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遊動空間

 ( エッセイ投稿城 )
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経験とは、「〜したことがある」という仕方で語られる。なにか知覚できるものと私は接したことがある、というようなものだ。なんにせよこれもまた、意識に与えられる事象の一つである。ただし、身体に定位した事象である。経験と呼ばれるものが、感覚器官に依拠していることからも、それはわかる。
ただし、単なる感覚以上のものでもある。というのも、「〜について考えたことがある」という風に、「〜について考える」もまた経験のように述べうるが、これを人が経験と呼ぶことは少ないし、これは身体的な知覚や感覚に制限されていないからだ。しかし、イギリス経験論、およびそれに端を発する(論理)実証主義において、経験という概念はかなり制限されてしまっている。
漫画を読むとき、たしかに私は紙面に目を向けており、絵や字を知覚している。しかしアルミンやハンネスらが巨人と対峙する一方、私は巨人と対峙しているわけではない。その意味で、私は巨人に遭遇したことがあるというようには、巨人についてなにかを経験しているわけではない。
ではこれは経験ではないのかと言うと、たしかに狭義の経験ではない。が、広義の経験ではある。そうでなければ、いったい、巨人が登場人物に現れている仕方(恐ろしい者、誰かの敵)を、その登場人物に現れている仕方において、「理解」することすらできない。
エレンやミカサを逃がすために、ハンネスは巨人Aから逃亡した。その巨人Aが再びハンネスのまえに現れたときのハンネスのErlebnisにおいて、巨人Aの意味は変わっている。このことを理解していなければ、ハンネスがなぜ巨人Aに対してほかの巨人とは異なる激情を露わにするのかを、理解できない。
つまり、なにかを「経験する」ということ、それを可能にするのはなにかを、問わねばならないわけだ。
まず、体温計で体温を計り、そこに表示された数値を見ることも経験である。この観察から得られたいわゆる経験的事実は、「いまの私の体温は36.7である」と表すことができ、経験的事実についてのこの事実命題は、真であるとされる。
しかし、この経験については、体温計が数値を表示する機構が故障していないこと、体温計が体温を計る機構が故障していないこと、そうした諸前提についての予断がある。つまり、経験を可能にするものとしては、感覚器官ある程度の判断力があれば事たりるのではない。
私が殊更に見ようとはしなくても、注視しなくても、体温計に表示されている数値は見えている。このことについては、たしかに感覚的な所与Gegebenis(与えられているもの)と言える。が、それが「経験」たりうるには、こうした感覚的な所与が私に現象しているだけではたりないのである。
こうしたことを考慮するなら、「経験」の「豊富さ」なんてのは、それだけでは私になにも教えないとわかる。また、経験される事柄の「新奇さ」あるいは「目新しさ」によっては、なにか「新しい」ものを知ったことにもならない、と。
これを、通常は「経験」と呼ばれることのないフィクションでの人物の挙動や物事にどう接ぎ木するか。

意識の本質は、「思うもの-思い-思われているもの」である。思われているもの(いわゆる思考の対象)が実在するかどうかではなく、思われているものがどのように現れているかを考究するのが、非自然的態度からのアプローチである。
フィクションの出来事や人物の挙動であろうと、それは「意識の諸状態Erlebnis」に相関している。巨人Aを前にしたハンネスが、巨人Aに(あるいはかつて巨人Aから逃げた自分に)復讐しようとしていると「考える」とき、読者がハンネスの振る舞いについて考えていることは明らかだ。
このとき、私はハンネスのように巨人Aに対峙していないので、狭義の経験からすると、私は巨人やハンネスについて何事かを経験しているわけではない。
が、やはり、巨人Aに再び対峙したハンネスについて考えているという状態Erlebnisは、私に現象している。
そして体温計のところで見たように、ハンネスがなぜ巨人Aに対してほかの巨人とは異なる意味をもつ者として対峙しているかは、ハンネスが巨人Aと戦っている最中である場面を描いたコマだけを、どれだけ見ても、何度見ても、明らかにはならない。
ハンネスが実在するかどうかは問わず、ハンネスに現れている巨人Aがいかなるものかを、読者が知るには、ハンネスや巨人Aについてのいくつかのことを綜合していなければならない。
そして、そうした綜合ありきで、巨人Aとの対峙でハンネスが経験していること(巨人Aに対峙したさいのハンネスのErlebnis)を私は了解しうる。

感覚器官に依拠した単なる感覚的な経験としてのみ、経験を理解するのであれば、そのような経験という概念は狭義であるばかりか、経験というものを理解しそこなっている。
以上のことからいかなる経験についても言えることは、よい経験も悪い経験もないということだ。
たしかに、気持ちいい経験とか、好ましい経験というものは、各人においてあるだろう。が、経験を狭隘に捉えないならば、体温計によって体温を計る程度の経験すら、経験しなおすことができる。
体温計の数値を見るというのはありふれた事柄ではある。通常は目新しいことではない。が、「目新しくはないありふれたこと」として現れている現象から、経験とは何かについての異なる捉え方が生じうる。そしてそれは単に奇を衒った試みとしてではなく、そこから語られることが一般的な妥当性をもった知として、ありうるわけだ。風呂に入るという経験、ありふれたことだ。しかしアルキメデスについての伝説は、風呂に入るというそのありふれた現象すら、一般的な妥当性をもった知の源泉として現象しうるということを、語るものではないか。

3年前 No.0
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@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=pzRtZSjJCA

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6ヶ月前 No.251

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=pzRtZSjJCA

「自分の言葉で話せよ」とか言う人は、外国語を使われたり〈古典〉の引用をされても、その意味がよくわからないからこそ、そう言う。「私にわかるように書いて」ぐらいのもの。さらにそこから「権威主義」に繋がるには、「こいつだって自分と同じように本当はわかってないんだ」というような解釈がなければならない。じつに自己触発的だが、「影響」というのは自己影響でしかない。
しかし、だったら、漢字はどうなる。「主観」「客観」「タバコ」「地球」「カステラ」、挙げればキリがないが、横文字であれ縦文字であれ「外来語」が沢山あるのが日本語の実態だ。横書きからしてそうだろう(なんで右から左への横書きから左から右への横書きに移行したのか、なんで「理系」の文章ではピリオドとコンマが使われるようになっているのか、というのも、同じ話だ)。
「おもてなし」アピールだとか閉会式の盆踊りとか、じつに意図的な主張でくだらない。オリンピック開催に向けたホームレスへの対応とか工口漫画の陳列うんぬんとかタバコがどうだとか、変に「近代国家」かぶれしてんじゃねーよと思う。あれだ、「原住民」はフィールドワーカーが来たときは「原住民」らしく振る舞うみたいなそんな話を思い出す。いわゆる「自然」というのはもはやプリミティビズムの産物でしかない。
さらに西洋は西洋でギリシャ語由来やローマ語由来の概念(の変形)のもとにあるわけだし、かくいう古代ギリシャでも色んな文化的対立があったわけだ。
「オリジナリティ」「純粋な自己」なんかどうでもよい。

「自分の言葉」というのは、ありもしないもの。ましてや「自立性」うんぬんからそんなのを言うのは本当にどうでもよいこと。
強いて言うとするなら、それは、「テクニカルターム」の意味を日常的な言葉に落とし込むことができるかどうかという話だ。「自分の言葉」うんぬんではない。



だいぶまとまってきた。

「自分の言葉」と言いながら「自立」をとやかく言っている者は、素朴なマルクス主義者のように「主体」を前提としたうえで素朴な「疎外論」をぶっている。
日本の思想ということで言えば、「戦後民主主義」というそれなりに有名な言葉から見られるように、第二次世界大戦敗戦後の「反省」が問題だった。押せ押せイケイケだった知識人や文学者が敗戦後は「私は騙されてた」とか「知らなかった」とか言って戦争反対という潮流に「転向」したわけだ。
「たとえば一つ、戦争に対する態度について考えてみますと、第1に無関心派、第2に賛成派、第3に動揺派、第4に反対派と、同じ「いかに生くべきか病」でも大体以上四つのごとき症状を呈するものである。
(中略)最後の反対派。この連中は、大衆の利益という乞食的モラールの愛好者であり、一見ひどくあつかいにくい手合と見えるのでありますが、これも、本物の唯物論者とは違い、「いかに生くべきか」病であるかぎり、けっして我々の敵とは断言できないのであります。
なぜなら、諸君もその専門的見地から直ちに判断されるであろうように、いかなる戦争も、「内なる掟」で変化をうけるものではない。彼らは現実の要求の前に、「内なる掟」に耳傾けるといった手合なのでありますから、要するに、迷える小羊にすぎず、棍棒の一パツもお見舞すれば、ただちにドンデン返し、いわゆる転向というやつをやってのけるのであります」(安部公房『砂漠の思想』、「いかに生くべきかーーx教授の講演集よりーー」)
この引用文の印象に反して、安部公房その人は文学や思考の可能性に肯定的だった(楽天的ではない)と見てよいと、私は言っておく(上掲書所収「ヘビについて」などからして)。

私は思想の変遷じたいは否定しない。フロイトは『精神分析学入門』で、変わったら一貫してない批判されるし変わらなかったら反省がないと批判されるんだからそんな形式的なことはどうでもいい、みたいなことを言っていたが、正しい。
日本の戦後で問題視されているのは、素朴に言えば、思索のうえでの思想の変化ではなく、世につれ人につれ、世評の風見鶏として振る舞うことだ。挙句に「戦時下は暗かった」とかいう話も出てきたりして、「んなこたなかったよ」と小林よしのりや吉本隆明らが批判していたりする。変な明るさが、「病的な明るさ」があったんだと。戦争にかぎらず、有事に際して高揚する人たちというのは存在する。
禅だなんだよりよっぽど重大な問題だ。そういえば吉本隆明とフーコーによるマルクス主義に関する対談がフーコーコレクションのどれかにあったっけな。

6ヶ月前 No.252

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=pzRtZSjJCA

ピーター・シンガーに対する人権保護団体メンバーからのシュプレヒコールと殴打(しかも彼らがその「人権」を守ろうとしていた障害者のなかには講演の後にシンガーの考えをちゃんと聞きたいとシンガーのもとにやってきたらしい)。写真のモデルに難ありだってんで受賞を取り消してさらにまた受賞させた柔軟性ありありの選考者たち。着物を着た西洋人モデルに対する「文化剽窃」だとかいう意味不明な非難からの意味不明な謝罪(良い写真には思えなかったが)。小林よしのりにボランティア活動の協力を求めて断られた後の人格非難(『新・ゴーマニズム宣言』)。
なんとも気色の悪い「道徳」の蔓延だ。

「形而上学の言表はその開始から終結に至るまで奇妙な仕方で存在者と存在のあまねき取り違えのうちを動いている。もちろんこの取り違えは出来事として思考されるべきであって、過誤として思考されるべきではない」(ハイデガー『形而上学とはなにか』)
「この大戦争は一部の人たちの無知と野心とから起こったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも僕にはそんなおめでたい歴史観はもてないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと怖ろしいものと考えている」(小林秀雄、1946年の座談会にて)
「椅子を引き寄せるために、私は手を伸ばす。すると、私の上着の袖はめくれ、椅子の裏側に傷がつき、タバコから灰が落ちてしまう。自分が望むことを行いつつも、私は自分が望んではいなかった無数のことをしでかしてしまう(中略)雪に覆われた平原で猟師の足音から一目散に逃げながらも、まさにそのことによって、獲物は自分の死につながる足跡を残してしまうのだが、さながらこの獲物のように、われわれは悲劇の只中に投げ込まれるのだ」(『レヴィナスコレクション』所収、『存在論は根源的か?』)
いわゆるポスト・モダンの思想家が歓迎されたのは、デリダしかり、フーコーしかり、ハイデガーしかり、ラカンしかり、彼らがマルクス主義的な「主体性・論理性」を打っ棄っているからだ。マルクス主義は日本でも広まっていたらしいが、それだけに、「主体性・論理性」といったものを相対化する試みは新しく映ったんだろう。

先の引用で小林秀雄の言っていることは、「技術は悪くない。問題は技術を人間がどう使うかだ」といった類いの、「人間次第」という考えに対する批判である。そうした思想から様々な問題に対する吟味が加えられるわけだが、その反省的な思想の問題は、「人間の努力でなんとかなる」というかたちでの人間の「主体性」への肯定じたいはまったく反省されていない点にある。「意識改革」とかも同様の理屈だ。
こう言うと、人間がなにをしようと無駄なのか、自分がなにをしようが無駄なのか、といった非難が想定される。素朴ではあるが重大な非難だ。
私はそうは思っていない。しかしロマン主義ではどうにもならないと思う。「転向」に対して、「俺はアタイはゼッテーに考えを曲げねーし」と気炎を上げることはたしかにとりあえずは可能。しかし不良こそが規則の強化に寄与するわけだし、不良も校則に反発しているだけでグループでの上下左右に翻弄されている。今時は不良なんて死語だろうけど。

「対話」だ「尊重」だが胡散臭いのは、どうしようもない小悪党が存在するのに、そんな相手まで「良心的に」相手していたら身を滅ぼすのに、温室でしか通用しないそんなことを上品ぶって話すことに、当人らがなんの違和感も覚えていないからだ。少なくともまさんもこうした小悪党の存在を度外視してはいない。
>>240
「教育困難校は、教育の主導権が学校から奪われていった動向の最たるものの一つである。「個性尊重」や「主体性尊重」からは、原理的に、教育困難校の実態へ批判はできない。もしそれらの思想を是としながら教育困難校の実態を批判するとしたら、それは別の意見へそのときに乗り換えているからにすぎない」
と言ったが、こうした乗り換えを議論の最中でも平気でやってのける人は存在する。そんな相手を「良心的に」理解しようとすることは、一つの「努力」、固執persistenceである。どんな個人もそれなりに世界を反映しているわけだが、この世界にそういう存在者が存在しうることを認めないというのは、世界に対してイノセントにすぎる。そうした小悪党が自分の意識に先立って存在しうるということへの反感。

6ヶ月前 No.253

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=pzRtZSjJCA

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6ヶ月前 No.254

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=pzRtZSjJCA

「自立性(主体性)」、「反省」、「意志」、いくらか書いてきたが、阿呆な意志の「復讐の知性」と、「反省」をうまく繋げられるかどうか。
ニーチェが駱駝、獅子、小児の三様態を素朴な変遷として捉えていないことは、驢馬、弱者、豚に関する記述から明らかである。意志は解放者であるが、いまだ虜囚であり、阿呆になりさえするものとしても書かれている。
その阿呆な意志の在り方としての「復讐の知性」が、「反省」ではないか。
「自分で考える」と「自立性」について述べたが、ここには軍国主義的な(?)上意下達に対する「反省」があるのではないか。学校から指導権限を奪っていき、公教育機関を弱体化する動向の行き着く先は、小中高の学校の民営化。そうなると無償化どころか学費は上がるしますます親のプレゼンスが教育で物を言うようになるというのに。
しかし「戦後の反省」に由来する教育によってか、児童が教師を脅したり暴力を振るったりする現状を見てさえ、「公権力」としての学校の指導権の回復に諾うことができない。さすがに変だと思っている人も増えてきているとは思うが。
アクティブラーニングとか結局は名前を変えただけでゆとり教育と変わりないこともわからない。下手にフーコーをもちだして「従順な身体」だとか「画一化」とか言って児童の「活発さ」に呆けた笑みを浮かべる。それこそ画一化だっちゅーの。
仕事では「自分で考える」なんて少なくとも最初は求められていないし、それを求めるのは指導放棄だ。教育において「自分で考える」を前面に押し出すことこそが、教育機関からの出門と労働者への入門とのギャップを拡大しているのであって(「総合評価」とか言って「個性」を「尊重」される始末)、教育内容うんぬんはそれに比べたら瑣末事だろう。冨山の「L型大学」なんてのは、「時代の流れが早い」とか言われている世の中に学校が振り回されることを是とするものだ。小粒な営業マンもどきへ児童を仕立て上げることになる。
子どもが「ファシリテーター」とか言うのは身の丈に合ってない萌え袖を見せびらかしているようで可愛いらしいが、教師のサボりのための小間使いにされているにすぎないのに、なにを真面目くさった顔してんだろうと思う。提供すべき財産ousiaのない者でもできることでもなんか賢くなった気がして嬉しいんだろうけど。なんか格好いい横文字だしな、ファシリテーター。実質は教師のパシリだが。

6ヶ月前 No.255

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=LhoJGm8Q57

レヴィナスの言うあらゆる受動性よりも受動的な受動性とは、アプリオリテートのことにほかならない。ハイデガーの被投的企投はそれを場所論的に展開したもの。

「戦後の反省」とは何だったのか。「自分で考える」とか「個性」とかが言われているが、近代的な「主体性」「自立」重視の域を出ていない。戦争は終わったのにいまだに戦争の尾を引いている。そりゃそうだ。「戦争は悲惨なんだぞー。酷いんだぞー」と繰り返しつづけてるんだから。アーレントのように悪の凡庸さを指摘するだけでさえ非難轟々だし。

人間は未熟児として生まれる。親とは異なる文化や知識の入り込む余地がある。私にとってはその最たるものが図書館。
他人の発言や振る舞いだけでなく、不意打ちする閃光的な衝撃ーーそれは思考するうちに訪れたものかもしれないし光景として現れたものかもしれないが、つまり対人的なものにかぎらないということだーーは、その人の在り方の決定的な分岐crisisである。情動の異常な高揚や墜落をもたらすものではなくとも。
しかも後になってから或る事が決定的な分岐として現れる現在ーー「起源」は現在の隠喩ーーがあるわけだから、なおのこと人間の時間性は素朴な直線運動ではない。そのことがわかりにくいのは、死んだ人の「生涯」を見るようにして自分を見る見方に馴染みすぎているからだ。雲の上から目線。幽体離脱でもしてるのか。

意味は「主観」の権能に先行していると述べたが、その事実性は、人間主義(定義主義・取り決め主義・合意主義etc.)に制限されない認識の可能性を維持するとともに、対人関係による制約(善かれ悪しかれ)の現実性を維持してもいる。レヴィナスが自身の仕事を倫理の可能性を示そうとしたものだと述懐する(『ネモとの対話』)のもよくわかる。

アラメジガバチの精妙な刺突は一つのウーシアであるが、人間は自らのウーシアを解体するウーシアをもつ。反省過剰による神経症や精神病はそのネガティヴな現れだろう。しかしこの力は、お国柄や時代や経験に制約されない認識を可能にするものでもある。しかもこれをコントロールしようとするのは不可能だ。この場合コントロールとは意識的な制御だが、すでに述べたように、デリダが言うのとは異なって、意味がつねにすでに与えられてしまっているからだ。どんな留保も差し控えも、シニフィアンとシニフィエという分離の手続きも、それに遅れている。
思考が無駄とかは一言も言っていない。

かりに私が地球上でただ1人の人間となったとき、戦争は起こりえない。かりに私を含めた10人の人間しか存在しておらず、残りの9人を達磨状態にして岩や柱にでも縛り付けて生きながらえさせている場合、戦争は起こりえない。戦争、争いが起こっていないし、起こることがない、だから「平和」であるーーそう形式的に言うとしても、9人が私に争いをしかけることが不可能なこの状況は、戦争が起こりえないこの状況は、戦争が起こりうる状況よりいっそうおぞましい。
ウィーナーが『人間機械論ーー人間の人間的な利用』(タイトルの印象に反してかなりヒューマニズム溢れる主張が多い)の最終盤で述べているミルトン『失楽園』の解釈や「マニ教的態度」には、わかりやすく彼の思想の暴力性が現れている。
「私はすでにマニ教主義は科学にとって悪いふんい気であると示唆した。奇妙に見えるかもしれないが、その理由は信仰心にとって悪いふんい気だからである。観察された或る一つの現象が神の業か悪魔の業かわからない時は、われわれの信仰の根底が揺らぐ。そういう条件下でのみ、神か悪魔かを意図的に選ぶ重大な選択が為される可能性があり、この選択の結果として魔神信仰または魔術が出てくるおそれがある。そればかりでなく、魔術が本気で信じられうるふんい気のなかでのみ、魔女狩りが重大な活動として栄えるのである。だからロシアにはベリアのような人たちが現れ、わが国にはマッカーシーのような人たちがいるのは偶然ではない」(ウィーナー『人間機械論』、「言語、かく乱、通信妨害」より)
ウィーナーは「アウグスティヌス的悪魔」を「善きもの」の善さの欠如として捉える。
「科学者の戦いの相手である悪魔は、かく乱を加えてくる悪魔であり、意図的な悪意をもった悪魔ではない。(中略)自然は科学者を故意に敗北させようとする攻撃的な策略をとることができないということは、次のことを意味する。すなわち、自然の為す邪悪な行為は科学者のなかの弱さの結果であり、自然のもつ格別邪悪な力の結果ではなく」(同上)
「アウグスティヌスの立場からすれば、世界の黒の側は消極的なもので、単にそれに白が欠けているにすぎないが、マニ教の立場では、白と黒は互いに向かい合って並んでいる二つの敵対する軍勢に属するものである。あらゆるクルセード(キリスト教徒の聖戦)や、あらゆるジハード(回教徒の聖戦)や資本主義の悪魔に対する共産主義のあらゆる戦いのなかには、微妙な感情的マニ教主義が含まれている」(同上)
先に引用したハイデガーらの見解とは異なるのはわかるだろう。ロシアのベリアやアメリカのマッカーシーといった「悪人」ないしは「悪」の出現に「マニ教的な立場」は寄与すると言っているわけだ。ミルトンの『失楽園』に言及しつつウィーナーはこうも言い換える。
「もし悪魔が神の創造物にすぎず、神が全能である世界に属し、世界の暗黒部分を示す手伝いをしら世界の四隅を混乱させているのだとすれば、堕落した天使たちと主なる神の諸力との大闘争は、プロレスリングの試合と同様な見せものになる」
つまり出来レースであると言うことだ。『失楽園』が退屈な出来レースになっていないのは、なにがしかの仕方で悪魔が神に勝つチャンスがあるから、そう悪魔が見なすことができる可能性があるからだと言う。つまりこの場合、悪魔(黒)が神(白)に勝つことないしは勝ちうることを、「白の欠如としての黒」という「アウグスティヌス的立場(科学者の立場・科学者がそうあるべき立場)」への否定としてウィーナーは捉えている。カルナップがハイデガーの発言を単発的に取り上げて「ナンセンスである(偽ですらない)」とすることで無効化しようとしたこと、せいぜい「生活感情の描写」であると位置づけたことなどを思い出す人もいるだろう。

犯罪や殺人や様々な拷問や処刑があるが、それ自体に諸手を挙げて歓迎する態度はとることができないとしても、「悪」が勝利しうること、「敵」が勝利しうること、それはヒューマニズムとは無縁で大事なことなわけだ。
もしこの可能性そのものを否定しようとするとなると、私の挙げた素朴な事態を肯定することなくそうしようとするのは不可能だろう。彼らはせいぜい功利主義的に、手段が穏便でないことを指摘するぐらいしかない。達磨にして括りつけるといういかにも「暴力的」なところに反応するわけだ。あるいは私がそうした例をもちだせることから私の「人格」とやらを取り沙汰するか。じつにどうでもよいが、達磨にして括りつけるというかにも「暴力的」なものではなく、各自が「心の底から」望んで無邪気に「世界平和」とやらに首肯するようにさせられるなら、それがよいのか。いっそう不気味だ。

『GS美神極楽大作戦』でアシュタロスがベスパに話していたことを思い出す。

6ヶ月前 No.256

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=LhoJGm8Q57

批評においては対象の構成・位置づけがアルファにしてオメガ。「自分の意見」なんてのはどうでもよい。
プラトンやニーチェやハイデガーやクリプキやクワインは「有名」だが、その著作は「長い」ので、ろくに誰も読んではいない。『源氏物語』や『オイディプス王』もそうだ。しかし、ハイデガーやクリプキらの著作に登場する言葉に関する「概念」はありあまるほど手に入る。クリックやスクロールでドバーッと手に入る。
読んでないのに「概念」をせっせと集めて遣り繰りして体裁を整えた文章によって、読んだ人をやっつけようとする人は、「マニ教的な立場」の人だと言えるだろうか
(私はウィーナーの「マニ教的な立場」を是としているのではない。それはロマン主義的にすぎる。当然ながら、「アウグスティヌス的立場」を是としているのでもない。その区別がそもそも素朴すぎるからだ )。
著作を読んでないのに読んだ人よりもその著作に妥当することが言えるとしたら、小手先のテクニックで勝つことできるとしたら、さぞ愉しいのかもしれない。「自分の意見」だとか「オリジナリティ」に執心な人は、著作を所有しているがろくに読んではいないから、そういう人に対しては勝つことも十分にありえる。掲示板のような場所で周りの人らから賛成や同感を得たりすることをも「勝ち」に含めるなら十二分にありえる。

ウィーナーの「アウグスティヌス的立場」をもとにすると、読まない人、読んでない人は、テクニックによって、「光の欠如」という光に依拠した下位の立場(黒・影)を独立させようとしていると言えるだろうか。私からすりゃ「復讐の知性・阿呆な意志」だが。
しかし結局のところ、少なくとも著作に目を通したという意味での読んだ人(だと思える人)の引用文に彼らは依拠している。入門書やブログや、いつ誰がどう編纂したかもわからないウィキペディアに頼っているわけだ。

「物自体」の世俗化された解釈、あるいはデリダが想定する「言わんとしていることwill direct」は、軟弱な者の意志をさらに軟弱にすることに益する。もっとも、デリダはヘーゲルによるカント批判(「物自体」に対する批判など)をもとに、そうした「主観-客観」という二項対立を批判しているが。
著者がその著作で「言わんとしていること」、その著作の「自体的な」意味を「物自体」的なものとするなら、どの「読む主体」も著作の「自体的な」意味に近づきえないと短絡しやすい。
しかしそう単純ではないのはわかりきっている。
ハイデガーによる手元的存在(手元的であること・手元的にあること)は、故障した道具(非道具的な道具)の「目立つ」こと、「煩わしさ」と合わせて語られていることからして、手元的存在の骨子はそれが「退隠してある」ことにあるのは明らかだ。どれだけ「わかりやす」かろうが、ブログや入門書が「ハイデガー言う手元存在は道具のことであって」ぐらいしか言ってないならば、誤りでしかない。
現象論者と実在論者が互いに前提とする「物自体」的な何か、それはこの場合だと原著になるか、原著の草稿を書いていたさいの著者の「頭の中」や「意図」といったものになるだろう。素朴な現象論者はここから、「著作を読もうが読むまいがぜんぶゲンショー(仮象)だー」とヘラヘラする。その現象論的な前提が脅かされそうになるとイライラするにきまってる。そうしてせいぜい文章が「論理的」か否かという、文章の規範倫理学に従属するぐらいしかできない。デリダがフッサールをハイデガーに攻撃していたカルナップらに類する主張をしていたとも解釈しようとしていたように(『声と現象』)。
「ぜんぶカショー」からすると、たとえば英文の特定の箇所を抜き取って少しでも自分好みの趣旨になるように歪めることさえ、「ぜんぶカショー」であるという自分の立場から自分で容認するし、もし指摘されても「ちょっと引用ミスっちゃいましたー」で逃げられる。悲惨だ。
「物自体」とか「意図」だとかに関わるなんらかの出来事に絶望し、意気沮喪され、そのように絶望していないように見える他人、自分とは異なって突き進んでいく他人へ「俺と同じように絶望したままでいろ」と言わんばかりに、「物自体」と「仮象」にまつわる話を盛んに呼びかけ続ける。「復讐の知性」のいち様態。
しかし、どれだけ素朴な現象論者が「モノジタイモノジタイカショーカショー」と言っても、ハイデガーの言う道具的存在がすなわち道具であるとする解釈は誤りだ。ハイデガーはそんなこと言ってない。
素朴な現象論者も、自分の作為的なデタラメ引用のそのデタラメなところを指摘されたら、作為的な否かに関しては誤魔化しつつ、そのデタラメさを「ミスっちゃいました」と認めるわけだ。もし本当に「ぜんぶカショー」であり、さらにあらゆる「カショー」が水平的であるならば、「うろ覚え」というものはありえない。「うろ覚え」とは、文章の場合だとその文章をその通りに覚えていない、ということだが、「ぜんぶカショー」で「ぜんぶスイへー」なら、「うろ覚え」と「暗記」に差異はないはずだからだ。
しかし、それはある。この時点で、「我々は現象にしか接することができない」といった判断を前提とするとした場合でも、「現象」の内部での分割が起きていると言える。一方の「現象」は、現象論者や実在論者が想定する「実在」に関する正しい把握をもたらす「現象」である。他方の「現象」は、そうした「実在」に関する誤った把握をもたらす「現象」である。
さしあたりこの程度は言える。となると「現象」をこのように分割させているものは何なのか、となるが、少なくともこの時点ですでに「モノジタイ」なんてどうでもよくなってる。
ウィーナーが素朴に言っているのとは異なり、「アウグスティヌス的な立場」を前提としつつ、たとえば「「白」なんて誰にもわかりやしない」と言うのが、小手先のテクニックで「かく乱」しようとする弱者である。ウィーナーの言う「マニ教的な立場」は闘争的なものだった。しかし、読まない読者は、「マニ教的な悪魔」が「神」を倒そうとあの手この手のテクニックを用いたりするのとは異なる。それでさえなく、冷やかし好きな野次馬にすぎない。
つまり、「現象」の多義性を完全にスルーしてるわけだ。
「疲れてしまった者どもの賢すぎる才知が、この仮象Sheinを「主観的なもの」と説明するだけで仮象の歴史的な力がわかってしまったと思いこんでいるにすぎない」(ハイデガー『形而上学入門』、175頁)


