではないようだった。ティルアは一瞬目を伏せてから、再びナラカを見上げる。

「……わかったわ」

すぅ、とティルアが息を吸い込む。これから何が語られようと、ナラカはそれを甘受する覚悟でいた。たとえ何が、語られようとも。それらを受け止めなければならないと、彼女の直感が告げていた。

27日前 No.128

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ティルアいわく、かつてシャルヴァという地を拓いたアーカム王国は徹底的に羅刹を迫害したのだという。ティヴェラに滅ぼされるまでシャルヴァの広い範囲を治めたアーカム王国は羅刹を何よりも知っていた。そして羅刹を何よりも恐れていたのだろう。だから、人間を追ってシャルヴァにやって来た羅刹たちを辺境の地、すなわち北の荒れ地に追いやった。

「けれどね、ティヴェラは羅刹を迫害しなかったの。今もそうだけれど、ティヴェラには羅刹の兵隊がある。ティヴェラはね、羅刹をひとつの戦力と見なしていたのよ」

ティルアは目を伏せながらそう語る。ナラカもそれには納得出来る。ティヴェラが羅刹の部隊を有しているということは前々から知っていたし、だからこそ“選定の儀”なんて催し事があるのだろう。きっとあの羅刹の少女━━━━エステリアも、羅刹部隊の中の一人に違いない。あんな若い少女が武人として働いているというのは意外でもあったが。

「そうしてティヴェラはアーカムを滅ぼした。其処までは良かった、良かったの。……アーカムの人間からしてみれば、決して良かったなんて言えることではないでしょうけれど。もし不快な気持ちにさせてしまったのなら、本当にごめんなさいね」

申し訳なさそうに告げるティルアに、ナラカはいえ、とだけ短く返した。ナラカはアーカムの人間ではないが、これまで彼女の周りにいたのはほとんどがアーカムの人間だ。だからあの戦について口出しはしたくない。だからナラカは手短に返事を済ませて、ティルアに先を促したのだった。

「きっと羅刹たちはティヴェラに期待したのでしょうね。決してティヴェラに敵対しないから羅刹が自治する土地が欲しいと申し出たのよ。北の荒れ地ではなくて、私たちの暮らしている豊かな土地の何処かに、どれだけ狭くとも構わないから、とね」
「……それで、ティヴェラはどうしたのですか?」
「……勿論、陛下はそれを却下したわ。良いことだとは思わないけれど、妥当な判断よね。だって羅刹、羅刹ですもの。戦力として有しているからこそ、陛下は恐ろしさを理解していたのでしょう」

溜め息を吐いてから、ティルアは話を続ける。国王の対応に当然羅刹たちは怒り狂った。彼らはすぐに反乱軍を興し、ティヴェラ王都に向けて行軍を始めた。北の荒れ地からティヴェラ王都へはかなりの距離があり、先程も言ったように普通の人間では途中で行き倒れる者も少なくはない。だが羅刹たちはその道のりを難なく進みきり、ティヴェラの要塞に攻撃を仕掛けたのである。
羅刹たちの急襲に、ティヴェラの要塞はあえなく陥落した。要塞の内部はティヴェラの兵士たちの血で真っ赤に染まったとされ、今でもその染みは取れないと言われている。その話が嘘であれ真であれ、それだけの被害を出したのであろう。ティルアはそう評した。

「羅刹たちはその要塞を拠点として、ティヴェラ王都への攻撃を開始したわ。けれど、ティヴェラ軍もやられっぱなしではいられなかった。陛下は件の要塞に、羅刹部隊を投入したのよ」

目には目を、歯には歯を。例えるならば羅刹には羅刹を、と言ったところだろうか。初めティヴェラの羅刹部隊は苦戦を強いられた。いくら訓練を積んだ羅刹部隊とは言え、同じように超人的な身体能力を有する羅刹と渡り合うのは難しかったのだろう。そもそも北の荒れ地の羅刹たちは狩猟や採集などを主として生きてきた。そんな羅刹たちに、王都で人間と同じように生きてきた羅刹部隊が苦戦するのも可笑しな話ではない。むしろ苦戦しない方が可笑しいのだ。渡り合おうとしただけ彼らは勇敢であった。そして、無謀でもあった。

「羅刹部隊も健闘したらしいけれど、それでも力の差は埋められなかったわ。……送られたティヴェラの羅刹たちのほとんどは殺されて、その首が王都に送られてきたのよ」
「……そうですか」
「あら、驚かないのね。この話は有名だから、知っていたのかしら」
「……いいえ。でも、そう珍しいことではありませんから」

ティルアの話は想像したくもない、あまりに猟奇的なものだった。しかしナラカは眉根を動かすこともなく、ただ返事をしただけであったのだ。それをティルアは訝しげに思ったのであろう。だがナラカは素っ気なく返しただけで、それ以上何かを言おうとはしなかった。ティルアも彼女の意図を察したのか、詮索することはなかった。

「でも、その首は全員分のものではなかった。一人、たった一人。要塞に生きたまま捕らわれたティヴェラの羅刹がいたのよ。その時は生きているか、死んでいるかもわからなかったけれど……。それでも、陛下はこのままではいけないとお考えになったのでしょうね。これまで置いていた妃やその子供たち、そして寵愛を向けていた使用人たちを追放したのよ」
「追放……って、王宮の外にですか?」
「そう。でも、跡継ぎまで追放したらティヴェラの明日にも関わるわ。だからルタのことはこの離宮に押し込めたのでしょうね。……これがルタがこの離宮に至ることになった経緯よ」

一息に話したからか、ティルアはふぅとひとつ息を吐いた。彼女の面差しは何処か冷たさを感じさせるもので、ナラカはこれ以上彼女に話しかけようとは思えなかった。……思えなかった、のだが。

「……あの、すみません。話していただいたところ申し訳ないのですが、その後の内乱というのは……どうなったんですか?」

内乱の行方、それをナラカは知りたかった。ティルアは何度か瞬きをしてから、「……そうね」と困ったように微笑んだ。

「内乱は間もなくして収まったわ。陛下は戦地にシュルティラと、これまでの比にならない羅刹部隊を投入したのですもの。さすがに要塞の羅刹たちも敵わなかったみたい。捕らわれた羅刹も救い出されて、万事が上手く終わったわ」
「……本当に、ですか?」
「ええ、本当よ」

微笑むティルアを見てから、ナラカはただありがとうございました、と一礼をした。いつまでもティルアの部屋に長居してはいられない。ナラカはティルアを一瞥してから、彼女に背中を向けて部屋を出た。

26日前 No.129

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階段を上がりながら、ナラカはぼんやりと考えていた。三年前の内乱。しかも羅刹によるものと来れば、きっとアロイスやエステリア、そしてラビスとか呼ばれていたあの粗暴な羅刹とも何か関係があるかもしれない。そう考えつつも、ナラカは憂鬱な気持ちを抑えられなかった。

(……でも、根本的な解決にはなっていない)

そう、いくら内乱について知ったからといって、ルタという現ティヴェラ王の嫡子を見つける手掛かりは見つからないままなのである。このままではアリックが疑われたままだ。それだけはナラカとしても脱却したい。

(だって、アリックさんは、私とお友達になりたいと言ってくれた)

小さな理由だと笑われるかもしれない。けれどナラカはそれで良いのだ。友人になりたいと言ってくれた、ただそれだけでナラカにとってはアリックをなんとかして助けたいという気持ちに繋がる。ナラカは自分でも己は気難しくて、厄介な性格であると自負している。だから友人と呼べる存在が少ないことも、理解しているつもりだ。だからこそ、友達になりたいと申し出てくれたアリックのことを放っておけない。このまま疑われたままなんて嫌だった。
ナラカの足が歩を止める。たどり着いた先はスメルトの部屋の前だった。彼のことはまだ少し怖い。いや、少しというのは間違いだ。正直に言うとまだナラカはスメルトに恐怖を抱いている。しかしこんな状況で今更怖いなんて言ってはいられない。ナラカは小さく深呼吸をしてから、扉を三回叩いた。

「……失礼致します」

そう小さく声をかけた、その直後に部屋の奥からばたばたと音が聞こえてくる。ナラカが扉を施錠するのとほぼ同時に、スメルトが嬉々として部屋の奥から現れた。

「ナラカ!来てくれたんだ!」
「は、はぁ……。仕事、ですので……」
「嬉しいなぁ、今日もお話してくれるよね?僕、君のことずうっと待ってたんだよ。朝は来てくれなくて寂しかったけど、今来てくれたから良かった。さ、入って入って」

ナラカの手からお盆を取って近くの机に雑に置いてから、スメルトはナラカの手を引っ張っていく。腕を引っこ抜かれないかとひやひやしながらナラカはスメルトの進むままに引っ張られていった。そうして、また昨日と同じように寝台の傍まで連れていかれる。

「どうしたの、ナラカ?座りなよ」
「あ、は、はい」

神妙な表情で寝台を見つめていたナラカにそうスメルトが呼び掛ける。彼はナラカが座らなければ自分も座らないつもりらしい。一体何が彼をそこまでさせるのかはわからないが、ナラカはとりあえず彼に従っておくことにした。だって何をされるかわかったものではないし、壊れた椅子がそれを物語っているから。

「……大丈夫?ナラカ。嫌なことがあったの?」
「え、ど……どうして」
「なんだか暗い顔をしていたからね。ちょっと心配になっちゃった。嫌な人がいるなら教えて欲しいなぁ。此処から出ることは出来ないけど君がするみたいに呪うことなら出来るから」
「い……いえ、大丈夫です。そういうのは、自分でやるので……」

まさかお前の嫌いな人間を呪ってやる、なんて言われるとは思わなくて、ナラカは自分でも何を言っているのかわからなくなりかけた。自分でやるとはどういうことなのか正直ナラカにもわからなかったし、呪う予定はこれからないはずである。というかないと願いたい。

「それにしても、今日はなんだか外が騒がしいよね。何かあったの?」
「そ……それは……」

唐突にそう尋ねられて、ナラカはわかりやすく戸惑ってしまう。話すべきなのか。しかし外部のことを話して良いものか迷う。しかし下手に隠しだてして殺されたくはない。ナラカはぱくぱくと口を何度か動かしてから、なんとか言葉を紡ぎ出す。

「……昨日、この離宮から脱走した方がいらっしゃったみたいなんです」
「なんで昨日は教えてくれなかったの?」

誤魔化しに誤魔化しを重ねて口にしたつもりだったが、逆にスメルトにとっては不服だったらしい。ずい、とナラカに顔を近付けて、不機嫌な気持ちを隠すこともせずにナラカを問いただす。

