トロッコに轢かれて命を落とす寸前の、線路の上に寝かされた5人。 3年前 No.0
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トロッコに轢かれて命を落とす寸前の、線路の上に寝かされた5人。 3年前 No.0
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みたのしきま ★dolLCU0Fmu_1zu
舞台は紀元前2世紀のギリシア。
一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れにすがりついた。
するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。
しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。
その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。
緊急避難の例として、現代でもしばしば引用される寓話である。
現代の日本の法律では、刑法第37条の「緊急避難」に該当すれば、この男は罪に問われないが、その行為によって守られた法益と侵害された法益のバランスによっては、過剰避難と捉えられる場合もある。
あはは ★LYqt51efqF_yoD
一番の問題点はだな?
>分岐器を切り替える
必要がどこにある?という事なんだが?
分岐切り替えたら一人殺すことになる
何もしなかったらただの事故だでな(´*ω*`)w
地下水 ★DNmPARcb81_nHx
>>2 この板につかまっている人が、実は船長だったと言う場合もありますね。
みたのしきまさんの例示は、現実の法令との関連も明確で、なおかつ根本的ですね。
二人がつかまって二人とも沈んだら、一人が助かるより死者が多いから、一人が助かる方が良いので、これで良い事になります。
しかし、ひょっとしたら板の浮力に余裕があって、殺し合わなければ、二人とも助かったかも知れない。リスクが大きいですが、二人とも助かるのなら、この方が正解です。
それからもう一つの根本問題も含んでいる。
相手を助けるべきか、自分が犠牲になるべきか。主観的に考えて、自分の命を守り、自分の見える世界を温存すべきか。殺さなければ殺される例示でもあります。
神が与えたもうた一つしかない自分の命には自分がこれを守る責任を負います。
さて、水死させた相手が女王陛下や大統領やであったらどうでしょうか。有用な人であったらどうでしょうか。
もし自分の子供であったらどうでしょうか。後悔しないでしょうか。非難されるのではないでしょうか。
自分の命を捨てて助けた方が、子供は自分よりも長生きするかもしれない。しかし自分なら助かったであろう高さの波にのまれて死に、共倒れになるかもしれない。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>8
なるほど、分岐点を変えたら殺人で、分岐点を変えなかったらただの事故と考えるんですね。
この問題は必要があるかどうかを尋ねているわけではなく、あなたがどんな倫理観を持っているかを尋ねているだけですから何が正解というわけではありませんよ。
甚六 @migime☆N.KB19nHQU5L ★iNJBiOPyDg_Bka
なるほど。
となると「んんwww分岐点を変えたら殺人ですなwwwここは無視しかありえないwww」という考えは
どんな人物が何人死のうが、自分が責められなければそれで良い、っていう価値観ってことですね。
たしかに、それは正解でも不正解でも無い。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
この問題は2つの質問がセットになっているのですが、第1の質問だけが拡散されて有名になったので、それで問題の意図が分からずネタに飛び付いて「2歳児が最終的な結論を出したwww」なんてことを言う人が出てきたんですよね。
知らない人が見たらまた変な方に持っていかれそうだから一応書いておきます。
モノポリー @ludwig777 ★fvQhJ41C7d_H3N
論点を明確にするために状況をアレンジしよう。
分岐器を切り替える人をP(ポイントマン)とする。
Pは社内規則でトロッコが来た場合は必ず切り替え操作をするように義務付けられている。操作をしなかった場合は懲戒解雇になる。
線路の元の位置を「0」と「R(右)とL(左)」で表す。「0R」で操作しなければトロッコは「右」へ進む。
Pが切り替え操作を行う場合は「s」で、しない場合は「n」で表す。当然「s」の場合はトロッコの進路が切り替わる。
分岐後の線路の先には1人か5人が寝かされており、「R(L)」と「1か5」で表す。左側に5人いる場合は「L5」と表記し、死んだ場合は「D」を付ける。
各状況は上記の各表記の集合で表現でき、一種の関数として表記する。例えば、
P(x):{0R,x,R1|L5},x=s,P(s)=L5D
(右側に進むはずだったトロッコを切り替えて、左側にいた5人が死んだ)
となる。
表記法については状況説明の簡略化が目的であり、あまり重要ではない。
私が問いたいのは次の一点のみである。
「Pは道徳規則に従うことが果たして可能であるのか」
利己主義者はこう主張するであろう。
「Pがどのような状況に置かれ、どのような判断をするとしても、Pは「道徳規則」に従うことはできない。Pは自分が「望ましい」と思う判断をするだけだ。」
モラリストたちは利己主義者に対して反論できるであろうか。
一見したところ、次の場合を考えれば反論になりそうだ。
P(x):{0R,x,R1|L5},x=n,P(n)=R1D
Pは詰まるところ「功利主義者」であって、規則違反でクビになろうとも「5人」が生き残る選択をした、と。
しかし、利己主義者は次のように反論するだろう。
「Pは功利主義の道徳規則に従ったわけではない。ただ、切り替え操作をして「5人の遺族」から非難されるのが怖かっただけだ。そうでないとなぜ言い切れる?5人を殺した殺人者になるよりはクビになったほうがマシだと考えただけだ。そうでない証拠をP自身は持っているのか?」
モノポリー @ludwig777 ★fvQhJ41C7d_H3N
利己主義者の主張を雑に言えばこうなる。
人間は結局のところ利己主義者であって、道徳規則に従っているように見えたとしても、それは自己保身ゆえの行為に過ぎない。
我々は「そうではない証拠」を主観的であれ、客観的であれ持っているであろうか?道徳規則に従っているということを「証明」するためにはどうすればよいのか?