哲学のアルケーは〈驚き〉だとすると、この〈驚き〉は哲学と非哲学の、分割線・境界・終わりperihodosに位置づけられる。こうしたものの一つとして「転向」に纏わる話を私はしていた。
こうした〈驚き〉が各自にとって具体的にいつどのような形で現れるか、それは知る由もないが、この〈驚き〉に身を委ねること、そして絶えず「専門」と「非専門」という「内外」の境目に在らんとしつづけること、それはいかにして「可能」なのか。

6ヶ月前 No.257

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〈驚き〉は一つの稀有な現象である。〈師〉〈先生〉はしばしば「思想上の父」と言えるぐらいの衝撃を与える。人間を通したそうしたものとはかぎらないが、いずれにせよ〈驚き〉は一つの契機である。
哲学のアルケーとしての〈驚き〉は、哲学を奇妙な探求として位置づけるとき、なにやら「肯定的」に捉えられがちなものであるが、それとはべつのところへ向かわせる〈驚き〉、もはや〈驚き〉とは呼べないとしても、違った方に向かわせる類いの何かが現象するといったことはないだろうか。ないこたないにきまってる。

それはたとえば、拷問を受けて「転向」するに至った者にとっての、敗北の意識かもしれない。時勢に乗って「転向」した者のそれではなく、心底からマルクスと同じような理想に向けて行動していた者にとっては、自分が拷問されるうちに拷問者らの前で「転向」してしまったことは、たとえその事実が周知のものとならないとしても、耐えがたいものだろう。

「転向」とはこうしたいかにも劇的なイベントにかぎらず、もっと「些細な」ものでありうるが、しかしその点はまだ問わない。

通常、拷問は「非人間的な所業」として見なされているが、そうではない。
拷問はさしあたり身体的な苦痛を与えるものであるが、しかし、根っからのマルクス主義者といったものが存在し、彼が拷問に対しても苦悶の表情を浮かべながらも強がることができたりするとき、拷問者は不満をもつか、これほど頑固な者が「転向」するに至らせるにはどうすればよいかと期待に鼻を膨らませたりするだろう。彼が「転向」せざるをえなくなることこそが彼にとっての最大の「精神的な」苦痛であると見なしているからだ。彼にとって拷問は明々白々に自分の意志を挫こうとするものであり、それゆえに意志を強固にする薪であり火種である。その意志を挫くことが、彼にとって拷問を身体的な苦痛以上の精神的苦痛へ変化させるのだから、拷問者は彼を一人の人間として扱っていると言うほかないだろう。生かさず殺さず苦しめつづける期間をどれだけ伸ばせるかといったことを楽しんでいるわけではない。この頑固な者が「もうやめてくれ」と言うようになることこそがより一層の楽しみなのであり、なかなかそう言うようにならない頑固な者であればあるほど、拷問者は期待に胸を踊らせる。「他人の気持ち」を意識するからこそ他人を虐げることから快楽を得ることができる。他人と呼ばれるものをただの肉塊として見る(たとえば死体と生体に有意な差はないと見る)ようなことは起きていない。拷問はいわゆる「人道的」な振る舞いや価値観ではないが、人間主義の一つの現象仕方である。
こうした拷問では相手の身近な者を拷問にかけるという拷問も為される。親兄弟を拷問するところを見せるわけだ。反体制的活動の最も切実な契機は身近な者が虐げられてあることだ。そのことが体制に対する敵愾心をもたらす。その殺意は警察に追いかけられることを楽しむとか憂さ晴らしに暴れる機会を求めてのデモ参加とは無縁。それゆえに拷問に耐えうるわけだが、しかしそうした殺意をもつ者にとってこそ、身近な者を拷問されることは最悪だ。
このとき、「転向」しないことこそがすべての否定になってしまうのではないか。この場合の「転向」は、何年か何十年かわからないが、それまで思考し行動してきた一切合切の根底にあったものを、身近な者が苦しんでいる姿に直面したさいに生じた意志を、否定することになる。だから「転向」することこそが、「転向」しないことになる。
一枚岩ではないのはその活動の最中で仲間が殺されたりもするがゆえだ。切っ掛けとなった出来事はその仲間の死ではなかったにせよ、「転向」することは、その仲間の死を無駄にするようにも思われてしまうものだ。「転向」することによるその後の世評に対する懸念もないではないだろう。

しかしそうなると「転向」にいったい何の問題があるだろうか。当世風か否かで自分の立ち位置を正当化することになんの違和も覚えない風見鶏が、ボカッと殴られたり、今風に思われていたものが古風なものへ風化したと見なすや否やクルッと回転したりというのはどうでもよいとして、「転向しない」ことが「転向」、「転向する」ことが「転向」という、それ自体は任意でどうにもならない情況があるならば。
しかしなおこれだけは言えるというものがあるならば、それは、この情況は内面化されえないということだろう。
世界ないしは世界内部的なものを「自己表現」の舞台や道具にしたりだとか、
「彼らは、自分自身でさえもいかんともしがたいような、すなわち、自分の意思では統御されえないような、自己の深淵から湧き上がってくる自然な感情の在り方こそ、自分の本当の「キャラ」だと感じています」
「だから、その感情をそのまま表出することこそ、本来の「自分らしさ」の最高の発露だということになるのです」(土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』、「内閉化する「個性」への憧憬」、33頁)
のように、「本来の自分」などというものを表現するための風景や身体であったりとか、しょうもない「無意識・トラウマ」批判からの「自分次第」だとか、フレーム問題に対する問題視の仕方「(「情報量の膨大さ」が問題なんだ」といったもの)」とか、
これらがあらゆるものの内面化の野望の問題であるならばどうだろうか。

『ちーちゃんはちょっと足りない』のナッたゃんは、その〈素朴な〉現れだろう。ちーちゃんはちょっと足りないとして、他の二人はだいぶ足りないように思う。

掲示板で頻繁に現れる「棲み分け」という意見は、この「内面化」の運動の一端ではないか。

「転向」にまつわる矛盾した情況を私が書いたことから、その情況を私が意識できていることに言及して、それは「内面化」ではないのかという指摘もありうる。「内面化」なわけがないが。むしろその情況は「内面化」しようとする試みを絶対的に挫く。

それは任意や恣意という意味での近代的な「自由」ではない自由の可能性である。近代的にすぎる者は、先の文章から、自分の選択の現場で他人が重大なものとして現れることを桎梏としてのみ捉えるだろうけれど。
またも「自立」の問題だ。『ハイキュー』の狂犬くんを思い出す。部活では文学や哲学書をちょろっとかじった青少年が憧れる「オリジナリティ」なんかより、現状の打破、自分の限界の拡大ということがありありと問題になる。「指導者がいないってのは辛いな」と、独力では限界があまりにも身近に思えることを、勝負の世界に身を置いている者はわかっている。日向しかり、菅原しかり。哲学書をかじったモヤシより書物と無縁な運動部員のほうが存在論と密接に結びついている。ただし、イチローが「深みが出ない」と言っていたように、自分がしていることの意味にまで考えが及んでいない場合、根性論やセンス論の域、「サッ、スッ、ポン」の域を出ないだろう。

6ヶ月前 No.258

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ハイデガーはたしか拳闘選手(広げて言えばスポーツ選手だろう)が民族の代表として賞賛されたりすることから距離を取りつつ(『形而上学入門』)、しかし哲学者や詩人のみを推すのでもなく、国家建設に関わる者や芸術家にも一目を置いていたっけか(『芸術作品の根源』)。存在者ということで言えば、思慮を重んじる者だけが存在者に関わるわけではないのだから、この場合は哲学は、そうした者たちを発見することに寄与するもの、といったものになるだろう。

アルケーとしての〈驚き〉は哲学することへの門戸であり、かつ、そうでしかないーーとは言えないだろう。『サザエさん』の波平が、何の話だったか忘れたが、若いときに読んでいまいちわからなかったドストエフスキー『罪と罰』が最近になって読んでみるとよくわかるようになった、みたいなことを言っていた回があった。それがどういうことを意味するのかはさておき、そうしたことはある。

アロンに現象学を紹介されたサルトルの震撼の有名な逸話にせよ、枝を収集していた貧民にその収集を禁止する法律を作ったことに対するマルクスの批判にせよ、道具の立ち退きこそ道具の本領の発揮というハイデガーの卓見にせよ、ウィーナーによる大学批判にせよ、こうした事例はいくらでもあるが、なんにせよ、「見慣れている」はずのものの意味を「発見する」ということは、学問ないしは学知と呼ばれるものの醍醐味だ。

哲学や文学がなにか普遍的なことを語っているなら、それは日常茶飯事にも登場して当然のことだ。だから本を手に持っていないときの、普通に暮らしているときに見聞きしたり思ったりすることが、哲学書の理解を深めたりもする。となると、日常茶飯事の意味も読み込みたくもなる。日常には、日常にこそまだまだわからないことが沢山ある。

少し「人間関係」に関連するかのような話をしたが、「縁が大事だ」「あなたとの縁を大事に」とか、こんなのは盛んに言い立てるものではない。盛んに言ってくる人はどこか胡散臭い。そりゃあ大事っちゃ大事だろうし、言いたくもなるときはあるだろうが、頻繁に言ってくるのは変。「引き寄せ」とかなんとかもそう。あれもあれで「有名な」言葉のご多分に漏れず一人歩きしてしまってはいるんだろうけど。
私は徹頭徹尾、「人間関係の大切さ」とやらを前面に押し出してやまない思想が苦手だ。胡散臭いったらない。「心の闇」みたいな言葉もなんか変だし、そのうえ陳腐すぎて鼻につく。
小学6年ぐらいだったか、始業前に本を読んでたらクラスメイトが集まってきて鬱陶しかったっけな。授業中でも笑いをとったり昼休みになればドッチボールするために外に出たり、遠足の班決めで取り合いされる程度の人気だった私が休み時間とかに本を読んでいたから問題視もされなかったんだろうが(結局は教室では読書もしなくなったし)、こんだけ「アクティブラーニング」とかなんとか言われてる今日、休み時間に読書に耽るのはやっぱり要注意事項なんだろう。まるで人付き合いに積極的でなけりゃ異常だとか、本当は人付き合いをしたいのにそうはできずに読書したりしてんだからそういう子に手を差し伸べるべき、みたいな印象を受ける発言が多々ある。そんな発言があるなか、「人間関係の大切さ」をやたらに言う思想を訝しく思えない意味がわからない。なにが「個性尊重」だ、と輪にかけてと思う。

文学少女や文学少年ではない類いの人たちと話していて思うのは、話に「人間関係」じみたものが前面化するきらいがあるものの、その話ぶりには、そうした関係をしっかり受け止めたうえでの意見であるといった印象を受ける(掲示板の話ではない)。
文学少年や文学少女、ないしは哲学かじっただけの青少年はつまらない。文学少女や文学少年、さらには議論好きな人らも込みだが、ヘラヘラフワフワしてる。最近は哲学板もろくに見てないが、以前に眺めていて目に留まったのは、「他人の意見に対して考えこんでる反省的な素振りがないからあなたは哲学的じゃあない」という趣旨のレスだった。論外。まるで学校の「総合評価」みたいな振る舞いをしていなければ哲学的ではないと言っているわけだが、サロンじゃあるまいし、なにを知的ぶってんだか。
てじくんが妙に人気なのも、彼がいかにも他人の意見を「真摯に」受けとめているかのように書いているからだろうが、彼のそれは作為的にすぎる。「真摯に受け止めよう受け止めよう」という素振りが強すぎる。もっとも、イラついているのもわかるが。馬鹿だと思う。

『ハイキュー』の狂犬くんがろくに一つのチームに所属せず渡り歩いていることのお気楽さを指摘され、そのしばらく後に及川に「無慈悲な」トスを上げられたさいの緊張の場面、あれはなかなか手に汗握るものだった。この作者の書いていることは非常に重要。下手なブログや論文や掲示板の議論好きどもの話よりよっぽど穿っている。チームに所属することの重さを書いていたり(京谷)、チームワークは自分のやりたいことの制限のみを意味するのではない(音駒VS戸美)と書いていたり、指導してくれる人がいないつらさと焦燥(日向・菅原)だったり、戸美高校のマリーシアの肯定的な描写だったり、枚挙にいとまがない。

勝負の場に身を置くというのは非常に重要。それは〈終わり〉に接することだからだ。部活に所属してはいてもちゃらんぽらんな奴はいるが、それはどうでもよいとして、最後の大会というものが厳然としてある。そんな彼らに「優勝できなくても部活での経験は後々うんたらかんたら」は侮辱でしかないし、そうした思想を前提とした「勝つか負けるかは重要じゃない」といった発言も軽薄にすぎる。勝ちに拘って負けるからこそ、その敗北は重い。先の思想は敗北さえも侮辱している。けがらわしい思想だ。
どんな先人だか偉人だかが「勝敗は関係ない」とか言ったのか、そもそもそういうこと言った人がいるのかさえ知らないが、たいてい、優れた実績のある人がそう言っていたことを理由にアホな輩がそれをリプレイしてるに決まってる。
強いて言えば、勝負の場でふと勝負を忘れることが、勝負を左右することはたしかにある。サッカーのPKでのキーパーが、「止めるぞ〜勝つぞ〜」なんて念じていたって仕方がない。私は相手が蹴った瞬間に「動く」類いのキーパーだった(相手がデータを逆手にとることもありうる)。相手の顔なんか見ない(気迫で物怖じさせるなんて精神論はどうでもよい)。助走も見ない(目一杯に蹴る素振りからのフェイントもありうる)。インパクトの瞬間に足がどうボールに当たるか、ボールに足が当たるまでの足の軌道を見ていたものだ。県選抜や市選抜のメンバーの話ではその様子が「怖い(普段のプレーの精度の甲斐もあって)」らしかったから、なおさら、下手なテクニックは不可欠ではない。強者の思想だとしてもだ。
そのような意味では「勝ち負けに拘るな」とは言える。試合中に思いついた発想が形勢を左右することもありうるし、そうした発想を思いつきうるには勝ち負けばかり気にして現状の機微を見逃していては無理だろう。

他方、『ハイキュー』の戸美高校のプレーにおけるずる賢さは正当なことだ。勝つことに専念している。卑怯うんぬんを言うならその卑怯を物ともしない実力とやらで潰せばよいものを。音駒のクロが正しく喝破していたように、プレーのずる賢さが前面化して戸美のブロックアウトの巧さやサーブの強烈さなどを周りは忘却して、敗北の腹癒せに躍起になっていた。それに比べて戸美の気高さ、周りの雑音が聞こえはしていてもすべてを勝利に集約する強さ、じつに上等だ。『はじめの一歩』の鷹村VSイーグルの鷹村のえげつなさも思い出すな。

文学少女や文学少年や哲学かじり虫は、勝負とは無縁な温室もやし。頭でっかちですらない。ろくに頭も使ってないのに頭しか使ってないせいで自分は頭がいいと勘違いする馬鹿の一種。選抜合宿に無断参加したさいの日向(の知的な眼差しを書ける作者)のほうが比べようもなく賢い。

読むことや書くことには基本的に試合はないが(せいぜい何かの賞を受賞するか否かぐらいだろう)、日常の些細な出来事に対する思念から、「こんなことにも気づかなかったのか」と敗北の念を覚えることが「できる」。思想に練習と本番という区別はない。試合開始レース開始の合図もない。だから敗北の念を覚える契機はいつでもどこにでもありうる。そうしたことがわかるためには、〈古典〉と〈古典〉を解釈する一流の読者たちの書物(それ自体が一つの〈古典〉)を知ることが一番よい。

6ヶ月前 No.259

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=RAWCkodMG7

私にとって実証主義の致命的なところは、とくにそれと知らずに実証主義や反証主義を素朴に使っているだけの人の致命的なところは、つまらないところ。これに尽きる。実証主義者らの本はまだ読み応えがあるけれど。
読んでて楽しく感じないと言うより、認識が浅く狭い。タバコの話なんかせいぜい禁煙の賛否に終始しているが、それも素朴にすぎる。「外国は(先進諸国は)」とか言ってるが、イギリスやフランスもちょっと富裕層の圏域から離れたら酷いもんだとすぐにわかるのに、まるで「日本通」の外国人の誤解と同レベルな誤解と同様の知識から「先進諸国は」とか言ってる。
さらにタバコの税収を度外視して、喫煙への否定的な制度がタバコ購入層を減らしてタバコの税収が下がったら他の税金を上げる大義名分を与えることにもなるわけだが、その税金が自分たちも支払わざるをえない税金でありうるということにまで、ろくに考えが至ってない。だから私は官僚や議員を馬鹿扱いして憚りない人の話は話半分しか聞いてない。たしかに議員は私がニュースで見るかぎりでも馬鹿なこともしているが、馬鹿扱いして憚りない人の意見ときたら、「こんな馬鹿な人たちが馬鹿扱いするってことは逆にこの人らが言うほど官僚や議員は馬鹿じゃないんじゃないか?」と思えて仕方ない。
さらには趣味の話になって、危害原理とかもちだすのもわかりきってるが、基本的には趣味と言いさえすれば批判を免れると見なされている。ここがつまらない。趣味を批判することは可能か、というところまでいかないからだ。せいぜい危害原理をもちだすぐらい。
そんなことよりも、タバコを健康だとか迷惑だとかそんな話題から離れて語られることがほとんどない。
もはやだいぶガタが来てしまっているが、かなり旧式のCDコンポが自宅にある。CDをセットし、読み込みのためにCDが回転する微かな音がして、一拍を置いて、音楽が流れ出す。ああいう微妙な雰囲気が好きだ。ウォークマンによって外出時に歩きながら音楽を聞くのは珍しくなくなったが、あの微妙な雰囲気はウォークマンにはない。まるで外出しつつ内閉化するための手段になってさえいるように思う。音楽を聞くということが世俗化したのだろうか、世俗化と言ってよければだが。
と言うより、TRPGとはもともとは「実卓・オフラインセッション」でしかなかったのに、スカイプやチャットなどのオンラインセッションをはじめ、動画投稿サイトで妄想卓という言葉まで出てきたことによってわざわざ「実卓」とか「オフラインセッション」という呼称をせざるをえなくなったーーそんな事情とこれは同種だろう。世俗化と言うことで、音楽を聞くことを不相応に高尚に言っているのではない。

書いていてついあの機械音?を聞きたくなったので先ほど五分ほどコンポにCDをセットし直しつづけていまのんびりとマッシヴアタックのアルバムを聞いている。もう十何年の付き合いだし、親のお下がりだがなかなか捨てられない。親のお下がりだからかな。13年前に買ってもらったMDウォークマンのほうはいまだ8割がた健在だ。

さて、音楽はかつて自宅や室内で聞くものでしかなく、わりと最近の話でも、自宅でCDをセットして読み込んで音楽が流れ出すまでのあの微妙な時間はもっと身近だったはずだ。いまどきはパソコンとかに音楽データを入れちゃうんだっけか。便利だし凄いと思うが、好きにはなれんねぇ、どうも。俺はやっぱりあの微妙な時間が好きだ。
タバコの話からぶっ飛んだが、以上の文章に思うところある人からすれば、喫煙のさいの所作を、オンオフの儀式的な振る舞いとしても読み取れるようになっていることと思う。喫煙の所作とは当たり前ながら、タバコを取り出し、口に咥え、火を着け、吸う、その具体的な行為のことを喫煙者たる自身の視界をイメージしつつ書いている。
喫煙すること、タバコというものに立ち還っていない発言はなんら具体的ではない。
タバコに火を着け、喫煙し、煙の揺蕩う姿を眺めるのは休憩時間の特権だ。タバコを灰皿に擦り消すのはまさに休憩の終わりを意味する。私は与えられた休憩時間のうちいくらかをタバコに当ているが、じつに休憩してる感がある。タバコ一本を吸い終わるのは約10分だが、いちいち時計は見ない。目覚ましに起こされる朝が不快なように、時計と無縁な時間が私のタバコ休憩だ。自宅ではアイコスを吸おうかと渋々ながら検討しているが、紙巻タバコはよっぽど馬鹿な値段にならないかぎり、あるいはアイコスを吸いはじめたことで合わなくなったりしないかぎり、やめはしない。嫌煙の人への反論から自由なタバコ論を打てないでなにが愛煙者か。

6ヶ月前 No.260

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=3PdnMelSEl

形相とか

「真理」と「確実性」とを固く結びつけておかないと気がすまない人はたくさんいる。トートロジーを「真理」と呼ぶのは「真理値」を前提にしてのことだが、これもトートロジーの「真理値」が「確実に1である」ことから来ている。
「怒りは復讐の感情である」という文の意味の真偽はさておき、この非-物理主義的な文の意味はよくわかるし、たとえ怒りについてまだまだ言えることがあるとしても、正しそうに思える。議論好きな連中の反論はご存知の通りだ。すなわち、「怒りを覚えた人が復讐するとはかぎらない」うんぬん。くっだらねーったらない。怒りを覚え、復讐を意志するとして、その怒りから復讐行為の実行に至るまでは時間的な隔たりがある。そのあいだの事情を考慮すれば、「怒りは復讐の感情であるが、怒りを覚えた人が必ず復讐するわけではない」となるだけ。反論になってないわけだ。
たいていは「反証不可能」がうんぬんとか言い出すわけだが、自分が反論できないからってなにを拗ねてんだと思う。「どのタバコも重曹ではない」に対する反証命題は「このタバコは重曹である」といったものだが、この反証が実現することはない。しかし自分が反証を実現しえないからと言って「どのタバコも重曹ではない」が誤りまたはナンセンスになるかと言えばそうではない。依然、タバコは重曹じゃあない。正しいじゃないか。ナンセンスでもないし、トートロジーでもない。

「概念」や「種」や「形相」というものは「「主観」による「構成物」」としてたいていは見なされている。「概念」や「形相」が一般的なものであるのに対して、このタバコやこの本は個体的なものと言われ、本一般やタバコ一般といった「概念」は、「主観」に作り上げられた二次的なものとして位置づけられている。素朴な唯名論だ。
しかし「このタバコ」と言いうるためには、「タバコというもの」をすでに理解していなければならないし、「タバコであること」は感覚の域を越えている。「タバコであること」や「タバコがあること」は「このタバコ」という個体的なものではない。しかし個体的なものを「〜である」と言うことになんの問題もない。
かりに私以外の人間がすべて死滅し、私だけが残り、いまだ私が見たこともない一匹の虫を見つけ、捕獲したとする。私がその一匹の虫のほかにそれと「同種」の他の個体を見なくとも、その虫は「昆虫の一種」であると判断できるだろう。もし本当は昆虫ではなく甲殻類の一種に位置づけるのが正しいと後に判明しうるとしても、この虫をなんらかの種に位置づけることができなくなるわけではない。言い換えればこの個体は種という一般的なものと完全に乖離しているわけではない。
この反実仮想に対しては、個体への対峙の現場からその個体の概念を作り出す概念化がすでに私の「習慣」になっているだけだと指摘する向きもあるだろう。そうして話は再び「「概念」は「主観」による構成物である」という話題へ引き戻される。

「概念」を「主観」による構成物として見なす思想が妥当に思う動機の一つは、自分が判断を誤りうるという可能性の根拠としてその思想が相応しいと思えることだ。そうしてカントの世俗化された(二重の意味で)思想よろしく、心理学または脳の生理学へと関心は移行する。そこでは対象が何であるかよりも、しかじかの刺激を与えるとうまうまの出力が観察されるという入出力の関係が前面化する。さらにその関係の記述は統計学や関数表現などいかにも「厳密な方法」によって為されるため、もはや「説得力」うんぬんを問われないほど「科学」は信用されている。

「概念・形相・種」などと呼ばれる一般的なものは、「本来は」個体と無縁だが、「主観」は個体への対峙の現場からその個体が属するとされる「種」や「概念」を作り出す(あるいは「主観」のなかに作り出される)ーーと言うのが素朴な唯名論者だ。この思想は個体が知覚されてあるさいの「確実さ」に相応しく思えるし、「概念」という知覚に現前していないものが「不確か」に思える心情にも相応しく思える。
しかし、その個体「がある」こと、その個体が黄色「である」こと、これらは目や鼻や耳や肌や口では知覚されていない。それにも関わらず、この「がある」「である」なしには唯名論者も様々な個体を個体「である」と見なせはしないし、「一般的なものはない(個体しか存在しない)」とも見なせない。

もし端的に「知覚されてある」ものをのみ重視するなら、一軒の家の玄関口に立っているとき、なぜこの玄関を精巧なハリボテかなにかだとは見なさず、家として、そこに人が住んでいるところとして見なすことができるのか。そうしたことはいちいち意識されていないし、視界にリビングや土間や靴箱は現れていないが、しかしすでに家として現れている。「自然」には我々を欺く意志はないとウィーナーは言ったが、それはそのとおりで、あらゆるものは、己に即して己を示すpheino、という現象phenomenonの形式に従っている。現象はその「後ろに」その本体とやらを隠しているものではない。「背後世界という倒錯」はこの場合、私に言わせれば、自分が嘘をつくことができることに由来した自然の擬人化だ。自分が相手の目を誤魔化したり注意を逸らしたりできるように、自然も「現象(仮象)」によって変装して正体を現しはしない、とでも言うのだろうか。

しかしそれならなぜ人間は間違うことが「できる」のか、となると、素朴だが、自分が生きのびるために事物をその目的に適合させようとするからである、とでもなるか。

フロイトの糸巻き遊びは、親が自宅を留守にしたという子どもにとっての不慮の災害を、糸巻きを母に見たてて糸巻き=母の去来を意のままにする遊びだが、このように遊びは現実に対する積極的な解釈である。冬の白い吐息を紫煙に見たててタバコを吸う真似のように、遊びは「現実の模倣」として、なんら生産的ではないものと見なされており、せいぜいのところ「子どものための教育的価値」があるぐらいに見なされているが、そんなことはないと安倍工房は言う(『砂漠の思想』、「ミュージカルスの反省」)。
「現実を単純なルールのなかに閉じ込め、自由に操れるものにすることで、主体の優位を確保しようという、きわめて健康な精神の現れなのである」(同上)
それはすでに幼児が「外部があること」を理解していることを意味するが、さしあたりそれは遊びを通した「外部があること」への否定として現れる、とでもなるだろう。ニコニコ動画のTRPG動画、たとえばクトゥルフの場合、バッドエンドやバッドでもないエンディングに対して否定的な意見をしているコメントが散見されたのが気に留まっていたが、あれはつまり、プレイヤーならびにプレイヤーキャラクターが事件を完全解決できないことに対する不満、遊びのなかにそうした「現実」じみたものが入り込んでいると解釈するからこその否定的な反応だったわけだ。

私はつくづく思うが、タバコを吸うことの意味にしてもただタバコを吸っているときの在り方に基づいてじっくり考えさえすればニコチンがどうたら健康がどうたら以上のことを正しく言えるのに、なぜ統計やアンケート結果を用いた「厳密な方法」とやらに依拠した「科学」に拘る人が多いのか、さっぱりわからない。
もちろん、顕微鏡や望遠鏡をはじめ、様々な発明品によって見える範囲は拡大した。それによって色んなことができるようにもなった。しかしそんなもんなくても、「グループワークとかいわゆるスクールカーストで下位の子どもにとっちゃ地獄だし、下位ではない子どもでも、批判したりすると授業後での自分の立ち位置に響くんだからそれを懸念して周りの出方を見るとかいう小賢しさが前面化する」なんていう当たり前のことから「アクティブラーニング」とやらを批判できたりする。目上は死んでいくし目下は勝手に増えていくことをもとに、脳がー脳がーなんて抽象的な話を抜きに、ただただ行く年来る年を経ているだけでは耄碌すると正しく言える。脳みそが「健康」だろうが中3になっていちびり出すガキみたいに馬鹿はたくさんいるんだから。
巨大で最新式の観察機器はもとより、統計を取るためのアンケート調査にしても、有効回答と無効回答の選り分けの手間暇や募集できる人員の数なども金ありきだ。双子の研究のように何年にもわたって追跡調査をするなんて真似は私には不可能だ。しかもその追跡調査でさえ物を言うのは最終的にはデータの解釈なんだから、金ありきではない仕方で可能な何かに賭けるのは当然だ。
映画の広告ポスターなんかたいていよく出来ているように見えるのに(最近の『デスノート』のポスターは女がだらしなさすぎて白衣が滑稽だったし、男3人のサイズと女のサイズからして合成感が出過ぎで目に煩わしかったり、めちゃくちゃだったが)、映画の出来は散々みたいなことはよくある。広告は実体からまったく乖離した稀有な「仮象」ではないか、もはや「仮象」とさえ呼べない虚像ではないか、という問いを引き起こす。「仮象」とは言うが、くだらない認識論者は「仮象」をより深く捉えようとはしない。ちょうど方法的懐疑の最中のデカルトにとっての「感覚」のように、つまり諸々の「感覚」の違いはどうでもよいものとされているように、認識論者や不可知論者にとってこそ「仮象」というのは実はどうでもよいわけだ。
などなど、いくらでも日常には面白そうなものが沢山ある。ニコニコ動画のたかだか40文字ぐらいのコメントに対してさえ「長い」「長文うざい」とコメントがついていたりするぐらいだが(他方「ぎゃああry」とかはあまり問題視されない)、長文の長というのは文字数の数量を意味するのではないとよくわかる。感情は「方法の厳密さ」よりよっぽど射程が広い。

