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移ろいゆく時の中で

 ( エッセイ投稿城 )
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志野 ★nh6hs2FhLvw_dW

エッセイを書いてみよう!と思い立ったのが吉日。
初めてのエッセイですが、よろしくお願いします。
さて、タイトル通り時は移ろうもの。
ならば、その時の中で私たちが織りなす思考もまた移ろいゆく運命にあるのかもしれません。
ここでは過去や今に至るまでに積み重ねた思考を連ねていこうかと思います。
日記の方ではあまり書かなかった心理的な内面をここで書けたらと思います。

2010/07/10 19:50 No.0
切替: メイン記事(42) サブ記事 (39) ページ: 1

 
 

志野 ★nh6hs2FhLvw_dW

何かのせいにすること

○○だったから△△だという理由付けはよくあります。
例えば、以前にあるドラマ(十○川○部シリーズだったりします)で母親が悪かったから犯罪を犯したと犯人が自供して怒鳴られた場面がありましたが。
確かに一見はもっともかもしれませんが、よく考えるとおかしいなって場面があるんですね。
他人や物や運命のせいにして、自分はそれに甘えていないかな?
確かにこの世にはどうにもならないこともありますが、それでも全てがどうにもできないくらい自分は無力なのだろうかと。
むろん、私は自分が有能と思ったことはないですが、全てを諦めて何もできないぐらい無力とも思いたくはないと考えています。
せいぜい自分の思った通りにできるようにどんな環境にあれ、何かのせいにせずに足掻いてみるとか。
常に自分の行動で変わると、自分にはそれだけの力があるのではないかと考えて行動したいと思っていますね。

2010/07/11 04:45 No.1

志野 ★nh6hs2FhLvw_dW

人間の行動(過去)

さて1番目のレスで今私が大きく支持していることを書きましたので、次は少々過去に戻ることにします。
正直に白状しますと、数年前まで全ての人間とは自分の思い通りにならない人は、(身内であろうが)最後には切り捨てるのではないかと考えていたことがあるにはあったのです。
人間の「誰も決して見捨てない」という精神に拭いようのない違和感と偽善さを感じまして、上記のことを実証しようかと思っていたのです。
例えばパンダは双子が生まれるとどちらか片方しか育てない。よりたくましい方を見極め、残りを見捨ててしまうのです。
2匹を育てるよりは1匹を確実に育てたほうがいいというパンダの習性によるものだそうです。
考えてみれば、パンダに限らず生物の最終目標は種の存続であり、遺伝子を残すことです。
ならば、人間も理性があるにしろこの本能からは逃げられないはずと考えたのです。

そしてならばせめて自分はそうにはなるまいと考えていた頃がありました。
しかし、これは大きな矛盾になることにやがて気付いていったのですが…。

2010/07/11 19:40 No.2

志野 ★nh6hs2FhLvw_dW

人間の実存

さて、やがてそのような考えから矛盾を見出したのです。
もし上記のことが正しければ、自分がやろうとしていること自体が無駄になると。
自分がそうなるまいとしていたとしても、そうなる運命にあるとしたらそれは悪あがきというものです。

もし自分が切り捨てずを通すとしたら、上の考えを否定せざるを得ないものでした。
人間とは自分の努力次第でどうにかなるものであり、最初から運命によって決められているものではないと。
人間にもいい人悪い人がいるように物事を極端な方から見ることの危険性にだんだん気付き始めた頃でした。
ちょうどジャン・ポール・サルトルが言った「実存は本質に先立つ」の言葉通りなのではないかと思い始めたわけです。
そこを新たな出発点として再び思考を始めるに至り、今に至りました。

2010/07/20 16:32 No.3

志野 ★nh6hs2FhLvw_dW

自分の能力について

やはり生きていると自分の無力さを知らされることはあります。
私もある部屋から夜の町を見ながら自分の将来を考えたことがありました。
どうやってもうまくいかず、どうしたらいいのかさえも分からず、自分が果たして上手くやることができるのだろかと不安に押しつぶされそうになっていたことがありました。
もっとも、今もそうですが。
ですが、その時に支えになったことが、私が見ているのは誰かの結果であり、その過程は見ていない。
ならば、今はできなくとも1つ1つ努力すれば、そのうちできるようになるのではないかということでした。

今、ほんの少しずつですが前進しているのではないかと思える場面も出てきました。
もちろん、進めば進むほど新たな問題が出て、不安は尽きないですがww

それでも、いつか理想に辿りつけるのではないかという支えをもとにやっていこうかな。

2010/07/29 17:40 No.4

志野 ★nh6hs2FhLvw_dW

議論について

議論と言うと面倒な気がする人もいると思う。
しかし、議論とは何であるか?
調べてみたところ、「自分の思うところ・考えを交わし合うこと」ともある。
つまり、議論とは相手を負かすだけではない。
むしろ様々な考えを交わし合わせることは十分に議論なのだ。
つまり、そこに証拠がなくとも責められることはない。もっとも、証拠があれば説得力があることだけは間違いなく言えるが。

近頃、議論と聞くと反対意見を負かすことだけに躍起になってるような方もちらほら目立つような気がするが…
議論本来の在り方というのも探ってみるのもいいかもしれない。

2010/08/01 19:59 No.5

志野 ★nh6hs2FhLvw_dW

時代観

ニーチェ哲学ではないが、無限の時間軸の上では思想の回帰も起きることは否定できないのではないだろうか。
例えば、今の時代ニート・脱サラ・フリーター・自殺が言われているが、社会ルールなどの公ではなく個を重視した結果に生じることも一理あるのではないかと考える。
しかし、このような傾向はロマン主義時代にも起きていた。
だが、ここで勘違いしてほしくないことは今がロマン主義の再来だなどということは言うつもりもない。第一それではあまりにも短絡的すぎる。
だが、似た思想が現れることは否定できないこともあるのではないか。
個と公、自然と人工などの両極端に位置するもののうち、どちらかに時代が占領されると、その反動でもう片方の主義に占領された時代がやがて到来することは否定できない。

ならば、歴史のするべきことはどのような思想の後にはどのような思想展開がなされるのかということを、歴史の背景より想像し、予想していくことなのかもしれない。

2010/08/08 16:56 No.6

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

ありましたね(笑)
久々の更新(久々すぎます)

個性というものも遺伝子と環境で決められるらしい。
故に性格なども遺伝子と環境によって左右されると言っていいだろう。
ならば、そのパターンは有限であるのではないだろうか。
そもそも環境とは組み合わせ的に言うと性格の持ち主と風土の共同体であるから、組み合わせは無限にあるが、性格に影響を及ぼすという条件なら流石に無限にはないと考える。
さらに遺伝子は有限であるため有限と有限の組み合わせからは有限のものしか生まれない。
もちろん、ここで組み合わせは天文学的数字であることは確かだが、無限の時間の中では似た状況が生じる可能性もある。

ならば、私が歩む人生の歩み方もどこかで決定されていた可能性もあるのかもしれない。
行動が神によって決定づけられていたとも思えないが、永劫回帰などの考えもあるので1つの考えとしてみるのもいいだろうと思う。

7年前 No.7

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

…5ヵ月…

発展→栄華→衰退→滅亡のサイクルは様々なところで見てとれる。
盛者必衰の理などは有名な話だ。
組織についても同じである。
ローマ帝国がそのよい例だろう。
「全ての道はローマに通ず」の諺が物語るように、ローマとは大帝国として発展し、栄華を築いてきた。
しかしながら、そのローマにも陰りが生じたのは、ゲルマン民族の移動が始まった辺りだろうか。
その後、ローマは西ローマと東ローマに分裂し、両者とも滅びることになる。

はたして、何故このようなサイクルは起こりうるのか。
1つにそれは、目的の問題ではないだろうか。
そしてこれこは人間最大の壁だと思われる。

全ての組織などにおいて、栄華を目指すことはその組織に所属する人たちにとって、共通の願いでもある。
つまりその時は良いのだ。
全員が共通の目的に目指して一丸となっているわけだから。
しかし、いったん栄華という大台に乗ってしまったら?
これから組織をどうするかということは人それぞれである。
このまま勢力拡大を目指す方向もあれば、基盤を強固なものにしたいという方向もある。
むろん、それだけではなく多々流れはあるのだろう。
そうした時にやはり瓦解が始まっていくのではないだろうか。
ローマ帝国が滅んだ理由にも似たような原因も考えられるようだ。
つまり、一度ある段階まで来てしまうと、内部での勢力争いが発生しかねない。
それこそが発展→栄華→衰退→滅亡のサイクルを起こす力であるのではないだろうか。

