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詩は誰のもの?

 ( 詩人掲示板 )
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ぐっちい @gecogeco☆CbO7L0K.rMzj ★Android=5v7wPlYpWu

某スレの流れより、こちらに移動しました。


【詩】ってさ、誰の(為の)ものだと思いますか?

(純粋に質問しています。出来れば小難しい言い回しは無しに皆さんの意見が聞きたい)

書くのか、読むのか、はたまたどちらもせず全くの第三者の立場なのか…etcは書かれていないのです。

そこをどうお考えになるか?は、皆さんにお任せします。
そこには この答え、返信は間違えだ なんて言うのは存在しないと私は思うのです。

皆さんの意見がお聞きしたいと思ったのです。
そして
考えの違いを楽しんでいただけだらなぁ…と思うのです。

私、ぐっちいは気が向いたら立ち寄ろうかと思います。


参考レス
http://mb2.jp/_poem/138.html-1401-1418

2年前 No.0
メモ2016/03/02 12:57 : ぐっちい☆CbO7L0K.rMzj @gecogeco★Android-5v7wPlYpWu

ルール違反すると、管理者の夕飯のおかず提供となるので管理者にエサを与えないで下さい。


このスレで【詩】の形態の返信、気持ちの吐露、愛の告白は厳禁です。


このスレで>>0に関連性のない話題、マナー議論、ルールに対しての議論は各該当カテ、該当スレまで移動お願いします。

ページ: 1


 
 

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

議論を袋小路においやる学問の仇敵の一つに、偽の問題というものがありますが、これと並んで厄介なのは、問いの混乱です。幾つもの異なる問いを同一の仕方で投げかけた場合に、相反する答えが両立するように導かれることがあります。単体では明らかに倒れてしまう塔が、別の建物によって支えられてしまうといったような。

この建築物を同一の物として捉えてしまうと、何処に破綻があるのかが見えなくなり、議論があたかもアポリアに至ったかのように見えてしまいます。

それを避けるための手立てを議論参加者の誰もが講じないとなると、このスレッドは比喩的に言えば、船頭多くして船山に登るという状態に……まぁなってもいいんですけど、いいんですか?

いや、そういう趣旨のスレッドなんで全然問題ないんですけどね、私の頭が固いせいか、議論を明確化しようと試みています。更にいうならば、今までに語られてきた多種多様な立場を秩序立たせて、一つの流れの中で共立させたいと考えているわけです。それらを頭ごなしに否定するのではなく。

さて、私見では、「詩は誰の(ための)ものか」という問いは「音楽は誰の(ための)ものか」と同等の問題設定を行なっていると思います。私なら冗談めかして「ミュ、ミューズかな?」とでも言うところです。この場合、◯◯という形式は何のために生じたか、あるいはその形式を司るのは何か、という些か形而上学的な問いになります。実にロマンチックですが、しかし問いの成立が危ぶまれるわけです。

そこで、問いを少々改変して「作品は誰の(ための)ものか」にすると、かなり卑俗な臭いがするようになります。余程の特殊な信念(神秘的な要素)がない限り、作品は「作者」のものであり、ここには異論の余地がありません。しかし前提条件として作品について考証しなかったツケが回ってきてしまうと、「作者の手を離れた作品は」だとか「誰かのために書かれた作品は」だとか言う派生の議論が出てきます。前者には通常、「解釈者」という答えが返されますし、後者には「誰か」という答えが返されます。これに関しては私よりも適任の語り手がおられるでしょうから、詳しくは踏み込みません。

それよりも考えたいのは、かかる派生的な議論が作品の定義なのか述語的に付与されるものなのか、という点ですが、これはひとまず置いておくこととして、先取的に後者の立場を採るならば、既にそこで議論されているものは前述の問題設定を飛び越しているのではないか、という種類の終着点が見えてきます。つまり、繰り返しになりますが「作品は誰の(ための)ものか」という問いには「作者」と答える他なく、それに加えて、それ以外の回答をする場合には問いそのものを細分化させなければなりません。即ち、「作品は誰の(ための)ものか」に幾つかの条件が付与される必要があります。という答えに終始するわけです。

しかし、作品の定義に派生的なものが含み込まれているとすると、問題はそう単純ではなくなります。つまり、「作品とは何なのか」ということが問題になります。ひとまず、作品を、詩作品と言い換えましょう。ここでは詩作品の定義に「他者のために書かれること」が含まれているかどうかを議論します。

恐らく、ここが最も立場が分かれる箇所でしょうが、私は「含まれていない」という立場を採ります。先立って明確にしておきたいのは、「他者のため」と「わたしのため」が全く異なる営みだということです。異論は認めます。

ちょっと疲れたので寝ます。
穴だらけな上に不適切な語句があるやもしれませんので、その場合はご指摘いただければ大変嬉しいことこの上ないです。

2年前 No.1

ぐっちい @gecogeco☆CbO7L0K.rMzj ★Android=5v7wPlYpWu

おはようございます。

くらさん
ありがとうございます。

(かなり馴れ馴れしい言い回しもあるかとは思いますが、その方が私の心情が分かりやすいと思うのでご容赦頂けたら、と思います)
うーんと。
イメージとしては、遠浅の海や波のあるプール…とでもいうのでしょうか。浅瀬では赤ちゃん、深くなるにつれて大人(それなりの技量のある方々)と言う感じです。
浅瀬はそれこそ味噌くそ一緒な訳です(笑)

