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平和主義なんて・・・

 ( 社会掲示板 )
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きよ @kohan629 ★ptWwT1S4zQ_KQl

平和主義・・・
できる訳ないと思う
みんなで、社会の平和主義について語りましょう。
僕は平和主義できないと思うけど。

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甚六 @migime☆N.KB19nHQU5L ★iNJBiOPyDg_khR

えー・・・。
前の書き込み対するコメントでないなら、宛名や >>80 みたいな番号を書いてください。。。

5ヶ月前 No.81

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★lGVSpIhChy_khR

貴殿宛てに書く時はそうします。

5ヶ月前 No.82

甚六 @migime☆N.KB19nHQU5L ★iNJBiOPyDg_khR

そのような返答をするのであれば、もう結構です。
私のお願いの意味が分からないのならこれ以上話してもしょうがないですし、
逆に、分かっているのに敢えてそういう返答なんであれば、もう意固地に
なってしまっているので対話が成立しないでしょうから。

5ヶ月前 No.83

ペガサス @y19670503☆6yU9B.BkmyUy ★lGVSpIhChy_khR

まぁ、弁解になってしまうのですが。

私は何故、勘違いされることが多いのでしょうか。

御見苦しい文章を綴ってしまい申し訳ありませんでした。

まぁ、私はまともではないので・・・・。

5ヶ月前 No.84

Chachacha @chachacha ★Xw9TKhSiMr_vZE

今日も今日で平和だった。なにより。

5ヶ月前 No.85

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 平和について、別スレの「世界平和は実現するのかPART2」で語ったことがある。

 その際の問題意識は、今を共有する他の人々が自由を奪われ、生命の危機に直面しているのなら、そのことに無関心でいてはならないのではないかということ。

 彼らがそのような状況になった原因は何か、彼らの境遇と私とは全く無関係なのか、自分は彼らの境遇に対して何かをなすべきではないのか、そんなことを考える義務や必要性が自分にあるのかについては今は定かではないが、見て見ぬふりをしてはいけないという感情におそわれる。

 平和でない世界に共に生きる者として、少なくとも何ができるか考える道義的責任があるように思う。そうでなければ、あきらめかそれとも無関心で満たされた湯船に浸かって日常の些細な出来事に一喜一憂しているだけの日々を過ごしているようにも見える。

 世界平和を実現したいという動機は、情念から生じるのだと思う。ただ、その情念の源が、義務感なのか、思いやりや哀れみの念なのか、自己満足の追求なのか、どれであるのかはわからない。あえて言えば、自分の中で、不条理さや不公正さのような観念が意識されているように思う。

3ヶ月前 No.86

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 世界平和をどうしたら実現できるかという条件や方法を考えるには、動機としての情念とは対照的に、冷静な思考が必要だ。
 だが、冷静に考えれば考えるほど、恒久的な世界平和の実現は、実際問題、かなり困難と思える。しかし、決して不可能ではないと思う。
 人類の歴史において、実現不可能と思われたことが、実現することがある。例えば、ヨーロッパ中世社会では産業革命を予測できなかったし、普通選挙による民主主義の時代が来るなんて想像もできない。江戸時代に庶民が職業選択の自由を有する社会になることや、1日8時間労働になることなども同じだろう。明治時代には、デフォルトでなかった恋愛結婚が今では当たり前になり、もっと続くと思われた東西冷戦がベルリンの壁の崩壊とともに終結した。これらは、歴史的事実だ。

 しかし、人類の歴史は、漸進的に進歩したり、改善したりするものではない。単純な進歩史観では捉えきれないダイナミズムが人類の歴史にはある。
 レヴィ=ストロースは、進歩を当事者の主観と見なし、世界が変化していく状況を確率的な現象の繋がりと捉える。
 人類の歴史は、階段を一歩一歩昇ってきたのではなく、たまたまある方向にポジティブな偶然が何度か続いた時、歴史は一定の方向に累積的に動き、そうでない時に歴史は停滞すると考える。
 今後の世界史のある時期に、累積的に歴史が動き、その先にだれも見ぬ世界平和が訪れるかもしれないと思う。でも、それは、偶然的要因の偶然的重なりに依存するものの、人類が実現されるべき方向への努力を怠れば、手にすることはできないだろう。直感的に言うと、例えば、市場原理や技術進歩によって必然的に実現してしまうといった性格のものではないと思う。

3ヶ月前 No.87

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 平和な世界は、戦争がないだけではなくて、隷従のない世界であり、貧困のない世界でもあるべきだ。そこでは、個人が自由に考え、自己を実現するチャンスを保障する社会が成立していなければならない。多様な意見と利害を非暴力で調整し、ルール違反に対処し、互いに自己の自由と安全を守る権利があると認めあう必要がある。
 そのように考えると、最大の権利侵害は戦争である。とはいえ、独裁政権下で、抑圧されながら、戦争のない、貧困のない社会が実現しても決して平和になったわけではない。個人の自由と安全が最大限保障されることが最重要視されるべきだ。

 また、「個人の自由が保障されること」が一部の人だけでなく、すべての人で実現していることが、世界平和には必要だ。
 具体的には、「個人の自由が保障されること」とは、
 @生命の危険がないこと
 A恒常的な貧困に陥っていないこと
 B基本的な政治経済的活動に制約がないこと
 を含まなければならない。

 そして、国民の意思を社会のルール(法律や規制など)や資源配分のあり方(所得再分配、セイフティネットなど)に反映させられないような、非民主的ないかなる政治体制も、世界平和に反するか、反するものになる可能性がある。
 ゆえに、そのような社会の意思決定にアクセスできる権利を保障し、私有財産制と職業選択・営業活動などの経済的自由を保障することが、世界平和につながると信じる。

 社会の意思決定は、民主主義体制のもとで、いかに民主的に行われたとしても、間違うことがあり、ほとんどの決定過程において、社会内部(男女間、世代間、地域間、人種間、所得階層間…)の対立を孕んでいると理解しておくべきだと思う。
 だからこそ、絶対に侵してはならない権利を保障することが必要になる。そういう意味で、どんな国でも憲法による人権保障が必須になる。いわゆる立憲主義の導入である。
 そうでないと、国内の多数派である民族や社会集団が、民主主義の名のもとに、過半数をもって、少数民族や特定宗教の信者などのマイノリティを弾圧したり、人権を不当に侵害することができてしまうので、そうならないようにしておかなければならないのである。