7年前 No.8

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

人間はドラマやアニメ、マンガ、小説と言ったフィクションを見て感動するときに「登場人物に今の自分を重ねる」という表現を取ることをしばしば見かける。
しかしながら、本当にフィクションを見て深く感動したとして、果たして登場人物に今の自分を重ねているのだろうか。
何故このようなことを言い出すかというと、自分自身という現実をフィクションの主人公に重ねて、果たして感動できるのかということを思ったからである。
例えば、仕事に失敗して落ち込んでいる人間がそのような意味合いのフィクションを延々と見ても、それは滅入るだけではないだろうか。
そもそも、人間はよほどのナルシストを除いては、自分の嫌いな部分と好きな部分を把握しているものである。そして自分を好きな人間などそうそういないはずである。
何故かということははっきりと言えないが、嫌いな部分に目がいくのが人間の性だからとも考えられる。
つまり、自分の嫌なところのみに目がいき、自分の好きなところには目がいきにくい。故に自分を好きになれないのではないだろうか。
はたして、そんな人間が今の自分とまったく同じ登場人物が同じことをしているフィクションを見て感動するとは考えにくい。
むしろ、自分の欠点を浮き彫りにしたような感覚になり、電源を切ってしまったり、手を止めてしまうのではないだろうか。
では、人はフィクションを見て何に感動をしているのだろうか。
これに関しては少しヒントになる内容の本があるので、その引用を使いながら考えることにしたい。

(次のレスへ続く)

7年前 No.9

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

ハイデガーを研究された木田先生は、その著書の中で、自分がハイデガーに対し愛憎半ばする気持ちを持っていたこと、以前はハイデガーを読むことはできても書くことはできなかったこと、ある程度の距離をとれて初めてハイデガーをかけるようになったことを述べている。
それと並行して立花氏の発言も挙げてみよう。
青春漂流の中で、青春の真っただ中にいるものは青春を送っていることを気づかないものであり、青春が去ってからあのときが自分の青春だったと気づくという。
さて、人が感動することも同じではないのだろうか。必要なものはある程度の距離間ではないのだろうか。
人が昔の自分を懐古するのも、昔の自分と距離がとれてできることである。
それならば、ドラマなどの登場人物に感動するのは言うなれば今の自分ではなく他の何か、自分とはある程度の距離をとれる何かを見出すためということになる。
言うなれば、それは今の自分では距離のある存在ということになる。しかしながら、それは距離がありすぎてもダメだろう。
何故ならば、遠い存在になってしまえば逆に感動などできなくなるはずである。

つまるところ、自分に近くもあり距離もある存在こそが感動を呼ぶキーになる筈である。
それこそが理想とした自分や成功した自分の姿、過去に辿ってきた自分の姿ではないだろうか。
だからこそ、ドラマやアニメ、マンガは最後にはハッピーエンドを用意する。ハッピーエンドではなくとも誰もが憧れる結末を用意するのである。
これにより、人々は自分の理想や成功した自分の姿、過去の自分の姿をフィクションに見、それにより感動を見いだせるのではないだろうか。
自分の苦労も必ず報われるのだと。

だが、その理論によって形成されたフィクションは実はトゲを含んでいるとも考えられる。
みんなの感動を呼ぶためのものが別の危険性に警笛を鳴らすとしたら、それは何という皮肉だろうか。

7年前 No.10

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

それでは前回の続きを。

感動を呼ぶためのフィクションが鳴らす警笛という例が、実はアメリカで起きていた。
それがなにかというと、女学生が母になるお話だったらしいのだが、それがラストは感動できるように結ばれていたらしい。
それを見た女学生たちが集団で学生妊娠をしたという事例。
つまりフィクション(アメリカの事例はノンフィクションだったかもしれません)が感動し綺麗な終わりをすることで、それを自分も体験したいという衝動に駆られる可能性があるということ。
それもまあ、大人ならまだしも、未成年だと深く考えずに行くところまで行ってしまう危険もある。
これこそが大きな警笛のように思う。
フィクションでは苦労話を書く回もあるが、結末はきれいに結ばれるために、理想を現実と勘違いしてしまい、それに向けて走ってしまう例があるということだ。
当然フィクションはフィクション。現実にはフィクションでは描ききれないであろう苦痛や苦労が山ほどある。
その壁にぶつかって初めて思い知っても半ば手遅れである。
後はその壁をどう克服するかを必死に考え、それに向けて愛を前に出さなければならないが、それは大きな十字架である。
その十字架に押しつぶされてしまう例も多々ある中、それだけの覚悟は一体どのくらいの年齢を掲げれば得られるのだろうか。
私自身にそれだけの覚悟があるかと聞かれれば、流石に少し躊躇する。自分自身学生の頃はかなりいい加減で甘えていたことは自覚している。
しかし、今でもまだ完ぺきに覚悟を持っているかと言われればそれは疑問である。

どうにもフィクションと現実という問題は根強いだろう。もしかすると、いくら感動できるからと言って作ってはいけないフィクションが存在するのかもしれない。
今、フィクションの在り方にも今一度向き合ってみる必要性もあるのではないだろうか。

7年前 No.11

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

どこかの市では戸籍上は200歳になる人が存在していたらしい。たいていの人は「そんな長命の人はいない。死亡届を出されず、そのことに気付かずにここまで来てしまったのだ」と答えるだろう。
もっともではあるが、では何故私たちは200歳まで生きられる人はいないと思うのだろうか。
200歳までは生きられないというのは自明であるとたいていの人は確信しているだろうが、それは何故だろうか。そもそも、もし200歳と言わず、永遠に生きられる人がいるとしたら、みんなどう思うだろうか。永遠を生きるとはどのような気持ちであろうか。

まずは200歳まで生きられる人がいないと考えることについて書いてみたい。
理由は簡単で寿命となる。人は限られた命しかもっていないのである。人間に限らず、寿命を縮めているのは酸素による酸化の副作用だと言われている。
酸素は遥か昔(ここでは数億年どころか数十億年前のことを言う)、酸化性の強い物質として当時の生物にとっては有害なものであった。
しかし、やがてその酸素を使いエネルギー代謝を今までとは比べ物にならないほど効率的に引き出そうとした生物が現れた。
酸素を使用する生物の始まりであり、生物界にとっては一大ニュースだっただろう。
しかし、効率よくエネルギーを引き出せる恩恵を受けるためのリスクも高かった。酸化作用で細胞を痛めるというリスクを得なくてはならなくなったのだ。
寿命は呼吸数に反比例するらしい。より呼吸回数が多ければ寿命は少なくなるというのだ。それは多分に酸素をより使い、酸化を早めるからであろう。
さて、酸化と寿命のことを書いたが、酸化と老化の関係も同じである。老化は酸化によってもたらされるのである。
さて、この酸素によって酸化されることによって私たちの寿命が縮まることは書いた。
では酸素を使わなければ人は永遠に生きられるのだろうか?
1つの可能性として、単細胞生物が挙げられる。彼らの中には1つの細胞が分裂を起こして新しい細胞になることで増殖するものがいる。
そもそも自分の細胞だけで新しい世代ができるのだから、永遠を生きていると言っても過言ではない。
しかし鋭い人はここで「えっ?」と思うだろう。「自分の意識」はどうなるのだろうか?と思うかもしれない。
人間には自分を他人とは別の自分であると認識できる思考システム「自己認識」がある。
童話の中で、欲張りな犬が肉を持っていた。ふと川をのぞくとそこにも肉を持った犬(=自分)がいる。あいつの肉ももらおうと、「ワン!」と威嚇した瞬間に自分の肉が川に落ちてしまうというオチの話である。
ここで面白いのは犬は川に映った自分を自分と思えなかったことにある。だが、人間はそれができる。
どうも人間だけではなく、霊長類の中でも(人間ほどではないかもしれないが)、自己認識をしている生物もいるのである。
この自己認識はどうなるのだろうか。先程の例では、確かにDNAなどの情報は行きわたるだろうが、細胞分裂した際に自己認識はどうなるのだろうかということである。
ただ、この自己認識は、高度な思考システムである。
単細胞生物ではなし得ないであろうと思う。そもそも、「自分」と、「自分と同じ種族ではあるが自分とは異なる他者」を見分け、そこから「自分」と「自分と同じ種族ではあるが自分とは異なる他者」を比較するという行為、それを持ち続けるためにはどこかに保存する行為。これだけでも膨大なエネルギーが必要となる。
とてもではないが酸素を大量に使う容量の大きい存在でなければできない行為である。
故に、細胞分裂をする生物では自己認識を考える以前に、存在しえないと言うしかないであろう。