モノポリー @ludwig777 ★fvQhJ41C7d_H3N
P(x):{0L,x,R1|L5},x=s,P(s)=R1D
の場合はどうだ?
利己主義者は当然次のように主張する。
「Pは功利主義の道徳規則に従ったわけではない。ただクビになるのが嫌だっただけだ。そうでないとなぜ言い切れる?そうでない証拠をP自身は持っているのか?」
Pの行為の理由(動機と言ってもよい)は誰が知っていて、誰が妥当か否かを判断するのか?P自身だなどとは言わないでくれ給え。
Pがクビを恐れたとしても、5人を救おうとしたとしても、結果が同じであれば関係がないのか?どんな意図や動機であれ、結果がすべてだと言えるか?
それとも、前者と後者は区別されるべきだなどと君は愚かにも主張するつもりなのか?
モノポリー @ludwig777 ★fvQhJ41C7d_H3N
世の中見渡してみますと、大部分の人間たち(とくに立派な市民たち)の営みは他人から「よく思われたい」という壮絶な闘争です。だれもが、実際よりちょっとでも悪く思われたり、ちょっとでも実際より低く評価されると、身を震わせて嘆き苦しみ、相手をひたすら憎み通すのです。
中島義道著、『怒る技術』
Pの葛藤も、「壮絶な闘争」の一例に過ぎない。
のか?
モノポリー @ludwig777 ★fvQhJ41C7d_H3N
もっと単純な場合を考えてみよう。
@P(x):{0R,x,R1|Lφ},x=s,P(s)=LφD (φは「無人」を表す)
AP(x):{0R,x,Rφ|L1},x=n,P(n)=RφD
@は社内規則に従うことと道徳規則(それが何であれ)に従うことの間に、Pの利益に関する齟齬は無い。では、Pは何に従ったのか?これは道徳判断か?
むしろこの状況は「ルールを守らないとケガをしますよ」というすべての製造工場に普遍妥当な行動規則であって、取り立てて「道徳規則遵守行為」の一例と見做す必要はない。
Aは規則違反によるクビの可能性と一人の命を天秤に掛けて、後者を優先すべきとの判断をしたと〈一般的には〉言える状況であろう。しかし、当然利己主義者はその「証拠」を要求するであろう。
Aについて、仮にPが「義務論者」であれば、社内規則に従って切り替え操作をして、人一人をみすみす殺すのであろうか?私はその行為自体や「義務論」そのものを非難するつもりはない。
しかし、それでも単にクビになりたくなかったからという動機との区別が可能かについては不可能に思える。我々は自身の「行動規則」を他人に(どのような方法であれ)示すことが出来るか?
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>ツイートが元ネタですからなwww
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
トロッコ問題は時代を超えて 今なお「倫理学」のバイブルだそうですよ。正解はありません。
ただ 日本の児童文学作家がこうした理念があって産みだしたか?と 思える作品があります。
「グスコー・ブドリの伝記」です。東北で産まれた「ブドリ」という男子の成長と最後の「自己犠牲」が描かれています。
冷害による「飢饉」から 多くの農民を救う方法が 火山を爆発させて 二酸化炭素を発生させて 気温を上昇させるというほうほうでした。
しかし 爆発装置を稼働させるには 一人が死ななければならなかったのです。
「ブドリ」は その一人になる決意をしました。そして 見事爆発は成功し 農民は救われたというストーリーです。
この作品は 大正時代のものですから 自己犠牲は戦争賛美と重なるという事で戦後は批判もされましたが 今なお感動する作品です。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>ツイッターの答えだと確か、トロッコから自分が降りて少しでもトロッコを軽くしておく、が正解なんじゃなかったでしたっけ?