3ヶ月前 No.88

みたのしきま ★q3tWng5BEh_OXu

*国内の多数派である民族や社会集団が、民主主義の名のもとに、
過半数をもって、少数民族や特定宗教の信者などのマイノリティを弾圧したり、人権を不当に侵害することができてしまう

日本の公職選挙法では、規制が多すぎて、選挙人が被選挙人の情報不足で、おかしな人が当選する。

例えば、

現行の公職選挙法では、選挙の公正、候補者間の平等を確保するため、選挙運動期間中に行われる文書図画の頒布・掲示その他の選挙運動について一定の規制を行っています。インターネット等による情報の伝達も、文書図画の頒布に当たるものとして規制されてきました。  今回の公職選挙法改正により、インターネット等を利用した選挙運動のうち一定のものが解禁されることとなりました。一方で、今までどおりの規制もありますので、注意が必要です。

(注)掲載内容は、平成25年の制度改正時点のものであり、現在は18歳以上(有権者)になれば選挙運動ができます。

引用終了


その他、世界でも稀な戸別訪問禁止。

その結果世界でも稀な選挙カーでの拡声器。

その結果映像の世界と政治的能力との錯覚。

さらに将来の主権者としての地位が保障されている未成年者の選挙活動の禁止?

最悪なゲリマンダリングによる一票の格差選挙に合憲が出る選挙??

3ヶ月前 No.89

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 現在も、国際紛争は絶えない。武力行使や暴力により、人命が失われている事態も残念ながら続いている。
 いかにすれば、そのような事態を止めさせることができるのか。平和を実現するために、武力行使が許される余地はあるのだろうか。武力行使は、多くの場合、人命の喪失を伴う。そうでない場合は、むしろ例外だろう。
 ならば、平和主義が貫かれるべきなのだろうか。

 現代においては、戦争や武力の行使は、自衛権の行使を除いて、違法化されている。かつての意味での正戦論は、国際法上、存在しない。
 テロ組織や過激派の武装勢力ならいざ知らず、どんな独裁国家もこの国際法を否定することはできない。しかし、いまでも世界で戦争や武力行使が行われるのはなぜか。
 それは、国家間での集団的自衛権や個別的自衛権の行使だと主張されるものと、国内紛争によるものがあるからだ。

3ヶ月前 No.90

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 現実の世界において、戦争と平和にどう向き合うのかということに関しては、平和主義と現実主義の2つの立場がある。
 平和主義とは、戦争や暴力に反対し、恒久的な平和を志向する思想的な立場をいうが、戦争や暴力に反対する考え方の違いにより主張が分かれる。

 「無抵抗主義」は、抵抗することそのものを放棄する。キリスト教の「悪人に向かってはならない」の実践として、相手に自分の一身を委ねることのシンボルとして、武器が捨てられる。R.トルストイなどがその立場。

 「非暴力抵抗主義」は、非暴力が抵抗の一環として位置づけられる。M.ガンジーのような非暴力を戦うための手段としてみる考え。

 「条件付き平和主義」は、多くの場合、暴力的手段に訴えることは、賢明ではないが、被害が計り知れないほど甚大であれば、個別的に暴力を用いることも容認する。B.ラッセルは、反戦主義者であるが、ナチス・ドイツとの戦いは、必要かつ正統と考えている。

3ヶ月前 No.91

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 平和主義は、武力行使に対する防波堤になるだろうか。

 「無抵抗主義」と「非暴力抵抗主義」は、個人的信条としての非暴力の教えとしてはありえても、一部の例外を除して国家の選択としては非現実的だろう。
 もちろん、国家を、「無抵抗主義」や「非暴力抵抗主義」を理念として掲げ、それを信奉する人々から構成されるものと定義できるのであれば、現実味があるのかもしれない。
 ただし、これらの「個人の生き方」の次元の思想は、政策や制度などの国家活動には直結しないが、個人の内面的良心への忠実という観点から、良心的兵役拒否という形で、国家の政策や制度に影響を与えることはある。

 「条件付き平和主義」は、個人の生き方と直接かかわるというより、集団的意思決定あるいは政治的選択として判断基準を提示するものである。そういう意味で、国家としての現実的な選択肢である。

 これに対し、国際関係論において支配的な考え方に、現実主義がある。

 現実主義は、
 ・世界には中央政府がない。
 ・世界における行為主体は国家である。
 ・国家の最大の目的は、生き残りである。
 ・パワーは、この目的を達成するための重要かつ必要な手段である。
という見方をする。

 しかしながら、現実主義は、戦争を賛美する考え方ではなく、戦争の惨禍を深く憂慮し、できるだけ無益な戦争を回避するよう努めるが、世界の現状からして、平和を達成するには、暴力的手段に訴えざるをないと主張するのであれば、条件付きの平和主義にも近い考え方になる。

2ヶ月前 No.92

マー坊 ★18NbNZF3b4_9EL

米中対立激化なら「世界大戦」 キッシンジャー氏、北京で警鐘
11/22(金) 14:40配信時事通信
21日の米ブルームバーグ通信によると、キッシンジャー元米国務長官(96)は
20日、米中の対立が制御を失えば、世界大戦のような惨事につながる恐れがあると
警鐘を鳴らした。
(以下略)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191122-00000075-jij-n_ame

2ヶ月前 No.93

地下水 ★lHRYPNADL9_po8

>>92  イエメンから飛び立ったドローンがサウジアラビアの石油施設を破壊して、世界の石油が5%も減少したと言う。これに指示を出していたのがイランの聖職者だと言うのである。ドローンによる安価で新型の攻撃は軍事大国サウジアラビアの盲点を突いたのである。この事態は泣き寝入りになるのか、代理戦争になるのか。