さて、それでは永遠に生きるとしたら、人間たる姿を残したまま酸化をどうするかという課題になるのではないだろうか。それを次のレスで書こうと思う。

6年前 No.12

吐音 ゲロ ★AU=qQHIK5aSQ1

面白い! ん〜、まさにスマート。

6年前 No.13

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

永遠に生きるとは、酸化をどうするのかという問題。
そもそも酸化と還元は物質が電子の受け渡しを通して化学変化を起こし、別の物質に性質を変えることである。
ならば、問題は酸化されたものを元に戻すという変化が可能になれば酸化の影響をなくすことが可能である。
或いは、細胞内で酸化されて別の物質になったとき、その部分を補填できる力があればよいとも考えられる。
問題はその力が得られるのか否かではあるが…それは諸事情によりここでは書かないことにしたい。
ずいぶん話はオカルトじみて来たが、それでも物質の追及は世界レベルでまだ始まったばかりである故、望を未来にかけたいと思う。

ところで、もしそのような力を得た者、すなわち酸化を免れ一般の人々より長く生きる者(或いは不老不死)が現れた時、他の人々はその人をどう思うのだろうか。
人々の感情は多彩なので、ここでは受け入れるか拒絶するかということで考えたいと思う。
外見は人なのだから、ぱっと見だけだとしたら受け入れられるであろう。
問題はその後である。周りが年をとっていく中で、その者だけが老いないとしたら。そこで人々の意識が変わっていくはずである。

日本の御伽草子にも仙人などと呼ばれる一種の長命や不老不死である存在が出てくる。しかし、仙人と聞くと山の中などを思う人は多いのではないだろうか。
山の中で孤独に生きる孤高の人こそ仙人であるという共通の無意識があるような気がする。
実は死は昔から特別視されてきた歴史がある。日本古来の埋葬で、屈葬というのがあるが、それは死者の復活を阻止するためのものである。
逆にエジプトなどでは王は復活を果たすとして、財力の多くを王の墓に埋めたりしていた。ただ、おもしろいのはこれが行われたのは高貴な人々だけなのである。
今ではずいぶんとそのような話を信じる者は少なくなったであろうが(だが、キリスト教徒の中でイエスの復活を信じて疑わない人はいる)、それでも死生観における特別性からは抜け出せていないようにも思う。
その中でその特別の「死」を逸脱できた者、もっと多くの時間を生きることができる者はどうみなされるのか。
言うなればそのような者は人間の中で共通して持っている「死」を超えた、ある意味超人である。
その存在は言葉通り、仙人のようであると考えられる。
ただ、その時その者に向けられる目は尊敬とともに畏怖の念があるのではないだろうか。そうなれば到底受け入れてもらうということは困難になる。
日本で仙人が山の中や孤高という無意識があるのはそのためではないだろうか。仙人というのは素晴らしいが人間とは一線を引かなければならない存在であるという意識である。
芥川龍之介の名著「杜子春」の最後で、仙人になることを望まなくなり、大金持ちになることも止めた杜子春が「人間らしい暮らしをしたい」という発言をしている。
そのときに仙人が自分の畑と家を杜子春に渡しているのである。
大金持ちになることはあきらめた杜子春が言った人間らしい生活というのは田畑を耕す自給自足の生活。すなわち俗物から断った生活を行うということではないだろうか。
だが、そうしたからと言って仙人とは明らかな一線を引いているのである。これの意味するところは何だろうか。暮らしぶりは同じようなものであっても、やはり持つ力が違えばそれは一線が引かれてしまうのではないだろうか。
「自分とは異なる存在」という概念は人間が向き合っていかなければならない問題ではないだろうか。しかしそれは困難なことであり、その概念は時としてそれは良くにも悪くにも働く。
年をとることを超越した者を受け入れるということは、その性質をどう見るかという問題。すなわち人間が持つ根本問題を示唆しているのではないだろうか。

6年前 No.14

★t6hWWekY12_XJv

「自分(人間)とは異なる存在」という概念は人間が向き合っていかなければならない問題だとして、
自分とは異なる存在が人間に対してそっぽを向いていたら向き「合う」ことはできません。
『ツァラトゥストラ』において超人は最後に同情を捨て去ろうとしますが(彼も山の奥深くに進みますね)、
それは自らの主観性のなかに閉じこもり、パブリックエネミーとでも言う存在に自己を投企ことにほかなりません。

「自分(超人)とは異なる存在」という概念のほうへ超人が向くことで、向き合いが可能になります。
エッセイで書かれている志野さんの意見から私が読みとれるかぎりでは、
「自分とは異なる存在」に対する人間の側の問題や責任を強調するあまり、
「自分とは異なる存在」の責任を軽視してはいないか、と思います。
それもまた人間中心主義の変形ではないでしょうか。

一般論として郷に入っては郷にしたがえなどと言われます。
私たちはとある外国に出かけるとき、その外国の法律や習慣をあらかじめ調べたりする必要があります。
シンガポールという異国に赴くとき、この国がポイ捨てに対して他国よりも厳しい態度をとっていることを知らなかったらといって、
ある日本人が日本でするようにポイ捨てをしたことを理由に捕まえることは、シンガポール側の不正ではありません。
このとき、シンガポール側の文化や風俗を無視して、日本人の自分というイデオロギーを盾に自己弁護し続けるなら、
その人は罰則を受けるという点で表面的には被害者のようですが、
シンガポールという文化に対してじつに加害的、暴力的、反動的、な存在と言わざるを得ません。
このような意味で私は最後の最後に同情を攻撃したツァラトゥストラに賛成です。

6年前 No.15

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

うん、そうですね。阿さんのご指摘はごもっともです。
ただ、1つ弁明させていただくと(所用で遅くなったという非はこちらにありますが)、このレスはもう一部あります。
もしよろしければ―我儘なことこの上ないですが―、それを読んでいただいて新たに感想も頂けると有難いです。

さて、永遠を生きるとはどのような気持ちかということについて述べていきたいと思う。
まず、このことを考えるに至って、ハイデガーの考えを拝借したい。
そもそも、ハイデガーは、「人は死を見ることによって、永遠ではない有限の時間を生きていることに価値を見出すことができる」と示している。
人の命は有限。ならば、そこに確かに存在しており、それはやがて終わりを迎える。そこに存在に対する希少価値が生じるとある。
だが、永遠を生きるとは、或いは人間以上に長命とは、この価値が崩れることになる。
そこに価値は発生しない。或いは、人間よりも存在に対する価値が低いのである。
では、彼らの存在とは価値のない(少ない)ものであろうか。という疑問が生じる。

それを考える前に、もう1つ、別の時間を生きることに関して考えたい。
永遠を生きる者が周りの人間と比較すると時間軸に大きなズレが生じる。
そのズレとは自分が死ぬ(年をとる)前に相手が老いて死んでしまうことである。それも何人にもなるであろう。
するとそこに自分だけが取り残されるという感覚が生じるはずである。最愛の人を亡くした者に与えられる孤独感だと思ってほしい。
もし、誰とも触れ合わずに生きてきたら、そういう感覚を思い知ることはできないだろうが、生じていることだけは確かである。
とある話に、こき使われている馬がいた。その馬を見かねた仲間が「大変だな」といったところ、その馬は「大変というのはどういうことだい?」と答えたという話がある。
大変な状況で生きて来たものは、それを大変と思わなくなってしまうという、少し怖い話である。
もしだれにも触れあわなかった者に関してはこういう感覚が生じるはずである。
では永遠を生きる者にとって、孤独感というのが問題であろう。もしかしたら、孤独感を思い知らされたくないから、交流を絶とうとする考えも出るかもしれない。
ここで、上の存在への価値と孤独感の問題が実は深く繋がっていると私は思う。
永遠の時を生きる者が、自分の時間に価値を見出すことは難しい。
ならば、大切な誰かと触れ合うことによって、その時間が有限ということに価値を見出すことは可能ではないだろうか。
確かに有限の時の後に来るのは孤独であるかもしれない。だが、少なくとも大切な人と過ごしている間はその時間に価値を見いだすことは可能ではないかと思う。
「私は1人じゃなかったからまだ幸せ」、「1人ではないということを知ってしまったから、1人は辛い」というような話をとある番組で聞いた。
だが、後に来る孤独を見据えつつ周りと触れ合おうとする努力により、それが可能となったとき、大切な人と有限の時間を生きるという、その者への存在価値というのは現れるのではないかと思う。

