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志野の徒然日記

 ( 日記投稿城2世(大人風味) )
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志野 ★nh6hs2FhLvw

初めまして。こちらで日記を書き始めたいと思い、このスレを立てました。
内容としては、私が考えたこと、経験から行き着いたことを書き綴れたらと思います。
あくまでも私の視点からの考えなので、その辺は悪しからず。
それと、特に年齢制限が必要な記事は書かないので、読んでいただける方がいらっしゃるのであれば、お気軽にどうぞ(笑)

2009/05/30 20:17 No.0
メモ2011/08/09 05:41 : 志野★0BKqfrPerZ_dWB

こちらは客員名簿?です。

私の日記に来てくださった方はこちらにお名前を記して、記念にすることもできます。

もちろんお名前を書いていただくことを強制は致しませんし、書き方も自由です。ただし、書いてもらっても何も出ません。


・志野(スレ主)( ̄ 。 ̄)y―~~


・アリス(同級生)( *´艸`)ムフフ♪


・にら玉(愛人(3号))(。-_-。)ポッ


・さく(変人28号)w(゜ロ゜;)w


・香華(お友達)( ̄(エ) ̄)ノ*


・JAM (隠し子(009号))(≧∇≦)/

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志野 ★3D3iez4otD_yoD

温泉に行ってきました。今年初めて行ったんじゃないかな(汗)
昔はよく行っていたが、今はなかなか余裕がなくて行けなかった。
でも、いざ行ってみるといいものですね。
脱衣所がいい具合に暖かいし、広々と着替えられる。
洗い場も広い。シャワーはないが、それも味だと見てみると、寧ろない方がありがたくなってくる。
さらに、何よりも湯壺。体中広げて入れることが至福ですね。
最後に、風呂上がりのコーヒー牛乳でしめてきました。銭湯や温泉で飲むコーヒー牛乳はどうしてあんなに美味しいのだろうか。
普段、コーヒー牛乳などあまり飲まないが、温泉だと、まず飲みます。
カフェオレと書いていないところがまたいいですね。カフェオレだとかえって有り難みがないのだろうな。
コーヒー牛乳と書いてこそなのだろう。

さて、これから大人の飲み物を(え?
多分、この後落ちる可能性が大なので、ここにて今年最後の挨拶を。
皆様、よいお年を。(もし起きていたらまた来ますが)

3ヶ月前 No.427

志野 ★7NoH0OtxHc_yoD

明けましておめでとうございます。
昨日の夜はオードブルを、今朝からはお節料理を食べていたら、胃もたれが…。
とてもではないが、夕食の分のお節料理を食べることはできないと感じた。

冷蔵庫を見ると、きゅうりとみょうがと大根が。
きゅうり→もろきゅう
みょうが→刻んで、かつお節+醤油
大根→根に葉から一番遠い部分をおろし金で強めにおろして醤油
という3強を考えた。うん。考えただけで、おなかがすいてきた気がする(笑)

年かねぇ?

3ヶ月前 No.428

志野 ★7NoH0OtxHc_yoD

朝、5時に目が覚めたので、某グルメ漫画を読んだことは間違いであったとつくづく後悔している。
さっきから無性に麦とろ飯が食べたくて仕方が無いからである。

麦飯といえば、過去に「所得に応じて麦飯を食べたほうがいい」と発言をして総スカンを食らった総理大臣がいたが、今の人々が聞いたら笑い飛ばすだろう。
麦飯の健康成分を知らずに何バカなことを言っているのだろうかと。
麦飯の人気もそうだが、卵かけごはんもしかりである。おそらく20年前(私が子どもの頃)にレストランでこれを出す風景はまず見られなかったと思う。

漫画やアニメでも、昔に流行ったもののリメイクが再び流行っていたりする。「おそ松さん」はそのいい例だ。
最近、過去の物が見直される傾向が強くなっている気がする。
それはもしかしたら、日本の文化が、進むところまで進み、それ以上進みにくくなっている証なのかもしれない。
よって過去の栄光を再び再現しようとしているのか。
はたまた、ノスタルジックにかられているのか。
ふと「永劫回帰」という言葉が脳裏に浮かんだが、まさに今、そんなことが起きているのではないかと思っている。

3ヶ月前 No.429

志野 ★GujK0AeTBX_yoD

YAHOOニュースで、たまに「ほほぅ」と思った記事を読んでみることがある。
すると、それに乗じてコメントを見ることがあるのだが、良質なコメントが多い中、必ずあるのが「面が割れていれば、明らかにこんなコメントしないだろう」というものだ。

以前に小耳に挟んだもので、「バーかどこかに行き、金と酒の力に任せて、自分の有能さを語ったり、愚痴をこぼしたりしているくたびれたサラリーマンの話」があった。
だが、この話によく似ている状態が上記のような明らかにしないコメントではないかと頭に浮かんだ。
「インターネットの世界へ行き、(一見)匿名性の力に任せて、自分が力あるようにコメントしたり、相手を小馬鹿にしたりしている状況」はちょうど同様な構図が見て取れる。
しかも、バーかどこかでする話がいつも同じ話であるように、上記のような明らかにしないコメントでは、使われる汚い言葉がいつも同じなのが滑稽さを物語る。
店では、心の中ではどう思おうとも、お金を払うので、(まだ)お客様扱いしてもらえるかもしれないが、インターネットで、さらには無料のサイトなどで行っている様は哀愁さえ感じる。ふたをされていることに気付けてないのだなぁと。(はたまた、気付いているからこそだろうか)

インターネットは一見匿名性に見えることと、法律が追いついていないことから気が大きくなるようだが、それはかなり危ないことである。
以前、ここを使っていた人を、文章から特定できたことがある。
どんな場所でも100%安全はないのだから、やりすぎには要注意であるなと感じる。

