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陸・海・空・軍部隊同盟

 ( 同盟掲示板 )
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@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★f8btFWa4sB_01r

此処は

昔から現在へ
日本帝国軍隊から自衛隊へ

陸軍部隊 海軍部隊 空軍部隊

兵器 武装兵力 軍事車両 軍艦(イージス艦) 航空機(戦闘機)等々
の事案を述べて語り合いましょう

付け加えは
メモにて

では
これにて
以上です。

メモ2018/03/30 09:05 : 崇☆irRGOksXjy6 @takahisa19★uQsbYbcrrX_01r


雑談は禁止


趣味的・暇つぶし的に書き込むことが幸いです


皆様も思いを、考えを書き込んでくだされば幸いです

ページ: 1


 
 

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★f8btFWa4sB_01r

趣味的にて

暇つぶしにて

自由に書き込んで参りましょう

ただし

ルール

マナー

を守りつつ参ろうぞ

以上。

28日前 No.1

青龍鱗瞬牙 @aokiryuu ★Android=tWDjCmLPb1

軍艦ってイージス艦のみなの?あきづき型はダメなの?巡視船は?しらせはセーフ?

そもそも現代日本は自衛隊だし帝国は空軍なんて持ってなかったですよ?

28日前 No.2

跳躍地雷 @izuma☆VNvX9naPtFo ★iPhone=HxCBD47MVL

そんな事より、露海軍の将来嚮導駆逐艦計画と米海軍のNIFC-CA適応ユニットと印陸軍のINSAS制式小銃の後継選定計画についてだな。と冗談は兎も角、スレ主さんは広く浅く気楽に話そう、と言いたいんじゃ無かろうか。

28日前 No.3

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★PdiGd8SxbV_01r

細かいことは抜きで参りましょう

自分が好きなら良しといたしましょう

>>2

日本の軍艦ならいいと思います
昔も今も混ぜて参りましょう

>>3
はい
その通りです
幅広く対応して参りましょう

以上です。

28日前 No.4

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★PdiGd8SxbV_01r

太平洋戦争時の日本軍艦にて

「戦艦」
開戦前、日本の戦艦は基本的に「戦争の行く末を左右する艦隊決戦において、
雄雄を決する戦艦同士の決闘」に用いられる決戦兵力として扱われていた。

ワシントン海軍縮条約の兵力制限下、基本的に決戦兵力量が劣る中で、
日本戦艦は米戦艦に対して、戦術的優位を確保するための速力優位を含めて、
質的優勢を持つことが望まれるようになる。

このため同条約下で保有が認められた戦艦は、大戦間に大規模な改造を実施して能力向上を図り、
艦によっては他国の新型戦艦にも対抗可能な能力を持つに至っている。

新型戦艦の整備においても、数的不利を質で補う構想は堅持され、
これにより世界最大かつ、戦艦として世界最強の攻防力を持つ「大和」型戦艦が整備されることになった。

このような状況から、開戦時には米艦に比べて同等以上といえる戦闘力を保持した日本戦艦だが、
戦時中レーダーの装備等、大戦後半になると米戦艦に対して能力面で決戦兵力である戦艦はおいそれと動かす兵力ではなく、
この点、戦艦として扱われるが、巡洋艦や空母と共同作戦も行う高速戦艦とは運用上明確な相違があった。

太平洋戦争開戦後しばらくの間、高速戦艦としても扱われる「金剛」型のみが活溌に活動そたのは、この理由によるものだ。
しかし、
戦争が進むと兵力が回復した米戦艦部隊に対抗するため全戦艦の戦線投入が望まれるようになり、
これは昭和十九年二月に第一艦隊が解隊された以降に実現する。

日本海軍の栄光を後世に伝える天号作戦、
すなわち「大和」水上特攻作戦までの各作戦において、
戦艦および高速戦艦は水上艦隊の要として活動したが、
大きな活躍をすることはなかった。

28日前 No.5

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★8HTfkZdMQl_01r

「空母」

日本海軍の空母とその戦術は、
太平洋戦争を挟んだ仮想敵である米海軍の方針を常に意識し、
それをなぞる形で発展が進められた。

当初は漠然と、艦隊の上空直援・偵察/索敵・港湾襲撃を行うと考えられていた程だったが、
米空母の様々な試みの形で、航空母艦は艦隊決戦兵力の一翼を為す艦種と考えられるようになった。

ロンドン条約締結後に事実上崩壊したことで、
艦隊型の空母を中核とする洋上航空兵力の確立が作戦上重要であると確認される。

そして太平洋戦争開戦直前の時期に主力艦並みの扱いとなった空母は、
戦時中には戦艦に代わる艦隊作戦のまさに主力として縦横無尽に活動することになる。

この構想変化の中、ロンドン条約締結前まで試行錯誤が続いていたともいえる日本の空母整備の方針は、
巡洋艦と共に艦隊前衛で機動する高速力と、艦隊決戦の前哨戦となる「空母決戦」に投ずるのに必要な航空機搭載力を持つ、
艦隊型空母の整備へと明確にシフトする
(大型の「赤城」と「加賀」については、この構想に沿う形で大規模な近代化改装が為された)。

続いて日本の空母整備は、一発の爆弾で戦闘不能になる空母の特性を補う、
大型の装甲空母へと移行するが、戦時計画ではこのような大型空母の建造は抑制され、
現実的「決戦型」空母ともいえる「雲龍」型の整備が行われた。

空母兵力の不利を補う目的で、艦隊型空母に伍する速力を持つ空母予備艦の建造も進められ、
これからの艦は戦争直前期以降に改装を実施して空母として使用された。

またこれからの艦大半は、戦時中の艦隊航空兵力の一翼を担う艦として大きな活躍を見せるが、
商船改装空母は「隼鷹」型を除き、速力不足もあって艦隊作戦には使用できずに終わる。

ミッドウェー開戦後、他艦種からの空母改装を含めた大規模な空母整備案が推進されるが、
これらの大半は具現化できずに終わり、「信濃」や「雲龍」型諸艦を含めて戦力化できた例はほとんどなかった。

28日前 No.6

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★HIk6zzq9d8_01r

「重巡」

ワシントン会議により新たに生まれた艦種といえる重巡は、
太平洋戦争開戦前の構想では次のような活躍が期待されていた。

一つには艦隊決戦の前哨戦において、偵察艦隊同士の夜戦も含む交戦で主力になること。
また一つには、
空母決戦を行う空母部隊の護衛艦としての役割である。
加えて主力同士の決戦の際には、敵主力の護衛に当たる対等軽快部隊の排除を行い、
決戦開始直前に行われる昼間統制魚雷戦では主力兵力として敵主力艦隊の減も行うという主役である。

戦前、日本型巡洋艦と呼ばれていた大型軽巡を含めて、
その整備方針が空母と共に「隻数対米一0割」と目標としたのは、
日本海軍の作戦構想における重巡の重要性をよく示すものといえるだろう。
なお、
大型軽巡の整備により対米一〇割が完逐されたため、戦前の一時期、
重巡の整備は他艦種の拡充の必要もあり一時期的に停止する。