削除済み ★fofH1MgenE_keJ
【この投稿は”ポンデリング”削除されました】 削除者: あうら☆マスター ( 2019/09/15 15:20 ) 削除理由: その他の違反
嫌われレイマリさんは、死刑廃止論のスレッド見る限り、
そう空虚と言う感じでもないからコミュニケーションの問題か
答えはないけど、法律的には緊急避難が適用される、と言うのは良いとして、
そこで止まるのは単なる責任の放棄、依存なので、
そこで留まるなら単なる法律相談なんですね
その先まで話す目的のスレッドなので、
死刑廃止を訴える時と同じ要略で話すべき話題ですね
まあ、例が余りに現実性が乏しいのでゲームにしかならない、と言う問題はあるでしょうけど
根本的に哲学や政治の話題なので、こう決まってます、ではそもそもコミュニケーション的にずれてますね
削除済み ★fofH1MgenE_keJ
【この投稿は”ポンデリング”削除されました】 削除者: あうら☆マスター ( 2019/09/15 15:20 ) 削除理由: その他の違反
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
法学の初学者や門外漢が初めて法律的なものの見方や考え方に触れると感銘を受けてそれに大きく影響されてしまうことがありますが、カルネアデスの板の話は特にそういう人が多いように思います。
小学生が何かというと正当防衛という言葉を使って事故の正当性を主張するのを見ると微笑ましいものですが、大学一年生が初めて法学を学んで緊急避難という言葉を覚えてそれを使いたがるのも似たようなものですね。
しかし大学生ならその後に様々なとこを学びますから、それらを総合的に勘案して物事を多角的な視点から考えなければなりません。
緊急避難を理由に「罪に問われないから」とか言っている人は、5人の方だと罪に問われると思っているのでしょうか?
また本当に1人の方は緊急避難が認められて罪に問われないのでしょうか?
緊急避難から一歩進んで結果無価値論や行為無価値論を学んだ人なら、法益以外の道徳それ自体を刑法で保護すべきかという問題と、違法判断は事前判断であるべきかあるいは主観的違法要素をどこまで認めるべきかといった違法性判断の構造についての問題まで視野に入れて考慮しなければならないはずです。
もちろんこの掲示板は法律的なものの見方を基準にしなければならないわけではないし、法学を学んだ人だけが議論に参加できるわけではありません。
このスレ自体も法律的な問題というより倫理の問題ですからより広い視野が必要です。
後半の結果無価値論・行為無価値論の話はさておいて、前半の「5人より1人の方がマシ」という安易な判断は本当にそれでいいのかということは考え直してみた方がいいと思います。
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
「罪に問われる」としても わたしなら「一人」のほうに 舵を切ります。犠牲者を最小限に留めることは 間違いではないと思います。
その判断ができるかどうか?が「倫理観」では無いのでしょうか?私には 「倫理学」ってものはわかりませんが。
「二歳児」は迷うことなく「一人」を「五人」の横に移動させて 合計六人を犠牲にしました。これが 出来るのなら「移動後」に誰もいない線路に 舵を切れば誰も犠牲にはなりませんね?
この場合は「緊急避難」と言えるのでは?可能ならば?という話ですが。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>「罪に問われる」としても わたしなら「一人」のほうに 舵を切ります。犠牲者を最小限に留めることは 間違いではないと思います。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>結論1
>大学出は一つの問題に複数の回答がある
>他の答えを否定するなら、その根拠をしめさなければいけない
>結論2
>行為無価値や結果無価値は『上位概念』である。
>説明したのであれば『下位概念』も説明すべきである
>結論3
>行為無価値は『刑法綱要』総論
>結果無価値は『刑法総論T,U』
>『騙されてはいけない』・・・・『でたらめの大嘘に』
嫌われ霊夢と嫌われ魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ
じゃあ「論理的に」話しましょう
行為無価値と結果無価値について『正確に』お話してくれませんか?
あなたの説明は『でたらめ』ばかりなので
出典も必ずつけてください
弁護士なら当然それくらいできますよね
コピペ・・・コピペっておかしいですね
弁護士は『証拠』を『甲第24号証』として裁判所に提出しますし
『証拠』は当然『私は考える』では裁判では100%敗訴しますが。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>48
落ち着いてよく読んで、よく考えて、そして書くことを整理したらもう一度読み返して他人に伝わる文章になっているか確認して、そうした後に書き込みましょう。
「論理的」な文章というものは、文と文との関係が明確なものです。
>行為無価値と結果無価値について『正確に』お話してくれませんか?
