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善を善とするならば

 ( プロ詩投稿城 )
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すみ ★PGNl7tTrrT_keJ

善を善とするならば悪を悪としなければならない

どのような物事も一面的な見方でははかれないものなのに


いつだって視野は自らの狭い視界から広がる周囲の世界をこえてくれない


私の視野がこんなにも狭いのは


私が見ることのできる世界がこんなにも狭いからだ


情けなくて情けなくて恥ずかしい


解らないことも気づかずに狭い視野を全てだと思い込むよりは


自らのなかは未だにからっぽなのだと置いた方がまだ救いがあるように思える



そういった狭い思考しかもてない



メモ2019/09/21 00:36 : すみ★Tablet-19bauP0EP0

誰かからの足枷が自分を助けることもある 生き方

ページ: 1


 
 

ちょび @m1j ★QL78yfwE6T_6ll

そうですね、僕もその点について色々考えることがありまして、
さぁ、でも、良いの悪いので振り回されているのは同じでしょうね

そして、良いの悪いのに振り回されるのにムカついたから、
僕ぁねぇ! 善悪の堺について考えましたよ

悪とは、その行いを繰り返せば母集団を死滅する行為であると定義しましたよ
殺人を繰り返せばその集団は死滅するから、悪です。
窃盗を繰り返せばその集団の経済は破綻するから、悪です。

でも実はこれって、漫然と大勢の人がやっていることなんですよね。
そして大勢のやっている、公倍数が膨れ上がるから、原点に立って考え直す。

悪とは、その行いを繰り返せば母集団を死滅する行為である。

僕の答えはこれでした。
あなたはどうでしょうか?

善悪を用いて旗を振り回すのは詩人には似合わない。

2ヶ月前 No.1

すみ ★Tablet=FbsiSv9ibw

善悪の根源に置いて、ぼくは、感情を置きます。キルケドールは、不安の概念について、不安は、自由の目眩である、と、説きましたが、この言葉を知った時、ぼくは、人らしい感情について思考せずにはいられませんでした。ちょびさんが仰るように、合理的で理性的な思考に基づく考え方をとるならば、その様になるとぼくも頷きますが、ぼくは、人はもっと単純なのではないか、という視点を持っています。もっと言うのであれば、人は、合理的で理性的な判断で物事を整理したい、若しくは、支配したいと不安を抱えている存在なのではないか、という思考であり、疑いです。わたしたちは、嘘をついている。気づかぬままに根底にある最も単純な心の動きに気づかぬようにいきているのではないのか、という疑いです。以前、ぼくは、秋良さんと別の作品上でお話している際、動物としての人の根源的な基本の生き方とは、とぐるぐるしていたのですが、今のところのぼくの思考の答えに一番近いものは感情でした。感情と、一言で表すと少し嘘が混じるような気が致します。それは、もう少ししっかりしていない、快、不快に近いもの、感情の根源?のような発生元、というのか、そういったものをイメージしています。言語化まで至らないそれは、形ですらない、思いの発生のようなもの。つまり、何を申し上げたいのかというと、ストレスです。
良くも悪くも人は、人をもし殺めようとするなら身体に多大な影響を及ぼします。それは、社会生活を上手くいとめなくなる程の変質させるそれでしょう。(具体的には命の価値観や重さに対する認識は明らかに軽くなるように思います。自らの命に対しても)つまりは、それは、病や、毒と言って差し支えないとぼくは、思います。いずれ、自らの精神や身体に害を与えると人は本能的に知っている。だから、タブーとされるのではないか、なにかを殺める行為は、不浄とされ忌み嫌われてきたのではないか、そうぼくは、思考しています。答えになっていなかったら、申し訳ありません。

2ヶ月前 No.2

ちょび @m1j ★QL78yfwE6T_6ll

うん、さっぱり共感できんけど、詩の発露、アプローチはそれなのだと思う。
しごく個人的。

「人はもっと単純なのではないか、という視点を持っています。もっと言うのであれば、人は、合理的で理性的な判断で物事を整理したい、若しくは、支配したいと不安を抱えている存在なのではないか、という思考であり、疑いです。」

常に原点回帰を試みるべきであり、その原点を限定すべきであり、思い出すべきだというストップ指令だと受けました。
でも、この点に対しての賛否は語るべきではないでしょう。