3ヶ月前 No.430

志野 ★ND3bIdwMft_yoD

とあるYAHOO記事を見てふと考えたこと。
なんでもかんでも「時代遅れ」と言えば「なるほど、ごもっとも」と言われ、したり顔をできる。
そのような流れというのは本当にいいことなのだろうか。

確かに「時代遅れ」と伝家の宝刀を抜き放たなければいけないこともあるだろう。
だが、基本過去があり、現在がある(そして未来がある)。
この中で、過去に「時代遅れ」と一蹴された物が巡り巡って最先端に返り咲いた例も数多くある。
特に、文化や思想などはそういう例が多いのである。

軽く「時代遅れ」と言うことは、逆に物事を知らない人たちの言い分ではないかと疑ってしまう。
恥ずかしいことに、自分もかつて、無知であったために、「時代遅れ」と一蹴していたことが、いかに大切なことか十年後ぐらいに思い知らされたことがある。
そのブランクで逃したことはあまりにも大きかった。
「何故そういう文化や思想が生じたのか」ということをしっかり考えた上で、生かせることは生かし、確かに「時代遅れ」であることにはそのように自信を持ち、断言できるようにしていく必要があるのではないだろうか。

3ヶ月前 No.431

志野 ★A0FAH3Alib_yoD

ここ数年、コンビニ弁当の完食がきつくなってきたことをしみじみ感じる。
1口か2口ならば確かに「美味しい」と感じるのだが、全てを食べきるとなると苦しくなる。
どうやら味付けが、特に甘味が濃いことが原因である気がする。
前はそんなことを感じることもなく美味しくいただいていたのだが。
「少し物足りなく、どこか地味な味」がしっくりくるようになってきている気がする。

どこでだったか、煮物は汁まで飲まないので濃い味を、汁物は最後まで飲みきるので、少し物足りない味をつけるのがちょうどいいという記事を見た記憶がある。
味でも強烈なものは一見惹かれるが、長く付き合うには素朴で地味な方がいいのかもしれない。そう、何事も。

3ヶ月前 No.432

志野 ★nszRiR29YR_yoD

なんか、最近のニュースで「炎上」という言葉を多く見かけるようになってきた気がする。
どうして「炎上」が多くなってきているのか。それとも、単に、そういうニュースが好んで取り上げられるから、目にする機会が多くなっているだけなのか。
もしかしたら、その両方なのかもしれないし、他の理由なのかもしれない。

ただ、1つ考えることが、「オピニオンリーダー的な存在」が希薄になってきているのかなと。
「炎上」するニュースは、割と一般的にとっつきやすい記事が多い。学問の専門分野についてのニュースの「炎上」はあまり目にしない。

人々がある程度まとまった集団になっているとき、物事の判断の手助けや課題提起をしてくれるリーダー的存在(オピニオンリーダー)がいる。
この人たちが、本来ならば考えなくてはならないことや、判断をどう進めるべきかということを示唆してくれるのである。
だが、最近のテレビの見方や、特にインターネットでは、集団ではなく個人になる傾向がある。(インターネット上では個人ではないだろうが、パソコン前ではほぼ個人だろう)
一家に一台しかテレビがなく、夕食から夕食後にもなお家族が集まってテレビを囲みながらお茶をすする…という家庭は減少傾向にあるのではないだろうか。

そうなると、ニュースなどに出くわしたときに、それに対して課題提起や判断の手助けをしてくれる存在が近くにいない状況が生まれてしまう。
そうしたときに、自分がとっつきやすいニュースを見て、感情のままに書き込みをして、それが連鎖するという状況が生じやすくなっているのではないだろうか。
「オピニオンリーダー的存在」がいれば、「それは口を滑らしただけだ。見て見ぬふりをしてあげろ」とか、「こういうような意味があるのかもしれない。だから、様子見をしてみよう」などとワンクッションを入れてくれるから直の衝突が回避できるのではないかと思う。

そう考えてみると、「炎上」が多く見られるようになってくるのも、なんとなく今の時世を反映しているように思えてくる。

2ヶ月前 No.433

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

数学史の本をちびちびと読んで、1日が終わりかけている…。
こんな過ごし方もなかなかいいものである気がする。

その中に書いてあったことについて。数学(に限らず)の学者でも、人間の性からは逃れられないのだな。
いや、かえって学者だからこそ、保守的になってしまうのかもしれない。「こんなことは起こりえない」と。
だからこそ、先進的な理論を唱えると、無視されるかぼろくそに批判される。
でも、結果、その理論が正しいと判断されたときに、批判する側とされる側がちょうど入れ替わる。
そんな構図はどこの世界でも見られるものだ。だから、数学の世界だけが特別と考える理由はないのだが…。
かの偉大なガウスをもって、非ユークリッド幾何学の発見を公表しなかったほどであることに驚きである。
それほど、カントとの衝突を避けたかったらしい。

「出る杭は打たれる」という諺があるが、これもどこの世界も共通の真理であるのだなと思う。
もっとも、よかれと思ってやったことや、そのつもりがないままにしていたことが「杭」に見なされることもある。
なかなかに難しいものである。

2ヶ月前 No.434

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

明日を生きる者たちが、将来の「今」を大切に生きることができる。
そのためにも今日を生きる者たちが現在の「今」を無駄にせず、大切に生きる。

とある動画で見た内容(表現は少し異なります)であり、時々ふと思い出す。
そして思い巡らせる。
そんなことを考えて行動できているだろうかと。
そんなことを世の中は示せているのだろうかと。
そんな姿の大人がどれだけいるのだろうかと。
子どもは卓越した観察者であるから、以外と今の世相を大きく反映しているのかもしれない。

