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violenceの省察

 ( エッセイ投稿城 )
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すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_15y

こんにちは。
エッセイ初投稿させていただきます。
よろしくお願いします。

日ごろの省察がまとまってきたので、
体系的なスケッチに挑戦してみます。

テーマは「暴力」です。

ぼくは学生時代、
つねにいじめに脅えて、
逃げることに必死でした。

だからメディアでいじめ自殺の報道を見ると、
他人ごとではないように感じます。

外部からの介入の望めないまま、
一方的に暴力を受けている子どもに、
何か希望のようなものは兆しえないか。

そこで、これまで学んできた哲学、
とくにレヴィナスの思想を頼りに、
存在論の観点から暴力の現象的内実について、
省察を重ねていきます。

ここではその成果をまとめたいと思います。

批判、質問、感想、受けつけます。

よろしくお願いします。

ページ: 1

 
 

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_15y

ではさっそく、
体系的に叙述をするために、
見取り図を描きたいと思います。

まず暴力の現象的内実を明らかにするためには、
入念な準備が必要になります。

そこで先立って、このエッセイを貫く、
暴力の存在論的性格を一言で述べたいと思います。

それは「法外さゆえに意味を付与しえない現前」というものです。

つまり暴力とは、そのナンセンスさゆえに、
いかなる意味づけ、正当化も挫折に終わるような、
それゆえに自分の歴史に回収しえない、
まさに法外なものだということです。

いきなり用語が目白押しですが、
その微妙なニュアンスは丁寧に描いていくので、
安心してください。

この性格づけ、
すなわち「法外さゆえに意味を付与しえない現前」によって、
準備すべき主題系を示唆することができました。

それはすなわち「現前の主題系」です。

さしあたり現前とは「目のまえにあること」であり、
「居合わせていること」、「出席していること」を意味します。

コップや木が目の前にある場合、
コップの現前、木の現前と言いますし、
事件現場の現前、などとも言えるでしょう。

したがってこの場合、
暴力の現前が問題となり、
「暴力に居合わせていること」の内実が明らかにすべき対象となります。

それはつまり、当事者の視点から
暴力を存在論的に描いていくことに他なりません。

このアプローチを採るのは、
暴力を空間的に捉えるのではなく、時間的に捉えたい、
という意図があってのことです。

空間的というと、一目で概観できるような、
その個々の要素の関係性、力学にもとづいた構造が
しばしば主題とされてしまいます。

もちろんそれは、
暴力のメカニズムを解明するうえでは、
重要だと思いますが、
ここで問題としたいのは暴力の現象的内実です。
なので、その現れの様式を捉えなければならず、
したがって空間的な解釈というのは斥ける必要があります。

そこで時間的なアプローチを採用することにします。

時間的なアプローチは、全体を概観するというよりは、
順次現れる一場面の展開を扱うことになります。

その構成がここで描かれるものになります。

これで、問題系を示唆できたとして、
次はその内容、「現前と表象(さしあたり思考)の関係」
に立ち入っていきたいと思います。

10ヶ月前 No.1

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_15y

現前とはなんだろうか。

この問いは、現前と表象の関係から浮き彫りになります。

表象とはさしあたり、認識の材料のようなものです。

表象とは英語でrepresentationというように、
文字通りに捉えれば、
再‐現前化という意味になります。
つまり、現前の再提示が表象となります。

たとえば、目の前のコップらしきものを「コップ」と把握することは、
コップの現前を表象することと同義です。
このとき目のまえのものは「コップ」として再提示されています。

しかしここで一つ、疑問が浮上します。

なぜわざわざ、現前が表象になるのか。

この問いに答えるために、表象がない現前を考えてみましょう。

目のまえのコップらしきものは、表象を欠けば、
「コップ」として認識されることはありません。
あくまでも、「らしきもの」として、
もっと言えば「得体のしれないもの」として、
それは現前することになります。

ここで、「得体のしれないもの」が日常生活に、
何の脈絡もなく突如として出現する場面を想像してみましょう。

たとえば、家に帰ったら、
自分の部屋に巨大な何かがいる、みたいな。

私はこのとき、この何かを表象することはできません。
たとえば、この何かが話に聞いていた、
最近出没するゴキブリだとしたら、
話に聞いているので、ある程度推測して、
「ゴキブリかな」と考えることができます。