詩というのは発言ですが、それを支える地盤は個人の考え、哲学です。
すみさんはそう思う。
確かに、ヒトとは原始的であり、傷つけば傷付く。
なぜ傷つくヒトが遡るのか。

ということを読みながら考えました。
この、自分はこう世界を捉えているというのが、詩の登竜門であるし、醍醐味でもあると思います。
自分はこう自覚しているうえで、書くのだという。
もちろん書いた結果がクソかもしれませんけど、
誰にも、その自分はこう捉えているのだ、て部分は否定できない。

えぇと、何が言いたいかというとですね、言っちゃって良いんだと思います。
詩を書いて、自分の言いたいことを言う。

そーいう点で、すみさん、言いたいこと言ったな。ヒトの原始社会の在り様か。

2ヶ月前 No.3

すみ ★Tablet=FbsiSv9ibw

あまりにもナチュラルに変換ミスをしていてすぐにきづけませんでした……。申し訳ないです、 >>2 は、キルケゴールです。キルケゴールは、死に至る病をもうかなり前ですが、読んでいます。

2ヶ月前 No.4

すみ ★Tablet=equhVvCB1o

>>3  のちょびさんのお言葉を何度も読み返しています。返信が遅くなっており、申し訳ありません。お言葉頂けて、そこから転じた考えでぐるぐるしており、暫く掛かりそうです。申し訳ない……、今、思考し続けている別の御作品上でのくらさんとのお話と、今回のご返信の狭間の所の思考でぐるぐるしています、、暫く、申し訳ありません、

2ヶ月前 No.5

すみ ★Tablet=equhVvCB1o

……ぼくは、詩は、感情だとも思っています。感情は、思考とつながり、思考は、記憶をつなげます。記憶は、歴史であり、歴史は記録です。……それならば、転じて言葉とは、地層であり、記憶であり、記録であり、根源は、感情だと思いますが、感情は、逆をたどれば記憶であり、逆であれば、器である身体よりも精神や心がしばしば重視され行動に移す、器よりも精神を行動基盤の上に置こうとする人は、(理想を持つ 人はだからこそ、自殺する)ただの記録である文字の音や綴り、意味や言語、演出に心である感情を見てしまう。思考は、記憶であり、記録であるから

2ヶ月前 No.6

すみ ★Tablet=equhVvCB1o

だとするならば、人は、人であろうとする限りは、幻想を生きずにはいられぬのです。宗教も、娯楽も、倫理も、哲学も、あらゆる生き方に対する思想も文学も、他、様々な学問も、ただ息を為る行為からは、離れた場所にあるもの。だからこそ、詩は、幻想でもあるのかもしれない。

2ヶ月前 No.7

すみ ★Tablet=equhVvCB1o

人の感情は、脳の中の電気信号でのやりとり、刺激され起こった部位の反応に過ぎず、蓄積された記憶は、個人のフィルターを通してみた記録に過ぎぬのに。ひどく精密で機械的なしくみ、反応による反射に過ぎぬのに。

2ヶ月前 No.8

すみ ★Tablet=QgmrnahcZQ

ただ、一つ問題があるとすれば、人は言葉で感覚を超える表情や表現を作り出すことは出来ない。言葉は、感覚を超えない。ここにひとつの奇妙な矛盾がある。それは、人は他人の言葉に感動することが出来る存在だということ、すべてをつまびらかにされないという事実のなかで、人は他人の言葉に感動し、心を動かし感覚を開く。理解出来ないというエラーが異なる視野を生み、そこから感覚が拡がり世界は、時折再構築される。つまりは、学ぶ。人は人から学び続ける。

2ヶ月前 No.9

すみ ★Tablet=QgmrnahcZQ

ぼくは、学ぶということこそが、脳内のエラーであり、それは、再構築だと思考に置く。

2ヶ月前 No.10

すみ ★Tablet=QgmrnahcZQ

ある一面を覗き見れば、言葉とは、思考であり、それは、そのまま頭の中の状態であると言い換えることが出来るとぼくは思考する。言語とは言葉とは頭の中の図解である。理路整然か、エラーなのか、どちらにせよ、人格が出来上がるまでは、人は人という一個人という存在としては認められないだろう。意志決定に置いて、個という責任と自覚を持ち、人格を確率することが人という存在の大きな分かれ目だとぼくは思考する。人格が固まっていない存在は一個人ではないとぼくは思考に置く。