 また北鮮のミサイルが二百基も日本を向いている。水爆実験もなされ核が拡散し、核弾頭の憂いもある。日本はまずステルスを百機購入し、不測の事態に敵ミサイル基地を破壊する準備に入った。これはイージスアショアによる対ミサイル防衛用のミサイル基地を整備するまでの用意である。しかしイージスアショアが百パーセント迎撃できるとは言えない。打ち損じが東京などに落ちれば被害は大きい。ロシアでは迎撃ミサイル網を潜り抜ける新型ミサイルも開発された。北鮮がこれを買わないとも言えない。だいたい日本の香川県ほどしか経済力の無い北鮮が水爆などを自力だけで開発できるわけがない。ロシアか中国から水面下で技術移転を行ったのであろう。

 暴力には盾を用いる事が専守防衛であるが、ドローンや核、飽和ミサイル戦略、新型ミサイルなどの新たな事態になり、先制攻撃の必要性が説かれる様になってきている。国連は国連憲章で加盟国間の戦争行為を禁止している。世界のほとんど全ての国が加盟しており、もちろんイエメンも北鮮も加盟しているので、戦争行為や戦争に準ずる行為は禁止されているはずなのである。実際、北鮮の戦争準備などは国連安全保障会議で停止するとする事が既に可決されている。
 国連には実力手段としての国連軍もあり、ユーゴスラビアの紛争などでは実際に機能した。強力過ぎて現地の被災を拡大したとまで言われる程であるが、早期に紛争を終結に導いている。

2ヶ月前 No.94

地下水 ★lHRYPNADL9_po8

>>94  しかし実際には強大な日本の防衛力と駐留米軍の攻撃力がまず機能する。イラク戦争に見る様に今はミサイルの時代であるから打ち合いになり、被災も一瞬で広がる。

先の戦争では38度線に中国軍が出て、米中の衝突があった。北鮮のミサイル戦の後ではやはり中国軍が出て来る考えられるが、現在の中国軍の軍事予算は日本を大きく超えている。米軍よりは少ないが、双方軍事力が大き過ぎて米中の衝突は被害が大きく考えられない。政治的に見送られる可能性がある。

2ヶ月前 No.95

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

地下水さん

>>94

>国連には実力手段としての国連軍もあり、ユーゴスラビアの紛争などでは実際に機能した。


 残念ながら、国連軍は、国連憲章第7章に規定はあっても、実際に組織されたことはありません。
 ユーゴ紛争では、NATOが主力となって軍事介入をしたと思います。
 唯一の例外が、変則的ながら、朝鮮戦争以来、現在も日本に後方司令部がある朝鮮国連軍、この特殊な例だけです。

2ヶ月前 No.96

地下水 ★lHRYPNADL9_po8

>>96  ああNATOでしたね、失礼しました、記憶を間違えていました。安全保障会議の議決を待たなかったのですね。イラク戦もそうでしたね。特にイラク戦は後処理も怠ったので後でも戦争が広がったのでした。

 北鮮のミサイルを抑えようと思ったら、朝鮮国連軍を支援拡大する様に、国連に働きかけたら良いのでしょうか?

2ヶ月前 No.97

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

地下水さん

>>97

>北鮮のミサイルを抑えようと思ったら、朝鮮国連軍を支援拡大する様に、国連に働きかけたら良いのでしょうか?


 現在、北朝鮮のミサイル発射や核実験に対し、国連安保理の制裁決議に基づき、経済制裁が行われていますが、朝鮮国連軍については、中国、ロシアの拒否権行使が壁となって話は進まないのではないかと思います。
 当面は、日米韓軍事同盟の維持・強化しかないのですが、日韓関係悪化が北朝鮮、中国を利する結果となっているのが残念です。

2ヶ月前 No.98

みたのしきま ★q3tWng5BEh_hdV

広島、長崎の次の訪問地に、ピョンヤンを進めてみたらいかがでしょう。

勿論、フランシスコ教皇さんの話です。

トランペット安倍首相に合うよりも、金さんに合う方が、はるかに意味があるかもしれません。

2ヶ月前 No.99

地下水 ★lHRYPNADL9_po8

>>99  教皇様にも都合があるのでしょう。教会があり信者が多い国に行かれるでしょうし、社会主義国は原則的に宗教を認めないので。アフリカのブルキナファソなどの僻地にも神父様が協力に行かれてはいるそうですが、ピョンヤンには教皇様を受け入れる土壌が無いのではないでしょうか。

またこの度の教皇様は核廃絶を掲げておられます。その為にも広島・長崎を参られるのでしょう。

2ヶ月前 No.100

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 条件付き平和主義や平和志向の現実主義から見ると、戦争は極めて限定的であるとはいえ、避けることは非常に困難である。
 そういう前提において、人命を奪う戦争はいかにして容認されうるのだろうか。

 それに関する主要な倫理学説として、帰結主義と義務論の2つがある。
 ある行為の正しさについて、帰結主義は、その行為によって引き起こされうる結果から判断する考え方であり、義務論は、その行為自体やその動機から判断する考え方である。

【帰結主義】
(ベンサムの功利主義)
 殺人は、何らかの点で、全体として事態を悪化させるから、割に合わず、殺人を禁止することがまわりまわって最善の帰結を生み出す。帰結主義の発想は、より善い帰結を残す行為が望ましく、それゆえ正しいというもの。したがって、帰結主義が平和主義と結びつくかどうかは、暴力に訴える場合の費用と便益、非暴力を貫く場合の費用と便益に関する怜悧な損得勘定いかんということになる。
 帰結主義者の平和主義を近代にあらためて定式化したのが、ベンサムの功利主義思想「最大多数の最大幸福」である。
 この思想に基づくと、戦争は人口を減少させ、国土を荒らし、友好関係を傷つけ、産業や経済の基盤を破壊するから、戦争は不合理としか考えようがない。よって、「戦争は悪である」となり、怜悧な功利計算は結果的にほとんどの場合、戦争の回避と非暴力の道を指し示すとされる。

2ヶ月前 No.101

地下水 ★KATHFaYqOw_po8

>>101  トランプさんが破産経験のある不動産屋さんで、戦争を回避する様に立ち回っておられるのが感じられます。

日本の石破ちゃんも元々銀行家で、イージスアショアなど専守防衛に徹した、比較的安価な提案をしているのが感じられます。

2ヶ月前 No.102

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 ベンサムの功利主義は、社会的な判断において、明瞭な考えを示すように見えるが、はたして実際の適用の場面においては、多くの人が納得するような実践的思想たりえるのだろうか。