さて、広告やタバコや車などは、私を欺く意志をもっておらず、そこに在る(現象してある)ことにおいて、自らを自らに即して語っているわけだが、それならなぜ人間は誤りうるのかと言えば、生存上の必要から、といったものだった。粗悪なヒューマニストが言うのとは違い、私は、生きていることこそが、現象している現象に耳を傾けることを阻害していると言う。生きていなければ思考も経験もできないと言って思考や経験を生に従属させようとするヒューマニストは、私にとって、ダイアモンドも炭も要素としては炭素だとか言ってダイアモンドの意味などを問わない類いの阿呆と同類だ。

6ヶ月前 No.261

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6ヶ月前 No.262

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「自己保存的な」、あるいは「ホメオスタシス」的な在り方は、解釈の強化や解釈の創造(破壊)ではなく解釈の維持に努めている。

さておき、先の粗雑な「自然」解釈では、奇形的なものが「自然」から除外されていた。「普通ってなんだ?」みたいな問いを真面目ぶって問う素ぶりを見せて相対主義(むしろ水平主義)に話を落ち着かせようとしても、奇形児は奇形だし、エレファントマンは見世物になる。ついでに言うと人権団体みたいに見世物にするなとか言ってるわけじゃない。案外、見世物小屋は奇形が行き着いて金も稼げる場所で、面倒見のいい人がいることもありうるからだ。風俗などと同様、たいていの人権好きにとってそれは労働ではなく、搾取でしかない。むしろ労働として認め、労働としての規制を行うほうがよっぽどいいだろう。

奇形(人間からすりゃカマドウマも奇形だ)もまた生命体ではあるが、しかしこの生命体は、死神や骸骨や幽霊といういかにも死に関係しそうなものよりずっと異様なものとして現れる。 多かれ少なかれ人間は、生命については美しいとか秩序立っているとか尊いだとかいう意見に馴染んでいるものだが、奇形の生命体はおぞましい。
奇形はよい意味では語られない。片手落ち、頭でっかち、タマ無し、蛇足、骨なし、いくらか関連する言葉を挙げたが、これら身体的な比喩の意味は? 正常かつ模範的な身体像である。そのうちのどこかが欠けている、または過剰であると思われるものに対して、よくあるカリカチュアのように頭のデカい人物画が書かれたりするわけだ。
その正常かつ模範的な身体像は、平均値、平均的なものだと私は見なしている。平均であって、イデア的なものではない。平均値とは言っても計算で算出されたものではない。

「世界一 デブ」で画像検索してみたが、もはや身体と言うより肉塊と言ってよいほどのあの姿は、もはや身体の消失ではないか。世界一のデブではなくても、首がなくなり、腕や脚の関節が関節として見えなくなったりするが、あれはもはや五体という言葉さえ似つかわしくなくなっている。どこか恐ろしささえ覚える。身体の消失という言葉はなんだか恐ろしいようなその気分から出てきたものだが、とりあえず面白い言葉だと自賛しておく。

生きているというのはじつに面倒なものだ。「転向」や自分の価値観だかなんだかの延命や学問における不正やなんやの原因だとしても、なんとか遣り繰りしていかねば仕方のないものだが、しかし面倒なものは面倒だ。そこまで否定するのはおかしい。生理痛の酷い者からするとこんなもんが「生」理だなんて生とかクソったれだ、みたいな考えも浮かびうるだろうし、住民税だとか生活することに金が要るとかお笑い種だ、ともなりうる。容姿のよいケンちゃん(仮名。私の知り合いだ)でさえ夜道で前を歩いていた女が走って逃げたことに憤慨していたが、その憤慨を可能にする女の振る舞いへの解釈も尤もだし、その女が勘違いしているとは言えど夜道で怖くて走ったのもわかる。偉そうに生きることへの否定的な態度を叱る気にはなれやしない。
生きているかぎりは根本的にみんな馬鹿だ。〈馬鹿〉を分母に馬鹿と非馬鹿がいるのみ。「忘れることができるから生きていけるんだ」ってのはそういうこと。様々な失敗や屈辱が当時のままの生彩をもって現在に大挙したら間違いなく死ぬ。

「実生活」とか「実体験」とか言うが、そんなものに「実」をつける意味はない。「実体験」は存在しない。

さておき、しかし、どうやら生きていても正しいことは言える。それが可能なのはなぜか。〈馬鹿〉であるからだ。ニーチェ風に言えば、「過去」への怨念を意志は忘却「できる」からだ。「過去」の出来事をーー生まれる前のそれであれ生まれてからのそれであれーー考えないということではない。
「世界平和」というのはなんだか良さげにも思えるし、戦争は好ましくはない。しかし、どうも「世界平和」を言っている人たちが胡散臭く思えるときがある。そこに立脚して考えると、戦争が起きていないうえに起こりえない状況でも戦争が可能である状況よりずっと陰惨な事態がありうると思える可能性がある。それは以前に述べたが、あれを翻訳するなら、戦争の対義語は征服である、となる。相手が己に立ち向かう可能性を根本から奪ってしまうことは(その最高の姿が各人の思想すら完全に支配下に置かれたいわゆるディストピアだろう)あまりに暴力的すぎて、もはや恐怖政治や殴打などのありきたりな暴力とは似ても似つかない。
小学校で『はだしのゲン』を見せられたり、中絶に関する動画(胎児が「逃げる」姿)を見せられたり、そのほか様々な事態からいつしか戦争や暴力の惨状を脊髄反射的に否定するようにもなる。が、それを忘却することができる。「過去」や「未来」への現在の態度が揺り動かされる。それが昆虫や動物や人工知能とは異なるところだ。クモが巣を張る能力も渡り鳥の帰巣もすごいものだが、人間の場合、親や地域ではなく、図書館という様々な時代の様々な地域の人間の所産が存在するし、種村孝弘『アナクロニズム』みたいな、まずこんなこと研究する奴は近所にはいないと言えるようなものがあったりする(これは大阪梅田の古書店で買ったものだが)。大学や学校とはもともと、「社会」や「処世術」から一線を画した空間だ。研究者に対する浮世離れした印象は、文字通りに生きた化石かなにかのように、同じ時代に生きていながら自分とは異なる世界観を有していることにある。生きた化石と言うとなんだが。

いまや朝から晩まで他人と関わりつづけるのが珍しくなくなってるようだし、ちょっと連絡を取らないと「最近あのコ付き合いワルい」みたいになるんだから大変なことだと思う。生活から距離を取れないわけだから。そらTRPGも流行るってもんだ。ぼんやりしているときはろくに「自己」なんて現在化していないが(眠る寸前や起きた直後の微睡みとか)、いまや絶えず「自己」であることを煽られている。しかも他人とやりとりしていないと不安になるという始末。そして他人とやりとりすることへの疲労。大変なこった。

6ヶ月前 No.263

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=eGyshOj2Ms

『ハガネオーケストラ』はじんわり伸びるだろうなぁ。難易度はほどほどだし主要キャラ描いてる絵師もSEもいい感じだし。ガチャも普通にレアキャラが出る。本サービス始まったからしばらくすると広告バナーにも出るかもだ。

サービス開始から間もないということもあるだろうが、面白いのは、ゲームがどんどん仕上がっていく過程を楽しめるところだ。迷彩カラースプレーや火器製作10連とかバグだとか、新機能の実装や特殊能力の下方および上方修正とか、色々ある。10年ぐらいろくにゲームやってなかったが、本当、ずいぶん様変わりしたんだなぁ。
こういう発表仕方の強味は、そのまんまだが、プレステとかの家庭用ゲームソフトなどに見られる製作とは異なり、ゲームが完成していなくても販売できるところだろう。本サービス開始以前に発表することで、ダウンロード数やアイテム等の購入の具合から、本サービスを開始するか否かの判断ができる。本サービスにこぎつけられなくてコケる場合はあっても大コケはないし、コケた場合でも或る程度はプレイヤーのアイテム購入によってダメージを緩和できもする。
新規参入の敷居が下がったわけだ。もっとも、想定以上にバグが多かったりするとそのフォローが必要になり、そのフォローのための残業に対する手当てが不十分だったりすると開発者数が減って回らなくなり、早々に撤退という事態もあるにはあるはず。それを思うとやはりなかなかシビアなんだろう。

私にとってこれまた意外だったのが、キャラを描く人が複数人いるということだ。色んな絵柄のキャラ絵がある。『クロノクロス』とか『ヴァルキリープロファイル』とか『グランディア』とか『腐り姫』とか、私にとって馴染み深い二昔前くらいのゲームからは考えられないが、一人の絵師が担当するのではないぶん、一人の絵師の負担が減り、外注のリスク(絵師にかぎらないが製作に関わる者がトンズラこくという事態)も少なくなる。新米絵師にとっても嬉しいことだろうし、担当する仕事量が少ないゆえにギャラが少なくなっても、ゲームが当たりさえすれば自分の絵を見る人が増える、すなわち宣伝にもなるんたから、そう悪いことでもない。
同人誌即売会における二次創作物はグレーゾーンに当たるだろうが、その二次創作物によって商業誌デビューのきっかけを得るとか、有望な漫画家や絵師を発掘できる鉱山としての側面もあるようだから、商業誌に関わる者からしてもグレーゾーンに留めておきたいということはあるだろう。本サービス開始に至らず撤退、という問題や、それに伴うギャラの未払いからの雲隠れ、なんて問題もありうるが、二次創作同人誌の販売というグレーゾーンの二面性のように、なかなか簡単な話ではない。
新堂エルはアメリカ育ちで日本に漫画を描くためにやってきたらしいが、そのアメリカでの漫画事情はまだまだ厳しいらしい。『ガルパン』の劇場版でロシア人声優が出演していたり、他の作品でも外国語指導で活躍しているようだ。ちょぼらうにょぽみ『あいまいみー』のOPには演奏にアメリカ人が参加していたりと、これまた暫く見てなかったあいだにアニメもずいぶん面白いことになっている。

なんだっけか、『ハガオケ』の話だった。他のゲームは『にゃんこ大戦争』ぐらいしかやったことないし今はやってないからあまりわからないが。
『ハガオケ』はだいぶ先のことだと思うが、『にゃんこ大戦争』はもはや頭打ちになってる感がある。特定の編成の特殊効果とか新キャラとかコラボイベントだとか色々とやっていたが、終わりがまったく見えない。『ハガオケ』はまだ未登場の拠点がたくさんあったりストーリーもあるぶん終わりが見える。これがおそらくはアプリゲームの、プレステなどのあらかじめ完成したソフトを出すのとは異なってとりあえずサービスを開始できるゲームの、問題点と言えば言えるのかもしれない。
つまりつぎのソフトの開発への移行の問題だ。『にゃんこ大戦争』はとくにストーリーがないぶんどこまでもステージを出していけるが、サポートしつつサービス提供をせざるをえない。完成品を出した場合とは異なって、つぎのソフトの企画と開発をサポートとサービスに並行して取り組まねばならない。従業員を増やして企画部を強化するにしても、外注するにしても、いつまでサービスを提供しつづけるのか、という問題は残る。
アプリのゲームにはそういう寂しさがある。家庭用ゲーム機はあらかじめ完結しているが、サービスを提供しつづけなければならない作品は、『けものフレンズ』のゲームがそうであるようにサービス終了によってプレイが不可能になる。カセットやディスクをハードにセットするゲームで持ち運びできるのはゲームボーイとかだが、スマホのアプリゲームの意味とはなにか。

課金システムはよく出来たものだと改めて思う。一つのタイトルで一人の客からときには10万や50万の売り上げを得ることができる。売り上げからどれだけの割合が利益になるのかわからないから私にはソフトやカセットの割合と単純に比較はできないが、これだけ客単価は上がっていておかしいと思う。もちろんゲームへの課金が販売者の収入の前提だから収入のある大人が基本的な狙い目になる。課金ユーザーが減らないならそれだけ次のタイトルを出すさいのデメリットの危険を犯す要もなくなるから、本当、シンプルかつよいシステムだ。
中古やレンタルがないというのも魅力だ。中古販売ではメーカーに利益が入らなかったはずだが、アプリゲームでは中古販売がそもそも存在しない。また、ソフトやカセットの貸し借りや、『ゴールデンアイ』とか『スマブラ』とか『ボンバーマン』などのソフトをもってる知り合いの家に遊びにいくということもよくあったが、スマホアプリのゲームをしたいがためにスマホを貸してもらうというのはなかなかないだろう。
買いに行くための外出の要もなくなるし、データやアプリにはディスクやカセットのような空間的な占有もない。もちろんカセットにフーフーしたりする要もない。物質的な制約からの解放という近代化の特徴をスマホアプリのゲームはもっている。もっとも、カセットやソフトの場合だとそれらの所有権は基本的に購入者にあるとされるが、課金はソフトの購入ではないし、サービスの停止がなされたらプレイできなくなる。これがかつてのゲームの購入よりゲームへの課金が非難されやすいことの根拠だ。とくに何万何十万と課金してもお目当てのキャラが出ないと憤慨することは、カセットやディスクと違い、ゲームが開発者の手から離れていないことを意味する。いわばその憤慨は乞食的な憤慨。或る意味、「商品から貨幣への命がけの飛躍(マルクスの言うかぎりでの)」をするのはもはや製作者の商品ではなく消費者の所持金であるという事態がここにはあるのではないか。

ずいぶん辺鄙なとこに来てしまった。

6ヶ月前 No.264

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=eGyshOj2Ms

嗅覚と触覚に芸術はないのかと、芸術論に関連する思想を見聞きするたびに思う。

奇形の生命体と言うことでさらに忘却されるのは、そのジトッとした体表である。『インディジョーンズ 最後の聖戦』の床を這い回る虫のシーンは今でも覚えているが、まったくもってこの生に忠実な虫の姿ときたら気持ち悪い。高等動物の高等さは、生からの離反の度合いを意味するのではないか。
カマドウマからファブリーズの香りがしてもカマドウマは気持ち悪いに違いないが、ダンゴムシやチョウチョはそうではない。カマドウマはダンゴムシやチョウチョに比べて見慣れていないからかもしれないが、触ったときの感触を、カマドウマを見たときにすでに先取してしまっているからだ。たとえ実際に触ったときに異なる感想(思ったよりマシ、思ったよりひどいなど)をもちうるとは言えど、そうである。
認識論者は視覚や聴覚を好むが(くだらない「クオリア」のくだらない例示からわかることだ)、奇形の生命体の気持ち悪さはその形にあるのではなく、少なくとも、それだけではなく、「過度の」生々しさ。
墓場は町の中心にはなく、街や都市から墓場は遠ざけられるものだが、さらにその墓場が高層ビルに吸収された墓ビルなんてのも出来たりしているらしい。土葬にしろなんにしろ、死や死体は基本的に遠ざけられるものだが、臭いというのもそれに当たる。昔からお香や香水はあるが、その素朴な意味は臭いを消すこと、臭いを隠すことである。生き物は基本的に臭いものだ。血もそうだし、汗や尿や皮脂など分泌されるものもあれば、草や泥などで汚れることでも臭くなる。
とすると、香水や制汗スプレーや洗剤や柔軟剤といったものは、生活から生々しさを払拭していると言える。生死ともに遠ざけられているわけだ。そんな近代的な「生活」からすると、素朴な発想だが、スラムや地下などの汚くジメジメしたところに「人間の本当の姿」などといったものがあると見なす人がけっこう存在するだろう。
むしろこうだ。奇形の生き物の気持ち悪さは、その形が変わっているからではなく、その変わった形にあるのではなく、その形がはっきりと現している、肌に触れたときの触感である。その意味では人間はたいてい「共感覚」だ。いわゆる「共感覚」はそのレアケースといったものにすぎない。


こういうのを応用と言う。

6ヶ月前 No.265

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=mdtjLNZb79

平均はけっして「正常」を意味しはしない。そもそも平均がくだらない。

「正常」と「異常」に関しては過剰と欠乏とが取り沙汰される。或る状態よりなにがしかの機能が過剰であるまたは欠乏している状態、それが「異常」であり、「病気」である、というように。その基準となる「或る状態」も実に不明瞭なものだし、ここからはたいてい健康と病気は程度差にすぎないと見なされることになる。生理から質的に異なっている病理というものは存在しないともなるだろう。
この考えに対してウィーナーが好きそうな比喩を使うなら、アウグスティヌス的な見方は過剰と欠乏という程度差として病気を捉える、となるだろう。

人間の出血はたいてい止まるものだが、この自然的な止血作用が働かない類いの人は存在する。この症状はなんら「物理的には」おかしくない。尿を排泄できないこと、それも「物理的には」単なる一つの事象にすぎない。しかしそれらは病気であって、その症状の消滅や弱体化が求められるものである。かつてはまるで万能の治療法のごとしだった瀉血はそれらに対する治療法にはなりえない。

もし本当に物理学主義者であるならば、正常と異常も、死と生も、健康と病気も、存在しない。石は病気になりえず、植物をはじめ生物は病気になりえるが、しかしこれは石が転がるのと本質的に差はない「物理現象」にすぎない。すべてが同質の現象であり、ただ物理現象ないしは物的現象といった呼称のみが現象と呼ばれるものとなる。つまり「物理的現象」という言葉は冗漫なものとなる。

なんもかんも程度問題にするのが機能主義。

色に関する表現を数値化(数量化)するにしても、グラデーションがどうたらを言おうと、赤は青ではないし黒は白ではない。赤やピンクや紫や橙などなど異なる色が与えられており、それに対して数量的な表現が為されるわけだが、それによって色の差異がなくなるわけではない。当たり前のことだ。鳥は木の枝で一息つくのであって、セルロースのうえで一息つくのではない。量とは「否定」された質(ヘーゲル)である。しかしその「否定」により質が抹殺されるわけではないのにそうであるかのように語るのがいわば科学主義。質の数量化は質の無化であるならばもはやその数値は色とはまったく無縁のものとなるわけだが、そんなことはありえない。それにもかかわらず数量へ還元されたものが「基底的なもの」として存在論的に上位に置かれるのはなぜか。忘却のゆえ。
病気に関して言えば、患者が自らの身体的状態について誤った自己診断を下すことが多いとされるのは、『本当は怖い家庭の医学』で紹介されるエピソードのなかにたびたび現れる誤った自己診断のとおり、一つの事実である。虫歯があっても虫歯による日常生活への支障が感じられなければ、一つの生理的な疾患ではあるが、しかし病理的なものではない。そもそもなぜ病気という言葉があるのか。誰であれ、痛みであれなんであれ、「どうもおかしい」と思わざるをえなくする不調を覚えるからである。それがパソロジーの意味するところだろう。そうした不調の訴えとその訴えを可能にしている事態への試行錯誤に関する知識のゆえに、医師は今日、適切に患者の自己診断を誤っていると指摘しうる。その意味で医師は〈先生〉なわけだ。
重要なのは、患者の言葉。患者が症状に対して適切な言葉遣いができるか否か。それは治療に際してはレントゲン写真などよりはるかに重要である。
生理学的に健全な身体へ患者の身体を変化させることが治療ではないのは、ペースメーカーやボルトの埋め込みなどから明らかだ。それは一つの異物混入であり、「異常」であるが、健康とは器官が沈黙していることであるならば(痛みや苦しみとは器官の雑音であるならば)、異物が混入している人間のこの異常事態はなんら病気ではない。身体にボルトが埋め込まれている人間は平均から逸脱しているという意味で異常だが、それは病気を意味しない。虫歯になったことがある人間が多数を占める国では虫歯は「異常」ではないが、しかし当然ながら虫歯の痛みや違和感を毎時毎分でなくともたびたび意識せざるをえなくなる状態は、「健康」とは言えない。

ここで「クオリア」なんていう「主観」の神秘化のための道具概念はどうでもよい。私はそんなことは話していない。もし「主観」をこのように神秘化しようとするなら、同じ前提から「サトラレ」よろしく他人が実は自分の「脳内言語」を聞き取っているがその素ぶりを自分に見せないでくれているという思想が出てきておかしくはない。漏洩妄想だったか筒抜け妄想だったか。少なくともこの思考漏洩の妄想はそうした発想が可能である世界があることを告げているし、他ならぬ「クオリア」うんぬんから言えることだ。つまり、「クオリア」とか暢気に言ってる人はろくに私秘性について考えてはいない。

患者の言葉の問題は、インフォームドコンセントという、患者と医師の関係を水平に近づける思想と無縁な問題ではない。フロイトを引き合いに出すまでもなく、患者が嘘をついたり非協力的だったりするのは珍しいことではない。『ナースのお仕事』で主人公から水をとらないよう指示された入院患者の母親が「水はダメらしいから牛乳を買ってきたよ」なんて言って入院患者の男子に与え、それで手術を中断せざるを得なくなった一幕があったはずだ。かりに主人公の不手際を言うにしても、患者側のこの非協力的な態度は医療側からしたら殺したくもなる態度だ。誇張ではなく、多額の賠償を請求されうるからだ。そのことは交通事故における歩行者と自動車の関係を想起しさえすればよい。自転車を運転している奴に殺意を覚えたことのない運転手は少ないだろう。
同意だの自己決定権だの言って経済的な取引相手であるかのように患者を位置づけるなら、嘘をついたり曲解したりする患者は二度と取り引きするべきではない当たり屋かなにかでしかない。しかし、治療に重要なのは、症状や薬の服用後の容態の変化に関する患者の適切な言葉遣いである。ここで言う言葉遣いとは営業トーク的なそれではない。容態に関する具体的な言明である。患者の言葉に全面的な依拠をしないで済む診断方法の研究は重要だが、治療という領域で言えば、器官の異常ではなくその人の体感が重要。病気になるのは人間であって、器官ではない。器官の変調が病気として現れうるにすぎない。体温が36.7度だろうと平熱が低けりゃ負担になりうるように、多数の人間の器官の状態から抽出された、器官の平均的な状態を前提にしたかぎりでの異常な状態がすなわち病気である、というわけではない。病気というのは誰かが何かおかしいと不調を覚えたことに由来するのであって、それに対する適切な言葉遣いはいまなお医療にとって重要なもの。症状という人間ではないものに言及するさいの言葉遣いは、おそらく「表現力」とか「コミュニケーション能力」とか暢気に言っている人間がもっとも苦手なものだろう。
医者は自分が専門とする病気にたいていは罹ったことのないものだから、なおさら、患者の言葉は重要。患者は痛みなどの症状により睡眠や休息をとれなくなり、それがさらに病気を悪化しうるが、その痛みがどんなときにどんな風に酷くなるかを適切に言えたなら、その発言は患者自身にもその病気に罹った他の患者にも寄与する発言にちがいない。治療における大麻の合法化は、とくに痛みや苦しみで患者の意気を削ぐ病気に対して有効な手段になりうる。器官の異常よりも、患者の睡眠や休息が阻害されつづけることこそ患者を息切れさせてしまうのだから、かりに大麻ではなくても、休息をとることができるようにすることが治療にとって重要。治療はサビ落としや油差しや部品の交換ではない。ワトソンは重大な発明だが、それでも依然として嘘をつく患者の存在や、患者の家族の支えや、患者による容態報告の文体ないしは話体を考慮せざるをえない。

5ヶ月前 No.266

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=mdtjLNZb79

実験室はそれはそれで一つの「環境」ではあるが、そこはけっして海でもないし自室でもない。ウサギの目に薬液を投与しその薬液が人体にとって危険になりうるかを探る動物実験があるとき、この実験ではあたり「環境」の差異は考慮しないで済むようにも思われるが、こと心理的な実験になるとそうもいかない。

心理学はもともとが哲学の一部であり、しかもそのさい魂(プシュケー)に関する独立した哲学体系はなく、また、「形而上学」にのみ心理学が属していたわけでもなく、アリストテレスの時代からして生命ある物体の形相として論じられていた。
アリストテレスの『霊魂論』は自然学の著作である。そこでは動物や人間とは異なるものとしてであれ、植物の「魂」ということも言われていた。この「魂」という表現に今日的な意味での魂の意味合いをなんの気なしに当てはめて読むのは不可能。デーモン(ダイモーン)という言葉も聖書ではすでに古代ギリシャ的なニュアンスから離れて悪魔・邪神といった意味合いで語られているように、現在の自分の解釈仕方をそのまま適用することに注意しなければならないのは、僅かばかりでも読むや聴くに思いを馳せた者ならばわかることだろう。
近代における「主観の科学」は、「五感的なデータに関する物理学」と、「自己への意識に関する科学」とに分かれているように思われる。その二分割で尽きはしないのは、治療のための心理学がピネルをはじめ、フェリクス・ヴォワザン、シャルコーなどにより形成されてきているからだ。
当然ながらここでいう「主観」はアリストテレスとは関係ない。デカルトはその方法的懐疑から明らかなように「主観」に対する知識を「確実なもの」として据えたが、アリストテレスはそれが反省によってしか知りえないことを強調した。ガッサンディがデカルトを論難するときに用いた思想でもある。もはや心理学の語源のプシュケとはまったく関係なくなっているのは、アリストテレスがプシュケをあくまで生物の形相として自然学ーー繰り返すが今日の物理学physicsではないーーに位置づけていたのに対して、デカルトにおいては周知のとおり、身体は物体Koerper・corpseとしてその生死を問わない「延長」に含まれるものとなっていたわけだが、そのことからして明らかである。
心理的な話に位置づけるなら、自己分析といった内省的スタイルは分析する自己じたいの気分の変調を起こしたりするし、泥酔した状態での自己分析などというものは不可能である。そこから自己に対する内省的なスタイルはいわば「方法論上の」欠陥をもっているとされるのが常だ。たしかに馬鹿が自己分析をしても仕方ないし、そもそも自己分析なんてのがくだらない。もちろんデカルトの言う「主観」は、その評価はさておき、現前性に対する一つの表現であって、以上の心理学的な問題とは無縁の領域にその意義を善かれ悪しかれもつのではある。しかしデカルトが語っていることは、直接的にではないにせよ観念論の原子論的かつ分析的な心理学の始祖として位置づけられうるものでもある。それはやがてメーヌ・ド・ビランやオーギュスト・コント、さらに後のゲシュタルト心理学などによって批判されたが、第三実体としての延長という仕方で身体を機械的なものに位置づける伝統は、我々にとって今なお身近な思想である。
クロード・ベルナールをはじめとした優れた学者により病気とは生理の欠乏ないしは過剰であると主張されたように、いわゆる定量的な研究、すなわち、あらゆるものの同質性を前提とした数量化(あらゆるものの程度問題化)と、その数量的な表現を記述するための形式的な方法への関心が、20世紀初頭にはすでに多勢を占めていた。いまやこの事態に反対を維持することはきわめて困難である。反対する態度を固持するだけなら中坊にもできるからそれはどうでもよい。
たいてい、「質的な」研究とは「定量的な」研究に必要な統計学的および多少の数学的な知識をもてない学者の口実のようなものと見なされている(もちろんそういうことはあるにはあるに違いない)。デリダがフッサール哲学に対してそうしたように、ならびに、フーコーが『デカルト的省察』の「第2の読解」として「形式主義と直観主義」という「フッサール思想の原理的問題」に遡ろうとした者にカヴァイエスを挙げるように(『フーコーコレクション6』所収『生命ーー経験と科学』)、いわゆる「質的」研究は、論理学や数学などのいかにも形式的に厳密な方法を用いないですませている「文学的な」ものとしての地位に甘んじざるをえなくなっているかのようだ。腐女子やオタクに対して「リアルで恋愛したいのに本当はそうできないから2次元に逃避してるんでしょ」と言われるとき、腐女子やオタクは最初から不利な立場に立たされているのと大差ない。そういう人もいないではないだろうが、いかに厳密に否定しようと、そのときでさえ、いわゆる負け犬の遠吠えや理論武装やなんやとあしらわれてしまうということだ。いささかニュアンスは異なるが、
「生きながら埋葬された男は、墓堀人の注意を惹きつけねばならず、さもなければ死なねばならない。ところでまさしく彼は棺の中に入れられ、墓穴になげこまれたために、声を聞いてもらえるチャンスを何一つ持たないのだ」(サルトル『家の馬鹿息子』、ツイッターのサルトルbotより)
という絶望を思わせる。「日本語は難しい」という下手な感想文の意味は、「他人って面倒くさい」である。