第二次大戦開戦後、米海軍の急速拡大が始まり、
これに対抗する形で対米七割の兵力維持を目的とした重巡の整備が開戦直前に再開されるが、
これらの計画で大戦中に完成した艦はない。

上述した作戦構想の下で使用される日本の重巡は、対抗する米艦に対して同等以上の砲撃力・防御力を持つと共に、
強力な雷装とより高速力を持つ艦として要求された。

かくして、日本の重巡は米艦より二〜三割かそれ以上排水量が大きいだけに、
戦時中に使用された重巡としては世界最強の艦といえるだけの性能を持っていた。

太平洋戦争開戦後、
重巡は戦前の想定に近い空母部隊の護衛、および警戒部隊同士の水上交戦における主力兵力として各方面で活躍する。
そして、
レイテ沖での一連の海空戦において、その兵力の大部を喪失するまで、
重巡は日本水上艦隊の要と呼べる艦種として活動を続けていた。

27日前 No.7

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★4HU1xV4Pxe_01r

「軽巡」

ワシントン条約締結の時点で、日本海軍は当時の軽巡としては平均以上の砲力と最高のレベルの速力を持つ有力な巡洋艦、
いわゆる五五〇〇トン型軽巡を中核として、英海軍に次ぐ二位の兵力量を有する軽巡部隊を備えていた。

この当時、軽巡洋艦に期待された任務は重巡と同様のものだったので、重巡の就役数が増大すると、
軽巡の任務は見方水雷戦隊の先頭に立って指揮を行いつつ、わあが水雷戦隊の敵巡洋艦への接近を防止せんとする、
敵巡洋艦および駆逐艦を撃破する、という水雷戦隊旗艦としての活動が主となっていく。

また、
ロンドン条約下で潜水艦が駆逐艦の代替をする一翼を担う存在とされると、これを指揮する潜水戦隊旗艦としての運用も考慮される。
これらの任務に就いた五五〇〇トン型が艦齢により旧式化すると、□計画以降では水雷戦隊旗艦として「阿賀野」型、
潜水戦隊旗艦として有力な通信能力と航空索敵能力を持つ「大淀」型が整備される。
続いて□計画以降ではより大型の水戦旗艦や「大淀」型の追加建造も要求されるが、これは実現されなかった。

太平洋戦争開戦後、
水雷戦隊旗艦として使用された軽巡は、戦争中期までは要求された任務を十分にこなす活躍を見せた。
また、
輸送任務等の任務にも使用される、地味だが重要な艦として艦隊では扱われた。
だが戦争が進むとレーダー技術で不利な戦闘を強いられるようになり、この時期に完成した「阿賀野」型を含めて、
その活躍は限定されるようになってしまう。

潜水戦隊旗艦として建造された「大淀」は、作戦構想の変化によりこの任務には使用されず、
その強力な指揮通信能力が買われ、「最後の連合艦隊旗艦」として使用されたほか、空母部隊の直衛を含め通常の
巡洋艦として使用された。

27日前 No.8

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★4tGHwZp5Zg_01r

「駆逐艦」

ワシントン条約の制限下、夜戦の中心兵力となる駆逐艦は、新型艦の整備が最も勢力的に進められた艦種の一つとなる。
同条約締結後、
まず他国の駆逐艦と同等の砲力と、より強化された雷装を持つ他国の大型駆逐艦整備に対抗する形で、
米海軍の資料の日く「最初の近代型駆逐艦にして、その設計は以後建造された全世界の駆逐艦に影響を与えた」
ところの、特型駆逐艦の整備を開始する。

当時の英米の標準型駆逐艦に比べて、砲雷装で勝るだけでなく、軽巡に劣らぬ優れた航洋性能と他国駆逐艦と同等以上の高速性能を持つ
特型駆逐艦は、まさに理想の駆逐艦といえる艦であった。

ロンドン条約の締結により、一時期艦型の小型化を余儀なくされる等の事態も生ずるが、
四計画で以後の艦隊型駆逐艦の本命となるべき艦の試作として整備された「島風」まで、特型に連なる性格を持つ駆逐艦の整備が継続された。

特型以降の日本の駆逐艦は、艦隊型として見れば世界で最良レベルの総合的性能を持つ艦であり、
その実力は太平洋戦争開戦後の各種水上戦闘で実証された。
だが戦争の形態が航空主体に変わる中で、対空火力が小さいという問題があったこと、
電探装備の遅れや対潜兵装の能力不足等の技術的問題もあり、戦争中期以降は不利な戦いを強いられることにもなった。

一方、
四計画以降では、元来大型空母に随伴する対空・対潜護衛艦として活動する直衛艦として計画され、
これに雷装を追加して駆逐艦とした乙型も整備され、これは就役後各方面の戦闘で「対空艦/駆逐艦」として有効な艦であることを実証している。
また戦時中には、ソロモン戦後の駆逐艦の喪失増大による駆逐艦兵力の補充・増勢のため、
艦隊型駆逐艦として最低限の能力を持つ丁型駆逐艦の整備も行われ、本型は就役後予定通り甲型を補う艦として有用に使用されている。

27日前 No.9

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★zF8bwjnWft_01r

「潜水艦」

ワシントン条約締結後、
日本海軍の潜水艦は敵根拠地監視および敵艦隊の追従・動静監視、通商破壊等の任に当たる長距離哨戒型の巡潜型と、
艦隊作戦支援を行う艦隊型潜水艦である海大型の二種類に分かれて進化する。

しかし太平洋戦争開戦前、作戦構想の変化から、大型で魚雷搭載量が大きいことを含めて、
通商破壊戦により適した能力を持つ巡潜型の整備が重視されるようになり、開戦直前および開戦後は巡潜型と、
「究極の巡潜」である潜特型の整備が推進される。
一方で、
艦隊型潜水艦は海大型の整備が停止して、艦隊型として最低限の性能を持ち、より安価な中型へと移行する。
そして、
この時期には沿岸防衛用に当てられていた旧型潜水艦の代替となる小型や、敵哨戒圏での航空索敵能力保持のため、
補給潜水艦の整備も行われた。

日本の潜水艦は艦隊作戦用として他国の潜水艦より水上高速力に秀でる艦が多かった一方で、
水中運動性は総じて低く、構造的な問題から衝撃に弱く漏油しやすい等の欠点を抱えてもいた。
しかし第二大戦時の潜水艦として有効に使用できる性能は保持しており、
太平洋戦争開戦後各種作戦で相応の成果を挙げたのは、それを証明するものといえよう。
しかし、
ガダルカナル島戦後半以降、大多数の潜水艦が輸送任務に狩り出されるようになると、
日本の潜水艦は戦果を挙げられるような状態ではなくなる。

戦争末期には、戦時中に計画された補給潜水艦の戦列化もあって兵力面の問題はある程度解決されるが、
この時期になると米側の対潜作戦の進化で従来型の潜水艦の被害が大幅に増大し、活躍が制限されてしまう。
そのような好況下の下、大戦末期には「回天」作戦がその主任務となる。