 一国の領土や主権を保全することの価値は、苦痛と快楽の測定という観点からどのように数値化できるか。
 例えば、独裁者の下で怯えながら暮らすことと、独立自尊を貫いて決死の戦いを挑むことは、精神的満足という点でどちらがどれだけ優っているのか。
 他国の侵略を許容するか、自衛戦争をするか、という双方の選択肢が、中長期的に自国の自由と社会秩序の安定に与えるコストとベネフィット(金銭的価値)をどう評価できるか。
 仮にそれらを測れるとしても、測る物差し自体に何らかの価値的バイアスがかかっていたら、帰結主義そのものの信頼性が大きく揺らぐことになるが、そうならないような保証はあるのか。

 これらのことを考えると、功利主義は、理念としてはあり得ても、厳密で実践可能な理論としてはあまり期待できないように思われる。

2ヶ月前 No.103

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 さらに功利主義には、 >>103 のような適用上の技術的問題点を無視したとしても、さまざまな問題があるように思う。自分が思いつくことを列挙してみる。

○実際、国家が、自衛戦争を選択した場合、民間人の被害を避けられないこと、特定の世代(多くが20~30代の男性)が集中的に徴兵されること、多くの国では、移民や低所得層の若者が軍に入隊するといった社会格差が投影されることなど、避けがたい不公正さの残る問題が生じる。

○降伏や無抵抗を選択した場合も、それぞれの選択において、個別にみれば、被害が最小限で済む人と、むしろ最大限になってしまう人の両方がでる。

○戦争を始める政府の決定と国民の意識の間には、決定的な断絶がある。外交・軍事に関する情報の非対称性から、政府の意思決定に対する賛否などの国民の判断が、限定合理性の範囲にとどまることは不可避である。

○民主主義においては、多数決の原則による決定が積み重ねられるという点で、国民の総意を得るということは、フィクションである。個人の功利判断が多様であるがゆえに、国家としての判断とは一致しない個人が少なからず存在することになる。個人の意見は、全く個人的利益の確保にのみフォーカスしているかもしれないし、国民全体の利益を考えたものかもしれない。

○どの程度の期間を視野に入れて結果を評価するのかも問題である。目先の国民的利害のみに固執したり、戦争に何が何でも勝とうとして手段を選ばない場合や過去の恨みから必要以上の加害を行うような場合は、かえって将来の国民を報復戦争の危険にさらすことにもなる。

 したがって、国家による戦争の開始と実行の功利的判断には、より理性的な道徳的判断が求められるのではないかと思う。

2ヶ月前 No.104

みたのしきま ★q3tWng5BEh_hdV

*国家による戦争の開始と実行の功利的判断には

国家による戦争の開始と実行の功利的権限が、あればの話ですネ。

個人の基本的人権を最大限に尊重しながら、戦争を開始して、国民に号令、や命令を発する権限が国家にはあるというのは矛盾です。

そうならないようにするのが国家の責任でしょう。

その責任を放棄して、戦争を開始する国家は淘汰されるべきでしょう。

戦争準備行為も責任放棄の一部ですネ。

73年前、国家による戦争の結果がどうなるか明らかでしょう。

73年前の経験を繰り返すのは○×ですネ。

2ヶ月前 No.105

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

「国家による戦争の開始と実行の功利的権限」てなヘンテコなものは国家にないでしょう。
「国家による戦争の開始と実行」に対する各個人の評価としての功利的判断に話のポイントがあります。哲学的、倫理学的な観点で述べています。
ご存知のことと思いますが、国際法の枠組みとして、現在は、国連憲章で、侵略戦争は禁止され、自衛権の行使が限定的に認められています。

2ヶ月前 No.106

地下水 ★lHRYPNADL9_po8

>>106  イラクもシリアも、とにかく街があって人々の生活があったのだから、生活基盤や家を破壊して住めなくするのは酷いよね。これを再興しようとしたら大きな産業が必要で、大量に資源を使ってしまいますね。結局戦争は、札束に火を付けて燃やす環境破壊なんだね。政治家は、国民をあおって、死の商人が儲けてるだけ。政治家は死の商人からリベートをもらってるか、政治家の裏の顔は死の商人なんじゃないかな。教皇様も言ってたけども、兵器を使ったテロリズムだよね。恐怖政治で国民を丸め込んでるだけなんじゃないかな。

2ヶ月前 No.107

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 カントは、個人が人間性の尊重を前提して、普遍化しうる規範を定め、それに従うことと、他者の人格を単に手段として用いないことを求める。
 行為の動機は、あくまで遵守すると決めた道徳規則に従うべきであるということであって、思いやり、哀れみ、同情心などであってはならないとされる。
 しかしながら、よく義務の履行と快楽の充足は共存する。動機が義務の履行にあるのであれば、結果として快楽の充足があってもよく、逆に利他的行為による喜びを得ることが動機であるなら、道徳的価値はないことになる。
 そして、カントは、世界平和を論じるに当たり、国家を道徳的人格として扱うことで、道徳論を国家に拡張しようとする。

 どのような文明国も殺人を禁止する法律を持っている。一方、大半の国では従軍が職業の一種となっていたり、義務の一種になっている国もある。
 国内では、武器や殺人を取り締まる一方、国際的には武器を提供し、殺人を許容し、命じる。
 セネカは問う。「私たちは、人殺しや個別の殺傷事件は抑止しようとするが、戦争や民族全体の虐殺という名誉ある罪はどうだろうか。……ひそかに犯せば、死刑になるような罪も軍司令官の外套をまとった人物が行えば我々は賞賛する。」

2ヶ月前 No.108

みたのしきま ★q3tWng5BEh_hdV

えぴめてうす さん

*国際法の枠組みとして、現在は、国連憲章で、侵略戦争は禁止され、自衛権の行使が限定的に認められています。

侵略戦争と自衛戦争(自衛権の行使)とをいかなる基準で区別できるでしょうか?