2ヶ月前 No.435

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

職場で、ふと「走れメロス」の文章を見る機会があった。
以前に一読したことがある内容だったが、年を重ねて読んでみると、だいぶ印象が変わっていた。
最も引きつけられた部分が、クライマックスでもメロスの葛藤のシーンでもなく、冒頭の王の語りの部分だった。
王が言っていることは、大小あれど何かしら経験したことがあるのではないだろうか。
「信じれば裏切られる。手を差し伸ばせば嵌められる。」そんな気持ちに染まりきってしまうのは問題だが、全く理解不能ということもないだろう。

末永く読まれているのは、誰もがある葛藤を題材にし、共感があるからこそではないか。
できることなら、王がこのように絶望していく過程が外伝(のようなもの)としてあったら、さらに面白かったな。
そんなことを考えたら、いつの間にか引きつけられていた次第である。

2ヶ月前 No.436

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

人の裏にあるもの、それを知らずに接することの怖さというのがある。
自分自身が今に至るまでの軌跡を全て話しているという人は少ないのではないか。
多かれ少なかれ人目に触れていない部分があることだろう。
それをひた隠しにし、偽りの自分を表に出し通すという人も少なくないだろう。
壮絶な人生を送って来た人ほどその可能性があるのではないかと思う。
もちろん赤裸々に全てをさらけ出す人もいるが。

なぜひた隠しにするかといえば、分かってもらえないことが分かっているというのが1つの要因ではないかと思う。
「こんな人生を送ってきて、こう思っている」と話したところで、理解してもらえずに一方的な解釈をされたらたまったものではないだろう。
あたかもドキュメントを生で見ているような素振りや、ましてや「あなただけが特別ではない」というような雰囲気を出されたら目も当てられない。
一度でもそんなことがあれば、自分からは決して話さなくなるだろう。

だが、それ故に誤解が生じてしまうことも多々あるのではないかと思う。
人の裏にあるものを感じ取ったり、行為を選んだりすることは大切だと感じるゆえんである。

2ヶ月前 No.437

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

コンビニに寄って、買い物を終え、レジに向かったら…2人の店員さんが…ぴょんぴょん跳ねていた…。
こちらに気付くと、「きっと変な目で見られている」とひそひそ話していた。

うん、最初は「何…やってるんだ?」と思っていたが、すぐに「店員さんが楽しそうで何よりです」(?)と思い直して、会計を済まして店を後にした。

いいさ。楽しいことは。
今朝4時に爆音を轟かせて町中を縦横無尽に走っているだろうバイクの音にたたき起こされたからね。
いやなことがあった日のほのぼのした風景は許せるb

…でもなぜ跳ねていたのだろうか?

2ヶ月前 No.438

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

「げげげの女房」の連載もあった水木しげる氏の「げげげの鬼太郎」の6作目が始まることは知っていた。
が…猫娘が今風になっているという記事を見て、調べてみたが…私が知っている猫娘とはもはや別人でした(笑)
でも、それ以外のキャラクターはさほど変わりないのですね。(ねずみ男が黄色から青っぽくなっていたことは省略)

懐かしいな。また見てみるかなぁ(懐古)

2ヶ月前 No.439

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

今日の半日がようやく終わった。長かった気がする。
それだけ半日のうちにいろいろあった。
なんだろうね。半日で見方の1つが変わった気がするよ。
…今日は焼酎飲まないと寝られないかもなぁ…。

1ヶ月前 No.440

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

某スレとは別個に私的な考えをつらつらと。

現在の日本には様々な宗教があるが、時代を遡っていくと仏教と神道に行き着く。
この2つ、実はかなり誤解されているが、日本の本来の宗教は神道であり、仏教はおよそ1500以上前に日本に伝えられたものである。
神道と仏教を考えた上で、仏教には「仏像」という具体的な姿の神が共通しているが、神道にはそれらしき姿は共通していない。
自然物(岩、山、石など)も多いのである。例えば、諏訪大社でいうところの「ミシャグジ」である。
ここから日本人がかつて何に敬意を払い、何に神を見ていたかが確実である。
古来の日本人は自然の山、石、岩などに神を見て、それに敬意を払い、信仰の対象と祭り上げていたのである。

それ故、日本人には独特の思想・哲学観がある。「境界」である。
西田幾多郎や和辻哲郎も「間」や「境界」を重視している傾向があるという。
これは神の領域である自然と、人間の領域とを分ける何かを意識した結果ではないか。
宮沢賢治の作品にも、人間の日常とも言える世界から、神々(とも言うべき怪)の世界に入るには「風」という「境界」があるようにである。

日本の文化に惹かれ、日本の近代化に警鐘を鳴らした人物がいる。
パトリック・ラフカディオ・ハーン、小泉八雲である。
日本の「怪談」を中心に研究をした彼が日本の何を見たのか、それを直接聞く手立てはすでにない。
しかし、1つだけ確実に言えることは、西洋の文化に染まる日本を見ていられなかった彼は、日本に西洋にない何かを見たのである。
彼を引きつけたものは日本の伝承であり、文化であり、自然との共生ではないだろうか。

日本というものの何たるかを理解せぬまま、西洋の姿を見ることの危険性に気付いたのは、ここ数年のことである。
西洋の全てが日本にも当てはまると勝手に解釈し、日本の良さを知ろうとも思わなかったことは、私の未熟さ故のことだった。
そんな反省をどこかで書こうとしたことが私の所存である。

1ヶ月前 No.441

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

厄介ごとというのは、とりわけばたばたしているときに重なってやってくることが多いので、不思議である。
こちらが余裕のないことが周りにも伝わるため、いろいろな歪みがここぞとばかり来るのだろうか。
それとも、余裕があるときには厄介ごとを意識せずに行っているから、余裕のないときに思い知らされるだけであろうか。

いずれにせよ、思うことは、こちらに余裕があるときに波に乗って行けるところまで行くのも大切だが、余裕がなくなったときにくる厄介ごとの波を乗り越えることがそれ以上に大切なのは言うまでもない気がする。
でも、それがなかなかに難しいというのも確かなんだよなぁと思う。

1ヶ月前 No.442

ゆみ @yumicoco ★M2tM0jQDcH_0Fn

志野さんへ

 み〜つけた!w ここは私のようなものが書き込みをしてOKなところですか?