>あなたの説明は『でたらめ』ばかりなので出典も必ずつけてください
>弁護士なら当然それくらいできますよね
>コピペ・・・コピペっておかしいですね
>弁護士は『証拠』を『甲第24号証』として裁判所に提出しますし
>『証拠』は当然『私は考える』では裁判では100%敗訴しますが。
>>dummyさん
「現行法や現行制度を中心に置く」事自体が全部悪いと言うのではなく、
「現行法や現行制度を中心に置くと言う主義・選択とその意味」を隠す事が問題と言う話なので、
「法治主義を信仰する私としては現行法に適した範囲の対応が適切と考えるので、
緊急避難が適用され、罪が社会的に問われない方が正しいと考えるので、そちらを積極的に選ぶ」
と言うなら特に問題はないですね
私も私的生活だとかなり忘れてやりますが「みんなが言ってた」「先生が言ってた」と言うのと同じ事をやってるのが見えてないと思ってますね
(dummyさんは分かってたりなんとなく見えててもそう言う事は言わないのが正しいと言う考えで言っていないのかもしれませんけど)
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
難しい議論が 白熱しているところにお邪魔します。
dummyさんからの「トロッコ問題第二問」についての 私の答えは@なにもしない ということになります。
理由ですが、第一問とは違って トロッコに轢かれてしまう五人の命と 隣のデブさんの命は同じ重さのように感じられます。
人間を突き落すという行為は 直接的な殺人行為ですから ハードルが高いです。助けたい!けれども助けられない!矛盾する感情で呆然とするのではないかと思います。
嫌われ霊夢と嫌われ魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ
> >>49
嫌われ霊夢と嫌われ魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ
ここでdummyという人物がいかに虚飾にまみれているのかを見ていきましょう
彼女は弁護士だというがそれは全くのウソです
裁判所に提出する『書類』を準備書面といいます
まずは
『命題』をかきます
命題という言葉は難しく考えなくてもいいです。
まず陣備書面に
『注意義務違反』(過失)として次に
問診義務違反を相手の医師が行ったと書きます。これが命題です。その時重要なのは過去の判例です
『東大梅毒輸血事件』を記載します
その次が
『論証』です
命題が正しいということの主張を書いていきます
その時『私は考える』では「裁判官を説得できません」
裁判は、相手の弁護士や検察官をやりこめるのではなく
あくまで
『裁判官を説得する』のが弁護士の仕事です
『アメリカ法の話』平野ら訳
そのため『論証』では
裁判官を説得するために『超一流の文献』を用います
当然その文献を『出典』で書きます
この出典が『証拠説明書』に書かれる
甲第12号証とかの証拠なのです
『出典』がなければ裁判では負けます
dummyの文章は話になりません
『論文の書き方』『論文のレトリック』澤田昭夫、講談社学術文庫、参照
哲学的な問いに裁判所持ち出してどないするんすか…
その哲学と世間や裁判所を繋げる物を示そうねって話なんですよ…
「世論や現行法に適応するのが人間として正しい」ならそれが「哲学」の結論であり、
そこに至る理由こそがここで問われてる「回答(解答ではありません)」なんですよ
裁判に関わりまくったんで頭がそっち系になってるのかもしれませんが…
裁判で勝つのは目的ではなく手段のはずです
今ここで問われているのは手段ではなく目的ですよ
私が以前に言った「空虚」とは「目的と動機」の欠如の事です
「動機はあるよ、叩き潰したいのさ」と言う事であれば仕方ないのですが、
まぁ、率直に申し上げてそれは歪みのないよろこび・たのしさですか?という疑問を感じます
煽り運転の事件のプロファイリングに合った様な昏いよろこびでなければ良いと思いますが…
貴方が本当に望んでいる事は何ですか?
母親にとにかく凄いって言わせたい子供みたいな物なのかもしれませんが…
(概念的な)母親やれるような人格者はここでは少ないと思いますよ
もし愛情飢餓と承認欲求なら、それこそ人格者を探してください
健全な愛情と肯定は人格者の特徴であり特質です
「偉い人」ではありません、外的な地位や名声ではなく、「囚われ少なく精神的に安定している」を探してください
それを本で遠巻きに見るのではなく、身近に「自分を見てくれる人」として出会える場所を探してください
正直、余りネット、特にこのような議論場などには多くないタイプですので、
現実の外か、ネットだとしても、もっと明るく下らない趣味の集まりで探してください
お前もこんな昏い所居ないで明るい場所行けよって言われるとあんまり否定できませんけど…
挑戦しないと人は腐るし、勝ち負け損得に固執すると挑戦が恐くなるので腐るって言うのを最近実感してる感ありますね
勝ち負け損得に固執するとしばしば「強迫観念」的な行動が主になるので、そうなると何やっても不安と恐怖が消えなくなるんですよね…
大事なのは態度の方かもしれませんけど、態度の方をどうにか出来る程人間出来てないですからね(ゲームとかめっちゃシステム的な誘導に精神引っ張られる)
まぁ、もう一つは時間制限による不安と恐怖もあるんでしょうが…(楽しいはずの事を楽しいで済ませれない)
すいません、哲学と言うか倫理の方が近いかな
思想でも良いけど
まぁ、どれも「学問」でしかないとするならどれも適切ではないですけどね
ここは「学問的な解答のある話」をしているのではないんですよ
哲学を勉強して「感銘」を受けても「あくまで学問的な知である」と言うなら、
ここで聞いてるのはそういう意味では哲学でもないですからね
ここで聞いてるのはある種の「学問」ではありません
他者が作った「答え」への道筋を辿って「理解をして記憶する」学問ではありません
なので、この種の「学問」しかする気がない、そう言う風にしか解釈できないなら、
ここは貴方の目的とは反した場所ですので来るのを止めた方が良いですよ
まぁ、一応学問って分類付けされたハーバード大学の白熱教室なんかもあるのでその辺の境界は元々曖昧なのかもしれませんが…
ここで聞いてるのは「動機」です
「医療過誤と戦う事を決めた貴方の動機」であり、