日中戦争〜1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の夜間演習中に実弾が二度発射され、日本軍と中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発した[20]。
この日本軍が駐留していた豊台は、義和団の乱の事後処理を定めた北京議定書に定められた駐留可能地ではなく、法的根拠のない駐留だった[21][要出典]。Wiki引用

過去の事例からは、自衛の名のもとに開戦するのですよ。

現在も、自衛隊が、調査活動を理由に中東に参加しています。ほんとに集団的自衛?

2ヶ月前 No.109

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

みたのしきまさん

>侵略戦争と自衛戦争(自衛権の行使)とをいかなる基準で区別できるでしょうか?


 国連加盟各国、または常任理事国すべてが合意する明確な基準というのはできていないと考えます。
 いちおう、「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」というものを国連加盟国は共有はしていますが。
 ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、ベトナム戦争、 コントラ戦争、アフガニスタン紛争など集団的自衛権として主張された事例も、侵略戦争との区分は明確ではありません。
 しかし、19世紀までは侵略戦争は違法とはされていませんでしたが、不戦条約以降、国際社会は、侵略戦争を違法と認識するに至りました。
 もちろん戦争を始める当事者は、自衛などの正当性を主張するのが常です。それは侵略戦争が違法化とされたからでもあります。

2ヶ月前 No.110

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 まず義務論においては、「殺人を犯してはならない」という道徳法則(通常は法律レベル)を、個人はなぜ従うべきものとして選ぶのか。

 究極的には、他人も含めたすべての人間の尊厳を認め、人間性の尊重を理性が目指すこと自体が、社会の安定に基づく各個人の自己利益の追求という意図に基づくものであって、しかも、それは副次的な結果ではなく、真の動機と言えるのではないか。
 そうであれば、公共的性格を帯びているとはいえ、快苦に基づく自己利益の追求という動機を含まない道徳法則が選ばれることはないということではないか。

 カントが言う定言命法の世界では、義務の履行の背景である自己利益の追求は覆い隠されている。
 思うに、民主主義が浸透した社会においては、すでに警察や司法などの制度や機構が整備され、道徳的な社会意識(義務は履行しなければならないということ)が、それらの裏打ちにより、国民の間にすでに形成され、当然の前提として受け入れられているため、自己利益の追求という目的そのものは無意識化するとともに、逆にあからさまな、個人的あるいは日恒久的な自己利益の追求の主張に対し、批判的あるいは抑制的な感情が定着していると言えるのではないか。

2ヶ月前 No.111

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 カントも、人間は道徳的な心術からではなく、それによって利益を被るから、人間はよき公民となると考えている。
 この主張は、A.スミスの見えざる手の主張とかなり距離が近いと感じる。カント義務論においても、功利の追求という人間の本性が前提に置かれていることに注目すべきだと思う。

 そして、この功利的思考においては、個人的な利益追求とともに、他者の利益追求(安全保障や社会秩序の維持)を確保することが、自己の社会生活や経済活動における自己の利益にも適うものと認識されており、このことが、人間性の尊重が社会の安定に寄与し、自己の幸福につながると人々が考えているということができる。
 このような動機は、国家が存在する社会では、自明のこととして、無意識化され、社会の成員として振舞う際、意識されるのは、義務の履行ということになる。

 なお、カントは、例え、個人の意思に反していても、各人の自己利益の追求が、人間を世界平和に向かわせることになるということが、自然の摂理だとしている。まさにスミス的。

2ヶ月前 No.112

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 通常の殺人行為と戦闘行為は、生身の個人が生身の個人を殺す行為であるという点で、違いは見出されないが、「殺人を犯してはならない」という道徳法則をもって同等の評価を与えることは妥当であろうか。

 現実主義で見たように、国際社会は無政府状態に近く、個人が国内で自己の利益や感情から殺人を犯すことと、国家に命じられて戦場に赴き、軍事活動に従事する中で、敵の兵士を殺してしまうことに同じ倫理的評価を与えられるべきではないと思う。

 国内での個人の殺人行為と戦争での兵士による戦闘行為は、本質的に異っている。
 前者は、個人が自然状態から抜け出て、国家をつくることにより、立法・司法その他の強制力をもった公権力によって義務の履行が強制される空間で行われる。よって、個人が国内法に従うことは当然であり、その前提のもとでは、人の命を奪うという動機は個人的なものとなる。
 後者は、そのような公権力のない空間での国家的目的の遂行という別の義務の履行であり、国家から戦闘行為を命じられた兵士がそれに従うのも当然である。
 ただし、現在の国際法上は、戦争は敵国の軍事力の削減を目的としていることから、戦闘行為自体が、必ずしも敵国国民の殺人を目的としているということ(そのような行為は、国際法違反となる)ではないし、もちろん、兵士が軍の命令に背いて他の兵士や民間人を殺害すれば、通常はその責任を問われことになる。

 行為の動機、行為の相手、結果に対する利害について、それぞれ質的な差異がある。

1ヶ月前 No.113

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 義務論では、各個人が、自らの快苦や欲望に命じられるのではなく、理性を働かせて見出した普遍的な規則に自律的に従うことこそが、人間の自由であるとする道徳理論が示されているが、これを戦争の当事者である国家に、どのように当てはめるかは、別の大きな問題だ。

 国家に対して、「殺人を犯してはならない」という道徳法則を個人と全く同様に課すことが妥当なのだろうか。
 個人の安全保障を担う国家がひしめき、その利害が一致していない国際社会は、基本的に無政府状態に近い環境にあると言える。よって、戦争を回避し得る確固とした手段がない。

 カントは、国家を道徳的人格と見なすことを求めているが、このような状況下では、他の個人の尊厳を守るために、道徳的法則に従う必要があるという考え方を国家間の領域まで拡張できるのか。つまり、国家は、他の国家の尊厳を守るため、普遍化できる規則をつくりだせるのだろうか。

1ヶ月前 No.114

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 国家の尊厳は、結局、その構成員である国民一人一人の尊厳である。