 3日前に書かれた投稿で宗教のことがあったのでとても興味深く拝見させていただきました。

 >古来の日本人は自然の山、石、岩などに神を見て、それに敬意を払い、信仰の対象と祭り上げていたのである。

 世界遺産に登録された富士山の雄大さを間近で見る時、本当にこれは神だと思えるほど崇高で、偉大である、と感じると共に
 感無量であります。


 神道は日本の誇れる感性の一つであり、なぜこれを海外の人に堂々と話すことができないのか不思議でなりません。
 きっと日本人はあからさまに自分の思想を他者に告げることを恥と思うところに美徳があると教育されたからなのかも
 しれません。

 日本古来の神道という宗教をきちんと勉強なさり人に説明ができるレベルにまで達している志野さんは素晴らしいですね。

 またこれからもこの日記を拝読させてください。志野さんのことを応援しています。

1ヶ月前 No.443

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

ゆみさん、いらっしゃいませ。
書いていただくのは全然かまわないのですが、日記板ではメイン記事はスレ主が日記を書き、サブ記事の方に感想等を書いていただくルールとなっていますので、今後はサブ記事の方に感想等はお願いしますね。

ゆみさんへの細かい返答などは、数時間後に日記で行おうと思いますので、ご了承ください。

1ヶ月前 No.444

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

ゆみさんの神道を堂々と話さないことについてのお考えを受けて、私の考えを日記の形で。
その前に、
>日本古来の神道という宗教をきちんと勉強なさり人に説明ができるレベルにまで達している
というわけではありませんよ。一番最初に書いたように、ここは私の考えをただ書いているだけですから。
神道の中身などは、私は全くといっていいほど知らないのですから。
では以下からは本当に私の考えを。

極力日本人は「曖昧」な表現を好むという文章を以前に読んだことがある。「的」のある語や、本音と建て前などはそれに入ると思う。
ベネディクトがその著「菊と刀」の中で、日本を「恥の文化」とし、他人からの視線により自分たちを律する文化であることを記している。
自分たちの身の回りの長所を人に語らない謙虚さが日本人特有の性であることも他人の視線の影響が強いのではないかと思う。
それ故、様々な解釈ができ、かつ自分の思いを込めた「曖昧」とも言うべき言い回しが増えたのではないかと考えるに至った。

さて、以前から少しずつ「人間の本質」ということを考えたりしている。
私的に、「人間の本質」の中で、相反する2つのものが共存していることは否定できないと思う。
人々は平和を望む一方で闘いからは離れられないといった具合にである。それ故、ヘーゲルの弁証法などが生まれてきたのであろう。
つまり少し乱暴に言うと、人間は「曖昧」な部分を含んでいるのである。それは批判されるべきことなのだろうか。

ここで自然に目を移してみる。自然とは生物にとって相反する2つのものを包括している気がする。
何故ならば、自然災害は生物にとって脅威である。一度起これば、生物には抵抗のしようが無い。
ただ、自然の恵みなしに生物は生きられない。自然とは生物に生と死を与える存在であり、脅威と尊敬を持って接すべき存在である。
つまり、そもそもの自然というものが、「曖昧」なのである。自然というものと共生を考えてきた日本人が「曖昧」な表現を持つことは、もしかしたら避けられなかったのかもしれないのである。

自然の特徴を色濃く反映したからこそ、自分たちの良さを語らず曖昧に固執する。それは螺旋のごとく自身の文化を守っている証なのではないかと考えるのですね。
だからこそ、そこが美しいと言えるのかもしれないし、美徳があるのかもしれません。
もちろん上記のことも誰かに説明するものでもなく、ただ自分の考えを文字にしただけのものであり、私の視点から書かれていることだけはご了承ください。

1ヶ月前 No.445

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

数年ぶりに、携帯の写真のデータを見返してみた。
旅行に行ったときに撮った景色や、食事のデータなどが出てきて、懐かしいなと思って「ぼーっ」と見ていた。
この1、2年旅行には行けていないし、目途も立たない。いい思い出だと感傷に浸っていると…
私も忘れていたものが出てきた。将棋フリーサイト「ハム将棋」のハムの無残な光景だった(笑)
私に王以外の全ての駒をとられ、それらは私の駒として盤上に存在していた。
しかも、ご丁寧に王と金以外は全て成っていた。その記念に撮ったものだ(笑)

そういえば、そんなことをしてハムをいじ…いや、死闘を演じたことがあったな(マテ)
これは、他から見れば動物虐待なのだろうか?いや、ハムは動物ではないから大丈夫なはずである。

1ヶ月前 No.446

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

とあるところから。
根拠のない公理か…あるにはあるんですよね。それ。数学のしかも根幹に。
「ある直線mと平行で、m上にない2点を通る1本の直線」を引けるということは、根拠なく公理となりました。
これは確実な証明をされずに、まず正しいだろうということで、幾何学の公理とし、ユークリッド幾何学に発展したのです。
でも、このことにより、数学は手痛いしっぺ返しを食らうことになるのです。
真実と評され半ば神格化されていた幾何学は、非ユークリッド幾何学を誕生させるという結末に至ります。
つまりユークリッド幾何学が完全ではないと証明された瞬間だったのです。