5ヶ月前 No.267

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=mdtjLNZb79

もっとも、「量的」研究に対する「質的」研究者のイデオロギーといったものがあるとするならば、そのイデオロギー次第では、私は「質的」研究とやらになんの価値も認めない。もしそのイデオロギーが「数字からはその人はなにもわからない」といったものならば、ペーパーテストで配点の高い問題を解けるということはその児童や学生の意欲も積極性も優等であることを示す、という解釈はなしえないだろう。もし「質的」研究のイデオロギーにそんなものがあるとするならば、それは、期末テストの点数の高低やそのテストで問われる科目「に対する意欲や関心」からまったく分離した、わけのわからない「意欲・関心・態度(出席点・授業での発言数etc.)」という基準を補強するものだ。
「心理学」はカルナップやノイラートが主張しているように、入力と出力の関数の学、刺激と反応の行動学であるがーーだからそれに対する反省として「哲学的心理学」(デイヴィッドソン)なんていう変な言葉が出てきたりするーー今日、いったい「心理学」とは何なのか、という問いが、だからこそ生じるのである。しょうもない教科書に載っているだろう「行動主義や機能主義は過去のもの」なんて記述はデタラメ。
今日、「心理学」とはなにか? カルナップやノイラートの思想を思うと、もはやそれは「自然学」の一部に位置づけられていた生命の形相としてのプシュケと関係ないばかりか、「意識」とさえ関係がない。そもそも物体Koerperに対するのと同じく生物を扱うのだから、なおのこと「心理学」ではない。
いわゆる「内省」というなんだか哲学的な趣きのある活動を前提しないで済むことは、哲学からの心理学の完全な独立のようにも見える。そして統計や観察機器の使用により、その仕事はいかにも「科学的な」体裁を保っているようにも思われる。しかし心理学は、その方法論の見かけ上の厳密さを何かと引き換えにしたのではないか。
功利主義は人間ないしは個人にとっての効用を重視したが、それは当然ながら、人間自身の道具化という発想に至る。「心理学」が使われる場面を見てみるとよい。職業の適性検査、犯罪者の精神鑑定、そしてなにより最も素朴には、他人をなにがしか病人として告発するためにこそアスペルガーや自己正当化の圧力なんやという用語が用いられるのである。
「現代の心理学者はほとんどの場合、職業的実践家であり、彼の「科学」は〈社会・技術的環境〉ーー〈自然環境〉ではないーーへの順応の「法則」の探求によって全面的に動機づけられている。それは常に、彼の「測定」操作に評価の意味と査定の射程を与えることを含意している。したがって〈人間行動の心理学〉を研究する心理学者自身の行動は、ほとんど必然的に、自らの優越性の確信、確固としたテクノクラート意識、人間間の関係を経営者的精神構造によって見るという契機を含むのである」(カンギレム『科学史・科学哲学研究』所収、『心理学とは何か』、448頁)
ただし私は官僚や教師や医師や経営者をいわゆる庶民感情的なものから批判しはしない。「上から目線」だとかどうでもいいことだ。地方分権だの自治だのと言えば聞こえはいいが、阪神淡路大震災のときは各水道のバルブや水道を管理するシステムが各都道府県で細分化していたから、兵庫に応援に来た京都や岡山や大阪からの消防隊の活躍が減ぜられてしまった。国が一括して規格化することで都道府県という地域差がもたらす弊害を解消するのは大事なことだ。
これに対して各都道府県での協議を通してどうのこうのと市民的なモラリストは言うにきまってるが、各都道府県はそれぞれの地域の建設会社との関係をそのさいには考慮に入れざるをえない。各都道府県が準拠する規格として岩手県だとか東京都だとか特定の地域がすでに採用している規格を採用するなら、他の地域は不満たらたらになる。水道の利用者数ならびに水道の規模は、それが小さい地域より大きい地域に変更を迫るときの予算や手間の関係からして重要視されるが、そうすると東京や大阪などいわゆる都市圏の規格に小規模の地域が合わせるよう求められることになり、その工事費用を各自治体が負うーーそれが自治というものだーーとなれば、「国がやってくれよ」となるに決まってる。
「庶民感情」とは言うが、郵政民営化の轍を思い出すなら、田舎の水道の管理まで民営ではろくに手が回らないのはわかりきってる。それをわからずに「庶民」は他の「庶民」の首を絞める民営化音頭にアイヤイヤサッサーと参加したわけだ。「庶民」と言うのが正しければ。「庶民」や「大衆」なんて言葉を留保なく使うのはろくなもんじゃない。
民営化ってのはつまり企業としての活動、営利活動化ってことだから、そういう手間暇ばかりかかって骨折り損のくたびれ儲けになる田舎の水道の維持管理なんかすぐにでも手を切りたいものでしかない。「お上」だとか「中央」に対する反感は「庶民感情」とは名ばかりのいわゆるプロ市民的なもの。かりに中央集権とか政治に対する批判をするにしても、それ自体は非難されるべきところはないが、少し調べて少し考えるだけで、国が管理するということはそれ自体ではなにも悪いものではないとわかるというものだ。なにを、いかにして、なんのために管理しようとしているのか、それが大事なこと。

さて、先の引用でカンギレムが言っているのは、もはや「心理学」は魂や心や意識についての学問ではない、ということだ。そもそも学問ですらない。人間の道具化を前提とした、人間-道具の配置方法の寄せ集め。
もちろんこうしたいかにも「非人間的な心理学」という心理学観に対して異議を唱える向きもあるだろうし、そのさい、グリーフケアだとか来談者中心療法だとか様々なものを挙げてくるだろうということもわかる。しかし、なぜその種の心理学はそれほどまでに「治療」と密接なものとして語られているのか。それがカンギレムを読みなおしていて浮かんだ問いだ。
「心理学はつねに二重化に立脚するものであるが、それはもはや人間という観念がもつ事実や規範にしたがった〈意識の二重化〉ではなく、「被験者」の集団と、固有の使命を自らに課した専門家たちの同業組合的エリート集団からなる〈二重化〉なのである」(上掲書、451頁)

カンギレムは素朴なテクノクラート批判をしているのではない。多くの医者が治療の実験的要素を意識していることについての医者自身の態度について、カンギレムは理解を表明している。この点は断っておくとして、心理的な問題の治療とはいったい何なのか。なぜこれほど心理的な治療ないし治癒は当然のように問題視されているのか。「心理学者」はまるで進路指導者のごとしであるが、いったい誰がいかなる基準で誰かを「心理学者」として任命するのだろうか。
哲学とは何であるかという問いは、しょうもない字引好きでもなければそれ自体が哲学的でもある問いだが、心理学とは何かという問いが心理学者に出されるとき、心理学者はどのように答えることができるのだろうか。まさか統計statisticsを取るわけでもあるまい。いや、そうとも言えない。治療の指標は、少なくとも今日的なセラピーからすると、社会で「正常に」生活を送れるようになることだろうから。たとえこの「正常」がふたたび話題になるとしても。その場合は結局、心理学は自らの内部的規範としての心理学を有しておらず、いわゆる「社会」の自らの地位を委ねていることになる。心理学が「科学」の仲間入りをしたがっていたのはフロイトを挙げるまでもなく、「客観的な方法」を重視していったその経歴からも明らかだ。哲学のいち分派としてではなく、独立した一つの科目として、ちょうどかつての「自然哲学」が哲学から独立して「自然科の学」としての地位を今日では占めるに至ったように。

哲学板にいた地下水という人は埃やら電波やらにたいそう怯えている文言を残していたが、じつに不健康であると思う。ハワード・ゴールドシュタインは、カンギレムによれば、「場合によっては破局的反応を生むかもしれない場面を避けようとする病的なまでの配慮が、保存本能を表している。そしてこの本能は生命の一般法則ではなくて、萎縮した生命の法則である」と述べたらしい(カンギレム『正常と病理』、179頁)。面白いことを言っていると思う。いわば防衛機制としばしば言われる拒否的反応は生命体に「内在する」本質ではなく、その本質のネガティヴないち現象であるということだ。むしろフロイト的に言えば死の本能をこそ重視しているとも言える。
この場合、破局的な事態の到来というアクシデント(不慮の事態)を、生命体が受け入れることができるかが問題となる。なるほど、戦争が話題になるとき、戦争が起きてもなんとかしていくにはどうすればよいかについてはほとんど語られない。人生は楽しんだ者の勝ちとかいうしょうもない意見からは、楽しい環境の保守しか導けない。破局的な事態の受け入れの可能性は問題にもされない。そんな勝ちが健康であるvalereわけがない。そもそも生きていくというのは楽しくないことをするのが不可避なんだし、楽しいことやってても嫌なことは起きるんだから、その理屈からは敗者しかいないとなる。
データベース主義とはその意味で病理的なんだろう。医療は人間をなんであれ健康な状態へ治癒させるものであるならば、医者ほど病的であらねばならない者はいない、とも言えるかもしれない。
イチローの或る振る舞いを「アスペルガー」と言っている人がいたが(ネットではない)、彼は素朴に「異常すなわち病理」と見なしているわけだ。これでは未来の天才を発見できるようにはならない。「忘れてもいい。間違ってもいいを教えてくれた先生」という小さな漫画を見ると、いかに事実を教えることが善かれ悪しかれ決定的であるかわかるし、教育とはろくなもんじゃないことだという悲観的ではないアイロニズムを有しているかは大事なことだとわかる。当然ながらこれは「上から目線」批判とは関係ない。むしろ大学で1足す1の意味を教わるんだから、大学というものの度量の大きさを示している漫画でもある。
私も1足す1をろくに教えることはできないが、だったらなおさら「生き方」がどうのこうのと言えるわけもない。ましてや子育て指南なんて本を出す親はおかしい。

5ヶ月前 No.268

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=mdtjLNZb79

あぁ、なるほど。わかったわかった。
あなたが子どもを見送ったときの感情の凪は、あなたの情が「厚く(熱いではない。通じるっちゃ通じるが)」なくなったからではなく、冷酷だからでもなく、巣立っていく者の今後に対する憂い、巣立っていく者に対して自分は本当になにごとかを与ええたのかという憂い。きっといい母親になれる。

5ヶ月前 No.269

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=mdtjLNZb79


文献目録を見るとあの箇所のゴールドシュタインはクルト・ゴールドシュタインのことだった。他の論文とごっちゃになってたな。

『正常と病理』にカテゴリーを「カデゴリー」と書いているとこがいくつかあった。


健康とは、病気になりうること、さらにそこからの回復(「元通り」ではない)を果たせることだ。そして人が病気の特徴として見てとるのは、偶然性に対する許容度の減少である。仏教徒への私のイメージは病人である。あまりにも偶然性を否定するがゆえに、偶然性への喜怒哀楽を感じなくなるよう自らを調節したその姿は、偶然性に対する最も病理的な態度と言ってよいだろう。ヒステリーよりマシだとさえ私には言えない。
血友病は些細な外傷が致命傷になりうるが、「環境」とは本質的に不正確なものであるため、偶然に外傷を受ける可能性はけっして否定できない。尿に糖分が多量に含まれることになんの問題もないが、腎不全に至り人工透析が必要になると面倒きわまりない。そうした病的状態への不安から、かつてできていたことができなくなることへの不安から、人は病気を怖れる。しかし健康であるとは、病気から回復しうることであり、病気になることができることである。
その意味で言えば、活発なvital、生き生きとしたvivid在り方は、それ自体で「健康である」わけではない。自分とは異なるものであるように思えるものに対する拒否反応の意味は、「内輪」ではなんの問題もないが、「内輪」とは異なる環境ではなにも通用しない。
どんな他人にも良いところがあるとか仲良くできるようになろうとかいう牧歌的な話をしているのではなく、拒否反応というのは、或る意見に対してろくに吟味を経ることができないのが問題なわけだ。繰り返し言ってきたように、有効な批判をするにはその批判対象を体系的に(長い時間をかけて)適切な位置へ在らしめなければならない。そういうのをやっていたら、仕事やなんやで勉強から遠ざかっていようとしょうもない院生や学部生よりはるかに短時間でクオリティの高い読解ができるようになる。昔取った杵柄というやつだ。
人間、死ぬときは死ぬ。それはそうだ。事故に意志は関係ない。意志の反対語は事故。ランディ・ジョンソンの投球が偶然に鳥へ命中すること(投球の「失敗」)に、ランディ・ジョンソンの意志や技術や体力は関係ない。
虫歯といった些細なものであれ腎不全といった重大なものであれ、病気はつきものだが、病気にならないよういくら意識的に配慮しても死ぬときは死ぬ。しかしここから病院に行かないと言うのなら、そう言う人は、いざ病気になったり病気が悪化したときに病人を襲いうる意識、自らを不具者として見なさざるをえなくするほどの症状に、耐えうるだろうか。たとえば自分は病人になったことでこの病気を勉強する体感的な材料が手に入ったと思えるほどに、病院に行かなかったことで重い病気にかかるのを受け入れられるほどに健康であるだろうか。あるいは、病院に行ってなんかいられないほど大事なことに取り組んでいたんだから、この苦しみに対して後悔が起こらないと心底から言えるほどのことに取り組んでいるだろうか。
なにをしたって死ぬときは死ぬだろうが、私はそれを自分がなにかをしないで済ませるための免罪符として言ったことはない。毎日とは言わずとも四つん這いになって左腕と右脚を床に対して水平に保つ、右腕と左脚を床に対して水平に保つ、こんな退屈な運動をかれこれ六年はやっている。健康なんかどうでもいいが、健康でなければできないことがあり、私はそれをしていたいからだ。嫌々ながら健康を保っていると言ってよい。いかに腕や首や肩周りが盛り上がっていても、うつ伏せで眠って目が覚めたら20分は身じろぎさえできない古傷の激痛に襲われてからというもの、こんなジジ臭いトレーニングを地道に続けている。
もっとも、病院に行ける人とは健康な者を言うのかもしれない。病院に自力で行くことさえできない者を病人や怪我人と言うのではないか。

たいてい、「環境へ適応している」ことが「正常」であると言われ、そして「環境」は異なる時代や地域、さらにはより短期的な諸状況にも細分化されることから、「或る人が正常であるとは特定の環境にその人が適応していること」程度の意味に理解されている。もうちょっと突っ込んで見ると、かつての自分と現在の自分との差異から現在の自分を異常だと見なすこともあるように、時代や地域や状況への「不適応」とは異なる類いの「不適応」もある。
しかしそれを言うなら誰もが「不適応者」であり「不具者」ではないか。「平均」がいかにくだらないかを書いたが、形式上は大学生であるチンピラは教授と科目について話していたらボロ雑巾みたいにボコボコになる。

アノマリーanomalieがan-omalosであるなら、それは「凸凹した(平坦omalos-ではないan)」を意味するのであって、異常abnormal(正常normal-ではないab・正常から離れた)を意味するのではない。そしてなぜか、曖昧であれ、平均値が「基準・物差しnorm」として採用されている。しかし物差しとして平均値を採用することは正常であるのか?

「環境」の不確定さに対する「生命の萎縮した法則」としての、いわゆる防衛機制としてのデータベース、防災論。「環境」の不確定さを許容するのではなく、あらかじめ、あらゆる「不確定要素」を現在に取り込んでおこうという野望。つまり自分を脅かしうる「不確定要素」の根絶する野望、あらゆるものを「確定要素化」する野望。まるで不確定要素に出くわしたら死んでしまうのではないか思うぐらいの臆病。科学とは神経症の言語である(ラカン)。強健とはけっして言えない。
論理学好きは論理学があらゆるものに通用する物差しnormaだと見なしてはばからない。論理学好きがどれほど論理学的であるかはさておき、彼らはあらゆる事態に対して有効で汎用的なものとして論理学を位置づけている。ところが、実際に論理学を論理学たらしめていたのは、パトスpathosである。論理学はなぜ発生したのか、論理学はなぜ「進歩」したのか。もしそれが発生し、また、「進歩」したと言えるならば。それはちょうど、或る人が不調を訴えで病院に訪れたとき、解剖なしにその身体をスキャンして見てみると彼の脳がほとんど空洞であったことが判明したときの、パトスの効果と変わりない。
論理学はちゃちな十得ナイフであり、それなりには役に立つが、スペツナズナイフより脆くヤワであり、高枝切り鋏より射程が短く耐久性に劣る。パトスがロゴスを呼び寄せるとカンギレムは言うが、気分・感情は論理学より現前性の射程が広い、と私は言う。もっとも、今では「精神衛生上」気晴らしにつぐ気晴らしが「健康」の証であり、耐えることのできる頑健や強靭という言葉は「健康」の対義語として現れているとさえ言える時代だが。健康的な、あまりに健康的な、そして低価な。

臨床は科学ではない。臨床は当然ながら治療と不可分であり、治療の目的はと言えば、フロイト的には患者の苦悩を患者にとって瑣末なものにすることだとなるだろうが、それは(患者当人にとっての)新しい解釈仕方を当人が身につけることである。健康な状態とは、新しい規範への自らの移行を許容することであり、自らの世界観が動揺させられることへの許容である。

5ヶ月前 No.270

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「アクティブラーニング」「主体的・対話的学び」「生きる力」つれづれ

第110回中央教育審議会(平成29年2月3日)の配布資料1-1、10頁から11頁に「主体的・対話的で深い学び(「アクティブラーニング」からの視点)という表現があるが、いまだ「詰め込み」に対する「反省」から抜け出せていないんだなぁと思う。
つねづね思うのは、なにをどう「詰め込んだ」のかというところを抜きに「詰め込み型」となっているところだ。

「生きる力」とやらが意味不明なのは、中卒の若い漁師が立派に生きていることから明らかだ。生きることそれ自体に学校は関係ない。そんなんなら不登校だってなんの問題もない。保健室登校とかでとりあえず中学をしのいでフリーターになることでも生きてはいける。もっとも、年金問題や医療における後期高齢者の設定などからますます家庭は解体していく流れになると思う。姨捨ならぬ姨去りのような、高齢になった親が子どもに負担をかけまいと自ら死んでしまう事態の増加も考えられるっちゃあ考えられる。エスキモーだかイヌイットだかにそんな風習があったっらしいっけ。今でもあるのか知らんが。
不登校からフリーターでもオッケーと言ったが、フリーターとなったその子どもが親の介護に手さえを回せる余裕がなくなるだろうことを踏まえると、各自が生きていくぶんには、ということでしかない。
もちろん不登校からフリーターは既定路線ではない。大検も正社員登用もある。会社勤めではなくてもかまわない。今でもコミケやコミケから漫画家ってのは若い子の希望の一つなんじゃないだろうか。相当な苦労があるだろうけど、文科相が好きな「知・徳・体」の「調和的な成長」うんぬんからでは、コミュ障で貧弱でパッパラパーだけど絵なら描ける、みたいな尖った奴を肯定できはしない。
その意味でも「知識偏重」とか「点数主義」って大事なこと。中学をなんとかしのいで、マークシート形式で運にも助けられながらであれ高得点を取りさえすりゃ、国公立に行ける。アメリカの大学のAO入試みたく「ボランティアへの参加」とか「家柄」とかを問われないぶんよっぽど自由だ。前途洋々の児童、これからどんな風に変わっていくかわかりやしない児童をその「経歴」で評価するなんてろくなもんじゃない。
その「知識偏重」への肯定の意味は、文科相が言う「調和的な」発育なんかしなくたってどうにかなる、ということ。あの美辞麗句からじゃあ岡潔みたいな学者も肯定できないが。文科相が科学技術の進歩うんぬんを挙げつつ懸念しているのは有能な学者の海外流出で、そりゃ政府としては当然のことだし非難するつもりもない。しかし「学術」や「専門性」の高等機関として大学を位置づけていながらディベートだなんだってのは大学を営業職養成所に貶めるものでしかない。その点はおそらく「世論」を鑑みてのこともあるんだろう。あさま山荘事件やオウム真理教、もちろん様々な「イジメ」もそうだが、ああいうのが話題に挙がるたびに「教育改革」「教育問題」が盛んに騒がれる。んで「コミュニケーション能力」や「異なる価値観への寛容」なんたらを言う。小さく「調和的に」丸まったしょうもないモラリストの出来上がりだ。こんなんじゃ知見は広がりはしない。

さて、同資料の5頁では「格差の拡大・固定化」について言及しているが、学習指導要領「生きる力」の「保護者用リーフレット・パンフレット」や「教員用パンフレット」を見ると、「確かな学力・豊かな人間性・健康と体力」が挙げられている。
大企業の社長や大学の学長が雁首そろえてなにやってんだろう。地方のの過疎化が進みつつある地域(離島がその最たるものかな)の文化的な度合いと、都市部の文化的な度合いとではどうしたって差がある >>204, 「主体的で対話的な深い学び」と言うが、それは本当に「地方創生」になるのか。異なる学年の児童が入り混じった小規模な学校では「アクティブラーニング」はいったいどうなるのか。そんな学校は速やかに統廃合しろと言うなら、ますます「地方に生まれた」ということが重くのしかかる。勉強さえできていれば奨学金を貰えたりするんだし、実力があれば大目に見てもらえもするユルさがあるんだから、「対話的」とかなおさら二の次三の次だ。嫌でも「対話」しなきゃならんのだから学校でやることじゃない。
すでに述べたように「アクティブラーニング型」の似非授業は家庭のプレゼンスが前面化し、児童を指導する児童というように「できる子」と「できない子」の差異を強化する。しかしクラスメイトや友達に対して「これを教えなきゃならない」なんて義理も義務もない。もし他の児童を指導する「できる子」にその指導に関して目標を課すなら、大人よりずっと「できない子」に対して辛く当たってしまうだろう。それも可哀想なことだ。自分が指導する斑の尻拭いをタイムカードを切った後にせざるをえなくなる(より多くの時間がかかるとそのぶん評価にマイナスされるため)班長のように。
そんなノルマが課されるなんて想像にすぎないとは言っても、教師が「対話的に」やんわりと言いくるめようとすることや、「だったら先生が教えたらいいのに」なんて思いつつ渋々とクラスメイトをリードすることに従事せざるを得なくなったりするのは、もし学習指導要領の「理念」に則るのならば明らかだ。
これで同じ文書に「イジメを無くすためには」うんぬんを書いてるんだからどうしようもない。小学生ってすぐ「〜のこと好きなんだろー?」みたいな冷やかしをするもんだが、この「理念」どおりに行けば、いわゆる「陰キャラ」や太っちょやなんやが手間取ってるとき少し他の子より手厚く指導したらクラスメイトに注目されてしまう。遠足や修学旅行の班決めでさえ揉める始末なんだから。児童にとっての共通の「敵」として教師が教壇の上から指導することのほうがどれだけマシか。アクティブラーニングなんて科目という普遍的な(地域を超えた)ものへの関心ではなく狭い範囲での立ち振る舞いに関心をもたざるをえなくするだけ。幾重にも誤っている。



「我々が乗っている共通の船である日本という 国あるいは世界、地球というものは、この公共の精神、同じ船に乗っているんだという気持ちがなければ、いずれ自分も船とともに沈んでしまうと、その意識をやっぱりしっかりと持つ教育をしたいということでございます」
「生涯学習というのは、生涯を通じたすべての学習を包含している概念として、これは三条に書いておるわけですね、、ですから、学校教育、それから社会教育を当然含んでいるだけではなく て、自己学習というか、みずから学ぶという学習も含んでいる」
「憲法二十六条では、子供を含めた国民に教育を受ける権利を規定しているわけでございまして、この教育を受ける権利 とは、言いかえれば、国民各自が人格の完成に向けた必要な学習をする権利のことでありまして、特に子供においては、自己の学習に必要な教育を大人一般に対して要求する権利があると認識をしているわけでございます」
(『教育基本法改正に関する国会会議における主な答弁』、伊吹文部科学大臣(当時))
以上は当時(平成18年・2006年)のいち大臣のいち発言にすぎない。それ以外もじつにつまらない答弁ばかりだったが、「愛国心」や「地域の「素晴らしさ」」うんぬんは、科学者の海外流出などしばしば話題になる状況への対策だということがよくわかる。「愛国心」により心理的な歯止めをかけるつもりなんだろう。「生涯学習」と「一億総活躍」はセットであることも、「生涯学習」が様々な「学習」を一絡げにしたものだともわかる。それが「自己の学習に必要な教育を大人一般に要求する権利」だとかにも現れている。
本当、変なこと言っていると思う。「人格の完成」に向けて必要な教育を大人一般に要求する権利、とか。そんなものがあるとしてだが、児童が何十年も先の「人格の完成」という終わりに根ざしてそのために必要な教育を要求するということになるが、進路に悩む高校生や中学生や暇さえあればゲームする小学生にそんな能力あるわけない。そもそもそんな度はずれに高度な要求ができる児童に教育は必要ない。子どもの「ニーズ」とは無関係に教えるべきことを教えるのが学校教育。この文科相の発言は幼稚園児をも「主体」として認めているわけだが、権利保証のための「国民」概念をそのまま児童に適用しているところに難がある >>112, しかしこれはレトリック、言ってしまえばロジカルなレトリックだ。その点については、法律施行上の必要ないしは簡便化のために通勤手当も賃金(労働の対価)として計上されている(労働基準法第11条)こと、災害見舞金さえ「賃金」とされている >>218 ところからニュアンスがわかるだろう。もっとも、教育基本法で「幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ」とあるわけだから、「国民の権利」の話から一足飛びどころか八艘飛びの勢いで児童を「主体」扱いするのはおかしい。まさか選挙演説みたいに「投票権ありの人」を「国民」と言って「国民」から小学生らを除外するわけじゃあるまいし。

高齢化の山場を超えたぐらい、2030年あたりがその山場と目されていたはずだから >>219,30 年後の2050年あたり、つまり高齢化社会という言葉が枯れきったか枯れ始めた頃合いだろうその時期に、教育政策がどうなっているか楽しみではある。

5ヶ月前 No.271

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権威主義

もはや権威的と呼べるほどの「批判」用語である権威主義というこの言葉は、努力主義者や「オリジナリティ」好きが好んで語る。しかし降水確率や食品のカロリー表示や材料表示などなどは権威ではないのか。それは特定の「有名な」人物に関する印象を惹起しないにすぎないだろう。なにより、「批判」に便利だと思われている権威主義という言葉もそれ自体がすでに権威的だ。「押し付けだ」に対して「押し付けのなにが悪い」と言えてこそだが、「押し付けじゃない」といった自己弁護を為さざるを得ない被告人として自分ゆ追い込む人は多い。情けないことに。しかし権威とはいったい何なのか。
権威主義という誹りはたいてい、或る人が特定の誰かの発言に重きを置いているときに為される。お前は特定の誰かを崇め奉っているんだと、いわゆるカルトじみた様子への揶揄や告発として。となると、権威主義への批判は「近代的な」「科学的な」「合理的な」「個人主義的な」といった形容詞を付される態度の現れ。『序説』のデカルトの態度が好まれるのはその傍証。「オリジナリティ」や「個性」が盛んに言われ、神経衰弱者が、ヘーゲルよりキルケゴールを、ハイデガーよりレヴィナスを、アリストテレスよりソクラテスを好むのも、たいていその程度のことでしかない。ロマン主義的なわけだ。
「個性的」「個人主義的」などの諸々の形容詞の意味合いが肯定的に見なされているからこそ、「権威主義だ」という誹りに権威が与えられている。カルトの教祖や指導者に対する崇拝的な態度への忌避感は広く肯定されている。

「ハチミツを離乳食に入れちゃいけないなんて常識だ」というのも、私からしたらなんら常識ではない。その「常識」を知らないことを反省もしない。それが経験的な問題にすぎないからだ。離乳食に関わらなければならなくなったら私はそれに関する退屈な本も読み漁るだろうし、私ならそうするに決まってる。ボツリヌスがどうたらの生理的機序まで知らなくていいんだからそれで事足りるではないか。
あらゆるローカルな「常識」をあらかじめ知っていないといけない、わけがない。そして不可避のものを事故や「生活」と言うんだから、あの程度の話で「知らなかったことが恥ずかしい」なんて神経質にすぎる。

それにしても、良妻賢母とはどんな男も敵わない女にちがいない。男子校、女子校の意義とは。

さて、「ハチミツを離乳食に入れちゃいけない」なんてなんら常識ではない。せいぜい乳幼児に関わる人にとってのローカルな経験的知識だ。先の話題で登場する非難では各人の経験が前面化しているにすぎない。「いっせーのーで」「いっせーのせ」「さんのーがーはい」に関してギャーギャー言ってるのと同じ。

もはや属人性が薄くなった権威への無批判な(意識的ではない)態度というのは、カルト教祖への崇拝から各人を守っているとさえ言える。形式にこそ大人は守られている。市民権を得た権威主義とでも言っておこうか。
ハチミツを離乳食に与えちゃいけないという「常識」は、さらに、売り場に並ぶあの容器のなかのあの液体はハチミツであってハチミツ風の何かではないという、陳列された商品はそのパッケージや品名表示の札の表示の通りのめのであるという把握と絡んでいる。もし件の事故の母親が原材料にハチミツの表記が含まれない商品を使って離乳食を作ったんだとしたら事態は一変するに違いないことからわかる。
ハチミツがどうだこうだというのは、食品の材料や成分を表示する機構の真面目な仕事によって可能にされているauthorized。すでに与えられているこの権威によってこそハチミツがどうだこうだと騒がれている。

権威主義批判は、誰かを権威として認めはするがその権威者への崇拝からは距離をとるというものから、権威者なんて存在しない、みんなちっぽけだ、というところまで行くこともあるだろう。エラスムスの痴愚女神的なヒューマニズムだ。日教組からしたら模範的である児童のような態度。
この類いの権威主義批判はなんらかの「集団・多数派」をそれが集団・多数派「である」ことをもって批判する。そして権威なんてない、権威者なんていない、という発言が当人にとって意味を為すのは、誰かや何かを権威として認めている人たちがいるという解釈があってこそ。言ってしまえば、対人関係上の自分の立ち位置が「個性的」かどうかにしか眼中にないわけだ。「個性的」とはここでは「少数派」を意味しているんだろう。
権威を何かや誰かに対する多数の人たちの是認に由来すると捉え、多数の人による是認への否定的態度をとることは、その否定的態度が多数の人の在り方に依存していることを意味する。となると、或る時点までは「権威」であった人が失脚して落ちぶれ、多数の人が否定的態度を取るようになったとき、今度はその「元権威」を擁護することになるのだろうか。権威主義批判好きは「愚かな大衆」「愚かな群衆」といった思想と相性がよいのだから。
そういう転向をしないなら多数の人うんぬんは関係ないとなる。では或る物事や発言者が自分を感動させるか否かが重要であるのだろうか。それならたしかに誰かや何かが「権威」であろうが端くれだろうがなんだろうが関係ないが、それは自分の体験の権威化にほかならない。心理的な話ならこれだけで終いだ。「この人が凄いのかどうかはわからないけど自分はこの人のこの発言が好き」、と言いさえすればよいものを。自分が好きなものを他人が是認しないこと自体が嫌ならばそれはいじけた寂しがりにすぎない。