あんまり小難しくしたくないのです。
入り口だけは。
それが味噌くそ一緒だとしても。
深く潜りたい方々には、記事メモを編集して期間限定でお題に沿って議論するか、新スレ作成して頂いても良いかなー。と思っています。

この板見ていて、投稿する方て比較的固定されつつありますよね?
若い(メビで言う低年齢層)はまず見かけない。
それでいいのかな?と私は思っているんです。
詩のなんたるかを分からない私が味噌くそ一緒な疑問を投げ掛けること。そこに何か(必ずしも答えではない)が生まれることを期待したい。だからあの質問なんです。

何だか纏まっていなくてすみません。
また、お話聞かせて下さい。ありがとうございました。

2年前 No.2

澤あづさ☆odYS5WitSpQ ★AsFHwFtSUb_cPe

>>1  くらさんへ。

>私の頭が固いせいか、議論を明確化しようと試みています。更にいうならば、今までに語られてきた多種多様な立場を秩序立たせて、一つの流れの中で共立させたいと考えているわけです。それらを頭ごなしに否定するのではなく。


こういった姿勢はとても好ましいと思うので指摘するのですが、議論を提案なさるのなら、

>詩作品の定義に「他者のために書かれること」が含まれているかどうか


この議論すべき【詩作品】を、まず明らめる必要があると思います。デリダの訳書では【詩作品】という訳語が、「詩というジャンル」ではなく「個別の作品」を指していたように記憶していますが。一概に「既存の個別の詩作品」と言っても、富裕層の特権であり社交の道具でもあった近代以前の詩歌と、プロ詩にあるような現代日本の口語自由詩とでは、詩作の環境が大きく異なりますから、十把一絡げにはできないのではないかと。

たとえばウェルギリウス「牧歌」第四歌は、「ポリオに向けて書かれた。」(他者のために書かれたと、言えば言えるかもしれない。)と判断するのが、まあ妥当なのではないでしょうか。そこで「いいや自分の保身のため書かれた。」などと作者についてぐだぐだ詮索したり、「この詩はキリスト降誕の予言である。」といった曲解をもって作者を崇拝したりするのは、(どちらも作品そのものから乖離しているという意味で)愚行だと、わたしはテクスト至上主義者なので思います。

もちろん上記の意見は、くらさんの提案から乖離しています。定義が粗雑だと話が逸れやすい、「くらさんが指摘した >>0 の問題を、くらさん自身も解決できていない。」といったことを指摘するために、事例を挙げました。(わたしはくらさんの姿勢を、とても好ましく思っていますので、その点は誤解されたくありません。)

***

以下、本題として。

詩でもなんでも、ある作品が「他者のためにあるか否か」は、その作品が「事実として他者のためになったか否か」を根拠とし、客観的に判定すべきとわたしは考えます。Xさんのためと思って作ったものが、当のXさんにとって迷惑だった場合、作者は潔く「この作品は、Xさんのためにならなかった。」と反省するべきでしょう。でなければ社会の秩序も崩壊します。そういう前提でわたしは、下記に引用するご意見に賛同します。

>恐らく、ここが最も立場が分かれる箇所でしょうが、私は「含まれていない」という立場を採ります。先立って明確にしておきたいのは、「他者のため」と「わたしのため」が全く異なる営みだということです。


もちろん、バルトの述べた「読者の復権」と、著作権や著作者人格権、また「表現は自由だが責任を課される。」といった法解釈は、おのおの別の問題ですね。

「自分の書きたい本質を、読者に媚びた虚飾なしに書き抜く。」といった模索と、「せっかく書いたので読まれたい。どうしたら読んでもらえるのか。」といった模索も、まったく別の問題ですね。

***

以上の発言に誤解や語弊がありましたら、どなたでもご指摘ください。

2年前 No.3

澤あづさ☆odYS5WitSpQ ★AsFHwFtSUb_cPe

>>2  スレ主様へ。

ぬをっ投稿がかぶってしまったっΣ(・∀・;)

>>3 はくらさんの意見に共感する部分があったから投稿したもので、スレ主様への悪意があっての投稿では断じてありません。
こういったことは誤解されたくないので、しつこく申し訳ありません。

2年前 No.4

ぐっちい @gecogeco☆CbO7L0K.rMzj ★Android=5v7wPlYpWu

澤あづさ さんへ

投稿ありがとうございます。

私のレス投稿後に気付いておりました。
niceなタイミングです(笑)
なかなか良いんじゃないでしょうか。

もし悪意があったら、変顔の刑かドジョウ掬いを画面の向こうでやってもらおう!と思っておりました。(嘘ですw)

また、何か思うことがあったら、いらして下さい。
ありがとうございました。

2年前 No.5

ハァモニィベル @eyesonly☆AVJdYWehU3w8 ★tYXAEUCGgp_KHM

くらさんと、澤さんの発言にたいして、ふと思った疑問だけ書きます。

  >ここでは詩作品の定義に
   「他者のために書かれること」が含まれているかどうか
   を議論します。
   /恐らく、ここが最も立場が分かれる箇所でしょうが、 ( >>1 くらさん)


  >「自分の書きたい本質を、読者に媚びた虚飾なしに書き抜く。」といった模索と、
    「せっかく書いたので読まれたい。どうしたら読んでもらえるのか。」といった模索
    も、まったく別の問題ですね。( >>3 澤さん)

お二人とも、精神と肉体を区別するように、二つを区別する立場なのだと読み取れました。
わたしは、その前提にそもそも疑問があります。(このスレの問い、そのものの前提ですね)