「犯罪者を理解したいと思った貴方の動機」の系列の物です
貴方はそういう場所以外「動機」を見せないですが、何故その様になったのか私は知りませんが…
生命の中心はなんだかんだ言って「動機」に集約します
生き方を決める物は動機であって学ではありません
学が動機を変える事はありますが学自体は目的ではありません
もし学が目的であるとするならそう言う「動機」があるだけです
それが「真理への渇望」「信仰への問い」=「探求心」であるなら良いですが、
ここの書き込みを見て分かるのは「そう言う物ではないな」と言う事です
探究心とは本質的に「上に向かって」進む物ではなく「下に向かって」進む物ですからね
要するに「何故」です
端的に言って、貴方はしばしば「学」だけが宙に浮いていますね
探求心と言う感じでもありません
貴方は「何故」と言う問いへの回答を避けています
そうでなければそう言った問いを認知する能力が欠けています
もし問いを認知して居ながら、そこを避けているとすると
そういうの、世間では「衒学趣味」と言います
衒学趣味が悪いとは言いませんし、人格破綻者と言う話でもありません
そう言った弱さはみんなそれぞれにある程度はある事が多いですからね
ですが、衒学趣味で遊ぶにしても場所が適切ではありません
何故なら「んな話はしてねぇ」上に「動機が見えない」からです
もし本当に「そう言う問いだと言う認知が出来ていない」なら、
「ケーキの切れない非行少年たち」と言う本を読んで見ると良いと思います
認知力トレーニングの方法が書いてあるそうですからね
(まぁ、定型発達含めて、認知力トレーニングはそれこそ義務教育でやった方が、と思いますけどね
ぶっちゃけコスト払うのって大人になるほど損得勘定とイメージの確立で面倒になりますから)
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>50,51,55,57
「現行法や現行制度に従う」という基準で判断するという指針があって、常にそれに従って行動するという人がいてもいいんですが、それがその基準通りに適用・判断ができないこともあるということにも留意しなければなりません。
このトロッコ問題では5人を犠牲にしようが1人を犠牲にしようが、どちらも現行法の範囲で考えるとNGではないんです。
それでも「緊急避難」というよく理解していない用語を持ち出して5人を助けようとする人が多いのは、無意識のうちに5人を助けるためにはどうするかを考えて実は後付けで5人を助ける代わりに1人の命を奪う言い訳として「緊急避難」という用語を引っ張り出してきているにすぎないんですね。
だからここで問われている5人を選ぶか1人を選ぶかという問いに正面から対峙することなく逃げているんです。
しかしそういう答えがいけないというわけでもありません。
ここでは「あなたは倫理的にどちらを選びますか?」という問いかけがなされているわけで、それを理解できずに法律的にどうこうと理屈をこねくり回しても意味がありません。
これは正解を求める問題ではなく、あくまでも思考実験なのですから。
実験である以上は得られた回答は事実といて受け取らなければならないし、その回答に正誤の判定をすることは無意味です。
「これが正解です」などというのは問題の意図が分かっていないんですよね。
実験で得られたデータそのものに正しいも間違っているもありません。
データが得られたらそれにどういう意味付けをするか、そこにその人の学問の広さと深さが現れるし人格も関係してくるかもしれません。
ここのデータが正しいとか間違っているとか言っているうちは議論に参加するレベルではないことだけは確かです。
そんな人はスルーするに限ります。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
第1問は5人を助けるために1人を犠牲にし、第2問は5人を助けるために1人を犠牲にすることができない、という矛盾した回答をする人が一番多いという結果がこの思考実験では得られています。
第1問だけでは5人の命を助けるために1人の命を犠牲にするのは当然だと理由を述べた人でも、第2問ではその主張をそのまま適用できないんですね。
人の命は大切なもの、人の命が危険に晒されている場合には助けるのが当たり前、という無意識の価値観がより多くの命を救うという結論を先に決めて、それに合わせて1人を犠牲にする理由を後付けで考えたのかもしれませんね。
第2問では、これをそのまま適用すれば隣のデブを突き落とさなければならないはずですがそれができません。
それは人の命の数の違いに優先する何かがあるからなのでしょう。
それが人の行動や思考に影響を与えて、法律に優先する倫理観というものなのでしょう。
もちろん回答者の中には、どちらも5人を助ける人もいれば、一方は5人で他方は1人を助ける人もいるでしょう。
少数ですがどちらも5人を見殺しにする人もいるかもしれません。
それらを選ぶ人たちにはその人たちなりの倫理観があるのでしょうから、その回答だけではどれが正しいとは言えませんよね。
それらの回答には4つのパターンがありますが、それぞれどのような倫理観が行動原理となっているのか、そういうことを話し合うことがこのトロッコ問題をスレタイに選んだ時に意味があることだと思います。
私は抵抗されない前提なら両方5人かな…んー、でも後者は「殺した奴」って評判も付くんですかね
まぁ、でも、見捨てるのも「5人殺すような物では」と思うし、感覚的には両方5人派かな…
または辻褄合わせに5人殺して生き残った方も殺しておくかなと言う気持ちもありますね
(助けると言うトンチではなく、犠牲の上の生をどこまで許容するかって問題)
まぁ、実際その場面になったら「生き残った方も殺す」はやらんで5人側助けて終わりだとは思いますけど
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
また お邪魔します。第二問の時に 「倫理観」ではどうしようもない「何か?」が働いているような気がしました。
映像的に思ったのは「大津波」の時に 目の前に「人が流されていく」のに どうしても助けることが出来ない。自分が 水に飛び込んでも 同じように流されるだけ。手の 施しようがないという状態のような。
何故か?こういう状況に似ているような?