5ヶ月前 No.272

★iPhone=OsdM6Vo42l

権威主義批判が害悪でしかなくなるのは、なにかを権威だとか権威者だとか見なすこと自体に否定的になると、勉強から各人を遠ざけることになるからだ。勉強はお手本や先行研究が不可避なんだから。もしかりになんの本も読まずに「独力で」ーーとは言っても親や地域が存在するわけだがーー大業を為す一握りの「天才」がいるとしたら、そんな一握りの「天才」だけしか権威主義批判者はその思想により是認できない。そうした「天才」は「生まれつき持っている」ものとしての「才能」や「個性」を自らの「内部」から「引き出したeducating」者であり、しかもそれを「自らの力」で為した、というわけだから。
どうしたって素朴な権威主義批判の思想上、それは貧乏人(ousiaに乏しいもの)に対して酷いものになる。貧乏人こそ貧乏人に対して苛烈であると言える。貧乏人に「品格」なんぞを求めるわけだから。
権威主義批判が貧乏人に厳しいと思いにくいのは、批判を可能にするパトスが生じるそのときにはすでに、その貧乏人が権威として存在しているからにすぎない。貧乏人が成り上がった後、その(元ex)貧乏人が落ちぶれたりしたときに「やっぱり品格が」「人間性が」と言われる(元と言うのが正しいかはさておき)。そうしてこの貴族趣味的な批判は成り上がることに対して否定的になり、挙句に「マナー教育」「ドートク教育」などに熱を上げる。ますます貧乏人に厳しくなる。
もっとも、現在という時間は落ちぶれも上昇も可能な時間だが、偶然accidentに最も身近な時間。現在にac-降りかかるciderent不運や好運が様々な「出世」には多いに関わっている。その意味では「実力」とは本来的に括弧なしでは語れないだろう。それに対する否定的な態度が「運も実力のうち」だ。運が「実力」なわけないのに。そのことを成り上がりも忘れがちなため、下手なことをして批判されもする。しかしその批判にさいして、やたら「品格」や「人間性」を言うのはおかしい。貴族じゃあるまいし。

実力主義への肯定は成り上がりや成金への肯定だが、金になんかなるな、歩のまま頑張れ、ってのが「個性主義」であり、「向き不向き」であり、「適材適所」。人間を駒扱いするなんて〜みたいな非難がありうることも承知している。私はそんなことしてないし、字数を割くに足らない。「個性主義者」こそ「もって生まれた才能」だとかを強調しているって話なんだから。
人間は白紙(ロック)ではないにしても、漁師の子が教師にもなれるものだし、目指したって一向にかまわない。トンビから鷹は生まれないのと同様、漁師は教師を生まないが、漁師の子は教師になりうるし、あるいは親よりも優れた地域一帯を代表する漁師にもなりうる。トンビやカエルと違い、書物や教師など非家庭・非出生地の様々なものがその成長に介在するからだ。もっとも、いまや勉強することこそが反学校的である時代だが。

「もって生まれた才能や個性を引き出すことが教育なのです」なんて、いかにも反「詰め込み」型で耳触りが良さげなんだろうが、残酷きわまりないし、エデュケイションという言葉の語源的解釈もヘボい。元文科相大臣の伊吹だったかも言及していた解釈だがじつにくだらない。「(内面・個性を)引き出す」のか、「(子どもを)或るところから別のところへ引き出す」のか、educereという動詞を見ただけではわからない。ペダゴギーはどうなるのかもわからない。

勉強とはもともとパッシヴであり、パッシヴである(「自分の意見」を言わない)ことが、反時代的なーー反当世風と言うよりも普遍的と読み換えるのが正しいーー知見を可能にする。「自分の意見」というものが、たとえ「環境」や「影響」というのがわかりきった概念ではないとしても、「環境」や「影響」と絡み合っているのは確かだ。だから「自分の意見」を言いたがることは、自分の「環境」をますます「自分」にとって重大なものとしていくことに他ならない。地域差とか時代差への関心とはこの場合、自分の地域や時代とは異なる慣習を「知る」ことを通して、自分の地域や時代もべつの地域や時代からすれば「個性的だ」と見なすようにさせるものだ。同情好きが舌舐めずりして他人に近づいていくのと同じ。同情好きは「弱者」が大好きで、それは自分の現状を棚に上げられるからにすぎない。

「個性」とはこうしたフィードバックの産物でしかない。だから結局は、異文化理解とか言ってもたいていそれは自らの地域や時代へ自らを固定化するにすぎない。旅行好きは帰宅したときの気分のためにこそ旅行するんだろう。



権威とは、地域差や時代差を無視しているものを言う。言い換えるなら、個体をその個体の「環境」から自由にするもの、である。権威が批判されるべきときは、教師が教科書をなぞっただけのものと変わりない板書をしていながら学校や労働規範をもちだし、ノートを取らない児童を叱るようなとき。権威的な在り方と実態が乖離しているとき、権威が形式となり無力化しているときにこそ権威は批判されるべきだろう。それ以外の権威批判なんて寂しがり屋が拗ねているだけだ。だから権威嫌いは「愚民どもが」と言わんばかりに「大衆」なんてものに固執する。
権威主義批判者はけっして権威になれはしない。その実力からしてもそうだし、もし自らの権威主義批判で権威になってしまったらその権威主義批判が権威的になってしまったというしょうもない理由から否定しなければならなくなる。そんな心配は、権威主義批判者の体たらくを見るに不要だが、そんなしょうもない理由からでさえ権威主義批判者が自説を覆そうとしないなら、つまり権威者であることに甘んじるなら、結局は寂しがっていただけだった、それで終いだ。

腕利きの交渉人か仲介人ぶる奴もヘラヘラしててたちが悪い。

5ヶ月前 No.273

★iPhone=OsdM6Vo42l

ゴミを分類する意味がわからない。リサイクルとか言うが、それは「ゴミ」を資源として見なしているからこそであって、結局それはゴミとして見なされていない。粗大ゴミとされる机やテーブルやタンスは燃えるんだから「燃えるゴミ」だろうに、それとはべつの「粗大ゴミ」。段ボールも牛乳パックも「燃えるゴミ」ではない。変な分類だ。「段ボールは燃えるゴミではない」なんて発言があったら「なに言ってんだこいつ」と思って当然だろう。
実際のところリサイクルとやらがどれだけ経済的・環境的によいものなのかわかったものではない、そのサイクルに必要な設備を作るための資源や稼働させる動力やなんやを思えば。なんか知らんけど良いんじゃないのー、ぐらいのもんだろう。

『ぷよm@s』の春香はヘルファイアを作るさい、「ゴミ! ゴミ! これもゴミ!」とゴミぷよをまったく分類してなかったが、あれが正しい。ゴミとは要らないものの総称なんだから分類するイミはない。タバコの灰は燃えるゴミだろうか、燃えないゴミだろうか。くだらないったらないが、まるで精神病者かなにかのようにゴミの分類に努めざるを得なくなるのは面白いっちゃあ面白い。

見舞金や出勤手当が賃金に含まれたり、箪笥や段ボールや新聞紙が「可燃ゴミ」とは異なるカテゴリに入れられたり、分類はそれ自体では真理と無縁であることがわかる。むしろそれは経済的・政治的な手続きとさえ言えそうだ。
粗大ゴミは捨てるにも粗大ゴミ処理券の購入を要するものだが、ゴミを捨てるにも金がいるんだからすごい時代。自治体ごとに分類も違えばキツさユルさも違うが、たかだか議論板のカテゴリ違いうんぬんでさえ紛糾するんだから仕方のないことかもしれない。

ペットボトルをいちいち洗ったりラベルやキャップを外したり、そんなくだらないことこそが疲弊のもと。主婦の場合ご近所からの目もあるので分別をテキトーに済ませるのも憚られるだろう。女は男よりよっぽど生理や身体能力の劣位や夜道における警戒など茶飯事に縛られてある。男は観念論的。女が働きに出るとどうしたって会社と家庭との軋轢に悩むことになるだろうが >>175 、生活の重みが男の比ではない女からすりゃ学問うんぬんも「いい気なもんだ」って感じかもしれない。身体的・体格的な劣位や夜道における警戒や座るときにいちいちスカートを撫でるようにして座ったりとキリがない。他人事ながら大変なもんだ。女の子から聞いた話、夜道では電話するふりをすることもあり、実際に電話をするようにしたりなんてのもあるらしい。犯行をしてもすぐに電話先の相手にバレてしまうと卑劣漢に思わせるために。その効果のほどはさておき、他にも色々あるだろうこんな類いの護身術に気を取られざるをえないんだから、女がこと快楽において冷酷とさえ言えるようになるのもおかしくはない。『デミちゃんは語りたい』のサキュバス先生はそれを思うとさほど誇張されたキャラでもないんだろう。

良妻賢母の女が存在したとするなら、そんな女より優れた男は存在しえないんじゃないかとさえ思える。変に男と張り合っている女を見るのは悲しいことだ。
男子校、女子校の意義とは。

分類とはいったい何なのか。最近では遺伝子やらなんやらまで込みで生物を分類しているようだが、味や手触りなどはますます分類学の舞台に出る幕がなくなっている。分類ということで言えば「フワフワしたもの」や「甘いもの」という分類もありには違いないが、分類学ではそうはいかないらしい。しかし遺伝子やなんやを言うなら、顕微鏡のすごい版?を用いているのかどうか知らないが、その超近視眼的で分析的な手法においては犬や猫は後退している。その分析には体表の一片がありさえすればよいのだろうから。
段ボールや新聞紙や牛乳パックは、ゴミ袋に入れるという消費の末端において、その資源としての有用性から、つまり生産の側から分別されている。それが段ボールは燃えるのに「燃えるゴミ」に分類されない理由。この分類体系においては「燃えるゴミ」こそがゴミに近い。

5ヶ月前 No.274

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5ヶ月前 No.275

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アイコスを買う

つつがなく会員登録、クーポンを発行、購入。
たしかに煙(蒸気?)の量が少ない。アイコスを吸ってる人の車は少なくとも喫煙者の私からすると臭くない。香水を買わずに済みそうだ。指にタバコの臭いが残りにくいのもいい。あくまで残りにくいであって、残らないではない。味はもう慣れた。後味はいかにもタバコ葉っぽい、茶色の草、という感じだ。紙巻きタバコに慣れてても最初はそのクセが気になるかもだから、メンソール系から入るのがやっぱりよい。
メンソールとミントも後味が濃い。メンソール系のタバコはメンソールの風味が口に強く残るが、アイコスのメンソールは葉の風味?が残る。新発売のパープルはどんなか不明。
「実卓」うんぬんで言ったが、タバコも着火式と加熱式とに分かれるのかもしれない。

使用期間は付属のユーザーガイドを参照すると1日20本でおよそ1年。ホルダー(タバコを挿入し加熱する器具。喫煙のさいはこれを持つ)をポケットチャージャー(ホルダーの充電器。このチャージャーへの充電はスマホーー聞いたところではアンドロイドのそれと同じらしいーーの充電と同様のアダプタを用いる)で充電するが、7300回ぐらい充電が可能であるらしい。掃除も一通りやってみたが手間というほどでもない。
ライターが不要なこと、紙巻きタバコの紙に含有される物質こそが依存度の向上に絡むことを考慮すると(燃焼促進剤などの添加物がたくさん入っている)、巻き紙を燃焼させない仕組みになっているアイコスがタールーーこれは総称らしいーーを90パーセント削減したというのもわかる。使用後のタバコのフィルタを見てもほとんど黄ばんでいない。ちょっぴり使用前より黄ばんではいる。しかし巻き紙の二箇所が湿っていることから、或る程度は巻き紙の成分が含有されているだろう。

アイコスの「煙」は「煙」ではなく「蒸気のようなもの(ホームページに記載)」であるが、その成分、54種の有害物質(タール)を紙巻きタバコと比べると、90パーセント削減されていたということらしい。
通常の紙巻きタバコが紙を燃焼させ、さらに紙には燃焼材などが添加されているのだから、紙も葉も燃焼させないアイコスのタールが減るというのはわかる。が、54種のうちどの種類がどのぐらい削減されたのか、という記載がホームページにはない。英文の論文をページ数も表記して参照しつつ「タールが健康に悪い」を裏付けるーーとは言ってもホームページの文脈ではたくさんの科学者の常識であるぐらいの意味合いだがーーと言っているのはよしとしよう。いまなお臨床実験を継続中とあるのもよしとしよう。そりゃ紙を燃やさなきゃそのぶん煙に含有される物質は減るだろう。しかしその90パーセントやら54種やらの内訳を明記してもよいだろうに。専門学校の「卒業生」の就職率( >>114http://mb2.jp/_grn/1317.html-757#a)のように、胡散臭いどころか嘘っぱちなんかいくらでもある。この90パーセントは、その54種のすべてがアイコスでは従来のタバコより90パーセント少なくなったのか、あるいは、54種のうち従来のタバコと変わらなかった種類もある(むしろ増加した種類の成分もある)けれど一括して言えば90パーセント削減できた、ということなのか、わからない。学術誌に資料だか論文だかを発表しつづけているうんぬんという記載もあったが、それはよいとして、どの雑誌に掲載したのか書いてない。キャッチコピーとしての「エヴィデンス」にすぎない。

そんなわけで有害だとかどうとかはどうでもよい。アイコスはタバコなんだから有害であることに変わりはない、とか、むしろ従来のタバコより有害だ、とかを言おうとしているのではない。強いて言うと、喫煙のさい、口元に従来のタバコにはなかった熱さを覚えるが(もちろん火傷することはない程度)、それによる粘膜への影響はどうなんだろう、ぐらいか。
ワタミがブラックどうこうと騒がれたりもあったが、それはそれとして、ワタミは飯屋だ。だったら飯や酒がうまいか、座席や照明の具合はどうか、注文から配膳までの時間、配膳の仕方、といったところだけが問題だろう、消費者としては。そんなことでいちいち不買運動を宣言したり実際にしたりするイミがわからない。まさか自分が買う商品の販売元や外食先の経営状況を下調べするわけでもあるまいし。同様、健康がどうたらなんて、アイコスの味や使用しやすさなどに比べたら大したことではない。私はアイコスが紙巻きタバコより有害であったってかまわない。接客等々を鑑み、部屋や服の臭いや指の臭いに対する処置が面倒になったことからアイコスを買ったにすぎないんだから。
少なくともアイコスのホームページの文章は内容的に大したものではない。スイスで研究かー、ほぇあーすごいなぁー、ぐらいのもの。

で、喫い心地だ。煙がタバコから出ないため風向きを気にしないでよい。吐くときに上を向くぐらいか。灰が出ないため煙缶の掃除もたやすく匂いが残りにくい。吸った直後はタバコが熱いため、直接ゴミ箱へ、とはいかないが、インスタントコーヒーのガラを入れておかなくても以前よりはるかに残り香がない。
充電を一回々々するのは少し手間ではあるが、味が葉っぱ葉っぱしてるのがいい。最初はクセがあるものの味が気に入ったので今後はミントかメンソールに絞ろう。
おそらく運転中もひっきりなしにタバコを吸う人にとってはホルダーのデカさと重さおよび充電ケースからの/への出し入れは少しネックにちがいない。また、臭いがつきにくくなったのに室内の喫煙所だと他の喫煙者のタバコの臭いがついてしまうのは気になるっちゃ気になるだろう。私には今のところ関係ないが。

アイコスのホルダーや充電器もろもろはマレーシアで作られたらしい。爆発の恐れはそうそうないかな。

ライターと違って充電器を失くしたり忘れたりすると一巻の終わりの趣がある。ケータイ二個持ちと考えるか。必携品として財布とケータイと眼鏡がすでにあるんだから今さら一つ増えたところで。

吸い殻を見ると加熱する刃の当たらない箇所がけっこうある。一枚刃ではなく、十字状とか、二枚刃とかじゃ無理だったんだろうか。単純に考えると、二枚刃や十字にするとそのぶん加熱器に負担がかかるし、おそらく喫煙可能になるまでの時間も伸びる。今でも加熱開始から喫煙可能になるまで10秒ちょいはかかっていると思うが、あまりその長さが伸びるとたしかにイライラするだろう。
十字状にする場合、十字の中心点を尖らせでもしないかぎり挿入しにくい。いや、それでも歯を押し込んでしまう。十字状は難しい。
となると二枚刃か。しかし二枚刃の場合、タバコの巻き紙まで加熱してしまう恐れがある。ホルダーの中心に一枚刃が生えているのが現状だが、二枚刃にするとなると、それぞれの歯は中心を空けた状態で並立させざるをえなくなるが、それはつまり、歯が巻き紙に接近するということだ。ホルダーの耐熱性はかなり高そうだが内部での発火にまでは対応しきれないだろう。ホルダーは吸い終わりまでの猶予を電光のランプの色の変化で示す仕様になってるからけっこうデリケートな機械なはず。たとえ発火による熱がホルダーを通して持ち手に伝わらなくても発火リスクを高める二枚刃は実用に耐えなかったのかもしれない。一枚刃の刃より長辺を短くして二枚刃にしたらどうだろう。依然として加熱器への負担は避けられないし、けっこう短くしないと巻き紙への加熱は避けられない。となると、長辺を短くしたことによって結局は加熱される葉の量に大した差が出なくなってもおかしくない。相当な工夫をしたんだろうな。それなら、刃の強度も鑑みて、一枚刃のほうがいい。
あと二枚刃にするとタバコを取り出すときにどうなるだろう。今は手順通りに引き抜くとタバコの刃がホルダー内に落ちたりはしないが、二枚刃になると、刃と刃の間の葉が加熱により縮小するため、引き抜くときに溢れおちてしまいかねない。よく出来ているもんだ。

臭いに関しては吸い殻からも臭うことは臭うが、タバコを吸うときは冬でも窓を開けて換気するぐらいだし、空気清浄機に対してはそもそも空気清浄機じたいを定期的に掃除せねば意味がないだろうと考えているので、その手間を考えると手が出ない。窓を開けりゃ住むじゃねーかと。年がら年中、高熱のときの皮膚が過敏になった状態であるわけじゃないんだし。その意味でもあれだな、病気というのは「環境」をいちいち気にすること、せざるをえなくなることだ。空気清浄機とか、空気清浄機があるから空気が汚れてる気がするんじゃねーのっていう。掃除機のCMとかで床に細菌だかホコリだかがいっぱい落ちてるようなイメージ映像があるけれど、あの表現を当の掃除している人間に適用すればいかにくだらない表現であることか。きっといちいち家に入るまえに上着を脱いだりしてんだろうし、身体を洗うタオルやスポンジじたいも使うたびに洗浄と天日干しをしてんだろうな。してないなら馬鹿だと思う、あんなの本気にするのは。無神経なんだか神経質なんだか。

5ヶ月前 No.276

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4ヶ月前 No.277

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余談が捗りすぎた。間違っているものを、まさに間違っていると適切に指摘すること、およびその間違いを適切に批判することは、生半可には済ませられない。
言葉と知覚は密接であるということだが、それは単に名前に対するイメージだとかを言っているのではない。フーコーが『ポール・ロワイヤル論理学』を引用した後でまるでハイデガー(『形而上学入門』)のように主張するところでは、「ある(エートル)という独異な言葉がなければ言語は言語として実在しえないだろう」(『言葉と物』、120頁の上段の一部に対する阿による要約)、「存在を指し示すなんらかの仕方がなければ、言語はない」。かつては論理学にとっても「ある」という動詞が重要視されていたことを「マイナー」な著作の引用から示してみせる手腕を見るに、つくづくゆにことかいう勉強嫌いとは無縁な人だ。
もちろん、言語がなければ言語の一部にすぎない「ある」という動詞もないはずだ、という点にフーコーは留意している。だからこそ「この一語は他のあらゆる記号とは性質を異にする」とも彼は言う。アフォーダンスがどうこう言ったって存在了解やカテゴリー的直観を前提としているにすぎない。

言語と知覚は密接であるという主張に対して、百聞は一見にしかずよろしく江頭の「名言」をもちだしたりして、「言葉では表現できない」うんぬんがしばしば言われる。その「表現できない」とされているものーー知覚された像、光景、などなどーーがすでに言葉ありきならそんな風に神秘化するのは滑稽なことだし、ろくに考えなくても、「言葉で表現できない」ではなく「(私には)言葉で表現できない」にすぎないのではないか、と思える。「言葉で表現できないうんぬんはより優れた表現をするために事柄に専心することから自分を遠ざけてしまう」とも思える。それらを一顧だにしないで済ませることになんのイミもない。

「味のIT革命や〜」みたいな発言は可笑しくはあるが、鮮度が失われたら可笑しくもなくなるし、結局はどんな味なのかわからない。先のレスで「葉っぱ葉っぱしてる」なんて書いたが、味の評論というのはじつに難しいものだと再確認せざるをえなかった。
私のかつての腰の激痛に関してはどのように言えるだろうか。まず、その痛みによってどうなったか。上体を起こせない。腹筋をするときのように、寝台を底辺として膝を頂点とした三角形を作るように膝を曲げられないほどに。およそ20分後にようやく寝床から起き上がれたが、背筋をまっすぐ伸ばした上体でゆっくりとでしかしゃがむことができない。まるでバレエダンサーの屈伸のように。
などなどの仕方で、「激しい痛み」以上のことを語ることができる。
その患部についてはどうか。腰とはどこか。背の中心線上であり、尾てい骨より上で、ヘソの高さあたり。
少し考えれば患部を説明するにあたってヘソを持ちだすことができる。つまり、私のそばにいる人に対してしか通用しない発言以上のことを、「「ここ」が痛い」以上のことを、言える。腰の筋肉が痛いのではなく、ヘソの高さあたりの背骨が痛いと述べることもできる。
直立した状態から上半身を反らして背後を見るときが最も痛いか、直立した上体から上半身を左または右に傾けるときが最も痛いか、あるいはそうした場合の痛みに違いがあるか、などなどを語ることで、患部の痛みがどのような原因によって生じているかを知るヒントにもなる。体勢を維持しているとき、つまりとくに動いていないのに急激に患部が痛むことがあるか否かで、その患部の痛みが(腰の骨なども含めて)外傷的なものなのか、あるいはなんらかの内臓の疾患などによるものなのか、判断するヒントにもなるだろう。
医者は患者の自己診断に反して適切に診断を下すことができる。それはその患者以外の様々な人たちの発言や医者による解釈、さらに症状を訴えていた患者が死んだ後にその発言を考慮に入れて死体の解剖をした結果の報告など、様々なことを医者は知っているからである。もちろん元々は患者の言葉が発端であり、いまなお、患者の言葉は治療方針の決定に関わる重要なものであることに変わりない。「そんなことが症状に関係しているとは思わなかったので言わなかった」というように、患者があらかじめ情報を取捨選択してしまうと、患者が取り上げなかった事実こそが医者にとって決定的であるケースはありうるのだから、患者は自らを一つのデータベースとして、医者の検索ワードとしての質問に答えるのがよい。患者が取捨選択すると「なんでそれを早く言わないんだ」と言われる事態を招く可能性が高まる。それぐらいなら、なにが関係のあるものでありなにが関係のないものであるのかに関する判断を停止して、容態の記述に徹するべき。関係ないことまで述べたことによる恥ずかしさなんて瑣末事にすぎないではないか。

言葉によって、患部の痛みがもたらすもの、患部の明確化、痛みの経過、様々なことを語りうる。にも関わらず「言葉で表現できない」「筆舌に尽くしがたい」と言うイミがわからない。これらの言葉はそう言われている何かの度合いの甚だしさを表現する比喩だが、その比喩が事実を記述したものとして語られている。さらには表象についてどれだけ言葉を尽くそうと他人に自分と同じ表象が生じないどうこうを言う人からすれば、うまい棒の味も香りも形も「筆舌に尽くしがたい」んだから、うまい棒だけでなくなにもかもがそうなんだから、もはや「筆舌に尽くしがたい」という比喩の効果さえ無効になる。
言葉こそが足りない。すなわち、語られようとしているところのものへの繋留こそが足りない。少し考えるだけで腰の特定の箇所を言うためにヘソをもちだすことができるし、「ヤバい」以上のことは簡単に言える。まだまだ具体化できるだろう。仰向けや横向きで寝ていた日で起き抜けにこんな症状になったことはなかったとか、その日の腰の激痛を起点としてまだまだ語ることができる。

4ヶ月前 No.278

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「視点が偏る」うんぬんを言っている人は、小粒で丸まっていれば「偏り」がないからそれでよいと思っているのだろうか。
10グラムの粘土をコネコネして球体を作る。なるほど「偏り」はない。まんまるだ。他方100グラムの粘土で星型を作る。その厚さ(高さ)、端から端までの長さ、いずれも「偏り」のない球体に優っている。その10辺のーー☆の辺の数は10であるーー上にある各々の点への、星図形の中心点からの距離には、なるほど球体とは異なって「偏り」がある。円の中心点からの、円を形づくっている線までの距離、すなわち半径は、中心点からその線上のどこに直線を伸ばそうと一定であり、「偏り」がない。
では、小粒な球体よりはるかに遠くまでその線を届かせている星型、この「歪な図形」は、小粒な球体よりはるかに遠くにまでその手を届かせているにも関わらず、(小粒な球体とは違って)「偏りがある」ということでもってのみ評価されねばならないだろうか。
私には「偏ってしまう」どうこうを言う人がなにを考えてるのかよくわからない。その考えじたいが、巨大な星型は小粒な球体よりはるかに遠くまでその一端を届かせているということを無視した「偏り」のある考えなのに。あらゆる人間はあらかじめそれぞれ同じ持ち分、手駒、容量、伸び代しかもっていないと、まさかそう言うのだろうか。それは人間の幸運と不運の数量?があらかじめ一定に決まっていることを前提にした「運の無駄遣い」とかいう奇天烈な思想となにが違うのか。または、人間は生後から少しもその限界を拡大することはできないと運命論者のように主張しているのだろうか。それともみんなで器用貧乏になろうという主張だろうか。器用貧乏どころか、一つのことに専念できない意欲貧乏であることをそれっぽく言っているにすぎない。
一つのことに専念することじたいに多様な障害物との格闘がある。「これまでは知識一辺倒だった。これからは多様な観点からうんぬん」とか。まともに卒論も書いたことがなければまともに受験戦争に参加してもいないから、目標大学の偏差値から現在の自分の偏差値を評価するという、進捗に対する結果と過程を含めた評価様式、「社会人」になってからも通用する価値観の醸成についても無頓着なわけだ。あるいはそれを忘却している。
勉強ひとつにしても苦手科目に向き合わざるをえない。しかも引っ掛け問題を考慮しさえすればわかるように、考えなきゃ間違える問題もあるんだから、文科相みたいに「思考力」と「基礎」を分離させるのはおかしい。
「価値観が偏ってしまう」とか言ってる人には要注意。巨大で「偏り」がある星型はみみっちい球体に優る。

4ヶ月前 No.279

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方法

現象学ーーフッサールはアルケオロギーという名称を採用したかったと書いていたーーについて方法だとか手段だと言われることがあるが、この方法というのはいったい何なのか。フーコーによる知の考古学(アルケオロギー)なら、それが「容認し、実践しうるのは、第二の分析のみである」(『言葉と物』、222頁)のくだりでその方法の特徴が言及されているが、あくまで「学説論」の特徴と対置された知の考古学の特徴についてであり、手引き書的なものではない。フッサールについても河野なんかは「対象の一切の実在性をその方法論ーーすべての対象の実在性をいったん括弧に入れ、意識に与えられたものに還元するという現象学的還元ーーの最初において切り落としてしまっている」と言って、「意味の場を主観に狭めている」なんて言ってる。しかしフッサールは、
「真の方法は究明されるべき事象の本性に従うべきものであって、われわれ自身の予断や範例に従うものではない」(『厳密学』)
「(括弧入れに加えられる)制限とは、(中略)すなわち、自然的見方の本質に属する普遍的措定を作用させずに、普遍的措定によってその存在が措定されているものすべてを一挙に括弧に入れるということである。(中略)しかしたとえ我々が勝手に括弧に入れたとしても、この自然的世界は依然として意識に現れる現実として存在しつづけるだろう。(中略)ソフィストのように《世界》を否定するのではなく、また懐疑論者のように、この世界の現存在を疑うのでもない」(『イデーン』)
このように、河野がそれっぽくまとめてることをフッサールはすでに何十年も前に否定している。「実在性」、つまり、Realitaetについて、それは「が在る」の話ではなく「で在る」の話に関わる語であることは、哲学をかじっている人にはお馴染みだ。かりにフッサールの「Realitaet」という言葉遣いがカントと同様のものではないとしても、河野の文脈だとまるで「フッサールは一切の対象をその方法論の最初に無と同然のものへ帰した」と言わんばかりのものとなる。そうではなく、措定という言葉遣いからも明らかなように、諸々の対象の何「である」かについての問い直しをフッサールは言っている。
「自然的態度」とかについてブツクサ言いたくなる人や、フッサールによる「制限」にレヴィナスの追っ掛けさんがレヴィナスを真似て疑義を呈するそぶりをしてみせるとしても(レヴィナスはその点について言及したことがある)、素朴なところでは、「タイバツだー。キョーイクイインカイに訴えてやるー」なんて舐め腐ったガキが存在することから、あるいは、ろくにテストで点も取れないのに出席点だとかで下駄を履かせてもらってその科目や学科を「修了」して学位まで取れるという奇妙さから、なんか変だな、と思う人はけっこう存在するだろう。そのとき、「上から目線」だとか「押し付け」だとか、いまやこう言いさえすれば相手は怯むと当て込んで使われる言葉の意味について、「押し付けは-してはいけないことである」という措定、「押し付けは〜である」という措定、これが問題視されるようになる。