 作者として作品を書いたとき、それを一番最初によむ読者は誰でしょうか?
というよりもっと以前から、作品が書かれた下書きの段階から、その読者は読んでいる筈です。
そして、色々と作者に注文をつけたりして、作者には非常に大きな影響力を持つ批評家でもあります。
それは、自分の中にいる読者です。

 作者は、自分もまた、作品の第一の読者であるわけでしょう。その自分の中の読者が、「ほかの読者に媚びるな」と作者に言うタイプの書き手もいるだろうし、「読みやすさを重視しろ」とか、「美しさやリズムを」とか、「面白さを」や、「質の高さを」などなどなど、その書き手の中の読者はクレームを付ける筈です。

 そういう読者の原型ともいえる存在をよそに、客観的に世界に存在する全読者を想定できるほど、わたしは統計学者ではないので、わたしは、書き手というのは、書き手が自分の中に蔵している第一の読者に左右され翻弄され叱咤され鼓舞されながら書くのだろうと思っています。

 すべては、自分の中の読者の質と性格がきめるのだろうと、思います。

 それが、実際にその作者が書く作品に表れるわけです。
 なかには、
 自分の中にいる読者・批評家の見識に、筆力が応えられない作者もあるでしょうし、
 自分の中にいる読者・批評家がひ弱なので、何か別の基準にすがっている作者もあるでしょう。


 と、いうわけで、私は「読者」を、作者の外に置くという思考に疑問を感じたわけでした。



 音楽の比喩が出ていたので、わたしは、料理に例えてみますが、
 料理を、
   食べてくれる人のために作るのか、金のために作るのか、趣味で作るのか、
   練習で作ってみたのか、愛の拷問としてヘタクソな彼女が彼に「ウマイよ。へへ」と言わせるためにシュールに拵えたのか、様々な理由が考えられるし、また実際にあるにせよ、

  結局、旨いことが大事なんじゃないの、というのが(私の中の読者の)感覚ですね。


あ、あと、
    >あんまり小難しくしたくないのです。
      〔中略〕
    >若い(メビで言う低年齢層)はまず見かけない。
    >それでいいのかな?と私は思っているんです。( >>2 ぐっちいさん)

 私は、ここでも高校1年生くらいなら解るであろう文章で書いているつもりですが、(読者層を意識するとか、読み手にサービスするという意識の論点がスレ主にあるとも思うので、そこも一言します。

 小学生にも分かるくらいサービスして書きますが、

 要するに、作品を、セルフサービスで出すか、すぐ食べられるそのままで美味しい完成しきった料理として出すかという違い、ということがあるでしょうね。
 酷いものは、丸ごと魚を放り出してある。自分の包丁でおろして喰えというわけです。一方で、折角の素材を台無しの調味で供する作品もあるわけです。

 大学院生にもわからない深淵な内容もサービスして書きますが、

 本質的に、たとえば、『法華経』のように、精妙な(理性の言葉と親和しない)内容を伝えようとするとき、言葉は崩壊した感じを呈するので、書き手が自分の言語力を超える認識を伝達しようとする無理を反映した異化表現(つまりこれもまた詩的言語になる)になるでしょう。これが、究極の詩の一つの姿だとも言える。
 ところが、これに便乗して、自分の思惟の拙さを隠す煙幕としても、難解な言い方は悪用される。ということがある。
すると、法華経を読めないひとにとっては、究極の詩と、悪用ごまかしの言葉が、同じように見える。そういう読めない人たちにとっては、両者は同じものに見えるわけです。


 近所に、激不味の中華食堂(ラーメン屋暖簾)が一軒あって、潰れたりせずやっているので不思議だなあといつも前を通るたびに思っているのですが、それなりに常連がいるのですね。何も知らずに一度入ってみたことがあります。すると、そこの常連たちは皆、ラーメンは食べてないことに気づきました。皆、かならず、焼きそばを注文するのです。
 焼きそばで成り立っているラーメン屋なんですねきっと。しかし、看板を《焼きそば》に変えたらたぶん潰れるだろうなと(以前のわたしは)思いました。(いまの私は)そういうお店がある以上、そういうお客もそれなりにいるのだ、と思っています。ラーメンと焼きそばの区別はいらないような。

 逆に、そういう世界の対極に、(きっと)
 けっして詩を書こうと思ったのではないけれど、結果として紛れも無い詩が生まれたり、
 別の看板のように見えて、究極で至高の「詩」が出されりすることも不思議とあるのかも知れません。


 『法華経』のような精妙な理性言語を超えたものを、みごとに別の言語に翻訳した鳩摩羅什のような優れた先人なら、きっとそういう詩を詩として目聡く見つけたに違いない。と思います。



(おわり)

2年前 No.6

澤あづさ☆odYS5WitSpQ ★AsFHwFtSUb_cPe

>>6  ハァモニィベルさんへ。
※言及に感謝します。論点の錯綜を避けるために、事務的な物言いで要点のみ返信しますが、言及への感謝を失念しているわけではありません。

***

ご指摘にある >>3 引用部分の「読者」は、 >>1 のくらさんが言及なさった(ハァモニィベルさんも引用なさっている)【他者】を前提としています。このことは >>3 後半の文脈から、論理的に判断し得ると考えます。当該の文脈において、わたしは【他者】を、現代日本口語の慣例に則り「自己ではない者」と定義しています。