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>60,61
shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_khR
いいかい皆さん、すべての問題は正しいか、正しくないかなのよ。しかしいい加減な正しさではいけない、正しいも絶対的に正しいものでなければならない。絶対的に正しいとは時代を超え民族国家を終えて普遍的で永遠に正しいと言う意味です。絶対的な正しさが分かればいいのよ。それが分からねばすべての問題は本当には解けないのよ。
すべての問題は正しいか、正しくないかである、だからね。死刑問題もそれが正しいなら死刑存続すればいいし、正しくないなら死刑廃止にすればいいのよ。憲法改正もそれが正しければ変えればいいし、TPPも正しければ参加すればいい。それだけの事なのです。
さあ、ここで問題だ! 絶対的に正しい事とは何か? 分かる人は答えてみたまえ。トロッコ問題もそれが分かれば解けるのよ。そして絶対的に正しいことが分からないならば、ソクラテスに論破されたソフィストと同じでいい加減な正しさしか知らないからみんな論破されちゃうよw
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>63
アンケートや思考実験などの問題にまで正しい答えがあるという主張はそれ自体正しくないのは明らかだけど、それでもすべての問題に正しい答えがあるという私見が正しいと主張したいのであれば「絶対善」とやらで説明してみてはどうでしょうか。
まず手始めに「あなたは犬と猫のどちらが好きですか?」に対する「絶対的に正しい」答えとは何でしょう?
dummyさんへ
>>62
おっしゃる通りだと思います。問1と問2では、明らかに「自分の手を汚している感」が違います。
「人殺し又は人を救う」という一見同じテーマに見えて、それが直接的か間接的かで、
人を救うためという目的意識の高さまで問われそうです。
問1の、間接的であれば、自分の手を汚していないので、「たくさんの人を救えた達成感」が多く占めるでしょう。
問2の、直接的であれば、「人を救うために、デブを殺してしまった罪悪感」に、苛まされることになるでしょう。
ここでいう目的意識の高さとは、デブを突き落とす意志が強ければ強いほど、「多くの人を救いたい」という正義感が強いことを表します。
shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_khR
いいですか、多くの問題は正しいか、正しくないか、なのです。この議論掲示板のタイトルを正しいかどうかで書き直してみます。
女性専用車等公共の場での差別・・・〜差別は正しいのか。
韓国を無視すべきか否か?どう付き合っていくべきか?・・・韓国を無視することは正しいのか?
日本は原子力発電所を廃止すべきである。是か非か 3 ・・廃止するのは正しいのか
日本共産党についてあなたはどう思いますか?(2)・・・日本共産党は正しいと思いますか。
リニアモーターカーについてどう思いますか?・・・リニアモーターカーは正しいと思いますか。
表現の不自由展について※ネトウヨは無視します・・・表現の不自由展は正しいと思いますか。
死刑には反対である・・・死刑に反対するのは正しいですか。
NHKの受信料・・・NHKの受信料は正しいと思いますか。
男性の長髪、何故禁止?・・男性の長髪は正しいと思いますか。
天国・地獄はあるか・・・天国・地獄があると言うのは正しいと思いますか。
メビウスリング消滅するかも、衰退の危機・・・メビウスリング消滅という噂は正しいですか。
私の頭で考えた、これが社会で通用しますか?・・・〜これが社会で正しいとして通用しますか。
アメリカは果たして正義の国なのか?・・・アメリカは果たして正しい国なのか?
このようにあらゆる問題はそれが正しいか、正しくないのかということなのです。これは素晴らしい発見です。ですから私たちはまず、正しいとは何かを知れば、あらゆる問題は案外簡単に答えが出せるかもしれませんよw
例えば死刑問題は長らく議論されていますが、いまだ決着がつきません。人権に反するから死刑は廃止すべき、というのは人権が絶対的に正しいと考えているのです。また人の命は命で償うべき、という人はそれが絶対的に正しいと考えているのです。また冤罪が起きるから死刑には反対であると言う人は冤罪が起きないことが絶対に正しいと考えているのです。このように正しいは人それぞれなのだと考えているからいつまで経っても無駄な議論に始終しなくてはならない。たった一度の人生の大事な時間を無駄にするとは何ともったいない事ではないか。
死刑問題も簡単に「死刑は正しいのか?」と考えればいいのです。そのためにはまず「(絶対的に)正しいとは何か」を知る必要があるのです。さあ、正しいとは何ですか?