「ねぇ、どうして?君、昨日も僕のところにご飯を運びに来たじゃない。その時に教えてくれたら良かったのに。どうして隠したの?」
「か、隠したという訳ではなくて……。その、お伝えして良いものか迷ったものですから……」
「僕は何もしないよ。何もしないのに、迷う必要なんてないでしょう?」

なんとかしようとするナラカだが、スメルトの機嫌はどんどん悪くなっていくばかりである。このままではまずい。ナラカの心臓が悪い意味でどくどくと音を立てる。五感を研ぎ澄ましてスメルトからどうやって逃げるかを考える。冷たい汗がナラカの背中を伝った。……と、スメルトが突然がばりと立ち上がる。そして近くにあった花瓶を手に取ると、いきなり扉に向けて投げ付けた。

「ひぃっ……!」

がしゃっ、と花瓶が割れる。その音に驚いたナラカは思わず身を竦ませた。スメルトの怒りはそこまで達しているというのか。しかしナラカは次の瞬間に違和感を抱くことになるのである。

ばたん、と。

たしかに、たしかに扉の閉まる音が聞こえてきたのだ。それが可笑しいことであることはナラカもよくわかっていた。だって、ナラカは先程ナラカは“しっかりと施錠した”のだから。

「な……何が……」
「……ナラカ、君はさっき、ちゃんと扉の鍵を閉めていたよね。それなのに、誰かが此方を見ていた。つまり、“君でない誰かが、鍵を開けた”」

戸惑うナラカに、スメルトは静かに歩み寄る。その口調が静かすぎて、ナラカは逆に彼が何を考えているのかわからなかった。だが、スメルトの纏う雰囲気は非常に柔らかく、先程までの剣呑とした空気は綺麗さっぱり消えていた。

「さっきはごめんね。君はあの気配に気づいていたから、あんまり込み入ったことが話せなかったんだよね」
「…………はい?」
「ナラカ、君のことを疑ってごめん。君は君なりに僕に気を遣ってくれていたのに、酷いことを言っちゃって……」

……可笑しい。いや、嫌な空気が消えたのは良いことなのだ。しかし自分はもしかして、とんでもない勘違いをされているのではなかろうか。このまま勘違いされたままでは色々とまずい。ナラカはとりあえず弁明しようと「あの……」と口を開きかけた。


「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」


それは隣の部屋から聞こえてきた。耳をつんざかんばかりの悲鳴。ナラカは咄嗟に傍にいたスメルトに掴まってしまう。一体何が起こったというのか。隣の部屋……というと、たしか物凄く散らかっている部屋だったか。色々と考えようとしたナラカだったが、すぐにスメルトに抱き付いている形になっていることを思い出して彼から離れる。

「なんだ、もっと近寄ってくれても良かったのに」
「い、いえ!私は彼方を見てこなければならないので!何かあったらいけませんからね!」
「……そう。うん、わかった。ちょっと寂しいけど、お仕事なんだもんね。行ってらっしゃい、ナラカ」

若干物足りなさそうな感じをかもし出しているスメルトだったが、ナラカを引き留めようとはしなかった。それに感謝しつつ、ナラカは散らばった花瓶の欠片を踏みつけないようにと気を付けながらスメルトの部屋を飛び出した。

25日前 No.130

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24日前 No.131

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【第22幕:少女の企て、揺れる思惑】

食事を運び終わってから、ナラカは早速行動に移ることにした。行動と言ってもエルトの邪魔のためのものだし、確固とした大義名分もないようなものだ。故にまずは情報収集から行うことにした。

「あの、小鈴さん。次のお仕事まで、私って何か予定が入っていたりしませんか?」
「特にないぞ。……何でだ?」
「いえ、少し読書とかしたくて……。たしか図書館が開放されていると聞いたので、其処に行こうかと思ったんです」

ティヴェラの王宮には膨大な資料が保管されている図書館がある。其処は一般の使用人や兵士も立ち入ることが出来、学びを広げられるとナラカは聞いていた。そのため情報収集にぴったりだと思い、暇な時間を利用して何か良さげな書物を見繕おうと考えたのである。本を読むのは嫌いではないし、ナラカにとっては苦にならない作業だ。
小鈴はそんなナラカの様子を見て少し首を傾げはしたが、特にこれといった反応を示すことはなかった。普段はあまり外出しようとしないのに珍しい、小鈴にとってはそれくらいの印象だったのだろう。たしかにナラカは普段は進んで外出しようとはしないし、アロイスから何かに誘われても首を横に振ってばかりだった。今考えると着いていっても良かったかな、とは反省している。あの頃は通りすがりの使用人たちがあの最悪の部署の人間だったらと思うと外出する気が失せてしまったのだ。最近は小鈴の住まいと離宮を行ったり来たりしているうちに外出にも慣れてきた。

「別に構わないが、疑われるような行動はするなよ。今は誰もが例の離宮の住人のことでぴりぴりしてるからな」
「……わかっています」

小鈴の言うとおり、今は離宮の住人が脱走したということで王宮内も殺気だっている。それはナラカも熟知していた。しっかりとうなずけば小鈴はやれやれとでも言いたげに肩を竦めて作業に戻っていった。一応許可は取れたと見て良さそうだ。

(……手早く必要なものだけ借りて戻ってこよう)

そう思いながら、ナラカは小鈴の住まいを出て図書館へと向かう。そういえばアロイスさんも外出だろうか、と先程はいなかった同僚の羅刹のことを考えた。アロイスもたまに外出をすることがあるようで、気が付いたら席を外していることが多い。彼が何処に向かっているのかはわからないが、ナラカはあまり突っ込まないようにはしようとは心掛けていた。下手に首を突っ込んでまたあのラビスとかいう羅刹と遭遇するのは御免だ。
王宮勤めをしてからもうじき一月になるとは言え、広い王宮はまだまだナラカにとっては慣れないものだった。一通りの造りは把握しているつもりではあるが、やはり広さ故に迷いそうになることもある。だからナラカは今でも働き始めの頃に小鈴が描いてくれた簡単な王宮の地図を持ち歩いている。これがあればよっぽどのことがない限り迷うことはない。今回もこの地図のおかげですんなりと図書館まで辿り着くことが出来た。

(凄い、アーカムのものと同じくらい大きい……!)

図書館に足を踏み入れたナラカはまずその広さに驚いた。上から下まで所狭しと書物が詰め込まれている。これで一般向けというのだから恐ろしい。機密文書も入れたら一体どのくらいの規模になるというのか。
そろりそろりと音を立てないように歩きながらナラカは利用者を観察する。見たところ文官が大多数だ。たしかに彼らは仕事をする上で資料が必要になるかもしれないし、図書館を利用していても可笑しくはない。

(……むしろ、私みたいなのの方が珍しいよね……)

とほほと自虐してから、ナラカはとりあえず近場の本棚を眺めてみる。情報収集をすると言っても、どのようなものから調べるのが最善なのかナラカはいまいちわかっていなかった。強いて言うならアーカム王家についてや、シャルヴァの変遷についてだろうか。前に探したものと大して変わりない選択になってしまいそうである。普段は作り物語ばかり読んでいたから、調べものはあまり得意ではないのだ。だからなんとなしに図書館をぶらぶらして、目ぼしいものを見つける他ない。似たような格好の文官の横を通り過ぎながら、ナラカは本棚に視線を走らせていく。駄目だ、此処は武術がどうとか書いてある書物ばかりだ。自分とは関係ないのでナラカは一度本棚から視線を外す。

「━━━━!?」

瞬間、ナラカは咄嗟に身体を捻って本棚の影に隠れた。声を出さないようにと己の口に手を当てながら、ナラカは眼球をある方向に向けて動かす。

(エルト……!なんで此処に……!?)

そう、ナラカが見つけたのは間違いなくエルトだった。市場でも会ったから男の格好をしていても彼だとわかるし、何よりあの顔をナラカが忘れるはずがない。息を殺しながらナラカはエルトの動向を窺う。エルトは何度か本棚から書物を取ってぱらぱらと捲っていたが、しばらくすると図書館の出口に向けて歩き出した。その後をナラカもこそこそと追いかける。

(お、追いかけるくらいなら誰も責めないし、たぶん尾行と言っても軽いものだし……!大丈夫、見つからなければ大丈夫……!)

そう自分に言い聞かせることで尾行を正当化したナラカは、こそこそ隠れながらエルトの背中を追った。何よりも怪しかったのはナラカだったのだが、彼女自身がそれに気づいていなかったので良しとしよう。

23日前 No.132

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22日前 No.133

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回廊を渡って階段を上り、案内された先にエステリアの部屋があった。まだナラカは王宮の二階に行ったことがなかったので変に緊張が高まる。身を固くするナラカの心境をエステリアが知っていたか知らないかはわからなかったが、とにもかくにもナラカは彼女の部屋へと通された。
エステリアの部屋は広さこそあったが、内装は酷くこざっぱりとしたものだった。女性らしい飾り付けだとか小物が置いてあることはなく、ただ生活に必要なものだけが置かれているだけのように思える。その代わりなのだろうか、室内には武器や甲冑などの武具がたくさん置かれていた。まるで武士のお部屋のようだ、というのがナラカの率直な意見である。

「……座れ、薬師のところの。私とてお前を立たせっぱなしにしたくはない」
「あっ、そ、そうですよね。すみません」

ぼうっと突っ立っているとエステリアから座るように促され、ナラカは慌てて指し示された椅子へと腰を下ろす。それを見たエステリアは自身もナラカの向かいへと腰を下ろした。相手が相手なだけに、向かい合う形というのは何とも居心地が悪い。

「……して、問いたいことがある。薬師のところの」
「な……なんでしょう」
「先程は何をしていた?」

エステリアからの質問はやはりナラカがエルトを尾行していた際のものであった。たしかにあれはいかにもこそこそし過ぎていたと思う。しかしさすがのナラカでも素直に「気に入らない奴がいたので粗を探すために尾行していました」と言うことは出来ない。口が裂けてもそれだけは言えない。どうしたものか。ナラカは一瞬考えてから、おずおずと口を開く。

「えっ……と。その、個人的に気になる方がいらっしゃったので、どちらに向かうか確かめようとしていたんです……」
「……個人的に……?」

それは苦し紛れの言い訳だった。ナラカも自分で頭を抱えたくなるほどの、咄嗟に出た質の悪い言い訳。それにエステリアが反応しない訳がなかった。こてん、と勇猛な印象のある彼女にしては意外なことに小さく首を傾げてから、エステリアは少し思案する。