2ヶ月前 No.11

すみ ★Tablet=QgmrnahcZQ

変換ミスです。申し訳ない。
確率→確立

2ヶ月前 No.12

すみ ★aWLqzI0NxJ_keJ

>>9 けれど、ぼくは、その問題を無意識にアプローチすることで自分をも他人として捉えることで踏み込もうとしてきた。……それは、詩を書き始めた13年前から少しも変わらない。

他人とは自身が目の前に見続けることができるもっとも近い鏡であって、それは他人であって、
ある意味、自身を映し出す境界にある存在だと考える。
同時にぼくは、自身に置いても、ある意味最も遠い他人と位置づける。
ぼくらは、他人を毎日日常の中で目にしながら、自身のことを目にする機会はどれほどのものだろうか。
ぼくらは、自身を知っていると思い込んでいるもしくは

他人から見た自分の虚像を演じているに過ぎないのではないか。
エピクテストは説きました。

記憶しておきなさい。君はこの世界という演劇の一人の役者であると、君の役割はただひとつ与えられた役を見事演じること

と。

人は、皆全ての方が社会的な仮面(ペルソナ)と個人的な人格(ペルソナ)を対面する他者それぞれに変え続けながらいくつものペルソナを使い分けて生活をしています。それらは何も珍しいことではなく至極当然に自然に誰もが行っていることであり、普通のことです。

……ぼくはずっと脇役の人生が良いと願ってきたような気がします。ここでもいくつものそういった願いをのせた雑文を書きました。人生が演劇であるならば、そしてぼく自身が他人に何も影響を与えない影であれるならば、
どんなに素晴らしいだろうと願ってきたような気がします。
そう願ってしまうほど、影響を与える罪はおそろしいものだと思ってきたのです。

2ヶ月前 No.13

すみ ★WAynTYthIY_keJ

BWV 829 - Partita >>5 in G Major を聴きながら
人生が演劇であるならばよい。それ以前にぼくには器など必要がない。他人に伝わらない言葉など不要であり、ぼくには脳のみ備わっていればそれでよい。10歳の頃にそう思えてしまったぼくはそういったぼくの中身は今も全く変化がなく、ぼくの心の奥に残り続ける。


そもそも、人格とは性質とか性格とは何でしょうか。環境から形成されたものや、自らの思考がつくりあげたもの。関わった人々によって変化し続けるもの?


安定しない人格は一貫性のないそれは、1人格としては認められず、それは個としては存在を認められているとは言えない。ぼくはそういった考え方に変に頷いてしまう。そう、一定しないものは、いつまでも堺をフラフラする幽霊のようなもので、モヤのように病的でつかめない。


ぼくは、自らが息をしていることは認めても、それ以外のものを認めたいとはとても思えない。ぼくは未だに空洞であり、人になりきれないのだと思いたいのだと。


地にしっかりと足をつけ、踏みしめたいと思うのならば、きっとまだなにかが、きっとまだ足りないのです。

2ヶ月前 No.14

すみ ★WAynTYthIY_keJ

ああ
また変換ミスです。申し訳ない。エピクテトスです
。ミスタッチが多すぎて申し訳ありません。

2ヶ月前 No.15

すみ ★WAynTYthIY_keJ

ぼくは、もし世界にぼくひとりが残されたとして、人という存在をはじめから知らなかったのなら、ぼくはそれなりに幸せに生きられたのではないかと思うことがあります。自らの想像した神を畏れて、万物を愛して、愛そうとして、原始世界のあり方のなかで、精神世界や感覚世界の中の幻想のままに日常を投影して生きる。ぼくは、宗教をそういったものだと思っていますし、そのような在り方がなにか間違っているとも思ってはいません。

人は幻想を生きる存在だと思っているからです。

誰かの視線を感じれば、あれこれ他者の思考を
考えようとするでしょう。


誰かの心無い言葉に傷ついては次から言われないように怯えようともするでしょう。


ぼくたちは、怯える心や驕る心や人を気遣う心や警戒する心や怒りや他様々なものをいくつも違う心の顔を胸に秘めて生活をし続けるしかない、感情豊かなそれを手放すことなど不可能なのだから。