昭和十九年に入ると、
旧来の潜水艦の整備方針は放棄されて、水中高速潜と輸送潜水艦の整備が最優先事項となる。
また、
特攻戦備において沿岸防衛用の「コウリュウ」をはじめとする小型潜航艇の整備が勢力的に行われる中で、
小型の水中高速潜水艦整備も推進される。
しかし、
昭和十九年以降に計画されたこれらの艦は、ほとんどが未成・計画中止で終わる。

26日前 No.10

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★NmAIpj8448_01r

戦艦「大和」主要目

基準排水量 64,000トン 公式排水量 69,100トン
水線長 256,0m 全長 263,0m 水線幅 36,9m 水線下最大幅 38,9m 喫水10,4m(公式状態)
出力 150、000馬力 速力 27,0ノット 航続力(7,200浬/16ノット)

砲槇兵装
主砲 45口径46cm 3蓮装砲3基 副砲 60口径15,5cm3蓮装砲2基 高角砲 40口径12,7cm蓮装高角砲12基
機銃 25mm3蓮装機銃52基、同単装6基 13mm蓮装機銃2基

電波兵装
レーダー 二号一型電波装信衛 1基 二号二型電波装信衛 2基 一号三型電波装信衛 2基
逆探 仮電波探知機 6基

航空兵装
射出機 2基 搭載機 零式水上偵察機 1基

昭和19年10月下旬のレイテ沖海戦で傷ついた「大和」は本土に帰投し、
11月24日から翌20年1月3日まで呉工厳で修理と改装工事を受けた。
そのおり対空火器が増強され、25ミリ3連装機銃座は50基以上に達した。

ところで、
図面などの物的資料は終戦直後に大半が処分されてしまったが、
技術者たちと彼らが持つノウハウだけでは確実に残された。

軍用機開発の技術者たちが戦後自動車産業の発展に寄与し、
また新幹線の開発で活躍したことは知られている。
その反面、
日本の近代工業のなかで大きな位置を占めてきた航空技術、造艦・造機・造兵等の技術が、
軍事関連ゆえに戦後は工業史の背景に遠ざけられたことは否定できない。
しかし、
戦後いち早く復興に旗手になったのは造船業界であり外国からの発注が相次いだ。
その理由は「日本は「大和」「武蔵」を造った高い技術を持つからだ」というものだ。
両艦ともに沈んだが、その技術は継承され、さらに発展を遂げたのである。

平成11年(1999)に海底の「大和」を探査する機会があり、
海底の「大和」は損傷がひどく、全容を把握することは困難である。
しかし、
艦首部は割に原形をとどめており、バルバスパウ(球状艦首)の形状は残存資料ごおりであった。

レイテ沖海戦時、甲板上に設置されたという25ミリ単装機銃は、最終的には徹去されたという証言がある。
木甲板が黒く塗られていたのはほぼ事実と断定でき、昭和20年4月7日に上空から撮影された映像からもそれが見て取れる。
甲板に描かれた数字は、各防区を示すフレーム番号であると思われる。

第2、第3砲塔上に設置された25ミリ3連装機銃は無菅制であるため、指揮官が指示を出す。
元乗組員の方の証言もこれを裏付けている。

煙突に描かれた「菊水」のマークは、当時の乗務員の方の明確な記憶のものである。
25ミリ3連装機銃のシールドには機銃群の番号とその管制下にある機銃の番号が記入されていた。
「大和」の考証上の争点の一つとして、後部短艇格納庫の排気口の形状がある。
以前は丸形とされていたが、一人の研究家が写真分析の結果から角形であると発表した。
しかし、
写真を見ても「角形」には見えない。
艦尾上に設置された特設機銃座は海底探査で発見されたものである。
米軍が上空写真からもその形状が推察できる

25日前 No.11

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★uQsbYbcrrX_01r

戦艦「長門」

主要目
基準排水量 39,130英トン 公試排水量 43,580トン 潮載排水量 45、816トン
全長 224、94m 水泉長 221,07m 水泉幅 32,46m 最大幅 34、6m 喫水 9,96m
主機械 枝本 式高低圧ギアード・タービン2基
ボイラー 空気余熱器付口号艦本式 重油専焼缶大型4基、同小型6基
軸馬力 2軸合計82、000馬力 燃料搭載量 重油 5、788トン
速力 25,0ノット 航続距離 8、650里/16ノット

兵装
主砲 45口径41cm連想砲4基 副砲 45口径14cm単装砲18基 高角砲 40口径12,7cm連装高角砲4基
機銃 25mm連装機銃10基 7,7mm機銃3基
航空兵装 射出機1基、水上偵察機3基
乗組員 士官 68名 下士官 1、300名 合計 1、368名

増備兵装
機銃 25mm3連装機銃14基 同連装機銃10基20艇 同単装機銃30基
電波探信儀(レーダー) 二号一型1基 二号二型2基 一号三型2基

「長門」は「大和」型戦艦や空母と比較して資料は豊富にあり、リサーチの面で戦時中の写真は驚くほど少なかった。
大改装後の姿を伝えるものは、昭和16(1971)年「GTサン」シリーズが有名である。
その他には昭和17年当時の数枚と同19年10月21日ブルネイ泊地での2枚である。
結局、戦後米軍が撮った多数の写真を見比べて推考を重ねた。

戦時の艦艇の視覚的な特徴として、防弾マントレットがあげられる。
一号三型電探の横に位置する角型の電探室は、戦後の米軍撮影写真の中から発見することができた。
最後まで不明な点は次のようなものである。
1・最後尾に設けられた3連装機銃3基と、2番主砲塔の連装機銃に対する射撃指揮装置の有り無し。
2・カタパルト甲板上のリノリウムの存在
(レイテ作戦時、可燃物の撤去ということで他の巡洋艦等では剥がしたとの証言がある)。
1・については、指揮装置の存在を示す資料は発見できなかった。
2・については、当時の「長門」乗組員の方にお聞きしたが、明確な記憶がないということである。

公式図面は「陸奥」のものが残されている。
これを元に岡本好司氏が「長門」の図面を作図された。
こ図面は不二美術模型出版部発行の「長門・陸奥」に収められている。

船を描く場合、
表面に見えているものを表現するときは、その裏側や内部までを把握していないと描けないことが多い。
全長200メートルを超える物体を表現しようと思えば、当然、強調と省略が必要になってくる。
その場合も出来得る限り細部まで理解していることが必要だと思う。

大正9(1920)年11月/戦後米軍の原爆実験にて沈没

24日前 No.12

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★13xPQHlu4R_01r

戦艦「比叡」

主要目
基準排水量 32、156英トン 公試排水量 37、000トン
水泉長 219、5m 全長 222m 水泉幅 29,97m 最大幅 31,97m(水泉下) 喫水 9,37m(公試状態)
出力 136、000馬力(計画)/137、970馬力(公試) 速力 29,7ノット(計画)/29,9ノット(公試) 航続力 9800浬/18ノット

主兵装
主砲 45口径35,6cm 連装砲4基 副砲 50口径15,2cm単装砲14基 高角砲 12,7cm連装高角砲4基
機銃 25mm連装機銃10基 13mm4連装機銃2基