「……奇遇だな。私にも個人的に気になる奴がいる」
「えっ!?」

そして意外としか言い様のないエステリアの言葉にナラカはつい大きな声を出してしまった。さすがに相手が羅刹ということはわかっているのですぐに「……申し訳ございません」と謝罪の言葉を述べたが。
エステリアはそっと視線をナラカから外す。彼女の勇ましい表情しか見てこなかったナラカはそんな羅刹の少女を注視した。彼女の気になる奴というのは一体どのような人物なのだろうとナラカの好奇心が鎌首をもたげた。怖がりで臆病なナラカだが、年頃の少女の一人としてこれは興味深くてたまらない。武芸に身を費やすような羅刹の心を留めた者とは、如何様な勇士であろうか。

「……其奴はおかしな男であった。私はこれまであのような男を見たことはない。そして、このような感情を抱くのも初めてだ」
「そ……そうなんですか……?」

ぽつりぽつりと語るエステリアに、ナラカは少し身を乗り出す。男。エステリアはたしかにそう言った。ということは、十中八九色恋の話ではなかろうか。何がどうしてこのような流れになったのかはナラカもわからないが、此処は年頃の少女の一人としてわくわくせざるを得ない状況だった。羅刹の乙女が恋心を抱くことになろうとは。これはもう絵巻物ひとつに出来そうな話だ。作り物語にしても良い。どちらにせよ良い題材になりそうだ。ナラカは決して物書きではないがそう直感した。そしてエステリアが発するであろう次の言葉を待つ。彼女は次に、どのような甘酸っぱい感情を見せてくれるのだろうか。期待の波がナラカを押す。こんなに他人の話を聞くのが楽しいことが今まであっただろうか、いやない。

「選定の儀で私と戦った男。彼奴の名をお前は知っているか?」
「はい!彼の名前はたしか、ノルディウスといった気がします!たしか近くにいた者がそのように呼んでおりました、たしか!」

知り合いではないということを強調するためにナラカは“たしか”を連呼する。エステリアはそれを気にした様子もなく、「そうか……」と呟いて一瞬目を伏せた。そしておもむろに、その整った顔を上げる。


「ノルディウス……あの男は、あの男だけは……。私が、私の手で━━━━━必ず、殺す!!!」


エステリアがそう叫ぶと共に、ずしゃあっ、と床が音を立ててひび割れた。身を乗り出してわくわくしながら話を聞いていたナラカはその姿勢のままぴしりと固まってしまう。ナラカは酷い勘違いをしていた。それを彼女が悔やむのはそう遠くない日のことである。

21日前 No.134

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

「……話が逸れてしまったな」

さすがに未遂とは言え床を割ったのは申し訳ないと思ったのか、幾らか眉尻を下げてエステリアはそう切り出した。先程までのわくわくとした気持ちがすっかり消えて怯えきっているナラカは、ぷるぷる震えながら小さくうなずく。

「私は決してノルディウスとかいう男について聞きたかった訳ではない。例の離宮における事件についてだ」
「は、はい……」

今となっては何を聞かれたとしてもナラカは震えを抑えることが出来ないであろう。かくかくと不自然な首の動かし方しか出来ないのが辛いところだ。今のナラカはエステリアの言葉にただうなずいているしか出来ない。早く此処から去りたかったが、魂ごと去りたくはないのでなんとか足を踏ん張る。耐えろ、耐えてみせろ自分、と己に喝を入れる。

「……薬師のところの。お前は、アロイスという名の男を知っているか?」
「アロイスさん……ですか?」
「そうだ。お前のところで共に働いているだろう」

エステリアの口から出てきたのは仕事を共にしているアロイスの名前だった。ナラカは恐る恐るだが、彼女の言葉を反芻して念押しするように問いかける。エステリアの言葉はそのままの意味だったようだ。

「た、たしかにいっしょにお仕事をさせていただいていますが……。アロイスさんのことで、何か……?」
「……彼奴から、何か聞いているか?彼奴自身の生い立ちでも、離宮の住人のことでも。何でも良い、何でも良いのだ。奴からは、何を聞いた?」

今度はエステリアがナラカに向けて身を乗り出してくる番だった。彼女の整っていながらも何処か厳しさを感じさせる顔をナラカは直視出来なかった。それは恐れているとか照れ臭いとか、そういった感情は抜きに、ナラカが他人の顔を見るのが得意ではなかったからである。エステリアから顔を逸らしながら、ナラカはアロイスに何を聞いたかを思い出そうとしていた。

(……あれ、私……そういえば、アロイスさんから何も聞いてない……)

思い出そうとすればするほど、アロイスからは“何も教わっていないこと”ばかりが明らかになってくる。それは可笑しいと心の何処かで言っている者がいた。ナラカも可笑しいことはわかっている。しかし本当にアロイスからは過去のことも、離宮の住人のことも教わってはいない。ティルアに聞いて初めて、脱走した王子ことルタについては知った。だが、それだけ。たったそれだけなのだ、ナラカが知っていることは。それ以外の離宮の住人について、ナラカは何も知らない。

「……申し訳ございません。アロイスさんからは、何も聞いていません」

だからナラカはそう言うしかなかった。聞いていないものは仕方がない。今更言い逃れをしたところで何の利益にもならないことはナラカがいちばんよく理解していた。
だがエステリアは「そうであろうな」とわかっていたかのような反応を見せた。ふぅ、とひとつ溜め息を吐いて、困ったように眉間を指で揉む。

「彼奴のことだ。きっとそのようにするとは思っていた」
「……アロイスさんは、もともと自分や離宮の方のことをお話ししたがらないんですか……?」
「そうだな。特にお前くらいの年頃の人間であれば尚更だろう。彼奴ならお前をかつての弟と重ねかねん」

エステリアはそう言うと、すっくと立ち上がってナラカの隣まで移動してくる。向かい合わせというのもなかなかだが、隣にいられるのもそれはそれで居心地が悪かった。

「……あの離宮に入れられている奴等がどのような者か、お前は把握しているか?」
「ええと……ティヴェラ王国が、“幽閉せねばならない”と判断した方が、離宮で暮らしているのだと聞きました」
「……たしかにそうかもしれんな。だが違う。本質は大きく異なっているのだ」

ナラカからの言葉を聞いたエステリアは、何処か諦めたような表情で告げる。本質。本質とは一体何なのだろうか。ナラカはただ教えられたことを、素直に務めてきたつもりであった。そしてアロイスも小鈴も、それに対して何か言うことはなかった。二人とも、それが正しいことだとでも言うように仕事に従事していた。

「薬師のところの。離宮の住人はどのくらい把握している?」
「えっと……私が担当しているのは三階と四階なので、其処の方々なら、一応……」
「ならば住人について私に言ってみろ」

エステリアにそう促されて、ナラカは一瞬言って良いものかと躊躇った。一応エステリアは王宮の人間であり、アリックの取り調べにも参加しているようだった。しかし本当に信用して良いものかという疑念は払拭出来ない。ナラカは迷った。どう伝えるのが最善か。

「……三階にいらっしゃるのが、今回騒ぎになっていらっしゃるルタさんと、ティルアさんという女性です。この二人については、アロイスさんもシャオ……薬師の方も特に何も言っていなかったので、きっとこれまで問題を起こすことはなかったのではないかと思います」
「そうか。して、四階は?」
「四階にいらっしゃるのが、名前はわからないんですが女性の方がお一人、そしてスメルトさんという男性がお一人です。スメルトさんはその……決まった人にしか友好的でないみたいで、アロイスさんとは度々揉めていらっしゃるみたいですね。お部屋の家具が壊されているのを何度か見ました」

それぞれの部屋を思い出しながら、ナラカはそうエステリアに伝えた。ふむふむとうなずきながらナラカの話を聞いていたエステリアだったが、ふと顔を上げて問いを投げ掛ける。

「薬師のところの。スメルトが友好的に接している人間が誰か知っているか?」
「……え?」
「誰にも言わない。それは約束しよう。私は約束を守る羅刹だ」

エステリアは真剣な表情でそう言うのだが、ナラカとしてはしどろもどろになるしかない。だってエステリアの質問に「それは私です」と平気で答えられないのだから。しかしそれ以外の答えは見つからない。自分がスメルトになぜか気に入られているのははっきりとした事実だ。逃げも隠れも出来ない現実というものがナラカにのし掛かる。ナラカだって、欲を言うならもっと正統派の、それこそ光源氏のような美男子に気に入られたかった。

「…………私です」
「…………お、お前、が……?」

後悔と羞恥をない交ぜにしながらもナラカはしっかりエステリアの問いに答えた。エステリアは一瞬目を見開いてから首を傾げ、最後にそっと天を仰いだ。

「……お前は、なかなかの強者だったのだな……」
「え……ええと、そのように言われる程凄いことではないと思うのですが……」
「……いいや、そのようなことはない。決してない。あの男が、スメルトが人間を気に入ることなんてそうそうない。それは私が……いや、“この王宮にいる全ての羅刹が知っている”」

萎縮するナラカに、エステリアは鋭い一瞥をくれてから、何かを決するようにすぅ、とひとつ息を吸う。そうしなければ何かが爆発してしまう、そう言いたげな顔つきで。


「スメルト……あの男こそが三年前の内乱の首謀者であり、我がティヴェラの羅刹たちを虐殺した張本人だ」

20日前 No.135

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信じられない、という訳ではなかった。そうだ、彼だってまた羅刹なのだと納得する自分もいたし、なんとなく合点のいくところもなかったとは言えない。しかしナラカはエステリアの言葉をすぐに飲み込めるほど回転の速い頭を持ってはいなかったのだ。ぱちぱち、と何度か瞬きをしてから、一度唾を飲み込んだ。

(スメルトさんが、内乱の首謀者……)

つい先程その話を聞いたばかりということもあって、エステリアの言葉は案外深々とナラカの心に突き刺さった。羅刹による内乱。ティヴェラの羅刹部隊が苦戦したというシャルヴァ統一後の内乱。それを実際に見たという訳ではないが、ナラカは心臓をきゅっと掴まれるような感覚に襲われた。

「……奴は、スメルトは他人を好かぬ男だ。人間も、羅刹も、人の言葉を話す者のほとんどを好かぬと言っても良い」

驚愕しているナラカにちらと視線を遣ってからエステリアは再び口を開く。その言葉は乾いて淡々としたものだった。

「故に他人を傷付け、殺めることに躊躇いがない。彼奴を離宮に入れると聞いた時には驚いたものだった。あのような男を、このまま生かしておくのかとな。彼奴は危険だ、シュルティラよりもずっと危険だ。それなのに……我が王とアロイスは、スメルトを生かした」
「あの、待ってください。王様はわかるんですが、どうして其処にアロイスさんのお名前が出てくるんですか?」

