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臨終の現場

 ( 議論掲示板 )
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エンキ ★l9Lo7Y5Vfi_f1k

臨終とは、いまだ死に至っておらず、それでも間近にせまった死が不可避な状況のことです。
誰かが死ぬと、葬儀をとりおこない悼うのは、ほとんどの人類にみられる共通の様式です。
ですが、人の臨終にさいして、何かしらの共通する様式というものは見当たらないように思います。

死は予見不可能です。
数秒後にとつぜん死を迎えるかもしれません。
とはいえ、現在の日本においては、ほとんどの人の死因が何らかの病気ですから、ある程度の死期は事前に知ることができます。
事前に知る誰かの死、ここから臨終の場がはじまります。

医者に余命1ヶ月と宣告されたなら、あなたなら何をしますか?
あるいは、何をされたいですか?
余命宣告されたのが自分の家族や友人なら、あなたは何をしますか?
あるいは、何をしてあげたいですか?

関連リンク: 雑談しよう 
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エンキ ★l9Lo7Y5Vfi_f1k

『個人的な動機』

私には、非常に仲の悪い兄弟がおります。
お互いの住所も近況もまったく知りません。
親を通じて少しの接点はありますが、それでも数年に一度ていどの接触で、そのさいも挨拶以外に何か意味のある会話をかわすことはありません。
兄弟の会話は照れ臭いとか、会話は無くとも兄弟の絆は不滅であるとか、そういうことではなく、私はその兄弟を心から軽蔑していますし、相手のほうでもそんな私を嫌っていると思います。

このような状況ですので、例えば私が臨終にいたったとしても、その仲の悪い兄弟と何か会話をしたいとは思いません。
このようなことを話していると、友人が異議を申し立ててきました。
「血の繋がった兄弟なんだから臨終にさいしては和解すべきではないか?」
これはもっともな意見だと認めたうえで、それでもなお、私は臨終にさいして仲の悪い兄弟と和解を望まないだろうと思います。
というのも、いったい何を和解すべきなのかが私にはまったくわからないからです。

臨終にさいしても、私はその兄弟を心から軽蔑し続けているでしょう。
「軽蔑して悪かったな」と私が告げるとして、それは私の本心ではないのです。
「いろいろ悪かったな」というのも私の本心ではない。
臨終にさいしての和解とは、私の場合、本心を偽っての謝罪が要求されるわけです。
これはいったい何を目的にした誰のための謝罪なのでしょうか。
この奇妙な謝罪によって、心が楽になったり、何かしら心のわだかまりが解けたりするのでしょうか。
おそらく、この儀式は私のためのものではないのです。
死にゆく私のためではなく、これからも生き続ける仲の悪い兄弟のための儀式。
そのために私は道化を演じ、軽蔑している兄弟のために、本心を偽って謝罪をするのです。

そしてこれは相手からしても同じことが言えると思います。
「いろいろ悪かったな」「いいやこちらこそ悪かったよ」という一連のやりとりがあるとして、ここには偽しかありません。
こちらの謝罪は本心ではないし、相手からの謝罪があるとしても、それは相手の本心ではない。
生きるものの、あるいは死にゆくものの心のわだかまりを軽減することをねらい、お互いが本心を偽って謝罪をする。
死にゆくものも、生きるものも、お互いがお互いに謝罪の言葉をのべ、お互いがお互いを許すと宣言し、不和を解消したように見せかける儀式。
それが臨終にさいしての、一般的な作法なのかもしれません。
だがこの儀式は不気味すぎる。

臨終というのは、読んで字のごとく、人生の最後にのぞむ期間のことです。
その人生の最後に、本心を偽り、嫌いな相手に謝罪するというのは何とも後味が悪そうだ。
さらに嫌いな相手の本心を偽った謝罪は、私を悪寒でつつむだろう。
私はその不気味さに耐えることが出来そうにない。
ならば和解を放棄し、ただ私の本心を相手に伝えるのはどうか。
これなら私にも可能かもしれない。
長年の不満、怒りを全て相手にぶつけて、積年の恨みを晴らすのだ。
恨みを晴らした私はすっきりして死にのぞめるだろうし、相手の心に大きなトゲを残すことができるかもしれない。
でもこれは性根が悪すぎるような気がする。

これらのことから、私が臨終のさいは、仲の悪い兄弟との面会はのぞまないだろうと考えるのです。
仲直りするなら、お互いが元気なうちに和解すればいい。
長年の不和が、臨終にさいしてとつぜん和解をよそおうなど不気味すぎる。

この不気味な図式は、主語を入れ替えることでいろいろな人の人間関係にも適用することができます。
「私」の臨終ではなく、「仲の悪い兄弟」の臨終ならば、私はどうすべきか。
「仲の悪い友人」ならばどうか。
「縁を切った親」なら。

みなさんの意見を聞かせてください。

3ヶ月前 No.1

みたのしきま ★q3tWng5BEh_J3h

生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。

そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。

しかし、この定義は非常に難しいのです。

というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。

嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない。


そこで、三兆候説

医療で用いられる「死の三兆候」で、次の三つ。

自発呼吸の停止

心拍の停止

瞳孔が開く


でも

1997年10月16日「臓器移植法」が施行されたことにより、脳死後の心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓、小腸などの提供が可能になりました。

しかし、脳死後の臓器提供には、本人の書面による意思表示と家族の承諾を必要としており、

この意思表示は民法上の遺言可能年齢に準じて15歳以上を有効としていたため、15歳未満の脳死臓器提供はできませんでした。

したがって、

小さな臓器が必要なからだの小さな子供たちへの心臓や肺の移植は不可能で、多額の募金を集めて海外に渡航移植をする子供が後を絶ちませんでした。

2010年7月17日に改正臓器移植法が全面施行され、本人の意思が不明な場合には、家族の承諾で臓器が提供できることとなりました。

これにより、15歳未満の方からの脳死での臓器提供も可能となりました。

また、死後に臓器を提供する意思に併せて親族に優先的に提供できる意思を書面により表示できるとした「親族優先提供」も2010年1月17日に施行されています。

というわけで、「死の定義自体は曖昧」です。

充分な時間ある場合もありますから、ゆっくり時間の経過を待ち続けるのでしょうね。

3ヶ月前 No.2

★Android=X6SvDHYYL9

 俺も一応 目 意外わ臓器提供丸しとるや

 臨終の現場におることが出来んの?
 男でもキス

3ヶ月前 No.3
ページ: 1

 
 
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