ついでにゆみちゃん
>おっしゃる通りだと思います。問1と問2では、明らかに「自分の手を汚している感」が違います。<
それでは歩道橋がボタンを押せば回転しておデブさんが落ちるような仕掛けならどうなる? ボタンを押しておデブちゃんを落として殺すことは賛成だと言う意見が多くなるのかな?ならないと思うよ。
もう一つ言えば、歩道橋からおデブちゃんを落とすことは賛成が少ないと言うことは潜在意識では「それはいけない」と知っていると言う事、しかし理性ではそれを説明できない。つまり理性でない何者かが善悪を判断している、これは何なのかということだよ。「理性によって善悪は決められる」と言うことへの反証だよね。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>63 「いいかい皆さん、すべての問題は正しいか、正しくないかなのよ。」
>>66 「いいですか、多くの問題は正しいか、正しくないか、なのです。」
いやぁ〜、ちょっと追い込んじゃった感じかな?
「すべての問題」→「多くの問題」
さて次はどんな問題になるか楽しみですね。
で、 >>64 に対する回答がないようなので、先ほどの問題を「正しいかどうかで書き直してみます。」
「あなたは犬と猫のどちらが好きですか?」に対してどちらか一つだけの答えが絶対的に正しいですか?
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>65
倫理観の問題は、自分がどの程度その問題に関わっているかによっても答えが変わるかもしれません。
第三者の立場で5人と1人とどちらを選ぶ場合と、どちらか一方に自分と関わりのある人物がいる場合では、当然ながら回答が異なることが予想できますし、あるいはどちらにも自分と関わりのある人物がいなくても自分がどの程度の犠牲を払わなければならないかによっても回答は異なることが考えられます。
例えばトロッコ問題と同じく有名な思考実験の問題で次のようなものがあります。
********************
ある朝、目を覚ますと隣に意識不明の人物がベットに横たわりあなたの身体はその人物とチューブで繋がっていた。その人物は著名なバイオリニストで、病気のため生き続けるにはあなたの血液が必要だった。そこでバイオリニストのファンが前日の晩に医師に金を払い、あなたの循環器を利用できるようバイオリニストに繋げさせていたのだった。バイオリニストが完治するには9ヶ月かかるという。もしチューブを外せばバイオリニストはすぐに死んでしまう。
さて、あなたとバイオリニストを繋ぐチューブを外したら殺人になるだろうか?
あなたが手術に同意していない場合でも、あなたはバイオリニストの命に対して責任を負っているだろうか?
********************
トロッコ問題の場合は、自分が払わなければならない犠牲は、罪悪感や倫理観といった内面のものでした。
バイオリニストの問題では、日常生活の不便というより具体的な代償が求められます。
この場合は人はどういう回答をするのでしょうね。
地下水 ★lHRYPNADL9_khR
社会的な被害を最小にする事ですよ。どうすれば社会的な被害が最小になるのか。トロッコをとめると良いのか。それでは社会的被害が大きいのか。トロッコをとめないなら人的被害を最小にする方を選ぶのか。
実際問題、自動車が走っている。昔は5万人自動車事故で亡くなった。飲むなら乗るなという法律ができた。それで5千人に減った。しかし人的被害はなくならない。だからといって自動車を減らすわけにも行かない。むしろ経済を円滑にする為に増えている。自動車の安全性もたかまっただろう。それでも5千人は死ぬ。
交通事故死は世界で毎年125万人だ。怪我人はもっともっと多いだろう。壊れた車も多いだろう。それでもやめるわけには行かない。
世界ではな被害を最小にする事ですよ。どうすれば社会的な被害が最小になるのか。トロッコをとめると良いのか。それでは社会的被害が大きいのか。トロッコをとめないなら人的被害を最小にする方を選ぶのか。
実際問題、自動車が走っている。昔は5万人自動車事故で亡くなった。飲むなら乗るなという法律ができた。それで5千人に減った。しかし人的被害はなくならない。だからといって自動車を減らすわけにも行かない。むしろ経済を円滑にする為に増えている。自動車の安全性もたかまっただろう。それでも5千人は死ぬ。
交通事故死は世界で毎年125万人だ。怪我人はもっともっと多いだろう。壊れた車も多いだろう。それでもやめるわけには行かない。
余談だが、世界では蚊で死ぬ人も毎年73万人もいるそうだ。
shinwood @shinwood ★mjl0ItnnrE_khR
地下水さん
勿論、自動車をすべて廃止すれば、食料は運べないし、救急車は来ないし現在の事故死の五千人より多くの人たちが死ぬようになるでしょう。だから自動車全面禁止にはできない。
では公共の自動車は許可するとして個人で使う自家用車の使用をやめさせれば大きく事故死は減るだろう。でも自家用車の禁止を国民は認めるだろうか?おそらく反対するだろう。それは何故だと思いますか?年間数千人の事故死がなくなると言うのに何故国民は自家用車禁止に反対するのでしょうか?