訥々と言葉を紡ぎ続けるエステリアだったが、その中にある違和感を覚えてナラカは一旦制止の声をかけた。王が罪人の処遇を決めるということは大いに理解出来る。しかし、何故其処に官僚でも何でもないアロイスの名前が出てくるというのか。もしかしてアロイスは、ナラカが思っている以上に高位の官だったというのだろうか。
そんなナラカの質問を受けて、エステリアは「……そうだったな」と嘆息する。

「アロイスはな、三年前の内乱で初めに反乱軍の砦に送られた部隊の中の一人だった」
「じゃ、じゃあ……アロイスさんは、その中でたった一人生き残った羅刹、なんですか……?」
「……そうなるな。彼奴は良い武人だった。私はまだまともな武器を持たせてはもらえぬ立場だったが、それでも彼奴は素晴らしい武人だと思った。きっとあのような武人になるのだと、幼心に憧れを抱く程度にはな」

そう言いながら、エステリアはふっと何かを懐かしむような表情を浮かべた。三年前……というと、アロイスは21歳か。たしかこの間24歳だと彼から聞いた気がする。小鈴の年齢は未だに知らないが、恐らく自分とあまり離れていないだろうとナラカは予想している。

「虐殺された羅刹たちの中にはアロイスの弟もいた。彼奴は若くして頭角を現していたから、私と同い年だったのに戦地に赴いたんだ。……まだ、まだあんなに若かったというのに、スメルトは彼奴までもを殺してしまった」
「……そう、なんですか」
「たしかに羅刹は戦に特化した種族だ。私もそれは理解している。……だが、私たちの力は戦以外で誰かを痛め付け、惨殺するためのものではない……!」

話しているうちに熱がこもってきたのか、エステリアはまたしても床を踏み割りそうな勢いであった。また同じことがあってはいけないと、慌ててナラカは彼女に声をかける。

「し、しかし……!そんな若い方すら生かさなかったというのに、どうしてアロイスさんのことをスメルトさんは殺さなかったのでしょう……?」
「……決まっているだろう。スメルトはアロイスを“気に入った”のだ。ただ、ただそれだけの理由でアロイスだけが生かされた。何故気に入ったのかは知らんが、何か感じるものがあったのだろうと私は思いたい」

怒りを吐き出すかのように深呼吸をしてから、エステリアは何かを抑えるように告げた。恐らく彼女は私情を混ぜ込まないように徹しているのだろう。

「故に、此度の一件で私は危機感を覚えたのだ。今回はルタ殿だったが、次はスメルトかもしれんと思うといてもたってもいられん。薬師のところの、くれぐれも奴を外に出さぬよう、細心の注意を払ってくれ。よろしく頼むぞ」
「は……はい。善処します」

此処まで聞かされては是とうなずくしかなく、ナラカはやや戸惑いながらも首を縦に振った。それを見たエステリアは満足したのか、うむ、とだけ返事をする。恐らく異論はないだろう。そう判断したナラカは、「失礼しました」と一礼してからエステリアの部屋を後にした。

19日前 No.136

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

その後図書館に戻る気持ちにもなれなくて、ナラカはとぼとぼと小鈴の住まいまで戻った。扉を開けて「……ただいま戻りました」と告げる。戻った時には必ず戻ってきたと挨拶をしなければならない決まりになっているのだ。

「おう、お帰り」
「……!」

ちょうど出迎えたのが先程エステリアの話に挙がったアロイスその人で、ナラカはびくりと肩を揺らしてしまう。そんなナラカの心境を知るはずもないアロイスは、いつもそうするようにナラカへと近付く。

「小鈴なら外に出てるぜ。別個の仕事があるんだってよ」
「そ……そうなんですか……」

アロイスにどういった顔をすれば良いのかわからなくて、ナラカはつい彼から顔を背けてしまう。アロイスは何も悪くない。いや、誰も悪くはないはずなのだ。それでもあのような話を聞いてしまったらなんとなく話しかけづらくなるというか、一種の気まずさを覚えるのである。

「……どうした?大丈夫か、ナラカ」

ナラカの心境が外に漏れていたのか、アロイスが心配そうにナラカの顔を覗き込む。ついナラカは口を滑らせてアロイスの弟の話だとか、スメルトのことだとかを溢してしまいそうになったが、すんでのところでそれらを無理矢理飲み下した。わざわざ相手の逆鱗に触れるようなことを自分から口に出して一体どうするというのだ。ナラカは誤魔化すように、頑張って精一杯の笑顔を顔の表面に張り付ける。

「えっと……私なら大丈夫です。少し、考え事をしていて……」
「考え事?」
「は、はい。その、スメルトさんのお隣の部屋の方と今日はお話出来たんですよ」

どうせならエルトが警備を掻い潜ってあの女性の部屋に潜み入ったことも話してやろうかと思ったが、余計なことまで口にしてしまいそうなので一旦やめておいた。アロイスはナラカからそれを聞くと、にやりと大きすぎない笑みを浮かべた。

「おうおう、良かったじゃねぇか。で、どうだったよ」
「あー……なんだか、ひたすら怯えていらっしゃるようでした。……あの方、お名前を何というんですか?」

アーカム王国の王女だということは聞いたが、肝心の名前を聞きそびれていたことにナラカは気づいた。エルトから彼女の名前を聞いている訳がないし、あちらもあちらで名乗るつもりはないようだった。自分で言うのも何だが、私の周りの人間の対人能力は1か10なのかとつくづくナラカは思う。物凄く気さくなのもどうかと思うが、それに加えて険悪過ぎる人間に挟まれるというのはなかなかに心労が募るものなのである。きっと自分も誰かしらに心労を与えていることだろうとは思うが。特に小鈴やアロイス辺りには申し訳ない気持ちとありがたい気持ちでいっぱいである。
ナラカからの問いかけに、アロイスは何度か瞬きをしてから、「なるほど、たしかに気持ちはわかるぜ」と心得顔で返したきた。彼もあの女性とは話したことがないのだろうか。少し雰囲気は恐ろしいけれど、アロイスならあの女性とも上手くやっていけるのではないかとナラカは思う。気難しい自分ともこうやって打ち解けているのだ。あの女性がよっぽどの曲者でなければすぐに仲良くなれるのではなかろうか。

「あの方の名前はキラナっていうんだ。10年前に滅んだアーカム王国の第一王女様でな。部屋はすげぇ汚いが、とんでもなく高貴な血統のお方だよ」
「第一王女……ってことは、アーカム王国には他にも王女様がいらっしゃったんですか?」
「まあ、いたはいたらしいんだけどな。キラナ以外の王族は皆10年前の戦で亡くなっちまったらしいぜ。アーカム王国について俺にどうこう言う権利はねぇが、まだ幼い奴等が惨たらしく殺されるってのはやっぱりきついな」

しみじみと語るアロイスについナラカは「いえ、一人とんでもなく図々しい奴なら生きてますよ」と言いたくなったが、自分の体面もあるので黙っておいた。無論、その図々しい王子がこの王宮で働いているということもだ。ナラカの本音を打ち明けてしまえば、エルトのことは徹底的に、洗いざらい暴露してやりたいところである。

「そういえば、小鈴さんってあとどれくらいでお帰りになられるんでしょう?」

勿論アロイスに本音をぶつける訳にはいかないので、ナラカは何気なくそんなことを聞いてみた。特に小鈴に用がある訳ではないが、この住まいの主たる彼女がいないのはやはり落ち着かない。ナラカの問いかけに、アロイスはぴくりと眉を動かす。

「……たしかに遅ぇな。文官から資料を貰ってくるだけにしては時間がかかりすぎだ」
「混み合っているんですかね……?」
「いや、そんなことはねぇはずだけどよ……」

少し考え込む素振りを見せたアロイスだったが、まあそのうち帰ってくるだろう、とナラカに返した。ナラカもその言葉を疑うことはなく小鈴が帰ってくるまでたまには皿洗いでもしておこうかな、なんて考えて移動したのだった。

18日前 No.137

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【第23幕:事件は地底の昼下がりを揺らす】

普段、ヴィアレは真面目に仕事に取り組んでいる。少なくともヴィアレ本人はそのつもりでいる。しかしこの日はルタとサヴィヤのことが気がかりで仕方がなかった。あの二人は上手くやれているだろうか。王宮の見回りをしている兵士に見つかってはいないだろうか。考えれば考える程不安は募る。悶々としながらも、ヴィアレはなんとか昼休みを迎えることが出来た。

「ヴィアレ〜、どうしたの?今日はやけにどんよりしてるみたいだけど……」

食堂で昼食をつつきながら、エミリオが不安げに眉尻を下げながらそう問いかけてきた。グラネットは他の兵士から文官の方に書類を貰ってくるように頼まれているので今回は同席していない。よって、この日の昼食はエミリオと二人だった。

「い、いや……特にどうということはないが……」
「本当に?ヴィアレってば、なんか昨日から元気ないし、どうしたんだろうねってグラネットと話してたんだよ。具合とか悪いなら無理しないで言ってね?強がられても僕たちは嬉しくないよ?」
「……ありがとう。その気持ちだけで十分だ。ほら、我は見ての通り元気だぞ」

エミリオの温かい言葉にヴィアレは相好を崩した。そして元気だということをエミリオに示そうと、器によそってある麦飯を口内に掻き込んだ。いくら不安でも現実は変わらない。今は自分のやるべきことをしなければ。

「エミリオ、すまないが先に戻っていてはくれぬか?」
「え?なんで?」
「部屋に物を取りに行きたいのだ。探すのに時間がかかるやもしれぬ故、そなたに迷惑をかけたくはなくてな」
「そっかぁ。そういうことなら仕方ないね。遅れないように気を付けてね」

早々に昼食を食べ終わったヴィアレはエミリオにそう申し出る。物を取りに行きたいというのは口実というか、ほとんど虚言に過ぎない。実際のところはルタとサヴィヤの様子を見に行きたかったのだ。昼休みが終わるまでにはまだ時間があるので、顔を出すくらいなら仕事が始まるまでには間に合うだろう。
疑いもせずに首を縦に振ってくれたエミリオに感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、ヴィアレは手早く盆を片付けて食堂を後にした。少し小走りになって行けば自分の部屋まではそう時間をかけずに行くことが出来る。ヴィアレは道行く王宮の使用人たちにぶつからないように気を付けながら道を急いだ。この時間に自室に戻ろうとする人間はあまりいないらしく、使用人たちの部屋に近付いていく程人気はなくなっていった。ヴィアレは二人に何事も起こっていないことを祈りながら、周りに誰もいないことを良いことに完全な駆け足になった。普段は回廊を走ると道行く人々に怪訝な顔をされてしまうので、どんなに急いでいても体面を守るためには静かに歩かなくてはならない。

(二人は大丈夫だろうか……)

何か揉め事が起こっていてはいけない。ヴィアレは急ぎながら自室を目指す。この辺りは似たような部屋の並びになっているため、しっかり道筋を定めてから進まないと簡単に迷ってしまう。ヴィアレも王宮勤めを始めた頃はよくアリックと迷ったものだった。二人で似たような道を何度も歩いて、また此処を通ったなんて苦笑し合って━━━━。


瞬間、響き渡ったのは悲鳴だった。


ぼんやりと考え事をしていたヴィアレは思わず身をびくりと竦ませる。その悲鳴は外から発せられたものらしく、回廊の窓から此方に届いたようだ。素人目ならぬ素人耳に聞いても尋常ではないと判断する程の悲鳴。ヴィアレは咄嗟に方向転換をする。

(恐らく悲鳴が聞こえてきたのは外だ。ルタやサヴィヤのいる方向とは違う……!)