しかしそれが、あらゆる脈絡を欠いている場合、
その何かは得体のしれないものとして、
私を不安や恐怖に突き落とします。

住み慣れたこの家、この部屋が、
突如として異質なものへと変容します。

それはさし迫った事態として、重大事です。

以上のことから、
表象を欠いた現前というものの性格を、
推測することができます。

つまり、現前とは表象を欠いては、
さし迫るものであり、私の日常を脅かす重大事なのです。
そこから、私たちがわざわざ、現前を再提示する理由も明らかになります。
つまり、表象は安らぎ、ゆとり、
もっと言えばスペースを与えるために生じるのです。

部屋に突如現れた何かを蜘蛛として表象することができれば、
私はただちに、それについて考えるゆとりをもつことができ、
具体的な対処、たとえば逃げるとか、することも可能になります。

しかし、それが表象できなければ、それはさし迫った事態であり、
逃げることすらままなりません。
仮にその部屋を空間的に離れたとしても、
その存在はつねに私の思考を侵し、つかの間のゆとりも与えません。

以上のことを定式化すると、
現前の現前性は「さし迫り」であり、
表象はそこにスペースを与える。

以降、この基本的な考えをベースに、論を展開していきます。

次回は表象からさらに意味へと変容するプロセスを描いていきたいと思います。
その際に理念なるものが大きな役割を果たします。
したがって次回は、「意味と理念の関係」について描きたいと思います。

10ヶ月前 No.2

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kuu

あらゆるテクストは一定の暴力を正当化してしまっている。テクストは理念へと向けて発せられる問いに導かれて反復可能なものとして記述されるが、その反復可能性のうちに理念の起源への転倒という誘惑がたえず忍び込み、理念が起源化することで、その起源に適合しない他者を駆逐することが正当化されてしまう。ゆえにテクストの歴史は暴力に対し暴力によって抵抗するその終わりなき連鎖である。暴力に対し暴力でもって抵抗しない、いわば非暴力の道があるとすれば、それは理念をたえず起源化から防ぐ批判しかありえないだろう。

5ヶ月前 No.3

削除済み @levinas ★gVURwKBNCQ_kuu

【記事主より削除】 ( 2018/01/20 15:08 )