dummyさんへ
>>68
バイオリニストを救うために自分の時間を9か月も犠牲にしなくてはならないのですね。
自分の意志でそうした訳ではなく、目が覚めるとそのようになっていた、という点で、
「嫌だ、帰りたい」という意識を強く呼び起こしそうですね。
でも医師から事情を聴けば、「仕方がない」と思う(しかない)かもしれません。
しかし、9か月も横たわっていないといけないなら、歩いたり立ったりする機能が損なわれていきそうです。
当然、輸血が終わり次第リハビリもしなきゃいけなくなりますね。。
一人の人を生かすには、こんなにも大変な思いをしなきゃいけないのか、と思いつつ、頑張って寝たきり状態を続けると思います。
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
いくら 著名なバイオリニストの人命救助であっても 当事者の同意もなく「血液」を「奪い取る」行為は 許せません。
わたしなら 気が付いたときにチューブを外して その「理不尽」から遠ざかります。
結果として ヴァイオリニストが「死亡」してもそれは私の責任では無いと思います。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>71,72
トロッコ問題では5人を助けるために1人を犠牲にする言い訳を自分を納得させるために捻出しようとする人が多いのですが、このバイオリンの問題ではおそらくは5人の生命よりはずっと軽いと思われる1人の行動の自由と他の1人の生命が天秤に掛けられます。
5人の命を救う方が1人の命を救うより正しいことだと自分に言い聞かせた人たちは、ここでその論理が使えないことを敢えて考えないようにしているのか、チューブを外すことを選ぶ人が多いんですよね。
人の命は掛け替えのないもので、助けることができる命があれば助けるのが正しいことである、という倫理観をこの問題では適用しない人が多数現れます。
ここで問題とするのは倫理観や道徳的に正しいか、ということではなく、関係のない他人のために自分の自由が犠牲になるべきかという道義心の問題になってしまいます。
自分が犠牲になって助ける命は+αではあるけれど、それを助けなくても自分が殺したのではなく死ぬ運命であったという±0であると思い込む理由を探します。
人の命は等価ではなく、個人個人の対象との距離や価値観に左右されるものであることが分かりますね。
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
なるほど「道義心」ですか?これが「見知らぬヴァイオリニストでなく自分の子供であれば ためらうことなくこうした医療行為」にも耐えることができる」と 思います。
同じ家族でも「親」や「つれあい」のためには耐えることは出来ません。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>74
>これが「見知らぬヴァイオリニストでなく自分の子供であれば ためらうことなくこうした医療行為」にも耐えることができる」と 思います。
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
なるほど!「自分の子供であれば」という答えは 自分でも驚いていたのです。なぜ?わたしはこのように考えたのか?不思議な気持ちを持っていましたが 妊娠から出産までの期間は10ヶ月。
ヴァイオリニストの回復期間9か月とおおよそ符合するわけですね?
嫌われ霊夢と嫌われ魔理沙 ★fofH1MgenE_keJ
これはあくまでも緊急避難の問題であり5人を救うために1人を犠牲にすべきである
緊急避難の具体例としてはすでに『みたのしきま』さんが述べたように
船が沈んだ場合の救命ボートの例が使われる
5人が限度の救命ボートに一人の避難者が救いを求めてきた場合、その一人を見捨てても罪には問われない
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
ホッキョクグマの件は「動画」で観ましたが いろんなコメントを讀むと「アザラシ」の生息数が激減していることが原因だと推察されているようですね?「子孫を残す」という本能からオスのホッキョクグマは 母親では無く子供をエサにして生き延びる行為に及ぶのではないでしょうか?
「スパルタカス」は「子供を殺されたら また産め!」と檄を飛ばして民衆を率いたと先輩は口癖にしていました。私はそういう生き方は出来ませんが。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>76
共食いをする動物はホッキョクグマに限らずカバやチンパンジーなど多く知られていますよね。
もちろん人間もその中に含まれます。
飛行機事故の生存者が雪の中で周りに食べ物がなく、死亡した乗客を食べて生き延びたという事件もありました。
この状況で、人は自らの命を繋ぐために他の死亡した乗客の肉を食べていいものでしょうか。
自らの命のためとはいえ、死者の肉を食べることは倫理的に許されないものでしょうか。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>>79
古事記でも、伊邪那美命が「この国の人間を1日に千人殺す」と言うと伊邪那岐命は「では私は1日に千五百人産ませよう」と言います。
現代のように医療が発達していない時代には、そういう考え方の方が普通だったのかもしれませんね。
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
「飛行機事故」の映画は見ましたよ。どちらを選択するか?「生きるか?死ぬか?」それこそ どちらかを選ぶしかないですね?
私はそういう場面になれば「死ぬ」ことを選びたいです。
「極限状態」になりますと 意志を失うのでしょうが。
「古事記」ともなりますと「島」を生み出すことになりますねえ?壮大なはなしになります。
太平洋戦争が終結するまでの日本は 常に貧しくて「乳児死亡」が多かったですし、苦労して育ててもお国のために 徴兵されて死んでいきましたから、子孫を残すことは大変な苦労だったでしょう。
dummy @oscar ★iPhone=Ni153b2Efq
>「極限状態」になりますと 意志を失うのでしょうが。
Mignon ★B9HHi0X0XT_m9i
なるほど!栄養は満たされるけれど マイナス要素も多いという事ですね?
「パプア・ニューギニア」の「人食い人種」の場合も「クーリー病?」とかいう「神経の病」を発症するそうですね?
「インデイ・ジョーンズ」っていう映画では「目玉スープ」が登場して、「ぎゃー!ぎゃー!」大騒ぎの晩さん会が面白かったですが。