ひとまずあの二人は大丈夫だろうと判断したヴィアレは、ひとまず悲鳴の聞こえてきた方向に向かって駆け出した。何が起こったのかはわからないが、放っておいて良いはずがない。変なところで正義感と責任感を覚えてしまうのが、ヴィアレという人間の長所でもあり短所でもあった。

17日前 No.138

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16日前 No.139

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15日前 No.140

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14日前 No.141

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ヴィアレは急いでグラネットを医務室に連れていき、アリックは騒ぎを聞き付けた兵士によって連れていかれたことでこの騒ぎは一応ではあるが収束した。エミリオはしばらくの間ぐすんぐすんと鼻を鳴らしながら泣いていたが、グラネットが何ともなく医務室から出てきたことで少し落ち着いたらしい。

「……して、グラネット。何があったというのだ?」

今日はもう休め、なんて言われるはずがなく、三人はこれまでと同じように仕事へと戻った。戸棚を拭きながら、ヴィアレは出来るだけさりげなくを装ってグラネットにそう問いかけた。エミリオはすっかり意気消沈してしまったようで、お喋りな彼にしてはやけに静かである。グラネットは躊躇うように溜め息を吐いてから、絞り出すような声音で答えた。

「……こっちに帰ってくる途中に、あいつがいきなり声をかけてきたんだ。あの兵士を襲撃したのはオレだってな」
「アリックが……?」
「オレだって、オレだって最初はあんなに揉めるつもりじゃなかったんだ。ちゃんと弁解はしたよ。けど……それであいつは納得しなくて……」

それ以上は口にしづらいのか、グラネットは言いにくそうに口をつぐんだ。ヴィアレはそんなグラネットの様子を見て、おもむろに彼に近付いていく。そしてぽん、と彼の綺麗な金髪に手を置いた。

「大丈夫だ、グラネット。きっとアリックも何か勘違いをしていただけなのだ。そうでなければあのように焦ることはあるまい」
「ヴィアレ……」
「我もそなたも、アリックのことを見てきていよう?そなたもアリックのことはよくわかっているはずだ。勿論、アリックもそうであろうと我は思っている。だが其処に齟齬が生まれることもある。今回はそんな齟齬が積み重なって、このような事態に陥ったのだと我は思う」

一言一言、ゆっくりとヴィアレは言の葉を紡いでいく。グラネットはうつむいてヴィアレの顔を見上げることなく、黙ってその言葉を聞いていた。

「故にな、グラネット、エミリオ。此度の一件は、まだ誰かを責めてはならぬのだ。少なくとも我はそう思う。何も確証がないままにあれやこれやと物を言うのは得策ではあるまい。言いたいことがあれば、全ての問題が解決してから言うべきだ。そう、我は考えている」
「…………ヴィアレの言う通りだ」

暫しの沈黙の後に、グラネットはうつむいたままそうヴィアレに賛同の意を示した。ここまで元気のないグラネットというのは珍しくて、エミリオはそんな彼を心配そうに見つめる。いつもならなんだかんだと他人の意見に文句を言うことが多いというのに。この時のグラネットは不気味な程素直だった。

「……わかってくれたのなら良いのだ。しかしグラネット、我は決してそなたを責めたい訳ではない。我は誰もが納得出来るような結論を、導き出したいだけなのだから」
「……おう、わかってるよ。オレは本気でお前の言う通りだと思ってるし、其処に他意はない。決着がつくまで、オレには何か言う権利はないさ」
「ね、ねぇ、グラネット……。君、大丈夫……?なんかいつものグラネットらしくないよ……?」

さすがに元気のないグラネットに不安を覚えたのか、恐る恐るといった様子でエミリオがグラネットに声をかける。グラネットはおもむろにエミリオに向けて振り返ると、力なく薄い微笑みを浮かべた。

「……オレなら大丈夫だよ。今日は少し疲れただけだ」
「そ、そう……?それなら良いんだけど……いや、良くないよ……。君の分の仕事はやっておくから、座って休んでたら……?」
「いや、本当に大丈夫なんだ。仕事はやるよ」
「む……無理はせぬようにな……?」

よろよろと立ち上がるグラネットに、エミリオだけでなくヴィアレも心配してそう告げる。グラネットはぼんやりとした表情のまま、ヴィアレに向けてこくりとうなずいた。

13日前 No.142

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【第24幕:少女は胸に薔薇を抱く】


「……で、お前は何かしらの問題を起こしたと?」

その時、小鈴が纏っていた雰囲気と其処からかもし出される何とも言い難い空気をナラカはそうそう忘れることはないだろう。それくらいに小鈴は冷えきった目で、地の底から響くような声音で、アリックに対応していたのだから。
事の発端は先程、アリックが王宮の兵士たちに連れていかれそうになったところを小鈴が見つけたことに由来する。何やら問題を起こしたらしいアリックはまたしても取り調べ部屋にしょっぴかれそうになっていたが、小鈴いわく宮廷薬師の権限を利用して阻止したらしい。そのためアリックは兵士たちからの取り調べは回避出来たが、代わりに小鈴からのお説教が待ち受けていたという訳だ。

「……周りの方からしてみれば、そういったことになっているのでしょう」
「ふぅん、ならお前は自分のしたことが間違っていないと、そう言うのか?」
「……はい。私は、当たり前のことを行ったまででございます」
「よく言ったものだな。聞けばお前、相手の小僧を一発ぶん殴ったらしいじゃないか。医務室からはそう連絡が入ってるぞ」

あくまでも自分の信念を曲げようとしないアリックを追い詰めるように、小鈴はそうぴしゃりと突き付ける。部屋の隅でアロイスと縮こまっていたナラカは小鈴の言葉に驚く。

(アリックさんが、相手を殴った……?)

それはにわかに信じられないものであった。アリックが他人に手を上げるという場面を、ナラカは考えられなかったのだ。アリックはたとえ侮辱されたとしても、皮肉に皮肉を重ねてやんわりと、然れど手厳しく対応する印象が強かった。実際にナラカはそういった光景をこれまでに見てきているのだから、驚きは尚更のものであった。
小鈴に指摘されたアリックは、言葉に詰まったかのように一瞬顔をしかめた。しかしすぐに小鈴に向き直る。

「それは……それは、私がそうせざるを得ないと判断したまでのこと」
「殴ってでも相手を大人しくさせようと思ったのか?」
「はい。あれは言葉だけでは抑え込めぬ相手でした。故に、不適切だとは思いましたがあのような処置に出たのです」

良くも悪くも、アリックに悪気というか、反省しているような素振りは見られなかった。それを見た小鈴は、思いっきり深い溜め息を吐く。そしてじろり、と大人しくしていたナラカとアロイスに目線を送る。

「おい、ナラカ」
「な……なんでしょう……?」
「こいつに反省文を書かせる。お前に見張りを任せるから、こいつが反省文を書き終えるまで部屋から出ないように見張ってろ」
「えっ……あ、はぁ……」

初めは驚愕したナラカだったが、小鈴の鋭い視線に気圧されてなんとなく断ることが出来ずに首を縦に振った。何故自分なのだろう、という疑問が生まれたが、それを突っ込んでは負けな気がした。何よりも小鈴に物申せる気が全く起こらなかったのである。

「おいおい良いのかよ、見張りなら俺が……」
「お前は黙ってろ、アロイス。ナラカだから意味があるんだよ。空気の読めない野郎は馬の餌にするぞ」
「お前は相変わらず可愛げの欠片もねぇな」

ナラカに見張りを任せるのは不安だったのだろうか。口を挟んだアロイスだったが、小鈴に一蹴されてやれやれとでも言いたげに肩を竦めてみせる。小鈴の口振りはナラカだからこその何かがあるようなもので、ナラカは此処で一旦自分を振り返ってみる。しかし特にこれといった長所は思い付かなくて、むしろ自分の短所ばかりが思い浮かんだ。強いて言うならアリックとは一応“お友達”という関係性であるということくらいだろうか。しかしそれも頼りになるような点とは思えない。

「ほら、これ持て」
「……!こ、これは……?」

ぼんやりとしていたナラカに、小鈴が押し付けるようにして木箱を手渡してくる。見た目に反してけっこうな重さだ。重みに少しよろめきながら、ナラカはおずおずと小鈴に尋ねる。

「その中に紙とか黒鉛とか、必要なものが入ってる。あいつに持たせるのは不安だからな」
「は、はぁ……わかりました……」
「とりあえず、一段落したら持ってこさせろ。何かあったら私がそっちに向かうから心配するな」

何処で覚えたのか小鈴はぐっ、とナラカに向けて親指を立ててみせる。それに対してナラカは曖昧な返事を返すことしか出来なかった。

12日前 No.143

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アリックの自室はきちんと片付けられていた。片付けだとか整理整頓だとか、そういったことが苦手なナラカとしては恥ずかしくなるくらいである。どんよりとうなだれた様子で机に向かったアリックに、ナラカはそっと小鈴から預けられた木箱を手渡す。

「えっと……。こちらに、必要なものが入っているとのことです……」
「……ありがとうございます、ナラカ殿」

ナラカから木箱を受け取ったアリックはやや頼りない笑みを浮かべて、再び机へと向かった。ナラカはいそいそと椅子を引っ張ってくると、アリックの見える場所に椅子を置いてちょこんと座る。何かあったらいけないからと、一応扉を背にしている。

(……気まずい……)

かりかり、とアリックが黒鉛を走らせる音のみが響く室内は居心地が良いとは言えなかった。たぶんスメルトの部屋の寝台と良い勝負をすると思う。ナラカはもぞもぞと足を動かすなどしながら、反省文を書くアリックをじっと眺めていた。容姿の優れている人間は後ろ姿も様になるもので、アリックの美しい金髪にはナラカも溜め息を吐きたくなる。お国柄とか血筋とか、そういったものが関係している以上仕方のないことだとは思う。もとよりナラカは美しさを追究するような性格ではないのだから。

(……それにしても、どうしてアリックさんはあんなことをしたんだろう)

アリックの後ろ姿をぼんやり眺めながら、ふとナラカはそんなことを思う。アリック本人に聞くのがいちばん手っ取り早いとは思うのだが、そこまでナラカの肝は据わっていない。だから何も言わずにアリックを見ているしか出来なかった。

(……ん?)