「作者のなかの読者」といった、自己に由来し自己に帰着する概念を、わたしは(比喩やその読解など特殊な条件の陳述を除いて)【他者】と定義しません。たとえば解離性同一性障碍に見られる「別の人格」を、わたしは【他者】と見なしません。またたとえば投影性同一視を、わたしは「その本人の問題であり【他者】に責任はない」と見なします。そういった前提のため、 >>3 の発言では、「作者のなかの読者」といった論点を(論旨と無関係であるために)想定しませんでした。

したがって、 >>3 の後半部分が言及している【他者である読者】と、 >>6 でハァモニィベルさんが言及なさっている「作者のなかの読者」といったことは、別の概念です。両者の混同は誤謬であり、討論に不適切と考えますので、「 >>3 の論旨が >>6 の論旨とは無関係であること」をご理解いただきたいと思います。以上の説明は、 >>6 の論旨に対する異議ではありません。

この発言に誤謬や誤解がありましたら、どなたでもご指摘ください。

***

加えて、これは上記とは別の問題であるうえに、ハァモニィベルさんのご意見からも乖離しますが、わたし自身に対する第三者の誤解を避けるために述べます。

>「読者」を、作者の外に置くという思考


わたしはテクスト至上主義者なので、こういった思想を持ちません。「作者も自作の一読者にすぎない」という見解ないし覚悟は、わたしの実践するテクスト至上主義の根幹です。

2年前 No.7

くら @goburin ★iPzYQ27swZ_n7q

ちょっと胃腸炎のために返信が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

>>2  ぐっちぃ様へ

おはようございます。レスありがとうございます。

>この板見ていて、投稿する方て比較的固定されつつありますよね?
>若い(メビで言う低年齢層)はまず見かけない。
>それでいいのかな?と私は思っているんです。
>詩のなんたるかを分からない私が味噌くそ一緒な疑問を投げ掛けること。そこに何か(必ずしも答えではない)が生まれることを期待したい。だからあの質問なんです。

丁寧なご説明ありがとうございます。このスレッドの趣旨、改めて理解いたしました。
そうなると、今のような議論の形態は(あえて言うならば)スレ違いの誹りを受けかねませんでしょうか。
などと言いましても今更にすぎるので、それはぐっちぃ様の優しさに甘えるといたしまして……。

>>3  澤あづさ様へ

おはようございます。レスありがとうございます。

>一概に「既存の個別の詩作品」と言っても、富裕層の特権であり社交の道具でもあった近代以前の詩歌と、プロ詩にあるような現代日本の口語自由詩とでは、詩作の環境が大きく異なりますから、十把一絡げにはできないのではないかと。

なるほど、抜け落ちていた視点でした。(時間が無いために簡素な説明になりますから正しく伝えられるかわかりませんが)詩作品を「環境」から読みとくことに対して、それが「製作の動機」に当たるのではないかという点で、私の中に曖昧な部分があったことを認めます。前述の私のレスの文脈に沿って話をするならば、「ある詩作品が生みだされる際に、その(個別の)作品が有している文化的コンテクストを無視して、個別の詩作品について語ることはできない」と。即ち、これは詩作というものが、あるいは詩作品(ジャンルとしてではなく、個別の作品)というものの背景(個別的な動機ではない)は、作品の定義にまで入り込んでくるということではないでしょうか。すみません、少々、混乱しています。しかしながら、この辺りに何らかの言語化しきれていない可能性を感じています。(時間がないのであれですが、私が明確化しないといけないものが、作品と詩作品のところにあるということが、仰られた以上の意味を持って、私に迫ってきているということです。)

第二に、

>詩でもなんでも、ある作品が「他者のためにあるか否か」は、その作品が「事実として他者のためになったか否か」を根拠とし、客観的に判定すべきとわたしは考えます。Xさんのためと思って作ったものが、当のXさんにとって迷惑だった場合、作者は潔く「この作品は、Xさんのためにならなかった。」と反省するべきでしょう。

これはとびきり、澤あづさ様らしい考え方だと思います。当為をとられていることに最も「らしさ」を感じました。
この判断では、詩の「わたしのもの性」がとても明確になっていると思います。

しいていうならば、詩を啓蒙活動のように使う時に(よろしければ言い換えてください)、
その詩が他者を動かした動かさなかったにかかわらず、何らかの方向性のようなものを感じませんでしょうか。
メッセージ性の押しつけがましさなんていうと怒られますでしょうか。

ところで、

・呪詛は誰のためにあるのか(ふふ、防衛機制ですかね)
・神々へ捧げられた詩は誰のためのものなのか(文化背景を無視して、そういう詩は語り得るのか?)

いや、下らない質問だと一蹴されるやもしれませんが、少し心が遊んでしまっています。
むしろ、澤あづさ様にはこの手の話の内側に入ることを良しとせず、客観的な判断を貫いていただきたいような気もしています。
色々と勉強させていただくことも多いと思いますが、なるべく、話がずれないように致しますので。
とはいえ、現状見ての通りの混沌とした有様でして、自分の学の無さを恨むばかりですよ。

ごめんなさい。お話が途中なのですが、取り敢えず切り上げます。
自分でも呆れるほどの乱文であることは承知の上で、このまま投稿させていただきます。
本当に申し訳ございません。

>>6 ハァモニィベル様へ

おはようございます。レスありがとうございます。

簡素な答えで恐縮なのですが、
私は「私と他人の間にはとても大きな断絶がある」とする立場を採っています。
所謂、排水口から流出していく奴ですね。
この不可避のボタンの掛け違いは、何者の追従をも許しません。
他人の「ため」に書かれた詩が他人を動かさないとき、
その詩が「わたしのため」の詩であったことが明るみに出てしまいます。