「金剛」型戦艦4隻のうち、「比叡」は他の3隻と比べて改装時期がもっとも遅く、
よく知られているように「大和」型戦艦の実験艦的要素を持っていた。
ところが、
大改装後の全容を伝えるものは断片的資料が残されているにすぎない。
しかし、
艦艇模型製作の清水氏の長年にわたる研究成果と熱意に後押しされるかのように
一版的に「比叡」と他の3隻との相違点は艦橋部に注目されるが、船体そのものも大きく異なっている。

昭和17(1942)年11月第3次ソロモン海戦で沈没するまでの本艦の最終時とらえた写真は数点が残されているにすぎない。
同年7月11日、
横須賀に帰投中戦後多くの出版物に掲載された「金剛」と共に多くの情報をもたらしている。

2・4番砲塔上に置かれた敵味方識別の「日の丸」、
一時的に実施された艦橋トップの方位盤の白塗装、後橋の基部にある水偵フロートの格納位置、マストの評細等がよく判る。

「比叡」艦尾外舵にフレア(張り出し)がつけられていると認め推進器位置がそのままで艦尾が延長されたあために、
高速航行の際、艦尾波のしぶきが後甲板上を覆うようになったための対策ではないかと思われる。

昭和12年の「霧島」と同17年の「榛名」の同アングルで撮られた写真を比較しても、やはり違いが見てとれる。
「金剛」も前述の「比叡」と同時期撮影の写真に、フレアが認められる。
しかし、4隻すべてに実施されたものかは不明である。

大正3年8月/昭和17年11月戦没

24日前 No.13

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★mtzCxu6DPK_01r

航空戦艦「日向」

主要目
公試排水量 38、872トン 水線長 213、360m 全長 219、62m 水線幅 31.71m 水線下最大幅 33、83m
喫水 9,03m 出力 80、640馬力 速力 25、06ノット航続力 9、449浬/16ノット

兵装
主砲 45口径36cm蓮装砲4基 高角砲 40口径12,7cm蓮装高角砲8基
機銃 25mm3蓮装機銃19基 ほかに25mm単装機銃(移動式)装備

電波兵装
レーダー 二号一型電探1基 二号二型電探2基 一号三型電探1基
逆探 電波探知機1基

航空兵装
射出甲板 全部幅約32,5m 後部幅約13m 長さ約70m
射出機 水圧式、荷重6トン、昇降速度約5,4を20秒以内 昇塔台 全部幅12,1m後部幅6,6m 長さ12,1m
航空隊 第六三四海軍航空隊
搭載予定機 艦上爆撃機「彗星」33型11機 水上偵察機(水上急降下爆撃機)「瑞雲」11型11機
爆弾 50番(500kg)通常爆弾44個 25番(250kg)通常爆弾22個

昭和19年(1944)10月のエンガノ岬沖海戦へ
「姉妹艦「伊勢」とともに呉沖において着底状態で終戦を迎えた「日向」は、艦橋部分などが大きく破壊されたが
リサーチをするうえでは貴重な情報をもたらしてくれた。

エンガノ岬沖海戦時には、他の戦艦と同様に木甲板は黒く塗装されたように思われる。
第1第2主砲塔付近の木甲板上に通行帯と思われる白線が引いてあるのが残存写真で見ることができることで、
模型製作上も大きなアクセントになるだろう。

艦橋は新造時、大改装時(昭和11年)、航空戦艦への改装(昭和18年)と大きく変化を遂げている。
各種装備が増加するたびに、それを支えるステーなどは複雑な構造にならざるを得ない。
そのうえ、
機銃などの照準のための空間を確保するため、ますます複雑で簡単にはとらえられない形状に変化していった。
中央部には14メートルの特型運貨船が搭載されている。

エンガノ岬沖海戦時には、12,7センチ高角砲用の演習砲が整備されていた。
後部マストには「伊勢」との違いが見れる。
一号三型電探が装備されていたことが戦闘詳報から明らかになったが、一版的な呉式二号五型より大きな形状は、
残存する、支柱の太さからもみてとれる。
航空作業甲板後部には噴進砲が搭載されている。
多くの模型などが射撃指揮装置なしの状態で表現しているが、ロケット砲を発射するときは、
人員にとっては非常に危険な状況であるため、3基同時に照準射撃を行うための射撃指揮装置が設置されたはずである。
エンガノ岬沖海戦時、上空から見た写真にそれらしき物体が確認できる。

大正7年(1918)年4月/戦後解体

24日前 No.14

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★pp6qY3LVBR_01r

航空母艦「赤城」

主要目
基準排水量 36,500トン 公試排水量 41,300トン
水線長 250、36m 全長 260,67m
飛行甲板 249,2x30,5m 水線幅 31,32m 喫水 871m
機関出力 131、200馬力 最大速力 31,2ノット 航続力 8,200浬/16ノット

備砲
50口径20cm単装砲6基 45口径12cm連装高角砲6基 25mm連装機銃14基

搭載機
常用 66機 捕用 25機

「赤城」はご存知のように巡洋艦として設計された艦である。
この点では戦艦として設計された「加賀」も同じであるが、261メートルという全長は、
あの戦艦「大和」とわずか2メートル違うだけの巨体である。
「長門」と同様にしても、その存在は実感できる。
「赤城」は「加賀」と同様に同型艦はなく、残された写真も改装前のものが多い。
公式図を含めて「赤城」の残存資料は「加賀」に比べて多いと思う。
しかし、
細部までリサーチしていくためには、新たな資料の発見が待たれるところである。

リサーチする中で、昭和16年(1941)に磁気機雷対策として装備されたといわれる消磁コイルの配置については、
資料が皆無であった。
真珠湾攻撃後位置は特定できなかった。

昭和2年3月/同17年6月戦没

23日前 No.15

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★O2pteyqYBs_01r

航空母艦「龍襄」

主要目
基準排水量 8,000トン
全長 180,0m 飛行甲板 158,6x23,0m 幅 20,3m 喫水 5,6m
出力 65,000馬力 速力 29,0ノット 航続力 10,000浬/14ノット

兵装
12,7cm蓮装高角砲6基 13mm蓮装機銃6基

搭載機
常用 36機 捕用12機

昭和12年度補充計画により建造の始まった「龍襄」は、起工後に成立したロンドン条約の制限トン数対象となるが、
その条件下で航空能力を高めようとして格納甲板を2層にするなど無理な設計変更を行った。
そのためトップへヴィーとなり、以降2回にわたる改造を余儀なくされた。

船体乾舵の低さに比し過剰な体積の構造物が載る様子がうかがえる。
しかし、
改善工事を経てもそのややアンバランスな印象は残り、そこがこの空母の艦景的魅力ともなっている。

昭和8年5月/同17年8月戦没

23日前 No.16

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★RUVrwoNJSD_01r

航空母艦「飛龍」

主要目
基準排水量 17,300英トン 公試排水量 20,185トン
全長 227,35m 飛行甲板 216,9mx27,0m 最大幅 22,32m 平均喫水 7,74m
ボイラー 口号艦本式重油事燃缶8基 主機械 艦体式オール・ギアード・タービン4基
出力 153,000馬力 燃料党裁量 重油3,750トン 速力34,59ノット 航続距離 7,670浬/18ノット