6年前 No.16

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

議論を見ていると最近ふと思うことが多くなってきたことがある。
それは「1つの主題にどれだけの方向から視点を変えてみているだろうか」ということである。
当然それがなされている議論もあることはある。
しかし、主題について、固定されたベクトルや視点で話し合い、そのことの賛否が主題の賛否であるように錯覚してしまっている議論もあるのではないだろうか。
もちろん一概にそれが悪いということを言いたいわけではない。
しかし、物事においては多数の視点が必要な議題だって大いにありうる。寧ろそのような議題の方が多いのではないだろうか。
そしてそのような議題に対しては考えられるだけの視点から論じることによってまた別の発見を得ることは多々あるはずである。
もしそれがなされていないとしたら、なんとももったいないことだと思う。

以前にこのサイトが過疎化しているかという議題に参加したことがあった。
私は一番最初にその根本が疑問に思い、本当に過疎化しているのか発したことがある。
もっとも、それは議題として日の目を見ることはなかったが、もしそれが議論されていたら、もっと深みが広がったのかな、その先の議論はどうなったかなと思う時がある。

また、ちょうど東日本大震災から一年が過ぎようとしている。
あの大震災の中で、日本が目指した耐震技術が大きく見直されようとしているという話を聞いた。
それは何故かというと、地震と津波に今までの技術では太刀打ちできなかったからだ。
地震の専門家と津波の専門家と地質学者が手を組まなくてはいけなくなっているのだろう。
そして、これからは―例え、それがディスカッションだとしても―1つの物事に対して幅広い検討がより重要視される岐路に立ったとは言えないだろうか。

6年前 No.17

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

エッセイを書くとき、私は必ず部屋を数周はする。自分の中にいつまでも消えないモヤモヤが残ったとき、それを考えようとする。
その果てに何をしたいのか自分でも分からないのだが、とりあえず自分なりの回答を出してみたいのかもしれない。
もしかすると自己満足の納得をしたいだけかもしれない。
或いはただ単に自分が偉くなった気になりたいだけなのかもしれない。
高度な意味を持っているのか、みんなが呆れかえるほどの不純な意味しかないのかすら分からない。
ただ、それがどのような意味を持ち、何に繋がるのか答えることはできないが、私にとってエッセイを書ききることは一仕事を終えるような感じを得る。
さて、私個人の感覚など聞いて、一体だれが喜ぶのだろうかと書いている自分自身思う。もしここから取り出せるものがあるとすれば、クラーク博士の名言「少年よ大志を抱け」ということに結び付くということだけではないだろうか。

飛躍をし過ぎたので話を一からに戻そうと思う。
私のやっていることは、傍から見れば意味を持たないことかもしれない。何しろ、斜め45°を向いて部屋をグルグル周った上に書き込みをするのだ。
時間の無駄ではないかと考える人もいるだろう。だが少なくともそれは私にとって無意味と言えるだろうか。
少なくとも全く意味のない行為だとは思わない。考えること自体に意味があると思うからだ。

青春を送るということはどうだろうか。立花氏によると、「あらゆる失敗の可能性を見据えつつ、大胆に生きることが青春をよく生きる」ということらしい。
この中で青春とは人が自分の生き方を模索している時であり、よほどのことがない限り自分は青春を送っていると気付くことはないらしい。
もっというならば、自分が船出するための空白の修業時代というような内容も語っている。

青春とは自分の夢や目標に向けての門出のための修業時代である。そのためには自分に自分の人生をかけるための自信と経験が必要になってくるだろう。
そのためには自分自身が門出のために必要と思われる様々なことを経験し、取得していく必要があるのではないだろうか。
例えそれが人には無駄だと思われることでも…である。
人々は大志を抱き、それに向けて門出をできるだけの経験が必要である。もしそれがなければ大志を抱く前に或いは抱いたとしても、立ち竦んでしまうであろうからだ。
まだ十代半ばぐらいまでなら大きな大志を抱き、それに向けて勉学や経験に励んでいってもらいたいと思う。
全てはやがて来るための門出のために。

6年前 No.18

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

ふるさと

「ふるさと」とは一体何であろうか?
こう言えば「おかしなことを言う」と思う人がいるだろう。私自身がそうだ。ふるさととは生まれ育った土地以外の何物でもない。
言葉通りであるが、ふるさとに抱く感情を考えるとふるさとというものが全く分からなくなってくるから不思議である。
幸か不幸かは知らないが、私は「ふるさと」とつく作品を3つ知っている。1つは文部省唱歌である名作「ふるさと」である。
次に魯迅の名著「ふるさと」である。3つめは「ふるさとは遠きにありて思うもの」という室生犀星の詩の一部である。

さて、ふるさとという言葉はそもそも生まれ育った場所では使うことがないことは確かだろう。そもそも生まれ育った土地から離れた際に使用するものである。
そうなると問題になってくることが生まれ育った土地を離れた時間である。ふるさとという言葉を感情を込めて言うようになるには、ある程度生まれ育った土地を離れる必要がある。何故なら、1泊2日の旅行で別の土地を訪れても、そこにふるさとという感情は生まれにくいだろう。
だが、これは流石に人それぞれであるが、少し考察をしなくてはならない。
上の3作品の内容を見ると、具体的な時間は分からないが、それでもある程度長い年月であることは読み取れる。
唱歌「ふるさと」では、「いかにいます」、「つつがなしや」という語が使われている。魯迅の「ふるさと」でも長い年月が経過されていることが記されているし、室生犀星の詩では、彼の生涯を見るとうなずけるだろう。
ならば、ふるさとという言葉が使われるには、生まれ育った土地をある程度長時間離れることが前提条件である。
さて、ではふるさととはどういう場所なのであろうか。さらに言うならば、長年離れた者にとってふるさととは何であろうか。次に書いていきたい。

6年前 No.19

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

まずは文部省唱歌「ふるさと」の考察をしたい。
1番目の歌詞はふるさとの情景を表している。山が青く川が清らかな、まさに田舎の生まれ育った地を思いだしているのだろう。
2番目の歌詞は友だちや家族の心配をしている。元気にしているだろうかという、その土地に住む知り合いを思い出している設定だろう。
3番目の歌詞が一番面白い。「志を果たしていつの日にか帰らん」とあるように、自分の志を遂行して、いつかふるさとへと帰ろうという願望がうかがえるのである。
となれば、最初の1、2番目の歌詞の後に、3番目の願望が来ているということは、「ふるさと」は言わば望郷の歌である。
ふるさとを懐かしく思い、いつかふるさとに帰ろうという夢を歌っていることは理解できるであろう。

ただ、問題は残りの2つである。
室生犀星の「ふるさとは遠くにありて思うもの」はその次に「そしてかなしくうたうもの」と続く。
望郷の感じは出ているものの、ふるさとへ帰ろうとする夢を持っているとはお世辞にも言い難い。
魯迅の「ふるさと」はもっと悲惨である。
主人公はふるさとに帰郷するが、そこには彼が抱いていたふるさとの影は微塵もなく、最後は新天地に希望をつなぐという切なくも現実味にあふれている。

これだけを見ても、ふるさとというものは生まれ育った地を長く離れた者にとって希望なのか、絶望なのかという2択をイヤでも突き付ける。
全ての発端は、ふるさとを長く離れたことによるだろう。ふるさとを長く離れた者にとって、彼の中のふるさとは時間がとまっているのである。
だが、実際はそうはいかない。ふるさとの時間は刻一刻と変化している。そのギャップこそが悲劇の始まりとも言えるだろう。
望郷とは自分の中の永遠に不変の理想郷に酔うことであり、帰郷とは時間により変化した現実を知ることになることであるとも言いかえられる。
自分の中のふるさとには永久に変わらぬ拠り所があるが、現実のふるさとにあるのは二度と取り返せない時間の壁だけであるのではないだろうか。

