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メビウスのマトリックスへの書評

 ( 議論掲示板 )
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パンドラクレア ★mnfnTHILB8_U64

メビウス氏の映画『マトリックス』で考える現実と真実 を読んでみた。
書評と言えるようなものに至るかどうかわからないけれども、まずは書いてみる。
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周知のように、相反することが共起してしまうことが「矛盾」である。たとえば、「P でありかつP でない」というように。〔……〕また、同じ一つの観点からであっても、ある時に「P であり」、また別の時に「P でない」というのも、なんら矛盾でない。あくまで同時に(一挙に)「P でありかつP でない」場合に限って、矛盾となる。
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ここで Pは命題であろう。たとえば P= 自然数pは偶数である とする。
これが 同時に 「PでありPでない」というのはうなづける。
これがわからない。
>ある時に「P であり」、また別の時に「P でない」というのも、なんら矛盾でない。
これは言えるのだろうか? Pが時間を経ると 矛盾であったりなかったりする?
サンプル P は時間に関係なく P∧□ Pであれば 矛盾は成立するのではないか?
>「時間」が矛盾というものを成立させる束縛条件の一つである
入不二氏の 束縛条件は 成立したりしなかったりということなのかもしれない。

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たとえば私がくさむらに佇む老婆を見て、不審に思って近寄って見ると枯れ尾花だったとしよう。すると最初に見た
老婆の姿は何だったのか。老婆の見え姿は錯覚であろうと確かに存在していたとみなすことができる。

錯覚論法にこだわる理由が不明だ。「老婆がいる」それを事実命題と考えるからおかしくなる。
これは正式には「老婆がいるかもしれない」つまり、可能命題なのだ。それも、主観的な可能命題と考えれば余計な議論は必要なくなる。
命題は普遍的なものと主観的なものがある。普遍的命題は「いつでも、どこでも、誰にでも、等しく」を満たす。
一方、主観的命題は「あるとき、あるところで、誰かが、任意に」を満たす。
錯覚論法の基本誤謬は、主観的命題を普遍的命題と考えようとするところにある。
メイビウス氏は、それが老婆であったかどうか、「私」とは関係なく「いたか、いないか」真実の世界がある、という。
そんなものはない、この世は五感が感知する「現実」の世界だけである。メビウス氏もいずれ、スミスの軍門に下るのでは?

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パンドラクレア ★mnfnTHILB8_U64

マトリックスを題材に現実世界を分析したメビウス氏の小論であるが、以下のところが混乱した。
映画が題材である以上対比しているのは・・・
VR : 現実世界  これは映画で我々が現実と思っているのが実は、仮想現実の世界としたものである。
本当の現実世界で、われわれはカプセルに入れられてコントロールされているわけだ。
後半の錯覚論法のところでは・・・ 老婆をみた。そばへ行ったらススキだった。この対比を
現実世界 : 真実世界  と表現している。これでは『現実世界』の意味が逆になっているのではないか?
モーフィアスはネオに 「真実世界へようこそ!」と言えばよかったのではないか?

2ヶ月前 No.1

★VrFMRg4Hnj_sxd

>VR : 現実世界  これは映画で我々が現実と思っているのが実は、仮想現実の世界としたものである。本当の現実世界で、われわれはカプセルに入れられてコントロールされているわけだ。
じゃあそれを映画として見ている視聴者は?

2ヶ月前 No.2
ページ: 1

 
 
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