 社会契約において、「自国の国民を犠牲にしても、あるいは不利益を被ることになっても他国との間では道徳的行為をせよ」という定言命法が要求されているのでない限り、本質的に民主主義国家というものは、自国の国民にとって利益となる行為(国益)を追求せざるを得ない存在である。
 そういう意味では、無政府状態の国際社会においては、民主主義国家の中で、国民が他の国民の個人としての尊厳を尊重するのと同じ次元で、ある国家が他の国家の尊厳を尊重して行動することはできない。

 要は、民主主義国家である限り、社会契約によって、その国民の自由と安全を保障する機構として生み出されたものであるため、その目的の範囲内で行動するしかない。国家は、他国又は他国民の利益ではあっても自国民の利益にならないことを行うことはありえず、原理的に、自国民の幸福を追求しようと行動するものである。

 ただし、その振舞いとして、国際法上のルールに則った行動や、短期ではなく中長期的な利益を考慮して理性的に外交を行うことはありえる。カントのいう残虐行為の禁止といった行為は、国家における行動の基準として機能し得る。

1ヶ月前 No.115

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 やはり、国家の内部と外部では、倫理とそれに関わる社会的機構が異なる。

 動物は、他の動物を犠牲にして食料としたり、争って他の個体を殺すこともあるが、捕食する動物や競争相手を全滅させようという意図をもっては行動することは少ない。
 ところが、人間は、文明を起こし、技術を進歩させるにつれ、意見や利害の違う他の国民や民族を全滅させようとする意図をもって、宗教戦争や侵略戦争を繰り返してきた。
 人は大半の動物と違って、憎しみや恨み、妬みなどの感情を抱く。カントの言うように、人間の尊厳を確保するためには、自らの意思で道徳法則に従うことなしには、動物界なら起こらない由々しき事態を招きかねないではないだろうか。
 しかし、個人ベースで考えると、自らの意思で道徳法則に従うことは、個人の功利的判断において、本能的ではなく、理性的に快苦を評価する姿勢と、結構、重なってくるように思う。つまり、義務論と功利主義は対立的な概念ではなく、通底していると見なすことができる。

 ここで、個人と国家、国際社会の関係であるが、近代以降の国民国家では、国民が道徳法則を守ることを担保するため、国家に警察や司法といった機能を負わせることが基本となっている。ただ、国際社会では、その機能を果たす機構は十分ではない。
 それゆえに、国際社会において、平和を実現するためのルールや機構を作り上げていく必要がある。その意味で、カントが言うように、世界平和は人類の努力によって創設されなければならない。

1ヶ月前 No.116

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 国家には、国民の自由と安全を保障する役割があり、それを根拠として、世界の平和に貢献する活動を行うという正統性を得るのだと思う。

 カント義務論は、国家内部ではほぼ異論なく援用される倫理的実践であっても、国家に適用することは困難である。
 世界政府のない国際社会の現状では、公権力の行使で担保された強制力はほぼ期待できず、カントが言うように国家を人格と見なして、普遍化できる道徳法則を定立し、義務を履行する条件は整っていない。
 カント自身も、「永遠平和のために」では、戦争の即時全面禁止ではなく、国家として常備軍の段階的廃止や残虐行為の禁止といった戦争を前提とした解決策を提案しており、状況は大きく改善されていない。

 国家とは、そもそも国民の自由と安全を保障するために設立された機構であって、必然的に功利的な行動をとらざるをえない。
 ただし、最大多数の最大幸福を志向する社会は、バラ色ではなく、国民個人のレベルにおいて、不公正と不利益を伴うものとならざるを得ない。

1ヶ月前 No.117

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 功利主義的には、戦争は人口を減少させ、国土を荒らし、友好関係を傷つけ、産業や経済の基盤を破壊するから、戦争は不合理としか考えようがない。よって、「戦争は悪」である。
 もっとも怜悧な功利計算によらずとも、国民の自由と安全を保障する機構としての国家においては、結果的には、他国を侵略するような戦争は回避され、非暴力的な道が選択されるだろう。

 しかし、領土や食料・資源を巡る国家利害の衝突は生じかねないことから、他国から侵略を受けることは想定せざるを得ず、国家そもそもの役割からして自衛のための装備と行動は必要となる。

 なお、国家指導者の行動や偶発的な核戦争の危機など、功利主義的な観点が度外視される局面があることも付け加えておく必要がある。

1ヶ月前 No.118

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 歴史を振り返ると、国際社会は、自衛権の行使以外の戦争や武力行使を違法としたし、実際に起こった武力行使が自衛であろうがなかろうが、どんな場合においても、してはならない行為を国際法としてルール化した。
 そして、国連ができ、集団安全保障として、強制的措置を用いて、加盟国への侵略行為に対処することにした。

 これらは、歴史的事実であって、その逆の方向には向かわなかった。国家による功利的判断において、自国民の自由と安全のために、理性による人間性の尊重が必要だと考えた結果ではないか。

 もちろん、自衛権の行使には問題も多い。特に集団的自衛権の名の下で行われた戦争は、行使の内容が国際法として確定していないことを示している。
 いくら自衛権の行使だと主張しても、その主張が国際的に受容されるかどうかは、実際にどのような侵害に対する自衛なのか、攻撃を受けた原因は何かなどについて、いかに説得力を有しているかにかかっている。

 自衛のための武力行使を認める以上、「侵略」か「自衛」かは極めて重大な問題である。国連では、1974年12月14日に国際連合第29回総会で「侵略の定義に関する決議」が採択されたが、現在、まだ発効していない。

 地道ではあるが、国際社会の枠組みの中で、一歩一歩、何が許されて、何が許されないかできるだけ恣意性を排除できる基準づくりの努力をすべきだと思う。

1ヶ月前 No.119

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 自衛権は、相手国が侵略してこなければ行使されないはずであるから、国家として、戦争を不合理で「悪」であると考える民主主義国家同士であれば、武力衝突は起らない可能性が非常に高くなる。

 逆に、国民の自由と安全を保障するために設立された国家は、必然的に国民における最大多数の最大幸福という功利的な行動をとらざるをえないという論理は、専制国家には通用しない。

 カントは、このことについて、「永遠平和のために」の中で、「どの国の市民体制も共和制でなければならない」と述べている。

1ヶ月前 No.120

みたのしきま ★q3tWng5BEh_Ay6

中東からの原油輸送のタンカーを警備する目的で、自衛隊が警護や情報収集することは、自衛隊の役目ですか?