「ふるさとは遠くにありておもうもの」という室生犀星の詩は、文字通りふるさとには帰郷せずに望郷をしていることがよいという、時間の壁に対する警笛のように聞こえるのは私だけだろうか。

6年前 No.20

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

キリスト教について書かれたスレがあったので拝見しましたが…私はパスで。
こういう議論は私にはできないことになっているのです。
ただ1つだけ言えることは、キリスト教も仏教もヒンズー教もイスラム教も、他様々な宗教も、それが人々を導くためにできたものであるならば、信じる価値はあるのではないだろうかということだけです。
もちろん、信じる信じないは自由ですし、どの宗教を信じても良いのですが、信じる者にとっては信じるに値しているのでしょう。

さて、宗教について私が言えることはここまでですが、天国や地獄の存在は…特に宗教勧誘に関わらないだろうということで、考えてみたいと思います。
死後の世界は無であるか、死後の世界は存在しているとなる。さらに後者は、輪廻転生のように永劫続くのか、天国や地獄に行き着くのかと、様々である。
だが、死んでしまった人が本を書いたり公演をしたりすることは不可能である。
もっとも、一部の方々は幽霊と称しているモノを見たり、幽霊と称しているモノから言葉を頂いたことで、死後の世界があることを信じているであろう。
しかし、それができない人も多々いるのである。幽霊から言葉を頂けないばかりか、幽霊を見ることも叶わない人も多い。
故に幽霊に話を聞いたから天国や地獄はある。或いはないと判断することは全員に分かってもらうことは不可能だろう。
例えば、「夢や幻覚を見た」とか、「脳内物質の影響」と言われてしまえば、反論は難しい。
では、宗教の開祖の話によるのはどうだろうか。私的には、開祖も「生きて」いるうちにそれを説いたわけであるから、死の世界を見たとまでは言い難いのではないだろうか。
ここで「生きて」とは、生まれてから死ぬまでの間、全員にその生を保った状態で存在していることを了解してもらっている状況を指すことにしよう。
それでは天国や地獄はあるのかないのかということを論じることは不可能であろうか?
答えはなんとも言えない。だれも見たことのない世界の存在の判定はあまりにも難しいのである。だが、1つ切り口を探るとしたらそれは「臨死体験」と呼ばれている体験にすがるしかないのではないだろうか。
臨死体験とは知っている人は多いだろうが、人が死に瀕した時にすることがある死後の世界を垣間見たとされる独特な体験である。
もちろんこのような体験があるから天国も地獄もあると結論付けるつもりはない。
臨死体験は死後の世界を垣間見た体験という説と、死んだ人間は生き返るわけではないので生きている人が死に瀕した時の特別の状況下で脳が見せる幻覚であるという説が真っ向からぶつかっているのであるから。
しかし、この臨死体験とは一般に説明がつきにくい不可思議な体験もあることも事実なのである。
少し、この臨死体験というものから死後の世界というものを考えてみたいと思う。

6年前 No.21

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

人の見方について〜ユング博士の伝記から思うこと〜

上の続きをしたいと思うものの、しばらくお待ちください。

今日は人の見方について思ったことを書き連ねたいと思います。
私の親戚にいる人なのですが、かなり無口な方なのだそうです。私は小さい頃に1回ぐらいしか会っていないので、覚えていないのですが。
叔父(その方の父親ではない別の親戚の方)に「会社では役に立たないだろう」と陰口を言われたそうですが。
ただ、私は近頃、本当にそうだろうかと疑うようになってきました(笑)
子どもたちの中には、最初私と全くと言っていいほど話さなかった子もいます。しかし、その子は特定の条件下では笑うし、話もするのです。
近頃は私にも冗談や失礼なことを言ったり(悪意はないのです)、笑いかけてくるようになりましたが。
さて、何が言いたいかというと、別に病気ではなく、相手とのコミュニケーションをとりにくいという人は多くいます。
私自身、それほど上手ではないですしね。ただ、だからと言ってその人たちはコミュニケーションを全く取れないかと言うと、そんなことは断言できないのです。

かつてスイスの心理学者であるユング氏は、自分の母親について「母親は2つの顔があった。1つ目の顔は優しく、子ども思いの良い母親であった。2つ目の顔は神秘的で威圧的で、つかみどころのない母親だった」と。
ユング自身、2つの自分がいたことを認めている。
ただ、語弊があるといけないが、ユングもその母親も解離性同一障害だと言いたいわけではない。
人は誰しも心の二面性を抱えているのではないかと言いたいのだ。
私としても二面性がないとは言えない。もう1つの私は、道徳の名のもとに処罰をされても文句は言えそうもない。
ユングはペルソナという元型も掲示しているぐらいである。(もっとも、ユング自身はこの元型を嫌っていたらしいが)

人は時にして自分の見ている一面性のみで判断をしたがる。それが悪いと言いたいわけではない。
しかし、良い悪いはともかく、往々にしてあの人はあんな人だったのだと気付かされることも少なくはない。
詰まる所、人を本当に見るということはその人の多面性を見るということだろう。あまつさえ、その人にレッテルを貼るとしたら、完璧に多面性を理解していなくてはならない。
ただ、そんなことは不可能に近いだろう。曖昧の中で人をこういう人物だと判断し、レッテルを貼ることは、味見をしないでコックが客に料理を出すのと同じことであろう。
自分がしたり顔で言った特定の人への分析が全くの滑稽話にならないよう、私も気をつけていきたいものである。

6年前 No.22

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

議論の実情〜議論板の可能性と課題についての一考察〜

近頃、私は議論板を見ていると思うことがある。きっとそこを覗く人々は優秀なのだろうと。
もちろん、議論のやり方が優秀である人もいるだろう。だが、私が言いたいことは議論が優秀ということではない。
私が思うことは、成人ではない人々の中で、議論をしようとする姿勢、自分が1つの考えを持ててそれをぶつけて行こうとする姿勢は評価できるのではないだろうか。
私が見て来た子どもたちの実情を語るにはいかんせん経験が不足し過ぎているが、それでも1つ言えることは、議論どころか、自分の考えを持ち、それを表現することに抵抗が大きいことは言えるのではないだろうか。
要するに相手に言われたことはやり、教えられたことは学ぶものの、自分から考えることをしないという傾向である。
だが、そんな中で自分の考えをぶつけようとする姿勢はそれなりに評価してもいいのではないだろうか。
もちろん、相手に対するマナーや議論の仕方にはまだまだ改善の余地があることは変わりない。
しかし、私自身が学生の頃はどうだったかと言えば、相手の揚げ足を取らなければ議論ができなかったり、自分の言葉足らずのために鋭い言葉になったり、勝ち負けにこだわっていたりしていたことは否定できない。
今でこそ…いえ、今も議論のやり方が不十分であることに変わりはないが、それでも議論のなんたるかをあの頃よりは多少確立しているかなと思う。
それ故に、ここの議論板とは、そして議論に参加している人々は1つの塊になり、あの中で1つの大きな可能性を創り出しているのだと思う。
ただ、その反面気になる課題もある。それはあの板への参加の自由性である。
本来であれば、議論とは参加は自由なはずである。自分が疑問に思ったこと、自分の意見を語りたい人は自由に参加できる空間であるはずである。
だが、それをできなくするような「知らない人は議論をすべきではない」という雰囲気が一部感じられる所がある。
おそらくはこれが大きな課題の1つであろう。誰もが自由に参加し、分からない人には情報を提供しつつ、様々な情報を交換できる場にしていくことが可能になったとき、1つ大きな進展がみられるような気がして止まない。

6年前 No.23

志野 ★0BKqfrPerZ_dWB

世界遺産ブラジリア 〜ユートピアの誤算が伝えること〜

さて、ブラジリアは世界遺産に登録されているブラジルの首都である。
そしてこの都市は、たった3年ぐらいで創られたということだから、それだけでも伝説に残ると言える。
このブラジリアは交差点や信号機もほとんどなく、女性の曲線美を模とした近代建築であるという。
省庁や住宅地も風通しや水の流れ…つまり風水によって、快適に過ごせるように設計されているという。
その外観の素晴らしさと機能性によりユートピアと呼ばれたというのは今日の世界遺産で流された内容である。
しかし、そのユートピアとも呼ばれるブラジリアの1つの誤算が人数だそうだ。当初ブラジリアとその周辺に住むであろう予定されていた人数よりも5倍以上も多い人数に、現在はなっているという。
そのために、どこの都市でもある渋滞が起こり、それによってユートピアでストレスを感じる人も出ているらしい。