5ヶ月前 No.4

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kuu

あらゆるものを括弧にいれていくと、ただ思惟するのみの純粋な自己が取り出される。

しかしその自己がイデー(Idee; 観念や理念と訳される)へと結びつけられたとたんに、

そのイデーが自分の今ここを物語るための歴史の起源へと転倒してしまうことがある。

これまでイデーのおかげで諸々の括弧に入れられてきたものは必然性を伴って結合されてきた。

それによって撤回可能なかたちで言葉が語られてきた。

言いかえれば、諸々のものが意味づけられてきたのであった。

しかしそのイデーが起源へと転じるや否や、

その起源がよくないものまで意味づけて正当化してしまうことになる。

よくないものとはたとえば暴力である。

いちどイデーが起源へと転じると、

今ここという場所を物語る歴史は権利を越えて押し広げられる。

このイデーの起源への転倒を引き起こすものこそが

あらゆる暴力に先立つ超越論的暴力ではないだろうか。

だからデカルトのコギトは束の間、純粋な自己に至るも、

神を起源として信仰する後世の批評家によって、

超越論的な暴力に冒されてしまった。

あるいはデカルト自身がすでに、この暴力に汚染されてしまった。

そのまま延長と思惟が分離されたまま、現代の科学へと学の系譜が連なっている。

5ヶ月前 No.5

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_kuu

 哲学が、諸概念がその内に孕んでいる潜在的な意味領野を規定し、それらを用いて自己の生きる世界を余すことなく汲み尽くす営みであるとしたら、それは自己が自らの没し生きる世界から身を引き離し、純粋に眺めることすなわち観想を目指す運動に等しい。したがって哲学は他の諸学とは異なり、発展を目指す共同体によって共有される知の体系ではありえない。むしろそれは孤独な者の概念による世界の建築なのである。
 しかし建築としての哲学は、その思想が実際に生きられるのに反し、テクスト化を通じて反復可能なものに貶められてしまえば、ただちに歴史として凝固し、ただ批判を待ってのみ、可塑化されるに過ぎない。哲学においてテクストを読むことは、自己とテクストを一体として捉えることである。言いかえれば、テクストに内在する可能性も含めて、それを生きるということである。そのプロセスを忘れて、ただちに研究対象としてテクストと向き合えば、自己とテクストの間には溝ができてしまう。溝ができるということは、テクストに内在する表面化されていない可能性の部分を見落とすということである。ただ字面を追うだけでは、氷山の一角をすべてだと思うことと変わりない。一度でも一か八か潜って、テクストが氷山の一角に過ぎないと知ることが大事である。つまりは、テクストの意味ばかりを追うのではなく、実際に生きることが大事である。
 哲学を研究する者ではなく、実際にそれを生き哲学する者にとっては、他者の書いたテクストにおける概念と自らの保持する概念とのズレをすり合わせる作業が他の何にも増して重要である。哲学を研究する者はテクストにおける概念の意味しか追うことがない。自らの保持する概念を省みることは一切ない。しかし、実際にそれを生き哲学する者にとっては、テクストにおける概念と自己の保持する概念とのあいだのズレはさし迫った重大事項である。なぜなら意味が統一されていなければ、その概念に曖昧さが生じ、それを生きることができないからである。しかしこの曖昧さが、すり合わせる作業を動機づけるのである。
 すると哲学者の内面でその概念が内に孕んでいる潜在的な意味領野が変形する。この変形を悪しきものとして片づける必要はまったくない。なぜなら重要なのは、世界を余すことなく汲み尽くす建築であって、その体系によって他の体系をずらすことだからである。批判や概念の開発は完全な建築を待ってはじめて成立する。

4ヶ月前 No.6

すめん @levinas ★gVURwKBNCQ_sgs

 哲学はひねくれた問いを提出する。例えば「目の前にあるものは本当に存在するのだろうか」という問いは、馬鹿げた問いに聞こえるかもしれない。その問いを聞けば、何をひねくれたことを言っているんだと思うかもしれない。しかしなにも哲学者も本気でそう問うわけではない。哲学者はただ判断を留保するだけである。当たり前ほど怖いものはない。常識ほど疑う価値のあるものはない。知らず知らずのうちに忍び込む固定観念があなたの曲がった世界観を形作るのに一役買っているかもしれない。だから哲学者は判断を留保して基本から問いを提出し直そうと試みる。
 しかし皮肉なことに、曲がったことの大嫌いな哲学者の提出する問いは常識ある人からすれば曲がっているように聞こえてしまう。「目の前にあるものは本当に存在するのだろうか」と問いを発すれば、何をひねくれたことを言っているんだと非難されてしまう。「目の前にあるものは存在する」と素直に判断するほうがよっぽどまっすぐである。それなのにそこに疑いをかけ判断を留保するのは曲がっていると受け取られざるをえない。
 哲学にひねりが必要なのは言うまでもない。ひねりは日常を潤す機知であり知恵である。頭を使うとは物の見方をひねってみることである。ひねりは重々しい生を屈折させて軽々しい像を結ばせるレンズである。ひねりは思考にとって本質的なことである。だから哲学にもひねりが必要なのである。
 おそらく哲学ほど真剣に可笑しさを追求する学問は存在しないだろう。哲学は可笑しさを追求する営みである。「目の前にあるものは存在するのだろうか」と問うとき、哲学者は眉をひそめて深刻な面持ちで考え込むのだが、このとき内心では彼は可笑しくて仕方ないのである。それは誰かを卑下するような滑稽さではなく、純粋な好奇心に動機づけられた可笑しさである。
 哲学をバカにする人ほど哲学を真剣に捉えている。哲学を真剣にする人ほど哲学の馬鹿馬鹿しさを楽しんでいる。哲学には学問で唯一、可笑しさが含まれている。この可笑しさが思考の原動力となる。だから哲学には中毒性がある。ハマる人はどんどん深みに陥ってゆく。哲学はお金のかからない娯楽とも取れる。哲学者ほどユーモアのセンスが求められる人はいない。
 哲学がもっと真剣に世の中で取り組まれれば、それだけバカが増えるだろう。バカで溢れた世界っておもしろくないだろうか。豊かではないだろうか。哲学がもっと広まればいいのに、と私は思う。

2ヶ月前 No.7
ページ: 1

 
 
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