そんな中、アリックの手が木箱の中へと伸びたのをナラカは確認した。ごそごそとアリックは木箱の中を掻き回してから、ごとりと何かを取り出した。重みのあるその音の正体は片手に収まるくらいの小さな徳利だった。アリックはそれを少しの間じっと見つめてから、躊躇うことなくそれを口元へと持っていった。

「え、ちょっ……」

何か不安を覚えたナラカは立ち上がってアリックに駆け寄る。もし毒でも入っていたとしたらと思うと吐かせるべきかとさえ思う。まずアリックから徳利を奪い取ってみるが、それは既に空っぽになっていた。

「あ、アリックさん?」

ナラカはそう呼び掛けてアリックの肩を掴むと軽く揺らしてみる。いつものアリックにしては反応が薄く、揺らしてもぐらぐらと頼りなく動くだけであった。これは可笑しい。ナラカの直感がそう告げていた。アリックの表情はぼんやりとしたもので、表情と言えるのかどうかさえも怪しい。何処か虚空を見ているかのような、そんな虚ろな目をしていた。

「アリックさん、アリックさん……!何を飲んだんですか、早く吐きましょう……!」

誰かの介抱なんてろくにしたことはなかったが今は一刻を争う。ナラカはアリックに何度も呼び掛けながら、吐きやすいようにとその身体を前屈みにさせようとする。しかし非力な少女がアリックの身体を動かすのは手一杯で、背中をひたすらバシバシと叩いていることしか出来なかった。何度も何度も叩き続けていると、アリックの身体がびくんと反応する。そしてゆっくりと、おもむろにその翡翠を思わせる双眼がナラカの姿を捉えた。

「あ……あぁ……」
「アリックさん!しっかりしてください!」
「あ、あ……」

アリックは必死に呼び掛けるナラカにしばらくぐらんぐらんと揺らされていたが、突然ナラカの方へと倒れ込んできた。咄嗟に避けることも出来ず、ナラカはアリックと共に床に倒れることになる。触れられたことに対して鳥肌が立ったが、今は緊急事態なのだと自分に言い聞かせる。

「あ、アリックさん!身体は動かせますか、今小鈴さんかアロイスさんを呼んで……!」
「……ぁ、サー……サー、ごめん、ごめんなさい……」
「は!?」

なんとかアリックを引き剥がそうとするナラカだが、彼女の思惑に反してアリックはどんどんすがり付いてくる。ついでにぐずぐずと泣き出し始めた。一体何が起こっているというのか。ナラカの頭には疑問と驚きと地味な恐怖が浮かび上がる。

「アリックさん、私はナラカです。その……サーさんが誰かはわかりませんが、とにかく誰かお呼びして……」
「うっ、ううっ、俺が、俺がぽんこつだから、まだ父上は見つからないんだ……!俺なんてどうせ駄目な子なんだ〜〜……!!」
「アリックさんはぽんこつじゃありませんよ!むしろ良い子です、ですから離れて!」
「ごめんなさいぃ、サーが俺のこと心配して止めてくださったのに俺は、俺は本当に……!本当にもう、俺のばかぁ〜〜〜〜……!!」
「私は今のあなたが心配です!良いから離れなさい!離れろ!退け!!」

びょおびょおと見たことはないがまるで鵺のように泣き叫ぶアリックに、さすがのナラカも言葉を繕っている余裕がなくなってきた。ぼこぼこと背中を殴っているだけではアリックは離れてくれない。それならばナラカには正当防衛という大義名分が生まれるはずだ。大の男に抱き付かれている。それはきっとナラカがアリックに攻撃する理由になりうる。

(……よし、いける……!)

ナラカはす、と目を細めて狙いを定める。するりと右足をアリックの両足の間に滑り込ませ、両手でがっちりと彼を掴んで動きを固定する。このままナラカの右足を勢い良く上げてしまえばこちらの勝利という訳だ。失敗したらナラカなりの責任は取るつもりである。あくまでもナラカなりに、だが。
ナラカの瞳に闘志が宿る。恐怖を通り越してなぜだか勇気が湧いてきた。今ならいける、大丈夫。そう自分に言い聞かせて、そのままアリックを見上げて睨み付ける。

「目を、覚ませぇっ!!」

攻撃は決まった。ナラカの非力な力ではそれほどの痛みは与えられないであろうが、きっとアリックの拘束から逃れられるだけの攻撃にはなる……とナラカは考えていた。そう、考えていたのだ。


━━━━宮廷薬師の住まいに、一際大きな絶叫が響き渡った。


11日前 No.144

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10日前 No.145

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翌日のアリックの顔色は芳しくないものであった。いつもより肌は青白く、唇もかさかさに乾いていた。そして何より、いつも微笑みを浮かべているはずの顔はとんでもなく不機嫌そうな表情が浮かんでいた。口はへの字に曲がり、目付きは最悪としか言いようがない。紅顔の麗人は何処にもいなかった。

「……私に、何をさせるおつもりですか」

アリックが小鈴やアロイスに向ける視線は剣呑としか言えないもので、ナラカは思わず身をすくませてしまいそうになった。それだけの威圧感をアリックはかもし出していたのである。

「……別に?そう身構えるほどのことは要求しないぞ。もっとも、それがお前にとってどうかはわからないけどな」

しかしそんなアリックの視線を意に介すことなく、小鈴は薄く笑みを浮かべてそう答えた。ぐっ、とアリックの表情が悔しげに歪む。顔立ちの美しい人間程、負の表情の恐ろしさというものは何とも言えない迫力がある。そう改めて実感させられたナラカであった。

「……何が目的なのですか?」
「目的?そんな大それたものはないさ。私はただ、お前の素性が知りたいだけだ。何処に生まれ何処から来て、何故このようなことをしているのか。それが聞けたのなら十分なんだがな」
「……っ、それは……」

小鈴の言葉に、不機嫌極まりないといった顔つきをしていたアリックに初めて焦りが見えた。しかしアリックもわかりやすく焦燥を前に出したのは本当に一瞬のことで、すぐにまた表情をもとに戻した。

「あなたに私の事情をお教えする筋合いはございません。……ただし、ナラカ殿と二人きりでなら、多少のことは話しましょう」
「ナラカと?あいつに何か思い入れでもあるのか?」
「いいえ。ただ、私にとって最も信頼出来る方がナラカ殿ですから、彼女には話しても構いません」

ふぅん、と小鈴が興味深そうにアリックを一瞥する。そしてちら、とナラカに向けて視線を送ってきた。お前はどうする、と。挑戦的な表情で、そう問いかけているかのように見えた。

「……どのような理由で私を選んでくださったのかはわかりませんが、お力になれるのなら、私はそれで良いと思います」
「……だそうだが、アリック。お前もそれで異論はないか?」
「はい、ございません」

なんとかひねり出したナラカの返答に、アリックは満足そうにうなずいた。実際、ナラカはアリックの意図が読めていない。というか理解できない。何故自分のような何の取り柄も、価値になるような情報や出自を持っていなさそうな小娘を選ぶのだろうかと。まさかまたエルトの時のように脅迫されるのではないかという不安さえある。それでもナラカが首を縦に振ったのは、小鈴とアロイスの存在があったからのことだった。

(あの二人がいらっしゃれば、もしもの時でも何とかしてくださるだろう)

この一ヶ月と少しで、ナラカは小鈴とアロイスのことを彼女にしては珍しいことに信頼を置いている。そのため、たとえ自分が危機的な状況下に陥ったとしてもあの二人なら何とかしてくれるのではないかと思えるのだ。まあナラカとてどこまでも他力本願な訳ではないので、全てを小鈴とアロイスに任せっきりにするつもりはない。いざというときは自分で状況をなんとか切り抜けるつもりではいる。……その結果が、今の状況でもあるのだが。

「話すならナラカの部屋で行え。変な小細工でも仕掛けられたらたまらないからな。今のなりのまま、何も持ち込まないことだ」
「……ええ。わかっております」
「なら良いがな。……ナラカ、お前に何か意見はあるか?」
「い、いえ……。私の方も、特には……」

名指しされたことには驚いたが、特段何かを望んでいるという訳でもないので尋ねかけられても首を横に振るしか出来ない。そのためナラカは特に意見などは言わなかった。アリックに着いていくべく立ち上がると、アロイスが「ナラカ」と小さく呼び掛けてきて、こそりとナラカに耳打ちした。

「あいつから聞かれたことは全て俺たちに伝えなくても良い」
「……え……?それって、どういう……」
「おい、何をこそこそしてる。わかったならさっさと行け」

アロイスの意味深長な言葉に首を傾げたナラカだったが、小鈴に急かされたことで彼の真意を聞くことは出来なかった。アロイスさんは何を伝えたかったのだろう。そんな疑問を胸から消すことが出来ないまま、ナラカはアリックとの対談に向かったのである。

9日前 No.146

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ナラカは自室にアリックを招き入れると、二脚の椅子を用意して彼女を座らせた。こういった時は何を話せば良いのかわからなくて気まずくなるものである。少なくともナラカはそれを軽減したかったので誰かさんのように寝台に座らせるなんてことはしなかった。あれはいつ誘われても心臓が縮み上がるものだ。相手が相手ということもあるのだが。

「……ナラカ殿」
「は、はい」
「……まずは謝罪をしなければなりませんね。これまで黙っていて申し訳ございませんでした」

話を切り出したのはアリックで、彼女は謝罪するなり深々と頭を垂れてきた。いきなりどやされるのも如何なものだが、こういった風に陳謝されてもナラカとしては戸惑ってしまう。