さて、ここから1つブラジリアが雄弁に語ることがあるような気がしてならない。
パンドラの箱という話がギリシャ神話に出てくる。有名な話だからほとんど知っている方も多いと思うが、一応掻い摘んであらすじを載せておく。
昔、パンドラという女性が神から箱を預かったという。しかし、その箱は決して空けてはいけないものだった。
ところが、結果的にパンドラはその箱を空けてしまう。するとそこから様々な厄災が飛び出したという。パンドラはあわてて箱を閉めたが、1つの厄災を残して全ての厄災は出たのだという。
そして箱に残った厄災が「未来予知」だったという。これが出なかったために、人々は希望だけは持てるようになったという話である。
さて、何故この話を書いたかというと、ブラジリアも完成当時はそこまで人口が増えることは予知できなかっただろう。そのため、ブラジリアはユートピアであり続けることが可能だと思ったはずだ。
しかし、年が経つにつれ、予想外なことが起こってしまい、ユートピアに亀裂が生じ始めているのである。実は、歴史の中で繁栄と衰退を繰り返す理由の1つはここにあるのではないかと思うのである。
例えばいかなるプランにせよ、最初の考案段階ではある程度の推測は行っているはずである。そして、その中でパーフェクトと思える案を採用する。
だが、現実にそれが実行されると予想さえされなかったことは起こりうるのである。それにより、対応を間違えるとやがてそのプランは破綻していくのではないか。
これを裏付ける根拠もある。鎌倉幕府時代における元寇である。鎌倉幕府は御恩と奉公という感情による結びつきという非常に上手な体制を整えていた。
そのため、この鎌倉幕府は繁栄するかと思いきや、外国から攻められたのである。流石にそこまでは鎌倉幕府の予期していなかったろう。
元寇により、御恩と奉公の結びつきに暗い影が忍び寄ることになった。明らかにこの予期しなかった出来事が1つの要因であることは言えるであろう。

私たちは設定当初に全ての可能性を網羅することは不可能である。それ故に、歴史はダイナミックに変動するのではないだろうか。繁栄と衰退という定めを抱えながら、いつまでもいつまでも…。

6年前 No.24

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

ゴールデンウィークの惨劇とも言える、バス事故はなぜ起きてしまったのだろうか。
運転手は居眠り運転をしていたと証言しているが、ブレーキ痕がないことを考慮すれば信憑性は高くなる。
もちろんそれが正しいと決めつけるわけにはいかないが。

さて、この運転手の行動を見ていると27日に千葉から同僚2人と金沢市へ行き、28日の朝に金沢市到着。仮眠をとり28日の夜に1人で乗客を乗せて、東京へ向かっている。
ここで疑問に思うことは金沢には2人で行ったことであり、金沢からは1人で来ていることである。
何故行きは2人だったのか。2通りの考えができるのではないか。

1つは千葉から金沢に行くのに、1人では危険だから2人で行ったという考えである。これに基づけば、この事故は起こるべくして起きた、いわゆる人災になる。
もう1つはもう1人は金沢で用事があって一緒に行ったという考えである。ただ、これには少し無理があるのではないだろうか。
何しろ本社が千葉にあるのだから、バスがないもう1人が金沢で何をするのかということである。
金沢に支社があり、そこに用事があって行ったのだろうか?
支社が金沢にあるのであれば、千葉の本社からわざわざ金沢に向かう必要もないだろう。
また、ツアーを企画した旅行会社の本社も大阪なのだから、金沢に何か用事があったとはますます考えにくくなってくる。

それでは、何故もう1人は金沢から東京へ行くときに同行していなかったのだろうか。
流石にそれはこの時点では解らない。
ただ、1つだけ言えることは、金沢−東京間の距離は1人では無謀だったのではないかということである。
最初に2人で行ったことがそれを物語っているような気がしてならない。
そのナイフの刃渡りで失敗をしてしまったことが、この事故の争点となることではないだろうか。
ほぼ間違いなく人災であるように思われてならない。

6年前 No.25

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」…奥の細道に記された有名な一節です。
まあ、芭蕉のような当てのない旅というのも今の時代には流石に勇気がいることだと思いますけれどね。
帰る場所があって人は安心して?旅を続けることができると思っている人は多いと思います。

さて、旅には様々な目的があります。
私は旅に出るとしたら、やはり文化と歴史を探りたいですね。
その果てに何があるのか知りません。
ただ、時にふと自分が知らない何かを知りたいと思う瞬間があります。
それは多分に自分が行き詰った時や自分とは何であるかを考え始めた時です。
或いは自分の中でどうしても出られない袋小路に迷い込んでしまったとき。
そんな時はやはり視たり識りたいと感じてしまうなと。

自分の想いが伝わらない時やどうしても何かうまくいかない時、自分の気持ちが安定しない時に思索というのは重要だなぁって感じます。

6年前 No.26

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

神々と性について

日本の主神と言えば、天照大神になるだろう。言うなれば女性の神である。
このように女性の神々と言うのは神話の中にも多くあったそうである。
そもそも女性と言うのは命を誕生させるという意味で、豊穣の神や生命の神は女性になることが多々あったそうである。
しかも、耕作国家において豊穣の神や生命の神は主神とされたのである。
だが、どうやらそれらの神話がギリシャ神話と融合されるにつれ、主神はゼウスに移ったと言われる。
ゼウスが主神であり、他の神々はゼウスにより誕生したり、ゼウスの側室になったりしたらしい。
さらに、ゼウスは女神だけでなく人間やニンフとも性行為に及んだという話もあり、そうとう磨きがかかっている。
そのためにゼウスは相当な漁色家となってしまったらしいが…。

話は戻し、女性の主神である豊穣の神や生命の神に力を与えることの意味もあって、古代では娼婦は聖なる職業とされていたそうである。
そう考えると、女性の立場とは本来伝統的に高くなければおかしいはずである。
だが、日本でも欧米の国々でも男の地位の方が上の状態が続いてきたらしい。
一体この矛盾はどうやって解消できるのか、疑問を持ち始めると考えてしまう。
もしかすると、ギリシャ神話がその一端を担っていると考えるのは、少し飛躍しすぎなのだろうか。

6年前 No.27

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

「仕方ないなぁ、やってあげるか」

あまり関心ができる言葉ではないことは重々承知である。
自分優位の発言であるから、相手にとっては気を悪くすることがある。
だが、反抗期真っ最中の子どもに頼みごとをして、この言葉が出たらそれはそれで「しめた」と思う。
頼みごとをして「イヤだ」と言われたらそれまでである。
しかし、自分優位でもOKサインを出してくれれば、それはありがとうと言える。
そもそも、反抗期など頼みごとを受けるのが嫌なのだから、どんな形であれ、受けてくれれば1つ前進である。
あるラジオでの話ではないが、人から人へ旅をする言葉「ありがとう」が出せる状況であれば、それは互いに繋がりを持つことができるだろう。

もちろん、大人になってこれを言ったらアウトだが、年によってはこれを見て見ぬふりをするのも1つの策であろう。

6年前 No.28

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

「エーゲ〜永遠回帰の海〜」読破記念?