河野は「主観主義」の欠点の一つにつぎのようなものを挙げる。
「私たちはかくして公共の世界から引き算された、文字通りにプライベートで小さな世界の意味を与えられ、そこで「私は自由だ」と呟くのである」
「たとえばインフォームド・コンセントは、これまで医師の手に一方的に委ねられてきた医療行為を、患者がその決定過程に参加することを求めるものである。科学倫理学は、テクノロジーの開発とその普及過程に、非専門家である市民が参加することを求めている。
主観主義の哲学は、こうした運動にほとんど貢献することができないでいる。というのも、自然科学とは別の領域で主観的な意味と自由を確保することに留まり、そこに満足してしまえば、公共的空間における現実的な自然科学の応用とその物理的な効力について、なにも発言する気が起きなくなるからである」
「主観主義者は、(中略)公的空間の物理的な構成を科学の専門家や為政者に委ねてしまう。(中略)意味や価値の主観主義は、一見、他人の意味や価値に寛容な立場に思えるが、じつは人間相互の無関心を生み、客観的で公共的な場を空白にしてしまう危険性がある」
などなど。河野が「主観主義」にフッサールを含めたりしているのはともかく、それを度外視すれば、河野が言う「主観主義」について河野が言っていることは正しい。もっとも、河野が積極的に言及するカンギレムもまた不調のパトスを訴える人がいたことが病理学というロゴスを刺激してきたというように、個体の存在を軽視はしていないわけだが。こんなんで本を出せるんだから或る意味ではスゴいな。私には無理。
で、偶然にインフォームド・コンセントに言及したレスをすでに投稿しており、また書いていたものをまた投稿した。そのうえで現象学が「公共」の話題から離脱するものでしかないとか言うなら、デタラメもよいところだ。もちろん現象学に肯定的な発言をする人のなかにも、それについて話したり読んだりするのを「知的な」娯楽ぐらいに見なしていない者がいるだろうことは否定しない。が、現象学はどうなのかと言えば、それは「公共の話題」から本質的に無縁である、わけがない。

4ヶ月前 No.280

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「遺伝子は複雑ですから数%の奇形児ができるのはしようがないでしょう」
「しょうがない」の意味がわからないが、そもそも「進化」と「奇形」が密接だってことだよ、私が言っているのは。

「私は奇形児こそ種族保存に何か役立つのでは?大自然の意志では?と思っていますよ」
なに言ってんの。「種が変わる」んだから「保存」できてないじゃん。
気候の変動などなどで或る種がたまたま絶滅し、或る種から生まれた奇形がたまたま生き残り、その「奇形」からさらに「奇形」が、というのが、漸進的な「進化論」からの説明の一つだ。素朴にすぎるけどね。
「種の保存」なんて起きてるの?
ちなみに、クルト・ゴールドシュタインは「保存本能は萎縮した生命の法則である」と言ったらしく、ジョルジュ・カンギレムも生命についてこの意見を是にしている。一つの資料な。
あとアマルティア・センは「西洋人」とか「東洋人」とか、そういう種による規定性について様々な資料から反論してる。この人の本はたいていの図書館にあるんじゃないかな。有名だし。日本の話もちょこちょこ出るよ。


「あなたは子孫を残したくなくても、あらゆる生物たちは子孫を残すことに命がけですから」
どこが? 子ども欲しくない人なんて珍しくないよ。私は子どもを絶対に欲しくないというわけじゃないし、絶対に結婚しないと決意してるわけではないけど、「子孫を残すのに命がけ」なんて言われてもなぁ。 将来は子ども欲しいな、できたらいいな、って人も「命がけ」じゃあないんじゃないだろうに。□□「カマキリもオスが餌となることが経験上、種族保存に一番適してしたのでしょう。どんな方法でもいいから、とにかく種族保存しろ!は大自然の意志です」□結果論だし、そういう「とにかく」は無思慮の現れ。「経験上」も意味不明。□生物による対象の認識を正当化する基盤に「適応」をもちだす試みはクワインがやってたが、ちょっと考えりゃろくでもないもんだとわかるわな。正しくない判断からの行動が個体の生存に繋がることはあるんだから。
「経験上」とかねぇ、カマキリたちが試行錯誤でもしたの? 「我々は公のために今後はオスがメスを事の後に食おう。このことによる成果の観察記録を取り、さしあたりの観察期間が過ぎたなら今度はメスがオスを食おう。そしてまた記録だ」、みたいな。カマキリが? あなたの言う「常識」とかなんのことやらだ。□□「あなたにとって自分の命が一番であり」
べつに。

「家族にとっては家族の命が一番大切、日本人にとっては日本人の命が一番大切、これは理に適っているでしょう。哲学は道理的、論理的にお願いします」□なにがどう理に適ってるのか知らんが、まず、ただの雑談を哲学だとか気負いすぎ。
で、当然ながら親殺しや子殺しはあるし、姨捨もあるわけだ。それが実際には行われなくても親が不愉快でたまらない人はいるだろうし、知り合いでもない日本人より知り合いの外国人の命のほうが大事だなんてなんら不自然ではない。
□「民族保存って言葉はあまり聞かないからね、種族保存という言葉が一般的で分かり易いからこの言葉を使うけど、群れ保存って書いてあるでしょう。日本民族という群れ、仲間です。種族を検索してごらん民族も種族って言うから」
私が言ってるのは、なんで「日本人」を「公」とするのかって話だよ。黄色人種でもいいし、あなたの話なら「家族」でもかまいやしないだろう。□なんで「日本人」なの? 私はあなたが死やをだりヒドい目に合うより、今は連絡をとれなくなってるが、知り合いのオーストラリア人が死んだりヒドい目に合うことのほうがイヤだけど。
「理に適ってる」とか言ってるが、なにがどう適ってんだよ。□□□□「へ〜、年寄りたちを殺すのが公の為なの常識で考えなさい」
あなたが「常識(多数派?」から弾かれたくないのかどうかは知らんが、いわゆる穀潰しってなんら公のためにはならんでしょ。人間は増えすぎなんだよ、「公のため」とか言うならそんなんわかりきってること。
□「生物はその群れを守るために数十億年かけて進化してきた」なんと言おうと、このことは間違いありませんから」□間違ってる。□□□□「あなたが学び、働き、恋をして、時には恥をかき、嫉妬して、そして喜び、ついでに哲学をして、貴方の行為はすべて公の為にあると言う事です」□ないよ。
□□□「これらはみんな種族保存、公の為にならんでしょうが、まじめに考えなさい」□ならないんだ? 「ならない」というあなたのその判断が正しいかはさておき、あなたはそう見なしてる、と。「公」のためにはならない行為、それをもたらす考え、そういったものがあると。
つまり「あらゆる行為が公のためになる、わけではない」し、「公のために為される行為が公のためになるとはかぎらない」、ともなるわけだ。だって高齢化社会なんだからさ、高齢者への医療費軽減のための税金とか年金とか、そういうのを減らしたいってのが合理的な考えだよ。一斤のパンを10人に均等に分けるのと5人で均等に分けるのとでは後者のほうが一人当たりの取り分がデカい、算数の話だ。
それは昔から姨捨や、たしかエスキモーの姨去り(老人が自ら家を出ていって食い扶持を減らす)のように、慣習として存在してさえいた。今でもこういう考えは珍しくない。
で、それを或る人が勝手にやっちゃったとしよう。たとえば老人ホーム襲撃とかね。老人だけを狙って。
そりゃ犯罪だしヒドいことだが、働けない穀潰しでもある老人を減らすことはたしかにもたらしてるわけだ。かりに国民の大半がBooBoo言うとしてもね。自分らの給与などなどから差っ引かれてる税金を回す対象が減ることは、そのぶん自分らに回ってくる税金が増えること。素朴に考えりゃね。
「公のため」とか言うならなにがおかしい?

で、あなたは「種の保存」とやらに適していない行為や思想や感じ方ーーたとえば日本人は日本人の自殺者に対して「傍迷惑な」と思ったりするーーがあるわけだ。
あなたによりゃ、人間がそういう風になるのも何かヤバい奴の御意志なんだから、なんでもありだよ。あなたが「役に立つ」と認めた奇形児みたいなもんだと思えばいいじゃん。そういう日本人もまた「種の保存の役に立つ」と。もっとも、見ず知らずの日本人より知り合いのオーストリア人の命のほうが大事だってのはなんもおかしくはないように、日本人が日本人の自殺者に「傍迷惑だなぁ」と思うのはなんら不自然ではない。善し悪しなんかはさておき。そういう人らが少数派かどうか、何割を占めるか、少なくともあなたが思うよりは多いんじゃないかな。

4ヶ月前 No.281

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バンプオブチキンとかなんとか

ああいう声質は苦手だし、バンプと似たようなバンドが最近いくらかいるみたいだが、あれも苦手。『hated john』とかバンドメイドのほうがカッコいい。ベビメタは「おすおす」言ってる可愛いのが有線で流れてたが、特になにも思わない。アイドル止まりだ。バンプもどきはたしかあれだ、前世前世と繰り返してたバンド。

バンドメイドはそのうに知名度が高まっていくに違いない。お気に入りのバンドが有名になろうがなるまいが知ったことではないし、売れてるんだったらとりあえずは聞いてみたほうがよい。それは多くの人の反響ーー賛否混み込みのーーがある作品であり、つまりなにがしか訴えかけるプレゼンスがあるということだから。そこに好き嫌いを入れるのはおかしい。
聞いてみてなお、ベビメタは「kawaii」の域を出ない。女の子らがヘビメタをやることに意義があるというのはわからんでもないし、その先駆け的な立ち位置もわからんでもない。が、バンドメイドをはじめ、似たようなのが出てくるにきまってるんだから、むしろバンドメイドがもう出てきてしまってるんだから、そんなのは重要ではない。いまベビメタが歌っている歌は長続きしないんだから(無理しても浜崎あゆみのように醜態をさらす羽目になる)。歌い方を工夫しなかったらあの調子で五年後にも「せいやせいやおすおす」なんて歌えないだろう。その時分にはもう十分に稼いでいる、みたいな話はどうでもよい。
三月のライオンの著者が好きだっていうんでバンプの『fighter』を聞いてみたが、いわゆる優しい声だろうし、上手いとも思う。しかしとにかく一本調子でつまらない。切り損なって暖簾みたいになった大根、という印象の全体観。歌詞も良くはない。癒しソングかなんかとしては良いんじゃないか。矢沢永吉みたいに意識的に溜めまくるというか、勿体ぶったのも違うが、誰がどういう時に聞くのかを思うと癒されたいとかか思ってる人が聞くんだろうな、という。そう言えばあの著者も薄弱らしいし、彼女にとっては良いチョイスだ。

4ヶ月前 No.282

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養子

少子化どうこう言ってるが、いまも施設では子どもが存在する。クソな文脈から言えば「一億総活躍」どうこうから目をつけて当然の子どもたちだ。ピーター・シンガーも出産から子育ての流れより養子引き取りから子育てのほうを重視するだろう。
実際のところ養子はなかなか進みづらいだろう。血筋うんぬんの話ではない。ちょっと「アメリカ 事件 養子」で検索したら「単一民族の日本」「儒教の影響が強い日本」なんてのを論ったって仕方ないとわかる。なかなかエグい話もたくさん出てきた。私はそれをすべて鵜呑みにしているわけではないが、血族意識とか抽象的なーー人によっては遺伝子うんぬんから尤もらしく思えるのかもしれないがーーそういう話にはノータッチで正解。

単純に、自分が養子として年少者を迎えるときのことを考えりゃいい。さしあたり10代の子どもの場合はどうか。私が引き取るとするなら、私は、少なくともしばらくパンツ一丁で家を歩き回ることはできない。養子の子が女の子なら尚更だ。男の子を引き取る場合だと女も苦労するに決まってる。アメリカでも養子としての需要が高いのは幼児である。あるいは養子の子どもが養親を異性として見ることへの懸念もあるだろう。だいたいこういう話題では養親による虐待の流れで語られるものだが、養子の子からの養親への態度は、家庭を考えると虐待と同レベルで崩壊の危機である。同レベルは言い過ぎかな。

こういう素朴なところが養子に対するハードルの高さであり、血筋だとか儒教だとか抽象的な話は宙に浮いている。養子として迎え入れられる子どもは男の子か女の子かであり、どちらでもない中性的または無性的な者ではない。だから幼児の場合は性的にも価値観的にも未熟であるためにそうした煩わしさが少ない。5歳や10歳になるとすでになにがしか自分たちとは異なる文化や人付き合いなど様々なものから「影響」を受けているので、いわゆる「価値観の衝突」が起きたりする。それが発覚しなくてもだ。引き取られた子どものほうが配慮しまくってくれたらかなり発覚しにくくなるから。だから案外、全裸はないにしてもパンツ一丁ぐらいならあえてしたっていいのかもしれない。「パンツ一丁で歩かないで」と怒られるところをわざと見せるのも、この場合では子どもを安心させる一つのきっかけになりうる。配慮配慮と言うが息苦しいったらないんだから。
親がいない子どもに対して「親の介護や世話に煩わされないでいいな」という意見もありうるが、この意見の是非はさておき、自分と相反する意見に対しての対処を間違えると酷いことになる。大した映画ではないが、『幸せの隠れ場所』では黒人の男の子を養子に迎えたことに対して下衆な物言いをされたお母さんが怒りを露わにしていたっけな。あの対応は気高くはあるが、その気高さしか描写されていない。あのお母さんはあの集まりの序列に占める位置が高い(つまり旦那の給与や職に対する世間的なステータスが高い)ように思われるが、まずああいう手合いは下衆呼ばわりされて反省なんかしない。せいぜい、養子になった男の子がプロ入りしたりして好意的に遇せられた暁に、「あのときはあんなこと言ってごめんなさいね」と申し出てくるぐらい。そのまま黙っていられもしない。養子を迎えることに対する忌避感には、実子をもうけるのとは異なる「世間」との対立がある。もちろん養子でなかろうと「世間」や「社会」との対立があるのが家庭だが。それを思えば、お弁当が異様に手が込んでいること(「主婦力」「女子力」でググったら出てきた)ではなく、子どもの前で本気で妻や旦那の悪口を言わないことが、良妻であり、賢母であることの一つだ。当たり前だがSNSでこっそり愚痴るとかも論外。夫婦間の問題は夫婦間で治める、子どもに対しては絶対に見せない。子どもが見てる状況でも言える(あるいは実際に言った)ようなことしか近所には愚痴として話さない。配偶者への愚痴はご近所付き合いではなかなか避けにくい「テクニック」であることまで私はまだ否定できない。たぶんそこまで否定する要はないだろう。

4ヶ月前 No.283

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=7kXkz52zZb

「行き方がわかっているが何処にあるかがわからない場所」、「何処にあるかわかっているが行き方がわからない場所」、そんな場所はない。この場合、「行き方がわからない」というのは、思いついた方法が実現できないものであることから「行き方がわからない」と言われるにすぎない。そこを曖昧にしたら創作かなにかのネタぐらいにはなりそうな言葉だが、そんな場所は存在しない。目的地が雲の上であるならば、飛ぶ鳥を見て思いつきうるように、目に見える雲の上へ行くためには飛べるようになることが一つの方法だ。あるいは山登りや坂道を上ることから、雲の上まで届く塔や道を作ることもまたそうである。このとき、雲の上まで道をどう作るかあるいはいかにして雲の上まで飛行できるようになるか、その方法の実現の仕方がわからないということは、すなわち、「行き方がわからない」ということではない。行き方はわかってる。その行き方を実現するにはどうすればよいかがまだわかっていない、それだけのことだ。そしてその行き方の実現のためには、塔ないしは人工的な坂道の建築に関して知ることが重要。塔を高くすると不安定になる。強風や、その塔を登る者の重さや、その者の歩行がもたらす振動に耐えられる塔でなければならない、などなど。

現象学の「方法」を手引き書かなにかのようなものと見なすなら、そんな「方法」はないと言わざるをえない。取扱説明書を見ながらアイコスを充電したりタバコを加熱させたりするときの取扱説明書のようには現象学の「方法」はない。
私が本を読むときにしている「方法」、読書の「方法」と呼べるものなんて、ひたすら読む、読み飛ばしながら読む、また最初から読む、途中から読む、何ヶ月か何年かぶり読む、忘れた頃にふと部屋にある本を手に取る、そうやってわかるときが来るのを待つ、読んで埒があかなきゃその本から離れる、結局この待つということでしかない。こんなもん普通の意味での「方法」なんて呼べるわけがない。しかも本の内容がその本を読んでいないときにわかったりもするのだから、そうした偶然が訪れる空き地を拵えておくことも重要になるが、もはや論理好きーーそれがありさえすれば何でもできるという気分にさせてくれる「汎用的な」十得ナイフ好きーーが欲するような「方法」とは無縁。
原著の文献研究の講義や自学自習の原著読解のときのように、ちくいち文法を参照したり、前後の意味合いから訳語を考案したり、見知った単語の異なるニュアンスに集中するでもなんとはなしに候補を挙げ、その候補を把持したまま読み進めることで確定していったりーーそういうのは今も息づいているだろうけれど、その当時の読解もやはり待つことをしていたにすぎない。

読むことに対して書くことは、まさにこのアイフォーンのメモ帳のおかげでかなり楽になっている。原稿用紙に直筆で書く場合だとあらかじめ文章の構成を定めておかねばならない。様々な思念や情念が跳梁跋扈する其処から文章をまとめ上げねばならない。しかしメモ帳のなんと簡単なこと。うまく繋げられないがもうすこし工夫するとうまく収まりそうだ、という類いの思いつきもとりあえず書き残しておけるし、実際に後でうまいこと繋ぎ合わせられる文脈が出来たときにカットアンドペーストしさえすればよい。とりあえず書いて残しておいて、後でカットアンドペーストする。これは優れた文筆家の能力だったはずのものだが、メモ帳はこれを万人が利用できるツールにしたわけだ。そのことが中学生や小学生にも議論を可能にさせている根拠である。パルマコン様々ではないか。それが「方法」とは異なるアプリの意義。AIがどうこうと今更のように言われているが、すでに予測変換などなどによって書くということから人間の手は離れつつあったわけだ。
しかし〈待つ〉ということはツール化しえない。ただ気長に過ごせばよいというものでもない。
メモ帳機能、予測変換機能、こうした「方法」によってどれだけ民主化をはかろうと、無理なものは無理。むしろ文字というパルマコンが記憶力などを弱めると言われていたように、「方法」や「技術」なしではろくでもないことしか言えなくなる人はたくさんいるだろう。しかしそれでアプリが人を駄目にするとか便利なものは人を駄目にするとか「技術批判」に走るのも芸がない。そうした技術を使い切ることができるようになるには、というところを考えるほうがよっぽど大事。

昔の教授職の人間がすべてそんな文筆家だったとは言えない。『デカルトの骨』だったかな、ちくいち同じ単語の数が何個あるか、その使われ方はどんなか、そんな煩瑣なことを書いていた箇所があったのしか覚えてない本だ。あんな作業はデカルトの著作をデータにして単語を検索すりゃ数秒でケリが着く。ページを視線で舐めるように追って一個々々ちんたら数えていかなくていいんだから。そういうほとんどマニアか趣味の人レベルの仕事しかしてなかった人は大学で職を追われたと聞く。
今ではコピペ発見器によって自分の仕事を減らそうとすると教授もいるが、かりにコピペを発見してどうするんだろう。そのコピペの元の著作を自分で読んで適切なコピペであるかどうかを吟味したりするのだろうか。まさか「〜からのコピペですね。ちゃんと引用元を書きましょう」みたいなんで済ませるわけではないだろう。大いにありうることだが。
先に述べた河野だが、あいつなんか60から65ページの9割は『正常と病理』からの引用符なしの、ちょっと和訳書に手を入れたーーしかも出来を悪くしたーーだけの引用文のオンパレードだ。「オリジナリティ」はどうでもよいし、神経質に引用元を明記しろなんて言わないが、その引用の無様さったらなかった。それに比べたら進化論の話で『論考』のあの箇所をあんな風に引用できる人は私以外にはそうはいない。「環境」に埋めこまれた動物の論脈とうまく繋がってるし、サラっと引用してあるのがまたニクい。ユクスキュルとアガンベンとハイデガーのダニ論まで射程に入っていたからだろうか。あの引用のキーワードは可能性。それが『論考』と進化論を同時に語ることをもたらしている。

私に言わせれば、現象学とは反方法論にほかならない。

手引き書が、手取り足取り、その手引き書によって実現されるべきものを私が実現できるよう私を導くものであるならば、その手引き書はいかにして書かれたのかが問題になる。経験的な話で言えば道案内がよい。現在地から最寄り駅への道筋を他所者に案内するとき、最寄り駅がどこにあるかわかっているからこそ道案内できる。車の場合、徒歩の場合で案内を変更できるのも、終わり・目的endに由来する。そして地図はそれを書いた者がその地域を訪れたからこそ書けるのであって、他人が目的地としているその店への道筋をその店に行ったことのない私が案内できるということは、なんの反論にもならない。
フッサールの場合も同様。デタラメを並べる河野や現象学関連の(知的な笑)オシャベリをする人はフッサールが「方法」を書いたという自明視のもとにあるーー「自明視のもとにある」を回りくどい書き方だとしか思えない人は多いだろうなぁーーけれど、卑近な事態を例に述べたように、フッサールが「方法」を書いたとするならばなぜフッサールは「方法」を書けたのか、それが問題になって当然。しかし問題視すらされない。そんなおしゃべりより「学説論」と対置されたフーコーの「考古学」が容認する「第二の分析」(『言葉と物』)のほうがよっぽど現象学的だ。ただしフーコーの場合はハイデガー読解(「何tもメモを書いた」と言っていたっけな)を通して知らず知らずに現象学を理解しているように思う。

『イデーン』でもフッサールは、
「方法を作り出すのは、現代科学と呼ばれるものでもなければ専門家だと自称する人々でもない。或る特定の範疇に属する諸対象の本質と、そしてそれに付随する、それらの対象についての可能な経験の本質(すなわち現象学的構成のアプリオリ)が、方法のあらゆる原理的要素をあらかじめ規定している」
と述べている。つまり「方法」は対象に規定されている、ということ。これに類する文は随所に見つけることができる。もう一つだけ挙げれば、
「真の方法は究明されるべき事象の本性に従う」(『厳密学』)
がある。
ろくに本を読めない人が現象学についてなにを言おうがどうでもいい。結局のところ、私がわかっていればそれでいいんである。

で、「究明されるべき事象の本性」とか言ったってどうしたらその「事象」に従うことができるのか、なにをもって「事象に従っている」と判別できるのか、となるわけだ。フッサール自身が『理念』でありうる懐疑の一つとして紹介しているように。たしかに「事象に還る」とは言ってもその「事象」が何なのかよくわかっていなければ、印象の羅列さえ「事象に還った」ことだと見なされうる。しかし「事象に還る」と言うとき、いまだ「事象」に還っていない者は何処にいるのか。何処にせよ、つまり、人間は「事象」から離れることが「できる」。そのように語ることが「できる」。しかし人間が「事象」と無縁であることは不可能だ。論理学好きは「定義」をもとにして体裁が整った文章を作ることを問題とするが、その態度は、論理学好きがその在り方において事象と無縁であることを意味しない。

見ることは、つねにすでに見終えていること。また、見ることは知覚だけのものではないということ。
錯覚の例示による懐疑論への勧誘は、まず、それが錯覚であると明らかにされていることから、その錯覚を事の真相として見なさないでいられるという事実を軽視している。さらに言えば、錯覚は錯覚で、事物の在り方を示している。つまり水に棒を差し込んで屈折しているように見えないなら、それはおかしいのである。つまり棒と水と光と目の関係からして、それは棒という事物の正しい姿。
人工的に作られた錯視図形の場合、はじめからそれは視覚を動揺させることが狙われているのであり、そしてそれに成功しているのだから、視覚に対して人間は正しい知識を得られることをなんら否定していない。にも関わらずこうした論法で不可知論だかにもっていこうとする手合いは吐いて捨てるほど見てきたが、不可知論勧誘で金を貰ったりしているのかと思うほどに素朴。そして知覚に対しても、ウィキペディアに載ってるような錯視図形に関して言えば、目線と画面を並行になるようにアイフォンを傾ければよいだけのものがある。人間の実際の知覚は様々な角度から事物を見ること、さらに眼球の揺れや身体の揺れなど、静止してはいないが、ごくごくかぎられた条件で知覚を「誤らせる」のがトリックアート。ミュラーリヤーの「錯視」も、内向きの羽根がある場合と外向きの羽根がある場合とで焦点が左右されるんだから、トリックアートの域を出ない。
ギブソンは、いわゆるデカルトの方法的懐疑じみた錯覚論法からの「知覚は不正確」を批判して「実在論」を言ったわけだが、そもそも、言語-が-在るということがいったいどうやってアフォードされるのかーーあえて心理学的な言葉遣いをすればスキーマのアフォードはいかにして起こるのか、ということに対して、ろくなこと言ってない。「知覚」じゃ無理に決まってるのに。大森荘蔵や中島義道や野矢茂樹の現在論よりはずっと良いが、フッサール以下。フッサール的に言えば理念化やカテゴリー的直観に当たる話だが、ギブソンとまったく違うのは、ギブソンは「環境」を「実在的なもの」としているところ。結局のところ、あれだけ錯覚論法を批判して知覚は正しいと心理学の「常識」に立ち向かってはいたものの(それはそれですごいと思う)、「主観」に対する反動を乗り越えきれていないわけだ。河野なんかは、このまま書いているわけではないが、アロンの話に対するサルトルの衝撃を引用したり、ギブソンの先生の現象学者とギブソンとで考えが一致しているところがあったと言及した後で、現象学の目指したものをギブソンは実現していると言わんばかりだった。実質、言っているけど。

4ヶ月前 No.284

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『hated john』読解

気分の変調が激しい歌。気分の変調そのものを歌った歌。基軸には、おそらくは2人の、航海の物語がある。そのうえでの波瀾万丈の気分。西野カナとは対極。

船酔いでもしそうな変転は「Somethin’ like this 覚メナイデ yea」から如実に現れる。いわゆる世論としてのオピニオンをピンボケと称し、レンズを絞れ、焦点を合わせて物を見ろ、そう鼓舞する。その尖った在り方にすぐ、でも意地を張ってちゃ見えているものも歪んじゃうんじゃないか、でも傘なし野ざらしはおかしいのか、と「不安感」に陥る。
そして次だ。飽きるまで夢を見て、そしたら戻ってこい、と言われている。「覚めないで」と言っていたが覚めちゃったわけだ。
「俺たちの計画は終わった。その結果は? おまえはまだ打ち伏せられていない。俺は難破してしまった」。「俺は座礁してる。なにしてんだ俺は。おまえに合わせる顔がねぇ」
船舶に関する語彙で「俺」と「おまえ」ーーまずどちらがhated johnなのかという問いが出来るーーの状況が語られ、「俺」の自堕落な様子が「溺れ」「流浪」「漂う」と船から落ちて海に浸っている者として語られている。
この2人の存在からして、「戻っておいでよ」と言っている者と言われている者がいることがわかる。そしてこの「戻っておいでよ」と言っている者は、「傘なし野ざらしこれってちゃんちゃらおかしい?」と言っている者とはべつの者である、と読める。その2人が対立しているのも明らかだ。どこから? 「揉め事strife」の後の、「もしお前が富と名声を求めるなら、どうだ?」という誘いに対し、嫌々ながら腰を上げ、腰が重い様が描かれているところから。そんなんじゃ俺の気分はアゲアゲにならないんだよ、というところから。そうして富と名声という誘い文句とは関係なく、おそらくは「俺たちの計画」へ自分自身を賭けると言われるわけだが、ジェットコースター的な上下左右運動からの最下層。
この「嫌々ながら腰を上げた」者が「俺は難破しちまった。お前に合わせる顔がねぇ」と言っている者。つまり「嫌われ者john、笑われ者john」が同一人物を意味するならば、「お前が富と名声を求めるなら、どうだ、俺と計画に着手しないか」と誘ったであろう者こそが、johnなわけだ。

嫌われ者で笑われ者なジョンと「俺」はなんだかんだ腐れ縁。ジョンは成り上がり志向に見える。しかしアウトロの断末魔じみた声を聞くに、ろくでもない結末に終わったのかもしれない。
話者の変換と気分の変調というキーワードからこんだけ固めれば他の箇所もほとんど考えなしに読める。

総評としては、構成が凝ってるなぁというのが第一印象。「傘なし野ざらしこれっておかしい?」という戯言の掃き溜めからジャンプしてきた者に「遅かったな」とか、ちゃんと歌詞が繋がっているが、歌詞が読み込まれることを前提にした歌詞だ。
もちろん読み込まれはせずとも、ラブサイケデリコだったかな、あれみたいに、英語なんだか日本語なんだか最初はわかりにくい歌声とリズムの面白さなどから、歌詞を読み込まない人も射程に入っている。それが歌の美点として相応しいかどうかはさておき。あんま相応しくはないが、物珍しくはあるだろうことは否定できない。