しかしながら、自分の中の読者は

> くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

>誰の為のもの……?描く動機じゃなくて描き上がった詩が誰のものになるかということでいえば、それは読み手のものだと思いますが、描く動機は多様すぎて一つにはなりません。ですが、描き上がった詩を私が描き手であり読み手でもある人間として読んだときには、えせ職人根性と自己陶酔で大変なことになりますね。しかし、(真摯なのか必要性なのか)で描いた詩が私から出てきたものである以上、それは私のための詩であることを免れないですね。考えれば考えるほど答えることが溢れ出てきそうです。
2016/03/02 00:05 >>1416

このような仕方でわたしの詩を精査してくれるものだとは思います。
えせ職人根性と自己陶酔、は、しかし、他人の為の行いでしょうか。
これもまた「わたしのため」の行いだと私は考えています。

とはいえ、詩が献身であればいい、なんて言うつもりもないのではあります。
しかし、他者への思いを道具的に切り捨てるほどの信念が私にはありませんで、
なんとか、その辺りの思いも(極端にいうとストーカーの思いですらも!!)共立させたいところです。

本当に乱文で申し訳ございません。

2年前 No.8

くら @goburin ★iPzYQ27swZ_n7q

やー、一箇所、誤解を招きかねないので訂正します。

えせ職人根性と自己陶酔、これはあくまでも、
「くらが、くらの詩に対して読者である場合に生じるもの」です。
詩人の一般的な傾向や性質というわけではありませんので、
すべての詩人を貶めるような目的はまったくもってありません。

失礼しました。

2年前 No.9

ハァモニィベル @eyesonly☆AVJdYWehU3w8 ★tYXAEUCGgp_KHM

くらさん 澤さん

 レスありがとうございました。
 枯れ草の身で恐縮ですが、お二人の柔軟で率直な姿勢に敬意を表します。
 互いの言葉を裏切ったり、意味に血を流すことなく議論出来るひとに私は敬意を抱きます。

  *


 料理で言うところの「食べたときの旨味」というのは、
 「詩」においては何ですか?(あなたの場合はということです)

 と、問う方がいいのかもしれませんネ。


あるいは、


  あなたは、「沈黙」をどう言葉にしますか?


と問うのもいいかも知れません。


   (※これは私の勝手な感想です)

2年前 No.10

初心 @syosin ★Android=XxiIfdI29A

詩も考えもしっかりしてない単細胞のガキの意見言います。すみません、自分の意見しか言えなくて。
先に皆さんのように難しいこと言えなくて申し訳ございません。

みなさんの考えを聞いて、ずっと考えてました。
私にとって「詩は誰のもの」か。

単細胞だから、簡単です。
「どんな形でも楽しめた人のもの」「詩について考えられた人のもの」
書き手でも、読み手でも、今こんな風に詩について考えている人、その考えを読んで考えている人。
私みたいに、詩や批評がどんなに下手でも楽しめればいいと思っている人。

馬鹿な私は、みなさんがおっしゃることは難しくてど言っている意味は理解できますが、その意見をここが素晴らしいとか、こう思いますとか言えません。
全部に、あぁこの意見もあるのかこんな意見もかるのかと納得してし感心してしまうからです。
ほかの方みたいに素晴らしい返信できなくて申し訳ございません。
馬鹿さ加減を吐露して恥ずかしいですが、ガキの意見もと思い書かせていただきました。
でも、意見があったら言った方がいいと思ったので。
以上が私の意見です。


それから、ハァモニィベル様の

>料理で言うところの「食べたときの旨味」というのは、

 「詩」においては何ですか?(あなたの場合はということです)
>あなたは、「沈黙」をどう言葉にしますか?


という質問の仕方スマートです。
読んだ時、すごい発想とまたまた感心しました。
この発想を元に独りの世界でまた、楽しみます。
ひび勉強させていただいています。
以上です。

2年前 No.11

初心 @syosin ★Android=XxiIfdI29A

誤字脱字のオンパレード。すみません。

2年前 No.12

澤あづさ☆odYS5WitSpQ ★AsFHwFtSUb_cPe

>>8  くらさんへ。(順不同)

くらさんの胃腸炎の原因が、わたしの発言によるストレスでなければよいのですが。

>自分でも呆れるほどの乱文であることは承知の上で、このまま投稿させていただきます。本当に申し訳ございません。


いいえ。理路整然とした読みやすい文章ですし、おもしろい着眼ですし、多くの発見がありました。返信のタイミングに関しては、わたし自身も返信が遅いので(くらさんの論旨をきちんと汲むのにも時間がかかりそうです。)お気遣いを要しません。

またわたしのほうでも、 >>3 には語弊と誤解があったと気づきました。「詩作の環境」という選語が特に悪かったと反省していますが、解読していただけて僥倖です。

>詩作品を「環境」から読みとくことに対して、それが「製作の動機」に当たるのではないか

>ある詩作品が生みだされる際に、その(個別の)作品が有している文化的コンテクストを無視して、個別の詩作品について語ることはできない


わたしが >>3 の当該部分で述べた趣旨は、確かにおっしゃるとおりです。そしてその趣旨が、 >>1 への指摘として的はずれであるような気が、いまさらしてきました。

>お話が途中なのですが、取り敢えず切り上げます。


途中のお話に返信するのは心苦しいのですが、ここでひとまずその不首尾を補足する目的で、本題から完全に乖離しますが返信させていただきます。最終的に「そういうわけで、 >>3 は不首尾だった。」というだけの報告ですので、返信は不要ですし、お話の続きにこの返信への返信を含めていただく必要もありません。ご自愛を願いつつ、お話の続きを楽しみにしています。