永遠回帰…ニーチェの思想であり、永遠に同じことが繰り返されるという思想である。
さて、この世というものは歴史を辿っていくと永遠に全てが繰り返されているとも言える。
繁栄から滅亡までを辿った国家は多々あり、世界大戦も繰り返されている。
ただし、この世界大戦はどこまでが世界であるかということは時代時代で少し違うが。
だが、それは些細なことであり、流れで見ると確かに永遠回帰が起きていると言える。
そんな中、永遠に生きるとはどういうことか少し考えてみたところ、言うなれば繰り返し流れる映像を淡々と目の当たりにしている視聴者のような心持ちであると考えることも可能である。
映像の中には目をひく内容もあるだろう。二度と見たくないシーンもあるだろう。
それが繰り返し流れるのを見ているのはどんな心持がするのだろうか。
あえて上の質問を取り上げはしないが、言わなければならないことが1つある。登場人物が永遠の中の一部になってしまうということである。
「またこの人が出て来た」という感情はまさにそれを意味する。
つまりこの世界の私たち1人1人は永遠の欠片とでも言えるのではないだろうか。
ならばこの現在も私たちも永遠であり、永遠という中を生きていると言えるのではなかろうか。
そう考えたところで、結論が本の内容と一致した。果たしてこれが正解か否かは分からない。
ただ、これも永遠の中の一部であり、またあり得ることなのであろう。

6年前 No.29

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

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6年前 No.30

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

こちらに書いておいた方が良いのかもしれない。
存在論はハイデガーも言う通り繰り返されてきた。
そして今、存在論は今一度繰り返されてもいい時期に来ていると思っている。
いや、今だからこそもう一度今の時間性における存在論の在り方が必要なのではないだろうかと思う。
もしそれをするとしたら間違いなく科学的視点に立った上で、存在論を時間性と空間性から考察することになるのではないだろうかと思う。

6年前 No.31

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

私は夕方は好きではない。
何故かと言われれば困るのだが、どうも好きになれないでいる。
夜は好きなのである。早朝はもっと好きだ。昼間も悪くはない。
つまり問題は夕方だけなのだが…。

一日を見ると朝が来て、皆が活動を始める。そして夜が来て活動を終わるのである。
このサイクルで一日が成り立つが、夕方とは活動が終わりへ向かっている、まさにその時である。
昼を生とし、夜を死とした古代の人々の思想を見た気がする。
故に日々は死と復活の繰り返しなのだそうだ。
ちょうど夕方とは死に向かっている時とも言えるだろう。
そして早朝とは復活に向かっている時とも言える。

よく分からないような分かったような話になったが、「一日とは一生の欠片」と考えると少し見方も変わるのではなかろうか。

6年前 No.32

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

哲学よ、真の哲学となれ

昔の哲学者という肩書の1つを持つ人物は偉大であった。
タレスであれ、ピタゴラスであれ秀逸と言える哲学者の肩書を持つ人物は数多くいた。
思わせぶりな言葉を書いている理由は後で説明をしたい。
このように書くと、今の哲学者は偉大ではないのかという批判がきそうである。
正直なところ、私は半分YESで半分NOなのである。
昔の哲学者と呼ばれる人は哲学者であり、数学者であり、天文学者であったりする人が多々いたことは紛れもない事実である。
しかし、今は哲学者の肩書はたいてい「哲学者」なのである。
私はここに今の哲学の限界を感じざるを得ないのである。

過去に「宇宙の在り方」という問いは哲学が主導であった。しかし、それが文明の発展とともに科学や数学の分野に移行してしまった。
「私とは何か」という問いに関しても精神医学や脳科学の進出が著しくなってきている。
今の哲学は概念を追うだけの文系科目として位置付きつつある。
もともとの哲学たる追及が哲学以外の分野で行われ始めていることは本末転倒なのではないだろうか。いや、寧ろそう考えてしまうこと自体大きな問題なのではないだろうか。
何故なら、哲学とは全ての分野を包括している学問であったはずだからだ。

では、何故こんなことが起きているのだろうか。
これが先ほど述べた哲学者の肩書が「哲学者」だけということになる。
昔の哲学者としての肩書を持つ人々は哲学者だけではなかったのである。それはつまり哲学が全ての分野に通じており、全ての分野を統括しつつ根本的な問いを解決しようと歩んできた軌跡がそこにあった。
だからこそ、哲学は哲学たりえた要因ではなかろうか。
だが、最近は哲学が1つの分野に過ぎなくなり、哲学者は様々な分野に通じるという過去の業績がだんだんゆるみつつある気がしてならない。
それは仕方のないこととも言えるだろう。情報量が膨大になりつつあるのである。
とは言え、ここに来て私は哲学が真の哲学であるためには「解体」を行わなければならないと思っている。

次レスでそれを書きたいと思う。

6年前 No.33

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

続き

解体についての本論を書こうと思う。
まさしく哲学という学問を解体し、一から再構成するのである。
その具体的な内容としては、現在で哲学と呼ばれる内容を現在存在する学問分野に振り分け、哲学という分野の事実上の消滅を図ってはいかがだろうかと思う。
では今後の哲学をどうするのかと言えば、哲学を学問全体の総称とするのである。
哲学の中の数学であったり、哲学科の中の天文学であったり。
哲学が本来あるべき全ての学問を包括する姿に返そうということが大切ではないかと思う。
そうすることで哲学という名目において、全ての学問のネットワークが広がると考えている。

このような行為に意味があるのかという声が出てくるだろうと思う。
だが、このことの重要性は実は前々から唱えられているのである。
多様な知識の組み合わせというものは村上陽一郎氏も提唱しており、前々から言われていることである。
そしてこれが顕著になったのが東北大震災であった。
今や、様々な分野における孤立研究ではなく、お互いが協力したネットワーク的研究の必要性は論ずるまでもない。
そしてそれを可能にすることこそが哲学という全ての学問を包括する学問であると考えている。

哲学というものがかつて辿ってきた歴史はかけがえのないものだった。
それは人類が発展を遂げる上で重要かつ不可欠であったろう。
その理由は哲学こそが全ての学問であったことによる。
今はもう一度本来あるべき姿に哲学を戻すことで、人類の未来が新たに開けるのではないかと考えて止まない。

6年前 No.34

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

昨日のドラマを見て、少し考えたこと。

人の一生を川の流れに例えることが多い。川は生まれて地図も目的もなく河口まで流れていく。
その曖昧さというべきであろうか、それが人生に反映できるからだと考えていた。
しかし、実はもっと何か壮大な意味があるのではなかろうかと思った。それを書いていく。

川というのはそもそも水の流れではあるが、1本の水の流れで済まされることはまずない。
上流に行けば行くほど、数々の水の流れが縺れ合いつつ1つの大きな川へと成長していくものだ。
川の源流など微々たる水の流れでしかない。
そして、川は流れる中でスムーズには行かない。障害物にぶつかり流れが滞ってしまうこともある。
石によって流れる方向も変わってしまうこともあるだろう。
しかし、例え滞ろうが、流れが変わろうが、それでも川は流れ続けるのである。
また、増水によって氾濫し、周りを傷つけてしまうこともあるだろう。その潤いで誰かを助けることもあるだろう。
それら全てを経験しながら海へと向かい流れていくのが川である。

では、川は海へ行くと終わるのだろうか?水の流れの終着駅は海なのだろうか。そんなことはない。
海へ流れついた水は、蒸発し、雲になって空を駆けることになる。そして山へと戻るである。
つまり、水は絶えず巡回をしている。回帰と言ってもよい。

人の営みが川に例えられるのであれば、人は人同士の縺れ合いの中で成長していく。
そこには壁もあり、人生を立ち止まってしまうことも、変えてしまうこともあるだろう。
それでも人生という道を歩んでいくものだ。だが、その終着駅はどこなのだろうか。

そんなことを考えていた時、「全ては回帰するのだ」という言葉が頭にありありと浮かんだ。
永遠回帰。人の人生は決して終わることのない円環の一時なのであろうか。
人生とは一瞬であり、同時に永遠でもある。過去に書いたと思えるような事実に別の角度から到達したような気がした。

6年前 No.35

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

人は願望や信念というものを紡ぐことで関係を築いていきます。
でも、元を辿れば最初の願望や信念は、実はそんなに難しいものではないのではないでしょうか。
誰かと一緒にいたいということであったり、大切な人と別れたくないということであったり、誰かとの約束を守らなければということであったり、自分はどうすればいいかということであったり。
でも、それらが叶わないと知ったとき、その願望や信念が空回りし、行き場を無くしてしまったとき、それを憎悪と呼ぶのかもしれません。

5年前 No.36

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

山中教授がiPS細胞の研究でノーベル賞を受賞されたことは、今年屈指のニュースだっただろう。
利根川進博士に次いで、医学生理学賞は2番目の受賞者である。
そのニュースを見ると、常に「何故」という言葉が付き纏っているらしい。