国民における最大多数の最大幸福という功利的派遣だからという理由付け?

でもタンカー及び輸送中の原油には保険が付されていて、経済的に完結しています。

政府が自衛隊を目的外に使用する理由にはなりません。

原油が途絶えたならば、原油なしの生活設計を早期に始めることが政府の役目。

中東の石油依存社会は戦後の1948年ごろから本格的な発展を始めただけ。

その前は、アメリカからの原油及び石炭がエネルギーの主役。

それが今や再生エネルギーとリチュームイオン電池で、一回の充電で200キロも走る様になる時代。

要は生活スタイルを修正すれば済む問題。

1ヶ月前 No.121

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 エール大のブルース・ラセット教授とアラバマ大のジョン・オニール教授は、「民主主義国家どうしは、まれにしか戦争をしない」という理論は、「あまねく認められているわけではないにしても、一般的には承認されている」ということを実証的に示した。

 元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一氏の投稿記事によると、両教授が発表した『Triangulating Peace』(2001)において、1886年から1992年までの戦争データについて実証分析がなされており、それによると、戦争のリスクは、
(1)きちんとした同盟関係を結ぶことで40%、
(2)相対的な軍事力が一定割合(標準偏差分、以下同じ)増すことで36%、
(3)民主主義の程度が一定割合増すことで33%、
(4)経済的依存関係が一定割合増加することで43%、
(5)国際的組織加入が一定割合増加することで24%、
 それぞれ減少するという。

 まず、戦争の原因を取り除くべきで、それから民主化が侵略や開戦のハードルを高くするのである。

1ヶ月前 No.122

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

>>121

>原油が途絶えたならば、原油なしの生活設計を早期に始めることが政府の役目。


 日本のエネルギー政策を早めに考えてもらいましょう。できれば、原油が途絶える前に。

>要は生活スタイルを修正すれば済む問題。


 是非、エコな生活で、がんばってください。

1ヶ月前 No.123

みたのしきま ★q3tWng5BEh_Ay6

地球温暖化対策としての「脱炭素」が、企業のビジネスのあり方に大変革を迫っている。脱炭素とは、地球温暖化の原因となっている二酸化炭素(CO2)の排出を減らすために、石炭や石油といった化石燃料を原料とするエネルギーからの脱却をめざすもの。

欧米では、脱炭素に向けて、太陽光や風力など再生可能エネルギーへのシフトが急速に進んでいる。しかし日本では、再エネ由来の電力はコストが高く、大規模な調達は難しい。日本企業のCO2削減の取り組みは、省エネなどエネルギー効率の改善が主体で、使用するエネルギーそのものを見直す取り組みは遅れていた。


『週刊東洋経済』5月13日発売号(5月18日号)の特集は「脱炭素時代に生き残る会社」です。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
だが、ここ1〜2年でそうした状況は変化し、国内でも再エネ調達を加速しようとする企業が増えている。5月13日発売の『週刊東洋経済』は、「脱炭素時代に生き残る会社」を特集。日本企業の脱炭素の実態を明らかにするため、3月から4月にアンケートを実施した。対象は、日本を代表する製造業や流通、サービス、建設、不動産、運輸、金融などさまざまな分野の大手企業150社


遅れているのは、首相官邸と経済産業省

ちなみに、

東京電力ホールディングは、経済産業省の子会社と揶揄されています。

1ヶ月前 No.124

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 現状でも、すべての2国間が敵対関係ではない。ウェントによれば、国際関係は、他国を敵と認識するホッブス的文化、競争相手と認識するロック的文化、味方と認識するカント的文化に分かれるという。

 例えば、国連はカント的文化に基づいている。以前のアメリカとキューバの関係は、ホッブス的文化に近く、アメリカとカナダの関係は、カント的文化に近いといえる。

 このホッブス的文化を変化させる必要があるのだが、このホッブス的文化の当事国双方が民主主義体制をとるようになれば、カント的文化に近づくということであろう。

 民主主義国家同士であれば、国境問題や経済摩擦、その他もろもろの懸案事項があっても、外交交渉を行い、解決に向けて対処し、武力衝突に発展することはまずないと考えられるのではないかと思う。長く解決できない問題があっても平和的な対処が期待できる。

 ベンサムは、「諸国家の利害のあいだにはどこにもいかなる真の衝突は存在しない。もしどこかで矛盾があるように見えるならば、それは単に利害が誤解されているからである」と述べた。そうであるならば、こうした誤解を取り除くことが、反戦平和運動の重要な取組となるはずである。しかし、現実の国際関係においては、国家間の利害が一致しない。

 ベンサムの言うようにならない理由は、民主主義的政治体制をとっていない国、特に中国やロシアといった大国の存在をまず挙げるべきだと思う。

1ヶ月前 No.125

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 カントは、目指すべきは、世界国家ではなく、平和連合であると述べている。現実主義の立場から見ても、カントの言う独立運動の勃発による内戦の可能性の排除という観点からも妥当である。
 現在の国際社会は、世界政府が存在しないとはいえ、国際連合という超国家的な枠組みが構築されており、完全な無政府状態というわけではない。しかし、侵略に対する武力行使を伴う予防や防衛の措置は、まだまだ十分な機能を発揮できていない。
 それは、国際連合の安全保障理事会の状況が示すところである。国連の安全保障機能の強化がさらに求められるが、常任理事国の拒否権の問題が大きく立ちはだかる。

 私は、この問題に対しても、中国やロシアの民主化による克服を志向すべきだと思っている。
 ただし、国家的利害は民主主義国同士でもなくなることはないので、民主化が直ちに世界政府的な権限の行使や国連憲章で描かれるとおりの国連軍の創設に至ることはないと思われるが、民主化達成後、そこから国際社会は新たなる世界平和のフェイズに入れるのだと思う。

 懸念材料を挙げておくと、小国の民主化は、大国の民主化が先行しないとなかなか進まないし、中国、ロシアだけではなく、実は民主主義国のリーダーと思われているアメリカこそ世界戦略の遂行過程で敵対関係を促進し、紛争要因をばらまいてきたのだということを指摘しておきたい。