兵装
40口径12,7cm蓮装高角砲6基 25mm3蓮装機銃7基 同蓮装機銃5基

搭載機
常用 57機 捕用 16機

乗員 1,101名

航空母艦「飛龍」は「倉龍」型の2番艦だが、ロンドン海軍軍縮条約の失効を見越して建造途中で設計を改正、
排水量を増やして理想的な中型空母として完成した。
ただし、
煙突からの排煙を考慮して「倉龍」とは逆の左舵に置いた艦橋は、気流上の不都合を生じ、
後に計画される準同型の「雲龍」型では右舵に戻される。

第二航空戦隊に編入され、ハワイ作戦、インド洋作戦等に従事するが、
ミッドウェー海戦で戦没、3年にも満たない短い生涯を閉じた。

昭和14年7月/同17年6月戦没

23日前 No.17

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★VSbEJrU9Tx_01r

航空母艦「蒼龍」

主要目
基準排水量 15,900トン 全長 227,6m
飛行甲板 216,9x26,0m 幅 21,3m
喫水 7,6m 出力 152,000馬力 速力 34,5ノット 航続力 7,680/16ノット

兵装
12,7cm連装高角砲6基 25mm連装機銃14基

搭載機
常用 57機 捕用 16機

「蒼龍」はそれまでの実験的、過渡期的な空母建造の実積を踏まえ、
はじめから実用性を増す航空機の発着に十分な長さの飛行甲板は船体全長に及ぶ。
そこに航空機運用上有利な小型のお島型艦橋を右舷前方に置く姿は、左舷に艦橋を置いた
「飛龍」を除く、以降の日本空母の祖形ともいえる。

空母「赤城」「加賀」とともに多段甲板型から全通甲板・島型艦橋型に改装されたのは、
「蒼龍」就役に先立つほんの2,3年前のことであった。

昭和12年12月/同17年6月戦没

22日前 No.18

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★87ls2nx8GK_01r

航空母艦「加賀」

主要目
基準排水量 38,200英トン 公試排水量 42、541トン
全長 247、65m 水線長 240、30m 水線幅 32,5m 喫水 9,48m
飛行甲板長 248,6mx30,48m 格納庫段数 全部2段・後部3段
昇降機 3基 乗員数 2,000名
主機械 内軸 艦本式高中低圧タービン2基 外軸 ブ式(ブラウン・カーチス)高低圧タービン2基
ボイラー 空気余熱器付口号艦本式 重油専焼缶8基
出力 内軸 38、000馬力x2 外軸 24,500馬力x2 4軸合計 125、000馬力
燃料容量 7,200トン 速力28,3ノット 航続距離 10,000浬/16ノット
兵装
主砲 50口径20cm単装砲10基 高角砲 40口径12,7cm蓮装高角砲8基 機銃 25mm蓮装機銃 14基
搭載機数
改造時計画搭載能力
九〇式艦戦12機+補用3機
九四式艦爆24機+補用6機
八九式艦攻36機+補用9機
開戦時定数(常用・補用合計)
零式艦戦 21機 九九式艦爆 30機 九七式艦攻 30機
ハワイ作戦時搭載機数/出撃機数
零式艦戦 21機 九九式艦爆 27機/18機 九七式艦攻 27機/26機

「加賀」は38,0000トンもの大艦にもかかわらず、改装後の全貌はいまだ明らかにされていない。
「赤城」や「飛龍」については、公式図が発表されている。
しかし、
「加賀」改装後の資料はごく少なく、製作作業は、数多くある改装前(新造時=3段甲板時代)の資料から改装がどのように
行われたかを推定した。
比較的「赤城」と比べてみると、当初の設計思想のちがう艦同士とはいえ、共通点はあるにしても、
船体細部に至るまで徹低的にと思われるほど形状がちがう。

「加賀」の改装後、昭和12年(1937)頃のものが多少残されている。
しかし、
昭和16年以降の空中写真とハワイ作戦時のごくわずかなものであった。
「瑞鶴」などはまるで異なった複雑な船体ラインっをもち、それを把握すること困難である。
しかし、
甲板を除く船体は艦尾延長部を別として、相当多くの部分が新時代の状態を保っていることがわかった。

疑問点は多くある。
最大のものは右舷後部25ミリ蓮装機銃シールドの有り無しである。
舵外電路の取り付け位置は完全に推測である。

甲板前部の「日の丸」は、昭和17年のミッドウェー海戦時、
第一、第二航空戦隊の空母に対し、敵・味方識別用に出航3日前に塗ったとの証言によるものである。
これは「赤城」と「飛龍」の米側による空撮写真にはっきり見て取れる。
しかし、
残念ながらミッドウェー海戦時の「加賀」の写真は知る限り残されていない。

現在我々が見ることのできる写真は、大戦前のものが圧倒的に多い
「羽黒」乗組員であった中村正晴氏が、昭和17年2月22日にスターリング湾で写したシルエット写真が残されている。
この写真を見る限り、方舵3本=両舵6本がはっきりと写っている。
同時期の「赤城」はこの改装がされていない。
「加賀」は歩行甲板先端が、艦首波に対する補強の意味があったのでは、といわれている。
「加賀」は本来の戦艦として設計から空母への転換という経歴を持つ。
その後の航空母艦として設計された艦とは違い、飛行機も使用できる主力艦としての側面は、後々まで消えずに残されていたのではないか。
そういう、近代的な空母への過渡的な存在である。

艦橋トップがあ「ミッドウェー海戦」の時に初めて白く塗装されたのは、残存する写真などから明らかである。
防弾マントレット等は数多く装備はずである。
今後、「加賀」の最終状態に関する情報が寄せられることを期待したい。

昭和3年3月/同17年6月戦没

22日前 No.19

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★gRVnmFNAE0_01r

航空空母「瑞鶴」

主要目
基準排水量 25、675トン 公試排水量 29、800トン漏載排水量 32、105トン
全長 257,5m 水線長 250,0m水線幅 26,0m
平均喫水 8,87m 満載時喫水 9,32m 飛行甲板長 242,2mx2,9m
昇降機 3基 格納庫 2段(床面積5,545/補用機用床面積247)
乗員数 1,712名(昭和19年10月25日、司令部・飛行隊を除く)
主機 艦本式高中低タービン4基 推進器 4軸 ボイラー 口号艦本式重油専焼缶8基
軸馬力1軸40,000馬力x4 計160,000馬力
重油搭載量 5,000トン 速力 34ノット 航続距離 9,7000浬/18ノット

兵装
対空兵装
12,7cm連装高角砲8基
25mm3連装機銃20基
25mm単装機銃36基
7,7mm旋回機銃5基
28連装12cm噴進砲8基(昭和19年8月装備)

通信・計測兵器
中・短波方位測定器各1基装備(昭和19年レイテ出撃前)
TM式短移動電波器2組
TM式軽便電信器2組
九六式空三号電信器6組
一式空三号隊内電話機4組
三式空一号電話機2組
電測兵器 二号一型、一号三型
電波探信義 2基新設(計4基となる)
水測兵器 零式水中聴音機1組(計2基となる)