***

>詩を啓蒙活動のように使う時に(よろしければ言い換えてください)、その詩が他者を動かした動かさなかったにかかわらず、何らかの方向性のようなものを感じませんでしょうか。メッセージ性の押しつけがましさなんていうと怒られますでしょうか。

詩歌が啓蒙活動やアジテーションとして用いられた実例は数知れませんね。身近にして顕著な例に、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』があります。あの恐ろしいメッセージに、まさか現今フランスの全成人男性が、いまだ動かされているということはないでしょう。それでも国歌であるからには、あの歌のコンテクストが、フランス国家の「何らかの方向性」を、もちろん示しているのでしょう。

『ラ・マルセイエーズ』がいまだフランス国歌たり得ている主因は、メッセージよりコンテクストにあるのではないかと、ここで便宜的に考えてみます。それというのは、くらさんが挙げた事例の「呪詛」や「神々へ捧げられた詩」も、それが国歌同様に、社会の機構の一端を担う場合には、テクストよりコンテクストが重視されるだろうと考えたからです。

>・呪詛は誰のためにあるのか(ふふ、防衛機制ですかね)

>・神々へ捧げられた詩は誰のためのものなのか(文化背景を無視して、そういう詩は語り得るのか?)


ここでわたしの見解は、くらさんの論旨からまったく乖離してしまうのですが、(相互の前提の違いと受け止めていただけたら幸甚です。)呪詛は現今でも一部地域で、社会の機構として機能していますし、頌歌等の機能は言うまでもありません。実在の個別事例とそのコンテクストには踏み込めませんが、それらが「その社会」のために存在(機能)していることは、断言しても支障なかろうと考えます。(もちろんこの主張は、「呪詛や賛美歌が、社会以外のもののためには機能していない。」という主張を含みません。)

>>3 に書いた「環境」は、「他者」よりその「社会」を意識したものなのですが、弁別に不首尾があって、後半の論旨の語弊をみずから生産しているような気がします。

***

以上は先述の通り、「 >>3 にはその弁別の点に不首尾があった。」というただの報告です。繰り返しますが、返信は不要ですし、お話の続きにこの返信への返信を含めていただく必要もありません。ご自愛を願いつつ、お話の続きを楽しみにしています。

2年前 No.13

澤あづさ☆odYS5WitSpQ ★AsFHwFtSUb_cPe

>>13 に書き添え忘れた書き込み●

>>10  ハァモニィベルさんへ。

> 料理で言うところの「食べたときの旨味」というのは、

> 「詩」においては何ですか?(あなたの場合はということです)


スタイル。(一択。(スタイルのださい詩は読む気しない。(非詩人として。)


>  あなたは、「沈黙」をどう言葉にしますか?


非詩人にはそれができないから詩人に期待する。

***

>>11  初心さんへ。

わたしの話の一部に、多少でも興味を持っていただけたのなら、とても光栄です。

ところで、わたしは、自分の話をほめていただけても、「難しい」と言われてしまうと、ほめてもらえたような気がしないたちです。「馬鹿さ加減を吐露して恥ずかしいですが〜」なんて言われてしまうとなお悲しいです。

孤高の衒学を追求したいだけの人間は、メビに書き込みなどしないでしょう。わたしも初心さんと同じく、勉強するために来ています。わたしのように思うほかの人もいると思いますので、よかったらお心に留めてください。

2年前 No.14

初心 ★Android=rrpVF1ApZq

澤あづさ様

わたしの書き込みへも反応して下さりありがとうございます。
確かに、1人では分からないことが多いから今みたいに話は合ったり詩を見せてご指摘してもらったりするんですよね。

おもいださせていただきありがとうございます。

2年前 No.15

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

胃腸炎というか、牡蠣にあたってしまいまして、ノロウィルスと戦っていました。

>>10 ハァモニィベル様へ

食べたときの旨味ですか。
一つは選語ではないでしょうか。

詩的言語(ブラックボックスですが)とその適切な配置はそれだけでぐっとくるときがありますし、作者が込めた意味とかメッセージは二の次に読んでしまうことがよくあります。特に、テクニカルな詩になると、私なんかには何を画策してるのかよりも選語の方が気になってしまいます。同等の、あるいは同種のものとしては、広い意味での視覚効果も含むんですかね。色とか詩形とか。ひょっとするとこちらの方が選語よりも致命的になりえるかもしれませんね。

勿論、その次には何を画策しているか、も十分に旨味となりえるのですが、分からない作品は本当に全然分からなくてですね。まぁ私なんかは自分で描いててもよく分からなくなるときが多々あるんですけども。


沈黙は、もしくは、
沈黙を言葉にしたくなる衝動、
そういったものを詩人は抱くようです
それは、言葉がまやかし的に、
詩作のフィルターになってしまう
ある種の嘘くささへの対応策でしょうか
それならばいっそ、沈黙よ、言葉になれ
とでも言った方が適切でしょうか。

言葉なしでの体験(意味)が成立するという確信を何処かで抱いている気がします。
その逆に、体験なしの言葉が成立すると考えるような人もいるのでしょうか。
そのような詩人の描く詩はきっと私には難しすぎるのでしょうが。

>>11 初心さん

書き上げられた作品が作者の手を離れたとき、それは読み手の自由な解釈を許すようになります。それは確かに「詩は誰のものか」という問いに対する、一つの答えであると思います。同時に、そのような詩が作者の詩であり続けるということも確かです。解釈は開かれていますが、詩が形を変えることはありません。