数学にもこのようなことがあるのです。
故に物事を真理のごとく扱うことはかなり大きな危険を伴うということなのですね。

1ヶ月前 No.447

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

見返してみたら、打ち間違いが…。
「ある直線mと平行で、m上にない1点を通る1本の直線」
でしたね。実は非ユークリッド幾何学では何本か引けるのです。

1ヶ月前 No.448

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

とあるところで、ひどいブーメランを見た気がする…。
うん、あれは確かにブーメランだった。
どことは言わないし、何がとも言わないけれど…。

1ヶ月前 No.449

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

「こんな世界があったのか」

学問ではこのように思うことが重要なのではないかと思う。
だが、知らなかった「こんな世界」を知るためにはその世界に通じる「キーワード」だけが必要だと思う。
「こんな世界」があることを知ったのであれば、後は興味さえあれば調べ尽くせばいいことである。

今まで漠然と議論板(特定のものではなく全体的に)を見ながら、なんとなく「おや?」と思っていたことが明確になった。
それが議論で上記のことがどれだけ行われているのだろうかということだ。
もちろん、行っている人もいるだろう。
でも、かなりのお膳立てがなされて、「それでは」といってそれを元に議論を返すということもなくはないのではないか。
いかせんそれはもったいないと思う。議論をしている相手は人間なので、どうしても知識の量と視点には限界がある。
しかし、キーワードをもとに調べれば、脱線に次ぐ脱線で、思いがけないことを発見することも多々あるのだ。

「議論とはなんなのか」とまではいかないにしても、ある程度目的は考える必要があるだろう。
議論を通して得るものが(得られないかもしれないが)「勝ち負け」だけでは空しくないだろうか?
いっそ今まで知らなかった世界を知ることさえできれば、勝ち負けなどどうでもいいように私は感じるのである。

1ヶ月前 No.450

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

古代ギリシャの人々は、美の追究を行っていたようだ。
幾何学がそこで発展したのも、その辺に理由の1つがあるようだ。
しかし、古代ギリシャでは、美とは絶対的な理想の果てにあるものとしていたようである。
プラトンがイデアを提唱したように、どうやら現実世界の外に美を求めていた感じがする。

日本でも、美というのは昔から追究されていたが、その内容は少しベクトルが異なるのではないかと考えた。
国文学者・本居宣長が「もののあはれ」を重要視したように、現実世界の、それも自然の姿に美を求めていたのではないだろうか。
意外と地域における民族性というのは様々なことに大きな影響や思想の流れを及ぼしているような気がする。

1ヶ月前 No.451

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

春は別れと出会いの季節というが、3月は主に別れの季節だろう。
だいたいこの時期になると、そんな思いが強くなる。いろいろなところでもちらほらとそんな言葉が聞こえてくる。
さて、私の祖母も、通い慣れたデイサービスが今年度末で閉鎖となり、愚痴をこぼしている状態である。

職場でも、いろいろな声が聞こえてきている中、一部に面白いことがある。
「こんなところ嫌だ」と言っていたのに、ここに来て思い出を残そうとしている躍起になっていたり、未練がましくしていたりする人たちがいる。
ちなみに、上記の人たちは来年度はそこにいないことは確定の人たちである。
端から見ると、矛盾した行動である。嫌ならば、もう来ることがなくなって嬉しいだろうし、思い出を残すこともないだろう。

その人たち(祖母も含まれるが)を見ていると、見えてくることがある。不安があるのである。
新しい場で、新しい環境で、新たに切り開いていく自信がないのである。
だからこそ、嫌でも何でも自分が慣れた場や環境にしがみつこうとするのであろう。
自分自身の居場所というのは新たな場所ではリセットされる。
それを再び築いていくことの繰り返しが人生の一面である。
願わくは、自信と勇気を持ち、その新たな場や環境へ向けて一歩を踏み出してもらいたいものである。

1ヶ月前 No.452

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

風が吹いている。
強い風が吹くと、なかなか寝られなくなるから嫌なんですがね…。
それも仕方ないか。
個人的に春になるのは好きなのですが、春一番と花粉症だけはいただけません。
…そうか、そろそろ花粉症の季節か(書いてて思い出した)
最近目がかゆいことが時々あるのもそのせいなのだろうか?

1ヶ月前 No.453

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

不審者=サングラス+マスク
確かに今こんなあからさまな不審者はほとんどいないだろうね。
せいぜいコ〇ン君に出てくる、例の組織の人ぐらいだろう。
子どもたちにこんなイメージが固まっているとしたら、警察も注意を促すでしょう。

かつて、私もとある詐欺らしきもの(9割方黒)に引っかかりそうになった時もそうだったな。
スーツにネクタイで言葉遣いも丁寧な、いかにも紳士らしい人だったし。
露骨な格好できたら誰も引っかからないしね。イメージの転換も大切かもしれませんね。

1ヶ月前 No.454

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

本来、甘やかされて育ってきて、ようやく甘えから自立し、がんばっていると「甘えていいよ」と受け入れられる。
本来、甘えることが許されなく育ってきて、ようやく少し甘えようとすると「甘えるな」と拒絶される。
こんな世の中は果たして甘いのか甘くないのか…。
( ̄ 。 ̄)y―~~~
どう思うね?