これでしばらく『hated john』は聞き納めかな。しかし村下孝蔵はすごいな。

4ヶ月前 No.285

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ミラーリュヤー錯視は現実で言えば部屋の隅にある。四角い箱のなかにいると考えよう。その箱のなかにいる者が隅を見ると、上下、一枚の壁と一枚の壁のあいだに、線が走っている。床と天井に沿って、ミラーリュヤー錯視図における羽根が走っている。しかしミラーリュヤーの錯視図の平面的な図形とは異なり、上下を走る線は私から見て置くにあり、矢の羽根のような線がこちら側へ伸びている。つまり奥行きがあるわけだ。
もう一つは箱を外から見る場合、あるいは廊下を曲がるときの廊下の角にある。床から天井へ(天井から床へ)線が走っており、今度は私から遠ざかるように、矢の羽根のような線が2組、伸びている。
ミラーリュヤー錯視図は、遠近感に関わる。長く見えるほうの図形、羽根が「外向き」に伸びている図形は、現実的な場面て言えば、廊下の角を見たときに見出せる図形に当たる。つまり、羽根が「奥側へ」伸びている図形だ。
指を目に近づければ指は「大きく」見える。遠ざければ遠ざけるほど小さく見える。ミラーリュヤー錯視図はこの正常な在り方を用いたトリックアート。ミラーリュヤー錯視図における羽根は遠近感を演出している。だから、羽根が外向きに伸びている図形(廊下の曲がり角のその角に見られる図形)は、部屋の隅がこちら側から遠いのに対して、廊下の曲がり角はこちら側へ出っ張っているように、大きく見える。羽根が内向きに伸びている図形の長線は、現実で言えば部屋の隅の上下線であり、私から遠い線だ。だから小さく見える。
もしこの種の遠近感を錯覚だと言うなら、遠近法のない浮世絵に対する違和感は錯覚ではないのだろうか。浮世絵的な視界こそ私の眼差しの額であるのだろうか。まさか。端的に、ミラーリュヤー錯視図はトリックアートである、これで終いだ。それは現象論者が好む懐疑論への勧誘の手段にはなりえない。ミラーリュヤー錯視図において、羽根が内向きになっている図形が短く見えることは、部屋の隅が奥にあることを適切に捉えているのと同様の事態。廊下の角はその角の正面に立ったっきこちら側へ出っ張っていると判断するのは、謬見ではなく、正見であるように。『2d or not 2d』や『bad apple』のPVにおける図形の「連続的な」変形に類する変形、たとえば球体が円錐に変形する人工的な映像を見たことによって、私は球体を円錐だと見なすだろうか。見なしはしない。そんな風に見なすならそれこそ錯覚どころではない異常であり、かつ、この場合は謬見である。

4ヶ月前 No.286

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そう言えばラッセルは『論理的原子論の哲学』の最後のほうで商品の購入について書いていたが、うまいこと連休の掃除の話と繋がったので、書いておこう。

自己啓発系の文章は気持ち悪いが、断捨離の気持ち悪さは、断の時点で自己を完結させようとしているところにある。
物を捨てるというのは、その物に関わる未来を捨てることであって、過去志向なわけではない。物を捨てられないとかとりあえず知っておこうとか言う人が懸念するのは、その物や知識がいつか役に立つ日が来るかもしれない、そうした未来への懸念であるように。だから、断-捨-離における断とは、自分をその時点で見限ること。なかなかラディカルな未来否定的な意見であるが、できるわけない。
断捨離とか言うなら髪も捨てりゃあいいものを。ずいぶん小綺麗な著者だこと。いい年して茶髪にしちゃって。白髪が嫌なんかな。茶髪にするための様々な物は断捨離断捨離と言いながら捨ても離れもしてないんだから、ご都合主義。それは私が自分に必要なものだと判断したからです、それ以外のものはちゃんと絶って捨ててますーーみたいなことを言うにしても、本が売れてこれまでとは違う物に関わり合いをもつようになってもいるわけだから、ぜんぜん断できてない。できるわけがない。
あの女は断捨離とか言って自己啓発系のこと書いてんだから、自分の容姿さえも込みの現状を俎上に挙げられたって仕方ない。それが自己啓発系というもの。あれだ、ビリーズブートキャンプみたいなエクササイズの指導員や紹介者がデブだったらそのエクササイズの効果が疑わしく思えるとか、そういうのと同じ。自己啓発系は属人的にしかなりえない。
この場合、断捨離の紹介者の女が貴婦人じみた服装や身だしなみをしていることは、断捨離をすれば私もこうなれる、と、そう思わせる広告なわけだ。しかしそう思うからこそ身だしなみに気を遣うのであればなにが「離」なのかさっぱり。断捨離の内容からすればあれでさえ着飾っているだろうに。「それは宗教の自己啓発的な側面を現代の日本にもマッチするように改変しているからであり、断捨離における断はそのさいに自分に必要のないものをきっぱり必要なしと分類することである。あらゆるものを断てと言っているわけではない」みたいなこと言うに決まってるが、捨てるか捨てないかを選択するその其処で、様々なものを捨てるものへ分類するなんてまともにできるわけがない。そこらへんの実態、つまり「捨てなきゃよかった」という事態を隠し遂(おお)せなければならないわけだ、断捨離をはじめとした自己啓発系の思想の紹介者は。なおさら断捨離の後も余計なものを「断」てることなんてできやしない。そうした秘密ができるわけだから。

『進撃の巨人』におけるユミルとヒストリアの名前に対する態度の違いは何だろう。ユミルはユミルという名を名乗りつづけている。ヒストリアは、後々に明らかになるその過去を斟酌するにしても、多少は物を考えることができる年になってもいまだ名前を隠している。犯罪者が名前を変えるように、あるいは『ひだまりスケッチ』の作者や様々な声優が工口関係の作品に関わるさいは名前を変えるように、名前を変えることには意味がある。犯罪者うんぬんを言ったが、たとえば仇討ちを志し、それでも仇討ちを本心から良しとは見なしていない者が、家名を汚さぬために名を変えて仇討ちを為さんとするようなとき、名を変えるということは一概に悪し様には見なしえない。
この例が適切であるか否かはどうでもよい。名前を変えることの意味への集中のために、道徳的な関心を相対化しようとしているにすぎない。実際、名前を変えることは犯罪者がそうするさいの関心とは異なる関心から為されうるのだから。酷い名前をつけられて法的手続きを踏まえて名前を変える、ということもあるように。
「親がいないなんて気楽でいいな」というのも親が憎たらしくて仕方ない子どもからすればありうる意見だ。こうした意見への道徳的関心ではなく、その意見の意味の理解への献身こそが重要。その意見に最初から聞く耳をもたないこと、それは誰にでもできる。馬も念仏には耳を貸さない。私にも耳を貸さないことはできる。日常では実際にそうするとしても、私はそれ以外もやる。最初から聞く耳をもたないことは私の認識の射程を拡げない。聞き飽きて書き飽きた思想にはほとんど耳を貸さないが。
捨てるということは、一つの〈先駆的決意〉ではないか。しかし終わりは遅れてやってくる。自力で物事を終わらせることはできない。終わらせることを試みることが、終わりの到来の条件でありうるとはしても。

4ヶ月前 No.287

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=kwzoSo4FMv

金貨、銀貨、銅貨。そして今日の紙幣。
私はかつてお金が好きだった。今でも新500円玉に施された様々な細工、たとえば傾けて見ると500という数字が見えるとか、そうしたことを思い出してはスゴいなぁなんて再認したりする。今でもピカピカの10円玉や5円玉がお釣りにあると「おっ」と思うあたり子どもである。そういう意味では幼い頃ほどではないにせよ今でもお金が好きなんだろう。
それとは異なり、いまやお財布ケータイ、電子マネーというように、金銭はその物質性からますます離れつつある。その便利さは素晴らしい。財布をまさぐって小銭を落としている人を何度も見てきたし、財布が重いからと財布をほじくり回して1円玉とか10円玉を取ろうとする人も見てきたが、そうした手間は電子マネーにはない。テクノロジー非難からのプリミティビズムに用はない。
その意味で言えば、かつては貨幣の質料、リアリティに意味があった。胡椒が金と同じ重さで交換されたと言うが、胡椒の軽さと西洋における胡椒の希少性を思えば、法外な価格であるわけではない。そもそも麦も金銀の重さで交換されていた。胡椒が格別に価値があると見なされていたから胡椒にかぎって重さを単位として金銀と交換されていた、というわけではない。過去の様々な銀貨を調べればわかるように、かつては重さが貨幣にとって重要だった。すなわち、その貨幣の材質が重要だった。10円玉は1円玉の10倍の交換価値があるが重さは重要視されていない。10円玉の10はデナリウス銀貨における「10」とは意味が違う。その差異が顕著なのは極めて軽い紙幣だ。

金銀は希少であり、変形させやすい。そして金銀はそれ自体が富だった。私は宝石を眺めるのも好きだが、金銀もキラキラしていて目に留まる。加工をしやすいとは、重さを揃えやすく、刻印もしやすいことを意味する。数多くの人々が交換のために使用するものとして相応しい。
金貨銀貨はその質料性と希少性の後に名目的な価値を与えられていた。金銀はそれ自体で価値があり、それが交換のために使われていた。もちろん日用品としての価値はないが、その希少性と美しさは富の象徴として相応しい。
それがいつしか逆転した。一万円札それ自体の価値、その紙の価値は、とうてい一万円に足らない。金貨銀貨はその総量が限られており、国土の鉱脈を掘り尽くしたら外貨を獲得せざるをえなくなることもある。アメリカ(と言うより西インド・新大陸)の発見により、ヨーロッパには金銀が大量に流入した。それはヨーロッパの生産品の総数に対する貨幣の総数のバランスを崩すと共に、金の希少性へのイメージを弱体化する。つまり金の物質的な特徴に対する重視が軽くなる。
金銀の物質性よりも、金銀に刻印される国王の肖像、そうした象徴・記号によって金貨銀貨には値打ちがあるとされるようになる条件が整えられてきたわけだ。それはなにを意味するか。貨幣の記号化だろう。それが流通する、他のものと交換できる、そのことにのみ貨幣の価値があるとされるようになる。電子マネーや預金通帳の数字はそれが先鋭化した一つの在り方だ。屋内の商店でなにやら四角い包みを何かにかざし、奇妙な音がしたかと思うと、店員は商店を手に持って出て行く私を引き止めるどころかお礼まで言う。19世紀の人間がその現場を目撃したら意味不明もいいところだろう。
私はこれを言語に対する今日の記号論理学の話と繋げられないかと考えている。記号論理学において、象形文字に素朴に現れている、木や火など文字によって語られようとしていた当のもの、文字と文字で表されようとしていたものが在った其処、あるいは対象への対峙においてその文字や言葉が生まれつつあった其処、そうしたものは漂白されている。ちょうど、貨幣がその貨幣のレアリテによってではなく、国家ないし王の象徴であることによって、あるいは国家ないし王の象徴であることの国民の(暗黙の?)同意によって(ジョン・ロック)、個々人の心理的な要素に還元されうるように。
私は「英米系は日本人にウケが悪い」といった話は信用しない。今日の金銭の在り方はじつにいわゆる「英米系」と相性がよいからだ。
もっとも、かつての金銀の在り方に回帰することが重視なのではない。その在り方に関する私の記述に不十分どころか不適切なところがありうるにしても、それさえ私には重要ではない。貨幣が一方ではそうであり、他方ではそうではない、その二方が起きる其処から始めることが重要である。金銀がもたらす、金銀自体に制約された、その表象の可能性は、どの程度のものなのか。それが私の関心と言えば関心だ。経済はどうでもよい。

金銀は自然物であり、美しく、手に入れるために採掘を要する。地の深くに埋められたその希少な金属の、採掘現場の薄暗い空間でのその輝きは、空間の薄暗さも相まっていっそう妖しさを帯びている。金銀は、それを手に入れるための労苦、希少性、輝き、そうした諸々の事情により、他の自然物よりいっそう高い地位を与えられる。紙幣や今日の硬貨がそのようなイメージを惹起するのは難しい。身の丈を優に越えて硬貨をうず高く重ね、硬貨の山を作ってみると、硬貨のその物質的な美しさが再認されるかもしれない。ここで再認と呼ぶのは、5円玉や10円玉などの硬貨の物質的な輝きは、数多の童心を捉えたに違いないだろうからだ。いわゆるゴールドラッシュは金の象徴的価値の暴落。もっとも、世間的な、ではある。いまなお私は綺麗な5円玉に「おっ」となるし、10万円ぐらいなら5万円相当の金塊を選びそうだからだ。そんな人がいくらか存在するだろう。宝石は着飾るためにではなくただ鑑賞するためだけに欲しい。指輪、ネックレス、それら装着前提のそれではなく、ゴロッとした塊が良い。延べ棒は許容範囲内。

そう言えば銀の銃弾と言われるように銀は吸血鬼だかなんだかの撃退に効果的だ、みたいなことが言われていたっけか。その思想における吸血鬼と銀の位置づけは、素朴には邪なものと聖なるものとなる。なぜ銀だったのかまではわからない。白金と呼ばれるように、また、その輝きに見られるように、夜に活動するとされる吸血鬼に対しては効果的だとされたのだろうか。それなら黄金や青銅ではなく銀であるのもわからんでもない。
もっとも、吸血鬼も銀も自然的なものと見なされているには違いない。吸血鬼は銀であれ陽光であれ、それによって殺すことができるとされているからだ。吸血鬼はこのとき、いわゆるマニ教的な善悪のように、善ないしは存在の欠如としての悪(アウグスティヌス的な)ではなく、善から独立してある悪だろうか。自然物におけるヒエラルキーにおいて、銀を、先にどこかで書いたように上位のものとするなら、なぜそれが人間にとっては大した効果がないのか。それより位階が低いはずの家畜や昆虫にはなぜ効果がないのか。吸血鬼はそれら自然物とは異なる。しかしやはり自然物である。ひし形における(黒い三角の底辺と白い三角の底辺を合わせたそれを想像しよう)白側の自然物と黒側の自然物において、吸血鬼を黒側の自然物に属する物と見なせば、銀が吸血鬼に対して有効な世界観を捉えやすい。白側の頂点は神であり、神の作成した物のなかでその神聖さを物質的次元で反映している物としての銀。そのように銀を捉えるなら、吸血鬼に対して銀は有効であることになるだろう。
しかしそれならなぜ金は有効ではないのか。金は銀より劣るのか。この場合、劣るどころか、金が吸血鬼に対して有効ではないならば、対吸血鬼において金は黒金と同等ということになる。
身も蓋もない話をすれば、吸血鬼物語において、金は吸血鬼に対して使うには高価すぎたわけだ。あるいは、吸血鬼呼ばわりされた人に攻撃したさい、銀を含む武器による攻撃で弱ったから、というのもありうる。吸血鬼呼ばわりされた人が鎖帷子のようなものを装着していたなら、最初の一撃はそれに阻まれ、しかし銀を含有した攻撃では上手い具合に致命傷を与えることができた。そんなことでも銀は吸血鬼に対して有効、という思想は出来うる。
銀がロザリオに使われていたかまでは知らないが、そのようなものに使われていたならば、銀が吸血鬼に対して有効で黄金がそうではない、という思想はまだありうる。それは聖職者は吸血鬼ではありえないことを意味するという点でも合理的だ。

お金が好きなヤツなんてそんなにいないだろうな。

4ヶ月前 No.288

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=usl0MfxvuB

地上ないしは国家における金の総量と商品の総量とのバランスを前提にしたうえでの、金の実質的価値と名目的価値の絡み合いは、金の名目的価値の前景化(少なくともジョン・ロックの時代にはすでにそうであった)、すでに存在していた手形、それらに加えてその国家的な運用という形での紙幣の登場により、解きほぐされた。身近な例はお財布ケータイ、電子マネー、預金残高。記号は、なにかを意味するもの(シニフィアン)の質料性から意味されるもの(シニフィエ)の繋がりが緩くなった。その点からすると、natureの動詞が存在するにも関わらずハイデガーが古代ギリシャ的なphysisをそのphiにおいて重視することは、ハイデガーが名実ともに経験論とは相入れないと語っているpheinestei。もっとも、ハイデガーがただ中世や古代の記号論に先祖返りしただけだ、とはけっして言えない。ハイデガーの自然論を「動的」うんぬんと形容するだけではまったく足りない、とは言える。

しかし私は、誤った思想、事象を捉え損なった、むしろ事象に対する不適切な構成から出てきた思想を理解することにも吝かではない。興味津々だ。それはそれで誤った思想に対する理解度を高めることであるのだから。津々浦々、気まぐれな散歩のように。以下で私は積極的な主張をほとんどしないだろう。どこが私の主張で、どこがそうではないか、かなりわかりにくい。それらをちくいち特定する関心を殺ぐ程度には乱雑に書かれるだろうから、殺がれるにまかせてただ文の意味に関心をもって読むのが正しい。


記号は解放された。もはや誰もが電車で移動でき、タクシーを利用できるし、そうしている。ロールプレイングゲームのマップとは異なり、街と街はその境も曖昧なまま隣接し、街と街のあいだの空白地帯は存在しない。我々はもはや〈旅〉をすることが困難な時代にある。しかしそんなことは、金さえ払えばたいていなんでもできるというリベラルな、あまりにリベラルな時代の平等性の恩恵に比べたらどうでもよい。
いわゆる「自己責任論」は、「生まれ」による階級の決定が相対化した時代ならではの非難だ。「自己責任論」を批判しながら、階級を度外視した「人間」を前提にしてヒューマニズムを批判することは、自分の影を踏みつけているにすぎない。
金さえ払えばよいというのは、何かを身につけることはその身分には禁じられているといった制約の相対化。その相対化が進行しているからこそ、記号の「恣意性」という話題につながり、またそれが受け入れられやすくなっている。ちょうど紙幣の交換価値に関して「信用」や「暗黙の合意」など国家ないし国民の態度が心理的に言われるように。論理学をなにやら純粋なものとして見てしまう人は十二分に「形而上学的」である。

流行は階級制度が厳しい時代に存在しない。ベッカムヘアーだったかな、いわゆるソフトモヒカンをしてはならない階級というのは、今日ではありえない。記号の流通しうる範囲がゲットーの壁で塞き止められる、といったことはもはやない。流行に貴賎はない。先に述べたように、流行は一つの階級否定の現象。「私がそれを買うことを妨げるのは、私の階級ではなく、程賃金である」。誰もがこう言い、階級によってそれを買うことが妨げられるとは言わない。そんな状況でも、宝くじ、玉の輿、成金、あるいはベーシックインカムという発想(労働者robotとしての人工知能の登場により再び話題にあがるようになるかもしれない)、夢の素材は豊富にある。

論理学は一つの修辞法にすぎないとさえ思える。

必要性うんぬんばかり言うものは、傾いた企業ほど必要に追われているということを考えればいい。主婦が「幸せになる」はずはないが(幸せというものを大仰に捉えるのがそもそも不幸だが)、それは毎日の炊事や洗濯という不可避のものの吹き溜まりとしての家庭に主婦が存在するからである。その意味で言えば生きている人間はいつでも不幸であり、しかしつねに不幸を忘却している(特定の不幸な事態を意識しているときでさえ)のだからいつでも幸せである。
とは言っても、火の粉がゲリラ豪雨ばりに降りかかるような事態もあるもので、根本的に幸せであり不幸であるとは言えど、幸不幸の程度が著しくなることはある。いわゆる家計が火の車という事態を想像するなら、必要最低限へ向けて様々なものを切り詰めていくわけだ。そういうのが必要というものなんだから、必要性必要性と言うのは現状でいっぱいいっぱいな困窮者の口癖。ホモ・エコノミクスとは、貧乏人のことを言う。

生産性という概念は、すでに半世紀ほど前のフランスにおいて「人文科学」への予算配分が問題視されていたように、あるいは蓮舫だったかミズポだったかが仕分けうんぬんを顔芸や身振り手振りでごり押していたように、最近もまた持ち出されている。これはいわゆる「文系科目」にとどまらず数学や論理学にさえ波及する話題だが、そこはさしあたり無視するとして、介護福祉など不可避の生活的な事態の問題が前面化している今、「生産性のない文系科目」の予算が削られるのもなんだか尤もらしい話だ。すでに教授がポケットマネーから授業に使う資料のコピー代を出したりしているらしい。最近になってそうなったのか、以前にはそんなことまったくなかったのか、最近そうした事態が増えてきたのか、そこらへんまでは調べてないが、たしかにそうなっていておかしくないとは思う。しかも変な話、「図書館が静かすぎる」だなんて意見が大学教授が参加する会議で出たりするぐらい、「あくてぃぶらーにんぐ」信奉者は反図書館的であるらしい。図書館の蔵書スペースを削減し、あくてぃぶらーにんぐ部屋だか語り部屋だかの設置が本当に行なわれるんじゃないかと懸念する教授も存在する。冗談じみているが、もはや、あくてぃぶらーにんぐは「反-教壇からの上から目線」「反-お上」という下手なマルクス主義的イデオロギーの旗手として位置づけられていると言ってよい。冗談じみているがありえない話ではない。

私はここで文系科目の有益性を主張を目的と
していない。「生産性」という、なんだか近代的な、マルクス主義臭のする概念を意識している。

生産と言えば、商品を作ること、素朴にはそんなイメージだ。今でも漁師のようになにかを生産するではなく収穫する仕事はあるにしても(養殖の場合は生産寄りかな)、商品はたくさん「生産」されているように思う。
他方、サービスについて、それが商品(ネジ・洗濯機・CDその他もろもろの物品)とは異なりサービスの提供者から切り離しえないから重要ではない、とマルクスが言っていたにせよ、いまやサービス業が幅広い。消費社会という言葉も出るくらいには「生産」は後退している。
実際のところどうなのか。「生産」とは何なのか。「生産的な」議論だの意見だの呼ばれているものを見れば、私が見るかぎりでさえ、すでにかつて言われたものか、その素朴な誤解のパレードだ。「生産的な」とは「自己満足をもたらす」という意味なんだろうか、というぐらいに。もはやそこで起きているのは再生産、繰り返しにすぎない。
無知なものが「オリジナリティ」の幻想に浸ることができ、その幻想こそが彼らを創意工夫から遠ざけている。ちょうど「個人的な考え」と前置きされながらぜんぜん個人的でもないありきたりな意見が出されるように、それはほとんどすべて無知の標識にすぎない。

「雇用の創出」という言葉がもはや奇異の念を起こさないぐらい労働は生産から乖離している。何かを生産するための労働、ではなく、雇用のための「労働の生産」が問題視されている。労働を「生産」するため、「雇用を創出」するため、労働する人がいる。芸術のための芸術といった言葉は芸術に対する「生産性」のなさの皮肉として語られたりするが、その皮肉が適切かはさておき、そうした皮肉を好む労働者の労働はと言えば、いったいどれだけ「生産的」であるだろうか。少なくとも、「生産」のための労働ではない、労働のための労働は存在するのだから。

しょうもない意見としてはユーチューバーも視聴者の快苦を「生産」するというものがありうるけれど、それは商品や製品ではない。

人工知能に対するヒューマニストからの忌避感や、その同類からの人工知能に対する歓迎は、人間という言葉の意味がもはや「労働者」じみたものになっていることを意味するのではないか。人工知能による労働者や職の減少に対する忌避感・危機感の意味は、人工知能をロボットとして捉えたうえで、人間より優れているように各自に思われるロボット(たしかチェコ語で「労働者」の意味)のほうが「人間的」である、という発想の先触れに由来するのではないか。労働者が居丈高になるのもその点に由来するだろう。

古代ギリシャの有閑階級にとってこそ倫理や道徳は議論されていたわけだが、いまや労働者こそが倫理や道徳を議論をする。議論するどころか、その体現者であるかのように、ただただ主張しまくる。作業療法、受刑者に課される更生プログラムの一環としての労働、「病気である」が「労働できない」を意味する事態(フロイト)。モラルの範例(パラダイム)としての労働。労働者が自らの経験的知識から高慢になるのも尤もではないか? かくも労働が正常のメルクマールとして存在しているのだから。

4ヶ月前 No.289

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漁に対して養殖がいささか「生産的」であるように思えるのは、漁や狩猟や山菜採りがすでに存在するものを、いわゆる「自然の恵み」を手に取ることに対して、鋤を地に振り下ろし、川から水を引き、肥料を加え、あるいは魚に餌をやり、水温や塩分濃度を管理調節し、というように、「自然」に対する加工のニュアンスが養殖や農業や畜産には存在するからだろう。
おそらく昔々のそのまた昔、身の回りの人口が増えるにつれ、もはや「自然の恵み」の収穫では足らなくなった。それが、たとえ素朴な形態であったとしても、「生産」に人々を駆り立てた原因だろう。死を延期するための「生産」活動。人々の数に比して食料が不足しているという根本的な欠乏wantに基づいたかぎりでの。
今日、労働はそういったロマン溢れる物語から離れている。スポーツ選手、コメディアン、バンドマン、警備員、その他もろもろ、生理的な欲求=欠乏wantから「解放」されることにより、プロゲーマーや動画配信者などわけのわからない「職業」が登場しつづけている。それでもなおいまだに「労働者」であることを誇示することになんのイミもないのではないか。誇示と言うのが不適切だと思われるかもしれないが、いわゆるニートを非人間的に見なしたりする素振りはもはや誇示と言ってよい。労働者であること自体が、まるで他人を非人間と見なすことのできる権利者であることを意味すると言わんばかりである。
時折り見られる労働者の奇妙なまでの鼻の高さは、「働かざるもの食うべからず」どころか「働かざるもの人間にあらず」といった思想に由来する。さらにまた、労働者は、「自分(たち)が国家の礎である」とでもいった思想を抱きがちである。公務員やニートに対する非難としての「血税」うんぬん。
しかし当たり前のことを言うなら、もはや、いわゆる「原始的な」状況での、死と隣り合わせの「生産」、その「生産物」を糧として生きながらえるための「生産」、そんな労働は存在していない。せいぜい給料と余暇の時間の問題でしかない。労働による「自己実現」だとかが話題になるぐらいには、労働はもはやかつてのような「生産」と結びついていない。そして労働を通した「自己実現」という意味不明なものを重視する態度は、労働と労働ではないものとの差異も曖昧にしていく。労働はそこでは「ライフスタイル」の問題になるだろう。「ライフスタイル」や「自己実現」ということで言えば、「そういうことに俺は幸せを感じるんだ」のAAとなんら差異はない。バンドマン、スタントマン、声優、マラソンランナー、住宅賃貸、なんでもござれだ。

いまだに「生産」を頭から信じる者、自らを「社会」の土台の一端であると位置づけ、労働を通して「社会」に対する貢献を為していると位置づける者たち。彼らの考えはどの程度まで正しいのか。

マルクスにはお気の毒だが、今日、労働者こそ反革命的である。なぜなら労働者すなわち人間とでも言わんばかりに、かつて貴族がその「洗練された」暮らしぶりや物腰から自らをこそ人間的であると見なしたように(たしかニーチェによれば本来の貴族はそうしたものではなかったが)、労働者はもはや貴族的だから。記号が解放されたことにより、貴族にしか手に入れられない物品(貴族の象徴)はもはや存在しないに等しい。今日の学校教育が階級の流動よりも固定化(階級の再生産)を助長する働きを強固にしつつある(ブルデュー)とは言えど、労働者は政治劇場を、悲劇としてであれ喜劇としてであれ、鑑賞している。オペラグラスを通してではなく、液晶を通して。その程度の違いだ。海外の生産物を日常的に消費するなんて貴族の特権だったわけだが、その意味では誰も彼も「貴族」だろう。

かのアスキーアートの思想に対する異見として、労働者ないし労働者予備群から、つぎのような意見が出される。すなわち、「親に寄生していて恥ずかしくないのか」、「働くことで社会の資本として所得税を納めていないし、労働の所産で社会に貢献していないのに、社会の世話になるのは、無賃乗車ないしは無賃乗船だ。それは悪いことである」うんぬん。私は労働すること自体は否定しないし、働きつづけるというのは善かれ悪しかれ大変なことだと思う。しかし労働からこの粗雑な説教へ至るにはどのような条件があるのか。
コンビニの大量廃棄の常態化を見てのとおり、コンビニ弁当や惣菜などを「生産している」人たちは、もはや自分の労働を頭から誇ったりはしないだろう。「生産している」とは言っても、ラインで機械的に作業をしているにすぎないだろうから、「生産」ではなく給料の獲得に対する重視が出てくる。つまり、工場での行為はすでに「生産行為」や「生産品」の側から規定されているのではない。おそらく、弁当にかぎらず、ライン工場で働く人は、機械的に作業することを通して、自分をその工場における機械の一部として見なすようになるだろう。ベトナム人や中国人、ポルトガル語やスペイン語を話す南米系の人、これらのより「安価」で「ハングリー精神」のある人たちと代替可能な部品として。
ライン工場の類いの労働だけが、大量廃棄のように、「社会への貢献」という幻想に亀裂を入れるものだろうか。

当たり前だが、「生産」は「オリジネイト」ではない。いわゆる原始時代での農耕が二期目三期目と継続して行われた場合、農耕の生産物は従事者の「オリジナル」ではないが、いまだ「生産」と呼ぶに値するだろう。しかし今日、大量廃棄、米余り、助成金頼りの農家の存在などなどからして、「生産」は様変わりしている。これは明らかだ。助成金を与えてまで麦や米を作らせるのだからなんとも割に合わない奇妙な行政。そこまでしないともはや農業は成り立たない。「生産」はかつてと同じ立ち位置を占めていない。