すみません、とりあえず投稿します。

澤あづさ様へもきちんと整理しおえたものを書きたいのですが、なかなか難儀しています。

2年前 No.16

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

雑記として、

マルセル・デュシャンによれば、芸術作品には生死のサイクルがあるそうです。詩歌がそれに当てはまるかはともかく、作品を評価する鑑賞者が属している文化と時間、つまり文脈の時間的場所的な変容によって詩歌は生き死にするでしょう。そこでは詩の(あるいは詩作品の)一回性が現れてくるように思います。

芸術作品の根底を貫くのは人工物という概念ですね。先日(かな?)、猿が撮った写真の著作権を巡って裁判が行われましたが、争点は同様に人工物かいなかでありました。詩にこれが適用可能であるとするならば、すべての詩は人工物であることを免れえません。(トランス状態で描かれてもまぁ恐らく)これが作品として扱われる場合に、作者という主権者が浮かび上がります。もしくは作品を作る行為が意識的に作品を作ります。しかしその善し悪しあるいは評価は、鑑賞者の手の中にあります。ここまでは確認しています。

では不当な評価とは何か。作品が創作行為の影であるとき、その評価は流動する価値評価の背景に依存するのか、あるいは作者の創作行為の意識的な標識?に依存するのか。とはいえある人工物が評価者によって作品化されるとき、もちろん作者とイコールであることもあるでしょうが、作品は鑑賞者によって生み出されるのでしょうか。私は我々はそれらを選択できるのではないか、あるいは既にそうしているのではないかという気がするのです。

話がどんどんずれていますが。

2年前 No.17

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

少し話を戻しまして。
というかそれを調べてたんですが、
まぁ結局は余談なんですが、

岩波書店の同時代ライブラリー132、池上嘉彦著「ことばの詩学」1992年、という可愛い表紙の本の217ぺージに「「呪い」と「わらべうた」」という項目がありまして、その中の226ページ「呪いのテクストと呪いの場」という項目が少し面白かったです。

かいつまんで言えば、呪いとは呪いを行う者と影響を与えるものと影響される者がおりまして、それらを望まれるものが繋いでいるという構造をしています。主体、贈与者、受領者、対象と換言しても構いません。これだけならだから何やねんっちゅう話なのですが、面白いと思ったのは、この役割は、重複することが往々にしてあるというところです。主体が受領者や贈与者であるという役の重複は
呪詛がどこを向いているのか分かりにくい一因であると思います。それを明確化しようとすれば、当然ながら背景的なところへ眼を移さなければならないのではないでしょうか。

まぁこれはちょっとお遊びみたいな話でした、もうちょい色々読んでみましょう。


2年前 No.18

痛い人 @itaiitai☆SQVVU/Ysjo. ★Android=mVBokNj9Af

詩は、誰のものですか?
どのような意図というか答えてもらいたいのがみえみえ(失礼)で固まってしまいました。

話はずれますが、昔と違い表現方法が多岐にわたる自称アーティストの氾濫している昨今

詩というのが、万人受けしない、読まないかわりに書き手がふえているこの現状

もし、記事主さんが、自費出版したら、誰のためであるか、少しわかっていただけるかなーと

時間、身銭、読ませる作品、費やしてからかなーと

なーんて、ね

思うのですが

2年前 No.19

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

ぶっちゃけ僕には、詩は自己表現でした。能動的な創作活動はすべて、自己を切り離せません。というよりも、己なしの創作活動はそれはもう、噴飯物です。誰かのために詩を書くなんて、それはもう自己表現そのものです。もし己のすべてを他者のために捧げて書くのだと言っても、それはそうする作者の有り様がすでに自己表現です。つまり、自己が、創発的に、他者のために書くことを選択するということが背景にあります。

そして、自己表現とは、一人称パースペクティブとしての私が、世界に対して自己を要求?することです。他者を求めることが自己の欲求であるように、世界に求めることは私の欲求です。究極的には詩は、というか行為は私のためにありましょうが、レイヤーを変えて見れば、それが他者のためであるように見えますね。

自費出版。なるほど。しかし僕は自費出版しませんし、することもないでしょう。商業ではないからです。売れたいという気持ちで書かないからです。ただ、他者の心を動かしたいと思うことはあるでしょう。書いている内にわたしが、言葉に動かされることもあるでしょう。しかし、それはやはり、第一に私の表現したさから溢れ出るもので、他者を動かしたいなどという純粋な欲求では詩など書けませんでしょう。もしそれで書けたなら、それはもう作文機械ですよ。人工知能が言葉を選んだのと変わりありません。

他者を動かすために詩を改良し、思考錯誤することは詩そのものとは離れて、二次的な要素です。書きたい気持ちの後に、より書きたいという気持ちが生まれるのです。問題は技巧的なところがあまりに一般的でなく、作者の喜びと読者の喜びが一致しないときです。そのときはもう仕方がありません。自分の心をもっと動かしてくれる他者の作品を読むことです。あるいは作者にもっと異なる詩を読ませてあげることです。書き手が書きたいもの、書きたい衝動を感じなければ意味がありません。それを呼び起こさせながら、変化させるためには良いものを読むのが一番です。そうしたら、詩人の一人称世界は変様するのです。イデア論じゃありませんが、もっとも良い何か、というのは見えないながらもありそうに思えますね。しかしそれはつまらない考えです。時代に最適なものに追従するのでなく、無価値で無意味なものがある日突然、変異して面白いものが生まれること。地力ありきの話ですが、新しいものを生み出すのはそういう力ではないですか?無論、陳腐なものを勉強して、それを批判することも大事です。とにかく、追越さなければつまらない、書く意味も読む意味も消えてしまうかもしれません。それが怖ければ自分のためだけに引き篭もって詩を書くことです。僕はそれでいいし。