研究者が研究に打ち込むことと、私が本を読むことの違いはやはりそこにあるのだろうか。
私も本を読むと、そこに書いてある内容だけで満足してしまいがちである。しかし、本当に重要なのはそれ以降ではないだろうか。
過去の研究はこうであった、それでは「そうなるのは何故か?」と考えることで次に繋げられるのである。
ニュートンが言った名言はそれを物語っている。
過去の研究を知った上で満足してはいけないのではないかと深く思った。

さて、別のスレの話になる。
ハイデガーのナチス加担の話を同時に思い出した。実はそれは重要ではないと思っていた。
しかし、実はそれが一番重要なのではなかろうかと思い始めた。
彼のその行動こそ、本当に私が知らなければならないことなのではなかろうかと。
存在と時間は、未完部も含めて、内容を知ることは可能である。
ならば、その思想に辿りつき、何を目指したのか。そのために何故彼はあのような行動をしたのか。
そこまで知ることによって、初めて「何故そうあるべきなのか、理想とは何か」を語ることができるのだと。

5年前 No.37

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

ユクスキュルの環世界の理論を借りると、人には人の、ハエにはハエの、犬には犬の「世界」がある。
同じ時間と空間に存在しているから、それぞれの世界があるというと少し「おや?」と思うかもしれない。
でも、この「世界」という言葉を干渉可能領域や反応領域と考えると頷ける。
人には人が認識しうる領域がある。(例えば、宇宙形成以前の世界はこの領域の限りではない)
犬は宇宙の領域まではムリだろう。過去と未来があるということも認識しえないだろう。

さて、この環世界ということを考えると、果たして人はどこまで認識可能なのだろうか。
もっと言うなれば、どこまでが「世界」なのだろうか。
これを人間同士の間柄という関係で捉えてみると面白い。
1人の人間が別の人間の存在や考えや行為を認識することは可能だろう。
だが、その人間の意識を認識することは不可能である。
ここで言う意識とは、その人がその人であることをたらしめる、その人固有の思考・行動を構成する要素であり、これがある限り私が私であると認識できると考えるべきであろうか。
意識レベルで自分自身が認識する領域は自分だけということになる。それならば、自分があってこそ「世界」があるという結論が可能になる。
自分が他人の意識を認識できない以上、自分の「世界」の認識対象はあくまで自分になるからである。
ここで自分自身が自分自身の「世界」の視点であり、主人公という位置づけが可能になる。

5年前 No.38

志野 @sinomon ★0BKqfrPerZ_dWB

自分自身の「世界」において、自分自身が主人公であるならば、当然その「世界」を形づける物は自分自身であると言える。
もっというならば、その「世界」を描けるのは自分自身でしかいないのである。描けるというのは全体像を見渡せるとでも言えるだろうか。
そう考えるとこの定義も―「世界」において自分自身を主人公とすること―によって、1つの話が生じることになる。
あくまでも自分自身を主体とした自分自身のstoryである。その聞き手は自分自身であっても良い。
AIさんのstoryはそれを物語っているように聞こえる。

自分のstoryだから、自分自身の「世界」だからこそ、自分の色で染め上げていく。
失敗も不安も屈辱もある中で、自分が主役である自分の話であるならば、その苦難を乗り切る主体もやはり自分になってくる。
自分は自分のために全力を尽くすことにより自分の話をどうとでも―自分が好きなように―持っていくことができる。そう考えることが可能ではないだろうか。

5年前 No.39

志野 @sinomon2☆e8yUbnHeObA ★kHCVEmk3tb_dWB

「今後の時間はどうなるのか 〜ハイデガーへの1つの質問〜」

マルティン・ハイデガーという哲学者がドイツにいた。彼は以下のようなことを考えていたのではないかという。
アリストテレス以降、人類は非本来的時間性とも言うべき場から存在という視点を設定しているという。
それは中世スコラ哲学に引き継がれ、近代哲学まで流れているのである。そしてこの流れこそ、被制作性とも言うべき存在の流れであり、人間中心主義を生み出していると分析していたという。
非本来的時間性とは、現在を中心とみた時間の捉え方であり、過去は忘却、未来は期待とされ、連綿たる時間の結びつきを緩めているという。
さて、その中で非本来的時間性から本来的時間性へと転回を行うことで、人間中心主義から自然主義へとの移行を目指す目的があったのだという。
ちなみに、この本来的時間性とは未来…特にやがて来るべき「死」を凝視することにより、過去を反復し、一瞬の現在を生きるという時間の捉え方であるという。

以上がハイデガーの思想である。(木田元氏の諸々の本を参照)
さて、では現在の人類はどうであろうか。
まず、結論から言えば、非本来的時間性を引きずっていると考える。そしてこの先、それが顕著なものになるとさえ想像されるのである。
まず、ハイデガーによれば、本来的時間性とは来るべき「死」を凝視することから始まるという。しかしながら、その死が引き伸ばされているのが現在である。
そして科学の発展により行き着く果てに、無限の生すら考えることもできるのである。
つまるところ、それでは中心に見つめるべきは結局「現在」なのではなかろうか。少なくとも未来を凝視することはできなくなるだろう。
そうしたときに、本来的時間性へと立ち返ることが困難になっているという状況に行き着くのではなかろうか。

「存在とは何か」という問いは過去から繰り返されてきた。しかし、今も、そしてこれからもやはり繰り返されていくべき問いなのではないだろうか。
そして、終末論的状況中で名著が誕生したように、今後、名著を誕生させていく必要性があるのかもしれない。

5年前 No.40

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

最近ふと巡らしていた考えがあるので、それを何回かに書いてみようと思う。
ここがまだお蔵入りしていなかったので。

@人の中の二律背反

祖母の介護などをしていると、こちらがどんなに平和的な接し方・解決の仕方をしても相手から攻撃的な仕打ちを受けることがあった(ある)。
そうなると、どうしても相手と自分でけんか状態になってしまう。その際には決まって「静かに何事もなく過ごしたい」というのである。
本人も平和を望んでいるのだろうと思い、こちらの接し方や解決法に不備があったのではないかと模索する日々が続いた。
流石に毎日ではないが、そんなことが度重なって起こる中、ふと気付いたことがあった。
けんかが終わると口では平和を望んでいながらも、表情が実にさっぱりしているのである。
もちろん口げんか程度のもので、暴力や暴言は一切ないし、相手は祖母なので、100%私が加減をし、勝つのは祖母であるが。

そうした中で、思い至ったのは、実は平和を望んでいる一方で、けんかを必要としているのではないだろうか。
けんかをして自分のストレスを発散しているのではないかということだった。
確かに自分が勝てそうにも思えない外部の人には笑顔で接しているようだ。身内ならば、やり込められることはないと察しているのかもしれない。
そしてその考えはクレーマー問題にも確実に結びついている。(自分の会社の得意先やお客にクレームをつける人はあまりいないだろう)
或いは勝負事だろうか。スポーツなどの勝負事に熱中するのも、合法な形の争いとみることができる。

平和と争い、その2つは一見決して交わることのない水と油の関係であるように見える。
だが、実は根底ではお互いがお互いを補完し合っている状態なのではないだろうか。
人の中にはこれだけではないが、そういう二律背反が内在しているのが現状だと考えるのである。

3ヶ月前 No.41

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

A 人間は自然を超越できたか

ここから一転して自然に目を向ける。自然とはどのような存在か?
自然とは生物になくてはならない存在である。自然なくて生物は存在できない。
それと同時に、自然とは生物にとって忌むべきものである。自然災害の前に生物はひとたまりもない。
生物にとって、自然とはかけがえのない存在であるとともに、この上なく危険な存在である。
つまり、自然とは二律背反を持つものである。生と死、恐怖と安堵、感謝と嫌悪などが複雑に結びつく。

人間は自然とどのような位置にいるのだろうか。超越しているのかしていないのか。
まず、人間が予想しない問題というのは生活上多々起こる。今年の気候がそうであろう。
次に、自然災害を前に人間は完璧な対処ができるのであろうか。それはかなり難しい。
最後に、宇宙に人類は進出したが、宇宙空間には自然の1部を再現しないと(快適には)暮らせないし、存在できない。
以上の点からも、人間は自然を超越できてはいない。未だ、自然の中に包括されているのである。

では、人間も自然の1部と考えることができるのではないだろうか。
そうなると人間が自然のごとく、二律背反を抱える存在であってもなんの不思議もないのである。

3ヶ月前 No.42
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