搭載機数 84機(常用72機、補用12機)
開戦時 零戦18機(補用2機)、九九式艦爆27機(補用5機)、九七式艦攻27機(補用5機)
戦争中期 零戦27機、九九式艦爆27機、九七式艦攻18機
捕号作戦 零戦28機、爆戦16機(零式改造の爆撃戦闘機)、彗星艦爆11機、天山艦攻14機
航空魚雷 45本 爆弾 8000kg90発/250kg306発/60kg540発
航空機燃料 496トン

他の艦と同様、空母「瑞鶴」の鮮明な資料は少ない。
東宝映画「雷撃隊出動」(昭和19年「1944」作品)にある
艦橋後部の信号三脚マストのトップに一三号電探(一号三型小型対空用)が、
また、
一三号電探から羅針艦橋へケーブルが数本見られることがわかる。

飛行甲板の迷彩パターン・色彩について、関係者の証言・文書等を探したところ、
甲板上の色として、黒・濃緑・緑・黒緑・茶緑が使われ「軍艦色」(ねずみ色)は使われていないことがわかった。
舷側の商船に似せた迷彩は、対潜水艦としてのものであることは十分理解できる。
しかし、
行動中はウェーキ(航跡)によって容易に航空機から海上において発見できたと思う。
たとえ船の進路をくらますため、甲板上に船の形を中心からずらせたシルエットを塗装をしてあってもである。
つまり、
瀬戸内海の島々の色(松林、草地、水田等々に溶け込ませるのが本来の目的ではなかったか。

1944年当時、
本土にあった大型艦に対する重油備蓄量を考えれば、行動中よりも停泊中の時間が長かったことは、
あながち否定できないことだったのではないか。

昭和16年9月/同19年10月戦没

21日前 No.20

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★QK2a5yJPki_01r

重巡洋艦「古鷹」

主要目
基準排水量 8,700トン 公試排水量 10、507トン
水線長 183,47m 全長 185,117m 最大幅 16,93m
機関出力 103,390馬力 最大速力 32,95ノット 航続距離 7,000浬/14ノット
兵装
主砲 50口径20,3cm連装砲3基
高角砲 45口径12cm単装砲4基
機銃 25mm連装砲4基 13mm連装砲2基
魚雷 61cm四連装発射菅2基 九三式酸素魚雷16本
航空兵装
射出機 呉式二号三型改一1基
搭載機 九四式二号水上偵察機2機

重巡洋艦「古鷹」は、軍艦建造史上に高名な平賀譲造船官による設計である。
軽巡洋艦「夕張」で世界の海軍関係者を驚嘆させた軽量化の試みが、随所に生かされている。
コンパクトな船体に各各所の堪航性や、上に載る構造物や兵器の重量、防御力、機関配置等を加味考慮した結果、
船体は「夕張」と異なり乾舷の高さが微妙に異なる平甲板型となる。
そのため波打つように見える流麗な線を、本模型では極めてよく再現してある。

当初は20センチ単装砲6基だったが、昭和11〜14年の改装で連装砲3基に改め艦影は一新した。
狭い甲板上に重兵装を詰め込んだ、その造り込みもこの模型の見どころである。

大正15年(1926)3月/昭和17年10月戦没

21日前 No.21

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★G3GQmany9O_01r

重巡洋艦「青葉」

主要目(昭和15年)
基本排水量 8,700トン 公試排水量 10,822トン
水線長 183,58m 全長 185,17m 水線下最大幅 17,56m
機関出力 104,200馬力 最大速力 33,4ノット 航続距離 8,223浬/14ノット
兵装(昭和19年12月)
主砲 50口径20,3cm連装砲塔3基
高角砲 45口径12cm単装砲4基
発射菅 魚雷16本
機銃 25mm三連装機銃9基 同連装6基
電波兵装(昭和19年12月)
一号三型電探1基 二号一型電探1基 二号二型電探2基 電波探知機1基
航空兵装(昭和19年12月)
カタバルト 呉式二号三型改一1基
搭載機 なし

巡洋「青葉」の同型艦であった「衣笠」と、先に建造された「古鷹」「加古」は、
太平洋戦争開始から1年の間にすべて戦没している。
「青葉」も昭和19年(1944)10月に米潜水艦の魚雷を右舷に受けた。
被害個所には応急処置を施した記録があるが、その資料はない。

兵装は20センチ連装砲3基6門、12センチ単装高角砲4門、25ミリ3連装機銃9基、同連装6基
61センチ4連装魚雷発射菅2基、カタバルト1基とされている。
改装後の「青葉」に関する資料は少なく、戦後に連合軍が撮影したものからの分析を余儀なくされた。

昭和20年2月に予備艦、6月に特殊警備艦となった本艦は、おそらく高角砲、機銃などは陸上用に転用され、
最終時には20センチ主砲と、機銃座跡に設けられた迫撃砲のみの兵装になっていたものと思われる。
終戦時に国内で完全な形で残存した重巡はなく、本艦はその中で比較的原型をとどめているケースといえる。
前部アンテナ支柱を含む改装個所は、電探設置、防空指揮所新設にであるり、この形状は他の艦艇の考証にも役立ったものであると思う。
一例をあげれば、電探室の構造がよく理解できることである。
一見すると、鉄板を貼り合わせただけのように見えるが、「室」には出入り口、窓、換気口、伝声菅などがある、
また、
前部艦橋からの渡り通路やラッタルなど、見飽きないほどの情報量である。
話は本艦からそれるまもしれないが、「妙高」「高雄」「利根」など、終戦時にからくも残存した艦艇の資料の発表にも余地がある。

「青葉」は、終戦直後に米軍が撮影した16ミリのカラームービーの中で、迷彩塗装された姿を一瞬見ることができる。
その印象は、全体の色は軍艦色=灰鼠色ではなく、外舷22号色ではないかと思われる。
白黒写真でも明るい色調に見える。
「青葉」の「波形船体」と称された甲板ラインは、他の重巡クラスには見れない独特な船体を形作っている。
12センチ単装砲とあわせ、過渡期の艦艇としてのおもむきを持ち合わせています。

昭和2年9月/戦後解体

20日前 No.22

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★8M2Kij5Fix_01r

重巡洋艦「足柄」

主要目
基準排水量 11,300トン
全長 192、4m 最大幅 19,0m 喫水 5,9m
機関出力 130,000馬力 最大速力 39,5ノット 航続距離 7,000浬/14ノット
主兵装
50口径20cm連装砲5基 45口径12cm連装高角砲6基 61cm3連装魚雷発射菅4基
航空兵装
射出機 1機 水偵2機

重巡洋艦「足柄」は、いわゆる条約型巡洋艦の第一陣として、
昭和3年(1928)から翌年にかけて完成した「妙高」型の一隻である。
昭和12年(1937)のイギリス国王ジョージ6世載冠式に合わせて挙行された観艦式に参加した際、
式典の行われたポーツマス沖スピットへッドこの時「足柄」がその低いシルエットと重装備から飢えた狼と評された逸話はあまりにも有名だが、
欧米人の目には居住性が悪いことの反映や優美さの欠如とも見えたのである。

前年に改装を受けてこの時の主砲は口径を20センチから20,3センチへ改正し、
高角砲も40口径12,7センチ連装砲へ換装してある。
本艦はこの3年後に2回目の改装を受けて、太平洋戦争を迎えることになる。