1ヶ月前 No.455

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

スティーブン・ホーキング博士が亡くなったという記事が目に飛び込んできた。
博士は、宇宙物理学の世界的権威であり、「ホーキング 宇宙を語る」を皮切りに多数の著書がある。
とは言え、彼は優秀で何一つ不自由のない勝ち組というわけではない。
彼は難病に冒され、車いすでの生活を余儀なくされていたのだ。

彼はかつて、自分が病いに冒されたものの、選んだ道が頭で勝負できる世界だったので幸せだったという旨の発言を残している。
自分にはどうしようもできないこともある。今まで生きていた中で、得たカードはどうすることもできない。
捨てることも変えることも交換することも不可能であるのだ。
ならば、そのカードで勝負をしていくしかない。
自分が得たカードをどのようにジョーカーへと昇華できるかが自分の課題となるのだ。
そして博士はそれをやりきった人物の1人と言えるだろう。

1ヶ月前 No.456

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

今日、買い物に行くときとある理由で歩いてみた。
半袖になっても寒さが感じられないぐらい暑くなってきて、春を強く感じることができる。
そんな中、木の股の日陰になっているところに残雪を見つけた。
周りにはすでに雪など欠片の存在もなかっただけに驚いた。

春の訪れに未だ抗っているような力強さというべきか。
季節の移り変わりの神秘さ、四季折々の逞しさを感じた気がした。

そんな今夜のメニューはタラの芽とアスパラとエリンギを使おうと思っている。(春のメニュー)

1ヶ月前 No.457

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

1日おきに2回の送別会やら慰労会やらがあって、ようやく全てから復活。
ザキとザオリクを交互に使われた心境です。飲み→撃沈→死亡→復活→飲み→撃沈→死亡→復活
え?お酒は飲んでも大丈夫なのかって?…いえ、知らない子ですね(マテ)

以前に書いた甘えについて。とある方の日記の影響を受けてさらに。
そう。定義ですよ。…確かにそれを考えないといけなかったです…。
というわけで以前にどこかで見た覚えがあります。
「甘えの構造」のあらすじ紹介みたいなものだったですかね。
甘えは日本独特とも言える人とのつきあい方だった気がする。
後は…今一度調べてみる!(いつか、多分)

1ヶ月前 No.458

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

ふと思ったこと。
数学の歴史はどことなくナポレオンに似ている気がする。
ナポレオンはあまり裕福ではない貴族の出だったが、皇帝へと登り詰める。
しかし、ロシア遠征の失敗が影響し、やがて失脚してしまう。

数学(幾何学)も最初は異端視されていたが、やがて絶対的な真理へと昇格を決める。
だが、非ユークリッド幾何学の登場とともに、その絶対性が否定され、真理の座を失うことになる。

もっとも、ナポレオンはその後流罪となり自由を奪われたのに対し、数学は学問として新たに発展する自由を得たのである。
それが違いと言えば大きな違いなのであるが。

そんなことを思いついたので、一応メモしておきます。

1ヶ月前 No.459

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

これは言われなければ気付かないよ…。
ということを、本を見ながら1人思いました。

西洋の神殿なり、聖堂なりの中が神々の領域であることに対して、日本の神社やお寺などは庭や森も含めて神々の領域であるというのはそれでもまだなんとなく分かります。
だからこそ、西洋の神殿や聖堂はその建物自体でも違和感がないのに対して、日本では庭や森も含めないと違和感があります。
確かに、あの森あってこその伊勢神宮であったり、あの庭あってこその金閣寺であったりします。

でも、ここからは流石に言われないと全くスルーしてしまいます。
神社の神々の領域を分けるものが鳥居ですが、鳥居ってドアもなければ鍵もないんですね。
つまり、事実上いつでも誰でも入れるんです。神々の領域に。
でも、神殿や聖堂だとドアを開けないと入れないし、夜は閉めてしまうこともあります。
それこそが日本と西洋の意識の違いと言われれば確かにそうなのですが、これは言われないと気がつかないなぁ。

そう言われると、ユゴーのレミゼラブルの冒頭で、あの牧師さんが「教会をいつでも入れるようにする」といって鍵をかけないようにした行動がなんとなく頭に浮かんできました。
西洋の人々が見れば目を丸くしたのですが、日本だと「神社のようにしたんだね」と思う人もいるのでしょうかね。

1ヶ月前 No.460

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

絵文字というと、若い人たちが使うイメージがあったのだが、意外と昔から使われていたんですね。
今読んでいる本に書いてあってびっくりしました。
さらに驚くことは、与謝蕪村も手紙のやりとりの中で使っていたのだとか。
どうやら、日本の文化の中において、絵と文字というのははっきりとした境界分けがなされていないのだとか。

日本の文字もかなり独特なのだとか。
古今和歌集が書かれた時代から文字の体系が変わっていないのは珍しいのだそうです。
確かにヨーロッパなどはラテン語からいろいろな国の言葉に変容を遂げてますからね。

そうなると、なんだろうね、日本というのは。保守的で、でも革新的で、でも1つの筋は通している感じがしてくる。

1ヶ月前 No.461

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

日本の中で、俳句や短歌はなじみのある詩ではないだろうか。
そして俳句や短歌はだれでも一度は作った経験があるのではないだろうか。
どうやら、これほどまでに詩を誰でも作るという文化は珍しいようだ。
西洋では、詩を作る人は才能がある人に限られるらしい。

昔の人は短歌の一部を絵に隠し文字としてちりばめて、絵と隠し文字から短歌を特定するといったデザインがなされていたこともあったようだ。
初音蒔絵手箱には、松と「としつきを」と「にひかれて」の文字が隠されており、そこから源氏物語の明石の君の句を想像するという、いわば謎解きのようなものである。

当然、源氏物語を知らなければ特定はできない。
つまり特定できることが「教養あり」と判断される材料となったようである。

外国の外交官のような人たちは芸術においても造詣が深いようである。みんながみんなではないのかもしれないが。
日本のそういう人たちが、彼らと話を合わせられないのは、言語という手段ではなく、実は芸術や多岐にわたる分野の知識量によるのではないかというような内容をどこかで耳にしたことがある。
耳が痛い内容だなと思う。