ぼくらが人らしく幻想に生きる為に。

そして、答えなど存在しない
空虚で空洞でただ無であるという息をするという時間軸のなかで決して意味がないとは思いたくはないのです。


無意味など思いたくはないのです


それこそ、生きるために

2ヶ月前 No.16

すみ ★WAynTYthIY_keJ

天使にラブソングを
を流しっぱなしにしながら


**

時間というものの不確かさについて思う。ぼくらは、時間を豊かに使うということをきっと感覚で知らなければ実感出来ない。

けれど、実感すれば何かが変わるという訳でもない。悩みがなくなる訳でもない。時間は時間に過ぎないのだから。


時間が結局は感覚であるなら1分を感覚で刻むことが可能になれば何か変わるだろうか?ぼくらが感覚のみで時間をみようとしていたとき、太陽は大きな意味を持っていた。生身の身体であるぼくらは、太陽と共に目覚め太陽が沈むころには眠りについた……と、言われる方がいらっしゃるけれど……

……けれど、知っているだろうか?今現在、太陽と共に生きていると思われている原住民でさえ、明かりが無い中で、暗闇で食事をとっていた映像をぼくは見たことがある。日本でも江戸時代では既に有明行灯 という言葉があるくらいだ。人は、夜もはたらかなければ一日にしなければならないことを消化出来ないのだろう。歌でもある、「母さんが夜なべをして手袋編んでくれた〜♪」

遊郭では有明行灯という言葉があるくらい明け方まで行灯の灯を消さないこともあったようだけれど、農民の生活も夜遅く朝早いようなものだったと読んだことがあります。22時くらいが……という話もあるみたいだけれど、実際にはそこまで正確にきっちりとしたものでもなかったみたい、

つまりは、人は動物だ、といくら言い張ったとしても、そこまで生き物であるなら太陽と共に……というものでもない。現に夜行性となった動物たちは、夜動く方が危険が少なかったのだろう。生きる為に効率的で合理的ならば自然の動物たちでさえ生き方を変える。

面白い例がある。無人島の海岸で泳ぐ豚。『ピッグアイランド』ここでは、豚たちが海岸に居る姿を見ることが出来る。観光客にも人気で豚たちをみに観光客が船で無人島にやってくる。

本来、豚は、とても皮膚が弱い。強い紫外線を浴びるような場所は皮膚の弱い豚には過酷な環境だ。本来ならば日陰に隠れるべきなのだが、豚たちは観光客の船が見えるとすぐに観光客の傍に寄りご飯をねだらなければならない。その為彼らは、海岸沿いの砂浜を離れられない。一日中砂浜で船を待つ生活。彼らは皮膚がんになりやすいという。

効率的に合理的に行動を起こそうとするのは人間だけではないことがこれで証明になるのではとぼくは思う。動物は皆、生きる上で効率的て合理的だと思えるのならそのように変化していくものなのだと思う。それは生き物として自然なことなのだともぼくは思う。


2ヶ月前 No.17

すみ ★WAynTYthIY_keJ

生き物として自然だと思える例をぼくはもう一つ挙げよう。

例えば、暑い夏の日中、ぼくらは、どのようになるだろうか?汗をかいて、涼しいところから片時も動きたくなくなるのではないだろうか?

それは、魚たちも同じだ。

彼らは、海水温が上がると途端に活動量が減る。ばてているのかは魚たちに聞かないと解らないが、暑い状態は彼らすら、動きたくなくなるのだ。

私たちは、生き物であり、動物である。

ぼくは、そのことを思う度に、ああだから、ぼくは今の状況をこのようにしか切り抜けられないのか、と考えることがある。

その状態が特別でも不自然でもないのだということをぼくらはもしかしたら気づくとよいのかもしれない。


その行動はなにも、ぼくらが普通の状態よりも劣っているからではなく、生き物としては当たり前の身体の動きや、思考の動きであるのかもしれないということだ。

そこには特別も不自然も存在しない。

だってそうだろう。自然でないことなど、ぼくら程度が出来るわけないじゃないか。
ぼくは、そう思う。

2ヶ月前 No.18
ページ: 1

 
 
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