「社会に対する貢献」。この言葉が有意義でありうるのは、「社会」を肯定的に見なしていること、そして自らの労働が資本を増加させていること、少なくともこれら二点を要する。そのうえではじめて「社会に対する貢献」を説教がましく語りうる。
当然のことながら、仕事というのは自分がしなくても他の人が代わりにやるものだ。1人の労働者が死んだとしても他の人員で穴埋めされるだろう。ベビーシッター、保育園、それら子育てに関わる様々なものを代理人で補うようになると、母親は自らの存在意義?だとかに疑問を覚えるであろうように。いくら互いに必要だと承認しあったところで変わりない。顕著な例は工場でのいわゆる「単純作業」であるが、ろくに訓練も勉強も要らない仕事であるなら、それに該当する仕事の従事者はすべて置き換え可能である。すべては工場じみてくる。
個人の活動による資本の増加ということで言えば、養育コストが数千万円はかかり、さらに退職後の医療保障や年金や葬式代や介護費用などなどを勘案すると、いったいどれだけのプラスが見込めるだろうか。就労時における売り上げなどなどを言うにしても、すでに述べたように、労働は根本的に代理が利く。あまつさえ経験を前面に押し出すなら、なおさら自分の仕事は他の仕事に比して言っても代わりが利きやすいほうだと主張しているに他ならない。
売り上げうんぬんと言ったが、新入社員をろくに育てることもできず退職させてしまったりしているならどうだろう。それは面接や事務的手続きのコストの無化であるが、以後はそうした損失をしないように工夫する、なんてことには気も留めず、「自分で考えろ」などの「自主性尊重」という名の「教育」を繰り返しつづけるのは、おそらくレアケースではない。

4ヶ月前 No.290

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4ヶ月前 No.291

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なんだかまさんが締めに入ってる感があるので送辞でも書いておこう。なんか嫌な感じだから、杞憂に終わって、また甘味の話でも読めたらいいが。

操壊とかいう輩は私がてじくんに対して60点をつけ、それ以外の人には点数をつけなかったときに即座に反応してきたものだ。しょうもないが、統計やアンケートに対する私の考えを把握できてさえいれば、私が採点を表示しなかったすべての人に対して私が画一的な態度をとってはいないという考えが、少しでも過ぎっておかしくないはずだが。

まさんに関して言えば、哲学者に関する意見はよくて10点止まりのものばかりだったのに、日常的な些事についてはしばしば80点を越えたり、「言われてみりゃそうだなぁ」と思わせることを書いたり、ブレがあまりにも大きいために採点不可であった。たとえば私の基準で言えば、哲学者に関するまさんの意見はフクロウだかコウモリだかと同レベル。その意見をのべるときの態度を加味するなら、ちゃんとは知らないと断っているまさんに軍配が上がるかな、ぐらいのものだ。
誰でもたまには正しいことや間違ったことを言いうるのだから(間違った前提からでも)、発言の程度のブレに対して大げさに反応するイミはない。が、あなたはあまりにブレが大きい変な人だった。

文体はなにやら、誤変換の無視や変な改行など、書いているときの勢いそのままのものを出すような、下手なヒューマニズム(「俺は顔も名前も晒して意見するぜー匿名でイキがってる奴らプギャー)よりはるかに自己を晒すようなものだった。その長文に反して話体に近いものと言えるかもしれない。もちろん単に編集の手間を減らすためだけのものだったのかもしれないし、そうした考えもチラとはあったのかもしれない。

最近のレスならミルフィーユだったか、甘味関連のレスに関しては、私がSNS中毒者の女なら「いいね」を連発していたことだろう。

人によっては異様とまで言えそうな、知ってる人ならDIOを想起しそうなぐらいの「社会的」なものに対する否定的態度が、おそらくはあなたをお喋り婆さん以外から遠ざけていたのかもしれない。あそこまで哲学に対して様々に否定的なことを言っているんだから、名を出さずとも意識して書いておかしくないはずだが、知的なお喋りをしたいか自己表現による自己の存在確証をしてるだけの集まりだ、それは彼らに対する高望みなんだろう。私があなたを当時の解体さんに対するぐらい意識して止まなかった。

つくづく、愚直で、楽しい人だった。

4ヶ月前 No.292

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当然ながら私はニートを擁護するつもりはない。殊更に非難するつもりもない。ニートを非難するときにしばしば現れる奇妙な言葉遣いの意味を吟味している。労働者の全員も、労働者のうち特定の言葉遣いをする誰かも、どうでもよい。社長、ワーキングプア、大臣、ホームレス、官僚、プロレタリア、あらゆる誰か(たち)はどうでもよい。
「愚民」というのは馬鹿が好んで使う言葉だ。代表・代理というものがろくにイミを成さない以上、政治には熱を上げずに仕事に専念するのはけっして間違いではない。



警備員はそこで何かを「生産」するわけではない。スーパーやコンビニのレジはつねに一定の時間給が与えられる。他方、有名人がちょっとしたCMに出ると何十万以上ものギャラが手に入りうる。もはや商品を「生産」すると言うより、自らを「商品」として売り込むようになっている。「生産」ではなく、広告、宣伝、こうした「二次的な」振る舞いが物を言うようになる。食糧の欠乏による食糧へのニーズに応えた「生産」といったものではなく、「ニーズの生産」とでも言うべきものが前面化する。消費者の「生産」、とでも言う事態。
いわく、「購買意欲の促進」と言ったりするように、消費者を作るとでも言うべき事態になっている。そこでは広告や宣伝、あるいはサクラ商売に似たものなど、生産物の後という意味で「二次的」だったものが一次的立ち位置を占める。原始的な労働は、まず各人の不足=欲求wantがあり、それを満たすための生産行為として位置づけられる。今は各人の不足=欲求はそのようにあらかじめ存在してはいない。各人の不足=欲求ではなく、各人の欲望を作り上げること、各人がしかじかのものを欲望するように各人を作り上げること、これが重要になっている。


資本、国家は、人々を「搾取」するだろうか。たしかに後期高齢者の年齢設定や、過労死や、目に余る事態は存在している。しかし、「搾取」という捉え方こそが、「我々労働者から搾取しなきゃ立ちいかない国家」という仕方で労働者の心理的な優位を実現もたらす。ならばこの捉え方は吟味するに値する。

生活保護制度の名のもと、教育、住宅、学業、医療、介護など、生活に関わる様々な扶助を行う(厚労省HP参照)。また、様々な権利を与える。いちいち挙げるまでもないだろう。資本、国家は、様々なものを与える。たとえ名目上とは言えど「人権」を保証しているということにもなっている。
様々な扶助がすでに与えられているがゆえに、「働かないで食う飯は美味いか」といった非難、扶助に対する返報の無さに対する非難が為される条件が整っている。「国(または親)の世話になっていながら何を偉そうなこと言ってるんだ」という発言は、SNSによって様々な人種と、浅薄であっても、関わることを通じて「社会化」した気になってる引きこもりなどに対しては有効だが、労働者は、自分より多くの手当を受けている者に対して、まさにその自分より多く手当を受けているという点にもとづいて、非難する。国家斉唱は問題視するが校歌斉唱は問題視されない。そうした問題視の不在はあまり奇異の念をもたらさないようだが、なんだかそれに似た奇異の念を私は覚える。

資本・国家にはずいぶんお世話になってるじゃないか、誰も彼もが。搾取搾取と言うが、素直に考えると、まったくなにも与えられていないこたぁない。そのバランス、釣り合い、すなわちどれだけ与えられどれだけ返しているのかが、具体的な誰か(たとえば私自身)においてはどうなっているかというところまで逐一と調べはできないが、まったく与えも返せもできない赤子の状態からすでに与えられている。社会、国家、資本、なんでもよいが、私はそうしたものから私の権能に先んじてすでに何かを与えられてしまっている。バランスより、この先手を取られていることが、「近代的な主体」にとっては屈辱的なことだろう。まず先に借りがあるのであって、その後に、攻撃的であれ何であれ、お返しが存在する。労働者はその与えられたものに対して返報を果たし続けている、と言うわけだ。

搾取とは言うものの、やたら嫌煙を述べることは、資本・国家に増税の口実を与えることになる。もしかして搾取を望んでいるのかといった具合。喫煙者からは搾り取れ、と実質的に言っているわけだから、その意味ではそうだ。

労働者が差別的なのは言うまでもない。「お偉いさんは下々の生活を知らない」うんぬん。生まれや育ちという当人ではどうにもできないところで当人を論う。それを知ることと政策の優劣との相関は自明なのかはさておき、人間関係への重視とは、生まれ・育ち・組織・家庭・地域などに制約されたものを重視なんだから、田舎者や貧乏人や燻っている児童に対して厳しくなる。

好むと好まざるとをえず、生まれたときから、あるいは胎内にいるときから、資本・国家はなにがしか与えつづけている。そのことが、それに対する返報としての労働ないしは納税を為すのが是だという解釈を各人にもたらす。
返報としては、労働ではなく、反抗的なものもある。ストライキとかデモとか種々の犯罪、あるいは少子化も、アンガジュマンではないが、世界に対する各人の否定的な態度の一様かもしれない。

「各人の不足=欲求ではなく、各人の欲望を作り上げること、各人がしかじかのものを欲望するように各人を作り上げること、これが重要になっている」と言ったが、消費から離れることは反社会的ではない。すでに述べたように、ミニマリストだか断捨離だとか、そういう「ライフスタイル」の一つとして組み込まれている。つまりそれはただの差異として記号の連関に組み込まれる。

4ヶ月前 No.293

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4ヶ月前 No.294

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資本・国家がなにがしかを私に先んじて私に与えていること、それが資本・国家の権力の源泉である。どんな凶悪犯罪も慈善事業も、資本・国家を揺るがしはしない。
シールズとかいう組織の子どもたちはどうなったのか。それは我々消費者に消費された。もはや消費の余地はない空っぽな「旧・見世物」。批判(クリティーク)の意義が20世紀中頃やその終わりでも盛んに問われていたが、それは、いわゆる「アクション」のこうした無意義さがなんとなく知られつつあったから、あるいはそれがハッキリと意識されていたからではないか。いまだに「行動」を無闇に主張する人もいるにはいるが、議論ごっこで相手に対して難癖をつけるためのものでしかないというのが正直なところだろう。

デモをするため関係各所(公的機関)に許可を取り、公的な場で、政治に関して発言する。この種の茶番じみた事態と同様の事態としての公開議論、フーコーとチョムスキーとの議論のことだが(youtubeにまだ残ってるのかな)、そこで確かチョムスキーが自嘲めいた皮肉を述べていたっけな。フーコーもしばしばそうした皮肉を為していたが。公的なものに対する批判に公認を与える公。そうした現実actualityのなかでなんらかのアクションを起こすことは、もはや「バキューンバキューン」と声を出しながら銃を撃つ真似のように非現実的なものではないか。「考えるより行動だ」なんて言うが、たぶん、行動することじたいに意義を見出しているような人種でなければ、この種の事態への自分の参加には疑いをもつだろう。
幼い子どもが父親をポカポカ叩くのをDVとは言わないが、この場合、強弱の差が大きいことではなく、矛先を向けているはずの相手から矛先を向けることを公認してもらったうえでの事態だということが、いわゆる社会的運動の非現実化をもたらしている。

演劇は「見世物spectacle」ではなくなりつつある。コールアンドレスポンスで観客は参加者となる。「サポーター」だとか言うように、観客は選手を「サポート」する者だということになっている。
ここにもまた受動性に対する否定がある。受動的であること、自分の意見を恣に語らずに教授や書物の言葉を聴くことは、役に立つか否かの基準そのものをーーつまり親や地域や趣味などなどに多分に「影響」された基準ーー相対化することをもたらす。アクティブラーニングなんて「他人の意見の尊重」につながるわけない。給食で「同じ釜の飯を食ってる」クラスメイトであっても、その子の意見に反論や疑義を出すことが巻き起こすだろう煩瑣な事態を回避するためにこそ、ほどほどの異見と、ナァナァの態度をとるにすぎない。どこが「他人の意見を尊重」なんだか。おママゴトだ。おママゴトをやらせておいて「積極的」がどうとかくだらない「評価」をして金を貰ってんだから、じつにくだらない。
この話題は語るに語ったので措くとしよう。
記号は「解放」された。たとえそれが各人を金銭的な数値(もはや金塊銀塊ではなくウェブマネーだとか残高が幅を利かせているのだから数値でしかない)の領域に取り込み、穏やかな奴隷制の普遍化をもたらしたと言えど(金持ちもご多分に漏れない)、自由化の意味が穏やかな奴隷制の普遍化であろうとも、とまれ、記号は「解放」されたーーだから解放ではなく「解放」なんである。「解放」された記号が遍く流通するのは、聖域も、魔境も、高嶺も、奈落もない、均質化された大地あってこそだ。ヒエラルキーが公然と存在していた時代では流行は存在しなかった、ということは、あらゆる大地の水平化こそが記号の流通する要件である。その意味でこそ、演劇が「見世物」ではなくなり現実が「見世物」となる、という事態が重要な問題である。
かねがね、 >>140 における地下室、身体を延長としての物体・死体Koerperとして画一化するデカルトへの批判、 >>175 における空の貧困性と大地の豊穣性、聖域、「階段の英雄的性格」、「長い時間をかけないと得られない体系的な知見」および空間化された時間(ベルクソン的な意味ではなく)としての体系、「解釈地平の隆起」、ベン図という平坦な配置、名付けることを可能にしつつ名付けが行われるところの其処daの強調、 >>44-45 におけるメタバシスーー様々な事柄に様々な仕方で言及しながら水平化を批判してきたのは、反-記号論からの批判としてであると言えるだろう。

3ヶ月前 No.295

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さておき、「見世物」という言葉は良いイメージを伴ってはいないに違いないが、少なくとも、ブレヒト効果が観客を参加者へと傾斜させる一助になったのに反して、「見世物」にはまだ異物が異物として現れる効果があった。観客やプレーヤーや読者に語りかける調子は、すぐ思い出せるものだと『Never17』や『Forest』や『ソフィーの世界』やいくらかのTRPGリプレイ風動画などなどで見られた陳腐な表現だが、そんなテクニックになんのイミがあるのか。「異化作用」そのものが「またか」というように陳腐化しているのに。ろくに作品に触れていない人間を対象にしているのだからまさに子どもだましだ。

三島由紀夫の自殺はなんだったんろう。あれには暴力性はあったのか。少なくとも、デモやゲバに参加することじたい(公的な機関に目を付けられることに意義を見出すという仕方で公的な機関に重要性を見出してしまっていたマルクスボーイたちを想起せよ)に意義を見出していた、ちょっとした非日常的なお祭り気分で参加していた者には、効果はあっただろうとは思う。三島由紀夫という有名な人がその有名な地位や権益をうっちゃってまで主張した。これに対して自分たちが為しうる返報としての自殺は自分たちには取り得ない、というように。しかしどの程度のものだったのか、その意義は。

デモは一つのお祭りにすぎないだろう。ライブと同様、臨場感だかなんだか知らないが、参加することに意義があるといった塩梅だ。
デモはテレビカメラどころか写メの対象としていっそう「見世物」となる。カメラは「日常を切り取り」はしない。それは日常をよりいっそう「見世物」にする。ミイラ(アンドレ・バザン『映画とは何か』)のようになにやら価値ある死体とする。どんな瑣末な日常も、ミイラになれば価値がある。価値があるから撮るのではなく、撮られたから価値があるとでも言うべき事態。

デモの様子にはなんら切迫したものがない。行儀よく道をゆき、テンポを合わせて声を出す。まさにその行儀のよさがデモの見世物化に拍車をかける。空砲か。
なぜデモが暴動に発展しないのか。ラッダイト運動とは何が違うのか。彼らデモ参加者は、デモに参加しつつ、仕事に行く。デモは余暇の過ごし方の一つにすぎない。ハンガーストライキや座り込みは立ち退きさせられること前提のそれでしかない。立ち退きさせられるさいの公務員による「暴力」を話題にしようとしても、公務員に対する「お仕事お疲れ様です」といった労いが生じる始末。それは当然のことと言える。殺しても殺しても湧いて出てくる昆虫のオトモダチとルームシェアする底辺生活をかつて満喫していた身としては、あのときの私なら、デモをするための移動費や暇があるなんてけっこうなご身分だなぁ、とさえ思ってもおかしくはない。あれだな、焼身自殺してる坊さんだかなんだかの画像を覚えているが、そのほうがよっぽど暴力的ではないだろうか。少なくとも「公認された反-体制」のデモよりよっぽど。
シールズとかいう子らがデモでラップをやったとか、まさに三文芝居の役者actorじみている。おそらく、規則正しい掛け声などに関心をもち、その定番化した様子に訴求力はないみたいなことを思ったのかもしれないが、事態はデモの三文芝居化を進めたにすぎない。

で、三島由紀夫に言及したわけだが、資本・国家に対して有効な返報があるとしたらそれは何なのか、この場合の有効な返報というのは何なのか、というのが問題だ。当然ながら私は政府だとか日本だとかに対する敵愾心はない。どうでもよい。「もしも私が鳥だったならば」とか「セイヨーデハー」みたいなんにも興味はない。どうでもよい。私は「あの頃はよかった」だなんて昔を良いものとして見なす気にならない。
認識の限界とその拡大という存在論的(反認識的)な問題に関心があるぐらいだ。厭世的な気分から私が書いているのではないということさえわからない、私が親切にも推奨したことを忘れて私の心理だとか性格だとかに浮気するような奴には、それこそ「ならお前が勝手に決めろ」「私に対する評価はどうでもいい。聞き飽きた」(『鬼畜魔理沙のクトゥルフ神話探索紀行 34話』)としか言いようがない。そんなのはどうでもいいことじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
カネキくんは「欲しがっていいと勘違いしてた」と言っていたっけか。気持ちはわかるが、どうでもよいことだ、欲しがるも欲しがらないも。

3ヶ月前 No.296

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フーコーはピエール・ギヨタ『エデン、エデン、エデン』と『ポヴァリー夫人』とを対比させつつ、文学はもはや家出娘程度のものであり、すでに体制に組み込まれており、野放しにしておいてよいという寛容のもとにある、と概観を示していた。漫画やアニメも結局は野放し同然。一時期は非実在青少年うんたらで騒がれたものだが、お祭りと同様、劇場と同様、事が終わって元サヤといったところか。
署名活動などがまったく無効であるとまでは言わない。また、即シュレッダー行きはないにしても、どれだけ署名された名前や住所の照合が真面目に為されているか知らない。或る政策に対する署名活動など様々なアクションによって政治が左右されたと正しく言うためには、前後関係は因果関係ではないのだから、署名活動と同時期に政治家への接待などによってその政策が左右されたなんてこともありうるわけで、私は暢気にはなれない。
しかしそんなことはどうでもよい。かりに署名活動や投票に次いで、「自分たちの活動が実った」と思える事態が起きたとき、たいていはその事態を実現した制度ないしはシステムに対する肯定をするだろう、ということ。なにがしか反抗的なアクションであったはずのそうした活動に対し、制度から好ましい返報が為されたということが、その反抗的なアクションに参加していた人を制度に肯定的な、システムに肯定的な一員にするだろう、ということ。家庭、学校、塀に囲まれたそれらは、図書館地下室のあらゆる当世風から隔絶しているカタコンベじみた空間は、遊動空間ないしは文学空間の具現だった。いまやそれらも解体しつつある。そんなことは私には関係ないが。

少なくとも、ほとんどのアクションは、そのアクションの矛先たる体制やシステムなどと呼ばれるものに対して、なんら致命的なものにはなりえない。テロであってさえ。それはセンタービル破壊後の現状からしてそうだ。イスラム国うんぬんもただのブーム。まともに付き合うだけ無駄だ。『マトリックス』が陳腐なのも、他の映画のご多分に漏れず、いわゆる「本当の現実」じみたものを据え置いたうえで、管理するものとしてのコンピュータを打倒する話だから。ただのアクション映画。『スターウォーズ』も銀河がどうたら言ってやってることは親子喧嘩だ。その点、まだ、『鬼畜魔理沙のクトゥルフ神話探索紀行』34話のキョンシーちゃんの返報に対してフランには為す術がなくなる(その返報に対する自分の返報としてありうるものは自分に対するラジカルな否定でしかない)シーンのほうが、ずっと優れている。べつに真新しい思想というわけではないが。なるほど。
システム・体制は、「現実的には」進行中だし、数多の税収源がある以上、根本的な瓦解を起こすことはできないだろう。実質的な落第生が下駄を履かされて「修了」できる制度が整えられているように、すでに終わっているものもその終わりを終わりつづけることができる。そんなニヒリズムに浸らないなら、有効な暴力、実質的に反体制的な何かは存在するだろう。




「一つの文明が火へと委ね、破壊へ、空虚へ、灰燼へと帰せしめるもの、文明がもはやそれによっては生きながらえることのできぬもの、まさしくそれが彼の言う文学空間です。文学作品が次々とやってきては、いわば納屋に貯えるように蔵いこまれる、あの図書館のなかのいささか厳めしい場所、言語の最も豪奢な財宝の一切を完璧に保存した博物館とでも言うように見えるあの場所、あの場所こそは実は、永遠の火災現場なのです。あるいは、いわばそれは、あれらの作品が、ただその火のなかで、火災のなかで、破壊のなかで、灰塵のなかでしか生まれることのできなかったような場所なのです。文学作品はいわばすでに燃えつきたものとして生まれてくるのです」
「文学と文学空間は社会的な流通と消費の空間のなかへと舞い戻ってしまったのではないでしょうか?」
「現在、われわれが文学の外に出なければならないということ、文学というものを、その内部ではわれわれが互いに伝達し合い、互いに認知し合うような比較的快適なこの場としては考えるべきではないことを発見し、また、文学の外へ出て、文学はその薄い歴史的な命運に委ねてしまう、つまり文学が帰属している現代ブルジョア社会によって規定されているような命運に委ねてしまえばよい、ということを発見するとき、その道をわれわれに示してくれたのはまさにブランショなのです」
「私が侵犯行為としてのエクリチュールの価値の鈍化を語ったのは、どうも、ヨーロッパの多くの作家たちが、彼らの文章活動によってこのような状況に対して自分たちは庇護されていると思っているように見えるからです。そして彼らのうちの或る者は、これは確信をもって言えますが、次のように考え、広言している。すなわち、自分がものを書いているときには、自分の書いているものは体制破壊的でしかありえない、なぜなら、それはあの外側の空間、必然的に社会から除外されたあの空間、ブランショならばエクリチュールの「中性的な場」と呼ぶであろうようなあの空間で生起しているのだから、と」
(『フーコー・コレクション1 狂気・理性』)



反図書館的な潮流が起こる。ア・ラ・モード、金貨銀貨から紙幣やウェブマネーへと同様、電子書籍はすでに登場し居座っているのだから、空間を占有するという「コスト」のある書物は邪魔でしかなくなるだろう。もし冨田の主張に類する主張がまかり通るなら、たとえば哲学教授が哲学教室を開いて食い扶持を稼ぐなんてこともあるのかもしれない。

書くことが体制破壊的とは大仰だが、体制が自らに刃向かうものも柔軟に取り組む以上、消尽、蕩尽、無為、供儀が、体制破壊的なものとして目を付けられ、書くことがそれらに位置するものだと見なすことは、わからんでもない。そしてまた体制破壊的という目的に端を発して組織化されてしまうこと、あまつさえ行動を起こすようになること、もはや書くうちに他者化が起こるような書くことではなく、「個性」の主張としての、書くことを通した絶えざる自己確証としての(出力も刺激もなしでは空虚な自己)書くこと、そうしたものへの弱体化の印象をフーコーがもったこと、それは正解だ。

3ヶ月前 No.297

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てじくんがしばしば心理的なことについて正しいことを述べているように(弱者ぶって同情を買収しようとする戦略)、私も女を闇雲に信用しているわけではない。大昔の話だが、女の子Aがそのオトモダチの女の子BやCを使って私の「本音」とやらを聞き出そうとしてきたことや、イケメンにダラシない顔をさらしたり。女は役者で、大根かそうじゃないかの違いしかないと。特撮『パティーサワディー』の「笑って部屋を出」る男の心境は、私と同じではないが、わからんでもないぐらいには、わかっている。ちょっかいかけてくる暇人を相手してやるのも承知のうえでのことだ。
百も承知で真剣に接しようとしていたわけだ。わかったうえでそういうのをほとんど全てほとんど常に見逃して、どうか通じないかなぁ、と、書いていた。てじくんも私も。おそらくあなたはそこもわかっていただろう。「馬鹿が。やめろ。そんなの無駄だ」と。下手なやり方だったが(間違った判断がたくさん含まれていた)、あなたが色々と伝えようとしていたことは分かっている。長い付き合いだ。その意味ではあなたの書いていたことは私に通じていたんであって、あなたが書いたということ、それは無駄ではなかった。

送辞のあとにグダグダ言うつもりはなかったが、やるせねぇったらねぇなぁ。看取ってやる奴がいなきゃならんのだ。ヒーローなんかより、男の「無ざまな」その死を看取るものがいなければならんのだ。そこを誰もわからない。

太宰治「学校はおもしろいかね」
吉本隆明「ちっともおもしろくありません」
「そうだろう、文学だってちっともおもしろくねえからな。だいいち、誰も苦しんじゃいねえじゃねえか。そんなことは作品を、二、三行よめばわかるんだ。おれが君達だったら闇屋をやるな。ほかに打ちこんでやることないものな」
「太宰さんにも重かった時期がありましたか?どうすれば軽くなれますか?」
「いまでも重いよ。きみ、男性の本質は何だかわかるかね?」
「わかりません」
「マザーシップだよ。優しさだよ。きみ、その無精ヒゲを剃れよ」(吉本隆明「現代学生論」『擬制の終焉』所収らしい。この本は探す予定)
さすがに「きみ、その無精ヒゲを剃れよ」が太宰のマザーシップの発露だとわからない人はいないだろうが(これは願望だ(苦笑)、あなたの〈小言〉はちゃんと届いている。


さて。そうなると、ツイッター、日記、チラ裏、街の落書きなど、様々な書くことに対する関心が出てくる。書かれたものが『ポヴァリー夫人』や、日本なら澁澤龍彦や、あるいはいわゆる有害図書指定された漫画などのように、地方自治体という意味でローカルなものであれ、公的機関から攻撃されたときにこそ反体制的であるーーなんてことは言わない。それは、文学空間であれ遊動空間であれ、そうした反-生活としての書くことの意義の自律性を損なうものでしかない。むしろますます書くことをパフォーマンスに傾斜させる。書くことはいち手段に堕す。反体制的ということを体制側の不興を買うことだと見なし、自分の身を危険に晒すことでそれがパフォーマンスではないと衆目に主張する後ろ盾を得ようとするなら、いち手段に堕した書くことから人は離れる。それはデモや動画投稿などと取り替えが効くものであり、そして書くことには手間がかかるため、取り替えられるべきものとなる。そうして体制やシステムと同様の論理で反体制を演じるというわけだ。

書くことが何でも反体制的なわけではない。ブランショもフーコーもそんなこと言わない。いちいち説明する気もないし打っ棄る。

書くことは、せいぜい、会社員とは異なる仕方で生計を立てることへの憧れだとか、いわゆる「リアル」とは異なる生活をするためのアリバイでしかない。「コミュニケーションツール」になっていたりするわけだ。

3ヶ月前 No.298

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野良犬だか野良猫だかがおそらく争っているんだろう、濁点まみれの絶叫を撒き散らしている神社脇の真っ暗な道をおっかなびっくりジョグジョグし、砂浜で蛇行バックステップと可能なかぎり大股にした全力疾走を終える。夏バテ防止に休みの昼は一時間以上は歩くようにしているが夜に走るのはやはり良い。タバコと水が旨くなる。

しょうもないニュースを気まぐれでつらつら見てみたが、男が女に求めるのは結局は健康であることだろうに。「主婦力」も「女子力」もせいぜい二次的なもの。
父親が病気でも家庭は大して暗くはならないが、母親が病気だと暗くならないわけがない。

痛みの最大の原因は生きていることであって、つまり痛みは死の隠喩なわけだが、それを思うと、妊娠から出産には様々な症状が出る。異物を腹のなかに蔵し、腹が膨れ、吐き気がして、食の嗜好も変わったりする。マタニティブルーなんて言うが、病気のときは気落ちしたりするもんなんだからそりゃ当然だ。女は健康的に病気になる、というか、病気が正常に起こる。そんな感じだ。
当たり前だがこれは貶しているわけではなくて、妊娠や出産の〈外見〉をしっかり注視しつつの記述にすぎない。取り繕ったような男女論に興味はない。〈外見〉を見なければならない。

3ヶ月前 No.299

@anwesen☆byoHlR3nskT1 ★iPhone=LbRIyFJH80

まさんも終われないか笑

以後、私の真似をする奴はすべて偽物。「なんか阿に似てること書いてる人がいる」と思って気になるなら、社会人板の阿ちゃんスレかここに問い合わせるといい。ログインしたうえでの返事をすりゃ一発だろう。名前の横の識別アイディーだかなんだかも他人のそれと被ることが滅多にない文を採用しているから、本人確認には便利だ。

サブ記事の輩を見たら大概の人は「うさんくせーなこいつ」と思うっしょ笑 こんな輩が(同一人物かもしれないが)しばしばちょっかいかけてきたものだ。たぶんそれを当てにして、もしかしたら私が疑心暗鬼からの心労に陥るとでも思っているのかもしれない。これに対する釈明もどうでもよいが、そんなことより、てじくんもルーティンワークばかりしているし、まさんも早々に戻ってきた。
まだまだ続けられるのに、終わらせることができるということを、見せなきゃなぁ。これを侮辱するために私の真似をする輩が湧くのはありうることだが、好きにしたらいいんじゃないかな。

じゃんじゃん☆

3ヶ月前 No.300
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