2年前 No.20

★Android=aDtAbxtA7x

敢えて言うなら[僕のもの]かな
パクりとかそういう意味じゃなく
それを読んで感じて自分なりに評価して
自分の中に取り入れて
そしたらそれはもう僕のものだと思う

論点ずれてたらすみません

2年前 No.21

心太 @tokoro10 ★VNKHgCHA6l_mgE

詩は誰のため
誰の物でもないかもしれないよ
だれそれのたそがれも
とてつもなく広がっている

とおいむかしの人のことばが
誰かをすくったり 人でない生き物をもすくったりしながら
だれそれを越えて 一遍の詩が
わたしの前に広がっている

わたしの書いた詩も
だれのものでもないかのしれないよ
小鳥のためかもしれないし
かなしみ横丁にたつ柳のためかもしれないよ

2年前 No.22

僻猫 @migraine ★iPhone=ioS36K14w6

先ず「私達は何を有し得るか」よりも「私達は何を有して居るか」を考える。何故なら何かが在り得るのは「有されて在る」からだと考えるからです。更に言えば「有しつつ有されてこそ、在る」と考えるからです。

私は『有無』という言葉が不思議でなりませんでした。なぜ「在無」ではないのか。ーー在る事は前提だからでしょうが、ではなぜそこで「有る」よりも「在る」が先なのか。/なぜ「在ってこその有無」であり「有ってこその在無」ではないのか。

例えば「在らしめつつ在らしめられてこそ、有る」は”神”をうたっているに過ぎないのではないかという疑問です。/私達や誰かが何かを「在らしめ得る」だなんて考えるのは野蛮かつ無理でしょう。考えるだけでも下らなくはありませんか。そういう疑問です。

私達が考え得る(故に問い得る)のは『有』「非-有」ぐらいまででは無いでしょうか。

+

>なぜ「在ってこその有無」であり「有ってこその在無」ではないのか。

この「在ってこそ」、よくいう「生きてこそ」みたいなセリフが問題でしょう。/買うのは金が「有ってこそ」なら解りますが、買うのは金が「在ってこそ」なんて僕らは問わない。問題にならない。何故って其れが不思議にはならないからです。ーー(何処かに)居るのは居場所が(何者かに)「有ってこそ」なら解りますが、居るのは居場所が「在ってこそ」なんて僕らは問わない。

>何かが在り得るのは「有されて在る」からだと考えるからです。更に言えば「有しつつ有されてこそ、在る」と考えるからです。

とはいえ『有ってこそ(在る)』を考えるのは難しい。そこに神は居ないからです。必ず誰かが居る訳では無いからです。何処かの居場所[何処かに於ける居場所]に必ず誰かが居る訳では無いからです。/居場所は誰かが居るから居場所で”ア”るのではない。誰かが其処に居るからといって其処を其の何者かが【「有し得てこそ居る」(或いは有ってこそ在る)】とは限ら無いからです。

>>居るからといって「有ってこそ在る」とは限らない

つまり『居る』だけでは「有(し得て居)る」事にはならないと考えるのです。少なくとも『居る』だけでは(有ってさえいないのだから)「在る」事にはならないと考えるのです。

僕らが何がしか『有る』時、私は少なくとも「有されている」だろうと推測します。『居る』だけでは「有されている」事には少なくともならないと推測するのです。ーー何故か。そもそも『居場所』というものが「有されてこその場所」でこそ在ると考えるからです。

「有ってこそ在る」ことと「有されてこそ(の場所でこそ)在る」ことが両立する地平に於いてしか私達は「何処かを居場所として有する」事を果たし得無いだろうと考えるからです。ーー其処でやっと僕らは「在-無」ではなく『有-無』を問い得ると考えるのです。

+

私達は居場所を有して居るのでは無い。
居場所[有されてこその場所]に有されて(こそ)在るのだ。
つまり私達は居場所(の在り場所)として在る”故に有る”。
此れが「在る事は前提だ」と言う意味です。

2年前 No.23

痛い人 @itaiitai☆SQVVU/Ysjo. ★y5L5NqrvFW_IdS

自費出版が商業だとは思ってませんよ

身銭切ってするなら書き手の為(失礼になりますが本気度、自由度が高くなるかなと、などなど)になるかなーと、おもっただけですし

自費出版の本も買うこと、自費出版の本も図書館にあって読むこともあります これは読み手の為かな?(買って読むのは本気ですしw)

たぶん無料投稿サイトとか当たり前になってるのかなーと

ここのサイトは投稿無料です。わたし読み手も無料で楽しませてもらってます

でも、運営していくのはタダではできません。バーナーとか貼ってあるから、なんとなくね

アンディー・ウォーホールの商業アーティストも好きだし、ポップアーティストとしても

バスキアも、路上落書きアーティストも好きです

記事主さんの主旨とはずれましたが、なんとなく思ったのでね



追記、無学なわたしにも噛み砕いておねがいいたしますー

2年前 No.24

くら @goburin ★iPhone=xMtA2CYZuX

路上落書きアート良いですねぇ。
書きてぇ!って気持ちがきますよね。
誰にでもいいから見られたい!
見せるんじゃなくて、見られることが大事なんですかね。

2年前 No.25
ページ: 1

 
 
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