昭和4年8月/同20年6月戦没

20日前 No.23

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★8M2Kij5Fix_01r

重巡洋艦「鳥海」

主要目
基準排水量 9,850英トン 公試排水量 12,986トン
水線長 201,7m 全長 203,8m 水線幅 18,03m 最大幅 18,99m 平均喫水 6,11m
ボイラー 口号艦本式重油焼缶12基(内、空気余熱器付6基)
主機械 艦本式高低ギアード・タービン6基
軸馬力 4軸合計130,000馬力
燃料搭載量 重油 2,645トン
速力 35,5ノット 航続距離 8,000浬/14ノット
兵装
主砲 50口径20,3cm連装砲5基
高角砲 45口径12cm単装高角砲4基
機銃 「あ」号作戦前
25mm連装機銃8基 同準備式4基 同単装移動式8基 13ミリ単装機銃2基
「あ」号作戦後
25mm単装機銃10基増備
発射管 61cm連装魚雷発射菅4基
魚雷 61cm魚雷(後に93式魚雷使用と推定)
電探 「あ」作戦前 二号一型(対空用レーダー)1基 「あ」作戦後 二号二型(対水上用レーダー)2基増備
射出機 2機
搭載機 水上偵察機・観測機3機
乗員数 760名(初期)

「鳥海」の戦時中の写真等は極端に少なく、最終的な兵装等については貴重な資料のご提供をいただき、
25ミリ、13ミリの機銃の配置、電探の装備等は資料なしには過言ではないと思う。

レイテ作戦、ブルネイ泊地で「武蔵」と並んでいた、昭和19年(1944)10月21日「鳥海」の沈没は10月25日であるから、
これこそが最終的な姿である。
5月1日のものは完全なシルエット状である。
しかし、
10月21日のものと見比べると、明らかに前部マスト頂部に差異が見られる。
10月21日のものは頂部に蜜閉部分がある。
同年6月の「マリアナ沖海戦」参加後、6月26日に呉工に入港。
このとき二号二型を取り付けたのではないか?
(二号室を設ける必要があったのではないか?
一号三型未装備の艦は他に「青葉」がある。
こちらは戦後米軍撮影のものを見ると明らかに電探室が装備されているのがわかる。

有名な艦船であっても、その再現は断片的な資料を元に考古学的ともいえる作業を行わざるを得ない。
この作業は当然個々の船にとどまらず、政治、経済、文化等多面的な側面からのアプローチにもつながっていく。

昭和7年6月/同19年10月戦没

20日前 No.24

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★VTzkdqSVHj_01r

重巡洋艦「熊野」

主要目
基準排水量 12,000トン 公試排水量 13,887トン
水線長 196,06m 全長 200m 水線下最大幅 20,20m
機関出力 152,000馬力 最大速力 35ノット 航続距離 8,000浬/14ノット
兵装
主砲 50口径20,3cm連装砲塔5基
高角砲 40口径12,7cm連装砲4基
発射管 61cm3連装発射菅1型4基
搭載魚雷 九三式魚雷24本
機銃 25mm3連装機銃8基 同連装4基、同単装24基
電波兵装
二号一型電探1基
二号二型電探1基
一号三型電探1基(推定)
電探探知機1基
航空兵装
射出機 呉式二号五型2基
搭載機 (定数)3座水偵2機

重巡洋艦「熊野」も他の艦船と同様、資料は非常に少なくないものである。
しかし、
新造時の図面を入手することができたのは、同型艦「最上」との差異を確認するうえで大いに役立った。
「熊野」の船体ラインの主要部は、最終時まで新造時のラインを保ったものと思われる。

終戦時にいくらかでも原形をとどめていた重巡「青葉」「妙高」「利根」などの写真を参考にした。
これらの写真を見て気づいたことは、電探や機銃が装備された場合、その人員が待機する部屋が造られることである。
図面で確認できるものが少ないため、見落としがちである。
この部屋(兵員待機室)があるとないとでは、見た印象がずいぶんと違って見える。
資料が少ない艦艇は想像、資料をできるだけ多く入手し、フレーム番号で各部分を構築していく。
したがって推測で努力をしているが、限られた時間内ではリサーチをしていかざるを得ない。

ご存知のように「鈴谷」「熊野」は缶の数が「最上」「三隅」より2缶すくない8缶となる、
前部艦橋基部に変化が見られる。
この差異は相当に大きく、船体ラインの差異も含めて「鈴谷」「熊野」を鈴谷型と呼称する向きもある。

昭和12年10月/同19年11月戦没

20日前 No.25

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★vCjCrW92nJ_01r

重巡洋艦「筑摩」「利根」

主要目
基準排水量 8,450トン 公試排水量 14,097トン
水線長 198,75m 全長 201,60m 最大幅 16,4m
機関出力 152,189馬力 最大速力 35,6ノット 航続距離 8,000浬/18ノット
兵装
主砲 50口径20,3cm連装砲4基
高角砲 40口径12,7cm連装砲4基
機銃
25mm3連装機銃14基 同連装機銃2基 同単装機銃21基
魚雷
61cm3連装発射菅一型4基 九三式61cm酸素魚雷24本
電波兵装
一号三型電波探信儀1基
二号二型電波探信儀3基
電波探知機1基
航空兵装
射出機 呉式二号五型2基
搭載機 零式三座水上偵察機5機

「筑摩」
日本重巡洋艦の最終型である「利根」型の2番艦で、艦橋前面基部に見える巨大な缶室給気口周辺や、
使い勝手がよくなかったとも評される飛行作業甲板と駐機甲板との段差表現などは特に興味深い。

昭和14年5月/昭和19年10月戦没

「利根」
重巡洋艦「利根」型は、当初「最上」型の5,6番艦として計画されたが、
起工の時には全くの新設計艦となっていた。
従来の重巡洋艦より多くの水偵を搭載し、また高速での長航続力を生かし、
太平洋戦争では機動部隊の露払い的役割を。
主砲を前部に集中配置して、後部を専ら航空儀装に当てたため、
互いの作業千歩がなくなり、砲撃に先立って全水偵を飛び立たせる必要もなく、
またいつでも発進させることができた。
生涯を通して大きな改装もなく、最初から洗練された姿に生まれついた日本海軍至宝の美を堪能して戴きたい。

昭和13年11月/戦後解体

20日前 No.26

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★2DFsjVQSIf_01r

軽巡洋艦「川内」

主要目
基準排水量 5,195トン
全長 152,4m 幅 14,2m
出力90,000馬力 速力35,3ノット 航続距離 5,000浬/14ノット
兵装
14cm単装砲7基
8cm単装高角砲2基
61cm連装魚雷発射菅4基
滑走台1基 水偵1機

「球磨」型「長良」型に続く5500トン型巡洋の最終型が「川内」型である。
大正後期に当時としては高い速力と攻撃力を持った軽巡洋艦が勢揃いし、
日本海軍の中堅を形成したことがわかる。
日中戦争〜太平洋戦争初期では各型・各艦ともに活躍するも、
対米戦中盤以降は相対的な旧式化を免れなかった。
しかし、
本艦および同型の「神通」はソロモン海域にとどまり、
激闘の末に壮絶な最後を遂げた。