1ヶ月前 No.462

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

世界遺産を見てきました。
チンパンジーのもろもろについてやっていましたが…チンパンジーにも文化があることに驚き。
文化と聞くと、人間の世界の話のように思えるけれど、それは違うんだなと。
少なくとも、人間以外の生物が(類人猿ではあるが)、人間と似たものを持っているということでしょう。
しかも、川を隔てて異なるということは、チンパンジーと一色にすることはできないのではないでしょうか。
人間といっても地域によって特徴があるように、チンパンジーにも特徴がある。
そしてそれは種族としてのものではなく、まさに環境によるものだから、人間の歴史を辿っていることも納得いきます。
うまくまとまらないが、ここで筆を置きます。

1ヶ月前 No.463

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

テレビを見ていて。
平安時代の貴族の家の壁はなかったようです。
四季折々の風景を家の中で楽しむための粋な策だったようですが。

今読み途中の本に西洋の建物と日本の建物の違いで、壁と屋根の違いが書かれています。
西洋だと屋根よりも壁が圧倒的存在感を出しているのに対し、日本では屋根の存在感の方が強いとのことでした。

西洋が壁を意識する理由は分かりませんが、日本では壁にそれほど執着がないのは、四季を楽しむためだったのかもしれませんね。
そして、屋根に工夫を施し(例えば反りなど)、屋根の方が存在感があるのは、壁の分まで屋根で雨や雪を凌ぐための策でもあったのかもしれません。
と考えました。

29日前 No.464

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

最近、ニュースもあまり見なくなった気がする。特に政治関係からは身を引いている。
昨日も、誰かが証人喚問として呼ばれたと言っていたが、正直本を見ていたら聞こえてきただけなので詳しく覚えていない。
日本をかけて議論をしているような政治ならば見る価値は十分にあるのだろうが、チャンネルをつければ不倫だの偽造だのと流れれば身を引きたくなる。
それよりも、今度道徳が授業となる中で頭の痛い話である。
もし「ニュースでこうなっていますが、道徳ではどう答えればいいですか?」などと質問された暁にはどう返事すればいいのか。
大人となり、組織という中で動くということは、いろいろと苦しいことなのは分かる。
それでも、誠実ではない姿を見せられて、君たちは誠実になってくれと言われても、説得力も何もあったものではないだろうな。

28日前 No.465

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

つくしは食べられると聞くが食べたことがない。
かつての日本では食べられていたらしいが。
れしぴとモノが手には入ればおもしろいな。
ためしに作ってみたい気がする。

ねたがふと頭の中に浮かんだので書いてみました。
たぶんに個人的な楽しみも入っています。
いまの気持ちをこそっと添えた今日の日記。

27日前 No.466

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

祖母も認知症と診断されたからかどうか知らないが、なかなかに扱いが難しくなってきている。
日常の諸々に関して、確実に混乱しているから手助けをすると、できなかったことについて怒りを私に向ける。(主に私を怒鳴ったり、私の人格否定をしたり)
だからといって、やりたいようにやらせると、できなかったことについて怒りを自分に向ける。(主に自分で自分の頭を殴ったり、自分で自分に呪詛の言葉をかけたり)
結局、できなければ、そのストレスをぶつけようとすることには変わりない。それが他人に向いているのか、自分に向いているのかの違いだけである。
でも、認知症だからそのストレスが消えることはない。どこかで受け入れるしかないんだよなぁ。

26日前 No.467

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

世界遺産でジャンヌダルク縁巡りをやっていましたね。
ジャンヌダルク…神の声を聴き、フランス国王成立と解放に携わった少女は、波瀾万丈な人生を駆け抜け、19歳で火炙りの刑によって命を落とすことになる。
確かにそれで、彼女は名前を知られることになったと言えばなったのですが…。
もし彼女が神の声を聴くことがなければ、もしかしたら平凡ではあっても、平和な人生で長寿を全うしていたかもしれない。
どちらがいいんでしょうね。
波瀾万丈に生き、短命であっても名を残す。
平凡で平和で、名を残さなくても長命である。
答えが出るような問題でもないし、たわいもない問題だと思いますが、最近はこういう話の最後にはどうしても考えてしまうなぁ。

24日前 No.468

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

「お茶とお菓子と本があればいい」という言葉を聞きました。
なかなかの組み合わせですね。
とあるスレでお酒とちょっとしたものと本という組み合わせを思いつきました。

さらにそこで出た、「どんぐりと山猫」
私が初めて大好きになった話だったりします。
小学校時代にこの話を聞くのが好きでした。
とりわけ、山猫に辿り着くまでに一郎君が奮闘する辺りがたまらないです。
そもそも栗の木やら滝やらきのこやらりすに道を聞きながらという発想は、日本独自に近いのではないだろうか。
さらにあの独特の擬声語である。
そしてなんと言っても、日常世界から非日常世界へとだんだんと近づいていく感覚。
( ̄△ ̄)y―~~~(うむ、いいものだ)

23日前 No.469

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

私が小学生か中学生だった頃、アニメで流れていた曲…。
久々に聞いたら、しみじみと感じるものがあった。
以前にマツコ氏かヒャダイン氏が言っていた、「私たちが心に残っている曲は青春時に聞いた曲だ」という言葉を思い出した。
最近の曲を聞いてもあまりしみじみと感じることが少なくなったのは、そういうことなのかもしれない。
でも、今の曲を聞いている、かつての私の年代の人は、あと数十年後にはしみじみと聞くんだろうなぁ。