1ヶ月前 No.126

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 戦争や武力行使が禁止されているにもかかわらず、いまでもそれが行われているのは、「国家間での集団的自衛権や個別的自衛権の行使だと主張されるものと、国内紛争によるものがある」からだと書いた。そして、前者の自衛権の行使について考えてきたが、今度は、後者の国内紛争の問題について考える。

 国内紛争は、特に冷戦体制崩壊後に増え、それに対する人道的介入が国際社会で求められるようになったが、これまで戦争についてしてきた義務論/功利主義による議論や、自衛/侵略の二分法あるいは自国の安全保障を重視する現実主義などによって、うまく対処することができない。これらは、基本的には、自国の安全保障に関わることが少なく、内政不干渉の原則もあるからだ。

 それでも、他国で人道的危機が生じている状況下で、軍事的な介入に賛成する理由を上げるなら、苦難に陥った人間に善をなすよう要請する道徳法則に従う行為だからだろうか。
 このような義務論的アプローチをするにしても、社会契約的前提を欠いた国際社会にやいて、人間性の尊重という理念だけで、どこまでのことをすべきなのか。また、そうすることが巡り巡って、自国民の利益になるということだろうか。そもそも、国家は、純粋な利他心で行動しうるのだろうか。

 この人道的介入という領域では、独立国同士の戦争についての議論と全く状況が異なっている。
 議論を難しくする要因として、人命を救おうとしているにもかかわらず、人道的危機にさらされている人々や自国の兵士の命さえ失われる可能性を否定できないことがある。
 さらに、軍事的介入に当たって、当事国政府の要請や同意がなされることはほとんどないため、その場合の軍事介入は、明確な国際法上の根拠を欠いていることになる。

27日前 No.127

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 介入の是非をどう考えるべきか。国際法上の根拠を一旦保留して、意図と結果の評価から考える。

 国内紛争による人道的危機の状況下で、軍事的介入を考える場合、次の結果が想定される。
  1 軍事的介入を行うことで、無辜の人命が失われた
  2 軍事的介入を行わず、無辜の人命が失われた

 緊急事態において、誠実かつ利他的に他人に最大限の手立てを行った場合、それが失敗したとしても失敗の責めを負う必要はないという教えを「善きサマリア人の法」という。

 この考え方では、介入する場合、行為の態様がその意図と能力に見合ったものである限り、結果の如何に関わらず、免責される。また、介入しない場合、この考え方の範疇外となるが、何もしないことに対する倫理的評価は低いものとなるだろう。つまり、介入した方が介入しないより、例え悪い結果が生じても、介入すべきだということになる。

 この場合の行われるべき行為の範囲は、行為者の遂行能力によって伸び縮みする。例えば、機内で心臓発作を訴えた乗客を救助すべきとする要請の度合いや、手立ての適切さの度合いは、「心臓専門医」>「歯科医」>「医師でない大人の一般乗客」の順に強く求められるだろう。

20日前 No.128

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 ある行為によって生み出される悪い結果が同時に生み出されるよい結果の副産物に過ぎないのであれば、つまり、〈条件1〉行為者は悪い結果を意図しておらず、〈条件2〉行為は善い結果を伴っており、そのことが悪い結果を正当化しうる限り、免責されるとされるという考え方を「二重結果説」という。

〈条件1〉…動機
○介入する場合
 介入による人命の喪失を意図しているわけではない

○放置する場合
 放置による人命の喪失を意図しているわけではない

 よって、〈条件1〉を満たすことはそれほど問題はない。(ただし、検証は必要。)

〈条件2〉…結果
○介入し、紛争国の政府軍への攻撃により人道的危機を止めることができた場合
 人道的危機に陥っている人々を救出できたという良い結果を伴っているが、そのことが紛争国の政府軍や自国軍の兵士が犠牲になったという悪い結果をやむを得ないと正当化できる(副産物と言える)か。

○放置し、紛争国の政府軍の武力弾圧により国民に犠牲がでたり、難民が発生した場合
 介入に伴う意図せざる犠牲がでなかったという良い結果を伴っているが、そのことが弾圧により、紛争国の国民が犠牲になったという悪い結果をやむを得ないと正当化できる(副産物と言える)か。

 この〈条件2〉を判定する上で、良い結果と悪い結果を比較衡量することが求められているようであるが、どう判断すればよいのだろうか。
 喪失した人命の数で評価するのであれば、ほとんどの場合、介入した方が喪失する人命は少なくなると言いたくなる。
 なぜならば、そういう予測ができないのでなければ、介入しようとはしないであろう。そのような結果を得られるようなやり方で介入が実行されることになるだろう。

 しかし、実際のところ、実行に移す前に正確な予測を行うことはかなり困難を伴う。
 また、介入した結果、多くの人命が救われ、意図せぬ犠牲はほとんどなかったケース。それがどの程度なら許されるのか。放置した結果、多くの人命が失われたケース。どの程度なら、正当化できないのか。

 思うに、この評価は、正確な検証が不可能である。介入して救われた人命の数(=放置していたら失われたであろう人名の数)、放置して失われなかった人命の数(=介入していたら失われたであろう人名の数)がわからないからだ。
 さらに、国家というものは、人名の数が問題であるとしても、自国の人命と紛争国の人命を対等には評価できないだろう。

13日前 No.129

えぴめてうす @susano ★EcqMI3ceHU_BqV

 作為と不作為の評価は異なるとの主張がある。

 「1 軍事的介入を行うことで、無辜の人命が失われた」場合では、介入に伴う攻撃という積極的行為で人命を奪うことになる。

 これに対し、「2 軍事的介入を行わず、無辜の人命が失われた」場合では、何もしないことで、紛争により人命が奪われることになる。

 1の積極的行為による人命喪失より、2の消極的行為による人命喪失の方が、行為者にとって罪が重いという考え方である。確かに自分のした行為で人命が失われるのと、何もしないで人命が失われるのでは、結果の評価は異なるだろう。

 しかし、本来の目的は、人道的危機が迫る中で、いかに無辜の人命を救うかではないだろうか。

6日前 No.130
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