大正13年(1924)4月/昭和18年11月戦没

18日前 No.27

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★FSX3jqT4TK_01r

防空巡洋艦「五十鈴」

主要目
水線長 158,53m 全長 162,15m 最大幅 14,17m
基準排水量 5,170トン 常備排水量 5,570トン
機関出力 90,000馬力 最大速力 36ノット 航続距離 5,000浬/14ノット
兵装
主砲 45口径12,7cm連装高角砲3基
機銃 25mm3連装機銃11基 同 単装機銃5基
魚雷 61cm4連装魚雷発射菅2基 九三式魚雷16本

防空巡洋艦となった「五十鈴」もまた、
次に記す「北上」と同様、船体その同型艦と大いに異なっており、艦橋構造物などは他点からの分析を余儀なくされた。
そんな折、
1944年改装後の艦内側面図および艦橋各平面図をこの図面によりリサーチが大いに進んだ。
主脚に一号三型電探が図示されている。
しかし、
レイテ沖海戦時に撮影された数枚の写真では、その存在が確認できなかった。
二号二型電探室が図示されている、写真を見ると主脚部に電探室は見えない。
作戦後、装備されたのかもしれない。

特型運貨船について、
公試運転時、5,6番砲とカタバルト徹去後に1隻、左舷後方に113メートルの特型貨船の可能性が高い。
新たに設置しなおした新型ダビットの間隔もこのことを裏付けていると思う。

レイテ作戦時には、左舷上の特貨船は徹去され、その部分は25ミリ単装機銃が整備されている。
9メートルカッターにはロープが巻きつけられ、船内に水を張ってあることがわかる。
疑問点として、
複数の25ミリ3連装機銃がある場合、一般的には射撃指揮装置が整備されている。
しかし、
「五十鈴」にはその存在が確認できなかった。
また、
舷側部に消磁コイルが見られないことも疑問の一つである。
コイルが見られない艦艇も多いが、新しい事実の発掘を期待したい。

大正12年(1923)8月/昭和20年4月戦没

17日前 No.28

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★FSX3jqT4TK_01r

重雷装巡洋艦「北上」

主要目
公試排水量 7,041トン
全長 162,15m 最大幅 17,45m
速力 31,67ノット

昭和17〜18年当時、
つまり重雷装艦時代の軽巡洋艦「北上」の写真は1枚も残されていない。
残存する断片的な資料を基に政策をした。
船体のそのものの構造は、甲板の左右張り出し等を除いて、
他の5500トン型軽巡と大きく変化しているところはないようだ。
しかし、
大戦中の軽巡そのものの写真が多くはない。

九二式4連装発射菅3型は、岸本鹿子少将の発想によるもので、「球磨」型軽巡も「北上」「大井」「水曽」
を重雷装艦に改造して方舷5基、計10基を搭載、方舷20射線の九三式酸素魚雷で敵艦隊を一挙に壊滅することを狙ったものであった。
重雷装化は「北上」「大井」の2隻に実施されたが、ガダルカナル攻防戦がはじまると、機銃の増備や大発艇の搭載のため逐次発射菅は降ろされ、
やがて全廃された。

4連装を方舷5基、両舷計10門の重量を少しでも軽減するようであった。
旋回部も機力装置を外し人力旋回のみとし、また予備の火薬発射装置を徹去したのも理由によるものであるようだ。
昭和17年のミッドウェー海戦時から、砲身に白帯が描かれた、以後、終戦時まで踏襲されている。
当初は砲口からわずかに白く描かれていた。

大正10年(1921)4月/戦後解体

17日前 No.29

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★M0A8uDOS0T_01r

駆逐艦「秋月」

主要目
基準排水量 2,701トン
全長 134,2m 幅 11,6m
喫水 4,12m
出力 52,000馬力 速力 33,0ノット 航続力 8,000浬/18ノット
兵装
10cm連装高角砲4基
25mm連装機銃2基
61cm4連装魚雷発射管(4型)1基
爆雷投射機(両舷用)2基 同投下台6基

「秋月」型は、本来四計画において計画された機動部隊に付随する
防空・対潜任務専用の直衞艦であったが、最終的に雷装も付与されて乙型駆逐艦と称された。
「夕雲」型までの艦隊型駆逐艦とは異なる思想のもと計画がなされ、
当初の目的のために長大な航続力を有した。
搭載した新型の高角砲も優秀で、日本海軍が開発した対空火器の総決算とも呼ぶべき高性能を示した。

後期艦は工事貿易化が図られ直線が多用される造りとなっている。
艦の前後に2基ずつ振り分けた背負い式砲塔や、1本にまとめられた煙突など、
その重圧な艦影を堪能していただきたい。
艦橋や甲板上のあちこちに立つ将兵らを見る者を想像の世界へ誘うことだろう。

昭和17年6月/同19年10月戦没

12日前 No.30

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★EYMZ4lWdiL_01r

軽巡洋艦「大淀」

主要目
基準排水量 8,168トン
全長 192,0m 幅 16,6m
出力 110,000馬力 速力 35,0ノット 航続距離 8,700浬/18ノット
兵装
15,5cm3連装砲2基
10cm単装高角砲4基
25mm3連装機銃12基
射出機1基 水偵2機

日本海軍の対米戦基本計画であった漸減邀撃作戦における潜水艦部隊として、
昭和14年度策定の第四次海軍軍備充実計画で建造されたが、すでに出番もなく、
一年足らずで連合艦隊旗艦に改装された。
その際、
当初整備されていた遠距離索敵機用の大型射出機は徹去され、通常のものに交換されている。
主砲は「最上」型から降ろされた15,5cm3連装砲、高角砲も駆逐艦「秋月」型と同じ10cm連装砲で、
広い前甲板などと併せ「阿賀野」型との違いを実感していただきたい。

昭和18年2月/戦後解体

11日前 No.31

@takahisa19☆irRGOksXjy6 ★EYMZ4lWdiL_01r

軽巡洋艦「阿賀野」

主要目
基準排水量 6,652トン
全長 174,5m 幅 15,2m
出力 100,000馬力 速力 35,0ノット 航続距離 6,000浬/18ノット
兵装
15cm連装砲3基
8cm連装高角砲2基
25mm3連装機銃2基
61cm4連装魚雷発射菅2基
射出機1基 水偵2機

「大淀」と同じで建造の決まった、水雷戦隊旗艦用の巡洋艦。
従来の5,500トン型軽巡洋艦からは画然と印象の違う現代的な艦容を持つが、
登場時にはすでに戦争の様粗が大きく変わっており、所期の目的を果たすことはできなかった。
同型艦4隻とも戦時下の建造であったため、後の艦は戦訓から舷窓を閉鎖したり、最初から電探を装備するなどの改善箇所がある。

搭載の水偵は2機とも零式水上偵察機
太平洋戦争がないか、もしくは別の形で終わったと仮定すると、
本級や「大淀」は各種改造や兵器換装を加えながら昭和40年代半ばまで活躍したかもしれない・・・と想像するのも一興である。

昭和17年10月/同19年2月戦没

11日前 No.32
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