21日前 No.470

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

人との接し方というのは難しいものがある。

「かくあるべき」と自分の何たるかを相手に押しつける接し方はもう論外だろう。お笑いでしかない。
しかし、自分が見ている相手像から、相手はこうだと決めてしまうのもアウトなのである。
ただ単に、自分が見ている相手像=相手という式は成り立たない。
あくまでも自分が見ている相手というのは相手の一部でしかなく、残りはできうる限り推測しないといけない。
それを間違えると、大変なことになってしまったりする。

子どもたちを含めて人と接するには、その人の過去を遡るように努めている。
どんな環境で、何を考えて、何を見てきたのか。
それを知り、こちらも多面的な見方をしていくことが必要だなと、この時期は改めて考えるようにしている。

18日前 No.471

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

「法律というのは実に面白い生き物だ。一語、一句、一行に重要な意味がある。だが、一番肝心なことは法律が生まれた背後のドラマだ」
というのは、故田中角栄氏が言った言葉であるという。

教育というものはどのようなドラマの元、生まれたのだろうか?
それを知っておかねば、教育を語ることは難しいだろう。
教育とは、そもそも大衆社会への移行とともに生まれてきたと言われている。
大衆社会への移行により、一般大衆、すなわち当時の立場的に弱い人々が不当な搾取等から抵抗できることを目的として生じたものである。
そして今、社会は大きく変貌し、教育の目的も変容を余儀なくされていることは確かだと思う。
しかし、教育とはあくまでも、何かしらの困りを訴えている人たちのためにあることだけは変えてはいけないことだと思う。
そしてその困りが例え不登校のような形になっているとしても。
様々な困難を乗り越え、自分で進めるようになる自信と力をつける支援こそが教育の根幹の1つだと、1年に一度は考える日がなくてはな。

17日前 No.472

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

ただ今、真夜中。こんな時間にバイクの爆音…明らかに暴走族ですな…。以前にも書いたけれど。
ここ二十年以上真夜中のバイクの暴走音などは聞いたこともなかったので、こんな田舎では暴走族は絶えたのだと思っていたが、また復活したのだろうか…。
いや、寧ろ復活しなくていいからねぇ…。
迷惑をかけてバイクで暴走して…なんて、後十年も経てば黒歴史として残るだけだと思うが…。
その時に身悶えるのか、それとも全く感じないか。どちらなんだろうか。

13日前 No.473

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

車に乗って運転をしているとふと思うこと。
最近は車の自動運転システムなどがニュースとして耳に入ってくる。
確かに、衝突防止システムやはみ出し防止システムなどの発展は目覚ましい。
しかし、どうにもこうにも「配慮」という面においてはやはり課題は山積み状態と言わざるをえないだろう。

例えば、信号が赤でありかつ車が多く、信号のある十字路の手前の十字路で止まるとする。(もちろん十字路の中程には入らずに)
その十字路から車が私の進む路線に曲がろうとしているので、前の車が走り始めても止まっていようとする。
すると、前の車との距離が開いているという警告音が鳴ったりするのである。
他にも、多分日陰と日向の境界にであろうが、反応し、衝突の警告音が鳴ったりする。

こういう状況を見ると、まだまだ最後は人の目で判断をしなければならない時期なのではないかと思う。
果たして、これらの課題が見事に克服されてAI中心の時代になるのか、さしものAIも人間を越えることはできないのか。
これは「人類は人類に迫れるのか」という問いにも変換できる。
どちらに転ぶとしても、なかなかに興味深いものである。

8日前 No.474

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

今日は我が家は荒れそうな気がする。
というのも、祖母に強めに言ってしまったからなぁ。
本人はふて腐れきっているので、1日は気分がなおらないだろう。
でも、何が何でもやってはいけないことはなんとしてでもやってはいけないのだと思い知らさせないといけない。
前夜に朝、昼、夜と分けた薬を、朝の薬がないからといって夜の薬に手をつけるという行為は絶対にしてはいけないと。(ただし我が家の場合に限る)
朝と夜の薬はほとんどいっしょなのだが、認知症を患っている状況でそれをされると目茶苦茶になるのは誰が見ても明らかだろう。
もし薬がない状況では、寧ろ薬を飲まないと教え込んだ方が無難である。
薬を重複して飲むよりはいいだろう。背に腹は代えられないのでね。

3日前 No.475

志野 ★oxNziOTMi3_yoD

時代は今後どのような軌跡を辿るのだろうか?
そんなことを考えると頭に浮かぶのは、「画一化された個性」とも言える時代であると思う。
画一化と個性とは受け入れないような関係である気がするかもしれない。
でも、実際に画一化された個性が浸透しきっているのは確かである。
例えば、コンビニや大規模な薬局。コンビニではセブンイレブンやローソンなどが凌ぎを削っているが、ほとんど画一化されたようなものである。
大規模な薬局も、スーパーなどと何が違うのかと言われれば、似通っていることの方が多い。
その中でわずかな個性を発揮しようとしているのが現代である。
以前どこかで、わずかな差異を示すレッテルが消費者の目安になるような話を見たことがあったが、まさにそうだろう。
そして、今後はそれがより顕著にかつ幅広く人間自身にも浸透し渡るというのが最終段階である。
文化や思考、下手をすれば顔かたちまでほぼ画一化されるような時代ももしかしたら全くの的外れではないのかもしれない。
現に、整形などで一般にいう「美しさ」を手に入れたが為に、顔かたちが画一化されつつあるという国があるとニュースで聞いたことがある。
テレビでも、同じであろう。テレビ東京が今面白いと言われる理由は、画一化された個性から大きく飛び出そうとしているからである。
私が思うに、ここの議論板でも、一部その傾向が見え隠れしているスレもあることはある。
「みんな違ってみんないい」というキャッチフレーズが、「みんな同じでみんないい」に変わる日がそのうち来るのだろうか。
怖くもあり、見たくもある気がする。

3日前 No.476
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