「か、顔を上げてください……!誰にだって事情はございますし、隠し事のひとつやふたつ、私は気にしませんから……!」
「……そうおっしゃっていただけると、こちらとしてもありがたい限りです。……して、ナラカ殿。単刀直入になってしまいますが、あなたは外界の出身、ですよね」

あわあわとアリックに頭を上げるようにナラカが言うと、彼女はさりげなくナラカの出身について問いかけてきた。唐突なことにナラカは一瞬戸惑ったが、何秒間か考えて無言で首を縦に振った。こんなところで今さら出身を偽っていても何の得にもならない。
ナラカの反応を見たアリックは、ぱあっと表情を華やげた。まるで水を得た魚のようである。ナラカがその場面を直接見たことはなかったのだが、言葉の綾というものである。

「左様にございますか……!お話を聞いている限り、色々と気になる点がございまして、もしやあなたも外界からいらっしゃったのかと思っていたのです……!」
「あなたも……ということは、アリックさんも、ですか?」
「はい。私も地上より参りました。ナラカ殿はどの国よりいらしたのですか?あなたさえよろしければお聞かせ願いたい」
「国……?」

うきうきとした様子のアリックに問いかけられたは良いが、ナラカとしては答えに迷ってしまった。日ノ本と答えれば良いのか、それともその日ノ本の中の国名を答えるべきなのか。しかし細かいところまで答えて変な疑惑でも持たれたらたまったものではない。そのためナラカは大まかに日ノ本と答えることにした。

「……日ノ本、です」
「ヒノモト。なるほどなるほど。たしか我が祖国の者が乗る船が流されたことがあると聞きました」
「あ……ということは、アリックさんの故郷はイスパニアですか?」

アリックの返答を聞いて、ナラカはなんとなく合点がいった。イスパニア。昔から日ノ本とは貿易が盛んで、ナラカも堺の街に行った時にイスパニアの商人から南蛮の菓子をもらったことがあった。何を言っているのかはさっぱりわからないが、南蛮の菓子は美味しかったのでナラカとしては好印象である。ナラカが故郷にいた頃は何か国内でよろしくないことが起こったのか、浮かない顔をしている者をよく見かけた。大方戦争にでも負けたのだろう、と目敏い日ノ本の商人は推測していた。
そんな訳で、もしかしてアリックの出身を当ててしまったかと思われたナラカだったが、アリックはそれを聞いて口をへの字に曲げた。

「違います。イスパニアではありません。もっと強い国です」
「え、も……もっと強い……?え、えぇと……じゃあ、ポルトガル……とか……」
「いいえ、いいえ!ほら、他にあるでしょう!もっと強くて繁栄した国が!」

ナラカの予想はことごとく外れた。さあ、とアリックから促されてもナラカは困り果てるしかない。だってナラカはイスパニアとポルトガルしか南蛮の国を知らないのだ。その他と言われたら明だとか琉球だとか、どうしても日ノ本の近辺のものしか思い付かない。

「……すみません、わかりません……」

そのためナラカは正直にそう告げた。途端、アリックの表情が驚愕に染まる。そのまま何処か西の国の神話に出てきた蛇の魔物に睨まれたかのようにアリックは硬直していたが、しばらくするとわなわなと震え始めた。見ている側としてはかなり不安になる動作である。

「何ですって……いや、しかし……日ノ本ではまだあまり浸透していないのかも……」
「あ、あの、アリックさんの故郷が何処かは存じ上げませんが、素敵なところなら是非お教え願いたく思います……」

ぶつぶつと譫言のように何やら呟いているアリックが不気味でならなくて、我慢出来なくなったナラカはそう声をかける。するとこれまでどんより沈んでいたはずのアリックの表情に輝きが戻った。故郷ひとつで此処まで表情がくるくる変わる人間をナラカは初めて見た。ナラカもそれなりに故郷への愛着はあるが、何も此処までではない。

「ふふ、良いでしょう!えぇ、あなたならそうおっしゃってくださると信じておりました!ナラカ殿、あなたはやはりわかっていらっしゃる!」

アリックの機嫌が直ったのは良いことだ。……良いことなのだが、ナラカとしては今はとりあえず手を握って上下にぶんぶんと振るのをそろそろやめて欲しいところであった。

8日前 No.147

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7日前 No.148

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6日前 No.149

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5日前 No.150

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4日前 No.151

すずり @suzuri0213☆uVgy9R1pZdc ★Android=ti0IvmfI1e

初めは少女は手ぶらなものかと思っていたエルトだったが、すぐにその考えは誤りであったことに気づく。なぜなら、現に少女は両手に短刀のようなものを握り締めているからだ。恐らく長い袖の中に隠し持っていたのだろう。暗器の扱いとしては及第点である。

「……っ」

ギチギチ、とエルトと少女の間で鍔迫り合いが生じる。少女の持っている短刀はかなり小さく軽微なものかと思えたが、何よりも少女の力が桁違いに強いためにエルトともほぼ互角と言える。一旦引き下がるのが良いか。エルトは一瞬そう考えたが、すぐに脳内でその考えを取り消す。

(一歩でも下がれば命はない)

相手から逃げれば必然的に隙が生まれる。手練れであれば決してそれを見逃しはしないであろう。だとしたらエルトに利はない。待っているのは死のみだ。ならばこのまま相手が引き下がるまで鍔迫り合いに興じているのが得策と言えよう。

「……っ、くぅっ……!」

力任せにエルトが剣を押すと、少女の細い身体がぐらりと揺れた。さすがに大の男の力には敵わないようだ。体勢を崩した小鈴に向かってエルトは剣を振り下ろす。だが小鈴もそのまま斬られる程容易い相手ではなく、エルトの剣の鋒が彼女の裳を少し切り裂いただけに留まった。

「……お前、ただ者じゃないな」

両手の短刀をくるりと回して構え直してから、少女はすと目を細めてエルトを見る。猫のそれに近い鋭い視線は彼女が戦闘慣れしていることを匂わせた。

(……お前こそ、ただの薬師ではないな)

エルトは何も答えない。ただ無言で剣を少女に向けるだけだ。少女の怪我は然程大きなものではない。いくら相手に手傷を負わせたからと言って其処に大きな壁は出来ないのだ。むしろ手練れであれば怪我をしていた方が燃える……等と宣う戦狂いも現れることがごく稀にあり得る。目の前の少女がそういった類いの人間には見えなかったが、エルトは細心の注意を払っていた。

「……ふん、意地でも口を割らないつもりかよ。とんでもない意地っ張りだな、お前」

いつまで経っても無言を貫くエルトに、少女は呆れたように肩を竦めた。そしてすぐに床を蹴るとエルトの首筋を狙って短刀を薙ぐ。しかし小柄な彼女の行動をエルトが御するのはそう難しいことではなかった。身体を捻って服の表面だけを切られるに留め、そのまま脚を突き出して少女の身体を蹴り飛ばす。華奢な少女の身体はエルトの蹴りを防ぐことも出来ずに廊下の先へと飛んでいった。エルトはすぐに少女が飛んでいった方向へと駆けていく。追随には余念がない。

「……っ、お……お前、何処の手の者だ……?」

恐らく肋骨でも折れたのだろう、荒い息を繰り返しながら少女はなんとか立ち上がる。そしてつかつかと近付いてくるエルトを驚愕と疑問の入り交じった表情で見つめた。

「お前、は……可笑しい……!五大にしても、そんな力は……!」

少女の首を門番と同じように切り落とそうと、エルトは剣を振り上げる。しかし少女は短刀で剣を受け止めると、ほとんど息になりそうな声音でそう口にした。途切れ途切れになりかけてはいたが、エルトも彼女の言いたいことはなんとなく把握出来る。それに答えるつもりはないし少女を生かすつもりもない。このまま押しきればきっとそう苦労することもなく彼女に勝てるだろう。

(気づいただけでも大したものだ)

もう彼女は動けまい。そう考えていたエルトだったが、それが一抹の油断となった。ゆらり、と少女の腕が伸びてきたかと思うと、そのままエルトの口元を隠していた布を剥ぎ取った。そしてくしゃりと片手で布を丸めると、それを思い切り遠くへと投げる。どうだ、と言わんばかりに微笑もうとした少女だった━━━━が、その表情がすぐに硬直した。

「お前……まさか、アーカムの……!?」
「っ、違う!!」

少女が言い終わるか言い終わらないか、エルトはそれを聞いてはいなかった。アーカムという単語が少女の口から出た瞬間に、手にしていた剣を彼女の胸に突き刺していたのだ。ごぽり、と少女の口から真っ赤な液体が溢れ、エルトの衣服を濡らす。つんと錆びた臭いが廊下に広がっていったが、エルトにそんなことを気にしている余裕はなかった。ずるり、と剣を無理矢理に少女から抜いて、よろよろとよろめきながら倒れた少女から距離を取る。

(何故……何故、この者が私の素性を知っている……!?アーカム王国が滅びたのは10年も前のことだ、このような少女が従軍していたとでも言うのか……!?)

べったりと血液がついていることも構わずに、エルトは剣を持っていない方の手で己が顔を触る。エルトの顔は変わってしまった。手を加えた訳ではないけれど、白かった肌は地上の光に当てられて黒く焼けてしまい、体つきももう10年前の生っ白く貧弱なものではない。それなのに見ず知らずのあの少女は、エルトをアーカムの関係者と考えた。これはエルトにとって予想外の事態であり、混乱するに足りる要素でもあった。


「━━━━小鈴、さん?」


そんな中、エルトの耳に小さな声が入ってくる。か細く、それでいて鈴を転がすかのような年若い少女の声音。それは決して先程エルトが殺害した少女のものではない。何故なら、エルトはこの声を知っているからだ。

「あ……あ、しゃ、小鈴さん……?なん、で……」

今はもう動かない少女の名前は小鈴というらしい。声は小鈴の名前を呼びながら、今にも泣き出しそうな震えをたたえていた。エルトは呼吸を整えると、足音を殺して声のする方向へと歩いていく。やはり倒れた少女━━━━小鈴の側には人がいた。使用人が着る簡素な衣服を纏ったその少女の後ろ姿は、エルトがよく知るものであった。

「動くな」

その少女の首筋に、エルトは剣を宛がう。少しでも動けばその首を落とす、とでも言うかのように。これで少女は怯えるものかと思った。エルトの記憶の中の“彼女”は、少し脅せばたいていのことは聞いてくれるような印象があったのだ。常に死にたくない、死にたくないと口にして、自分の保身に走るような人間だと。少なくともエルトはそう考えていた。そう、この時までは。


「……小鈴さんに何をした、エルト━━━━!!」


しかし少女━━━━ナラカの声色はエルトが想像していたものとは大きく異なっていた。びりびりと空気が震えそうな程の威圧感。其処に込められているのは紛れもなくエルトに対する憤怒である。再度の誤算に、エルトは柄にもなく身を震わせた。

3日前 No.152

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声を張り上げたからか、ナラカははぁはぁと肩を動かしていた。一度は怯んだエルトであったが、ナラカの首もとに剣を突き付けることは止めない。いくら相手が激怒していようと、有利なのはあくまでもエルトなのだ。いちいち相手の反応に一喜一憂している程エルトも腑抜けてはいない。

「……何をしたか、など。この状況を見ればわかることでしょう」

努めて平静を装いながら、エルトはナラカの後頭部に向けてそう返す。いくら凡人と言えどナラカも空気が読めない程愚かではないだろう。たしかにナラカは小鈴とかいう少女と知り合いのようだが、さすがのエルトも保身を第一とする彼女が激情に任せて動くとは思えない。

「……どうして、こんなことを……」

エルトの答えを聞いたナラカは、震える声音で呟くかのように問いかけた。エルトからしてみればわかりきった質問である。これまで予想外なことが起こりはしたが、ナラカの行動はなんとなく読めるものだった。

「どうして、ですか。この少女は私に敵意を向けた。そして私を殺害しようと動いた。ならば身を守るのは当然のことでしょう」
「…………」
「こちらが殺さなければ私が殺されていた。あなたもわからなくはないでしょう?これは正当防衛なのです」

ナラカは何も言わない。背中を向けているためにエルトから彼女の表情は見えないが、拳を握り締めているところを見ると怒りに打ち震えている、といったところだろうか。まあ今となってはナラカが何を思っていようとエルトには関係のないことである。見られてしまったからにはナラカもあの世に送る他ない。ヴィアレやハルシャフがこのことを知ったのならどのような顔をするかわからないが、細かいことは後でなんとでも誤魔化せる。少なくとも、エルトにはナラカへの思い入れというものはない。だから今、こうして彼女の首を落とさんと剣を振りかぶっているのだ。

「さようなら、ナラカ。あの世では上手くやれると良いですね」

そのまま腕を勢い良く下ろそう━━━━としたエルトだったが、突如ナラカが振り返りエルトの剣を何かで受け止めた。乾いた金属音が廊下に響き渡る。

「なっ━━━━!?」

エルトにとっては全く予想外の出来事である。ナラカは小鈴が武器として使っていた短刀を握り締めてエルトに抵抗したのだ。武術の経験は無さそうなナラカだが、突然のことにエルトは一瞬どう対応して良いものかと混乱する。

「ふ……ざ、けるな……!」

エルトの剣に押し負けそうになりながらも、ナラカはエルトを睨み付ける。普段エルトに怯えた視線しか向けてこなかった少女とは思えない程の表情であった。人間とはこうも表情ひとつで変わるものなのか、とエルトはこんな状況だというのにはっと気付かされてしまう。

「私、は……!お前なんかに、殺されたくはない……!」
「っ、無駄な足掻きを……!……!?」

このまま力任せに押し込んでしまおう。そう考えていたエルトだが、突然顔面に何かが飛んできたことによってぐらりと体勢を崩す。一瞬だけだが、視界が不思議な程白くなった気がしてならない。一体何が起こったというのか。エルトがよろめいた隙をついてナラカはエルトから距離を取ってしまった。エルトからしてみれば不意を突かれた形となる。

(一体、何が……!?)

ぼやける視界を何度か瞬きすることで回復させたエルトは辺りを見回す。すると物凄い勢いでナラカのもとに向かっていく白い塊が見えた。その白い塊はすぐにナラカのいるところまでたどり着くと、彼女の胸元にするすると入っていく。

(餅蜥蜴……!)

エルトはすっかり失念していた。そうだ、ナラカにはやたらなついている謎の生き物、餅蜥蜴がいたのだ。大方、それがエルトに向かって体当たりをしてきたのだろう。餅蜥蜴が無事に戻ってきたのを確認すると、ナラカは階段に向けて駆け出そうとする。

「待ちなさい!」

もう少しで踊り場までたどり着きそうなナラカに向けて、エルトはこれまでにないくらいには叫んだ。このまま逃げられてなるものか。しかしエルトの手に剣はない。ナラカを追いかけることに必死で、先程の場所に取り落としてきてしまったのだ。エルトにしては珍しいくらいの焦燥。普段ならあり得ない失敗であった。ならばどうすべきか。瞬時に考えた末、エルトは腰にぶら下げていた剣の鞘を握り締めた。それをナラカに向かって力一杯投げつける。あれがもろに当たれば気絶はするであろう。少なくともエルトに背を向けているナラカに怪我は避けられない。彼方を倒しさえしてしまえばこちらのもの。こちらのものの、はずだった。

ドスン、そして、カラン、と。

階段から何かが落下して床に着地する音、次いで床に何かが落ちるような音が“二つ”響いた。エルトは驚愕に目を見張る。あり得ない。何故ならエルトの投げ付けた剣の鞘は“真っ二つになって”、床に落ちていたのだ。

「……何してるの?」

エルトの視線の先には大きな人影があった。片手をナラカを守るように広げながら、その人影はエルトの方を見据えていた。

「これ、当たったら怪我するよね。なんでこんなものを投げたの?」

ゆらり。人影が揺れる。エルトはこれほど大きな人間をこれまでに見たことがなかった。本当にこの男は人間なのか。人間ではない、化け物のひとつなのではなかろうか。人影は動かない。ただ静かに、エルトのことを責めながら見つめているだけだ。しかし其処には確かな敵意がある。

「……誰です?名を名乗りなさい」

相手から溢れ出る威圧感に負けじと、エルトは大男に問いかける。男はこてん、と首を傾げてから、至って激情を感じさせない、この状況ではむしろ不気味な程に穏やかな声色で返す。

「まずは君が名乗るべきだと思うんだけど……まあ良いか、どう転ぼうと君は名乗ってくれなさそうだし」

一歩。たった一歩、男は前に歩み出た。たったそれだけで、エルトの肌を刺す空気が一気に冷たくなったような気がしてならなかった。警戒するエルトを嘲笑うかのように、表情は柔らかいままで、男は口を開く。


「僕はスメルト。皆には、“北の死神”とか呼ばれてたんだぁ。君が知ってても知ってなくても僕には関係ないけれど」


2日前 No.153

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スメルト。その名前はエルトも知っていた。先程同盟者との話にも出てきた人物。三年前にティヴェラ王国に対して反乱を起こし、多数の羅刹を殺害した張本人。人間を何よりも嫌い、使用人たちでさえ殺め続けてきた彼が何故ナラカを庇おうとしているのか。それがわからない程エルトも愚かではなかった。

(スメルトが気に入っている使用人とは、こいつのことだったのか)

想像してもスメルトがナラカを気に入る要素というものがエルトにはわからなかったが、人には人の趣味嗜好というものがある。もしかしたらスメルトは黒髪の女性が好みなのかもしれないし、怯える姿が気に入ったという線もあり得ない話ではない。とにもかくにも、スメルトを敵に回すのは厄介というものだった。まさか部屋から出てくるとは思ってもいなかった。

「す、スメルトさん……なんで……?」

ナラカ本人もスメルトがやって来るということは予想外だったらしく、やや緊張したかのような口振りで彼に尋ねる。しかしスメルトはナラカから話しかけられるとぱあっと表情を明るくさせた。

「そりゃあ、君が危ない状況だったみたいだからね。助けに行かなくちゃって思って。うん、でもナラカに大きな怪我がなくて良かった。もし傷でもつけられてたら、僕はきっと其処の人を呪っていただろうね!」
「呪わないで……いや呪って良いんですけど、それよりも小鈴さんが……」
「……?あの薬師が、どうか……」

スメルトはどうかしたの、とでも言いたかったらしい。しかしエルトはそんなことを気にしてはいられなかった。スメルトの視線が自分からずれた隙をエルトは見逃さない。くるりと踵を返すと、エルトは廊下の方に向けて走り出す。

「あっ……!」
「あー、逃げちゃった。でも、何処に行くつもりなのかなぁ?この先は行き止まりなのに……」

スメルトの口振りは至ってほわんほわんとした場違いなものである。背後から聞こえてくるその声はやたらと不気味で、エルトの背筋には冷たいものが走った。それでも足は止めてはならない。エルトが目指す先は窓である。躊躇うことなく、勢いをつけて窓に向けて飛び込む。

「……っ!」

硝子が割れる。外のひんやりとした空気がエルトの身体を撫でた。エルトは眼下の景色を見下ろす。いざというときのために離宮の周りの地理は把握しておいたのだ。幸いエルトが飛び込んだ窓の下には生け垣があり、エルトは其処に落下する形となった。もともとの予定だとまた離宮の出入口から出てくるつもりだったのだが万が一に備えておいて良かった。スメルトに握り潰されて死ぬくらいなら舌を噛んで死んだ方がよっぽどましだ。

(……ともあれ、失策だったことに変わりはない)

身体についた葉っぱを手で払いながら、エルトは小さく舌打ちする。最終的に勝つことは出来たものの、あそこで小鈴と会ったのは失策であった。おかげでエルトの衣服にはつける必要のなかった大量の返り血がついてしまい、ついでに剣も失ってしまった。さらにナラカとスメルトに顔まで見られている。同盟者と話すだけとは言え、あまりに多くのものを犠牲にしてしまったことは否めない。

(恐らくナラカは同僚か何かに私のことを伝えるだろう。だとすれば私を捕縛しようと兵士たちが動くのは時間の問題か)

ナラカが何故離宮の使用人になっているのかはわからなかったが、王宮で働いている以上今夜の出来事を告げ口しない訳はないだろうとエルトは踏んでいた。自分の計画が漏れることなどあってはならない。口止めのためにナラカを殺害しようかとも考えたが、彼女の周囲がどうなっているかわからない以上下手な行動を起こすことは出来ない。またスメルトのような曲者を相手にするのはエルトも辛いし、同盟者の話によればどうやら使用人の中には羅刹もいるようである。さすがのエルトも羅刹を相手にして勝てる自信はない。羅刹と戦ってまともにやれる人間はノルドくらいのものだろう。

(……とにかく、今は攻めに転ずる訳にはいかないか)

身を潜め続けるのは面倒であったが、自分の命と計画がかかっているのならばそれを遂行するしかあるまい。行き場のない苛立ちを噛み殺しながら、エルトは周りに誰もいないことを確認してそそくさとその場を立ち去った。

1日前 No.154

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14時間前 No.155
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